早池峰信仰と瀬織津姫命 〜 謎多き姫神に触れる その5


今回は、これまで紹介して来た「早池峰信仰と瀬織津姫命」の続編となる「その5」を紹介します。


★過去ブログ:早池峰信仰と瀬織津姫命〜謎多き姫神に触れる その1(20180623)
早池峰信仰と瀬織津姫命〜謎多き姫神に触れる その2(20180721)
早池峰信仰と瀬織津姫命〜謎多き姫神に触れる その3(20180818)
早池峰信仰と瀬織津姫命〜謎多き姫神に触れる その4(20180922)


前回は主に、岩手県では今もヒーロー扱いとなっている「安倍氏」と「瀬織津姫命」との関係について紹介しました。


その中で、「安倍氏」にも、「源 義経」と同様、「実は戦死していない」と言う伝説が残っていたのには驚いてしまいました。


日本の伝説で、「源 義経」を始めとして、「実は生きていた 」とされる人物には、次のような人物がいます。


安徳天皇 :日本全国各地に「安徳天皇稜」が存在している。(30箇所)
・源 義経 :ご存知、北海道経由でモンゴルに渡り、チンギス・ハーンになった。
・武田 勝頼 :死んだのは影武者で、本人は高知県に逃れ「大崎玄蕃」と改名し慶長14年に死去した。
明智 光秀 :実は「天海和尚」となり徳川家康のブレーンとして豊臣家滅亡に尽力した。
・豊臣 秀頼 :「真田信繁(幸村)」の手引きで一緒に九州に逃げ、島津家の庇護のもと生活していた。
・真田 信繁 :幸村は、秀頼と一緒に薩摩に落ち延びた。
・島 左近 :石田三成のブレーンだった左近は、関ヶ原から落ち延び、京都の伊吹山で隠遁生活をしていた。
・大塩 平八郎 :とにかく逃げ延び、中国、あるいはロシアに渡った。
・西郷 隆盛 :官軍の囲みを突破してロシアに逃亡し、ロシア軍の教官となり日露戦争を先導した。


こうした「実は生きていた」人物を見てみると、ある特徴があるように思えます。それは、次のような点です。


・民衆に人気がある人物
・死が惜しまれた人物
・悲劇の主人公


その他にも、織田信長なども生存説があるようですが、「安倍氏」にも生存説があるとは・・・


でも、「安倍氏」の場合は、上記の超有名人達とは異なり、東北地方だけに伝わる伝説というのは、地味で、まさに東北人らしいと思います。

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さて、これまでの4回では、次のような内容を紹介して来ました。


(1)山岳信仰とは
(2)早池峯信仰とは
(3)早池峯神社とは
(4)「早池峯」と「早池峰」の違い
(5)どこが「早池峯神社」の本坊なのか ?
(6)瀬織津姫命が御祭神の神社
(7)瀬織津姫命とは何者なのか ?
(8)天照大御神男神なのか ?
(9)鈴鹿権現と瀬織津姫
(10)熊野権現瀬織津姫
(11)瀬織津姫命と天台宗
(12)「安倍氏」とは ?
(13)安倍氏瀬織津姫
(14)安倍氏アラハバキ


こうして、改めて記載項目を見てみると、かなりの量になる事に、驚いてしまいます。


段々と、「早池峯信仰」に関する話題が薄れてきてしまいましたが、これも「安倍氏」と同様、ローカルな話題なので、仕方がないと思われます。


それに比べて「瀬織津姫命」は、全国的に有名な神様ですから、後半は、どうしても「瀬織津姫命」の話が中心になってしまいます。


そこで今回は、前回ブログの最後で予告した通り、「安倍 宗任」が流罪となった「筑前国宗像」で祀られている「宗像三女神」と「瀬織津姫命」に関して、次の話題を紹介したいと思います。


■「宗像三女神」との関係
■「瀬織津姫命」と「湍津姫命」との関係
■「瀬織津姫命」が生まれた背景
■「瀬織津姫命」とその他の神様/人物との関係


最後の章は、「瀬織津姫命」に関する付録みたいな内容になってしまっています。

それでは今回も宜しくお願いします。

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■「宗像三女神」との関係


日本には、各地に「三女神」の伝承が伝わっています。特に有名なのが、「安倍宗任」との関係で取り上げた「宗像氏」が宮司を務めていた「宗像大社」の「宗像三女神」だと思います。


その他の「三女神」と言えば、本ブログで取り上げた次の「三女神」もいらっしゃいます。


・祓戸三女神 :瀬織津姫命(瀬織津比売)、速開都比売速佐須良比売
・遠野三女神 :「お初(瀬織津姫命)」、「お六(速開都比売)」、「お石(速佐須良比売)」


「宗像氏」は、第79代の大宮司嫡流が断絶し、現在では、宮毎に宮司職を設置しているようです。


そして、有名な「宗像三女神」は、次の女神様となります。


田心姫神(たごりひめのかみ) :沖津宮(おきつぐう)、沖ノ島古事記多紀理毘売命
湍津姫神(たぎつひめのかみ) :中津宮(なかつぐう)、大島 → 古事記多岐都比売命
市杵島姫神(いちきしまひめのかみ) :辺津宮(へつぐう)、宗像本土・田島 → 古事記市寸島比売命



本ブログの流れから言えば、次の様な流れになれば、「あ〜、やっぱり、そうなんだ !!」となるのですが・・・この流れは、ちょっと無理があると思います。


→ 従来、古代東北地域では、「巨石」、「滝」、「川」、「巨木」等、様々な自然物が神として信仰されて来た。
→ 「大同元年(806)年」、「始閣藤蔵」が伊豆神社や早池峯神社を建立し、「瀬織津姫命」を御祭神にした。
→ 自然崇拝と「瀬織津姫命」が習合し、御祭神として「瀬織津姫命」を祀る寺社や祠が建立され始める。
→ 「蝦夷」、それに連なる「安倍氏」が、代々「瀬織津姫命」を信仰するようになる。
→ 平安末期、「安倍宗任」が、生き延びて四国/九州に流罪となり、その地でも「瀬織津姫命」を信仰した。
→ 「安倍氏」の信仰が、「宗像氏」に伝わり、「宗像大社」でも、三女神を信仰するようになった。

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ここで、「宗像大社」の由緒/起源を紹介したいと思いますが、「宗像大社」の起源は、神代の時代、「アマテラスとスサノオの誓約(うけい)」に始まると伝えられています。


「アマテラスとスサノオの誓約」とは、高天原を追放された「スサノオ」が、根の国(黄泉の国)に行く前に、姉「アマテラス」に会いに行った際、「アマテラス」と「スサノオ」との間で行われた「占い」、あるいは「賭け」と言われている行為です。


この占いでは、「アマテラス」が、「スサノオ」の「十拳剣(とつかのつるぎ)」を受け取って噛み砕き、口から吐き出した霧から「宗像三女神」が生まれたとされています。


その後、この「三女神」は、天孫降臨で天下った「ニニギノミコト」を助けるために、玄界灘に浮かぶ島々に降り、この地を治めるようになった事が「宗像神社」の始まりとしています。


さらに、その後は、「三韓征伐」神話で有名な「神功皇后」が、この「宗像大社」で戦勝、および道中安全を祈願したことから、以降は、朝廷との繋がりも深め、現在に至っているとされています。

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しかし、これは、事実ではなく、あくまでも大和朝廷が編纂した「古事記」、あるいは「日本書紀」と言う物語の中での話です。


実際、この「宗像信仰」に関係する学術調査を行った静岡理工科大学の報告書では、元々、上記の三女神は、別々の氏族の信仰対象(神様)だったのですが、それが、政治の都合で、「北九州地域」に集められ、現在の「宗像大社」となったとされています。


それが、どの様な関係かと言うと、次の様になっているとしています。


田心姫神(たごりひめ) :沖ノ島出雲氏系の神様
湍津姫神(たぎつひめ) :大島、 大和朝廷の神様
市杵島姫神(いちきしまひめ) :田島、 大陸/半島系の海人族の神様


当時(弥生時代後期)の日本は、ちょうど半島経由で「鉄」の流入が始まった時期で、その「鉄」の利権に関わる、大陸/半島系の氏族、出雲系の氏族、それと大和朝廷が「三つ巴」となり、「鉄」を獲得しようと、必死になっていた時期に重なるとしています。



この頃、「鉄」は、半島から「壱岐」や「沖ノ島」を経由して、北九州(宗像氏)や山陰(出雲)や畿内(大和朝廷)に流入していたようです。


そこで、これら関係者(宗像/出雲/大和朝廷)が、「鉄」の管理に関する協定を結んだのが「アマテラスとスサノオの誓約」で、その結果として生まれたのが「宗像大社」、および「宗像三女神」という訳です。


つまり、三氏族の関係者が「鉄」に関する通商協定を結ぶと共に、「鉄」の流入拠点に祠を建立し、そこに各氏族の信仰する神を祀り、「鉄」貿易に関する安全を祈願し、かつ該当地域を管理した、と言う説です。


元々、宗像地域と出雲地域は、古くから、「鉄」その他を通した通商関係が構築されていたようですが、そこに、「大和朝廷側が、横槍を入れるような感じになったとしています。


このため、宗像地域では、「市杵島姫神」や「田心姫神」を単独で祀る神社があるのですが、逆に、「湍津姫神」を単独で祀る神社が存在しない様です。


この事実が、宗像地域における、三女神の微妙な関係を裏付けているとも言われています。

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この学説は、天皇家(宮内庁)や、神社関係者、その他諸々の利害関係者が存在するので、学会として認めるのは難しいとは思うのですが、これまで多くの説を読んできた私的には、一番、スッキリする内容でした。


この説では、北九州各地の神社の御祭神を全て調べ上げ、さらに数種類存在する前述の「誓約神話」の登場人物、並びに人物の変遷等も調べ上げています。


また、「宗像氏」の系図を調べると共に、北九州から出雲に至る、当時の古墳形状や埋葬品などの関係も調べる等、凄く本格的な調査を行っています。まあ、東北地方の情報に関しては、多くの間違った指摘もありますが・・・


単に、記紀や寺社の由緒書の記載内容から、とんでもない想像を膨らましている、いわゆる「スピリチュアル系」のサイトとは大違いです。


つまり、次の様な観点で、「宗像信仰」と「鉄」との関係を見事に調べ上げています。


・「宗像大社」の由緒書と記紀との関係
・北九州、および出雲の神社の配置と御祭神
・北九州、および出雲の古墳形状と埋葬品
・「鉄」の流入経路の調査
・「宗像大社」の配置図(背後関係)の調査
・「宗像三女神」と各氏族の関係


ここまで綿密に調査し、その結果を理路整然とまとめていますので、なかなか凄い学説だと思います。

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そして、この「宗像三女神」と「瀬織津姫命」との関係ですが、「宗像三女神」の内、「湍津姫神」が、時代は解らないにしても、何時の世からか、「瀬織津姫命」と習合したと言われています。


湍津姫神」の「たぎつ」とは、「滾つ」、つまり、水が激しく流れる様を表すことから、「滝の神」、あるいは「川の神」ともされています。


日本全国に、「滝」、「瀧」、あるいは「多岐」と名の付く多くの神社があり、その御祭神の多くに「湍津姫命」が祀られています。


一方、「瀬織津姫命」も、ずいぶん前に紹介した「大祓詞」では、「瀬織津姫命」は、『 高い山・低い山の頂から勢いよく流れ落ちて渓流となっ ている急流に住んでいる』とされ、こちらも「滝」、および「川」の神様とされています。


また、「湍津姫命」と同様、「滝」、あるいは「瀧」と言う字が付く神社の多くは、「瀬織津姫命」を御祭神にしています。


このため、どちらの女神も、「滝」や「川」等に関係する神であることから同一神と見ている方が多く、先の静岡理工科大学の論文でも、「湍津姫命瀬織津姫命」とみなしています。


さらに興味深いのは、上記「滝」、あるいは「瀧」の字の付く神社では、「湍津姫命」と「瀬織津姫命」を一緒に祀っている神社がほとんど無いそうです。


加えて、「湍津姫命」を祀る地域が多い場所には、「瀬織津姫命」を祀る神社が無く、逆に「瀬織津姫命」を祀る神社が多い地域には、「湍津姫命」を祀る神社が無いそうです。


まあ、岩手県八幡平市の「櫻松(桜松)神社」では、堂々と「瀬織津姫命」と「湍津姫命」の二柱を御祭神としていますので、この調査とは一致しませんが・・・何せ、北九州の「宗像信仰」の調査ですので、その点はご愛嬌かと思います。


そして、これら「排他的」な「御祭神」の配置から推測すると、やはり「瀬織津姫命 = 湍津姫命」となり、どちらも同じ女神で、何時の世からから別名で呼ばれる事になってしまったので、一緒に祀る事が無いのではないかと考えられているようです。


逆に、上記「櫻松神社」では、何故、二柱が一緒に御祭神として祀られているのか ? 逆に、この点の方が興味深いと思います。

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ちなみに、岩手県内で「宗像三女神」関係を祀っている神社は、岩手県神社庁の情報によると、下記18神社となっているようです。

自治 神社 田心姫神 湍津姫神 市杵島姫神 瀬織津姫
洋野町 有家(うげ)神社
久慈市 巽山稲荷神社
厳島神社
八幡平市 厳島神社
櫻松神社
盛岡市 松尾神社
多岐神社
雫石町 沼田神社
紫波町 堤島神社
遠野市 龍神
花巻市 八幡神社
西和賀町 厳島神社
釜石市 厳島神社
三貫嶋神社
北上市 姫神
奥州市 鎮守府八幡宮
神明神社
大船渡市 市杵島神社
18 2 4 16 1


北九州や山陰に比べると非常に少ない数となっています。


しかし・・・調査を行う前までは、岩手県に、遥か彼方の「宗像大社」関連の神様を御祭神にしている神社など、存在しないと思っていたのですが・・・それなりに存在しているので、こちらとしては驚いています。


この内、「瀬織津姫命」と「湍津姫命」二柱を一緒に祀っている、珍しい「櫻松神社」がありますが、全国的に見ると、「瀬織津姫命/湍津姫命」の二柱、あるいは「瀬織津姫命/宗像三女神」の四柱を一緒に祀っているのは、この他には、下記3つの神社くらいではないかと思われます。


・辻八幡宮末社「皐月神社」 :福岡県宗像市 瀬織津姫命と宗像三女神
・「宇賀田神社」 :三重県志摩市 瀬織津姫命と五男三女神
・「中津瀬神社」 :山口県宇部市 瀬織津姫命と宗像三女神(配神)


実際には、上記以外の神社もあると思いますが、さすがに、日本全国各地の神社庁のホームページを探す事は出来ませんでした。


それでは、「瀬織津姫命」と「湍津姫命」とは、どのような関係だったのでしょうか ?

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■「瀬織津姫命」と「湍津姫命」との関係

次に、「瀬織津姫命」と「湍津姫命」の関係について考察してみたいと思います。


前述の学説では、「瀬織津姫命 = 湍津姫命」としており、当初は、大和朝廷の代表として、「瀬織津姫命」が、「宗像大社」に祀られていたと考えているようです。


瀬織津姫命」は、これまで何度も紹介してきた通り、祓戸大神の一柱として非常に重要な神であり、「天照大御神」の「荒ぶる魂(荒御魂)」としても重要な神様です。


このため、「宗像大社」を始め、全国の神社で、現在、「湍津姫命」を御祭神として祀っている神社では、その昔は「瀬織津姫命」を御祭神として祀っていたのではないかとしています。


そして、前述の通り、何時の頃からか、御祭神が「湍津姫命」に変えられてしまったとしています。


瀬織津姫命」が、別の御祭神に変えられてしまった理由としては、次のように諸説入り乱れています。



記紀において、男神天照大御神」が、女神とされてしまったので、その妻「瀬織津姫命」が邪魔者となってしまった。
天皇の正統性を確立した第41代「持統天皇」を、「天照大御神」と同一視させる過程で、やはり「瀬織津姫命」の存在が邪魔になってしまった。
・「瀬織津姫命」が、蝦夷の守護神とされていたので、蝦夷討伐と同時に「瀬織津姫命」も抹殺されてしまった。



確かに、これまで紹介してきたブログの内容を考えると、どの説も、それなりの説得力があるように思えますが、何かイマイチです。



しかし、何れの説も、その背景には、次のようなキーワードが潜んでいるように見受けられます。


・第40代「天武天皇」、および、その妻である第41代「持統天皇(女帝)」の影響
・「日本書紀」の編纂開始と成立
・「持統天皇」による第1回神宮式年遷宮の実施
・大陸/半島との外交活動の影響


特に、第41代「持統天皇」は、有能と言う評価の反面、政治的野心が強い人物と言う評価が非常に多く、夫である第40代「天武天皇」の生前から、政治に関しても数多く口出しをしたと伝えられています。


また、自身の在位期間、さらに、自身の孫となる「軽皇子(後の文武天皇)」に譲位した後も、強い影響力を行使していたとされています。


さらには、前述の通り、自身の孫を天皇に付けるため、「天武天皇」の息子ではありますが、別腹の長男「高市皇子」、および三男「大津王子」を暗殺したとも伝えられる猛女です。


天皇家、さらには自身の神格化を図るためであれば、歴史や事実を「捻じ曲げる」事など、何とも思わない人物であったと思われます。


このため、「持統天皇」にとっては、「日本書紀」は、とても重要な書物になりますので、その中から、「不都合な真実」を消し去ると共に、事実を捻じ曲げる事になったと思います。

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それでは、何故、「大和朝廷」側、つまり「持統天皇」が、日本書紀の「アマテラスとスサノオの誓約(うけい)」神話で、「瀬織津姫命」ではなく「湍津姫命」を登場させたのかと言うと、それは、大きくは次の2点が原因とする説があるようです。


●外交関係上の問題
●神様の出自の問題



持統天皇(645〜703年)」の時代、7世紀中頃から後半に掛けては、大陸には「唐」、半島には、「高句麗」、「新羅」、そして「百済」の三国が並立する時代でしたが、668年以降は、「新羅」が、半島を統一していました。


そして、日本では、630年から遣唐使と言う名称で唐には朝貢しつつも、新羅からは、逆に朝貢を受けると言う複雑な関係だったようですが、663年の「白村江の戦い」で、「唐・新羅」連合軍に大敗しているので、戦後処理や失地回復に必死だったと思います。


しかし、その後、唐と新羅が半島の支配を巡り交戦状態となり、その結果、唐、および新羅の双方から通交を求められ、外交状況は好転していたようです。


そんな状況で、「天武天皇(在位673〜686年)」が、国史の編纂を決定し、その意志を継いだのが「持統天皇」です。


このため、「日本書紀」は、日本国内は当然、大陸や半島の国々に対しても、日本と言う国の生い立ちや、天皇の正統性を伝える事で、国家としての歴史と独立性を伝える重要な書物になると考えるのが当然だと思います。



他方、「瀬織津姫命」と言う神様の生い立ちは、(詳しくは別章で紹介しますが)渡来人、特に「新羅」系の渡来人に由来すると考えられています。


このため、この「セオリツ」と言う言葉の生い立ちは、明治時代の言語学者「金沢庄三郎」によると、元々は、古代韓国語「ソ」、「プル」、「ツ」の3語から形成されているとされています。つまり、


「ソ」・「プル」・「ツ」 :ソ = 大きな or 鉄、プル = 邑(村)、ツ = (助詞)の → 大きな鉄の村 → 新羅

「ソ・ホリ・ツ」 :大きな村、現在の「ソ・ウル」と言う韓国語と同じ

「セオリツ」姫 :大きな村の姫


この通り、「セオリツ姫」とは、元の意味を辿ると、古代韓国語で「大きな村の姫」、「ソウル姫」となってしまいます。


前述のように、日本を、神々が作った独立国家として諸外国に認めさせようとしている時に、その神々の中でも、比較的重要な神の名が「ソウル姫」では話になりません。


特に、「新羅」とは、「白村江の戦い」で大敗した直接の相手国でもありますので、その相手に対して、日本の神は「ソウル姫」、さらに元の名前は「大きな鉄の国の姫」 = 「新羅姫」等とは、口が裂けても言えません。


このため、神の名前が変えられたのは当然と言えば当然だと思います。

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他方、神様の地位も問題になったようです。


瀬織津姫命」以外の「宗像三女神」は、「田心姫命」と「市杵島姫命」ですが、こちらの二柱の神々は「土着の神様」、いわゆる「国津神」です。


神様に関しては、様々な分類方法がありますが、その一番のベースが、次の2種類です。

国津神(くにつかみ) :元々、昔から日本にいた土着の神、地神。例:大国主建御名方神猿田彦、須佐男命、等
天津神(あまつかみ) :高天原にいる神、および地上に降臨してきた神。例:天照大御神月読命武甕槌命、等


ところが、「瀬織津姫命」は、「天津神」のメンバーです。このため、そのままでは、「宗像三女神」には入ることが出来なかったと思われます。


そこで、「湍津姫命」と言う、新しい「国津神」を作り出し、その上で「宗像三女神」としたのだと考えられています。

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これらの理由で、「瀬織津姫命」が歴史から抹消され始めたのですが、北九州、山陰、畿内、そして、その後の大和朝廷の影響力が広がるにつれ、「瀬織津姫命」の名も、どんどん抹殺されてしまったのだと思いますが、一部の地域、例えば、岩手県静岡県等、中央から離れた場所は、「改名の網」から漏れてしまったのだと思います。


ところで、何故、「瀬織津姫命」の名が、「湍津姫命」になったのかというと、詳しいことは、当然解っていませんが、やはり、「大祓詞」の影響があるとしています。


大祓詞」では、「瀬織津姫命」に関しては、次の様な場所にいらっしゃるとしています。


『 高山の末低山の末より 佐久那太理に落ち多岐つ 早川の瀬に坐す瀬織津比売と伝ふ神 』


この「多岐つ」と言う言葉がキーワードです。「多岐つ = タギツ = 湍津」です。


つまり、前述のように、「湍津(たぎつ)姫」の「たぎつ」とは、「瀬織津姫命」をいらっしゃる場所を形容する言葉を起源にしていると推測されています。


この名前の起源から「瀬織津姫命 = 湍津姫命」と考えられるとしています。



それでは、「大祓詞」に登場する「瀬織津姫命」ですが、元々、どのような神様だったのでしょうか ?

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■「瀬織津姫命」が生まれた背景

瀬織津姫命」に関しては、これまで何度も紹介してきた様に、現在の神道関係、および記紀においては、各地の御祭神として祀られているか、あるいは祝詞の一種「大祓詞」にのみ登場する神様ですが、どのような過程を経て、何時生まれて、どのような性格やご利益がある神様なのか等、一切、解らない状況です。


唯一、「大祓詞」の中で、住んでいる場所と、罪穢れの祓い方が紹介されている程度です。


『 遺る罪は在らじと 祓へ給ひ清め給ふ事を 高山の末低山の末より 佐久那太理に落ち多岐つ 早川の瀬に坐す瀬織津比売と伝ふ神 大海原に持出でなむ 』


→ こうして祓い清められた全ての罪は、高い山・低い山の頂から勢いよく流れ落ちて渓流となっている急流にいらっしゃる瀬織津比売と呼ばれる女神が大海原に持ち去ってくださるだろう


罪穢れを払い去って下さる事は、本当に、ありがたいのですが・・・

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「セオリツヒメ」に関しては、本ブログでは、便宜上「瀬織津姫」と言う漢字に統一して使っていますが、それ以外は、次の様な漢字で表されています。

・瀬織津比竎
瀬織津比売
・瀬織津媛


特に「ヒメ」と言う漢字ですが、上記「比竎」、「比売(賣)」、「媛」以外では、「日女」、「火売(賣)」、そして「姫」等と言う漢字があります。


何で、こんなに沢山「ヒメ」という字があるのかと思ってしまいますが、この件に関して、先の学説では、元々、「女神」を表す「ヒメ」と言う字は、「比竎(ひめ)」と言う字しか存在しなかったようです。


他方、「比竎」と言えば、「比竎神」、あるいは「比竎大神」と呼ばれる女神がいます。


そして、「比竎(大)神」と言う神様ですが、現在の説では、「比竎神」と言う特定の神様は存在せず、主祭神の親族や関係の深い神様を、主祭神の配神として祀るケースが多いとされています。


また、「比竎(大)神」を祀る神社として有名なのが、下記の神社となります。


大分県宇佐市宇佐神宮」 :主祭神八幡神(応神天皇誉田別尊)」、「比竎大神(宗像三女神)」、「神功皇后」の三柱。全国約44,000社の「八幡宮」の総本社。
・石川県白山市「白山比竎神社」 :主祭神「白山比竎大神(菊理媛命)」、「伊邪那岐(イザナギ)尊」、「伊弉冉(イザナミ)尊」の三柱。全国約2,000社の「白山神社」の総本社。
奈良県奈良市春日大社」 :主祭神「武甕槌(タケミカズチ)命」、「経津主(フツヌシ)命」、「天児屋根(アメノコヤネ)命」、「比竎神(天児屋根命の妻)」の四柱。藤原氏氏神を祀る神社。
熊本県阿蘇市阿蘇神社」 :主祭神「健磐龍(タケイワタツ)命」、「阿蘇都比竎命」他十柱、合計「阿蘇十二明神」。全国約450社の「阿蘇神社」の総本社。


そして、上記4つの神社は、現在は、全く異なる御祭神を祀る神社ですが、その始祖を辿れば、当初は、全て新羅系渡来人を祀っていた神社ではないかと考えられています。


宇佐神宮応神天皇を祀る神社であるが、元は、新羅系渡来人「秦氏」の氏神を祀っていたと思われる。
・白山比竎神社 :「白山」自体を御神体とし、新羅系渡来人「秦氏」の子孫と伝わる「秦澄」が開山した神社。
春日大社 :中臣氏(後の藤原氏)の氏神を祀る。中臣氏は、新羅系「秦氏」の一族と見られる。
阿蘇神社 :「阿蘇氏」の始祖を祀る神社。「阿蘇氏」は、新羅系渡来人「多氏(おおうじ)」の子孫と伝わる。


他方、日本の神様には、ランクがあるのはご存知ですよね ?


よく、稲荷神社などには、「正一位稲荷大明神」と言う「ノボリ」がひるがえっているのを見たことがあると思いますが、この「正一位」と言うのがランクの一種となります。


「神様のランク」、正式には「神階」と呼ばれるものですが、人臣に授ける階位と同じ仕組みで、次の3種類あります。


【 文位 】
別名「位階」とも呼ばれ、「正六位」から「正一位」までの15階の位と階位を超越した神社、計16種類の位がある。例えば、「六国史」完成時点の神階は、次の通りです(※六国史以降は神階を乱発)。

位階超越 :伊勢神宮伊勢大神」、國懸神宮「國懸(くにかかす)神」、日前神社「日前(ひのくま)神」
正一位 :宮中の八神、春日大社春日神」、大名持神社「大己貴(おおなむち)神」、等
従一位 :宮中「宗像三比竎神」、廣田神社「広田神」、住吉大社「住吉神」、諏訪大社建御名方神」、等
正二位 :熱田神宮「熱田神」、宗像大社「三比竎神」、二荒山神社「二荒神」、阿蘇神社「健磐龍神」、等
従二位 :月山神社「月山神」、熊野大宮神社「熊野巫神」、鳥海山大物忌神社大物忌神」、等
正三位 :白山比竎神社 「白山比竎神」、富士山本宮浅間大社「浅間神」、金峯神社「金峰神」、等
従三位阿蘇神社「阿蘇比竎神」、波比売神社「波比売神」、伏見稲荷大社「稲荷神」、等
以下は、正四位従四位上従四位下正五位従五位上従五位下正六位従六位上従六位下


【 武位 】
別名「勲等」、「勲位」とも呼ばれる階位で、「勲十二等」から「勲一等」までの12等があり、武勲を上げた神様に授けられる。「神様の武勲」とは、戦勝祈願を行った際、実際に戦に勝利した場合など。

勲一等 :春日大社春日神」、香取神社「伊波比主(いわいぬし)神」、鹿島神宮武甕槌神」、等
勲二等 :松尾大社「松尾神」、葛城一言主神社「葛城一言主神」、等
勲三等 :鳥海山大物忌神社大物忌神」、大和神社倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)」、等
勲四等 :二荒山神社「二荒神」、等
勲五等 :阿蘇神社「健磐龍神」、日高見神社「日高見水神」


【 品位 】
人に授ける場合は皇族のみで皇族の位階を表す。神に授けた例は殆ど無い。中国の「九品」に由来し、新羅の「骨品制」がある。

一品 :宇佐神宮八幡神」/「八幡比竎神」、伊弉諾神宮「伊弉諾神
二品 :吉備津神社吉備津彦命

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「神様」にも階位を付けるなど、「無礼千万」な感じがしますが、「律令制」が導入された当初は、「神階」の順に応じて土地を支給する制度があったそうですが、その内に、「位田」の支給は無くなり、栄誉/名誉的な要素が強くなったようです。


「神階」は、当初、神官や国司の申請に基づき公卿が検討し、天皇への奏聞(そうもん)を経て決定していたのですが、平安時代になると神官や国司が、室町時代以降は「吉田家」が、「宗源宣旨(そうげんせんじ)」と呼ばれる宣旨で、勝手に神階を発行するようになってしまったようです。


「神様」に、最初に「位階」を授けた事に関しては、「日本書紀」に、「壬申の乱(673年)」に際して、大海人皇子(後の天武天皇)を守護したとして位を授けた、と言う記述があるそうです。


高市御県坐鴨事代主神(たけちのみあがにますかものことしろぬしのかみ)
・牟狭坐神(むさにますのかみ)
・村屋坐弥富都比売神(むらやにますみふつひめのかみ)


「武位」に関しては、「藤原仲麻呂の乱(765年)」に際して、霊験を現したとして、琵琶湖の竹生島にある「都久夫須麻神社」の「都久夫須麻神」に「勲八等」を授けた事が記録されているようです。


そして「品位(ほんい)」ですが、奈良時代の「天平勝宝元年(749年)」に、「宇佐神宮」の「八幡神」と、その妻となる「八幡比竎神」に、それぞれ「一品」、および「二品」を授けたとしています。


本ブログを書く前は、「正一位の神社は凄いご利益があるんだろうな〜」等と勝手に思い込んでいたのですが・・・、こうして調べてみると、現在「正一位」とか謳っている神社も、「何だかな〜」と言う感じがしてしまいます。

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しかし、「宇佐神宮」の「八幡神/八幡比竎神」の取り扱いは「異例中の異例」だと思います。


まあ、「伊弉諾神宮」や「吉備津神社」の扱いも特別ですが、こちらは、「品位」が授けられたのは9世紀とされていますので、やはり「宇佐八幡」は、特別なのだと思います。


「宇佐八幡」の主祭神は、前述の三柱ですが、一之御殿の御祭神は「八幡大神」とも呼ばれている「応神天皇(諱:誉田別尊(ほむたわけのみこと)」になっています。


これは、第29代「欽明天皇(在位539〜571年)」の時代となる569年、宇佐の地に、1つの身体に頭が8個ある「鍛冶翁(かじのおきな)」が現れ、この姿を見た者が、病気になったり、死んでしまったりしたそうです。



これを聞いた「大神比義(おおがのひぎ)」と言う「大神」氏の始祖となる人物が見に行くと、既に翁はおらず、代わりに「金色の鷹」がおり、この鷹も「金色の鳩」に姿を変えたそうです。


その後、この地で祈祷をすること三年、三才の童子が現れ、次の託宣(たくせん)を告げた後、「黄金の鷹」になり松の枝に止まったとされています。


『 われは誉田(ほむだ)の天皇(すめらみこ)広幡(ひろはた)八幡麿(やはたまろ)なり。わが名は、護国霊験(ごごくれいげん)威力神通(いりょくじんつう)大自在王菩薩(だいじざいおうぼさつ)で、 神道として垂迹せし者なり。 』



その後、飛鳥時代となる「和銅元年(708年)」、松があった地に「八幡様」を祀る「鷹居社」を創建し、さらに現在の地に遷宮をしたのが「宇佐神宮」とされています。


そして次の、二之御殿には、上記の「品位」の説明では、「八幡比竎神」として、「八幡神」の妻を祀るとしていますが、実際は、宗像三女神となる「多岐津(たぎつ)姫命」、「市杵嶋姫命」、「多紀理(たぎり)姫命」が祀られています。


実は、この三柱は、「八幡神」を祀るより以前、神代の時代には、既に「宇佐嶋」に降臨した事が「日本書紀」に記載されおり、「地主神」として祀られていたそうですが、これを「天平5年(733年)」、二之御殿として祀ったものとされています。



最後に、三之御殿には、二之御殿より遅れること100年、平安時代弘仁14年(823年)」に、「神功皇后」が祀られているようになったとされていますが、「神功皇后」は、「応神天皇」の母親とされていますので、宇佐においても「母神」と言う位置付けになっているようです。


さて、「宇佐神宮」が、神階の「品位」を授かった理由ですが、「応神天皇」を祀っている事が理由では無いようです。


聖武天皇」の御代、奈良時代となる「天平15年(743年)」の東大寺造営の際、宇佐神宮宮司等が、託宣を携えて上京し、造営を支援したことから中央との結びつきを強め、その結果として「品位」を授かったと言われています。

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さて、神様の階級について触れましたが、先の学説では、「ヒメ」と言う字にも、階級があるとしています。


前述の通り、元々、「ヒメ」と言う字は、「比竎」と言う字しか存在しなかったとしています。


その証拠としては、神社に、複数の女神が祀られている場合、主祭神には「比竎」の文字が使われ、それ以外の女神には、「比竎」以外の文字、「比売(賣)」、「媛」、「日女」、「火売(賣)」、そして「姫」が使われているようです。


そして、「祓戸三神」や「宗像三神」等、同格の女神が祀られている場合は、全ての女神に「比竎」の字が使われているようです。


他方、例えば、同じ女神でも、「比竎」が付くケースと、「比竎」以外、例えば、「比売(賣)」が付けられるケースがありますが、「比竎」が付く時には主祭神で、「比売」等が付く時には「配神」となるケースが多く見受けられます。


さらに、同じ「比竎」が付く女神でも、次の順位となっているように見受けられるとしています。

八幡系 → 春日系 → 白山系 → 祓戸系


これは、例えば、八幡系と白山系の女神が二柱祀られている場合、八幡系は「比竎」となり、白山系は「比賣」となるという現象です。


何か、「カードゲーム」の強さを競っているような感じですが、やはり「品位」が高い、八幡系の「比竎」が、最も尊ばれていたようです。


それでは、どうして八幡系「比竎」が、最も尊ばれるのかと言うと、やはり、国内への伝播が速かった事が順位/強さに影響を与えているようですが、前述の通り、ほぼ全ての「比竎神」は、新羅系渡来人が持ち込んだ神様です。


これらの事から、「比竎神」とは、当初は、単一の神を示していると考えられています。


このため、当初の「比竎神」と区別するため、後から生まれた女神には、「固有名詞 」+「比竎」が付けられ、その順位/権威により、「比竎」が付いたり、「比売」が付いたりしたのではないかと考えられています。


ちなみに、「比竎」が付く女神でも、「菊理媛(くくりひめ)命」には、別のルーツがあるとも考えられています。


前述の説明では、「白山神社」も、新羅系渡来人「秦氏」の血を引く「泰澄」が開山した「白山比竎神社」が総本社ですので、こちらも新羅系の「比竎」を祀るとしましたが、この「ククル」については、様々な説があるようです。

・括る :「日本書紀」で「イザナギ」が黄泉の国から帰る場面で、「イザナミ」との仲を取り持ったと言う説
高句麗 :「くくり=こうくり(高句麗)」とし、高句麗系渡来人の「比竎神」ではないかとの説
・潜る :「くぐる」。水との関係で「水神」と言う説

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さて、それでは、「最初の比竎神は、誰だったのか ? 」と言う点が問題になります。


漢字はさて置き、「ヒメ」と言うのは、元々、女性に付けられる尊称で、古くは、女性の族長/首長を表していたとされています。


日本、3世紀当時の「倭国」における「女性の族長/首長」と言うと、皆さん、誰を思い浮かべますか ?


また、「ヒメ」と言う字に当てられた「比竎」ですが、これを「ヒメ」と読むのは、おかしいと思いませんか ?


通常、「比竎」という漢字は、「ヒミ」と読むのが普通で、その昔は、やはり「比竎」と書いて「ヒミ」と読んでいたとされています。


このため、宇佐神宮に祀られていた女神「比竎」は、「ヒメ」ではなく「ヒミ」と言う女神が祀られていたと考えられています。


と言うことで、先の学説では、当時の「倭国」で、女性の族長/首長で、名前に「ヒミ」が付くと言えば、「卑弥呼」しか思い当たらないとしています。


そして、「卑弥呼」の「呼」は、元々は、「乎」と言う漢字で、この字は、神の名を呼ぶ際、神の名を強調するための感嘆符「!(エクスクラメーションマーク)」とされていますので、「比竎」と言う神を呼ぶ際、「ヒミ !」と呼んでいたものが、「ヒミコ」として「魏志倭人伝」に記録されたものだと考えれています。


以上の事から、宇佐神宮に祀られていた「比竎大神」は「卑弥呼」であり、ここを起源として、新羅系の渡来人が各地に拡散すると同時に、「比竎大神」も日本各地に祀られるようになったと考えれています。


ところが、その後、「瀬織津比竎」を始め、様々な女神が登場すると、オリジナルの「比竎大神」と区別するために「固有詞 + 比竎」と言う表記方法になって行ったと推測されています。


「瀬織津比竎」の場合、前述の通り、オリジナルの「比竎 = 卑弥呼」と区別するために、「比竎」の前に、「大きな鉄の国 = ソウル」を付けて「ソウル + 比竎 = 瀬織津比竎」になったと考えられます。


その後、日本書紀の編纂、そして完成を迎えるまでの間に、「瀬織津比竎」が「湍津比竎」に強制的に変更させられ、さらに「比竎」と言う漢字も、徐々に「姫」と言う漢字に変わって行ったのだと考えられています。


しかし、中央から遠く離れた東北、特に岩手県、それと新羅系の渡来人が数多く住んでいた静岡県に関しては、大和朝廷の監視の網から漏れてしまい、今に至るまで御祭神としての「瀬織津比竎」が残ったままになってしまったのだと思います、

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■「瀬織津姫命」とその他の神様、人物、物との関係

さて、本シリーズの最後となりますが、「瀬織津姫命」と習合しているとされる、その他の神様や人物を紹介したいと思います。


最初に「織姫」を紹介します。


日本における「織姫」は、「七夕伝説」で有名ですが、その起源は、中国の「道教」の「牛郎織女(ぎゅうろうしゅくじょ)」と言う七夕伝説に登場する「仙女」と言われています。


また、平安時代に編纂された神道の書物「古語拾遺」においては、過去ブログで紹介した「天の岩戸」伝説に登場し、「天照大御神」に献上する衣(神衣和衣)を織った「天棚機姫神(あめたねばたひめ)」と同一視しているようです。


他方、「瀬織津姫命」には、その名前に「織」と言う字が付くことから、この「織姫」と習合させているケースも多く見受けられます。


しかし、こちらの説、つまり「瀬織津姫命 = 織姫」説は、現在の所、ほぼ何の根拠も裏付けもない説のように見受けられます。


瀬織津姫命」が、謎の多い神様であることをいい事に、スピリチュアル系の方々が、勝手に習合してるだけのようです。

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次は、京都市にある「貴船神社」の御祭神「高龗神(たかおかみのかみ)」と習合しているケースも見受けられるようです。


この御祭神は、日本書紀では「高龗神」と表記され、古事記では「淤加美神(おかみのかみ)」と表記されているそうですが、水の神様「水神」とされています。


前述の「宗像大社」がある宗像市の隣の福津市津屋崎には「波折神社」がありますが、この神社の御祭神が「瀬織津姫命」となっております。


そして、江戸時代の『筑前国風土記付録』には、この「波折神社」の御祭神は「貴船神」と記載されてるそうです。


福岡藩国学者「青柳 種信」は、この「波折神社」の由緒書を作成する際、「当社に祭るところの神は瀬織津姫大神また木船神とも称え申す」としたそうです。


また、「宗像大社」に伝わる古文書で、鎌倉時代末に編纂された「宗像大菩薩御縁起」には、「貴船大明神が大宮司館に祀られていた。」とされていますので、「宗像大社」と「高龗神」は、密接に繋がっていたと思われます。

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瀬織津姫命」は、これまで何度も紹介した通り、「大祓詞」に登場する「祓戸四柱」の一柱で、清流に住んでいるとされるところから、水や滝、それと龍神様と習合するケースも多く見られます。


上記の「高龗神」/「淤加美神」も、水神様とされていますので、まさに、この関係だと思います。


日本全国、到る所で、滝(瀧)に関係する神社には、「瀬織津姫命」が御祭神になっている神社が沢山あります。


このように、滝(瀧)、および河川に、「大蛇」、あるいは「竜(龍)」と関連付けているケースもあるので、水や蛇、あるいは滝と言うキーワードに関連する、神社の多くに「瀬織津姫命」が祀られています。


さらに、元々は、ヒンドゥー教の女神「サラスヴァティー」だった「弁財天」が、仏教の伝来と同時に日本にも伝わり、様々な神仏と習合して祀られるようになりました。


この女神は、インドに於いては「河川の神様」だった事から、日本でも、「水関係」と結び付いて祀られたのですが、やはり「水関係」と言うことで、「瀬織津姫命」と習合したケースも見受けられます。

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その他は、と言うと「瀬織津姫命」と「鉄」の関係です。


瀬織津姫命」と「鉄」の関係としては、前述の通り、「瀬織津姫命」が、「大きな鉄の国の姫」を意味していると言う説がある通り、「鉄」とは密接な関係があると言われています。


そして、日本において「鉄」と言うと、「金山様」、あるいは「金山彦命」がいらっしゃり、どちらも「鍛冶屋の神様」と言われています。


しかし、「金山様/金山彦命」と「瀬織津姫命」とは、実際には、余り結び付いていないように見受けられます。


一部の神社で、御祭神として一緒に祀られいるケースも見受けられますが、その関係は希薄です。


前述の学説では、「瀬織津姫命」と「鉄」は、「宗像大社」をめぐり、非常に強い関係が築かれているようだったのですが、何か意外な感じがします。

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最後に、「瀬織津姫命」と習合した者として、三途の川で、亡者の衣類を剥ぎ取る「奪衣婆(だつえば)」を紹介しますが・・・こちらも、確かな証拠や根拠は無い様に見受けられます。


「奪衣婆」は、別名「葬頭河婆(そうづかば)」、「正塚婆(しょうづかのばば)」、「姥神(うばがみ)」、あるいは「優婆尊(うばそん)」等とも言われる女性です。


そして、この「奪衣婆」は、三途の川で、次のような行為を行うと伝えられています。


・亡者が盗みを働かないように指の骨を折る
・亡者の衣類を剥ぎ取る
・服が無い亡者の場合、皮を剥ぎ取る
・剥ぎ取った衣類の重さで、生前の業の深さを測り、死後の処遇を決める


また、「奪衣婆」が剥ぎ取った衣類を、川の畔にある「衣領樹」と言う大樹に掛けて、その重さを測る「懸衣翁(けんえおう)」と言う老人も居るそうですが、何故か、「奪衣婆」のみがクローズアップされ、この「懸衣翁」の影は薄くなってしまったそうです。


そして、この「奪衣婆」と「瀬織津姫命」の関係ですが、一説では、この「衣類を剥ぎ取る」行為が、人間の穢を払う行為と同一視され、その結果、「奪衣婆」と「瀬織津姫命」が習合したと言われているようです。


しかし、この説も、何の根拠も無く、信憑性が薄いようです。

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以上が、「瀬織津姫命」と習合した、代表的な神様や人物となります。


しかし、何度も記載していますが、「瀬織津姫命」自体、謎だらけの神様なので、皆さん、特にスピリチュアル系の方々は、好き放題、様々な者に習合してしまっています。


「鬼女」として有名な「橋姫」、「浦島太郎」伝説に登場する「乙姫」、「宗像三女神」の一柱「市杵島姫神」、「天照大御神」の弟「月読命」・・・もう、本当になんでもありの状況です。


このような状況ですので、「瀬織津姫命」は、今後も、自分の都合の良い神様や人物に習合され続けて行くのだと思われます。


余計、訳が分からない神様になってしまうような感じがします。

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もはや、「早池峯信仰」は影も形も無くなってしまいましたが、「瀬織津姫命」に関して、次の内容を紹介しました。


■「宗像三女神」との関係
■「瀬織津姫命」と「湍津姫命」との関係
■「瀬織津姫命」が生まれた背景
■「瀬織津姫命」とその他の神様/人物との関係


今回は、シリーズの最後として、「瀬織津姫命」と言う女神が生まれた経緯を、「宗像信仰」に関係する学術調査を行った静岡理工科大学の学説をベースとして紹介しましたが如何でしたか ?


瀬織津姫命」の正体に関しては、諸説入り乱れて、何が何だか解らない状況になってしまっていますが、私としては、今回紹介した説が、現在の状況では、一番筋が通った内容になっているのではないかと思っています。



本シリーズでは、当初、「早池峯権現 = 瀬織津姫命」とし、その「瀬織津姫命」が、実は、「熊野権現」であると言う、数々の証拠を紹介して来ました。


しかし、「早池峯信仰」に関しては、そのオリジナルが「熊野信仰」である事が明らかになった時点で、その役目が終わりを迎えてしまった訳ですが、これは、(言い訳ではありませんが)最初から予想した通りのシナリオです。


「早池峯権現 = 瀬織津姫命」に関しては、既に2015年のブログで紹介していますので、今回は、当初から「瀬織津姫命」の謎を追求しようと思っていました。

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瀬織津姫命」は、信仰よりも政治が優先され、その結果、歴史から消えてしまった可愛そうな女神だと思いますが、神道も仏教も、結局の所は、為政者の都合により広がった信仰ですから、これは宿命とも言えるかと思います。


神様も仏様も、ある時点で、「こんな神様や仏様が居れば良いな〜」と言うことで誕生した存在です。


自然信仰の場合、山で安定した生活を暮らしたければ「山神様」、水が欲しければ「水神様」、海で大漁を祈願する時には「海神様」・・・全て人間の都合を優先して生まれた神様です。


また、大和朝廷、特に「天皇」の正当性を伝えるために生まれたのが、「伊邪那岐/伊邪那美」、それと「天照大御神」を始めとした神道系の神様達です。


そして、大和朝廷が、全国制覇を目指し、自然崇拝で祀られていた神様を淘汰し、全てを神道系の神様に置き換える行為が行われたのが、「持統天皇」以降の動きなのだと思います。


さらに、これらの神様では事足りず、海外から輸入したのが仏教で、その中心が、「如来」であり「菩薩」となります。


また、仏教に関しては、これら「如来」や「菩薩」でも人間を改心させることが出来ないと分かるや、インドの古代信仰やヒンドゥー教、あるいはゾロアスター教の神々までも「天部」として仏教に取り込んでいます。


その後、「本地垂迹思想」の元、「神道の神様」と「仏教の仏様」を同一視させたのは、過去に、自然崇拝で祀っていた神様を、神道系の神様に置き換えた考えや行為と全く同じです。

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本当に、人間、特に何らかの権力を持つ者の「欲」は際限ありません。


信仰対象を生み出した者達は、自分の考えを他人に押し付けるために、起きた事柄を都合よく捻じ曲げます。


そして、挙げ句の果てには「聖戦だ !」、「仏敵だ !」とホザイて、自分達の信仰を信じない者を攻撃し出します。


それが、過去の「十字軍」であり、現代では、カトリック武装組織「IRA」であり、「イスラム教徒」による数々のテロ行為です。


また、日本の「オウム真理教」は、トンデモナイ行為を行った宗教団体として非難されていますが、これが1,000年前ならば、当然、当時の為政者からは迫害されるとは思いますが、当時の宗教家としては、普通の行為だったのではないかと思われます。


1,000年前に「オウム真理教」が誕生し、今日まで活動が続いていれば、現在では多数の信者を抱える、一大宗教となっていた可能性も否定出来ないと思います。



今回紹介した「瀬織津姫命」も、冷淡な言い方をすれば、結局の所、政治の都合で生まれ、また政治の都合で表舞台から消された女神と言う事と言うのが全てなのだと思います。


それでは次回も宜しくお願いします。

以上

【画像・情報提供先】
Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)
岩手県神社庁(http://www.jinjacho.jp/)
・風琳堂(http://furindo.webcrow.jp/index.html)
花巻市ホームページ(https://www.city.hanamaki.iwate.jp)
・レファレンス協同データベース(http://crd.ndl.go.jp/reference/)
・Yahoo/ZENRIN(https://map.yahoo.co.jp/)
・千時千一夜(https://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo)
・公益財団法人岩戸山保存会(http://www.iwatoyama.jp/)
・IKUIKUの愉しみ(http://ikuiku-1919.at.webry.info/?pc=on)
田村神社(http://tamura-jinja.com/index.htm
・いわての文化情報大事典(http://www.bunka.pref.iwate.jp/
・むなかた電子博物館(http://www.d-munahaku.com/index.jsp)
宇佐神宮(http://www.usajinguu.com/index.html)