岩手の工芸品 〜 地味だけど丈夫で長持ち その4 (木工品)


今回の「岩手・盛岡」情報も、前回に引き続き、「岩手の工芸品」を紹介するシリーズとなります。


前回までは、次の工芸品を紹介してきましたが、今回は、その第四弾として、「岩手の木工品」を紹介したいと思います。


★過去ブログ
岩手の工芸品 〜 地味だけど丈夫で長持ち その1(漆)
岩手の工芸品 〜 地味だけど丈夫で長持ち その2(南部鉄器)
岩手の工芸品 〜 地味だけど丈夫で長持ち その3(琥珀)


岩手県は、古くから、日本国内でも有数の「桐」の産地として有名で、古くから「桐」を中心にした「家具・木工品」の製造が盛んでした。


このため、その昔は、どちらも東北地方ですが、福島の「会津桐」と、岩手の「南部桐」が、日本における「桐製品」の双璧をなすとも言われていた様です。


また、「桐」に関しては、岩手県の「県花」が「桐」になっているので、下記過去ブログで、「県花」になった由来とか、何故、岩手県が、「桐」の名産地になったのか等を紹介しています。


★過去ブログ:7月開催の花まつり 〜 狙い目は外国人



前回ブログで紹介した「漆器」も、表面に塗る「漆」に関する情報を中心に紹介し、その本体である「器」部分の説明は割愛したのですが、よく考えれば、当然、この「器」も、ちゃんとした「木工品」です。


岩手県では、「桐」、それと上記「漆器」にも使われる事が多い、水目桜(ミズメザクラ)、栃(トチ)、欅(ケヤキ)等、落葉高木の生産量が非常に多く、国内では、北海道に次ぐ二番目の生産量となっています。


まあ、岩手県自体の面積も、本州で一番、日本全体では、北海道に次ぐ二番目で、そのほとんどが「山」ですから、木材の生産量が多いのは、当たり前と言えば、当たり前だと思いますが・・・


生産が盛んな木工品ですが、中でも、岩手を代表する木工品と言えば、他の意見もあるとは思いますが、私は、「南部桐箪笥」と「岩谷堂箪笥」の二品だと思います。


そこで、今回は、「桐」に関する雑学から始め、木工品に関しては、「岩谷堂箪笥」を中心に、次の内容を紹介したいと思います。


●「桐」に関する雑学
●岩谷堂箪笥について
●南部桐について


それでは今回も宜しくお願い申し上げます。


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■「桐」に関する雑学


「桐」は、これも過去に紹介した「漆」と同様、原産地は中国とされていますが、、日本においては、北海道の北部以外、ほぼ全土に渡り、広く植栽されている樹木です。


また、「桐」は、古くから日本人に愛されると共に、「神聖な木」と見なされ、数多くの「家紋」や「紋章」として使われ続けてきた歴史があります。


「何故、桐が神聖なのか ?」と言うと、中国最古の詩篇詩経(しきょう)」に、下記のような記述がある事が理由とされています。


鳳凰は梧桐にあらざれば栖まず、竹実にあらざれば食わず 』



これを現代語にすると、「(霊鳥である)鳳凰は、100年に一度しか実を付けない竹の実を食し、梧桐(あおぎり)にしか止まらない。」となります。(※「霊鳥」は私が付加)


このため、、日本においても、平安時代延暦年間(782〜806年)頃、「嵯峨天皇」が、天皇の衣類の刺繍(ししゅう)や型染めとして、「五七の桐紋」を用いるようになったと言われています。


そして、その後、「桐紋」は、「菊の御紋」に次ぐ「高貴な紋」として、主に皇室関係で用いられるようになりましたが、室町時代から安土桃山時代にかけては、将軍や有力大名などの武家に好まれた様です。



「桐紋」を好んだ人物としては、足利尊氏織田信長豊臣秀吉が有名ですが、彼らも、勝手に「桐紋」を使っていた訳ではなく、天皇から「桐紋」を賜って使っていました。


このため、室町時代から安土桃山時代までは、「天下人」となった武家だけが使える、特別な「紋章」と言う意味を持つようになったのですが、征夷大将軍となった徳川家康が、天皇からの「桐紋」の授与を断ったので、江戸時代においては、「天下人」と言う意味がなくなり、普通の庶民までも「桐紋」を使うようになってしまったそうです。

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このような経緯もあり、江戸時代以降、皇室では、余り「桐紋」を使わなくなったそうです。


また、明治時代になると、官報で、「菊御紋」に関しては、正式に使用規定が定められたのに対して、「桐紋」に関しては、使用方法を特に定めない旨が通達されたので、さらに民間や庶民にまで、広く使われるようになってしまったみたいです。


このため、それ以降、「桐紋」は次のような図柄に使われるようになっています。


勲章、硬貨、ビザ、パスポート、校章、官邸備品、内閣府マーク、徽章、ロゴマーク・・・


要は、もう何でも有りの状態となってしまった様です。



ちなみに、「桐紋」には、様々なバージョンがありますが、中でも前述の「五七の桐」と「五三の桐」が有名ですが、この「五七」とか「五三」の意味を知っていますか ?


前に紹介したのが「五七の桐」で、こちらの右の画像が「五三の桐」です。


よ〜く見て下さい。特に、葉っぱの上、枝の数です。


前の画像では、枝の数が「五本と七本」の組み合わせですが、こちらは「三本と五本」の組み合わせです。


もうお解りですよね ! 枝の数が「五七」と「五三」の違いが、「桐紋」の違いとなっています。



ちなみに、前述の「詩経」にあった「梧桐(あおぎり)」ですが、本当は「桐」とは全く別の植物らしいです。


このため、「桐」と「梧桐(青桐)」を区別するため、「桐」の事を「白桐」と呼び、「梧桐」と区別している書物もある様です。


・(白)桐 : シソ目キリ科キリ属
・梧桐 : アオイ目アオイ科アオギリ


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それと、「紋章」ついで、と言うと宮内庁に怒られるかもしれませんが、「菊の御紋」、正式名所は「菊花紋章」と言うようですが、これにも多くのバージョンがあります。


・花弁の数による分類 :「十菊」、「十二菊」、そして「十六菊」等がある
・花の重なりによる分類 :「八重」、「九重」等がある
・花の表裏による分類 :「表菊、「裏菊」がある


「菊」も、これまで紹介した「漆」や「桐」と同様、奈良時代に中国から伝来した植物で、その美しさから「君子(聖人)」にも例えられ、「梅」、」「竹」、「欄」と共に、花の「四君子」と称されていたそうです。


また、遣唐使により様々な新しい情報が中国(当時:唐)からもたらされ、平安時代には、「菊」には、不老長寿の効果があると伝えられたので、旧暦の9月9日を「菊の節句(重陽節句)」として、「菊花酒(菊酒)」を飲んで邪気を払い、長寿を祈念する宴が催されたりしたそうです。


左上の紋章は「十六八重表菊」と言う紋章で、現在では、日本の天皇や皇室を現す紋章となっていますが、正式に、天皇/皇室を現す事に決まったのは明治時代以降です。


元々、前述の通り、「菊」は日本原産ではありませんし、平安時代などは、天皇以外、一般の貴族も、着物の文様として普通に使っていたそうです。


ところが、下記の過去ブログでも少し触れていますが、鎌倉時代、(後白河天皇の孫となる)「後鳥羽天皇(1183-1198年)」が、「菊マニア」となり、御服や懐紙等、身の回りの品々に「菊花紋様」を付けた事で、他の貴族たちは遠慮して、「菊花紋様」の使用を控えるようになったと伝わっています。


★過去ブログ:ナニャドヤラ 〜 北東北人はユダヤ人 ?


そして、その後、天皇になった人物も、「菊花文様」を、自らの印として用い続けたので、この事が皇室の慣例となり、特に、先の「十六八重表菊」が、皇室の紋として定着したそうです。


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しかし、そうなると、「五七の桐」は平安時代から天皇家で使われたのに対し、「菊花文様」は鎌倉時代ですから、本来であれば、「五七の桐」の方が、皇室が使った歴史が長いので、皇室を現す正式な文様になったのではないかと思われますが・・・


やはり、江戸時代に、庶民にまで広がり過ぎた事が影響したので、明治政府は、「菊花文様」を皇室の文様に採用したのだと思います。


ちなみに、その他の「菊」の紋章として有名なのは、左の画像、「楠木正成」が、「後醍醐天皇」から賜った家紋があります。


その他、現在の宮家でも、「菊」を取り入れた様々な紋章が有るようです。








皇室、と言うか宮内庁も、宮家を新設する際には、ロゴマークではなく「家紋」も考案する必要があり、中々大変なのだと思い至りました。


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■岩谷堂箪笥について


本章では、「岩谷堂(いわやどう)箪笥」を紹介したいと思いますが、皆さん、「岩谷堂」と聞いて、何を最初に思い浮かべますか ?


やはり箪笥ですか ?


私などは、「箪笥」には誠に申し訳ありませんが、「箪笥」よりも「羊羹(ようかん)」を思い浮かべてしまいます。


子供の頃、何かの折の引き出物とかお土産で、たまに食べていた「岩谷堂羊羹」。中でも「栗羊羹」は最高でした。


何処を切っても大粒の「栗」が、ゴロゴロ入っていて、子供ながらに、凄い羊羹だと感心して食べた思い出があります。


今では、「栗羊羹」の中に、大粒の栗が入っている羊羹は沢山ありますが、その昔、私が子供の頃ですから、50年位に、これほど大粒の栗が入った「栗羊羹」は無かったのではないかと思います。勝手な想像ですが・・・


掲載した画像の「岩谷堂羊羹」を製造販売している会社は、株式会社「回進堂」と言う企業になり、今では、「岩谷堂羊羹」と言うと、この「回進堂」の羊羹を思い浮かべる方が多いのではないかと思われます。


しかし、「回進堂」は、昭和2年創業なのですが、同じく「岩谷堂羊羹」を製造販売そしている「菊泉堂」と言う企業は、明治36年(1903年)の創業ですから、実は、「菊泉堂」の方が、歴史ある企業なのかもしれません。


そして、肝心の「岩谷堂羊羹」は、先の「箪笥」と同様、江戸時代初期となる「延宝元年(1673年)」、岩谷堂城の城主「岩城氏」が、新たな産業の育成を目指して創製させたと伝えられている様です。


現在は、この「菊泉堂」と先の「回進堂」、そして、もう一つ「菊正堂」と言う3社で、「岩谷堂羊羹」と言う商標を登録して使用している様です。

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と言う事で、次の「南部桐箪笥」に・・・ではなく「岩谷堂箪笥」の紹介に戻りますが、前述の通り、現在の「岩谷堂箪笥」の原型を作ったのは、江戸時代中期、岩谷堂近辺を治めた「岩城氏」で、岩谷堂伊達氏の第7代当主となる「岩城 村将(むらまさ)」だったと伝わっています。(別名:伊達村将)


岩谷堂地域は、現在の奥州市江刺区岩谷堂と言う住所にあたり、かつて「岩谷堂城」があった場所には、今では「岩手県立岩谷堂高等学校」が建てられています。



この岩谷堂地域は、領主の入れ替わりが激しかったようですが、歴史上、最初に、この地域が取り上げられるのは、奥州藤原氏の始祖「藤原経清(つねきよ)」が、この地に居を構えた事のようです。


藤原経清」は、後三年の役で「安倍氏」と共に処刑されてしまいますが、その子である奥州藤原氏初代当主「藤原清衡」が、平安時代の末期、寛治2年(1088年)に、押領使として、再び岩谷堂豊田に居を構えて、「豊田館」と称して勢力の拡大を図った事が記録されています。


そして、「平泉」に館を移すまでの30年間、この「豊田館」を中心に産業の育成も図り、その中に「岩谷堂箪笥」が含まれていたと伝わっている様です。


このため、一説では、「岩谷堂箪笥」が、日本における「和箪笥」の中では、一番歴史が古い箪笥ではないかとも言われている様です。


但し、初期の「岩谷堂箪笥」、当時は、「岩谷堂箪笥」とは呼ばれていなかったとは思いますが、現在の様な「箪笥」ではなく、左の画像の様な「長持ち」のような大型の「箱」だったのではないかと考えられていますが・・・残念ながら、当時の「箪笥」は残っていないようです。


その後は、御存知の通り、奥州藤原氏は、「源 頼朝」により滅ぼされてしまい、この地は、葛西氏初代「葛西清重」が、奥州総奉行として治める事になります。


そして、岩谷堂城には、代官として千葉氏の流れを汲む「千葉胤道(たねみち)」が遣わされ、以後は「江刺氏」と名を変え、「江刺氏」と「葛西氏」が、勢力を争いながらも、この地を支配する事になった様です。


ところが、葛西・江刺の両氏は、秀吉による「小田原征伐」に参陣しなかった事を理由に領地を没収され、それ以後は、岩谷堂城は、伊達氏の領地となり、岩谷堂伊達氏の一族が、代々城主となり明治時代まで治める事になった様です。

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前述の通り、戦国時代末期、この奥州市(旧:水沢市)付近には、小中規模の戦国武将が乱立した事と、戦国大名となる「南部氏」と「伊達氏」の国境となった影響もあり、争いごとが絶えませんでした。


豊臣秀吉が「小田原征伐」を行った天正18年(1590年)から、徳川家康が「上杉征伐」を行った慶長5年(1600年)までの10年間、この地域を含む、東北各地では一揆や反乱が続発しました。


天正18年(1590年) :和賀・稗貫一揆
天正18年(1590年) :葛西・大崎一揆
天正19年(1591年) :九戸政実の乱
・慶長5年(1600年) :岩崎一揆


天正18年(1590年)には、「豊臣秀吉」自らが、奥州地方の領地の再配分を行う「奥州仕置」を行ったのですが、逆に、この仕置に反感を持った地元武士達や、この仕置で領土を減俸された「伊達政宗」が裏で画策し、その後も一揆と言うか、豊臣政権や徳川支配へ反抗する戦が絶えませんでした。


岩谷堂地域も、これら戦乱の舞台となったのですが、慶長15年(1610年)、伊達氏一門となった「岩城氏」の血を引く「伊達政隆(岩城隆道)」が、この地を治める事になりました。(初代「岩谷堂伊達氏」)


それ以降、明治時代に至るまで、岩谷堂地域は、この「岩谷堂伊達氏」が治める事になります。


「岩城氏」は、元々は、現在の福島県付近を治めていたのですが、当主の病死や戦死が相次いだ事や、「岩城氏」と政略結婚を行っていた「佐竹氏」の策略もあり、「岩城氏」の家督は、豊臣秀吉の判断で、「佐竹氏」側に乗っ取られてしまった様です。


その後、「岩城隆道」は、縁が深かった「伊達氏」に身を寄せていたのですが、最終的に、前述の通り、慶長15年に、正式に「伊達姓」を賜り伊達一門となった次第です。(「岩城隆道」と「伊達政宗」は「はとこ」の関係)


そして、岩谷堂伊達氏の第7代当主「岩城村将(1764-1795年)」の治世においては、「天明の飢饉」が起きており、飢饉の際には、米蔵を開いて領民を救済する等、善政を敷くと共に、米作だけに頼る経済からの脱皮を目的に、家臣の「三品(みしな) 茂左衛門」に、箪笥の製作、塗装の研究、車付きの箪笥を作らせたのが、「岩谷堂箪笥」の始まりと伝わっています。

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前述の通り、江戸時代の「岩谷堂箪笥」は、「車付き箪笥」が主流で、現在のような堅牢、そして重厚な趣は無かったと言われています。


現在のような堅牢・重厚な箪笥に至るのは、同じく江戸時代末期の文政年間(1818-1831年)に、「徳兵衛」と言う鍛冶職人が彫金金具を考案した事が始まりと伝わっています。


元々、左の画像の通り、当初考案された「車付き箪笥」にも、若干の金具は付いており、これらの金具に関しては、「喜兵衛」と「太吉」と言う二名の地元鍛冶職人が、箪笥用の「鉄金具」を考案したと伝わっています。


そして、その後、この鍛冶職人「太吉」の弟子となる「徳兵衛」が、前述の通り、彫金金具と鍵付き金具を考案したとされています。


鍵のかかる堅牢な金具が用いられるのは、金庫の役目を果たすためでしたが、一棹(さお)の箪笥には、50〜100個程の金具が用いられています。


最初の金具には、「桐模様」が多かったようですが、次第に、虎、竹、龍、あるいは花鳥など、多くのデザインが開発され、これが原型となり、「岩谷堂箪笥」の技術が現代に引き継がれているそうです。


ちなみに、「岩谷堂箪笥」に使われる金具は、「手打彫り」製と「南部鉄器」製の物があり、さらに「手打彫り」には、「鉄製」と「銅製」があります。


「手打彫り」に使用される地金の厚さは「0.8mm以上」で、引手、蝶番、錠、そして鍵等、全て手作りで作られます。


また、「岩谷堂箪笥」には、漆が塗られておりますが、その塗り方には、代表的な塗り方としては、「拭き漆塗り」、および「木地蝋塗り」の2種類があります。


「拭き漆塗り」、および「木地蝋塗り」も、どちらも多くの手間が掛ると言われていますが、漆を塗る事で、「岩谷堂箪笥」の木目の美しさが、いつまでも保たれると言われています。


拭き漆塗り:7〜8回、塗りと乾燥、そして毛羽取りを繰り返す製法。
木地蝋塗り:錆付け/乾燥/空研ぎ/錆研ぎ等を繰り返した後に、下塗り/乾燥/上塗りを繰り返す製法で、「拭き漆塗り」よりも一ヶ月以上多くの工数が必要。


このような手間を掛けて漆を塗り重ねるので、時を経るほど、独特の風合いが醸し出されると言われています。


また、この他の塗り方としては、「朱塗り」や「黒蝋色塗り」等、結構沢山の塗り方があるそうです。


それと、ここまで説明すると、「岩谷堂箪笥」は、飛んでもなく高価な「箪笥」だと思われるでしょうが・・・実際、飛んでもなく高価です。


前述の黒っぽい箪笥、この箪笥は、サイズが、「W78×D40×H85」という大きさですが、これで約180,000円程度となり、この辺りが、このサイズの最安値だと思われます。


最上級となると、もう数百万円位の値段は、ざらにあります。サイズ「W1680×D450×H175」程度の大型箪笥ですと、定価1,500,000万円程度の様です。もう、車が買える値段です。


現在では、現地に行かなくても、いろんな販売サイトがあるようですが・・・やはり「類似品」、つまり「模造品/偽物」も、かなり出回っている様です。


岩手県が出資、運営している「岩手県産株式会社」から全国へ出荷されている商品には、この2つのマークが必ず付いているとの事ですので、お買い求めの際には、気を付けて下さい。


さらに、「岩谷堂箪笥」は、昭和57年3月5日その伝統的意匠、材質、組立工法、手打金具の技法、漆塗装等総合的技術が認められ、「経済産業大臣指定伝統的工芸品」にも認定されています。


岩手県では、これまでに紹介した「南部鉄器」、「秀衡塗」、「浄法寺塗」、そして、この「岩谷堂箪笥」の4点が、認定されています。


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先程、箪笥を数える単位に「棹(さお)」と言う漢字を使いましたが、皆さん、箪笥に、数え方があるなんて知っていましたか ?


恥ずかしながら、私は、このブログを書くまで「箪笥」に独自の数え方があるなんて知りませんでした。普通に、1個、2個と呼んでいました。


それでは、何故、箪笥を数える単位が「棹」なのかと言うと・・・


その昔、江戸時代初期には、火事の時に、箪笥を、そのまま運び出せるので、前述の通り「車付き箪笥」が流行っていたそうです。


ところが、やはり江戸時代初期となる明暦3年(1657年)に発生した「明暦の大火」の際、避難する人が、一斉に「車付き箪笥」ごと避難した事が災いし、大勢の人が逃げ遅れて焼死してしまいました。


そこで幕府は、江戸、大阪、そして京都の三都市においては、「車付き箪笥」の製造を中止させたそうです。


このため、今度は、「車付き」ではなく、箪笥に「棹」を差して持ち運べる「棹通し金具」付きの箪笥が流行したので、それ以降は、箪笥を数える時には、「一棹、二棹・・・」と呼んで数えるようになったと伝わっています。

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最後に、「岩谷堂箪笥」の創始者と言われている「三品 茂左右衛門」ですが、実は、現在でも「三品家」の一族は存続しており、さらに、今も「岩谷堂箪笥」を作成しています。


現在の当主は、三品家初代から数えて12代目「三品 健悦」氏が努めており、その息子「綾一郎」氏も家具職人になっています。


「三品家」は、代々、岩谷堂伊達氏に仕えていた武士らしく、宝暦8年(1758年)に、「三品喜太郎勝次」と言う人物が、藩に提出した家系図では、この「三品喜太郎勝次」の曽祖父の代から、「細工方」と言う役職で仕えていたようです。


そして、「岩谷堂箪笥」の創始者と伝わる「三品茂左衛門」に関しては、家系図には記載が無いようですが、年代から推測すると、この「三品喜太郎勝次」の息子ではないかと思われているようです。


「三品家」では、現在「株式会社 岩谷堂タンス製作所」を経営しており、その会社のホームページには、前述の通り、「天明2年創業」と掲載されています。


また、第12代「三品 健悦」氏は、「岩谷堂箪笥生産協同組合」の理事長も努めており、「岩谷堂箪笥」の普及と職人の育成に尽力している様です。


第13代「綾一郎」氏は、箪笥を製造する傍ら、端材を使った生活雑貨「Iwayado Craft(イワヤドウ・クラフト)」と言うブランドを立ち上げて、「岩谷堂」と言う名前を全国に広げようとしているようです。


今後の活躍にも期待したい所です。

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■南部桐について


次に「南部桐箪笥」を紹介したいと思いますが・・・前述の「岩谷堂箪笥」にも、材料として「桐」が使われるケースがあるので、「岩谷堂箪笥」も「南部桐箪笥」じゃないの ? と思われるかもしれません。


確かに、材料面から見ると、「岩谷堂箪笥」も「南部桐箪笥」になってしまいますが、ちょっと見ただけでも、「岩谷堂箪笥」と「南部桐箪笥」は、全く別物だと言う事が解ると思います。



「岩谷堂箪笥」は漆を塗っていますが、「南部桐箪笥」は、基本的に、加工した桐材を、そのままの状態、いわゆる「桐無垢材」のまま製造・加工して販売している点が違います。


さらに、「岩谷堂箪笥」は、前述の説明の通り、岩谷堂地域で製造された製品ですし、「南部桐箪笥」は、それ以外の地域で製造販売された製品となります。


特に、盛岡市においては、「南部桐たんす」と言うブランド名で、「南部桐箪笥」を、盛岡特産品として認証していますし、また、岩手県全体で見ると「桐」製品に関しては、「南部桐」と言うブランド名を用いて管理しています。


しかし、見た目はかなり異なる「岩谷堂箪笥」ですが、内部に用いられている木材は「桐」ですので、まあ、「岩谷堂箪笥」も「南部桐箪笥」の1ブランドとするのが正しいのだと思います。

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しかし、ちょっと面倒なのが、青森県八戸市や(三戸郡)三戸町で使用している地域ブランド名「南部総桐箪笥」です。


青森県八戸市三戸町も、元々は「南部藩」の領地でしたし、「三戸町」に至っては、「奥州平泉攻撃」の功により、「南部氏」の始祖となる「南部光行」が、「源 頼朝」より、最初に授かった領地であり、「南部氏」の居城まであった場所です。


また、同じく三戸郡には、南部藩発祥の地とされる「南部町」までも存在しています。


さらに、この地域も、当然、「桐」の名産地ですので、「桐」製品に、「南部桐」と言う名称を用いたいのだと思いますが・・・


残念ながら、現在では、青森県に含まれてしまったので、正面切って「南部桐」と言うブランド名を使えなくなってしまった様です。何か・・・可哀想な感じもしますが、まあ仕方がないと思います。

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「桐」に関する雑学は、最初に紹介しましたので、ここでは、簡単に「桐」の特性に関して紹介したいと思います。


「桐」の原産地は、前述の通り中国大陸で、日本には、飛鳥時代の頃に渡来し、北海道南部から鹿児島県に至るまで、広く植栽され始めたと伝わっています。



「桐箪笥」は、梅雨時になると引出しが堅くなることがありますが、この現象は、湿度が高くなると「桐」が膨張して気密性が高まり、タンス内に湿気が侵入するのを防いでいるからです。


また逆に、乾燥時には「桐」が収縮して蒸れないように通気性を良くすると同時に、板の面も木目(きめ)が粗密になって湿気の通過を自然にコントロールしているそうです。


この様に、「桐」は、まるで呼吸しているかのように乾湿調整を行い、箪笥内を一定の快適な状態に保つ働きをしています。


このため、古くから「桐」は、箪笥の他にも、刀剣、掛け軸など高級貴重品を収納する箱に使われたり、あるいは琴、琵琶、等の楽器、下駄等の日用品に至るまで幅広く用いられたりすると共に、「桐」自体も高級品として扱われ、湿度の高い日本ならではの「桐」文化が発達しました。


特に、岩手県の様に寒い地方で育った「桐」は、木の成長が遅くなるので年輪が細かくなりますし、さらに、厳しい冬と湿潤な夏という寒暖差の大きな気候風土で育った「桐」は、緻密で軽く、粘りや光沢が備わるようになるとも言われています。


故に、岩手県産の「桐」は、古くから「南部の紫桐(しとう)」と呼ばれ有名な特産品になった様です。


この他にも「桐」の特性を挙げると、次のようなものがあります。


・軽くて持ち運びしやすく、扱いに便利
・木肌が白くなめらかで、美しい
・調湿作用があって、湿気を寄せ付けない
・燃えにくく、火事に強い
・熱が伝わりにくく、調温作用がある
・水を通しにくい
・やわらかくて加工がしやすい
・材質が均等で狂いが少なく、加工に適している


もうメリットばかり、これ以上無いって感じもしますが、残念ながらデメリットもあるようです。


・強度が求められる箇所には使えない(柱・棟)
・曲げ加工は苦手
・一点に力が加わる場所にも使えない(机・テーブル)
・幹の中心に穴が開いているので大経木の板材も難しい
・他の材木と比べると高額になってしまう(国産桐)



先の通り、気密性/通気性が良いので「箪笥」向きの木材として使われるのですが、それ以外にも「難燃性」とか「熱伝導率の悪さ」の点からも、「箪笥」向きの木材として適しているのだと思います。


特に、これらの点に関しては、「桐」にまつわるエピソードとして、次のような話が語り継がれています。


『 火事のときに桐箪笥は黒焦げになったが、中の着物は無事だった。 』


「桐」には、このような特性があるので、箪笥や金庫の内部に「桐」が用いられている訳ですが、さらに、「火事になったら箪笥に水をかけろ」と言われているのも、これら「桐」の特性を知ったからこその言い伝えだと思われます。

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さらに、「桐」に関しては、「桐下駄」としても重宝されています。


「下駄」自体、日本においては、最初に使われたのは「弥生時代」と言われており、静岡県の「登呂遺跡」から、水田で使われたと考えられている「田下駄」が発見されています。


このように、当初は、水田で使われる「農具」の一種だった「下駄」ですが、その後は、足元がぬかるんでいる時に使う履物に変化して行ったと言われています。


その後、古墳時代奈良時代、そして平安時代と「下駄」も進化し続け、当時は、主に身分の高い、貴族階級の履物として定着していった模様です。


「下駄」が庶民階級にまで普及するのは、だいぶ後、江戸時代になってからですが、やはり、戦が無くなり、町民階級が経済力を付けて来てからになります。


そして、町民階級に「下駄」が拡がってくると、様々なバリエーションやデザインも増えて来たようです。


「下駄」は、江戸時代以前は、どちらかと言えば、雨が降って、足元がぬかるんでいる時の雨天用の履物として用いられて来ました。


しかし、江戸時代になると「日和(ひより)下駄」と呼ばれ、天気の良い日でも履く、歯の低い「下駄」が考案されたそうです。


この「日和下駄」は、男女共に、普段使いの「下駄」として非常に人気があり、一気に「下駄」文化が拡がった様です。


また、江戸時代以前までは、「下駄」の材料は「檜(ひのき)」や「杉」が主流でしたが、次第に、軽くて履き心地が良い「桐」が好まれるようになったそうです。


江戸、京都そして大阪の町には、「下駄屋街」ができ、庶民向けに「桐下駄」を売る店が軒を連ねたそうです。


江戸時代後期には、岩手県の「久慈港」から、江戸の「深川木場」に、「桐」が出荷されていたそうです。


当時、既に、江戸の人口は100万人を超える大都市でしたから、「下駄」を作る「桐」が不足し、山形県秋田県、そして福島県産の「桐」に関しても、「南部桐」と称して販売していたと伝わっています。


また、「桐」が、「下駄」材料として好まれたのは、何も、木が軽くて足が疲れないだけでは無いと言われています。


「桐」の木肌は柔らかいので、裸足で履いても気持ちが良く、足にしっくりと馴染むそうです。また、水にも強いので、雨にあたっても傷みません。


その反面、前述の通り、軽軟な材質なので、すぐに歯が減ってしまいそうな気もしますが、実際には、砂粒や小石が歯に食い込んで摩耗を防ぎ、逆に長持ちするのだとも言われています。


このように、「桐下駄」人気は、江戸時代から明治、大正、そして戦前の昭和時代では続き、農家の副業として「桐」の植栽奨励策が取られ、「桐」の植栽、および販売で、億万長者になる者も現れたのですが・・・昭和48年をピークに、「国産桐」の植栽事業は下り坂となった様です。

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最後に、「南部桐」を使った、「箪笥」と「下駄」に関する具体的な情報を紹介したいと思います。


【 南部桐下駄 】


盛岡駅から北へ5Km、約15分位の「緑が丘」と言う場所に、「吉國履物店」とお店があります。


このお店は、明治44年に、二代目「吉田 国太郎」氏が創業し、地場産の「南部桐」を用いて下駄の製作販売を始めたと伝わっています。


現在は、三代目「「吉田 国太郎」氏が後を継いでいますが、盛岡市内唯一の「下駄職人」なのだそうです。


このお店では、「桐下駄」の製造工程をパネルで紹介したり、実際の制作現場も見学できたりするそうです。


また、創業当初は、自らが考案した「めんこい下駄」と名付けた桐下駄を販売し、非常に人気を博したと伝わっています。


下駄は、少しだけ、かかとが出るくらいが歩きやすく、粋なのだそうです。


足の裏の感覚が、畳みの上に上がった感じが理想で、柔らかい南部桐はそれを体感できる優れた材料でもあるそうです。


この「吉國履物店」は、私の母校「岩手県立盛岡第三高等学校」から、徒歩5分程度の場所にあります。


私の在学中にも、当然、お店はあったはずですが、全然、記憶にありません。


それと、「めんこい」とは、東北地方の方言で「かわいい」と言う意味になります。ちなみに、その反対語は、「みったぐね」となりますが、どうでも良いか・・・

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【 南部桐箪笥 】


「桐たんす」に関しては、盛岡市八幡町にある「有限会社 丸原家具店」と言う家具店が、「南部桐」を用いた「桐たんす」を製造販売しており、このお店の製品が、「盛岡特産品ブランド」と認定されている様です。


この場所も、盛岡市八幡町と言う事で、私の小学校、および中学校の学区内におり、このお店の2軒隣は、先輩の実家でもあります。


ですが・・・誠に申し訳ないのですが、全く記憶にありません。


このお店の前の道は、「盛岡八幡宮」の参道に当たるので、真っ直ぐ進むと、「盛岡八幡宮」に突き当たる道でもあり、今までも、何度も通過していますが・・・どうも目に入っていなかったようです。


このお店に関しては、ホームページ等、何も情報が無いので、お店の歴史等は全く解らないのですが、見てもお解りの通り、小さなお店で、社員2名で細々と営業されているように見受けられます。


八幡町は、その昔は、当然「八幡神社」の参道として栄え、江戸時代後期、明治、大正、そして昭和中頃までは、盛岡の花街として、とても栄えた町だったのですが・・・


今では、「シャッター商店街」と化してしますので、何とか、頑張って貰いたいものです。


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今回は、岩手県の名産品として、「岩谷堂箪笥」を中心に、次の内容を紹介しましたが、如何でしたでしょうか ?


●「桐」に関する雑学
●岩谷堂箪笥について
●南部桐について



本シリーズのブログを書いていると、いつの時代も、人気が出ると、直ぐに「模造品」や「偽物」が出回るのは、世の常なのだと、つくづく思い知らされました。


本シリーズで取り上げた、「漆器」、「南部鉄器」、「岩谷堂箪笥」・・・どれも「偽物」が作られています。


今では、「偽物」、「コピー商品」と言えば、直ぐに「韓国」や「中国」を思い浮かべますが、その昔は、日本も同類だった事が解り、情けなくなってしまいました。


昭和後期頃になって、ようやく各種認証制度ができ、日本国内で「偽物」を作るのが難しくなり、その影響で、「偽物文化」は、「韓国」、そして「中国」へと移って行ったのではないかと思われます。


つまり、今でこそ、日本では「偽物文化」を拒絶する風土になったのですが、ここまで来るのに、2〜300年位は掛かっている事になります。


それでは、あと100年もすれば、「韓国」や「中国」でも、「偽物」を拒絶する文化が成立するのかもしれませんが・・・私は、現在の彼らの行動を見ると、残念ながら、非常に難しいと思わざるを得なくなってしまいます。


そもそも、この日本においてさえも「道徳心」が低下しており、日本人自体も、俗に言う「民度」の低下が危ぶまれ始めています。特殊詐欺が増加しているのも、この「道徳心」や「民度」の低下を表しているだと思います。


何か、このブログを書いていて、悲しくなって来てしまいました。


中国や韓国のブログ等を見ると、あれほど「日本嫌いの国」でさえ、日本人の礼儀正しや生真面目さを賞賛する声が多く見受けられます。


今後も、この「日
本人らしさ」を失わないよう、私を含め、日本人全員が、気を付けて生きていく必要があると思ってしまいました。

本シリーズは、あと1回位は続けられるのではないかと思っていますが・・・ちょっと危ないかもしれません。


それでは次回も宜しくお願いします。

以上


【画像・情報提供先】
Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)
・岩谷堂羊羹 菊泉堂(http://kikusendo.com/shop.html)
・東北城館魂(http://joukan.sakura.ne.jp/index.html)
・株式会社岩谷堂タンス製作所(http://www.its-iwayado.jp/)
・公益財団法人岩手県観光協会(http://www.iwatetabi.jp/)
・登呂遺跡博物館(http://www.shizuoka-toromuseum.jp/)

【株式会社 エム・システム】
本      社  :〒124-0023 東京都葛飾東新小岩8-5-5 5F
           TEL: 03-5671-2360 / FAX: 03-5671-2361
盛岡事業所  :〒020-0022 岩手県盛岡市大通3-2-8 3F
           TEL: 019-656-1530 / FAX: 019-656-1531
E-mail    : info@msystm.co.jp 
URL     : http://msystm.co.jp/
        : http://msystm.co.jp/excel_top.html
ブログ       : http://d.hatena.ne.jp/msystem/ 
Facebook   : http://www.facebook.com/msysteminc

岩手の工芸品 〜 地味だけど丈夫で長持ち その3


今回の「岩手・盛岡」情報は、「岩手の工芸品」を紹介するシリーズの、第三弾として「琥珀」を取り上げたいと思います。


これまでは、第一弾で「漆器」を取り上げ、第二弾では「南部鉄器」を紹介して来ました。


★過去ブログ:岩手の工芸品 〜 地味だけど丈夫で長持ち その1(漆)
★過去ブログ:岩手の工芸品 〜 地味だけど丈夫で長持ち その2(南部鉄器)

漆器に関しては、縄文時代から日本で使われ続けた「漆」の歴史から始めて、海外での「漆」人気、岩手県における「漆器」の歴史などを紹介しました。

しかし、この「漆人気」に便乗した韓国人達に、まんまと騙されたしまうと言う残念な出来事もあったのですが・・・それでも岩手県は、国内における一大産地ですから、この苦い経験を踏み台にして、今後も、国内における「漆器」の名産地として、頑張って欲しいと思います。

「南部鉄器」に関しても、その歴史や、岩手県でなぜ「鉄」が産出されるのか等から始め、現在の状況や、製造工程を見学できる工場なども紹介しました。

「南部鉄器」は、丁寧に使えば、100年は使えると言われていますし、実際に、江戸時代末期に作成された「鉄瓶」は、ほとんどは展示品だけですが、中には、まだ現役で使われているケースもあります。

我が家でも、「鍋」や「鉄玉子」を購入して使っていたのですが・・・残念ながら、1年も持たずに廃棄されてしまいました。勿体無い。


と言う感じで、「岩手の工芸品」を紹介してきましたが、今回は、「琥珀」を紹介したいと思います。

琥珀」に関しては、前々回のブログにも記載していますが、過去ブログで、三陸海岸の北東部に位置する「久慈市」を紹介した際にも取り上げています。

★過去ブログ:NHK朝ドラの舞台となる「久慈市」近辺の情報について

このブログでも紹介しましたが、世界で産出される「琥珀」の約85%は、ポーランドやロシアの飛び地カリーニングラード等、バルト海沿岸で産出され、その他では、カリブ海ドミニカ共和国が有名です。

日本における「琥珀」の産地ですが、日本人が大好きな「三大産地」としては、岩手県久慈市、千葉県銚子市、そして福島県いわき市などで「琥珀」が産出されるようです。

その中でも、日本においては、久慈市は別格で、昭和初期には、1トン/日もの「琥珀」を産出していた記録も残っているそうです。

さて、そんな久慈市の「琥珀」ですが、今回は、次のような内容を紹介します。

●世界における琥珀の歴史
琥珀生成物
●DNA採取の可否
●その他諸々
●久慈「琥珀」の歴史
●各種琥珀の紹介


前述の通り、岩手県久慈市は、世界的に見ても、珍しい「琥珀」の産地になっており、現在でも、その昔に比べて産出量は減ってはいますが、「琥珀」を産出し続けています。

今回は、「琥珀」に関する雑学から始めて、最後は、珍しい「琥珀」等も紹介したいと思います。


それでは今回も宜しくお願い申し上げます。

■世界における琥珀の歴史

最初に、世界最古の「琥珀」は、何年位前の「琥珀」があるのかな〜と思い、色々と調べたのですが・・・Wikipediaの参考資料欄によると、2009年、アメリカの「サイエンス」誌に掲載された『Identification of Carboniferous (320 Million Years Old) Class Ic Amber』と言う論文に、次のような記載があったとされています。

『 私達は、約3億2千万年前の石炭紀堆積物中クラスI(ポリラブダノイド)琥珀を発見した。この結果により、これまで考えられてきたよりも早期に、原始的な針葉裸子植物が複雑なポリテルペノイド樹脂を生成する生合成機構を発達させていたこと、そして針葉樹には今日典型的に見出されるポリラブダノイド樹脂を生じる生合成経路と、被子植物に典型的な生合成経路が、石炭紀までに既に分化していたことが示された。 』


この論文は、「P.Sargent Bray」博士と「 Ken B.Anderson」博士の共著となっており、この論文が発表される前までは、ほとんどの「琥珀」は、2億5千万年前までの中生代、あるいは新生代に生成されているとされていた様です。

しかし、この論文の発表後は、世界最古の琥珀は、「3億2千万年前の石炭紀」と言うことになった様です。

さあ、それでは、3億2千万年前の「琥珀」は、どのような代物かと言うと・・・その実物は、残念ながら存在しないようです。


「はあ!?」となってしまいますよね。

それでは、画像に残る「最古の琥珀」となると・・・次々に「最古」の琥珀が発見されている様ですが、現在では、左の画像が、最古になっているようです。

この琥珀は、2012年8月29日に、イタリアのドロミーティ山脈から、大量に見つかった琥珀の中から発見された物で、2億3千年前の琥珀なのだそうです。

そして、それら琥珀の中に、二種類の新種の「ダニ」が閉じ込められていた事が判明した様です。


それぞれ、これらの新種の「ダニ」には、上の画像のダニが「Triasacarus fedelei」、そして下のダニが「Ampezzoa triassica」と名付けられたそうです。

このダニは、現在の「フシダニ」の仲間と考えられている様です。

右の画像が現在の「フシダニ」の仲間なのですが・・・まあ、似ていると言えば、そんな感じがしないでもないような・・・

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そして、この2億3千年前の琥珀が発見される前までの最古の琥珀としては、1億年前頃の琥珀が多い様です。

1億年前の琥珀には、数多くの昆虫や生物が閉じ込められた状態のまま発見されており、左の琥珀は、1億4000万年前の「クモの巣」が閉じ込められているそうです。

しかし、「世界最古」と言う表現ですが・・・

様々な使い方があり、「○○が閉じ込められた世界最古の琥珀」と言う琥珀が数多くあり、サイトを「世界最古の琥珀」と言うキーワードで検索すると、色々な種類の「世界最古の琥珀」が表示され、本当の「世界最古の琥珀」を探すのに苦労してしまいます。

ちなみに、上図の「クモの巣」の琥珀に関しては、「世界最古のクモの巣」と言うキャッチフレーズで紹介されています。

琥珀生成物


琥珀は、ご存知の通り、天然樹脂が、高温・高圧の環境で化学変化を起こし、化石化した物となります。

古くから「宝石」としても珍重されていますが、この様に「石」由来の「鉱物」ではなく、「植物」由来と言う、非常に珍しい「宝石」です。

「石」由来以外の「宝石」と言えば、その他にも「動物」由来の宝石として、真珠、珊瑚、べっ甲などがあります。

このように「樹脂」から生成された「琥珀」ですが、「樹脂」とは、元々は、樹木が傷付いた時に、その傷を治す事を目的に、樹木から流れ出す「粘液」です。

この「粘液」が、長い年月の内に硬化した物が「琥珀」となるのですが、「粘液」が流れ出て、長い年月が経過すれば、必ず「琥珀」になるのか、と言えば、そうとは限りません。

「粘液」、つまり「樹脂」の大部分は不安定で、ほとんどの「樹脂」は、時間の経過と共に硬化せずに分解してしまうそうです。


しかし、そのような「樹脂」でも、低品質の石炭の層である「褐炭(かったん)層」と呼ばれる「層」を形成する干潟や三角州の粘土等の泥や土の中に埋まり、かつ適切な化学変化を起こした物が、「琥珀」になる事ができると言われています。

現在流通しているほとんどの「琥珀」は、3千万年〜9千万年前となる、白亜紀や古第三紀の地層から採掘されているそうです。

琥珀」は、非常に固く、鉱物に匹敵する程の硬度なのですが、元々は、あのカブトムシやクワガタが大好きな「樹液」の固まりなのです。

■DNA採取の可否


アメリカのSF作家「マイケル・クライトン」が、1990年に出版し、1993年に映画化された「ジュラシックパーク」では、琥珀の中に閉じ込められた「蚊」の血液から恐竜のDNAを採取して復元し、欠損部分をカエルのDNAで補う事で、恐竜を復活させています。

しかし、実際に、琥珀の中に閉じ込められた昆虫や生物から、恐竜のDNAを復元させる事が可能なのかと言えば・・・現在の技術では不可能なのだそうです。

実際、琥珀の中に閉じ込められた昆虫や生物、あるいは発掘された化石から、生物のDNAを復活させる事は可能と言われています。


事実、ハーバード大学の「George M. Church」教授は、2016年2月、シベリアの凍土から発掘したマンモスのDNAを採取し、アジアゾウのDNAに組み込む研究を行っており、2018年頃までには、マンモスに近い形状のゾウを蘇られる事が出来る、と語っています。

しかし、これが恐竜となると、話は全く別のようです。

2012年、イギリスの科学雑誌「Nature」誌に、「DNA情報は521年で半減する。」と言うDNA研究者チームの論文が掲載されており、この結果、「-5℃」と言う、DNAを保存するには理想的な保存温度にある骨の中でも、最大でも680万年後には、全てのDNA連鎖は破壊されてしまう事になってしまうそうです。

それでは、恐竜は、どの位前まで行きていたのかと言うと・・・それは6500万年前となるので、この学説が正しいのでれば、もう恐竜のDNA復活は絶望的な様です。

ちなみに、マンモスは、約400万年前から1万年前まで生存していましたし、2013年には、やはり凍土から取り出したマンモスの皮膚から、血液が流れ出し、ロシアの科学者が採血した事が報告されていますので、DNAの復元は充分可能だと思われます。


ちょっと琥珀の話題から逸れてきましが、2003年、アメリカのモンタナ州で、「John("Jack") R. Horner」博士が、6800万年前のティラノサウルスの大腿骨を発掘したのですが・・・

何と、その大腿骨の中には、化石化した「ティラノサウルスの肉」が付着していたそうです。

その後、化石を調査/分析し、2005年には血管細胞が確認され、2007年にはタンパク質の一種コラーゲンも発見した事が報告されています。

その後、アミノ酸配列なども見つかったのですが、まだ、その配列がティラノサウルス固有の配列なのか否かは解らない状況が続いているので、DNAの確定は非常に難しいと思われます。


また、今年、2017年4月には、中米ドミニカ共和国で、アメリカのオレゴン州立大学の「George Poinar Jr」教授が、琥珀の中に閉じ込められた「マダニ」を見つけたそうです。

そして、この琥珀の中の「マダニ」から血液の採取に成功し、その化石化した血液を解析した所、「マダニ」が媒介する「バベシア症」と言う病気に感染していた事が解ったそうです。

今年は、日本でも、マダニが媒介する「重症熱性血小板減少症候群SFTS)」が話題になりましたが、この「バベシア症」も、マダニの体内にいる「バベシア原虫」と言う寄生虫が、血を吸った相手に寄生し、マラリアと似た症状を引き起こし、最悪、死に至る危険な病気との事です。

この琥珀は、2,000〜3,000万年前の物と推定されているので、この血液は、世界初、2,000〜3,000万年前の霊長類の血液の化石とされています。

そして、この化石化した血液から赤血球を採取する事に成功したので、この琥珀が、前述の例で言いますと「世界最古、そして世界初の霊長類の血液が閉じ込められた琥珀」、と言う事になります。

琥珀から恐竜のDNAを復活させるのは無理だとしても、今後も、琥珀の中から、何か新しい物が発見されたり、あるいは絶滅した昆虫や生物の特定に繋がる情報が発見されたりする事が出来るかもしれません。

■その他「雑学」諸々


ここまで、世界最古の「琥珀」から始まり、「琥珀」その物の生成方法、そして、「琥珀」からのDNAの採取等の情報を紹介して来ました。

そもそも「琥珀」と言う漢字ですが、「琥」は、トラの形をした玉石とか、黄色と黒色が混じった玉石、等と言う意味を持ち、「珀」も黄白色や卵色の玉石と言う意味を持つ漢字で、どちらの字も、玉石と言う意味を持っています。

また、古代中国では、「琥珀」とは、この漢字の生い立ちとも関連があると思いますが、トラが死後、石になったものだと考えられていたそうです。


さらに、「琥珀」は、英語では「Amber(アンバー)」と呼びます。

しかし、同じ「琥珀」であっても、半化石状態とされる3,000万年未満の「琥珀」は、「Amber」ではなく「Copal(コパール)」と呼ばれて区別されています。

日本語の場合、「コパール」に対する、正しい呼び方が存在しない様なので、ちょっと変な言い回しになってしまいますが、両者は、次の様になります。

・Amber :完全に化石化し、3000万年以上経過した樹液で、経年変化しない物
・Copal :完全に化石化しておらず半化石状態で、1,000万年程度しか経過していない樹液、経年変化する物

このため、「Copal(コパール)」と呼ばれている物は、時が経つにつれ劣化し、表面に「ヒビ割れ」が発生しますが、「Amber(アンバー)」は、完全に化石化しているので、劣化現象は現れません。

琥珀に関しては、その他にも、まだまだ様々な情報があります。

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例えば、現在は、前述の通り、琥珀と言えば「宝石」としての利用しか思いつきませんが、その昔、近代医学が発達する前のヨーロッパにおいては、琥珀は、医療用として、痛風、リウマチ、喉の痛み、歯痛、そして胃痛を和らげる「薬」として用いられていたようです。

さらに、ヨーロッパにおいては、「薬」以外にも、「魔除け」としても用いられた歴史もあり、子供に、琥珀のネックレスを付ける習慣も合ったそうです。

その他、中国においても、南北朝時代、5世紀中頃に、漢方薬の基礎を築いたと言われている医学者「陶 弘景(とう-こうけい)」によって書かれた『名医別録』には、「琥珀」の効能は、次のように書かれているとされています。

『 精神を安定させ、滞る血液を流し、排尿障害を改善する。』

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また、「琥珀」に関しては、古くから、布で磨くと「静電気」が発生することが知られていたようで、スウェーデン琥珀博物館によりと、現在から2,700年以上前、ギリシア人の哲学者「タレス」が、歴史上、初めて「琥珀」の摩擦帯電に言及したと言われています。

タレス」は、琥珀を布で磨くと火花を散らし、羽根や細かな木くずが付着する事に気が付き、この力を、ギリシア語で琥珀を意味する「elektron」に因み、「electricity(電気)」と名付けたとされています。

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一方、見た目は、「琥珀」に似ていますが、非常に危険な「白リン」と言う物質があります。

「リン」は、原子番号「15」の番号を持つ元素で、上記「白リン」の他にも、「赤リン」、「紫リン」等の同素体が存在しています。

この「白リン」は、見た目、そして重さも「琥珀」に非常に良く似ているのですが・・・何と、人が触ると発火発熱してしまうそうです。

「白リン」は、常温では上図の様に、少し黄色み掛かった白色の個体ですが、発火点が60℃と非常に低温なため、何かの拍子に自然発火してしまいます。

このため、室温でも徐々に酸化し、発熱したり、発火したりして、青白い光を発してしまうし、また、日光に当たっただけでも「赤リン」になってしまうので、通常は、水中で保存しておくのだそうです。


このように、危険で、非常に扱いにくい「白リン」ですが、「燃えやすい」と言う性質のため、その昔から「焼夷弾」として利用され、特に、第二次大戦以降は、「焼夷弾」以外にも、煙幕弾、手榴弾、等の爆弾として使用されました。

ところが、「琥珀」の産地「バルト海沿岸」においては、兵器庫や弾薬工場にあった「白リン弾」から、「白リン」が漏れ出してしまったそうで、周辺地域では、「白リン」を「琥珀」と間違えて触ってしまい、火傷を負う事故が、現在でも多発しているそうです。

ちなみに、「白リン」は、燃えやすいと言う性質の他にも、毒性が非常に強く、吸引すると意識障害を引き起こす様です。

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加えて、「琥珀」には、偽物が数多く存在する事が有名です。

まあ、「琥珀」は、宝石ですので、他の宝石同様、偽物、「フェイク」が数多く存在するのも仕方が無いのかもしれません。

琥珀」のフェイクとしては、フェノール樹脂と呼ばれる合成樹脂、つまりプラスティックが有名です。

フェノール樹脂の発見は、1872年(明治5年)と言われていますが、この樹脂の工業化に成功したのは、1907年(明治40年)で、アメリカ人の化学者「レオ・ヘンドリック・ベークランド(Leo Hendrik Baekeland)」で、この樹脂を「ベークライト」と名付けています。

合成樹脂の「ベークライト」が登場したことで、本物そっくりの「フェイク琥珀」を作れるようになったそうですが、「フェイク琥珀」としては、次の素材も、数多く用いられているそうです。

・ガラス
本物の「琥珀」は、手に持った時に「温かい」そうですが、ガラスの「フェイク琥珀」は持った時に、「冷たさ」を感じるそうです。

・ベークライト
ナイフで傷を付けてみると、偽物なら薄片が落ちるが、本物なら粉状となる。また、本物は塩水に浮かぶそうです。さらに本物は、手のひらですぐに温まる、との事です。

セルロイド
これも合成樹脂で、「象牙」の代用品として開発されたが、その他、「珊瑚」、「べっ甲」、「瑪瑙」、そして「琥珀」の模造品としても使用されています。見た目、質感、手触り等、本物と区別が付かないが、比重が本物と異なるので、やはり飽和食塩水に沈むそうです。

・プラスティック
上記以外のプラスティックも「フェイク」で使用され、「昆虫入り琥珀」を作る際に用いられる。現在も生存している昆虫が中に居る場合は、ほぼ全て「プラスティック・フェイク」と思った方が良い、との事です。

カイゼン
「改善」ではなく、牛乳に含まれるタンパク質の一種。別名「カイゼン・プラスティック」とも呼ばれ、乳白色の「フェイク琥珀」を作る時に使用される。見分けは、ほぼ不可能との事で、分かる人は、その重さで本物とフェイクの区別が出来る、との事です。


その他、フェイクと本物とを見分ける方法には、「飽和食塩水」や「温かさ/冷たさ」の他にも、次のような方法があるようです。

但し、店で販売している物に対して、このような行為を行うと、結局、売り物を傷付ける事になるので、購入する羽目になってしまいますので、注意願います。

●アルコールを付ける :エタノールを数滴垂らしてネバネバしたらフェイク。主にコパール
●ナイフ等で傷付ける :傷が付けば本物、付かなければフェイク。主にガラス
●熱したピンで触る :変なプラスティックの焦げる匂いがすればフェイク。主にプラスティック樹脂

商品を傷付けない鑑定方法ならば、やはり「飽和食塩水」を使う方法が良いかもしれませんが、コパールは、元々は「琥珀」なので、区別が付きません。

本物が欲しいのであれば、通販などではなく、信用出来る専門店で購入する事をお勧めします。

■久慈「琥珀」の歴史

ここまで、主に、ヨーロッパの「琥珀」を中心に、様々な「琥珀雑学」を紹介して来ました。

ここからは、日本における「琥珀」の歴史、特に、久慈市の「琥珀」に関する情報を紹介します。



世界的に見ると、最古の「琥珀」は、前述の通り、約3億2千万年前となりますが、ヨーロッパにおいて装飾品として使われ始めたと考えられえいるのは、約11,000年前のイングランド地域とされています。

その後は、バルト海沿岸、中央ヨーロッパアドリア海を経由する、いわゆる「琥珀の道(アンバールート)」を経てエジプトまで「琥珀」が渡り、ツタンカーメン等のファラオも「琥珀製品」を愛用していた事が解っており、数多くのファラオの墓から、埋葬品として「バルティック・アンバー」が発掘されています。



ところで、日本においては、「琥珀」が装飾品として使われた歴史は古いようで、詳しい資料や画像は確認されていませんが、国立歴史民俗博物館の名誉教授でもあった考古学者の「白石 太一郎」氏の著書「日本の時代史1」には、北海道千歳市の柏台遺跡や湯の里遺跡では、20,000年前の琥珀飾りが発見されたと記載されているようです。

ヨーロッパにおける「琥珀」の装飾品は、11,000年とされています。

古代日本人、当時は、旧石器時代になりますが、とても「オシャレさん」だったのだと思われます。

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しかし、縄文時代前期〜中期(約5,500年前〜4,000年前)にかけて、青森県青森市近郊に存在した、日本最大級の縄文遺跡集落である「三内丸山遺跡」からは、数多くの「琥珀」が出土していますが、その中には装飾品は見つかっていないそうです。

三内丸山遺跡」から出土した「琥珀」は、全て久慈市近郊の太平洋沿岸から産出した「琥珀」のようですが、何故か装飾品は見つからず、全て「琥珀」の原石のみとなっているそうです。



インターネットの検索結果には、「三内丸山遺跡」で「琥珀の装飾品」が発掘されている、という様な情報もありますが、どうも、証拠が無いように見受けられます。

三内丸山遺跡」の公式ホームページや掲載物を探しても、石や翡翠(ひすい)で作成した装飾品は数多く掲載されていますが、「琥珀」製は、全くありません。

それでは、何故、わざわざ久慈地方から「琥珀」を取り寄せていたのか ? と言う疑問が湧いてきます。

本ブログの最初の「雑学」で、「琥珀」が医療に用いられていた事を紹介しましたが、その他にも「香料」としても用いられる事もあります。

このため、縄文時代の本州においては、装飾品以外の目的で、「琥珀」が重用されていた可能性があると思われます。

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縄文時代」の後、北海道において発展した「続縄文時代」には、前述の画像の様な「琥珀」を用いた首飾りが数多く出土しています。


「続縄文時代」と云うのは、「縄文時代」の後、紀元前3世紀〜紀元後7世紀まで、北海道でのみ続いた時代で、本州における「弥生時代」と「古墳時代」、そして「飛鳥時代」までを含んだ時代となります。

そして、本州においては、前述の通り、「縄文時代」と「弥生時代」と、東北地方や関東地方で発見された遺跡の多くから「琥珀」が発掘されています。

さらに、「古墳時代」になると、「琥珀」製品は、奈良盆地周辺にある、当時の有力者の墳墓と思われる遺跡から数多く出土するようになります。

また、この発掘された「琥珀」を調査すると、奈良周辺で出土した「琥珀」製品のほとんど全てが、久慈地方から産出された「琥珀」であることが解明されています。



右の画像は、昭和40年、奈良県斑鳩町の「竜田御坊山3号墳」から発掘された「琥珀の枕」の復元品となります。

この「琥珀の枕」は、飛鳥時代(645〜715年)の皇族クラスの副葬品です。

琥珀枕」、当初は、大陸からの輸入品と考えられていたそうですが、その後の化学分析により、この「琥珀枕」も、久慈産の「琥珀」を使っていることが解明されたそうです。

ちなみに、この古墳に埋葬されていたのは、10代の若い青年で、地元の考古学者の見解では、埋葬年代や副葬品の豪華さから、埋葬者は「厩戸皇子(聖徳太子)一族」ではないかと言われ続けているようです。



さらに、奈良の先、今年(2017年)、「神宿る島」の構成資産の一つとして世界遺産に登録された「沖ノ島」でも「琥珀」が発見されています。

こちらの「琥珀」は、まだ鑑定が行われていないので、産地は解らないようですが、琥珀製の「棗(なつめ)玉」や「勾(まが)玉」が数多く発見されているそうです。

これら、東北地方の久慈から産出した「琥珀」は、後に「奥州街道」と呼ばれる事になる道から「中山道」を経由して大和地方に運ばれた事が解っており、この道も、日本における「アンバールート」と呼ばれているそうです。

その後も、日本における「琥珀」の産出は行われ続け、その多くは「久慈」から産出された「琥珀」が日本中に流通していた様です。

飛鳥時代、中国、当時の「唐」に派遣された「遣唐使」では、「琥珀」が、皇帝への貢ぎ物として献上された記録も残っている様です。

中国の「宋代(960〜1127年)」に作成された、中国の「唐時代」の正式な史料となっている「新唐書(1060年完成)」には、飛鳥時代の「白雉4年(653年)」に派遣された第二回遣唐使に関して、次のような記述があるそうです。

『 永徽初(650年)、その王の孝紱が即位、改元して白雉(はくち)という。一斗升のような大きさの琥珀、五升器のような瑪瑙(めのう)を献上した。 』

ちなみに、「一斗升(ます)」とは、現在の「約1.8リットル」位の容量となりますが、この「琥珀」が、どこから産出された物なのかは不明な様ですが、現在では、久慈産と考えられている様です。

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奈良時代(715〜806年)には、地方から天皇への献上品として使用されるようにもなったようで、「聖武天皇/光明皇后」所縁の品を納めている「正倉院」にも、多くの「琥珀製品」が収蔵されています。

この画像は、教科書やポスター等によく掲載されているので、皆さんもご覧になった事があると思いますが、「螺鈿紫檀五弦琵琶(らでん-したんの-ごげんびわ)」と言う宝物です。



この「琵琶」の「赤い丸部分」は、琥珀が埋め込まれています。

その他にも、右の画像は、「琥珀双六子(こはく-すごろくし)」と言う、双六の駒ですが、琥珀や瑪瑙(めのう)等、貴重な「玉」で作成された収蔵品もあります。

そして、これら「琥珀製品」ですが・・・産地は、当然、久慈産との事です。

ちなみに、「双六子」は、元々は、169個もあったそうです。

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平安時代(806〜1185年)」になると、「琥珀」は、香料として用いられる機会が増えて行くことになった様です。

当時、日本では、貴族でさえも風呂に入る習慣が無かったので、香料を用いて体臭を隠していました。

琥珀」を燃やしたり燻したりすると、当然、元々は樹脂の化石ですから、松の木を燃したようなキツい匂いがするそうですが、体臭を隠すため、敢えてキツい匂いが好まれたと言われています。

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久慈市にある「琥珀博物館」を運営する「久慈琥珀株式会社」のサイト等によると、その後、時が流れ「室町時代(1336〜1573年)」の頃になると、久慈近郊における「琥珀」の産業化が始まり、「琥珀」を採掘するための専門職が誕生したと書かれていました。


しかし、その頃は、まだ装飾品としての利用は限定的で、どちらかと言えば、香料や薬用としての利用がメインだった様です。

そして、さらに時が経過して江戸時代になると、久慈における「琥珀」採掘は本格化し始めるようです。

江戸時代に入り、長らく続いた戦乱が終わって治安が落ち着いてくると、「琥珀」を装飾品として利用し始めることが流行り始めた様です。



その代表的な物が「根付(ねつけ)」です。

「根付」とは、煙草入れ、矢立て、印籠、等の小型の革製鞄、等を紐で帯から吊るして持ち歩くときに用いた留め具の事で、江戸時代から大正初期まで、男性の間で、大人気となりました。

現代で言う所の「携帯ストラップ」のような物です。

当初は、木製の「根付」だったのですが、その内に庶民に経済力が増して来ると、高価な宝石を用いた「根付」が流行りだした様です。

そして、その時に使用される宝石が、「琥珀」を始めとした、「象牙」や「翡翠」などで、木製の「根付」も、「黒檀」や「白檀」等、高価な木材を使用した物も現れました。

江戸時代後期になると、さらに「根付ブーム」は過熱し、高価な「根付」では、当時の「家一軒分」の値が付けらた「根付」もあったと言われています。

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また、ちょっと「琥珀」から脱線しますが、「根付」は、現在では、国内外の蒐集家の間では大人気です。

日本国内では、故「高円宮憲仁親王」が、蒐集家としては有名で、その膨大な遺品は、東京国立博物館に寄贈され、「親王」の名前を冠したコレクションとして、時々、公開展示されています。

また、海外でも、有名人が膨大なコレクションを持っており、「ルイ・カルティエ」も膨大なコレクションを持っていた事が知られていました。



近頃では、2010年に出版された「The Hare With Amber Eyes: A Hidden Inheritance(邦題:琥珀の眼の兎)」と言う「エドマンド・ドゥ・ヴァール(Edmund de Waal)」の小説が、イギリスで大ベストセラーとなり、「根付ブーム」が起きたそうです。

そして、その1年後の2011年、ロンドンのボナムス社で開催されたオークションでは、この「象牙の獅子の根付」が、約26万5500ポンド(当時3400万円)の値段で落札された事がニュースで話題になりました。

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さて、話を「琥珀」に戻しますと、江戸時代、久慈付近は盛岡藩の領地でした。


そして、「琥珀」の需要が高まってきた「正保元年(1645年)」、盛岡藩は、「琥珀」を特産品として藩外輸出禁止の品に定めました。

これは、以前、過去ブログで紹介した「漆」と同じです。
★過去ブログ:岩手の工芸品 〜 地味だけど丈夫で長持ち その1

この「琥珀」も「漆」同様に、「御留物」扱いとなり、藩外への持ち出し禁止となった事が、「漆」でも紹介した次の通達書に記載されています。

『 武具類、くろかね類、へにはな、むらさき根、蝋漆あぶら、綿麻糸付布、無手形人、商売之牛馬、箔椀、同木地、皮類、塩硝、くんろく香、右先年より御留物候之間、向後にをいても弥改可申候、若わき道かくれ通候ものとらへ上候ハ、為御褒美其物料可被下者也 』

当時、久慈地域では「琥珀」を「くんのこ(薫陸香)」と呼んでいましたので、上記文中の「くんろく香」が、「琥珀」に当たります。


その後も、「延宝元年(1673年)」には、採掘自体に税を課すようになり、さらに、「延宝7年(1679年)」には、「琥珀奉行」を設け、「琥珀」の採掘から販売までを厳しく管理するようになりました。

江戸時代の最盛期、久慈付近には、「琥珀細工師」が20人以上存在し、上記「根付」を始め、「かんざし」や「帯留」、そして数々の装飾品を創り出し、江戸や京都で販売していました。

これらの事から、当時、「琥珀」を、別名「ナンブ」と呼んでいた事もあったそうです。

まるで、「漆」が「japan」と呼ばれていた事と同じ様な事が、規模は小さいですが、「琥珀」でも起こっていた様です。

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久慈付近では、「琥珀」の採掘場所は激減しましたが、現在でも公に「琥珀」の採掘を行っているのは、下記の2箇所くらいではないかと思います。

琥珀博物館
●上山琥珀工芸

本ブログでも、過去に取り上げたNHKの朝ドラ「あまちゃん」関連の話題ですが、ストーリーに登場する「塩見三省」氏が演じる「勉さん」が、琥珀を採掘していた場面は、上記の「上山琥珀工芸」の「琥珀採掘坑道」です。

その他にも、数多くの「琥珀採掘場」がありますが、現在では使用されておらず、さらに、ほとんどが個人の所有地になってしまっていますので、勝手に中に入って「琥珀」を採掘すると、不法侵入で逮捕されてしまいます。


また、整備など、何も行っていないので、「落盤事故」が起きる可能性が高いので、とても危険です。(許可なく立ち入る事は止めましょう。)

その他、現在では、そのほとんどが操業を停止していますが、同じく久慈市枝成沢の「碁石地区」にも、数多くの「琥珀採掘場」がありました。

この「碁石琥珀」に関しては、盛岡藩、および盛岡藩から分離独立した八戸藩の記録にも記録が残っていることから、江戸時代から「琥珀」の採掘が行われていた事が明らかになっています。


上の画像の看板によれば、「その道」の方々には「ガニ穴」と呼ばれている坑道入口の上には、かつて「琥珀神社」があった事が記載されているそうです。

「ガニ穴」とは、このような手掘りの鉱山が無くなった事も影響し、今では余り用いられる事が無くなった言葉の様ですが、「カニの穴の様に、縦横、縦横無尽に拡がる採掘坑道の入り口」を意味しているそうです。

また、「琥珀」の採掘場の事を、地元では「くんのこほっぱ」と呼んでいるそうです。


「くんのこほっぱ」とは、前述の通り、「琥珀」を「くんのこ(薫陸香)」と呼んでいた事と、採掘場、つまり「堀場(ほりば)」を、「ほっぱ」と呼んだ事から付けられた、いわば地元の「方言」+「造語」です。

「くんのこ(琥珀)」 + 「ほっぱ(堀場)」 = 「くんのこほっぱ」、です。

碁石地区」を始め、久慈近辺の地層は、「久慈層群」と呼ばれる地層で、多量の琥珀が埋蔵されており、「久慈層群と琥珀」として「日本地質百選」にも選定されているそうです。


さらに、「久慈層群」は、中生代白亜紀後期(約8500〜9000万年前)、恐竜時代に属する地層なので、同時代の虫入り琥珀も多数発見され、学術的に各方面から注目されているとも言われています。

その一方、「久慈層群」から採れる「琥珀」には、「二酸化ケイ素(SiO2)」が多く含まれており、「脆い」と言う特徴もある様です。

右の「琥珀」に見られる「白く薄い膜」部分が、「二酸化ケイ素」なのだそうです。


所有者の許可を得た方が、ガニ穴から坑道の跡地に入り、中を見た時に画像が左の画像ですが、「手掘り」の坑道が続いています。

そして、左図の「黄色い丸」で囲んだ場所に、「琥珀」が沢山あります。

このように、坑道の至る所に「琥珀」があるそうですが、大きさは1〜2cmで、地層が脆いので指でも採れるようですが、とても加工など出来ない代物なのだそうです。


また、昭和初期、昭和12年(1937年)には、この「碁石地区」の傍に、昭和電工 (株)」の前身で、現在は、「理化学研究所」のグループとなっている「理研琥珀工業(株)」の鉱業部が、直営の採掘場を設け、本格的な商業採掘を開始しました。

久慈の「琥珀」は、この頃が最盛期で、近隣の村から、多くの人が「琥珀」の採掘に押しかけ、まるで「ゴールドラッシュ」ならぬ、「アンバーラッシュ」のようだったと伝わっているそうです。

この近辺で採取された「琥珀」は、装飾用ではなく、戦時中の軍用品として、絶縁体や船舶や航空機の代替塗料(琥珀ペイント)等に使用されたそうです。


と言う事で、この「碁石地区」ですが、古くは、「碁石」と言う性を持つ「碁石一族」が、この地を治めていたようです。

このため、この「琥珀」の採掘場である山は「碁石一族」が所有する持山で、「琥珀神社」も、「碁石一族」が勧請して創建した神社なのだそうです。

その後、「琥珀」の採掘が減少するにつれ、この「琥珀神社」も廃れてしまったようで、「御神体(大山祇命:おおやまずみ-みこと)」も行方不明になってしまったそうです。


しかし、その後、何十年か後に、この「琥珀神社」の「御神体」が、「碁石」近辺の山中で発見されたそうです。

そこで、現在では、前述の「琥珀博物館」の近くに、新しい「琥珀神社」を建立して安置しているそうです。

ちなみに、「大山祇命」は、「伊邪那岐/伊邪那美」の両神の間に生まれた男神で、山を司る神とされていますので、「くんのこほっぱ」に祀る神様としては最適だと思われます。

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久慈地域には、未だに数万トン、一説には6万トン以上の「琥珀」が埋蔵していると言われており、地層が露出している所には、小粒の「琥珀」が沢山見られるそうです。


また、三陸海岸に面する久慈市や、その隣の野田村付近の海岸、特に「野田玉川海岸」には、「琥珀」が流れ着くことでも有名です。

また、川岸でも、大雨の後や台風の後等は、崖が崩れて「琥珀」が流れ着く事があり、地元の子供達などは、昔は、よく「琥珀」を取りに行ったと言う書き込みがあります。

前述の「琥珀」の見分け方にも記載した通り、「琥珀」は非常に軽く、海水に浮くので、海岸には、よく漂着するのだそうです。

バルト海では、「白リン弾」があるので危険ですが、久慈や野田村には、「白リン弾」はないので安全ですが、久慈から野田村に続く海岸は、波が高いので、高波に注意する必要があるそうです。


久慈産の「琥珀」は、中生代白亜紀後期(約8500〜9000万年前)の地層から採掘される事は紹介しましたが、これはバルト海の「琥珀」よりも、4,000万年以上古い地層になります。

バルト海沿岸で産出される「琥珀」は、古第三紀新世後期(約4,000万年前)の地層から産出し、主に「マツ科」の針葉樹の樹液となります。

また、久慈付近では、大型の「琥珀原石」が数多く見つかっています。

現存する最大の「琥珀原石」は、昭和2年(1927年)に、地元「夏井鉱山」から採れた「琥珀」で、元々は、個人が所有していた物を、後に久慈市に寄贈し、現在では、久慈市の指定天然記念物となり「久慈市文化会館/アンバーホール」に常設展示されています。

この「琥珀原石」は、現在のところ、世界最大の「琥珀原石」となっているようで、高さ40cm、幅40cm、奥行き20cmで、重さは何と「19.879Kg」、約20kgにもなるそうです。

琥珀」は、何度も記載していますが、非常に軽い物なので、重量20Kgと言うのは、私は見たことがありませんが、ちょっと信じられない重量だと思います。


さらに、同じく「夏井鉱山」からは、昭和16年(1941年)に採れた重量16kg「琥珀原石」があったそうです。

この「琥珀原石」は、「東洋琥珀興業」と言う企業が採取して、後に国立科学博物館に寄贈したと言われていますが、残念ながら2個に割れてしまったそうです。

その他にも、「琥珀博物館」に展示されている「琥珀原石」は、寸法は解りませんが、重量10.4Kgと、10kg超えの巨大原石です。

さらに、現在は、行方不明になっているそうですが、明治29年(1896年)に発表された理学博士「鈴木 敏」氏の地学文献「琥珀に就て」には、次の様な記載があったそうです。

『 久慈枝成沢と夏井村鳥谷の琥珀第三紀層中産出し、10年前12貫(45kg)琥珀大塊を産し、両所虻入りの奇品、野田で美麗琥珀を産す 』

これが本当だとすると、45kgの「琥珀原石」と言うことになり、前述の「琥珀原石」の2倍以上の、本当に巨大な「琥珀原石」になります。何とも、凄い話です。

久慈の「琥珀」に関する情報は、以上の通りとなります。「久慈琥珀博物館」の情報に関しては、過去ブログに記載していますので、今回は割愛します。

★過去ブログ:NHK朝ドラの舞台となる「久慈市」近辺の情報について

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ところで、余談ですが、現在「カニ穴」と言えば、「土鍋でご飯を炊いた時、鍋の底に強い水蒸気の泡が湧き、それがお米を押しのけて上がった通気穴」の事を意味しているそうです。

坑道入口を意味する「ガニ穴」とは、ちょっと意味が異なる様ですが、確かに、こちらの方が、何となく正しい使い方の様な感じがします。

余計な話ですが、この「カニ穴」が出来たご飯は、強い火力で炊けているので、普通の電気炊飯器で炊いたご飯より美味しいと言われているそうです。

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その他、日本における「琥珀」情報としては、沢山あり過ぎて、全ては紹介出来ませんが、同じく、岩手県内の「琥珀」情報としては、「宮沢賢治」と「琥珀」の関係があります。

宮沢賢治」に関しては、下記のブログで、去年(2016年)が、生誕120年である事を紹介しました。
★過去ブログ:誰もが知ってる「宮沢 賢治」 - 今年は生誕・・・121年目

このブログでは、余り詳しくは紹介しませんでしたが、「宮沢賢治」は、実は、子供の頃から、大の「石オタク」で、子供の頃に付けられたアダ名が「石コ賢さん」・・・

入学した岩手県立盛岡中学校(現:盛岡第一高等学校)でも、学業はそっちのけで、鉱物採集や登山に熱中していたことが記録されています。

その後、数々の小説を作成しますが、その中に、「琥珀」を始め、多くの鉱物が登場し、空や太陽、月、星、海等を様々な石に例えており、短編童話「オツベルと象」や、いくつかの詩集などに「琥珀」という言葉を残しており、特に詩集では、30編もの詩の中に「琥珀」が登場しているそうです。

また、後に出版された「賢治」関連本では、賢治の小説に登場する「鉱物」と、登場シーンと共に紹介する本なども数多く出版されています。

少し、登場シーンを紹介して、本章を終わります。

春と修羅 :「正午の管楽よりもしげく 琥珀のかけらがそそぐとき」
●自作短歌 :「あけがたの 琥珀のそらは 凍りしを 大とかげらの 雲はうかびて」
オツベルと象 :「そのうすくらい仕事場を、オツベルは、大きな琥珀のパイプをくわえ、吹殻を藁に落さないよう、眼を細くして気をつけながら、両手を背中に組みあわせて、ぶらぶら往ったり来たりする。」
水仙月の四日 :「まもなく東のそらが黄ばらのやうに光り、琥珀いろにかがやき、黄金に燃えだしました。丘も野原も新しい雪でいっぱいです。」

■各種琥珀の紹介

最後に久慈の「琥珀」の他にも、世界的に珍しい「琥珀」を紹介したいと思います。

●久慈近辺の琥珀


久慈の琥珀は、年代が古いこともあり茶褐色のきれいな地層のような線が入っていて、色が濃く、きれいな模様があり色合いが多いのが特徴らしいです。

色の種類は、中間色も含めれば、250種類以上あると言われているそうです。

そして、色の違いは、年代、木(樹脂)の種類、そして地質の違いによって異なるそうです。

上の画像は、久慈市の北側、種市町から出土した、約8,700万年前の「中生代白亜紀後期」の琥珀で、中に、「鳥類羽毛の後羽(こうう)」が入っている世界最古で、かつ世界初の琥珀なのだそうです。(出た ! 世界最古)

後は、久慈にある「琥珀博物館」や、その直営サイトで、様々な琥珀、「虫入り琥珀」等も販売していますので、特に珍しいものは無いと思います。

また、前に紹介した過去ブログに記載していますが、約8,700万年前の白亜紀琥珀で、日本最古のカマキリが入った琥珀が発見されたりしています。

もう、ここまで来ると、「虫入り」とか、「世界最古の〜」と言う琥珀を紹介しても仕方が無いと思いますので、割愛しますが、琥珀博物館の展示物を少し紹介します。


琥珀博物館には、何点か、大型の琥珀製の展示物があります。

右の作品は、平成10年、琥珀製品の製作技術の向上を目的に、ロシアから琥珀製作者を招き、博物館の職員と一緒に作成した「金色堂」です。

縦1.75m、横2.77m、総重量100kgの巨大な琥珀のモザイク画とされ、製作に3ヶ月掛かったそうです。



こちらは、後で紹介する「エカテリーナ宮殿博物館」から寄贈された、復元された「琥珀の間」の一部分との事です。

「エカテリーナ宮殿博物館」には、「琥珀の間」と呼ばれ、部屋全体の装飾が琥珀で出来ている一室があり、「琥珀」繋がりで、久慈の「琥珀博物館」とは、「姉妹博物館」になっています。

その関係で、この展示物は、琥珀博物館の新館オープンの際に、エカテリーナ宮殿博物館から寄贈された物です。

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●エカテリーナ宮殿「琥珀の間」


エカテリーナ宮殿は、ロシアのサンクトペテルブルク(旧:レニングラード)にあり、「ピョートル大帝」の妻であり、第2代ロシア皇帝となった「エカテリーナ1世(1730〜1740)」が、夏の間を過ごすための建てた離宮で、「夏の宮殿」とも呼ばれていました。

その後、増改築を繰り返し、「エカテリーナ1世」の娘である第6代皇帝「エリザベータ(1741〜1762年)」の時代となる、1756年に、現行規模の宮殿となったと言われています。



そして、「琥珀の間」に関しては、当初は「ピョートル大帝」が、プロイセンの「フリードリヒ・ヴィルヘルム1世」から譲り受けたそうですが、暫くは、組み立てられる事無く放置されていた様です。

その後、先の「エリザベータ」が、「冬の宮殿」と呼ばれた「エルミタージュ宮殿(現:エルミタージュ美術館)」の改装の際、放置されていた「琥珀の間」を見つけ出し、未完成だった部分も修復し、当初の構想より規模を拡大させて完成させたそうです。

ところが、その後、第8代皇帝「エカテリーナ2世(1762〜1796年)」の時代に、「冬の宮殿」から、現在の「夏の宮殿」に移されたそうです。



エカテリーナ2世」は、ことの外、この「琥珀の間」を愛し、自分以外の立ち入りを禁止していたそうです。

そして時は流れ、ロシア帝国は革命により崩壊してソビエト連邦となり、第二次世界大戦が始まります。

ソビエトとドイツは、不可侵条約を締結していたのですが、ご存知の通り、1941年、ドイツは、条約を破ってロシアのレニングラードに侵攻します。

レニングラードに侵攻したドイツ軍は、ヒトラーの命令のもと、エカテリーナ宮殿にも乱入して美術品を略奪しましたが、その際、「琥珀の間」も分解して、ケーニヒスベルク(現:カリーニングラード)に持ち去られて展示されていたそうです。



しかし、誠に残念な事に、1944年、イギリス軍が、ケーニヒスベルクに大規模な空爆を行い、この爆撃により、「琥珀の間」を展示していた「ケーニヒスベルク城」を始め、市街地の大半が壊滅状態となってしまったそうです。

そして、この「ケーニヒスベルク空襲」により、「琥珀の間」は、完全に焼失してしまったとされています。

しかし、一部の説では、「琥珀の間」は、空爆の前に、既にドイツ本土に運ばれていたのではないかと指摘する歴史学者も居るようです。

ケーニヒスベルク城」で「琥珀の間」を管理していたのは、ドイツの美術史家「アルフレッド・ローデ」と言う人物ですが、この人物は、後に「爆撃があった時には、琥珀の間は展示しておらず、分解して城の地下室で大事に保管していた。」と証言しているそうです。

これが事実であれば、「琥珀の間」は、焼失しておらず、誰かによって、何処かに持ち去られた事になります。

また、その他にも、「琥珀の間」は、ドイツではなくポーランドに持ち去られ、そこから南アフリカに持ちされたと言う説もあるそうです。

琥珀の間」に関しては、その他にも多くの説があり、何とも、興味深い話です。

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その後、第二次世界大戦終了後、破壊された「エカテリーナ宮殿」の修復作業が開始されたのですが、「琥珀の間」に関しては、そのもの自体が無くなっているので、修復のしようがありませんでした。

そこで、ソビエト連邦は、1979年から、修復ではなく、「琥珀の間」の復元作業を開始しました。

途中、1991年に、ソビエト連邦が崩壊し、ロシア連邦が誕生しましたが、「琥珀の間」の復元は細々と続けられたそうです。

さらに、1998年には、無くなったとされた「琥珀の間」の一部となる「フィレンツェ風モザイク」と「琥珀箪笥」が、ドイツのブレーメンで発見され、その後、2000年に、正式にロシアに返還されると言う出来事もあったそうです。

その後も、ロシアの研究者と彫刻家、それにドイツの職人も加わって復元作業が続けられ、最終的、復元には、24年以上の歳月と、金額にして「1135万ドル(約12億5985万円)」の費用を掛け、2003年に復元作業が終了しました。

ちなみに、このエカテリーナ宮殿の「琥珀の間」再建修復委員会委員長は、ポーランド生まれの琥珀職人「アレクサンドル・アレクサンドロヴィッチ・ジュラヴリョフ」と言う人物なのですが、この人物が、前述の琥珀美術館に展示されている「金色堂」の作成において、日本の琥珀職人に、色々と指導をして下さったそうです。


今回は、久慈近辺の特産品「琥珀」に関する様々な情報を、紹介して来ましたが、如何でしたか ?

●世界における琥珀の歴史
琥珀生成物
●DNA採取の可否
●その他「雑学」
●久慈「琥珀」の歴史
●各種琥珀紹介

琥珀」は、「珊瑚」や「真珠」等、有機物由来の宝石として、古くから、日本のみならず、世界中で、珍重されてきた事が、今回のブログで、よく解りました。

琥珀」に関しては、その人気の高さに比例するように、本当に沢山の情報(雑学)があり、余裕があれば、もっと沢山の情報を紹介したかったので残念です。

例えば・・・

琥珀
琥珀
●人魚の涙
●太陽の石・・・等

琥珀」にまつわる話は、世界中にありますので、探せばキリが無いのかもしれません。


また、日本における「琥珀」の歴史は、そのほとんどが「久慈産琥珀」の歴史と言っても、過言では無いことが解ったのも興味深い事でした。

過去に紹介した二戸市浄法寺町の「漆」が、世界に流通して「japan」と呼ばれたように、世界レベルまでは到達出来なかったようですが、日本国内では、久慈産の「琥珀 = ナンブ」と呼ばれるまでになった事は、何か、岩手県出身者としては、何か、誇らしいような感じがします。

「南部鉄器」も、その昔、「コピー商品」が日本中に出回るほど人気になった訳ですから、やはり岩手県の工芸品は、本シリーズの最初に記載した通り、「小粒でもピリリと辛い」工芸品なのだと思います。

次回は、岩手の工芸品として「岩谷堂箪笥」を中心とした「木工品」を紹介したいと思っています。


それでは次回も宜しくお願いします。

以上

【画像・情報提供先】
Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)
・カラパイヤ(http://karapaia.com/)
・Nature(http://www.nature.com/news/dna-has-a-521-year-half-life-1.11555)
・映画「ジュラシックパーク」は、米「Amblin Entertainment」社の製作物です。
独立行政法人 情報処理推進機構(https://www2.edu.ipa.go.jp/)
・北三陸大地の恵み・ジオパーク推進連絡会(https://kitasanriku-geohistory.themedia.jp/)
八戸市立図書館(http://www.lib.hachinohe.aomori.jp/)

【株式会社 エム・システム】
本      社  :〒124-0023 東京都葛飾東新小岩8-5-5 5F
           TEL : 03-5671-2360 / FAX : 03-5671-2361
盛岡事業所  :〒020-0022 岩手県盛岡市大通3-2-8 3F
           TEL : 019-656-1530 / FAX : 019-656-1531
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取り敢えずExcelで良いのか ? - 業務見直しのススメ その2


前回の「IT系情報」として、「取り敢えずExcelでよいのか ?」の前編を紹介しました。


★過去ブログ:取り敢えずExcelでよいのか ? その1


このブログでは、下記のような項目で、Excelの歴史から始めて、マクロとVBAの相違、本当の意味でのExcelの功罪と言うような内容を紹介しました。


Excelの歴史
●マクロをVBAの違い
Excelの功罪


その中でも、「Excelの功罪」として、Excel職人の誕生と消滅、さらにExcelの非互換を紹介しました。


Excel自体は、別に、Microsoft社を擁護するつもりは毛頭ありませんが、非常に安価で、使い方さえ間違わなければ、高機能なツールだと思います。


まあ、現時点の最新バージョンであるExcel2016は、「Windows Update」が行われる度にパフォーマンスが低下するので、非常にイラつきますが・・・


普通に、表計算やビジネス帳票を作成する分には、余りストレスを感じません。


しかし、VBA(Visual Basic for Applications)でプログラムを組み込んだシステムを構築した後、プログラムを作成した本人が現場から居なくなってしまったり、あるいはOfficeをバージョンアップする度に、バージョン間の非互換で、プログラムが動かなってしまったりするのは困ったものです。

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さらに、日本国内で、2003年頃、非常に流行したExcelの使い方に、「Excel方眼紙」と言う使い方があります。


Excel方眼紙」の作り方や使い方に関しては、Web上に沢山の紹介サイトがあるので、本ブログには掲載しませんが、このような使い方は、余りお勧め出来ません。


とは言いつつ、私も、個人的には、契約関連帳票や開発スケジュールを作る時には、「方眼紙」の様に、セルを細かくして、必要に応じて連結しています。


「それじゃ、何で批判するんだよ !!」と言うことですが、「Excel方眼紙」の様な使い方は、個人で使用する分には、何も問題はないし、「方眼紙」に慣れている人にとっては、非常に便利な使い方だと思います。


問題なのは、、これを社内テンプレートとして、広範囲に展開することだと思います。こうなると、他の人ではメンテナンス出来ず、逆に作業効率を下げてしまう可能性があります。

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今回は、この「Excel方眼紙」のような問題を含めて、次の内容を紹介したいと思います。


Excel不要論の正体
Excelの問題
●今後のExcel


それでは今回も宜しくお願いします。

Excel不要論の正体


前回も紹介しましたが、世の中のサイトを、「脱Excel」と言うキーワードで検索すると、数多くの検索結果が表示されます。その数、約38万件・・・


しかし、その検索結果を、さらに「BI」と言うキーワードで検索すると、約3割近くが「BI(Business Intelligence)ツール」の導入を進めるサイトになっています。


そして、さらに、その他の検索結果を見てみると、だいたいが、次のような「Excel代替ツール」を勧めるサイトになっています。


・EDIツール :電子データ交換ツール → Electronic Data Interchange
・ETLツール :データ抽出/変換/ロードツール → Extract Transform Load
EAIツール :アプリケーションの統合連携ツール → Enterprise Application Integration


これらの「英語3文字ツール」を個々に紹介していたらキリがないのですが、「Excel代替製品」として以前から存在する下記のようなツールが存在します。
FileMaker、kintone、Googleスプレッド


つまり、この世の中で「脱Excel」を勧めている人間は、別のソフトウェアを売りたいがために、流行り文句で「脱Excel」と言っているだけなのだと思います。


結局、「Excelを止めてXXXXXXXX」と言っているだけの話で、この「XXXXXXXX」の部分が、「FileMaker」であったり、「kintone」であったりするだけの話なのだと思います。


そして、「脱Excel」と言う話に乗せられて、別のツールを使ったとしても、結局は、その昔、Excelを使っていた時と同じような問題が発生します。


・パフォーマンスが悪い
・処理が自動化出来ない
・ファイル・フォーマットが自由に変えられない
・自動化したが誰も保守が出来なくなってしまった・・・・等


そもそも、ソフトウェアの費用が、Excelと比較するとダントツに高額ですし、詰まる所、どんなツールを使ったとしても、それなりの問題が発生するのは、Excelと同じなのです。

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FileMaker」や「kintone」と異なるのが、上記に出てきたEDI、ETL、EAIとよばれる「英語3文字ツール」群です。


これらのツールを簡単に説明すれば、「データ変換&システム連携」ツールです。Excelとは、全く別物のソフトウェアになります。


企業内の業務は、通常、単独で完結する業務は少なく、ほとんどの業務が、その後処理となる、別の業務と繋がっています。


例えば、営業社員が、製品を販売するケース1つ取っても、下図のような様々な業務が関連して処理される事になります。


このような業務の連携に関して、「ERP(Enterprise Resource Planning)ツール」を導入している場合は、販売管理機能において、販売した製品の数さえ入力すれば、後は、自動で連携処理されるようになります。


しかし、この「ERPツール」は、非常に高額なソフトウェアで、安くても数百万円、上は数億円までの費用が掛かるシステムなので、一般の企業が使うのは、ちょっと難しいと思います。


このため、通常、各業務はバラバラに繋がっており、それぞれ別のシステムが処理を行う事になるのですが・・・各業務とも帳票や書類/データのフォーマットもバラバラになってしまっています。


これは、各業務で使うシステムが、バラバラに作成されて来た事に原因があります。


通常、IT系システムは、経理業務の効率化から生まれた歴史がありますので、各社とも経理部のシステム化が行われ、後は、その企業毎に、販売管理システムとか、在庫管理システムとかが、順次、必要に応じて構築されて行きます。


そして、これら部署毎に作成する業務システムは、自分の部門の効率化だけを検討し、他の部署のシステムの事など全く気にせずに作成しますので、システム間のインターフェースなどありません。


俗に言う、「部分最適」と言う考え方です。


その後、暫くしてから、お互いのシステムを連携すれば、より社内業務を効率化できる事、つまり「全体最適」に気が付くのですが・・・その時には、もう「後の祭り」、システム間の連携など出来ない状況になってしまっています。

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このような時に登場するのが、前述の「英語3文字ツール」です。


「英語3文字ツール」は、業務間でフォーマットが統一されていないデータを入力し、後続となる業務システム用にデータを変換し、業務システムを連携する事を目的にしたシステムです。


例えば、上図の例では、Excelで作成された「売上データ」を取り込んで、「業務 X」用のデータを作成し、これを「営業管理システム」等で使用します。


その後、製品売上状況を「在庫管理システム」に引き渡したいと思っても、「売上データ」には余計なデータがあるので、そのままの状態では、データを引き継げないケースが良くあります。


そのような場合、手作業で不要項目を取り除き「在庫管理用データ」を作成するのですが、「英語3文字ツール」があれば、自動で「営業管理システム」用データから、「在庫管理システム」用データを作成してくれます。


さらに、システムの機能によっては、コード変換を行ってくれたり、不足項目を他のデータベース等から取り込んでくれたりと、様々な処理を行ってくれますが・・・この「英語3文字ツール」も、数千万円までとは行かないまでも、数百万円のコストが掛かってしまいます。


つまり、この「英語3文字ツール」で「脱Excel」を行っても、かなり高額な費用も掛かりますし、加えて、この手のパッケージ・ソフトウェアには、年間保守料が掛かります。


例えば、「英語3文字ツール」を、500万円で購入した場合、その翌年からは「年間保守料」として、IT業界の通例として、「年間保守料」は、製品購入価格の15%が決まりですので、約75万円もの費用が、そのソフトウェアを使い続ける限り、払い続ける必要があります。


こうなると、「脱Excel」って、本当に必要なのでしょうか ?

Excelの問題

前章で、「脱Excel」と言う言葉に踊らされた場合の問題点を紹介しました。


「脱Excel」で、数百万円の費用が掛かるのであれば、何も無理して「英語3文字ツール」を購入する必要は無いと思います。


しかし、Excelを使い続ける場合、過去ブログに記載した通り、「Excel職人」の問題が付きまといます。


また、「Excel職人」の問題の他にも、実は、様々な問題があります。


そこで、本章では、これまでに紹介してきた内容を元に、Excel、特に、「Excel/VBA」でシステム(マクロ)を構築した場合のメリット/デメリット等を簡単に紹介したいと思います。


Excelのメリット

(1)プログラミングが比較的簡単

プログラミング言語には、その用途/目的により、本当に様々な言語があり、現在では、数百種類にも及ぶのではないかと言われています。


その中において、他のプログラミング言語と比較すれば、確かに「VBA」は、簡単な言語だと思います。


但し、「簡単」とは言え、物事を論理的に考える事が苦手な人には、難しいとは思いますが・・・

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(2)開発コストも比較的安価

これも、「比較的」と言う言葉が付きますが、他の開発言語は、そもそもプログラミング環境を用意するだけでも費用が掛かる言語もありますし、プログラマーの月額単価も高くなっています。


これは、プログラマーの需要/供給の関係も影響しており、他言語のプログラマーの数が少ないため、月額単価も高額になる傾向があります。


その点、「VBA」に関しては、Excelさえあれば、後は何も必要ありません。今直ぐにでも開発作業を行う事が可能になりますので、作業単価も(比較的)安価になっています。


しかし、いくら「作業単価が安い」とは言え、プログラムは人間が作成していますので、それなりに費用は掛かります。


よく弊社にも、「簡単な仕組みだから、簡単に、安く作れるでしょう !」と言う問合せがきますが・・・それなら、人に頼らず、自分でプログラムを作成してみて下さい。


この様に、最初から、相手を見下した問合せをしてくる企業や人間とは、正直な所、余り付き合いたいとは思いません。

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(3)一度作成すれば、誰でも作業可能

この点は、Excelに限らず、他のプログラミング言語でも同じですが、一度、プログラムを作成し、操作マニュアルや手順書を作成してしまえば、後は、誰でも業務遂行が可能になります。


複雑な業務の場合、このタイミングで、あのフォルダーにある、このファイルを開いて、この項目と、あの項目をコピーして来て・・・等という、複雑な作業手順が必要になります。


Excel/VBA」でプログラムを作成してしまえば、極端な例では、「実行ボタン」をクリックするだけで、業務は終了してしまいます。


このようなメリットは、「属人化の廃止」と言い、ある特定の社員にしか出来ない作業を、誰にでも、アルバイト社員でも、パート社員でも行えるようにする事を意味します。


これにより、正規雇用社員には、もっとコア業務の注力してもらう事が可能になります。

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(4)作業時間の大幅短縮

上記(3)と同様、この点も業務のIT化の最大のメリットになります。


業務量が少ない場合、ある程度の業務スキルがある社員が、毎日、あるいは月数回、数時間作業を行えば、人間が作業を行っても業務は完了します。


それが、業務量、つまりデータ量が増えてくると、今度は、社員1名では足りないので、複数人をアサインして「人海戦術」で、対応するようになります。


しかし、本当に大量データになってしまうと、「人海戦術」でも対応できなくなってしまいます。


このような時にこそ、業務のIT化は必要です。


みんなで、Excelに対して、大量の「コピペ」をしていた作業が、上記同様、「実行ボタン」をクリックするだけで、終了するようになります。

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(5)入力ミス/コピーミスがゼロ(品質向上)

さらに、人間が行う作業には、ミスは付き物です。入力ミス、コピーミス、パンチミス・・・ミスを取り上げたらキリがありません。


しかし、その点に関しても、システム化してしまえば、「ミスゼロ」も可能です。データの品質を向上させるのであれば、可能な限り、人間の介入を減らすのが肝心です。


とは言え、プログラムも人間が作成します。


システム導入当初は、絶対にミス(バグ)は発生します。導入試験を入念に行い、バグを潰してから本番運用を開始して下さい。

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(6)他システムとの連携も比較的簡単

これは、連携するシステムの種類や、相手のシステムの作り方に依存します。


単純に、「Excel/VBA」でプログラムを作ったから、どんなシステムとも連携可能、と言う訳には行きません。相手のシステムを、ちゃんと精査した上で、連携の可否を決定する必要があります。


「比較的簡単」と言っているのは、「Excel/VBA」には、予め様々なインターフェースが備わっているので、連携相手に対して、そのインターフェースが使えるのであれば、「比較的連携が簡単」と言うだけの話です。


連携を希望する相手に、該当インターフェースが備わっていなければ、別の手段を検討する必要があります。



ここまで、Excel/VBAによりシステムを作成する事のメリットを記載して来ました。「何か・・・良さげ」と思うかもしれませんが、それは、後述するデメリットを読んでから判断した方が良いかもしれません。

Excelのデメリット

(1)バージョン間の非互換

これは、「Excel/VBA」の問題点として必ず登場する問題点です。


Microsoft社は、かなり以前から、推測するに、「Excel2007」をリリースした頃から、「VBA言語」を亡き者にしようと画策しているように見受けられます。


このため、恐らく、故意だと思い思いますが、Officeのバージョンアップを行う度に、バージョン間において、Excel/VBAの非互換、(故意に)を作り出しています。



故に、今回は、特にExcel/VBAに特化していますが、例えば、Excel2007/VBAで作成したシステムを、Excel2010、Excel2013、あるいはExcel2016で使おうとすると、ほぼ確実に、エラーが発生します。


このエラーを回避するためには、PCにインストールしているExcel環境で、「VBA言語」を用いて、プログラムを修正しなければなりません。


加えて、バージョン間の非互換のみならず、下記環境の違いでもエラーが発生するケースもあります。


・32ビット版/64ビット版の違い
・OSの種類の違い


このため、弊社でExcel/VBAの開発を請け負った時には、稼働環境まで、きちんとヒアリングして、対象となる環境全てで試験を実施した後、納品しています。


たまに、「Windows 7環境で、全てのExcelが動くようにして欲しい。」と言う依頼が来ますが、その場合、下表の通り、16種類の環境を用意して、全て稼働確認試験を行う事になるので、プログラムの作成工数より、試験環境の構築を含め、試験工数の方が多くなってしまうケースもあります。

OSの種類 32/64ビット版 Excel2007 Excel2010 Excel2013 Excel2016
Windows 7 32ビット版 32ビット版 32ビット版 32ビット版 32ビット版
64ビット版 64ビット版 64ビット版 64ビット版
64ビット版 32ビット版 32ビット版 32ビット版 32ビット版
32ビット版 32ビット版 32ビット版 32ビット版
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(2)同時編集(書き込み)不可

また、これもExcelの問題として良く取り上げられる問題です。


Excelは、誰も真剣に考えていないと思いますが、基本的には、あくまでも「個人用」と言うのが大前提です。それにも関わらず、複数人で、1個のExcelファイルに対して更新作業を行おうとする方が沢山います。


そうなると、どういう事が起こるのかと言うと・・・


この画像のように、ロック中のメッセージが出力されます。


メッセージ出力後、ロックが解除されれば良いのですが、誰もアクセスしていないのに、このメッセージが出力され続け、ファイルを更新する事が出来なくなるケースがあります。


ちゃんとPC名を設定しておけば、誰がロックし続けているのかが解りますが、このメッセージの様に使用者が解らないと・・・もうお手上げです。


さらに事態が悪化すると、左の画像の様に、ファイル自体が壊れてしまい、ファイルを開くことさえ出来なくなってしまうケースもあります。


こうなると、もう最悪・・・バックアップから、過去のデータを持ってくるしか対応できないと思います。


Microsoft社では、「Excelのファイル共有は可能」と言っています。確かに、最初は、大丈夫だと思います。


しかし、前述の通り、本来は「個人ユース」が基本なので、「ファイル共有」には無理があります。


もしも、本当に「ファイル共有が可能」なのであれば、何故、「SharePoint」などと言う機能を提供しているのでしょうか ?


SharePoint」は、元々は、「Groove Network」社が開発した「Groove」と言うソフトウェアだったのですが、それをMicrosoft社が買収して「SharePoint」と言う名称に変更したものです。


企業を買収してまで手に入れた「SharePoint」。当初から「ファイル共有」が可能であれば、何も、そこまでしなくても良かったと思えます。全く、意味が解りません。


それでは、Excelのファイル共有に関しては、どこまで対応可能なのか ? 、と言う疑問がありますが、経験的に推測すると、だいたい5人位までは対応出来るのではないかと思われます。


5人を超えると・・・

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(3)データ量の増加に伴い処理速度低下
これも、皆さん、良く知っているExcelのデメリットだと思います。


良く弊社にも、月初はスイスイと動くが、月末になるとファイルさえ開かなくなるので、何とか対応して欲しい、等と言う依頼が来ます。


月初はデータ量が少ないのでスカスカ動くのですが、毎日データを入力し続けて行くと、当然、月末になるにつれデータ量が増えて行くので、Excelのパフォーマンスが低下する現象です。


また、売上データ等を、別シートに数年分保管して、前年度比や前々年度比などを算出しているケースは最悪です。Excelファイルを開くだけでも5分以上掛かるケースもあります。


このケースへの対応は、データをデータベースや他ファイルに移行して管理するしか対応策はありません。


Excel2007以降では、ファイルの拡張子が「xlsx」となっていますが、これは、Excelの内部ファイルを、圧縮率の高いファイルに変更した影響です。


このため、Excel2003以前のxlsファイルを、xlsxファイルに変えるだけでも、少しはファイル容量が減ってはいるのだと思いますが・・・どっちにしろ、データ量が増えれば、Excelのパフォーマンスは段々に低下して行きます。

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(4)ドキュメントを作成しない人が多い
これは、前回も記載しましたが、「Excel/VBA」でプログラムを作る場合の弊害の一つと言われ続けているデメリットです。


社内、あるいは部門内で「Excel/VBA」でプログラムを作る人は、言わば「非公認」の人です。自分の仕事を簡単に終わらせたいがために、勝手にプログラムを作成した人です。


また、情報システム部の社員がプログラムを作るのとは異なり、開発用のドキュメント等は一切作成しません。


この非公認の「Excel職人達」が作成したプログラムの仕様書は、この「Excel職人達の頭の中」にしか存在しません。

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通常、システムやプログラムを作成する場合、試行錯誤を重ねて、様々な設計書を作成し、システムやプログラムの仕様や仕組みを、ドキュメントとして残します。


これは、システムのメンテナンス性や継続性を高めるための対応です。


プログラムは人間が作成するのですが、プログラムを作成した人が、永遠に、そのプログラムの面倒を見る事は出来ません。


会社員(サラリーマン)は、通常、入社後、1つの部署に永遠に居続ける事はありません。会社の都合により、転勤、転属、転籍等、勤務場所が変わります。


このため、情報システム部に配属されてシステムを作成した社員が、営業部門や総務部門に配置換えになるケースも多々あります。


このような時に、システムに関する設計書等のドキュメントを残しておかないと、次に、そのシステムを担当する事になった社員は、また最初からシステムを分析しなければならないので、該当システムに何か問題が起きても、直ぐに対応する事が出来ません。


システム作成者が、近くに居れば、電話等で連絡を取り、拝み倒して支援してもらう事もできると思いますが、既に退職してしまっていた場合、もう何も対応が取れなくなってしまいます。


また、該当システムに対して、機能を追加したり、仕様を変更したりする時も同様です。


ドキュメントが残されていないと、後で、システムの面倒を見ることになった人は、何も手出しをできなくなってしまいます。

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その昔、私が、IT業界に入った頃は、ドキュメントが残っていないと言うシステムは、その辺にゴロゴロしていました。


私が入社した会社は、パッケージ・ソフトウェアを開発して販売している会社だったのですが、その大事な商品となるソフトウェアに関しても、ドキュメントが一切ありませんでした。


今思えば、とんでもない、なんて無責任な、そして非常識な会社なのかと思うかもしれませんが、当時は、それが常識とまでは行きませんが、普通の状態でした。


だから、大手企業の情報システムでも、こんな事は「当たり前」、どこに行っても、ドキュメント等は存在しませんでした。


当時の技術者の言い草では「ドキュメントなんか不要だ ! ソースコードを見れば仕様は直ぐに解る !」などと、平気で言っていました。


確かに、ソースコードを分析すれば、そのプログラムの仕組みは解ります。しかし、プログラムを分析するのに、何時間も、何日も掛かります。


お客様や利用者で問題が起きると、お客様は、当然、問題が起きて、頭に血が上った状態ですから、「直ぐ来て、直ぐ治せ !!」となります。


このような時に、「今から、プログラムを解析しますので、あと1週間待って下さい。」等と言えるでしょうか ?


そんな事を言った日には、「お前・・・殺すぞ!!」となってしまいます。

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ちょっと話が逸れてしまいましたが、プログラムやシステムの仕組みをドキュメントに残す事は非常に重要な事なのです。


しかし、この「非公認」の「Excel職人達」は、自分が勝手に作り、自分が使うプログラムだからドキュメントは不要、と言う理論を持っていますので、当然、ドキュメントは作りません。


まあ、確かに、非公認のシステムに対して、「ドキュメントを残せ!」と言う方の理論も、確かに変な感じがします。


どちらの言い分にも、正しい部分と、変な部分があると思います。

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(5)プログラム作成者の消滅

この問題は、上記でも触れましたが、プログラムを作った本人が、職場から居なくなってしまう、と言う問題です。


サラリーマンは、同じ職場に、一生涯居続ける事は、ほぼ不可能です。


営業職で採用された人でも、違う支店や営業所に転勤になる事はありますし、情報システム部門に配属された人でも、途中から営業職や総務部門に配置換えになる事は有り得ます。


また、一生涯同一部署で仕事をした人でも、最後には退職してしまいます。


このように、誰が、何と言おうとも、プログラム作成者は、永遠に会社に残ることは不可能なのです。


そして、その職場には、「Excel/VBAのプログラム」だけが残されてしまうのですが・・・一体、誰がメンテナンスを行うのでしょうか ?


プログラム作成者、つまり「Excel職人」が職場に居た時には、皆から脚光を浴びていた「Excel/VBAプログラム」も、「Excel職人」が職場から去ってしまえば、もう「負の遺産化」が始まります。


Excelを使う環境に変更が無ければ、ひょっとしたら、何の問題も起きずに、「Excel/VBAのプログラム」を使い続ける事は出来るかもしれません。


しかし・・・前述の通り、Excelのバージョンアップや使用PCのグレードアップ等、Excelの使用環境に変更を加わる事で「Excel/VBA」に非互換が発生し、エラーが発生してしまいます。


一度、エラーが発生すれば、もう該当の「Excel/VBAのプログラム」は使うことが出来なくなり、「負の遺産」となってしまいます。


後は、この「負の遺産」の延命するために、特定PCにだけ、昔の環境を残したまま、使い続ける方法を取るケースもありますが、この延命措置を取ると、該当PCに対しては、インターネット接続は出来なくなってしまいます。

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(6)プログラミングが簡単なので、何でもかんでもExcelにしてしまう

このデメリットは、「Excel職人達」に限った話だと思われますが・・・


一度、「Excel/VBA言語」を覚えてしまうと、プログラミングが楽しくなってしまい、普通の「Excel関数」でも行う事が出来る処理でも、「Excel/VBA」で作成してしまう傾向が強いそうです。


確かに、私も、プログラミング言語を覚えた当初は、自分の作ったプログラムが、コンピュータ上で動くのを見るのが楽しくて、沢山、プログラムを作成した記憶があります。


まあ、私の場合、それが、ちゃんとした業務でしたし、プログラム作成後は、きちんとドキュメントを残していたので、何も問題はありませんでした。


しかし、これが「Excel職人」となると話は別です。彼ら「Excel職人達」は、「趣味」でプログラムを作成します。


「趣味」と「仕事」の違いはと言うと、簡単に云うと、我々、ソフト屋は、「仕事」としてプログラムとドキュメントを作ってお金を稼いでいます。


しかし、「Excel職人達」は、「Excel/VBA」のプログラムを作る事が仕事ではありません。


Excel/VBA」で作成したプログラムは、あくまでも業務効率化のためのツールであり、「Excel/VBAのプログラム」を作ったからといって、お金がもらえる訳ではありません。


だから、ドキュメントも作成しませんし、最後まで保守しようとは思っていないのです。


そこが「仕事」と「趣味」の差だと思います。


こうして、「趣味」で沢山「Excel/VBAのプログラム」を作っても、それは、前述の通り、いつかは「負の遺産」として残ってしまう事になってしまいます。

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(7)ファイルの履歴管理ができない

後は・・・それほど深刻な問題では無いとは思うのですが、ファイルの履歴管理が出来ない、と言う点を問題視するケースがあります。


例えば、Excelを、ファイル共有で使用しており、毎日、様々な人達がExcelファイルを更新している場合、それぞれが、自分勝手なファイル名で保存すると、どれが最新ファイルなのかが解らなくなるケースがあります。


まあ、普通に考えれば、ファイル管理規約を作り、ファイル名の後ろに日時を設定すれば、ひと目で最新ファイルが解ります。


このようなファイル管理規約を作れない人達は、ファイル共有機能など、使う資格さえないと思うのですが・・・

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まあ、これ以外にも、次のような問題もありますが、問題点を取り上げればキリがありません。


・ファイル共有時に、折角作ったデータが他の人に上書きされる
・計算式を設定して自動化してもセル内を計算式ごとクリアされてしまう
・使うプリンターによりページ枠がズレてしまう
・部署/部門内の全社員に展開しているとフォーマット変更時にメンバー間の同期が取れない


それに、ほとんどの問題が、業務管理者を決定し、利用規約を作り、ファイル利用者が、規約に従って業務運用を行えば、解決できる問題ばかりのような感じがします。


確かに、いくら規約を作っても、規約を守らない人が居るから問題が起こるのだと思いますが、問題を起こす人は、だいたい決まっています。これは社会で起こる様々な問題と一緒です。


社会問題では、決まりを守らない人は罰せられます。社内でも、決まりを守らない人を罰する(査定する)仕組みを導入するか、決まりを守らない人には仕事を変える等の仕組みが必要なのかもしれません。


また、ファイルにセキュリティを掛け、不必要な箇所を見れない/変更できない仕組みを導入すれば、ある程度、ファイルを保護することは可能です。


「出来ない/使えない」と嘆く前に、もう少し、運用を検討し直した方が良いかもしれません。

■今後のExcel

ここまで、Excelに関して、不要論の正体とか、メリット/デメリットを紹介して来ました。


メリット/デメリットを見てみると、何かデメリットの方が多いような感じがするので、「脱Excel」を図り、他の高額なツールを購入した方が良いようにも見受けられますが・・・


今、現在、Excelのライセンスを持っているのであれば、高価な「英語3文字ツール」を購入する前に、現状の運用を見直し、Excelのメリットを活かす方法を検討した方が良いと思います。


何も検討を行わず、ネット上の広告に踊らされ、「それならETLツールだ !」等と言って飛びつくと、結局は、また同じ問題が起きる可能性が高いと思います。


そこで、本章では、今後、Excelで業務運用を行う場合の対応策を紹介したいと思います。特に、前章で「Excelのデメリット」ととして取り上げた項目への対応策を紹介します。

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Excel/VBAプログラムの取り扱い

Excel/VBA」関連の問題点は沢山あります。そこで、前述のデメリットで取り上げた項目毎に対応策を検討してみたいと思います。


(1)バージョン間の非互換

Excelのバージョン間の非互換には、一般的な会社では、どうやっても太刀打ち出来ません。


「だからExcel/VBAなんか使っちゃダメなんだ !」と言うのは簡単です。「Excel/VBA」を使わずに、業務が効率化できれば何も問題はありません。


しかし、既にプログラムを作ってしまい、それが業務の運用方法として固定化されてしまっている場合、そう簡単に、プログラムを捨て去るのは難しいと思います。


このような場合、今更、プログラムを捨て去ることも、業務運用を変更することも難しいので、「Excel/VBAには非互換は付き物」と言う事を認識し、それなりの予定を立て、システムの非互換対応に関しても、業務スケジュールに組み込む事が必要になります。


現在のPC環境に関しては、何時まで使用可能で、何時頃までにはリプレースする必要があるのかに関しては、だいたい予測していると思います。


PC環境のリプレースは、Microsoft社が勝手に決めた「ライフサイクル・ポリシー」に振り回される事になるので、非常にムカつくのは解ります。


しかし、PCのOSとして、「Windows OS」を使っている限りは、Microsoftの奴隷にならざるを得ないので、致し方ありません。


と言う事で、現在使っているOSが「Windows 7」であれば2020年1月まで、「Windows 10」であれば2025年10月までは該当OSが搭載されたPCを使う事は可能です。


当然、OSとOfficeのライフサイクルは異なりますが、通常、予算執行の関係もあり、PCを変えるタイミングで、Officeも買い換えます。


このため、その時の予算に、「Excel/VBA」で構築してあるシステムの移行費用も組み込む事をお勧めします。しかし、ここで問題となるのは、予算の執行部門の問題です。


比較的小規模な会社で、「情報システム部」と言う部門が無い企業あれば、余り問題は無いと思います。


ところが、「情報システム部」があると、PCの買い替え予算は、この「情報システム部」の予算となっていますが、「Excel/VBA」の非互換対応予算は、「情報システム部」ではなく、その他の各部門の予算になります。


Excel/VBA」の非互換対応予算に関しては、このような「部門の壁」の問題もありますので、余計に、前もって、きちんと検討しておかなければならない問題だと思います。


加えて、「VBAの非互換対応なんか簡単に治るだろうから課長決済の範疇で済む10万円位の予算で大丈夫 !」等と思ったら大間違いです。


既存システムの改修の場合、既存システムの分析/解析という、新規システム開発には存在しない余計な開発フェーズが必要です。


さらに、開発ドキュメントが、きちんと揃っていれば、この「既存システム分析/解析フェーズ」は短期間で済みますが、開発ドキュメントが存在しない場合、余計に開発工数が掛かります。


この点を、ちゃんと理解した上で予算を考えておかないと話になりません。注意して下さい。

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(2)開発ドキュメントの作成

「開発ドキュメントが存在しない」と言うのは、かなり深刻な問題です。


上記「非互換対応」でも問題となりましたが、開発ドキュメントが存在しないと、システム移行時、および問題発生時に、余計な対応工数、つまり余計な費用が掛かってしまいます。


このため、「Excel/VBA」とは言え、きちんと開発ドキュメントを残して置く必要があります。


しかし・・・これが、新規に「Excel/VBA」でプログラムを作成するなら問題ありませんが、既に作成済の「Excel/VBAプログラム」が存在し、かつプログラム作成者が、どこにも居ない場合は大変です。


もう誰にも、プログラムの仕組みやロジックの意図が解りません。もうこうなると素人では手に負えません。


社内に「情報システム部」が存在し、かつ親切な「情報システム部」であれば、既存システムのドキュメント作成に協力してくれるかもしれません。


しかし・・・通常の「情報システム部」であれば(笑)、部門が勝手に作成したシステムに関しては、自分達の業務範疇ではないので、何を言っても相手にしてくれません。


そこで頼りになるのは、やはり、弊社のような、外部のシステム開発会社ですが、しかし、外部の会社なので、当然、ドキュメントを作成するだけでも費用は掛かります。


このため、上記でも触れましたが、非互換対応を行う時に、ドキュメント作成も同時に依頼し、成果物として、ソースコードと一緒に納品してもらうのが、タイミング、費用、そして予算を使う名目としても好都合だと思います。


普段から、外部の会社を探し出し、良い関係を築いていけば、万が一の時にも、頼りになると思います。


そして、・・・システム会社と「良い関係」を築く上で気を付ける事は、やはり費用にだけ注目し、「安く/早く」だけを求めると、相手も、そのような会社とは、良い関係を築こうとは思いませんので、「安く」とか「簡単に」とか「直ぐに」等、相手を見下すような態度は取らない様に注意して下さい。

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(3)プログラム作成者の移動/消滅

これも、上記で触れましたが、「Excel/VBAシステム」の作成者が、職場や会社に存在しないケースも、どうしようもありません。


前述のように、「親切な情報システム部」があれば、何とか面倒を見て貰えるかもしれません。


しかし、大概の「情報システム部」は、部門内で勝手に作成したシステムに関しては相手にしてくれませんので、やはり外部の協力会社に頼る事になると思います。


部門内、および社内に技術者が居ない場合、今後を見据えて技術系社員を雇用するか、あるいは外部パートナーを頼る事になります。


社員ならば多少の無理や難題に対応すると思いますが、外部の場合は、無理/難題に比例して費用が増える事になりますので、外部の会社を、対等なパートナーとして活用できる関係を構築するのが良いと思います。

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(4)プログラムの乱立

このケースでは、何でもかんでもExcel/VBAでプログラムを作成してしまうケースです。


従来、社員がExcel/VBAでプログラムを作成するケースは、あくまでも個人の裁量となるので、業務のシステム化に関して、部門長が管理するのは難しいのではないかと思います。


しかし、業務のシステム化を、部門長が黙認していた場合、知っていたにも関わらず何の指示をしていない事になりますので、もう個人の問題ではなく、部門の問題になります。


本来、自部門の社員が、どのような方法で業務を行っているのかを管理するのも部門長の責任だと思います。


「仕事が、早く/ミス無く終われば、後はどうでも良い」、と言う訳には行きませんので、勝手にExcel/VBAで業務のシステム化を進めないよう管理する必要があります。


業務のシステム化を行う場合、今後、どうやって保守/管理して行くのかも、きちんと理解する必要があります。


現在では、「俺は、ITには詳しくないからさ・・・」等と言う管理職は、この世に存在することさえ許されなくなります。

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●同時編集の可否

これは、単一ファイルに対して、複数人が、編集を行った時に、ファイルの排他制御が取れず、ロックが掛かりっぱなしになったり、あるいは最悪、ファイルが壊れてしまったりする現象への対応です。


「単一ファイルへの複数人同時編集は止めれば良いじゃん!」と言うのは簡単です。


しかし、この運用を止めると、今度は、誰か一人が犠牲となり、沢山の人から寄せられたExcelファイルを、1個のファイルにマージ(統合)しなければならなくなってしまいます。


このファイルのマージ作業は、通常、単に項目をコピー/ペーストするだけの単純作業ですが、数が多いと、かなり大変な作業になりますし、人間が行うのでミスが発生する可能性も高まります。


このような業務がある場合、かなり費用は掛かってしまいますが、「SharePoint」を活用するのが一般的だと思います。


しかし、「SharePoint」で管理しているExcelに関しては、Excel/VBAを使うことが出来ません。つまり、SharePointサーバー内に格納している状態では、Excel/VBAによる処理の自動化等は行うことが出来ません。


Excelに、Excel/VBAによるプログラムを組み込んでいるのであれば、一旦、SharePointから、自分のPCにExcelをダウンロードし、PC内でExcel/VBAを実行し、作業が完了した時点で、再度、SharePointにアップロードする必要があります。

SharePointサーバー上でExcel/VBAが稼働できれば一番良いのですが、前述の通り、SharePointは、元々、他社製品を買収し、無理やりOffice製品に組み込んだソフトウェアですので、SharePoint内ではVBAを稼働させることが出来ないのです。

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●データ量の増加

この問題は、データ量が増加すると、Excelのパフォーマンスが低下する、と言う問題への対応となります。


従来、Excelで管理できるデータ量には、様々な制限がありましたが、バージョンアップを重ねる毎に、この制限値が増えて行き、Excel2013以降は、ほぼ無制限に近い状況になりつつあります。


このため、何も考えずに、「アレもコレも」、何でもExcelで管理しようとすると、ファイルの容量が増え過ぎてしまい、ファイルを開くまで、何分も待たなければならない状況になってしまいます。


このような状態を回避するには、1個のファイルで管理する項目を、きちんと管理し、過去データ等、不要なデータは、出来るだけ削除するようにして下さい。


前述のデメリットにも記載しましたが、過去データを何年分もシートに保存し、前年比実績などを算出するケースでは、どうしてもパフォーマンスが低下します。


この場合、可能か否かは検討する必要がありますが、過去データは、別ファイルやデータベースに保存する仕組みにし、過去データが必要な時だけ、別ファイル/データベースを参照するような仕組みにすれば、データ量は増えません。


また営業データにしても、全営業部員が、1個のExcelに毎日、売り上げ数字や見込み数字を入力していては、月末には、ファイルがパンパンで、当然パフォーマンスが低下します。


この場合も、一覧表と売り上げ数値を別管理に分離出来れば、ファイルの肥大化は防止出来ます。


ファイルが肥大化しパフォーマンスが低下するのであれば、「Excel + DB」での運用を検討するか、あるいは、もうExcelでの運用を諦め、これも「英語3文字ツール」になってしまいますが、「営業支援システム(SFA:Sales Force Automation)」の導入を検討した方が良いかもしれません。


SFA」は、ライセンス数や提供機能、あるいは利用ストレージの大きさ等により、利用金額が異なり、月額数万円〜数百万円までの幅がありますので、自社の規模や要件に見合ったシステムを見つけ出す必要があります。


他のツールも面倒ですが、これも、かなり面倒な作業です。

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●ファイルの履歴管理

Excelのファイル管理に関しては、デメリットの項目に記載した通り、誰が見ても、一目瞭然となるようなファイル名にする事が大切です。


個人でも、そして部門でも、必要ファイルを探すだけでも毎日、数分の作業時間をロスしているというデータもあります。


例えば、毎日、必要ファイルを探すだけで10分掛けているとすると、1週間で「10分 × 5日 = 50分」、1ヶ月で「10分 × 20日 = 200分」、1年間で「10分 × 240日 = 2,400分」、つまり1年間の内、40時間は、ファイルを探し続けている事になります。


アホらしい・・・


このような、アホの様な時間をロスしないためにも、ファイル名は、きちんと社内、あるいは部門の規則を作って管理する必要があります。


しかし、変な規則を作ってしまと、その内、誰も規則を守らなくなりますし、そもそもファイル名が何を意味しているのかも解らなくなってしまいます。


以前勤務していた企業で、ISOを取り入れた時に、ファイル名もISOで管理する事になり、ファイル名を、業務と関係ない記号だらけになる管理規約を作ったのですが・・・誰も、その意味が解らなくなってしまい、その内に、その管理規約が消滅してしまった記憶があります。


ファイルの履歴管理や命名規約は、何もExcelに限った話ではありません。


前述のように無駄な時間を無くす様に、基本的には、「業務名 + 作業名 + 日付」等で、ファイル名と履歴を管理するのが、一番簡単で、理解しやすい方法だと思います。


今回、「取り敢えずExcelで良いのか ?」の後編として、次のような内容を紹介して来ましたが、如何でしたか ?


Excel不要論の正体
Excelの問題
●今後のExcel


今回は、Excelに関して、前後半の2回に渡り、その歴史から始めて、様々な問題、およびその問題への対応策などを紹介しましした。


しかし・・・正直な話、このような問題は、別にExcelに限った話ではありません。どのようなシステムにも、それなりのメリット/デメリットは、必ず存在します。


日本人は、業務の効率化を追求し過ぎる余り、必ずと言って良いほど、システムをカスタマイズします。


私は、前職では、パッケージ・ソフトウェアを開発/販売していましたが、ほぼ100%のお客様が、何らかのカスタマイズを行っていました。


今は、どうなっているのかは、よくは解りませんが、昔から、「日本人は業務運用をパッケージに合わせるのではなく、パッケージを業務運用に合わせたがる。」と言われ続けていました。


パッケージ・ソフトウェアの先進国であるアメリカでは、余りカスタマイズは行わないと聞いています。


ですから、このExcelに関しても、様々なカスタマイズを加え、業務の効率化を図っているのだと思いますが・・・


それが、逆にバージョン間の非互換とか、ファイル共有の問題とかを引き起こしているではないかと思います。


加えて、Excel自体が、余りにも広く、誰にでも使われるソフトウェアになってしまったがために、これらExcelの問題だけが、目立ってしまう事になっているのだと思います。

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これが、パワーポイントならどうでしょうか ?


パワーポイントは、普段は、営業系の人間しか使わないので、多少不便があっても、Excelのようには騒がれません。


一応、パワーポイントにも、VBAが搭載されていますが・・・ほぼ使っている人は居ないと思われます。

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このように、便利なExcelですので、使い方、それと運用の仕方に関しても、きちんと管理しながら使う必要があると思います。


「あの人が勝手に作ったから・・・」ではなく、日常の業務で使っているのであれば、そのExcelは、もう会社、あるいは部門の資産として、その存在を認め、きちんと管理し続ける事が必要です。


よく弊社にも、「急にエラーが発生したら、直ぐに治して欲しい !!」と言う依頼が来ます。


日常業務で使っているので、直ぐにでも治したい気持ちは解ります。Excelが動かないと、業務が続行出来なくなる事も解ります。弊社としても、出来ることなら、直ぐに治してあげたいと思ってもいます。


しかし・・・それなら、なおさら、普段から、業務システムを、きちんと管理するのが「筋」だと思います。


「今すぐに、ここに来て、治して欲しい!」と言われても・・・正直な所、それは、あなたのワガママでしかありません。


普段から、きちんとソフトウェア資産を管理し、メンテナンスする仕組みを構築する事をお勧めします。


それでは次回も宜しくお願いします。

以上

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岩手の工芸品 〜 地味だけど丈夫で長持ち その2


前回の「岩手・盛岡」情報では、「岩手の工芸品」を紹介するシリーズを開始し、第一弾として「漆器」の情報を掲載しました。


その中では、国産漆の80%を生産している「浄法寺漆」の話から始めて、「漆」の歴史等、しつこい程、「漆」にまつわる次の様な情報を紹介しました。


シリーズ初回と言う事で、ちょっと力んでしまった様です。済みませんでした。


★過去ブログ:岩手の工芸品 〜 地味だけど丈夫で長持ち その1

【 前回ブログ内容 】
●「漆」の歴史
●「漆」の活用方法
●海外における「漆」人気
岩手県内の「漆器
盛岡市の詐欺被害
●「漆塗り」体験の紹介


今回は、「漆」以上に、全国的に有名だと思われる「南部鉄器」を紹介したいと思います。


工芸品としては「漆器」より有名だと思いますが、さすがに歴史的には、「漆」には負けてしまいます。


浄法寺漆」の歴史は、奈良時代まで遡る事が出来ますし、ひょっとしたら縄文時代まで遡るかもしれません。


それに比べて「南部鉄器」は、後で詳しく紹介しますが、せいぜい平安時代ですから、明らかに負けています。


しかし、その後、特に、盛岡藩の営業努力により、全国的に有名になった次第です。


と言うことで、今回は、「南部鉄器」に関して、次のような事を紹介したいと思います。


●南部鉄器の歴史
●現在の状況
●工場見学できる工房の紹介


それでは今回も宜しくお願い申し上げます。

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■南部鉄器の歴史


「南部鉄器」のルーツに関しては、下記の過去ブログにも記載した通り、盛岡編と水沢編があり、水沢編の方が、歴史があります。

★過去ブログ:岩手県内の火防祭り


現在、「旧:水沢市」は、2006年の「平成の大合併」で、次の市町村が合併して「奥州市」となっていますが、本ブログでは、「奥州市」ではなく、敢えて「水沢」と言う地名を使います。
水沢市江刺市前沢町胆沢町、衣川村


ところで、水沢編に関しては、平安時代末(11世紀末)頃、この地「江刺地方」に居を構えていた「藤原清衡」が、近江国(滋賀県)より、鋳物師を招いたことが始まりとされています。


その後、「清衡」が平泉まで南下して行くにつれ、鋳物師達も「清衡」に同行する形で平泉に移り住んだとされています。


また、その一部が、水沢(羽田町)地域に残り、室町時代の初期、京都「聖護院」の「長田正頼」と言う鋳物師が、地元の「千葉家」に養子に入り、鋳造業を始めたのが、水沢における「南部鉄器」の始まりとされています。


そして、「奥州藤原氏」の滅亡後、この地は奥州総奉行に任じられた「葛西氏」が治める事になりますが、「千葉氏」は、「葛西氏」に召し抱えられ、安土桃山時代の秀吉による「奥州仕置」により「葛西氏」が滅亡するまで、その庇護を受ける事になります。


水沢の「南部鉄器」は、一時衰退するようですが、「葛西氏」に仕えた武士で、気仙郡から移住して、上記「千葉氏」に師事した「及川喜右衛門光弘」と言う人物が、江戸時代中期となる「天和三年(1683年)」に「鋳物業」を興した「中興の祖」と言われているそうです。


この「及川喜右衛門光弘」と言う人物・・・何の業績があって「中興の祖」と呼ばれているのか、全く解りませんでした。「鋳物業」を始めただけで「中興の祖」になれるとは思いません。


しかし、その後、とにかく、この「及川家」は、この地を治めた「伊達氏」の手厚い庇護を受け、ギルド的な特権を与えられ、江戸時代末に至るまで、「鋳造業」を続けた様です。


江戸時代、この水沢の地においては、「及川姓」を持たない者は「鋳物師」になれなかったそうで、一族は当然、血の繋がりがない者まで「及川姓」を名乗って「鋳造業」を行っていたそうです。


一時期、この「羽田町」においては、「及川姓」が8割にまで達していた記録もあり、現在でも、羽田町付近には、「及川姓」を名乗る「鋳物業者」が大小含めて、10社以上存在しています。


その中で、古くから創業しているのは、「株式会社 及富」が、江戸時代後期となる「嘉永元年(1848年)」、「及源鋳造」も、同じく「嘉永5年(1853年)」から創業しています。


その他、羽田町で鋳造を行っている業者は、名前ではなく、「及富」、「及源」、「及春」、「及精」等、「屋号」で呼び合っているそうです。


この「一ノ関」から「水沢」付近は、太平洋側の背後にそびえる「北上山地(高地)」から、良質の「砂鉄」と型に使う「粘土」が採取できる事と、鋳物を製造する際の燃料となる「木材」が豊富に採れる事から、「鋳造業」には最適の場所でした。


特に「鉄」に関しては、本件とは別ですが、「北上山地」を挟んだ太平洋側の釜石には、江戸時代末期、南部藩士「大島高任(たかとう)」が、日本初の西洋式高炉を「板野」に建造しました。


そして、この「板野高炉跡」は、平成27年(2015年)に、世界遺産となっています。


さらに、ここ釜石には、明治7年(1874年)、日本初の官営製鉄所「釜石製鐵所」が建造された場所でもあります。


一般的に、「官営製鉄所」と言うと、北九州の「八幡製鐵所」が有名ですが、実は、日本初の官営製鉄所は、ここ釜石の製鉄所なのです。


しかし・・・創業開始3年後には、早くも民間に払い下げられてしまいますので、釜石より北九州の方が有名になってしまった様です。


民間払い下げ後は、「田中製鉄所」、「日本製鐵」、「富士製鐵」、「新日本製鐵所」等と、経営主体がコロコロ変わり、現在では、「新日鉄住金」となっていますが、製鉄業が盛んに行われた地域です。


しかし、太平洋戦争中は、この事が逆に災いし、昭和20年、日本本土に対しては、初の大規模艦砲射撃が、2度に渡り行われ、釜石市周辺、および製鉄所は、壊滅状態となってしまいました。


とにかく、この「北上山地」付近は、「砂鉄/鉄鉱石」、「粘土」、そして「木材」と、「鋳造業」を行うには、最適の場所だと思います。


そして、「水沢」に遅れること500年後、現在の「盛岡」に、「南部氏」が引っ越してきた事から、盛岡での「鋳造業」が始まる事になります。


「南部氏」は、元々は、甲斐国(現:山梨県)で栄えた「甲斐源氏」の流れを汲む一族で、南部家の始祖と言われる「南部光行」が、「源 頼朝」による「奥州藤原氏征伐」に功があったとして、現在の青森県三戸町に領地を与えられ居を構えていました。


その後は、「秀吉」や「家康」に仕える事で、領土拡大/領土安堵を図って来たのですが、慶長三年(1598年)、「三戸では北過ぎる」と言う「蒲生氏郷」や「浅野長政」の助言を聞き入れ、盛岡に城を築くべく数々の職人を招き入れる事で、「鋳物師」も、盛岡に定住するようになります。


そして、ここ「盛岡」における「南部鉄器」は、「有坂家」、「鈴木家」、「藤田家」、および「小泉家」の4家が、ほぼ全てを独占して来たと言われています。


特に、「小泉家」は、江戸時代初期となる「万治二年(1659年)」、当時の第二代藩主「南部重直」が、京都出身の釜師である初代「小泉仁左衛門」に、茶釜を作らせた事が、盛岡における南部鉄器の起源とも言われています。


また、盛岡市を東西に流れ、鮭が遡上する川としても有名な「中津川」ですが、そこに掛かる橋である「上ノ橋/下ノ橋」には、「擬宝珠(ぎぼし)」と呼ばれる飾りが付いています。


本来、この「擬宝珠」は、天皇や朝廷に関係がある建築物にだけ付ける事が許された装飾品です。


詳しい経緯は、下記の過去ブログに掲載していますので、もっと詳しい話を知りたい方は、下記ブログをご覧下さい。


★過去ブログ:中津川への鮭の遡上について



という事で、経緯を簡単に紹介しますと・・・その昔、三戸南部氏第12第当主「南部 政行」が、「和歌」の内容に感激した、当時の後村上天皇から、特別に「擬宝珠」を許され、それ以降、南部藩では、橋に、この「擬宝珠」を付けているそうです。


現在、盛岡市の「上ノ橋」には、青銅製としては日本最古(慶長14年作成)の「擬宝珠」が残されており、この「擬宝珠」を作成したのは、後述する「有坂家」だと伝わっています。


それでは、盛岡藩で「南部鉄器」を仕切っていた一族を簡単に紹介します。

●有坂家 :元々は京都出身で、7代目の時に甲州に移り、南北朝時代14世紀後半に「有坂茂右衛門」が南部氏に召し抱えられ、その後13代目の時に盛岡移住。「吉興(よしおき)」を号とする。
●鈴木家 :「寛永18年(1641年)」、藩主「南部重直」が甲州より「鈴木縫殿(ぬいと)」を召し抱える。梵鐘や灯籠等、大作が得意とされる。「盛久(もりひさ)」を号として使用。現在「鈴木盛久工房」として、初の女性当主が運営継続。
●藤田家 :「宝永6年(1709年)」、第六代藩主「南部利幹(としもと)」が、藩内「宮守村達曽部」より「藤田善助」を召し抱える。鍋類の製造が得意で「鍋善」と呼ばれた。他三家より格下として扱われた可能性があり。
●小泉家 :盛岡南部鉄器の創始者。三代「仁左衛門」が初めて「鉄瓶」を製作。現在「御釜屋」として営業継続。
※上記内容には諸説あるようです。



上記の通り、盛岡藩と伊達藩の両方から、手厚い庇護を受けて発展してきた「鋳物業」ですが、明治時代に入ると、パトロンが居なくなってしまい、一時は、衰退の一途をたどる事になります。


しかし、元々、江戸時代には、盛岡藩や伊達藩の特産品として重宝されてきた物ですし、各種博覧会等で入賞する等、パトロンが居なくなっても、引き続き、高い技術を誇っていた様です。


ところが、「明治23年(1890年)」、東北本線が開通すると、水沢も盛岡も、東北本線の最寄り駅となった事から、「南部鉄器」の販路が拡大する事なった様です。


さらに、大正天皇が、皇太子時代に盛岡に行幸した際に、当時の七代目「小泉仁左衛門」が、皇太子の前で、「南部鉄器」の製造を実演した事が話題となり、日本各地で人気が高まったそうです。


このため、「南部鉄器」人気に当て込んだ自治体が、「南部鉄器」の拡販を図るようになりましたし、旧藩主となる「南部利淳(としあつ)」伯爵が、盛岡市愛宕山に「南部鋳金研究所」を開所する等、人材育成にも力を入れるようになったそうです。


ところが、時代が昭和に入り、太平洋戦争が始まる昭和10年代になると「銑鉄鋳物制限令」等が発布され、軍需用品以外での鉄利用が禁止された事が災いし、それまで150人程度した職人も、戦後には16人まで激減してしまったそうです。


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■現在の状況


ところで、盛岡と水沢、どちらが「南部鉄器」の起源なのか ? と問われると、どちらも正しいと言う事になってしまうと思われます。


前述の過去ブログにも記載していますが、盛岡、および水沢の「南部鉄器」は、次の様に定義されているようです。



●盛岡の「南部鉄器」 :南部藩が庇護/奨励した「鋳物」なので当然「南部鉄器」
●水沢の「南部鉄器」 :岩手県南部の「鋳物」なので、岩手県「南部の鉄器」



江戸時代までは、盛岡藩と伊達藩、その後も盛岡市水沢市と言う別々の場所で「南部鉄器」を製造して来ました。


このため、戦後の「中小企業等協同組合法」においても、次の2つの組合が設立されました。


●南部鉄瓶商工業協同組合 :昭和24年(1949年)、盛岡市花巻市雫石町の鋳物業者が設立
●水沢鋳物工業協同組合 :昭和29年(1954年)、水沢市胆沢地域の鋳物業者が設立


しかし、昭和20年頃から、日本全国各地で製造された「鋳物」が、「南部鉄器」と称して販売される事態が相次ぎ、地元の業者は、危機感を抱くようになっていました。


当然、県内の鋳造業者は、偽物を販売している業者に抗議すると共に、登録商標の獲得を目指したようですが、「既に公知の名称」と言う理由で、登録商標としては認めてもらえなかったそうです。


そこで、その後の昭和34年(1959年)に、県内の統一組織である「岩手県南部鉄器協同組合連合会」を作り、昭和49年(1974年)に制定された法律に基づき、翌昭和50年には、「伝統的工芸品」として認定させた様です。


その後は、盛岡、および水沢地域で製造された「鋳物」だけを「南部鉄器」と呼ぶことができるようにしましたが・・・何か、その昔の日本も、中国と同じ様に、「偽ブランド」を製造販売していたのかと思うと、情けなくなってしまいます。


現在、「南部鉄器」における「伝統工芸士」は、17名にまで減ってしまっている様です。何か、危ない状況みたいです。


しかし、今更ですが、何故、伊達藩で製造していた鋳物を「伊達鉄器」と呼ばなかったのか不思議でありません。そもそも、江戸時代、「伊達領」の「鋳物」は、何と呼ばれていたのでしょうか ?


盛岡における「南部鉄器」の起源は、前述の通り「茶釜」の製造から始まっていますので、初期の「南部鉄器」は、「南部釜」と呼ばれていたそうです。


その後、日本国内での「煎茶」の流行に伴い、この「南部釜」の小型化が図られ、「茶釜」に注ぎ口と鉉(つる)を付け、この鋳物を「鉄薬罐(てつやかん)」と呼ぶようになったそうです。


そして、その後、さらに小型化が進むと共に「薬罐釜」と呼ばれ、さらには「手取り釜」、そして最後に、三代「小泉仁左衛門」が、「南部鉄瓶」の原型を製造し、これが「鉄瓶」と呼ばれた様です。

ちなみに、その昔から、盛岡と水沢の「南部鉄器」には、製造する対象物が異なっており、今でも、その流れは続いていると言われています。


●盛岡 :茶の湯釜、鉄瓶
●水沢 :日用品、武具、砲塔、仏具


どちらも、その頃の時代の影響もありますが、江戸時代末には、大砲の砲身などの製造も手掛けていますが、「南部鉄器」と言われて思い浮かぶ「鉄瓶」は、前述の通り、盛岡発祥だった様です。


そして、現在では、「茶釜」や「鉄瓶」は勿論、現在でも引き続き製造していますが、次のような製品も製造しています。

料理道具 フライパン/グリルパン、キャセロール(西洋鍋)、鍋類、ホットサンドメーカー、炊飯釜、瓶敷、鉄玉子
お茶道具 急須、コーヒードリッパー
小物 風鈴、蚊遣、文鎮/ペーパーウェイト、キャンドルスタンド、香炉、栓抜き、灰皿


こうして、「南部鉄器」で作られている物を列挙していると、盛岡の実家に、これらが沢山あったことを思い出しました。


鍋敷き、急須、風鈴、蚊遣、栓抜き、香炉、灰皿、文鎮・・・その昔、盛岡に住んでいた頃は、「南部鉄器」に囲まれた生活送っていた事に、あらためて気が付きました。


ちなみに、現在も、これらの多くは実家で使われています。


結婚してからは、妻が「鉄分が足りない」と言い出し、この「鉄玉子」や「鉄鍋」を購入してきたのですが・・・


これが、中々面倒で・・・


「鉄製品」は、きちんとメンテナンスしないと、お解りだと思うのですが、「サビ」て来ます。


この「鉄玉子」は、それ程は面倒では無いのですが、「鉄鍋」等は、メチャクチャ面倒くさいです。


特に、洗う時に、洗剤は使えないし、暫く使わない時は、油を塗っておかないとサビるしで、もう大変でした。


私は、学生の頃、アルバイトで務めた喫茶店で、キッチンを担当させられ、色々な料理を作っていた経験があります。


その時に、「中華鍋」でスパゲティやピラフ等を作っていたのですが、鍋が、当然「南部鉄器」ではありませんでしたが、「鉄製」だったので、毎日、仕事が終わった後は、ちゃんと「竹ブラシ」で洗って、油を引いてから仕舞っていました。


このような経験があったので、「南部鉄器」の鍋を購入した時に、妻が、ちゃんとメンテナンス出来るのか心配していたのですが・・・案の定、暫くすると、鍋が錆びてきて、結局、1年も持たずに破棄してしまいました。


「鍋」、結構、値段が高かったのに、勿体無い・・・


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■工場見学


ここまで、「南部鉄器」の歴史や何やかんやを紹介してきましたが、最後に、「南部鉄器」の製造工程を観れる場所を紹介します。


この場所は、盛岡市仙北町にある「岩鋳(いわちゅう)」と言う会社になります。


何か、NHKの教育テレビに出てくる人気キャクター「ニャンちゅう」のような名前の会社ですが、江戸時代までではありませんが、明治35年(1902年)創業の、それなりに歴史のある企業です。


歴史的には、先に紹介した「鈴木盛久工房」や「御釜屋」には負けてしまいますが、規模的には、現在の盛岡では、一番大きくて名が知られた企業だと思います。


私自身も、その昔、この「岩鋳」のお店が、近所の「八幡町」にありましたので、もう「南部鉄器と言えば岩鋳」みたいに感じていた、と言うか、他の会社は、全く知りませんでした。


さて、この「工場見学」ですが、年末/年始と毎週火曜日を除けば、何時でも見学可能なようですが、さすがに日曜日は、職人さんが休みなので、日曜日も避けた方が良いと思います。


まあ、「工場見学」と言っても、一般に想像するような「工場見学」とは異なります。


東京近郊には、ビール工場や日本酒の醸造所を見学出来るコースが数多くありますが、それほど規模も大きくなければ、専門の施設がある訳では無いようです。


この画像の様に、製造工場の脇に、見学者用の通路を設けているだけで、見学者は、職人が仕事をしている脇を、ただ歩いて見るだけの様です。


私も、2〜3年前に、ブリジストンサイクルの上尾工場を見学しに行ったことがありましたが、それと同じようです。


実際に、作業員が仕事をしている脇を歩くので、ブリジストンの時は、製品やベルトコンベアーに触れないように注意して歩いた記憶があります。


但し、「岩鋳」の場合、取り扱っている物が「鉄」で、近づくと危ないため、仕切りや防御壁が設置されているようです。


あと、日により作業工程が異なるので、左の画像のような「鋳込み工程」を見たい場合は、電話等で事前に予約や確認を行った方が良いとの事です。


また、当然、展示/販売スペースもありますので、その場で、気に入った「南部鉄器」を購入することも可能です。


しかし、「南部鉄器」は重いですし、鍋やなど等の大物を購入する場合、ちゃんと持ち帰れるのかも考えた方が良いと思います。


また、一説には、(岩鋳さんには申し訳ありませんが)現場で購入するより、何故か、ネット通販で購入した方が安い、と言う噂もあります。


その点は、事前に確認してから購入した方が良いかもしれませんが、思い出として購入するならば、そこはガマンしても良いかもしれません。


最後に、「岩鋳」の工場の場所を掲載しますが、県外の方は、自家用車、あるいはタクシー等で行かないと難しいと思います。


場所としては、国道4号線の、すぐ脇にあるのですが、非常に分かりにくい場所ですし、加えて、車線を間違えると右折も難しく、慣れていないと侵入出来ません。


私などは、いつも隣の大型スーパーに買物に行っているので、右折も慣れたものですが、初めての方は、まず、どこで右折して良いのかも解らないと思います。


自家用車が無ければ、盛岡駅ではなく、JR東北線の「岩手飯岡(いいおか)駅」から、タクシーを使うのが良いと思います、駅から3.5Km、約10分も掛からないと思います。


近くに、バス停があるので、路線バスもあるとは思うのですが、私は、バスで行った事がないので、どのバスに乗れば良いのか解りませんが、岩手県バス協会のサイト(http://www.iwatebus.or.jp/bus_rotary/morioka-higashi)によれば、バス停は「川久保」と言う名前で、盛岡駅からの場合、次のバスに乗れば良い様です。


●「5番」 :茶畑・都南営業所・簗川・盛岡中央工業団地方面
●「13番」 :本宮・飯岡・羽場・矢巾方面
●「14番」 :仙北、津志田、日詰方面


それでは、「岩鋳」の情報を掲載して、「南部鉄器」の紹介を終わりたいと思います。

【 岩鋳の情報 】

●住所 :岩手県盛岡市南仙北2-23-9
●TEL :019-635-2501
●Mail :kaikan@iwachu.co.jp
●URL :http://www.iwachu.co.jp/


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今回は、「岩手の工芸品」の第二弾として「南部鉄器」に関する下記の情報を紹介しましたが如何でしたか ?


●南部鉄器の歴史
●現在の状況
●工場見学できる工房の紹介


第一弾の「漆」ほど、歴史もありませんし、海外で人気が出たと言っても、こちらも「漆」ほどの人気ではありません。


製造元では、それなりに企業努力をしているのだと思いますが、せいぜい、「南部鉄器」の色を変え、内部をホーローに改良し、メンテナンスし易くしたに過ぎないのではないかと思います。


しかし、現在のヨーロッパでは、その昔「japan = 漆」と呼ばれて認識された様に、「岩鋳」の「南部鉄器」は、日々、知名度を増しており、「南部鉄器 = IWACHU 」と認識されるようになって来ていると言う話も伝わって来ています。

現在は、その「カラー」にのみ注目が集まっていますが、メンテナンスは非常に面倒ですが、従来通り、健康志向の観点で、「鉄分補給」を全面に押し出しても良いのかもしれません。


「鉄器」のメンテナンスが楽になれば、海外のみならず、国内でも注目度が増すと思いますが・・・やはり難しいのでしょう。


私は、「鉄器」に関しては、全くの素人なので、もう少し「産学連携」を活用し、メンテナンスし易い「南部鉄器」で、かつ簡単に「鉄分補給」出来る「南部鉄器」を開発出来ないものかと思ってしまいます。

「岩鋳」では、ヨーロッパにおいては、ある程度、「IWACHU = 南部鉄器」と言う地位を築いたので、現在は、中国をターゲットにしたマーケティングを行っているそうですが・・・


前回ブログにも記載しましたが、「中国」や「韓国」でのビジネスは気を付けないと大変な事になってしまいます。


「中国」でビジネスをすると、過去に、岩手県以外で製造された「鋳物」までも「南部鉄器」として販売されたような「コピー・ビジネス」に巻き込まれてしまう危険性があります。


と言うか、必ず真似されます。


日本国内ならば、法律で規制できますが、「中国」は無法地帯なので、どんな規制を設けても、結局は「形だけ」になってしまいます。



また、「韓国」でビジネスを行った場合、商品が売れてくるようになると、全て「起源は韓国」と言う事になってしまいます。つまり、「南部鉄器のルーツは韓国にあり !」となってしまいます。


現在でも、韓国で「日本の花見」が流行し出すと、「元々、日本の桜は、韓国原産なので、花見のルーツも韓国だ !」などと、韓国人以外は、誰も信じない事を平気で言い出します。


全く話になりません。


日本の「ソメイヨシノ」は、「エドヒガンザクラ」と「オオシマザクラ」を交配させた作った雑種の「桜」を、東京の染井村において、接ぎ木で増やしたのが始まりです。


決して、大陸から持ってきた植物ではありません。それにも関わらず、「韓国原産」と言い出す神経が解りません。その他にも、次の伝統やスポーツまでも、「韓国が起源」と言い出しています。


少し脱線してしまいますが、余りにも酷すぎるの、簡単に「韓国起源説」となっている物を取り上げますと・・・


●武芸 :流鏑馬切腹、日本刀、忍者、抜刀術
●格闘技 :柔道、空手、相撲、剣道
●伝統 :茶道、盆栽、和歌、歌舞伎、武士道、居合道
●遊戯 :折り紙、花札
●食べ物 :蕎麦、豆腐、日本酒、寿司、刺し身、醤油、納豆、味噌
●生物 :錦鯉


とにかく、「韓国」には、伝統と言う物が全く無いので、何でもかんでも「韓国が起源」と言い出しています。


特に、世界中が騙されたのが「テコンドー」です。元々、「テコンドー」も「空手」も、中国から沖縄に伝わり、その後、沖縄の人達が独自に改良を施した格闘技です。


それにも関わらず、韓国人が、「韓国起源説」を世界に広め、皆が騙されてしまった結果、「テコンドーは韓国が起源」となってしまったのです。


さらに、似たような事例として、中国発祥の「端午の節句」があります。


これに関しても、韓国が全世界を騙して「江陵端午祭」、つまり中国から日本にも伝わった「端午の節句」と言う行事を、韓国発祥として世界文化遺産に登録しています。


その他、「韓国起源説」を取り上げれば、キリがありません。


今回は、日本が起源のものを掲載しましたが、上記の通り、中国起源も物まで「韓国起源」と言い出しています。


簡単に紹介しますと、人物で言えば、孔子李白、文化技術で言えば、羅針盤や火薬、そして漢字までも、さらに、その他は、囲碁、中国将棋、最後には、黄河文明までも韓民族の文化と言い出す始末です。


さらに、アステカ文明メソポタミア文明・・・最後は、イギリス人の祖先までも韓国人と言っています。


とにかく、世界中の物、全てが「韓国起源」と言い出しています。こんな事ばかり言う民族を、いったい誰が信用するのでしょうか ?


しかし、これらの言動の裏側を見てみれば、韓民族と言う民族は、「伝統」や「歴史」、加えて「独自技術」を持つ事も、考え出す事も、そして、後世に伝える事も出来ない、悲しい、そして可哀想な民族なのかもしれません。


全て韓国が起源ならば、「折り紙で鶴でも作って見せろ !」と言いたくなってしまいます。

とにかく、「中国」や「韓国」でのビジネスは、ある程度の覚悟が必要になると思います。


何か、最後は、とんでも無い、ホラ話ばかりになってしまいましたが、次回は、久慈の名産「琥珀」を紹介したいと思いますが・・・「琥珀」までもが、「韓国が起源」と言い出さなかと心配してしまいます。


それでは次回も宜しくお願いします。

以上


【画像・情報提供先】
Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)
・岩鋳(http://www.iwachu.co.jp/)
ヴィレッジヴァンガード(https://vvstore.jp/)
・公益財団法人 岩手県観光協会(http://www.iwatetabi.jp/)

【株式会社 エム・システム】
本      社  :〒124-0023 東京都葛飾東新小岩8-5-5 5F
           TEL : 03-5671-2360 / FAX : 03-5671-2361
盛岡事業所  :〒020-0022 岩手県盛岡市大通3-2-8 3F
           TEL : 019-656-1530 / FAX : 019-656-1531
E-mail    : info@msystm.co.jp 
URL     : http://msystm.co.jp/
        : http://msystm.co.jp/excel_top.html
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取り敢えずExcelで良いのか ? - 業務見直しのススメ その1


世間のコンサルティング会社やリサーチ会社では、企業における「BIツール」の導入を阻んでいる理由として「Excelの存在」を挙げて、声高に「脱Excel」を唱えています。


確かに、「BIツール」としてExcelを利用するのは、利用ケースによっては無理があると思います。


「BIツール」とは、「Business Intelligence(ビジネス・インテリジェンス)ツール」の略語ですが、サーバー等に蓄積された大量のデータを収集して分析するツールになります。


この「BIツール」を上手く使いこなせれば、例えば、数年分の売り上げデータと気温データを組合せて、月毎の気温変動に伴う売れ筋商品を分析する事で、商品戦略を立案したりする事が可能になります。


収集するデータ量が、1年分くらいなら、それほど大量のデータにはならないかもしれません。


しかし、これが全国数100店舗分で、かつ過去10年分のデータ等となると、とんでもなく大量のデータとなりますので、このような大量データを「ビッグデータ」と呼び、「ビッグデータ」専用の解析ツールが必要になります。


このように「ビッグデータ」の収集/解析に、Excelを使うのは確かに無理がありますが、これが数百〜数千件分のデータであれば、私はMicrosoft社の営業ではありませんが、充分、Excelで対応可能だと思います。


まあ、既に、専用の「BIツール」を購入しているのであれば、何も、無理にExcelを使わずに、「BIツール」を使えば良いと思います。


但し、一般的に「BIツール」と呼ばれているパッケージ・ソフトウェアは高額で、利用形態にもよりますが、ライセンスだ、何だかんだで、数百万円程度の費用は掛かかります。


このため、Excelで充分運用に耐えているのであれば、何も無理に、高額な「BIツール」を購入する必要はないと思います。


そこで、今回のブログでは、次のような内容で、Excelの活用方法を調べて見たいと思います。


Excelの歴史
・マクロとVBAの違い
Excelの功罪
Excel不要論
Excelの問題
・今後のExcel


しかし、このExcelに関する話題は、ボリュームが大きくなってしまいましたので、前後半の二部構成として、今回は、前半部分として、次の3点を取り上げたいと思います。


Excelの歴史
●マクロとVBAの違い
Excelの功罪


それでは今回も宜しくお願いします。

Excelの歴史

Microsoft Excel(以下、Excel)の要/不要論を検証する前に、まずはExcelの歴史を、「雑学」的に紹介したいと思います。


Excelは、平成元年(1989年)に、「Excel 2.1」を発売したのが、その始まりと言われています。


しかし、その前身は「Microsoft Multiplan(マルチプラン)」と呼ばれるソフトウェアで、昭和57年(1982年)に、Apple社が発売していた「APPLE Ⅱ」と言う、(当時の呼び方で)ホーム・コンピュータで動作する表計算ソフトウェアです。


発売当初は、非常に好調な売れ行きだったようですが、「Multiplan」より遅れること1年、昭和58年(1983年)に、「ロータスソフトウェア社(現:IBM社)」が、IBM PC/AT互換機でも動作可能な表計算ソフト「Lotus 1-2-3」を発売しました。


「Multiplan」も、その後、MS-DOSやIBM5550等、当時、PC市場でシェアが高かったOSでも動作するよう移植されましたが、「Lotus 1-2-3」は、最初からIBM PC/AT互換機で動作可能だった事から、表計算ソフトとしては、「Lotus 1-2-3」が爆発的人気となり、「Multiplan」は、「Lotus 1-2-3」との「表計算ソフトウェア」のシェア争いに破れてしまったそうです。


ちなみに当時は、表計算ソフト「Multiplan」、グラフ作成ソフト「Multi-Chart(マルチチャート)」、簡易データベース「Multi-File(マルチファイル)」の3個のソフトウェアで、「Multiツール・ファミリー」を構成していたそうです。

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北米でシェアを独占した、「Lotus 1-2-3」ですが、多言語化等、ローカライズに時間が掛かり過ぎた影響で、ヨーロッパや日本ではシェア拡大に失敗し、北米を除く地域では、逆に「Multiplan」がシェアを伸ばしていたそうです。


その後、「Multiplan」は、昭和60年(1985年)に「Macintosh(通称Mac)版」を発売し、Macの代名詞ともなるGUI(Graphical User Interface)操作に特化した改良を施す事で、ベストセラーになったそうです。


さらに、昭和62年(1987年)、当初からの予定通り「Windows版」を発売しましたが、この「Windows版」は、処理速度や操作性に、さらなる改良を施すと共に、「Lotus 1-2-3」とのファイル互換機能を提供した事で、様々なIT業界雑誌から高い評価を受け、北米においても、徐々にシェアを伸ばしていった様です。


その後のExcelの躍進ぶりは、ご存知の通りだと思いますが、同じく、昭和58(1983年)に発売を開始した「Word」と一緒に「オフィス向けソフトウェア」の地位を確立して行く事になります。


ちなみに、「Word」の、発売当初の製品名は「Multi-Tool Word」と言う名称でした。「Microsoft Office」の歴史は、過去ブログに掲載しています。

★過去ブログ:MS-Officeの野望 〜 Microsoftの逆襲


また、今回のブログで大きく取り上げられる「マクロ」機能、正式名称は、VBA(Visual Basic for Applications)の機能は、平成6年(1994年)に発売された「Excel 5.0」に、初めて搭載されました。

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弊社への問合せで、よく「Excelでマクロを作成して欲しい」と言う問合せがあります。


しかし・・・正確に言うと、これは間違いです。


「重箱の隅を突く」ような説明かもしれませんが、マクロとVBAには、次のような違いがあります。


マクロ :決められた所定の処理手順をExcel等に記録して、その手順だけを自動的に実行する機能
VBAVBAと言うプログラム言語で、Excel等に自由にプログラムを作成し、希望する処理を行う機能


「はあ ? ・・・何が違うの ?」となるかもしれませんが、簡単に言いますと、「マクロ」は、処理手順を記録させ、実行ボタンをクリックすると、その記録した手順を繰り返すだけ機能となります。


詳しくは、次の章で「マクロとVBAの違い」を簡単に紹介しますので、そちらをご覧下さい。

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その後、この「VBA」を実装したことで、Excelの活躍の場は、さらに拡大し、単なる「表計算ソフト」だけではなくなり、企業における「業務ツール」の地位を確立する事になります。


その一方、この「VBA」の搭載、および企業へのExcelの浸透により、「マクロ・ウィルス」の脅威にさらされる事になります。


「マクロ・ウィルス」とは、下記の過去ブログにも記載していますが、平成7年(1995年)、「Word」内にVBA言語で仕組まれたウィルスが最初の「マクロ・ウィルス」になります。

★過去ブログ:マクロ・ウィルスの逆襲 〜 歴史は繰り返すのか ?


最初の「マクロ・ウィルス」は、「Concept(コンセプト)」と名付けられたウィルスで、PC内の「Word」の標準テンプレートに感染することで、PC内の全Wordファイルに被害を拡げるウィルスでした。


そして、その被害とは、Wordファイルを開くと、上記の通り、標準テンプレートにウィルスを書き込むので、その後に、Wordファイルを表示したり、作成したりすると、「Conceptウィルス」もコピーされ、自己増殖して行く事になります。


それで肝心の被害ですが・・・何もありません。単に、ウィルスがコピーされて増えて行くだけです。


また、ウィルスを発症させる弾頭(Payload)内に書かれたコメントが下記の内容であり、かつ、新しいウィルスの感染経路を示した事から、「Concept(概念)」と名付けられたと言われています。


「 REM That's enough to prove my point (意図するところは、これで果たした) 」
※REM:REMark/コメント文を意味する単語


つまり、ウィルス作成者は、「自分には、こんな素晴らしい能力があるんだ ! 」と言う事を世間に広めるためだけに、マクロ・ウィルスを作成したのだと思われています。

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似たような事例としては、「ハッカー(Hacker)」と言う言葉/定義があります。


ハッカー」とは、今では、セキュリティを破り、組織や国家の機密情報を盗み出したり、あるいは破壊したりする悪者のイメージが定着していますが、その昔、最初に「ハッカー」と言う言葉が使われた時には、次の様な意味を持っていた様です。

『 一般人より深い技術的知識を持ち、その知識を利用して技術的な課題をクリアする人 』


最初に「Hacker」と言う言葉が使われたのは、1960年代の「MIT(マサチューセッツ工科大学)」の鉄道模型クラブだったと言われており、その意図する所は、前述の通り、「何事においても、他の人より優秀な技術を持つ人」と言う事ですから、現在の様に、コンピュータ技術に特化した言葉ではありませんでした。


日常的に、機転の効く、ちょっと賢い行動をした者を「Hacker」と呼んでいた様です。


それが、何時からかは不明なようですが、恐らくは、この世にコンピュータが生まれ、世間一般に広まるにつれ、コンピュータ技術に優れた人々の事を「Hacker」と呼ぶようになったと考えられています。


さらに、当時は、コンピュータやインターネットの黎明期と言うこともあり、システムの「バグ」を見つける事に喜びや生き甲斐を感じる人が数多く存在し、このような人々がお互いに発見した「バグ」を自慢し合っていました。


ところが、やはり、その中には、犯罪に走る人が現れ、この犯罪行為を行う人間が、「ハッカー」の本当の意味を知らないマスコミ等から、「ハッカー(Hacker)」と呼ばれるようになっていったそうです。


しかし、その後、「ハッカー」本来の意味を理解する人が増え始め、犯罪行為を行う人は「クラッカー(Cracker)」と呼んで区別しようと言う活動もあったのですが・・・どうやら定着しなかった様です。


また、それと同様、システムの「バグ」や「セキュリティ・ホール」を見つけ出し、その情報をメーカーや組織に教える人を「ホワイト・ハッカー」と呼ぶようになったようですが、どちらかと言うと、この「ホワイト・ハッカー」と言う呼び方のほうが定着しているようです。


このように、1960年代〜1990年代後半の「Hacker」達は、一部の異常者を除き、自分の技術力を誇るだけで、犯罪行為を行う等、それ程の悪さはしていなかった様です。

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話は、少し逸れてしまいましたが、この「Conceptウィルス」の出現により、それまでの「ウィルスは実行形式(.exe)ファイルにのみに感染し文章ファイルには感染しない。」と言う常識が覆される事になります。


そして、この「Concept」以降、どんどん「マクロ・ウィルス」が登場し始め、現時点では、最強の「マクロ・ウィルス」と言われているのが、平成11年(1999年)3月26日に発見された「Melissa(メリッサ)」です。


この「Melissa」は、「Concept」と同様、「Word」経由で感染するのですが、その発症の仕方(Payload)が、とんでもありません。


「Word」経由でPCに侵入すると、同じくOffice製品の「Outlook」のアドレス帳を参照し、アドレス帳に登録されているメール・アドレスの先頭50件に、下記の文面と共に、ウィルスを仕込んだ「Word」ファイルを添付したメールを送信します。


『 Here is that document you asked for…don’t show anyone else ;-(この前から頼まれていたものです。他の人には見せないでくださいね。) 』
※「;-」はウィンクの顔文字


そして、メール受信者が、この添付ファイルを開くと、当然、「Melissa」に感染してしまい、また、「Outlook」のアドレス帳の最初の50名に、ウィルスに感染したメールを送信する事になります。


このため、1次感染から3次感染までの間だけで、2,500台ものPCが感染してしまうという脅威の拡散スピードになっており、実際、全世界で233の機関を攻撃し、81,250台ものPCに感染したと言われています。


さらに、この「Melissa」が怖いのは、「メール送信者が全て知人である。」と言う事です。


普通、知らない人からのメールは、疑わしいので開封しませんし、まして添付ファイルなど開きませんが、これが知人となれば話は別ですし、さらに、メール受信者が男性で、送信者が女性だったら・・・後は、お察しの通りです。


私を含め、世の中の男性はバカが多いと思いますので、知人女性から、前述のような文面のメールが送信されてきたら、いとも簡単に添付ファイルを開いてしまうと思います・・・情けない。


しかし、幸いな事に、「Melissa」の日本語版はありませんでしたので、攻撃されたのは、主に北米と欧州だけに限られます。


「Melissa」に関する詳細は、前述の過去ブログ「マクロ・ウィルスの逆襲 〜 歴史は繰り返すのか ?」に掲載しています。

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また、何故、このように、いとも簡単に「マクロ・ウィルス」に感染するのかと言えば、Microsoft社の対応のマズさも一因とされています。


現在では、対応が取られていますが、Excel、およびWord等、当初のOffice系ソフトウェアでは、VBA機能に関して、「デフォルト(初期値)=有効」となっていました。


このため、ウィルスが仕込まれたOfficeファイルを開くと、何も対応を取る事ができず、直ちにウィルスに感染してしまいました。


現在では、VBA機能が含まれているOfficeファイルを開くと、「コンテンツの有効化」を問い合わせるメッセージが出力されますので、「マクロ・ウィルス」が仕込まれていても、直ぐには感染する恐れはなくなりました。


このように、Excel/Wordが、Office系ソフトウェアの「デファクト・スタンダード」になるにつれ、「マクロ・ウィルス」も増えて行くことになりますが、これは仕方が無い事だと思われます。


Windows OS」や「Internet Explorer」等、何事も「デファクト・スタンダード」になると、攻撃者に狙われやすくなってしまいます。


「出る杭(くい)は打たれる」とは、よく言ったものですが、英語圏に同じなような「諺(ことわざ)」が無いのが残念です。

■マクロとVBAの違い

さて、次に「マクロ」と「VBA」の違いを簡単に説明したいと思います。


例えば、営業会議の資料を作成する業務で、下記A〜Eのような作業を、毎月行わなければならないケースがあるとします。

【 営業会議資料作成手順 】
A:1枚目のシートに、前月分、1ヶ月間の売り上げ情報を貼り付ける
B:2枚目以降のシートには、「VLOOKUP関数」が埋め込まれているので商品毎に売り上げが分類される
C:商品毎に分類した売り上げに対して、商品を売り上げ金額順に並び替える
D:別シートに貼り付けた去年の売り上げデータを参照して各商品の前年同期比を算出する
E:さらに全商品の売り上げ状況をグラフ表示する


売上データをコピー/ペーストして、Excel関数を使い、最終的に表やグラフを作成する、と言う単純作業ではありますが、データが大量にあると、面倒な作業になってしまいます。


このような場合、上記作業の内、C〜Eを「マクロ」に登録すれば、AとBを除く、C〜Eの3段階ある作業を、2段階まで短縮出来ます。


つまり、「作業A」でデータを貼り付け、後は、「マクロ実行ボタン」を押せば、「マクロ」として記録した次の作業を自動で行うことが可能になります。


C:商品毎の並び替え
D:前年同月比の算出
E:グラフ作成


これら3個の作業を、「マクロ」が自動的に行ってくれるので、面倒な作業が直ぐに終わるので、業務効率化には「持って来い」の手段です。

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しかし、「マクロ」は、前述の通り、作業手順を記録させて、その記録した作業を繰り返すだけの機能になります。


このため、例えば、上記の例題の場合、「商品の並び替え」において、商品数が増えると、並び替え範囲を再調整しなければなりません。


また、過去の売り上げデータの保管場所が変わったり、あるいは過去売り上げデータのセルの場所が、前回と異なったりしてしまうと、こちらも再調整が必要になります。


このように、「マクロ」は、手順を記録するだけなので、余り自由が効きません。


これに対して「VBA言語」によるプログラミングでは、こちらも「万能」とは行きませんが、自由度の範囲は、格段に拡がります。


商品範囲を指定する場合でも、「空白があるまで」を商品範囲にすれば、商品数の増減にも、自由に対応が取れます。


また、過去ファイルを参照する場合も、プログラミングで「ファイル参照機能」を実装すれば、作業の都度、自由に指定出来ます。


このように、「VBAプログラミング」技術があれば、Excelを用いた様々な作業を自動化する事が可能になります。

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しかし・・・もう少し詳しい内容を説明しますと、前述の通り、「マクロは、処理手順を記録しただけに過ぎない。」のですが、その中身を見てみると「VBA言語」で記述されています。


ますます「はあ ?」となってしまうかもしれますが、実際の中身を見てみると、「マクロ」と「VBA」は、同一の物と言う事になってしまいます。


つまり、より正確に説明すると、「マクロとは、一定の処理手順を、VBA言語で記録した物。」と言う事になります。

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それと、Excelに限った話であれば、Excelには、「関数」と言う、これも非常に便利な機能があります。


この「関数」と「マクロ」や「VBA」は、何が違うのでしょうか ?


「マクロ」と「VBA」は、根本的には同じ物となってしまいますが、「関数」と「マクロ/VBA」とは、根本的に違う物となります。

元々Excelは、「表計算ソフトウェア」として開発/発売されてきたソフトウェアですので、「関数」は、表計算を自動で行なってくれる計算式の事になります。


それでは、「表計算の計算式」とは、どういう物なのかと言うと・・・例えば、5個の項目の平均値を出すと言う計算の場合、普通に考えれば、項目1〜項目5までの、5個の値を順番に加算し、さらに合計値を5で除算する計算を行わなければなりません。→ =(A1+A2+A3+A4+A5)/5


しかし、Excelの場合、あらかじめ「AVERAGE関数」と言う関数が用意されていますので、「=AVERAGE(A1:A5)」と指定するだけで、簡単に平均値を導き出す事が可能となります。


このようにExcelの場合、「マクロ」、「VBAプログラム」、そして「関数」と言う便利な機能が、あらかじめ用意されており、この事が、Excelを、単なる「表計算ソフトウェア」の位置から、「業務管理ツール」の地位にまで高める事になったのです。

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ちなみに、「VBA」と言うプログラミング言語ですが、こちらは、元々、Microsoft社が、1990年代に開発した「VB(Visual Basic)」と言うプログラミング言語を、Office用に改造して、次のOffice製品に搭載した物となります。

→ Word、ExcelOutlookAccessPowerPoint


そして「VB」と言うプログラミング言語ですが、2005年3月31日にメインストリートのサポートが、2008年4月8日には延長サポートも停止され、現在では、「VB.NET」と言うプログラミング言語が、後継言語となっています。
VB.NET:日本語で読む場合「ブイビー・ドット・ネット」と呼ばれています。


この「VB」と言うプログラミング言語には、さらに、その前身となる「Microsoft Basic」と言う、当時のマイクロコンピューター「Altair(アルテア) BASIC」用のプログラミング言語がありました。


そして、この「Microsoft Basic」を開発したのが、現在は、既に第一線からは退きましたが、Microsoft社の元会長「ビル・ゲイツ(William Henry "Bill" Gates III)」氏と、共同創業者「ポール・アレン(Paul Gardner Allen)」氏です。

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ビル・ゲイツ」氏に関しては、日本においても、余りにも有名なので、今更、説明は不要だと思いますが、「ポール・アレン」氏も、アメリカでは超有名人です。


ポール・アレン」氏も、現在は、ビジネスの第一線は退いておりますが、各種慈善事業、スポーツ関連事業等、様々な活動を行っているようですが、特に、兵器収集や探索への思い入れが強い様です。


彼の兵器コレクション、中でも第二次世界大戦時の兵器コレクションは凄く、アメリカ軍「P-51/ムスタング」、ドイツ軍「BF109/メッサーシュミット」、旧日本陸軍「一式戦闘機/隼」等、実際に飛行可能な状態で保存している様です。


さらに、ソ連「Mig-29/ファルクラム」、シャーマン戦車、小型宇宙船「スペースシップ・ワン」・・・等、もう、とんでもない兵器も所有しているそうです。


さらに、これは日本のニュースでも、大々的に放送されましたが、2015年3月3日に、フィリピン/レイテ島沖で、旧日本海軍の戦艦「武蔵」を発見しています。


また、つい最近、このブログの執筆をしている最中となる2017年8月18日、これも、NHKを始め、様々なニュース媒体で放送されましたが、フィリピン沖合の海底で、旧日本海軍伊号潜水艦の攻撃を受け、第二次世界大戦におけるアメリカ軍で、最後に撃沈された重巡洋艦インディアナポリス」も発見しています。


もう、お金持ちは、凄い事ばかりしてくれるようです・・・

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プログラミング言語の紹介から、話が逸れてしまいましたが、Office製品には、「Microsoft BASIC」、「Visual Basic」、そして「Visual Basic for Applications」と言う歴史を持つ、プログラミング言語が搭載されており、このプログラミング言語の搭載により、Excelが、強力な「業務ツール」となっています。


VB」に関しては、噂ですが、「ビル・ゲイツ」氏の思い入れが非常に強いプログラミング言語なので、彼が生きている間は、絶対に、この「VB系統」のプログラミング言語が、この世から消える事は無いと伝わっています。


ゲイツ氏は、今年で、まだ61歳ですので、今後も、あと20年くらいは、安心して「VBA」や「VB.NET」も使えると思います。



Excelの功罪


元々Excelは、これまで説明してきた通り、「表計算ソフトウェア」として誕生したのですが、Microsoft社が意識したのか否かは解りませんが、「表」自体が、見積書、注文書/請書、請求書、等、様々なビジネスシーンで使用する、各種帳票にマッチしてしまいました。


さらに、これら各種帳票とビジネス・フローとの関係を見ると、その流れも、ほぼ完全に一致しています。


(1)お客様とのビジネスの始まりとして「見積書」を作成する。
(2)予算と見積金額が合致すれば「注文書/注文請書」を作成する。
(3)請け負った作業終了すれば「納品書」を作成する。
(4)検収作業が終了すれば「請求書」を作成する。


つまり、ビジネス帳票として、Excelにより、「見積書」、「注文書/注文請書」、「納品書」、そして「請求書」を、それぞれ各シートに作成してしまえば、顧客毎の受発注業務は、1個のExcelファイルで完結させる事が可能となります。


さらに、ここで「VBAプログラミング」の登場ですが、上記「見積書」から「請求書」までの書式(フォーマット)を統一し、かつ下記の項目さえ、都度、自由に変更出来るシステムを作成すれば、「見積書」に、下記の顧客情報を入力するだけで、「注文書/注文請書」、「納品書」、そして「請求書」まで、自動的に作成する事も可能になります。


・顧客名
・顧客住所
・顧客担当者名/役職名
・金額
・納期
・成果物一覧


これまで、作業の都度、「見積書」から「請求書」まで、顧客毎に、4種類もの帳票を作成しなければならないので、手間も掛かりますし、入力ミスも発生していましたが、上記のような「契約帳票自動作成システム」を作成してしまえば、「見積書」に必要情報だけを入力すれば、後の3種類の帳票は、自動で、かつミス無く作成する事が出来ます。


このような仕組みを構築するだけで、次の業務効率化が可能となります。


・作業時間短縮
・帳票の品質向上
・原稿さえあれば、誰でも契約書類を作成する事が出来る
・社内帳票のフォーマット統一
・残業時間短縮

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また、大企業においては良くある話ですが・・・大手企業は、当然、会社規模が大きいので、社内の様々な情報を、各種「大規模システム」で管理しています。


営業情報、社員情報、会計情報、商品情報・・・全て、企業を継続して行くために必要不可欠な情報です。


そして、社内においては、これも当然の事ですが、様々な部署で、必要に応じて、これらの情報を使用しています。


しかし、情報(データ)を管理するシステムの規模が大きいので、データが複数のサーバーやフォルダーに分散され、各部署/部門で必要となるデータを簡単に入手するのが、非常に困難な状況になっています。


例えば、商品毎の売り上げ数字と在庫状況を知りたいと思っても、必要なデータは、次のように分散してしまっているケースが見受けられます。


・売上数字 :年度/月別の営業データ
・商品情報 :年度/月別の商品売上データ
・在庫情報 :年度/月別の在庫データ


このため、上記の通り、商品毎の売り上げ数字と在庫状況を知りたいケースでも、様々なサーバー内にあるデータやデータベースを参照し、都度、必要な情報を取り込む必要があります。


そうなると、部署/部門毎に、それぞれ個別のシステムを作成して必要情報を取得しなければなりませんが、これもExcelで対応可能です。


まあ、データベースやERPを参照する場合、少し複雑な処理も必要になりますが、たいていの場合、Excel用インターフェースを備えていますので、「VBA言語」さえ知っていれば、かなり自由にデータを参照/取得することが可能になります。


一旦Excel内にデータを取り込むことさえ出来れば、後は、関数やプログラミングを駆使して、部署独自に管理帳票を作成する事が出来るようになります。


このように、「Excel/VBA」を駆使すれば、社内、あるいは部門内に、独自のシステムを作成し、複雑な業務を、「実行ボタン一発」で終了させる事が出来るようになります。


そして、このようなシステムを作成する社員を、各種IT系のメディアでは「Excel職人」と呼んでいるようです。

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確かに、この「Excel職人」が、社内や部門に、一人でもいれば、複雑な業務も、直ぐに終わらせる事が出来るので、該当部門では「人間国宝」のように取り扱われているようです。


しかし、このような「Excel職人」とは、どうして誕生するようになってしまったのでしょうか ?


基本的には、仕事に対して前向きな姿勢を持つ社員が、自発的に、日々の業務の効率化を図る事を目的に、独自に、Excelのスキルを向上させた結果、このような「Excel職人」が誕生したのだと思われます。


多くの企業では、会社の業務としてExcelやWord等、Officeツールを使わせはしますが、Excelのスキル向上のため、通常の業務以外に、別途時間や費用を掛けて、Officeツールのスキルを向上させる、勉強会等の取り組みなどは行っていません。


皆、個人ベース、OJT等を通して、ExcelやWordのスキル向上を図っています。


このため、前述のように、ある程度、ITスキルがある社員が、自発的に、「関数」や「VBAプログラミング」を学習し、自分の業務に対する効率化を図る事になります。


そうして、身に付けたExcelのスキルが、業務に役立つ事が解ると、その社員は、さらにスキルを身に付けようとします。


また、その社員の回りの人達も、Excel関係で、何か問題があれば、その社員を頼るようになります。


こうして、その社員は、「Excel職人」として、さらに進化して行く状況になってしまいます。


このように、会社として、社員全員に対して、ある程度均一なスキルを身に着けさせるための活動を行わない事が原因で、一部の社員が、「Excel職人」として成長してしまう状況を生み出しているのだと思われます。


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こうして、メデタく、社内、あるいは各部署に「Excel職人」が誕生してしまうと、これまで、かなり時間を掛けて行っていたExcel関係の作業が、簡単に終わるようになります。


こうして、次から次へと、Excel関係の業務が簡単に終わるようになって行きますので、データを集計して計算する業務に関しては、何でもかんでも「Excel」で行うようになって行きます。


別に、Excelで行う事が出来る業務が、簡単に終わるようになるのであれば、何も問題が無いのでは ? と思う人が大半だと思います。私も、そう思います。


ところが、IT系メディアに投稿するライターの方達は、「何でもかんでもExcelで行うのが問題だ !」と言う指摘をしています。


さらに、「Excel職人の存在が、企業へのBIツールの導入を妨げている !!」と声高に叫んでいます。


しかし・・・これは、別に、「Excel職人」が悪いわけではないと思います。


確かに、これは「Excel職人」に限った話ではありませんが、現状を変えようとすると、頑なに抵抗する、俗に言う「抵抗勢力」的な人は、どの世界にも必ず存在します。


この「抵抗勢力」は、状況が変わる事で、自分達に、次のような悪影響があると考える人達です。


・状況が変わると、今までの経歴/キャリア/スキルが無駄になってしまう
・状況が変わると、自分達の「居場所」が無くなってしまう
・状況が変わると、これまで覚えてきた作業手順が変わってしまう
・状況が変わると、また新たな作業手順を覚えなければならない


Excel職人」がいる部署/部門に、新しいツールを導入しようとすると、確かに、「Excel職人」の居場所は無くなる可能性がありますし、これまでExcelで、簡単に行ってきた作業が変わるので、部署/部門全体が「抵抗勢力」になる可能性も高いと思います。


しかし、このような「抵抗勢力」となる部署/部門は、別に「Excel職人」がいる部署/部門に限った話ではありません。


どの部署/部門だろうと、とにかく現状の運用や作業を変更される部署/部門は、全てが「抵抗勢力」となり得ます。


ITライターが、「Excel職人」に対してのみ「抵抗勢力だ!」と言っているのは、単に、このライターが、「BIツール」の売り込みを行っているからだけだと思われます。


その昔、過去ブログで、「Microsoft御用達ライター」が居ると指摘しましたが、こちらは「BIツールの御用達ライター」なのだと思います。


私が、「Excel職人」の弊害として取り上げたいのは、上記のような「新規ツール導入時の抵抗勢力」の問題ではありません。

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新規ツール/システム導入時の抵抗勢力への対応方法は、別のブログで紹介したいと思いますが、今回、私が「Excel職人」の問題として取り上げたいのは、「Excel職人の喪失問題」です。


ある部署/部門で、メダたく「Excel職人」が誕生します。


そうなると、該当部署/部門では、これまで面倒だったExcel関係の作業が、画期的に効率化されます。


これで、該当部署/部門では、「バンザイ !」となるのですが、問題は、「Excel職人の喪失」です。


企業には、必ず移動や退職があります。


例えば、「Excel職人」が転籍、転勤、あるいは転属で、該当部署から消えてしまったとします。そうなると、これまで作成してきた「Excel/VBAシステム」は、一転「負の遺産」化してしまいます。


何故かと言えば、「Excel/VBAシステム」に、何か問題が起きても、誰も問題を解決出来ません。情報システム部に依頼しても、「そんな勝手に作ったシステムなんか知らないよ !」と相手にもされません。


仕方がなく、作った本人、「Excel職人」に問題調査を依頼しても、既に、他部署に移ってしまっているので、中々調査もしてもらえません。


このような状況になると、かつては輝かしいツールも、「負の遺産」と化してしまいます。


これが、「Excel職人」の退職の場合は、さらに悲惨な運命を辿ります。


Excel職人」が作成した「Excel/VBAシステム」は、「Excel職人」が独自に作成しているので、仕様書も設計書等、何もドキュメントがありません。仕様書/設計書は、「Excel職人」の頭の中にのみ存在します。


このような状況では、誰にも修正は頼めません。かくして、かつては部門における「便利ツール」だったExcelも、単なるお荷物と化し、闇に消えていく事になります。

また、Excelは、そのバージョン毎に非互換がありますので、例えばExcel2007の時代に作成した「Excel/VBAシステム」は、Excel2010やExcel2013では動かなくなる可能性が非常に高くなります。


このような時に、企業が取る手段は、Excel2007で作成した「Excel/VBAシステム」を稼働させるためだけに、古い環境、例えば「Windows XP & Excel2007」環境のPCを1セットだけ残し、インターネットには接続せずに残す手段を取っています。


私が、過去に相談を受けた企業には、このような古い環境で、「Excel/VBAシステム」を使い続けている企業が何社もありました。


もう、こうなると、どうしようもありません。該当PCが壊れるまで、おそらく古い「Excel/VBAシステム」を使い続ける事になると思います。


しかし、該当PCが壊れたら、どうするのでしょうか ? ・・・おそらくは、インターネットで「Windows XP」を販売しているサイトを探し出し、また「XP」を購入して、使い続けるのだと思います。


驚く事に、「Windows XP 新品」と言うキャッチコピーで、未だに「XP」を販売しているサイトが、ゴマンとあります。


きっと、上記のような状況の会社が、沢山存在している証拠なのだと思います。


このように、「Excel職人」が、部署/部門から消えてしまう事が、「Excel/VBAシステム」にとっては、最大のリスクなのだと思います。

今回は、「取り敢えずExcelで良いのか ?」と題して、「業務のExcel化」に関して、次のような点を紹介しました。


Excelの歴史
●マクロをVBAの違い
Excelの功罪


特に、今回のブログで取り上げた「Excelの功罪」の章では、「Excel職人」に関する問題を取り上げました。


Excel/VBAで作成した様々なシステムに関しては、どのバージョンのOSやOfficeでも動作できれば、恐らくは、機能追加や仕様変更さえ行わなければ、この先ずっ〜と、使い続ける事が出来るのだと思います。


しかし・・・いつもの如く、Microsoft社が、自社の都合だけで、Officeの仕様を勝手に変更してしまうので、バージョン毎の非互換が生まれてしまいます。


そうなると、「Excel職人」が作成したシステムは、残念ながら、「負の遺産」となってしまいます。


Excel/VBAは、他のプログラミング言語と比較すれば、覚えやすい開発言語なので、少し勉強すれば、「Excel職人」になることは可能だと思います。


しかし、「Excel職人」が居なくなってしまうと、その後は大変です。


Excel/VBAで作成したシステムを使い始めた時には、誰も、「Excel職人」が社内や部門から居なくなる事など想像していません。


しかし、その事が、「Excel職人」の一番大きな問題です。


次回は、この問題を継続して、次のような内容を紹介したいと思います。


Excel不要論
Excelの問題
●今後のExcel


それでは次回も宜しくお願いします。

以上

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岩手の工芸品 〜 地味だけど丈夫で長持ち その1


今回、弊社ブログでは初めて、「岩手の工芸品」を紹介するシリーズを開始したいと思います。


岩手の工芸品と言うと、皆さん、何を思い浮かべますか ?


やはり、岩手と言うと、「南部鉄器」ですよね !!


本ブログの最初の画像は、過去に「MoMA」のカフェで使用されていたのと同型の急須、その名も「曳舟」と言う南部鉄器です。


昔から知られている色/形の「南部鉄器」しか使った事が無い私にとっては、とても「南部鉄器」とは思えない色/形となっています。


MoMA」とは、「The Museum of Modern Art, New York/ニューヨーク近代美術館」の事なのですが、今から10年以上も前に「MoMA」で展示され、アメリカで人気を博した様です。


その他、詳しくは、後で紹介しますが、現在では、この「南部鉄器」は、ヨーロッパでも人気がある商品になっています。


私の子供時代、当然、実家でも鍋や急須は南部鉄器でしたが、あの頃の「南部鉄器」と言えば、右の画像のように、黒くて、ゴツくて、重くて使い難い物でした。


そして火に掛けると、取っ手まで熱くなるので、気を付けないと火傷してしまう、本当に厄介な代物でした。


子供心にも、何で、こんな不便な物を使うのかと、不思議に思ってしました。


その他、「岩手の工芸品」と言えば、私的には、次のような製品を思い浮かべます。


●「秀衡塗(ひでひら-ぬり)」に代表される「漆器
●「岩谷堂箪笥(いわやどう-たんす)」に代表される「桐」の工芸品


これらの三種類の製品は、どれも、その起源は、平安時代、「奥州藤原氏」の時代まで遡ると伝わっています。


漆器」の原料となる「漆」に関しては、岩手県の北端となる「二戸市浄法寺町」が、「漆」の産出地として超有名で、国産漆の「80%」の生産量を誇っています。


「国産漆の80%」とは言え、日本国内で使用する漆の「98%」は、残念ながら、ほぼ全てが中国産なのですが・・・


その他、少し時代が下り江戸時代になると、過去ブログでも紹介した「琥珀(こはく)」製品が、南部藩の厳しい管理の元、貴重な収入源となりました。


★過去ブログ:NHK朝ドラの舞台となる「久慈市」近辺の情報について


その他、全国的には、余り有名ではありませんが、次のような工芸品もあるようです。


●型染め・染め物 :南部型染め、紫根染め
●焼き物 :小久慈焼
●郷土玩具 :金のべごっこ、盛岡こけし、花巻人形



う〜ん、段々と岩手県らしい「地味」な製品になってきましたが、順を追って、これらの工芸品を紹介したいと思います。


今回は、初回と言うことで、「南部鉄器」を・・・と思ったでしょうが、意表を突き、第1回目は「漆」に関して、次のような事を紹介したいと思います。


●「漆」の歴史
●「漆」の活用方法
●海外における「漆」人気
岩手県内の「漆器
盛岡市の詐欺被害
●「漆塗り」体験の紹介


それでは今回も宜しくお願い申し上げます。


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■「漆」の歴史


最初にお伝えした通り、岩手県の北端、「二戸市浄法寺(じょうぼうじ)町」は、国内における最大の「漆」の生産地となっており、国内産「漆」の80%を生産しています。


そして、この浄法寺の「漆」は、奈良時代となる「神亀五年(728年)」創建と伝わる天台宗の寺院「天台寺」の僧侶達が、平安時代から「御山御器(おやま-ごき)」と呼ばれる、飯碗、汁椀、皿の3種類からなる「漆器」を使った事がルーツと伝わっています。


しかし、この「浄法寺漆のルーツ」に関しては、特に、文献等が残っている訳では無いようです。


僧侶達が日常生活で使用してきたものが、そのまま引き継がれてきた様です。


ちなみに、「御山御器」とは、地元民が、「天台寺」の事を「御山」と呼んでいる事から、「御山」で使う「器」を意味しています。


そして、文献に「浄法寺漆」が登場するのは、江戸時代初期になります。


この頃になると、盛岡藩では、領内各地に「漆掻奉行」を配置し、秋になると各担当地域から「漆」と「漆の実」を集めた事が、過去ブログでも紹介した盛岡藩家老の日記「雑書」の中に記録されている様です。


さらに、「正保元年(1645年)」には、秋田藩との藩境にある「沢内通」の番所に出した通知「沢内通御留物之事」では、「御留物」、つまり藩外への持ち出し禁止する物として、次のような命令が出されていたそうです。


『 武具類、くろかね類、へにはな、むらさき根、蝋漆あぶら、綿麻糸付布、無手形人、商売之牛馬、箔椀、同木地、皮類、塩硝、くんろく香、右先年より御留物候之間、向後にをいても弥改可申候、若わき道かくれ通候ものとらへ上候ハ、為御褒美其物料可被下者也 』


つまり、ここに記載されている物産品に関しては、藩外への持ち出しを禁止し、さらに違反者を見つけた場合には、「褒美も出す」と記載されています。このように、藩内で生産されてる物産品の管理を徹底し出した様です。


ちなみに、「通」とは、当時の、盛岡藩の行政区画で、各地に配置された代官が管理する地域を示し、代官区は33個存在していた様です。


さらに、江戸時代中期の「享保年間(1716〜1736年)」に発行された、当時の「浄法寺町」があった付近の「福岡通」の「御領分物産取調書(ごりょうぶんぶっさんとりしらべがき)」と言う、物産品の一覧に、次のような記述が見られるそうです。


『 蝋 惣村より出、漆 惣村より出、蝋燭 福岡町一戸町 』


「蝋(ろう)」と「漆」は二戸地方全域で、「蝋燭(ろうそく)」は福岡町と一戸町で生産されていたことが解っています。



元々、「漆」は、いつ日本に持ち込まれたのかは解っていませんが、中国原産と言われています。


但し、昭和59年(1984年)に、福井県若狭町の「鳥浜貝塚」から出土した木片を調査した所、この木片が、12,600年前、縄文時代初期の「漆の木」である事が判明しています。


当時は、どのような用途で「漆」が使われたのかは判明していませんが、「漆器」として使われ始めたのが、約7,000年前の縄文時代の中後期と言われていますので、それまでは、壊れた土器を修復するための「接着剤」として使われたのではないかと推測されている様です。


「ウルシ」の木は、放おっておいても育つ木ではなく、下草刈り等の非常に手間が掛かる植物で、「漆」が採取できる様になるまで10〜15年位は掛かるのだそうです。


「漆」とは、お解りの通り「ウルシ」の木の樹液で、「ウルシ」の木から、「漆」を取り出すには、「ウルシ」の木に傷を付け、染み出す樹液を、専用のヘラで集める方法で採取します。


この作業を「漆掻き」と呼び、この作業を専門に行う「漆掻き職人」も存在します。「漆掻き」の方法は、「養生掻き」と「殺掻き(ころしがき)」の二種類があるそうです。


現在の、「漆掻き」の方法は、1本の「ウルシ」の木に対して、1年間で全ての「漆」を取り出してしまう「殺掻き」と言う方法が主流になっているので、折角、10年以上掛けて育てた「ウルシ」の木ですが、たった1年で切り倒してしまうそうです。勿体無いと言うか、何か、可哀想な感じがします。


しかし、「浄法寺漆」に関しても、江戸時代までは、「殺掻き」ではなく、木を弱らせない「養生掻き」が行われていたそうです。


ところが、明治時代に入り、「漆」重要が高まると、福井県から「越前衆」と呼ばれた職人が出稼ぎ来た事で、「漆掻き」の方法が「殺掻き」に変わってしまったそうです。


この「殺掻き」では、1年の内、6月〜9月、それと11月の5ヶ月間で、1本の「ウルシ」の木から全ての樹液を取り尽くすのだそうです。


しかし、「養生掻き」では、1年の内、6月〜8月の3ヶ月間だけ樹液を取り、後は休ませるので、1本の木から複数年に渡り、「漆」を採取する事ができ、現在でも、中国やベトナム等で行われているそうです。

何故、日本で「殺掻き」が主流になったかと言うと、単に、「漆の採取量が多い/効率が良い」からとのことらしいです。


1本の「ウルシ」の木に対しては、5日に一度の頻度で「漆掻き」を行うのが効率的と言われているようです。


このため、「ウルシ」の木は、「漆掻き職人」1名が、1日に100本の「ウルシ」の木から樹液を集め、それを5日間繰り返すローテーションを繰り返す事になるので、トータルでは、「漆掻き職人」1名に付き、500本の「ウルシ」の木が必要となる事になります。


ちなみに、1本の「ウルシ」の木から採れる「漆」は、たったの「200ml」、牛乳瓶1本程度しか取れないので、余計に「国産漆」が少ないのだと思います。


しかし、私の様な素人の考えでは、「養生掻き」の方が、10年以上も掛けて育てた「ウルシ」の木を、長く、そして何度も使えるので、「養生掻き」の方が、逆に効率的なのではないかと思ってしまうのですが・・・


何か、「殺掻き」による「漆」の採取方法は、日本人の考え方には馴染まないやり方ではないかと思ってしまうのですが・・・やはりプロの見方は違うのだと思います。


それでは次に、「漆」の活用方法を紹介したいと思います。

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■「漆」の活用方法


「漆」に関しては、現在は、そのほとんどが「塗料」として使用される事になります。


前述の通り、「漆」が塗料として使用された形跡が残る物は、縄文時代中後期となる7,000年前とされており、それまでの約6,000年は、何のために使われたのかは明確には解っていません。


しかし、江戸時代には、割れた磁器を修理する際の「接着剤」として使われたいたことから、縄文時代初期の「漆」も、現在のところ、縄文時代初期の遺跡から「漆器」が出土していない事から、「接着剤」として用いられたのではないかと推測されている様です。


ところが、何と、海を渡った「韓国」には、「漆」を食べたり、飲んだりする食文化があるようです。


韓国には、「漆鶏(オッタック)」と言う、「漆」の木の皮と、鶏肉を一緒に煮込んだ、日本で言う「薬膳料理」的な食べ物があり、結構、美味しいと言う噂が掲載されています。


また、何という商品名なのか解りませんが、「漆」エキスのジュースも販売している様です。


「恐るべし韓国 !!」と言いたい所ですが、実は、日本にも「漆」を食べる食文化はあるようです。


これは、別に地域限定ではなく、日本全国、どこでも食べられているようですが、「漆」の新芽を「天ぷら」にして食べている様です。


「漆」の新芽は、「タラの新芽」と、見た目も味も、ほぼ同じとの事らしいですが・・・


既にお解りの通り、「漆」には、「ウルシオール」と言うアレルギー反応を起こす成分が含まれています。


「漆」に対するアレルギー反応は、個人による異なりますが、アレルギーを持つ人は、「漆」の木の近くを通っただけで「かぶれる」事もあるそうです。


このため、「漆アレルギー」を持つ人は、「漆の天ぷら」など以ての外、ひょっとしたら命の危険もあるかもしれません。


しかし、またまた韓国では、「漆アレルギー」対策用の薬まであるそうで、アレルギーが心配な人は、先の「漆鶏」を食べる前に、この薬を飲んでいるそうです。


何も、そこまでしなくても・・・と思うのですが、まあ、「話のネタ」に食べてみたい人には良いかもしれません。


が・・・そもそも、この薬を飲んでも大丈夫なのか ? と言う不安があります。


また、日本の場合、経験的に「漆アレルギー」には、耐性がある事が知られており、例えば、「漆職人」を目指している人に「漆アレルギー」がある場合、「漆」を、少しずつ舐めさせることで耐性を付ける等の対処を行っている様です。



前述の通り、「漆」は、現在では、ほぼ全てが「塗料」として用いられており、「漆器」はもちろん、日光東照宮の修復や、平泉金色堂の修復など、貴重な文化財の修復に使用されています。


ところが、ここ数年、折角修復した文化財の劣化が早過ぎる事が問題となっているそうです。


この問題は、2015年9月17日、NHKの「所さん! 大変ですよ」でも取り上げられていました。


日光東照宮」では、現在も、「平成の大修理」を行っている最中で、先日、有名な「眠り猫」の修復が、60年振りに終わり、修復後の「ネコ」が公開されましたが・・・


何と、ネコが「薄目」を開けているように見えると苦情が殺到し、その1ヶ月半後、「目」が閉じるように再修復されたと、話題になっていました。


これは、修復担当者が、勝手に、ネコを「薄目を開けた状態」に描いていた事が判明したそうで、日光社寺文化財保存会が、元の状態に戻すよう指示したとの事らしいです。


海外でも、2012年8月、スペインの「Sanctuary of Mercy Church」という教会に、画家「Elias Garcia Martinez」が、約100年以上前に描いた「Ecce Homo(この人物を見よ)」というイエス・キリストのフレスコ壁画があったそうですが、この歴史あるフレスコ画を、地元の自称「芸術家」と称している婆さんが、勝手に修復(?)した事件が、話題なった事を覚えていますか ?


NHKや民放でも、何度も取り上げられ「キリストがサルになった !」と話題になっていました。


そして、ちょっと話題は逸れてしまいますが、この話には後日談があります。面白いので紹介しますが・・・


この教会では、この「サル」のフレスコ画が話題となり、大勢の人が押しかける事態になったので、フレスコ画を見に来た人から、「入場料」を徴収する事にしたそうです。


そして、この事を知った自称「芸術家」の婆さんは、何と、フレスコ画に対する著作権料を求めて裁判を起こしたそうです。


裁判の結果は解りませんでしたが、入場料を取る教会も、裁判を起こす婆さんも、私には理解出来ません。



ところで、話を「漆」に戻すと、前述の通り、日光東照宮では、定期的に修復が行われていますが、何と修復後、たった3年で修復した「漆」が劣化していることが判明したそうです。


その反面、場所によっては、修復後60年以上経過した場所でも、鮮やかな朱色を保っている場所もあったそうです。


このため、何故、これほど早く劣化するのか調査を行ったところ、劣化が早い「漆」は、全て「中国産」であることが解ったそうです。


そこで、この番組では、石川県金沢市にある「石川県工業試験場」にて、「中国産漆」と「日本産漆」の違いを調査したそうです。


そして、この調査の結果、「中国産」も「国産」も、「漆」は、同じ種類の木である「ウルシ科ウルシノキ」から採取されているそうですが、「国産漆」の方が、先のアレルギーで出てきた主成分「ウルシオール」が、若干多いことが解ったそうです。


この「ウルシオール」は、アレルギーも起こしますが、「漆」を固める成分にもなっているそうで、この「漆」を固める成分が多いため、「国産漆」の方が、長持ちする事が解ったそうです。



このような「漆の劣化」問題もありますし、現在、「国産漆」の生産量が激減し、かつ「漆職人」も減少していることから、文化庁では、林野庁と協力し、「漆」の増産に取り組んで行く事を発表しています。


そして、平成30年度からは、重要文化財の修復においては、原則として「国産漆」を使う方針を決定したそうです。


しかし、実際問題として、日光東照宮では、修復工事に「10t」もの「漆」が必要になるのですが、現状「国産漆」は、年間「1t」しか生産されていないので、「国産漆」を集める事させ困難な状況になってしまっているそうです。


また、当然、重要文化財は、日光東照宮だけではありませんので、その他の重要文化財では、当面、「中国産漆」を使わざるを得ない状況が続くそうです。


これは、「安かろう/悪かろう」の典型的な事例だと思います。文化庁等、国の省庁は、もっと早くから、「国産漆」の増産に向けた支援を行うべきだったと思われます。



また、その他の活用方法としては、現在では、余り盛んではありませんが、仏像があります。


あの有名な国宝「阿修羅像」も、「漆」を用いた「乾漆造」と呼ばれる製造法で作成されています。


「乾漆造」関しては、詳しくは記載しませんが、麻布を1センチほどの厚みに貼り重ねて形成する「脱活乾漆造」と、これを簡略化した技法と思われる「木心乾漆造」があるそうです。


ちなみに、「阿修羅像」を含む「八部衆立像」は、「脱活乾漆造」と言われています。


後は、碁盤/将棋盤の目も、「黒漆」を用いて、刃を潰した日本刀に漆を付け、盤上に下ろす「太刀目盛り」という手法で書かれています。


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■海外における「漆」の人気


さて、日本国内でも古くから人気がある「漆器」ですが、海外でも、古くから人気がある事はご存知でしたか ?


冒頭に紹介しましたが、日本の「漆」は、中国原産と言われていますが、その他にも、台湾、タイ、ベトナムミャンマー等、東アジア/東南アジアが原産で、ヨーロッパには存在しません。


このため、16〜18世紀における近世ヨーロッパでは、大航海時代の影響もあり、東洋の文化に焦点が当てられ、陶磁器や漆器の人気が高まりました。


フランスでは、「マリア・テレジア」や、その娘「マリー・アントワネット」等、「漆」が大好きで、この画像のような「漆の机」を作らせたり、下の画像のように、居城内に「漆の間」を作成させたりしました。


日本では、どちらかと言うと、「朱色」、特に「漆」に「朱水銀/辰砂(しんしゃ)」を混ぜて作った、より鮮やかな「朱色」に人気があります。


ところが、ヨーロッパでは、「朱色」ではなく、「漆黒(しっこく)」が好まれた様です。


しかし・・・「漆黒」とは、上手い漢字です。「漆黒」とは、「漆を塗ったような黒くて光沢がある色」を表します。



英語の小文字で表記される「japan」と言う文字。当然、「japan = 日本」だと思っているかもしれませんが、英語の小文字「japan」は、その昔は「漆」を意味していました。


このため、英語の「Japan」が「日本」を意味するようになった起源の一説として、このように、「漆」を「japan」と呼んでいたから、と言う説もある程です。


まあ、その他にも、有名な説では、「マルコ・ポーロ」の「東洋見聞録」に出てくる「ジパング」も、「Japan」の起源と言われていますが・・・


現在、「japan」と言っても「漆」と言う意味では通用しません。当時は、これと同じく、磁器全般を「China」と呼んでいます。



このように、近世ヨーロッパ、特に18世紀は、日本では江戸時代後期にあたり、オランダが、長崎から大量の「漆器」や「磁器」を買い付け、大量にヨーロッパに持ち込む事で、ヨーロッパにおける「漆」人気が高まりました。


このような事から、前述の様に「japan = 漆」と呼ばれるようになりました。


しかし、「漆器」は、非常に高額だったので、多くの模造品が作られ、ヨーロッパでは、模造品を作る技術も発達し、模造品を作る技術が「ジャパニング」と呼ばれていた程です。


17世紀には、既にイタリア、フランス、そしてイギリス等で「ジャパニング」が発達し、中には、本物の「漆器」を凌ぐ出来栄えの作品も数多く製造された様です。


さらに、17世紀のイギリスでは、「A Treatise of Japaning and Varnishing」と言う、「ジャパニング」のテキスト本まで発行され、ヨーロッパ中に、広く「ジャパニング」技法が紹介されるに至った次第です。


ここまで来ると、現在の「中国のコピー文化」以上だと思います。


現在でも中国は、「模造品天国」ですが、さすがに、「模造品の作り方テキスト」までは販売していません。


いわゆる「民度」と呼ばれる、人間としての知的、教育、および文化の水準が低い「中国」や「韓国」のような国家、および民族では、このように平気で「模造品」を作ったり、他国の文化を、あたかも自国の文化のように喧伝したりしますが・・・


当時のヨーロッパ諸国も、残念ながら、同じ行為をしていた様です。


そして、当時のヨーロッパでは、主に、ニスやラッカーを駆使して、「黒漆(くろうるし)」のような光沢を出していたとされています。


この様に、ヨーロッパ、特にドイツにおいて、この「ジャパニング」技術が発達し、さらに、この「ジャパニング」技術は、ピアノに流用され、現在に至っているとの事です。


ピアノは、ご存知の通り、18世紀初頭にヨーロッパで発明され現在に至っていますが、当初は、「木目調仕上げ」が基本だったのですが、18世紀中頃には、「ジャパニング」技術が、ピアノにまで応用されるようになったそうです。


実際、1723年には、バイオリンの塗料に、ワニスとアジアから取り寄せた漆を配合していた記録も残っているようです。


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岩手県内おける「漆器」の紹介

ここまで、「漆」に関する数々の雑学を紹介してきましたので、ここで、岩手県内における「漆」の栽培地や「伝統工芸品」を紹介したいと思います。


「漆」の産地として有名な「浄法寺」から始めて、北から順番に、次の伝統工芸を紹介します。


●浄法寺塗
安比
●秀衡塗

●浄法寺塗


浄法寺の「漆」は、前述の通り、天台寺の「御山御器」から始まったとされています。


天台寺」は、作家「今 東光(春聴)」氏や、小説家「瀬戸内寂聴」氏が住職を務めた寺院として、そして「あじさいの名所」として有名な寺院でもあります。


今回、この「天台寺」に関しての説明は割愛しますが、もうちょっと詳しい説明は、過去ブログをご覧下さい。


★過去ブログ:7月開催の花まつり 〜 狙い目は外国人


という事で、浄法寺における「漆」の始まりは、平安時代とされていますが、当時から、「浄法寺塗」と言えば、素朴で頑丈、かつ実用的な「漆器」となっています。


元々のルーツが、天台寺の僧侶が、日常生活で使う「器」であったことから、その殆どが、無地で朱色、黒色、もしくは溜(ため)色による光沢を抑えた単色仕上げが特徴となっている「漆器」です。(※溜色:あずき色)


「浄法寺塗」は、この通り、丈夫と言う特徴がありますので、10年位は平気で使い続ける事ができるそうです。その作成工程は、大きく、次の5工程となるそうです。(※「滴生舎」の工程)




【 木固め 】
伸縮を防ぎ、防水性の高い丈夫な漆器を作るために木地に生漆をたっぷり浸み込ませる。





【 下塗り 】
精製した漆に、ベンガラと言う塗料を混ぜた下塗り用の漆を塗ります。






【 研磨 】
表面を滑らかにして漆の密度を高め、漆の強度を高めるために、下塗りした器を、耐水ペーパーや砥石で磨き上げます。





【 中塗り 】
塗り重ねと研磨を6回繰り返す事で、漆の層を重ねて行きます。






【 上塗り 】
浄法寺漆を自家製生し、ゴミやホコリが付かないようにした、専用の上塗り用の部屋で、最後の塗りを行います。



安比塗り


安比塗」も、実は、そのルーツは、「浄法寺塗」です。


安比塗」の産地は、「八幡平市安代町」と言う場所ですが、上記「二戸市浄法寺町」から、南西に約20Km、車の場合、高速道路を使うと30分程度しか離れていません。


その昔、「安代町」で採れる「漆」も、「浄法寺漆」と呼ばれていたようです。


そして、ここ「安代町」では、昭和58年(1933年)、「安代町漆器センター(現:安代漆工技術センター)」を開設し、新たに「安比塗」と言うブランドを立ち上げ、「塗師」の育成を行っています。


この「安代漆工技術センター」では、2年間で、木地制作、下地塗り、漆精製、塗り等、漆器を作る全ての工程の研修を行っているそうです。


それで、「浄法寺塗」と何が違うの ? と言うことですが・・・画像を見てお解りの通り、「浄法寺塗」と全く同じです。


単に、制作地が、「浄法寺町」から「安代町」に変わっただけのように見受けられます。・・・済みません。

●秀衡塗り


伝統工芸の最後は、「秀衡塗」です。


岩手県における「漆器」と言えば、先程の「浄法寺塗」よりも、こちらの「秀衡塗」の方が有名ではないかと思われます。何と言っても、見た目が「派手」ですから。


「秀衡塗」の起源は、皆さん、既にお解りだと思いますが、名称の通り、奥州藤原氏第三代「藤原秀衡」が作った「漆器」であると伝わっています。


但し、当時の記録は何も残されていませんが、江戸時代中期の「寛政年間(1789 〜1801年)」に、伊達領一ノ関藩出身で、「解体新書」を翻訳した「杉田玄白」と「前野良沢」の弟子となる蘭学者大槻玄沢(おおつき-げんたく)」が書いた「磐水漫草」に、次のような事が記載されているそうです。


藤原秀衡が、金色堂造営の時に、京都から漆塗りの職人を呼び寄せ椀を作らせ、これが秀衡椀と呼ばれ、以降も、江戸の茶人の間で珍重された。 』


さらに、明治時代には、国学者東京大学、その他多くの大学で教鞭を取り、数多くの本を著した「黒川真頼(まより)」と言う人物がいます。


そして、この「黒川真頼」が、明治11年(1878年)に出版した「工芸志料」は、太古から明治初年に至る日本工芸の歩みを、膨大な古文献を探し出して整理した類なき貴重な史料集として、現在でも増刷されている名著となっているようですが、この「工芸志料」にも、先の「磐水漫草」と同じ様な内容が記載されています。


この様に、現在「秀衡塗」と呼ばれている「漆器」は、元々は、「秀衡椀」と呼ばれる大きな「三ツ椀の入れ子椀」で、椀の上部には雲形を描き、金箔が貼られ、その間に、草花や吉祥の図柄を配したユニークな文様が特徴の「漆器」です。


しかし、「漆」や「金箔」等、高価な材料を使うので、「浄法寺塗」の様に、日常的に使う器ではなく、特別な祭事等で使われるだけになり、藤原氏滅亡後は、衰退してしまった様です。


そして、藤原氏滅亡から数百年経ち、江戸時代後期から明治時代初頭になると、中尊寺等がある平泉の中心地から、北西に20Kmほど離れた場所、現在「衣川1号ダム(増沢ダム)」がある衣川村増沢地域に、秋田県稲川町から、漆職人の「沓沢岩松」氏が招かれ、新たに「漆器産業」を起こしました。


この「増沢地域」では、以前から細々と「漆器」を作っていたそうです。


そして、明治4年(1871年)に、前述の通り、秋田県から「川連(かわつら)漆器職人」と呼ばれていた「沓沢岩松」氏を招き、現在、「増沢塗」と呼ばれる「漆器」を作成し始めたそうです。


その後、漆職人の営業努力などもあり、増沢地域、およびその近辺で、「漆器」の需要がどんどん高まり、当初、6軒63人程度だった増沢集落の人口は、昭和20年代になると、56軒487人まで増加したそうです。


さらに、昭和13年(1935年)には、当時、「民芸運動」と呼ばれた活動を起こし、「民芸の父」とも呼ばれた思想家「柳 宗悦(むねよし)」が、この増沢を訪れ、「秀衡椀」の調査を行うと共に、「手仕事の日本」と言う雑誌で、この「増沢塗」を「塗りが正直で手堅い」と賞賛しました。


その後、この雑誌の記事が話題となり、日本全国で、「増沢塗」の人気が高まったそうですが、それと共に、この「増沢塗」の職人が、「秀衡椀」から「秀衡塗」を復元し、折からの「漆器」ブームに乗り、「秀衡塗」も、日本全国に知れ渡るようになったのだそうです。


ところが、昭和22年の「カスリン台風」、続く昭和23年の「アイオン台風」により、衣川流域も甚大な被害を受けてしまった事から、この増沢集落近辺に、「衣川1号ダム(増沢ダム)」を着工する事が決まってしまいました。


このため、昭和25年から始まったダム工事に伴い、集落は分散してしまい、この「増沢塗」も衰退してしまったようで、現在、「増沢塗」職人は、「及川 守男」氏一名だけになってしまったそうです。



さて、このような複雑な起源がある「秀衡塗」ですが、菱形の金箔を使い漆絵でデザイン化した草花を描いてある「秀衡文様」が特徴で、素朴ながら華麗な表現となっていると言われています。


また、この雲の模様は「源氏雲」と呼ばれており、「源氏物語」を題材とした絵画でよく使われる「雲形」の文様です。


しかし、「秀衡塗」に、「藤原氏」を滅ぼした「源氏」に関係する「源氏雲」の文様とは、何か、皮肉な感じがします。


「木地」には、冬に山から切り出されたブナ、ケヤキ、トチ等の天然木丸太で堅牢な本堅地下地を作り、加飾は、その昔から伝わる「秀衡椀」を模範に有職菱文様が描かれます。


この地方は、漆と金の特産の地でもあったことから、金箔を用いた造りが受け継がれ、朱と黒と金の基調の中に春秋草花紋が配された、光沢を抑えた仕上が漆本来の美しい艶を味わうことが出来ると言われています。


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盛岡市の詐欺被害


少し話は逸れますが、「漆」関係で、盛岡市が「詐欺被害」にあった事件を紹介しておきます。


盛岡市には、かつて、紫波町出身の画家「橋本八百二」氏が、私財を投じて建設した「橋本美術館」と言う美術館が、盛岡市岩山と呼ばれている場所にありました。


この美術館は、昭和50年(1975年)、岩手県内、そして盛岡市内に美術館など、一つも何も無かった時代に開館し、県内初の登録美術館となった、盛岡市にとっては歴史ある美術館でした。


私も、小学校の社会科見学で一度、その後、家族で一度、訪れた事がありますが、その当時は、美術/芸術になど全く興味が無かったので、ひたすら退屈だった思い出しかありません。



今思い出せば、非常に残念だと思います。


しかし、開館から26年目となる、2001年3月31日に、やはり慢性的な赤字を解消する事が出来ず、市民には惜しまれつつ閉館してしまった様です。


そして、その後、2004年5月に、東京の「目黒雅叙園」の漆芸作品の修復を行った後、岩手県宮古市川井村に「薬師塗漆工芸館」と言う施設を開業した「全 龍福(チョン・ヨンボク)」と言う人物が、「橋本美術館」の跡地に、「岩山漆芸美術館」を開館したそうです。


ところが・・・この「全 龍福」氏と、あの韓国の俳優「ペ・ヨンジュン」氏がグルになり、みごとに盛岡市を騙したようです。


ことの経緯は、現地の新聞報道によると、次のようになっている様です。

・2004年5月
韓国の漆芸グループ(代表:全 龍福)が、美術館跡地を盛岡市から借り受け、「岩山漆芸美術館」を開館

・2008年11月
「岩山漆芸美術館」、入場者減少に伴い、開館から4年半で休館

・2009年2月
ペ・ヨンジュン」が休館中の同館を訪れ、漆芸を学ぶ

・2009年6月
「全 龍福」と「ペ・ヨンジュン」の所属会社「キーイースト」が、協同出資をして「オリエンタルトレジャー(代表:全 龍福)」社を設立。

・2009年6月
ペ・ヨンジュン」が名誉館長となる事を発表。合わせて「ペ・ヨンジュン」が音頭を取る韓国紹介雑誌「韓国の美」の発売予定を発表

・2009年6月
盛岡市、「岩山漆芸美術館」の修繕費4,000万円を予算計上、内1,080万円を、市議会の承認を得ずに別枠予算に流用して直ちに執行。施設改修を実施。

・2009年7月
「岩山漆芸美術館」が盛岡市に提出した事業計画の虚偽記載が判明。営業開始直後から赤字運営になることが判明。当初から190万円の赤字となる。

・2009年8月
市長、中日韓国大使、知事らが出席のもと「岩山漆芸美術館」が再オープン。しかし、「ペ・ヨンジュン」は出席せず。

・2009年10月
ペ・ヨンジュン」所属会社「キーイースト」が出資を見合わせ。

・2009年11月
「オリエンタルトレジャー」、8月からの家賃未払いが発覚。並びに国からの「ふるさと雇用再生特別基金交付金の不正利用発覚。

・2009年11月
「全 龍福」、仙台市の会社経営者から「代金未納」で提訴され、盛岡地裁から美術館展示物の差し押さえ命令を受ける。

・2009年11月末
再オープン後、4ヶ月で「岩山漆芸美術館」閉館。


結局、再オープン決定後、美術館が閉館するまでの間、「ペ・ヨンジュン」氏は一度も姿を見せず、美術館閉館発表後、次のようなコメントを発表していた様です。


『 美術館に展示していた自分の作品が売却されるのは残念です。岩手の大切な財産なのですから売却せずに、県立美術館で展示して欲しい。美術館の維持管理は大変なので、国の定期的な援助が必要だと思う。 』


う〜ん・・・自分の所属会社が約束を違えて出資しなかった事が、美術館破綻の直接の原因と言う事が、全く解っていないというか、責任など微塵も感じておらず、国の責任と言っています。


やはり、国民性の違いなのでしょう。自身の雑誌のアピールが済んでしまえば「後は知らん顔」。「約束」と言う言葉を知らない民族なのだと言う事が、あらためて明らかになったような感じがします。


ちなみに、美術館に展示されていた「ペ・ヨンジュン」氏の作品(?)は、この画像の1点のみで、かつ練習のために作成した物とか・・・



加えて、「全 龍福」と言う人物も、「債務不履行」に「助成金不正利用」・・・こんな犯罪を起こしても、何も罰せられないと言うのも変な話だと思います。


また、その後も、助成金の不正使用に関しては、次のように、ほざいている様です。


『 勘違いもあり、従来の職員給与に使ってしまった。法律の知識が足りなかったが、行政は知識不足な人に正確な情報を与えるのが役割なのに、金だけ返せなんてひどい。 』


やはり、大陸系の人と事業を行う場合には、「念には念を入れて」、ちゃんと調査した上でビジネスを行わないと、最後は、とんでもない事になってしまうようです。


盛岡市も、これに懲りて、「甘いエサ」に釣られることなく、美術館を再開して欲しいものだと思います。


しかし、朝鮮半島の人間は、国と国が約束した条約さえも、平気で反故にしようとする民族ですから、結局、何を約束しても無駄なのかもしれません。


この「岩山漆芸美術館」の問題に関しては、未だに資金は回収出来ていないようですが・・・何か、誰も責任も取らず、ウヤムヤになってしまっているようです。


何で盛岡市民は、盛岡市に対して「損害賠償請求」等の訴えを起こさないのでしょうか ? 全く、「人が良い」のにも呆れてしまいます。


また、宮古市川井村にあった「薬師塗漆工芸館」は、現在は「道の駅やまびこ館」に場所に移転した様です。(http://www.city.miyako.iwate.jp/kanko/yakusi_kougei.html)


この施設では、「全 龍福」氏関連の作品展示等も行っているようですし、運営者が「全 龍福」氏関係者という話もあります。


「岩山漆芸美術館」の件はありますので、訪問する際は、くれぐれも「お甘い話」には乗らない様に気を付けた方が良いと思います。

ちなみに、「ペ・ヨンジュン」氏は、こんな、一見「詐欺」のようにしか思えない問題を起こしているにも関わらず、いまだに来日しているようです。「心臓に毛が生えている」と言うか、「無神経」というか・・・


但し、2016年8月に来日した際、空港に居たファンは、たったの15人との事です。日本人も、ようやく彼の「守銭奴」の様な本性に気が付いたのでしょうか ?


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■「漆塗り体験」が出来る工房の紹介


本ブログの最後に、「漆塗り体験」が出来る工房を紹介したいと思います。


今回紹介した「浄法寺塗」、「安比塗」、および「秀衡塗」の全てで、場所は、それぞれ 別々ですが、「漆塗り体験」が出来る場所が何箇所かある様です。


それと、どの「体験コース」においても、「漆かぶれ」の可能性があるので、その点は、ご注意願います。

●「浄法寺塗り」体験


「浄法寺塗り」の体験が出来るのは、「株式会社うるみ工房」と言う会社の工房になります。


この工房の事を簡単に紹介すると、元々、戦前の昭和20年、前述の「安代町」で、先代社長が、その当時の「浄法寺塗」の工房を設立し、戦後の昭和28年に、盛岡市に転居してきた工房との事です。


二代目社長の「勝又吉治」氏は、日本初の「浄法寺塗伝統工芸士」に認定された方との事ですから、かなりの腕前なのだと思います。


その昔は、盛岡市内に2店舗あったようですが、現在は、弊社盛岡事業所からも、徒歩3分位で行ける「盛岡市中央通り」にあるショールームで「漆塗り体験」が出来る様です。


但し、こちらの体験は、完成品「汁椀」に「合成うるし」を使った絵付けだけとなります。このため、逆に、「漆かぶれ」の心配は無いとのことです。


本章最初に掲載した画像が、その「絵付け」画像になります。


ちなみに、社名の「うるみ」とは、「潤(うるみ)色」を意味しており、先代社長が、この「潤色」が好きだったことから社名を「うるみ工房」としたそうです。

【 うるみ工房での体験 】

・住所 :盛岡市中央通2-9-23(盛岡駅から約1km/徒歩15分)
・電話 :019-654-4615
・Mail :http://www.urumi.jp/inquiry-etsuke.html(メールフォーム)
・料金 :1,620円(税込み)
・内容 :完成品「汁椀」への絵付け、所要時間1時間、当日持ち帰り不可、後日発送(別料金)
・営業 :10:00〜18:00、年末年始のみ休み、絵付け体験は要予約

●「安比塗り体験」


安比塗り体験」が出来るのは、前述の「安比塗」の項で紹介した「安比漆工技術センター」と同じ場所にある「安比漆器工房」と言う所になります。


ここは、前述の工房と違い、「安比塗」の地元にあるので、訪れるのは、ちょっと面倒かもしれません。


鉄道を使う場合、JR花輪線「新屋新町」駅から約900m/徒歩10分程度、車の場合、東北自動車道「安代IC」から約1km/5分程度、八幡平市博物館を目指せば大丈夫だと思います。


こちらの「漆塗り体験」も、基本は「絵付け」になりますが、対象物は「塗箸」になります。


こちらの「絵付け」は、本当の「漆」を使って行うので、最初に記載した通り、「漆かぶれ」には注意する必要があります。


また、やはり本物の「漆」を使うので年齢制限があり、対象は「小学生高学年」以上となり、幼児連れは参加出来ない様です。


それでは各種情報を記載します。

安比漆器工房での体験 】
・住所 :岩手県八幡平市叺田230-1
・電話 :019-563-1065
・Mail :https://appiurushistudio.sakura.ne.jp/contact/ (メールフォーム)
・料金 :1,700円(税込み・送料込み)
・内容 :完成品「塗箸」への絵付け、当日持ち帰り不可、所要時間1時間〜1時間半
・営業 :10:00〜17:00(昼休み1時間)、月曜定休日
・注意 :汚れても良い格好で参加、エプロン用意、要予約2日前、1〜20名まで対応可
・特典 :温泉やお土産クーポン券付き(http://www.hachimantaishi.com/taiken/kupon.pdf)


●「秀衡塗り体験」


そして、また最後になってしまいましたが「秀衡塗り体験」が出来る場所を紹介します。


こちらも「秀衡塗」の地元企業「有限会社 翁知屋(おおちや)」での体験となります。


平泉の地元なので、やはり車の方が便利だと思いますが、鉄道の場合、JR東北線平泉駅」から、約1.2km/徒歩15分位、車の場合、東北自動車道「平泉前沢IC」から約3km/5分程度の場所になります。


この「翁知屋」は、前述の「増沢塗」の流れを汲む、正統派の「秀衡塗り職人」の一族が経営されている企業の様です。


初代「翁知屋」は、大正時代から「増沢塗」に従事し、先の「民芸運動」にも参加し、「秀衡塗」の復元にも尽力した方なのだそうです。


現在は、四代目が事業を引き継ぎ、「秀衡塗」の製造/販売を行うと共に、新たに「kurasu」と言う工房を新設し、この工房で「漆塗り体験」や「職人育成コース」を実施しています。


「職人育成コース」は、5,000円/回で、木地加工、漆塗装から絵付けまで、本格的に学べるコースになっています。


しかし・・・やはり本格的なコースなので、最低でも月2回、3年間は学ぶ必要があるそうですし、各種の道具や素材料金は、都度、購入する必要があります。


ちなみに、刷毛10,000円〜、絵筆7,000円〜、木地1,000円〜、金粉/金箔は4,800円/g〜となって居るようです。時間とお金に余裕がある方しか参加出来ないと思います。


「漆塗り体験」は、次の3つのメニューから選択できる仕組みになっています。(費用税込み)


・はし :2,160円(1膳)、アテノキ、漆
・ストラップ :2,700円、ホオノキ、漆
・コースター :3,240円(1個)、合板、漆


それでは最後に各種情報を記載します。

【 翁知屋での体験 】

・住所 :岩手県西磐井郡平泉町平泉字衣関1-7
・電話 :019-146-2306
・Mail :https://main-ochiya.ssl-lolipop.jp/hiraizumi-ochiya/kuras/kojin/yoyaku_kojin.html (メールフォーム)
・料金 :上記参照
・内容 :完成品への絵付け、当日持ち帰り不可、所要時間1時間〜1時間半
・営業 :9:00〜18:00、水曜定休日
・送料 :配達地域により異なる。864円〜1,944円、乾燥後1〜2週間後
・注意 :汚れても良い格好で参加、使い捨て手袋のみ用意、要予約7日前、2〜100名まで対応可、3名以下の場合、合計4品から受付可。


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今回は、岩手の工芸品と言う事で、「漆」関係の情報に関して、次の様な内容を紹介して来ました。


●「漆」の歴史
●「漆」の活用方法
●海外における「漆」人気
岩手県内の「漆器
●「漆塗り」体験の紹介


平成29年7月30日に、NHKの教育テレビ、通称「Eテレ」の「日曜美術館」で、『 漆 ジャパン 一万二千年の物語 』と題して、「漆」の歴史等を紹介していましたが、本当に、日本における「漆文化」は、奥が深いものだと思いました。


その中においても、「浄法寺漆」は、国内最大の「漆産地」として、「漆掻き職人」や「漆塗り職人」の皆さんが頑張っている姿には感銘を受けました。


私は、「漆」と言えば「朱色」や「漆黒」しか思い浮かばなかったのですが、その他にも「溜(ため)色」とか「潤(うるみ)色」とか、結構、趣のある色があることを知りました。


この色、一つ取っても、日本人の造詣の深さが伝わって来るような感じがします。


さらに、色の名前が、また良いと思います。


「溜(ため)色」とか「潤(うるみ)色」とか・・・私の推測ですが、こんな趣のある色の名前は、外国語では表現出来ないと思います。


上の画像中の「朱合」は、「色」と言うよりは、色漆をつくる際にベースとなる褐色味の強い透明な「漆」の事の様です。


日本の伝統色で検索しても、「朱合」と言う色は検索出来ませんでした。


そして、さらに、今回は「岩手の〜」と言う事ですので、代表的な下記の「漆器」に関する情報も紹介しました。

・浄法寺塗
安比
・秀衡塗


私としては、当初、「岩手の伝統工芸」で、かつ「漆」と言えば、子供の頃から知っていた「秀衡塗」しか思い浮かびませんでした。


さらに、この様に、「子供の頃から知っていた」と言う事と、「秀衡」と言う名前から、「秀衡塗」は、さぞかし古く、平安時代から脈々と受け継がれてきた伝統ある「漆器」だと、勝手に思い描いていたのですが・・・・


調べて見ると、奥州藤原氏の滅亡以降、江戸時代に至るまでは、その経緯が全く不明と言う事が解り、少しガックリしてしまいました。


逆に、「浄法寺漆」の方が、記録としては江戸時代初期からですが、青森県の「三内丸山遺跡」を始めとした縄文時代の遺跡から出土した「漆器」の漆に「浄法寺漆」が使われていたのではないか、と言う研究発表もあるみたいです。


但し、現在の所、青森県の「三内丸山遺跡」から出土した「漆器」の漆が、「浄法寺産漆」とまでは決まっていないようですが、中国産漆ではなく、「国産漆」を使っていた事だけは、静岡大学の佐藤助教授(当時)の研究で明らかにはなっているそうです。


何れにしろ、この様に、岩手県は、古くから「漆」の産地として有名だった訳ですから、今後も、「漆塗り職人」や「漆掻き職人」も、そして何より「漆の木」も増やして、日本国内の文化財をも守っていって欲しいと思います。


今後は、「漆」をキーワードに、外国人に頼ること無く、そして安易な道を選択せず慎重に、岩手県内の産業を活性化して欲しいと思います。


それでは次回も宜しくお願いします。

以上

【画像・情報提供先】
Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)
・若狭三方縄文博物館(http://jomonmuseum.jugem.jp/)
国立歴史民俗博物館(https://www.rekihaku.ac.jp/)
・Art & Bell by Tora(http://cardiac.exblog.jp/)
・滴生舎(http://urushi-joboji.com/life/tekiseisha)
IBC岩手放送(http://www.ibc.co.jp/)
・株式会社うるみ工房(http://www.urumi.jp/index.html)
安比漆器工房(http://www.appiurushistudio.com/)

【株式会社 エム・システム】
本      社  :〒124-0023 東京都葛飾東新小岩8-5-5 5F
           TEL : 03-5671-2360 / FAX : 03-5671-2361
盛岡事業所  :〒020-0022 岩手県盛岡市大通3-2-8 3F
           TEL : 019-656-1530 / FAX : 019-656-1531
E-mail    : info@msystm.co.jp 
URL     : http://msystm.co.jp/
        : http://msystm.co.jp/excel_top.html
ブログ       : http://d.hatena.ne.jp/msystem/ 
Facebook   : http://www.facebook.com/msysteminc

バブルの二の舞いか? - 人手不足への対応


「人手不足だ !!」と伝えられ始めて、もう3年位になりますが、特定業界では、相変わらず人手は足りていない様です。


有効求人倍率も、2014年6月に、1992年のバブル末期以来となる「1.10倍」を超える数値となっています。それ以降は、ほぼ継続的に「1.0倍」を超え続けています。


その昔、「Once Upon A Time」・・・私は、1985年に社会人になったのですが、その翌年の1986年から始まった「バブル」。それから約5年間、日本は、「土地神話」に乗せられて、何の根拠もない好景気に踊る事になります。


その当時も、徐々に人手不足が深刻になり、バブル全盛期となる1990年代に突入した頃には、日本中、何処もかしこも「ネコの手」が必要な状況でした。


私も、当時の会社の社内勉強会で、「人手不足への対応」を検討した事を、今でも覚えています。


あの頃の「人手不足」は、多くの企業が、経営多角化に乗り出し、コア・ビジネス以外、余計な事業に手を出す事が大流行していましたので、本当の意味での「人手不足」だったと思います。


その後の「バブル崩壊」で、余計な事業に手を出した会社は、その殆どが倒産してしまったのですが・・・


まあ、それは脇に置くとして、今回の「人手不足」は、あの頃の「人手不足」とは、全く種類が異なるのではないかと私は考えています。


そこで、「何故、今、人手不足なのか ?」と言う事から始めて、その「人手不足」に、どうやって対応していくのかに関して、次のような点を考えて見たいと思っています。


●人手不足の現状
●人手不足の原因
●人手不足の実態
●人手不足への対応


まあ、「システム屋」が書いているブログですので、最後は、「業務のシステム化で全てOK !!」となるのは目に見えていますが、それでも、ちゃんとした根拠がありますので、出来れば、最後までご覧下さい。


それでは今回も宜しくお願いします。


■人手不足の現状


まず、現在、本当に「人手不足」になっているのか ? 日本全体が「人手不足」なのか ? について調べて見ました。


その結果、2017年3月時点における「日本商工会議所」の調査では、調査対象企業2,776社(回答率68%)の内、約60%の企業が「人手不足」と回答している様です。


そして、その中でも、特に、建築、飲食、小売、運輸、等、俗に言う「労働集約型業界」で深刻な「人手不足」が発生している事が解ったそうです。


確かに、「人手不足」に関するニュースでは、次のようなニュースばかり報道されているような感じがします。


ヤマト運輸、配送料金を値上げして、ドライバーを確保/12〜14時の時間指定配達を廃止
・コンビニ各社、24時間営業を見直し
・「すき家」を運営するゼンショウホールディングス、営業店舗を縮小、各地で大量閉店
・新国立競技場、工期の遅れ/周辺道路の工事に遅れも


全て「労働集約型産業」ばかりです。




ちなみに、「労働集約型産業」とは、事業活動の、ほとんど全てが、「労働力」、つまり「人手」に頼る産業です。事業の継続、および拡大のために「人手」が必要な事業になります。


その意味で、「介護事業」等も、少し前までは深刻な「人手不足」だったのですが、現在では、何故か、それほど騒がれなくなっています。一部、事業者により差異はあると思いますが、業界全体では、落ち着いて居るようです。


恐らく、「介護」を必要とする人は沢山いるのですが、運営施設が足りていない状況なのだと思います。つまり、運営施設には「人手」が足りているが、施設自体が不足しているのだと思います。



他方、「労働集約型産業」の逆の産業としては、「資本集約型産業」があります。


「資本 = お金」と思われるかもしれませんが、経済用語としての「資本集約型産業」とは、「固定資本」、つまり「生産設備」になります。


具体的な例としては、自動車産業が有ります。


少し、と言うか、昭和の頃の「自動車産業」と言えば、前述の典型的な「労働集約型産業」でしたが、現在では、機械化/システム化が進み、工場は「産業機械」で溢れ、「人手」は疎らです。


このように、「産業設備」に多額の資本を投入し、「人手」、一昔前には「ブルーカラー」と呼ばれた労働者を大量に解雇して発展して来ました。


また、近年では、これらに加え「知識集約型産業」と呼ばれる産業もあるようですが、この業態は、「知識 = 人の頭脳」となるので、基本的には、「労働集約型産業」の一形態なのだと思います。


まあ、弊社が属している、俗に言う「IT業界」も、この手の「知識集約型産業」になるかと思います。


但し、従来の「労働集約型産業」とは異なり、専門職となりますので、専門知識がないと「労働力」足りえませんので、そこが従来の「労働集約型産業」とは異なるのだと思います。



この様に、現状では、「労働集約型産業」において、深刻な「人手不足」が発生している様ですが、どうして、このような「人手不足」が発生したのかを考えて見ます。



■人手不足の原因


前章で、「労働集約型産業」において、深刻な「人手不足」が起きている事を紹介しましたが、日本経済は、日銀が言う程、好景気でも何でもないと思います。


それにも関わらず、何故、こんなに「人手不足」になってしまったのでしょうか ? その原因は、恐らくは、10年位前にさかのぼると思います。


バブル崩壊後、日本は「デフレ不況」に襲われ、企業存続のために、一番費用が掛かる「人件費」を削るため、ほほとんどの企業が「リストラ」を行いました。


特に激しい「リストラ」を行ったのが、「労働集約型産業」です。その理由は、これまで説明してきた通り、デフレによる売り上げ減少をカバーするための人件費削減です。


このため、先に挙げた、建築、飲食、小売、運輸、等の「労働集約型業界」において「リストラ」が行われ、「リストラ」された労働力は、別の業界に、「非正規社員」として転職する事を余儀なくされました。


また、この間、バブル崩壊後の1993年〜2005年は、「就職氷河期」と呼ばれ、新卒も、「非正規社員」となる以外、働く機会が与えられませんでした。


さらに、2007年、アメリカの「サブプライムローン危機」に端を発した2008年の「リーマンショック」で、事態はさらに悪化の一途を辿る事になります。


ところが、(この言葉、私は大嫌いですが)2011年に発生した東日本大震災後の「復興需要」、そして2012年末に成立した「第2次安倍内閣」による「円安誘導」で、事態は変わり始めます。


さらに、2013年9月に、2020年のオリンピック開催地が東京に決定した事から、東京を中心に「五輪需要」が始まり、これにより、上記「復興需要」と合わせて建設業界において「人手不足」が拡がりだしました。


加えて、相変わらず「百貨店不況」は続いていますが、それとは逆に、Amazonを始めとする通信販売(通販)が好調なので、小売/卸や運輸業界で、深刻な「人手不足」が起きてしまったのだと思います。


つまり、現在の「人手不足」は、「デフレ不況」の反動によるものがある、といえると思います。


そして、追い打ちを掛け様に、次のような現象が、「人手不足」に拍車を掛けています。


●「団塊の世代」の退職
●「生産年齢人口」の減少
●高齢化による介護業界での労働需要増加


団塊の世代」の大量退職により「生産年齢人口」が減少した状態で、「団塊の世代」の人々の高齢化により介護業界で一気に人手不足が発生し、介護業界に労働力を奪われた他の「労働集約型産業」で、深刻な「人手不足」が発生した、とも考えられます。


団塊の世代」の大量退職により「生産年齢人口」が減少
→ 「団塊の世代」の高齢化により「介護業界」で一気に人手不足
→ 「介護業界」に労働力を奪われた他の「労働集約型産業」で深刻な「人手不足」発生


と言う流れがあると考えられます。


このように、今回の「人手不足」は、単に一時的、循環的な労働需給のタイト化というより、まさに長期的、そして構造的な「人手不足時代の到来」と捉えるべきものだと思っています。



■人手不足の実態


この様に、特に「労働集約型産業」においては、深刻な「人手不足」が発生しており、その「人手不足」は、これまでの経済環境や経営方針に原因があったのだと思います。


しかし・・・世の中は、単に「人手」が足りない事だけが問題なのでしょうか ?


確かに、「労働集約型産業」、特に知識/能力を余り必要としない現場では、単に「人手」が欲しい/必要なので、「人手不足」と言う言葉/表現を使っても問題は無いのかもしれません。


しかし、それ以外の現場を見てみると、「人手不足」なのではなく、「人材不足」が起きているような感じがします。


つまり、


『 人手は直ぐに集まるが、本当に、必要な人材が集まらないので、何時までたっても人手不足になってしまっている。 』


のではないでしょうか ?


求人倍率が高止まりしているのは、必要な「人材」が確保出来ない事が原因なのではないかと思います。




しかし、これが事実であれば、さらに深刻な問題が潜んでいる事になります。


それは、企業において、次のような問題が起きているからだと思われます。


●社内教育を行える社員がいない
●社内が非正規社員ばかりなので、教育すべき社員がいない


従来の日本社会では、新人を採用し、一から、OJTで教育して一人前にする仕組みがありました。ちょっと古い言葉で言うと「徒弟制度」のような仕組みです。



しかし、現在の日本社会では、前述の様に、ここ10年間で、新入社員を採用出来ていないので、社内の年齢構成がイビツな「歯抜け」状態になっています。


先輩/後輩の関係が無くなり、いきなり上司/部下の関係になってしまっています。このような状況では、OJTは行う事はできません。


このため、社員が育たず、何時まで経っても「使えない社員」ばかりが増えていく事になってしまいます。



さらに、社員教育を行いたくても、社内には、急ごしらえで集めたパートやアルバイト、あるいは派遣業者から派遣された非正規社員ばかりの状態です。


このような非正規社員社員教育を行っても、ある程度の期間が経過すれば、皆、会社を去ってしまいます。


派遣社員が来る → 教育を行う → 会社を辞める → 別の派遣社員が来る → 教育を行う → 辞める


このような「負の循環」が続く職場で、誰が真剣に社員教育を行おうと思うでしょうか ?



企業が、目先の利益ばかり優先し、人件費を削るために、非正規社員ばかりを雇用していたツケが、ここに来て表面化してきたのだと思います。


■人手不足への対応


さて、それでは、「人手不足/人材不足」に対しては、どのような対応を取れば良いのでしょうか ?


なり振り構わず、何とか社員を集め、数年掛けて社員教育を行い、知識/能力を身に着けさせてから現場に送り出す。


まあ、これが正しい解決策なのだと思いますが・・・しかし、この場合、必要な人材に育つまで、最低でも3年位は掛かってしまいます。それでは、恐らく会社/組織は持たないかもしれません。


「労働集約型産業」では、夜間対応や24時間対応に関しては、「他社が行うから」ではなく、本当に必要な業務なのか等の業務の見直しを行うと共に、主要業務への労力集中を図る必要があると思います。


「あれも、これも」では、絶対に「人手不足/人材不足」は解消できません。


また、業務の見直しに関しては、必要/不必要の見直しを行うもの当然ですが、必要となった業務に関しても、どうすれば作業の効率化を図れるのかも検討する必要があります。


「今まで、こうだから」ではなく、「今までは、こうやってきたが、ここを変更すれば、作業が早く、そして正確に終わる。」と言うように、個々の作業の見直しを行う事が必要です。


また、その際、「システム化」の有無も同時に検討すべきだと思います。




冒頭の説明の様に、「システム屋」が書くブログだから、最後は、「業務のシステム化で全て丸く治まります。」と言いたい所ではあります。


しかし、以前、過去ブログにも記載した通り、業務システムには、得手/不得手があります。全てが「IT化」で解決出来ない事もありますので、まずは、業務の「棚卸し」が必要です。


★過去ブログ:開発を依頼する前に − 外注会社に連絡する前に自社で行うべき事


また、「労働集約型産業」での「業務のシステム化」は難しいと言うか、正直、無理だと思います。


建築、飲食、小売、運輸、等の現場では、確かに、一部業務をシステム化していますが、これらの業務の場合、実際に人間が動く事で業務が成り立っています。


このため、将来的に、人間の代わりに、ロボット、AI、あるいは自動運転車、等が、サービスを提供出来るようになれば、「人手不足/人材不足」を解消できるようになるかもしれません。




ちなみに、「業務のIT化」を行わない企業は、どうしても、無駄とは言いませんが、単純作業に、膨大な時間を掛け過ぎる傾向があります。


例えば、ある種のデータから管理表等の一覧表を作成している単純業務のケースでは、業務をシステム化していない場合、作業担当者は、当然、個々のデータを開いて、数十分から数時間と言う膨大な時間を掛けて、必要事項のコピー/ペーストを行う事で一覧表を作成します。


ところが、この業務が「システム化」されていれば、担当者は、「実行ボタン」をクリックするだけで、数秒から数分の間で、一覧表を作成する事が可能になります。



私どもは、創業当初から「時間対効果」と言うキーワードを使い、業務の効率化支援を行って来ました。


従来、企業が設備投資を行う場合、「費用対効果」を重視して投資の可否を決定します。


しかし、現在のように、少ない社員で大量の業務をこなさなければならない時代にあっては、「費用対効果」よりも「時間対効果」を重視すべきだと思っています。


「時間対効果」とは、少ない人手や時間で、いかに多くの業務を、正確に実行出来るのかに重点を置く考え方です。


確かに、投資には、それに見合った効果が必要なのは理解出来ます。しかし、このご時世、費用と言う尺度の代わりに、時間と正確性を意識した方が良いと思います。





さらに私どもでは、「業務のシステム化」により、「業務の属人化」も排除出来ると思っています。


「属人化」とは、社内において、「この仕事は、あの人が居ないと出来ない。」と言う、特定人物に依存した業務を意味しています。


現在のように、社内に、パート、アルバイト、あるいは派遣社員等、非正規社員が多く在籍する状況においては、作業は、「誰でも正確に」行えるような仕組みが必要です。


このような時に、「あの人でないと・・・」等と、悠長な事を言っている場合ではありません。


「業務のシステム化」を図れば、余程の事さえ無ければ、マニュアルさえ作ってしまえば、後は、通常、誰でも作業を行う事が可能になります。


さらに、言い方を変えれば、「業務のシステム化」さえ行ってしまえば、非正規社員だけでも業務を遂行できますので、このような単純作業は非正規社員に任せ、プロパー社員には、もっと重要な「コア業務」を行わせた方が企業の発展に寄与出来ると思います。



これまでの内容を整理すると、次のようになります。

【 労働集約型産業での対応 】
・業務の見直し
・夜間対応や24時間対応の必要性の検討
・店舗等の採算性を検討し、人員の最適配置を検討する
・今後に備え、ロボット/AI/ドローン等、業務の省力化に向けた検討を始める


【 その他一般業界 】
・業務の棚卸しを行い、単純作業は、出来る限り「システム化」を図る
・「時間対効果」を意識し、少ない社員/時間で、いかに多くの業務を正確に処理するのかを検討する
・「業務の属人化」を排除し、誰でも、正確に、多くの作業を行える仕組みを検討する
・社員のダイバーシティ化も推進し、女性や高齢者でも業務が遂行できる仕組みを検討する
・プロパー社員には「コア業務」を、非正規社員には「単純作業」を行わせる事で事業の発展を図る


このような取り込みを行えば、「産業人口」が減少しつつある今の時代においても、必ず、対応策は見つかると思っています。



今回は、「バブルの二の舞いか? - 人手不足への対応」と題して、次のような内容を紹介しましたが、如何でしたか ?


●人手不足の現状
●人手不足の原因
●人手不足の実態
●人手不足への対応


大方の予想通り、最後は、「システム化対応」で、チャンチャンとなってしまいましたが、何も、これは、私だけの考えではありません。


経済評論家の皆さんも、賛同している考え方です。現時点で、「人手不足/人材不足」に、効果的に対応できるのは、「システム化」だけだと思います。



しかし、「人手不足」が深刻な、「労働集約型産業」には、残念ながら「システム化」は通用しません。


まあ、同じIT系となりますが、ちょっと毛色が違う「ロボット」や「自動運転」、あるいは「ドローン」等は、今後、この「労働集約型産業」での活躍が期待できると思っています。


いつも混んでいる「回転寿司」なども、「ロボット」系の技術を活用し、少人数で業務を遂行している良い事例だと思います。


あの混雑する店舗を、恐らくは、非正規社員となるパート/アルバイト等の十数人で切り盛りしている訳ですから、大した物だと思います。



コンビニ等の24時間対応も、「システム化」により、遠隔集中監視、無人レジ、出入り口の自動ロック、そして警備会社との連携を図れば、ある程度の無人化も対応可能ではないかと思ってしまいます。



弊社も、今後も引き続き、「時間対効果」を重要キーワードとして、社会に貢献して行きたいと思っています。


それでは、次回も宜しくお願いします。

以上

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