岩手の工芸品 〜 地味だけど丈夫で長持ち その1


今回、弊社ブログでは初めて、「岩手の工芸品」を紹介するシリーズを開始したいと思います。


岩手の工芸品と言うと、皆さん、何を思い浮かべますか ?


やはり、岩手と言うと、「南部鉄器」ですよね !!


本ブログの最初の画像は、過去に「MoMA」のカフェで使用されていたのと同型の急須、その名も「曳舟」と言う南部鉄器です。


昔から知られている色/形の「南部鉄器」しか使った事が無い私にとっては、とても「南部鉄器」とは思えない色/形となっています。


MoMA」とは、「The Museum of Modern Art, New York/ニューヨーク近代美術館」の事なのですが、今から10年以上も前に「MoMA」で展示され、アメリカで人気を博した様です。


その他、詳しくは、後で紹介しますが、現在では、この「南部鉄器」は、ヨーロッパでも人気がある商品になっています。


私の子供時代、当然、実家でも鍋や急須は南部鉄器でしたが、あの頃の「南部鉄器」と言えば、右の画像のように、黒くて、ゴツくて、重くて使い難い物でした。


そして火に掛けると、取っ手まで熱くなるので、気を付けないと火傷してしまう、本当に厄介な代物でした。


子供心にも、何で、こんな不便な物を使うのかと、不思議に思ってしました。


その他、「岩手の工芸品」と言えば、私的には、次のような製品を思い浮かべます。


●「秀衡塗(ひでひら-ぬり)」に代表される「漆器
●「岩谷堂箪笥(いわやどう-たんす)」に代表される「桐」の工芸品


これらの三種類の製品は、どれも、その起源は、平安時代、「奥州藤原氏」の時代まで遡ると伝わっています。


漆器」の原料となる「漆」に関しては、岩手県の北端となる「二戸市浄法寺町」が、「漆」の産出地として超有名で、国産漆の「80%」の生産量を誇っています。


「国産漆の80%」とは言え、日本国内で使用する漆の「98%」は、残念ながら、ほぼ全てが中国産なのですが・・・


その他、少し時代が下り江戸時代になると、過去ブログでも紹介した「琥珀(こはく)」製品が、南部藩の厳しい管理の元、貴重な収入源となりました。


★過去ブログ:NHK朝ドラの舞台となる「久慈市」近辺の情報について


その他、全国的には、余り有名ではありませんが、次のような工芸品もあるようです。


●型染め・染め物 :南部型染め、紫根染め
●焼き物 :小久慈焼
●郷土玩具 :金のべごっこ、盛岡こけし、花巻人形



う〜ん、段々と岩手県らしい「地味」な製品になってきましたが、順を追って、これらの工芸品を紹介したいと思います。


今回は、初回と言うことで、「南部鉄器」を・・・と思ったでしょうが、意表を突き、第1回目は「漆」に関して、次のような事を紹介したいと思います。


●「漆」の歴史
●「漆」の活用方法
●海外における「漆」人気
岩手県内の「漆器
盛岡市の詐欺被害
●「漆塗り」体験の紹介


それでは今回も宜しくお願い申し上げます。


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■「漆」の歴史


最初にお伝えした通り、岩手県の北端、「二戸市浄法寺(じょうぼうじ)町」は、国内における最大の「漆」の生産地となっており、国内産「漆」の80%を生産しています。


そして、この浄法寺の「漆」は、奈良時代となる「神亀五年(728年)」創建と伝わる天台宗の寺院「天台寺」の僧侶達が、平安時代から「御山御器(おやま-ごき)」と呼ばれる、飯碗、汁椀、皿の3種類からなる「漆器」を使った事がルーツと伝わっています。


しかし、この「浄法寺漆のルーツ」に関しては、特に、文献等が残っている訳では無いようです。


僧侶達が日常生活で使用してきたものが、そのまま引き継がれてきた様です。


ちなみに、「御山御器」とは、地元民が、「天台寺」の事を「御山」と呼んでいる事から、「御山」で使う「器」を意味しています。


そして、文献に「浄法寺漆」が登場するのは、江戸時代初期になります。


この頃になると、盛岡藩では、領内各地に「漆掻奉行」を配置し、秋になると各担当地域から「漆」と「漆の実」を集めた事が、過去ブログでも紹介した盛岡藩家老の日記「雑書」の中に記録されている様です。


さらに、「正保元年(1645年)」には、秋田藩との藩境にある「沢内通」の番所に出した通知「沢内通御留物之事」では、「御留物」、つまり藩外への持ち出し禁止する物として、次のような命令が出されていたそうです。


『 武具類、くろかね類、へにはな、むらさき根、蝋漆あぶら、綿麻糸付布、無手形人、商売之牛馬、箔椀、同木地、皮類、塩硝、くんろく香、右先年より御留物候之間、向後にをいても弥改可申候、若わき道かくれ通候ものとらへ上候ハ、為御褒美其物料可被下者也 』


つまり、ここに記載されている物産品に関しては、藩外への持ち出しを禁止し、さらに違反者を見つけた場合には、「褒美も出す」と記載されています。このように、藩内で生産されてる物産品の管理を徹底し出した様です。


ちなみに、「通」とは、当時の、盛岡藩の行政区画で、各地に配置された代官が管理する地域を示し、代官区は33個存在していた様です。


さらに、江戸時代中期の「享保年間(1716〜1736年)」に発行された、当時の「浄法寺町」があった付近の「福岡通」の「御領分物産取調書(ごりょうぶんぶっさんとりしらべがき)」と言う、物産品の一覧に、次のような記述が見られるそうです。


『 蝋 惣村より出、漆 惣村より出、蝋燭 福岡町一戸町 』


「蝋(ろう)」と「漆」は二戸地方全域で、「蝋燭(ろうそく)」は福岡町と一戸町で生産されていたことが解っています。



元々、「漆」は、いつ日本に持ち込まれたのかは解っていませんが、中国原産と言われています。


但し、昭和59年(1984年)に、福井県若狭町の「鳥浜貝塚」から出土した木片を調査した所、この木片が、12,600年前、縄文時代初期の「漆の木」である事が判明しています。


当時は、どのような用途で「漆」が使われたのかは判明していませんが、「漆器」として使われ始めたのが、約7,000年前の縄文時代の中後期と言われていますので、それまでは、壊れた土器を修復するための「接着剤」として使われたのではないかと推測されている様です。


「ウルシ」の木は、放おっておいても育つ木ではなく、下草刈り等の非常に手間が掛かる植物で、「漆」が採取できる様になるまで10〜15年位は掛かるのだそうです。


「漆」とは、お解りの通り「ウルシ」の木の樹液で、「ウルシ」の木から、「漆」を取り出すには、「ウルシ」の木に傷を付け、染み出す樹液を、専用のヘラで集める方法で採取します。


この作業を「漆掻き」と呼び、この作業を専門に行う「漆掻き職人」も存在します。「漆掻き」の方法は、「養生掻き」と「殺掻き(ころしがき)」の二種類があるそうです。


現在の、「漆掻き」の方法は、1本の「ウルシ」の木に対して、1年間で全ての「漆」を取り出してしまう「殺掻き」と言う方法が主流になっているので、折角、10年以上掛けて育てた「ウルシ」の木ですが、たった1年で切り倒してしまうそうです。勿体無いと言うか、何か、可哀想な感じがします。


しかし、「浄法寺漆」に関しても、江戸時代までは、「殺掻き」ではなく、木を弱らせない「養生掻き」が行われていたそうです。


ところが、明治時代に入り、「漆」重要が高まると、福井県から「越前衆」と呼ばれた職人が出稼ぎ来た事で、「漆掻き」の方法が「殺掻き」に変わってしまったそうです。


この「殺掻き」では、1年の内、6月〜9月、それと11月の5ヶ月間で、1本の「ウルシ」の木から全ての樹液を取り尽くすのだそうです。


しかし、「養生掻き」では、1年の内、6月〜8月の3ヶ月間だけ樹液を取り、後は休ませるので、1本の木から複数年に渡り、「漆」を採取する事ができ、現在でも、中国やベトナム等で行われているそうです。

何故、日本で「殺掻き」が主流になったかと言うと、単に、「漆の採取量が多い/効率が良い」からとのことらしいです。


1本の「ウルシ」の木に対しては、5日に一度の頻度で「漆掻き」を行うのが効率的と言われているようです。


このため、「ウルシ」の木は、「漆掻き職人」1名が、1日に100本の「ウルシ」の木から樹液を集め、それを5日間繰り返すローテーションを繰り返す事になるので、トータルでは、「漆掻き職人」1名に付き、500本の「ウルシ」の木が必要となる事になります。


ちなみに、1本の「ウルシ」の木から採れる「漆」は、たったの「200ml」、牛乳瓶1本程度しか取れないので、余計に「国産漆」が少ないのだと思います。


しかし、私の様な素人の考えでは、「養生掻き」の方が、10年以上も掛けて育てた「ウルシ」の木を、長く、そして何度も使えるので、「養生掻き」の方が、逆に効率的なのではないかと思ってしまうのですが・・・


何か、「殺掻き」による「漆」の採取方法は、日本人の考え方には馴染まないやり方ではないかと思ってしまうのですが・・・やはりプロの見方は違うのだと思います。


それでは次に、「漆」の活用方法を紹介したいと思います。

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■「漆」の活用方法


「漆」に関しては、現在は、そのほとんどが「塗料」として使用される事になります。


前述の通り、「漆」が塗料として使用された形跡が残る物は、縄文時代中後期となる7,000年前とされており、それまでの約6,000年は、何のために使われたのかは明確には解っていません。


しかし、江戸時代には、割れた磁器を修理する際の「接着剤」として使われたいたことから、縄文時代初期の「漆」も、現在のところ、縄文時代初期の遺跡から「漆器」が出土していない事から、「接着剤」として用いられたのではないかと推測されている様です。


ところが、何と、海を渡った「韓国」には、「漆」を食べたり、飲んだりする食文化があるようです。


韓国には、「漆鶏(オッタック)」と言う、「漆」の木の皮と、鶏肉を一緒に煮込んだ、日本で言う「薬膳料理」的な食べ物があり、結構、美味しいと言う噂が掲載されています。


また、何という商品名なのか解りませんが、「漆」エキスのジュースも販売している様です。


「恐るべし韓国 !!」と言いたい所ですが、実は、日本にも「漆」を食べる食文化はあるようです。


これは、別に地域限定ではなく、日本全国、どこでも食べられているようですが、「漆」の新芽を「天ぷら」にして食べている様です。


「漆」の新芽は、「タラの新芽」と、見た目も味も、ほぼ同じとの事らしいですが・・・


既にお解りの通り、「漆」には、「ウルシオール」と言うアレルギー反応を起こす成分が含まれています。


「漆」に対するアレルギー反応は、個人による異なりますが、アレルギーを持つ人は、「漆」の木の近くを通っただけで「かぶれる」事もあるそうです。


このため、「漆アレルギー」を持つ人は、「漆の天ぷら」など以ての外、ひょっとしたら命の危険もあるかもしれません。


しかし、またまた韓国では、「漆アレルギー」対策用の薬まであるそうで、アレルギーが心配な人は、先の「漆鶏」を食べる前に、この薬を飲んでいるそうです。


何も、そこまでしなくても・・・と思うのですが、まあ、「話のネタ」に食べてみたい人には良いかもしれません。


が・・・そもそも、この薬を飲んでも大丈夫なのか ? と言う不安があります。


また、日本の場合、経験的に「漆アレルギー」には、耐性がある事が知られており、例えば、「漆職人」を目指している人に「漆アレルギー」がある場合、「漆」を、少しずつ舐めさせることで耐性を付ける等の対処を行っている様です。



前述の通り、「漆」は、現在では、ほぼ全てが「塗料」として用いられており、「漆器」はもちろん、日光東照宮の修復や、平泉金色堂の修復など、貴重な文化財の修復に使用されています。


ところが、ここ数年、折角修復した文化財の劣化が早過ぎる事が問題となっているそうです。


この問題は、2015年9月17日、NHKの「所さん! 大変ですよ」でも取り上げられていました。


日光東照宮」では、現在も、「平成の大修理」を行っている最中で、先日、有名な「眠り猫」の修復が、60年振りに終わり、修復後の「ネコ」が公開されましたが・・・


何と、ネコが「薄目」を開けているように見えると苦情が殺到し、その1ヶ月半後、「目」が閉じるように再修復されたと、話題になっていました。


これは、修復担当者が、勝手に、ネコを「薄目を開けた状態」に描いていた事が判明したそうで、日光社寺文化財保存会が、元の状態に戻すよう指示したとの事らしいです。


海外でも、2012年8月、スペインの「Sanctuary of Mercy Church」という教会に、画家「Elias Garcia Martinez」が、約100年以上前に描いた「Ecce Homo(この人物を見よ)」というイエス・キリストのフレスコ壁画があったそうですが、この歴史あるフレスコ画を、地元の自称「芸術家」と称している婆さんが、勝手に修復(?)した事件が、話題なった事を覚えていますか ?


NHKや民放でも、何度も取り上げられ「キリストがサルになった !」と話題になっていました。


そして、ちょっと話題は逸れてしまいますが、この話には後日談があります。面白いので紹介しますが・・・


この教会では、この「サル」のフレスコ画が話題となり、大勢の人が押しかける事態になったので、フレスコ画を見に来た人から、「入場料」を徴収する事にしたそうです。


そして、この事を知った自称「芸術家」の婆さんは、何と、フレスコ画に対する著作権料を求めて裁判を起こしたそうです。


裁判の結果は解りませんでしたが、入場料を取る教会も、裁判を起こす婆さんも、私には理解出来ません。



ところで、話を「漆」に戻すと、前述の通り、日光東照宮では、定期的に修復が行われていますが、何と修復後、たった3年で修復した「漆」が劣化していることが判明したそうです。


その反面、場所によっては、修復後60年以上経過した場所でも、鮮やかな朱色を保っている場所もあったそうです。


このため、何故、これほど早く劣化するのか調査を行ったところ、劣化が早い「漆」は、全て「中国産」であることが解ったそうです。


そこで、この番組では、石川県金沢市にある「石川県工業試験場」にて、「中国産漆」と「日本産漆」の違いを調査したそうです。


そして、この調査の結果、「中国産」も「国産」も、「漆」は、同じ種類の木である「ウルシ科ウルシノキ」から採取されているそうですが、「国産漆」の方が、先のアレルギーで出てきた主成分「ウルシオール」が、若干多いことが解ったそうです。


この「ウルシオール」は、アレルギーも起こしますが、「漆」を固める成分にもなっているそうで、この「漆」を固める成分が多いため、「国産漆」の方が、長持ちする事が解ったそうです。



このような「漆の劣化」問題もありますし、現在、「国産漆」の生産量が激減し、かつ「漆職人」も減少していることから、文化庁では、林野庁と協力し、「漆」の増産に取り組んで行く事を発表しています。


そして、平成30年度からは、重要文化財の修復においては、原則として「国産漆」を使う方針を決定したそうです。


しかし、実際問題として、日光東照宮では、修復工事に「10t」もの「漆」が必要になるのですが、現状「国産漆」は、年間「1t」しか生産されていないので、「国産漆」を集める事させ困難な状況になってしまっているそうです。


また、当然、重要文化財は、日光東照宮だけではありませんので、その他の重要文化財では、当面、「中国産漆」を使わざるを得ない状況が続くそうです。


これは、「安かろう/悪かろう」の典型的な事例だと思います。文化庁等、国の省庁は、もっと早くから、「国産漆」の増産に向けた支援を行うべきだったと思われます。



また、その他の活用方法としては、現在では、余り盛んではありませんが、仏像があります。


あの有名な国宝「阿修羅像」も、「漆」を用いた「乾漆造」と呼ばれる製造法で作成されています。


「乾漆造」関しては、詳しくは記載しませんが、麻布を1センチほどの厚みに貼り重ねて形成する「脱活乾漆造」と、これを簡略化した技法と思われる「木心乾漆造」があるそうです。


ちなみに、「阿修羅像」を含む「八部衆立像」は、「脱活乾漆造」と言われています。


後は、碁盤/将棋盤の目も、「黒漆」を用いて、刃を潰した日本刀に漆を付け、盤上に下ろす「太刀目盛り」という手法で書かれています。


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■海外における「漆」の人気


さて、日本国内でも古くから人気がある「漆器」ですが、海外でも、古くから人気がある事はご存知でしたか ?


冒頭に紹介しましたが、日本の「漆」は、中国原産と言われていますが、その他にも、台湾、タイ、ベトナムミャンマー等、東アジア/東南アジアが原産で、ヨーロッパには存在しません。


このため、16〜18世紀における近世ヨーロッパでは、大航海時代の影響もあり、東洋の文化に焦点が当てられ、陶磁器や漆器の人気が高まりました。


フランスでは、「マリア・テレジア」や、その娘「マリー・アントワネット」等、「漆」が大好きで、この画像のような「漆の机」を作らせたり、下の画像のように、居城内に「漆の間」を作成させたりしました。


日本では、どちらかと言うと、「朱色」、特に「漆」に「朱水銀/辰砂(しんしゃ)」を混ぜて作った、より鮮やかな「朱色」に人気があります。


ところが、ヨーロッパでは、「朱色」ではなく、「漆黒(しっこく)」が好まれた様です。


しかし・・・「漆黒」とは、上手い漢字です。「漆黒」とは、「漆を塗ったような黒くて光沢がある色」を表します。



英語の小文字で表記される「japan」と言う文字。当然、「japan = 日本」だと思っているかもしれませんが、英語の小文字「japan」は、その昔は「漆」を意味していました。


このため、英語の「Japan」が「日本」を意味するようになった起源の一説として、このように、「漆」を「japan」と呼んでいたから、と言う説もある程です。


まあ、その他にも、有名な説では、「マルコ・ポーロ」の「東洋見聞録」に出てくる「ジパング」も、「Japan」の起源と言われていますが・・・


現在、「japan」と言っても「漆」と言う意味では通用しません。当時は、これと同じく、磁器全般を「China」と呼んでいます。



このように、近世ヨーロッパ、特に18世紀は、日本では江戸時代後期にあたり、オランダが、長崎から大量の「漆器」や「磁器」を買い付け、大量にヨーロッパに持ち込む事で、ヨーロッパにおける「漆」人気が高まりました。


このような事から、前述の様に「japan = 漆」と呼ばれるようになりました。


しかし、「漆器」は、非常に高額だったので、多くの模造品が作られ、ヨーロッパでは、模造品を作る技術も発達し、模造品を作る技術が「ジャパニング」と呼ばれていた程です。


17世紀には、既にイタリア、フランス、そしてイギリス等で「ジャパニング」が発達し、中には、本物の「漆器」を凌ぐ出来栄えの作品も数多く製造された様です。


さらに、17世紀のイギリスでは、「A Treatise of Japaning and Varnishing」と言う、「ジャパニング」のテキスト本まで発行され、ヨーロッパ中に、広く「ジャパニング」技法が紹介されるに至った次第です。


ここまで来ると、現在の「中国のコピー文化」以上だと思います。


現在でも中国は、「模造品天国」ですが、さすがに、「模造品の作り方テキスト」までは販売していません。


いわゆる「民度」と呼ばれる、人間としての知的、教育、および文化の水準が低い「中国」や「韓国」のような国家、および民族では、このように平気で「模造品」を作ったり、他国の文化を、あたかも自国の文化のように喧伝したりしますが・・・


当時のヨーロッパ諸国も、残念ながら、同じ行為をしていた様です。


そして、当時のヨーロッパでは、主に、ニスやラッカーを駆使して、「黒漆(くろうるし)」のような光沢を出していたとされています。


この様に、ヨーロッパ、特にドイツにおいて、この「ジャパニング」技術が発達し、さらに、この「ジャパニング」技術は、ピアノに流用され、現在に至っているとの事です。


ピアノは、ご存知の通り、18世紀初頭にヨーロッパで発明され現在に至っていますが、当初は、「木目調仕上げ」が基本だったのですが、18世紀中頃には、「ジャパニング」技術が、ピアノにまで応用されるようになったそうです。


実際、1723年には、バイオリンの塗料に、ワニスとアジアから取り寄せた漆を配合していた記録も残っているようです。


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岩手県内おける「漆器」の紹介

ここまで、「漆」に関する数々の雑学を紹介してきましたので、ここで、岩手県内における「漆」の栽培地や「伝統工芸品」を紹介したいと思います。


「漆」の産地として有名な「浄法寺」から始めて、北から順番に、次の伝統工芸を紹介します。


●浄法寺塗
安比
●秀衡塗

●浄法寺塗


浄法寺の「漆」は、前述の通り、天台寺の「御山御器」から始まったとされています。


天台寺」は、作家「今 東光(春聴)」氏や、小説家「瀬戸内寂聴」氏が住職を務めた寺院として、そして「あじさいの名所」として有名な寺院でもあります。


今回、この「天台寺」に関しての説明は割愛しますが、もうちょっと詳しい説明は、過去ブログをご覧下さい。


★過去ブログ:7月開催の花まつり 〜 狙い目は外国人


という事で、浄法寺における「漆」の始まりは、平安時代とされていますが、当時から、「浄法寺塗」と言えば、素朴で頑丈、かつ実用的な「漆器」となっています。


元々のルーツが、天台寺の僧侶が、日常生活で使う「器」であったことから、その殆どが、無地で朱色、黒色、もしくは溜(ため)色による光沢を抑えた単色仕上げが特徴となっている「漆器」です。(※溜色:あずき色)


「浄法寺塗」は、この通り、丈夫と言う特徴がありますので、10年位は平気で使い続ける事ができるそうです。その作成工程は、大きく、次の5工程となるそうです。(※「滴生舎」の工程)




【 木固め 】
伸縮を防ぎ、防水性の高い丈夫な漆器を作るために木地に生漆をたっぷり浸み込ませる。





【 下塗り 】
精製した漆に、ベンガラと言う塗料を混ぜた下塗り用の漆を塗ります。






【 研磨 】
表面を滑らかにして漆の密度を高め、漆の強度を高めるために、下塗りした器を、耐水ペーパーや砥石で磨き上げます。





【 中塗り 】
塗り重ねと研磨を6回繰り返す事で、漆の層を重ねて行きます。






【 上塗り 】
浄法寺漆を自家製生し、ゴミやホコリが付かないようにした、専用の上塗り用の部屋で、最後の塗りを行います。



安比塗り


安比塗」も、実は、そのルーツは、「浄法寺塗」です。


安比塗」の産地は、「八幡平市安代町」と言う場所ですが、上記「二戸市浄法寺町」から、南西に約20Km、車の場合、高速道路を使うと30分程度しか離れていません。


その昔、「安代町」で採れる「漆」も、「浄法寺漆」と呼ばれていたようです。


そして、ここ「安代町」では、昭和58年(1933年)、「安代町漆器センター(現:安代漆工技術センター)」を開設し、新たに「安比塗」と言うブランドを立ち上げ、「塗師」の育成を行っています。


この「安代漆工技術センター」では、2年間で、木地制作、下地塗り、漆精製、塗り等、漆器を作る全ての工程の研修を行っているそうです。


それで、「浄法寺塗」と何が違うの ? と言うことですが・・・画像を見てお解りの通り、「浄法寺塗」と全く同じです。


単に、制作地が、「浄法寺町」から「安代町」に変わっただけのように見受けられます。・・・済みません。

●秀衡塗り


伝統工芸の最後は、「秀衡塗」です。


岩手県における「漆器」と言えば、先程の「浄法寺塗」よりも、こちらの「秀衡塗」の方が有名ではないかと思われます。何と言っても、見た目が「派手」ですから。


「秀衡塗」の起源は、皆さん、既にお解りだと思いますが、名称の通り、奥州藤原氏第三代「藤原秀衡」が作った「漆器」であると伝わっています。


但し、当時の記録は何も残されていませんが、江戸時代中期の「寛政年間(1789 〜1801年)」に、伊達領一ノ関藩出身で、「解体新書」を翻訳した「杉田玄白」と「前野良沢」の弟子となる蘭学者大槻玄沢(おおつき-げんたく)」が書いた「磐水漫草」に、次のような事が記載されているそうです。


藤原秀衡が、金色堂造営の時に、京都から漆塗りの職人を呼び寄せ椀を作らせ、これが秀衡椀と呼ばれ、以降も、江戸の茶人の間で珍重された。 』


さらに、明治時代には、国学者東京大学、その他多くの大学で教鞭を取り、数多くの本を著した「黒川真頼(まより)」と言う人物がいます。


そして、この「黒川真頼」が、明治11年(1878年)に出版した「工芸志料」は、太古から明治初年に至る日本工芸の歩みを、膨大な古文献を探し出して整理した類なき貴重な史料集として、現在でも増刷されている名著となっているようですが、この「工芸志料」にも、先の「磐水漫草」と同じ様な内容が記載されています。


この様に、現在「秀衡塗」と呼ばれている「漆器」は、元々は、「秀衡椀」と呼ばれる大きな「三ツ椀の入れ子椀」で、椀の上部には雲形を描き、金箔が貼られ、その間に、草花や吉祥の図柄を配したユニークな文様が特徴の「漆器」です。


しかし、「漆」や「金箔」等、高価な材料を使うので、「浄法寺塗」の様に、日常的に使う器ではなく、特別な祭事等で使われるだけになり、藤原氏滅亡後は、衰退してしまった様です。


そして、藤原氏滅亡から数百年経ち、江戸時代後期から明治時代初頭になると、中尊寺等がある平泉の中心地から、北西に20Kmほど離れた場所、現在「衣川1号ダム(増沢ダム)」がある衣川村増沢地域に、秋田県稲川町から、漆職人の「沓沢岩松」氏が招かれ、新たに「漆器産業」を起こしました。


この「増沢地域」では、以前から細々と「漆器」を作っていたそうです。


そして、明治4年(1871年)に、前述の通り、秋田県から「川連(かわつら)漆器職人」と呼ばれていた「沓沢岩松」氏を招き、現在、「増沢塗」と呼ばれる「漆器」を作成し始めたそうです。


その後、漆職人の営業努力などもあり、増沢地域、およびその近辺で、「漆器」の需要がどんどん高まり、当初、6軒63人程度だった増沢集落の人口は、昭和20年代になると、56軒487人まで増加したそうです。


さらに、昭和13年(1935年)には、当時、「民芸運動」と呼ばれた活動を起こし、「民芸の父」とも呼ばれた思想家「柳 宗悦(むねよし)」が、この増沢を訪れ、「秀衡椀」の調査を行うと共に、「手仕事の日本」と言う雑誌で、この「増沢塗」を「塗りが正直で手堅い」と賞賛しました。


その後、この雑誌の記事が話題となり、日本全国で、「増沢塗」の人気が高まったそうですが、それと共に、この「増沢塗」の職人が、「秀衡椀」から「秀衡塗」を復元し、折からの「漆器」ブームに乗り、「秀衡塗」も、日本全国に知れ渡るようになったのだそうです。


ところが、昭和22年の「カスリン台風」、続く昭和23年の「アイオン台風」により、衣川流域も甚大な被害を受けてしまった事から、この増沢集落近辺に、「衣川1号ダム(増沢ダム)」を着工する事が決まってしまいました。


このため、昭和25年から始まったダム工事に伴い、集落は分散してしまい、この「増沢塗」も衰退してしまったようで、現在、「増沢塗」職人は、「及川 守男」氏一名だけになってしまったそうです。



さて、このような複雑な起源がある「秀衡塗」ですが、菱形の金箔を使い漆絵でデザイン化した草花を描いてある「秀衡文様」が特徴で、素朴ながら華麗な表現となっていると言われています。


また、この雲の模様は「源氏雲」と呼ばれており、「源氏物語」を題材とした絵画でよく使われる「雲形」の文様です。


しかし、「秀衡塗」に、「藤原氏」を滅ぼした「源氏」に関係する「源氏雲」の文様とは、何か、皮肉な感じがします。


「木地」には、冬に山から切り出されたブナ、ケヤキ、トチ等の天然木丸太で堅牢な本堅地下地を作り、加飾は、その昔から伝わる「秀衡椀」を模範に有職菱文様が描かれます。


この地方は、漆と金の特産の地でもあったことから、金箔を用いた造りが受け継がれ、朱と黒と金の基調の中に春秋草花紋が配された、光沢を抑えた仕上が漆本来の美しい艶を味わうことが出来ると言われています。


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盛岡市の詐欺被害


少し話は逸れますが、「漆」関係で、盛岡市が「詐欺被害」にあった事件を紹介しておきます。


盛岡市には、かつて、紫波町出身の画家「橋本八百二」氏が、私財を投じて建設した「橋本美術館」と言う美術館が、盛岡市岩山と呼ばれている場所にありました。


この美術館は、昭和50年(1975年)、岩手県内、そして盛岡市内に美術館など、一つも何も無かった時代に開館し、県内初の登録美術館となった、盛岡市にとっては歴史ある美術館でした。


私も、小学校の社会科見学で一度、その後、家族で一度、訪れた事がありますが、その当時は、美術/芸術になど全く興味が無かったので、ひたすら退屈だった思い出しかありません。



今思い出せば、非常に残念だと思います。


しかし、開館から26年目となる、2001年3月31日に、やはり慢性的な赤字を解消する事が出来ず、市民には惜しまれつつ閉館してしまった様です。


そして、その後、2004年5月に、東京の「目黒雅叙園」の漆芸作品の修復を行った後、岩手県宮古市川井村に「薬師塗漆工芸館」と言う施設を開業した「全 龍福(チョン・ヨンボク)」と言う人物が、「橋本美術館」の跡地に、「岩山漆芸美術館」を開館したそうです。


ところが・・・この「全 龍福」氏と、あの韓国の俳優「ペ・ヨンジュン」氏がグルになり、みごとに盛岡市を騙したようです。


ことの経緯は、現地の新聞報道によると、次のようになっている様です。

・2004年5月
韓国の漆芸グループ(代表:全 龍福)が、美術館跡地を盛岡市から借り受け、「岩山漆芸美術館」を開館

・2008年11月
「岩山漆芸美術館」、入場者減少に伴い、開館から4年半で休館

・2009年2月
ペ・ヨンジュン」が休館中の同館を訪れ、漆芸を学ぶ

・2009年6月
「全 龍福」と「ペ・ヨンジュン」の所属会社「キーイースト」が、協同出資をして「オリエンタルトレジャー(代表:全 龍福)」社を設立。

・2009年6月
ペ・ヨンジュン」が名誉館長となる事を発表。合わせて「ペ・ヨンジュン」が音頭を取る韓国紹介雑誌「韓国の美」の発売予定を発表

・2009年6月
盛岡市、「岩山漆芸美術館」の修繕費4,000万円を予算計上、内1,080万円を、市議会の承認を得ずに別枠予算に流用して直ちに執行。施設改修を実施。

・2009年7月
「岩山漆芸美術館」が盛岡市に提出した事業計画の虚偽記載が判明。営業開始直後から赤字運営になることが判明。当初から190万円の赤字となる。

・2009年8月
市長、中日韓国大使、知事らが出席のもと「岩山漆芸美術館」が再オープン。しかし、「ペ・ヨンジュン」は出席せず。

・2009年10月
ペ・ヨンジュン」所属会社「キーイースト」が出資を見合わせ。

・2009年11月
「オリエンタルトレジャー」、8月からの家賃未払いが発覚。並びに国からの「ふるさと雇用再生特別基金交付金の不正利用発覚。

・2009年11月
「全 龍福」、仙台市の会社経営者から「代金未納」で提訴され、盛岡地裁から美術館展示物の差し押さえ命令を受ける。

・2009年11月末
再オープン後、4ヶ月で「岩山漆芸美術館」閉館。


結局、再オープン決定後、美術館が閉館するまでの間、「ペ・ヨンジュン」氏は一度も姿を見せず、美術館閉館発表後、次のようなコメントを発表していた様です。


『 美術館に展示していた自分の作品が売却されるのは残念です。岩手の大切な財産なのですから売却せずに、県立美術館で展示して欲しい。美術館の維持管理は大変なので、国の定期的な援助が必要だと思う。 』


う〜ん・・・自分の所属会社が約束を違えて出資しなかった事が、美術館破綻の直接の原因と言う事が、全く解っていないというか、責任など微塵も感じておらず、国の責任と言っています。


やはり、国民性の違いなのでしょう。自身の雑誌のアピールが済んでしまえば「後は知らん顔」。「約束」と言う言葉を知らない民族なのだと言う事が、あらためて明らかになったような感じがします。


ちなみに、美術館に展示されていた「ペ・ヨンジュン」氏の作品(?)は、この画像の1点のみで、かつ練習のために作成した物とか・・・



加えて、「全 龍福」と言う人物も、「債務不履行」に「助成金不正利用」・・・こんな犯罪を起こしても、何も罰せられないと言うのも変な話だと思います。


また、その後も、助成金の不正使用に関しては、次のように、ほざいている様です。


『 勘違いもあり、従来の職員給与に使ってしまった。法律の知識が足りなかったが、行政は知識不足な人に正確な情報を与えるのが役割なのに、金だけ返せなんてひどい。 』


やはり、大陸系の人と事業を行う場合には、「念には念を入れて」、ちゃんと調査した上でビジネスを行わないと、最後は、とんでもない事になってしまうようです。


盛岡市も、これに懲りて、「甘いエサ」に釣られることなく、美術館を再開して欲しいものだと思います。


しかし、朝鮮半島の人間は、国と国が約束した条約さえも、平気で反故にしようとする民族ですから、結局、何を約束しても無駄なのかもしれません。


この「岩山漆芸美術館」の問題に関しては、未だに資金は回収出来ていないようですが・・・何か、誰も責任も取らず、ウヤムヤになってしまっているようです。


何で盛岡市民は、盛岡市に対して「損害賠償請求」等の訴えを起こさないのでしょうか ? 全く、「人が良い」のにも呆れてしまいます。


また、宮古市川井村にあった「薬師塗漆工芸館」は、現在は「道の駅やまびこ館」に場所に移転した様です。(http://www.city.miyako.iwate.jp/kanko/yakusi_kougei.html)


この施設では、「全 龍福」氏関連の作品展示等も行っているようですし、運営者が「全 龍福」氏関係者という話もあります。


「岩山漆芸美術館」の件はありますので、訪問する際は、くれぐれも「お甘い話」には乗らない様に気を付けた方が良いと思います。

ちなみに、「ペ・ヨンジュン」氏は、こんな、一見「詐欺」のようにしか思えない問題を起こしているにも関わらず、いまだに来日しているようです。「心臓に毛が生えている」と言うか、「無神経」というか・・・


但し、2016年8月に来日した際、空港に居たファンは、たったの15人との事です。日本人も、ようやく彼の「守銭奴」の様な本性に気が付いたのでしょうか ?


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■「漆塗り体験」が出来る工房の紹介


本ブログの最後に、「漆塗り体験」が出来る工房を紹介したいと思います。


今回紹介した「浄法寺塗」、「安比塗」、および「秀衡塗」の全てで、場所は、それぞれ 別々ですが、「漆塗り体験」が出来る場所が何箇所かある様です。


それと、どの「体験コース」においても、「漆かぶれ」の可能性があるので、その点は、ご注意願います。

●「浄法寺塗り」体験


「浄法寺塗り」の体験が出来るのは、「株式会社うるみ工房」と言う会社の工房になります。


この工房の事を簡単に紹介すると、元々、戦前の昭和20年、前述の「安代町」で、先代社長が、その当時の「浄法寺塗」の工房を設立し、戦後の昭和28年に、盛岡市に転居してきた工房との事です。


二代目社長の「勝又吉治」氏は、日本初の「浄法寺塗伝統工芸士」に認定された方との事ですから、かなりの腕前なのだと思います。


その昔は、盛岡市内に2店舗あったようですが、現在は、弊社盛岡事業所からも、徒歩3分位で行ける「盛岡市中央通り」にあるショールームで「漆塗り体験」が出来る様です。


但し、こちらの体験は、完成品「汁椀」に「合成うるし」を使った絵付けだけとなります。このため、逆に、「漆かぶれ」の心配は無いとのことです。


本章最初に掲載した画像が、その「絵付け」画像になります。


ちなみに、社名の「うるみ」とは、「潤(うるみ)色」を意味しており、先代社長が、この「潤色」が好きだったことから社名を「うるみ工房」としたそうです。

【 うるみ工房での体験 】

・住所 :盛岡市中央通2-9-23(盛岡駅から約1km/徒歩15分)
・電話 :019-654-4615
・Mail :http://www.urumi.jp/inquiry-etsuke.html(メールフォーム)
・料金 :1,620円(税込み)
・内容 :完成品「汁椀」への絵付け、所要時間1時間、当日持ち帰り不可、後日発送(別料金)
・営業 :10:00〜18:00、年末年始のみ休み、絵付け体験は要予約

●「安比塗り体験」


安比塗り体験」が出来るのは、前述の「安比塗」の項で紹介した「安比漆工技術センター」と同じ場所にある「安比漆器工房」と言う所になります。


ここは、前述の工房と違い、「安比塗」の地元にあるので、訪れるのは、ちょっと面倒かもしれません。


鉄道を使う場合、JR花輪線「新屋新町」駅から約900m/徒歩10分程度、車の場合、東北自動車道「安代IC」から約1km/5分程度、八幡平市博物館を目指せば大丈夫だと思います。


こちらの「漆塗り体験」も、基本は「絵付け」になりますが、対象物は「塗箸」になります。


こちらの「絵付け」は、本当の「漆」を使って行うので、最初に記載した通り、「漆かぶれ」には注意する必要があります。


また、やはり本物の「漆」を使うので年齢制限があり、対象は「小学生高学年」以上となり、幼児連れは参加出来ない様です。


それでは各種情報を記載します。

安比漆器工房での体験 】
・住所 :岩手県八幡平市叺田230-1
・電話 :019-563-1065
・Mail :https://appiurushistudio.sakura.ne.jp/contact/ (メールフォーム)
・料金 :1,700円(税込み・送料込み)
・内容 :完成品「塗箸」への絵付け、当日持ち帰り不可、所要時間1時間〜1時間半
・営業 :10:00〜17:00(昼休み1時間)、月曜定休日
・注意 :汚れても良い格好で参加、エプロン用意、要予約2日前、1〜20名まで対応可
・特典 :温泉やお土産クーポン券付き(http://www.hachimantaishi.com/taiken/kupon.pdf)


●「秀衡塗り体験」


そして、また最後になってしまいましたが「秀衡塗り体験」が出来る場所を紹介します。


こちらも「秀衡塗」の地元企業「有限会社 翁知屋(おおちや)」での体験となります。


平泉の地元なので、やはり車の方が便利だと思いますが、鉄道の場合、JR東北線平泉駅」から、約1.2km/徒歩15分位、車の場合、東北自動車道「平泉前沢IC」から約3km/5分程度の場所になります。


この「翁知屋」は、前述の「増沢塗」の流れを汲む、正統派の「秀衡塗り職人」の一族が経営されている企業の様です。


初代「翁知屋」は、大正時代から「増沢塗」に従事し、先の「民芸運動」にも参加し、「秀衡塗」の復元にも尽力した方なのだそうです。


現在は、四代目が事業を引き継ぎ、「秀衡塗」の製造/販売を行うと共に、新たに「kurasu」と言う工房を新設し、この工房で「漆塗り体験」や「職人育成コース」を実施しています。


「職人育成コース」は、5,000円/回で、木地加工、漆塗装から絵付けまで、本格的に学べるコースになっています。


しかし・・・やはり本格的なコースなので、最低でも月2回、3年間は学ぶ必要があるそうですし、各種の道具や素材料金は、都度、購入する必要があります。


ちなみに、刷毛10,000円〜、絵筆7,000円〜、木地1,000円〜、金粉/金箔は4,800円/g〜となって居るようです。時間とお金に余裕がある方しか参加出来ないと思います。


「漆塗り体験」は、次の3つのメニューから選択できる仕組みになっています。(費用税込み)


・はし :2,160円(1膳)、アテノキ、漆
・ストラップ :2,700円、ホオノキ、漆
・コースター :3,240円(1個)、合板、漆


それでは最後に各種情報を記載します。

【 翁知屋での体験 】

・住所 :岩手県西磐井郡平泉町平泉字衣関1-7
・電話 :019-146-2306
・Mail :https://main-ochiya.ssl-lolipop.jp/hiraizumi-ochiya/kuras/kojin/yoyaku_kojin.html (メールフォーム)
・料金 :上記参照
・内容 :完成品への絵付け、当日持ち帰り不可、所要時間1時間〜1時間半
・営業 :9:00〜18:00、水曜定休日
・送料 :配達地域により異なる。864円〜1,944円、乾燥後1〜2週間後
・注意 :汚れても良い格好で参加、使い捨て手袋のみ用意、要予約7日前、2〜100名まで対応可、3名以下の場合、合計4品から受付可。


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今回は、岩手の工芸品と言う事で、「漆」関係の情報に関して、次の様な内容を紹介して来ました。


●「漆」の歴史
●「漆」の活用方法
●海外における「漆」人気
岩手県内の「漆器
●「漆塗り」体験の紹介


平成29年7月30日に、NHKの教育テレビ、通称「Eテレ」の「日曜美術館」で、『 漆 ジャパン 一万二千年の物語 』と題して、「漆」の歴史等を紹介していましたが、本当に、日本における「漆文化」は、奥が深いものだと思いました。


その中においても、「浄法寺漆」は、国内最大の「漆産地」として、「漆掻き職人」や「漆塗り職人」の皆さんが頑張っている姿には感銘を受けました。


私は、「漆」と言えば「朱色」や「漆黒」しか思い浮かばなかったのですが、その他にも「溜(ため)色」とか「潤(うるみ)色」とか、結構、趣のある色があることを知りました。


この色、一つ取っても、日本人の造詣の深さが伝わって来るような感じがします。


さらに、色の名前が、また良いと思います。


「溜(ため)色」とか「潤(うるみ)色」とか・・・私の推測ですが、こんな趣のある色の名前は、外国語では表現出来ないと思います。


上の画像中の「朱合」は、「色」と言うよりは、色漆をつくる際にベースとなる褐色味の強い透明な「漆」の事の様です。


日本の伝統色で検索しても、「朱合」と言う色は検索出来ませんでした。


そして、さらに、今回は「岩手の〜」と言う事ですので、代表的な下記の「漆器」に関する情報も紹介しました。

・浄法寺塗
安比
・秀衡塗


私としては、当初、「岩手の伝統工芸」で、かつ「漆」と言えば、子供の頃から知っていた「秀衡塗」しか思い浮かびませんでした。


さらに、この様に、「子供の頃から知っていた」と言う事と、「秀衡」と言う名前から、「秀衡塗」は、さぞかし古く、平安時代から脈々と受け継がれてきた伝統ある「漆器」だと、勝手に思い描いていたのですが・・・・


調べて見ると、奥州藤原氏の滅亡以降、江戸時代に至るまでは、その経緯が全く不明と言う事が解り、少しガックリしてしまいました。


逆に、「浄法寺漆」の方が、記録としては江戸時代初期からですが、青森県の「三内丸山遺跡」を始めとした縄文時代の遺跡から出土した「漆器」の漆に「浄法寺漆」が使われていたのではないか、と言う研究発表もあるみたいです。


但し、現在の所、青森県の「三内丸山遺跡」から出土した「漆器」の漆が、「浄法寺産漆」とまでは決まっていないようですが、中国産漆ではなく、「国産漆」を使っていた事だけは、静岡大学の佐藤助教授(当時)の研究で明らかにはなっているそうです。


何れにしろ、この様に、岩手県は、古くから「漆」の産地として有名だった訳ですから、今後も、「漆塗り職人」や「漆掻き職人」も、そして何より「漆の木」も増やして、日本国内の文化財をも守っていって欲しいと思います。


今後は、「漆」をキーワードに、外国人に頼ること無く、そして安易な道を選択せず慎重に、岩手県内の産業を活性化して欲しいと思います。


それでは次回も宜しくお願いします。

以上

【画像・情報提供先】
Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)
・若狭三方縄文博物館(http://jomonmuseum.jugem.jp/)
国立歴史民俗博物館(https://www.rekihaku.ac.jp/)
・Art & Bell by Tora(http://cardiac.exblog.jp/)
・滴生舎(http://urushi-joboji.com/life/tekiseisha)
IBC岩手放送(http://www.ibc.co.jp/)
・株式会社うるみ工房(http://www.urumi.jp/index.html)
安比漆器工房(http://www.appiurushistudio.com/)

【株式会社 エム・システム】
本      社  :〒124-0023 東京都葛飾東新小岩8-5-5 5F
           TEL : 03-5671-2360 / FAX : 03-5671-2361
盛岡事業所  :〒020-0022 岩手県盛岡市大通3-2-8 3F
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