岩手/盛岡と「馬」の関係 〜 本当に「お馬様様」です! - 後編


今回の「盛岡/岩手情報」も、前回に引き続き、「岩手/盛岡と馬の関係」の後編をお届けします。

前回は、「前編」として、古墳時代から江戸時代に至るまでの、岩手県を含む北東北の人々と「馬」の関係を紹介しました。

★過去ブログ:岩手/盛岡と「馬」の関係 - 前編(20180324.html)

前編の最後で、岩手県を含む北東北で、何故、このように「馬事文化」が育まれ、かつ現在にまで継承されたのを、私なりに考察して見ました。

その結果、「馬」の重要性を理解している、ごく少数の民族/氏族が、長きに渡り、同一地域を支配し続けた事が原因ではないか、と思うに至りました。

前編の繰り返しになりますが、北東北は、約1,200年もの間、次のような4つの民族/氏族によってのみ支配されて来ました。

古墳時代〜平安中期 :蝦夷 約300年間
・平安中期〜平安後期 :安倍氏 約100年間
・平安末期〜鎌倉時代藤原氏 約100年間
鎌倉時代〜明治時代 :南部氏 約700年間

そして、これら全ての民族/氏族は、どれも「馬」の価値を認め、非常に大切に扱ってきた事により、「馬事文化」が現在までも継承されて来たと、私は考えています。

そして、今回は、明治時代以降、現在に至るまでの「馬事文化」や、その他、「馬」に関わる、次の様な情報を紹介します。

●近代における「馬」との関係
●岩手における「競馬」の歴史
●現在の「南部馬」と「在来馬」の紹介
●馬検場の歴史

それでは今回も宜しくお願いします。

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■近代における「馬」との関係

さて、幕末から戊辰戦争を経て、鎌倉時代より、700年間以上も南部氏が治めてきた、盛岡藩八戸藩、および七戸藩の領地は、伊達藩の領地だった水沢や一ノ関を合わせて出来た「盛岡県」を経て、「明治5年(1872年)」に「岩手県」となりました。

鎌倉時代から、一つの地域を、同一の氏族が治める事ができたのは、私の知り限り、大名レベルでは、次の五つの氏族だけではないかと思われます。

・南部氏(南部藩) :現:岩手県地域 → 現在、第46代当主「南部利文」氏 盛岡市在住
・相馬氏(中村藩) :現:福島県相馬市付近 → 現在、第34代当主「相馬行胤」氏 広島県在住
・島津氏(薩摩藩) :現:鹿児島県地域 → 現在、第32代当主「島津修久」氏 鹿児島市在住
・相良氏(人吉藩) :現:熊本県南部地域 → 現在、第38代当主「相良頼知」氏 不明
・宗氏(対馬藩) :現:長崎県対馬市 → 現在、第38代当主「宗 立人」氏 不明

これら五つの氏族は、同一地域を、単一氏族が数百年も支配すると言う、世界的に見ても稀有な一族ですが、何れも、中央から遠く離れた地域だった事が幸いしたと考えられています。

「相良氏」と「宗氏」の現在の当主の所在は不明ですが、それ以外は、代々の領地で暮らし続けているようです。

まあ、「南部氏」の前当主は、靖国神社宮司を務めていた関係で東京に住んでいましたし、「相馬氏」は、「9.11 東日本大震災」による福島原発の影響で、旧領地が立入禁止区域になってしまった事もあり、広島県に移住してしまった様です。

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さて「南部馬」ですが、このような経緯もあり、ずっ〜と、南部氏の領地で育てられ続けて来ました。

「南部馬」が、何故、これ程の人気「馬」になったのか、とか、現在、どうなっているのかに関しては、別の章で紹介したいと思います。


そして、時代が「明治」になると、「西南戦争」以降は、国内での「戦」は無くなりましたが、今度は、国外での戦争目的で、軍馬の育成や、騎兵の育成に主眼が置かれる事になって行きます。

岩手・盛岡は、幕末の戊辰戦争で幕府側に付いた事もあり、明治新政府においては、立場が悪かった事もあり、明治時代中頃から、幕末の汚名を晴らすために、積極的に部隊誘致に動いた様です。

その結果、日露戦争終了後、「明治41年(1908年)」に、青森県に駐屯していた「工兵第八大隊」が、広い演習場を求めて、現在の「盛岡市みたけ」に、移駐して来ました。

そして、部隊の移駐から3ヶ月後、当時の皇太子殿下(後の大正天皇)を招待して開催された「特別工兵演習」において、殿下が、演習会場となった広大な草原を「観武ヶ原(みたけがはら)」と命名したと伝わっています。

上図の石碑は「観武原の碑 」と呼ばれる記念碑で、殿下が「観武ヶ原」と命名した経緯が刻まれているそうです。


このような経緯があり、現在、この地が「みたけ町」となったとされていますが・・・私も、「観武ヶ原」が「みたけ」になったと言うのは、初めて知りました。

この「盛岡市みたけ町」は、盛岡市の北側、盛岡駅から6km、近くの、岩手銀河鉄道厨川駅」からは2km程の場所にあります。

そして、さらに、その翌年となる「明治42年(1909年)」には、「騎兵第三旅団(2,000名)」が、「みたけ町」の隣の「青山町」に新設されます。


この「騎兵第三旅団」は、「昭和10年(1935年)」に、満州に派遣されたのですが、その跡地には、「昭和14年(1939年)」、当初、仙台市にあった「陸軍予備士官学校」が移転して来ます。

このように、盛岡市の北側は、明治後半から昭和初期に掛けては、一大軍事拠点となって行きます。

その過程で、この「青山町」付近には、「覆馬場(おおいばば)」が6棟も建設されました。


「覆馬場」とは、雨天や降雪時に、野外での馬場が使えない時に、屋内で乗馬訓練が行える施設です。

建物は、間口約24m/奥行き約49mの総レンガ作りの立派で頑丈な構造になっています。

そして、終戦後は、海外から大量の引揚者が帰国して来たので、引揚者の一時的な居住場所として、青山地区に残っていた兵舎や「覆馬場」を改修し引揚者寮として使用していました。


その後、青山町にも、公営住宅や一般住宅等が建設され、公共施設の整備も進み、盛岡市ベッドタウンとして町が形成されて行きます。

その結果、引揚者寮も徐々に解体/撤去され、戦後の面影が殆どなくなり、残った「覆馬場」も、民間企業の工場や倉庫として利用される事になります。

しかし、「覆馬場」を利用して来た企業も、ここ10年で全て撤退し、青山m町に6棟もあった「覆馬場」も、1棟を残し全て解体されてしまいました。

そして、廃屋同様で残った1棟に関しては、青山町の有志が盛岡市に働きかけ、町の「歴史的遺産」として保存する事が決定し、「平成24年(2012年)」、残った1棟の「覆馬場」を、明治42年の建設当時の姿で復元し、多目的交流施設「盛岡ふれあい覆馬場プラザ」として開館しました。

復元されたとは言え、今では、中で馬を走らせることは無いようで、スポーツ、展示会、あるいはイベント会場等として利用している様です。

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ところで、明治以降、昭和、特に太平洋戦争に至る前までは、引き続き「南部馬」は人気の的で、次のような「名馬」を産出したと言われています。


金華山号 】

明治天皇の御料馬。天皇最愛の馬とも言われています。明治天皇の指示で剥製にされ、現在は「聖徳記念絵画館」において展示保管されています。

明治22年(1889年)」、埼玉県で近衛師団の演習が行われた際、大砲の音に驚き、多くの馬が騎兵を振り落として逃げたにも関わらず、この「金華山号」だけは落ち着き払っていたと言われ、天皇の従者が「馬ながらあっぱれものだ」と涙を流して感激したと伝わっています。

明治天皇も、「私が近づくと敬礼をするような仕草をする。」と言って寵愛したとも言われています。(実際には、前膝をひざまずいて低い姿勢になったそうです。)

【 勝山号

太平洋戦争に駆り出された「軍馬」ですが、三度も重症を負いながらも、その都度、戦線に復帰した強者です。

中国大陸に連れて行かれた「軍馬」の内、本土に帰還できた、ほんの少数の馬の1頭で、「昭和14年(1939年)」に、第1号「軍馬甲功章」を授けられています。

その後、終戦まで軍馬として過ごした後、敗戦後の「昭和20年(1945年)」、飼い主に無事に返され、その後は、農耕馬として余生を過ごすも、戦時中に受けた傷が元で、「昭和22年(1947年)」に、14歳で死んでしまったそうです。

セントライト

これは、当然「南部馬」ではありません。「サラブレッド」ですが・・・日本競馬史上、初のクラシック三冠馬となった名馬です。

「何の関係があるの ?」と言うことですが、この「セントライト」は、今では面影もありませんが、現在の雫石町にある「小岩井農場」で誕生、そして生育された「馬」です。

当時の「小岩井農場」は、ジンギスカンが美味しい場所ではなく、「サラブレッドの生産拠点」として日本有数の牧場だったのです。

当時は、種牡馬「シンモア」と言う名馬もおり、日本ダービー馬を3年連続輩出したりしていました。

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まあ、正直な事を言うと「金華山号」は、当時の岩手県水沢市にあった「佐野厩舎」で育成された馬ではありますが、生まれは、明治2年、現在の「宮城県大崎市鳴子温泉鬼首(オニ-コウベ)」で生まれたと記録されています。

その後、明治9年に行われた明治天皇の東北巡行の際、天皇自ら気に入ってお買上げになられたとされていますので、今風に言うと、生後3ヶ月を超える期間、水沢で育てられたので産地は「南部馬」になります(笑)。


また、一説では、この「金華山号」には、前編で紹介したアラブ馬「春砂(ペルシャ)号」の「血」が入っているのではないか、と言う噂もあるそうです。

ちなみに、先の「鬼首村」には、この「金華山号」を御祭神として祀っている「主馬(しゅめ)神社」があります。

この神社は、「荒雄川神社(あらおがわじんじゃ)」の境内末社で、明治34年に作成されたケヤキ製、等身大の「金華山号」を祀っています。

このように、長年に渡る「馬」産地特有の文化から、岩手県内では「競馬」も発展して来ました。

現在の盛岡競馬場は、実は「四代目」の盛岡競馬場となり、「平成8年(1996年)」に、三代目の盛岡競馬場から移設された新しい競馬場で、「OROパーク(オーロパーク)」と言う愛称になっています。

「ORO」とは、スペイン語の「金/黄金」を意味しているので、日本語に訳すと「黄金公園」となりますが・・・「何故、黄金なのか ? 」と言う事は、次の章で説明します。

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■岩手における「競馬」の歴史


現在、岩手県内では、「水沢競馬場」と「盛岡競馬場」の2ヶ所において、地方競馬が開催されています。

その昔、「昭和12年(1937年)」までは、「花巻競馬場」もあったのですが、現在は廃止されてしまったいます。

現在、日本の地方競馬は、14の主催者の元、17箇所の競馬場で実施されていますが、この内、1つの県において、2箇所も競馬場があるのは、岩手県(盛岡/水沢)、愛知県(名古屋/中京)、それと兵庫県(園田/姫路)の3ヶ所です。

但し、愛知県の中京競馬場は、2003年以降、競馬を開催していないので、実質的には、岩手県兵庫県のみです。


そして、「水沢」における競馬のルーツは、鎌倉時代となる「建久元年(1190年)」までさかのぼり、水沢に建立された「塩釜神社」の例祭として、「流鏑馬」や「くらべ馬」を行ったのが始まりとされています。

また、「明治4年(1871年)」に、「駒形神社」が金ヶ崎から水沢に遷宮した後、毎年、春と秋に「奉納競馬」を開催していますが、これが「水沢競馬場」の前身とされています。

日本では、日本書紀に、「天武天皇(679年)」、馬の俊足を鑑賞するため、馬の走り比べを行ったと言う記録があるそうです。


その後、宮中行事、あるいは神社への奉納行事として、「くらべ馬」、または「駒競(こまくらべ)」と言う行事が行われて来ました。

この習わしは、現在でも「賀茂競馬(かも-くらべうま)」として存続していますし、また、各地の神社でも「流鏑馬」として受け継がれています。

盛岡市でも、毎年、秋に開催される「盛岡八幡宮例大祭」では、「南部流鏑馬」が奉納されています。


また、このように、少し形式張った「くらべ馬」とは別に、農村でも、農家の人たちが育てた馬を走らせて、優秀さを競い合う生産地競馬も盛んに行われて来ました。

また、農村における「馬」の祭りとしては、何度も弊社ブログに登場する「チャグチャグ馬コ」がありますが、これは、元々は、「蒼前神社」に、「馬」の無病息災を祈願する神事が始まりとされています。

★過去ブログ:盛岡の「チャグチャグ馬コ」について

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そんな中で、日本における最初の西洋式「競馬(けいば)」は、江戸幕府の開港の翌年「万延元年(1860年)」に、横浜の元町で行われたとされています。


その後、「慶応2年(1866年)」に、横浜の根岸に、初めての本格的な競馬場が作られた様です。

そして、岩手県での西洋式「競馬」は、「明治4年(1871年)」、横浜(根岸)、そして東京(上野)に次ぐ、日本において3番目となるレースが「初代・盛岡競馬場」において開催されました。

この「初代・盛岡競馬場」は、1周1,000mのコースで、現在の盛岡市菜園にあったそうですが、現在では、全く、その痕跡さえも残っていません。


その後、この菜園における競馬が盛り上がりを見せたこともあり、「明治35年(1902年)」には、「岩手県産馬組合連合会」が「競馬会」を組織し、翌年となる「明治36年(1903年)」、盛岡市高松に、一周1,000mの円形馬場を建設し、この「二代目・盛岡競馬場」で、第1回の盛岡競馬を行ったそうです。

「二代目・盛岡競馬場」は、現在の盛岡市高松2丁目と4丁目の辺り、北上川付近にあったとされていますが、現在では、そのコースの一部が、道路として残っているに過ぎない様です。

そして、同じ年に、「日本赤十字社岩手支部」の総会が盛岡市で開催されたのですが、この総会に合わせて臨時競馬も行われたそうです。


臨時競馬の当日は、「日本赤十字社」総裁の「閑院宮載仁親王(かんいんのみや-ことひとしんのう)」が競馬を閲覧したのですが、その際に、「金100円」を寄贈されると共に、新しい「盛岡競馬場」に対して、「黄金(こがね)競馬場」という名前を下賜されました。

閑院宮載仁親王」が、何故、「二代目」盛岡競馬場」を「黄金競馬場」と名付けたのかと言うと、ちゃんと理由があります。


明治天皇が、「明治9年(1876年)」に東北御巡幸を行われた際、前述の「金華山号」をご購入されたのですが、それとは別に、岩手県内各地をご覧になっております。

そして、お召し替えの際に立ち寄られた場所に「湧き水」があり、その水を御膳水として差し出したとされています。

それから後、この「湧き水」は、「黄金清水」と呼ばれるようになったのですが、この「黄金清水」は、「二代目・盛岡競馬場」の、割りと近く、3km程、離れた場所にあります。


そして、「閑院宮載仁親王」は、この出来事を、ちゃんと調べていたようで、このために、「二代目・盛岡競馬場」を「黄金競馬場」と名付けたと伝わっています。

それからは、「盛岡競馬場」を、愛称として「黄金競馬場」と呼ぶようになり、この二代目、および三代目とも「黄金競馬場」と呼んでいました。

ちなみに、現在、「黄金清水」の場所は私有地になっている関係もあり、ご覧の画像の通り、全く整備されていないようです。

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そして、この「二代目:盛岡競馬場」ですが、「明治45年(1912年)」には、1周1600mへと拡張され、1日に6〜8レースも行われるなど、東北随一の競馬場として多くの競馬関係者が集うようになっていったそうです。

その後、時代が、大正から昭和に移ると、「新・黄金競馬場構想」が持ち上がったそうです。


その理由の1つは、「黄金競馬場」周辺の耕地整理を進めるためでしたが、もう一つは、「盛岡競馬」を、政府公認競馬場にするための運動があり、そのためには、走路の幅を帝国競馬協会が定める規模にする必要があったからです。

このため、「岩手県産馬組合連合会」は、走路幅拡張のため、周辺用地の買収を開始したそうですが、中々買収が進まなかったので買収を断念し、1.3km程離れた「高松ノ池」近くの「毛無森」に移転する事になりました。

新競馬場での開催を急いでいたので、工事は急ピッチで進められ、「昭和8年(1933年)」の秋には、帝国競馬協会の基準をクリアする1周1600m、幅員16mの新競馬場も完成し、11月には落成記念競馬を開催する運びとなったそうです。

ところが、実際に騎手が乗馬してみると、走路が緩く危険だと言う意見が多く上がってきてしまったそうです。


急ごしらえの走路だった事が影響し、走路が固まっていなかったためだったようで、当日は、開会式だけを開催する事になってしまったそうです。

その後、追加工事が行われ、昭和8年11月10日から地方競馬規則に基づく競馬が開催されたました。

左の画像が、「昭和51年(1976年)」当時の「旧・盛岡競馬場」の空撮映像です。

見て分かる通り、中央赤枠が「新・黄金競馬場」で、左の小さな赤枠が、私が、私が通っていた「盛岡第三高等学校」です。

本当に目と鼻の先の場所に競馬場があったのですが・・・実は、私は、この「旧・盛岡競馬場」には、小学校の頃、友達の両親に連れてこられた、たったの1回しか行った事がありません。

既に高校生の頃は、風営法で規制されている各種遊技場には出入りしていたのですが、何故か、競馬には全く興味が涌きませんでした。

当時の私の級友達は、馬券を買っていた者も何名かいましたが、私は、1回も購入した事はありませんでした。

小学生の時は、友達の両親が「馬主」だったので、1回だけ、いわゆる「VIP席」に行ったのですが・・・何か凄い歓声と熱気に圧倒された事は、今でも覚えています。

当時は、「競馬」自体、訳が解らず、「何で馬が走って、人が騒ぐのか ?」と思っていたのですが・・・10年以上経過した後、社会人になってから、その意味を理解した次第です。

さて、この「新・黄金競馬場」ですが、この競馬場の特徴は、何といっても、「中山競馬場」よりもきつい勾配で、「心臓破りの坂」と呼ばれた最後の直線コースなのだそうです。

第三コーナー前に設けられた巨大な坂は、「高低差8.8m」と、日本の競馬場では最大だったそうですが、とにかく全体的に勾配のきつい坂のコースであり、全国屈指のタフなコースだった様です。

これは、元々、この「新・黄金競馬場」が、軍馬育成を目的として設計されたコースであり、戦後、少し改修は行ったそうですが、その跡が残ったそうですが・・・最後の直線前に、9m近くの高低差があるのは、馬にとっても、馬券を買った人にとっても、キツかったと思われます。

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さて、昭和8年に完成した「新・黄金競馬場」ですが、「昭和12年(1937年)」、日中戦争が起きて戦争が激しくなり、その後、「昭和14年(1939年)」に馬政局の奨励金は廃止され、岩手県産馬組合連合会主催の競馬も中止となりました。

しかし、戦後となる「昭和21年(1946年)」、地方競馬法が公布され、翌22年には、岩手県馬匹組合連合会主催で公認競馬が再開されました。

さらに、翌23年には新競馬法が制定され、岩手県が県営競馬として、優良馬の改良増殖を目途に、水沢・盛岡両競馬場で競馬会を再開しました。

そして、このまま盛岡の競馬は、「新・黄金競馬場」され続けるのかと思われたのですが、実は、この「新・黄金競馬場」には、様々な問題があった様です。

と言うのも、先程の空撮画像を見ての通り、競馬場の周辺には、学校や住宅地だらけのため競馬場には相応しくないと言う意見が出始め、さらに競馬開催日には、周辺の道路が渋滞するという苦情も出始めました。

確かに、私も、通常は、原チャリか自転車で通学していたのですが、たまにバスを使うと、道路は渋滞していましたし、バスの乗客も、ガラの悪いオッサン連中だらけだった覚えがあります。

そして、さらに致命的だったのは、走路の幅が相変わらず狭く、フルゲートでも「8頭立て」だったため、多頭数の競走を編成できないので、東北地区交流レースや北日本地区交流レース等、重要なレースは水沢競馬場で開催すると言う、変な現象も起きていました。

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そこで、これらの問題を一気に解決すべく、「平成8年(1966年)」、盛岡市新庄、通称「川目」と呼ばれている場所に移設しました。

これが、四代目となる「盛岡競馬場」で、前述の通り「OROパーク(オーロパーク)」と言う愛称で呼ばれています。

総敷地面積128ha(ヘクタール)、よく比較対象として使われる東京ドームなら27個分の広さがあり、現在、日本一の広さを誇る競馬場です。

また、地方競馬場では、唯一「芝コース」が併設された競馬場で、ダートコースの内側に芝コースがある珍しい設計です。


さらに、こちらの競馬場のダートコースも、「旧・盛岡競馬場」からの精神を引き継ぎ、相変わらず4.4mもの高低差がある設計となっており、現在は、千葉県船橋市にある「中山競馬場」と並ぶ最大級の高低差となっているそうです。

この場所は、本当に山の中、盛岡駅から15kmも離れた場所にあります。

3km程離れた近くには、「盛岡市動物公園」や「岩山パークランド」、盛岡市を一望できる「岩山展望台」など、とにかく、周りは自然一杯で、「熊注意」の看板もあるような場所です。

中央競馬に匹敵するほど、豪華な競馬場となる「盛岡競馬場」ですが、これもひとえに、競馬人気が高く、経営が安定していたからこそ実現できた物となります。

岩手競馬は、明治、大正、昭和と、かつては「地方競馬の優等生」と呼ばれる存在でしたが、現在では、他の地方競馬と同様、競馬人気が低迷し、膨大な建設費債務や減価償却岩手競馬の経営を圧迫することとなっています。

「旧・盛岡競馬場」の跡地整備も中々進まない中、今後、どのような経営を行って行くのかが心配です。

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■現在の「南部馬」と「在来馬」の紹介


ここまで、主に、岩手/盛岡における「馬」、および「競馬」の歴史を紹介して来ました。

それでは、何故、「南部馬」の人気が高かったのでしょうか ?

「南部馬」が、他の地域の「馬」よりも大型だったために、武家の間では「軍馬」として人気が出た事は、既にお伝えした通りです。

しかし、武家の間で人気となる以前、奈良時代平安時代の貴族の間では、その見映えの良さと美しさから「あこがれの的」となっていた様です。

平安時代中期に編纂された「後選和歌集」においては、「南部馬」に対して、次のような詩が詠まれています。


【 後選和歌集 】

『 綱たえてはなれ果てにしみちのくの尾駮の駒をきのう見しかな 』
→ 長年あこがれてきた「尾駮の馬」。長い旅をしてようやく陸奥までやって来て、ついに昨日、引き綱を解かれて野に放たれる光景を実際に見ることができた。


『 みちのくの尾駮の駒も野かうには荒れこそまされなつくものかな 』
→ 体の大きな「尾駮の駒」だから、馬小屋で人に飼われているのならまだしも、野飼いされているものはさぞかし荒々しいだろうと想像していた。だが実際にはとても人懐っこいものだった。



上記の詩では、盛んに「尾駮(おぶち)の馬」と言う言葉が出てきますが、現在では、この「尾駮の馬」が「南部馬」を意味していると考えられています。

それでは、「尾駮の馬」が、どのような「馬」なのかと言うと・・・これは想像になってしまうのですが、その名称の通り、尾が「ぶち/まだら」の馬、つまり「まだら模様の尻尾を持った馬」となります。

左の画像の「馬」は、青森県六ケ所村尾駮で飼育されていた「馬」ですが、このような「馬」を、「尾駮の馬/駒」と呼んだと考えられています。

それと、ちょっと話は逸れますが、平安時代、「尾駮の馬」を飼育していた牧場を、「尾駮の牧」と呼んでいたそうですが、この「尾駮の牧」が、一体、何処にあったのかが、ちょっとした論争になっているようです。

現在、「尾駮の牧」候補として名乗っているのは、上記、「青森県六ケ所村尾駮」の他、次の地域があります。

青森県六ケ所村尾駮
宮城県石巻市牧浜(まぎのはま)


一般的な通説としては、「青森県六ケ所村尾駮」にあった牧場が「尾駮の牧」とされていますが、江戸時代の俳人松尾芭蕉」と、その弟子「曽良」は、石巻に関して、次のように述べています。


芭蕉『 明くれば又しらぬ道まよひ行。袖の渡り・尾ぶちの牧・まのゝ萱はらなどよそめにみて 』
曽良『 尾駮御牧 石ノ巻ノ向、牧山ト云山有。ソノ下也 』


まあ、「六ケ所村」は、その昔の「糠部郡」に含まれていますので、やはり「六ケ所村」説が正しいのだと思います。

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さて、前編で、「南部馬」は、九州/関西系の馬より、少し大型の馬であることは紹介しました。

確かに、体高が高い「馬」は、戦場における「1対1」の騎馬戦においては、相手よりも、かなり優位だったと思われます。

戦いでは、当然、武術も大事ですが、それより何より「馬」の優位性が、戦いを左右したと思われます。

そして、「軍馬」として用いる場合、「馬」を去勢しなければ、気性が荒く、乗りこなす事は出来なかったのですが、「南部馬」は、去勢しなくても大人しく、そのまま「軍馬」として用いる事が出来た事も、人気の秘密だったと思われます。

現在の「競争馬」でも、その多くの「牡馬」は、去勢されて「騙馬(せんば)」となっていますから、去勢せずに、そのまま乗りこなせる「馬」は価値が高いと思います。

さらに、「南部馬」は、現在の馬のように、足の着地面が、蹄(ひづめ)だけでなく、踵(かかと)まで着地するので接地面積が広く、踏ん張りが効くので、とても馬力が出たそうです。

そのため、「軍馬」はもちろん、農耕馬としても人気が高かったそうです。

このように、大型で、見映えが美しく、馬力もあるにも関わらず大人しい「南部馬」、人気が出るのは、当然と言えば当然だと思います。

それでは、現在、「南部馬」は、どうなっているのかと言うと・・・残念ながら純血種は、既にこの世から消えてしまったようです。何たる失態 !!

本章の最初に掲載した画像の「盛号」が、最後の「南部馬」と伝わっています。

その理由というのも、明治に入り、大量の、そして優秀な「軍馬」が必要になった明治政府は、盛んに、「南部馬」と外国産馬との交配を進めたのですが、その結果、「南部馬」の純血種の保護を禁止してしまった事が、種が絶滅した原因とされています。

つまり、「南部馬」が優秀であるが故、明治政府に目を付けられてしまった結果、「南部馬」の純血種を絶滅させてしまったと言う、何とも皮肉な結果です。

『 隠れて、密かに、純血種を守れなかったか ? 』と、当然、考えると思いますが、明治政府の管理が凄く厳しく、とても、隠れて純血種を飼育するなど無理な事だったようです。

実際には、「南部馬」以外の多くの在来馬、次のような、いわゆる「日本固有馬」も、明治政府の意向により、絶滅させられています。

→ 南部馬、三春駒、三河馬、能登馬、土佐馬、日向馬、薩摩馬、甲斐駒、ウシウマ


明治政府は、前述の通り、余りにも、大型軍用馬の増産に固執し過ぎてしまい、次のような無知な法令を連発し、その結果、これら在来馬を絶滅に追いやってしまっています。


・「明治34年(1901年)」馬匹去勢法
種牡馬、および将来の種牡馬候補以外の牡馬は、全て去勢する事を定めた法令
・「昭和14年(1939年)」種馬統制法
→ 「馬匹去勢法」を強化し、小型馬同士の繁殖を禁止し、全て外国産馬と交配させると定めた法令


どうして軍人は、今も昔も、バカばかりなのでしょうか ?

岩手/盛岡は、明治政府に気に入られようとし過ぎて、大切な「南部馬」を失ってしまった様です。

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そんな中でも、「南部馬」の血統を受け継ぐ「馬」が、僅かながら存在します。それが「寒立馬(かんだちめ)」と「道産子(どさんこ)」です。


「寒立馬」とは、下北半島の田名部にいる「田名部馬」の通称です。

しかし、この「寒立馬」、確かに「南部馬」の血統を継いではいるのですが、残念ながら、純粋な「南部馬」の系統ではなく、「南部馬」とフランスのブルターニュ地方産の「ブルトン」品種とを交配させた結果大型化した半血馬です。

現在でも、その昔の「糠部郡」にいる「馬」なのですが・・・残念です。


そして、もう一方の「道産子」、これは、ラーメンチェーン店ではありません。

江戸時代に、夏の間使役するために、本土から連れてきた「南部馬」が、冬期間北海道に放置され、気候風土に適応するようになったものが「北海道和種」、いわゆる「道産子」と言われています。

しかし、一説には、「道産子」は、「南部馬」とアイヌの固有馬の混血種ではないかとの説もあります。

また、これも一説ですが、アイヌ語では、「馬」も「ウマ」と表現する日本語起源となっているので、北海道には、元々「馬」は存在せず、本土から連れて来られた「南部馬」しか存在しない、という説もありますので、まだ確定していないのかもしれません。

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さて、それでは、現在の日本において、どの位の「在来馬」が存続しているのかと言うと、先の明治政府のアホな政策のため、多くの「在来馬」が絶滅してしまったので、現在は、下記8種類しか存在しないようです。

全く、国がアホだと、「馬」も「日本民族」も、全てが、「国体の維持」とか何とか、とんでも無い事を言い出して絶滅してしまいそうです。

「日本国民」が存在してこその「天皇」であるにも関わらず、国民は玉砕して構わないから「天皇」だけは守れとは・・・何を考えているのやら。


【 在来馬一覧 】

馬種 生息地 頭数(H28) その他
北海道和種(道産子) 北海道 1,106
木曽馬 長野県木曽/岐阜県飛騨 150 長野県天然記念物
御崎馬(みさき-うま) 宮崎県串間市都井岬 102 国指定天然記念物
対州馬(たいしゅうば) 長崎県対馬市 39
野間馬(のまうま) 愛媛県今治市野間 53 今治市天然記念物
カラ馬 鹿児島県トカラ列島 123 鹿児島県天然記念物
宮古 沖縄県宮古島 46 沖縄県天然記念物
与那国馬 沖縄県与那国島 130 与那国町天然記念物



どの「在来馬」も、危険レベルだと思いますが、「対州馬」以外は、少しずつですが頭数を増やしているようです。

対州馬」は、昭和40年に観測を始めた時には「1,000頭」以上存在したのが、現在39頭です。

50年間で1/100程度まで減少していますので、人工授精のために卵子/精子、あるいは遺伝子の保存等、早急に対応を取らないと、「対州馬」も絶滅してしまうかもしれません。

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■「馬検場」の歴史


さて、すっかり脇に追いやられてしまいましたが、今回のブログを書くきっかけとなった「馬検場」の歴史を振り返って見ます。

その昔、安土桃山時代後期となる「慶安4年(1651年)」頃になると、盛岡城の城下町に、町人が住む「盛岡二十三町」が出来上がったとされおり、その中の一つに「馬町」があったとされています。

しかし、別の情報によると、この「馬町」付近で、最初に「馬市」が開催された事から「馬町」と言う名称になったとされています。(※いわての文化情報大辞典)

何れにしろ、現在の盛岡市清水町付近が「馬町」と呼ばれ、この近くで「馬市」が開催されたのは、間違いがないようです。


岩手県立博物館の調査報告によると、この「馬町」において、最初に「馬市」が開催されたのは、江戸時代初期となる「万治2年(1659年)」とされています。

このため、現在の清水町付近には、「馬頭観音菩薩」を祀る神社が多く建てられたとされており、現在では、「亀慶山城南寺峯壽院(ほうじゅいん)」と言う神社が残っています。

この「峯壽院」、元は、天台宗寺門派近江国にあった「園城寺」の末寺だったそうですが、その後、御家人「千葉常胤(つねたね)」の家臣「新渡戸神酒之進(にとべ-みきのしん)」が、現在の千葉県から花巻市に移り住み、得度して「法明坊」と名乗り、「馬頭観音菩薩」を祀った事が始まりとされています。

その後、「慶長3年(1598年)」、初代盛岡藩主「南部利直」の知己を得、「峯壽法印」の称を与えられて、牛馬繁殖守護の祈願所となったそうです。

さらに、「寛文3年(1663年)」、現在の場所に移転し、寺号を「峯壽院」に改称したとされています。

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さて、「馬町」ですが、江戸時代末に「馬口労町(馬喰町)」と改称されたと言う説と、そのまま「馬町」であり続けたと言う説があるようですが、とにかく、江戸時代を通じて、盛岡に於いては、この場所で「馬市」が開催されました。

江戸時代には、藩内の馬市は、盛岡、郡山(現:紫波町)、そして花巻の3ヶ所に限って行われており、「馬市」が開催された場所の側には、「馬検場」も設置されていた様です。


また、「宝永7年(1710年)」には、藩命により駄馬の売買は、この「馬町」でのみで行われる事となり、「馬市」は、歳市として、毎年12月の9日、19日、および29日の3回開催されていた様です。

その後、「明治37年(1904年)には、「馬町」に、新たな「馬検場」が作られ、後述する通り「明治45年(1912年)」まで、この地で「馬市」が開催され続けられました。


その後は、次の様な経緯を辿り、馬検場は、現在の松尾町(旧・新馬町)に移転する事になったそうです。


・「明治3年(1870年)」 :民部省養馬懸出張所が設置される
・「明治14年(1881年)」 :岩手県産馬事務所が創立される
・「明治23年(1890年)」 :改組して「盛岡産馬畜産組合」が誕生する
・「明治45年(1912年)」 :新馬町(現:松尾町)に移転


松尾町の「馬検場」は、木造平屋建て185?で、事務所などとして使われていた洋風の附属施設は、木造2階建てで308?あるそうです

馬の競りが最後に行われたのは、「平成7年(1995年)」で、その後は、付属施設の2階部分を、美術家「百瀬 寿」氏や、建築家で写真家でもある「伊山治男」氏がアトリエとして使っていた時期もあったそうです。

しかし、近年は、老朽化が激しく空き家状態になったのですが、土地貸借の問題も持ち上がり、建物を管理する「盛岡畜産農業協同組合」が解体を決定した様です。

「歴史建造物」としての保存も検討したようですが、何故か保存は困難と言う結論になってしまったようで、建物や周辺の情報を、記録としてのみ残す事になってしまった様です。


う〜ん、これだけ「お馬様」の世話になってきたのですから、だだっ広い、盛岡競馬場の敷地の一部に移築する等の対応が取れなかったのか、不思議で仕方ありません。

唯一、「馬検場」と書かれた大きな額縁だけは、盛岡市が保存/管理する事が決まった様です。

この大きな額縁ですが、実は、盛岡出身の「新渡戸 仙岳(1858〜1949年)」と言う人物が揮毫(きごう)した額で、盛岡市にとっては、結構、貴重な代物となっています。


とは言え、皆さんは、誰もご存じないと思いますが、この「新渡戸 仙岳」と言う人物は、次のような学校の教師や校長を歴任しています。

また、退職後は、岩手日報主筆岩手県史編纂委員長、南部藩史編纂委員、および史跡名勝天然記念物調査委員などを歴任した、地元では有名な郷土歴史家です。

気仙郡立高等小学校校長
・盛岡高等小学校校長
・盛岡高等女学校校長


盛岡高等小学校時代の教え子には、米内光政、金田一京助、および石川啄木らが居たそうです。「米内光政」や「金田一京助」をご存じない方は、下記の過去ブログをご覧下さい。

【 過去ブログ 】
岩手の先達 〜 地味な岩手にも有名人 Vol.1
岩手の先達 〜 地味な岩手にも有名人 Vol.2

また、先に紹介した「峯壽院」の開祖「新渡戸 神酒之進」は、この「仙岳」のご先祖様に当たり、「仙岳」自身も「峯壽院」の住職の長男として生まれています。


このため、「峯壽院」が、「明治17年(1884年)」に、盛岡市で発生した「河南大火」で消失してしまったそうですが、「大正12年(1923年)」、この「仙岳」の発願により再建が叶ったそうです。

ちなみに、「新渡戸」と聞くと、五千円札のモデルとなった「新渡戸 稲造(1862〜1933年)」を思い浮かべる方も多いと思います。

『 我、太平洋の架け橋とならん by 新渡戸 稲造 』


新渡戸稲造」に関しても、上記過去ブログの「岩手の偉人」シリーズで紹介していますが、この二人、ほぼ同じ頃(4歳違い)に盛岡市に生まれています。

このため、一部の誤った情報では、この二人は兄弟であるかの様な記述が見られますが、全く関係ありません。前述の通り、「仙岳」は住職の長男ですし、「稲造」は盛岡藩士の息子です。

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さて、「明治45年/大正元年(1912年)」、松尾町に移転した「馬検場」ですが、106年目となる平成30年(2018年)2月には取り壊され、歴史から綺麗サッパリと忘れ去られてしまう道をたどる事になってしまった様です。

私は、現在は東京で暮らしていますが、昔懐かしい、盛岡が、どんどん消えて行ってしまうのは、やはり悲しいものがあります。

近年では、盛岡市中ノ橋通にあった「盛岡バスセンター」も、建物の老朽化に伴い、取り壊しとなってしまっています。


この「盛岡バスセンター」は、「昭和35年(1960年)」から「平成28年(2016年)」まで、使用されていた、盛岡最大のバスターミナルで、自動車ターミナル法が適用された第1号施設でした。

私は、バスは余り使わなかったのですが、中学生から高校生時代、このバスセンター内にある理容室に通っていたので、やはり施設がなくなるのは寂しさを感じます。

「馬検場」跡地は、土地の持ち主に返されるだけで、その後は、特に何かの施設になる訳では無いようですし、上記「バスセンター」跡地に関しても、当初は、バスセンター再建案もあったようですが、資材高騰の煽りを受け、現在、跡地利用は白紙状況なのだそうです。

きっと、盛岡も、東京と同様、建物の跡地は、駐車場か整体院になってしまうのだと思います。

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今回も、前回に引き続き、「岩手/盛岡と馬の関係」と題して、次のような内容を紹介しましたが、如何でしたか ?

●近代における「馬」との関係
●岩手における「競馬」の歴史
●現在の「南部馬」と「在来馬」の紹
●馬検場の歴史

今回の「岩手/盛岡の馬」シリーズでは、前編で、古墳時代から江戸時代までの「南部馬」を紹介し、後編では、明治以降、現在に至るまでの「南部馬」の歴史と、盛岡競馬場の歴史を紹介しました。

今回のブログでも紹介しましたが、岩手県の競馬は、全国の地方競馬においては、トップクラスの人気を誇り、一時期は、中央競馬と肩を並べる程でした。

特に1990年代の勢いは凄く、全国的な「競馬ブーム」もあり、まさに絶頂期を迎え、1996年には、総工費410億円も掛けて、「OROパーク」への移転を果たしました。


今から、20年位前、今では亡くなってしまいましたが、実は、私の姉が「岩手競馬組合」に勤務しており、かなり「羽振りが良い」と言う事を聞いた覚えがあります。

当時は、現在の「盛岡保健所」のビルがある場所、今回ご紹介した「盛岡バスセンター」の隣の「神明町」に、「競馬会館」と言う自社ビルを建設したりして、本当に「イケイケ、ドンドン」の状況でした。

私も、朝、姉を「競馬会館」まで、車で送った覚えがありますし、姉も、水沢で競馬が開催される時には、毎週、水沢まで出張していました。


ところが、お決まりのように「ブーム」が去ると、その後は「悲惨」の一言です。

現在では、自社ビルも、どうにか盛岡市に買い取ってもらって赤字を補填していますが、「旧・盛岡競馬場」も、未だに売却できず、毎年、赤字を垂れ流す状況です。


ところで、前編のトップに掲載した馬の銅像「春風」ですが、当初は、上記画像を拡大すると解ると思いますが、競馬会館の下、入り口部分に設置されていました。


それが、「競馬会館」の売却に伴い、2007年、「春風」は、「馬検場」の入り口に移転したのですが、今回、「馬検場」が解体された後、その所在が解らなくなってしまった様です。

「競馬組合」と言い、「馬の銅像」と言い、何か、全てが混乱している様です。

岩手県は、今回のシリーズで紹介した様に、本当に古くから「馬」と関わりが深い地域ですので、今後も、目先のブームに乗らず、着実に「馬」と良好な関係を築いて欲しいと思いました。


それでは次回も宜しくお願いします。

以上


【画像・情報提供先】
Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)
・愛LOVEもりおか★徒然日記(https://blogs.yahoo.co.jp/kfuji_taxi)
・馬と人(http://umatohito.com/)
・滝沢村誌(http://www.city.takizawa.iwate.jp/contents/sonshi/web/index.html)
・青森の魅力(https://aomori-miryoku.com/)
江差ルネッサンス(http://www.esashi.com/)
・縄文と古代文明を探求しよう(http://web.joumon.jp.net/blog/)
・えさし郷土文化館(http://www.esashi-iwate.gr.jp/bunka/index.html)
山梨県ホームページ(http://www.pref.yamanashi.jp/index.html)
・新・いわて競馬今昔物語(http://konjyaku.blog121.fc2.com/)
・公益財団法人 日本馬事協会(https://www.bajikyo.or.jp/)
・いわての文化情報大辞典(http://www.bunka.pref.iwate.jp/rekishi/rekisi/)

【株式会社 エム・システム】
本      社  :〒124-0023 東京都葛飾東新小岩8-5-5 5F
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