岩手県内における金勢信仰 〜 何でこんなに沢山あるの ? Vol.2


今回の岩手・盛岡情報は、前回に引き続き、「金勢神社」の紹介のパート2となります。
★過去ブログ:岩手県内における金勢信仰 Vol.1

前回は、二戸市八幡平市にある6か所の「金勢様」情報をお伝えしましたが、今回は、私どもの事業所がある、盛岡市の「金勢様」情報をお伝えします。

盛岡市に関しても、前回も掲載した下表にある、6か所の情報を紹介します。

しかし、他の情報によれば、次のような場所にも、「金勢様」、あるいは「生殖器崇拝」に関係する物があるとされていますが・・・イマイチ信ぴょう性に欠けるので、今回は除外しました。


・盛岡住吉神社
・笠森稲荷神社(盛岡八幡宮境内)
石割桜(盛岡地方裁判所内)
・石割梅(盛岡天満宮境内)


盛岡を代表する観光名所「石割桜」や、いまいちマイナーな「石割梅」は、過去ブログ「岩手の巨石」シリーズでも紹介しましたが、岩の割れ目から「桜」や「梅」が生えているので、「女岩/女石」として取り扱われるケースがあるようです。
★過去ブログ:岩手県内の巨石紹介-その1


石割桜」や「笠森稲荷神社」に関しては、それぞれ関連する項目がありますので、そちらの項目で、少し内容を紹介したいと思いますが、「住吉神社」や「石割梅」に関しては、何も情報が見当たらないので、今回は説明を割愛したいと思います。

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また、ずっ〜と前には、恐らく、岩手県内、および盛岡市内の至る所で行われていたと思われる「虫追いまつり」ですが、何故か、盛岡市近郊では見当たりません。



今でこそ、盛岡市の中心部から半径5Km圏内で「田んぼ」を見つける事は困難になってきましたが、私の子供の頃は、実家の回りは、まだ「田んぼ」だらけで、夏の夜は「カエルの大合唱」で煩かった事を覚えています。

まあ、向かう方向にも拠りますが、盛岡市の中心部から、西南方向に、車で10分間も走れば、今でも「田んぼ」だらけです。


このような状況で、盛岡近郊で「虫追いまつり」が継承されてこなかったのは、ちょっと不思議です。


しかし、今では、数々の合併を繰り返す内に、いつの間にか「盛岡市」になってしまった、「旧 見前村」では、何年か前から「虫追いまつり」が復活したようですし、その隣の「紫波町片寄」でも、細々と「虫まつり」が継続されているようですが、盛岡近郊における、その他の地域では、「虫まつり/虫追い」の噂は、全く聞きません。


また、ちょっと「金勢様」関連から話は逸れてしまいますが、「虫まつり/虫追い」に類似したイベントでは、次のような行事があるようです。


・やくびょう(厄病)まつり:雫石町
コレラまつり:矢巾町


どちらの祭りも、「虫追いまつり」と同様、忌むべき「虫」や「厄病」を、国、村、あるいは集落などから追い出すための「民間信仰」です。


矢巾町の「コレラまつり」は、毎年、「虫おいまつり」と交互に開催しているそうですが、人口減少と高齢化で、毎年、参加者が少なくなっているようです。


と言うことで、ひょっとしたら、盛岡近郊では、「虫追いまつり」と言う名称ではなく、別の名前で、「虫追いまつり」と同じような行事が行われているのかもしれません。


雫石町の別の地区(葛根田)では、「虫追いまつり」でも「厄病まつり」でもない、「どんどこ祭り」と言う名称で、同じ行事が行われているようです。


この点に関しては、別ブログ「民間信仰」シリーズの方で、紹介したいと思います。

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岩手県内の金勢信仰関連の場所 】

大項番 自治 中項番 内容 信仰対象
1 二戸市 1 枋ノ木(こぶのき)神社 金勢様
2 蒼前(そうぜん)神社/中沢の虫まつり 人形/虫送り
3 高清水稲荷社/人形まつりと金精神 人形/虫送り
4 馬仙峡の夫婦岩 夫婦岩
2 八幡平市 5 藤七温泉/金勢神 金勢様
6 横間虫追い祭り 人形/虫送り
3 盛岡市 7 巻堀(まきぼり)神社 金勢様
8 淡島明神社/淡島・金勢祭り 金勢様
9 智和伎(ちわえ)神社/淡島・金勢祭り 金勢様
10 盛岡八幡宮/金勢神社 金勢様
11 櫻山神社 夫婦岩
12 芋田産土(いもだ-うぶすな)神社 男根/女陰

それでは今回も宜しくお願いします。

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■巻堀(まきぼり)神社


盛岡市の「金勢様」情報としては、何を置いても最初に、「巻堀神社」を紹介しなければならないと思います。


何と言っても、この「巻堀神社」は、「金勢信仰」の発祥の地とも伝えられているからです。


左の画像が、「巻堀神社」の御神体となる「金勢様」です。数々の説明に拠ると、御神体は、長さ60cm程の金属製で、金色に塗装された立派な物であるとの事です。


ちなみに、この「巻堀神社」を、「金勢信仰」の源としているのは、平成五年(1993年) に、「柏書房」から出版された「日本神祇由来事典/川口謙二 著」に拠るものとされていますが、その本の中でも、「定かではないが」と、注釈付きで紹介されているようです。


但し、以前にも説明しておりますが、社記に拠ると「巻堀神社」は、南北朝時代となる長禄三年(1459年)の創建と伝わっていますので、かなり古くから信仰されていた事だけは確かなようです。


また、同じく社記では、江戸時代初期の寛永年間(1624〜1645年)に一度再興されたが、幕末の慶応二年(1865年)に、社殿が火災で焼失した事も伝わっています。


明治時代以前は、「南部金精大明神」、または「奥州南部巻堀道祖神」と呼ばれていたようですが、誰が何のために「金勢様」を勧請したのかは、一切不明のようです。


但し、明治時代後期、1900年から出版され続けた「大日本地名辞書/吉田東吾 著」と言う地名辞典には、この「巻堀神社」に関して、次の4点の説明や噂が記載されています。


(1)「奥の荒海」について
・「奥の荒海」は、京都出身で、右大臣「花山院常雅」の娘「敬姫」の侍女「小磯逸子」の日記です。
松前藩藩主に嫁いだ「歌姫」の死後、江戸時代中期の安永六年(1777年)、京都へ帰る途中の事柄を日記にしている。
・『 此神男子の性を祭りて。あらぬ様なる捧物など。旅の憂さを暫し忘れて笑ひあへり 』

(2)「享和元年紀行束山志」
・「享和元年紀行束山志」は、江戸時代後期の享和元年(1801年)の書物です。
・『 巻堀村の左側には檜の大木が八本あり、その中の民家に、何時からかは解らないが「金勢明神」を祀っている。御神体は、唐金で作られた男根である。この村の少女は、十三、十四になれば、一夜、夢中で襲われることがあり、これは金勢明神の淫瀆によると言われている。ある霊人が、この犯罪をにくむあまり鉄の鎖でつないだけれどもこの淫瀆はやまず、時に遊行をなしたので、一説では、「弓削道鏡(ゆげのどうきょう)」を祀った。 』
道鏡:女帝「孝謙天皇」に寵愛された。巨根伝説があり、天皇と密通していたとされる。

(3)「陸中志稿」について
・『 巻堀村には金勢宮があるが、淫らな祠で、陽神を祀っている。この神は、とても古くから祀られている。巻堀の祠は、南部藩藩医「飯富氏」に始まると伝わっている。 』

(4)「十符菅薦(とふ-の-すがごも)」について
・「十符菅薦」は、明治九年(1876年)、明治天皇の東北行幸の随行記録です。
・『 牧掘と言う所に、金勢社があると言う。村の人に聞けば、社は焼失したと言うことであるが、後で聞けば、とても大きな石の陰茎で、とても珍しいものだとの事であった。 』

と言う事が記録されています。


さらに、江戸時代のルポライターとでも言いますか、当時の旅行家である「菅江眞澄(1754〜1829)」も、蝦夷地への訪問の途中、天明五年〜八年(1785〜1788年)の間に、二回ほど巻堀神社を訪れており、その時の事を「けふのせば布」と「岩手の山」で紹介しています。


『 寺林、河口を経て巻堀と言う村に来た。金勢大明神を祀っている。名にたがわず石の雄元の形をたくさん祠に納めている。 最近盗難にあったが取り戻し、しっかりと祀っていると聞き行って見ると、一間の高い机の上に銅の形を二つ、鎖をつけて奉じてあった。故を聞くと、昔粟生(あわう)の草引き女の乳に怪しい形の障り(さわり)ができた。取って捨てたがまた生えてくる。これも取って道祖神に納め祀ったら収まったと言う。 』



まあ、現在残されている社記や「陸中志稿」には、南部藩藩医「飯富氏」が、開祖だとか再興したとか記載されているようですが、恐らく、その記録は間違いだと思います。


「飯富氏」は、「南部氏」自体が甲斐出身ですから、「飯富氏」も、恐らくは甲斐出身の一族だと思います。


しかし、「南部氏」が、現在の盛岡に引っ越してきたのは、安土桃山時代で、それ以前は、現在の青森県三戸に居を構えていました。


「巻堀神社」の創建は、南北朝時代と伝わっている事を考慮すると、「飯富氏」が神社を創建した考えるのは無理があると思います。


特に、神社再興に関しては、「飯富氏」が再興したのは、この「巻堀神社」ではなく、後で紹介する「智和伎(ちわえ)神社」である事が「大日本地名辞書」に記載されています。


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このように、古くから地元のみならず、遠方の人達からも信仰されていた「金勢様」ですが・・・明治時代以降では、少し扱いが異なってしまったようです。


江戸時代末期、および明治時代以降は、慶応四年(1868年)の「太政官布告(※通称「神仏分離令」)、明治三年(1870年)の「大教宣布の詔」により、「廃仏毀釈運動」が盛んになってしまいました。


これは、第二代水戸藩藩主「徳川光圀」が興した「水戸学」、そして、その流れを継いだ第九代藩主「徳川斉昭」らが推し進めた「神仏分離」による仏教への弾圧と、江戸時代後期に興った「国学」、特に「平田篤胤」が興した「平田派」が推し進めた「復古神道」による仏教施設、および仏像の破壊行為です。


東北地方においては、京都や東京で行われた様な、とんでも無い破壊行為は、余り行われなかったようですが、それでも神社と寺院は、無理矢理、分離させられたり、あるいは昔から行われて来た民間信仰に対しても、無理矢理、御祭神を押し付けたりと、とんでも無い事が行われたようです。


ここ「巻堀神社」も、これら「廃仏毀釈」運動の影響で、神社の名称も強制的に変更させられ、かつ御祭神としては、下記の二つの神様を押し付けられたようです。


猿田彦命(さるたひこ-の-みこと)
伊邪那岐命(いざなぎ-の-みこと) -日本書紀伊弉諾神


猿田彦命」に関しては、前回のブログ(20161022.html)で説明したように、「金勢信仰」と「神道」が習合した結果、多くの「金勢神社」の御祭神になっていますので、もう説明は不要かと思います。


一方の「伊邪那岐命」に関しては、皆さん、既にご存知の通り、「天地開闢(かいびゃく)」の際に、妹、そして後に妻となる「伊邪那美命(いざなみ-の-みこと)」と一緒に生まれた男神です。


「国生み神話」では、「伊邪那美命」と共に、「天沼矛(あめのぬぼこ)」で、混沌を掻き回して島(日本列島)を作ったとされています。


そして、「国生み」の後、「伊邪那岐命」と結婚し、数多くの神々を生み、これが「神生み神話」とされていますが、「伊邪那美命」の死後、最後に生まれた三神(三貴子/三貴神)が、次の神となります。


天照大御神 : あまてらす-おおみかみ。「伊邪那岐命」の左目から生まれた女神。長女。太陽神
月読命つきよみ-の-みこと。「伊邪那岐命」の右目から生まれた男神。長男。月神
建速須佐之男命 : たけはや-すさのお-の-みこと。「伊邪那岐命」の鼻から生まれた男神。次男。海神


と言うのが、「伊邪那岐命」にまつわる「国生み/神生み」神話ですが、それと何が「金勢信仰」と関係があるのかと言う事ですが・・・これも定かではありませんが、次のような説があるとされています。


・「伊邪那岐命」自身が男神である事から「男根」の象徴となっている
・「国生み」で使った「天沼矛」が「男根」を表している
・混沌を掻き回すことが「性行為」を表している
・「国生み」神話では、性行為の結果、島が生まれている事が「古事記」に記載されている・・・等


これらの事を積み重ねて、「伊邪那岐命」と「金勢信仰」を習合させようとする向きがあるようですが、私は、「伊邪那岐命」が、「巻堀神社」の御祭神になったのには、特に、意味は無いと思います。


地元の方たちが、日本国を作った有名な神様だから、取りあえず御祭神に据えておけば、「廃仏毀釈」から逃れられるのではないか、と考えた方が自然だと思います。


まあ、「伊邪那岐命」は、「金勢信仰」にも含まれる、小作り/子宝、夫婦円満、安産等の信仰にも関係がありますから、その点も御祭神としては、都合が良かったのかもしれません。


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さて、このように古くから信仰されており、現在でも、そっち方面では、パワースポットとして有名な「巻堀神社」ですが、毎年、旧暦の8月3日には、例大祭が行われています。


この例大祭では、子供神輿、巻堀神楽、そして地元消防団による奉納相撲などが行われているようです。


本章の最初に、「御神体」の画像を掲載しましたが、「子供神輿」にも、この「御神体」を載せるのかと思い、ドキドキしたのですが、子供神輿は別物のようです。


何故か、ホッとしました。


奉納される「巻堀神楽」は、それほど歴史ある神楽ではなく、江戸時代末から明治初期に掛けて、現在は廃社となってしまった「多賀大明神」で舞われていた「多賀神楽」を受け継いだものとされています。


「巻堀神楽」の説明には、神主自ら、あるいは神主が社中から選抜した者が、明治元年に「多賀神楽」を習得した、と記載されているようですが、前述の通り、「多賀大明神」は、明治元年に廃社となっています。


このため、恐らく、江戸時代末から明治に掛けて、社中の者が数名、「多賀神楽」を習得した、と言うのが正しいのではないかと思われます。


このように、「巻堀神社」の「金勢様」は、現在でも、皆から愛され、信仰されている神様(?)なのです。


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淡島明神社/淡島・金勢祭り


さて次に紹介するのは、「淡島明神社」となります。


先に紹介した「巻堀神社」は、今は、住所としては「盛岡市」となっていますが、私が盛岡に住んでいた頃は、「玉山村」と呼ばれていた地域でしたので、その存在さえ知りませんでした。


本章で紹介する「淡島明神社」は、盛岡市の北山地区にある「榊山(さかきやま)稲荷神社」の境内末社となります。


「榊山稲荷神社」は、元々は、南部氏二十六代当主「南部 信直」が、盛岡城の築城を始めた慶長二年(1597年)に、盛岡城本丸西側にあった「榊山曲輪」に、「豊受大神」を御祭神として勧請したのが始まりとされています。


また、何時からなのかは解りませんが、現在では、「榊山稲荷神社」とは呼ばす、「もりおか かいうん神社」とか呼んでいるようです。私が盛岡に居た頃には、そんな変な名前では呼ばれていませんでしたが・・・


豊受大神」は、先に登場した「伊邪那美命」の孫で、食物・穀物を司る女神とされており、「稲荷神」である「宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)」と習合し、「稲荷明神」として祀られている神様です。


「榊山稲荷神社」の縁起には、南部氏は「源 義光(新羅三郎義光)」の子孫であり、この「源 義光」が「稲荷神=豊受大神」を崇敬していたことから、「榊山曲輪」に「豊受大神」を勧請したと記載されていますが・・・「源 義光」が、「稲荷神=豊受大神」を崇敬していた証拠は見受けられませんでした。


そもそも、「源 義光」は、近江国の「新羅(しんら)明神」で元服したことから、「新羅三郎」と呼ばれており、自身も、現在の青森県等にある「長者山新羅神社」等の御祭神になっています。


故に、どうせ「源 義光」にちなんだ神様を勧請するなら「新羅明神」を勧請した方が良いのではないかとも思いますが・・・まあ、盛岡城築城と市街地整備を始めたばかりの頃ですから、「稲荷神=豊受大神」に、五穀豊穣を祈願したかったのかもしれません。


ちなみに、盛岡城には、この「榊山稲荷神社」の他に、「櫻山神社(淡路丸大明神)」と「八幡宮(三の丸/鳩森曲輪)」と、3つの神社が置かれていたそうです。

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さて、このように、「南部氏」により、300年近く城内で祀られていた「榊山稲荷神社」ですが、それも、明治四年(1871年)の「廃藩置県」によって南部氏盛岡藩が廃止されたのを機に、神社も「廃社」となってしまいます。


まあ、実際には、その前年、明治三年(1870年)に、南部氏自らが、財政難を理由に、「廃藩」を申し出ていますが、「廃社」自体は、やはり明治四年のようです。


そして、盛岡城内に安置されていた「榊山稲荷神社」、「八幡宮」、そして「櫻山神社」ですが、「八幡宮」と「櫻山神社」は、それぞれ次のように遷座して、現在の場所に安置されたようです。


八幡宮 : 現在地(八幡町)に「石清水八幡」を勧請して「鳩森八幡」と称した → 後に荒廃
盛岡城内「三の丸」に「鳩森八幡」再建
→ 現在地(八幡町)に、青森より「櫛引八幡」を勧請し「新八幡」と称した(現:盛岡八幡宮)
盛岡城の「鳩森八幡」を八幡町の「新八幡」に遷座して合祀

櫻山神社 : 加賀野村「妙泉寺」に仮遷座
→ 北山「聖寿禅寺跡(現:榊山稲荷の隣)」に遷座
→ 現在地(盛岡市内丸)に遷座


しかし、「榊山稲荷神社」だけは、遷座場所が見つからなかったので、長い間、廃社のままで、御神体も行方不明になっていたそうです。


ところが、その後、盛岡市鉈屋町に住んでおり、独自の加持祈祷を行っていた「荒川 清次郎」と言う人が、「榊山稲荷」から、「神社を再建せよ」と言うお告げを聞いた事から、私財を投げうって、南部氏の所有だった現在地(盛岡市北山)に、「榊山稲荷神社」を再興し、初代宮司になったと伝わっています。


また、御神体に関しても、(何か、眉にツバが付いているようにも思えますが)「荒川 清次郎」氏が、「盛岡八幡宮」に隠されていたものを発見し、現在も祀っていると伝わっています。


但し、再建時期に関しては、次の2つの説があり、どちらが正しいのか解かりません。


・「明治三十年(1897年)再興」設 :盛岡市タウン情報掲載、その他
・「昭和五年(1930年)再興」説 :榊山稲荷神社のHP掲載の起源、岩手県神社庁HP、日本観光振興協会、等


初代宮司となった「荒川 清次郎」氏は、昭和45年(1970年)に亡くなったとされていますので、これが正しければ、再興されたのは、「昭和五年」説が正しいのではないかと、私は推測しています。


「明治三十年再興」説を採用するとなると、初代宮司「荒川 清次郎」氏の享年は解りませんでしたが、再興時の年齢を20〜30歳と仮定すると、享年が100歳以上となってしまいます。


いくら、神のご加護があったとしても、当時、100歳を超えるのは、ちょっと無理があるのではないかと思います。


「盛岡八幡宮」と「櫻山神社」に関しては、後の章で詳しく紹介します。


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さて、話を「榊山稲荷神社」の境内末社淡島明神社」に戻すと、その縁起は、境内の掲示板に拠ると、江戸時代中期の寛保四年(1744年)に、現在の和歌山県にある「淡島神社」から、下記三神を勧請したことに始まるとなっています。


大己貴命(おほなむじ-の-みこと) :大国主命(おおくにぬし)
少彦名命(すくなひこな-の-みこと) :大国主と一緒に国創りを行う
息長足姫命(おきながたらし-ひめ-の-みこと) :神功皇后(じんぐうこうごう)


現在の和歌山県和歌山市加太にある「淡島神社」は、全国にある「淡島神社」、「淡嶋神社」、「粟島神社」、あるいは「淡路神社」の総本社となっており、別名「加太神社」とも呼ばれています。


総本社の「淡島神社」は、元々は、「日本武尊(やまとたける-の-みこと)」の子である第14代天皇「仲哀(ちゅうあい)天皇」の皇后「神功皇后」が、「大己貴命」と「少彦名命」を祀ったのが始まりとなっています。


神社の縁起に拠ると、「神功皇后」が「三韓征伐」に出征し、その帰途、嵐に遭遇したのですが、神様からのお告げに従った所、無事に沖合の島に辿り着けたそうです。


そして、その島(友ヶ島)には、「大己貴命」と「少彦名命」が祀られていたので、大陸から持ち帰った宝物を供えたと伝わっており、その後、「神功皇后」の孫「仁徳天皇」が、島に狩りに出かけた時に、この逸話を聞き、島では不便と言う事で、「神社」を対岸の「加太」に遷座し、社殿を建立したのが、「淡島神社」の始まりと伝わっています。


総本社の「淡島神社」は、上記画像をよく見れば解ると思いますが、「人形供養」の神社としても有名で、何か不気味な雰囲気を醸し出していますが、総本社では「少彦名命」が、婦人病、安産、子授けの神様となっています。


しかし、上記の縁起は、前章の「巻堀神社」と同様、明治以後に、無理矢理、「淡島神」と「少彦名命/大己貴命」を習合したものであるとも考えられているようです。


このため、江戸時代は、単独の女神である「淡島神」が存在し、「淡島神」自身が、婦人病治癒を始めとして安産、子授け、裁縫の上達、人形供養など、女性に関するあらゆる事に霊験のある神と信じられてきたようです。


つまり、諸説ありますが、「淡島神」こそが、女性自身であると考えられてきたようです。


今回のブログは「金勢様」が主役ですが、このような経緯もあり、盛岡の「淡島明神社」では、左の画像の様に、木製の「女陰」と「男根」が祀られているようです。


この画像は、本章の最初の画像の内部となっており、これが神社の「本殿」になります。

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しかし・・・先の「淡島明神社」の縁起では、「寛保四年に総本社から勧請した」とありますが、「榊山稲荷神社」が、この地に遷座したのは昭和五年です。(早くても明治三十年)


それでは、この地に安置されるまでの間、この「淡島様」は、どこに安置されていたのでしょうか ?


元々、この盛岡市北山の地は、前述の通り、南部氏の所有地であり、一時期「櫻山神社」を安置していた「聖寿禅寺」の敷地だったと考えられています。



この「聖寿禅寺」は、下記の過去ブログで紹介した通り、元々は、南部氏が住んでいた三戸にあった「三光庵」と言う寺院を、南部氏の盛岡移転に伴い、この地に移転させた寺院です。


★過去ブログ:岩手の先達 〜 地味な岩手にも有名人 Vol.2


当時は、南部氏の菩提寺として広大な伽藍や五重塔なども備えた寺院だったらしいですが、やはり明治維新後は衰退したようです。しかし、現在の「榊山稲荷神社」がある辺り一帯は、「聖寿禅寺」の寺領だったのです。


さらに、現在の「榊山稲荷神社」の場所には、江戸時代初期の寛永十二年(1635年)、「対馬藩」で対朝鮮外交を担っていた「規伯玄方(きはく-げんぼう)」と言う臨済宗の僧侶が、国書改ざんの罪で盛岡藩流罪となっていた折に、住んでいた屋敷がありました。(※規伯玄方:別名「方長老」)


その屋敷跡は、「榊山稲荷神社」の再興時に復元されて「緑風苑」と言う庭園になっています。


つまり、何が言いたいのかというと、この「淡島明神社」は、元から、この場所にあった訳ではなく、「榊山稲荷神社」の再興時、あるいは再興後に、どこからか持って来た神社と言うことになります。


縁起では、戦術の通り、「寛保四年に総本社から勘定した」とありますが、その実態は、全く不明な神社ではないかと思われます。


まあ、しかし、現在では、後述する「智和伎(ちわえ)神社」と共に、盛岡を代表する「金勢様」になってしまっており、「智和伎神社」と合同で、「あわしま・こんせい まぐわい祭り」と言う、トンデモナイ祭りを開催しています。


この祭りに関しては、「智和伎神社」を紹介した後に、紹介したいと思います。

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それと、本ブログとは全く関係ありませんが、何故か、盛岡藩は、他藩で罪を犯した人物の流刑地となっているようで、上記「規伯玄方」の他にも、次のような人が流されて来ています。

・宮部長熙 : 浅井家家臣から豊臣秀吉の与力、後に大名となった「宮部継潤(けいじゅん)」の息子
・栗山大膳 : 黒田氏福岡藩筆頭家老「栗山利安」の息子。自身も家老職だったが「黒田騒動」を起こした。本名「利章(としあきら)」(※栗山利安:黒田官兵衛の腹心、黒田八虎の一人)

はやり、盛岡は、今でこそ東京から2時間ちょっとで来れますが、昔は、流刑地として相応しい「陸の孤島」だったのだと思います。

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■智和伎神社/淡島・金勢祭り


「智和伎(ちわえ)神社」は、古くから「沢田(澤田)の金勢様」として有名だった神社です。


この「智和伎神社」の所在地は、「盛岡市東中野金勢1-1」と言う、地名にも「金勢」と付く、将に「金勢様」のお住いに相応しい場所です。


そして、この場所は、昔から地元では、「沢田(澤田)地区」と呼ばれており、このため、この「智和伎神社」が、「沢田(澤田)の金勢様」と呼ばれていた由縁でもあります。


今回、「金勢様」シリーズのブログを書き始めたのは、過去ブログに掲載した、私の「産土神社」を、この「智和伎神社」と間違えたことから始まりました。

★過去ブログ:岩手の民間信仰 〜 聞いた事も無い信仰ばかり Vol.4(20160220.html)


結局、私の「産土神社」は、この「沢田(澤田)の金勢様」ではなく、別の神社だった訳ですが、今となっては、何だか残念な気が、しないでもありません。


さて、この「智和伎神社」の「金勢様」、つまり「御神体」ですが、「御神体」に関しては、昭和63年(1988年)に、当時の氏子総代「清水治郎」という方が、各種文献資料を整理して「智和伎神社由来記」を作成したとされていますが、その中に、次のような説明が記載されているようです。


『 温故名跡誌によると御神体は男陰と記載されているが、実体は何も知らざる事である。御神体を納められている木製の箱あり。其の箱は本殿に祭られているが大きさは高さ約33cm、縦横17cm、重さ500g程度で軽い。又其の中に小さな箱あり。四方にしめ縄を廻してあり、先祖代々、信徒総代及び氏子、古老達の伝説によれば其の収められている箱をあけ御拝顔されたことがいままでないと言う。 』


つまり、「男陰」だとは思われるが、・・・実際は、誰も、御神体を見たことがないそうです。


う〜ん・・・何か「嘘くさ!」と思う方も大勢いるかとは思いますが、実際に、この神社の歴史に関しては、前述の「大日本地名辞書」にも、「巻堀神社」の紹介と共に、次のように記載されていますので、まんざら嘘でも無いと思われます。


『 杜陵古事記によると、澤田金勢大明神は、寛永年間(寛永13年/1636年)に、苫米地刑部の建立なり。もともとは刑部の家来「七助」の信仰によって建立したものである。その後、刑部の家系が断絶してしまった。神社の鰐口には「再興願主、飯富了通」とある。 』


これら由来に関しては、「智和伎神社」の縁起を記載した看板にも、同様のことが記載されていますし、さらに、看板の方には、より古い縁起まで記載されており、それによると、鎌倉時代の徳治二年(1307年)に、「田丸和泉」と人物が、「金勢大明神」を勧請した旨が記載されています。


南部藩士「苫米地刑部」に関しては、実在の人物として「南部藩参考書家系図」として記録されており、元々は、関東管領山内上杉」氏の流れを組む家系の人物だったそうです。

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このように、御神体の実態は、不明ですが、最も古い話ですと鎌倉時代末期、確実な話では江戸時代初期には、既に「金勢様」が祀られ、「金勢大明神」として、地元住民、あるいは盛岡の花街の女性達などから信仰されていたようです。


そして、「金勢大明神」の参拝の仕方ですが、参詣の際は、物蔭において、常設してある「男根」で患部をさすったり、あるいは、これを借用して家に持ち帰ったりして、その目的が達せられると、使った「男根」を倍にして奉納する習わしがあったそうです。


このため、「智和伎神社」の境内には、石や木で作って奉納された逞しい男根数百本があり、その霊験の確かさを物語っていたそうです。


現在でも、上の画像のように、自然石による「女陰」の中に、これも自然石の「男根」を祀っている場所があるようですが・・・しかし、2007年、近所の馬鹿者が、石材店で作った模造品を持ち込み、コンクリートで埋め込むと言う、とんでもない暴挙に出てしまったようです。


何で、氏子の方たちは、こんな暴挙を許したのか、全く理解出来ません。また、一応、宮司はいるのだから、このような、とんでも無い行為は止めさせるべきだと思います。


また、先の「智和伎神社由来記」には、神社の「御神木」についても、次のような記載があります。


『 境内には御神木あり、神殿に向かって一の鳥居を通り石段昇口の左右に数百年経過したる欅二本あり、地上十数メートルの大木なるが両神木の根もとに左は女陰、右は男陰の形相あり、この両陰は年々大きさを増す傾向である。 』













前述の自然石による「女陰」や、これら「御神木」・・・やはり、この場所は、「金勢様」が御座す場所に相応しい場所なのかもしれません。


さて、次に、この「智和伎神社」と「淡島明神社」が、合同で行う奇祭「あわしま・こんせい祭」を紹介したいと思います。

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■「あわしま・こんせい祭」


この奇祭「あわしま・こんせい祭」は、実は、それほど歴史がある祭りではありません。


正直な所、盛岡の「町おこし」の一環として、平成13年(2001年)から開催されたイベントの様で、今年で16回目の開催となるそうです。


このため、私は、盛岡で、こんな、とんでもない、と言うと金勢様/淡島様に失礼ですが、イベントが行われている事は、全く知りませんでした。


また、「チャグチャグ馬コ」や「さんさ踊り」は、全国版のニュースでも紹介されますが、さすがに、この祭りは・・・まあ話題性はありますが、全国版のニュースでの放映は、難しいものがあるかもしれません。(笑)


さて、この「あわしま・こんせい祭」は、別名「あわしま・こんせい まぐわい祭り」とも言われていますが、これまで紹介してきましたように、「智和伎神社」と「淡島明神社」の合同イベントになります。


そして、「智和伎神社」は、金勢様、男性、男根で、「淡島明神社」は、淡島様、女性、女陰となり、この二神が「まぐわう」訳ですから・・・皆さん、もうお解りですよね ?!


本章の先頭に掲載した画像が、将に「金勢様」と「淡島様」が、将に「まぐわった」瞬間の画像となります。


「まぐわひ」とは、「淡島様 = 女性神」と「金勢様 = 男性神」の合体神事の事で、わらで作られた男女のシンボルが、神輿に載せられて登場します。


盛岡市を東から西に流れる中津川を背にして、西方に「淡島神社」、そして東方に「智和伎神社」が鎮座します。


その後、神職による神事が行われた後、中津川の中ほどまで双方が進み出て「まぐわい祭」が執り行われることになります。


この祭り、「智和伎神社」と「淡島明神社」の関係者だけかと思いきや、「盛岡八幡宮」の神職も、奉仕活動の一環として参加しているようです。


主催者の説明では、盛岡市民の安全、健康・平和祈願祭と位置付け、盛岡の街の平和と市民の隆昌、五穀豊穣、商売繁盛を願う祭りとして執り行われるとしています。


まあ、盛岡市に限らず、日本全体で、少子高齢化が進んでおり、人口も減少の一途を辿っていますので、このような祭りは、大切だと思います。


しかし、一部、祭りの説明には「藁で作られた等身大の男女のシンボルが神輿に載せられて」と言う紹介文がありますが・・・この画像のシンボルの大きさが「等身大」と言うことなのでしょうか ?


「等身大」」にも、その意味する所により、様々な意味があり、大きくは次のような意味となります。
・人間と同じ大きさ
・ありのままの姿


このサイズが、人間の普通サイズでも変な話ですし、ありのままの姿と言うのも・・・恐らく、神様サイズでの「等身大」なのでしょう。(笑)


本当に、なんだか、笑いを誘う、ほんわかとした祭りですので、今後も、是非、このような祭りが行える日本であり続けて欲しいと思います。


最後に、YouTubeに、今年(2016年)の祭りの模様がアップされていましたので、URLを紹介しておきますが、動画を見る限り、何か、名前の割には、参加者も見物人も少ない、寂しそうな祭りのようです。


★奇祭 第16回 あわしま・こんせい祭り まぐわいの儀/岩手県盛岡市https://www.youtube.com/watch?v=Xr6T5P2FHVA


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■盛岡八幡宮/金勢神社


次に、今回は、「盛岡八幡宮」境内にある「金勢神社」を紹介します。


「盛岡八幡宮」は、前述の「淡島明神社」の章でも説明した通り、盛岡城内に勧請していた「鳩森八幡」を、明治五年(1872年)に、江戸時代の延宝八年(1680年)に、新しく八幡山に勧請した「櫛引八幡」と合祀した神社です。


「盛岡八幡宮」の公式ホームページには、次のような由緒が記載されていますが、実は、少し違うと思われます。


『 盛岡八幡宮は今から300年以上の昔の延宝8年(1680)、第29代南部重信公により建立されました。』


しかし、「盛岡八幡宮」の歴史を簡単に記載すると・・・


平安時代/康平五年(1062年) :「源 頼義/義家」親子が、安倍氏討伐の戦勝祈願として、清和源氏氏神である「岩清水八幡」を京都から現在の地「八幡山」に勧請し、「鳩森八幡」として祀ったのが「盛岡八幡宮」の始まり。地元の豪族「日戸氏」が崇拝するが、その後、荒廃する。
平安時代/永保三年(1083年) :「源 義光(新羅三郎義光)」が、甲斐南部(山梨県南部町)地方に、京都から「石清水八幡宮」を勧請したされる。
平安時代/承久三年(1221年)奥州藤原氏との戦の戦功により、承久二年、南部氏始祖「南部光行」が、甲州から糠部郡滝沢村(青森県三戸町地内)移転し、その後、承久三年に、櫛引村に、甲斐から「石清水八幡宮」を勧請した。(伝「八幡宮略縁起并伝記年譜の話」)
安土桃山時代/文禄二年(1593年):南部氏第二十七代「南部利直」が、盛岡城築城時に、城内「三の丸」に、荒廃していた「鳩森八幡」再建する。
江戸時代/延宝八年(1680年) :南部氏第二十九代「南部重信」が、「八幡山」に、青森から、南部氏の氏神である「櫛引八幡」を勧請し「新八幡」/「南部新八幡」として祀った。
明治時代/明治五年(1872年) : 盛岡城の「鳩森八幡」を「新八幡」に遷座して合祀する。


という感じに、やたらと面倒な由緒/縁起となっていると伝わっているようです。


それと、「八幡山」には、「鳩山八幡」の他にも「早池峰神社(大迫岳側)」が、盛岡城下に寺宿を設置する事が許された事に伴い、別当寺「妙泉寺」が置かれていたそうです。


ところが、「奥南盛風記」には、上記縁起の通り、延宝七年(1679年)、『 八幡宮御鎮坐に付、妙泉寺を引て加賀野の先大日山へ移る 』と、その移転が伝えられており、延宝九年(1681年)には、「妙泉寺宿寺」は、加賀野村に移転させられてしまい、その旧境内に「新八幡」が勧請されたのです。


この加賀野村に移転させられた「妙泉寺」ですが、現在でも加賀野町に残って「大日如来」を祀っており、毎年、旧暦5月28日に開催される大日堂の例大祭では「早池峰神楽」が奉納されています。


早池峰神楽」と言えば、平成21年(2009年)に、ユネスコ無形文化遺産にも登録された貴重な神楽なのですが・・・この場所で、毎年、奉納されているなんて、誰も知らないと思います。


私も、こんな場所、と言っては失礼かもしれませんが、ここに早池峰神社別当があり、毎年、早池峰神楽が奉納されていたなんて、初めて知りました。


盛岡市も、この「妙泉寺」と「早池峰神楽」の組み合わせは、古の信仰である「神仏習合」の証でもある貴重な文化財なのですから、もう少し、「広報」等を活用し、市民に周知した方が良いと思います。

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さて、話が、少し脇にズレ掛けましたが、「盛岡八幡宮」境内末社の「金勢神社」ですが・・・この神社に関しては、縁起も由縁も、何故ここに、どこから勧請されたのか等、全く解りませんでした。

直接、「盛岡八幡宮」に問い合わせるしか、縁起を調べる方法は無いかと思います。


「盛岡八幡宮」のホームページには、境内を案内するページがあるのですが、その案内からも「金勢神社」は抹消されています。


但し、存在だけはしていますので、どこからか持ってきて安置したのだと思います。


そもそも、「盛岡八幡宮」ですが、昔は、境内に、これほど多くの神社は無かったと思います。


私の幼稚園/小学校時代は、この「盛岡八幡宮」は、格好の遊び場でした。


缶蹴り、隠れんぼ、鬼ごっこ、野球、・・・とにかく、友達と集まって遊ぶとなると、この「八幡宮」が集合場所で、日が沈み、暗くなるまで、広大な境内で遊び回っていました。、


今では記憶は確かではありませんが、私が覚えている神社や施設は、次の通りです。
八幡宮
護国神社
・笠森稲荷神社
・平和の塔/戦没者遺骨奉安殿
・十二支神社
明治天皇銅像/米内光政銅像
・巌鷲山石碑


大きな神社は、八幡宮本体、護国神社、笠森稲荷、あと十二支神社、これぐらいだったと思います。護国神社と笠森稲荷神社の間に、小さな社があったような気がしますが・・・何だか良く覚えていません。


特に、当時、この辺りは、木が鬱蒼と茂っていて、昼間でも暗く、薄気味悪かったので、遊ぶときにも、余り近寄りませんでした。ひょっとしたら、この場所に、昔から「金勢神社」があったのかもしれませんが・・・覚えていません。


もっぱら、今は駐車場になってしまった入り口近くの空き地で、野球をしていました。今では、信じられないと思いますが、境内には、子供サイズですが、野球を行える場所が、3箇所もあるほど広大な敷地でした。


つまり、現在は、昔は空き地だった場所に、どこからか神社を持ってきて安置したり、宝物館等を立てたりしているのでは無いかと思います。

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それと、最後に、盛岡八幡宮境内にある「笠森稲荷神社」も紹介します。


こちらの神社は、全国的にも有名で、大阪府高槻市に本社がある「笠森稲荷神社」の末社ではないかと考えられていますが・・・その実態は不明な神社なのだそうです。


まあ、御祭神が「宇迦之御霊命(うかのみたまの-みこと)」なので、恐らくは大阪の「笠森稲荷神社」の末社だとは思いますが、縁起も何も残っていないようです。


但し、この「笠森稲荷神社」は、「新八幡宮」の創建(延宝八年/1680年)よりも古くから「八幡山」と呼ばれていた場所にあったとされ、藩政時代も、歴代藩主や庶民まで、広く信仰されていたことは明らかなようです。


一般的に、「笠森稲荷神社」は、稲荷神社なので、当然、「商売繁盛」や「五穀豊穣」の神様なのですが、神社名の「笠森」が「瘡守」に通じるとされ、かつ「笠」の字が「瘡蓋(かさぶた)」の「瘡」の読みと同じである事から、「瘡」の平癒、皮膚病から梅毒に至る様々な病気に霊験があるとされ、全国に末社が広まっています。

特に、江戸時代の初期、「徳川家康」が「瘡」の病で苦しんでいた時に、谷中の「感応寺(現:天王寺)」にあった「笠森稲荷神社」に祈願した所、病が全快したという伝説があった事からも、江戸時代には、信仰が拡がったとされています。


そして、この「笠森稲荷神社」も、「生殖器崇拝」の対象と言われていますが・・・恐らくは「梅毒」系の病に霊験があるとされた事から「生殖器崇拝」の対象になったものと思われます。


しかし、一般の「金勢神社」のように、ご利益があったからと言って、何かの「モノ」を倍返しする風習もないようです。一応、本社の方では、最初に団子をお供えし、ご利益があれば、また団子を備える風習があるようですが・・・何かイマイチです。

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■櫻山神社/烏帽子岩


次に、「櫻山神社」ですが、この神社の縁起も、これまでに説明してきた通りですが、もう少し詳しく紹介します。


「櫻山神社」には、現在、南部氏の先祖となる下記4名の方々が、御祭神として祀られています。


最初は、江戸時代中期の寛延二年(1749年)、南部氏三十三代「南部利視(としみ)」が、初代盛岡藩主「南部信直」を、盛岡城「淡路丸」に、「淡路丸大明神」として祀ったのが始まりとされています。

・南部氏始祖 :南部光行(みつゆき)公、甲斐源氏の祖「源 義光(新羅三郎義光)」の曾孫
・南部氏第二十六代 :南部信直(のぶなお)公、南部氏中興の祖。初代盛岡藩
・南部氏第二十七代 :南部利直(としなお)公、盛岡藩第二代藩主、盛岡の基礎を築く
・南部氏第三十六代 :南部利敬(としたか)公、盛岡藩第十一代藩主


その後、江戸時代後期の文化九年(1812年)、「南部利敬」が、「淡路丸」が「櫻山」と呼ばれていた事から、神社の名称を「櫻山大明神」と改称すると共に、同十五年(1818年)に、南部氏始祖である「南部光行」も合祀しました。


ところが、前述の通り、廃藩置県、そして盛岡城廃城に伴い、「櫻山神社」は、明治四年(1871年)、盛岡市加賀野町の妙泉寺(※前述の神仏習合の寺院)に仮遷座し、その後、明治十年(1877年)、盛岡市北山の「聖寿禅寺」跡地に新社殿を造営する事で再建されました。


さらに、その後、明治二十三年(1890年)、盛岡城跡地が南部家に払い下げられた事を契機とし、その10年後の明治三十三年(1900年)、盛岡市北山の「聖寿禅寺」跡地から、現在の地となる旧盛岡城「三の丸」にあった「鳩森曲輪」跡地に、「櫻山神社」を再遷座しました。


そして、大正元年(1912年)、盛岡市の守護神として、南部氏第二十七代「南部利直」と南部氏第三十六代「南部利敬」も合祀して今日に至っております。


ちなみに、過去に「櫻山神社」が安置されていた盛岡市加賀野の「妙泉寺」近辺の住所は、現在でも「盛岡市加賀野桜山」となっています。

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さて、「櫻山神社」の縁起の説明は、この辺りで止めて、肝心の「烏帽子岩」と「女岩」の紹介に移りたいと思います。


烏帽子岩」については、当ブログの最初にも記載しましたが、「岩手の巨石」シリーズでも紹介していますので、そちらもご覧下さい。


そして「烏帽子岩」は、高さ6m、周囲20m程度の巨岩と言われています。


★過去ブログ:岩手県内の巨石紹介-その1


そして、この「烏帽子岩」は、別名「兜岩」とも呼ばれていますが、元々は、盛岡城の「三の丸」に、つまり盛岡城の内側に取り込まれており、同じ場所には、これまで説明してきた通り「鳩森八幡宮」もあった事になります。


江戸時代後期の盛岡城の図面を見るとはっきりしますが、この「烏帽子岩」は、「鳩森八幡宮」と同じ場所にあるので、、恐らくは「鳩森八幡神社」と同列で崇拝されてきたのではないかと思われます。


御神体」ではありませんが、「御神木」と同列、神様が宿る岩、「磐座(いわくら)」として祀られてきたのだと思います。


現在でも、見て分かる通り、「烏帽子岩」の周りには注連縄が巻かれて、丁重に祀られています。



そして、この「烏帽子岩」を「男岩」と考える方が居るようで、全国的にも、「烏帽子岩」を「男岩」と考え、その近くにある巨石を、「女岩」として、祀っている例は数多く見受けられます。


その昔、この「櫻山神社」の「烏帽子岩」に関しては、先に紹介した「石割桜」が、岩に「割れ目」等もある事から、「女岩」と考えられてきたようです。


しかし、「烏帽子岩」と「石割桜」の場所が、直線距離でも300mと離れ過ぎています。


また、現在では、神社境内にある別の巨石が「女岩」である事が明らかになっているようです。


この岩は、神社では「御要石」と呼んでいるそうですが、「御要石」の周りには、穴の開いた小さな岩が、「御要石」を取り囲むように配置されています。


これは、誰が見ても明らかなように、その昔、ここに注連縄が巻かれていたと思われます。


と言うことは、この「御要石」自体、神聖な岩として祀られてきた事を意味しています。


また、この神社周辺には、「巨石シリーズ」にも記載しましたが、巨石が多く存在し、盛岡城築城時には、石切場もあったようですが、この2つの岩以外、このように祀られている痕跡は見受けられないようです。


このため、この「烏帽子岩」と「御要石」が、「男岩/女岩」である可能性が高いと思われています。


しかし、現時点においては、古文書等には、「烏帽子岩」の記録は数多く残っていますが、「御要石」に関しては、、何も記録が残っていないので、想像の産物かもしれません。

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■芋田産土(いもだ-うぶすな)神社


今回のブログの最後は、「巻堀神社」と同じ「盛岡市玉山区芋田字芋田」にある、「芋田産土(うぶすな)神社」を紹介します。


「芋田」、「芋田」としつこいですが、場所としては、JR花輪線/IGRいわて銀河鉄道好摩(こうま)駅」から、北西に約1.5Km、徒歩で15分位の場所にある、ちょっと「みすぼらしい」神社です。


すぐそば、道路を挟んで向かい側には「駒形神社」があり、こちらは、岩手県神社庁のホームページにも掲載され、ちゃんと管理者もおり、加えて神社の由緒/縁起等も明らかになっています。


しかし、こちらの「芋田産土神社」は・・・誰が管理しているのか、どんな由緒があるのか等、全く解りませんでした。


神社庁に直接問い合わせれば、何らかの情報はあるとは思いますが、Web等からでは全く調査出来ませんでした。


但し、神社の名前から推測するに、その昔、「玉山村」に合併される前、またそれ以前、「渋民村」に合併される前の「芋田村」の守り神/守護神ではないかと思われます。


その証拠に、みすぼらしいながらも、注連縄も取り替えているように見受けられますし、お供え物もあるようです。


このため、完全に見捨てられた神社では無いようにも見受けられますので、近所の方が、お世話をしているのだと思われます。


この「芋田村」は、明治二十二年(1889年)に、付近の渋民村、下田村、川崎村、松内村、門前寺村が合併して「渋民村」となりました。


このため、何時から、この地に勧請されたのかは定かではありませんが、少なくても明治以前は、「芋田村」の「産土神社」であり、「鎮守様」であったと思われます。


現在は、このように、ちょっとみすぼらしいですが、過去には、この画像のように、金勢様や陽物が奉納され、祀られてきたのだと思います。


ちなみに、過去に「渋民村」に合併され、現在は、「玉山村」、「盛岡市玉山区」にあった「下田村」とは、私のご先祖様の出身地だと思われます。


それと、先の「駒形神社」は、岩手県内各地に伝わる「義経伝説」の内の一つ、義経の愛馬が病で死んだ場所と言う言い伝えが残された神社なのだそうです。

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今回は、「金勢様シリーズ」の第二回目として、次のような内容を紹介しましたが、如何でしたでしょうか ?

●巻堀神社
淡島明神
●智和伎神社
●あわしま・こんせい祭り
●盛岡八幡宮/金勢神社
●櫻山神社/烏帽子岩・御要石
●芋田産土神

最後に紹介した「芋田産土神社」は、余りにも情報が少なく拍子抜けしてしまいましたが・・・済みませんでした。

しかし、「巻堀神社」といい、「智和伎神社」といい、鎌倉時代とか南北朝時代とか、相当昔から「金勢様」は信じられてきたようです。

しかし、「金勢神社」の起源と伝わる「巻堀神社」でも、何で「金勢様」が祀られたのかが解らないというのは残念ですが、でも、まあ、それが「民間信仰」なのかもしれません。

とにかく、「金勢様」が生まれた筋書きなどは、どうでも良い訳で、最終的に、効果さえあれば「ノープロブレム」な訳ですから、そこが神道や仏教とは異なるのだと思います。

神道や仏教は、学問の域にまで達してしまったので、ちゃんとした起源や存在理由、そして、その効果までも、誰に聞かれても答えられるように、きちんと文書で残す必要があったのだと思います。

一方、「民間信仰」は、一般庶民が信仰してきた訳ですから、長ったらしい起源や、小難しい決まりなどは関係なく、信じて、効果があれば「倍返し」、みたいな感じで良かったわけです。

だから、神道や仏教のように、今となっては「嘘くさい」、縁起や由緒は必要なかったのだと思われます。

が・・・私としては、今となっては「嘘でも構わない」ので、何らかの由緒が知りたかった、というのが真実です。


さて、次回の「金勢様」シリーズでは、「神話の宝庫」、遠野地方における「金勢信仰」を紹介したいと思いますが・・・遠野は数が多いので、2分割させて頂くかもしれません。


それでは、次回も宜しくお願いします。

以上

【画像・情報提供先】
Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)
・櫻山神社(http://www.sakurayamajinja.jp/)
岩手県神社庁(http://www.jinjacho.jp/)
・もりおか・かいうん神社(http://kaiunjinja.jp/)
盛岡市消防団第28分団2部「巻堀神社紹介ページ」(http://www4.plala.or.jp/kanchi/konseidaimyoujin.html)
・近世こもんじょ館(http://www.komonjokan.net/index.html)
・石田道場(http://ishidadojo.blog.fc2.com/)
・えみしの贈り物(http://www.jomon.com/momiji/present_of_emisi-1.htm)
・くぐる鳥居は鬼ばかり(http://blogs.yahoo.co.jp/sadisticyuki10)
・盛岡八幡宮(http://morioka8man.jp/)
・大日本地名辞書(https://books.google.co.jp/books?id=ZlnBE_z5YYQC&pg=PA92-IA49&lpg=PA92-IA49&dq=%E9%99%B8%E4%B8%AD+%E5%BF%97%E7%A8%BF%E3%81%A8%E3%81%AF&source=bl&ots=e0L_N5xzEj&sig=x_9pD3oNayAA8m2uxpkPQy30H5I&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjRjoWGktfPAhXCgVQKHbyOBCwQ6AEIITAB%23v=onepage&q&f=false#v=onepage&q&f=false)

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