岩手の民間信仰 〜 聞いた事も無い信仰ばかり Vol.8
今回は、そろそろネタが尽きかけてきた民間信仰シリーズの第8弾をお届けします。
本シリーズに関しては、約9ヶ月前に「乳神様信仰」を、前後2回に別けて紹介しましたが、それ以外にも「オシラサマ」や「金勢様信仰(全5回)」を含め、約30項目もの民間信仰を紹介して来ました。
本当に、「これでもか!!」と言うくらい、岩手県内に伝わる民間信仰を紹介して来ましたので、もう「絞っても何も出ない、ボロ雑巾」の様な状況です。
そんな中でも、今回は、やはり珍しい次のような項目を紹介したいと思います。
その他にも、主に「遠野地域」に伝わっていると思われる「夜泣稲荷信仰」とか「神隠し」を紹介しようと思ったのですが・・・情報が乏しく紹介する事が出来ませんでした。
また、「神隠し」は、別に「民間信仰」ではありませんので、また別の機会に、「遠野物語」の記載内容や、その他の事例と共に紹介したいと思います。
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今回は2項目と、紹介する項目が少なく、確かに「ネタ切れ」の影響もありますが、「ふいご祭り」に関する情報が大きくなってしまったので、このような形となってしまいました。
当初は、今回紹介する2件と合わせて、次の情報も紹介する予定でした。
●「お立木(オタテギ)」信仰
●「お不動様」信仰
しかし、これらまで一緒に紹介してしまうと、1回の情報量としては、とてつもなく長くなってしまうので、敢えて分割する事としました。
残りの項目は、次の機会に紹介します。それでは今回も宜しくお願いします。
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■金山様信仰と「ふいご祭り」
今回の最初は、「金山様信仰」と「ふいご(鞴)祭り」に関する情報を紹介したいと思います。
まずは「ふいご祭り」ですが、この行事は、別名では「たたら祭り」とも呼ばれていますが、鍛冶の道具として使われている「ふいご」を、風の神様としてお祀りし、仕事の安全を祈願する行事になっています。
「ふいご」とは、鍛冶職にとっては、鉄の温度を上げるためには、非常に大事な道具となっています。
「ふいご」と言う言葉は、「ふきかわ」が転じた言葉とされており、平安時代中期に作成された「倭名類聚抄」と言う辞典には、「布岐賀波(ふきがは)。韋(あしかわ)ノ嚢(ふくろ)、火ヲ吹クナリ。野王案ズルニ鞴ハモツテ冶火ヲ吹キサカンナラシムルトコロノ嚢ナリ。」と書いてあるようです。
一般的に、「ふいご」と言うと、現在では、「刀鍛冶」が、刀身となる鉄(鋼)を熱する時に使っている、いわゆる「箱ふいご」を思い浮かべる方も多いと思います。
しかし、その始まりは、動物の革、そのものを袋状にした物や、あるいは左図のように、革と板を組合せたりした「革ふいご」です。
日本において、最初に「ふいご」が現れたのは、日本書紀の「天岩戸」の段、第一の一書と言われています。
そこには、次のように記載されています。
『 故即以石凝姥為冶工 採天香山之金以作日矛 又全剝真名鹿之皮以作天羽皮吹 用此奉造之神 是即紀伊國所坐日前神也 』
即ち「石凝姥」を以て冶工(たくみ)として、天香山(あめのかぐやま)の金(かね)を採りて、日矛を作らしむ。又、真名鹿の皮を全剥ぎて、天羽鞴(あめのはぶき:鹿の革で作ったふいご)に作る。此を用て造り奉る神は、是即ち紀伊国に所坐す「日前神」なり
この内容では、鹿の皮を剥いで「天羽鞴(あまのはぶき)」と言う「ふいご」を作り、この「ふいご」で、紀伊国にある「日前宮(にちぜんぐう)」の御神体を作ったと言う事になっているようです。
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話は少し脱線しますが、「日前宮」とは、現在の和歌山県和歌山市にある神社で、一つの境内に、次の二つの神社があり、この二つを合わせて「日前宮」と呼んでいるのだそうです。
・日前(ひのくま)神宮:御祭神「日前大神」、御神体「日像鏡(ひがたのかがみ)」
・國懸(くにかかす)神宮:御祭神「國懸大神」、御神体「日矛鏡(ひぼこのかがみ)」
そして、これら二つの御神体に関しては、この神社の社伝によると、現在、伊勢神宮に祀られている三種の神器の一つ「八咫(やた)の鏡」と同等とされているそうです。
この二つの鏡は、「石凝姥命(いしこりどめのみこと)」が、「八咫の鏡」に先立って作成した鏡とされています。
そして、「日矛鏡」は、どのような鏡なのかは解りませんが、「日像鏡」は、天照大御神の御姿を型取った鏡とされています。
しかし、これら二つの御神体に関しては、門外不出で誰も見たことが無いとの事で、その真偽の程は誰にも解らないようです。
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さて肝心の「ふいご祭り」ですが、これは、岩手県に限らず、北海道を除く全国的に、火を取り扱う業種の方々が、旧暦、あるいは新暦の11月8日、または「一陽来復の祈願」と結びつけ冬至に行っている行事です。
祭りの行い方は、それぞれの地域、あるいは組織毎に異なるようですが、基本的には、供物や普段使っている道具を捧げて、神事を行うだけのようです。
しかし、特に関東地方では、供物に「みかん」等の柑橘系の果物を捧げ、神事の後に、この供物を、集まった子供たちに撒く風習もあるそうです。
供物に「みかん」を捧げるのは、「ふいご祭り」の起源に関係があると言う説と、江戸時代の豪商「紀伊国屋文左衛門」の故事に因んでいると言う説があるそうです。
「ふいご祭り」の起源には諸説ありますので、後で紹介しますが、「紀伊国屋文左衛門(紀文)の故事」とは、次の通りです。
①紀文が材木商として大成功した。
②豪商となり遊郭で遊び、小判をばら撒いた。
③そして、この時の様子が川柳となった。「紀伊国屋 蜜柑のやうに 金をまき」
④その後、さらに紀伊国屋が、みかん事業でも大成功した
これらの事実、あるいは噂が、「ふいご祭り」の供物である「みかん」と結びつき、「ふいご祭り」の時に供物として捧げた「みかん」をばら撒くようになったと考えられているようです。
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そして、「ふいご祭り」と「みかん」の関係ですが、これは前述の通り、「ふいご」そのものの起源に関係があり、次のような伝承が伝えられています。
①みかんの木に「ふいごの神」が降臨した。
②「ふいご」が、みかんの木に引っかかた。
③みかんの木の根本に「ふいご」があった。
④降臨した「ふいごの神」が、みかんの木に昇って難から逃れた。
また、岐阜県関市で活動していた、「関の孫六」として有名な刀工「孫六兼元」、あるいは肥前(現:佐賀県)の忠吉一派などは、「みかん」の色を焼刃の火色の基準とした事が伝わっています。
このため、先の「関の刀匠」の家には、「みかん」」と一緒に地元の名産「蜂屋柿」の木も庭に植えていたと言う話も伝えられています。
他方、「みかん」とは別に、島根県を始めとした中国地方では、「桂の木」を「聖木」として信仰しているようです。
四国地方は、「たたら製鉄」が盛んで、「たたら」」の火は、三日三晩燃え続けるそうですが、この「桂の木」も、春先になると三日間だけ赤く芽吹くと言われています。
また、「みかん」の所でも紹介しましたが、「金屋子神社」の社伝によると、鍛冶職の神様と伝わる「金屋子(かなやご)神」が地上に降臨した際、桂の木に寄りかかって身体を休めていたところ、「安倍村重」と言う人物が連れていた犬に吠えかかられて「桂の木」に昇って難を逃れたとも伝えられています。
その後、この「安倍村重」は、この「桂の木」の横に「金屋子神社」を建立し、自ら神主となったそうです。
ちなみに、先に紹介した「桂の木」は、島根県雲南市にある「菅谷たたら山内」と言う施設にある木なのですが、この施設内部の「たたら場」は、映画「もののけ姫」における「たたら場」のモデルになった施設とされています。
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岩手県における「ふいご祭り」では、一般的に12月8日、12月17日、あるいは18日に開催するケースが多いようです。
そして、鍛冶場を掃除して道具を洗い、餅、お神酒、そして燈明等を神棚に供えて、「鍛冶神」を拝むそうです。
「鍛冶神の掛図」を持っている家では、神棚の横に、左図のような掛け軸を掛けて拝むそうです。
この「鍛冶神掛図」では、中央、ないし中央上段に「三宝荒神」、そして下段に鍛冶場の様子を書いたものが多いようです。
「三宝荒神」と随神だけの図柄や、「ふいご」に風を送ったり、あるいは槌を振りあげて鍛冶を手伝ったりする鬼の入った図柄、または天上界に「風神」、「雷神」、「大黒天」、「不動明王」、「稲荷神」の神仏を書いた図柄等、もうゴチャゴチャになっているようです。
それでは、次に、「ふいご祭り」の起源について、2種類の説を紹介します。
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【 鞴の中に人を隠した 】説
江戸時代中期となる天明4年(1784年)に、鉱山師「下原 重仲」が著した「鐵山必要記事(鐵山秘書)」によると、「ふいご祭り」の起源は、次の通りとなっています。
昔いつの頃か分からないが、ある鍛治場があった。
11月8日に来客があってその日は仕事もせず、酒を飲んでいたところ、駆落者とも凶状持ちともみえる男が突然飛込んで来て、追手を受けている、なんとか陰ってくれと一向に頼まれた。
余儀ないことと思い、早速の思いつきで、吹子の蓋を取ってこの中へその男を入れ、上蓋をしかと締め、俄に注連縄を張り、膳部、神酒、燈明を供え、恭しく礼拝していた。
そこに大勢の追手が飛込み、この屋に逃げ込んだ男を出せという。
左様なことは知らぬ、不審ならば家捜しせよと答えるが、それとばかりに家捜ししたが見つかる道理はなく、最後に鞴に目をつけ、これが怪しいとすでに上蓋を取らんとした。
鍛冶屋驚いて、今日は折角の鞴祭である。怪しいと思うならば何卒明日改められたいと嘆願すれば、それならば明日まで屹度預けると強く申しつけて帰った。
やっとの思いで、鞴の蓋を取って内を見れば、不思議や彼の男の姿は見えなかった。
その後この鍛冶屋は日増しに繁盛し、富貴の身となったという。これ故に毎年11月8日には鞴に神酒、洗米、膳部、燈明を供え、客を招いて酒を饗し、大いに祭りを行うこととなった。
【 天から鞴が降って来た 】説
岩見国邑智郡目貫村に住む「岡崎篤三」氏の祖父は刀匠であり、その祖先も歴代刀匠であって、同家に伝わる「鍛冶職由来縁起」という古文書には、下記の内容が記載されている。
神武天皇が、筑紫国日向の高千穂の峰に登り、東の方をご覧になると夷敵が多く、これを平定しようと思われ、日天に向って五百串を立て御祈りされると、天空から八頭の烏が飛び来り、先導すると東方へ飛び立った。
これに従って出陣されると、国々から御味方に馳せ参する陪臣が多く、備前の福岡まで軍を進めて着陣された。
そしてこの里に鍛冶師は居ないかと尋ねられ、味眞治命、道臣命、椎根津彦命、天富命の軍勢に詮議されたところ、「天津麻羅(あまつまら)」という鍛冶師が居るということで彼を召出され、剣一千振、斧一千振を作るように下命された。
この時、又、八頭の烏が丸鎖を啣えて飛び来り、これを「天津麻羅」に与え、同時に天から鞴や金敷が降って来た。
丁度この日が冬11月8日であり、天皇は暫くこの地に行宮を設けて帯留された。これが即ち高島宮である。
この時、天皇は46才の御年であり、未だ即位される前のことである。「天津麻羅」は鍛冶場を設け、剣、斧、矛などの全てのものを作り献上したのである。
天皇は「天津麻羅」を鍛冶の庄として天国の名を与えられた。天国の険の焼刃は阻阻を含み、曜霊丸、夜光丸と銘が入れられた。以後11月8日は鍛冶職の鞴祭として祝祭するようになったという。
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最後に、これら「鍛冶の神様」とされている神々を紹介したいと思います。
【 金屋子神 】
この神様は、前述の「みかん」の説明の箇所で紹介した神様で、中国地方で多く祀られている鍛冶の神様です。
「かなやこ」、あるいは「かなやこの神」と言う言葉の初見は、広島県壬生の「井上家文書」中、戦国時代となる天文10年(1541年)の記録「金山の祭文」とされています。
そして、この神様は、一般的には「女神」とされており、後述する「金山様」、「天目一箇神」と同一神とされたり、あるいは神仏が習合した形として「三宝荒神」の姿で描かれたりした掛け軸等も存在するそうです。
「金屋子神」に関しては、先の広島県安芸市にある「金屋子神社」が、全国にある「金屋子神社」の総本社となり、その縁起も前述の通りとなっています。
この「金屋子神」は、日本各地で自ら「村下(技師長)」となり、鍛冶の指導を行ったと言う伝説もあるそうです。
【 金山様 】
「金山様」も、当然の如く「鍛冶の神様」とされていますが、その系統は、大きく次の2つの系統に分かれているようです。
そして、「金山系」の神様は、上述の「金屋子神」と同一神とされているようです。
・金山(金神)系
・金山彦系(かなやまひこのかみ)
次に「金山彦命」系ですが、この神様は、「伊邪那岐(イザナギ)」が、「加具土命(カグツチ)」を産んだ際の火傷で苦しんでいる時に、その嘔吐物から産まれた神として記紀(古事記/日本書紀)に登場します。
「金山彦命」を祀る神社としては、岐阜県不破郡にある「南宮(なんぐう)大社」が有名で、この神社から御祭神が分霊されて日本各地の「金山神社」に勧請されていったようです。
この「南宮大社」は、前述の「ふいご祭り」の起源で紹介した「神武天皇東征」の時に舞い降りた金鵄を、霊験をもって助けたとされ、当初は、美濃国の府中に祀られていたそうですが、その後、第10代「崇神天皇」の御代に、現在の地となる南宮山の山麓に遷座したとされています。
上記の通り、岩手県を始め、全国各地にある「金山神社」には、この「南宮大社」から御祭神を勧請したケースが多いようですが、しかし、その歴史は、それほど古くないと考えられているようです。
國學院大學(黒田迪子研究員)の調査によると、現在、多くの「金山神社」の御祭神となっている「金山彦命」ですが、元々「金屋子神」だった御祭神を、明治時代の神社行政で、各神社の神官が強制的に「金山彦命」に変更した可能性が高いとしています。
他方、弊社ブログには何度も登場する「柳田國男」は、「金屋子神 = 八幡神」と言う説を唱えており、現在では、この説が有力となっているそうです。
この「金山様」と言う神様は、岩手県では県北「洋野町八木」で祀られており、この神社には、次のような伝承があるそうです。(※現在この神社の御祭神は「金山彦命」)
【 金山神社縁起 】
八木港へ鉄積取りに大阪より千石積みの親船が来泊して鉄を満載し出帆せんとするも、錨が磯根に懸り引揚げる事ができず困難失望を極め、やむを得ず、船頭・船員、金山神社に七日七晩不眠不休にて救難を祈願す。
然るところ、八日目に至り不思議にも錨が浮き揚がり、船員一同感謝し出帆する。
偏て船頭、翌再来の時に吉野杉苗を持参し、社殿前側に移植奉納せしと言う、吹切三郎兵衛氏の遺説が書き記されている
【 稲荷神 】
ご存知の通り、「稲荷神」は、特に鍛冶職にだけ信仰されている神様ではありません。
名前に「稲」と言う字がある通り、元々は穀物神・農耕神でしたが、現在では、商工業を始め産業全体を象徴する神として信仰を広げています。
この「稲荷神」は、その起源を辿ると、渡来人である「秦氏」に行き着きます。
「秦氏」は、平安時代初期、弘仁6年(815年)に嵯峨天皇の命により編纂された「新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)」によると、秦「始皇帝」の末裔で、応神14年(283年)に、百済から日本に帰化した「弓月君(融通王)」を始祖する氏族とされています。
この「秦氏」は、稲荷神を信仰する氏族だったそうですが、「秦氏」一族が日本各地に移住することにより、「稲荷信仰」も日本全国に拡がったと考えられています。
さらに、この「秦氏」は、鍛冶の技術を持つ一族だったとされ、そのために「稲荷神 = 鍛冶神」となったとも言われています。
そして、「稲荷神 = 鍛冶神」と言う信仰は、全国に約3万社あると言われる稲荷神社の総本社となる「伏見稲荷大社」がある影響かもしれませんが、特に、「金屋子神」への信仰が見られない京都に多いそうです。
他方、「伏見稲荷大社」では、11月8日に「火焚祭」が行われていますが、これは「ふいご祭り」と習合した結果とも言われています。
【 天目一箇神 】
この「天目一箇神(あめのまひとつのかみ)」も、日本の神話である「古事記」、「日本書紀」、「古語拾遺」、および「播磨国風土記」に登場する、製鉄や鍛冶の神とされています。
この神様、様々な別名を持っており、次のように13個もの名前を持っているそうですが、この中でも有名なのは、「天津麻羅(あまつまら)」で、前述の「ふいご祭り」の起源にも登場しますし、三種の神器の一つ「八咫の鏡」を作るための鉄も、この「天津麻羅」が製鉄した事になっています。
・天之麻比止都禰命 :あめのまひとつねのみこと
・天久斯麻比止都命 :あめのくしまひとつのみこと
・天之御影命 :あめのみかげのみこと
・天之御蔭命 :あめのみかげのみこと
・天津麻羅 :あまつまらのみこと
・天久之比 :あまくしひのみこと
・天戸間見命 :あめのとまみのみこと
・天奇目一箇命 :あめのくしまひとつのみこと
・天目一箇命 :あめのまひとつのみこと
・天目一箇禰 :あめのまひとつねのみこと
・天戸須久根命 :あめのとすくねのみこと
・天照眞良建雄命 :あまてらすますらたけおのみこと
・明立天御影命 :あきたつあめのみかげのみこと
このように沢山の名前を持っていますが、「目一箇」とは、字の如く「ひとつ目」を意味しています。いわゆる、民間信仰や妖怪として登場する「ひとつ目小僧」の事です。
他方、その昔、「たたら製鉄」に従事する者は、火を見続ける事で片目を失う者が多い職業とされていたようです。
そして、その結果、「たたら製鉄 = ひとつ目小僧」と繋がり、「たたら製鉄」従事者が、「天目一箇神」を信仰するようになった、と言う説もあるようです。
【 三宝荒神 】
「三宝荒神」は、屋内の火所に祀られ、「竈神」、「火の神」、「火伏せの神」とされ、「三面六臂」、あるいは「八面六臂」で憤怒の表情で現されています。
・三面六臂 :三個の顔と六つの腕とを一身に備えた形。阿修羅像が有名。
・八面六臂 :ハ個の顔と六つの腕とを一身に備えた形。実際の仏像には存在しない。
また、特に岩手県を始めとする東北地方では、何故か「三宝荒神」を、「ふいご祭り」の祭神として祀るケースが多いそうです。
中国で編纂された「偽経」である「无障礙経(むしょうげきょう)」には、「三宝荒神」とは、次のような神とされています。
『 如来荒神、鹿乱荒神(そらんこうじん)、憤怒荒神の三身をいい、怒るときは一切衆生の福徳を奪い障礙となす。 』
しかし、この神様は、インド由来の神様ではなく、日本の仏教信仰の中で独自に進化した神様とされ、不浄を嫌うので、最も清潔な台所に祀られ「竈神」になっています。
さらに、神道、密教、山岳信仰、その他民間信仰等とも習合し、次のような神様とされています。
・「役行者(役小角)」が金剛山で修行中に「荒神」が現れ、その地に祠を作って祀った。
・密教経典「大日経」の注釈では「日天」の眷属で地震を司る「剣婆(けんばや)」と同一神とされる。
・神道では、荒ぶる神「素戔鳴命(スサノオ)」の子孫とされている。
・陰陽道では、「御年神」、「奥津彦」、「奥津姫」の三神であり、「竈神(かまどかみ)と同一神とされる。
何れにしても、激しい験力(げんりき)を持ち、不浄を嫌い、祟りやすい神であるが、「火」との関係が強いので、「ふいご祭り」の祭神となったと考えられているようです。
ちなみに、「竈神」に関しては、本シリーズの第2回目で取り上げて紹介しています。
★過去ブログ:岩手の民間信仰 〜 聞いた事も無い信仰ばかり Vol.2
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三陸地方には、「八大竜王」を祀った神社や石碑が結構あります。
もちろん、「八大竜王」、あるいは「竜神様」を祀る信仰/風習は、日本全国で行われており、元々は、「竜(龍)」が、湖や大河、あるいは川に住むと考えられていた事から「水神様」として、「雨乞い」や「水害防止祈願」のために祀られています。
「竜」を祀ると言う信仰は、古代中国の「道教」で信仰されていた「竜王信仰」と、仏教における「八大竜王信仰」が習合した形と考えられているようです。
道教における「竜王信仰」では、「竜」は、天にいる最高神「玉皇大帝(ぎょくこうたいてい)」の配下として、雨や水を司る役目を負い、次の二王がいると考えられていたようです。
・河竜王 :河川の水を調整したり、雨を降らせたりする。
・海竜王 :津波や潮の満ち引きを起こす。海上の安全を司る。
他方、仏教における「八大竜王信仰」では、「竜王」とは、「天部」に属する、次の8名の「竜族」の神様で、仏法を守護していると考えられています。
・難陀(なんだ) :「歓喜」を意味する名を持つ竜王。「跋難陀」の兄。過去に「娑伽羅」と交戦。
・跋難陀(ばつなんだ) :「難陀」の弟。「難陀」と共に古代インド「マガダ国」を保護。
・沙伽羅(しゃがら) :竜宮の王。大海竜王。空海が連れてきた「清瀧権現」は「娑伽羅」の娘。
・和修吉(わしゅきつ) :別名「九頭竜王」/「九頭龍大神」。元は須弥山で小竜を食べて暮らしていた。
・徳叉迦(とくしゃか) :「徳叉迦竜王」が怒って凝視すると、見つめられた人は死ぬと伝わる。
・阿那婆達多(あなばだった) :別名「阿耨達(あのくだつ)龍王」。ヒマラヤ「阿耨達池(無熱悩池)に住む。
・摩那斯(まなし) :須弥山「喜見城」を阿修羅が海水で攻撃した時、海水を押し戻した竜王。
・優鉢羅(うはつら) :別名「青蓮華龍王」。青蓮華を生ずる池に住む。
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ちなみに、「りゅう」には、「竜」と言う漢字と、「龍」と言う漢字がありますが、どのような違いがあるのかご存知ですか ?
漢和辞典を調べてみると、次のような違いがあるそうですが、どちらも「りゅう」を表す漢字で間違い無いようです。
・「竜」 :常用漢字。「龍」の省略体。新字体。
・「龍」 :常用外漢字。旧字体。
しかし、漢字発祥の地「中国」では、これが逆転します。つまり、元々は「竜」と言う字が使われ、その後に「龍」が使われ続けたそうです。
皆さんご存知の通り、漢字とは、中国「殷(いん)」の時代に使われていた「甲骨文字」から産まれた字体です。
そして、この「甲骨文字」では、「りゅう」と言う字には、「竜」が使われていたとされています。
ところが、その後、「竜」と言う字を、厳格に表現させようとして「龍」と言う字が使われ出したのですが、この「龍」の字の方が、「竜」よりも長い期間使われ続けたそうです。
そして、日本に漢字が伝わった時には、この「龍」が使われていたため、日本における「りゅう」は、「龍」が旧字体となってしまったようです。
その後、太平洋戦争後の国語改革によって、使いやすい漢字と言う事で「竜」が常用漢字となり、「龍」が常用外漢字になってしまったそうです。
このため、本ブログでも、日本の法の下、基本的には「竜」の字を使う事とします。
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さて、そんな「竜神様」ですが、最初に紹介するのは、宮古市鍬ヶ崎(くわがさき)日立浜に鎮座されている「竜神様」です。
この「竜神崎の竜神様」は、宮古湾の入り口、三陸復興国立公園・三陸ジオパークの中心となる「浄土ヶ浜」のちょうど背後に位置しています。
画像を見て分かる通り、海にせり出していますので、東日本大震災の津波の直撃を受け、木製の社殿は流されてしまったそうです。
しかし、社殿内部にあった石宮と石碑は、無事に残ったようです。
元々、画像の通り波打ち際に建立されていたので、石宮と石碑は、強化されていたのかもしれません。
この「竜神様」を始め、三陸沿岸の「竜神様」は、海のそばに建立されているので、ほぼ全てが、何らかの被害を受けているようです。
この「竜神様」は、航海安全と大漁祈願のための信仰の場所で、漁民らは出漁や帰港時にはここに参拝しているそうですが、何時、誰が創建したのか等、由緒は分かりませんでした。
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次は、上記「日立浜」からは、直線距離で2kmほど南にある「磯鶏黄金浜(そけい-こがねはま)」にある「龍神碑」です。
この石碑の裏側には、次のような文が刻んであるそうです。
『 ある年の十二月磯鶏地引漁場の前須賀に一個の石が打ち上げられ、水夫一同これを見、竜神様の授かり物で目出度いと大変喜び石崎にこの碑を設立祭り祝った。 』
そして、この碑は、明治28年(1895年)の12月26日に建立されたと彫られているようです。
また、法政大学出発局から出版されている「漁撈伝承(川島秀一著)」には、この引き上げられた石は、当初、形が良い石と言うことで、「蛭子(えびす)石」と呼ばれていた事も紹介されているそうです。
ちなみに、「磯鶏」と言う地名ですが、その意味は、「高貴な人物が海で溺れ死んだ時、磯で鶏が鳴いて知らせた」と言う伝説から産まれた地名との事ですが、元々は「曾計比」と言う字だったそうです。
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「青野滝」と言う地名は、この漁港近くを流れる「青野滝川」の上流にある滝にちなんだ名前で、この滝には「アオ」と言う巨大魚が住むと言う伝説が残されているそうです。
この「龍神碑」には、石碑右側には、江戸時代末期となる「弘化四年(1847年)丁未(ひのとひつじ)」、左側には「四月吉日」、下部右側に「石工・甚蔵、喜久松」、そして左側に「両村中、宝明院」と刻まれているそうです。
そして、「宝明院」と言うのは、この石碑を調査した方によると、山伏の名前との事でした。
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次は、宮古市から国道45号線沿いに南下した釜石市片岸町にある「稲荷神社」敷地内にある「八大竜王」の石碑です。
この石碑は、国土安泰と海上交通の安全、加えて村の繁栄を祈願して、明治29年(1896年)に建立され、下記の文字が刻まれているそうです。
『 天地地久國土安穏 南無妙法蓮華経 八大龍王鎮座 海上安全村内繁栄 』
また、建立者として「木川榮吉」と言う名前も刻まれているそうです。
片岸町の「稲荷神社」自体は、江戸時代初期となる「元禄4年(1691年)」に、御祭神「倉稲魂命(うかのみたまのみこと)」を勧請して建立された神社です。
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最後は、大船渡市末崎町小中井の県道275号線沿いにある「宝龍神社」境内に建立されている「八大龍神」碑です。
この石碑も、誰が、何時、何のために建立したのかは、全く解りませんでした。
そもそも、この「宝龍神社」自体の由緒/由来や御祭神さえ解りませんでした。
また、「宝龍神社」から1kmほど南下した末崎町泊里にも、左の画像のような「八大龍神」碑があります。
この石碑は、「ごいし民族誌」によると、地元の「鎌田家」の祖先が、江戸時代末期、元治元年(1864年)に建立したと記録されています。
「鎌田家」では、この石碑を氏神として祀り、毎年、正月(2日)とお盆に参拝していたそうですが、津波で、この石碑に続く道が崩れ、近づけない状況が続いているそうです。
この泊里の「鎌田家」の一族では、長期の漁に出る前には、この石碑を拝んでから船に乗っていたそうで、日常的にも、港に出入りする時には、この「石碑」を、船から拝んでいたとされています。
この大船渡市末崎町近辺には、「末崎町の歴史」と言う資料によると、場所や画像は確認出来ませんでしたが、この「八大龍神」碑以外、別の場所にも「八大龍神」碑があり、さらに、「寳龍権現」とか「龍王講」と言う石碑も建立されているそうです。
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今回、「竜神/龍神信仰」として、「八大龍神」や「八大竜王」の石碑を紹介しましたが、それ以上に、何よりも多いのが「津波供養塔(碑)」です。
この石碑や塔は、三陸海岸の、ありとあらゆる場所に建立されており、その数は、国土交通省の調査によると、岩手、青森、そして宮城の三県で、317個にも上るとされています。
中でも、岩手県がダントツで、225個も存在するようです。(青森:8個、宮城:84個)
そして、こうした石碑には、次のような碑文が刻まれているそうです。(例:岩手県田野畑村の石碑)
『 ヂシンガシタラ、ユダンスルナ 』
『 ヂシンガアッタラ、タカイトコロニアヅマレ 』
『 ツナミニオハレタラ、タカイトコロニアガレ 』
『 オカミノサダメタシキチヨリ、ヒクイトコロニイエヲタテルナ 』
平成28年の東日本大震災では、宮城県の犠牲者が多かった訳ですが、どうして、こうした過去の遺産を活かすことが出来なかったのか、非常に悔やまれるところです。
先人達は、意味も無く、このような石碑を建立するはずはありません。石碑を立てるには、お金も労力も必要です。
自分達の子孫が、無事に生き抜く事を願って石碑を建立している訳ですから、先人達の思いを無駄にしないようにしたいものです。
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今回、数は少ないですが、次のような民間信仰をご紹介しましたが、如何でしたか ?
本シリーズを振り返って見てみると、当初は、1回の情報提供で、10個もの民間信仰を紹介していました。
ところが、今回は、1回で2項目。どんどん紹介の仕方が、変わって来てしまったようです。
当初は、「広く浅く」が基本コンセプトだったようですが、近頃では、その反対で「狭く深く」となっています。
民間信仰は、様々な要因が絡み合っているケースが多いので、「さらっと」表面だけでは、説明出来ないケースが多い事に気が付きました。
今回紹介した「金山信仰」も、過去に紹介した「カマドガミ信仰」と繋がっています。
また、「竜(龍)神信仰」も、「竜(龍)」に「さんずい編」を付ければ「滝(瀧)」となり、「水神信仰」にも繋がりますし、さらに「滝 = 多岐都比売命」となり、過去に紹介した「瀬織津姫命」や「宗像三女神」にも繋がってしまいます。
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「どの信仰が先なのか ?」と言う論争になってしまいますが、私は、基本は、次の順番だと考えています。
「自然物信仰」 → 「神道」 → 「仏教」
最初に、「海」、「山」、「川」、「巨石」、あるいは「巨木」等、人智(人知)の及ばぬ物を崇拝し始め、そこに「神」と言う考えを習合させたのが「(古)神道」だと思います。
その後、「仏教」による国家統一を考えた「国家仏教」の導入に伴って生まれた「本地垂迹思想」により、「神」と「仏」を習合させ、この考え方が、明治時代が始めるまで続きました。
ところが、明治になると、「天皇」による国の支配を明確にしたい政府の方針により、これまで1,000年以上もの長きに渡り信仰されてきた「神仏習合」を強制的に廃止し、現在に至っているのではないかと思われます。
つまり、元々、信仰してきた「自然物」に対して、政治の都合で「神」だ、「仏」だと、余計な者を習合させてきたのが、現在の日本の宗教なのだと思います。
このため、何かの民間信仰を探って行くと、必ず、神道系の信仰とか、仏教系の信仰と重複するのは、信仰の歴史を考えると、仕方の無い事なのかもしれません。
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また、このような信仰の流れが、日本人が多宗教化した事の根本的な原因なのだと思います。
現在は、少し事情が異なるとは思いますが、昔の日本人の家の中なら、仏壇と神棚は、当たり前の様に備え付けられていました。
また、大正時代以降、昭和ともなると、仏壇と神棚を祀っている家でも、12月になれば、クリスマスツリーを飾ってケーキを食べたりして、仏教、神道、キリスト教と、もうカオス状態です。
しかし、家に「神様」や「仏様」が居て、常に見守って下さっていると思う事で、人間の行動に対して、一定の「歯止め」が効いていたのだと思います。
ところが、これが現代となると、家の中から「神棚」や「仏壇」が消え、さらに戦後には、「現人神」と言われた天皇さえ消えてしまい、もう何の歯止めも無くなってしまいました。
「お天道様が見てるぞ !」とは、私自身は、非常に良い言葉だと思います。
この「お天道様」に、「天照大神」を当てはめるか、「大日如来」、あるいは「天皇」を当てはめるのか個人の自由です。
しかし、この言葉があり、それを皆さんが信じていたからこそ、「安心な日本国」が成立していたのだと思います。
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まあ、「現人神」が、消えた方が良いか悪いかの判断はさて置き、とにかく、日本人の心の中から、「何かを敬う」と言う考えが無くなってしまった事は問題だと思います。
「王政復古を!」とか、「国家鎮護のために仏教を!」等とは叫ぶつもりは毛頭ありませんが、何か、「心のスキマ」を埋める物が必要なのかもしれません。
しかし、その「スキマ」を付いて、「オウム真理教」等の異常者に付け込まれたり、あるいは「○○ファースト」等と、耳に心地よい言葉で、人を煽動しようとしたりする考え方は危険です。
皆さんも、この「民間信仰シリーズ」を読んで、何かを感じて頂ければと思います。
次回は、次のような「民間信仰」をご紹介する予定です。
●「お立木(オタテギ)」信仰
●「お不動様」信仰
●「九頭竜」信仰
それでは次回も宜しくお願いします。
以上
【画像・情報提供先】
・Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)
・tenki.jp(https://tenki.jp/)
・室蘭工業大学(http://www.muroran-it.ac.jp/)
・職業、鍛冶手伝い(https://blog.goo.ne.jp/forginer1984)
・ふいご祭りの伝承とその重層性について(國學院大學/黒田迪子著)
・岩手県神道青年会(http://ganshinsei.jp/)
・みやこ百科事典 ミヤペディア(http://miyapedia.com/)
・独立行政法人 国立文化財機構「ごいし民族誌」
・国土交通省「津波石碑に関する調査(青森・岩手・宮城)」
社内システムのクラウド化 〜 皆でクラウドにすれば怖いくないのか ? - その3
今回の「IT系お役立ち情報」は、前回お届けした「社内システムのクラウド化」の続編となります。
前回までのブログでは、次の様な内容を紹介しました。
●そもそもクラウドとは何 ?
●クラウド化メリット/デメリット
●クラウドの種類
●クラウド導入までの全体の流れ
●クラウドに適さない業務
【過去ブログ】
・社内システムのクラウド化 〜 皆でクラウドにすれば怖いくないのか ?-その1
・社内システムのクラウド化 〜 皆でクラウドにすれば怖いくないのか ?-その2
これまでの情報で、誰が(Who)、どうやって(How)、何処で(Where)、クラウド化に向けた業務を行うのかが明らかになりました。
そして、残りの、何時(When)、何を(What)、いくらで(How much)に関しては、これは企業毎、そしてケース毎に異なりますので、本ブログでは紹介出来ません。
しかし、「何のために(Why)」に関しては、若干説明可能です。
既に、初回ブログでメリットを紹介していますが、今回は、より具体的に、次のケースを紹介します。
●コスト削減手段としてのクラウド
●本番カットオーバーまでの時間短縮としてのクラウド
そして、それ以外に、クラウド化に逆行する次の2つの問題に関しても紹介します。
「クラウドは良いぞ〜 !」等とばかり言っていると、弊社が、クラウドサービス提供業者の「宣伝マン」になってしまいますので、最後は、クラウドに関する最新の問題についても紹介しておきます。
それでは今回も宜しくお願いします。
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■コスト削減手段としてのクラウド
クラウド化のメリットとして、一番に取り上げられる「コスト削減」について、そのポイントを紹介したいと思います。
社内システムをクラウドにすると、何で「コスト削減」が出来るのかに関しては、過去ブログの「メリット/デメリット」で紹介した通り、次の理由があります。
理由1:サーバー室撤去によりハードウェアの維持管理費が削減出来る。
理由2:同じくサーバー室が無くなるので、空調費用も不要になる。
理由3:同じくサーバー室が無くなるので、各種電気料金も不要になる。
理由4:維持管理は業者が行うので、メンテナンス要員が不要になる。
理由5:ソフトウェアのライセンス等の初期費用が不要になる。
理由6:ハードウェアのリース費用も不要になる。
クラウドには、このようなメリットがあるとされていますが、次の点も注意する必要があります。
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●クラウドのサービス形態による費用の違い
過去ブログで紹介した通り、クラウドのサービス形態には複数種類あります。
略称 | 名称 | 内容 |
SaaS | Software as a Service | ソフトウェアを提供するクラウドサービス |
PaaS | Platform as a Service | 基礎部分(開発環境)を提供するクラウドサービス |
IaaS | Infrastructure as a Service | ハードウェア等のインフラを提供するクラウドサービス |
加えて、現在では、クラウドのサービス形態は、さらに細分化されていますので、社内システムをクラウド化する場合、自分達のシステムは、どのようなサービス形態が一番相応しいのかを、きちんと精査する必要があります。
そして、そのサービス形態により費用は大幅に異なります。
オンプレミス運用に近いサービス形態にすればする程、業務運用は、社内システムに近づける事は出来ますが、逆に、その分だけ費用は高額になります。
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●リース費用とクラウド費用との比較
上記メリットの中に、「ハードウェアのリース費用も不要になる。」と記載しましたが、この点も、よく精査する必要があります。
世間一般では、「リースよりクラウドにした方が、維持費が安くなる。」と言われているだけで、この法則が、自社に当てはまるとは限りません。
旧式のハードウェアを使用し続けている場合、ハードウェアを更新せずに再リースを掛ければ、リース費用は、格段に安くなります。
ハードウェアのスペックが、業務運用に適さない場合、そのまま同じハードウェアを使い続けると、業務運用に支障をきたす可能性がありますが、データ量が増えていない様なケースでは、無理に、最新ハードウェアに更新する必要はありません。
このようなケースで、クラウド化を推し進めると、逆に費用が増加する必要があります。
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●サイジング活用による初期費用抑止
クラウドでは、業者との契約方法にも依りますが、システム利用中に、各種リソースのサイジングが可能です。
「サイジング」とは、例えば、下記のような数量を増加させたり、あるいは減らしたりして調整する事を意味しています。
・サーバー数
・ライセンス数
・CPUのコア数
オンプレミスの社内システムでは、最初から、上記のリソース数量を固定した形で購入しますので、運用途中でリソース数量を変更するのは、難しいものがあります。
しかし、クラウドの場合、リソースの数量が多過ぎる場合、途中でリソース数量を減らす事も出来ますし、その逆も可能です。
このようなリソース数量を調整する事で、余計な費用の支出を抑制する事が可能となります。
社内システムをクラウド化する場合、上記のような点を精査し、自社にとって、どのような形で費用を抑制出来るのかを検討して下さい。
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■本番カットオーバーまでの時間短縮としてのクラウド
次に、クラウド化のメリットとして、次に取り上げられる2点に関して、その理由を紹介します。
・作業時間の短縮
・サイジングの自由化
昨今、「どこの企業が、どこを買収した」等、M&A関連の話を数多く聞くようになって来ました。
M&Aの目的は、企業により様々です。規模/シェア拡大、事業多角化、弱体部門強化、成長事業強化・・・その企業の事情により、M&Aの理由は沢山あります。
そして、M&Aを行った企業の多くの経営者達は、インタビューで、「合併による相乗効果を実現したい !!」等と、張り切って語っていますが・・・相乗効果を出すのは、非常に難しいものがあります。
「不可能」とは言いませんし、実際にM&Aにより相乗効果を出している企業も沢山います。
M&A成功のコツは、沢山あると思いますが、相乗効果を出すための基本は、重複業務を減らして無駄な業務を無くす事だと思います。
そして、無駄な業務を無くすために必要な作業で一番重要なのは、業務システムの統合だと思います。
今や、ほとんど企業で業務はシステム化されています。このため、重複業務の解消には、どうしてもシステムを統合する必要があります。
しかし、一言で「システム統合」と言っても、これは一筋縄では行きません。
組織の合併は、企業だけに限りません。2005年〜2006年にかけては、俗に言う「平成の大合併」が行われ自治体の合併が大規模に行われました。
このような事もあり、企業や自治体で数多くの「システム統合」が行われましたが、国内や国外では、下記のような失敗事例も多く発生しました。
・みずほ銀行 :富士銀行、第一勧業銀行、日本興業銀行
・ユナイテッド航空(米) :ユナイテッド航空とコンチネンタル航空
・日本郵政 :ゆうパックとペリカン便
・ボーダーフォン(英) :ERP導入によるシステム統合の失敗
特に、「みずほ銀行」のシステム統合の失敗は、影響が広範囲に及んだ事と、失敗が何回も発生した事から、現在では「システム統合の失敗事例」の象徴として、数多くのサイトが、この問題を取り上げています。
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ところで、システムのクラウド化で、カットオーバーまでの時間が大幅に短縮出来る、と言われています。
しかし、システムのクラウド化に関しては、前回ブログで紹介した様に、既存システムの棚卸し調査を始め、事前の調査/検討段階で、かなり多くの作業があります。
システムのクラウド化で、本番までの時間を短縮できるのは、前述のM&Aのケースだけだと思います。
システム統合の場合、前述の通り、企業合併の相乗効果を出すために、業務の一本化と、それに伴うシステム統合を行います。
そして、業務を一本化すると、当然、2つの業務が1個になる訳ですから、単純に計算しても、システムが取り扱うデータの量は倍増します。
データ量が倍増しますので、システムの処理能力も倍増させる必要もありますし、そもそも、データを格納するサーバーの数も倍増させる必要があります。
しかし、これは単純計算ですので、実際は、2倍のリソースは必要無いかもしれませんし、逆に、2倍以上のリソースが必要になるかもしれません。
このように統合したシステムの処理能力やサーバー数が解らない場合、本当に綿密な計算が必要になりますが・・・もしも、この計算を間違えてしまったら、最悪、統合したシステムが停止してしまう可能性があります。
事実、先の「みずほ銀行」の失敗ケースでも、データの処理件数が想定量を超えてしまった事が原因で、振り込み処理を正常に処理出来なくなってしまい、結局、金融庁から行政処分を受けてしまっています。
このように、統合後のシステムが必要とする各種リソース量が解らない場合、クラウドが有効になります。
クラウドで利用するサービスにも依りますが、「IaaS(Infrastructure as a Service)」を利用すれば、業務開始後、自由に各種リソース量を変更する事が可能です。
これをオンプレミスにしてしまうと、もう調整不可能です。
このようなリソース量の調整に関しては、当然、システム統合における計画段階で、ちゃんと計算すると思いますが、精査すればする程、凄く時間が掛かります。
しかし、統合システムをクラウド環境に移行するのであれば、本番カットオーバー後も自由に調整出来るので、リソース量の精査に、それほど時間を掛ける必要が無くなります。
この点に関して、クラウドが非常に有利になります。
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上記以外のケースで、カットオーバー時間が短縮出来る事例としては、クラウド業者が提供するシステムを利用する事で、移行時間を短縮出来ると言う事例もあるようです。
このケースは、「SaaS(Software as a Service)」と言うサービスを利用し、クラウド業者が提供するシステムを、社内標準システムにするケースです。
確かに、既に存在しているシステムを利用する訳ですから、システムを改修、あるいは再開発する時間が不要になるので、移行時間を大幅に短縮する事は可能だと思います。
しかし・・・これまで、自社の専用システムを使ってきた企業が、業者が提供するサービスを使用出来るとは思えません。
特に日本の企業は、パッケージ・ソフトウェアを購入しても、絶対にカスタマイズして、結局は、自社専用システムにしてしまいますので、業務システムとして「SaaS」を使用するのは無理だと思います。
恐らく「SaaS」サービスを利用する場合でも、業者のシステムに対して大幅なカスタマイズを施す事になるので、移行工数は、クラウドを使わないケースとおなじになってしまうと思います。
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■クラウド化を妨げる要因
これまで、クラウド利用のメリットを紹介して来ました。
しかし、社内システムをクラウドに移行した企業は、実際の数は不明ですが、世間で騒がれている割には、かなり少ないようです。
クラウド移行を妨げている要因は、企業により個別な事情があるとは思いますが、大きくは、次のような項目があるようです。
・セキュリティー・リスク
・運用の継続性
・業者の姿勢
・システム改修
・業者の継続性・切り替え
・内部統制
・パフォーマンス
・トラブル対応
その他にも、細かな点を挙げればキリがありませんが、社内システムのクラウド移行を妨げている要因に関して、代表的な項目をいくつか紹介します。
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●セキュリティー・リスク
クラウド化を妨げる一番の要因は、やはりセキュリティー・リスクのようです。
既にクラウドに移行した企業は、「セキュリティー・リスクは、当初、心配したほどでは無かった。」と口々に言っていますが・・・他の企業にすれば、「それは、それ」と言う感じだと思います。
システム管理上は、厳重に管理されていえも、例えば、クラウド事業者のメンテナンス社員が、悪意を持った行動を取れば、情報は、簡単に持ち出されてしまう可能性もゼロではありません。
もちろん、クラウドに移行していない企業が感じるセキュリティー・リスクは、漠然とした不安だとは思います。
しかし、その漠然とした不安にも理由があります。例えば、次のような理由が考えられます。
・セキュリティーの安全性に関して客観的な証拠が無い
・セキュリティー管理が、全て業者任せになってしまう
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●業者の姿勢
次に多いのが、クラウドサービス提供業者とSierの姿勢が挙げられているようです。
何が問題なのかと言うと、クラウド化を検討している企業が、該当業者に相談すると、希望したサービスではなく、業者自体の利益が上がるような提案をされた事例が多く見られたそうです。
具体的な事例としては、SaaS型サービスを希望していたのに、提案されたのは、自社が保有するデータセンターを利用するIaaS型のサービスを提案された事例が多いようです。
サービス提供業者は、自社の利益が欲しいので、顧客のメリットを優先せず、顧客がクラウドの仕組みに熟知していない事をいいことに、自社のメリットが多いようになる提案するするようです。
また、上記以外、業者に関係する不安としては、次のような理由を挙げています。
・料金体系が不明確/不明瞭
・一旦、ある業者にクラウド化を依頼すると、その後、業者を切り替えられない
・業者の事業継続性
要は、サービス提供業者の姿勢に疑問/不安を感じて、クラウド化に躊躇しているケースも多いようです。
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●システム改修が不可能
次は、単純に、既存システムの改修が無理なケースがあるようです。
やはり、バリバリにカスタマイズを掛けていたり、一から自社システムを開発したりした企業は、クラウド環境に用意してあるシステムに移行するのは難しいのだと思います。
このような場合、既存システムを破棄して、また、最初からシステムを作り直す、いわゆる「スクラッチ & ビルド」方式を取るのですが、これさえ出来ない企業が多いのだと思います。
理由としては、例えば、次のような事例が報告されています。
・システム関連ドキュメント(仕様書/設計初)が存在しない
・開発した技術者が退職してしまった
・システムがメインフレームで作成されており対応できない、等
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●内部統制
さらには、内部統制の問題も挙がっています。
ISOやISMSの認証を取っている企業は、クラウドに移行する際に、認証が得られないケースがあるようです。
・ISO(International Organization for Standardization):国際標準化機構
・ISMS(Information Security Management System):情報セキュリティ・マネジメント・システム
このような認証を取っていると、年間数回の審査や、数年に1回の認証更新があります。
社内システムをクラウド化すると言う事は、単純ケースの場合、データもクラウド業者の環境に移行する訳ですから、ISO/ISMSの認証を取得するのは難しくなってしまいます。
このため、認証を維持する場合、次のような特殊な対応を取る事になります。
・重要データだけはクラウド環境に移行しない
・重要データは分割管理して、単独データだけでは意味をなさないデータにする
・重要データは暗号化してサーバーで管理し、使用時に複合する。
このような対応を取れば認証は継続出来るかもしれませんが、余計な費用が掛かりますし、対応の仕方によってはパフォーマンスが低下する可能性があります。
何れにしても面倒です。
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●クラウドと社内システムとの連携
最後は、システム連携が出来なくなってしまうケースがあるようです。
ある業務システムだけをクラウド化した場合、このクラウド環境の業務システムと、従来通り、オンプレミス環境で稼働している業務システムを連携するケースは、珍しくないと思います。
例えば、クラウドとオンプレミスのシステム間で、プログラム同士で処理を連携したり、あるいは利用者が、シングル・サインオンでログインして作業を行ったりするケースがあります。
プログラム間の処理は、インターフェイスを修正すれば対応出来ると思いますが、シングル・サインオンは、まず無理だと思います。
そうなると、これまで1回ログインすれば、全システムを利用する事ができた社員が、オンプレミスとクラウドとで、別々にログインしなければならなくなり、結局の所、仕事が出来なくなってしまいます。
このシングル・サインオンの問題は、あまり表面化していないようですが、Webシステムを有する企業では注意が必要になるかと思います。
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■脱クラウドの動き
ここまで、クラウド化のメリットや、クラウド化を阻害する要因を紹介し、出来る限り、社内システムをクラウド化する方向で話を進めて来ました。
しかし、世間の流れは、ちょっと変わり目を迎えつつあるようです。2016年後半辺りから、アメリカにおいて、「脱クラウド」の動きが活発化し出しています。
アメリカでは、当然、日本よりも早く「クラウド化」の動きが進んでおり、多くの企業が、オンプレミスの社内システムをクラウドに移行して運用していました。
このため、現在では、クラウドへの習熟度合い高く、クラウドのメリット/デメリットが、より明確、かつ具体的になっています。
アメリカでも、当初は、「猫も杓子もクラウド」状態だったようですが、やはり、クラウドに移行した一部企業では、次の要因により、クラウドを止めてオンプレミスに戻す企業が増えているようです。(数字は米CompTIA社の調査数字)
・セキュリティー(58%)
・コスト削減未達(30%)
・統合の失敗(24%)
・信頼性への問題(22%)
やはり、クラウドに関しては、セキュリティーがネックになっているようです。
このクラウドからオンプレミスに戻す現象を、「ブーメラン現象」と呼んでいるようですが、アメリカでは、また「オンプレミス VS.クラウド」論争が再燃しているようです。
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加えて、業務システムへの「AI(Artificial Intelligence)」の組み込みも、「脱クラウド」を後押ししているようです。
下記の過去ブログでも紹介しましたが、「AI」を活用する場合、膨大なデータをサーバーに蓄積し、プログラムが迅速にデータを解析して、その結果を利用者にフィードバックする必要があります。
★過去ブログ:Society 5.0って何 ?
ところが、サーバーがクラウド上にあると、解析結果を利用者に返す時のパフォーマンスが、ネットワークの速度に依存してしまうので、折角、プログラムが迅速に解析を行っても、処理結果を得るのが遅くなってしまう可能性があります。
また、「AI」のために集めた膨大なデータは、企業にとって、貴重な財産です。
この貴重な財産をクラウドに預けるとなると、また、例のごとく、「セキュリティー・リスク」が問題になって来ます。
つまり、前述の通り、次の2点がネックになるので、これならば、クラウドを止めてオンプレミスに、となってしまうのは当然の流れなのかもしれません。
・AIにとって重要なレスポンスがネットワークに依存してしまう。
・AIのための貴重なデータにセキュリティー上の心配がある。
また、これも先の過去ブログで紹介していますが、「IoT」で集めたデータも、「AI」に引き渡すケースが増えていますので、「IoT」に取り組む企業も、「脱クラウド」となる可能性もあります。
今後、企業の業務システムに「IoT」や「AI」が組み込まれるようになっていくと、「脱クラウド」が進む可能性があると思います。
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今回、「クラウドサービス」に関して、次のような内容を紹介しましたが、如何でしたか ?
●コスト削減手段としてのクラウド
●本番カットオーバーまでの時間短縮としてのクラウド
●クラウド化を妨げる要因
●脱クラウドの動き
最初の方では、業務システムのクラウド化を勧めておきながら、最後に「脱クラウド」と、正反対の内容を紹介することになってしまいました。
これは、前でも触れましたが、「オンプレミス VS.クラウド」論争そのもので、今、IT業界を騒がしている問題です。
しかし、私は、この論争に決着が付くとは思っていません。
世界中、全ての企業が同一の条件で業務システムを動かしているならば、「オンプレミスか ?、それともクラウドか ?」と言う論争は、検討すべき重要な問題なのかもしれません。
しかし、業務システムは、全ての企業が、異なる環境で、独自の運用を行っています。
また、企業内においても、部門毎に、業務システムの運用環境や運用方法が異なるケースも多々見受けられます。
このように多種多様な業務システムに関して、「さあ、どっちだ!」と言う事自体、ナンセンスだと思います。
『 この業務はクラウド化し、こっちはオンプレミス 』と言うのが正しいような気がします。
そして、その上で、次のような内容を検討した方が良いと思います。
・じゃあ、システム連携は、どうする ?
・別々に分けてもコストが削減できるのか ? 等
全ての業務を、クラウド or オンプレミスのどちらかで統一して運用出来れば、それが一番良いとは思いますが・・・なかなか難しいものがあると思います。
今、「クラウドが良い !」とか、「いやいや、やっぱりオンプレミスだ !」等と騒いでいるのは、AGFA(※)とSierが、自社のサービスや製品を売りたいがために、クラウド導入企業を、成功事例や失敗事例として巻き込んで騒いているだけの様な感じもします。
今後も、「オンプレミス VS.クラウド」論争は続くと思いますが、AGFA/Sierに振り回されないよう、ちゃんと自社の立場を明確にした上で、業務システムの効率化や費用対効果の向上を目指して下さい。
それでは、次回も宜しくお願いします。
以上
※AGFA:米4大IT企業。Apple、Google、Facebook、およびAmazonの4社の頭文字。
【画像・情報提供先】
・Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)
・PC Watch(https://pc.watch.impress.co.jp/)
・ボクシルマガジン(https://boxil.jp/mag/)
・TechTargetジャパン(http://techtarget.itmedia.co.jp/)
早池峰信仰と瀬織津姫命 〜 謎多き姫神に触れる その5
今回は、これまで紹介して来た「早池峰信仰と瀬織津姫命」の続編となる「その5」を紹介します。
★過去ブログ:早池峰信仰と瀬織津姫命〜謎多き姫神に触れる その1(20180623)
:早池峰信仰と瀬織津姫命〜謎多き姫神に触れる その2(20180721)
:早池峰信仰と瀬織津姫命〜謎多き姫神に触れる その3(20180818)
:早池峰信仰と瀬織津姫命〜謎多き姫神に触れる その4(20180922)
前回は主に、岩手県では今もヒーロー扱いとなっている「安倍氏」と「瀬織津姫命」との関係について紹介しました。
その中で、「安倍氏」にも、「源 義経」と同様、「実は戦死していない」と言う伝説が残っていたのには驚いてしまいました。
日本の伝説で、「源 義経」を始めとして、「実は生きていた 」とされる人物には、次のような人物がいます。
・安徳天皇 :日本全国各地に「安徳天皇稜」が存在している。(30箇所)
・源 義経 :ご存知、北海道経由でモンゴルに渡り、チンギス・ハーンになった。
・武田 勝頼 :死んだのは影武者で、本人は高知県に逃れ「大崎玄蕃」と改名し慶長14年に死去した。
・明智 光秀 :実は「天海和尚」となり徳川家康のブレーンとして豊臣家滅亡に尽力した。
・豊臣 秀頼 :「真田信繁(幸村)」の手引きで一緒に九州に逃げ、島津家の庇護のもと生活していた。
・真田 信繁 :幸村は、秀頼と一緒に薩摩に落ち延びた。
・島 左近 :石田三成のブレーンだった左近は、関ヶ原から落ち延び、京都の伊吹山で隠遁生活をしていた。
・大塩 平八郎 :とにかく逃げ延び、中国、あるいはロシアに渡った。
・西郷 隆盛 :官軍の囲みを突破してロシアに逃亡し、ロシア軍の教官となり日露戦争を先導した。
こうした「実は生きていた」人物を見てみると、ある特徴があるように思えます。それは、次のような点です。
・民衆に人気がある人物
・死が惜しまれた人物
・悲劇の主人公
その他にも、織田信長なども生存説があるようですが、「安倍氏」にも生存説があるとは・・・
でも、「安倍氏」の場合は、上記の超有名人達とは異なり、東北地方だけに伝わる伝説というのは、地味で、まさに東北人らしいと思います。
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さて、これまでの4回では、次のような内容を紹介して来ました。
(1)山岳信仰とは
(2)早池峯信仰とは
(3)早池峯神社とは
(4)「早池峯」と「早池峰」の違い
(5)どこが「早池峯神社」の本坊なのか ?
(6)瀬織津姫命が御祭神の神社
(7)瀬織津姫命とは何者なのか ?
(8)天照大御神は男神なのか ?
(9)鈴鹿権現と瀬織津姫命
(10)熊野権現と瀬織津姫命
(11)瀬織津姫命と天台宗
(12)「安倍氏」とは ?
(13)安倍氏と瀬織津姫命
(14)安倍氏とアラハバキ神
こうして、改めて記載項目を見てみると、かなりの量になる事に、驚いてしまいます。
段々と、「早池峯信仰」に関する話題が薄れてきてしまいましたが、これも「安倍氏」と同様、ローカルな話題なので、仕方がないと思われます。
それに比べて「瀬織津姫命」は、全国的に有名な神様ですから、後半は、どうしても「瀬織津姫命」の話が中心になってしまいます。
そこで今回は、前回ブログの最後で予告した通り、「安倍 宗任」が流罪となった「筑前国宗像」で祀られている「宗像三女神」と「瀬織津姫命」に関して、次の話題を紹介したいと思います。
■「宗像三女神」との関係
■「瀬織津姫命」と「湍津姫命」との関係
■「瀬織津姫命」が生まれた背景
■「瀬織津姫命」とその他の神様/人物との関係
最後の章は、「瀬織津姫命」に関する付録みたいな内容になってしまっています。
それでは今回も宜しくお願いします。
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■「宗像三女神」との関係
日本には、各地に「三女神」の伝承が伝わっています。特に有名なのが、「安倍宗任」との関係で取り上げた「宗像氏」が宮司を務めていた「宗像大社」の「宗像三女神」だと思います。
その他の「三女神」と言えば、本ブログで取り上げた次の「三女神」もいらっしゃいます。
・祓戸三女神 :瀬織津姫命(瀬織津比売)、速開都比売、速佐須良比売
・遠野三女神 :「お初(瀬織津姫命)」、「お六(速開都比売)」、「お石(速佐須良比売)」
「宗像氏」は、第79代の大宮司で嫡流が断絶し、現在では、宮毎に宮司職を設置しているようです。
そして、有名な「宗像三女神」は、次の女神様となります。
・田心姫神(たごりひめのかみ) :沖津宮(おきつぐう)、沖ノ島 → 古事記「多紀理毘売命」
・湍津姫神(たぎつひめのかみ) :中津宮(なかつぐう)、大島 → 古事記「多岐都比売命」
・市杵島姫神(いちきしまひめのかみ) :辺津宮(へつぐう)、宗像本土・田島 → 古事記「市寸島比売命」
本ブログの流れから言えば、次の様な流れになれば、「あ〜、やっぱり、そうなんだ !!」となるのですが・・・この流れは、ちょっと無理があると思います。
→ 従来、古代東北地域では、「巨石」、「滝」、「川」、「巨木」等、様々な自然物が神として信仰されて来た。
→ 「大同元年(806)年」、「始閣藤蔵」が伊豆神社や早池峯神社を建立し、「瀬織津姫命」を御祭神にした。
→ 自然崇拝と「瀬織津姫命」が習合し、御祭神として「瀬織津姫命」を祀る寺社や祠が建立され始める。
→ 「蝦夷」、それに連なる「安倍氏」が、代々「瀬織津姫命」を信仰するようになる。
→ 平安末期、「安倍宗任」が、生き延びて四国/九州に流罪となり、その地でも「瀬織津姫命」を信仰した。
→ 「安倍氏」の信仰が、「宗像氏」に伝わり、「宗像大社」でも、三女神を信仰するようになった。
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ここで、「宗像大社」の由緒/起源を紹介したいと思いますが、「宗像大社」の起源は、神代の時代、「アマテラスとスサノオの誓約(うけい)」に始まると伝えられています。
「アマテラスとスサノオの誓約」とは、高天原を追放された「スサノオ」が、根の国(黄泉の国)に行く前に、姉「アマテラス」に会いに行った際、「アマテラス」と「スサノオ」との間で行われた「占い」、あるいは「賭け」と言われている行為です。
この占いでは、「アマテラス」が、「スサノオ」の「十拳剣(とつかのつるぎ)」を受け取って噛み砕き、口から吐き出した霧から「宗像三女神」が生まれたとされています。
その後、この「三女神」は、天孫降臨で天下った「ニニギノミコト」を助けるために、玄界灘に浮かぶ島々に降り、この地を治めるようになった事が「宗像神社」の始まりとしています。
さらに、その後は、「三韓征伐」神話で有名な「神功皇后」が、この「宗像大社」で戦勝、および道中安全を祈願したことから、以降は、朝廷との繋がりも深め、現在に至っているとされています。
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しかし、これは、事実ではなく、あくまでも大和朝廷が編纂した「古事記」、あるいは「日本書紀」と言う物語の中での話です。
実際、この「宗像信仰」に関係する学術調査を行った静岡理工科大学の報告書では、元々、上記の三女神は、別々の氏族の信仰対象(神様)だったのですが、それが、政治の都合で、「北九州地域」に集められ、現在の「宗像大社」となったとされています。
それが、どの様な関係かと言うと、次の様になっているとしています。
・田心姫神(たごりひめ) :沖ノ島、 出雲氏系の神様
・湍津姫神(たぎつひめ) :大島、 大和朝廷の神様
・市杵島姫神(いちきしまひめ) :田島、 大陸/半島系の海人族の神様
当時(弥生時代後期)の日本は、ちょうど半島経由で「鉄」の流入が始まった時期で、その「鉄」の利権に関わる、大陸/半島系の氏族、出雲系の氏族、それと大和朝廷が「三つ巴」となり、「鉄」を獲得しようと、必死になっていた時期に重なるとしています。
この頃、「鉄」は、半島から「壱岐」や「沖ノ島」を経由して、北九州(宗像氏)や山陰(出雲)や畿内(大和朝廷)に流入していたようです。
そこで、これら関係者(宗像/出雲/大和朝廷)が、「鉄」の管理に関する協定を結んだのが「アマテラスとスサノオの誓約」で、その結果として生まれたのが「宗像大社」、および「宗像三女神」という訳です。
つまり、三氏族の関係者が「鉄」に関する通商協定を結ぶと共に、「鉄」の流入拠点に祠を建立し、そこに各氏族の信仰する神を祀り、「鉄」貿易に関する安全を祈願し、かつ該当地域を管理した、と言う説です。
元々、宗像地域と出雲地域は、古くから、「鉄」その他を通した通商関係が構築されていたようですが、そこに、「大和朝廷側が、横槍を入れるような感じになったとしています。
このため、宗像地域では、「市杵島姫神」や「田心姫神」を単独で祀る神社があるのですが、逆に、「湍津姫神」を単独で祀る神社が存在しない様です。
この事実が、宗像地域における、三女神の微妙な関係を裏付けているとも言われています。
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この学説は、天皇家(宮内庁)や、神社関係者、その他諸々の利害関係者が存在するので、学会として認めるのは難しいとは思うのですが、これまで多くの説を読んできた私的には、一番、スッキリする内容でした。
この説では、北九州各地の神社の御祭神を全て調べ上げ、さらに数種類存在する前述の「誓約神話」の登場人物、並びに人物の変遷等も調べ上げています。
また、「宗像氏」の系図を調べると共に、北九州から出雲に至る、当時の古墳形状や埋葬品などの関係も調べる等、凄く本格的な調査を行っています。まあ、東北地方の情報に関しては、多くの間違った指摘もありますが・・・
単に、記紀や寺社の由緒書の記載内容から、とんでもない想像を膨らましている、いわゆる「スピリチュアル系」のサイトとは大違いです。
つまり、次の様な観点で、「宗像信仰」と「鉄」との関係を見事に調べ上げています。
・「宗像大社」の由緒書と記紀との関係
・北九州、および出雲の神社の配置と御祭神
・北九州、および出雲の古墳形状と埋葬品
・「鉄」の流入経路の調査
・「宗像大社」の配置図(背後関係)の調査
・「宗像三女神」と各氏族の関係
ここまで綿密に調査し、その結果を理路整然とまとめていますので、なかなか凄い学説だと思います。
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そして、この「宗像三女神」と「瀬織津姫命」との関係ですが、「宗像三女神」の内、「湍津姫神」が、時代は解らないにしても、何時の世からか、「瀬織津姫命」と習合したと言われています。
「湍津姫神」の「たぎつ」とは、「滾つ」、つまり、水が激しく流れる様を表すことから、「滝の神」、あるいは「川の神」ともされています。
日本全国に、「滝」、「瀧」、あるいは「多岐」と名の付く多くの神社があり、その御祭神の多くに「湍津姫命」が祀られています。
一方、「瀬織津姫命」も、ずいぶん前に紹介した「大祓詞」では、「瀬織津姫命」は、『 高い山・低い山の頂から勢いよく流れ落ちて渓流となっ ている急流に住んでいる』とされ、こちらも「滝」、および「川」の神様とされています。
また、「湍津姫命」と同様、「滝」、あるいは「瀧」と言う字が付く神社の多くは、「瀬織津姫命」を御祭神にしています。
このため、どちらの女神も、「滝」や「川」等に関係する神であることから同一神と見ている方が多く、先の静岡理工科大学の論文でも、「湍津姫命 = 瀬織津姫命」とみなしています。
さらに興味深いのは、上記「滝」、あるいは「瀧」の字の付く神社では、「湍津姫命」と「瀬織津姫命」を一緒に祀っている神社がほとんど無いそうです。
加えて、「湍津姫命」を祀る地域が多い場所には、「瀬織津姫命」を祀る神社が無く、逆に「瀬織津姫命」を祀る神社が多い地域には、「湍津姫命」を祀る神社が無いそうです。
まあ、岩手県八幡平市の「櫻松(桜松)神社」では、堂々と「瀬織津姫命」と「湍津姫命」の二柱を御祭神としていますので、この調査とは一致しませんが・・・何せ、北九州の「宗像信仰」の調査ですので、その点はご愛嬌かと思います。
そして、これら「排他的」な「御祭神」の配置から推測すると、やはり「瀬織津姫命 = 湍津姫命」となり、どちらも同じ女神で、何時の世からから別名で呼ばれる事になってしまったので、一緒に祀る事が無いのではないかと考えられているようです。
逆に、上記「櫻松神社」では、何故、二柱が一緒に御祭神として祀られているのか ? 逆に、この点の方が興味深いと思います。
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ちなみに、岩手県内で「宗像三女神」関係を祀っている神社は、岩手県神社庁の情報によると、下記18神社となっているようです。
自治体 | 神社 | 田心姫神 | 湍津姫神 | 市杵島姫神 | 瀬織津姫 | |
洋野町 | 有家(うげ)神社 | ● | ||||
久慈市 | 巽山稲荷神社 | ● | ||||
厳島神社 | ● | |||||
八幡平市 | 厳島神社 | ● | ||||
櫻松神社 | ● | ● | ||||
盛岡市 | 松尾神社 | ● | ||||
多岐神社 | ● | |||||
雫石町 | 沼田神社 | ● | ||||
紫波町 | 堤島神社 | ● | ● | ● | ||
遠野市 | 巌龍神社 | ● | ||||
花巻市 | 鏑八幡神社 | ● | ● | ● | ||
西和賀町 | 厳島神社 | ● | ||||
釜石市 | 厳島神社 | ● | ||||
三貫嶋神社 | ● | |||||
北上市 | 市姫神社 | ● | ||||
奥州市 | 鎮守府八幡宮 | ● | ||||
神明神社 | ● | |||||
大船渡市 | 市杵島神社 | ● | ||||
18 | 2 | 4 | 16 | 1 |
北九州や山陰に比べると非常に少ない数となっています。
しかし・・・調査を行う前までは、岩手県に、遥か彼方の「宗像大社」関連の神様を御祭神にしている神社など、存在しないと思っていたのですが・・・それなりに存在しているので、こちらとしては驚いています。
この内、「瀬織津姫命」と「湍津姫命」二柱を一緒に祀っている、珍しい「櫻松神社」がありますが、全国的に見ると、「瀬織津姫命/湍津姫命」の二柱、あるいは「瀬織津姫命/宗像三女神」の四柱を一緒に祀っているのは、この他には、下記3つの神社くらいではないかと思われます。
・辻八幡宮末社「皐月神社」 :福岡県宗像市 瀬織津姫命と宗像三女神
・「宇賀田神社」 :三重県志摩市 瀬織津姫命と五男三女神
・「中津瀬神社」 :山口県宇部市 瀬織津姫命と宗像三女神(配神)
実際には、上記以外の神社もあると思いますが、さすがに、日本全国各地の神社庁のホームページを探す事は出来ませんでした。
それでは、「瀬織津姫命」と「湍津姫命」とは、どのような関係だったのでしょうか ?
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■「瀬織津姫命」と「湍津姫命」との関係
次に、「瀬織津姫命」と「湍津姫命」の関係について考察してみたいと思います。
前述の学説では、「瀬織津姫命 = 湍津姫命」としており、当初は、大和朝廷の代表として、「瀬織津姫命」が、「宗像大社」に祀られていたと考えているようです。
「瀬織津姫命」は、これまで何度も紹介してきた通り、祓戸大神の一柱として非常に重要な神であり、「天照大御神」の「荒ぶる魂(荒御魂)」としても重要な神様です。
このため、「宗像大社」を始め、全国の神社で、現在、「湍津姫命」を御祭神として祀っている神社では、その昔は「瀬織津姫命」を御祭神として祀っていたのではないかとしています。
そして、前述の通り、何時の頃からか、御祭神が「湍津姫命」に変えられてしまったとしています。
「瀬織津姫命」が、別の御祭神に変えられてしまった理由としては、次のように諸説入り乱れています。
・記紀において、男神「天照大御神」が、女神とされてしまったので、その妻「瀬織津姫命」が邪魔者となってしまった。
・天皇の正統性を確立した第41代「持統天皇」を、「天照大御神」と同一視させる過程で、やはり「瀬織津姫命」の存在が邪魔になってしまった。
・「瀬織津姫命」が、蝦夷の守護神とされていたので、蝦夷討伐と同時に「瀬織津姫命」も抹殺されてしまった。
確かに、これまで紹介してきたブログの内容を考えると、どの説も、それなりの説得力があるように思えますが、何かイマイチです。
しかし、何れの説も、その背景には、次のようなキーワードが潜んでいるように見受けられます。
・第40代「天武天皇」、および、その妻である第41代「持統天皇(女帝)」の影響
・「日本書紀」の編纂開始と成立
・「持統天皇」による第1回神宮式年遷宮の実施
・大陸/半島との外交活動の影響
特に、第41代「持統天皇」は、有能と言う評価の反面、政治的野心が強い人物と言う評価が非常に多く、夫である第40代「天武天皇」の生前から、政治に関しても数多く口出しをしたと伝えられています。
また、自身の在位期間、さらに、自身の孫となる「軽皇子(後の文武天皇)」に譲位した後も、強い影響力を行使していたとされています。
さらには、前述の通り、自身の孫を天皇に付けるため、「天武天皇」の息子ではありますが、別腹の長男「高市皇子」、および三男「大津王子」を暗殺したとも伝えられる猛女です。
天皇家、さらには自身の神格化を図るためであれば、歴史や事実を「捻じ曲げる」事など、何とも思わない人物であったと思われます。
このため、「持統天皇」にとっては、「日本書紀」は、とても重要な書物になりますので、その中から、「不都合な真実」を消し去ると共に、事実を捻じ曲げる事になったと思います。
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それでは、何故、「大和朝廷」側、つまり「持統天皇」が、日本書紀の「アマテラスとスサノオの誓約(うけい)」神話で、「瀬織津姫命」ではなく「湍津姫命」を登場させたのかと言うと、それは、大きくは次の2点が原因とする説があるようです。
●外交関係上の問題
●神様の出自の問題
「持統天皇(645〜703年)」の時代、7世紀中頃から後半に掛けては、大陸には「唐」、半島には、「高句麗」、「新羅」、そして「百済」の三国が並立する時代でしたが、668年以降は、「新羅」が、半島を統一していました。
そして、日本では、630年から遣唐使と言う名称で唐には朝貢しつつも、新羅からは、逆に朝貢を受けると言う複雑な関係だったようですが、663年の「白村江の戦い」で、「唐・新羅」連合軍に大敗しているので、戦後処理や失地回復に必死だったと思います。
しかし、その後、唐と新羅が半島の支配を巡り交戦状態となり、その結果、唐、および新羅の双方から通交を求められ、外交状況は好転していたようです。
そんな状況で、「天武天皇(在位673〜686年)」が、国史の編纂を決定し、その意志を継いだのが「持統天皇」です。
このため、「日本書紀」は、日本国内は当然、大陸や半島の国々に対しても、日本と言う国の生い立ちや、天皇の正統性を伝える事で、国家としての歴史と独立性を伝える重要な書物になると考えるのが当然だと思います。
他方、「瀬織津姫命」と言う神様の生い立ちは、(詳しくは別章で紹介しますが)渡来人、特に「新羅」系の渡来人に由来すると考えられています。
このため、この「セオリツ」と言う言葉の生い立ちは、明治時代の言語学者「金沢庄三郎」によると、元々は、古代韓国語「ソ」、「プル」、「ツ」の3語から形成されているとされています。つまり、
「ソ」・「プル」・「ツ」 :ソ = 大きな or 鉄、プル = 邑(村)、ツ = (助詞)の → 大きな鉄の村 → 新羅
↓
「ソ・ホリ・ツ」 :大きな村、現在の「ソ・ウル」と言う韓国語と同じ
↓
「セオリツ」姫 :大きな村の姫
この通り、「セオリツ姫」とは、元の意味を辿ると、古代韓国語で「大きな村の姫」、「ソウル姫」となってしまいます。
前述のように、日本を、神々が作った独立国家として諸外国に認めさせようとしている時に、その神々の中でも、比較的重要な神の名が「ソウル姫」では話になりません。
特に、「新羅」とは、「白村江の戦い」で大敗した直接の相手国でもありますので、その相手に対して、日本の神は「ソウル姫」、さらに元の名前は「大きな鉄の国の姫」 = 「新羅姫」等とは、口が裂けても言えません。
このため、神の名前が変えられたのは当然と言えば当然だと思います。
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他方、神様の地位も問題になったようです。
「瀬織津姫命」以外の「宗像三女神」は、「田心姫命」と「市杵島姫命」ですが、こちらの二柱の神々は「土着の神様」、いわゆる「国津神」です。
神様に関しては、様々な分類方法がありますが、その一番のベースが、次の2種類です。
国津神(くにつかみ) :元々、昔から日本にいた土着の神、地神。例:大国主、建御名方神、猿田彦、須佐男命、等
天津神(あまつかみ) :高天原にいる神、および地上に降臨してきた神。例:天照大御神、月読命、武甕槌命、等
ところが、「瀬織津姫命」は、「天津神」のメンバーです。このため、そのままでは、「宗像三女神」には入ることが出来なかったと思われます。
そこで、「湍津姫命」と言う、新しい「国津神」を作り出し、その上で「宗像三女神」としたのだと考えられています。
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これらの理由で、「瀬織津姫命」が歴史から抹消され始めたのですが、北九州、山陰、畿内、そして、その後の大和朝廷の影響力が広がるにつれ、「瀬織津姫命」の名も、どんどん抹殺されてしまったのだと思いますが、一部の地域、例えば、岩手県や静岡県等、中央から離れた場所は、「改名の網」から漏れてしまったのだと思います。
ところで、何故、「瀬織津姫命」の名が、「湍津姫命」になったのかというと、詳しいことは、当然解っていませんが、やはり、「大祓詞」の影響があるとしています。
「大祓詞」では、「瀬織津姫命」に関しては、次の様な場所にいらっしゃるとしています。
『 高山の末低山の末より 佐久那太理に落ち多岐つ 早川の瀬に坐す瀬織津比売と伝ふ神 』
この「多岐つ」と言う言葉がキーワードです。「多岐つ = タギツ = 湍津」です。
つまり、前述のように、「湍津(たぎつ)姫」の「たぎつ」とは、「瀬織津姫命」をいらっしゃる場所を形容する言葉を起源にしていると推測されています。
この名前の起源から「瀬織津姫命 = 湍津姫命」と考えられるとしています。
それでは、「大祓詞」に登場する「瀬織津姫命」ですが、元々、どのような神様だったのでしょうか ?
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■「瀬織津姫命」が生まれた背景
「瀬織津姫命」に関しては、これまで何度も紹介してきた様に、現在の神道関係、および記紀においては、各地の御祭神として祀られているか、あるいは祝詞の一種「大祓詞」にのみ登場する神様ですが、どのような過程を経て、何時生まれて、どのような性格やご利益がある神様なのか等、一切、解らない状況です。
唯一、「大祓詞」の中で、住んでいる場所と、罪穢れの祓い方が紹介されている程度です。
『 遺る罪は在らじと 祓へ給ひ清め給ふ事を 高山の末低山の末より 佐久那太理に落ち多岐つ 早川の瀬に坐す瀬織津比売と伝ふ神 大海原に持出でなむ 』
→ こうして祓い清められた全ての罪は、高い山・低い山の頂から勢いよく流れ落ちて渓流となっている急流にいらっしゃる瀬織津比売と呼ばれる女神が大海原に持ち去ってくださるだろう
罪穢れを払い去って下さる事は、本当に、ありがたいのですが・・・
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「セオリツヒメ」に関しては、本ブログでは、便宜上「瀬織津姫」と言う漢字に統一して使っていますが、それ以外は、次の様な漢字で表されています。
・瀬織津比竎
・瀬織津比売
・瀬織津媛
特に「ヒメ」と言う漢字ですが、上記「比竎」、「比売(賣)」、「媛」以外では、「日女」、「火売(賣)」、そして「姫」等と言う漢字があります。
何で、こんなに沢山「ヒメ」という字があるのかと思ってしまいますが、この件に関して、先の学説では、元々、「女神」を表す「ヒメ」と言う字は、「比竎(ひめ)」と言う字しか存在しなかったようです。
他方、「比竎」と言えば、「比竎神」、あるいは「比竎大神」と呼ばれる女神がいます。
そして、「比竎(大)神」と言う神様ですが、現在の説では、「比竎神」と言う特定の神様は存在せず、主祭神の親族や関係の深い神様を、主祭神の配神として祀るケースが多いとされています。
また、「比竎(大)神」を祀る神社として有名なのが、下記の神社となります。
・大分県宇佐市「宇佐神宮」 :主祭神「八幡神(応神天皇:誉田別尊)」、「比竎大神(宗像三女神)」、「神功皇后」の三柱。全国約44,000社の「八幡宮」の総本社。
・石川県白山市「白山比竎神社」 :主祭神「白山比竎大神(菊理媛命)」、「伊邪那岐(イザナギ)尊」、「伊弉冉(イザナミ)尊」の三柱。全国約2,000社の「白山神社」の総本社。
・奈良県奈良市「春日大社」 :主祭神「武甕槌(タケミカズチ)命」、「経津主(フツヌシ)命」、「天児屋根(アメノコヤネ)命」、「比竎神(天児屋根命の妻)」の四柱。藤原氏の氏神を祀る神社。
・熊本県阿蘇市「阿蘇神社」 :主祭神「健磐龍(タケイワタツ)命」、「阿蘇都比竎命」他十柱、合計「阿蘇十二明神」。全国約450社の「阿蘇神社」の総本社。
そして、上記4つの神社は、現在は、全く異なる御祭神を祀る神社ですが、その始祖を辿れば、当初は、全て新羅系渡来人を祀っていた神社ではないかと考えられています。
・宇佐神宮 :応神天皇を祀る神社であるが、元は、新羅系渡来人「秦氏」の氏神を祀っていたと思われる。
・白山比竎神社 :「白山」自体を御神体とし、新羅系渡来人「秦氏」の子孫と伝わる「秦澄」が開山した神社。
・春日大社 :中臣氏(後の藤原氏)の氏神を祀る。中臣氏は、新羅系「秦氏」の一族と見られる。
・阿蘇神社 :「阿蘇氏」の始祖を祀る神社。「阿蘇氏」は、新羅系渡来人「多氏(おおうじ)」の子孫と伝わる。
他方、日本の神様には、ランクがあるのはご存知ですよね ?
よく、稲荷神社などには、「正一位稲荷大明神」と言う「ノボリ」がひるがえっているのを見たことがあると思いますが、この「正一位」と言うのがランクの一種となります。
「神様のランク」、正式には「神階」と呼ばれるものですが、人臣に授ける階位と同じ仕組みで、次の3種類あります。
【 文位 】
別名「位階」とも呼ばれ、「正六位」から「正一位」までの15階の位と階位を超越した神社、計16種類の位がある。例えば、「六国史」完成時点の神階は、次の通りです(※六国史以降は神階を乱発)。
位階超越 :伊勢神宮「伊勢大神」、國懸神宮「國懸(くにかかす)神」、日前神社「日前(ひのくま)神」
正一位 :宮中の八神、春日大社「春日神」、大名持神社「大己貴(おおなむち)神」、等
従一位 :宮中「宗像三比竎神」、廣田神社「広田神」、住吉大社「住吉神」、諏訪大社「建御名方神」、等
正二位 :熱田神宮「熱田神」、宗像大社「三比竎神」、二荒山神社「二荒神」、阿蘇神社「健磐龍神」、等
従二位 :月山神社「月山神」、熊野大宮神社「熊野巫神」、鳥海山大物忌神社「大物忌神」、等
正三位 :白山比竎神社 「白山比竎神」、富士山本宮浅間大社「浅間神」、金峯神社「金峰神」、等
従三位 :阿蘇神社「阿蘇比竎神」、波比売神社「波比売神」、伏見稲荷大社「稲荷神」、等
以下は、正四位、従四位上、従四位下、正五位、従五位上、従五位下、 正六位、従六位上、従六位下
【 武位 】
別名「勲等」、「勲位」とも呼ばれる階位で、「勲十二等」から「勲一等」までの12等があり、武勲を上げた神様に授けられる。「神様の武勲」とは、戦勝祈願を行った際、実際に戦に勝利した場合など。
勲一等 :春日大社「春日神」、香取神社「伊波比主(いわいぬし)神」、鹿島神宮「武甕槌神」、等
勲二等 :松尾大社「松尾神」、葛城一言主神社「葛城一言主神」、等
勲三等 :鳥海山大物忌神社「大物忌神」、大和神社「倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)」、等
勲四等 :二荒山神社「二荒神」、等
勲五等 :阿蘇神社「健磐龍神」、日高見神社「日高見水神」
【 品位 】
人に授ける場合は皇族のみで皇族の位階を表す。神に授けた例は殆ど無い。中国の「九品」に由来し、新羅の「骨品制」がある。
一品 :宇佐神宮「八幡神」/「八幡比竎神」、伊弉諾神宮「伊弉諾神」
二品 :吉備津神社「吉備津彦命」
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「神様」にも階位を付けるなど、「無礼千万」な感じがしますが、「律令制」が導入された当初は、「神階」の順に応じて土地を支給する制度があったそうですが、その内に、「位田」の支給は無くなり、栄誉/名誉的な要素が強くなったようです。
「神階」は、当初、神官や国司の申請に基づき公卿が検討し、天皇への奏聞(そうもん)を経て決定していたのですが、平安時代になると神官や国司が、室町時代以降は「吉田家」が、「宗源宣旨(そうげんせんじ)」と呼ばれる宣旨で、勝手に神階を発行するようになってしまったようです。
「神様」に、最初に「位階」を授けた事に関しては、「日本書紀」に、「壬申の乱(673年)」に際して、大海人皇子(後の天武天皇)を守護したとして位を授けた、と言う記述があるそうです。
・高市御県坐鴨事代主神(たけちのみあがにますかものことしろぬしのかみ)
・牟狭坐神(むさにますのかみ)
・村屋坐弥富都比売神(むらやにますみふつひめのかみ)
「武位」に関しては、「藤原仲麻呂の乱(765年)」に際して、霊験を現したとして、琵琶湖の竹生島にある「都久夫須麻神社」の「都久夫須麻神」に「勲八等」を授けた事が記録されているようです。
そして「品位(ほんい)」ですが、奈良時代の「天平勝宝元年(749年)」に、「宇佐神宮」の「八幡神」と、その妻となる「八幡比竎神」に、それぞれ「一品」、および「二品」を授けたとしています。
本ブログを書く前は、「正一位の神社は凄いご利益があるんだろうな〜」等と勝手に思い込んでいたのですが・・・、こうして調べてみると、現在「正一位」とか謳っている神社も、「何だかな〜」と言う感じがしてしまいます。
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しかし、「宇佐神宮」の「八幡神/八幡比竎神」の取り扱いは「異例中の異例」だと思います。
まあ、「伊弉諾神宮」や「吉備津神社」の扱いも特別ですが、こちらは、「品位」が授けられたのは9世紀とされていますので、やはり「宇佐八幡」は、特別なのだと思います。
「宇佐八幡」の主祭神は、前述の三柱ですが、一之御殿の御祭神は「八幡大神」とも呼ばれている「応神天皇(諱:誉田別尊(ほむたわけのみこと)」になっています。
これは、第29代「欽明天皇(在位539〜571年)」の時代となる569年、宇佐の地に、1つの身体に頭が8個ある「鍛冶翁(かじのおきな)」が現れ、この姿を見た者が、病気になったり、死んでしまったりしたそうです。
これを聞いた「大神比義(おおがのひぎ)」と言う「大神」氏の始祖となる人物が見に行くと、既に翁はおらず、代わりに「金色の鷹」がおり、この鷹も「金色の鳩」に姿を変えたそうです。
その後、この地で祈祷をすること三年、三才の童子が現れ、次の託宣(たくせん)を告げた後、「黄金の鷹」になり松の枝に止まったとされています。
『 われは誉田(ほむだ)の天皇(すめらみこ)広幡(ひろはた)八幡麿(やはたまろ)なり。わが名は、護国霊験(ごごくれいげん)威力神通(いりょくじんつう)大自在王菩薩(だいじざいおうぼさつ)で、 神道として垂迹せし者なり。 』
その後、飛鳥時代となる「和銅元年(708年)」、松があった地に「八幡様」を祀る「鷹居社」を創建し、さらに現在の地に遷宮をしたのが「宇佐神宮」とされています。
そして次の、二之御殿には、上記の「品位」の説明では、「八幡比竎神」として、「八幡神」の妻を祀るとしていますが、実際は、宗像三女神となる「多岐津(たぎつ)姫命」、「市杵嶋姫命」、「多紀理(たぎり)姫命」が祀られています。
実は、この三柱は、「八幡神」を祀るより以前、神代の時代には、既に「宇佐嶋」に降臨した事が「日本書紀」に記載されおり、「地主神」として祀られていたそうですが、これを「天平5年(733年)」、二之御殿として祀ったものとされています。
最後に、三之御殿には、二之御殿より遅れること100年、平安時代「弘仁14年(823年)」に、「神功皇后」が祀られているようになったとされていますが、「神功皇后」は、「応神天皇」の母親とされていますので、宇佐においても「母神」と言う位置付けになっているようです。
さて、「宇佐神宮」が、神階の「品位」を授かった理由ですが、「応神天皇」を祀っている事が理由では無いようです。
「聖武天皇」の御代、奈良時代となる「天平15年(743年)」の東大寺造営の際、宇佐神宮の宮司等が、託宣を携えて上京し、造営を支援したことから中央との結びつきを強め、その結果として「品位」を授かったと言われています。
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さて、神様の階級について触れましたが、先の学説では、「ヒメ」と言う字にも、階級があるとしています。
前述の通り、元々、「ヒメ」と言う字は、「比竎」と言う字しか存在しなかったとしています。
その証拠としては、神社に、複数の女神が祀られている場合、主祭神には「比竎」の文字が使われ、それ以外の女神には、「比竎」以外の文字、「比売(賣)」、「媛」、「日女」、「火売(賣)」、そして「姫」が使われているようです。
そして、「祓戸三神」や「宗像三神」等、同格の女神が祀られている場合は、全ての女神に「比竎」の字が使われているようです。
他方、例えば、同じ女神でも、「比竎」が付くケースと、「比竎」以外、例えば、「比売(賣)」が付けられるケースがありますが、「比竎」が付く時には主祭神で、「比売」等が付く時には「配神」となるケースが多く見受けられます。
さらに、同じ「比竎」が付く女神でも、次の順位となっているように見受けられるとしています。
八幡系 → 春日系 → 白山系 → 祓戸系
これは、例えば、八幡系と白山系の女神が二柱祀られている場合、八幡系は「比竎」となり、白山系は「比賣」となるという現象です。
何か、「カードゲーム」の強さを競っているような感じですが、やはり「品位」が高い、八幡系の「比竎」が、最も尊ばれていたようです。
それでは、どうして八幡系「比竎」が、最も尊ばれるのかと言うと、やはり、国内への伝播が速かった事が順位/強さに影響を与えているようですが、前述の通り、ほぼ全ての「比竎神」は、新羅系渡来人が持ち込んだ神様です。
これらの事から、「比竎神」とは、当初は、単一の神を示していると考えられています。
このため、当初の「比竎神」と区別するため、後から生まれた女神には、「固有名詞 」+「比竎」が付けられ、その順位/権威により、「比竎」が付いたり、「比売」が付いたりしたのではないかと考えられています。
ちなみに、「比竎」が付く女神でも、「菊理媛(くくりひめ)命」には、別のルーツがあるとも考えられています。
前述の説明では、「白山神社」も、新羅系渡来人「秦氏」の血を引く「泰澄」が開山した「白山比竎神社」が総本社ですので、こちらも新羅系の「比竎」を祀るとしましたが、この「ククル」については、様々な説があるようです。
・括る :「日本書紀」で「イザナギ」が黄泉の国から帰る場面で、「イザナミ」との仲を取り持ったと言う説
・高句麗 :「くくり=こうくり(高句麗)」とし、高句麗系渡来人の「比竎神」ではないかとの説
・潜る :「くぐる」。水との関係で「水神」と言う説
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さて、それでは、「最初の比竎神は、誰だったのか ? 」と言う点が問題になります。
漢字はさて置き、「ヒメ」と言うのは、元々、女性に付けられる尊称で、古くは、女性の族長/首長を表していたとされています。
日本、3世紀当時の「倭国」における「女性の族長/首長」と言うと、皆さん、誰を思い浮かべますか ?
また、「ヒメ」と言う字に当てられた「比竎」ですが、これを「ヒメ」と読むのは、おかしいと思いませんか ?
通常、「比竎」という漢字は、「ヒミ」と読むのが普通で、その昔は、やはり「比竎」と書いて「ヒミ」と読んでいたとされています。
このため、宇佐神宮に祀られていた女神「比竎」は、「ヒメ」ではなく「ヒミ」と言う女神が祀られていたと考えられています。
と言うことで、先の学説では、当時の「倭国」で、女性の族長/首長で、名前に「ヒミ」が付くと言えば、「卑弥呼」しか思い当たらないとしています。
そして、「卑弥呼」の「呼」は、元々は、「乎」と言う漢字で、この字は、神の名を呼ぶ際、神の名を強調するための感嘆符「!(エクスクラメーションマーク)」とされていますので、「比竎」と言う神を呼ぶ際、「ヒミ !」と呼んでいたものが、「ヒミコ」として「魏志倭人伝」に記録されたものだと考えれています。
以上の事から、宇佐神宮に祀られていた「比竎大神」は「卑弥呼」であり、ここを起源として、新羅系の渡来人が各地に拡散すると同時に、「比竎大神」も日本各地に祀られるようになったと考えれています。
ところが、その後、「瀬織津比竎」を始め、様々な女神が登場すると、オリジナルの「比竎大神」と区別するために「固有詞 + 比竎」と言う表記方法になって行ったと推測されています。
「瀬織津比竎」の場合、前述の通り、オリジナルの「比竎 = 卑弥呼」と区別するために、「比竎」の前に、「大きな鉄の国 = ソウル」を付けて「ソウル + 比竎 = 瀬織津比竎」になったと考えられます。
その後、日本書紀の編纂、そして完成を迎えるまでの間に、「瀬織津比竎」が「湍津比竎」に強制的に変更させられ、さらに「比竎」と言う漢字も、徐々に「姫」と言う漢字に変わって行ったのだと考えられています。
しかし、中央から遠く離れた東北、特に岩手県、それと新羅系の渡来人が数多く住んでいた静岡県に関しては、大和朝廷の監視の網から漏れてしまい、今に至るまで御祭神としての「瀬織津比竎」が残ったままになってしまったのだと思います、
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■「瀬織津姫命」とその他の神様、人物、物との関係
さて、本シリーズの最後となりますが、「瀬織津姫命」と習合しているとされる、その他の神様や人物を紹介したいと思います。
最初に「織姫」を紹介します。
日本における「織姫」は、「七夕伝説」で有名ですが、その起源は、中国の「道教」の「牛郎織女(ぎゅうろうしゅくじょ)」と言う七夕伝説に登場する「仙女」と言われています。
また、平安時代に編纂された神道の書物「古語拾遺」においては、過去ブログで紹介した「天の岩戸」伝説に登場し、「天照大御神」に献上する衣(神衣和衣)を織った「天棚機姫神(あめたねばたひめ)」と同一視しているようです。
他方、「瀬織津姫命」には、その名前に「織」と言う字が付くことから、この「織姫」と習合させているケースも多く見受けられます。
しかし、こちらの説、つまり「瀬織津姫命 = 織姫」説は、現在の所、ほぼ何の根拠も裏付けもない説のように見受けられます。
「瀬織津姫命」が、謎の多い神様であることをいい事に、スピリチュアル系の方々が、勝手に習合してるだけのようです。
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次は、京都市にある「貴船神社」の御祭神「高龗神(たかおかみのかみ)」と習合しているケースも見受けられるようです。
この御祭神は、日本書紀では「高龗神」と表記され、古事記では「淤加美神(おかみのかみ)」と表記されているそうですが、水の神様「水神」とされています。
前述の「宗像大社」がある宗像市の隣の福津市津屋崎には「波折神社」がありますが、この神社の御祭神が「瀬織津姫命」となっております。
そして、江戸時代の『筑前国続風土記付録』には、この「波折神社」の御祭神は「貴船神」と記載されてるそうです。
福岡藩の国学者「青柳 種信」は、この「波折神社」の由緒書を作成する際、「当社に祭るところの神は瀬織津姫大神また木船神とも称え申す」としたそうです。
また、「宗像大社」に伝わる古文書で、鎌倉時代末に編纂された「宗像大菩薩御縁起」には、「貴船大明神が大宮司館に祀られていた。」とされていますので、「宗像大社」と「高龗神」は、密接に繋がっていたと思われます。
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「瀬織津姫命」は、これまで何度も紹介した通り、「大祓詞」に登場する「祓戸四柱」の一柱で、清流に住んでいるとされるところから、水や滝、それと龍神様と習合するケースも多く見られます。
上記の「高龗神」/「淤加美神」も、水神様とされていますので、まさに、この関係だと思います。
日本全国、到る所で、滝(瀧)に関係する神社には、「瀬織津姫命」が御祭神になっている神社が沢山あります。
このように、滝(瀧)、および河川に、「大蛇」、あるいは「竜(龍)」と関連付けているケースもあるので、水や蛇、あるいは滝と言うキーワードに関連する、神社の多くに「瀬織津姫命」が祀られています。
さらに、元々は、ヒンドゥー教の女神「サラスヴァティー」だった「弁財天」が、仏教の伝来と同時に日本にも伝わり、様々な神仏と習合して祀られるようになりました。
この女神は、インドに於いては「河川の神様」だった事から、日本でも、「水関係」と結び付いて祀られたのですが、やはり「水関係」と言うことで、「瀬織津姫命」と習合したケースも見受けられます。
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その他は、と言うと「瀬織津姫命」と「鉄」の関係です。
「瀬織津姫命」と「鉄」の関係としては、前述の通り、「瀬織津姫命」が、「大きな鉄の国の姫」を意味していると言う説がある通り、「鉄」とは密接な関係があると言われています。
そして、日本において「鉄」と言うと、「金山様」、あるいは「金山彦命」がいらっしゃり、どちらも「鍛冶屋の神様」と言われています。
しかし、「金山様/金山彦命」と「瀬織津姫命」とは、実際には、余り結び付いていないように見受けられます。
一部の神社で、御祭神として一緒に祀られいるケースも見受けられますが、その関係は希薄です。
前述の学説では、「瀬織津姫命」と「鉄」は、「宗像大社」をめぐり、非常に強い関係が築かれているようだったのですが、何か意外な感じがします。
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最後に、「瀬織津姫命」と習合した者として、三途の川で、亡者の衣類を剥ぎ取る「奪衣婆(だつえば)」を紹介しますが・・・こちらも、確かな証拠や根拠は無い様に見受けられます。
「奪衣婆」は、別名「葬頭河婆(そうづかば)」、「正塚婆(しょうづかのばば)」、「姥神(うばがみ)」、あるいは「優婆尊(うばそん)」等とも言われる女性です。
そして、この「奪衣婆」は、三途の川で、次のような行為を行うと伝えられています。
・亡者が盗みを働かないように指の骨を折る
・亡者の衣類を剥ぎ取る
・服が無い亡者の場合、皮を剥ぎ取る
・剥ぎ取った衣類の重さで、生前の業の深さを測り、死後の処遇を決める
また、「奪衣婆」が剥ぎ取った衣類を、川の畔にある「衣領樹」と言う大樹に掛けて、その重さを測る「懸衣翁(けんえおう)」と言う老人も居るそうですが、何故か、「奪衣婆」のみがクローズアップされ、この「懸衣翁」の影は薄くなってしまったそうです。
そして、この「奪衣婆」と「瀬織津姫命」の関係ですが、一説では、この「衣類を剥ぎ取る」行為が、人間の穢を払う行為と同一視され、その結果、「奪衣婆」と「瀬織津姫命」が習合したと言われているようです。
しかし、この説も、何の根拠も無く、信憑性が薄いようです。
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以上が、「瀬織津姫命」と習合した、代表的な神様や人物となります。
しかし、何度も記載していますが、「瀬織津姫命」自体、謎だらけの神様なので、皆さん、特にスピリチュアル系の方々は、好き放題、様々な者に習合してしまっています。
「鬼女」として有名な「橋姫」、「浦島太郎」伝説に登場する「乙姫」、「宗像三女神」の一柱「市杵島姫神」、「天照大御神」の弟「月読命」・・・もう、本当になんでもありの状況です。
このような状況ですので、「瀬織津姫命」は、今後も、自分の都合の良い神様や人物に習合され続けて行くのだと思われます。
余計、訳が分からない神様になってしまうような感じがします。
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もはや、「早池峯信仰」は影も形も無くなってしまいましたが、「瀬織津姫命」に関して、次の内容を紹介しました。
■「宗像三女神」との関係
■「瀬織津姫命」と「湍津姫命」との関係
■「瀬織津姫命」が生まれた背景
■「瀬織津姫命」とその他の神様/人物との関係
今回は、シリーズの最後として、「瀬織津姫命」と言う女神が生まれた経緯を、「宗像信仰」に関係する学術調査を行った静岡理工科大学の学説をベースとして紹介しましたが如何でしたか ?
「瀬織津姫命」の正体に関しては、諸説入り乱れて、何が何だか解らない状況になってしまっていますが、私としては、今回紹介した説が、現在の状況では、一番筋が通った内容になっているのではないかと思っています。
本シリーズでは、当初、「早池峯権現 = 瀬織津姫命」とし、その「瀬織津姫命」が、実は、「熊野権現」であると言う、数々の証拠を紹介して来ました。
しかし、「早池峯信仰」に関しては、そのオリジナルが「熊野信仰」である事が明らかになった時点で、その役目が終わりを迎えてしまった訳ですが、これは、(言い訳ではありませんが)最初から予想した通りのシナリオです。
「早池峯権現 = 瀬織津姫命」に関しては、既に2015年のブログで紹介していますので、今回は、当初から「瀬織津姫命」の謎を追求しようと思っていました。
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「瀬織津姫命」は、信仰よりも政治が優先され、その結果、歴史から消えてしまった可愛そうな女神だと思いますが、神道も仏教も、結局の所は、為政者の都合により広がった信仰ですから、これは宿命とも言えるかと思います。
神様も仏様も、ある時点で、「こんな神様や仏様が居れば良いな〜」と言うことで誕生した存在です。
自然信仰の場合、山で安定した生活を暮らしたければ「山神様」、水が欲しければ「水神様」、海で大漁を祈願する時には「海神様」・・・全て人間の都合を優先して生まれた神様です。
また、大和朝廷、特に「天皇」の正当性を伝えるために生まれたのが、「伊邪那岐/伊邪那美」、それと「天照大御神」を始めとした神道系の神様達です。
そして、大和朝廷が、全国制覇を目指し、自然崇拝で祀られていた神様を淘汰し、全てを神道系の神様に置き換える行為が行われたのが、「持統天皇」以降の動きなのだと思います。
さらに、これらの神様では事足りず、海外から輸入したのが仏教で、その中心が、「如来」であり「菩薩」となります。
また、仏教に関しては、これら「如来」や「菩薩」でも人間を改心させることが出来ないと分かるや、インドの古代信仰やヒンドゥー教、あるいはゾロアスター教の神々までも「天部」として仏教に取り込んでいます。
その後、「本地垂迹思想」の元、「神道の神様」と「仏教の仏様」を同一視させたのは、過去に、自然崇拝で祀っていた神様を、神道系の神様に置き換えた考えや行為と全く同じです。
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本当に、人間、特に何らかの権力を持つ者の「欲」は際限ありません。
信仰対象を生み出した者達は、自分の考えを他人に押し付けるために、起きた事柄を都合よく捻じ曲げます。
そして、挙げ句の果てには「聖戦だ !」、「仏敵だ !」とホザイて、自分達の信仰を信じない者を攻撃し出します。
それが、過去の「十字軍」であり、現代では、カトリック系武装組織「IRA」であり、「イスラム教徒」による数々のテロ行為です。
また、日本の「オウム真理教」は、トンデモナイ行為を行った宗教団体として非難されていますが、これが1,000年前ならば、当然、当時の為政者からは迫害されるとは思いますが、当時の宗教家としては、普通の行為だったのではないかと思われます。
1,000年前に「オウム真理教」が誕生し、今日まで活動が続いていれば、現在では多数の信者を抱える、一大宗教となっていた可能性も否定出来ないと思います。
今回紹介した「瀬織津姫命」も、冷淡な言い方をすれば、結局の所、政治の都合で生まれ、また政治の都合で表舞台から消された女神と言う事と言うのが全てなのだと思います。
それでは次回も宜しくお願いします。
以上
【画像・情報提供先】
・Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)
・岩手県神社庁(http://www.jinjacho.jp/)
・風琳堂(http://furindo.webcrow.jp/index.html)
・花巻市ホームページ(https://www.city.hanamaki.iwate.jp)
・レファレンス協同データベース(http://crd.ndl.go.jp/reference/)
・Yahoo/ZENRIN(https://map.yahoo.co.jp/)
・千時千一夜(https://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo)
・公益財団法人岩戸山保存会(http://www.iwatoyama.jp/)
・IKUIKUの愉しみ(http://ikuiku-1919.at.webry.info/?pc=on)
・田村神社(http://tamura-jinja.com/index.htm
・いわての文化情報大事典(http://www.bunka.pref.iwate.jp/
・むなかた電子博物館(http://www.d-munahaku.com/index.jsp)
・宇佐神宮(http://www.usajinguu.com/index.html)
早池峰信仰と瀬織津姫命 〜 謎多き姫神に触れる その5
今回は、これまで紹介して来た「早池峰信仰と瀬織津姫命」の続編となる「その5」を紹介します。
★過去ブログ:早池峰信仰と瀬織津姫命〜謎多き姫神に触れる その1(20180623)
:早池峰信仰と瀬織津姫命〜謎多き姫神に触れる その2(20180721)
:早池峰信仰と瀬織津姫命〜謎多き姫神に触れる その3(20180818)
:早池峰信仰と瀬織津姫命〜謎多き姫神に触れる その4(20180922)
前回は主に、岩手県では今もヒーロー扱いとなっている「安倍氏」と「瀬織津姫命」との関係について紹介しました。
その中で、「安倍氏」にも、「源 義経」と同様、「実は戦死していない」と言う伝説が残っていたのには驚いてしまいました。
日本の伝説で、「源 義経」を始めとして、「実は生きていた 」とされる人物には、次のような人物がいます。
・安徳天皇 :日本全国各地に「安徳天皇稜」が存在している。(30箇所)
・源 義経 :ご存知、北海道経由でモンゴルに渡り、チンギス・ハーンになった。
・武田 勝頼 :死んだのは影武者で、本人は高知県に逃れ「大崎玄蕃」と改名し慶長14年に死去した。
・明智 光秀 :実は「天海和尚」となり徳川家康のブレーンとして豊臣家滅亡に尽力した。
・豊臣 秀頼 :「真田信繁(幸村)」の手引きで一緒に九州に逃げ、島津家の庇護のもと生活していた。
・真田 信繁 :幸村は、秀頼と一緒に薩摩に落ち延びた。
・島 左近 :石田三成のブレーンだった左近は、関ヶ原から落ち延び、京都の伊吹山で隠遁生活をしていた。
・大塩 平八郎 :とにかく逃げ延び、中国、あるいはロシアに渡った。
・西郷 隆盛 :官軍の囲みを突破してロシアに逃亡し、ロシア軍の教官となり日露戦争を先導した。
こうした「実は生きていた」人物を見てみると、ある特徴があるように思えます。それは、次のような点です。
・民衆に人気がある人物
・死が惜しまれた人物
・悲劇の主人公
その他にも、織田信長なども生存説があるようですが、「安倍氏」にも生存説があるとは・・・
でも、「安倍氏」の場合は、上記の超有名人達とは異なり、東北地方だけに伝わる伝説というのは、地味で、まさに東北人らしいと思います。
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さて、これまでの4回では、次のような内容を紹介して来ました。
(1)山岳信仰とは
(2)早池峯信仰とは
(3)早池峯神社とは
(4)「早池峯」と「早池峰」の違い
(5)どこが「早池峯神社」の本坊なのか ?
(6)瀬織津姫命が御祭神の神社
(7)瀬織津姫命とは何者なのか ?
(8)天照大御神は男神なのか ?
(9)鈴鹿権現と瀬織津姫命
(10)熊野権現と瀬織津姫命
(11)瀬織津姫命と天台宗
(12)「安倍氏」とは ?
(13)安倍氏と瀬織津姫命
(14)安倍氏とアラハバキ神
こうして、改めて記載項目を見てみると、かなりの量になる事に、驚いてしまいます。
段々と、「早池峯信仰」に関する話題が薄れてきてしまいましたが、これも「安倍氏」と同様、ローカルな話題なので、仕方がないと思われます。
それに比べて「瀬織津姫命」は、全国的に有名な神様ですから、後半は、どうしても「瀬織津姫命」の話が中心になってしまいます。
そこで今回は、前回ブログの最後で予告した通り、「安倍 宗任」が流罪となった「筑前国宗像」で祀られている「宗像三女神」と「瀬織津姫命」に関して、次の話題を紹介したいと思います。
■「宗像三女神」との関係
■「瀬織津姫命」と「湍津姫命」との関係
■「瀬織津姫命」が生まれた背景
■「瀬織津姫命」とその他の神様/人物との関係
最後の章は、「瀬織津姫命」に関する付録みたいな内容になってしまっています。
それでは今回も宜しくお願いします。
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■「宗像三女神」との関係
日本には、各地に「三女神」の伝承が伝わっています。特に有名なのが、「安倍宗任」との関係で取り上げた「宗像氏」が宮司を務めていた「宗像大社」の「宗像三女神」だと思います。
その他の「三女神」と言えば、本ブログで取り上げた次の「三女神」もいらっしゃいます。
・祓戸三女神 :瀬織津姫命(瀬織津比売)、速開都比売、速佐須良比売
・遠野三女神 :「お初(瀬織津姫命)」、「お六(速開都比売)」、「お石(速佐須良比売)」
「宗像氏」は、第79代の大宮司で嫡流が断絶し、現在では、宮毎に宮司職を設置しているようです。
そして、有名な「宗像三女神」は、次の女神様となります。
・田心姫神(たごりひめのかみ) :沖津宮(おきつぐう)、沖ノ島 → 古事記「多紀理毘売命」
・湍津姫神(たぎつひめのかみ) :中津宮(なかつぐう)、大島 → 古事記「多岐都比売命」
・市杵島姫神(いちきしまひめのかみ) :辺津宮(へつぐう)、宗像本土・田島 → 古事記「市寸島比売命」
本ブログの流れから言えば、次の様な流れになれば、「あ〜、やっぱり、そうなんだ !!」となるのですが・・・この流れは、ちょっと無理があると思います。
→ 従来、古代東北地域では、「巨石」、「滝」、「川」、「巨木」等、様々な自然物が神として信仰されて来た。
→ 「大同元年(806)年」、「始閣藤蔵」が伊豆神社や早池峯神社を建立し、「瀬織津姫命」を御祭神にした。
→ 自然崇拝と「瀬織津姫命」が習合し、御祭神として「瀬織津姫命」を祀る寺社や祠が建立され始める。
→ 「蝦夷」、それに連なる「安倍氏」が、代々「瀬織津姫命」を信仰するようになる。
→ 平安末期、「安倍宗任」が、生き延びて四国/九州に流罪となり、その地でも「瀬織津姫命」を信仰した。
→ 「安倍氏」の信仰が、「宗像氏」に伝わり、「宗像大社」でも、三女神を信仰するようになった。
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ここで、「宗像大社」の由緒/起源を紹介したいと思いますが、「宗像大社」の起源は、神代の時代、「アマテラスとスサノオの誓約(うけい)」に始まると伝えられています。
「アマテラスとスサノオの誓約」とは、高天原を追放された「スサノオ」が、根の国(黄泉の国)に行く前に、姉「アマテラス」に会いに行った際、「アマテラス」と「スサノオ」との間で行われた「占い」、あるいは「賭け」と言われている行為です。
この占いでは、「アマテラス」が、「スサノオ」の「十拳剣(とつかのつるぎ)」を受け取って噛み砕き、口から吐き出した霧から「宗像三女神」が生まれたとされています。
その後、この「三女神」は、天孫降臨で天下った「ニニギノミコト」を助けるために、玄界灘に浮かぶ島々に降り、この地を治めるようになった事が「宗像神社」の始まりとしています。
さらに、その後は、「三韓征伐」神話で有名な「神功皇后」が、この「宗像大社」で戦勝、および道中安全を祈願したことから、以降は、朝廷との繋がりも深め、現在に至っているとされています。
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しかし、これは、事実ではなく、あくまでも大和朝廷が編纂した「古事記」、あるいは「日本書紀」と言う物語の中での話です。
実際、この「宗像信仰」に関係する学術調査を行った静岡理工科大学の報告書では、元々、上記の三女神は、別々の氏族の信仰対象(神様)だったのですが、それが、政治の都合で、「北九州地域」に集められ、現在の「宗像大社」となったとされています。
それが、どの様な関係かと言うと、次の様になっているとしています。
・田心姫神(たごりひめ) :沖ノ島、 出雲氏系の神様
・湍津姫神(たぎつひめ) :大島、 大和朝廷の神様
・市杵島姫神(いちきしまひめ) :田島、 大陸/半島系の海人族の神様
当時(弥生時代後期)の日本は、ちょうど半島経由で「鉄」の流入が始まった時期で、その「鉄」の利権に関わる、大陸/半島系の氏族、出雲系の氏族、それと大和朝廷が「三つ巴」となり、「鉄」を獲得しようと、必死になっていた時期に重なるとしています。
この頃、「鉄」は、半島から「壱岐」や「沖ノ島」を経由して、北九州(宗像氏)や山陰(出雲)や畿内(大和朝廷)に流入していたようです。
そこで、これら関係者(宗像/出雲/大和朝廷)が、「鉄」の管理に関する協定を結んだのが「アマテラスとスサノオの誓約」で、その結果として生まれたのが「宗像大社」、および「宗像三女神」という訳です。
つまり、三氏族の関係者が「鉄」に関する通商協定を結ぶと共に、「鉄」の流入拠点に祠を建立し、そこに各氏族の信仰する神を祀り、「鉄」貿易に関する安全を祈願し、かつ該当地域を管理した、と言う説です。
元々、宗像地域と出雲地域は、古くから、「鉄」その他を通した通商関係が構築されていたようですが、そこに、「大和朝廷側が、横槍を入れるような感じになったとしています。
このため、宗像地域では、「市杵島姫神」や「田心姫神」を単独で祀る神社があるのですが、逆に、「湍津姫神」を単独で祀る神社が存在しない様です。
この事実が、宗像地域における、三女神の微妙な関係を裏付けているとも言われています。
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この学説は、天皇家(宮内庁)や、神社関係者、その他諸々の利害関係者が存在するので、学会として認めるのは難しいとは思うのですが、これまで多くの説を読んできた私的には、一番、スッキリする内容でした。
この説では、北九州各地の神社の御祭神を全て調べ上げ、さらに数種類存在する前述の「誓約神話」の登場人物、並びに人物の変遷等も調べ上げています。
また、「宗像氏」の系図を調べると共に、北九州から出雲に至る、当時の古墳形状や埋葬品などの関係も調べる等、凄く本格的な調査を行っています。まあ、東北地方の情報に関しては、多くの間違った指摘もありますが・・・
単に、記紀や寺社の由緒書の記載内容から、とんでもない想像を膨らましている、いわゆる「スピリチュアル系」のサイトとは大違いです。
つまり、次の様な観点で、「宗像信仰」と「鉄」との関係を見事に調べ上げています。
・「宗像大社」の由緒書と記紀との関係
・北九州、および出雲の神社の配置と御祭神
・北九州、および出雲の古墳形状と埋葬品
・「鉄」の流入経路の調査
・「宗像大社」の配置図(背後関係)の調査
・「宗像三女神」と各氏族の関係
ここまで綿密に調査し、その結果を理路整然とまとめていますので、なかなか凄い学説だと思います。
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そして、この「宗像三女神」と「瀬織津姫命」との関係ですが、「宗像三女神」の内、「湍津姫神」が、時代は解らないにしても、何時の世からか、「瀬織津姫命」と習合したと言われています。
「湍津姫神」の「たぎつ」とは、「滾つ」、つまり、水が激しく流れる様を表すことから、「滝の神」、あるいは「川の神」ともされています。
日本全国に、「滝」、「瀧」、あるいは「多岐」と名の付く多くの神社があり、その御祭神の多くに「湍津姫命」が祀られています。
一方、「瀬織津姫命」も、ずいぶん前に紹介した「大祓詞」では、「瀬織津姫命」は、『 高い山・低い山の頂から勢いよく流れ落ちて渓流となっ ている急流に住んでいる』とされ、こちらも「滝」、および「川」の神様とされています。
また、「湍津姫命」と同様、「滝」、あるいは「瀧」と言う字が付く神社の多くは、「瀬織津姫命」を御祭神にしています。
このため、どちらの女神も、「滝」や「川」等に関係する神であることから同一神と見ている方が多く、先の静岡理工科大学の論文でも、「湍津姫命 = 瀬織津姫命」とみなしています。
さらに興味深いのは、上記「滝」、あるいは「瀧」の字の付く神社では、「湍津姫命」と「瀬織津姫命」を一緒に祀っている神社がほとんど無いそうです。
加えて、「湍津姫命」を祀る地域が多い場所には、「瀬織津姫命」を祀る神社が無く、逆に「瀬織津姫命」を祀る神社が多い地域には、「湍津姫命」を祀る神社が無いそうです。
まあ、岩手県八幡平市の「櫻松(桜松)神社」では、堂々と「瀬織津姫命」と「湍津姫命」の二柱を御祭神としていますので、この調査とは一致しませんが・・・何せ、北九州の「宗像信仰」の調査ですので、その点はご愛嬌かと思います。
そして、これら「排他的」な「御祭神」の配置から推測すると、やはり「瀬織津姫命 = 湍津姫命」となり、どちらも同じ女神で、何時の世からから別名で呼ばれる事になってしまったので、一緒に祀る事が無いのではないかと考えられているようです。
逆に、上記「櫻松神社」では、何故、二柱が一緒に御祭神として祀られているのか ? 逆に、この点の方が興味深いと思います。
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ちなみに、岩手県内で「宗像三女神」関係を祀っている神社は、岩手県神社庁の情報によると、下記18神社となっているようです。
自治体 | 神社 | 田心姫神 | 湍津姫神 | 市杵島姫神 | 瀬織津姫 | |
洋野町 | 有家(うげ)神社 | ● | ||||
久慈市 | 巽山稲荷神社 | ● | ||||
厳島神社 | ● | |||||
八幡平市 | 厳島神社 | ● | ||||
櫻松神社 | ● | ● | ||||
盛岡市 | 松尾神社 | ● | ||||
多岐神社 | ● | |||||
雫石町 | 沼田神社 | ● | ||||
紫波町 | 堤島神社 | ● | ● | ● | ||
遠野市 | 巌龍神社 | ● | ||||
花巻市 | 鏑八幡神社 | ● | ● | ● | ||
西和賀町 | 厳島神社 | ● | ||||
釜石市 | 厳島神社 | ● | ||||
三貫嶋神社 | ● | |||||
北上市 | 市姫神社 | ● | ||||
奥州市 | 鎮守府八幡宮 | ● | ||||
神明神社 | ● | |||||
大船渡市 | 市杵島神社 | ● | ||||
18 | 2 | 4 | 16 | 1 |
北九州や山陰に比べると非常に少ない数となっています。
しかし・・・調査を行う前までは、岩手県に、遥か彼方の「宗像大社」関連の神様を御祭神にしている神社など、存在しないと思っていたのですが・・・それなりに存在しているので、こちらとしては驚いています。
この内、「瀬織津姫命」と「湍津姫命」二柱を一緒に祀っている、珍しい「櫻松神社」がありますが、全国的に見ると、「瀬織津姫命/湍津姫命」の二柱、あるいは「瀬織津姫命/宗像三女神」の四柱を一緒に祀っているのは、この他には、下記3つの神社くらいではないかと思われます。
・辻八幡宮末社「皐月神社」 :福岡県宗像市 瀬織津姫命と宗像三女神
・「宇賀田神社」 :三重県志摩市 瀬織津姫命と五男三女神
・「中津瀬神社」 :山口県宇部市 瀬織津姫命と宗像三女神(配神)
実際には、上記以外の神社もあると思いますが、さすがに、日本全国各地の神社庁のホームページを探す事は出来ませんでした。
それでは、「瀬織津姫命」と「湍津姫命」とは、どのような関係だったのでしょうか ?
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■「瀬織津姫命」と「湍津姫命」との関係
次に、「瀬織津姫命」と「湍津姫命」の関係について考察してみたいと思います。
前述の学説では、「瀬織津姫命 = 湍津姫命」としており、当初は、大和朝廷の代表として、「瀬織津姫命」が、「宗像大社」に祀られていたと考えているようです。
「瀬織津姫命」は、これまで何度も紹介してきた通り、祓戸大神の一柱として非常に重要な神であり、「天照大御神」の「荒ぶる魂(荒御魂)」としても重要な神様です。
このため、「宗像大社」を始め、全国の神社で、現在、「湍津姫命」を御祭神として祀っている神社では、その昔は「瀬織津姫命」を御祭神として祀っていたのではないかとしています。
そして、前述の通り、何時の頃からか、御祭神が「湍津姫命」に変えられてしまったとしています。
「瀬織津姫命」が、別の御祭神に変えられてしまった理由としては、次のように諸説入り乱れています。
・記紀において、男神「天照大御神」が、女神とされてしまったので、その妻「瀬織津姫命」が邪魔者となってしまった。
・天皇の正統性を確立した第41代「持統天皇」を、「天照大御神」と同一視させる過程で、やはり「瀬織津姫命」の存在が邪魔になってしまった。
・「瀬織津姫命」が、蝦夷の守護神とされていたので、蝦夷討伐と同時に「瀬織津姫命」も抹殺されてしまった。
確かに、これまで紹介してきたブログの内容を考えると、どの説も、それなりの説得力があるように思えますが、何かイマイチです。
しかし、何れの説も、その背景には、次のようなキーワードが潜んでいるように見受けられます。
・第40代「天武天皇」、および、その妻である第41代「持統天皇(女帝)」の影響
・「日本書紀」の編纂開始と成立
・「持統天皇」による第1回神宮式年遷宮の実施
・大陸/半島との外交活動の影響
特に、第41代「持統天皇」は、有能と言う評価の反面、政治的野心が強い人物と言う評価が非常に多く、夫である第40代「天武天皇」の生前から、政治に関しても数多く口出しをしたと伝えられています。
また、自身の在位期間、さらに、自身の孫となる「軽皇子(後の文武天皇)」に譲位した後も、強い影響力を行使していたとされています。
さらには、前述の通り、自身の孫を天皇に付けるため、「天武天皇」の息子ではありますが、別腹の長男「高市皇子」、および三男「大津王子」を暗殺したとも伝えられる猛女です。
天皇家、さらには自身の神格化を図るためであれば、歴史や事実を「捻じ曲げる」事など、何とも思わない人物であったと思われます。
このため、「持統天皇」にとっては、「日本書紀」は、とても重要な書物になりますので、その中から、「不都合な真実」を消し去ると共に、事実を捻じ曲げる事になったと思います。
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それでは、何故、「大和朝廷」側、つまり「持統天皇」が、日本書紀の「アマテラスとスサノオの誓約(うけい)」神話で、「瀬織津姫命」ではなく「湍津姫命」を登場させたのかと言うと、それは、大きくは次の2点が原因とする説があるようです。
●外交関係上の問題
●神様の出自の問題
「持統天皇(645〜703年)」の時代、7世紀中頃から後半に掛けては、大陸には「唐」、半島には、「高句麗」、「新羅」、そして「百済」の三国が並立する時代でしたが、668年以降は、「新羅」が、半島を統一していました。
そして、日本では、630年から遣唐使と言う名称で唐には朝貢しつつも、新羅からは、逆に朝貢を受けると言う複雑な関係だったようですが、663年の「白村江の戦い」で、「唐・新羅」連合軍に大敗しているので、戦後処理や失地回復に必死だったと思います。
しかし、その後、唐と新羅が半島の支配を巡り交戦状態となり、その結果、唐、および新羅の双方から通交を求められ、外交状況は好転していたようです。
そんな状況で、「天武天皇(在位673〜686年)」が、国史の編纂を決定し、その意志を継いだのが「持統天皇」です。
このため、「日本書紀」は、日本国内は当然、大陸や半島の国々に対しても、日本と言う国の生い立ちや、天皇の正統性を伝える事で、国家としての歴史と独立性を伝える重要な書物になると考えるのが当然だと思います。
他方、「瀬織津姫命」と言う神様の生い立ちは、(詳しくは別章で紹介しますが)渡来人、特に「新羅」系の渡来人に由来すると考えられています。
このため、この「セオリツ」と言う言葉の生い立ちは、明治時代の言語学者「金沢庄三郎」によると、元々は、古代韓国語「ソ」、「プル」、「ツ」の3語から形成されているとされています。つまり、
「ソ」・「プル」・「ツ」 :ソ = 大きな or 鉄、プル = 邑(村)、ツ = (助詞)の → 大きな鉄の村 → 新羅
↓
「ソ・ホリ・ツ」 :大きな村、現在の「ソ・ウル」と言う韓国語と同じ
↓
「セオリツ」姫 :大きな村の姫
この通り、「セオリツ姫」とは、元の意味を辿ると、古代韓国語で「大きな村の姫」、「ソウル姫」となってしまいます。
前述のように、日本を、神々が作った独立国家として諸外国に認めさせようとしている時に、その神々の中でも、比較的重要な神の名が「ソウル姫」では話になりません。
特に、「新羅」とは、「白村江の戦い」で大敗した直接の相手国でもありますので、その相手に対して、日本の神は「ソウル姫」、さらに元の名前は「大きな鉄の国の姫」 = 「新羅姫」等とは、口が裂けても言えません。
このため、神の名前が変えられたのは当然と言えば当然だと思います。
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他方、神様の地位も問題になったようです。
「瀬織津姫命」以外の「宗像三女神」は、「田心姫命」と「市杵島姫命」ですが、こちらの二柱の神々は「土着の神様」、いわゆる「国津神」です。
神様に関しては、様々な分類方法がありますが、その一番のベースが、次の2種類です。
国津神(くにつかみ) :元々、昔から日本にいた土着の神、地神。例:大国主、建御名方神、猿田彦、須佐男命、等
天津神(あまつかみ) :高天原にいる神、および地上に降臨してきた神。例:天照大御神、月読命、武甕槌命、等
ところが、「瀬織津姫命」は、「天津神」のメンバーです。このため、そのままでは、「宗像三女神」には入ることが出来なかったと思われます。
そこで、「湍津姫命」と言う、新しい「国津神」を作り出し、その上で「宗像三女神」としたのだと考えられています。
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これらの理由で、「瀬織津姫命」が歴史から抹消され始めたのですが、北九州、山陰、畿内、そして、その後の大和朝廷の影響力が広がるにつれ、「瀬織津姫命」の名も、どんどん抹殺されてしまったのだと思いますが、一部の地域、例えば、岩手県や静岡県等、中央から離れた場所は、「改名の網」から漏れてしまったのだと思います。
ところで、何故、「瀬織津姫命」の名が、「湍津姫命」になったのかというと、詳しいことは、当然解っていませんが、やはり、「大祓詞」の影響があるとしています。
「大祓詞」では、「瀬織津姫命」に関しては、次の様な場所にいらっしゃるとしています。
『 高山の末低山の末より 佐久那太理に落ち多岐つ 早川の瀬に坐す瀬織津比売と伝ふ神 』
この「多岐つ」と言う言葉がキーワードです。「多岐つ = タギツ = 湍津」です。
つまり、前述のように、「湍津(たぎつ)姫」の「たぎつ」とは、「瀬織津姫命」をいらっしゃる場所を形容する言葉を起源にしていると推測されています。
この名前の起源から「瀬織津姫命 = 湍津姫命」と考えられるとしています。
それでは、「大祓詞」に登場する「瀬織津姫命」ですが、元々、どのような神様だったのでしょうか ?
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■「瀬織津姫命」が生まれた背景
「瀬織津姫命」に関しては、これまで何度も紹介してきた様に、現在の神道関係、および記紀においては、各地の御祭神として祀られているか、あるいは祝詞の一種「大祓詞」にのみ登場する神様ですが、どのような過程を経て、何時生まれて、どのような性格やご利益がある神様なのか等、一切、解らない状況です。
唯一、「大祓詞」の中で、住んでいる場所と、罪穢れの祓い方が紹介されている程度です。
『 遺る罪は在らじと 祓へ給ひ清め給ふ事を 高山の末低山の末より 佐久那太理に落ち多岐つ 早川の瀬に坐す瀬織津比売と伝ふ神 大海原に持出でなむ 』
→ こうして祓い清められた全ての罪は、高い山・低い山の頂から勢いよく流れ落ちて渓流となっている急流にいらっしゃる瀬織津比売と呼ばれる女神が大海原に持ち去ってくださるだろう
罪穢れを払い去って下さる事は、本当に、ありがたいのですが・・・
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「セオリツヒメ」に関しては、本ブログでは、便宜上「瀬織津姫」と言う漢字に統一して使っていますが、それ以外は、次の様な漢字で表されています。
・瀬織津比竎
・瀬織津比売
・瀬織津媛
特に「ヒメ」と言う漢字ですが、上記「比竎」、「比売(賣)」、「媛」以外では、「日女」、「火売(賣)」、そして「姫」等と言う漢字があります。
何で、こんなに沢山「ヒメ」という字があるのかと思ってしまいますが、この件に関して、先の学説では、元々、「女神」を表す「ヒメ」と言う字は、「比竎(ひめ)」と言う字しか存在しなかったようです。
他方、「比竎」と言えば、「比竎神」、あるいは「比竎大神」と呼ばれる女神がいます。
そして、「比竎(大)神」と言う神様ですが、現在の説では、「比竎神」と言う特定の神様は存在せず、主祭神の親族や関係の深い神様を、主祭神の配神として祀るケースが多いとされています。
また、「比竎(大)神」を祀る神社として有名なのが、下記の神社となります。
・大分県宇佐市「宇佐神宮」 :主祭神「八幡神(応神天皇:誉田別尊)」、「比竎大神(宗像三女神)」、「神功皇后」の三柱。全国約44,000社の「八幡宮」の総本社。
・石川県白山市「白山比竎神社」 :主祭神「白山比竎大神(菊理媛命)」、「伊邪那岐(イザナギ)尊」、「伊弉冉(イザナミ)尊」の三柱。全国約2,000社の「白山神社」の総本社。
・奈良県奈良市「春日大社」 :主祭神「武甕槌(タケミカズチ)命」、「経津主(フツヌシ)命」、「天児屋根(アメノコヤネ)命」、「比竎神(天児屋根命の妻)」の四柱。藤原氏の氏神を祀る神社。
・熊本県阿蘇市「阿蘇神社」 :主祭神「健磐龍(タケイワタツ)命」、「阿蘇都比竎命」他十柱、合計「阿蘇十二明神」。全国約450社の「阿蘇神社」の総本社。
そして、上記4つの神社は、現在は、全く異なる御祭神を祀る神社ですが、その始祖を辿れば、当初は、全て新羅系渡来人を祀っていた神社ではないかと考えられています。
・宇佐神宮 :応神天皇を祀る神社であるが、元は、新羅系渡来人「秦氏」の氏神を祀っていたと思われる。
・白山比竎神社 :「白山」自体を御神体とし、新羅系渡来人「秦氏」の子孫と伝わる「秦澄」が開山した神社。
・春日大社 :中臣氏(後の藤原氏)の氏神を祀る。中臣氏は、新羅系「秦氏」の一族と見られる。
・阿蘇神社 :「阿蘇氏」の始祖を祀る神社。「阿蘇氏」は、新羅系渡来人「多氏(おおうじ)」の子孫と伝わる。
他方、日本の神様には、ランクがあるのはご存知ですよね ?
よく、稲荷神社などには、「正一位稲荷大明神」と言う「ノボリ」がひるがえっているのを見たことがあると思いますが、この「正一位」と言うのがランクの一種となります。
「神様のランク」、正式には「神階」と呼ばれるものですが、人臣に授ける階位と同じ仕組みで、次の3種類あります。
【 文位 】
別名「位階」とも呼ばれ、「正六位」から「正一位」までの15階の位と階位を超越した神社、計16種類の位がある。例えば、「六国史」完成時点の神階は、次の通りです(※六国史以降は神階を乱発)。
位階超越 :伊勢神宮「伊勢大神」、國懸神宮「國懸(くにかかす)神」、日前神社「日前(ひのくま)神」
正一位 :宮中の八神、春日大社「春日神」、大名持神社「大己貴(おおなむち)神」、等
従一位 :宮中「宗像三比竎神」、廣田神社「広田神」、住吉大社「住吉神」、諏訪大社「建御名方神」、等
正二位 :熱田神宮「熱田神」、宗像大社「三比竎神」、二荒山神社「二荒神」、阿蘇神社「健磐龍神」、等
従二位 :月山神社「月山神」、熊野大宮神社「熊野巫神」、鳥海山大物忌神社「大物忌神」、等
正三位 :白山比竎神社 「白山比竎神」、富士山本宮浅間大社「浅間神」、金峯神社「金峰神」、等
従三位 :阿蘇神社「阿蘇比竎神」、波比売神社「波比売神」、伏見稲荷大社「稲荷神」、等
以下は、正四位、従四位上、従四位下、正五位、従五位上、従五位下、 正六位、従六位上、従六位下
【 武位 】
別名「勲等」、「勲位」とも呼ばれる階位で、「勲十二等」から「勲一等」までの12等があり、武勲を上げた神様に授けられる。「神様の武勲」とは、戦勝祈願を行った際、実際に戦に勝利した場合など。
勲一等 :春日大社「春日神」、香取神社「伊波比主(いわいぬし)神」、鹿島神宮「武甕槌神」、等
勲二等 :松尾大社「松尾神」、葛城一言主神社「葛城一言主神」、等
勲三等 :鳥海山大物忌神社「大物忌神」、大和神社「倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)」、等
勲四等 :二荒山神社「二荒神」、等
勲五等 :阿蘇神社「健磐龍神」、日高見神社「日高見水神」
【 品位 】
人に授ける場合は皇族のみで皇族の位階を表す。神に授けた例は殆ど無い。中国の「九品」に由来し、新羅の「骨品制」がある。
一品 :宇佐神宮「八幡神」/「八幡比竎神」、伊弉諾神宮「伊弉諾神」
二品 :吉備津神社「吉備津彦命」
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「神様」にも階位を付けるなど、「無礼千万」な感じがしますが、「律令制」が導入された当初は、「神階」の順に応じて土地を支給する制度があったそうですが、その内に、「位田」の支給は無くなり、栄誉/名誉的な要素が強くなったようです。
「神階」は、当初、神官や国司の申請に基づき公卿が検討し、天皇への奏聞(そうもん)を経て決定していたのですが、平安時代になると神官や国司が、室町時代以降は「吉田家」が、「宗源宣旨(そうげんせんじ)」と呼ばれる宣旨で、勝手に神階を発行するようになってしまったようです。
「神様」に、最初に「位階」を授けた事に関しては、「日本書紀」に、「壬申の乱(673年)」に際して、大海人皇子(後の天武天皇)を守護したとして位を授けた、と言う記述があるそうです。
・高市御県坐鴨事代主神(たけちのみあがにますかものことしろぬしのかみ)
・牟狭坐神(むさにますのかみ)
・村屋坐弥富都比売神(むらやにますみふつひめのかみ)
「武位」に関しては、「藤原仲麻呂の乱(765年)」に際して、霊験を現したとして、琵琶湖の竹生島にある「都久夫須麻神社」の「都久夫須麻神」に「勲八等」を授けた事が記録されているようです。
そして「品位(ほんい)」ですが、奈良時代の「天平勝宝元年(749年)」に、「宇佐神宮」の「八幡神」と、その妻となる「八幡比竎神」に、それぞれ「一品」、および「二品」を授けたとしています。
本ブログを書く前は、「正一位の神社は凄いご利益があるんだろうな〜」等と勝手に思い込んでいたのですが・・・、こうして調べてみると、現在「正一位」とか謳っている神社も、「何だかな〜」と言う感じがしてしまいます。
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しかし、「宇佐神宮」の「八幡神/八幡比竎神」の取り扱いは「異例中の異例」だと思います。
まあ、「伊弉諾神宮」や「吉備津神社」の扱いも特別ですが、こちらは、「品位」が授けられたのは9世紀とされていますので、やはり「宇佐八幡」は、特別なのだと思います。
「宇佐八幡」の主祭神は、前述の三柱ですが、一之御殿の御祭神は「八幡大神」とも呼ばれている「応神天皇(諱:誉田別尊(ほむたわけのみこと)」になっています。
これは、第29代「欽明天皇(在位539〜571年)」の時代となる569年、宇佐の地に、1つの身体に頭が8個ある「鍛冶翁(かじのおきな)」が現れ、この姿を見た者が、病気になったり、死んでしまったりしたそうです。
これを聞いた「大神比義(おおがのひぎ)」と言う「大神」氏の始祖となる人物が見に行くと、既に翁はおらず、代わりに「金色の鷹」がおり、この鷹も「金色の鳩」に姿を変えたそうです。
その後、この地で祈祷をすること三年、三才の童子が現れ、次の託宣(たくせん)を告げた後、「黄金の鷹」になり松の枝に止まったとされています。
『 われは誉田(ほむだ)の天皇(すめらみこ)広幡(ひろはた)八幡麿(やはたまろ)なり。わが名は、護国霊験(ごごくれいげん)威力神通(いりょくじんつう)大自在王菩薩(だいじざいおうぼさつ)で、 神道として垂迹せし者なり。 』
その後、飛鳥時代となる「和銅元年(708年)」、松があった地に「八幡様」を祀る「鷹居社」を創建し、さらに現在の地に遷宮をしたのが「宇佐神宮」とされています。
そして次の、二之御殿には、上記の「品位」の説明では、「八幡比竎神」として、「八幡神」の妻を祀るとしていますが、実際は、宗像三女神となる「多岐津(たぎつ)姫命」、「市杵嶋姫命」、「多紀理(たぎり)姫命」が祀られています。
実は、この三柱は、「八幡神」を祀るより以前、神代の時代には、既に「宇佐嶋」に降臨した事が「日本書紀」に記載されおり、「地主神」として祀られていたそうですが、これを「天平5年(733年)」、二之御殿として祀ったものとされています。
最後に、三之御殿には、二之御殿より遅れること100年、平安時代「弘仁14年(823年)」に、「神功皇后」が祀られているようになったとされていますが、「神功皇后」は、「応神天皇」の母親とされていますので、宇佐においても「母神」と言う位置付けになっているようです。
さて、「宇佐神宮」が、神階の「品位」を授かった理由ですが、「応神天皇」を祀っている事が理由では無いようです。
「聖武天皇」の御代、奈良時代となる「天平15年(743年)」の東大寺造営の際、宇佐神宮の宮司等が、託宣を携えて上京し、造営を支援したことから中央との結びつきを強め、その結果として「品位」を授かったと言われています。
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さて、神様の階級について触れましたが、先の学説では、「ヒメ」と言う字にも、階級があるとしています。
前述の通り、元々、「ヒメ」と言う字は、「比竎」と言う字しか存在しなかったとしています。
その証拠としては、神社に、複数の女神が祀られている場合、主祭神には「比竎」の文字が使われ、それ以外の女神には、「比竎」以外の文字、「比売(賣)」、「媛」、「日女」、「火売(賣)」、そして「姫」が使われているようです。
そして、「祓戸三神」や「宗像三神」等、同格の女神が祀られている場合は、全ての女神に「比竎」の字が使われているようです。
他方、例えば、同じ女神でも、「比竎」が付くケースと、「比竎」以外、例えば、「比売(賣)」が付けられるケースがありますが、「比竎」が付く時には主祭神で、「比売」等が付く時には「配神」となるケースが多く見受けられます。
さらに、同じ「比竎」が付く女神でも、次の順位となっているように見受けられるとしています。
八幡系 → 春日系 → 白山系 → 祓戸系
これは、例えば、八幡系と白山系の女神が二柱祀られている場合、八幡系は「比竎」となり、白山系は「比賣」となるという現象です。
何か、「カードゲーム」の強さを競っているような感じですが、やはり「品位」が高い、八幡系の「比竎」が、最も尊ばれていたようです。
それでは、どうして八幡系「比竎」が、最も尊ばれるのかと言うと、やはり、国内への伝播が速かった事が順位/強さに影響を与えているようですが、前述の通り、ほぼ全ての「比竎神」は、新羅系渡来人が持ち込んだ神様です。
これらの事から、「比竎神」とは、当初は、単一の神を示していると考えられています。
このため、当初の「比竎神」と区別するため、後から生まれた女神には、「固有名詞 」+「比竎」が付けられ、その順位/権威により、「比竎」が付いたり、「比売」が付いたりしたのではないかと考えられています。
ちなみに、「比竎」が付く女神でも、「菊理媛(くくりひめ)命」には、別のルーツがあるとも考えられています。
前述の説明では、「白山神社」も、新羅系渡来人「秦氏」の血を引く「泰澄」が開山した「白山比竎神社」が総本社ですので、こちらも新羅系の「比竎」を祀るとしましたが、この「ククル」については、様々な説があるようです。
・括る :「日本書紀」で「イザナギ」が黄泉の国から帰る場面で、「イザナミ」との仲を取り持ったと言う説
・高句麗 :「くくり=こうくり(高句麗)」とし、高句麗系渡来人の「比竎神」ではないかとの説
・潜る :「くぐる」。水との関係で「水神」と言う説
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さて、それでは、「最初の比竎神は、誰だったのか ? 」と言う点が問題になります。
漢字はさて置き、「ヒメ」と言うのは、元々、女性に付けられる尊称で、古くは、女性の族長/首長を表していたとされています。
日本、3世紀当時の「倭国」における「女性の族長/首長」と言うと、皆さん、誰を思い浮かべますか ?
また、「ヒメ」と言う字に当てられた「比竎」ですが、これを「ヒメ」と読むのは、おかしいと思いませんか ?
通常、「比竎」という漢字は、「ヒミ」と読むのが普通で、その昔は、やはり「比竎」と書いて「ヒミ」と読んでいたとされています。
このため、宇佐神宮に祀られていた女神「比竎」は、「ヒメ」ではなく「ヒミ」と言う女神が祀られていたと考えられています。
と言うことで、先の学説では、当時の「倭国」で、女性の族長/首長で、名前に「ヒミ」が付くと言えば、「卑弥呼」しか思い当たらないとしています。
そして、「卑弥呼」の「呼」は、元々は、「乎」と言う漢字で、この字は、神の名を呼ぶ際、神の名を強調するための感嘆符「!(エクスクラメーションマーク)」とされていますので、「比竎」と言う神を呼ぶ際、「ヒミ !」と呼んでいたものが、「ヒミコ」として「魏志倭人伝」に記録されたものだと考えれています。
以上の事から、宇佐神宮に祀られていた「比竎大神」は「卑弥呼」であり、ここを起源として、新羅系の渡来人が各地に拡散すると同時に、「比竎大神」も日本各地に祀られるようになったと考えれています。
ところが、その後、「瀬織津比竎」を始め、様々な女神が登場すると、オリジナルの「比竎大神」と区別するために「固有詞 + 比竎」と言う表記方法になって行ったと推測されています。
「瀬織津比竎」の場合、前述の通り、オリジナルの「比竎 = 卑弥呼」と区別するために、「比竎」の前に、「大きな鉄の国 = ソウル」を付けて「ソウル + 比竎 = 瀬織津比竎」になったと考えられます。
その後、日本書紀の編纂、そして完成を迎えるまでの間に、「瀬織津比竎」が「湍津比竎」に強制的に変更させられ、さらに「比竎」と言う漢字も、徐々に「姫」と言う漢字に変わって行ったのだと考えられています。
しかし、中央から遠く離れた東北、特に岩手県、それと新羅系の渡来人が数多く住んでいた静岡県に関しては、大和朝廷の監視の網から漏れてしまい、今に至るまで御祭神としての「瀬織津比竎」が残ったままになってしまったのだと思います、
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■「瀬織津姫命」とその他の神様、人物、物との関係
さて、本シリーズの最後となりますが、「瀬織津姫命」と習合しているとされる、その他の神様や人物を紹介したいと思います。
最初に「織姫」を紹介します。
日本における「織姫」は、「七夕伝説」で有名ですが、その起源は、中国の「道教」の「牛郎織女(ぎゅうろうしゅくじょ)」と言う七夕伝説に登場する「仙女」と言われています。
また、平安時代に編纂された神道の書物「古語拾遺」においては、過去ブログで紹介した「天の岩戸」伝説に登場し、「天照大御神」に献上する衣(神衣和衣)を織った「天棚機姫神(あめたねばたひめ)」と同一視しているようです。
他方、「瀬織津姫命」には、その名前に「織」と言う字が付くことから、この「織姫」と習合させているケースも多く見受けられます。
しかし、こちらの説、つまり「瀬織津姫命 = 織姫」説は、現在の所、ほぼ何の根拠も裏付けもない説のように見受けられます。
「瀬織津姫命」が、謎の多い神様であることをいい事に、スピリチュアル系の方々が、勝手に習合してるだけのようです。
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次は、京都市にある「貴船神社」の御祭神「高龗神(たかおかみのかみ)」と習合しているケースも見受けられるようです。
この御祭神は、日本書紀では「高龗神」と表記され、古事記では「淤加美神(おかみのかみ)」と表記されているそうですが、水の神様「水神」とされています。
前述の「宗像大社」がある宗像市の隣の福津市津屋崎には「波折神社」がありますが、この神社の御祭神が「瀬織津姫命」となっております。
そして、江戸時代の『筑前国続風土記付録』には、この「波折神社」の御祭神は「貴船神」と記載されてるそうです。
福岡藩の国学者「青柳 種信」は、この「波折神社」の由緒書を作成する際、「当社に祭るところの神は瀬織津姫大神また木船神とも称え申す」としたそうです。
また、「宗像大社」に伝わる古文書で、鎌倉時代末に編纂された「宗像大菩薩御縁起」には、「貴船大明神が大宮司館に祀られていた。」とされていますので、「宗像大社」と「高龗神」は、密接に繋がっていたと思われます。
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「瀬織津姫命」は、これまで何度も紹介した通り、「大祓詞」に登場する「祓戸四柱」の一柱で、清流に住んでいるとされるところから、水や滝、それと龍神様と習合するケースも多く見られます。
上記の「高龗神」/「淤加美神」も、水神様とされていますので、まさに、この関係だと思います。
日本全国、到る所で、滝(瀧)に関係する神社には、「瀬織津姫命」が御祭神になっている神社が沢山あります。
このように、滝(瀧)、および河川に、「大蛇」、あるいは「竜(龍)」と関連付けているケースもあるので、水や蛇、あるいは滝と言うキーワードに関連する、神社の多くに「瀬織津姫命」が祀られています。
さらに、元々は、ヒンドゥー教の女神「サラスヴァティー」だった「弁財天」が、仏教の伝来と同時に日本にも伝わり、様々な神仏と習合して祀られるようになりました。
この女神は、インドに於いては「河川の神様」だった事から、日本でも、「水関係」と結び付いて祀られたのですが、やはり「水関係」と言うことで、「瀬織津姫命」と習合したケースも見受けられます。
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その他は、と言うと「瀬織津姫命」と「鉄」の関係です。
「瀬織津姫命」と「鉄」の関係としては、前述の通り、「瀬織津姫命」が、「大きな鉄の国の姫」を意味していると言う説がある通り、「鉄」とは密接な関係があると言われています。
そして、日本において「鉄」と言うと、「金山様」、あるいは「金山彦命」がいらっしゃり、どちらも「鍛冶屋の神様」と言われています。
しかし、「金山様/金山彦命」と「瀬織津姫命」とは、実際には、余り結び付いていないように見受けられます。
一部の神社で、御祭神として一緒に祀られいるケースも見受けられますが、その関係は希薄です。
前述の学説では、「瀬織津姫命」と「鉄」は、「宗像大社」をめぐり、非常に強い関係が築かれているようだったのですが、何か意外な感じがします。
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最後に、「瀬織津姫命」と習合した者として、三途の川で、亡者の衣類を剥ぎ取る「奪衣婆(だつえば)」を紹介しますが・・・こちらも、確かな証拠や根拠は無い様に見受けられます。
「奪衣婆」は、別名「葬頭河婆(そうづかば)」、「正塚婆(しょうづかのばば)」、「姥神(うばがみ)」、あるいは「優婆尊(うばそん)」等とも言われる女性です。
そして、この「奪衣婆」は、三途の川で、次のような行為を行うと伝えられています。
・亡者が盗みを働かないように指の骨を折る
・亡者の衣類を剥ぎ取る
・服が無い亡者の場合、皮を剥ぎ取る
・剥ぎ取った衣類の重さで、生前の業の深さを測り、死後の処遇を決める
また、「奪衣婆」が剥ぎ取った衣類を、川の畔にある「衣領樹」と言う大樹に掛けて、その重さを測る「懸衣翁(けんえおう)」と言う老人も居るそうですが、何故か、「奪衣婆」のみがクローズアップされ、この「懸衣翁」の影は薄くなってしまったそうです。
そして、この「奪衣婆」と「瀬織津姫命」の関係ですが、一説では、この「衣類を剥ぎ取る」行為が、人間の穢を払う行為と同一視され、その結果、「奪衣婆」と「瀬織津姫命」が習合したと言われているようです。
しかし、この説も、何の根拠も無く、信憑性が薄いようです。
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以上が、「瀬織津姫命」と習合した、代表的な神様や人物となります。
しかし、何度も記載していますが、「瀬織津姫命」自体、謎だらけの神様なので、皆さん、特にスピリチュアル系の方々は、好き放題、様々な者に習合してしまっています。
「鬼女」として有名な「橋姫」、「浦島太郎」伝説に登場する「乙姫」、「宗像三女神」の一柱「市杵島姫神」、「天照大御神」の弟「月読命」・・・もう、本当になんでもありの状況です。
このような状況ですので、「瀬織津姫命」は、今後も、自分の都合の良い神様や人物に習合され続けて行くのだと思われます。
余計、訳が分からない神様になってしまうような感じがします。
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もはや、「早池峯信仰」は影も形も無くなってしまいましたが、「瀬織津姫命」に関して、次の内容を紹介しました。
■「宗像三女神」との関係
■「瀬織津姫命」と「湍津姫命」との関係
■「瀬織津姫命」が生まれた背景
■「瀬織津姫命」とその他の神様/人物との関係
今回は、シリーズの最後として、「瀬織津姫命」と言う女神が生まれた経緯を、「宗像信仰」に関係する学術調査を行った静岡理工科大学の学説をベースとして紹介しましたが如何でしたか ?
「瀬織津姫命」の正体に関しては、諸説入り乱れて、何が何だか解らない状況になってしまっていますが、私としては、今回紹介した説が、現在の状況では、一番筋が通った内容になっているのではないかと思っています。
本シリーズでは、当初、「早池峯権現 = 瀬織津姫命」とし、その「瀬織津姫命」が、実は、「熊野権現」であると言う、数々の証拠を紹介して来ました。
しかし、「早池峯信仰」に関しては、そのオリジナルが「熊野信仰」である事が明らかになった時点で、その役目が終わりを迎えてしまった訳ですが、これは、(言い訳ではありませんが)最初から予想した通りのシナリオです。
「早池峯権現 = 瀬織津姫命」に関しては、既に2015年のブログで紹介していますので、今回は、当初から「瀬織津姫命」の謎を追求しようと思っていました。
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「瀬織津姫命」は、信仰よりも政治が優先され、その結果、歴史から消えてしまった可愛そうな女神だと思いますが、神道も仏教も、結局の所は、為政者の都合により広がった信仰ですから、これは宿命とも言えるかと思います。
神様も仏様も、ある時点で、「こんな神様や仏様が居れば良いな〜」と言うことで誕生した存在です。
自然信仰の場合、山で安定した生活を暮らしたければ「山神様」、水が欲しければ「水神様」、海で大漁を祈願する時には「海神様」・・・全て人間の都合を優先して生まれた神様です。
また、大和朝廷、特に「天皇」の正当性を伝えるために生まれたのが、「伊邪那岐/伊邪那美」、それと「天照大御神」を始めとした神道系の神様達です。
そして、大和朝廷が、全国制覇を目指し、自然崇拝で祀られていた神様を淘汰し、全てを神道系の神様に置き換える行為が行われたのが、「持統天皇」以降の動きなのだと思います。
さらに、これらの神様では事足りず、海外から輸入したのが仏教で、その中心が、「如来」であり「菩薩」となります。
また、仏教に関しては、これら「如来」や「菩薩」でも人間を改心させることが出来ないと分かるや、インドの古代信仰やヒンドゥー教、あるいはゾロアスター教の神々までも「天部」として仏教に取り込んでいます。
その後、「本地垂迹思想」の元、「神道の神様」と「仏教の仏様」を同一視させたのは、過去に、自然崇拝で祀っていた神様を、神道系の神様に置き換えた考えや行為と全く同じです。
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本当に、人間、特に何らかの権力を持つ者の「欲」は際限ありません。
信仰対象を生み出した者達は、自分の考えを他人に押し付けるために、起きた事柄を都合よく捻じ曲げます。
そして、挙げ句の果てには「聖戦だ !」、「仏敵だ !」とホザイて、自分達の信仰を信じない者を攻撃し出します。
それが、過去の「十字軍」であり、現代では、カトリック系武装組織「IRA」であり、「イスラム教徒」による数々のテロ行為です。
また、日本の「オウム真理教」は、トンデモナイ行為を行った宗教団体として非難されていますが、これが1,000年前ならば、当然、当時の為政者からは迫害されるとは思いますが、当時の宗教家としては、普通の行為だったのではないかと思われます。
1,000年前に「オウム真理教」が誕生し、今日まで活動が続いていれば、現在では多数の信者を抱える、一大宗教となっていた可能性も否定出来ないと思います。
今回紹介した「瀬織津姫命」も、冷淡な言い方をすれば、結局の所、政治の都合で生まれ、また政治の都合で表舞台から消された女神と言う事と言うのが全てなのだと思います。
それでは次回も宜しくお願いします。
以上
【画像・情報提供先】
・Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)
・岩手県神社庁(http://www.jinjacho.jp/)
・風琳堂(http://furindo.webcrow.jp/index.html)
・花巻市ホームページ(https://www.city.hanamaki.iwate.jp)
・レファレンス協同データベース(http://crd.ndl.go.jp/reference/)
・Yahoo/ZENRIN(https://map.yahoo.co.jp/)
・千時千一夜(https://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo)
・公益財団法人岩戸山保存会(http://www.iwatoyama.jp/)
・IKUIKUの愉しみ(http://ikuiku-1919.at.webry.info/?pc=on)
・田村神社(http://tamura-jinja.com/index.htm
・いわての文化情報大事典(http://www.bunka.pref.iwate.jp/
・むなかた電子博物館(http://www.d-munahaku.com/index.jsp)
・宇佐神宮(http://www.usajinguu.com/index.html)
社内システムのクラウド化 〜 皆でクラウドにすれば怖いくないのか ? - その2
今回の「IT系お役立ち情報」は、前回お届けした「社内システムのクラウド化」の後編となります。
前回のブログでは、次の様な内容を紹介しました。
●そもそもクラウドとは何 ?
●クラウド化メリット/デメリット
●クラウドの種類
★過去ブログ:社内システムのクラウド化 〜 皆でクラウドにすれば怖いくないのか ? - その1
最初に、未だに、あいまいな「クラウド」と言う言葉の定義から始めて、従来の社内システム運用(オンプレミス)とクラウドの相違点を説明しました。
そして、このクラウドに関する、代表的なメリットとデメリットを紹介し、さらには、「非機能要件」と呼ばれている評価基準の視点から、クラウド運用が提供する要件をチェックして見ました。
システムに対する「非機能要件」とは、システム品質を評価する基準なのですが、クラウド運用に関しては、ある程度、品質要件は満たしている事が解りました。
「クラウド」と呼ばれる言葉とサービスが展開され始めて、はや7年ほど経過していますが、クラウドも進化しており、新たしいサービス形態が生まれているようです。
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そして今回は、実際にクラウドを導入する場合に、どのような作業が必要になるのかと言う点に関する概要説明から始め、次のような情報を提供しようと思います。
それでは今回も宜しくお願いします。
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■クラウド導入までの全体の流れ
それでは、クラウドに移行する場合に必要な、作業の流れを紹介したいと思います。
しかし、クラウド移行、つまりシステムの移行は、会社毎に異なります。
このため、今回は、「大体こんなもんだ」と言う流れを紹介します。
今回紹介する作業フローを参考に、「ウチの会社には、この作業はいらない。」とか、「ここには無いが、こんな事も必要だ。」等を考えて下さい。
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正直な所、クライドへの移行も、普通のシステム開発やシステム移行と、なんら変わりありません。
基本的な作業は、「設計 → 移行 → 試験 → 評価 」と言う4段階を踏み、最終的に、システムを本番稼働に切り替える事だけです。
しかし、実際のプロジェクトとなると、上記作業の前に準備作業が必要になりますし、そもそも、既存システムの調査/検討を行わず、最初から「クラウドありき」でプロジェクトを開始すると、そのプロジェットは、必ず失敗します。
既存システムに対する調査/検討を行い、その上で、クラウドに切り替えるメリット/デメリットを明らかにし、メリットが多い場合は、引き続き、クラウド化プロジェクトを進めれば良いと思います。
クラウドに移行するメリットが少ないにも関わらず、「クラウドありき」で、無理やりプロジェクトを進めると、その結果は、言わずもがなです。
このため、本ブログでは、「クラウド化プロジェクト」を、大きくは2つ、細かくは次の8つのフェーズに分類しました。
1.調査検討フェーズ:既存システムの調査分析を行い、クラウド化を推進するか否かを決定する
(1)フェーズ1:事前準備
(2)フェーズ2:計画立案
(3)フェーズ3:導入検討
2.移行導入フェーズ:クラウド化を推進する事が決定した場合に、実際に移行作業を行う
(4)フェーズ4:移行設計
(5)フェーズ5:移行作業
(6)フェーズ6:試験稼働
(7)フェーズ7:結果評価
(8)フェーズ8:本番開始
それでは、クラウド化を行う場合の、作業フェーズを紹介します。
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●フェーズ1:事前準備
このフェーズは、実際に、プロジェクトを開始する前段階の作業になります。このため、場合によっては、作業フェーズに組み込まないケースもあるかもしれません。
何らかのプロジェクトを開始する際は、誰かが発起人(オーナー)になり、次の様な事を決める必要があります。
・誰をリーダーにするのか :Who
・誰をプロジェクトに参画させるのか :Who
・プロジェクトの目標(ゴール)は何か :What
・いつ頃までに結論を出すのか :When
・当初の予算は、どの位必要なのか :How much
「5W2H」だと、あと「Where」と「Why」が必要ですが、「Where」は社内、もしくは業者ですし、そもそも、当初は「How(どうやって)」を決める事が作業内容になります。
また、この段階では、全ての予算や期間も明確にする事は出来ません。
この「クラウド化」のプロジェクトは、前述の通り、大きくは次の2つのフェーズに分かれています。
(1)調査検討フェーズ:既存システムの調査分析を行い、クラウド化を推進するか否かを決定する
(2)移行導入フェーズ:クラウド化を推進する事が決定した場合に、実際に移行作業を行う
当初は「調査検討フェーズ」だけを行い、その結果を踏まえて、「クラウド化を推進するか否か」を決める事になりますので、(2)のプロジェクト・フェーズは、上記(1)の結果次第と言う事になります。
このため、予算や期間は、(1)のプロジェクトのみを、本フェーズ以降で決める事になります。
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●フェーズ2:計画立案
このフェーズも、まだ計画段階の作業です。
フェーズ2は、フェーズ1の事前準備を受け、フェーズ1で選ばれたプロジェクト・オーナー、あるいはプロジェクト・リーダーが、次のような作業を行います。
1.プロジェクトに参加人員の決定 :Who
2.プロジェクト参加者の役割分担決定 :Why、How
3.プロジェクトの組織図決定 :Where
4.プロジェクトの期間と予算の決定 :When、How much
5.プロジェクト遂行に必要なりソース確保 :How、How much
つまり、このフェーズ2では、フェーズ1の内容を、より具体的に詰めて、プロジェクトを開始する事が出来る状態まで持って行く事を目的にしたフェーズとなります。
このため、フェーズ2の目標は、次の3つになります。
目標1 : プロジェクト実行計画書の作成(上記①〜⑤の整理)
目標2 : プロジェクト・メンバーの顔合わせと各種合意形成(ゴール共有)
目標3 :プロジェクトのキックオフ
フェーズ2の最終目的は、キックオフを開催してプロジェクトを始動させることです。
そして、キックオフにおいては、プロジェクトのゴール、およびメンバー各自の役割を認識共有する必要ありますので、そのために必要な各種資料を作成する必要があります。
なお、この段階では、社内に複数存在するシステムの内、どのシステムをクラウド化するのかは決定していないので、参加させるメンバーとしては、社内全部署の部長クラスを招集し、今後に行われる調査作業への協力を取り付ける必要があります。
このような下準備、いわゆる「根回し」をしておかないと、後々、「そんな事は聞いていない !」と反対勢力になってしまいますので、最初から各部署の「長」を、プロジェクトに参画させる必要があります。
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●フェーズ3:導入検討
このフェーズ3において、フェーズ4以降に行う、「システムのクラウド化」を行うか、あるいは中止するかの判断を下す事になります。
このフェーズ3で、「社内システムのクラウド化は行う必要が無い。」と言う結論になれば、フェーズ4以降の作業は行う必要は無くなります。
このため、このフェーズ3は、会社の今後を決定する一番重要な作業フェーズになります。
このフェーズで、誤った決断を下してしまうと、会社に莫大な損害を与えてしまいますので、慎重に作業を進め、最後に下す判断も、偏った判断ではなく、中立公平な判断が必要になります。
そして、このフェーズ3では、主に次のような作業を行う事になります。
(1)クラウド対象とする業務の候補選定
1.全ての業務を、一括してクラウド化する事は出来ません。
2.次のような観点で、クラウド化出来る業務を選定します。
・クラウド化する事で費用対効果が上がる業務
・クラウド化する事で、現在抱えている問題を解決する事が出来る業務
・クラウド化に際し、カスタマイズの観点から、移行が容易に出来る業務
・クラウド化で業務運用に問題が起きない業務(長時間の業務停止にも耐えられる業務)
・クラウドに移行してもセキュリティ上、問題のない業務
(2)クラウド化候補となった業務の棚卸し
1.選定業務に関して、該当システムを管掌している部署に対してヒアリングを実施する。
2.下記のような内容をヒアリングする。
・業務の作業手順や作業内容
・使用しているデータの種類や量
・カスタマイズ状況
・現状の問題点
・該当業務システムで使っているソフトウェアのライセンス、費用、期限、および調達先、等
・該当システムで使っているハードウェアの洗い出し(種類/数/費用/リース期限/調達先、等)
・該当システムで出力している帳票の種類
・該当システムを維持するために必要な経費
・最低限必要な処理パフォーマンス
・他システムとの連携状況
3.ヒアリング内容を、全て同じフォーマットの調査用紙に書き込み、後日、比較出来る様にする。
4.本作業では、既存システムに関しては、下記の様な資料を作成する。
1)業務一覧 :業務名、業務カテゴリー、業務内容、管掌部署
2)業務フロー図 :業務の流れ、作業時間、他システムとの連携の有無
3)機能一覧 :機能名称、機能概要
4)画面一覧 :画面名称、表示項目、項目説明、画面フロー
5)帳票一覧 :帳票名称、出力項目、項目説明、帳票利用者、出力タイミング、出力枚数
6)データ一覧 :ファイル名、項目一覧、項目説明、型、桁数、件数、量
7)連携システム一覧 :連携システム名称、連携方法、連携タイミング
8)保守作業一覧 :保守内容、担当者、保守タイミング
9)課題一覧 :下記アンケート結果記載
5.各種マニュアルの有無(操作マニュアル、管理者用マニュアル、等)
6.さらに、管掌部署の社員に対して、下記の項目などに関するアンケートも実施する。
1)問題点
2)要望
3)その他
(3)クラウド化する業務の絞り込み/決定
1.全てのヒアリング結果を検討し、クラウド化出来る業務の絞り込みを行う。
2.絞り込んだ結果、複数件がクラウド化の対象となった場合は優先順位を付ける。
3.優先順位を付けた順に、クラウド化のメリット/デメリットを洗い出す。
4.業務をクラウド化する場合、どのサービス形態のクラウドに移行するのかを検討する。
5.該当クラウドに移行する場合の概算費用を算出し、現行運用を続けた場合と比較する。
6.また、単にクラウド化の是非を問うだけでなく、社内における地政学的リスクの洗い出しも行う。
(4)クラウド化の可否決定
1.調査結果を報告書に整理する。
2.まずは、プロジェクト・メンバー全員で調査結果の検証を行う。
3.最後に、プロジェクト・オーナーを含む全員で検討後、クラウド化を推進するか否かを決定する。
4.クラウド化に関して、経営層に報告し、その指示を仰ぐ。
→ 中止の場合:プロジェクト解散
→ 続行の場合:該当部署の長に、経営層からクラウド化を進める旨を通達してもらう
(5)(クラウド化続行の場合)プロジェクトの見直しを行う
1.現行メンバーを一旦解散し、新たにメンバーの見直しを行う。
2.クラウド化対象業務部署から、最低2名程度メンバーを出してもらう。(課長クラスと一般社員)
3.組織を改変し、該当部署の長をプロジェクト・スポンサー等の責任ある地位に付ける。
(6)その他
1.今回の業務の棚卸しは、滅多にない良い機会です。
2.本来は、クラウド化のための調査ですが、他部署の視点を入れることで業務改善が行える可能性があります。
3.本プロジェクト終了後、別プロジェクトを立ち上げて、業務改善を行った方が良いと思います。
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●フェーズ4:移行設計
本フェーズは、業務をクラウド化するための方法を検討し、実際に移行作業を行う方法を設計するフェーズになります。。
フェーズ3で、クラウド化する業務が決定しますので、フェーズ4以降で、該当業務をクラウドに移行するための作業設計を行います。業務をクラウドに移行するための設計作業としては、次のような作業があります。
なお、作成した各種設計書は、単に、作成すれば良い、と言う訳には行きません。必ず、関係者全員に承認してもらう必要があります。
本プロジェクトに関わらず、全てのプロジェクトにおいては、何かを行った、あるいは何かを作成した場合、必ず、関係者全員に承認させる必要があります。
関係者の承認を得ないと、万が一、プロジェクトが失敗した場合、「逃げを打つ」人間が現れますし、自身が承認行為をすることで、プロジェクトへの参加意識も高まります。
(1)新規プロジェクトの立ち上げ
プロジェクト・メンバーが入れ替わりますので、再度、フェーズ2と同様の作業を行う。
目標1 : 基本方針作成
目標2 :プロジェクト実行計画書の作成
目標3 : プロジェクト・メンバーの顔合わせと各種合意形成(ゴール共有)
目標4 :プロジェクトのキックオフ
(2)基本方針作成
1.業務のクラウド化で何を実現し、どの様な効果を上げるのかを明確にする。
2.実現目標の項目としては、次の項目が考えられる
1)運用コスト削減
2)災害対応実現
3)利用部門へのSLA項目/数値の提示(SLA:Service Level Agreement/サービス品質保証)
3.各項目について、例えば「n%削減」とか「n時間で復旧」等と具体的な数値目標を上げる。
(3)プロジェクト実行計画書作成
プロジェクト実行計画書では、下記項目を明確にする。
1.期間やプロジェクト・メンバーの構成と役割
2.業務クラウド化の背景と目的
3.業務クラウド化の基本的な考え方
4.セキュリティ・ポリシー作成
5.クラウド化対象業務
6.業務をクラウド化した場合の実現イメージ(サービス形態)
7.検証設計
8.プロジェクト・メンバー、組織図、および役割分担
9.クラウド化の工数と費用
10.業務クラウド化のスケジュール
(4)棚卸し結果の精査
1.フェーズ3で実施した「業務の棚卸し結果」を再調査し、細部の漏れを確認する。
2.リース期限やライセンス期限の確認を行い、クラウドに移行するタイミングも確定する。
(5)クラウド候補選定と非互換調査
1.先の「業務の棚卸し」結果を受け、クラウド業者の選択を行う。
2.今回の業務システムに、一番相応しいサービス形態を提供している業者を候補として抽出する。
3.抽出した業者が提供するサービスと、現行システムとの各種非互換を洗い出す。
4.業者を決定し、非互換への対応方法を検討する。
(6)調達先決定/仕様調整
1.業務委託先を決定する。
2.業務委託先を決定した後、後述する作業を、業者と一緒に行う事になる。
3.社内と社外の役割分担を決定する。
(7)対象業務の再構築/再設計
1.現行業務の見直しを行い、非互換への対応を含めクラウド化のための再設計を行う。
2.またアンケート結果で不備/要望が上げられた場合、要求事項をクラウド化に取り込む。
3.カスタマイズが必要な場合、カスタマイズの関する機能要件を整理する。
4.再構築した業務に関して、再度「棚卸し」を行い、フェーズ3と同様の成果物を作成する。
5.業務再構築作業に関するスケジュールも確定する。
(8)クラウド環境に必要な各種リソース設計
1.必要ソフトウェアの選定と決定。
2.必要ハードウェアの選定を決定。
3.システム構成図の作成。
4.セキュリティ・ポリシー
5.上記を踏まえたサービスレベルの調査/決定。特にネットワークの速度は要注意。
(9)システム変更仕様書の作成
1.クラウド化に伴い、下記のような変更が入る可能性がある。
1)カスタマイズ部分の修正
2)既存、あるいは潜在的バグの修正
3)アンケート結果の反映(要望対応)
2.上記修正部分に関する修正/要望対応設計書を作成する。
(10)試験設計書の作成
1.システム移行後に実施する、検証試験の試験方法を設計する必要がある。
2.該当業務システムに関わる、全ての処理を確認できれば安心だが、期間的に、全処理の確認を行うのは、当然無理である。
3.このため、処理サイクルを含め、ある程度、代表的な処理をサンプリング対象として抽出し、この抽出した処理を中心に試験を行う事になると思われる。
4.試験対象となる処理を決定したら、次は、該当処理を行うためのデータも準備する必要がある。
5.つまり、何を、どうやって、どの位、どのタイミングで、そして、何をもって良しとするのかを試験設計書として整理する必要がある。
(11)切り替え手順の設計
1.システム移行においては、新システムへの切り替えが必要になります。
2.システムの切り替えには、様々な準備が必要になるので、新システム、つまりクラウド側に構築したシステムに切り替える方法を設計します。
(12)各種手順書の作成
1.環境構築手順書 :クラウド側に新たな環境を構築するための手順書を作成する。
2.システム移行手順書 :社内システムをクラウド環境に移行するための作業手順書を作成する。
3.データ移行手順書 :システム使用データを移行するための作業手順書を作成する。
4.試験手順書 :下記2種類の試験手順書を作成し、総合試験の手戻りを減少させる。
1)システム/データ移行時に行う簡易的な動作確認試験
2)移行作業終了後に行う総合試験
5.切り替え手順書 :上記で設計したクラウド側システムへの切り替え手順書を作成する。
6.スケジュール作成 :移行作業のスケジュールを作成する。
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●フェーズ5:移行作業
本フェーズが、実際の移行フェーズになります。移行フェーズでは、次のような作業を行います。
(1)契約行為の実施
1.クラウドに業務システムを移行するための作業を、一緒に行う業者は既に選定済である。
2.ここでは、クラウド環境や各種リソースを提供する業者との契約行為を行う。
3.通常の場合、上記①の業者と同一業者である可能性が高い。
(2)クラウド環境構築
1.業者提供のクラウド環境に業務システムを構築する。
2.前フェーズで作成済の環境構築手順書に従い、業務システムが稼働出来る環境を、クラウド環境に移行する。
(3)システム改修
1.クラウド化に対応するために、既存システムを改修する場合、このタイミング、あるいは上記(2)のタイミングで同時に行う事になる。
2.システム改修には、当然、時間が掛かるので、前述の計画段階で、改修に必要な工数を計上する必要がある。
(4)システム移行/構築
1.前フェーズで作成済のシステム移行手順書に従い、業務システムをクラウド環境に移行する。
2.システム改修が必要な場合、上記(3)で改修しておく。
3.システム移行が完了した時点で軽い試験を行い、業務システムが、総合試験が行える状況になっている事を確認する。
4.何の確認も行わず、そのまま総合試験フェーズに移行すると、手戻りが多発し、総合試験フェーズが破綻する。
(5)データ移行
1.前フェーズで作成済のデータ移行手順書に従い、業務システムが使うデータをクラウド環境に移行する。
2.システム同様、データ移行が完了した時点で軽い試験を行い、業務システムが、総合試験が行える状況になっている事を確認する。
3.これもシステム同様、何の確認も行わず、そのまま総合試験フェーズに移行すると、手戻りが多発し、総合試験フェーズが破綻する。
4.なお、データ移行はネットワークの速度に依存するので、事前に、どの程度の期間が必要なのかを調査する必要がある。(※数日掛かるケースも存在する。)
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●フェーズ6:試験稼働
システム、およびデータの移行が完了すれば、試験を行う環境が揃いますので、この時点で、総合試験を実施する事になります。
しかし、試験は、各企業、および業務毎に異なると思いますが、基本的には、下記の内容を確認する事になると思われます。
(1)業務処理結果の確認
(2)業務処理時間(処理速度)の確認
(3)障害発生時のリカバリー方法の確認
(4)ネットワーク接続/速度、およびIPアドレス重複の確認
(5)各種操作方法の確認
試験は、当然、1回実施すれば良い訳ではなく、次のような業務サイクルを意識して複数回実施する必要があります。
・日次処理
・月次処理
・年次処理
・決済処理、等
業務の処理サイクルも、前述の様に、企業、および業務の書類により異なるので、前章の「手順書作成」において、自社の業務に相応しい試験手順書(試験設計書)を作成する必要があります。
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●フェーズ7:結果評価
試験が終われば、次は、試験結果の評価となりますが、これも、前章の「移行設計」フェーズにおいて、『 何が、どうなれば想定した処理結果なのか。 』を、予め決めておく必要があります。
また、可能であれば、処理結果の判定は、出来る限り、数値を元に「OK/NG」を判定出来るようにする事が望ましいと思います。
感覚的に「こんな感じでOK」と判定してしまうと、後日、問題を引き起こす可能性があります。
判定結果は、社員全員とまでは行かなくても、大方の社員が、妥当と認める内容にする必要があります。
客観的に「OK」なるように評価しないと、次のシステムをクラウドに移行する事が困難になってしまいます。一度、「失敗プロジェクト」の烙印を押されたら、もう次は無いと思った方が良いと思います。
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●フェーズ8:本番開始
試験結果が「OK」となれば、後は、業務をクラウド側に切り替えて、いよいよ本番業務を行う事になります。
しかし、「試験OK」となったからと言って、そのまま、直ぐにシステム切り替えとはなりません。次の点を確認して下さい。
・試験結果OKの承認は、誰が出したのか ?
・経営層から、(口約束ではない)正式に承認を得ているのか ?
・管掌部署の承認は得ているのか ?
・管掌部署の社員は、切り替えを認めているのか ?
・システム切り替えタイミングは確認したのか ?
また、とにかく、人間、特に日本人は、新しい仕組みに抵抗します。
さらに、何らかの既得権を持っている社員や、既存システムに関する知識を有している社員が居る場合、これらの社員が、必ず「抵抗勢力」となって、システムの切り替えに反発します。
日本人は、「総論OK、各論NG」ですので、注意する必要があります。
「各論NG」を、言葉巧みに言い換えて「物事は慎重に進めた方が・・・」とか言う人が必ず出てきますので、本ブログに記載したように、ちゃんとプロセスを踏んで作業を行い、結果もOKなら、「今更何を」と言う事になります。
ちゃんとプロセスを踏み、その都度、関係者の承認を得て、システムの切り替えに臨むようにして下さい。
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■クラウドに適さない業務
次に、参考までに、クラウドに適さないと思われる業務を、数ケース紹介しておきます。
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業務の中断が絶対に許されないシステムは、クラウドの移行対象業務からは、最初から除外した方が良いと思われます。簡単に考えても、下記のような業務システムは、クラウドには適しません。
・インフラ制御用業務システム(電気/ガス/水道)
・金融機関のオンラインシステム
・交通制御用システム(信号/航空機管制/鉄道)
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●ケース2:特殊デバイス使用業務
工場等で使われている特殊デバイスと連携しているシステムのクラウド化は難しいと思います。特殊デバイスとしては、次のようなデバイスがあります。
そもそも、工場や倉庫などでは、未だに、「Windows XP」をベースとした特殊デバイスを使っていますので、このような特殊環境で稼働するシステムに関しては、クラウド化は難しいと思います。
・ハンディースキャナー
・温度/湿度制御装置
・シーケンサー
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●ケース3:特殊なプラットフォームを使用しているシステム
クラウド環境は、一般的なハードウェアしか想定していません。
このため、下記の様な特殊なハードウェアで構成されたプラットフォームで稼働している業務システムは、クラウドには移行出来ないと思われます。
・無停止サーバー
・クラスタリング・サーバー
・リアルタイムOS
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●ケース4:機密データを使用しているシステム
言わずもがなですが、機密データを取り扱う業務は、クラウドに移行してはいけません。
機密データを取り扱い、かつデータ漏洩の可能性が僅かでもあるならば、もうクラウド化は無理だと思った方が良いと思います。
機密データが外部に漏洩した場合、会社の継続が難しくなってしまいます。
どうしもクラウドにしたいのであれば、データを細分化し、機密データの内容が解らなくするとか、あるいは全てを暗号化したデータのみをクラウド環境に移行するか等、細心の注意を払った上で、クラウド化する必要があります。
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今回、「クラウドサービス」に関して、次のような内容を紹介しましたが、如何でしたか ?
「社内システムをクラウドに !」と、言葉では簡単に言いますが、実際は、凄い作業があることは理解できましたか ?
よく、クラウドサービスを提供している業者のサイトで、「3ヶ月間でクラウド移行成功 !」等と宣伝しているホームページがありますが、私は、信用出来ません。
最初から、業務を決め打ちでクラウド化を進めれば、ある程度、移行工数を減らす事は可能だと思います。
さらに、常日頃から、「業務の棚卸し」を行っている企業も、比較的、移行には手間は掛からないと思います。
しかし・・・上記のような事前準備が何も出来ていない企業で、「さあ、ウチもクラウドだ!」等とホザイている企業は要注意です。
特に、経営層がIT系に疎く、コスト削減ばかりに血眼になっている企業は、恐らく、クラウド化プロジェクトは失敗する可能性が高いと思います。
「簡単だから」と言うのが口癖の経営者は要注意です。何事も、そんなに簡単には行きません。
システム開発も同様ですが、「簡単なら自分で作ってみろ !」と言いたくなってしまいます。
全てが簡単なら、クラウド移行サービスを行う企業は存在出来ません。クラウド移行が複雑で、面倒だからこそ、このようなサービスが成立していることを意識して下さい。
次回は、クラウド移行に関して、次のような内容を紹介する予定です。
●コスト削減手段としてのクラウド
●本番カットオーバーまでの時間短縮としてのクラウド
●クラウドによる本番業務カットオーバー後の問題
それでは、次回も宜しくお願いします。
以上
【画像・情報提供先】
・Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)
・PC Watch(https://pc.watch.impress.co.jp/)
・ボクシルマガジン(https://boxil.jp/mag/)
早池峰信仰と瀬織津姫命 〜 謎多き姫神に触れる その4
今回は、これまで紹介して来た「早池峰信仰と瀬織津姫命」の続編となる「その4」を紹介します。
★過去ブログ
(1)早池峰信仰と瀬織津姫命〜謎多き姫神に触れる その1
(2)早池峰信仰と瀬織津姫命〜謎多き姫神に触れる その2
(3)早池峰信仰と瀬織津姫命〜謎多き姫神に触れる その3
前回までの内容では、次の様な内容を紹介しましたが、「早池峯信仰 = 瀬織津姫命」の関係性は、「熊野権現」に、そのルーツがある事が、ほぼ明らかになりました。
・山岳信仰とは
・早池峯信仰とは
・早池峯神社とは
・「早池峯」と「早池峰」の違い
・どこが「早池峯神社」の本坊なのか ?
・瀬織津姫命が御祭神の神社
・瀬織津姫命とは何者なのか ?
・天照大御神は男神なのか ?
・鈴鹿権現と瀬織津姫命
・熊野権現と瀬織津姫命
・瀬織津姫命と天台宗
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その中でも、岩手県には、非常に早い時期、奈良時代、および平安時代に掛けて、「熊野権現 = 瀬織津姫命」が、下記2つのルートで勧請されていたのは驚きでした。
・「大野東人」ルート :奈良時代「神亀元年(724年)」、熊野神宮本宮から勧請 → 室根神社
・「始閣藤蔵」ルート :平安時代「大同元年(806年)」、伊豆山神社から勧請 → 伊豆神社/早池峯神社
「大野東人(おおの-あずまびと)」は、「蝦夷平定」を目的にしていたとは言え、何故、こんなにも早く、大和朝廷が治めていた地域から、本州の北の果てまで、「熊野権現(瀬織津姫命)」を勧請したのか不思議な事だと思われます。
しかし、「大野東人」が、室根神社に「熊野権現(瀬織津姫命)」を勧請してから、「始閣籐蔵(しかく-とうぞう)」が早池峯神社に「熊野権現(瀬織津姫命)」を勧請するまで、100年以上経過している事に関しては、何か違和感を思えます。
普通、ある地方に神仏が勧請された場合、勧請された場所を拠点として、そこから神仏を祀る寺社が増えて行くと思われます。
「大野東人」は、当時は「鎮守府将軍」で、なおかつ「蝦夷平定」を祈願している訳ですから、自身が平定した場所には、自らが勧請した「熊野権現(瀬織津姫命)」を祀るはずです。
特に、「大野東人」は、「多賀柵(後の多賀城)」や「出羽柵」を築いていますので、現在の宮城県多賀城市や秋田県秋田市付近にも、「熊野権現(瀬織津姫命)」を祀る神社を創建するはずですが・・・
何とも、不思議な感じがします。
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さて、そこで今回のブログでは、前回「鈴鹿権現」の箇所で取り上げた、「坂上田村麻呂」と「鈴鹿御前」の子供達の事を紹介したいと思います。
前回ブログでは、「坂上田村麻呂」が、嵯峨天皇の勅命により鈴鹿峠の山賊退治を行った際、天上より「鈴鹿御前(瀬織津姫命)」が現れ、その霊力により「坂上田村麻呂」を助け、その後、二人は結婚して「一男一女」を儲けた事を紹介しました。
そして、男の子は「安倍氏」の始祖となり、女の子は、後に三人の女の子を生み、この子達が「遠野三山」の女神になったとされています。
安倍氏を含め、遠野地方に縁がある人達にとっては、夢のような、本当に、ありがたい話だと思いますが・・・これも、東北地方、特に岩手に多い、「坂上田村麻呂」伝説の一つだと思われます。
日本人に人気のある過去の偉人としては、次のような方たちがいらっしゃいますが、これらの人物には、次のような特徴があります。→ 坂上田村麻呂、弘法大師、源 義経
・実際には死んでいなかった
・日本各地で奇跡を起こしている
・実際には訪れていない場所に、伝説や記念碑等が残されている
これら偉人の内、岩手県に関わりのある「坂上田村麻呂」や「源義経」に関しては、その昔、過去ブログで紹介した事があります。
★過去ブログ
(1)「坂上田村麻呂」に関連する岩手の観光地
(2)岩手県内における義経伝説 ? 信じたくなる話ばかり Vol.1
(3)岩手県内における義経伝説 ? 信じたくなる話ばかり Vol.2
前述の「鈴鹿御前」との話も、「坂上田村麻呂」伝説に連なる話の一部だと思いますが、「安倍氏」に関して、次の話題を紹介したいと思います。
■「安倍氏」とは ?
■「安倍氏」と「瀬織津姫命」
■「安倍氏」と「アラハバキ神」
ちなみに、「安倍兄弟(安部貞任/安倍宗任)」にも、北海道に逃げたと言う伝説も残っているようです。
それでは今回も宜しくお願いします。
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■「安倍氏」とは ?
さて、東北地方、特に岩手県には「安倍氏」にまつわる遺跡や伝承が数多く残されています。
これは、皆さん、既に知っていると思いますが、岩手県が、「前九年の役」の舞台となったことが影響しています。
「安倍氏」、当初は「阿部氏(あべ-うじ)」は、孝元天皇の皇子「大彦命(おおひこのみこと)」を始祖とする一族です。
同じ一族で、誰もが名前を聞いたことがある有名な人物としては、次の人物が居ます。
・阿倍比羅夫 :飛鳥時代の将軍。北海道の蝦夷征伐実施。白村江の戦いに参戦して敗北。
・阿倍仲麻呂 :奈良時代の遣唐使留学生。歌人。比羅夫の孫。長安にて客死。
・安倍晴明 :平安時代の陰陽師。
「阿部(安倍)氏」は、9代目「阿部大麿呂」の後、「布施臣」系と「引田臣」系の2つに分裂し、先の「安倍晴明」は布施系の流れを組み、後の「土御門家」となっています。
一方、「阿部比羅夫」や「阿部仲麻呂」は引田系に属し、奥州安倍氏も、引田系の流れをくんだ一族とされており、「陸奥国奥六郡(現在の岩手県内陸部)」を拠点に勢力を拡げ、「安倍頼時( ? 〜 1057年)」の時代に、最も勢力を拡げたとされています。
「陸奥国奥六郡」とは、胆沢郡、江刺郡、和賀郡、紫波郡、稗貫郡、そして岩手郡の六郡の総称で、現在の岩手県奥州市から盛岡市にかけての広大な地域になります。
「奥州安倍氏」は、よく「俘囚(ふしゅう)の長」と呼ばれていますが、その実態は、まだ解っていないようです。
「俘囚」とは、陸奥や出羽の蝦夷の内、朝廷の支配下に入った者や、あるいは朝廷の捕虜となって移配された者を指しているそうです。
しかし、「安倍氏」の場合は、「前九年の役」の顛末を描いた「陸奥話記」によると、「安倍頼時」が、「大夫」と呼ばれたり、頼時の父「安倍忠良(ただよし)」が、「陸奥守」に任ぜられたりしているので、京都から下向した官僚が、土着して武士になったとも考えられています。
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この「前九年の役」に関しては、当ブログで、何度も説明していますが、概略だけを説明しますと、次のような流れとなっています。
・平安時代中期(11世紀中頃)、陸奥国では、安倍氏「安倍忠良・頼良(後の頼時)」親子が勢力を拡大。その後「安倍頼良(よりよし)」が奥六郡を支配し「俘囚の長」と名乗る。
・永承5年(1050年)、「藤原登任(なりとう)」が陸奥守として下向。安倍氏に朝廷への貢租を要求。
・これに対して、「安倍頼良・貞任(さだとう)」親子は、要求を無視すると共に、領地拡大を目指して南下を開始。
・翌「永承6年(1051年)」、国司「藤原登任」は、出羽の秋田城介「平 繁成」と共に、数千の兵で「安倍氏」を攻撃し、後世「前九年の役」と呼ばれる戦いが始まる。
・戦は、現在の「宮城県大崎市鳴子温泉鬼首」付近で始まり、これを「鬼切部(おにきりべ)の戦い」と呼んでいるが、国司軍は大敗を喫し、国司は京都に逃げ帰り更迭され、その後、出家。
・後任として「源 頼義(よりよし)」が陸奥守となったが、「永承7年(1052年)」、後冷泉天皇の祖母の病気快癒祈願で大赦が行われ、「安倍頼良」も罪を赦される。
・その後、「安倍頼良」は、「陸奥守」として下向した「源 頼義」を饗応した際に、同じ呼び名である事から、自らの名を「頼時(よりとき)」に改名。
・陸奥守の任期が終わる「天喜4年(1056年)」、今では、その場所も定かでは無い「阿久利川」という場所で、「源 頼義」が野営していた時に、自身の部下(藤原光貞/元貞)が襲撃された事から戦が再開。
・この件は、「阿久利川事件」と呼ばれているが、「源 頼義」か「藤原光貞/元貞」の陰謀とされる。
・戦を再開した「源 頼義」は、自身の部下「平 永衡(ながひら)」が、敵側(安倍氏)に通じていると言う讒言を信じ殺害。「平 永衡」は、「安倍頼時」の娘婿。
・その結果、同じく「安倍頼時」の娘婿だった「藤原経清(つねきよ)」が、国府軍から「安倍氏」側に寝返える。「藤原経清」は、「奥州藤原氏」の祖「藤原清衡」の実父。
・「天喜5年(1057年)」、津軽の俘囚の裏切りにより「安倍頼時」が戦死し、その後を息子「安倍貞任」が継ぐ。
・同年、「安倍頼時」の戦死を朝廷に報告するも論功行賞を受ける事が出来ず。「源 頼義」は無理を承知で再び出兵。「黄海(きみ)の戦い」で壊滅的大敗。息子「源 義家(八幡太郎義家)」他6騎にて命からがら脱出。
・「康平2年(1059年)」、奥六郡を含む、衣川以北は、ほぼ「安倍氏」の支配地となる。
・「康平5年(1062年)」、出羽の俘囚「清原氏」が、「源 頼義」の説得に応じて参戦。
・族長「清原光頼」の弟「清原武則」が総大将として出陣。戦闘開始後、わずか1ヶ月、9月17日に「安倍貞任」は戦死、「藤原経清」は鋸挽きの刑で処刑。
・その後、次の様な経緯を辿り、「永保3年(1083年)」の「後三年の役」へと繋がって行く。
→ 「藤原経清」の子「藤原清衡」は「清原武則」の子「清原武貞」の養子となり「清原清衡」となる。
→ 「源 頼義」は、意に反して「陸奥守」ではなく「伊予守」に叙任。
→ 「安倍貞任」の弟「安倍宗任」は、当初「伊予国」、その後「筑前国宗像」に流され77歳で死去。その子孫は、「松浦党」の一族となったり、「宗像氏」の配下となったりして活躍したと伝えられる。
→ 「清原武則」は、鎮守府将軍となり「奥六郡」を与えられる。
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以上が、「永承6年(1051年)」から「康平5年(1062年)」まで、途中の休戦期間も含め、11年間にも渡って争った「前九年の役」の概略です。
この結果、一番得をして「実」を取ったのは「清原氏」ですが、結局、「後三年の役」で滅亡してしまいます。
そして、「源 頼義/義家」親子はと言うと、望んだ結果は全く得られなかったのですが、後世に残る「名」を取ったと言われています。
「源 頼義/義家」親子は、「河内源氏」と言われる「河内国(現:大阪府)」出身の「清和源氏」の傍流一族ですが、この一族が、後の「源氏宗家」、武門の中での最高の格式を持つ一族となって行きます。
この一族が排出した有名な武士(達)には、次の人物が居ます。(※自分で勝手に名乗っている人もいますが)
・源 頼朝 :「源 義家」の玄孫(四代後の孫)。鎌倉幕府創設。
・足利 尊氏 :「源 義家」の四男「源 義国」の子「源 義康」が「足利氏」の始祖。室町幕府創設。
・斯波氏 :足利氏の分家。前九年の役で得た領地「斯波(紫波)郡」の名前を名乗る。室町幕府の管領家。
・徳川 家康 :河内源氏の「新田氏」の傍流「得川氏」を名乗る。徳川幕府創設。
鎌倉時代以降、武門の棟梁となる「征夷大将軍」を名乗るようになるのは、「源 頼義/義家」親子が、前九年の役で勝利した事が起源となっています。
つまり、この「前九年の役」で、「源 頼義/義家」親子が勝利しなければ、後の世で「源氏」とか「征夷大将軍」と言う「肩書」は、余り意味が無い肩書になっていた可能性があると言う事です。
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さて、肝心の「安倍貞任(さだとう)」ですが、前述の通り、史実では、「康平5年(1062年)」の「厨川の戦い」で戦死した事になっていますが、それ以外、「実は、前九年の役で敗れはしたものの、本当は逃げ延びた。」と言う次の様な言い伝えもあります。
・花巻市にある「田瀬湖」の辺りにある「安倍貞任の隠れ岩」で暫く過ごし、その後、北海道に渡った。
・遠野には「安倍頼時」の六男「重任(貞任の弟)」の子孫が今でも生きており「阿部家」となっている。
・北海道に逃げ延びる際に、盛岡市と宮古市の堺「兜明神岳」に隠れていた。
・「兜明神岳」には、安倍貞任の兜が祀られており、付近には、安倍氏の隠し財産が埋められている。
さらに、「安倍貞任」に関しては、「源 義家」自身が、「安倍貞任」を見逃したという話が「古今著聞集(ここんちょもんじゅう)」に残されています。
【 古今著聞集 】
衣川にあった安倍氏の砦が焼け落ち、安部貞任が逃げ延びようとしたところ、追手の源義家が、矢をつがえて、馬上から「衣のたてはほころびにけり」と下の句を詠みあげたのに対して、貞任は「年を経し糸の乱れのくるしさに」と上の句として繋げて返したとされています。
これを聞いた「源 義家」は、貞任の機転に敬意を払って見逃したと伝わっています。
また、「貞任伝説」は、岩手県だけかと思いきや、何と、山形県にも数多く残されているようです。
・朝日村の大平には、安倍貞任が身重の妾を連れて源氏の名刀「雲切丸」を探しに来て、その時生まれた男児が村に住みついた
・安倍氏は鳥海山の「鳥海権現」の子孫であり、貞任は、権現様から授かった不思議な玉で術を使い、源義家に追われ天狗森に立てこもった時、真夏に赤い雪を降らせ、鳥海山麓を真っ赤にした
「貞任伝説」を探してみると、上記以外、秋田県や宮城県、それに何と、九州地方に「阿部貞任は生き延びて当地に来た。」と言う伝説があります。
この点は、非常に興味深いので、機会があれば、調査して紹介しようかと思います。
また、「安倍氏」ですが、京都の貴族から見ると、蝦夷と言う事で、「野蛮」、「無教養」等と考えられがちですが、先の古今著聞集にもある通り、蝦夷とは言え、教養も備えていたようです。
「安倍貞任」の弟「安倍宗任」に関しても、捕虜となり京都に連れて行かれた際、都の貴族が、蝦夷だから花の事など解らないと思い、梅の花を見せて「この花は何か ?」と訪ねて嘲笑したところ、宗任は、次の様な歌を詠んで、京都人を驚かせたと言う「平家物語」の話は有名です。
『 わが国の 梅の花とは見つれども 大宮人はいかがいふらむ 』
何とも、格好の良い話ですが、どちらも日本人に特有の「判官びいき」と言うか、弱い者びいきの考え方の現れだと思います。
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■「安倍氏」と「瀬織津姫命」
さて、次は、「安倍氏」と「瀬織津姫命」との関係を見てみます。
前回紹介した「遠野市史」や「遠野物語」が伝える「三女神」には、「坂上田村麻呂」は登場しませんが、母親と三名の娘が登場します。
そして、「伊豆神社」自体の由緒には、俗人である「瀬織津姫命」が、「おない」と言う名前で登場し、「坂上田村麻呂」との間に「三女神」を生んだ事になっています。
他方、遠野の「綾織村誌」には、「伊豆神社」に祀られている御祭神「瀬織津姫命 = おない」は、「安倍宗任」の妻と伝わっています。
また、前述の通り、「鈴鹿御前」との関係においても、「坂上田村麻呂」との間に、一男一女を儲け、さらにその娘が、三名の娘を生んだとされています。
何か、あっちにも、そして、こっちにも似たような話ばかりで、訳が解らなくなってきましたので、これを整理すると、次の様な伝承があるようです。
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【 遠野物語/第2話 】
大昔に女神がいて、三人の娘を連れてこの高原に来た
今の来内(らいない)三村の伊豆権現の社ある場所に宿った夜、今夜よい夢を見た娘によい山を与えようと母の神が語って寝たところ、夜深く天から霊華が降り、姉の姫の胸の上に止まったのを、末の姫が目覚めて、こっそりこれを取り、自分の胸の上に乗せたところ、ついに最も美しい早池峰の山を得、姉たちは六角牛と石神とを得た
若い三人の女神はそれぞれ三つの山に住み、今もこれを支配しておられるので、遠野の女たちはその妬みを恐れて、今もこの山には入らないという。
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【 遠野市史 】
この女神たちの泊った宿は、当時来内村といった現遠野市上郷町来内の伊豆権現社である。伊豆権現は、早池峰を開山した猟師藤蔵が、故郷の伊豆から持ってきた守り神である。藤蔵は、太平洋沿いに北上し、この来内に居を構えた、という
現在、この地には三人の女神が生まれたお産畑、お産田が残っている。田は五角形で、女が田植えをすると雨が降るといって男が田植えをする。一坪(三・三平方メートル)くらいの小さな田で、不浄であってはならないと肥料はしないし、田植えの時も畦[あぜ]から苗を三把ずつ植えて内に決してはいらない。この田からとったイネで餅をつくり、大出の新山宮(現在の早池峰神社…引用者)に供え、余りはお守りとして各戸に配っている。付近には、このほか襁褓(おむつ)を干したという三国という名の岩、藤蔵の屋敷跡、後代に造った墓なども残っている。
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【 伊豆神社由緒 】
坂上田村麻呂が延暦二年(西暦七八三年)に征夷大将軍に任命され(「任命」は延暦十六年=七九七年…引用者注)当地方の征夷の時代に此の地に拓殖の一手段として一人の麗婦人が遣わされ、やがて三人の姫神が生まれた。
三人とも、高く美しい早池峰山の主になることを望んで、ある日この来内の地で母神の「おない」と三人の姫神たちは、一夜眠っている間に蓮華の花びらが胸の上に落ちた姫神が早池峰山に昇ることに申し合わせて眠りに入った。
夜になって蓮華の花びらが一番上の姉の姫神に落ちていたのを目覚めた末の姫神がみつけそっとそれを自分の胸の上に移し、夜明けを待って早池峰山に行くことになり、一番上の姫神は六角牛山へ(石神山へとの説もある)二番目の姫神は石神山へとそれぞれ別れを告げて発って行った。
此の別れた所に神遣神社を建立して今でも三人の姫神の御神像を石に刻んで祀っている。
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【 鈴鹿御前と坂上田村麻呂 】
陸奥国には、国津神の後胤「玉山立烏帽子姫(たまやまたてえぼしひめ)」という女神がいた。
この女神は、極めて美しい姫で、蝦夷の頭目「大岳丸(おおたけまる)」が、あらゆる手段を用いて言い寄ったが、姫神が応じることはなかったそうです。(※大岳丸:大竹丸、大嶽丸、etc.)
奈良時代末の延暦二十年(801年)、「坂上田村麻呂」が、征夷大将軍として蝦夷を討伐に来た際、「玉山立烏帽子姫」は、遠征軍の道案内をして、「坂上田村麻呂」が岩手山で「大岳丸」を討ち取るのを手助けしたという。
これが縁で、「坂上田村麻呂」は、「立烏帽子姫」と夫婦の契りを結び、一男一女を得たという。男子の名を「田村義道」と言い、「田村義道」は、その後、奥六郡の主「安倍氏」の祖となる。
娘の名は「松林姫」と言い、「お石」、「お六」、そして「お初」の三女を生み、「お石」は守護神「 速佐須良比売」を奉じて石上山に、「お六」は守護神「速開都比売」を奉じて六角牛山に、さらに「お初」は守護神「瀬織津姫命」を奉じて早池峰山に登ったと言う。
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【 綾織村誌 】
安倍宗任の妻「おない」の方は、「おいし」、「おろく」、「おはつ」の三人の娘を引き連れて、即ち今の上閉伊郡の山中に隠る。
其後おないは、人民の難産難病を治療することを知り、大いに人命を助け、その功によりて死後は、来内の伊豆権現に合祀さる。
娘共は、三人とも大いに人民の助かることを教へ、人民を救ひしによりて、人民より神の如く仰がれ、其後附馬牛村神別に於て別れ、三所の御山に上りて、其後は一切見えずになりたり。
其おいしかみ、おろくこし、おはやつねの山名起れり。此の三山は神代の昔より姫神等の鎮座せるお山なれば、里人之を合祀せしものなり。
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これらの由緒や言い伝えに共通するのは、「母親と三名の娘」の存在で、しかも、ほとんどが、実在の人物としている点です。「女神」と言う表現こそしていますが、ほぼ実在の人物だと思われます。
また、これら娘に共通しているのは、一部関係が無さそうな部分もありますが、「安倍氏」との関わりです。そこから何が推測されるのかと言えば、恐らくは、これら「母親と三名の娘」は、「安倍氏」に関わる人物ではないか、と言う事です。
しかし、「安倍氏」は朝敵ですから、実際に、その名を出せないので、古くから、この地で祀られてきた「瀬織津姫命」を表に出し、裏では「安倍氏」に連なる人物を祀って来たのではないかと思われます。
特に、遠野地域では、今でこそ「安倍氏は遠野の英雄であり、遠野の民は安倍氏の子孫だ ! 」等と誇らしげに公言していますが、これが、「前九年の役」が終了した平安時代当時なら、どうでしょうか ?
遠野地方は、「安倍氏」と争った「清原氏」の支配地となった訳ですから、その地で「安倍氏」と関係の深い人物を祀ったら、とんでもない事が起こる事は、誰でも想像出来たはずです。
遠野地方は、清原氏の後は、奥州藤原氏、阿曽沼氏、南部氏と支配者は入れ替わりますが、時代が経るうちに、御祭神に関する本当の由緒/起源が解らなくなってしまったのかもしれません。
つまり、これも集合の一種なのかもしれませんが、本来は「安倍氏」を祀っていた神社を「安倍氏 = 瀬織津姫命」とし、それが途中で「安倍氏」が消えてしまい、現在では、「瀬織津姫命」だけが残ってしまったのかもしれません。
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さらに、「安倍氏」と「瀬織津姫命」との関係については、前章で軽く触れた「アラハバキ神」との関係も取沙汰されています。
「アラハバキ(荒覇吐/荒脛巾)神」とは、未だに正体不明な神様とされており、実際には、どのような神様なのかは、未だに解っていないようですが、日本の全国各地に、この「アラハバキ神」を祀っていたと思われる祠があるようです。
「アラハバキ」とは、「荒い脛巾(はばき)」を意味し、「ハバキ」とは、脛(すね)に巻きつける「脛巾(きゃはん)」を意味しています。
「脛巾 ? 何それ ?」、若い人には、馴染みのない物だと思います。と言うか、私自身も、実際には使った事はありません。
現在も物としては存在していますが、幕末の戊辰戦争、日清/日露戦争、それと太平洋戦争を扱った映画やテレビで見かけた事があるだけです。
旧日本陸軍の兵士が足元に巻き付けていた物で、別名「ゲートル」とも呼ばれており、脛や脚を保護したり、長時間歩く時に、「ふくらはぎ」を締め付けて疲労を軽減したりする目的で使われます。
似たような機能を提供する膝から下を締め付ける「サポーター」や「ストッキング」が、この「脚絆」に近いと思います。
この「サポーター」であれば、私も使った事はありますが・・・「脚絆」とは言わないと思います。
と言うことで、「アラハバキ神」は、「足にまつわる神」や「旅の神」として道中安全を司る神とされるケースが多いようです。
また、ちょっと飛躍して「下半身」まで面倒を見てくれる神とも考えられているようで、弊社ブログでも紹介した「金勢様」や「道祖神」とも習合しているケースも見受けられるようです。
★過去ブログ:岩手県内における金勢信仰 〜 何でこんなに沢山あるの Vol.1〜6
上図は、宮城県多賀城市の「アラハバキ(荒脛巾)神社」の画像ですが、足や下半身に関係する「靴」、奥には「金勢様」も奉納されていますが、何か、もうグチャグチャです。
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岩手県内にも、当然、数多くの祠があるとされており、その中でも花巻市東和町谷内にある「丹内山神社」にある「アラハバキ大神の巨石」は有名です。
「丹内山神社」、創建時期は不明となっていますが、由緒書には、地方開拓の祖神として祀られていたとなっています。
現在では、確かな証拠等はありませんが、古くから「阿弖流為(アテルイ)」等、蝦夷にとっての神聖な場所だったと推測されているようです。
そして、奈良時代末、「延暦20年(801年)」の蝦夷攻撃の際には、「坂上田村麻呂」が、この地で戦勝祈願を行ったと伝わっていますので、創建時期は、とてつもなく古いと思われます。
しかし、「蝦夷の神」に「蝦夷討伐の戦勝祈願」をするとは思えませんので、恐らくは、「戦勝祈願」ではなく、「蝦夷の神」の力を封じるための策や儀式を施したのだと思われます。
その後、平安時代となる「承和年間(834〜847年)」には、弘法大師の弟子「日弘」が不動明王像を安置し、さらに、「嘉祥2年(849年)」には、比叡山座主「円仁」が、この地に留錫したとも伝わっています。
さらに、その後となると、「源 頼義/義家」親子、奥州藤原氏、さらには、この地の領主となった地方豪族、そして最後は「丹内権現」として南部氏の祈願所にもなったと伝わっています。
神社境内には、この巨石の他にも、平安時代となる「康平5年(1062年)」に、「源 義家」が勧請したと伝わる「八幡神社」と、義家の弟「加茂次郎義綱(かもじろうよしつな)」が勧請したと伝わる「加茂神社」があります。
さらに、何がしたかったのか、今では解りませんが、「源 義家」が上に乗って弓を射たと伝わる「石」もあります。
一説には、この神社は、「安倍氏」の守護神を祀っていたとされますので、「源 義家」も、「坂上田村麻呂」と同様、「安倍氏」の守護神の力を弱めるための策を施したのかも知れません。
そして、その結果、「前九年の役」で勝利する事が出来たので、そのお礼として「八幡神社」を勧請したとも推測されます。
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また、弊社ブログ「岩手の巨石シリーズ」や、先の「金勢様シリーズ」で紹介した衣川村の「磐(いわ)神社」も、「磐座(いわくら)」と呼ばれる巨石を御神体としています。
「磐神社」の近くには、「安倍氏」が住んでいた「安倍館(あべ-やかた)」があったとされ、この「磐神社」を守護神(荒覇吐神)として崇拝していた旨が、神社の案内板に記載されています。
★過去ブログ:岩手県内の巨石の紹介 - その2 〜 何故か岩手に巨石が多い
以上の事から、「安倍氏」は「アラハバキ神」を守護神として祀っていたと言う説が多く見受けられます。
確かに、「安倍館」と上記「磐神社」は、非常に近い距離にあるので、「安倍氏」が、この「磐神社」を崇拝していたとしても違和感はありません。
しかし、先の神社の由緒書以外、「安倍氏」と「磐神社」、そして「安倍氏」と「アラハバキ神」の関係を裏付ける証拠は何も存在しないようです。
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他方、「安倍氏」は、先に紹介した「孝元天皇」の一族には変わりないのですが、それ以前、「古事記」に登場する「長髄彦(ながすねひこ)」と「安日彦(あびひこ)」と言う兄弟、特に兄の「安日彦」の子孫と言う、「眉にツバ」を付けたくなるような話も伝わっています。
「長髄彦」は、別名、下記のように呼ばれる伝説の人物で、初代日本天皇と伝わる「神武天皇」が、日向から橿原を目指して東征を行った際、「神武天皇」に抵抗した大和地方の豪族とされています。
→ 那賀須泥毘古、登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)、登美毘古(トミビコ)
そして、弟「長髄彦」は、「神武天皇」に破れ、自身が信奉する神「饒速日命(ニギハヤヒ/ニギハヤヒノミコト)」に斬り殺されたのですが、兄「安日彦」は、船で、現在の青森に逃れ、「蝦夷」そして、その後の「安倍氏」の始祖となったと言うのですが・・・これが、現在では偽書と断定されている「東日流外三郡誌」の概要です。
「東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)」とは、1970年代、青森県五所川原市の「和田喜八郎」氏が、自宅を改装中に、天井裏から発見した大量の古文書と言う事になっています。
この古文書、全部でダンボール箱にして20箱分ともなる大量の文章ですが、実は、一種類ではなく、何種類もの文書の総称になるそうです。
文書の名前ですが、「東日流六郡誌絵巻」「東日流六郡誌大要」「東日流内三郡誌」・・・etc. と、続々と発見され、「和田氏」が亡くなるまでの間、発見から50年に渡り、次から次へと古文書が発見されたとされています。
もう、この説明だけで、これらの書物が偽書だと言うことが明らかになるかと思います。
しかし、中には、本当に江戸時代に書かれた古文書もあるとの事で、その真偽が、より複雑になってしまったとも言われていますが、「ニセモノの中に本物を混ぜる」手口は、詐欺師の常套手段と言われていますので、まさに、この手口を実践したものだと思われます。
そして、この「東日流外三郡誌」によると、「安日彦/長髄彦」兄弟は、重症を負いながらも青森の津軽に逃れ地元民族と結婚し、これら混血の民族は「荒覇吐族」となり、この民族が、大和朝廷から「蝦夷」と呼ばれたとしています。
「神武天皇」没後、「荒覇吐」系の民族が日本を支配したとなっており、「安倍氏」の始祖となる「孝元天皇」の時代となった頃に、秦の「始皇帝」から「徐福」が日本に派遣されたとしています。
ところが、その後、半島から異民族(崇神天皇)が日本を侵略して大和地方が奪われてしまうが、東北地方では、「安倍氏」が、これに対抗したとなっています。
以上、簡単に紹介しましたが、前述の通り、この偽書(別名:和田家文書)は、ダンボール箱20箱分もあるので、この他にも、多くの奇々怪々な内容の文書があるようです。
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さて、ここで「安倍氏」と「アラハバキ神」との関係なのですが・・・正直な所、「安倍氏」が「アラハバキ神」を祀っていた証拠は見つかっていないように思われます。
「アラハバキ神」を祀る神社には、「安倍氏が祀っていたとされる」と言う由緒書や言い伝えがありますが、それだけです。文書や記録等、明らかな記録が見当たりません。
「アラハバキ神」自体が、「瀬織津姫命」と同様、どのような神様なのか解りませんし、「奥州安倍氏」が、朝廷に敗れてしまったので、朝敵の記録は、抹消されてしまったのかも知れません。
しかし、前述の通り、「安倍貞任」の弟「宗任」は、流罪になったとは言え、77歳まで生き延びています。
本当に「安倍氏」が「アラハバキ神」を信奉していたのであれば、流された伊予地方(現:四国徳島県)や筑前国(現:九州福岡県)において、明らかな証拠が多数見つかっていてもおかしくないと思います。
特に、北九州では、水軍で有名な「松浦党」の一族を築いていますし、「宗像大社」の宮司一族でもあり大名でもあった「宗像氏」一族とも深い関係を築いています。
このように北九州では、着実に力を付けていますので、それに伴い「アラハバキ神」も、周囲に拡がっても良いと思うのですが・・・余り、そのようには思えません。
このため、やはり、「安倍氏」と「アラハバキ神」は、余り関係が無かったのではないかと思われます。
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ちなみに、現在、最も有力な「アラハバキ神」の正体説としては、「客神(まろうどがみ)」、あるいは「門客神(もんきゃくしん)」とする説があるようです。
「客神」、および「門客神」とも、元々、特定の地域の「地主神(じぬしのかみ)」だった神様が、後から来た「古事記」や「日本書紀」の神様に、その立場を追われて、立場が逆転してしまった神様であることを意味しています。
その特徴時な例として、埼玉県の「氷川神社」の例があるとされています。
「氷川神社」、現在では、主祭神は「須佐之男(すさのお)命」、「稲田姫(いなだひめ)命」、および「大己貴(おおなむち)命」の三柱とされています。
「氷川神社」の創建時期は、2,400年以上前、第5代天皇となる「孝昭天皇」の時代、「孝昭天皇3年」とされ、「スサノオ」を祀る「氷川信仰」の起源とされる神社とされています。
「孝昭天皇3年創建 ? 西暦何年 ?」となると思いますが、つまり、創建不明と言うことだと思います。
また、この「氷川神社」の摂社(境内末社)には、「門客人神社」と言う神社があり、この神社の御祭神には、「稲田姫命」の両親とされる「足摩乳命(あしなづちのみこと)」と「手摩乳命(てなづちのみこと)が祀られています。
しかし、元々の神様は、「アラハバキ神」で、古くは「荒脛巾神社」と」呼ばれていたとされ、江戸時代に書かれた「江戸名所図会」には、「氷川神社」の説明に「荒波々幾社」と記載されています。
さらに、江戸時代「文化・文政年間(1804〜1831年)」に編纂された武蔵国の地誌「新編武蔵国風土記」には、「門客人神社」に関して、次の様に記載されています。
『 いにしえは、荒脛巾神社と号せし。門客人社と改め、テナヅチ、アシナヅチの二座を配した。 』
今となっては、何時、何で「客神」にさせられたのかは解りませんが、大和朝廷側には、「瀬織津姫命」と同様、表には出せない理由があったのだと思います。
とは言え、「アラハバキ神」が、「客神」である事は解ったとしても、「アラハバキ神」自体が、どのような神様であるのか、やはり蝦夷が祀っていた神様なのか等、解らないことは沢山あります。
一部の説では、この「氷川神社」は、元々、(現在はありませんが)「見沼」と言う湖畔にあったことから、「見沼の水神」を祀っていたとされています。
このため、「アラハバキ神 = 水神」と言う説もあるようですが、これも確たる証拠はありません。
ちなみに、同じく「スサノオ(牛頭大王)」を祀る信仰として、前述の「祇園祭」で有名な「祇園信仰」があり、この信仰の神社として、京都「八坂神社」等がありますが、この「氷川信仰」とは、全く別物なのだそうです。
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もう一方、「安倍宗任」が流された北九州地方、それと「宗像氏」との関係で、「三姉妹」と言うと、「宗像三女神」が思い浮かびます。
そして、「宗像三女神」と「遠野三山の三女神」・・・これを偶然の一致とするには、何か「おしい」様な感じがしますので、次回、取り上げたいと思います。
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今回は、「瀬織津姫命」と何らかの関係があると思われる「奥州安倍氏」に関して、次のような内容を紹介しましたが、如何でしたか ?
●「安倍氏」とは ?
●「安倍氏」と「瀬織津姫命」
●「安倍氏」と「アラハバキ神」
「奥州安倍氏」、朝敵となり滅亡してしまったので、詳しい資料が残っていないのが残念ですが、恐らくは、奈良時代末から平安時代初期における「阿弖流為(アテルイ)」を代表とする蝦夷滅亡後から、「前九年の役」までの間、100年以上は、奥州を支配し続けたと思われます。
しかし、「安部貞任」の弟「安倍宗任」は、前述の通り、島流しになったとはいえ、伊予国、そして筑前国で、77歳まで生き延びたと伝わっており、かつ伊予国/筑前国では、有力一族を形成していますので、「安倍氏」に関わる、何らかの資料を残していても、おかしくないと思うのですが・・・何故か、何も資料が残っていないようです。
この点、非常に変な点だと思います。
「安倍宗任」自身が、過去を語らなかったのか、それとも、やはり何らかの圧力により歴史が消されてしまったのか、非常に興味をそそられる点です。
他方、「安倍氏」と「瀬織津姫命」の関係ですが、今回紹介した通り、「安倍氏」自身が、直接、「瀬織津姫命」を祀っていた形跡は見当たりませんでした。
そして、「安倍氏」滅亡後、地元の人々が、「瀬織津姫命 = 安倍氏」として、遠野地方を中心として、「瀬織津姫命」を祀っていたと思われます。
遠野地方の人々が、「安倍氏」を慕う理由は、唯一つ、「安倍氏」以降の支配者に、人気が無かった事が理由だと思われます。
しかし、奥州藤原氏は、「安倍氏」の血を受け継ぐ一族ですし、100年以上も、奥州に平和をもたらしていますので、恐らく、地元民に嫌われたのは、秋田から来た「清原氏」だと思われます。
そして、次回は、「安倍宗任」が島流しとなった場所である「筑前国宗像」で祀られている「宗像三女神」と「瀬織津姫命」との関係を紹介し、「瀬織津姫命」の核心に迫って行こうと思っています。
それでは次回も宜しくお願いします。
以上
【画像・情報提供先】
・Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)
・岩手県神社庁(http://www.jinjacho.jp/)
・風琳堂(http://furindo.webcrow.jp/index.html)
・花巻市ホームページ(https://www.city.hanamaki.iwate.jp)
・レファレンス協同データベース(http://crd.ndl.go.jp/reference/)
・千時千一夜(https://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo)
・IKUIKUの愉しみ(http://ikuiku-1919.at.webry.info/?pc=on)
・いわての文化情報大事典(http://www.bunka.pref.iwate.jp/
社内システムのクラウド化 〜 皆でクラウドにすれば怖いくないのか ? −その1
近頃、盛んと社内システムのクラウド化の話を聞きますが、皆さんの会社は、どうなっていますか ?
AWS、Azure、GCP、Cloud n、Nifty Cloud、IIJ GIO、ホワイトクラウド・・・全て業者が提供するクラウドサービスの名称ですが、聞いた事ありますか ?
弊社のお客様でも、主たる目的は「コストダウン」ですが、次のような事を目的として、社内システムのクラウド化を検討されている企業も数多くいらっしゃいます。
・コスト削減
・システム統合
・社員(人的リソース)不足の問題解決
・処理能力(システムリソース)不足の問題解決
・災害(ディザスター)対策・・・・・etc.
確かに、こうしてメリットを挙げて行くと、これまでの社内システム構築/運用と比較すると、「良い事ずくめ」のように見えてしまいます。
恐らく、世間一般の「Sier」やIT企業も、このようなメリットを掲げて、企業に「クラウド化」を迫っているのだと思います。
確かに、世の中は、「社内システム(オンプレミス)」から、「プライベート・クラウド」に切り替える流れが出来ており、日本国内、あるいは海外拠点に、データセンターを建設する動きが活発化しています。
先日、7/26に東京都多摩市唐木田のビル建築現場で火災が発生し、作業員4名の方が死亡した事故も、データセンターの建築現場との事で、日本国内にでも、システムのクラウド化に対応すべく、様々な場所で、データセンターの建築ラッシュとなっているようです。
そして、このデータセンターに関しても、先月号(8月)のメルマガ「気になる情報」でもお伝えした様に、「海底データセンター」を始めとした新しい技術を導入して「省エネ」や「排熱」等の問題を解決する、新しいデータセンターの構想も生まれている様です。
★過去メルマガ:エム・システム情報マガジン(第87号) - 気になる情報
他方、クラウドの生死を握るサーバーの性能に関しても、コンピューターのチップセット(半導体)の改良が図られつつも、「ムーアの法則は、既に死んでいる !」と言う説も唱えられているようです。
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ちなみに、「ムーアの法則(Moore's law)」とは、米インテルの創業者の一人である「ゴードン・ムーア(Gordon E. Moore)」氏が、1965年に、自らの論文で唱えた『 半導体の集積率は18か月で2倍になる。 』と言う半導体の成長に関する生産指標です。
「半導体集積率」とは、同じ面積の半導体ウェハーに、半導体チップを何個乗せる事が出来るのか、という事を意味しています。
つまり、これは、半導体の微細化技術の発展により、1個のウェハーに、当初は「100個」の半導体チップを乗せる事が出来る技術が、18ヶ月後には「200個」の半導体チップを乗せる事が出来るように発展し続けると言う事になります。
集積率のアップが何を意味するのかと言うと、サーバーを含めたコンピューターに搭載する半導体を、18ヶ月毎に2倍にすることが可能になる訳ですから、コンピューターの性能も18ヶ月毎に向上させる事が出来ると言う事になります。
さらに、同一面積に、数多くの半導体を製造する事が出来るようになると言う事は、極端な話では、製造コストも18ヶ月毎に半分で済むようになります。
このように、18ヶ月毎に、性能が向上し、かつ製造コストを半額に出来ると言う指標があれば、半導体製造会社は、この指標に基づいた経営計画を立てることが可能になります。
これが「ムーアの法則」なのですが、この法則は、前述の通り、1965年、今から50年以上も前に提唱された法則です。
しかし、50年以上も前に提唱された考え方とは言え、つい最近までは、この法則通りに半導体製造技術は発展してきたようです。
ところが、近頃では、半導体の微細化技術の発展スピードが鈍ってきた事から、この経験則も、既に限界に達したのではないかと言われ始めています。
実際に、2005年には、「ゴードン・ムーア」氏自身も、雑誌のインタビューで、『 ムーアの法則は長くは続かないだろう。 』と語っています。
また、その後も、2016年には、「Lifetime of Innovation Award」を受賞した際にも、『 こんなに長く続くとは思ってもいなかったので、ムーアの法則がいつ終焉を迎えても驚かない。 』とも語っています。
また、「ゴードン・ムーア」の話によると、この法則自体、元々は、1965年の時点で、過去5年間の集積回路の集積傾向をまとめたものだとしていますので、その後、50年以上も、この法則が成立していた事自体、驚きと言って良いと思います。
確かに、現在では、水平方向での微細化技術は限界を迎えているようですが、今度は、垂直方向に半導体を積み重ねる事で、さらなる集積率の向上を狙っているようです。今後も、技術者は、限界を超えるよう努力し続けるのだと思います。
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話が、「クラウド」から「ムーアの法則」に移ってしまいましたが、このように多方面から「システムのクラウド化」を推し進める状況が生まれているようです。
他方、「本当にクラウドは大丈夫なのか ?」と心配している経営者は沢山いると思います。
実際に、「クラウド 失敗事例」と言うキーワードでWebを検索すると、(全ての内容を閲覧した訳ではありませんが)大量の、約300万件以上もの関連サイトが表示されます。
そこで、今回、何回かに別けて、「クラウド化」に関して、次のような情報を提供しようと思います。
●そもそもクラウドとは何 ?
●クラウド化メリット/デメリット
●クラウドの種類
●クラウド導入までの全体の流れ
●コスト削減手段としてのクラウド
●本番カットオーバーまでの時間短縮としてのクラウド
●クラウドによる本番業務カットオーバー後の問題
しかし、「クラウド化」の話題を進めている最中に、何か新しい情報を入手したら、話の内容は変更になってしまうかもしれませんが、その点はご了承願います。
今回は、最初に、企業経営者の中には、下記のブログでも紹介した様に、「ITオンチ」の経営者が、まだまだ数多く存在していますので、「クラウド」とは、どのような仕組みなのかを説明したいと思います。
★過去ブログ:「IT音痴」が招く会社の危機 〜 あなたの会社は大丈夫 ?
また、「クラウド」に関しては、「クラウドを導入する場合、どの業者のクラウドを使えば良いのか ? 」と言う疑問もあるかと思います。
しかし、「自社システムのクラウド化」は、その会社毎に、現在のシステム環境も、そしてクラウド化の目的自体も異なるので、一概に、「この業者だ ! 」と言う様な紹介は出来ません。
それでは今回も宜しくお願いします。
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■そもそもクラウドとは何 ?
クラウドに関しては、実は、かなり前、弊社ブログを開設した当初(2011年)にも、下記ブログで取り上げています。
★過去ブログ:今話題のクラウドについて
そして、その中でも、クラウドの種類とか、メリット/デメリットを紹介しています。
「何だよ、同じ話題の繰り返しか !? 」と感じると思います。
私も、今回、この話題を取り上げる時に、当然、この過去ブログの事は解っていましたので、同じ話題を取り上げるのは「何だかな 〜」とは思いました。
しかし、この過去ブログは、2011年当時の内容です。当然、現在は、クラウドの提供の仕方も進化しています。
クラウドの考え方自体は、当時と変わっていない部分もありますが、特に、サービスの提供の仕方が大幅に進化しています。
当時は、ようやくAWS(アマゾン・ウェブ・サービス)が、日本においてサービスを開始した年ですし、Microsoft社のクラウド「Azure(アジュール)」も、ようやく「ASP(Application Service Provider)サービス」として紹介され始めた年でもあります。
それから8年、「クラウドサービス」は、大幅に進化していますが、前述の通り、「クラウド」と呼ばれている物に関する考え方は変わっていません。
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と言う事で、「クラウド」とは何かを説明したいと思いますが、基本的に、この点に関しては、2011年当時と、考え方は変わっていません。
当時も現在も、「クラウド」の定義は明確になっていません。
2011年当時は、ネットワークを経由して使用できるソフトウェアやハードウェアの事を意味していました。
つまり、下記4つの利用形態全てを「クラウド」と呼んでいました。
略称 | 名称 | 内容 |
SaaS | Software as a Service | ソフトウェアを提供するクラウドサービス |
PaaS | Platform as a Service | 基礎部分(開発環境)を提供するクラウドサービス |
IaaS | Infrastructure as a Service | ハードウェア等のインフラを提供するクラウドサービス |
HaaS | Hardware as a Service | 同上 |
「SaaS」等、またIT業界特有の3文字/4文字英語ですが、全て最後は「as a Service」となっていますので、日本語訳としては「サービスとしての〜」と考えれば分かりやすいと思います。
例えば、「SaaS」は、「サービスとしてのソフトウェア」となりますので、「クラウドサービスとしてソフトウェアを提供する事」になります。
その他、「Platform」は「基礎部分」、「Infrastructure」は「ITインフラ」と考えれば、クラウドサービスとして、何を提供するのかが分かりやすいと思います。
そして、この考えは、2018年になっても変わりません。
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ところが、近頃では、上記クラウドサービス以外にも、次のような言葉も登場しだしてします。
●XaaS
「X as a Service(ザース)」、未知の値「X」を取り入れ、全てのサービスをクラウド形式で提供する事を意味する言い回し。「X」の箇所に、(Amazonではありませんが、)「A」〜「Z」の英語を当てはめて、勝手に言葉作っているようです。謂わば、「言って者勝ち」の様な状況です。例えば・・・
・AaaS :Analytics as a Service → 解析サービス
・BaaS :Backup as a Service → DBのバックアップ・サービス
・CaaS :Communication as a Service → テレビ会議サービス
・DaaS :Data as a service → データ検証サービス
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・ZaaS :Zangyo as a Service :サービス残業の事、日本のジョーク
●Evrything as a Service
ネットワーク経由で、コンピューター処理に必要となる、下記のような、ありとあらゆる物を提供するサービス。
→ ネットワーク、デスクトップ、ハードウェア、ミドルウェア、ソフトウェア、ストレージ
クラウドとは、もう、PCやスマートフォン以外、業務運用に関わる全ての物を、ネットワーク経由で提供する事が出来る時代になってしまったようです。
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次は、「言葉の定義は解った。それで、今までと具体的に何が違うの ? 」となるかと思いますので、図を用いて説明します。
●これまでの「社内システム」
従来の社内システムでは、社内にサーバールームを設け、その中に、自社で購入したサーバーを設置し、情報システム部の社員が、下記のような手順で各種ツール等をセッティングして、社員が使えるようにしていました。
(1)サーバーに、サーバー用OSをインストールして、サーバーが稼働できるようにする。
(2)サーバーに、社内システム、および各種ツールをインストールして、社内でツールが使用できるように準備をする。
その後も、何かシステムやツールに不具合があれば、情報システム部の社員が、問合せを受け付けて不具合等を調査し、問い合わせ先に回答すると共に、システムの修正等を行っていました。
このため、社内情報システム部の社員は、社内で使うIT系システムに関しては、全てのソフトウェアのみならず、ハードウェアの知識までも必要です。
情報システムに配属された社員は、直ぐに、このようにソフトウェアやハードウェアのスキルを保持する事は出来ませんので、「OJT(On the Job Training)」等を通して、数年間の時間を掛けてスキルアップを図る必要があります。
企業は、上記のような仕組みを構築するため、下記リソースに多大な費用を掛けて、社内システムを維持し続けなければなりません。
・人材リソース :社員採用、社員教育、社員への給与支払い/福利厚生、等
・ソフトウェア。リソース :ソフトウェア・ライセンス購入/リース、保守料金
・ハードウェア・リソース :ハードウェア購入/リース、保守料金、サーバールーム維持費
そして、このようなシステム運用をIT用語では「オンプレミス(on-premises)」と呼んでいます。
●クラウドによる「社内システム」
そして、この「オンプレミス(自社運用)」をクラウドに切り替えると、何が違うのかを著したのが左図です。
これまで社内に設置していた各種サーバーを、クラウド業者が保持しているデータセンターに移す事になります。
サーバーを、業者のデータセンターに移す訳ですから、当然、サーバーで稼働していた各種システム/ツールも、業者のサーバーで稼働する事になります。
そして、業者のデータセンターにはネットワーク経由でアクセスし、データセンター内のサーバーにインストールされているシステムやツールを使用する事になります。
当然、サーバーを移行する時には、業者と情報システム部の社員が、一緒にシステムやツールの移行作業を行う必要はありますが、一度、データセンター内のサーバーにシステムを移行した後は、サーバーのメンテナンスやデータのバックアップ等の作業は、クラウド業者が行う事になります。
とにかく、社内システムをクラウド側に移行した後、情報システム部は、下記のような面倒な作業から開放される事、「お役御免」となります。
・サーバーの死活管理
・サーバー処理速度管理
・データやシステムのバックアップ作業
・サーバールームの温度管理
但し、システムやツール自体の不具合に関しては、業者は面倒を見きれませんので、その点は、従来通り、情報システム部が責任を負うことになります。
また、データ量や社員数の増加等により、システムの処理速度が低下した場合、サーバーの性能アップやハードディスク容量を増やす必要があります。
この場合、従来は、情報システム部の社員が、稟議書を書いて予算を獲得し、サーバーを購入してアップグレード作業を行っていましたが、これも、クラウド業者との契約を見直し、メモリー増量等を行う事だけで対応が取れるようになります。
まあ、契約変更に伴い、支払は増えるので、稟議書を書いて、予算を増額する事は従来通りですが・・・
このように、このように何らかのリソースが不足した場合も、基本的には、リソース追加等の契約変更を行うだけで対応が取れるようになります。
・ライセンス数追加
・メモリー量増加
・ディスク容量増加・・・・等
また、上記とは逆に、リソースが減る場合も、契約変更だけで、柔軟にリソースやキャパシティを変更する事が可能になります。
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このように、何か、「万能ツール」の様な仕組みを提供する「クラウド化」ですが、実は、魔法のように急に現れた訳ではありません。
前述の過去ブログに記載していますが、「クラウド」と言う仕組みと考え方自体は、ずっ〜と昔から存在していました。
業務のシステム化の流れに関しては、下記過去ブログで「レガシー・マイグレーション」として紹介しています。
★過去ブログ:モダナイゼーション 〜 なぜ今、必要なのか ? - 前編
コンピューター、および業務システムは、次のような流れで進化して来ました。
項番 | 時代 | 名称 | キーワード |
1 | 〜1990年 | メインフレーム | IBM社製S/360、370、MVS、390、z/OS |
2 | 1990年代 | クライアント/サーバー | Windows、Unix、TCP/IP、ISDN、ASP |
3 | 2000年代 | Webシステム | Linux、Apache、MySQL、PHP、Java、ADSL、光通信 |
4 | 2010年〜 | クラウド | 仮想化、AWS、Azure、GCP、Cloud n |
この流れの中で、既に1990年代には、「ASP(Application Service Provider)」と言う言葉が生まれました。
この「ASP」を日本語に訳すと「アプリケーション(ソフトウェア)サービス提供事業者」となります。
より詳しい説明をするなら、「ソフトウェアをネットワーク経由で提供するサービスを行う事業者」と言う事になりますので、まさに、現在のクラウドサービスと同じです。
しかし、当時は、まだ現在のように大容量で、かつ高速なネットワーク環境が整っっていなかった事と、操作性がイマイチだったので、日本では「ASP」事業は、当初想像したようには浸透せず、消えてしまいました。
高速で、かつ大容量のデータ通信が当たり前の世の中になり、また、Webブラウザも進化を遂げ、さらには、かつてはMicrosoft社が提供する、全く使い物にならない「IE(Internet Explorer)」しか使えなかった時代は、過去のものとなってしまいました。
このように、過去に生まれた技術が、現在になって、ようやく使い物になったのが「クラウド」です。
理論(考え方)が先行し、ようやく技術が追い付いたと言う所なのだと思います。
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さらにクラウドを実現するために必要な技術として「仮想化技術」があります。
従来、1台の物理サーバーを使う場合、1台分のスペースが必要でした。例えば、企業1社をクラウド化する場合、1台の物理サーバーが必要とします。
そうなると、5社の企業をクラウド化する場合、5台の物理サーバーが必要になります。
しかし、現在では、「仮想化技術(ハイパーバイザー)」が進歩し、1台の物理サーバーで、5台分の仮想サーバーを構築する事が可能になっています。
このような仮想化技術の進歩により、データセンターにサーバーを集約することが可能になった事も、クラウド化を推し進める事になっています。
但し、この仮想化技術では、1台のサーバーを複数のユーザーが使い回す事になるので、便利な半面、セキュリティに対するリスクが生まれる事にもなってしまっています。
この点は、後述する「クラウドのデメリット」の一つになっています。
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■クラウド化メリット/デメリット
ネットワーク経由で、コンピューター運用に関わるほとんど全てのリソースを利用する事が出来る仕組みが「クラウド」である事は、お解りかと思います。
そうなると、メリットは、簡単に、何個も思い付くはずですので、まずは「クラウドのメリット」から紹介します。
下記に、社内システムをクラウド化する場合のメリット/デメリットを紹介します。
●クラウドのメリット
(1)サーバールームが不要になる
クラウド業者が提供するサーバーを利用するので、自社のサーバールームが不要になります。但し、一部業務だけをクラウド化する場合、それ以外の業務用サーバーは、従来通り、社内に残る事になります。
(2)空調費用が不要になる
上記、サーバールームが不要になるので、サーバールームを冷やしていた空調設備、および電力も不要になります。
(3)サーバー管理者が不要になる。
上記からの流れで、サーバーが無くなるので、当然、サーバー管理者が不要になります。但し、クラウド業者と連絡を取る担当者(窓口)は必要です。
(4)システム構築費用が安価になる
サーバーを含むハードウェア、およびサーバーにインストールするOS等のソフトウェアに関しては、クラウド業者が用意した環境を使用するので、初期システム構築費用を安価に抑える事が出来ます。
(5)システム構築期間の短縮
社内にシステムを構築する場合、通常、数ヶ月間の期間が必要になりますが、クラウドの場合、基本的な設定はクラウド業者が行うので、短期間でシステム構築を構築する事が出来ます。但し、後述しますが「プライベート・クラウド」を選択した場合は、かなり構築時間が必要になります。
(6)災害対策の強化
現在では、ほとんどのデータセンター自体が免震/耐震構造になっているので、自社では対応が難しい災害対策を施す事が可能になります。さらに、オプション等の契約の仕方にもよりますが、災害発生時に別のデータセンターにシステムを移築する事も可能なケースもあります。
(7)スケーラビリティが高い
自社システムで運用時に、処理パフォーマンスが低下した場合など、メモリー等ハードウェアを増強しなければなりませんが、この場合、予算獲得から実際に対応が済むまで、かなりの時間が必要になります。しかし、クラウドの場合、契約を変更するだけで、直ちにハードウェアの増強が可能です。また、逆に各種リソースを減らす事も自由に行えます。
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●クラウドのデメリット
(1)セキュリティ・リスク
前述の「仮想化技術」を使った運用を選択した場合、1台の物理サーバーを、複数社で使い回す運用になるので、セキュリティのリスクが高くなります。また、クラウドにアクセスする場合、常に、外部ネットワーク経由となるので、社外からアクセスする場合、アクセスポイント等も問題になるケースもあります。個人情報や社内機密が漏洩しても、契約の範囲以上の責任は取ってもらえません。
(2)カスタマイズ対応が難しい
社内システムは、自社用に、多くのカスタマイズをしていると思いますが、クラウドの場合、カスタマイズ出来るケースと出来ないケース、またカスタマイズ出来ても、完全に、従来通りのカスタマイズが出来ないケースがあります。クラウド環境を業者が用意するので、社内システムと完全に一致させる事は、まず無理と考えた方が良いと思います。
(3)ネットワーク環境が無いと使えない
当然と言えば当然ですが、クラウドにはネットワーク経由でアクセスするので、ネットワークが使える場所でしか使えません。地下鉄、地下室、インターネット環境が劣る地方などでは、クラウドにアクセス出来ないケースもあります。また、大規模ネットワーク障害が発生すると、社内システムが停止してしまう可能性もあります。
(4)直接障害対応が出来ない
メリットに「障害対応は業者が行ってくれる」と記載していますが、その逆です。全て業者任せになってしまうので、こちらからは進捗状況を管理画面等で見守る事しか出来なくなります。これまでは、直接対応したり、電話越しに文句を言ったりすれば、迅速に対応してもらえたかもしれませんが、クラウドにすると、何も出来ません。文句を言っても余り効果はありません。
(5)他システムと連携出来ないケースがある
これも上記同様、ハードウェアやソフトウェア等、ほぼ全てを業者が提供するので、他システムと連携出来なくなるケースがあります。社内システムでは、カスタマイズを施す事で対応出来ていた事が、クラウド化で出来なくなるケースがあります。
(6)システムの継続性が保証出来ない
何度も記載しますが、全て業者任せです。企業向けクラウドでは、まだこのような自体は起こっていませんが、業者が倒産してしまい、サービスが使用出来なくなる可能性もあります。また、ちゃんとした契約を締結しないと、データセンターの災害で、システムが停止、最悪、データが消えてしまう可能性もあります。
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そして、品質には、大きくシステムが提供する機能の品質を評価する基準と、システムの使いやすさを評価する基準の2種類の基準があります。
システムが提供する機能は、システム毎に異なりますが、システムの使いやすさに関しては、どのようなシステムに関しても、ほぼ同じで、『 非機能要件 』と呼ばれ、次のような基準があります。
【 非機能要件 】
可用性 :継続して運用できる能力で、耐障害性、災害対策、回復性、等を意味する。
性能/拡張性 :処理能力、処理速度、および各種リソースの拡張のし易さを意味する。
運用/保守性 :障害対応方法、連続運用への対応等を意味する。
移行性 :データ移行、機器(ハードウェア)の移行のし易さ等を意味する。
セキュリティ :監視、診断、追跡、リスク対応、利用制限、リカバリー等の対応方法を意味する。
環境 :機材設置環境条件や環境マネージメント等、環境に優しい設置場所を意味する。
上記は、代表的な「非機能要件」で、それ以外にも細かく分類すれば、数十種類もの評価項目を挙げる事も出来ます。
今回、クラウドのメリットを見てみると、次の「非機能要件」は、ある程度は満たしていると思われます。 → 可用性、性能/拡張性、移行性、環境
しかし、やはり「セキュリティ」に関しては、ハードウェア、およびソフトウェアを、クローズ環境である「社内」から、オープン環境となる「社外」に出してしまう事から、リスクが高まってしまうのは致し方無いとは思います。
また、運用や操作性に関しても、業者提供環境に、完全に依存してしまうので、社内システムの様に、自社の運用に特化したカスタマイズを望むのは無理があります。
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一方、前述の「そもそもクラウドとは何 ? 」に記載した通り、クラウドにも、サービスの種類があります。 SaaS、PaaS、IaaS・・・
この内、「IaaS(アイ・アース)」と呼ぶクラウドサービスの場合、基本的には、ハードウェア等のインフラを提供するクラウドサービスとなりますので、このサービスを上手く使えば、既存の社内システムに、ある程度は近づける事が可能になります。
このようなサービスを「プライベート・クラウド」と呼びますので、次章で、このサービスの内容を紹介したいと思います。
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■クラウドの種類
前章で、クラウドの種類として、「SaaS」や「IaaS」等と言うクラウドサービスの種類を紹介しましたが、このようなサービスの分類方法とは別に、クラウドサービスを、次の2種類に分類する方法もあります。
・パブリック・クラウド :仮想化技術を用いて、大勢の顧客に仮想サーバーを提供するサービス
・プライベート・クラウド :企業毎に専用サーバーを用意して提供するサービス
どちらの利用形態も当然、クラウドサービスなのですが、簡単に言うとサーバーを「共有するか否か」の違いとなります。
もっと簡単に言うと、ハワイなどのビーチに、ホテル専用の「プライベート・ビーチ」が用意されていますが、それと似たイメージです。「ビーチ」を皆で一緒に使うか、それともホテル宿泊者だけで使うのかの違いです。
そこで、簡単に、上記2種類のクラウドサービスの利用形態を紹介します。
サーバー | 環境 | ソフト | 費用 | |
パブリック・クラウド | 共有 | 選択不可 | 選択不可 | 安価 |
プライベート・クラウド | 専有 | 選択可 | (ある程度)選択可 | 高額 |
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ところが、上記2種類のサービス形態であれば、分類方法が単純なので、どのようなサービスを利用すれば良いか、比較的簡単に決める事が出来たと思います。
しかし・・・世の中、簡単な仕組みを、わざと複雑にして、公務員のような輩(やから)が必ずいます。
そして、このクラウドサービスに関しても、既存のサービスの隙間を突くような新サービスが生まれ、クラウドサービスの提供形態が複雑になって来ています。
下記にクラウドサービス、そして過去に流行したホスティングやハウジングのサービス概要を記載しますが・・・記事を書いている、コチラも訳が解らなくなってしまいそうです。
●ホスティング(レンタル)
サーバー共有/専有、業者設置、変更不可、料金固定
●ハウジング
サーバー自前、業者設置、変更可、料金従量制
●パブリック・クラウド
サーバー共有、業者設置、変更不可、料金従量制
●プライベートクラウド-ホステッド-デディケイテッド
サーバー専有、業者設置、変更可、料金従量制
●プライベートクラウド-ホステッド-コミュニティー
サーバー専有、業者設置、変更可、料金固定
●プライベートクラウド-オンプレミス
サーバー自前、自社設置、変更可、料金固定
なお、料金体系などは、業者により異なるので、「この利用形態なら月額固定」と言う訳ではありませんので、最終的には、業者に問い合わせて下さい。
それでは、以降に、「パブリック・クラウド」と大きく「プライベート・クラウド」の仕組みを紹介します。
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●パブリック・クラウド
・業者が提供するコンピューティング環境を、そのまま不特定多数のユーザーに提供するサービス
・ネットワーク等、全てのコンピューティング環境は業者側で仮想化され、不特定多数の利用者が、ほぼ全ての環境を共有して使用する。
・サーバー設置場所を含め、全てのコンピューティング環境は、業者側が用意した環境に従わなければならない。利用者側は、業者から提示された利用条件に従う必要がある。
・全てが、業者側から提示されたパッケージになっているので、利用料金が非常に安価となる。
・同様に、既に用意されたパッケージを利用するので、契約完了後、直ちにサービスを利用する事が出来る。
・さらに、(通常の場合)サービスを停止したい場合も、直ちにサービスを停止する事が出来る。
・ハード、およびソフト、全てを業者側で用意/管理してくれるので、利用者は、ハード/ソフトの維持管理から開放される反面、障害が発生した場合など、一切手出しする事が出来なくなる。
・パブリック・クラウドサービス提供業者としては、次のような企業によるサービスが有名である。
→ Google、Amazon、Microsoft
●プライベート・クラウド
ここでは、プライベート・クラウドに関して、次の2種類のサービスを紹介します。
▲ホスティッド・クラウド
・その昔、「ホスティング」と呼ばれていたサービスに類似したサービスとなる。
・業者が、利用者毎に、専用のサーバー、ストレージ、あるいはデータベース等のリソースを用意する。
・利用者は、サーバー等の機器を購入する必要は無いし、自身ではシステム構築する必要も無い。
・基本的に月額固定で業者が提供する環境にシステムを短期間で構築して利用する事が出来る。
・この利用形態の場合、ネットワーク環境は専用回線、あるいはVPN回線を利用出来るので、セキュリティ・レベルを高める事が出来る。
・また、カスタマイズも出来るので、企業の業務システムに適した環境と言える。
さらに、この「ホスティッド・クラウド」に関しては、次の2種類の利用形態も存在する。
★デディケイテッドプライベートクラウド(DPC:Dedicated Private Cloud)
・業者が既に運営しているパブリック・クラウド環境の一部を、特定の利用者に専有させる利用形態。
・このサービスは、次の業者が提供している。→ Amazon Virtual Private Cloudや、MicrosoftのVirtual Network、IBMのBlueMix Dedicated
★コミュニティー・プライベートクラウド(CPC:Community Private Cloud)
・業者が、利用者の要求に合わせてカスタマイズしたクラウド環境を構築して提供するサービス。
・一般的には、同業種の企業が共同で構築して運営しているケースが多く、そのため「コミュニティー」と呼ばれている。
・費用は、パブリック・クラウドに近く、安全性はプライベート・クラウドに近いと言う「良いとこ取り」のような仕組みと言われている。
・このサービスは、次の業者が提供している。→TTコミュニケーションズのBizホスティング Enterprise Cloudや、NSSOLのabsonne、CTCのCUVICmc2
※なお、米「salesforce.com, Inc」社が提供する「Community Cloud 」と言うサービスは、このクラウドサービスとは異なるサービスとなります。
▲オンプレミス・クラウド
・企業自身が、サーバー/ストレージ等のハードウェアを購入し、その上で、企業内の環境に、ハードウェアを設置する。(従来型オンプレミスと同様)
・その後、利用者自身が、仮想化ソフトウェアを用いて、専用のクラウド環境を構築し、社内の利用者に、クラウドサービスを提供する事になる。
・このため、当然と言えば当然であるが、自社運用にあった柔軟なシステム設計と堅牢なセキュリティ環境を構築する事が可能となる。
・つまり、この利用形態は、企業自身がクラウドサービス提供者となり、社内の各部署が、クラウドサービス利用者となる。
・このため、これまで紹介してきたクラウド利用形態の内で、最も高額なクラウドサービスとなる。
・従来型のオンプレミス、つまり社内システムと異なる点は、社内で仮想化技術を用いて、コンピューティング環境とリソースを各部署に配分出来る点となる。
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クラウドサービスの利用形態・・・理解出来ましたか ? 正直な所、私は、未だに「?」の状態です。
実は、この部分、クラウドサービスの内容に関しては、私の感覚では、まだ、業界内でも、しっかりと定義されていないように感じます。
と言うのは、今回、様々な紹介サイトを見ましたが、どの説明にも一貫性がなく、細かな部分で、説明が異なっていたからです。
さらに、その説明文を掲載しているのが、クラウドサービス提供事業者です。
つまり、クラウドサービスを提供している事業者自身、各クラウドサービスの内容を、はっきりと理解していない事を意味しています。
プライベート・クラウドの部分に新たに登場した下記2つのサービス形態、それとプライベート・クラウドの「オンプレミス型サービス」、これらに関しては、まだまだサービス内容が変わって行く可能性があると思います。
「クラウドサービス」で、かつ「オンプレミス」・・・全く正反対のサービス概念を、合体させたサービスですから、余計に訳が解らなくなってしまいます。
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今回、「クラウドサービス」に関して、次のような内容を紹介しましたが、如何でしたか ?
●そもそもクラウドとは何 ?
●クラウドのメリット/デメリット
●クラウドの種類
日本において、「クラウド」と言う言葉が使われ始めて、今年で8年ほど経ちましたが、未だに、サービス内容が統一されていないようです。
そもそも、8年経っても、日本のみならず、世界中のIT業界においてさえ、「クラウドとは何か ?」が明確になっていません。
兎にも角にも、ネットワーク経由でコンピューター関係のハード/ソフトを利用する事、全てが「クラウド」と呼ばれてている状況が続いています。
その上、さらにサービスの利用形態が増え、終いには「オンプレミス・クラウド」等と言う、「真逆」の言葉が使われる自体になってしまっています。
このような無法地帯のような状況が、「XaaS」や「Evrything as a Service」等と言う言葉を生み出しています。
しかし、まあ、私達、日本人も「明暗」とか「勝負」とか、真逆の漢字を結合して二字熟語として使っていますので、そのうち、何百年か経過すれば、「違和感」など抱かなくなるのかも知れません。
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そして、次回以降ですが、次のような内容を紹介したいと思っています。
●クラウド導入までの全体の流れ
●コスト削減手段としてのクラウド
●本番カットオーバーまでの時間短縮としてのクラウド
●クラウドによる本番業務カットオーバー後の問題
現在は、業務運用の「救世主」の様に持ち上げられているクラウドですが、実際に、クラウド運用を止めて、オンプレミスに戻す企業も出始めています。
私を含め、多くの日本人は、本ブログで、何度も触れていますが、とにかく「新しもの好き」が多いようです。
現在は、ネコ様には失礼ですが、猫も杓子もクラウド、クラウドと騒いでいますが、過去には、日本中で「ERP(Enterprise Resources Planning)」に突っ走った過去があります。
この時も、長年の経験を注ぎ込んだ社内システムを廃棄し、数億円もの費用を掛けてERPにシステムをリプレースしたのは良いですが、結局は使い物にならず、また自社システムを再構築する企業が続出しました。
こと日本のIT業界において、流行った事を列挙すると・・・簡単に書いても、下記のような失敗事例を列挙する事が出来ます。
●ダウンサイジング :PC台数の急激な増加による費用増加で失敗
●クライアント・サーバー・システム :サーバー乱立でハードウェアの管理が出来ず失敗
●ERP :カスタマイズ出来ずに失敗
●クラウド :ネット経由処理が「AI」の処理スピードを満たせず失敗
日本における企業の情報システム部は、バブル以降、自分達で考える事を止め、全て「Sier」の言うなりに動く、「操り人形(Marionette)」と化してしまった事から、数多くの失敗を繰り返すようになってしまったみたいです。
次回以降で、本当にクラウドは、企業の救世主に成り得るのかを検証したいと思います。
それでは、次回も宜しくお願いします。
以上
【画像・情報提供先】
・Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)
・PC Watch(https://pc.watch.impress.co.jp/)
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