岩手の民間信仰 〜 聞いた事も無い信仰ばかり Vol.2


以前、平成26年10月のブログで、岩手の民間信仰を取り上げ、その中で、10個の民間信仰を紹介しました。


岩手の民間信仰 〜 聞いた事も無い信仰ばかり

●マイリノホトケ ●山の神&オミキアゲ
●供養絵額 ●お刈りあげ
百万遍念仏 ●アンバ様
●オタメシ ●オトリアゲ
庚申信仰 ●カクラ様

今回は、その第2弾をお届けします。

ページ上部の画像は、岩手県の南西部に位置する陸前高田市矢作町梅木にある「猫淵さま」を祀ってある「猫淵神社」の画像となります。

「猫淵神社」の縁起に関しては、本ブログの中で後述しますが、今回は、この「猫淵神社」を含め、次の6個の民間信仰を紹介します。

(1)鵜鳥さま
(2)雲南さま
(3)カマドガ
(4)十王信仰
(5)猫淵様
(6)雷神信仰

「岩手の〜」と謳っていますが、中には、中央(当時の京都や江戸)から伝わった信仰が、岩手で独自に進化した物もあります。

上記6個の民間信仰の内、次の4個が、中央から伝わった物になります。

・カマドガ
・十王信仰
・猫淵様
雷神信仰

それでは、今回も宜しくお願いします。

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■鵜鳥さま

「鵜鳥さま」とは、「鵜鳥(うのとり)神社」にまつわる民間信仰ですが、実は、「源 義経」と深い関係があります。


「鵜鳥神社」は、古くは「うねどり様」と呼ばれており、奈良時代延暦二十三年(804年)に、「卯子酉(うねどり)山薬師寺」として建立されたのが始まりとも、後の平安時代の大同二年(807年)4月8日に、「卯子酉大明神」として開眼されたのが始まりとも伝えられる古社です。


岩手県の沿岸一体、および内陸部まで知れ渡っている古社で、創建当時から藩政時代までは、「卯子酉神社」と称していましたが、明治時代の神仏分離令により、「鵜鳥神社」と改称されてしまったそうです。


本ブログでは、便宜上、「鵜鳥神社」と呼びますが、「鵜鳥神社」は古社のため、古文書等も沢山あったそうですが、江戸時代の寛政四年(1792年)と、明治三十五年(1902年)の二度に渡る山火事で、古文書が全て消失してしまったそうです。

ところが、「鵜鳥神社御縁起」が、地元の民家に残されていることが分かったのですが、その末尾に、この縁起が、鎌倉時代の建久元年(1190年)に、「源 義経」の従者である「毘紀(ひき)藤九郎藤原盛長」が書いたものである旨が記載されてあったそうです。



ここから、「鵜鳥神社」と「源 義経」の関係が始まります。


「源 義経」には、皆さんご存知の「北行伝説」と呼ばれている伝説が存在します。


北行伝説」は、江戸時代に流行った伝説で、室町時代に書かれた御伽草子「御曹子島渡」を原型にしていると言われており、「源 義経は、実は衣川の戦で死んでおらず、奥州から蝦夷地まで逃げ延びた」と言う内容になっています。


さらに、この「北行伝説」を拡張し、「源 義経ジンギスカン」説まで生まれている事も、皆さんご存知だと思います。

そして、「源 義経」が討ち死にした「平泉・衣川」以北の地には、数多くの「義経伝説」が残されており、この「鵜鳥神社」にも、上記「鵜鳥神社御縁起」として、「義経伝説」が残されています。


義経伝説」の詳細に関しては、後日、本ブログでも紹介したいと思いますが、今回は、「鵜鳥神社御縁起」の内容を、少し紹介したいと思います。

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【鵜鳥神社御縁起】

義経一行は、文治5年(1189年)、藤原氏の居城である平泉の高舘を離れ、宮古の黒森神社で写経をした後に、田老、田野畑を経て不行道にたどりつき、旅の疲れを癒しておりました。

その時、義経は、里の老人に、朝夕紫雲のかかる西北の山について尋ねたところ、老人は、かの山は、元々は冷水山と称したが、鵜が子育てをするので、自然に、鵜鳥山と云っていると答えました。

そこで義経は、弁慶と藤九郎盛長を供にして、老人に案内させ鵜鳥山に登ったところ、毛は金色に光り身のたけ五尺以上もある世にも珍しい美しい鳥がいたそうです。義経はさらに高山に登り話を開きました。

老人は、「東は、青海原見通し限りなし、南は、遥か山高く大峰神社あり、西は、長く連なりし茂市と申す村里あり、乾(北西)は、遥か向口の高山に和佐羅毘と申す神社あり、北には、野田港久喜滴等長く、沖に出でたる三崎と申す崎、近山の高山は、磨石(とぎいし)と申す明神の山也」と説明したそうです。

義経は、手を打って喜び、「先程のあの鳥は神鳥であろう、この山には神霊がおられる」と云われ、この山に七日七夜寵り、蝦夷地へ向う道中無事の祈願をされました。

満願の日の夜、うたた寝をしている義経の枕もとに、玉依尊姫(たまよりひめみこと)、鵜茅葺不合尊(うがやふきかえずのみこと)、海神尊(かいじんのみこと)の三神が現われ、「われら三尊は、数百年前より当山に住み、鵜を使いとしている」と申されたそうです。

義経は、弁慶や盛長に、「当山は正しく三尊のおられるところであり、鵜鳥も三座の神の使いであれば共に神である。盛長は老人であるから当山に残り、この山に堂を建立し、以後は、鵜鳥三座大明神と称し奉り祭礼するように、われは弁慶を召し連れ蝦夷に渡海する」と云われました。

蝦夷地への渡海が安全であるかどうか御縒り(紙をよって水に入れ占いをすること)を占いましたが、余り良くないので、弁慶と共に再び鵜鳥山に登り、三日三晩断食行をして神に祈ったところ、三尊と鵜鳥が現われ「海上安全に渡海すべし」と申されました。

それにより義経、弁慶は海上安全、諸願成就せりと喜び蝦夷を指して旅立ちました。藤九郎盛長は、義経の指示に従ってこの地に残り、堂を建立し、三尊と鵜鳥を祀り、鵜鳥三座大明神と称し四月八日を祭礼の日と定めました。

後年、時の神主が、義経、弁慶、および鵜鳥を会わせて三体を、卯子酉大明神と改称したと云われています。その後、この神社に詣でる人々は、すぐにご利益を蒙り、諸願成就の信仰厚い神社として盛んになりました。

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これが「鵜鳥神社御縁起」の簡単な紹介になりますが・・・何か如何にも本当らしい話ですよね。

「鵜鳥神社」ですが、本章最初の画像が、入り口となる「遥拝殿」の画像ですが、「鵜鳥神社本殿(奥宮)」は、麓にある「遥拝殿」から続く参道を登ること約30分、標高424mの卯子酉山の山頂にあります。


上記縁起にも説明がありますが、「鵜鳥さま」に関しては、大漁、安全祈願、縁結び、そして安産の神様として信仰されており、旧暦4月8日が例大祭となっています。

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雲南さま


皆さん、「雲南さま」ってご存知ですか ?


私も、このブログを書くための調査で初めて知ったのですが・・・なんと「ウナギ」の神様らしいです。


正確に言うと「ウナギの神様」ではなく、「神様のお使い(使徒)である、片目のウナギ」を祀ってある神社を、「雲南さま」と呼んでいるらしいのです。


この神社は、遠野市中央通りにある「宇迦(うか)神社」で、詳しい由来は不明との事ですが、江戸時代の宝永二年(1705年)より以前は、この地にお堂があったそうです。そして、お堂の境内には湧水があり、そこに神のお使いである「片目のウナギ」が生息していたそうです。


このため、神社の氏子達は、(現在は解りませんが)ウナギを食べると神罰が下るので、ウナギを食べないと伝えられています。



しかし、この「宇迦神社」、神社の名前からも解ると思いますが、神社の御祭神は、「宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)」です。「宇迦之御魂神」と書くと解りづらいと思いますが、俗に言う「お稲荷様」です。


また、「宇迦神社」の「本地仏」は、「虚空蔵(こくぞう)菩薩」と言われております。



本地仏」とは、「本地垂迹(ほんじ-すいじゃく)」と言う「神仏習合思想」で、日本の八百万の神々は、実は仏の化身であると言う考え方の事です。


つまり、ややこしいですが、恐らく次のような関係だと思います。


(1)「宇迦神社」は、当初、お稲荷様である「宇迦之御魂神」を祀ってあった
(2)仏教が伝わり始め、「宇迦之御魂神」の本地仏が「虚空蔵菩薩」になった
(3)「虚空蔵菩薩」の眷属(お使い/使徒)は「ウナギ」である
(4)「宇迦神社」の境内に「ウナギ」がいたので、「雲南さま」と呼ばれるようになった


これは、あくまでも私の想像ですが、神仏の伝わった年代を考えると、上記の順番になるのではと思いますが・・・

「宇迦神社」のご神体は、直径約4寸(12cm)の「銅鏡」とされており、このご神体には、「藤原 光長」と言う「鏡師」の銘があるとされています。


「藤原 光長」と言う鏡師は、江戸時代中期の著名な鏡師であることが判明しています。


そうなると、「宇迦神社」自体、それほど古い歴史がない事になりますので、上記の順番は、ちょっと疑わしいようにも思えてきます。


ひょっとしたら、単純に、お稲荷様を祀った「宇迦神社」の境内に、「ウナギ」が沢山住み着いていたので、「ウナギ」を使徒にしている「虚空蔵菩薩」も祀られたのかもしれません。


その辺りの経緯は、今後「宇迦神社縁起」でも見つかれば、明らかになるかもしれません。


ところで、「雲南さま」信仰ですが、早い話「ウナギ」信仰です。


「何でウナギを信仰するの ?」と思う方もいらっしゃると思いますが、実は、国内にはウナギを、「水の神」、あるいは「その使徒」とする信仰が、かなり広く分布しているそうです。

また、ウナギを「蛇」に置き換えて祀っている地域もあり、その勢力は、二分されているそうです。


しかし、「水の神」と言うことであれば、「蛇」は陸に住むものなので、「水」には直接関わりませんので、「ウナギ」が、後から「蛇」に置き換わって信仰されたのではないかと考えられます。


また、どうして「ウナギ」を「雲南様」と言うのか ? と言う点に関しては、明確な回答は無いようで、一説には「ウナギをウンナンと言い間違えた」と言う話も伝わっているようですが、その真偽は定かではありません。


さらに、「雲南様信仰」としては、「雲南権現」、「雲南様」、あるいは「宇那権現」等と呼んでいる地域もあるようですが、ウナギを「雲南さま」として信仰しているのは、岩手県中南部から宮城県北部にかけての地域だけのようです。


島根県雲南市とか、京都の雲南神社とか、「雲南」と言う名称に関しては、有名な地名や神社がありますが、この「雲南さま」とは、全く関係が無いようです。


また、前述の「宇迦神社」自体も、全国に何箇所もあるようですが、ウナギに関係するのは遠野市の「宇迦神社」だけのようです。


但し、ウナギに関しては、京都の「三嶋神社」は、「うなぎ神社」と呼ばれており、うなぎ業界の人達には人気の神社だそうです。


ちなみに、この「三嶋神社」でも、「宇迦之御魂神」も祀られているそうです。

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■カマドガ


「カマドガミ」は、「竈神」や「釜神」等とも言われ、日本全国の竈、囲炉裏、あるいは台所等、火を使う場所に祀られている神様のことです。


また、火の神様であると同時に、農業や家畜、家族を守る守護の神様とも言われているようです。


右の画像は、「東和町ふるさと歴史資料館」において、過去に展示された「カマドガミ」ですが、強烈な一品です。目の部分には、「あわび貝」が使用されているようです。


日本全国で祀られている「カマドガミ」ですが、東北地方では、竈近くの柱に、「カマ男」、「火男」、あるいは「カマジン」と呼ぶ、粘土や木製の醜い面を掛けて祀る風習が多いようです。


その他の地域では、人形や御幣を祀っていたり、あるいは自在鉤を「カマドガミ」として祀っていたりする地域もあるそうです。


古来から「火の神様」として祀られてきた「カマドガミ」ですが、仏教の世界では「三宝荒神(さんぽうこうじん)」として、また神道の世界では「竈三柱神(かまどみはしらのかみ)」として祀られています。


三宝荒神」は、仏教会において「仏・法・僧」と呼ばれる「三宝」を守護する神様として、また「不浄」を排する神様として信仰されています。


三宝荒神」は、字のごとく「荒神」ですから、元々は、「夜叉」や「羅刹」と呼ばれていた「悪神」の一種だったのですが、後に仏教に帰依して守護神になった神様の一種です。


「カマドガミ」と違って、何かカッコ良い出で立ちですが、密教で取り入れられた「明王」に近い感じがします。


なぜ、「カマドガミ」と「三宝荒神」が結びついたのかと言うと、「カマド」、つまり「台所」は、家の中で、一番清潔な場所だからと言うのが一般的な説のようです。


神道の「竈三柱神」は、オキツヒコ(奥津日子神/奥津比古命)、オキツヒメ(奥津比売命/奥津姫神)、およびカグツチ(軻遇突智/火産霊)の三神とされ、オキツヒコオキツヒメは「竈の神」で、カグツチが「火の神様」と言われています。


「カマドガミ」は、前述の通り「火の神様」と言われていますので、性格が粗く、気性が荒い神様なので、粗末に扱うと祟りや罰が当たるとも言われています。


東北地方の方言で「カマドケス」とか「カマケス」と言う言葉ありますが、これは、「カマドガミ」が怒って、家が衰退するとか、傾くこと意味しているとも言われています。


ところで、前に「カマドガミ」を「火男」と呼んでいる地域があると紹介しましたが、これが「ヒョットコ」の起源と伝えている地域があります。


遠野物語」の内容を「柳田 國男」に伝えた、「佐々木 喜善」が書いた「江刺郡昔話」と言う本があるのですが、その本の中で「佐々木 喜善」は、「東和町」の民話を次のように伝えています。


「佐々木 喜善」に関しては、過去ブログを参考にして下さい。
★過去ブログ「オシラサマ」

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【江刺郡昔話】

ある所に爺と婆があった。爺は山に柴刈りに行って大きな穴を一つ見付けた。こんな穴には悪い者が住むものだ。塞いでしまった方がよいと思って、柴を一束その穴の口に押し込んだ。

そうすると柴はその穴の栓にはならずに、するすると穴の中に入って行った。また一束押込んだがそれもその通りで、それからもう一束、もう一束と思ううちに三月が程の間に刈り集めた柴を悉くその穴に入れてしまった。

その時、穴の中から美しい女が出て来て、沢山の柴を貰った礼を言い、一度穴の中に来てくれという。あまり勧められるので爺がついて行って見ると、中には目のさめるような立派な家があり、その側には爺が三月もかかって刈った柴がちゃんと積重ねてあった。

美しい女に此方に入れと言われて、爺が家の中について入って見ると立派な座敷があり、そこには白髪の翁が居て、此所でも柴の礼を言われた。そして種々と御馳走になって帰る時、これを印にやるから連れて行けと言われたのが童子(ワラシ)であった。

その童子は、何んとも云えぬ、見っともない顔で、臍(ヘソ)ばかりいじくっている子で、爺も呆れたが、是非呉れると言われるので、とうとう連れて帰って家に置いた。その童子は、爺の家に来ても、あまり臍ばかりいじくっているので、爺は或る日火箸で突いて見ると、その臍からぷつりと金の小粒が出た。

それからは、一日に三度ずつ出て爺の家は忽ち富貴長者となった。ところが婆は欲張り女で、もっと多く金を出したいと思って、爺の留守に火箸をもって童子の臍をぐんと突いた。すると金は出ないで童子は死んでしまった。

爺は外から戻ってこれを悲しんでいると、夢に童子が出て来て『泣くな爺さま、俺の顔に似た面を作って毎日よく眼につく所のカマドの前の柱にかけて置け。そうすれば家が富み栄える』と教えてくれた。

その童子の名を【ヒョウトク】といった。それ故にこの土地の村々では今日まで醜い【ヒョウトク】の面を木や粘土で作って、竈前の釜男(カマオトコ)という柱に掛けておく。所によってはまたこれを「火男(ヒオトコ)」とも「カマド仏」とも呼んでいる。

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しかし、どうして女性は強欲なんでしょうね!? ・・・ではなく、何とも面白い話ですが、この話とは別に、三陸地方の陸前高田市、大船渡市、あるいは住田町等では、竈で火を起こす顔つきが、「ヒョットコ」に似ているから「火男」が「ヒョットコ」と呼ばれるようになった、と言う話も伝えられています。


とは言え、岩手県中部、および南部から宮城県にかけて、「カマドガミ」が広く信仰されているようです。


この地域は、旧伊達藩の領地と重なる地域が多いのですが、伊達藩との関係は解らないそうです。

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■十王信仰


「十王信仰」とは、簡単に説明しますと、冥府で亡者の罪状の軽重を決める判官である十王に対する信仰です。


人は死後、初七日から三周忌までの間、地獄において、順番に十王の裁判を受け、次の世の生処が定められる、と言われています。


このため、生前に、あらかじめ十王に対して供養を行っておけば、死後の裁きにおいて業報を軽くすることができる、と言うのが「十王信仰」となります。


俗に言う「閻魔信仰」と同じ信仰なのですが、「閻魔大王」以外の諸王の知名度が低いので、「十王信仰」は、余り聞かない言葉なのかもしれません。


それでは、最初に、十王を、簡単に紹介したいと思います。

名称 審理日 本地仏
秦広王(しんこう-おう) 初七日 不動明王
初江王(しょこう-おう) 二十七日 釈迦如来
宋帝王(そうてい-おう) 三十七日 文殊菩薩
五官王(ごかん-おう) 四十七日 普賢菩薩
閻魔王(えんま-おう) 五十七日 地蔵菩薩
変成王(へんじょう-おう) 六十七日 弥勒菩薩
泰山王(たいざん-おう) 七十七日 薬師如来
平等王(びょうどう-おう) 百か日 観音菩薩
都市王(とし-おう) 一周忌 姿勢菩薩
五道転輪王(ごどうてんりん-おう) 三回忌 阿弥陀如来



日本では、平安時代末期、「末法思想」と共に広く信仰されましたが、鎌倉時代には、「十王信仰」と「神仏習合思想」がつながり、諸王と、上記表の「本地仏」が結び付けられて信仰されるようになったそうです。


さらに江戸時代には、上記の十王に、次の三王、および三仏が追加され、「十三仏信仰」となったそうです。

名称 審理日 本地仏
●蓮華王(れんげ-おう) 七回忌 阿〓(あしゅく)如来
祇園王(ぎおん-おう) 十三回忌 大日如来
●法界王(ほうかい-おう) 三十三回忌 虚空蔵菩薩


ところで、岩手県における「十王信仰」としては、北上市にあった「極楽寺」跡地に、石塔婆が8個だけ残っており、その銘文に「延慶三年(1310年)」と言う記述と共に、十王の一人である「泰山王」の名前が刻まれている物が残っているそうです。


他の石塔婆にも、その他の十王の名前や本地仏の名前が刻まれていますので、鎌倉時代以前から、十王信仰が広まっていたと考えられます。


ちなみに「極楽寺」は、かつて、この地域にあった一大山岳仏教寺院群の跡地ではないかと考えられており、平安時代に編纂された「日本文徳天皇実録(にほんもんとくてんのうじつろく)」には、『 天安元年(857年) 陸奥国極楽寺定額寺に預かり』と言う記述があるそうです。


定額寺」の意味は、まだ定かではないのですが、寺社の格式を表しているのではないかと考えられているそうです。


また、本章の最初の画像は、遠野市会下(えげ)にある「十王堂」の画像なのですが、この十王様に関しては、「遠野物語拾遺」の53章、および68章に、それぞれ「十王堂」と「十王様の田植え」として伝えられています。

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遠野物語拾遺53章/十王堂】

遠野町字会下にある十王堂でも、古ぼけた仏像を子供たちが馬にして遊んでいるのを、近所の者が神仏を粗末にすると言って叱り飛ばして堂内に納めた。

するとこの男はその晩から熱を出して病んだ。そうして十王堂様が枕神に立って、せっかく自分が子供等と面白く遊んでいたのに、なまじ気の利くふりをして咎め立てなどするのが気に食わぬと、お叱りになった。

巫女を頼んで、これから気をつけますという約束で許されたということである。

遠野物語拾遺68章/十王様の田植え】

前に言った会下の十王様の別当の家で、ある年の田植時に、家内中のものが熱病に罹って、働くことの出来る者が一人もなかった。

それでこの家の田だけはいつまでも植つけが出来ず黒いままであった。隣家の者、困ったことだと思って、ある朝別当殿の田を見廻りに行って見ると、誰がいつの間に植えたのか、生き生きと一面に苗が植込んであった。

驚いて引き返して見たが、別当の家では田植どころではなく、皆枕を並べて苦しんでいた。怪しがって十王堂の中を覗いて見たら、堂内に幾つもある仏像が皆泥まみれになっていたということである。

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どちらも、江戸時代の話を伝えたそうですが、「53章・十王堂」に関しては、以前紹介した「カクラ様(http://msystm.co.jp/blog/20141018.html#ten)」と似たような話ですし、「68章・十王様の田植え」は、日本全国に伝わる「田植え地蔵」や「身代わり地蔵」の話に類似しています。


また、この「十王堂」に関しては、「隠れキリシタン」との関係も取り沙汰されていますが、現在の所、明確な証拠は見つかっていないそうです。

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■猫淵さま


「猫淵さま」、実は、岩手県内には、2箇所の「猫淵神社」が確認されており、その内の1箇所が、本ブログの冒頭でも紹介した、陸前高田市矢作町梅木にある「猫淵神社」の画像となります。


もう1箇所の「猫淵神社」は、陸前高田市の北側の隣になる住田町世田米合地沢(せたまい-かっちさわ)に存在します。


最初に、陸前高田市矢作町の「猫淵さま」について紹介します。



こちらの「猫淵さま」に関しては、次のような話が伝わっています。

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『 昔、矢作(やはぎ)村の宝鏡寺と言う、貧しい寺の住職が、捨て猫を拾って来て「トラ」と名付けて可愛がっていたそうです。トラは、大きく立派に育ち、寺の名物猫になったそうです。その後、トラも年老いて、2〜3日帰って来なくなったある日の夜、住職は不思議な夢を見たそうです。

【 明日、長部(オサベ)村(現在の陸前高田市気仙町長部)の大金持ちのおかみ様の葬式がある。その葬式の最中に、棺が空の上に昇って行くであろう。その時、坊さんは、お経を上げなさい。そして、そのお経の中に「トラヤー、トラヤー、ナムトラヤー」と猫の名前を三遍唱えなさい。きっと空に舞い上がった棺が祭壇へ下りてくるでしょう。 】

住職は、不思議な夢だと思いつつ、翌日、長部村に向かった所、その金持ちの家では、棺が空に舞い上がったと大騒ぎをしていたそうです。そこで、住職は、夢のお告げ通り、「トラヤー、トラヤー、ナムトラヤー」と三遍唱えたところ、棺は静かに降りてきたそうです。

この事があってから、宝鏡寺の住職の名前は、近隣の村々に名僧として語り継がれる事になりました。しかし、愛猫のトラは、結局帰って来ず、挙句の果てに、トラの死体が、近くの飯森川の渕に沈んでいるのを、近くの村人が発見したそうです。

人々は、トラの死を悼んで渕のそばに祠を建て、「猫淵さま」として祀り、死体が見つかった渕を「猫淵」と呼ぶようになったそうです。 』

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宝鏡寺」は、江刺郡黒石村(現在:奥州市水沢区黒石町)にある正法寺の末寺であったと伝えられている実在の寺院で、南北朝時代の康応元年(1389年)、正法寺の三世「虎渓良乳(こけいりょうにゅう)」禅師が、宝鏡山に小さな庵を建てて修業をしたのが始まりとされています。(現在の山名:宝境山 ?)


その後、寛正六年(1465年)に火災になり庵は消失し、大永四年(1524年)に、矢作村に移転したそうですが、移転後まもなく、享禄元年(1528年)に、宮城県新月村に移り、現在に至っているそうです。


そして、実はこの話、「猫壇家(ねこ−だんか)」と呼ばれる昔話で、東北地方から九州まで、日本全国で伝えられています。


昔話の共通点として見られるのは、次の5点です。


・寺が貧しい
捨て猫を拾ってきて可愛がる
・近所の金持ちの家で葬式がある
・棺桶が舞い上がり、お経を唱えると降りてくる
・その後、貧乏な寺は後々まで栄える

この5点以外は、微妙に異なり、上記、宝鏡寺縁起のように、猫が川で死んで「猫淵」と呼ばれたりしているケースは、他には存在しないみたいです。



また、関西や九州では、「猫の恩返し」ではなく、なんと、死んだ猫が妖怪「火車(かしゃ)」になり死体を奪う、と言う話まであるそうです。


猫と住職の愛情や交流に重点を置くのは東北地方が多く、関西以西では、単に棺桶を下に降ろしたり、あるいは妖怪を追い払ったりと、住職の名僧ぶりを紹介する話が多いそうです。


関西の方には怒られるかもしれませんが、まさに、お国柄や人柄を現しているように感じられます。



次に、住田町の「猫淵さま」について紹介したいと思いますが、こちらの「猫淵さま」に関しては、特に伝承等は無いようです。


しかし、地元の観光協会の方によれば、「猫」は、動物の猫ではなく、川から砂金を取る時の道具である「ねこ」が由来であるとの事らしいです。


「??」となってしまいます。



ちなみに左の画像が、砂金取りに使う「ねこがき」と言う道具になります。これで川底の砂を取ると、網目に砂金が残るので、1個ずつ丁寧に拾ったそうです。


余談ですが、この作業は、主に女性が行ったそうですが、時々、大粒の砂金をくすねる女がおり、これを「ネコババ」と呼んだのが、「ネコババ」の語源と言う説もあるそうです。


しかし、「猫淵さま」の由来が、砂金取りの道具という説は、どうも信憑性に掛けるような気がします。


他方、以前、過去ブログで紹介した「オシラサマ」が、「蚕の神様」である言う説を紹介しましたが、どうも、この「猫淵さま」に関しても、「蚕」との関係が取り沙汰されています。

★過去ブログ:オシラサマについて



右の画像が、住田町の「猫淵神社」の中の様子なのですが、多くの「猫絵馬」が奉納されており、確認したところ、104枚の「猫絵馬」が奉納されているそうです。


この住田町近辺は、隣が遠野市なのですが、昔は養蚕が盛んな地域でした。養蚕農家にとって、ネズミは蚕を食べるので、猫を飼って蚕を守っていたそうです。


そして、これらの「猫絵馬」は、猫が育たない農家が、絵馬を借りて神棚に祀り、猫が育つと、借りた「猫絵馬」の代わりに、新しい「猫絵馬」を奉納したとの事です。


「猫淵神社」が、砂金採りの道具が由来と言うのは「嘘臭い」ですが、養蚕のために猫を祀ったという方が、信憑性が高いような気がします。


その他にも、岩手県内には、地名や川の名前に「猫」が付く場所が沢山あります。機会があれば、それらの由来等も紹介したいと思います。

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雷神信仰


雷神信仰」と言えば、普通は、「菅原 道真」を「天神(雷神)様」として祀る信仰の事だと思いますよね。


私も、当初は、「天神信仰」の事だと思っていたのですが、岩手県内における「雷神信仰」は、この「天神信仰」とは、少し信仰対象が異なるようです。


元々、雷神と言えば、「古事記」に記載のある、「伊邪那岐命(いざなぎのみこと)」と「伊邪那美命(いざなみのみこと)」の話にある「雷神」が最初だと思います。


この話の中では、黄泉国の王となった「伊邪那美命」の身体から、次の8柱の「雷神」が生まれたとされています。

部位 雷神名
●頭 大雷神
●胸 火雷神
●腹 黒雷神
●女陰 咲(裂)雷神
●左手 若雷神
●右手 土雷神
●左足 鳴雷神
●右足 伏雷神


ちなみに、雷神を祀る神社としては、上記「菅原 道真」を祭神とする「天満宮」系の神社がありますが、それとは別に通称「上賀茂神社」、正式名称は「賀茂別雷神社(かもわけいかずちじんじゃ)」があります。


この通称「上賀茂神社」は、「賀茂別雷大神(かもわけいかずちの-おおかみ)」を祭神としています。


また、前述の「古事記」における「国譲り神話」では、「天照大御神(あまてらすおおかみ)」の子孫である「建御雷之男神(たけみかずづちのみこと)」が登場しますが、この「建御雷之男神」も雷神とされており、鹿島神宮春日大社の祭神となっています。



ところで、岩手県における「雷神信仰」ですが、どうやら、上記の神々を信仰する方法とは異なり、雷が落ちた場所に「雷神」と言う文字を刻んだ石碑や祠を建て、単純に、これを「雷様(かみなりさま)」として祀っていたそうです。


「何故、石碑を建てて祀るのか ?」と言うと、落雷があった場所と言うのは、「雷神様」が降り立った場所だから、と言うのが通説らしいです。


この石塔や祠の数ですが、まだ、誰も全てを調査したことがないらしく、噂では、県内に「数百個」は存在するらしいそうです。



何時頃から、このような「雷神」の石碑が建てられたのかは解りませんが、一関市室根町にある「矢越神社」にある「雷神」の石塔には、江戸時代の「享和三癸亥歳(1803年)講中廿一人 九月十七日」と言う銘が掘られているそうです。


ちなみに、この「矢越神社」の「雷神碑」の文字ですが、「袋文字」と言われる、輪郭線だけのある修飾文字になっていますが・・・解りますか ?


石碑の文字が「袋文字」になっているのは非常に珍しいそうですが、一関市室根町付近には、かなり「袋文字」の石碑が多いらしいので、昔は、この付近に「袋文字」が得意な石工が存在したのかもしれません。



それと、花巻市愛宕町にある「雄山寺」には、何と!! 「雷神のミイラ」なる物が保管されているそうです。


この「雷神のミイラ」は、一見すると「猫」ですが・・・まあ2度見しても「猫」のようですが、本当によく見ると、手足が異様に長いのと、頭部に目(眼窩)が無いことから、普通の動物ではなく、「雷獣」とされています。



新潟県の西生寺にも「雷獣のミイラ」があるそうですが・・・こちらは、妖怪研究家の方に、一刀両断で「猫」と決めつけられてしまった様です。


画像の「雷獣」の説明文を見てみると、下方に「猫科」と書かれているのが、何か悲しみを誘っているように思えます。


上の雄山寺の「雷獣」の大きさは解りませんでしたが、下の西生寺の「雷獣」は、35cm位の大きさだそうです。

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ここまで、岩手の民間信仰を6個程ご紹介しましたが、何か知っている信仰はありましたか ?

盛岡出身の私でさえ、初めて聞いたような信仰ばかりですから、きっと皆さんも、見たことも聞いたこともない話ばかりだと思います。

ネコババ」や「ヒョットコ」の起源も興味深かったです。

「十王信仰」に関しては、今回掲載した「閻魔大王」の画像は、私の近所にある「上品寺閻魔堂」の画像ですので、言葉だけは知っていました。

この「上品寺」、創建年代は不明ですが、「閻魔堂」に関しては、「江戸十六閻魔」として、地元はもとより、昔から東京の観光名所になっていますし、今でもTV等で、よく紹介されています。

岩手の民間信仰は、まだまだ有りますので、今後も続編をお伝えします。

ご精読、ありがとうございました。

以上

【画像/動画・情報提供先】
Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)
・気仙風土記(http://silver.ap.teacup.com/dododo2/img/1144680552.jpg)
・「じぇんごたれ」遠野徒然草(http://blog.goo.ne.jp/jengo2)
・「百怪図巻<火車>」佐脇嵩之1707-1772 元文2年(1737)/福岡市博物館蔵書
・住田町民族資料館(http://www.town.sumita.iwate.jp/kanko/museum/indexi.html)
中尊寺所蔵「源 義経」像
東和町ふるさと歴史資料館「カマドガミ」
・工房釜神(http://www.kamagami.sakura.ne.jp/densetu.htm)
葛飾東新小岩7-8-2 上品寺/閻魔堂
・公益財団法人岩手県観光協会(http://www.iwatetabi.jp/)

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