岩手の工芸品 〜 地味だけど丈夫で長持ち その2


前回の「岩手・盛岡」情報では、「岩手の工芸品」を紹介するシリーズを開始し、第一弾として「漆器」の情報を掲載しました。


その中では、国産漆の80%を生産している「浄法寺漆」の話から始めて、「漆」の歴史等、しつこい程、「漆」にまつわる次の様な情報を紹介しました。


シリーズ初回と言う事で、ちょっと力んでしまった様です。済みませんでした。


★過去ブログ:岩手の工芸品 〜 地味だけど丈夫で長持ち その1

【 前回ブログ内容 】
●「漆」の歴史
●「漆」の活用方法
●海外における「漆」人気
岩手県内の「漆器
盛岡市の詐欺被害
●「漆塗り」体験の紹介


今回は、「漆」以上に、全国的に有名だと思われる「南部鉄器」を紹介したいと思います。


工芸品としては「漆器」より有名だと思いますが、さすがに歴史的には、「漆」には負けてしまいます。


浄法寺漆」の歴史は、奈良時代まで遡る事が出来ますし、ひょっとしたら縄文時代まで遡るかもしれません。


それに比べて「南部鉄器」は、後で詳しく紹介しますが、せいぜい平安時代ですから、明らかに負けています。


しかし、その後、特に、盛岡藩の営業努力により、全国的に有名になった次第です。


と言うことで、今回は、「南部鉄器」に関して、次のような事を紹介したいと思います。


●南部鉄器の歴史
●現在の状況
●工場見学できる工房の紹介


それでは今回も宜しくお願い申し上げます。

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■南部鉄器の歴史


「南部鉄器」のルーツに関しては、下記の過去ブログにも記載した通り、盛岡編と水沢編があり、水沢編の方が、歴史があります。

★過去ブログ:岩手県内の火防祭り


現在、「旧:水沢市」は、2006年の「平成の大合併」で、次の市町村が合併して「奥州市」となっていますが、本ブログでは、「奥州市」ではなく、敢えて「水沢」と言う地名を使います。
水沢市江刺市前沢町胆沢町、衣川村


ところで、水沢編に関しては、平安時代末(11世紀末)頃、この地「江刺地方」に居を構えていた「藤原清衡」が、近江国(滋賀県)より、鋳物師を招いたことが始まりとされています。


その後、「清衡」が平泉まで南下して行くにつれ、鋳物師達も「清衡」に同行する形で平泉に移り住んだとされています。


また、その一部が、水沢(羽田町)地域に残り、室町時代の初期、京都「聖護院」の「長田正頼」と言う鋳物師が、地元の「千葉家」に養子に入り、鋳造業を始めたのが、水沢における「南部鉄器」の始まりとされています。


そして、「奥州藤原氏」の滅亡後、この地は奥州総奉行に任じられた「葛西氏」が治める事になりますが、「千葉氏」は、「葛西氏」に召し抱えられ、安土桃山時代の秀吉による「奥州仕置」により「葛西氏」が滅亡するまで、その庇護を受ける事になります。


水沢の「南部鉄器」は、一時衰退するようですが、「葛西氏」に仕えた武士で、気仙郡から移住して、上記「千葉氏」に師事した「及川喜右衛門光弘」と言う人物が、江戸時代中期となる「天和三年(1683年)」に「鋳物業」を興した「中興の祖」と言われているそうです。


この「及川喜右衛門光弘」と言う人物・・・何の業績があって「中興の祖」と呼ばれているのか、全く解りませんでした。「鋳物業」を始めただけで「中興の祖」になれるとは思いません。


しかし、その後、とにかく、この「及川家」は、この地を治めた「伊達氏」の手厚い庇護を受け、ギルド的な特権を与えられ、江戸時代末に至るまで、「鋳造業」を続けた様です。


江戸時代、この水沢の地においては、「及川姓」を持たない者は「鋳物師」になれなかったそうで、一族は当然、血の繋がりがない者まで「及川姓」を名乗って「鋳造業」を行っていたそうです。


一時期、この「羽田町」においては、「及川姓」が8割にまで達していた記録もあり、現在でも、羽田町付近には、「及川姓」を名乗る「鋳物業者」が大小含めて、10社以上存在しています。


その中で、古くから創業しているのは、「株式会社 及富」が、江戸時代後期となる「嘉永元年(1848年)」、「及源鋳造」も、同じく「嘉永5年(1853年)」から創業しています。


その他、羽田町で鋳造を行っている業者は、名前ではなく、「及富」、「及源」、「及春」、「及精」等、「屋号」で呼び合っているそうです。


この「一ノ関」から「水沢」付近は、太平洋側の背後にそびえる「北上山地(高地)」から、良質の「砂鉄」と型に使う「粘土」が採取できる事と、鋳物を製造する際の燃料となる「木材」が豊富に採れる事から、「鋳造業」には最適の場所でした。


特に「鉄」に関しては、本件とは別ですが、「北上山地」を挟んだ太平洋側の釜石には、江戸時代末期、南部藩士「大島高任(たかとう)」が、日本初の西洋式高炉を「板野」に建造しました。


そして、この「板野高炉跡」は、平成27年(2015年)に、世界遺産となっています。


さらに、ここ釜石には、明治7年(1874年)、日本初の官営製鉄所「釜石製鐵所」が建造された場所でもあります。


一般的に、「官営製鉄所」と言うと、北九州の「八幡製鐵所」が有名ですが、実は、日本初の官営製鉄所は、ここ釜石の製鉄所なのです。


しかし・・・創業開始3年後には、早くも民間に払い下げられてしまいますので、釜石より北九州の方が有名になってしまった様です。


民間払い下げ後は、「田中製鉄所」、「日本製鐵」、「富士製鐵」、「新日本製鐵所」等と、経営主体がコロコロ変わり、現在では、「新日鉄住金」となっていますが、製鉄業が盛んに行われた地域です。


しかし、太平洋戦争中は、この事が逆に災いし、昭和20年、日本本土に対しては、初の大規模艦砲射撃が、2度に渡り行われ、釜石市周辺、および製鉄所は、壊滅状態となってしまいました。


とにかく、この「北上山地」付近は、「砂鉄/鉄鉱石」、「粘土」、そして「木材」と、「鋳造業」を行うには、最適の場所だと思います。


そして、「水沢」に遅れること500年後、現在の「盛岡」に、「南部氏」が引っ越してきた事から、盛岡での「鋳造業」が始まる事になります。


「南部氏」は、元々は、甲斐国(現:山梨県)で栄えた「甲斐源氏」の流れを汲む一族で、南部家の始祖と言われる「南部光行」が、「源 頼朝」による「奥州藤原氏征伐」に功があったとして、現在の青森県三戸町に領地を与えられ居を構えていました。


その後は、「秀吉」や「家康」に仕える事で、領土拡大/領土安堵を図って来たのですが、慶長三年(1598年)、「三戸では北過ぎる」と言う「蒲生氏郷」や「浅野長政」の助言を聞き入れ、盛岡に城を築くべく数々の職人を招き入れる事で、「鋳物師」も、盛岡に定住するようになります。


そして、ここ「盛岡」における「南部鉄器」は、「有坂家」、「鈴木家」、「藤田家」、および「小泉家」の4家が、ほぼ全てを独占して来たと言われています。


特に、「小泉家」は、江戸時代初期となる「万治二年(1659年)」、当時の第二代藩主「南部重直」が、京都出身の釜師である初代「小泉仁左衛門」に、茶釜を作らせた事が、盛岡における南部鉄器の起源とも言われています。


また、盛岡市を東西に流れ、鮭が遡上する川としても有名な「中津川」ですが、そこに掛かる橋である「上ノ橋/下ノ橋」には、「擬宝珠(ぎぼし)」と呼ばれる飾りが付いています。


本来、この「擬宝珠」は、天皇や朝廷に関係がある建築物にだけ付ける事が許された装飾品です。


詳しい経緯は、下記の過去ブログに掲載していますので、もっと詳しい話を知りたい方は、下記ブログをご覧下さい。


★過去ブログ:中津川への鮭の遡上について



という事で、経緯を簡単に紹介しますと・・・その昔、三戸南部氏第12第当主「南部 政行」が、「和歌」の内容に感激した、当時の後村上天皇から、特別に「擬宝珠」を許され、それ以降、南部藩では、橋に、この「擬宝珠」を付けているそうです。


現在、盛岡市の「上ノ橋」には、青銅製としては日本最古(慶長14年作成)の「擬宝珠」が残されており、この「擬宝珠」を作成したのは、後述する「有坂家」だと伝わっています。


それでは、盛岡藩で「南部鉄器」を仕切っていた一族を簡単に紹介します。

●有坂家 :元々は京都出身で、7代目の時に甲州に移り、南北朝時代14世紀後半に「有坂茂右衛門」が南部氏に召し抱えられ、その後13代目の時に盛岡移住。「吉興(よしおき)」を号とする。
●鈴木家 :「寛永18年(1641年)」、藩主「南部重直」が甲州より「鈴木縫殿(ぬいと)」を召し抱える。梵鐘や灯籠等、大作が得意とされる。「盛久(もりひさ)」を号として使用。現在「鈴木盛久工房」として、初の女性当主が運営継続。
●藤田家 :「宝永6年(1709年)」、第六代藩主「南部利幹(としもと)」が、藩内「宮守村達曽部」より「藤田善助」を召し抱える。鍋類の製造が得意で「鍋善」と呼ばれた。他三家より格下として扱われた可能性があり。
●小泉家 :盛岡南部鉄器の創始者。三代「仁左衛門」が初めて「鉄瓶」を製作。現在「御釜屋」として営業継続。
※上記内容には諸説あるようです。



上記の通り、盛岡藩と伊達藩の両方から、手厚い庇護を受けて発展してきた「鋳物業」ですが、明治時代に入ると、パトロンが居なくなってしまい、一時は、衰退の一途をたどる事になります。


しかし、元々、江戸時代には、盛岡藩や伊達藩の特産品として重宝されてきた物ですし、各種博覧会等で入賞する等、パトロンが居なくなっても、引き続き、高い技術を誇っていた様です。


ところが、「明治23年(1890年)」、東北本線が開通すると、水沢も盛岡も、東北本線の最寄り駅となった事から、「南部鉄器」の販路が拡大する事なった様です。


さらに、大正天皇が、皇太子時代に盛岡に行幸した際に、当時の七代目「小泉仁左衛門」が、皇太子の前で、「南部鉄器」の製造を実演した事が話題となり、日本各地で人気が高まったそうです。


このため、「南部鉄器」人気に当て込んだ自治体が、「南部鉄器」の拡販を図るようになりましたし、旧藩主となる「南部利淳(としあつ)」伯爵が、盛岡市愛宕山に「南部鋳金研究所」を開所する等、人材育成にも力を入れるようになったそうです。


ところが、時代が昭和に入り、太平洋戦争が始まる昭和10年代になると「銑鉄鋳物制限令」等が発布され、軍需用品以外での鉄利用が禁止された事が災いし、それまで150人程度した職人も、戦後には16人まで激減してしまったそうです。


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■現在の状況


ところで、盛岡と水沢、どちらが「南部鉄器」の起源なのか ? と問われると、どちらも正しいと言う事になってしまうと思われます。


前述の過去ブログにも記載していますが、盛岡、および水沢の「南部鉄器」は、次の様に定義されているようです。



●盛岡の「南部鉄器」 :南部藩が庇護/奨励した「鋳物」なので当然「南部鉄器」
●水沢の「南部鉄器」 :岩手県南部の「鋳物」なので、岩手県「南部の鉄器」



江戸時代までは、盛岡藩と伊達藩、その後も盛岡市水沢市と言う別々の場所で「南部鉄器」を製造して来ました。


このため、戦後の「中小企業等協同組合法」においても、次の2つの組合が設立されました。


●南部鉄瓶商工業協同組合 :昭和24年(1949年)、盛岡市花巻市雫石町の鋳物業者が設立
●水沢鋳物工業協同組合 :昭和29年(1954年)、水沢市胆沢地域の鋳物業者が設立


しかし、昭和20年頃から、日本全国各地で製造された「鋳物」が、「南部鉄器」と称して販売される事態が相次ぎ、地元の業者は、危機感を抱くようになっていました。


当然、県内の鋳造業者は、偽物を販売している業者に抗議すると共に、登録商標の獲得を目指したようですが、「既に公知の名称」と言う理由で、登録商標としては認めてもらえなかったそうです。


そこで、その後の昭和34年(1959年)に、県内の統一組織である「岩手県南部鉄器協同組合連合会」を作り、昭和49年(1974年)に制定された法律に基づき、翌昭和50年には、「伝統的工芸品」として認定させた様です。


その後は、盛岡、および水沢地域で製造された「鋳物」だけを「南部鉄器」と呼ぶことができるようにしましたが・・・何か、その昔の日本も、中国と同じ様に、「偽ブランド」を製造販売していたのかと思うと、情けなくなってしまいます。


現在、「南部鉄器」における「伝統工芸士」は、17名にまで減ってしまっている様です。何か、危ない状況みたいです。


しかし、今更ですが、何故、伊達藩で製造していた鋳物を「伊達鉄器」と呼ばなかったのか不思議でありません。そもそも、江戸時代、「伊達領」の「鋳物」は、何と呼ばれていたのでしょうか ?


盛岡における「南部鉄器」の起源は、前述の通り「茶釜」の製造から始まっていますので、初期の「南部鉄器」は、「南部釜」と呼ばれていたそうです。


その後、日本国内での「煎茶」の流行に伴い、この「南部釜」の小型化が図られ、「茶釜」に注ぎ口と鉉(つる)を付け、この鋳物を「鉄薬罐(てつやかん)」と呼ぶようになったそうです。


そして、その後、さらに小型化が進むと共に「薬罐釜」と呼ばれ、さらには「手取り釜」、そして最後に、三代「小泉仁左衛門」が、「南部鉄瓶」の原型を製造し、これが「鉄瓶」と呼ばれた様です。

ちなみに、その昔から、盛岡と水沢の「南部鉄器」には、製造する対象物が異なっており、今でも、その流れは続いていると言われています。


●盛岡 :茶の湯釜、鉄瓶
●水沢 :日用品、武具、砲塔、仏具


どちらも、その頃の時代の影響もありますが、江戸時代末には、大砲の砲身などの製造も手掛けていますが、「南部鉄器」と言われて思い浮かぶ「鉄瓶」は、前述の通り、盛岡発祥だった様です。


そして、現在では、「茶釜」や「鉄瓶」は勿論、現在でも引き続き製造していますが、次のような製品も製造しています。

料理道具 フライパン/グリルパン、キャセロール(西洋鍋)、鍋類、ホットサンドメーカー、炊飯釜、瓶敷、鉄玉子
お茶道具 急須、コーヒードリッパー
小物 風鈴、蚊遣、文鎮/ペーパーウェイト、キャンドルスタンド、香炉、栓抜き、灰皿


こうして、「南部鉄器」で作られている物を列挙していると、盛岡の実家に、これらが沢山あったことを思い出しました。


鍋敷き、急須、風鈴、蚊遣、栓抜き、香炉、灰皿、文鎮・・・その昔、盛岡に住んでいた頃は、「南部鉄器」に囲まれた生活送っていた事に、あらためて気が付きました。


ちなみに、現在も、これらの多くは実家で使われています。


結婚してからは、妻が「鉄分が足りない」と言い出し、この「鉄玉子」や「鉄鍋」を購入してきたのですが・・・


これが、中々面倒で・・・


「鉄製品」は、きちんとメンテナンスしないと、お解りだと思うのですが、「サビ」て来ます。


この「鉄玉子」は、それ程は面倒では無いのですが、「鉄鍋」等は、メチャクチャ面倒くさいです。


特に、洗う時に、洗剤は使えないし、暫く使わない時は、油を塗っておかないとサビるしで、もう大変でした。


私は、学生の頃、アルバイトで務めた喫茶店で、キッチンを担当させられ、色々な料理を作っていた経験があります。


その時に、「中華鍋」でスパゲティやピラフ等を作っていたのですが、鍋が、当然「南部鉄器」ではありませんでしたが、「鉄製」だったので、毎日、仕事が終わった後は、ちゃんと「竹ブラシ」で洗って、油を引いてから仕舞っていました。


このような経験があったので、「南部鉄器」の鍋を購入した時に、妻が、ちゃんとメンテナンス出来るのか心配していたのですが・・・案の定、暫くすると、鍋が錆びてきて、結局、1年も持たずに破棄してしまいました。


「鍋」、結構、値段が高かったのに、勿体無い・・・


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■工場見学


ここまで、「南部鉄器」の歴史や何やかんやを紹介してきましたが、最後に、「南部鉄器」の製造工程を観れる場所を紹介します。


この場所は、盛岡市仙北町にある「岩鋳(いわちゅう)」と言う会社になります。


何か、NHKの教育テレビに出てくる人気キャクター「ニャンちゅう」のような名前の会社ですが、江戸時代までではありませんが、明治35年(1902年)創業の、それなりに歴史のある企業です。


歴史的には、先に紹介した「鈴木盛久工房」や「御釜屋」には負けてしまいますが、規模的には、現在の盛岡では、一番大きくて名が知られた企業だと思います。


私自身も、その昔、この「岩鋳」のお店が、近所の「八幡町」にありましたので、もう「南部鉄器と言えば岩鋳」みたいに感じていた、と言うか、他の会社は、全く知りませんでした。


さて、この「工場見学」ですが、年末/年始と毎週火曜日を除けば、何時でも見学可能なようですが、さすがに日曜日は、職人さんが休みなので、日曜日も避けた方が良いと思います。


まあ、「工場見学」と言っても、一般に想像するような「工場見学」とは異なります。


東京近郊には、ビール工場や日本酒の醸造所を見学出来るコースが数多くありますが、それほど規模も大きくなければ、専門の施設がある訳では無いようです。


この画像の様に、製造工場の脇に、見学者用の通路を設けているだけで、見学者は、職人が仕事をしている脇を、ただ歩いて見るだけの様です。


私も、2〜3年前に、ブリジストンサイクルの上尾工場を見学しに行ったことがありましたが、それと同じようです。


実際に、作業員が仕事をしている脇を歩くので、ブリジストンの時は、製品やベルトコンベアーに触れないように注意して歩いた記憶があります。


但し、「岩鋳」の場合、取り扱っている物が「鉄」で、近づくと危ないため、仕切りや防御壁が設置されているようです。


あと、日により作業工程が異なるので、左の画像のような「鋳込み工程」を見たい場合は、電話等で事前に予約や確認を行った方が良いとの事です。


また、当然、展示/販売スペースもありますので、その場で、気に入った「南部鉄器」を購入することも可能です。


しかし、「南部鉄器」は重いですし、鍋やなど等の大物を購入する場合、ちゃんと持ち帰れるのかも考えた方が良いと思います。


また、一説には、(岩鋳さんには申し訳ありませんが)現場で購入するより、何故か、ネット通販で購入した方が安い、と言う噂もあります。


その点は、事前に確認してから購入した方が良いかもしれませんが、思い出として購入するならば、そこはガマンしても良いかもしれません。


最後に、「岩鋳」の工場の場所を掲載しますが、県外の方は、自家用車、あるいはタクシー等で行かないと難しいと思います。


場所としては、国道4号線の、すぐ脇にあるのですが、非常に分かりにくい場所ですし、加えて、車線を間違えると右折も難しく、慣れていないと侵入出来ません。


私などは、いつも隣の大型スーパーに買物に行っているので、右折も慣れたものですが、初めての方は、まず、どこで右折して良いのかも解らないと思います。


自家用車が無ければ、盛岡駅ではなく、JR東北線の「岩手飯岡(いいおか)駅」から、タクシーを使うのが良いと思います、駅から3.5Km、約10分も掛からないと思います。


近くに、バス停があるので、路線バスもあるとは思うのですが、私は、バスで行った事がないので、どのバスに乗れば良いのか解りませんが、岩手県バス協会のサイト(http://www.iwatebus.or.jp/bus_rotary/morioka-higashi)によれば、バス停は「川久保」と言う名前で、盛岡駅からの場合、次のバスに乗れば良い様です。


●「5番」 :茶畑・都南営業所・簗川・盛岡中央工業団地方面
●「13番」 :本宮・飯岡・羽場・矢巾方面
●「14番」 :仙北、津志田、日詰方面


それでは、「岩鋳」の情報を掲載して、「南部鉄器」の紹介を終わりたいと思います。

【 岩鋳の情報 】

●住所 :岩手県盛岡市南仙北2-23-9
●TEL :019-635-2501
●Mail :kaikan@iwachu.co.jp
●URL :http://www.iwachu.co.jp/


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今回は、「岩手の工芸品」の第二弾として「南部鉄器」に関する下記の情報を紹介しましたが如何でしたか ?


●南部鉄器の歴史
●現在の状況
●工場見学できる工房の紹介


第一弾の「漆」ほど、歴史もありませんし、海外で人気が出たと言っても、こちらも「漆」ほどの人気ではありません。


製造元では、それなりに企業努力をしているのだと思いますが、せいぜい、「南部鉄器」の色を変え、内部をホーローに改良し、メンテナンスし易くしたに過ぎないのではないかと思います。


しかし、現在のヨーロッパでは、その昔「japan = 漆」と呼ばれて認識された様に、「岩鋳」の「南部鉄器」は、日々、知名度を増しており、「南部鉄器 = IWACHU 」と認識されるようになって来ていると言う話も伝わって来ています。

現在は、その「カラー」にのみ注目が集まっていますが、メンテナンスは非常に面倒ですが、従来通り、健康志向の観点で、「鉄分補給」を全面に押し出しても良いのかもしれません。


「鉄器」のメンテナンスが楽になれば、海外のみならず、国内でも注目度が増すと思いますが・・・やはり難しいのでしょう。


私は、「鉄器」に関しては、全くの素人なので、もう少し「産学連携」を活用し、メンテナンスし易い「南部鉄器」で、かつ簡単に「鉄分補給」出来る「南部鉄器」を開発出来ないものかと思ってしまいます。

「岩鋳」では、ヨーロッパにおいては、ある程度、「IWACHU = 南部鉄器」と言う地位を築いたので、現在は、中国をターゲットにしたマーケティングを行っているそうですが・・・


前回ブログにも記載しましたが、「中国」や「韓国」でのビジネスは気を付けないと大変な事になってしまいます。


「中国」でビジネスをすると、過去に、岩手県以外で製造された「鋳物」までも「南部鉄器」として販売されたような「コピー・ビジネス」に巻き込まれてしまう危険性があります。


と言うか、必ず真似されます。


日本国内ならば、法律で規制できますが、「中国」は無法地帯なので、どんな規制を設けても、結局は「形だけ」になってしまいます。



また、「韓国」でビジネスを行った場合、商品が売れてくるようになると、全て「起源は韓国」と言う事になってしまいます。つまり、「南部鉄器のルーツは韓国にあり !」となってしまいます。


現在でも、韓国で「日本の花見」が流行し出すと、「元々、日本の桜は、韓国原産なので、花見のルーツも韓国だ !」などと、韓国人以外は、誰も信じない事を平気で言い出します。


全く話になりません。


日本の「ソメイヨシノ」は、「エドヒガンザクラ」と「オオシマザクラ」を交配させた作った雑種の「桜」を、東京の染井村において、接ぎ木で増やしたのが始まりです。


決して、大陸から持ってきた植物ではありません。それにも関わらず、「韓国原産」と言い出す神経が解りません。その他にも、次の伝統やスポーツまでも、「韓国が起源」と言い出しています。


少し脱線してしまいますが、余りにも酷すぎるの、簡単に「韓国起源説」となっている物を取り上げますと・・・


●武芸 :流鏑馬切腹、日本刀、忍者、抜刀術
●格闘技 :柔道、空手、相撲、剣道
●伝統 :茶道、盆栽、和歌、歌舞伎、武士道、居合道
●遊戯 :折り紙、花札
●食べ物 :蕎麦、豆腐、日本酒、寿司、刺し身、醤油、納豆、味噌
●生物 :錦鯉


とにかく、「韓国」には、伝統と言う物が全く無いので、何でもかんでも「韓国が起源」と言い出しています。


特に、世界中が騙されたのが「テコンドー」です。元々、「テコンドー」も「空手」も、中国から沖縄に伝わり、その後、沖縄の人達が独自に改良を施した格闘技です。


それにも関わらず、韓国人が、「韓国起源説」を世界に広め、皆が騙されてしまった結果、「テコンドーは韓国が起源」となってしまったのです。


さらに、似たような事例として、中国発祥の「端午の節句」があります。


これに関しても、韓国が全世界を騙して「江陵端午祭」、つまり中国から日本にも伝わった「端午の節句」と言う行事を、韓国発祥として世界文化遺産に登録しています。


その他、「韓国起源説」を取り上げれば、キリがありません。


今回は、日本が起源のものを掲載しましたが、上記の通り、中国起源も物まで「韓国起源」と言い出しています。


簡単に紹介しますと、人物で言えば、孔子李白、文化技術で言えば、羅針盤や火薬、そして漢字までも、さらに、その他は、囲碁、中国将棋、最後には、黄河文明までも韓民族の文化と言い出す始末です。


さらに、アステカ文明メソポタミア文明・・・最後は、イギリス人の祖先までも韓国人と言っています。


とにかく、世界中の物、全てが「韓国起源」と言い出しています。こんな事ばかり言う民族を、いったい誰が信用するのでしょうか ?


しかし、これらの言動の裏側を見てみれば、韓民族と言う民族は、「伝統」や「歴史」、加えて「独自技術」を持つ事も、考え出す事も、そして、後世に伝える事も出来ない、悲しい、そして可哀想な民族なのかもしれません。


全て韓国が起源ならば、「折り紙で鶴でも作って見せろ !」と言いたくなってしまいます。

とにかく、「中国」や「韓国」でのビジネスは、ある程度の覚悟が必要になると思います。


何か、最後は、とんでも無い、ホラ話ばかりになってしまいましたが、次回は、久慈の名産「琥珀」を紹介したいと思いますが・・・「琥珀」までもが、「韓国が起源」と言い出さなかと心配してしまいます。


それでは次回も宜しくお願いします。

以上


【画像・情報提供先】
Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)
・岩鋳(http://www.iwachu.co.jp/)
ヴィレッジヴァンガード(https://vvstore.jp/)
・公益財団法人 岩手県観光協会(http://www.iwatetabi.jp/)

【株式会社 エム・システム】
本      社  :〒124-0023 東京都葛飾東新小岩8-5-5 5F
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