岩手の民間信仰 〜 聞いた事も無い信仰ばかり Vol.6


今回の「盛岡/岩手情報」は、前回から1年半以上経過してしまいましたが、「岩手の民間信仰」シリーズの第6弾を紹介したいと思います。


これまで、「岩手の民間信仰」シリーズとしては、番外編を含め、次のような内容を紹介して来ました。

内容
1 マイリノホトケ、供養絵額、百万遍念仏、オタメシ、庚申信仰 、山の神&オミキアゲ、お刈りあげ、アンバ様、オトリアゲ、カクラ様
2 鵜鳥さま、雲南さま、カマドガミ、十王信仰、猫淵さま、雷神信仰
3 座敷わらし、船霊様、ミダマメシ、虫おくり、厩猿信仰、一代守本尊信仰
4 産神信仰、田の神信仰、月待信仰/二十三夜さま、懸仏信仰
5 三峰信仰(三峰さま)、隠れキリシタン、妙見信仰
番外編 オシラサマ、金勢信仰(Vol.1〜Vol.5)


こうして、過去の紹介内容を振り返ってみると、岩手県内には、かなりの数の民間信仰が息づいている事が解ります。


これだけの数の民間信仰を紹介して来ましたので、前回の第5回目で、「もうそろそろネタ切れ」になりそうだと弱音を吐いた次第ですが、今回は、前述の通り「乳神信仰」を紹介したいと思います。


冒頭の画像は、「その2」で紹介する、岩手県紫波町の「乳神様」に隣接する「紫波ふるさとセンター」で販売している「乳神様まんじゅう」です。


「乳神信仰」は、別に、岩手県にだけ存在する民間信仰ではありません。日本中、至る所において「乳神信仰」は行われています。


「行われています」と現在進行形なのは、現在でも、一部の場所においては、「乳神様」に祈願する行為が行われ続けているからです。


「乳神信仰」とは、その昔、母乳の出の良し悪しが、赤子の生死を分けていた時代、母乳の出が悪い母親が、母乳の出が良くなる事を、樹木や自然石等に祈願した行為と言われています。


今回の「民間信仰シリーズ」では、当初、「乳神信仰」以外、下記のような「民間信仰」もご紹介しようと思っていました。


・金山様
・ふいご様
・夜泣き稲荷
・ご不動様信仰
竜神信仰


前回は、弱音を吐いてしまったのですが、「乳神信仰」を調査していると、岩手県内、特に遠野市において「乳神信仰」が多く残っており、この信仰だけでも、かなりのボリュームになることが解りました。


そこで、今回は、他の神様には悪いのですが、そもそも「乳神信仰」とは、どのような信仰なのかを紹介した後、遠野市の「乳神信仰」を始めとして、次のような岩手県内に残っている「乳神信仰」を、今回と次回の2回に分けて紹介したいと思います。

【 1回目 】
●「乳神信仰」とは
遠野市宮守町上宮守の「乳母石」
遠野市土淵町飯豊の「乳神様」
遠野市土淵町常堅寺境内「カッパ淵の祠」
遠野市綾織町みさ崎の「乳神様と金勢様」


【 2回目 】
遠野市松崎町諏訪神社の願掛け石」
紫波町/紫波ふるさとセンターの「乳神様」
八幡平市/井森の大イチョウ
釜石市両石町の「乳神様の祠」
●山田町の「おっぱいの祠」

それでは今回も宜しくお願いします。

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■「乳神信仰」とは

前述の通り、「乳神信仰」は、日本全国において行われている信仰です。


簡単に、日本全国に見られる「乳神信仰」の神社等を紹介すると、次のような状況となります。


・北海道十勝郡浦幌町「浦幌(うらほ)神社/乳神神社」
・北海道知内町知内町(しりうちちょう)公園の乳母杉」
・愛知県小牧市「龍音寺/間々観音(ままかんのん)」
京都府舞鶴市「岩上神社」
岡山県総社市「軽部(かるべ)神社」
広島県福山市「磐台寺/(阿伏兎観音:あぶとかんのん)」
徳島県阿波市「境目の大イチョウ


冒頭の画像は、私の様な「トライポフォビア(集合体恐怖症)」の人には、ちょっと気持ちが悪く感じられますが、岡山県総社市の「軽部神社」の本堂に奉納された、通称「おっぱい絵馬」です。


この「軽部神社」は、江戸時代初期となる延宝6年(1678年)に、軽部山の山麓に建立された神社で、今は枯れてしまって存在しないようですが、その昔、境内には、樹齢400年と言われた「垂乳根(たらちね)の桜」と呼ばれる、枝垂れ桜があったことから、乳神様として庶民の信仰を集めました。


何故、「垂乳根の桜」が「乳神信仰」につながるのかと言うと、「垂乳根」は古代より「母」や「親」に係る枕詞(まくらことば)とされています。


このため、「垂乳根の桜」は、それ自体が崇拝の対象となるとともに、枕詞としての「母」や「親」という意味が加わり、いつしか神社全体が、「乳神様」として崇敬されるようになったと言われています。


樹木が「乳神信仰」の対象となる例としては、上記の「知内町公園の乳母杉」や「境目の大イチョウ」等がありますが、それ以上に一般的なのが「乳銀杏(ちち-いちょう)」ではないかと思われます。


「乳銀杏」とは、気根が乳房の形に似ているところから、母乳の出ない女性が、乳が出るように願をかける銀杏の老木の事です。


左の画像は、宮城県仙台市の「宮城野八幡神社」の隣の民家にある「乳銀杏」ですが、見事に枝や幹から乳房状の突起が垂下しています。


また、同じく上述の「浦幌神社/乳神神社」も、大正時代の中頃、乳房のような、二つの大きなコブを持つ「楢(ナラ)の木」を「乳神様」として祀ったのが始まりとされているようです。


この「楢の木」は、「浦幌神社」の御神木となったのですが、昭和37年の台風で倒れてしまったので、かろうじて残ったコブを、祠に納めて「御神体」として祀り始めたそうです。


その後、昭和57年(1982年)、関係者一同で協議の上、地域振興の意味も込め、この祠を「浦幌神社」の境内末社として遷座させ、「乳神神社」と名付けて、現在に至っているそうです。

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ところで、そもそも、「乳神信仰」と言う言葉自体は存在しないようですが、本ブログでは、「乳神様」を祀る信仰を、「乳神信仰」と定義して、ブログを進めたいと思います。


また、さらに詳しく調査すると、実は、「乳神様」と言う言葉も、どうも正式な言葉ではなく、「造語」の様な扱いになっている事が解りました。


国語辞典や漢和辞典等の辞書で「乳神」を探しても、「乳神」と言う言葉は記載されていません。つまり、現在の日本には「乳神」と言う言葉は存在していない事になります。


まあ、オタク系のゲームやアニメには「乳神様」と言う定義はあるようですが、説明するまでもなく、本ブログの主旨とは、全く異なる分野の話となります。



それでは、何故、「乳神様」とか「乳神信仰」と言う言葉があるのかと言うと、何度も記載してしまいますが、その昔、母乳の出の良し悪しにより、赤ちゃんの生死が分かれた時代に、母親達が、母乳の出が良くなるよう、何か、超自然の存在に対して、祈りを捧げたからだと思います。


その「超自然の存在」が、「乳房」に似た自然の造形物、あるいは人工物であり、それが「お乳の神様」となり、最後には、「お乳の神様」を短縮して「乳神様」となったのだと思います。


日本語としては存在しなくても、日本全国に、「拝めばお乳の出が良くなると信じられて来た神様」がいらっしゃった事は事実ですので、今回は、岩手県内各地に存在する「神様」を紹介します。

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他方、世界に目を向けると、意外にも、「乳神信仰」の様な信仰は存在しないように見受けられます。


ヨーロッパ諸国やエジプト、それにアジアを見ても、「乳神信仰」は見当たらず、どちらかと言えば「豊穣神」になってしまう様です。


「豊穣神」となると、五穀豊穣や安産、子授け等、全てを「ひっくるめた」た神様になってしまいます。


何か、「豊穣神」は総合職で、「乳神信仰」は専門職のようなイメージに感じられます。


特にヨーロッパや地中海沿岸、そして西アジアでは、古くから「宗教」と呼ばれる信仰が発展した影響もあり、日本の様に、自然の造形物を崇拝する考えは、禁じられてしまい、長続きしなかったのではないかと考えられます。


一方、日本でも、古墳時代となる538年には、既に仏教が伝来していたと考えられますが、日本の場合は、自然崇拝を含め、八百万の神々等、多くの神々を祀る事が禁じられてこなかったので、母乳の出が悪い場合、専門職である「乳神様」が拝まれたのだと思います。

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さて、話を再び日本に戻しますが、日本の場合、前述の通り、その昔、母乳の出が良くなる事を願う多くの母親達により、全国各地、様々な形で「乳神様」が拝まれて来ました。この事は、前述の通りです。


そして、これら「乳神様」は、1つの地域で、1つの「乳神様」が祀られるケースが、ほぼ一般的だと思われます。ところが・・・これが「遠野」となると、この常識が通用しません。


以前から、別シリーズで、岩手県内各地の「金勢信仰」を紹介していますが、このシリーズにおいても、遠野市の「金勢様」は、数が多過ぎます。


★「金勢様」シリーズ:何でこんなに沢山あるの Vol.1
何でこんなに沢山あるの Vol.2
何でこんなに沢山あるの Vol.3
何でこんなに沢山あるの Vol.4
何でこんなに沢山あるの Vol.5


他の地域、例えば、盛岡市では、日本における「金勢様」の起源と考えられている場所も含め、6箇所において、「金勢様」が祀られており、それなりに数多くの「金勢様」がいらっしゃいます。


まあ、これも数が多いと言えば、確かに多いような気がします。しかし、これが「遠野市」となると、なんと・・・11箇所もの場所で、「金勢様」が祀られています。


まあ、現在の遠野市は、数多くの町や村が合併して形成されたと言う経緯があります。


最初は、明治22年の「町村制施行」により、「横田村」が、単独で「遠野町」となったのが始まりで、その後は、昭和29年に7個の村が、平成の大合併(平成17年)には、1個の村が相次いで合併して、現在の「遠野市」となっています。


それを考えると、各村に、1〜2個の「金勢様」があったものが、合併を繰り返して、11個になったと考えれば、納得が行くのかもしれません。



と言うことで、それでは、遠野に、どのくらいの「乳神様」がいらっしゃるのかと言うと、大体、次のような「乳神様」がいらっしゃいます。


・土淵町飯豊の「乳神様」
・土淵町常堅寺境内「カッパ淵の祠」
・宮守町上宮守の「乳母石」
松崎町諏訪神社の願掛け石」
・綾織町みさ崎の「乳神様と金勢様」



この他にも、情報が乏しく、紹介出来ない「乳神様」が、2件程いらっしゃいますが、やはり、遠野市の「乳神様」は、他の地域に比べると、数が多いのだと思います。


今回は、沢山いらっしゃる「乳神様」の中でも、「遠野物語拾遺 第13話」に登場する「乳母石」から紹介したいと思います。

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遠野市宮守町の「乳母石」


最初に「遠野物語拾遺 第13話」を紹介します。


遠野物語拾遺 第13話 - 乳母石 】

宮守村、中斎に行く路の途中に、石神様があってこれは乳の神である。昔ある一人の尼がどういうわけかでこの石になったのだと言い伝えている。

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「 何が、乳母石なの ? 」と言いますと、分かる人は分かると思いますが、画像中の2つの石の突起を、人間の乳房と見立てています。


地元には、その昔、乳の出ない女性が、ここに参詣して、乳の形の石に酒を供えたり、あるいは酒を注いだりしたところ、今まで出なかった乳が出るようになったとい言い伝えが残っているそうです。


このため、当時は、遠くから多くの乳の出に困っている女性達が、この乳神様まで、参詣に来たという言われています。



他方、この「乳母石」は、南北朝時代の「建武年間(1334〜1336年)」に創建されたと言われている「東禅寺」の近くにあります。


そして、この「東禅寺」の開祖と言われているのが、「無尽和尚」なる人物と伝わっています。


この「無尽和尚」に関しては、昭和34年(1959年)に出版された「日本民俗学会報」の中に収められている論文「附馬牛東禅寺の伝説」によると、次のように紹介されています。


『 ある日、弘法大師が、赤子の泣き叫ぶ声を聞いたそうです。その泣き声は、尊い経の文句だったので、子供を引き取ったが、その子供の母親は、狢(むじな)であった。その後、その子供が成長して無尽和尚となった。 』

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さらに、この「無尽和尚」には、「遠野物語拾遺」や、その他「聴耳草紙(ききみみぞうし)」等に、何度も登場して次の様な伝説を残しています。(※要約済)



●「来迎石」の話
東禅寺を建立する際、境内に泉が欲しいと思ったので、大きな丸い石の上に立ち、早池峰山の神に祈願した所、その後、夢の中に、白い馬に乗った女神が、この丸い石の上に現れ、霊泉を与える事を約束した。この女神から授けられた泉を「開慶水(奴の井)」と言う。(遠野物語拾遺 第40話)


●「神通力」の話
ある日、来迎石の上に立って四方を眺めていたら、急に「開慶水」から水を汲み、天に向かって投げ散らすと、たちまち黒雲が空を覆い、南方に向かって流れて行った。その後、高野山から書状が届き、「過日当山出火の節は、和尚の御力によってさっそくに鎮火し誠にかたじけない。よって御礼を申す。」ということであった。(遠野物語拾遺 第67話)


●「狢退治」の話 その1
無尽和尚は無人寺に向かい、そこで寝ている大きなムジナ、その幻に勝って退治した。(聴耳草紙 第138話)


●「狢退治」の話 その2
曹源寺の裏山に「狢堂」と言う、お堂があるが、その昔、この寺が廃寺だった頃、寺に化物が出るので、住職が居着かず困っていると聞いた。そこで、廃寺に行ってみると、寺男の様な身なりの男が寝ていた。次の日に行っても、この男が寝ているので、「こやつこそ化物」と睨み付けると、男が起き上がり「見やぶられたかは致し方が無い。何を隠そう私はこの寺に久しく住み、七代の住僧を食い殺した狢だ。」と言った。その後、狢との戦いに勝ち、今日まで寺は続いて栄えている。(遠野物語拾遺 第187話)



と言うような、様々な言い伝えが残っている「無尽和尚」ですが、先の「乳母石」は、この和尚の母である「狢」だったと言う説もある様です。


出典等は不明ですが、その説によると、「乳母石」は、「無尽和尚」の母親である「狢」が、自分の死期が近づいた事を悟り、どうせ死ぬのであれば、人の役に立って死にたいと願った事から、無尽和尚が、その神通力、あるいは法力により、母親を「乳母石」に変えたと言う事です。


つまり、前述の「遠野物語拾遺 第13話」の補足説明です。



「狢」から生まれた「無尽和尚」が、ある時は「狢」を退治し、また、ある時は、自分の母親の「狢」を石に変える・・・何とも奇っ怪な話です。



「無尽和尚が狢から生まれた」説を唱えたのは、遠野高校で教員を勤めていた後、退職して地元の歴史を調べた「及川勝穂」氏と言う方なのですが・・・これも、どうも話が噛み合いません。


そもそも、真言宗の開祖である「弘法大師(空海)」は、奈良時代末期の宝亀5年(774年)の生まれで、平安時代初期となる承和2年(835年)に没しています。


かたや、「無尽和尚」は、生まれは解りませんが、先の「東禅寺」を建立したのが(様々な説はありますが)、鎌倉時代末から南北朝時代初期とされていますので、だいたい13〜14世紀辺りに活躍していたと思われます。


そうなると、「弘法大師」が、「無尽和尚」を育てたと言う説には無理があります。両者には、500年ほどの隔たりがあります。


但し、拾遺 第67話で、高野山との関わりが出てきますので、東禅寺、および無尽和尚は、真言宗と、何らかの関わりがあったのだとは思われます。


ちなみに、東禅寺は、15世紀中頃の著作とされる「和漢禅刹次第(わかんぜんさつしだい)」によれば、陸奥・出羽両国内の禅宗寺院の筆頭と記されているので、既に、この頃には、名刹であったようです。


しかし、残念な事に、江戸時代初期の慶長年間(1596〜1615)頃に、兵火のために全焼してしまい、その後は、廃寺となってしまったそうです。

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遠野市飯豊の「乳神様」


次に紹介するのは、同じく遠野市の土渕飯豊(いいどよ)にある「乳神様」です。


この「乳神様」は、山道の直ぐ脇にある、小さな祠に、「金勢様」と一緒に祀られています。


普通、鳥居は朱色なのですが、この祠の鳥居は白色なのが印象的です。


その理由は解りませんが、恐らくは、「乳神様」を意識して、「乳白色」にしたのかもしれません。


この画像では小さくて見えにくいので下に、大きな画像を用意しました。


この祠は、何時から、何のために建てられたのか等、由緒/縁起は、残念ながら、さっぱり解りませんでした。


しかし、「乳神様」と「金勢様」が一緒に祀られている所を見ると、もちろん、女性の乳の出が良くなるように祈願したとは思いますが、どちらかと言えば、「子宝」の方に重点を置いていたようにも感じられます。


また、鳥居も、建物も、そして「御神体(?)」も、全て新しそうに見えるので、時間的にも、それ程は古くはないのだと思われます。


実際、地元の方のブログを読むと、昔は、もっと小さかったが、近年、これも地元の方のご尽力で、屋根付きで少し大きい祠に改築した旨が書かれていました。


しかし、やはり残念な事に、由緒等の説明は、一切ありませんでした。何か、新しい情報があれば、後日、何かの折に紹介したいと思います。




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遠野市カッパ淵の祠


次は、遠野と言えば有名な「カッパ淵」にある「乳神様」を紹介します。


この「カッパ淵の祠」に祀られている「乳神様」に関しては、「民間信仰シリーズ」の第5回目で取り上げた「妙見信仰」でも紹介しています。


「妙見信仰」と「乳神信仰」が、何故繋がっているのかと言うと、詳しくは、この過去ブログを読んで頂ければと思います。

★過去ブログ:岩手の民間信仰 〜 聞いた事も無い信仰ばかり Vol.5


簡単に説明しますと、その昔、三重県にあった「伊勢の妙見様」は、「子授け」、「乳の神」、そして「子育ての神」として信仰を集めており、この「伊勢の妙見様」を拝む場合、「乳房」の様な形に作った布を奉納していたと伝わっています。


このため、「伊勢の妙見様 = 乳の神」となり、それが「妙見信仰 = 乳神信仰」となってしまったと伝わっています。


さて、本章で紹介する「カッパ淵の祠」には、当然、「カッパ」が祀られているのですが、何故か、そのカッパが「乳神様」として祀られています。


また、この「祠」には、先の「妙見信仰」でも紹介した「乳房の様な形に作った布」も奉納されてます。


上記過去ブログでは、カッパと「乳神様」の関係は解らなかったのですが、今回の調査で、次のような事が判明しました。


これは、この「カッパ淵」を守っている二代目の「守っ人(まぶりっと)」の方が、新聞のインタビューに答える形で解説してます。


『 この地方では、カッパはキュウリを好み、カッパが作る妙薬の効果は抜群と伝わっている。その昔、母乳の出ない貧しい母親は、カッパの祠にお参りに行きなさい、と必ず言われたものだ。そして、このカッパ淵の祠に奉納されている布製の乳房の中には、地主がコメを隠していたそうです。コメを頂いた母親達は、必ず返す事を約束してコメを頂き、その結果、母乳が出るようになったと伝わっている。コメを返せる者は、また布製の乳房にコメを包んで返し、コメを返せない者は、山で採ってきた薬草等を布製の乳房に包んで奉納した。これが「カッパの妙薬」の正体である。 』



何とも珍しい話だと思います。地主が、小作人を助ける話など、余り聞いた事がありません。


さらに、この話が事実であれば、カッパ淵の祠に「布製の乳房」が奉納されている理由と、母親達が、この祠を拝みに行った事の説明が付きます。将に、「カッパ淵の祠」が、「乳神様」となります。


しかし、そうなると、逆に、この「カッパ淵の祠」と「妙見信仰」との繋がりは、全く関係が無い事になってしまいますが・・・


私としては、「守っ人」の方の説明の方が、しっくり来るような感じがします。


ちなみに、現在の「「守っ人」は、二代目の「運萬(うんまん)治男」氏で、祠の中の写真の方が、初代「守っ人」だった、「阿部与市」氏との事です。


遠野のカッパは、人、特に母親に優しいカッパだったのですね。

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ちなみに、この祠に祀られている「女の河童像」ですが、これは、初代「守っ人/阿部与市」氏のお気に入りの像だったそうです。


このため、この祠には、初代の写真と一緒に、この「河童像」が祀られているのですが・・・


実は、この「河童像」の裏には、「女性器」が彫られており、初代が元気な頃は、観光客に、この「河童像」の裏を見せて喜んでいたと言う話が伝わっています。


遠野の「カッパ淵」は、初代「守っ人/阿部与市」氏が、各種メディアで取り上げられて有名になったのですが・・・初代の「守っ人」は、単なる「セクハラ爺」だった様です。

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遠野市みさ崎の「乳神様」


次の「乳神様」も、過去ブログで紹介した神様で、こちらは、遠野市綾織町みさ崎(みさざき)にある「乳神様」と「金勢様」になります。


「みさ(身へんに鳥)」と言う漢字は、かなり難しい字ですので、通常は「みさ崎」と表現している様です。


過去ブログにおいては、「乳神様」ではなく、「金勢様」に重点をおいて紹介しましたので、今回は「乳神様」の方を紹介したいと思います。


この「みさ崎の乳神様」は、国道396号線(遠野街道)から、綾織郵便局から脇道に逸れて少し北上した道沿いにあります。


それでは、「乳神様」の情報を、と思ったのですが・・・この「みさ崎の乳神様」に関しては、全くと言って良い程、何の情報もありませんでした。


この「乳神様」は、過去ブログにも記載してある通り、「遠野遺産 第45号」にも登録されているのですが、それにも関わらず、下記の通り、通り一遍な説明しか記載されていないようです。


唯一新たに判明したので、この「布製の乳房」の中身が、「籾殻」が詰められていると言う点だけです。情けない・・・


『 乳神様(金勢様)は、大きな岩の上に立つウッコの大木に抱かれるようにしてある。子供が授からなかったり、お乳が出なかったりする女性が、子宝やお乳がたくさん出るよう祈願した。(遠野遺産より) 』


この大樹は、地元で「ウッコ」と呼ばれているようですが、正式な樹木の名前は「イチイ」と言います。東北地方では、「ウッコ」の他にも「オンコ」とも呼ばれている様です。


「イチイ」の名前の由来は、仁徳天皇が、この木で「笏(しゃく)」を作らせて「正一位」を授けたので「一位」と呼ばれたと言う説もあるそうです。


ところで、この「ウッコ」、かなりの大きさなので、樹齢も、かなりの年数だと思うのですが、こちらも全く情報がありません。


左のイチイは、同じく遠野市の「善明寺」にある、樹齢730年と言われているイチイです。


この大きさで「樹齢730年」であれば、「みさ崎」のイチイは、軽く「樹齢1,000年」は超えているのではないかとも推測できるのですが・・・記録が無ければ、推測で終わってしまいます。


「乳神様」に関しても、「イチイ」に関しても、もう少し記録を残して欲しかったと思います。


折角、貴重で、面白い歴史があるのに、非常に残念に思います。

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今回、民間信仰の第6弾として、「乳神信仰 その1」を紹介しましたが、如何でしたか ?


●「乳神信仰」とは
遠野市宮守町上宮守の「乳母石」
遠野市土淵町飯豊の「乳神様」
遠野市土淵町常堅寺境内「カッパ淵の祠」
遠野市綾織町みさ崎の「乳神様と金勢様」


遠野市の「乳神様」に関しては、もう1体いらっしゃるのですが、ブログのボリュームの関係で、次回に掲載する事にしました。


また、今回紹介した「乳神様」の内、一部の「乳神様」に関しては、他の「金勢信仰」や「妙見信仰」と重複する場所もありましたが、その点はご容赦下さい。


しかし、「カッパ淵の乳神様」に関しては、以前「妙見信仰」を紹介した時には解らなかった点も、今回の調査で明らかになりましたので、その点は継続調査も良かったのではないかと思っています。



しかし・・・本ブログに何度も記載していますが、どうして「遠野」には、これほど多くの民間信仰が残っているのか不思議に思えて仕方がありません。


遠野物語」や「遠野物語拾遺」が残されたと言う事も、一つの理由だとは思うのですが、どうも、それだけが理由とは思えません。


遠野以外の地域にも、このように多くの言い伝えや伝説があったのでしょうか ?


それとも、やはり遠野だけに、このような不思議な話が残されていたのでしょうか ?

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私は、このように、現在に至るまで、遠野の昔話しや民間信仰が継承されてきた理由に、「語り部」の存在があると考えています。


北陸大学の准教授「井上祐子」氏の「観光と語り部」と言う記事(2014年)によると、1960年(昭和35年)当時、日本全国の村々には、それぞれが100話以上のレパートリーを持つ語り部が、300人以上存在した事が解っていたそうです。


遠野物語」自体も、ご存知の通り、遠野在住の「佐々木喜善」氏の口述した内容を、柳田國男が編集した物です。


恐らくは、前述の通り、元々、日本全国において、その地域で起きた過去の出来事を、現在、「語り部」と呼ばれている様な人達が、口述で伝えて来たのだと思います。


しかし、その「語り部」の継承が上手く行かなかったり、あるいは遺跡/遺構が、開発により破壊されてしまったりしたため、人々の記憶から消えてしまったのだと思います。


ところが、遠野においては、たまたま、次のような偶然が重なったため、昔話しが継承され続けたのだと思います。


●「佐々木喜善」と言う、昔話に興味を抱いた人間が存在し、早稲田大学に入学していた
民俗学に興味を抱いた「柳田國男」と言う人間が存在した
●この「佐々木喜善」と「柳田國男」が、東京で偶然出会った
●「柳田國男」が「遠野物語」を編集/出版した
●「佐々木喜善」の親戚「北川 深雪」が、「遠野物語」の伝承を始めた
●遠野地域に、開発の手が入らなかった


このような偶然が重なった事で、遠野の昔話が、途切れること無く現在まで受け継がれてきたのだと思います。


日本の他の地域でも、その昔は、遠野の様に、沢山の「語り部」が、昔話を受け継いで来たのだと思いますが、「語り部」の継承が上手く行われずに、途切れてしまったのだと思います。


また、都市部に近いと開発の手が入ってしまい、貴重な遺構等も破壊されてしまったのだと思いますが、遠野の場合、幸か不幸か、山奥にあり、中々開発されなかったので、様々な遺構が残されたのだと思います。


ちなみに、遠野では、「語り部1000人プロジェクト」と言う活動を行い、昔話が行える「語り部」の育成にも力を入れています。


今後も、「語り部」が途切れないよう、また貴重な遺構を残して行くよう、期待したいと思います。


次回は、「乳神様 その2」として、次の場所の「乳神様」を紹介します。


遠野市松崎町諏訪神社の願掛け石」
紫波町/紫波ふるさとセンターの「乳神様」
八幡平市/井森の大イチョウ
釜石市両石町の「乳神様の祠」
●山田町の「おっぱいの祠」


「遠野」を始めとし、その隣の「紫波町」、それと県北の「八幡平市」、最後は、三陸海岸の「釜石市」と「山田町」の「乳神様」を紹介しますが・・・「乳神様」の起源/由緒が判明していないケースが多いのが残念な所です。


それでは次回も宜しくお願いします。

以上

【 参照 】
・ふしぎの里・遠野を行く(http://tonolove.exblog.jp/)
・怪異・妖怪伝承データベース(http://www.nichibun.ac.jp/YoukaiDB2/)
・日本古典文学摘集(http://www.koten.net/)
・浦幌神社ホームページ(https://www.urahorojinja.org/)
公益社団法人 岡山県観光連盟(https://www.okayama-kanko.jp/)
遠野市ホームページ(http://www.city.tono.iwate.jp/)
・ふしぎの里・遠野を行く(http://tonolove.exblog.jp/)
・ろくすけの手帳(http://blog.livedoor.jp/roku2005/)
・ミヤペディア(http://miyapedia.com/
公立大学法人 岩手県立大学(https://www.iwate-pu.ac.jp/)
・山田町に来るとこんなことできます!(http://blog.livedoor.jp/yamada_fc/)
エフエム岩手/岩泉龍泉洞FM(http://furusato.fmii.co.jp/iwaizumi/)
・観光Re:デザイン(https://kankou-redesign.jp/pov/708/

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