岩手/盛岡と「馬」の関係 〜 本当に「お馬様様」です! - 前編


今年の年末年始は、2年振りに、弊社事業所がある盛岡で過ごしました。

滞在していた頃は、それほど寒くもなく、市内にも、全く雪も積もっていない状況で、穏やかな年末年始でした。

まあ、「寒くない」と言っても、「氷点下6℃」程度ですから、東京なら「大寒波」の状況です。

そんな中、夜は何もする事が無いので、ローカルテレビを、ボ〜と眺めていたのですが、ある地域ニュースに見入ってしまいました。

そのニュースは、次の様な内容でした。

盛岡市松尾町にある馬検場が、83年の歴史に幕を閉じ、解体される事が決まりました。』


「あ〜、馬検場かぁ〜、懐かしいな〜」と言う事と、その昔、今から50年近く前に、雨の日に、「馬検場」の中で、友達と「メンコ遊び」をしていた場面を、急に思い出しました。

「馬検場」と言っても、ほとんどの人は、「はぁ、何それ ?」と言う感じだと思います。

「馬検場」、簡単に説明すると、「馬の競り」を行っていた場所になります。

私が小学生の時、雨が降ると、当然、外で遊べなくなるのですが、この「馬検場」は、上の画像の通り、2階建て構造になっており、その下は、馬が競りで歩き回れる様に土が敷いてあったので、「メンコ遊び」には最適の場所でした。

それ程、何回も、この「馬検場」で遊んだ覚えは無いのですが、何故か、ニュースを聞いた瞬間に、フラッシュバックの様に、思い浮かびました。

別に、嫌な記憶ではないので、「フラッシュバック」と言う表現は適当では無いかもしれませんが、雨が降っている光景、メンコ遊びをしている光景、その時に遊んでいた友達等、数十年振りに思い出しました。

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盛岡市松尾町」は、盛岡八幡宮がある「八幡町」の隣に位置しています。

左に、私達の、当時の「縄張り」を示す地図を掲載します。

右端の私の実家から、左端の「馬検場」までは、約1.5Km程度の距離になります。

当時は、私は、地図の右上にある「山王(さんのう)小学校」に通っていましたが、遊びの中心地は「盛岡八幡宮」でした。このため、「馬検場」は、八幡宮からならば、子供でも歩いて5分程度の場所でした。

「馬検場」の歴史を、ちょっと調べてみると、「馬検場」が、松尾町(旧:新馬町)に移転したのは1912年(大正元年)とされていますし、馬の競りが最後に行われたのは「1995年(平成7年)」までとなっています。

そして、私が、「馬検場」で「メンコ遊び」をしていたのは、小学校3〜4年生頃、1970年代(昭和45年)頃だと思います。

当然の事ながら、既に「馬検場」の建物は古びており、二階にも、そして周囲にも誰も居なかったので、てっきり、もう空き家で、誰も使っていないと思っていたのですが、当時も、まだ「競り」が行われていたとは驚きです。

それ以上に、あの「馬検場」の建物自体が、まだ残っていた事自体が、驚きでした。

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今年の初詣は、当然、「盛岡八幡宮」に行ったのですが、その時に、車を駐車する場所が無かったので、松尾町の親戚の家に、車を駐めさせてもらいました。

そして、親戚の家から、「盛岡八幡宮」まで歩いて行く途中、「馬検場」の前を通りかかりましたが、その時に「まだ、馬検場、残って居たんだ !」と驚きました。

一緒に居た私の息子に、「馬検場って、意味分かる ?」と聞いたのですが、答えは当然、「分かんない。」でした。

「昔は、ここで、馬の競りをしていたんだよ。」と言っても、「競りって何 ?」から始まりましたが、私も、実際の「馬の競り」は見たことが無いので、「競り」の基本的な事だけは教えてあげた次第です。

その時は、特に、「メンコ遊び」の事は思い出さなかったのですが・・・何故か、「解体される」と聞いたとたん、「メンコ遊び」の事を思い出したのは不思議でした。

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盛岡に限らず、岩手県各地では、かなり前、恐らく平安時代頃から馬の飼育が盛んだったようです。

あの「奥州藤原氏」も馬の飼育を盛んに行っていた様ですし、その後、移り住んだ「南部氏」も、馬を活用して外交や経済運営を行って来ました。

さらに、遠野地方では、人間と馬が結婚する「異類婚姻譚(いるい-こんいん-たん)」となる「オシラサマ」と言う風習も残っています。

岩手県内で「馬」関係のイベントや風習を取り上げると、次のような物があります。

チャグチャグ馬コ
オシラサマ
・南部曲り家
・郷土玩具「南部駒」
・南部流鏑馬
・蒼前神社信仰
・厩猿(うまやざる)信仰

何か、もうキリがないほど、沢山の風習やら民間信仰やらが現れます。

そこで、今回は、盛岡・岩手の人々と「馬」の関係について、次のような内容を紹介したいと思います。

但し、「馬」との関係は、古墳時代から現在に至るまで、長きに渡る関係になりますので、前後半の2回に渡って紹介したいと思います。

【 前半 】
古墳時代奈良時代の「馬」との関係
平安時代の「馬」との関係
●平安末期〜室町時代の「馬」との関係
●戦国時代〜江戸時代までの「馬」との関係

【 後半 】
●近代における「馬」との関係
●岩手における「競馬」の歴史
●現在の「南部馬」と「在来馬」の紹介
●馬検場の歴史

それでは今回も宜しくお願いします。

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古墳時代奈良時代の「馬」との関係


岩手県を含む東北地方は、古くから馬の名産地として有名でした。

かつて、この地域を支配した阿弖流為(アテルイ)をリーダーとした蝦夷安倍氏奥州藤原氏、そして南部氏も、馬を、当然、軍事に用いたり、あるいは政治の道具として利用したりして来ました。

本章では、時代区分毎に、岩手県を含む東北地方の「馬」について説明したいと思います。

さて、それでは、いつ頃から、東北地方に「馬」が存在したのかと言うと、確実な情報としては、奥州市水沢区にある「中半入(なかはんにゅう)遺跡」から、5世紀後半と思われるの3頭分の馬の骨と歯が出土しています。

このため、東北地方でも、古墳時代には、既に、この地域には、馬が存在した事が分かっています。


また、歴史書に、東北地方の馬が最初に登場するのは、平安時代後期に作成されたと伝わる史書扶桑略記(ふそうりゃっき)」になります。

その第六巻「起元明天皇紀盡聖武天皇紀上」には、下記の通り、奈良時代初期となる「養老二年(718年)、出羽と渡島の蝦夷87人が朝廷に来て馬を千匹献上した。」と言う事が記載されています。

『 八月乙亥日、出羽並渡嶋蝦夷八十七人來、貢馬千疋。則授位祿。 』


他方、日本全体で見ると、中国の西晋時代(265〜316年)に、「陳寿」と言う名前の官吏が作成した、俗に「魏志倭人伝」と呼ばれている史書には、『 3世紀末の日本に馬、牛、そして羊はいない」と言う記述があるそうです。

『 其地無牛馬虎豹羊鵲 』

その後、山梨県甲府市にある、古墳時代中期となる4世紀後半と見られる「塩部遺跡」から、馬の「下顎の歯」が10本出土したそうです。

このため、関東や東北では、4世紀後半〜5世紀後半において、既に「馬」を活用する文化が出来上がっていたのではないかと推測されます。



ちなみに、教科書等に出て来る『魏志倭人伝』とは、中国の歴史書三国志」の中にある、30巻で構成されている「魏書」の中に書かれている「烏丸鮮卑東夷倭人条」の略称です。

魏志倭人伝』と言う書物がある訳ではありません。

上記「魏書(魏志)」の中の末尾に、「烏丸鮮卑東夷伝」が書かれていて、さらに、その最後に「倭人条」と言う項目があり、そこに弥生時代の倭の国の事や暮らしの様子が書かれているだけです。

知っていましたか ? 私は、「魏志倭人伝」と言う歴史書が、単体で存在している物とばかり思っていました。

この「魏志倭人伝」が注目されているのは、「馬」の事が書かれているからではなく、「邪馬台国」と「卑弥呼」の事が書かれているからです。

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さて、「馬」に話を戻すと、一般的な通説としては、古墳時代の4世紀後半、朝鮮半島にあった「百済」と「大和朝廷」が親交を深める過程で、モンゴル系の草原馬が、日本にも持ち込まれたとされています。

このため、九州地方から奈良・京都を含む関西付近では、体高130cm程度のモンゴル系の「小型馬」が使われていたと考えられています。

しかし、この説とは別の「二派渡来説」と言う学説もあるようです。

それと言うのも、前述の九州経由の馬は「小型馬」なのですが、東北地方や関東地方には、中国大陸東北部やロシアから流入した思われるターパン系の高原馬である体高150cm程度の「中型馬」が居たと考えられています。

また、大和朝廷に古代馬が導入されて、半世紀も経たない内に、中央から遠く離れた東北地方に、何故、そんなに早く馬が存在したかと言う疑問が古くからあった様です。

このため、東北地方や関東地方には、当時、朝鮮半島にあった「高句麗」系の人や馬が移り住み、九州や関西とは、異なる生活を営み、これが「蝦夷」と呼ばれていたと言う説があります。

そこで、「新羅百済」系の大和朝廷と、「高句麗」系の蝦夷が、長きに渡り戦い続けて来たという話になっているようです。

また、大和朝廷が、なかなか蝦夷に勝てなかったのは、実は、「馬」の種類が大きく影響していた、と言う説もあります。


つまり、大和朝廷側の馬は小型で貧弱だったので戦闘用ではなかったが、蝦夷側の馬は、中型で頑丈だったので、まさに戦闘向きの馬だった事が影響しているとも言われている様です。

実際、時代は、かなり後になりますが、「南部氏」が育成した馬は、他の地方の馬と比較すると大型だったので「南部馬」とよばれて珍重された事が分かっています。

当時、一般的な馬の体高は130cm前後だったようですが、「南部馬」の体高145cm程度はあったとされています。

これは、前述の「草原馬」と「高原馬」の違いと一致していますので、何となく「二派渡来説」の信憑性が高まるような感じがします。

更に、これも一説ですが、「源 頼朝」が、「南部 光行」を陸奥国「糠部(ぬかのぶ)郡」に送ったのは、馬の飼育・育成が目的だった、と言う説もあるそうです。

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平安時代の「馬」との関係

さて、そんな馬の名産地だった東北北部ですが、「南部馬」が有名になる前から、この地域は、馬の名産地とされていました。


現在の岩手県青森県の県境付近を前述の通り「糠部郡」と呼んでいたようですが、平安時代の末期まで、この付近には、「郡」が置かれていなかったそうです。

ところが、平安時代末期、陸奥国で、数々の戦乱が発生し、最終的に、「奥州藤原氏」が、陸奥国を支配する事になりますが、その最初の出来事である「前九年の役(1051〜1062年)」の後、「延久2年(1070年)」に、朝廷が、蝦夷の完全制圧を目的にして軍を派遣しますが、これを「延久蝦夷合戦」と言い、この戦の後に、現在の盛岡市以北にも「郡」を設置したそうです。

そして、この「糠部郡」には、「九ヵ部四門の制(くかのぶ-しかどのせい)」と呼ばれる管理制度が敷かれました。

これは、「糠部郡」を、「一戸(いちのへ)」から「九戸(くのへ)」までの9個の「戸(部)」に分け、その「戸」の下に7つの村を置いて管理し、さらに余った四方を「東門」、「西門」、「南門」、そして「北門」の4つの「門」と呼ばれる行政区画で管理する制度となります。

その後、この「糠部郡」が、「糠部の駿馬」、あるいは「戸立の馬」と呼ばれる馬の名産地として、歴史書にも登場するようになります。

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前九年の役」で奥州を支配したのは「清原氏」ですが、その後の「後三年の役(1083〜1087年)」により、奥州は、「藤原氏」が支配する所となります。

そして、この「奥州藤原氏」も、引き続き、「糠部郡」を始めとする、「牧(戸)」と呼ばれた場所で、「馬」の飼育を続けました。

弊社ブログに何度も登場する「奥州藤原氏」の始祖「藤原清衡(清原清衡)」ですが、その名前が、初めて都に登場するのは、時の関白「藤原師通(もろみち)」の日記とされる国宝「後二条師通記」と言われています。

この「後二条師通記」は、「永保3年(1083年)」から「康和元年(1099年)」まで書かれた日記となります。


そして、その中の「寛治5年(1091年)」の11月15日の部分に、下記の文と一緒に、朱書きで「清衡始めて殿下に馬を貢ず」と言う内容があったそうです。

『 亥の刻(午後十時)ばかり、盛長朝臣来りて云う、関白殿(師実)の御使なり、清衡̶陸奥の住人なり、馬三匹進上の由仰せられるところなり、承りおわんぬ、文筥を開みのところ、二通の解文、申文筥に入る云々 』


さらに、「師通」の子「藤原忠実(1078〜1162年)」の代になっても、「清衡」が、頻繁に頁馬(こうば)していた事は、「藤原忠実」の日記「殿暦」にも記載されているそうです。

「殿暦」は、「承徳2年(1098年)」から「元永元年(1118年)」までの出来事が記載されているそうですが、「奥州藤原氏」は、巧みな政界工作で、奥州を実質的に支配していった事が伺えます。

この他にも、「奥州藤原氏」は、「金」を始め、当時の蝦夷(北海道)とも交易を行い、珍しい水豹(アザラシ)の毛皮等を、せっせと朝廷に貢いでいた事が分かっています。


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■平安末期〜室町時代の「馬」との関係


さて、その後、平安末期から鎌倉初期の頃になると、今度は、「糠部郡」の支配者が、「藤原氏」から「南部氏」に変わる事になります。

鎌倉時代末期、正安2年(1300年)頃に、鎌倉幕府内の複数の編纂者によって作成された歴史書に「吾妻鑑(東鑑)」と言う史書があります。

この歴史書は、作成された経緯から、北条氏側の視点で作成されていると言う側面はありますが、平安末期となる「治承4年(1180年)」から、鎌倉幕府設立後の「文永3年(1266年)」までの出来事が記載されています。

そして、この「吾妻鑑」には、前述の「糠部郡」や「戸」の「駿馬」に関する様々な記述があるようです。

【 文治五年(1189年)9月3日 】
文治五年九月小三日庚申。泰衡數千の軍兵に圍被、一旦の命害を遁れん爲、鼠の如く隱れ。退くこと鶃に似たり。夷狄嶋を差し「糠部郡」へ赴く。

【 文治五年(1189年)9月17日 】
文治五年九月小十七日甲戌。毛越寺建立に際し、藤原基衡は本尊造立を仏師雲慶に依頼した。制作する本尊を上中下の三等級の何れにするかとの運慶の問いに対し、基衡は中と答え、その謝礼として、金100両、鷲羽根100尻、水豹(アザラシ)の皮60数枚、安達絹1000疋、希婦細布(けふのせばぬの)2000端、糠部の駿馬50頭等々を与えた。

【 文治六年(1190年)3月14日 】
文治六年三月小十四日戊辰。源頼朝奥州藤原氏陸奥貢馬(むつくめ)に倣い、後白河院に「戸立(へだち)」を20頭献上した。後白河院は「戸立」に興味を示し、どこの「戸立」を訪ねた。


また、これ以外にも、次のような有名な御家人や人物が、「糠部郡」の「戸立の馬」を愛用していた事も分かっています。

・佐々木 高綱 :「生唼(いけずき)」 / 「七戸」産
・梶原 景季 :「磨墨(するすみ)」 / 「三戸」産
・熊谷 直実 :「権太栗毛(ごんたくりげ)」 / 「一戸」産
・熊谷 直実 :「西楼(※替え馬)」 / 「三戸」産


また、「糠部郡」の馬ではありませんが、「源 義経」の愛馬は、何れも岩手県産の「南部馬」と言われています。

太夫黒(たゆうぐろ) :「一関市千厩町」産、「一の谷の戦い」鵯越で活躍
・小黒(こぐろ) :「遠野市」産、平泉滞在中の愛馬

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その後、前述の通り、奥州合戦の功労者として、「南部光行」が、「源 頼朝」より、「糠部5郡」を賜った事が、南部藩史書「南部史要」に記載されています。

そして、「南部光行」は、鎌倉時代となる「建久2年(1191年)」の12月29日、現在の青森県三戸郡南部町に入ったとされています。

鎌倉幕府滅亡後も、この「糠部郡」は、「名馬の産地」として有名で、かつ土地が広かった事もあり、様々な勢力が入り乱れて支配を目指したのですが、結局、この「南部氏」が、他勢力を圧倒し、糠部郡全土を掌握しました。

その後、室町時代、戦国時代、安土桃山時代、江戸時代、そして明治時代に至るまで、「南部氏」は、この地を支配し、後に「南部駒」と呼ばれる名馬を産出し続けます。


室町時代になると、「南部駒」は、既に名馬の地位を確率していたようで、「糠部郡」から、京・大阪に送られる「糠部の駿馬」は、人気の的だった様です。

このため、「糠部の駿馬」には、その産地を証明するために、「馬印」と呼ばれた焼印が押されていました。

戦国時代となる「永正5年(1508年)」に、「八条近江守房繁(はちじょう-おおみのかみ-ふさしげ)」が作成した「馬焼印図」と言う書物には、「一戸」から「九戸」の各牧(戸)から連れて来られた馬に押された烙印に関して、下記内容が記載されています。

『 一ノ部(戸)10か村の馬は、両印雀(左右に雀)の烙印。ただし、桂清水の馬のみは特別に片車の印を押したという。二ノ部7か村の馬は、両印雀と二文字の印。ただし、あひかびの馬のみは四ツ目結。この印は、牧の本主(旧領主)佐々木庶子の家紋という。あひかび牧の別名を佐々木ノ部と称する。三戸〜八戸は省略して、九戸の馬は雀印であったという。 』

現在、この「馬焼印図」の原本は消失してしまったようですが、江戸時代後期、「文政4年(1821年)」に、幕府の命令により「屋代弘賢(ひろかた)」が編集を始めた「古今要覧稿(ここんようらんこう」に、糠部郡9ヶ所の「馬焼印図」が掲載されています。

ちなみに、「八条近江守房繁」とは、「八条流馬術」の創始者で、その後「八条流馬術」は、徳川家や伊達家などに伝わり、特に、仙台「伊達藩」では、代々「八条流馬術」の後継者が、馬術師範家を世襲したそうです。

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ところで、「南部光行」が、糠部郡を拝領してから150年間は、「糠部郡」における「南部氏」の消息を伝える記録は殆ど残っていないようです。

前述の「吾妻鑑」にも、「建久元年(1190年)」には、「源 頼朝」と一緒に「鶴岡八幡宮」を参拝した旨が記載されており、また「建久6年(1195年)」にも、「源 頼朝」と一緒に上洛した事が記録されています。

このことから、「南部氏」は、ほとんど「糠部郡」には居住せず、鎌倉にあって「源 頼朝」の傍で暮らしいていたことが明らかになっています。

このため「糠部郡」には代官を置き、「糠部郡」で生産した馬を、関東に提供する仕事に従事していたのだと考えられています。

この頃、「南部氏」が開設した「牧」は、主要なところで9カ所ある事が分かっており、その牧は「南部九牧(なんぶ-くまき)」と呼ばれ、下記の「牧」があったようです。

(1)住谷野 :現在の青森県三戸郡三戸町
(2)相内野 :青森県三戸郡南部町
(3)又重野 :青森県三戸郡新郷村
(4)木崎野 :青森県上北郡三沢市
(5)蟻渡野 :青森県上北郡横浜町および野辺地町北部
(6)大間野 :青森県下北郡大間町
(7)奥戸野 :青森県下北郡大間町
(8)三崎野 :岩手県九戸郡
(9)北野 :岩手県九戸郡

但し、「南部九牧」での牧野経営が本格的なものになったのは、室町時代以降の事とされており、さらに、この「牧」の他にも、田鎖野、妙野、広野、立崎野の4つ「牧」があり、「南部氏」の「牧」は、公牧で、計13カ所あった事が分かっています。

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■戦国時代〜江戸時代までの「馬」との関係


戦国時代から江戸時代になると、「南部馬」の評価は上がる一方で、前述の通り、藩直営の牧場が数多く作られた様です。

その後、妙野(現:八戸市)と広野(現:久慈市)は、江戸時代初期「寛文4年(1664年)」に、盛岡藩二代「南部重直」の死後、「八戸藩」が、「盛岡南部氏」から分離独立する際に、八戸藩初代「南部直房」に、領地共々移封されています。

また、田鎖野、および立崎野の「牧」は、江戸時代中期の「元禄年間」から「享保年間」の間に廃止されてしまったそうです。

しかし、その他の「公牧」は、明治時代を経て、昭和の太平洋戦争中に至るまで脈々と存続し、多くの「南部馬」を産出してきました。

これらの牧場では、係りの役人が、「馬」毎に、毛色、身長、年齢、および性別を記した精細な記録を取り、各牧場の管理者である「御野守」や、総牧場管理者となる「御野馬別当」に報告していた事が分かっています。

また、南部藩の領地は、冬季は雪が多いので、雪が多い地域では、積雪や寒凍を避けるために、各村の農家に「馬」を預けて保護していたそうです。

さらに、「馬」に対しては、御馬医、御馬責(調教師)などの馬肝入(世話人)が設けられ、手厚く保護/管理されていた様です。

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そして、「南部馬」の評価を高めたのが、幕府や大名による「馬」の購入です。

慶長年間(1596年〜1615年)頃から、「南部馬」の購入担当が、盛岡に入る様になり、これを「御馬買役人」と呼んで盛岡藩では歓迎するようになり、藩内の良馬を城下に集め、「馬市」を開催して自由に購入できるようにした様です。

当時、盛岡に「馬」を購入しに来た大名には、次の様な方々が居た様です。もちろん、当人が、直接、盛岡に来る訳はなく、各藩の購入担当が来て、「馬」を購入した記録が残っているそうです。



寛永21年(1645年) :越前宰相「松本忠昌」 福井藩
・正保3年(1646年) :尾張大納言「徳川義直尾張藩
・ 同年 :青山幸利(青山大膳) 摂津国尼崎藩
・ 同年 :美濃守「稲葉正則小田原藩
・ 同年 :左京大夫「丹羽光重」 二本松藩
・ 同年 :大和守「松平直基」 播磨姫路藩
・慶安二年(1649年) :幕府御馬買役人二名(幕府馬方「中山勘兵衛」他1名)
・ 同年 :佐渡守「牧野親成」 京都所司代
・ 同年 :青山幸利(青山大膳) 摂津国尼崎藩
・ 同年 :陸奥守「伊達忠宗」 伊達藩主
・ 同年 :能登守「本田忠義」 白河藩


上記以外の大名、および幕府の役人も、大挙して盛岡に買い付けに来ていることが記録されているようです。

それでは、当時、「南部馬」の価格は、どれ位だったのかと言うと、これも過去ブログに何度も登場する盛岡藩家老の日記「雑書」の中に、慶安二年(1649年)、幕府の馬方役人「中山勘兵衛」が、「馬」を購入した時の記録が残されています。

『 十一日、御馬買衆御両人ニて、馬七十四頭御買いなされ候。但し高価八両 』


「馬1頭が8両で高価」と書かれているようです。

それでは、「8両」が、現在の価格にすると、どの位の値段なのか、と気になるのが普通だと思いますが・・・「1両」を現在の価値に置き換えるのは、非常に難しいのだそうです。

また、江戸時代も、現在と同様、物価は変動していますし、価値自体、商品と労働対価とで、だいぶ異なる値段になっている様です。

ちなみに、商品の場合は「1両=13万円」位らしいのですが、これが「大工仕事=30万円」位に跳ね上がるのだそうです。

現在でも、今から数十年前、私が初めてタバコを買った時には、「セブンスター1箱=150円」でした。それが、現在では「450円」もします。値段が3倍にもなっています。

また、江戸時代中頃の「馬」の値段は、「馬1頭=45両=1,650,000円」と言う比較資料もあります。

と言う事で、現在の価値に置き換えるのは難しいのですが、無理矢理、上記価格の中間を取り「1両=20万円」とすると、「馬1頭=8両=160万円」位となるのだと思います。


さて、このように、盛岡に、年に何度も、馬の買い付け担当役人が大挙して来ているので、盛岡藩は「ウハウハで大喜び」かと言うと、そうでもなかったようです。

馬の買い付けに来るのは、盛岡藩よりも、格式の高い大名の部下や幕府の役人なので、買い付けに来る役人を接待しなければなりません。

そのために、盛岡藩では、藩主自ら「鷹狩り」を催したり、あるいは城下町以外にも「馬」を買い付けに行くために道の整備をしたり、訪れた村でも役人を歓待したりと、かなり面倒だった様です。

特に、「鷹狩り」や「道路整備」で駆り出される地元民には不評だったらしく、この「馬の買い付け」対応は、「元禄7年(1694年)」までで打ち切りとなってしまった様です。


その後となる天保年間(1716〜1736年)には、江戸の「府中六所宮(ふちゅう-ろくしょのみや)」と浅草「薮の内」、および「麻布十番」の3か所で、毎年12月に「馬市」が開催されていたそうです。

この「馬市」には、当時、南部藩の馬宿を努める3軒の馬喰が「藪の内」にあったそうなので、その馬喰から、各「馬市」に馬を連れて行って売買していた様です。

しかし、その後、府中六所宮の馬市が中止となり、浅草「薮の内」と麻布十番の2か所だけで行われるようになったそうです。この場所は、現在の台東区花川戸二丁目辺りになるそうです。

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一方、盛岡藩では、武士の「石高」により、「馬」の飼育が義務付けられていた様です。

江戸時代初期には、石高「百五十石」以上の武士は、「騎馬」で出陣する決まりがあったので、それに伴い、自身で「馬」を飼育しなければならなかったそうです。

江戸時代中期には、飢饉等の影響もあり、石高は減免されたようで、「元禄8年(1695年)」以降は、「馬」を飼わなければならない石高は「三百石以上」か、あるいは役職付きの高級武士のみが、「軍馬」育成の義務を負う様になったそうです。

また、「馬」の飼育に関しては、当初は、藩直営の「牧場」だけだったのですが、民間でも飼育が認められるようになったみたいです。

しかし、その管理は厳しく、藩から「御馬責」と呼ばれる調馬師や、「駒改め」と言う役人が、村々を巡回して検査していた様です。

『 所々駒改に御馬責弥平次・与伝次・御徒之欠端金丞此三人達し侯間、隠密なく馬共改めさせ申すべく候。一疋成り共隠密の由脇より申し出でる者侯はば隠密の者は申すに及ぼす其処の肝煎迄も曲事仰せ付けらるべきものなり。 』

そして、藩内で「馬」の飼育が盛んになるにつれ、盛岡城下で「馬市」も盛んに開催されるようになった様です。

前述の「正保4年(1647年)」の日記には、次のような記録が見られます。

『 十四日、今日、馬口労町に於いて、馬共見初、馬場へは、毛馬内九左衛門を遣わす。』
『 朔日、盛岡新馬町にて、せり駒仰せ付けられ、岩手中、雫石・盛岡へ、御馬方川口主悦・船越与兵衛、今日仰せ付かる。』

当時、幕府の馬買役人や諸大名から派遣された軍馬購入役人は、「馬口労町(馬喰町)」で「馬」の検査を行うのが慣例だったそうですが、後に、このイベントが、「馬の競り市」になったと考えされています。

また、「馬口労町(馬喰町)」と「新馬町」とは、同一の場所で、現在の「盛岡市清水町」に付近にあったと考えられています。

そして、「馬」売買を管理するために、「貞亨元年(1684年)」には、「御掫駒奉行」は、九組二十人が任命されており、盛岡の「二歳駒掫奉行」四人を例外とすると、領内には、八組の奉行が派遣されたとされています。

この八組の奉行人が、代官所ごとに「掫駒市」を開催したとすれば、領内三十ヵ所近い馬市が開かれたと考えられています。

さらに、「馬」の飼育数は、「元禄12年(1699年)」の調査によると、九牧の総馬数は「711頭」で、その内「雄馬」は各牧場に1頭、繁殖用の「牝馬」は521頭、その他は仔馬や駄馬となっている事が記録されています。

「はぁ、馬の名産地とか言いながら、たった711頭しかいないの ?」と思うかもしれません。しかし、この数字は「公牧」だけの数です。

領内全体では、「寛政九年(1797年)」の調査結果によると、民間だけで「87,215頭」もの「馬」が飼育さえていた記録が残っているそうです。

ちなみに、「公牧」で飼育している馬は「御野馬(おのま)」、一般の農家で飼育した馬は「里馬」と呼んで管理していたそうです。

本当に詳しく管理されていた事が解ります。

ちなみに、「昭和13年(19398年)」に発行された「岩手縣の産馬と盛岡の糶駒市について(佐藤保太郎著)」によると、昭和10年当時、東北6県の内、馬の飼育数が最も多いのが岩手県で84,000頭となっており、これは日本一の飼育数とされています。そして、二番目は福島県の78,000頭ですが、その差6,000頭もあり、断トツだとしています。

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さて、領内で、9万頭弱もの「馬」を飼育しているようですが、それでは、この飼育した「馬」を、どうしているのかと言う事になります。

「公牧」で飼育している馬は、藩が管理していますので、前述の通り、大名や幕府に売買したり、贈与したり、あるいは高級武士達が買い上げて利用したりしています。


そして、その他一般の農家で飼育されていた「里馬」に関しては、「藩令」を出して、厳しく管理しています。「宝永三年(1706年)」には、領内飼育の馬について、次の八ヵ条を布告して事が、「南部史要」に記載されています。

(1)母駄(牝馬)を上中下の三等級に区分し、本帳(馬籍帳)に登録する事
(2)複数人で判別するので髪を切りおく事
(3)父馬も髪を切り一般牡馬と区別する事
(4)記帳漏れのないようにする事
(5)記帳漏れの場合は、馬主、五人組、肝入まで責任を問われる事
(6)許可なくして他領に馬を出すことを禁止する事
(7)他領に売払いの馬は、老馬、十歳以上の小荷駄、下駄等とし、代官の許可を得る事
(8)馬市は、盛岡、郡山、花巻の三ヵ所に限られ、上馬・中馬・上駄・中駄の他領出は禁じる事


一般的には、上記のような決まりで管理していたようですが、五戸、および七戸から産する「馬」だけは優秀だった様で、この地方の下等級の駄馬でも、他地方の上級中級に準ずるとして特別扱いにしていた様です。

そして、飼育している「馬」が、「二歳馬」になった秋になると、藩が特定の場所に「馬」を集めて検査し、上中下の等級を付けて帳簿を調整し、上級と判定された「牡馬」は、藩有の乗馬にもなったり、「馬市」で競売されたりして、飼育者に歩合金が支払われたそうです。

それでは、どの位の料金で藩が買い上げていたのかと言うと、後年、大正4年に発行された「岩手県産馬誌」によると、「御用馬」として買い上げる場合、競買の最高価に、さらに「一両」を追加して買上げていたそうです。

本当か否かは解りませんが、これが本当ならば、結構、思いやりのある買い上げ方法だと思います。

そして、実際の記録によると、江戸時代末「文久元年(1861年)」には、次のような値段で「馬」を買い上げていた様です。

・大迫/三閉伊/福岡/沼宮内地域 :1,641頭を3,378両で買い上げ → 約2.1両/頭
・大更/鹿角/三戸/五戸/七戸/野辺地/田名部 :2,538頭を6,050両で買い上げ → 約2.4両/頭
・雫石/沢内/徳田伝法寺/日詰/長岡 :1,048頭を810両で買い上げ → 約0.8両/頭

こうして見ると、何か、結構、買い上げ価格は、足元を見られているような感じがしますが、「御用馬」になると、この価格の2倍以上、中には、12両/頭で買い上げられた「馬」もあった様です。

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江戸時代の情報の最後に、ちょっと珍しい「唐馬の碑」を紹介します。

享保10年(1725年)」、「馬」の改良に熱心だった八代将軍「徳川吉宗」から、オランダが将軍に献上したペルシャ産の「春砂(ペルシャ)」と言う「馬」が、南部藩に下賜されました。

盛岡藩は、「春砂」を、三戸町にあった公牧「住谷野」に放牧し、馬の体格を大型化するための種馬として改良を図ったのですが、残念ながら9歳で亡くなってしまったそうです。

そこで、関係者は、「春砂」を偲び、三葉の松を植えて墓印としたそうですが、その松の枝が、全て西に向かって伸びたので、「春砂」が母国を慕っているのだと言い、その墓を「馬の神」として崇めるようになりました。

このため、「寛保3年(1743年)」、御野馬別当「石井新右衛門(号:玉葉)」が、唐馬「春砂」供養のための「唐馬の碑」を建立し、馬頭観音を祀ったとされています。

その後、この地は、「安政3年(1856年)」に、「蒼前堂」、つまり「蒼前神社」となり、さらに、その後、「昭和21年(1946年)」に、現在の「馬歴(ばれき)神社」に改称したとなっています。


「馬歴神」、あるいは「馬櫪神」とは、「馬の守護神」、「厩(うまや)の神」、または「馬術の神」とされており、一般的には、 両手に剣を持ち、両足で猿とセキレイを踏まえている像として描かれる様です。

上図は、「葛飾北斎」の「北斎漫画」に描かれた「馬櫪尊神」となっていますが、この絵では手が四本であり、セキレイと猿も手で捕まれています。

「馬歴神」は、中国から伝播した神で、両剣で馬を守り、猿とセキレイが使者となっています。セキレイは馬を刺す害虫であるブヨなどを食べてくれます。

また、馬の「午」は火を表し、猿の「申」は水を表していて、荒馬を鎮めるという意味や、火事から厩舎を守るという意味があるそうです。

この「唐馬の碑」は、外国馬に関する、日本最古の「碑」と言われており、貴重な文化財となっています。

ちなみに、「春砂」は、碑に「鹿毛白九歳長四尺九寸五分」と刻まれている事から、体高150cm程度ですので、アラブ馬としては、平均的な大きさの馬だったと推測されます。


※これら江戸時代の情報は、「滝沢村村誌」、およびその他資料を参考に記載していますが、その他記録と一致していない情報もあるようです。

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今回は、「岩手/盛岡と馬の関係」と題して、主に、古墳時代から江戸時代までの、「馬」との関係を紹介して来ましたが、如何でしたか ?

古墳時代奈良時代の「馬」との関係
平安時代の「馬」との関係
●平安末期〜室町時代の「馬」との関係
●戦国時代〜江戸時代までの「馬」との関係

今回の「前編」で、東北地方の「馬」自体は、アテルイに代表される蝦夷の時代から存在し、現在に至るまで大切に飼育されて来ている事が解りました。

しかし、今日まで、東北地方の「馬」の歴史が脈々と繋がっているのは、特に「南部馬」が特異な存在だった事が影響しているのだと思います。

また、東北地方、特に北東北において、余り支配者が変わらなかった事も、「南部馬」の伝統が守られて来た事に影響を与えている事が解りました。

岩手を含む北東北は、最初に記載した通り、太古の時代から明治時代に至るまで、蝦夷安倍氏藤原氏 → 南部氏と、たったの4つの民族/氏族しか支配者が存在しません。

まあ、短期間であれば清原氏とか、その他、小さな氏族が統治した時代もありますが、古墳時代後期から明治時代に至るまで、約1,200年間ありますが、その内訳は、4つの民族/氏族で、次の通りになるかと思われます。

古墳時代〜平安中期 :蝦夷 約300年間
・平安中期〜平安後期 :安倍氏 約100年間
・平安末期〜鎌倉時代藤原氏 約100年間
鎌倉時代〜明治時代 :南部氏 約700年間

まあ、これが事実なのですが、こうして見てみると、とても凄い事が、より、はっきりと解ります。

1,200年間、たった4つの民族/氏族しか統治していない場所なんて、北海道を除く日本では、北東北以外有り得ないのではないかと思ってしまいます。

加えて、「蝦夷」から「藤原氏」までは、何とか地元の「血筋」が入っていますので、「馬」を大事にし続けたのは当たり前だと思います。

そこに、地元とは一切関係の無い「南部氏」が支配者となったのですが、実は、「南部氏」は、これも「馬」の名産地「甲斐国」出身です。このため、南部氏は「馬」の重要性を理解していたのだと思います。

ここに、「馬」とは関係の無い、「南部氏」以外の氏族が支配者となっていたら、果たして、現在に至るまで、北東北で「馬事文化」が、ここまで発展したのかは、疑問が残るところだと思います。


このため、先に記載した通り、「源 頼朝」は、意図的に、「南部 光行」を「糠部郡」に配置したのではないかと言う想像が働く事になります。

「源 頼朝」が、何故、「南部 光行」を糠部郡に配置したのかは、「頼朝」に聞かなければ、解らない事なのですが・・・

偶然であれば、まさに「天啓」だったのかもしれませんが、産業の少ない、岩手/盛岡の住民にとっては、「ラッキー !!」だったのではないかと思います。


と言う事で、次回は、「後編」として、明治時代以降、現在に至るまでの「馬」関係情報、およびその他として、次のような内容を紹介します。

●近代における「馬」との関係
●岩手における「競馬」の歴史
●現在の「南部馬」と「在来馬」の紹介
●馬検場の歴史

それでは次回も宜しくお願いします。

以上


【画像・情報提供先】
Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)
・愛LOVEもりおか★徒然日記(https://blogs.yahoo.co.jp/kfuji_taxi)
・馬と人(http://umatohito.com/)
・滝沢村誌(http://www.city.takizawa.iwate.jp/contents/sonshi/web/index.html)
・青森の魅力(https://aomori-miryoku.com/)
江差ルネッサンス(http://www.esashi.com/)
・縄文と古代文明を探求しよう(http://web.joumon.jp.net/blog/)
・えさし郷土文化館(http://www.esashi-iwate.gr.jp/bunka/index.html)
山梨県ホームページ(http://www.pref.yamanashi.jp/index.html)

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