岩手の工芸品 〜 地味だけど丈夫で長持ち その4 (木工品)


今回の「岩手・盛岡」情報も、前回に引き続き、「岩手の工芸品」を紹介するシリーズとなります。


前回までは、次の工芸品を紹介してきましたが、今回は、その第四弾として、「岩手の木工品」を紹介したいと思います。


★過去ブログ
岩手の工芸品 〜 地味だけど丈夫で長持ち その1(漆)
岩手の工芸品 〜 地味だけど丈夫で長持ち その2(南部鉄器)
岩手の工芸品 〜 地味だけど丈夫で長持ち その3(琥珀)


岩手県は、古くから、日本国内でも有数の「桐」の産地として有名で、古くから「桐」を中心にした「家具・木工品」の製造が盛んでした。


このため、その昔は、どちらも東北地方ですが、福島の「会津桐」と、岩手の「南部桐」が、日本における「桐製品」の双璧をなすとも言われていた様です。


また、「桐」に関しては、岩手県の「県花」が「桐」になっているので、下記過去ブログで、「県花」になった由来とか、何故、岩手県が、「桐」の名産地になったのか等を紹介しています。


★過去ブログ:7月開催の花まつり 〜 狙い目は外国人



前回ブログで紹介した「漆器」も、表面に塗る「漆」に関する情報を中心に紹介し、その本体である「器」部分の説明は割愛したのですが、よく考えれば、当然、この「器」も、ちゃんとした「木工品」です。


岩手県では、「桐」、それと上記「漆器」にも使われる事が多い、水目桜(ミズメザクラ)、栃(トチ)、欅(ケヤキ)等、落葉高木の生産量が非常に多く、国内では、北海道に次ぐ二番目の生産量となっています。


まあ、岩手県自体の面積も、本州で一番、日本全体では、北海道に次ぐ二番目で、そのほとんどが「山」ですから、木材の生産量が多いのは、当たり前と言えば、当たり前だと思いますが・・・


生産が盛んな木工品ですが、中でも、岩手を代表する木工品と言えば、他の意見もあるとは思いますが、私は、「南部桐箪笥」と「岩谷堂箪笥」の二品だと思います。


そこで、今回は、「桐」に関する雑学から始め、木工品に関しては、「岩谷堂箪笥」を中心に、次の内容を紹介したいと思います。


●「桐」に関する雑学
●岩谷堂箪笥について
●南部桐について


それでは今回も宜しくお願い申し上げます。


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■「桐」に関する雑学


「桐」は、これも過去に紹介した「漆」と同様、原産地は中国とされていますが、、日本においては、北海道の北部以外、ほぼ全土に渡り、広く植栽されている樹木です。


また、「桐」は、古くから日本人に愛されると共に、「神聖な木」と見なされ、数多くの「家紋」や「紋章」として使われ続けてきた歴史があります。


「何故、桐が神聖なのか ?」と言うと、中国最古の詩篇詩経(しきょう)」に、下記のような記述がある事が理由とされています。


鳳凰は梧桐にあらざれば栖まず、竹実にあらざれば食わず 』



これを現代語にすると、「(霊鳥である)鳳凰は、100年に一度しか実を付けない竹の実を食し、梧桐(あおぎり)にしか止まらない。」となります。(※「霊鳥」は私が付加)


このため、、日本においても、平安時代延暦年間(782〜806年)頃、「嵯峨天皇」が、天皇の衣類の刺繍(ししゅう)や型染めとして、「五七の桐紋」を用いるようになったと言われています。


そして、その後、「桐紋」は、「菊の御紋」に次ぐ「高貴な紋」として、主に皇室関係で用いられるようになりましたが、室町時代から安土桃山時代にかけては、将軍や有力大名などの武家に好まれた様です。



「桐紋」を好んだ人物としては、足利尊氏織田信長豊臣秀吉が有名ですが、彼らも、勝手に「桐紋」を使っていた訳ではなく、天皇から「桐紋」を賜って使っていました。


このため、室町時代から安土桃山時代までは、「天下人」となった武家だけが使える、特別な「紋章」と言う意味を持つようになったのですが、征夷大将軍となった徳川家康が、天皇からの「桐紋」の授与を断ったので、江戸時代においては、「天下人」と言う意味がなくなり、普通の庶民までも「桐紋」を使うようになってしまったそうです。

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このような経緯もあり、江戸時代以降、皇室では、余り「桐紋」を使わなくなったそうです。


また、明治時代になると、官報で、「菊御紋」に関しては、正式に使用規定が定められたのに対して、「桐紋」に関しては、使用方法を特に定めない旨が通達されたので、さらに民間や庶民にまで、広く使われるようになってしまったみたいです。


このため、それ以降、「桐紋」は次のような図柄に使われるようになっています。


勲章、硬貨、ビザ、パスポート、校章、官邸備品、内閣府マーク、徽章、ロゴマーク・・・


要は、もう何でも有りの状態となってしまった様です。



ちなみに、「桐紋」には、様々なバージョンがありますが、中でも前述の「五七の桐」と「五三の桐」が有名ですが、この「五七」とか「五三」の意味を知っていますか ?


前に紹介したのが「五七の桐」で、こちらの右の画像が「五三の桐」です。


よ〜く見て下さい。特に、葉っぱの上、枝の数です。


前の画像では、枝の数が「五本と七本」の組み合わせですが、こちらは「三本と五本」の組み合わせです。


もうお解りですよね ! 枝の数が「五七」と「五三」の違いが、「桐紋」の違いとなっています。



ちなみに、前述の「詩経」にあった「梧桐(あおぎり)」ですが、本当は「桐」とは全く別の植物らしいです。


このため、「桐」と「梧桐(青桐)」を区別するため、「桐」の事を「白桐」と呼び、「梧桐」と区別している書物もある様です。


・(白)桐 : シソ目キリ科キリ属
・梧桐 : アオイ目アオイ科アオギリ


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それと、「紋章」ついで、と言うと宮内庁に怒られるかもしれませんが、「菊の御紋」、正式名所は「菊花紋章」と言うようですが、これにも多くのバージョンがあります。


・花弁の数による分類 :「十菊」、「十二菊」、そして「十六菊」等がある
・花の重なりによる分類 :「八重」、「九重」等がある
・花の表裏による分類 :「表菊、「裏菊」がある


「菊」も、これまで紹介した「漆」や「桐」と同様、奈良時代に中国から伝来した植物で、その美しさから「君子(聖人)」にも例えられ、「梅」、」「竹」、「欄」と共に、花の「四君子」と称されていたそうです。


また、遣唐使により様々な新しい情報が中国(当時:唐)からもたらされ、平安時代には、「菊」には、不老長寿の効果があると伝えられたので、旧暦の9月9日を「菊の節句(重陽節句)」として、「菊花酒(菊酒)」を飲んで邪気を払い、長寿を祈念する宴が催されたりしたそうです。


左上の紋章は「十六八重表菊」と言う紋章で、現在では、日本の天皇や皇室を現す紋章となっていますが、正式に、天皇/皇室を現す事に決まったのは明治時代以降です。


元々、前述の通り、「菊」は日本原産ではありませんし、平安時代などは、天皇以外、一般の貴族も、着物の文様として普通に使っていたそうです。


ところが、下記の過去ブログでも少し触れていますが、鎌倉時代、(後白河天皇の孫となる)「後鳥羽天皇(1183-1198年)」が、「菊マニア」となり、御服や懐紙等、身の回りの品々に「菊花紋様」を付けた事で、他の貴族たちは遠慮して、「菊花紋様」の使用を控えるようになったと伝わっています。


★過去ブログ:ナニャドヤラ 〜 北東北人はユダヤ人 ?


そして、その後、天皇になった人物も、「菊花文様」を、自らの印として用い続けたので、この事が皇室の慣例となり、特に、先の「十六八重表菊」が、皇室の紋として定着したそうです。


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しかし、そうなると、「五七の桐」は平安時代から天皇家で使われたのに対し、「菊花文様」は鎌倉時代ですから、本来であれば、「五七の桐」の方が、皇室が使った歴史が長いので、皇室を現す正式な文様になったのではないかと思われますが・・・


やはり、江戸時代に、庶民にまで広がり過ぎた事が影響したので、明治政府は、「菊花文様」を皇室の文様に採用したのだと思います。


ちなみに、その他の「菊」の紋章として有名なのは、左の画像、「楠木正成」が、「後醍醐天皇」から賜った家紋があります。


その他、現在の宮家でも、「菊」を取り入れた様々な紋章が有るようです。








皇室、と言うか宮内庁も、宮家を新設する際には、ロゴマークではなく「家紋」も考案する必要があり、中々大変なのだと思い至りました。


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■岩谷堂箪笥について


本章では、「岩谷堂(いわやどう)箪笥」を紹介したいと思いますが、皆さん、「岩谷堂」と聞いて、何を最初に思い浮かべますか ?


やはり箪笥ですか ?


私などは、「箪笥」には誠に申し訳ありませんが、「箪笥」よりも「羊羹(ようかん)」を思い浮かべてしまいます。


子供の頃、何かの折の引き出物とかお土産で、たまに食べていた「岩谷堂羊羹」。中でも「栗羊羹」は最高でした。


何処を切っても大粒の「栗」が、ゴロゴロ入っていて、子供ながらに、凄い羊羹だと感心して食べた思い出があります。


今では、「栗羊羹」の中に、大粒の栗が入っている羊羹は沢山ありますが、その昔、私が子供の頃ですから、50年位に、これほど大粒の栗が入った「栗羊羹」は無かったのではないかと思います。勝手な想像ですが・・・


掲載した画像の「岩谷堂羊羹」を製造販売している会社は、株式会社「回進堂」と言う企業になり、今では、「岩谷堂羊羹」と言うと、この「回進堂」の羊羹を思い浮かべる方が多いのではないかと思われます。


しかし、「回進堂」は、昭和2年創業なのですが、同じく「岩谷堂羊羹」を製造販売そしている「菊泉堂」と言う企業は、明治36年(1903年)の創業ですから、実は、「菊泉堂」の方が、歴史ある企業なのかもしれません。


そして、肝心の「岩谷堂羊羹」は、先の「箪笥」と同様、江戸時代初期となる「延宝元年(1673年)」、岩谷堂城の城主「岩城氏」が、新たな産業の育成を目指して創製させたと伝えられている様です。


現在は、この「菊泉堂」と先の「回進堂」、そして、もう一つ「菊正堂」と言う3社で、「岩谷堂羊羹」と言う商標を登録して使用している様です。

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と言う事で、次の「南部桐箪笥」に・・・ではなく「岩谷堂箪笥」の紹介に戻りますが、前述の通り、現在の「岩谷堂箪笥」の原型を作ったのは、江戸時代中期、岩谷堂近辺を治めた「岩城氏」で、岩谷堂伊達氏の第7代当主となる「岩城 村将(むらまさ)」だったと伝わっています。(別名:伊達村将)


岩谷堂地域は、現在の奥州市江刺区岩谷堂と言う住所にあたり、かつて「岩谷堂城」があった場所には、今では「岩手県立岩谷堂高等学校」が建てられています。



この岩谷堂地域は、領主の入れ替わりが激しかったようですが、歴史上、最初に、この地域が取り上げられるのは、奥州藤原氏の始祖「藤原経清(つねきよ)」が、この地に居を構えた事のようです。


藤原経清」は、後三年の役で「安倍氏」と共に処刑されてしまいますが、その子である奥州藤原氏初代当主「藤原清衡」が、平安時代の末期、寛治2年(1088年)に、押領使として、再び岩谷堂豊田に居を構えて、「豊田館」と称して勢力の拡大を図った事が記録されています。


そして、「平泉」に館を移すまでの30年間、この「豊田館」を中心に産業の育成も図り、その中に「岩谷堂箪笥」が含まれていたと伝わっている様です。


このため、一説では、「岩谷堂箪笥」が、日本における「和箪笥」の中では、一番歴史が古い箪笥ではないかとも言われている様です。


但し、初期の「岩谷堂箪笥」、当時は、「岩谷堂箪笥」とは呼ばれていなかったとは思いますが、現在の様な「箪笥」ではなく、左の画像の様な「長持ち」のような大型の「箱」だったのではないかと考えられていますが・・・残念ながら、当時の「箪笥」は残っていないようです。


その後は、御存知の通り、奥州藤原氏は、「源 頼朝」により滅ぼされてしまい、この地は、葛西氏初代「葛西清重」が、奥州総奉行として治める事になります。


そして、岩谷堂城には、代官として千葉氏の流れを汲む「千葉胤道(たねみち)」が遣わされ、以後は「江刺氏」と名を変え、「江刺氏」と「葛西氏」が、勢力を争いながらも、この地を支配する事になった様です。


ところが、葛西・江刺の両氏は、秀吉による「小田原征伐」に参陣しなかった事を理由に領地を没収され、それ以後は、岩谷堂城は、伊達氏の領地となり、岩谷堂伊達氏の一族が、代々城主となり明治時代まで治める事になった様です。

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前述の通り、戦国時代末期、この奥州市(旧:水沢市)付近には、小中規模の戦国武将が乱立した事と、戦国大名となる「南部氏」と「伊達氏」の国境となった影響もあり、争いごとが絶えませんでした。


豊臣秀吉が「小田原征伐」を行った天正18年(1590年)から、徳川家康が「上杉征伐」を行った慶長5年(1600年)までの10年間、この地域を含む、東北各地では一揆や反乱が続発しました。


天正18年(1590年) :和賀・稗貫一揆
天正18年(1590年) :葛西・大崎一揆
天正19年(1591年) :九戸政実の乱
・慶長5年(1600年) :岩崎一揆


天正18年(1590年)には、「豊臣秀吉」自らが、奥州地方の領地の再配分を行う「奥州仕置」を行ったのですが、逆に、この仕置に反感を持った地元武士達や、この仕置で領土を減俸された「伊達政宗」が裏で画策し、その後も一揆と言うか、豊臣政権や徳川支配へ反抗する戦が絶えませんでした。


岩谷堂地域も、これら戦乱の舞台となったのですが、慶長15年(1610年)、伊達氏一門となった「岩城氏」の血を引く「伊達政隆(岩城隆道)」が、この地を治める事になりました。(初代「岩谷堂伊達氏」)


それ以降、明治時代に至るまで、岩谷堂地域は、この「岩谷堂伊達氏」が治める事になります。


「岩城氏」は、元々は、現在の福島県付近を治めていたのですが、当主の病死や戦死が相次いだ事や、「岩城氏」と政略結婚を行っていた「佐竹氏」の策略もあり、「岩城氏」の家督は、豊臣秀吉の判断で、「佐竹氏」側に乗っ取られてしまった様です。


その後、「岩城隆道」は、縁が深かった「伊達氏」に身を寄せていたのですが、最終的に、前述の通り、慶長15年に、正式に「伊達姓」を賜り伊達一門となった次第です。(「岩城隆道」と「伊達政宗」は「はとこ」の関係)


そして、岩谷堂伊達氏の第7代当主「岩城村将(1764-1795年)」の治世においては、「天明の飢饉」が起きており、飢饉の際には、米蔵を開いて領民を救済する等、善政を敷くと共に、米作だけに頼る経済からの脱皮を目的に、家臣の「三品(みしな) 茂左衛門」に、箪笥の製作、塗装の研究、車付きの箪笥を作らせたのが、「岩谷堂箪笥」の始まりと伝わっています。

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前述の通り、江戸時代の「岩谷堂箪笥」は、「車付き箪笥」が主流で、現在のような堅牢、そして重厚な趣は無かったと言われています。


現在のような堅牢・重厚な箪笥に至るのは、同じく江戸時代末期の文政年間(1818-1831年)に、「徳兵衛」と言う鍛冶職人が彫金金具を考案した事が始まりと伝わっています。


元々、左の画像の通り、当初考案された「車付き箪笥」にも、若干の金具は付いており、これらの金具に関しては、「喜兵衛」と「太吉」と言う二名の地元鍛冶職人が、箪笥用の「鉄金具」を考案したと伝わっています。


そして、その後、この鍛冶職人「太吉」の弟子となる「徳兵衛」が、前述の通り、彫金金具と鍵付き金具を考案したとされています。


鍵のかかる堅牢な金具が用いられるのは、金庫の役目を果たすためでしたが、一棹(さお)の箪笥には、50〜100個程の金具が用いられています。


最初の金具には、「桐模様」が多かったようですが、次第に、虎、竹、龍、あるいは花鳥など、多くのデザインが開発され、これが原型となり、「岩谷堂箪笥」の技術が現代に引き継がれているそうです。


ちなみに、「岩谷堂箪笥」に使われる金具は、「手打彫り」製と「南部鉄器」製の物があり、さらに「手打彫り」には、「鉄製」と「銅製」があります。


「手打彫り」に使用される地金の厚さは「0.8mm以上」で、引手、蝶番、錠、そして鍵等、全て手作りで作られます。


また、「岩谷堂箪笥」には、漆が塗られておりますが、その塗り方には、代表的な塗り方としては、「拭き漆塗り」、および「木地蝋塗り」の2種類があります。


「拭き漆塗り」、および「木地蝋塗り」も、どちらも多くの手間が掛ると言われていますが、漆を塗る事で、「岩谷堂箪笥」の木目の美しさが、いつまでも保たれると言われています。


拭き漆塗り:7〜8回、塗りと乾燥、そして毛羽取りを繰り返す製法。
木地蝋塗り:錆付け/乾燥/空研ぎ/錆研ぎ等を繰り返した後に、下塗り/乾燥/上塗りを繰り返す製法で、「拭き漆塗り」よりも一ヶ月以上多くの工数が必要。


このような手間を掛けて漆を塗り重ねるので、時を経るほど、独特の風合いが醸し出されると言われています。


また、この他の塗り方としては、「朱塗り」や「黒蝋色塗り」等、結構沢山の塗り方があるそうです。


それと、ここまで説明すると、「岩谷堂箪笥」は、飛んでもなく高価な「箪笥」だと思われるでしょうが・・・実際、飛んでもなく高価です。


前述の黒っぽい箪笥、この箪笥は、サイズが、「W78×D40×H85」という大きさですが、これで約180,000円程度となり、この辺りが、このサイズの最安値だと思われます。


最上級となると、もう数百万円位の値段は、ざらにあります。サイズ「W1680×D450×H175」程度の大型箪笥ですと、定価1,500,000万円程度の様です。もう、車が買える値段です。


現在では、現地に行かなくても、いろんな販売サイトがあるようですが・・・やはり「類似品」、つまり「模造品/偽物」も、かなり出回っている様です。


岩手県が出資、運営している「岩手県産株式会社」から全国へ出荷されている商品には、この2つのマークが必ず付いているとの事ですので、お買い求めの際には、気を付けて下さい。


さらに、「岩谷堂箪笥」は、昭和57年3月5日その伝統的意匠、材質、組立工法、手打金具の技法、漆塗装等総合的技術が認められ、「経済産業大臣指定伝統的工芸品」にも認定されています。


岩手県では、これまでに紹介した「南部鉄器」、「秀衡塗」、「浄法寺塗」、そして、この「岩谷堂箪笥」の4点が、認定されています。


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先程、箪笥を数える単位に「棹(さお)」と言う漢字を使いましたが、皆さん、箪笥に、数え方があるなんて知っていましたか ?


恥ずかしながら、私は、このブログを書くまで「箪笥」に独自の数え方があるなんて知りませんでした。普通に、1個、2個と呼んでいました。


それでは、何故、箪笥を数える単位が「棹」なのかと言うと・・・


その昔、江戸時代初期には、火事の時に、箪笥を、そのまま運び出せるので、前述の通り「車付き箪笥」が流行っていたそうです。


ところが、やはり江戸時代初期となる明暦3年(1657年)に発生した「明暦の大火」の際、避難する人が、一斉に「車付き箪笥」ごと避難した事が災いし、大勢の人が逃げ遅れて焼死してしまいました。


そこで幕府は、江戸、大阪、そして京都の三都市においては、「車付き箪笥」の製造を中止させたそうです。


このため、今度は、「車付き」ではなく、箪笥に「棹」を差して持ち運べる「棹通し金具」付きの箪笥が流行したので、それ以降は、箪笥を数える時には、「一棹、二棹・・・」と呼んで数えるようになったと伝わっています。

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最後に、「岩谷堂箪笥」の創始者と言われている「三品 茂左右衛門」ですが、実は、現在でも「三品家」の一族は存続しており、さらに、今も「岩谷堂箪笥」を作成しています。


現在の当主は、三品家初代から数えて12代目「三品 健悦」氏が努めており、その息子「綾一郎」氏も家具職人になっています。


「三品家」は、代々、岩谷堂伊達氏に仕えていた武士らしく、宝暦8年(1758年)に、「三品喜太郎勝次」と言う人物が、藩に提出した家系図では、この「三品喜太郎勝次」の曽祖父の代から、「細工方」と言う役職で仕えていたようです。


そして、「岩谷堂箪笥」の創始者と伝わる「三品茂左衛門」に関しては、家系図には記載が無いようですが、年代から推測すると、この「三品喜太郎勝次」の息子ではないかと思われているようです。


「三品家」では、現在「株式会社 岩谷堂タンス製作所」を経営しており、その会社のホームページには、前述の通り、「天明2年創業」と掲載されています。


また、第12代「三品 健悦」氏は、「岩谷堂箪笥生産協同組合」の理事長も努めており、「岩谷堂箪笥」の普及と職人の育成に尽力している様です。


第13代「綾一郎」氏は、箪笥を製造する傍ら、端材を使った生活雑貨「Iwayado Craft(イワヤドウ・クラフト)」と言うブランドを立ち上げて、「岩谷堂」と言う名前を全国に広げようとしているようです。


今後の活躍にも期待したい所です。

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■南部桐について


次に「南部桐箪笥」を紹介したいと思いますが・・・前述の「岩谷堂箪笥」にも、材料として「桐」が使われるケースがあるので、「岩谷堂箪笥」も「南部桐箪笥」じゃないの ? と思われるかもしれません。


確かに、材料面から見ると、「岩谷堂箪笥」も「南部桐箪笥」になってしまいますが、ちょっと見ただけでも、「岩谷堂箪笥」と「南部桐箪笥」は、全く別物だと言う事が解ると思います。



「岩谷堂箪笥」は漆を塗っていますが、「南部桐箪笥」は、基本的に、加工した桐材を、そのままの状態、いわゆる「桐無垢材」のまま製造・加工して販売している点が違います。


さらに、「岩谷堂箪笥」は、前述の説明の通り、岩谷堂地域で製造された製品ですし、「南部桐箪笥」は、それ以外の地域で製造販売された製品となります。


特に、盛岡市においては、「南部桐たんす」と言うブランド名で、「南部桐箪笥」を、盛岡特産品として認証していますし、また、岩手県全体で見ると「桐」製品に関しては、「南部桐」と言うブランド名を用いて管理しています。


しかし、見た目はかなり異なる「岩谷堂箪笥」ですが、内部に用いられている木材は「桐」ですので、まあ、「岩谷堂箪笥」も「南部桐箪笥」の1ブランドとするのが正しいのだと思います。

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しかし、ちょっと面倒なのが、青森県八戸市や(三戸郡)三戸町で使用している地域ブランド名「南部総桐箪笥」です。


青森県八戸市三戸町も、元々は「南部藩」の領地でしたし、「三戸町」に至っては、「奥州平泉攻撃」の功により、「南部氏」の始祖となる「南部光行」が、「源 頼朝」より、最初に授かった領地であり、「南部氏」の居城まであった場所です。


また、同じく三戸郡には、南部藩発祥の地とされる「南部町」までも存在しています。


さらに、この地域も、当然、「桐」の名産地ですので、「桐」製品に、「南部桐」と言う名称を用いたいのだと思いますが・・・


残念ながら、現在では、青森県に含まれてしまったので、正面切って「南部桐」と言うブランド名を使えなくなってしまった様です。何か・・・可哀想な感じもしますが、まあ仕方がないと思います。

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「桐」に関する雑学は、最初に紹介しましたので、ここでは、簡単に「桐」の特性に関して紹介したいと思います。


「桐」の原産地は、前述の通り中国大陸で、日本には、飛鳥時代の頃に渡来し、北海道南部から鹿児島県に至るまで、広く植栽され始めたと伝わっています。



「桐箪笥」は、梅雨時になると引出しが堅くなることがありますが、この現象は、湿度が高くなると「桐」が膨張して気密性が高まり、タンス内に湿気が侵入するのを防いでいるからです。


また逆に、乾燥時には「桐」が収縮して蒸れないように通気性を良くすると同時に、板の面も木目(きめ)が粗密になって湿気の通過を自然にコントロールしているそうです。


この様に、「桐」は、まるで呼吸しているかのように乾湿調整を行い、箪笥内を一定の快適な状態に保つ働きをしています。


このため、古くから「桐」は、箪笥の他にも、刀剣、掛け軸など高級貴重品を収納する箱に使われたり、あるいは琴、琵琶、等の楽器、下駄等の日用品に至るまで幅広く用いられたりすると共に、「桐」自体も高級品として扱われ、湿度の高い日本ならではの「桐」文化が発達しました。


特に、岩手県の様に寒い地方で育った「桐」は、木の成長が遅くなるので年輪が細かくなりますし、さらに、厳しい冬と湿潤な夏という寒暖差の大きな気候風土で育った「桐」は、緻密で軽く、粘りや光沢が備わるようになるとも言われています。


故に、岩手県産の「桐」は、古くから「南部の紫桐(しとう)」と呼ばれ有名な特産品になった様です。


この他にも「桐」の特性を挙げると、次のようなものがあります。


・軽くて持ち運びしやすく、扱いに便利
・木肌が白くなめらかで、美しい
・調湿作用があって、湿気を寄せ付けない
・燃えにくく、火事に強い
・熱が伝わりにくく、調温作用がある
・水を通しにくい
・やわらかくて加工がしやすい
・材質が均等で狂いが少なく、加工に適している


もうメリットばかり、これ以上無いって感じもしますが、残念ながらデメリットもあるようです。


・強度が求められる箇所には使えない(柱・棟)
・曲げ加工は苦手
・一点に力が加わる場所にも使えない(机・テーブル)
・幹の中心に穴が開いているので大経木の板材も難しい
・他の材木と比べると高額になってしまう(国産桐)



先の通り、気密性/通気性が良いので「箪笥」向きの木材として使われるのですが、それ以外にも「難燃性」とか「熱伝導率の悪さ」の点からも、「箪笥」向きの木材として適しているのだと思います。


特に、これらの点に関しては、「桐」にまつわるエピソードとして、次のような話が語り継がれています。


『 火事のときに桐箪笥は黒焦げになったが、中の着物は無事だった。 』


「桐」には、このような特性があるので、箪笥や金庫の内部に「桐」が用いられている訳ですが、さらに、「火事になったら箪笥に水をかけろ」と言われているのも、これら「桐」の特性を知ったからこその言い伝えだと思われます。

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さらに、「桐」に関しては、「桐下駄」としても重宝されています。


「下駄」自体、日本においては、最初に使われたのは「弥生時代」と言われており、静岡県の「登呂遺跡」から、水田で使われたと考えられている「田下駄」が発見されています。


このように、当初は、水田で使われる「農具」の一種だった「下駄」ですが、その後は、足元がぬかるんでいる時に使う履物に変化して行ったと言われています。


その後、古墳時代奈良時代、そして平安時代と「下駄」も進化し続け、当時は、主に身分の高い、貴族階級の履物として定着していった模様です。


「下駄」が庶民階級にまで普及するのは、だいぶ後、江戸時代になってからですが、やはり、戦が無くなり、町民階級が経済力を付けて来てからになります。


そして、町民階級に「下駄」が拡がってくると、様々なバリエーションやデザインも増えて来たようです。


「下駄」は、江戸時代以前は、どちらかと言えば、雨が降って、足元がぬかるんでいる時の雨天用の履物として用いられて来ました。


しかし、江戸時代になると「日和(ひより)下駄」と呼ばれ、天気の良い日でも履く、歯の低い「下駄」が考案されたそうです。


この「日和下駄」は、男女共に、普段使いの「下駄」として非常に人気があり、一気に「下駄」文化が拡がった様です。


また、江戸時代以前までは、「下駄」の材料は「檜(ひのき)」や「杉」が主流でしたが、次第に、軽くて履き心地が良い「桐」が好まれるようになったそうです。


江戸、京都そして大阪の町には、「下駄屋街」ができ、庶民向けに「桐下駄」を売る店が軒を連ねたそうです。


江戸時代後期には、岩手県の「久慈港」から、江戸の「深川木場」に、「桐」が出荷されていたそうです。


当時、既に、江戸の人口は100万人を超える大都市でしたから、「下駄」を作る「桐」が不足し、山形県秋田県、そして福島県産の「桐」に関しても、「南部桐」と称して販売していたと伝わっています。


また、「桐」が、「下駄」材料として好まれたのは、何も、木が軽くて足が疲れないだけでは無いと言われています。


「桐」の木肌は柔らかいので、裸足で履いても気持ちが良く、足にしっくりと馴染むそうです。また、水にも強いので、雨にあたっても傷みません。


その反面、前述の通り、軽軟な材質なので、すぐに歯が減ってしまいそうな気もしますが、実際には、砂粒や小石が歯に食い込んで摩耗を防ぎ、逆に長持ちするのだとも言われています。


このように、「桐下駄」人気は、江戸時代から明治、大正、そして戦前の昭和時代では続き、農家の副業として「桐」の植栽奨励策が取られ、「桐」の植栽、および販売で、億万長者になる者も現れたのですが・・・昭和48年をピークに、「国産桐」の植栽事業は下り坂となった様です。

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最後に、「南部桐」を使った、「箪笥」と「下駄」に関する具体的な情報を紹介したいと思います。


【 南部桐下駄 】


盛岡駅から北へ5Km、約15分位の「緑が丘」と言う場所に、「吉國履物店」とお店があります。


このお店は、明治44年に、二代目「吉田 国太郎」氏が創業し、地場産の「南部桐」を用いて下駄の製作販売を始めたと伝わっています。


現在は、三代目「「吉田 国太郎」氏が後を継いでいますが、盛岡市内唯一の「下駄職人」なのだそうです。


このお店では、「桐下駄」の製造工程をパネルで紹介したり、実際の制作現場も見学できたりするそうです。


また、創業当初は、自らが考案した「めんこい下駄」と名付けた桐下駄を販売し、非常に人気を博したと伝わっています。


下駄は、少しだけ、かかとが出るくらいが歩きやすく、粋なのだそうです。


足の裏の感覚が、畳みの上に上がった感じが理想で、柔らかい南部桐はそれを体感できる優れた材料でもあるそうです。


この「吉國履物店」は、私の母校「岩手県立盛岡第三高等学校」から、徒歩5分程度の場所にあります。


私の在学中にも、当然、お店はあったはずですが、全然、記憶にありません。


それと、「めんこい」とは、東北地方の方言で「かわいい」と言う意味になります。ちなみに、その反対語は、「みったぐね」となりますが、どうでも良いか・・・

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【 南部桐箪笥 】


「桐たんす」に関しては、盛岡市八幡町にある「有限会社 丸原家具店」と言う家具店が、「南部桐」を用いた「桐たんす」を製造販売しており、このお店の製品が、「盛岡特産品ブランド」と認定されている様です。


この場所も、盛岡市八幡町と言う事で、私の小学校、および中学校の学区内におり、このお店の2軒隣は、先輩の実家でもあります。


ですが・・・誠に申し訳ないのですが、全く記憶にありません。


このお店の前の道は、「盛岡八幡宮」の参道に当たるので、真っ直ぐ進むと、「盛岡八幡宮」に突き当たる道でもあり、今までも、何度も通過していますが・・・どうも目に入っていなかったようです。


このお店に関しては、ホームページ等、何も情報が無いので、お店の歴史等は全く解らないのですが、見てもお解りの通り、小さなお店で、社員2名で細々と営業されているように見受けられます。


八幡町は、その昔は、当然「八幡神社」の参道として栄え、江戸時代後期、明治、大正、そして昭和中頃までは、盛岡の花街として、とても栄えた町だったのですが・・・


今では、「シャッター商店街」と化してしますので、何とか、頑張って貰いたいものです。


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今回は、岩手県の名産品として、「岩谷堂箪笥」を中心に、次の内容を紹介しましたが、如何でしたでしょうか ?


●「桐」に関する雑学
●岩谷堂箪笥について
●南部桐について



本シリーズのブログを書いていると、いつの時代も、人気が出ると、直ぐに「模造品」や「偽物」が出回るのは、世の常なのだと、つくづく思い知らされました。


本シリーズで取り上げた、「漆器」、「南部鉄器」、「岩谷堂箪笥」・・・どれも「偽物」が作られています。


今では、「偽物」、「コピー商品」と言えば、直ぐに「韓国」や「中国」を思い浮かべますが、その昔は、日本も同類だった事が解り、情けなくなってしまいました。


昭和後期頃になって、ようやく各種認証制度ができ、日本国内で「偽物」を作るのが難しくなり、その影響で、「偽物文化」は、「韓国」、そして「中国」へと移って行ったのではないかと思われます。


つまり、今でこそ、日本では「偽物文化」を拒絶する風土になったのですが、ここまで来るのに、2〜300年位は掛かっている事になります。


それでは、あと100年もすれば、「韓国」や「中国」でも、「偽物」を拒絶する文化が成立するのかもしれませんが・・・私は、現在の彼らの行動を見ると、残念ながら、非常に難しいと思わざるを得なくなってしまいます。


そもそも、この日本においてさえも「道徳心」が低下しており、日本人自体も、俗に言う「民度」の低下が危ぶまれ始めています。特殊詐欺が増加しているのも、この「道徳心」や「民度」の低下を表しているだと思います。


何か、このブログを書いていて、悲しくなって来てしまいました。


中国や韓国のブログ等を見ると、あれほど「日本嫌いの国」でさえ、日本人の礼儀正しや生真面目さを賞賛する声が多く見受けられます。


今後も、この「日
本人らしさ」を失わないよう、私を含め、日本人全員が、気を付けて生きていく必要があると思ってしまいました。

本シリーズは、あと1回位は続けられるのではないかと思っていますが・・・ちょっと危ないかもしれません。


それでは次回も宜しくお願いします。

以上


【画像・情報提供先】
Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)
・岩谷堂羊羹 菊泉堂(http://kikusendo.com/shop.html)
・東北城館魂(http://joukan.sakura.ne.jp/index.html)
・株式会社岩谷堂タンス製作所(http://www.its-iwayado.jp/)
・公益財団法人岩手県観光協会(http://www.iwatetabi.jp/)
・登呂遺跡博物館(http://www.shizuoka-toromuseum.jp/)

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