盛岡文士劇 〜 文学者による日本唯一のアマチュア演劇

今回の岩手・盛岡情報は、年末の恒例行事となっており、今年で、(再開後)第20回目の開催となる【盛岡文士劇】を紹介したいと思います。

右の画像は、昨年のポスターになりますが、昭和レトロ的な味わいのあるポスターです。

ところで皆さん、「文士劇」って解りますか ?

「文士」の「劇」と言うことは、誰でも解ると思いますが、それでは「文士」とは ?

「文士」とは、今では、すっかり「死語」となってしまいましたが、文筆を職業とする人、作家や小説家の方々を「文士」と呼びます。

つまり、「文士劇」とは、作家や小説家の方々が上演するアマチュア演劇になります。

今回は、この【盛岡文士劇】の歴史と、その特徴を紹介したいと思います。

それでは宜しくお願い致します。

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最初に【盛岡文士劇】の歴史と言うか、生い立ちを紹介したいと思います。

日本初の文士劇は、明治23年(1890年)に、尾崎紅葉らが結成した「硯友社(けんゆうしゃ)」が上演した「硯友社劇」と言われています。

その後、明治38年(1905年)、東京の新聞社の記者達が中心になって結成した「若葉会」が上演した文士劇により、広く世間に認められるようになったそうです。

「若葉会」には、朝日新聞、二六新聞、時事新報、報知新聞、毎日新聞、等、かなり多くの新聞社の記者が参加したようです。

さらに、その後、文士劇を事業化する動きがあり、毎日新聞社が、「東京毎日新聞演劇会」と言う組織を作り、明治39年(1906年)、明治座で、5日間に渡り第1回公演を上演し、明治41年(1908年)まで、計6回の公演を行ったそうです。(※毎日新聞社の組織変更により「東京毎日新聞演劇会」は第6回の公演後に解散)

そして、時は昭和に移り、文藝春秋社が、昭和9年(1934年)に開催した「愛読者大会」で文士劇を上演したのが始まりで、太平洋戦争中は中断されましたが、戦後は、昭和27年(1952年)から昭和52年(1977年)まで、毎年、計25回も開催され続けたそうです。



そして、【盛岡文士劇】ですが、岩手県の選出の衆議院議員「鈴木 巌」を父に持つ「鈴木 彦次郎」と言う作家が、【盛岡文士劇】を立ち上げた人物になります。

「鈴木 彦次郎」氏は、東京生まれだったのですが、父の転勤に伴い盛岡市に移り、その後は東京帝国大学に進学したそうです。

卒業後は、大学寮で同室だった「川端 康成」等と「今 東光」を加えた5人で、第6次「新思潮」を創刊した人でもあります。

文藝春秋にも多数の小説を投稿した関係で、文藝春秋社の創業者である「菊池 寛」とも親しい間柄となり、昭和24年(1949年)、「菊池 寛」氏より「文士劇」の名前を使う許可を得て、第1回公演を「岩手県公会堂」で開催しました。



右の画像が、「岩手県公会堂」になります。

岩手県公会堂では、第1回から第7回目までの【盛岡文士劇】が開催され、第1回目の演目は、有島武郎の小説「ドモ又の死」だったそうです。

この建築物は、大正12年(1923年)、昭和天皇の御成婚を記念して建築計画が策定され、昭和2年(1927年)に落成し、現在では、国の登録有形文化財として登録された歴史的建造物です。

実際に、昭和3年(1928年)には、陸軍が公会堂に大本営を設置して陸軍特別大演習を行ったのですが、その際に、昭和天皇行幸し、この建物に宿泊されたそうです。

このブログを書いていて、今から50年程前、私が、まだ幼稚園生だった頃、ここの大ホールで、イエス・キリストの劇を演じた事を思い出しました。その時の役柄は、確か・・・東方の三賢者の一人だった様な気がします。

何か、とても懐かしい思い出です。

ちなみに、この岩手県公会堂の設計者は、早稲田大学の「大隈講堂」や「日比谷公会堂」の設計を手掛けた「佐藤 功一」氏になります。

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話はズレてしまいましたが、その後、【盛岡文士劇】は、大正2年(1913年)に開館した、現 盛岡市松尾町にあった「(旧) 盛岡劇場」に開催場所を移すことになります。

この「(旧)盛岡劇場」の開場は、日本初の洋式劇場である「帝国劇場」の開場から2年後の事で、東北地方における初の近代的演劇専用の劇場でした。

「(旧)盛岡劇場」の「こけら落とし」は、七代目「松本 幸四郎」一座を招いた、豪華な歌舞伎公演だったそうです。

その後は、文士劇はもちろん、歌舞伎、新国劇、喜劇、映画、果てはサーカスやヌードショーまで上演するという、まさに東北の文化(?)発信地だったようです。

戦後は、花巻市出身で「みちのくの電信王」と呼ばれた「谷村 貞治(やむら-ていじ)」氏の支援を受けて全面改装し、昭和32年(1597年)、「谷村文化センター」と名前を変えて、興行を続けたようです。

しかし、テレビの普及や映画館の新設、娯楽の多様化などで次第に観客数は減少し、かつ使用料が高額だったことも影響し、昭和43年(1968年)、「谷村 貞治」氏が亡くなると、「廃屋」同然の状態となり閉鎖されてしまったようです。

そして、昭和58年(1983年)の「盛岡劇場お別れ会」を以って解体されてしまいました。

「(旧)盛岡劇場」での【盛岡文士劇】は、昭和32年(1957年)の第8回公演から、昭和37年(1962年)の第13回公演まで、計6回開催されたことになります。

しかし・・・【盛岡文士劇】の説明には、「昭和24(1949年)年の第1回目の公演から、昭和37年まで、13年間継続された。」とありますが、昭和24年から昭和37年までは、計算すれば解かるように14年間あります。

このため、13年間継続と言うのは誤りだと思われます。

現時点で詳細は解りませんが、おそらく、「(旧)盛岡劇場」は、昭和32年(1957年)まで再建工事が行われていますので、昭和31年(1956年)は、開催されなかったのではないかと思います。

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ところで、「(旧)盛岡劇場」は、東京駅や日本銀行の設計を手がけた「辰野 金吾」氏と、その弟子で、盛岡出身の「葛西 萬司」氏が協同で設立した「辰野葛西事務所」が設計した建築物になります。

「辰野葛西事務所」が設計した建築物には、以前、本ブログでも紹介した「旧 岩手銀行本店」もあります。

こちらは、現在、国の重要文化財になっていますが・・・残念ながら「(旧)盛岡劇場」は、前述の様に取り壊されてしまいました。本当に残念な事です。

「(旧)盛岡劇場」は、松尾町にあったと言いましたが、実は、この劇場の前が、私の叔母の家だったので、叔母の家に遊びに行くと、いつも盛岡劇場が目の前にありました。

その当時から、いわゆる「廃屋」状態で、両親や叔母からは、危ないから、絶対に建物には近づくなと言われていましたが、私としては、何か気味が悪い建物だったのですが興味津々で、中に入ろうと、建物の周りを、グルグルと歩きまわった事を今でも覚えています。

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その後、市民の間で「盛岡劇場」の復活運動が起き、盛岡市は、市政100周年の記念事業として、昭和61年(1986年)、「盛岡劇場」の再建を決定しました。

そして、平成2年(1990年)7月1日、館内に「河南公民館」を併設する形で、同じ敷地内に「(新)盛岡劇場」が再建されました。

「(新)盛岡劇場」の「こけら落とし」は、「(旧)盛岡劇場」の時と同様、「松本 幸四郎」一座だったそうです。

もちろん、今回は九代目ですが、「松本 幸四郎」と「市川 染五郎」の親子の「連獅子」で舞台は盛り上がったそうです。

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そして、【盛岡文士劇】の方ですが、「盛岡劇場」の再建を受け、1995年(平成7年)、盛岡市在住の作家「高橋 克彦」氏が発起人となり、33年ぶりに復活しました。

「高橋 克彦」氏は、本ブログでも、何回か紹介していますが、釜石市出身で、現在は、上述の通り、盛岡市に住んでおり、推理小説歴史小説、および時代小説と得意とする作家です。

有名な作品は、結構沢山あるのですが、その中でも、テレビ化された、下記小説は有名だと思います。

・「炎(ほむら)立つ」 :NHK大河ドラマ原作
・「火怨 北の耀星アテルイ」 :NHKBS時代劇「火怨・北の英雄 アテルイ伝」原作
・「時宗」 :NHK大河ドラマ北条時宗」原作
・「だましゑ歌麿」 :テレビ朝日「だましゑ歌麿」原作
・「リサ&チョーサクシリーズ」 :フジテレビ「塔馬教授の天才推理」原作

「(新)盛岡劇場」での第1回目(通算では第14回目)の演目は、「白波五人男」だったそうです。

ちなみに、復活した【盛岡文士劇】の演目は、平成7年(1995年)の第1回目から、第19回目の昨年(平成25年)までの間で、次のようになっています。(今年の第20回は予定です)

回数 年度 演目
1 平成7年(1995年) 白波五人男
2 平成8年(1996年) 雲衣紛上野初花
3 平成9年(1997年) 一本刀土俵入
4 平成10年(1998年) 忠臣蔵外伝「土屋主税
5 平成11年(1999年) 極付「国定忠治
6 平成12年(2000年) 銭形平次 - 消えた三万両
7 平成13年(2001年) 極付 播随長兵衛 - 湯殿の長兵衛
8 平成14年(2002年) 踊る狸御殿
9 平成15年(2003年) 常磐津林中 - 花盛岡街賑(はなのもりおかまちのにぎわい)
10 平成16年(2004年) 旗本退屈男
11 平成17年(2005年) 鞍馬天狗
12 平成18年(2006年) 新撰組
13 平成19年(2007年) 丹下左膳
14 平成20年(2008年) 宮本武蔵と沢庵和尚
15 平成21年(2009年) 義経
16 平成22年(2010年) 世話情晦日改心(よわなさけみそかのかいしん)
17 平成23年(2011年) 世界遺産だよ!狸御殿
18 平成24年(2012年) 登美五郎の嫁取り
19 平成25年(2013年) 赤ひげ
20 平成26年(2014年) 新・岩窟王 〜 A・デュマ原作「モンテ・クリスト伯」より ※予定

以上が、【盛岡文士劇】の生い立ちと言うか、歴史になります。最後に【盛岡文士劇】の特徴をご紹介したいと思います。

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再開した【盛岡文士劇】の特徴は、簡単に言うと、次の3つになります。

1.盛岡の縁のある作家、アナウンサー等が出演する
2.演目が、現代劇、口上、そして時代劇の三部構成になっている
3.台本が「盛岡弁」になっている

それでは、順番に特徴を説明します。

1.盛岡の縁のある作家、アナウンサー等が出演する

【盛岡文士劇】は、「盛岡」で行う劇ですから、やはり盛岡に縁のある人達で演じるべきだという、座長「高橋 克彦」氏のポリシーではないかと推測します。

東京や大阪等、大都市から名前の知られた人を呼んで劇を演じても、何もインパクトはありませんし、劇を盛岡で行う意味もありません。

何でアナウンサーが出演するの ? アナウンサーは文士なの ? と言う疑問はありますし、この人は、盛岡と、どんな縁があるの ? という方もいますが、次のような人達が出演しています。(敬称略)

作家 :高橋克彦浅田次郎、斎藤純、北上秋彦、井沢元彦内館牧子ロドリゲス井之介林真理子
アナウンサー :高橋佳代子、畑中美耶子、大塚富雄、その他盛岡のテレビ局のアナウンサー
その他 :盛岡市

2.演目が、現代劇、口上、そして時代劇の三部構成になっている

まあ、構成が三部構成という事と、現代劇/時代劇がある事は珍しくないかもしれませんが、幕間の口上に、盛岡市長や地元の名士が、羽織袴姿で口上を行うのが、【盛岡文士劇】の名物となっているそうです。

現代劇は、主にアナウンサーが中心となった内容で、後半の時代劇が作家中心の内容となっています。

詳しい説明はありませんが、【盛岡文士劇】全体としては、前述の三部構成で紹介されていますが、本当の意味での文士劇は、後半部分だけではないかと思います。

3.台本が「盛岡弁」になっている

これも、主催者 兼 座長が、盛岡在住の「高橋 克彦」氏が務めていることに起因していると思いますし、前述の通り、やはり「盛岡」で行う劇ですので、「盛岡弁」にこだわったのではないかと思います。

盛岡弁 ? と思われる方もいると思いますが、岩手県内でも、盛岡だけで使われる独特の言葉や言い回しがあります。

詳しい説明は、後日、機会があれば本ブログでも紹介したいと思いますが、盛岡は、江戸時代、南部氏盛岡藩の城下町だった影響もあり、他の東北地方や、岩手県内でも他の地域とは異なる言葉使いがあります。

私自身は使っていた記憶は無いのですが、私の祖母や両親は、何故か、家の中では使わないのですが、家の外で、近所の人と話す時には、盛岡弁を使っていた記憶があります。

例えば、「〜ですね」と言うような時に、「〜だなっす」と、今で言う、ゆるキャラの「ふなっしー」の様な話し方をします。

但し、「ふなっしー」の様に、変な裏声で甲高い声で話す訳ではありません。盛岡市の住民全てが、あんな話し方をしていたら、不気味で観光客は帰ってしまうと思います。

この他にも、当然、たくさんの盛岡弁がありますから、会話すべてを盛岡弁で話されたら、盛岡出身の私でさえ意味が解らないと思います。

しかし、盛岡弁で劇を演じることで、逆に、地元の人達には大変人気があり、チケットは、売りだされると直ぐに売れ切れになってしまうそうです。

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以上が【盛岡文士劇】の歴史と特徴ですが、盛岡には、この文士劇もありますが、何故かアマチュア演劇が盛んで、アマチュア劇団が20個以上もあります。

いつから、こんなに演劇が盛んだったのか解りませんが、とにかくアマチュア劇団が沢山あります。

このような風土が、【盛岡文士劇】を盛り上げているのかもしれません。

チケットを入手するのは難しいかもしれませんが、機会があれば、皆さんも【盛岡文士劇】を見に来られては如何ですか ?

ご精読、ありがとうございました。

以上

【画像/動画・情報提供先】
Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/wiki/)
・公益財団法人岩手県観光協会(http://www.iwatetabi.jp/)
盛岡市ホームページ(http://www.city.morioka.iwate.jp/)
・チケットぴあ(http://t.pia.jp/)

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