早池峰信仰と瀬織津姫命 〜 謎多き姫神に触れる その3


今回は、これまで紹介して来た「早池峰信仰と瀬織津姫命」の続編となる「その3」を紹介します。


★過去ブログ:早池峰信仰と瀬織津姫命〜謎多き姫神に触れる その1(20180623)
早池峰信仰と瀬織津姫命〜謎多き姫神に触れる その2(20180721)


前々回、および前回では、次の様な内容を紹介しましたが、「早池峯信仰」と「瀬織津姫命」との関係は、何となく「熊野権現」に、そのルーツがありそうな雰囲気です。



山岳信仰とは
・早池峯信仰とは
・早池峯神社とは
・「早池峯」と「早池峰」の違い
・どこが「早池峯神社」の本坊なのか ?
瀬織津姫命が御祭神の神社
瀬織津姫命とは何者なのか ?


前回の「その2」で取り上げた「瀬織津姫命とは何者なのか ?」において、早池峰山の南登山口の「早池峯神社」の開祖「始閣藤蔵」の出身地が「伊豆地方」である事を紹介しました。


そして、「始閣藤蔵」が建立した「伊豆神社」は、「遠野の早池峯神社」の「親神社」であり、かつ「親神」であり、その始まりは、「伊豆権現」を勧請して、御祭神を「瀬織津姫命」とした事から始まった点も紹介しました。


瀬織津姫命」に関しては、「天照坐皇大御神荒御魂(あらみたま)」を始め、多くの神様と習合していることもお伝えしましたが、こと「早池峯神社」に関しては、この「始閣藤蔵」が、現在「伊豆山神社」と呼ばれており、過去には「熊野信仰」とも結びついていた修験場にルーツがありそうです。


ここで、前回までの紹介した内容を簡単に整理して見ますと、次の通りです。


●「早池峯神社」は、早池峰山に登るための東西南北の4つの登山口に、それぞれ1箇所ずつ存在するが、現在、由緒/起源が解っているのは、西登山口「大迫の早池峯神社」と南登山口「遠野の早池峯神社」である。

●この2つの「早池峯神社」に関しては、大迫側「藤原兵部卿成房」、遠野側「始閣藤蔵」と言う、それぞれの開祖がいる事になっている。

●その後、どちらも「真言宗」や「天台宗」の密教系仏教の介入を受け、どちらも「妙泉寺」と言う名の神宮寺となり、さらに「新山堂」や「新山堂」と言うお堂を建立した。

●しかし、その始まりは、神社の由緒/起源、および御神体の配置など考慮すると、現在の南登山口にある「遠野の早池峯神社」であると思われる。

●また、全ての「早池峯神社」では、その御祭神は「瀬織津姫命」となっており、岩手県内では、「瀬織津姫命」を御祭神として祀る神社は、全国1位となる、36社も存在する。

●「瀬織津姫命」と言う神様は、「早池峯神社」の御神体の他にも、様々な神様と習合し、日本全国で祀られており、その数は、454社も存在する。

●さらに「瀬織津姫命」と言う神様は、地元の遠野地域では、「前九年の役」で朝敵となった「安倍氏」と関係のある人物とも習合している。


そこで、今回のブログでは、前回取り上げた「瀬織津姫命とは何者なのか ?」の話題を受け、次の内容を紹介したいと思います。

■「天照大御神」は男神なのか ?
■「鈴鹿権現」と「瀬織津姫命」の関係
■「熊野権現」と「瀬織津姫命」の関係


それでは今回も宜しくお願いします。

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■「天照大御神」は男神なのか ?


前回、平安時代末期には、既に「天照大御神」が「男神」であると言う説が広まっていた事や、「陰陽二元論」と言う神道の考え方から、「天照大御神 = 男性」とされていた事も紹介しました。


具体的な情報を指摘した書物や事実として、次の様な事が挙げられています。


平安時代後期の学者「大江匡房(おおえの-まさふさ):1041〜1111年」が編纂した「江家次第」と言う有識故実書には、伊勢神宮に奉納する天照大神の装束一式が、男性用の衣装である事を指摘しているそうです。


また、江戸時代中期には、前回紹介した「神道五部書」を作成したとされる、伊勢神宮外宮の神職「度会氏」の子孫「度会延経(わたらい-のぶつね)」も、その著書「内宮男体考証」の中で、『 之ヲ見レバ、天照大神ハ実ハ男神ノコト明ラカナリ 』と記述しているそうです。


また、「日本書紀」に登場する「天の岩屋」の話は、日本人なら、誰でも知っている神話だと思います。


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【 天の岩戸 】

(略)
「天宇受賣命(アメノウズメ)」が、岩戸の前に桶を伏せて踏み鳴らし、神憑りして胸をさらけ出し、裳の紐を陰部までおし下げて踊った。


すると、高天原が鳴り轟くように八百万の神が一斉に笑った。


これを聞いた天照大神は訝しんで天岩戸の扉を少し開け、「自分が岩戸に篭って闇になっているのに、なぜ、天宇受賣命は楽しそうに舞い、八百万の神は笑っているのか」と問うた。


「天宇受賣命」が、「貴方様より貴い神が表れたので喜んでいるのです」と言うと、天児屋命太玉命天照大神に鏡を差し出した。


鏡に写る自分の姿をその貴い神だと思った天照大神が、その姿をもっとよくみようと岩戸をさらに開けると、隠れていた「天手力男命(アメノタヂカラオ)」がその手を取って岩戸の外へ引きずり出した。



「胸を開け、陰部までさらけ出した若い女性の踊りを見るために岩屋から出てくる。」などと言う行動を取るのは男性しか考えられません。


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また、祇園祭に登場する山鉾「岩戸山」があります。


この山鉾「岩戸山」は、上記の「天の岩屋」神話を題材とした山鉾で、創建時期は、この鉾を維持管理している「岩戸山保存会」でも解らないようです。


しかし、八坂神社の社宝「祇園 社記」に、既にその名が記載されている事から、「岩戸山」の創建は、室町時代後期となる、「嘉吉元年(1441年)」頃とされています。


さて、祇園祭に登場する山鉾には、それぞれ御神体が祀られています。


そして、この「岩戸屋」の御神体は、「天照大御神」、「天手力男命」、および「伊邪那美命」の三体です。



ところが、この御神体の「天照大御神」は、「男神」となっており、山鉾「岩戸山」の御神体の説明には、「天照大御神」の事を、次の様に説明しています。


『 男体である。桧の胡粉塗艶出しで目、口、眉、頭髪は描かれ、眉目秀麗の美男子で垂纓の冠を着す。白蜀江花菱綾織袴で浅沓を穿く。直径十二センチ程の円鏡を頸にかけ笏を持つ。と岩戸山町で伝えられいるが、世間一般的には、女神と思われている。 』


「世間一般では女神と思われている。」と、あたかも「天照大御神」が、男神であることが「当たり前」のように記述されています。


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その他にも、江戸時代には、仏師「円空」が、「天照大御神」を男神として作成していますし、鯰絵や浮世絵にも男性の「天照大御神」が数多く描かれています。


また、男神以外の「天照大御神」の登場の仕方としては、編纂時期が不明で、現在は写本しか存在しない「日諱貴本紀(にちいきほんぎ)」と言う書物に、「天照大御神は両性具有の神」として登場しているようです。


「二根共に男女を具え、是今の両甥始也」


この「日諱貴本紀」には、「天照大御神」の事を、このように表し、かつ身長までも「六尺六寸」と具体的に表しているようです。


「1尺 = 30.3cm、1寸 = 3.03cm」とすると、「天照大御神」は、身長「199.98cm」、約2mもの長身となります。


しかし、「長さ」の基準が、現在と同じか否かは疑問があるところです。


前回紹介した(学者には偽書と断定されている)「ホツマツタエ」にも、神様の身長が記載されているそうですが、それによると「アマテル神は、身長一丈二尺五寸(約281センチ)」とあるようですが、この時は「1尺 = 22.5cm」程度なのだそうです。


そもそも、「日諱貴本紀」の編纂時期に関しては諸説があり、ある説では、南北朝時代となる「観応元年(1350年)」頃ではないかと言う説が有力となっていますので・・・やはり「眉にツバが」付く書物なのだと思われます。


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他方、この男神天照大御神」の妻となったのが「瀬織津姫命」という噂が、真しやかに広まっていますが・・・これも、どうなのでしょうか ? その一番の根拠となっているのが、前回紹介した「神道五部書」です。


その中には、「伊勢神宮」の内宮の境内別所にある「荒祭宮」の御祭神「天照大御神荒御魂(あまてらします - すめおおみかみ - の - あらみたま)」の別名は、「瀬織津姫命」である、と記載されているそうです。



そして、この「荒祭宮」は、数ある「別宮(10個)」の中でも一番規模が大きく、位も、「正宮」に次ぎ尊いとされています。


また、伊勢神宮の祭事、および神饌(しんせん)の種類や量に関しても、この「荒祭宮」だけが、「正宮」と同等とされています。


「荒御魂」とは、神の荒々しい側面、荒ぶる魂とされていますので、「正宮」である「天照大御神」と同等の扱いになるのは当然かもしれませんが・・・何か裏がありそうな雰囲気です。



荒祭宮」に関しては、伊勢神宮の説明によると、奈良時代末となる「延暦23年(804年)」に編纂された「皇太神宮儀式帳(こうたいじんぐう-ぎしきちょう)」に、下記記載があるので、既に、この頃から、伊勢神宮内に建立されていたとしています。


荒祭宮一院 大神宮の北にあり、相去ること二十四丈 神宮の荒御魂宮と称う。 』


社殿は、「内削ぎの千木」で、かつ「鰹木は偶数(6本)」ですので、女性の神様を祀っていると思われますが、御神体「鏡」であることだけは確かなようです。


ちなみに、通常、「外削ぎの千木」で「鰹木が奇数」の場合、御祭神は「男神」になります。

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■「鈴鹿権現」と「瀬織津姫命」の関係


さて、前章で、祇園祭の山鉾「岩戸屋」を紹介しましたが、別の山鉾に、「鈴鹿山」と言う鉾もあります。


こちらの山鉾は、「鈴鹿権現」を祀った鉾で、伊勢国(現:三重県)鈴鹿山で、道ゆく人々を苦しめた悪鬼を退治した「鈴鹿権現」を、金の烏帽子を被り、右手に大長刀を持つ女人の姿で表しています。


そして、この「鈴鹿権現」に関しては、ちゃんと、別名「瀬織津姫命」として紹介しています。



鈴鹿山」の御神体(瀬織津姫命)の後ろには、退治した鬼の首を表す「赤熊(しゃぐま)」が置かれており、何とも勇ましい姿になっていますが、これは、前述の「荒御魂」に通じる意味があるようにも思えます。


上図の山鉾「鈴鹿山」の画像、右下部分に置かれている「赤い物体」が、「鬼の首」を表しています。


ちなみに、「赤熊」とは、赤く染めたヤクの白い尾の毛で、僧侶が持つ「払子(ほつす)」、や戊辰戦争薩長軍の「迅衝隊(じんしょうたい)」が被っていたカツラも、「赤熊」とか「白熊(はぐま)」と呼ばれています。



その他、祇園祭では、祭りの先陣を務める「長刀鉾」の鉾先の網巻部分に取り付けられる、大きなワラで造った飾り物の事も「赤熊」と呼んでいるようです。


こちらの「赤熊」は、火除けや厄除け等のご利益があるとの事で、祇園祭が終わった後、祭りの関係先や冷泉家に配布され、軒先や台所に飾られるそうです。


長刀鉾」に付けられる「赤熊」は、全部で7個しかないそうです。



この「赤熊」は、寺院の塔の最上部に付けられる「九輪」を表していると伝わっているそうですが・・・「長刀鉾」には、何故か「7個」しか付けられません。


また、何故、「長刀鉾」に「赤熊」が付くのか、また、何故、この藁の束を「赤熊」と呼ぶのかも解らないようです。


前述の「毛を赤く染めたカツラ」を「赤熊」と呼ぶのは、何となく解りますが、こちらは全く解りません。


ちなみに、このカツラには、前述の「赤熊」、「白熊」に加え「黒熊(こぐま)」もあり、元々は、徳川家重臣「本多忠勝」が、兜の飾りとしていたそうですが、見た目が「格好良い」と言う理由で、本多家の家臣達も真似した事から拡がったとされています。


しかし、素材が、「ヤク(唐牛)」と舶来品で高価だったので、江戸城に保存してあったそうですが、江戸城開場の際に、薩長の武士が、勝手に盗み出して使い出したとされています。


また、黒い「黒熊」は薩摩、白い「白熊」が長州、赤い「赤熊」が土佐と決まっていた様で、それ以外の武士は使わせてもらえなかったと言われています。


幕府から盗み出したのに、何とも勝手な言い草で、将に「盗人猛々しい」とは、この事だと思います。


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さて、話を「鈴鹿権現」に戻しますと、「鈴鹿権現」は、別名「鈴鹿御前」とも呼ばれており、伊勢と近江の国境にある「鈴鹿山」に住んでいたとされる伝説上の女性で、交通の要所であった「鈴鹿峠」、および東海道を通る人の守護神とされています。


そして、平安時代末期から鎌倉時代、そして室町時代を通して、様々な読み物に「鈴鹿御前」が登場し、そのうちに「鈴鹿御前」と「立烏帽子」が習合してしまった様です。


それ以外にも、その正体としては、次の様な情報もあるようです。
→ 女盗賊、鬼、女神、天女、第六天魔王の娘


さらに、別の説では、「坂上田村麻呂」が天皇の勅命により、山賊退治を命じられ鈴鹿峠に向うと、天上より天女(瀬織津姫命)が現れ、その霊力により「坂上田村麻呂」の山賊退治を助けたとも、その後、彼の妻になったとも伝えられています。


他方、「坂上田村麻呂」と「鈴鹿御前」に関してですが、岩手県内には、「鈴鹿御前」と「坂上田村麻呂」は結婚して「一男一女」を儲け、男の子は「安倍氏」の始祖となり、女の子は、三女を儲けて「遠野三山」の女神になったと言ういい伝えが残されています。


この件に関しては、とても興味深いので、後述する「安倍氏との関係」で詳しく紹介したいと思います。


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ところで、「何故、鈴鹿御前と坂上田村麻呂が結びついたのか ? 」と言うと、「坂上田村麻呂による鈴鹿峠の悪鬼退治伝説」と「斎王の鈴鹿禊(みそぎ)」が、紆余曲折を経て繋がったのではないかと思われます。


元々、鈴鹿の地は、京都から「伊勢神宮」に向かう交通の要所で、古くから「斎王」と呼ばれる女性皇族が、「伊勢神宮」に向かう際に、禊(みそぎ)を行っていた神聖な場所とされています。


そして、鈴鹿峠には、前回ブログでも紹介した「延喜式」にも記載されている式内社「片山神社」も建立されていました。


現在は「片山神社」と呼ばれていますが、江戸時代刊行された「伊勢参宮名所図会」には、『 鈴鹿神社には、片山神社と言う別名がある。』と言う解説が書かれていますので、その昔「鈴鹿大明神」や「鈴鹿神社」と呼ばれていたようです。


また、この「片山神社」、現在は、残念ながら「平成13年(2002年)」に放火で全焼してしまった後、中々再建が進まず廃墟となってしまっていますが、「延喜式」に記載されている式内社ですから、創建時期は非常に古く、平安時代初期となる「延喜5年(905年)」以前だと思われます。


そして、神社の主祭神は「倭比売命(やまと-ひめ-の-みこと)」と呼ばれる姫神で、上記「斎王」の起源と考えられている神様です。


さらに、この「片山神社」には、「配祀(はいし)」として、次の様な多くの神様も祀られています。「配祀」とは、主祭神以外に祀られている神様です。


・瀬織津比賣神 :せおりつひめかみ。祓戸四神の一柱。急流に住む女神。
気吹戸主神 :いぶきどぬしかみ。同じく祓戸四神の一柱。海底に住む神。
・速佐須良比賣神 :はやさすらひめかみ。同じく祓戸四神の一柱。根の国・底の国に住む女神。
天照大神 :あまてらすおおかみ。イザナギが黄泉の国から生還後、左目を洗った時に生まれた。
・速須佐之男命 :すさのおのみこと。天照大御神の弟。イザナギの生還後、鼻を洗った時に生まれた。
・市杵嶋姫命 :いつきしまひめのみこと。宗像三女神の一柱。アマテラスとスサノオの誓約で生まれた神
大山津見神 :おおやまつみ。イザナギイザナミの子。(日本書紀では)カグツチの子
坂上田村麿 :(言わずと知れた)坂上田村麻呂



ここで、既に「鈴鹿権現 = 瀬織津姫命」と言う関係が成り立っているようにも見受けられます。


ちなみに、地元の記録では、元々、この「片山神社」は、鈴鹿峠の北に連なる三ツ子山にあったと言われており、何度も山火事にあったので、鎌倉時代中期、「永仁5年(1297年)」に、現在の地に遷座し、さらにその後、「倭比売命」が合祀されたとなっています。


つまり、現在、主祭神となっている「倭比売命」は、神社の格式を上げるために、後日、どこからか勧請された神様と言う事だと思われます。


また、地誌「三国地志」によると、「片山神社」の由来は、次の通りとなっています。


『 社家伝に云う。もとは、片山神社は三子山にあった。三ツ子とは鈴鹿嶽、武名嶽、高幡嶽である。祭神は瀬織津姫、伊吹戸主、速佐須良姫の三神、寛永十六年にこの地に遷座し祀る。三神が出現したゆえ三ツ子の名がある。また鈴鹿社は倭姫命を祭る。いま四神合祀して一つとなす。 』


そうなると、「片山神社(鈴鹿神社)」の御祭神は、祓戸四柱の内、その三柱が主祭神だった事になりますから、「斎王」の禊に深く関わった神社だったと思われます。


さらに、別の地誌「亀山地方郷土史」や「大日本史」によると、「片山神社」は、三子山に鎮座する前は、また別の地に鎮座していたと記載されていたとしています。


この地誌によると、「片山神社」は、「三重県亀山市関町古厩字片山」にあったと記載されているようですが、そうなると、現在地からは、南東方向に、かなり離れた場所にあった事になるので、この説には、異論もあるようです。


こちらの、「片山神社」ですが、元々は、「アララギ様」と呼ばれる神を祀った祠があった場所と伝わっており、その後、江戸時代には「八王子様」と呼ばれ、八柱の神様を祀る「宇気比(うけひ)神社」とも呼ばれていたようですが、明治時代に「片山神社」になったと伝わっています。


何とも興味深いのは「アララギ様」と呼ばれた神様の存在です。


実際「アララギ様」と言う神様が、どのような神様なのかは解りませんでしたが、似た名前で「アラハバキ神(荒脛神)」と言う神様がいらっしゃいます。


現在では、学会から偽書と断定されている「東日流外三郡誌(つがる-そとさんぐん-し)」に、その記載が見られることから存在自体も疑われている神様ですが、「アラハバキ神(荒脛神)」を祀る祠は、日本各地にあります。


この「アラハバキ神(荒脛神)」についても、「安倍氏」との関係で取り上げたいと思います。


それと、「八王子」とは、東京の「八王子」ではありません。


先にも登場していますが、「アマテラスとスサノオの誓約(宇気比:うけい)」で生まれた、次の五男三女神の事で、「八人の王子」の事となります。


(女神)田心姫神(たごりひめのかみ) :古事記多紀理毘売命」、沖津宮(おきつぐう)、沖ノ島
(女神)湍津姫神(たぎつひめのかみ) :古事記多岐都比売命」、中津宮(なかつぐう)、大島
(女神)市杵島姫神(いちきしまひめのかみ) :古事記市寸島比売命」、辺津宮(へつぐう)、宗像本土・田島
(男神)天忍穂耳命(あめのおしほみみのかみ):古事記正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命」、稲穂の神、農業の神
(男神)天穂日命(あめのほひのかみ) :古事記天之菩卑能命」、稲穂の神、農業の神、養蚕の神、火の神
(男神)天津彦根命(あまつひこねのかみ) :古事記天津日子根命」、その後は登場せず
(男神)活津彦根命(いくつひこねのかみ) :古事記活津日子根命」、その後は登場せず
(男神)熊野櫲樟日命(くまのくすびのかみ) :古事記「熊野久須毘」、その後は登場せず


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また、鈴鹿峠滋賀県側には、上記「悪鬼退治伝説」と関係の深い「田村神社」が鎮座しています。


こちらの「田村神社」、様々な由緒起源が掲載されていますが、神社自身の由緒書きによると、前述の「悪鬼退治伝説」を継承し、「坂上田村麻呂(758〜811年)」の没後、この地に平和をもたらしたご遺徳を仰ぎ、平安時代の「弘仁3年(812年)」に、この地に、「坂上田村麻呂」を祀る神社を建立した事になっています。


そして、御祭神はと言うと、当然「坂上田村麻呂」なのですが、それ以外にも、次の二柱が祀られているそうです。 → 倭比売命、嵯峨天皇


嵯峨天皇」は、「鈴鹿峠」の悪鬼と言うか、盗賊を討伐する勅命を出した天皇ですし、この地に「坂上田村麻呂」を祀る神社を建立する勅令を出した人物でもありますので、それで、「坂上田村麻呂」と一緒に御祭神になったと推測されます。


しかし、「倭比売命」に関しては、その経緯が解りませんが、恐らくは、先の「鈴鹿神社」と同様、「斎王」との関係があると思います。


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その後、時代を経ることで、これらの記録や伝承などが「一緒くた」となり、「斎王」が、いつの間にか「鈴鹿権現」となり、さらには「悪鬼退治伝説」で有名な「坂上田村麻呂」とつながり、「鈴鹿立烏帽子姫」と言う事になり、最後には、二人が結婚して・・・と言う形で話が広がり、それが「お伽草子」等の物語になって行ったと考えられます。


鈴鹿御前」、あるいは「立烏帽子姫」が登場する書物には、下記のような物があるとされています。


・宝物集 :平安末期「治承3年(1197年)」頃に成立した仏教説話集。
保元物語 :鎌倉初期「承久3年(1221年)」頃に成立した軍記物語。
・古今著聞集 :鎌倉中期「建長6年(1254年)」に成立した世俗説話集。
・公卿勅使記 :鎌倉中期「弘長元年(1261年)」に編纂された神道系の書物。
太平記 :戦国時代、14世紀中頃の古典文学。
・壬生家文書 :戦国時代「文明18年(1486年)の勘文(朝廷からの依頼で作成した調査報告書)。


上記の様な流れで、平安時代には、「立烏帽子姫」と「鈴鹿御前」が習合し、その後、室町時代や戦国時代には、「坂上田村麻呂」も登場し、それ以降は、地元の民間信仰や「お伽草子」等の読み物として語り継がれてきたのだと思います。


鈴鹿御前 = 瀬織津姫命」と習合した経緯に関しては、詳しくは解りませんが、やはり前述の通り、「禊(みそぎ) = 祓戸大神」として習合したように感じられます。


但し、祓戸大神の内、「姫神」は、三柱も存在するのに、何故「鈴鹿御前 = 瀬織津姫命」となったのかは、疑問の残る所です。


鈴鹿御前」と習合するのは、「瀬織津姫命」以外、「速開都比売」や「速佐須良比売」でも良かったと思いますが、何故「鈴鹿御前 = 瀬織津姫命」となったのか ?


前述の「片山神社」には、「瀬織津姫命」と一緒に「速佐須良比売」も祀られているので、「鈴鹿御前 =速佐須良比売」でも良かったのではないかと思われます。


この件に関しては、後述する「瀬織津姫命が生まれた背景」で詳しく紹介したいと思いますが、やはり「瀬織津姫命」は、他の女神と比べると、特別な神様だった事が理由だと思われます。

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■「熊野権現」と「瀬織津姫命」の関係



他方、「熊野権現」と「早池峯権現」を同一と見る向きもあります。つまり、「熊野権現 = 早池峯権現 = 新山権現 = 瀬織津姫命」と言う関係です。


「早池峯権現 = 新山権現 = 瀬織津姫命」と言う関係は、名前の順番は別にして、これまで説明してきた各地の「早池峯神社」の由緒から明らかだと思われます。


それぞれの登山口で「妙泉寺」や「新山宮」を建立し、そこに「新山権現」やら「早池峯権現」を勧請して、かつ御祭神を「瀬織津姫命」にしている訳ですから、これら三者(三神)は、同一神として習合していると考えて間違いないと思います。



また、「遠野の早池峯神社」は、猟師「始閣藤蔵」が開祖と伝えられている事は既に紹介した通りです。


しかし、前編では詳しく紹介していませんが、「始閣藤蔵」は、元々、遠野の人間ではなく、現在の静岡県「伊豆」出身である事が、昭和49年10月に刊行された「遠野市史」に掲載されているそうです。


市史によると、「始閣藤蔵」は、故郷「伊豆」から、太平洋岸沿いに北上し、「遠野市来内(らいない)村」に来て、そのまま村に住み着いたとされています。


そして、その後、平安時代初期の「大同年間(806〜810年」に、故郷である「伊豆」から持ってきた守り神である「伊豆権現」を勧請して、遠野市上郷町来内に「伊豆神社」を創建したとされています。



遠野市伊豆神社(当時は、伊豆大権現)」は、「伊豆権現」を勧請したとされていますが、その御祭神は「瀬織津姫命」となっていますので、ここで「伊豆権現 = 瀬織津姫命」と言う関係も見て取ることが出来ます。


そして、前述の通り、「始閣藤蔵」は、「大同元年(806年)」、早池峰山の山頂に、お堂を建立したとされていますが、実は、こちらの遠野市伊豆神社」の方が、「早池峯神社」の「親社」とされています。


その昔から、「遠野の早池峯神社」では、この「伊豆神社」を「親神/親社」と呼び、「早池峯神社」で例大祭等を行う時には、必ず「伊豆神社」の別当が来るまで、祭りを開催する事が出来なかったそうです。


ところが、肝心の「伊豆神社」側の由緒書きでは、市史とは異なる由緒を伝えており、「始閣藤蔵」がお堂を建立した後、「伊豆走湯神社」の修験者が来内村を訪れて、獅子頭御神体として奉納したとされています。



しかし、何れの由緒においても、「伊豆の走湯神社」や「伊豆権現」との関係が見て取れます。


それでは、「伊豆走湯神社(現:伊豆山神社)」とは、どのような神社なのかと言うと、創建時期は不詳となっていますが、一説には、第5代天皇孝昭天皇(紀元前4〜5世紀頃)」の頃とされています。


そして、その昔から、次の様な社名で呼ばれていますが、全国にある「伊豆神社」、「伊豆山神社」、および「走湯神社」の総本社とされています。
→ 伊豆大権現、伊豆御宮、伊豆山、走湯大権現、走湯山


その由緒はと言うと、「仁徳天皇」が勅願所とした事から、歴代天皇や皇族との繋がりが深い場所とされていますし、「源 頼朝」も戦勝祈願を行った関係で、鎌倉幕府の「関八州鎮護」として最盛期を迎えたとされています。


また、飛鳥時代には、「役行者」として知られる「役小角(えん-の-おづの)」が、伊豆大島流罪となった際に、ここで修行を行ったと伝わっておりますし、それ以降も、「空海」を始めとする多くの仏教者や修験者が修行を行ったと伝わっています。



このため、平安時代後期には、既に山岳信仰の修験場として有名になっており、熊野神社の「熊野信仰」とも結び付いていたと考えられているようです。


特に、鎌倉時代に編纂されたと伝わる「走湯山縁起」によると、境内末社となる「雷電社」には、「雷電金剛童子」という熊野権現の王子を祀っていたと説明されており、この事からも、「伊豆山神社」と「熊野権現」との関わりを見て取る事が出来ると思われます。


この「走湯山縁起」では、「雷電金剛童子」と「走湯権現」との関係については、「走湯山縁起 巻四」に、次の様に記載されているようです。


『 抑雷電金剛童子者、南山熊野王子、東明走湯儲君也、本是震多摩尼菩薩、以安養補陀落為所居、明迹則雷電金剛童子、以熊野・走湯山為社壇 』


走湯山には雷電金剛童子が祀られている。これは南山熊野の王子であり、東の明けの走湯権現にとっては儲君となる。雷電金剛童子の本是は多摩尼菩薩である。このため、この地は極楽霊場を為す場所であり、則ち、これは明らかに雷電金剛童子の足跡となる、故に、湯山と熊野の両社を共に社壇(祭殿)を祀っている。


何か、私の、漢文訳が変なため、よく解らない現代語になってしまいましたが、要は、「雷電金剛童子」は、「走湯山」、および「熊野」の双方にとって重要な神様である、と言いたい様です。


ちなみに、「伊豆山神社」自体は、次の三柱を御祭神として祀っており、この「雷電社」も、「瓊瓊杵尊」を御祭神としています。


・天忍穂耳(あめのおしほみみ)尊 :「アマテラスとスサノオの誓約(うけい)」で生まれた八王子の長男。
・栲幡千々姫(たくはたちぢひめの)尊 :「高皇産霊尊」の娘。「天忍穂耳尊」と結婚し「瓊瓊杵尊」を生む。
・瓊瓊杵(ににぎ)尊 :上記二柱の息子。「天孫降臨」で高天原から葦原中津国に降臨した神。


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他方、熊野権現とは、元々は、「熊野三山」に祀られた神々のことで、次の三柱を「熊野三所権現」と呼んでいたようです。


熊野本宮大社 :家都美御子(けつみみこ)大神 → スサノオ
・熊野速玉大社 :熊野速玉(くまのはやたま)大神 → イザナギ
熊野那智大社 :熊野牟須美(くまのむすみ)大神 → イザナミ


そして、これら三つの大社では、お互いに三柱を勧請し会い、三神を一緒に祀っています。


さらに、これら三所権現の他にも、次の九柱を追加して「熊野十二所権現」とも称しています。


●上四社
第一殿 西宮 熊野牟須美(クマノムスビ) 千手観音
第二殿 中宮 熊野速玉(クマノハヤタマ) 薬師如来
第三殿 丞相 家都美御子(ケツミミコ) 阿弥陀如来
第四殿 若宮 天照大神(アマテラス) 十一面観音
●中四社
第五殿 禅児宮 天忍穂耳(アメノオシホミミ) 地蔵菩薩
第六殿 聖宮 瓊瓊杵(ニニギ) 龍樹菩薩
第七殿 児宮 彦火火出見(ヒコホホデミ) 如意輪観音
第八殿 子守宮 鸕鶿草葺不合(ウガヤフキアエズ) 聖観音
●下四社
第九殿 一万宮・十万宮 軻遇突智(カグツチ) 文殊菩薩
第十殿 米持金剛 埴山姫(ハニヤス) 毘沙門天
第十一殿 飛行夜叉 弥都波能売(ミズハノメ) 不動明王
第十二殿 勧請十五所 稚産霊(ワクムスビ) 釈迦如来



何か、神様だ、仏様だと、凄い事になっていますが、熊野権現とは、このような神様達となっています。


しかし、前述の通り、「走湯山縁起」では、「雷電金剛童子は、熊野権現の王子たる神様」としていますが・・・何故か、この「熊野十二所権現」には、「雷電金剛童子」なる神様は登場しません。


それでは、「熊野権現の王子たる雷電金剛童子」とは、何なんでしょうか ?


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熊野三山」周辺、特に紀伊半島には、熊野詣を行うための「熊野古道(熊野参詣道)」があります。


そして、この「熊野古道」には、この道沿いには、熊野の修験者によって建立された「九十九(くじゅうく)王子」と呼ばれる多くの神社があるそうです。


実際は、「九十九」個の神社がある訳ではなく、江戸時代に書かれたとされる「神道集 巻第二」には、この「九十九王子」と呼ばれる神社は、84箇所あるとされています。


この事から、先の「走湯山縁起」における「南山熊野王子」とは、「王様の子」ではなく、この「九十九王子」と呼ばれる神社の一つを意味しているのだと思われます。


さらに、その昔、「熊野三山」、「高野山」、「吉野・大峰」を含む紀伊半島地方は、総称して「南山」と呼ばれていた事から、「南山熊野王子」とは、「紀伊半島熊野古道にある王子」と言う事を意味しているのだと思います。


また、「九十九王子」は、前述の通り、「多くの王子(神社)」と言う意味になりますが、実際に、どのくらいの神社が「王子」として認定され、そして、現在、いくつ残っているのか等は、よく解っていないようです。


「王子」と言う言葉や施設は、平安時代末期となる10〜11世紀には既に存在している事が、当時の貴族(藤原為房)の日記に書かれていた事から解っています。


しかし、時代と共に、「王子」と認められた神社は変化している様ですし、明治時代の「廃仏毀釈」の影響もあり、今となっては、よく解っていなようですが、現在では何と・・・100箇所以上の場所が「王子」となっているようです。



これら「王子」は、「熊野三社」の「御子神」、つまり「子神社」と考えられており、同じく「神道集 巻第二」の「熊野権現事」には、前述の「熊野十二所権現」に関する「本地仏」が説明されていますが、その後に、次の王子の説明が記載されています。


那智の滝本(飛滝権現) :千手観音
・新宮神蔵(かんのくら) :毘沙門天/愛染明王
雷電八大金剛童子弥勒菩薩
・阿須賀大行事(あすかだいぎょうじ) :七仏薬師


また、室町時代末期となる「応永年間(1394〜1428年)」の「寺門傅記補録」には、熊野、および王子に関する多くの説明が書かれていますが、さらに「金剛童子」については、次のように紹介されています。


『 熊野の護法神となす。熊野縁起那智鎮守の条に禮殿執金剛童子、湯峯金剛童子、發心門金剛童子、湯河金剛童子、近津湯金剛童子、瀧尻金剛童子、切目金剛童子等の名見ゆ。青童子童子あり。金剛童子の条に注す。 』



これら7人の童子の内、次の6名に関しては、現在でも同名の「王子」が確認されています。また、「熊野三社」には、それぞれ「禮(礼)殿」がありますので、「禮殿執金剛童子」は、出発地である「熊野本宮」を意味していると思われます。


・湯ノ峯王子 :田辺市本宮町湯峰。王子としての疑いがある神社。
・発心門王子 :田辺市本宮町。五体王子のひとつ。
・湯川(湯河)王子 :田辺市中辺路町道湯。現社殿は昭和期に再建。
・近露(近津湯)王子 :田辺市中辺路町。現在は石碑飲み。
・瀧(滝)尻王子 :田辺市中辺路町栗栖川。五体王子のひとつ。現在も神社。
・切目王子 :日高郡印南町。五体王子のひとつ。本地:十一面観音。


一方、複数存在する「熊野曼荼羅」の内、「熊野垂迹神曼荼羅図(甲本)」等には、「礼殿執金剛童子」と言う童子が、観音様の「眷属」として描かれています。


「眷属」とは、一族、郎党、あるいは従者等と言う意味や、あるいは「神仏のお使い」と言う意味で用いられる言葉です。



この「礼殿執金剛童子」ですが、前述の「走湯山縁起」では、「雷電」と表記されていますし、さらに他のケースでは「雷殿」と表記されるケースもありますが、何れも同じ事を意味していると考えられています。


元々は、「礼殿を守護する金剛童子」と言う意味だったようですが、それが「礼(禮)殿」+「守護」+「金剛童子」の形に分割され、その後「礼(禮)殿」+「執金剛童子」となり、さらに「雷電」+「金剛童子」に変化したと考えられています。


何れにしても、「神仏のお使い」たる眷属で、神仏を守護している「金剛神」のことだと思われます。



このように、「始閣藤蔵」と「熊野権現」とは、目立たない場所で、確かに繋がっていたようです。


また、冷静に考えれば、「始閣藤蔵」は猟師と紹介されていますが、居着いた場所に、複数のお堂を建立している事から、元々は「修験者」だと考えるのが普通です。


また、お堂の建立後、出家して「普賢坊」と名乗る事からも、やはり元々は修験者で、生活のための猟を行っていたのではないかと思われます。


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ここまでが、和歌山県熊野三山」→ 静岡県伊豆山神社」→ 遠野「伊豆神社」→ 遠野「早池峯神社」と言う流れで、「瀬織津姫命」が「早池峯神社」に勧請された経緯を紹介して来ましたが、それとは別のルートで、岩手県に「瀬織津姫命」が勧請されている事も解っています。



それは、鎮守府将軍大野東人(おおの-あずまびと)」による、熊野権現の勧請です。


鎮守府将軍とか征夷大将軍と言えば、本ブログに何度も登場する「坂上田村麻呂」が有名ですが、彼以前にも「大野東人」が、当時の鎮守府将軍として、何度も蝦夷征伐を行い、多賀城や出羽柵などを作ったりしています。


また、奈良時代となる「天平12年(740年)」に起こった「藤原広嗣の乱」を鎮圧する等の功績も挙げる等、奈良時代を代表する武人と言われています。


さて、この「大野東人」ですが、かつての室根村(現:一関市室根町)のホームページには、「室根神社」の由緒について、下記のような情報を掲載していたようです。


『 本宮(室根神社本宮)は、社伝によれば養老二年(七一八年)鎮守府将軍大野東人が、熊野神の分霊を迎えたのが起源で、いまから一千二百九十二年前のことである。

大野東人鎮守府将軍として宮城県多賀城にあって、中央政権に服しない蝦夷(関東以北に住んでいた先住民)征討の任についていた。

しかし、蝦夷は甚だ強力で容易にこれを征服することができなかったので、神の加護を頼ろうと、当時霊威天下第一とされていた紀州牟婁(むろと)郡本宮村(現在の和歌山県田辺市本宮町)の熊野神をこの地に迎えることを元正天皇に願出た。

東北地方の国土開発に関心の深かった元正天皇はこの願いを入れ、蝦夷征討の祈願所として東北の地に熊野神の分霊を祀ることを紀伊の国造や県主に命じた。

天皇の命令を受けた紀伊の国造藤原押勝、名草藤代の県主従三位中将鈴木左衛門尉穂積重義、湯浅県主正四位下湯浅権太夫玄晴と、その臣岩渕備後以下数百人は、熊野神の御神霊を奉じてこれを守り、紀州から船団を組み四月十九日に船出し、南海、東海、常陸の海を越え陸奥の国へと北航し、五ヵ月間もかかって九月九日に本吉郡唐桑村細浦(現在の気仙沼市唐桑町鮪立)についた。

この時、仮宮を建て熊野本宮神を安置した。それがいまの舞根神社(瀬織津姫神社)である。 』



しかし、史実では、「大野東人」が、多賀柵(多賀城)を建築したのは、奈良時代初期となる「神亀元年(724年)」とされていますので、まあ、若干、年代のズレはあるようです。


この由緒書によれば、年代はさて置き、熊野本宮から「瀬織津姫命」を勧請し、仮宮として、現在の「瀬織津姫命神社」、当時は「舞根(もうね)神社」に安置したとしていますので、明らかに「熊野権現瀬織津姫命」です。


さらに、天皇の勅命を受けた数百人で船団を組み、熊野から5ヶ月間も掛かって気仙沼に着くなんて、天皇行幸よりも大規模なような感じがしますが、何か、異常な感じがします。



船団到着後、多賀城に居た「大野東人」は、白馬17頭で神輿を迎え、「熊野本宮神(瀬織津姫命)」の仮宮に供物を清めてお供えし、どこに「熊野本宮神(瀬織津姫命)」を鎮座させるのかを湯立神事で占ったところ「磐井郡鬼首山(現在の室根山)は日本武尊が皇業を始めた地なので、そこに祀ってほしい」という託宣を得たとされています。


ところが、船団が到着したとされる「唐桑」側の伝承では、「室根神社」の伝承とは話が異なり、最初に「仮宮」を設置したのは、船団が到着した場所、現在の唐桑町鮪立49番地にある「業除(ごうのけ)神社」とされています。


つまり、「熊野本宮神(瀬織津姫命)」の鎮座した場所は、次の様に遷移したとされています。



和歌山県熊野神社本宮」 :御祭神「家都美御子大神」
唐桑町鮪立「業除神社」 :御祭神「紀州熊野神社御分霊」
唐桑町東舞根「舞根神社(瀬織津姫神社)」 :御祭神「瀬織津姫命」
→ 「熊野神社」 :場所等一切不明
→ 一関市室根町「室根神社」 :御祭神「伊弉冉命、速玉男命、事解男命


平成になってから書かれた由緒書ですが、オリジナルは、昭和37年「佐々木萬兵衛」と言う方が記録した由緒書で、次の様に記載されています。


『 業除権現神社は、今から千弐百八拾八年前、人皇拾壱代元正天皇は東北地方開発の為従三位鈴木左ヱ門尉(穂積)重義(に)命じて、尊崇厚き熊野本宮の神霊を奉持させ東下させた。

時は、養老弐年四月で同勢百余名が海を渡り五ヶ月間にて、唐桑細浦、現在の唐桑鮪立に到着、最初に神霊を安置したのは当業除権現神社である。

次に舞根の瀬織津姫神社、気仙沼に至(り)ては熊野神社と、奥地に分け入りて二十日後に落ち着いたのが室根神社である。

これがため、これらの神社の祭神は熊野権現神社であり、これが由来しって、室根神社大祭の前日には鮪立と舞根から海水を持参して神器(を)清める習慣があった。

今も続き居る事は、熊野神社本宮の由緒書にも記載されてあると言う。地方伝承(と)室根山縁起と一致する事、間違えなき史実なる直を。

神霊は海を渡り来るものなれば、漁夫の守り神と致し崇拝致すべきものなり。以上は昭和三十七年九月九日佐々木萬兵衛氏由来書を元に記す。 』



「仮宮」の設置場所に相違がありますが、何れにしろ「熊野本宮神(瀬織津姫命)」は、間違いなく、熊野の地から、「室根神社」まで無事に勧請出来たようです。


そして、これまでの経緯が正しければ、元々の熊野本宮に祀られていた神様は「瀬織津姫命」と言う事になります。


ところが、ここまでの話に登場する神社の内、現在、「瀬織津姫命」を御祭神にしている旨を表明しているのは、上記の通り、「舞根神社(現:瀬織津姫神社)」だけです。


それ以外の「熊野本宮」、「業除神社」、および「室根神社」では、残念ながら「瀬織津姫命」と言う神様は、お隠れになってしまっています。


しかし、肝心の「室根神社」に関しては、御祭神の名が公になったのは、「大正8年(1919年)」、神社から提出された「県社昇格願」と言う申請書に、「祭神 伊弉冊尊」と言う記載があっただけと言われています。


それ以前、つまり、「大野東人」が、「養老2年(718年)」、「室根神社」に「熊野権現」を勧請してから1200年の間は、「瀬織津姫命」が御祭神だった可能性があります。


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つまり、岩手県内には、この様に、次の2つのルートで、「熊野権現」たる「瀬織津姫命」が勧請されたと考えられます。


●「始閣藤蔵」ルート :熊野神社本宮 → 伊豆山神社伊豆神社 → 早池峯神社
●「大野東人」ルート :熊野神社本宮 → 業除神社 → 舞根神社(瀬織津姫神社) → 熊野神社 → 室根神社


他方、室根山は、早池峰山からは、ほぼ真南に80km程度離れた場所にありますが、お互いに行き来したという情報もありません。


創建年代としては、下記の通り、「室根神社」の方が、100年位早く「瀬織津姫命」が勧請された事になっています。


●「室根神社」 :奈良時代「養老2年(718年)」
●「早池峰神社」 :平安時代「大同元年(806年)」


歴史の中に埋もれてしまったのかも知れませんが、ひょっとしたら「室根神社」と「早池峰神社」との間には、何らかの接点があったのかも知れません。


女性には理解出来ないかもしれませんが、このような想像を膨らます事が出来るのが「歴史ロマン」だと思います。



ちなみに、「舞根神社(瀬織津姫神社) 」は、唐桑半島の付け根付近に鎮座していたため「東日本大震災」による津波の被害を受けて全壊してしまったそうです。


その後、2012年11月に、元の場所からは400m程、内陸の地に遷座されたようです。


社殿は、「牡蠣(かき)」を通して交流があった、広島県呉市の宮大工の方により復元して頂いたそうです。

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■「瀬織津姫命」と「天台宗」の関係


ところが、この「室根神社」、実は、遠野「早池峰神社」と同じ運命を辿る事になります。


これまで紹介してきた通り、「養老2年(718年)」に、熊野本宮から「熊野権現(瀬織津姫命)」を勧請して「室根神社」が創建されたのですが・・・その後、遠野「早池峰神社」と同様、天台宗の僧侶「円仁(慈覚大師)」等に乗っ取られる事になります。


室根村文化財保護委員会が発行した「室根神社史実録」によると、下記の通り、平安時代初期となる「嘉祥3年(850年)」、「円仁」が、勅願を以て室根山へやって来て、天台宗の一大寺院群を建立したとなっています。


人皇十四代の聖主仁明天皇の御代嘉祥三年九月に、天台の座主僧円仁(慈覚大師)東国に御下りになり、室根山の頂上にて北の壇西の壇を造り浄め、石を敷き梶の葉を並べ供物を供え、金剛の法界大日両部執行の御護摩を焚き、百日百夜の御修行により、衆生成仏済度のため、天下長久国家安全の御祈禱をなさる。

これより室根山全山天台宗(比叡山真流)となり、護摩壇設置され、衆生済度天下長久国家安全鎮護の大霊場となる。 』


そして、「円仁」は、本尊本地仏「十一面観音」を中心に、主要寺五寺、四箇所の祓川金剛童子、四十八院、八十八坊を建立したと記載されています。


遠野「早池峰神社」においても、「十一面観音像」祀ると共に、脇士として「薬師如来像」と「虚空蔵菩薩像」を併祀したと伝わっていますので、それと全く同じ事を、「室根神社」でも行った事になります。


「円仁」は、奈良時代の「延暦13年(794年)」、現在の栃木県佐野市田沼町(旧:安蘇郡)の生まれとされていますので、私の妻と同じ場所の出身のようですが、天台宗の開祖「最澄」に師事した後、遣唐使として当時の中国に9年も留学し、「承和14年(847年)」に日本に帰国し、その17年後の「貞観6年(864年)」に死去した事になっています。


故に、この史実が正しければ、日本帰国後、直ちに東国巡礼に出発し、わずか17年で、数多くの寺院群を建立した事になります。


由緒書きで、「円仁」が開山したり再興したりしたと伝わる寺社は、関東では「浅草寺」等を含む209寺、東北では「瑞巌寺」、「立石寺」等を含む331寺あるとされていますが・・・こうなると、もう「眉に唾を付けたく」なってしまいます。


恐らくは、奈良時代から平安時代にかけて、桓武天皇の指示により、「最澄」や「円仁」等、天台座主配下の僧侶達が、関東から東北を行脚し、国家宗教と言う名の下、地元に元々祀られていた地主神を、半ば強制的に「天台宗」に改宗させて行ったのではないかと推測されます。


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しかし、そんな天台宗の栄華も、鎌倉時代に入ると一変してしまいます。


東北各地の天台宗系の名だたる寺院は、鎌倉時代となる、「文応元年(1260年)」以降、鎌倉幕府の執権引退後の「北条時頼」の「奥羽天台宗寺院廃滅令」により壊滅させられたとしています。


鎌倉幕府の第五代執権「北条時頼(在職1246〜1256年)」は、引退後に出家し「最明寺入道」と呼ばれ、諸国を行脚したと伝わっています。


これが、いわゆる「観阿弥/世阿弥」が作曲した能「鉢の木」に代表される「北条時頼の廻国伝説」ですが・・・


実際には、このような諸国行脚は行っておらず、引退後に行った「北条得宗家の領地訪問」が脚色され、このような伝説が生まれたのではないかとされているようです。


同じ様な伝説では、「水戸黄門漫遊記」がありますが、時代劇で有名な、この話も、実は、「北条時頼の廻国伝説」がベースになっていると言う話もあります。


まあ、何れにしても、北条時頼水戸光圀公も、諸国を行脚したと言う事実はありません。


また、前述の「奥羽天台宗寺院廃滅令」ですが、この命令も、本当に発令されたのか否かも明らかにはなっていないようです。


但し、下記の資料には、文応元年(1260年)」以降、鎌倉幕府の命令により、東北地方において、天台宗の僧侶が追放されたり、あるいは寺院が焼き払われたりした事が記録されているようです。


宮城県瑞巌寺に残る「天台記
・室根神社史実録


鎌倉幕府は、平安時代末期から力を付けてきた天台宗の「僧兵」の扱いに苦慮して来ましたので、幕府成立当初から国家権力と結び付いてきた仏教、特に、天台宗に対しては、憎しみを募らせていたのだと思います。


そして、上記の資料には、「北条時頼が出家して最明寺入道を名乗り、諸国巡見を行った際、奥羽の天台寺院において、不正が多く、かつ仏教の教義に反する行いをしているとして、僧侶追放や寺院焼き討ちが行われた。」と記載されているようです。


ところが、前述の通り、「北条時頼」自身、このような諸国行脚は行っていませんので、この「奥羽天台宗寺院廃滅令」自体、存在しないのではないかと思われます。


しかし、僧侶追放や寺院焼き払い自体は、実際に行われた様ですので、恐らく、本当に、当時の瑞巌寺(当時は松島青龍山瑞巌円福禅寺)や室嶺山満徳寺(現:室根神社)では、風紀が乱れ、仏の道に反する行為が行われていたのだと思われます。



瑞巌寺」は、僧侶の追放、および改宗(天台宗臨済宗)だけで済んだようですが、「室根神社」は、寺社、尽く焼き払われ、当たり一面、焼け野原と化したようですから、「室嶺山満徳寺」の行いは、よっぽど酷かったのだと思います。



戦国時代には、「織田信長」も、天台宗の総本山「延暦寺」の焼き討ちを行っていますので、平安時代末期以降、天台宗は、もう「仏の道」云々どころか、根本的に腐っていたのだと思われます。


その証拠としては、天台宗の開祖「最澄」の弟子「仁忠」が、「最澄」の死後に書き表したとされる「叡山大師伝」には、「最澄」の遺言として、次のような戒めの言葉を残したと伝わっています。


『 我が命、久しく存せじ。若し我が滅後に、皆服を著すること勿れ。亦、山中の同法、仏の制戒に依つて、酒を飲むことを得ざれ。若し此を違ふことある者は、我が同法にあらず。亦、仏弟子にあらず。

早速に擯出して、山家の界地を践ま令むることを得ざれ。若しくは合薬(酒)の為めにも、山院に入るること莫かれ。又、女人の輩を、寺側に近づくることを得ざれ。何に況や、院内清浄の地を哉。

毎日、諸々の大乗経を長講し、慇懃精進に法をして久住令めよ。国家を利せんが為め、群生を度せんが為めなり。努力めよ、努力めよ。我が同法等、四種三昧を懈倦為ること勿れ。 』


簡単に言うと、弟子達に「私の死後、酒を飲むな、比叡山寺域に女人を近づけるな !」と言っている訳ですから、天台宗の成立時点で、既に腐っていたのかも知れません。


他方、東北地方の天台宗寺院を壊滅させたとされる「北条時頼」ですが、この行為だけを見れば、後に「魔王」と呼ばれる戦国武将「織田信長」と同じように見えるかと思います。


しかし、「北条時頼」自身は、禅宗に帰依する程、仏教に対する造詣が深い武将で、自ら、中国(当時の南宋)から渡来した禅僧「蘭渓道隆(らんけい-どうりゅう)」を導師として臨済宗建長寺」を建立しています。


また、自身が出家するために、現在では廃絶してしまったようですが、鎌倉山ノ内に、「蘭渓道隆」を開祖とする「西明寺」を建立したりしています。


このため、「織田信長」のように「魔王」とは呼ばれたりはしませんでしたが、同じく「天台記」には、瑞巌寺から追放された天台宗の僧侶が、松島の福浦島に集まり、「北条時頼」を呪詛した事が伝えられおり、この「呪詛」の影響で、「北条時頼」は、享年37歳の若さで死亡したとされています。


まあ、この「天台記」と呼ばれる文書は、現在は瑞巌寺の所蔵となり、次の三名によって書き継がれた「松島青龍山瑞巌円福禅寺」の社史と言われています。


・法印「覚心」 :平安時代「永延2年(988年)」
阿闍梨「永快」 :平安時代「治承2年(1178年)」
・「儀仁法印」の弟子「山居房覚正」 :鎌倉時代「弘長3年(1263年」


しかし・・・この「天台記」は、瑞巌寺百九世「曹源」の時に、松島の民家から出た書物と言われ、さらに、その後、戦国時代となる「文明2年(1470年)」に、「松島八屋左治郎藩重」なる者によって書かれた写本とされていますので・・・恐らくは「偽書」だと思われます。


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このように、東北地方の天台宗は、鎌倉幕府(北条得宗家)から、何らかの怒りを買い、迫害や焼き討ちにあったようですが、その原因は解らないようです。


鎌倉時代は、従来の旧仏教(天台宗/真言宗)に対する反発から多くの新興仏教が生まれましたが、新興仏教の多くは、貴族や武家を救済対象とはせず、庶民を救済対象としたことから、当時の支配階級からは疎まれる存在となってしまったようです。


このため、鎌倉時代は、仏教弾圧が行われた時代として有名ですが、弾圧対象は、下記の新興仏教に限られています。

新興仏教 浄土宗 浄土真宗 時宗 法華宗 臨済宗 曹洞宗
開祖 法然 親鸞 一遍 日蓮 栄西 道元
幕府からの弾圧
幕府からの庇護
旧仏教から弾圧


このように、天台宗は、本来は、支配者階級(貴族/武家)と密接に繋がっていますので、本来は、迫害対象にはならないはずなのですが・・・何故か、東北地方の天台宗だけ弾圧されてしまったようです。



また、一説には、「円仁(794〜864年)」が、大和朝廷の意向を受けて、「瀬織津姫命」が祀られている全国各地の神社を、強制的に「天台宗」の寺院に改宗させることで、「瀬織津姫命」の名前を歴史から抹殺したと言う噂があるようです。


しかし、「瀬織津姫命」と言う名前が、全国各地の神社の御祭神から消え始めたのは、「日本書紀」編纂が始まった頃、恐らくは、「持統天皇(在位690〜697年)」の頃だと言われていますので、年代が100年ほど合いません。


最澄」を始めとする「天台宗」一派は、単に、「天台宗」を広めるためだけに、関東/東北を行脚したのであり、「瀬織津姫命」の抹殺とは、余り関係が無いのではないかと思われます。

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今回は、「早池峰信仰と瀬織津姫命」の第三弾として、次の内容を紹介しましたが、如何でしたでしょうか ?


●「天照大御神」は男神なのか ?
●「鈴鹿権現」と「瀬織津姫命」の関係
●「熊野権現」と「瀬織津姫命」の関係
●「瀬織津姫命」と「天台宗」との関係


今回の内容では、「瀬織津姫命は天照大神の妻」と言う噂が、到るところで語り継がれていると言う事が解った次第です。


また、それ以外でも、「瀬織津姫命 = 鈴鹿権現 = 熊野権現」と言う事になり、さらには、「早池峰山」との関係まで含めると、「瀬織津姫命 = 鈴鹿権現 = 熊野権現 = 早池峯権現」と言う形で習合された、と言う事になるかと思われます。


加えて、岩手県に「熊野権現」が勧請された経路が2つもあると言うのは、ちょっと以外でした。


当初は、遠野「早池峯神社」の開祖「始閣藤蔵」だけを注目していたのですが、この「始閣藤蔵」よりも、100年も早く「室根神社」に、「熊野権現」が勧請されていたとは驚きでした。


それに、地元には、勧請された「熊野権現」が、「瀬織津姫命」と断定する資料まで残っていたのは、さらに驚きでした。


前述の通り、「室根神社」と遠野「早池峯神社」は、80kmしか離れていないので、きっと双方には、何らかの繋がりがあると思ったのですが・・・残念ながら、今回は、その繋がりを解明することは出来ませんでした。



他方、今回は、紙面の関係で紹介出来ませんでしたが、「鈴鹿権現」の箇所では、「奥州安倍氏」が絡んで来ます。


この安倍氏も、「前九年の役」で、大和朝廷側に敗れてはしまいますが、その血筋は、「安倍宗任」がしっかりと子孫達に残しています。


この「安倍宗任」が、流刑された四国、そして北九州地域には、「宗像一族」が君臨しており、ここに「安倍氏」の血筋も関係する事になります。


この「宗像一族」、そして「出雲一族」、さらには「大和朝廷」と言う三者が、複雑に絡み合う中で、「瀬織津姫命」が歴史から抹殺されて行った事になったのではないかと考えられています。


次回、第四弾としては、当初の予定とは、かなり内容が変わってしまいましたが、次の様な内容を紹介したいと考えています。


●「安倍氏」とは
●「安倍氏」と「瀬織津姫命」
●「安倍氏」と「アラハバキ神」


紙面に余裕があれば、さらに「宗像三女神」に関する話題も取り上げたいと思っています。


それでは次回も宜しくお願いします。

以上



【画像・情報提供先】
Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)
岩手県神社庁(http://www.jinjacho.jp/)
・風琳堂(http://furindo.webcrow.jp/index.html)
花巻市ホームページ(https://www.city.hanamaki.iwate.jp)
・レファレンス協同データベース(http://crd.ndl.go.jp/reference/)
・Yahoo/ZENRIN(https://map.yahoo.co.jp/)
・千時千一夜(https://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo)
・公益財団法人岩戸山保存会(http://www.iwatoyama.jp/)
・IKUIKUの愉しみ(http://ikuiku-1919.at.webry.info/?pc=on)
田村神社(http://tamura-jinja.com/index.htm
・いわての文化情報大事典(http://www.bunka.pref.iwate.jp/
・むなかた電子博物館(http://www.d-munahaku.com/index.jsp)
宇佐神宮(http://www.usajinguu.com/index.html)

セキュリティ・ソフトウェアのアレコレ 〜ソフトに 無理を求めるな !


皆さん、いきなりですが、「マルウェア対策用ソフトウェア」、俗に言う「セキュリティソフト」を、PCに導入してさえいれば、マルウェア対策は大丈夫 ! 、などと思っていませんか ?

これは大きな勘違いです。

弊社ブログでは、これまでも、下記の様な、セキュリティ関連の記事を紹介して来ました。

ビジネスマンは要注意・・・Darkhotelに気を付けろ !
進化する標的型攻撃 〜 狙われたら、もうお終いなのか ?
新種のサイバー攻撃に備える 〜 感染したらもうお終い その2
新種のサイバー攻撃に備える 〜 感染したらもうお終い その1
IoT 〜 日本復活か ? それとも破滅か ?
マクロ・ウィルスの逆襲 〜 歴史は繰り返すのか ?
シャドーIT 〜 知られざる脅威
Weサイト改ざん対策 〜 あなたのサイトは大丈夫
パスワード管理方法について



こうして、改めて、セキュリティ関連の記事を見てみると、結構、重要な情報を提供している事に、我ながら感心してしまいますが・・・これら全て、常識的な話題なのかもしれません。

ところで、前述の通り、マルウェア対策ソフトですが、「PCを全ての最悪から守る全知全能の神のような万能ツール」ではありません。

犯罪者は、あの手この手を駆使してPCに侵入しようとしますし、さらに、常に進化し続けています。


特に、市販のOSやデータベースの作成に関わった経験のあるエンジニアであれば、ロジック(プログラム)の不備を狙い、マルウェアを忍び込ませる事も可能です。

また、特に犯罪者に狙われやすいのが、Javaと言うプログラムミング言語で作成されたシステムやFlash Playerと言うアプリケーションです。

これら、Java/Flash Playerは、非常に便利な半面、バグが数多く存在するので、バグを何度治しても治しても収束せず、現在でも、ほぼ毎月バグ修正が行われているようです。


このため、多くの犯罪者が、このバグ(脆弱性)を狙ってマルウェアを侵入させようとしているので、Google社などは、自社が提供するWebブラウザChrome」では、Java、およびFlash Playerを動かさない、動かせない仕様に変更しつつあります。

実際、2015年9月にリリースした「Chromeバージョン4.5」では、ほぼJavaは使えなくなっています。

また、Flashに関しても、既に、初回インストール時には導入されず、使用者の責任において、独自にインストールする仕様に変更されています。

そして、Flashを提供しているAdobe社自身も、2020年末には、Flashのサポートを終了する旨を発表済です。

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しかし・・・セキュリティ関連の記事を書く度に思うのですが、マルウェアを作成する能力があるならば、どうして、その能力を、世の中/人のために用いないのか、不思議で仕方ありません。

それだけの能力があるならば、必ずや、優れたプログラムやシステムを作成する事が出来ると思うのですが・・・全く残念で仕方ありません。

その昔、当時はマルウェアと言う言葉も無かった時代は、自身の能力誇示のためにウィルスを作成する人がほとんどでしたが、現在では、ビジネスになってしまっています。

私の周りには、マルウェアを作成している人は居ないので、マルウェア・ビジネスで、どのくらい儲かっているのかは解りませんが、一説では、かなり儲かると言う噂もありますし、事実、儲かるからマルウェアが無くならないのだと思います。

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そこで、今回の「ITお役立ち情報」として、セキュリティソフトに関して、出来ること/出来ないことを紹介する次いでに、次の様な点も紹介したいと思います。


●セキュリティソフトが導入されているか否か確認方法
●万が一、何も導入されていない場合の一時的な対応方法
●セキュリティソフトの契約期限の確認
●セキュリティソフトの出来る事/出来ない事
●その他情報


それでは今回も宜しくお願いします。

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■セキュリティソフトが導入されているか否か確認方法


セキュリティソフトの出来る事/出来ない事を知る前に、まずは最初に、自身のPCにセキュリティソフトがインストールされているか否かを確認した方が良いと思います。

PCに、セキュリティソフトがインストールされていないのに、出来る事/出来ない事を紹介しても始まりません。

自身のPCに、セキュリティソフトがインストールされているか否かを確認する方法は、次の2種類の方法があります。

ツールバーのアイコンで確認する。
・セキュリティセンターで確認する。

最初に、一番簡単な、ツールバーでの確認方法を紹介します。

しかし、PCの使い方に慣れている人にとっては、「セキュリティソフトのインストール状況の確認」なんて、常識中の常識、当たり前の事だと思います。

「何で、今更、そんな事を説明するんだ !」とムカついている方も多いと思います。

ところがですね、世間一般では、セキュリティソフトの事なんか、一切気にせずに、PCを使い続けている人が「ごまんと」居る事が明らかになっています。

PC初心者ならまだしも、何年もPCを使い続けながら、セキュリティソフトの事など、全く気にせずに使い続けている人がいるようです。


私も、この事を知って驚いたのですが、事実、平成30年4月5日のニュースに、前橋市教育委員会が管理しているサーバーから、25,000件もの情報が流出した、と言う事件が掲載されていました。

前橋市教育委員会では、自らが管理しているサーバーのセキュリティソフトを、何と、4年間も更新していなかった様で、この事が原因で、サーバーに保管していた児童の氏名や金融機関情報、2万件以上が、外部からの不正アクセスで盗み取られてしまったそうです。

大量の個人情報を取り扱う公共機関でさえ、この様な「体たらく」ですので、普通の個人のPCに関しては、言うまでもないと思います。

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ツールバーのアイコンで確認方法

Windows10の場合、PCのツールバー右下に、赤丸で囲んだ箇所があります。

この上向き矢印をクリックすると、PCで稼働中のアプリケーションの内、非表示のアプリケーションのアイコンが表示されます。

そのアイコンの中に、セキュリティソフトのアイコンが有れば、お使いのPCに、セキュリティソフトがインストールされている事が解ります。


ちなみに、私は、セキュリティソフトとして「McAfee」を使っているので、マカフィー社の製品のマークが表示されています。

その他にも、代表的なセキュリティソフトとしては、下記の様なソフトウェアもありますので、セキュリティソフトがインストールされている場合、各社のロゴマーク/アイコンが表示されます。


ノートン アンチウイル :Symantec
カスペルスキーKASPERSKY
・ウィルスバスター :Trend Micro
・G DATA : DATA Software AG
・ZERO :ソースネクスト
Avira Free Antivirus :Avira Operations GmbH & Co. KG
・ESETパーソナルセキュリティ :ESET

これらアイコンが表示されていれば、セキュリティソフトがインストールされていますので、アイコンをクリックして見て下さい。各セキュリティソフト用のコントロール・パネルが表示されるはずです。

●セキュリティセンターで確認方法

次は、Windowsの「セキュリティセンター」でインストール状況を確認する方法です。

「セキュリティセンター」は、「コントロール・パネル」、通称「コンパネ」内の項目になります。

「コンパネ」内の「セキュリティとメンテナンス」を探して、該当アイコンをクリックして下さい。


「セキュリティセンター」を表示すると、上図の様な画像が表示されます。

最初は項目が閉じていますので、上図の赤枠部分をクリックすると、セキュリティ部分が展開されて、右の画像のようになります。

そして、展開部分にセキュリティソフトの有無が表示されますので、表示内容により、セキュリティソフトのインストール状況を確認して下さい。


PCにインストールされているセキュリティソフトが表示されますので、そのセキュリティが「有効」になっている事を確認してください。

コンパネの開き方が解らない場合、検索、および「ファイル名を指定して実行」で、コンパネを開くことも出来ます。

例えば、検索により「セキュリティセンター」を表示させる場合、Windows 10においては、スタートボタンを右クリックして、メニューから「検索」を選択します。

その後、左図の赤枠内に「wscui.cpl」と入力して検索を行うと、検索結果として、「セキュリティセンター」が表示されますので、後は、前述の通り、矢印をクリックして、セキュリティ情報を展開してください。


次に、「ファイル名を指定して実行」の場合、やはり、スタートボタンで全てのプログラムを選択してスクロールし、下方にある「Windowsシステムツール」内にある「ファイル名を指定して実行」を選択します。

そうすると、「ファイル名を指定して実行」用の別ウィンドウが開きますので、そこの名前に、やはり「wscui.cpl」を入力してOKをクリックすると、「セキュリティセンター」を開く事が出来ます。

様々な方法で、「セキュリティセンター」を開くことが出来ますので、一番簡単な方法で実行して、自身のPCのセキュリティソフトのインストール状況を確認して下さい。


確認した結果、万が一、セキュリティソフトがインストールされていなかった場合、次章に一時的な対応方法を記載しますので、その方法を試して見て下さい。

セキュリティソフトがインストールされて入れば一安心ですが、契約を更新していない場合、セキュリティソフトがインストールされているだけで、実際には、稼働していない可能性もありますので、契約状況を確認して下さい。

契約の確認方法も、後述します。


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■万が一、何も導入されていない場合の一時的な対応方法


セキュリティソフトのインストール状況を確認した結果、万が一、セキュリティソフトがインストールされていない事が判明した場合、早急に、セキュリティソフトをインストールする必要があります。

どのセキュリティソフトを購入するかに関しては、様々な意見がありますので、自分に取って使いやすく、かつ必要機能を満たすソフトウェアを購入して下さい。

セキュリティソフトの選択には、かなり時間が掛かると思います。価格重視か、あるいは機能重視か。はたまた使い易さか、スマートフォンまで対象にするのか、それならiOSAndroidも・・・

もう悩みだしたらキリがありません。

しかし、それよりもまず、自身のPCに、マルウェアが潜んでいるか否かを確認し、もしも既にマルウェアが侵入していた場合、マルウェアを駆除する必要があります。


そこで便利なのが、「カスペルスキー社」が提供している無料のツールです。

このツールは、「Kaspersky Virus Removal Tool」と言い、現在では、2015版まで提供されています(Kaspersky Virus Removal Tool 2015)。

無償ツールの割に、ウィルスの検出から除去まで自動で行ってくれ、かつインストールの必要もなく、その場でチェックと除去を行ってくれます。

しかし・・・「2015」と言う名称が示す通り、仕様、ウィルス定義体、および稼働環境は最新にはなっていません。

特に、稼働環境は、「Windows XP」〜「Windows 8.1」までとなっており、「Windows 10」は含まれていません。

しかし、私のPC(Windows 10/64ビット)に、プログラムをダウンロードして実行してみましたが、特に問題なく稼働したので、「Windows 10」でも大丈夫ではないかと思われます。


それと、処理スピードもかなり速く、下記オブジェクト、件数にして約38万件のチェック対象を、26分程度で、サクサクとチェックしてくれます。

・System memory
・Startup Objects
・Boot sectors
・System drive


しかし、このツールは、あくまでも一時的な「対処療法ツール」です。今後も、安心してPCを使い続けたいのであれば、必ず、セキュリティソフトを導入して下さい。

また、本ツールは、対処療法として1回だけの実行を想定したツールなので、通常のセキュリティソフトとは、次の点が異なります。

・インターネット接続不要
・ウィルス定義体はプログラムと一緒にダウンロードされるので自動更新は行われない
・日本語には未対応
・複数回実施する場合には、都度、カスペルスキー社のサイトからツールごとダウンロードする
・PCに常駐してウィルスの侵入等をチェックする機能は実装されていない


参考までに、「Kaspersky Virus Removal Tool 2015」に関する各種情報を記載します。

●動作環境
・500 MB 以上のディスク空き容量
Intel Pentium 1 GHz 以上
・512 MB 以上の空きメモリー
・インターネットアクセス
・マウスまたはタッチパッド

●ダウンロードURL
https://support.kaspersky.com/viruses/kvrt2015

●使用方法
https://support.kaspersky.co.jp/8528

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それと、最後に、セキュリティソフトを購入する時の参考にして欲しいのですが、私は、インターネットのプロバイダーが提供しているセキュリティソフトを無償で使っています。

現在は、具体的な企業名は差し控えますが、大手通信業者の連結子会社になっている企業のインターネット回線を使用しています。(※右画像が企業キャラクターの会社です。)

この企業では、1アカウントに付き3ライセンスを無償で使える事になっていますが、アカウントを追加すれば、何ライセンスでも無償でセキュリティソフトを使えるので重宝しています。

また、以前は、その親会社と提携してるプロバイダーを使っていたのですが、そのプロバイダーでも、オプションでセキュリティソフトを提供しており、その会社の場合、5ライセンスまで無償で、ライセンス追加時も、1ライセンス当たり、100円/月で使用する事が出来ました。

この様に、セキュリティソフトを購入する場合、最初に、現在のインターネット回線を提供しているプロバイダーで、オプションとしてセキュリティソフトを提供しているか否かを確認した方が良いと思います。

プロバイダーが提供するセキュリティソフトの場合、ライセンス更新等の面倒な管理が不要ですし、何よりも、個別にソフトウェアを購入するより安価です。

今回のブログは、セキュリティソフトの個別機能の説明を目的にはしていないので、機能や価格の説明は割愛しますが、まずは、現在使用中のプロバイダーに問合せた方が良いと思います。

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■セキュリティソフトの契約期限の確認


セキュリティソフトが導入されていても、契約を更新していない場合、マルウェアのチェック処理が行われていない、あるいはウィルス定義体が古い可能性があります。と言うか、恐らく、何もチェックされていません。

契約が更新されていないので、セキュリティソフトがマルウェアのチェックを行わない、と言う事は、大抵の方は理解出来ると思います。

契約が終了した状態であれば、チェック処理が行われていなくても仕方ありませんよね !

しかし、「定義体が古い」と言う点に関しては、何が問題なのか解らない方も居るのではないかと思います。

そこで、セキュリティソフトの仕組みを簡単に説明します。


(1)セキュリティソフトをPCにインストールすると、PC内に「マルウェア義体」を作成します。この「定義体」には、既知のマルウェア情報が定義されています。
(2)その後、PC内に届いた添付ファイルやWebサイトからダウンロードしたファイルの中身をチェックして、ファイルの内部に、この「定義体」に登録されているマルウェアが隠されているか否かの確認を行います。
(3)ファイル内部にマルウェアが潜んでいればアクセスを拒否しますし、定義体に登録されたマルウェアが無ければ、PC内部に保存します。
(4)さらに、定期的にPC内部をチェックし、マルウェアが紛れ込んでいるか否かをチェックして、もしもマルウェアが侵入していれば、該当マルウェアを可能な限り除去します。
(5)他方、PC内の定義体に関しては、こちらも定期的に、ソフトウェア・メーカーが、蓄積した最新の定義体情報に更新します。

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このように、PC内の「定義体」を、常に最新の状態に更新していないと、新しいマルウェアが製造された場合、PC内の「定義体」に最新情報が反映されないので、マルウェアと認識されずに、PCにマルウェアが侵入してしまいます。

契約が継続していれば、自動的に「定義体」が最新に更新されますので、新しいマルウェアが製造されても、ほほ対応する事が出来ます。

「ほぼ対応」と、何とも歯切れの悪い言い方ですが、定義体の更新タイミングがズレると、いくらセキュリティソフトを導入していても、マルウェアの侵入を許してしまう可能性があるからです。

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さて、セキュリティソフトの契約状況の確認ですが、これはセキュリティソフトの種類により異なるので、全ては紹介出来ません。

基本的には、前述の「セキュリティソフトのインストール状況の確認方法」で確認した、下図の様なセキュリティソフトのアイコンをクリックし、

各セキュリティソフトのアイコンは、上図の様なマークとなっています。バージョン等により若干異なりますが、参考にはなると思います。

ツールバー、あるいはインジケータに表示されている上図アイコンをクリックしてセキュリティソフトのパネルを表示させ、契約状況、および契約期間等を確認して下さい。


契約状況を確認し、契約が有効になっていれば何も問題はありませんが、万が一、下図のような画面が表示された場合には、契約を更新するか、あるいは他社のセキュリティソフトをインストールする必要があります。


契約を更新する場合、注意しなければならないのは動作環境です。

私の場合、前述の通り「McAfee」を使っていたのですが、最新バージョンでは動作環境(メモリー)が異なり、最新バージョンをインストール出来ないと言う状況が発生した事がありました。

このため、PCのメモリーを増強し、ようやく最新バージョンをインストールしました。

皆さんも、このような点に気を付けて下さい。

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■セキュリティソフトの出来る事/出来ない事

さて、肝心の「セキュリティソフトに出来る事/出来ない事」ですが、ここまで引き伸ばしておいて何ですが、結構、単純です。

前章にも掲載したセキュリティソフトの仕組みを再掲載しますが、セキュリティソフトは、その種類にもよりますが、基本は、マルウェアの検知と除去になります。


Windows OSに関しては、下記項目に関しても対応出来ます。
ランサムウェア対策 :新種のウィルス。PC内部を暗号化して身代金を要求する。
・ネットバンキング保護 :キーロガー、スクラッパー、インジェクション等への対応。
迷惑メール対策スパムメールを検出して分離する。
ファイヤーウォール :インターネット使用時に安全なやり取りを許可する。
・ペアレンタルコントロール :有害サイトをブロックする。
・ID/パスワード管理 :ID/パスワードをソフト側で管理してくれる。

PCに関しては、Mac OSもサポートしているソフトウェアもありますし、スマートフォンにも対応してくれるセキュリティソフトもあります。

このように、セキュリティソフトとは、マルウェアそのものを検知することが出来るソフトウェアと言う事になります。

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しかし、PCへのマルウェアの侵入経路は、メール添付ファイルに仕込まれたマルウェアやWebサイトからダウンローソしたファイルに仕込まれたマルウェアからだけではありません。

PCに導入されている、OSやデータベース等のミドルウェア、およびその他のソフトウェアから侵入する方法もあります。俗に言う、ソフトウェアの「脆弱性」、あるいは「セキュリティ・ホール」を狙った侵入です。

「はぁ ?」となってしまいますよね。

現在、マルウェアの侵入経路としては、次の様なケースが想定されています。

(1)ホームページ閲覧
(2)Webサイトからのファイルのダウンロード
(3)メールの添付ファイル
(4)USBメモリ
(5)ファイル共有ソフト
(6)メール本文に仕込まれたHTMLスクリプト
(7)共有サーバー
(8)マクロ・プログラム


そして、セキュリティソフトは、PCに常駐しながら、つまり常に稼働しながら、外部からPCに侵入しようとするマルウェアを検知します。

マルウェアの検知の仕方は、メーカー毎に若干異なりますが、基本的には、マルウェアの特徴を「定義体」と呼んでいるデータベースに蓄積し、PCに取り込もうとしているデータの内に、この定義体に登録してあるマルウェアの特徴が一致している箇所があるか否かを確認する事で行っています。

このため、外部から来たデータの中、あるいは既にPC内部に取り込まれてしまったデータの中に、マルウェアの特徴を備えたソースコードが埋め込まれている場合、ほぼ確実に除外する事が出来ます。

しかし・・・プログラムの「脆弱性セキュリティ・ホール」を狙う攻撃には対処出来ません。

プログラムの「脆弱性セキュリティ・ホール」を狙う攻撃とは、プログラムの「バグ」を悪用する攻撃なので、悪意を持つプログラムが、既存のプログラムを乗っ取り、本来の目的とは異なる処理を行わせてしまうので、セキュリティソフトでは検知する事が出来ません。


例えば、「プログラムA」と言うプログラムが、PC内に存在したとします。この「プログラムA」は、普通に処理を行なう分には何も問題はありません。

しかし、「プログラムA」内の、「処理Y」にバグがあり、処理中に、何らかのタイミングで、外部から余計なプログラムを内部に取り込んでしまうバグ(不具合)が合ったとします。

そして、何かの拍子に、「悪意を持つプログラム」をプログラム内に取り込んでしまい、この「悪意を持つプログラム」が、別の「処理Z」部分を書き換え、マルウェアをダウンロードするプログラムに書き換えてしまいます。

その後、「プログラムA」内に取り込まれたマルウェアが、勝手に処理を行い、別のマルウェアをPC内部に侵入させた後、また「処理Z」を復活させ、自分が行った処理の痕跡を消します。

このように、プログラム内部に侵入し、目的を果たした後は、その痕跡を消すような処理を行われてしまうと、いかに高価なセキュリティソフトを購入しても対処し切れません。

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「それじゃ、どうしたら良いんだ !!」となりますが、このようにプログラムのバグによりマルウェアの侵入を許してしまうようなケースでは、プログラム自体を修正すること以外、対応策はありません。

このため、Microsoft社を始めとする各ソフトウェア・メーカーは、日々、プログラムの修正に汗を流し、プログラムの修正が完了した時点で、「Widows Update」により、修正したプログラムを、利用者に配布することで、この「脆弱性」に対処しています。

しかし、メーカーがプログラムの脆弱性を発見してから、修正したプログラムを配布するまでの間には、必ずタイムラグが発生します。



そして、このタイムラグを突く攻撃を「ゼロデイ攻撃」と呼んでおり、この「ゼロデイ攻撃」に関しては、今の所は、どのメーカーも対処出来ない状況となっています。

2017年の5月に、MicrosoftのOSの脆弱性を突いた「ゼロデイ攻撃」が多くの場所で行われた事を覚えていますか ?

この攻撃は、「WannaCry」と名付けられた「ランサムウェア」による攻撃で、世界150カ国で32万件にもおよぶ被害が報告されています。

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この「WannaCry」による攻撃は、次の様な経緯を辿ったとされています。


●2016年8月、突如、「The Shadow Brokers」と名乗るハッカー集団が、アメリカ国家安全保障局(NSA)の内部文章とされるサンプル情報をリークした。この情報には、世界最大のネットワーク機器製造販売会社「Cisco」製品の脆弱性を攻撃するツールの情報が含まされていた。
●このリークは、オークション形式で行われ、かつ入札金額の合計が100万ビットコインに達したら、入札者全員に情報を公開するとした。
●誰が、幾ら入札したのか ? 「The Shadow Brokers」の正体は誰か ? その目的は何か ? リーク情報の信憑性は? 不明な事だらけだが、元CIA職員スノーデン氏を始め、大方が、ロシアのハッカーの仕業とする見方が多かった。
●製品の脆弱性を公開された「Cisco」は、数日中に修正パッチを作成して配布したが、パッチが配布されるまでの間、「Cisco」ユーザーは、「ゼロデイ攻撃」の危機に曝された事になる。しかし、この事は、つまり、リーク情報が正しかった事を証明した事になる。
●その後、2016年10月にも、再び、NSAから盗み取ったとする情報をリークした。この情報は、NSAが他国にサイバー攻撃を仕掛ける際に利用していたサーバー情報だった。
●そして、2017年4月に、ついに「The Shadow Brokers」は、Microsoft社のOSの脆弱性を攻撃するツールを公開した。このリーク情報は、4年前にNSAから盗まれた情報であることが判明し、「Windows 8」以前のOSを使っているユーザーが攻撃対象となっていた。
●理論的には「Windows 8」以前のOSが攻撃対象とは言え、「Windows XP」から「Windows 10」まで、全てのWindowsユーザーを攻撃する事が可能なツールだったので、Microsoft社は、急いでパッチの作成に着手した。
●しかし、2017年5月には、このツールを使用した「Wannacry」と言うランサムウェアが世界中にバラまかれ、多くの企業や公共施設、病院などが被害に合い、実際に身代金を支払わされるハメに陥った。
●この「Wannacry」は、4月にリークされたNSAの2つのツール「EternalBlue」と「DoublePulsar」を取り入れた、より進化した攻撃ツールで、WindowsのSMB(Server Message Block)の脆弱性を攻撃した。

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その後、Microsoft社は、2017年10月に、Windows 10用のメジャーアップデート「Fall Creators Update」において、ようやく、この脆弱性の元になる「SMB 1.0」を、初期値「無効」にする事で、対応を取りました。

しかし・・・脆弱性が明らかになってから5か月間も、脆弱性を放置していた事になります。

また、もっと酷いのは「NSA」です。

Windows脆弱性を4年も前から把握していたにも関わらず、自らの組織が、その脆弱性を利用するために脆弱性を秘匿し続け、挙句の果てに、犯罪者に盗み取られると言う失態を演じてしまった訳ですから、もうどうしようもありません。


一部、例のM社の御用達の批評家達は、「Microsoft社は、2017年3月に、SMBの脆弱性を修正するパッチを、Windows 8以降のOSには配布していたから、この攻撃は、ゼロデイ攻撃では無い。」と、Microsoft社を擁護していますが、それは言い訳に過ぎません。

Microsoft社の様な世界的企業は、自らが製造販売した製品に対しては、社会的義務が生じます。

いくら、サポート切れとは、Windows XP等は、未だにアメリカ軍全体で、数千台も使用している訳ですから、ちゃんと責任を負うべきだと思います。

マルウェア「Wannacry」やSMBに関する説明は、過去ブログにも記載しています。

★過去ブログ
進化する標的型攻撃 〜 狙われたら、もうお終いなのか ?
新種のサイバー攻撃に備える 〜 感染したらもうお終い その2
新種のサイバー攻撃に備える 〜 感染したらもうお終い その1

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このように、PCに組み込まれているOS、データベース、およびその他のツールに「脆弱性」がある場合、いくらセキュリティソフトをインストールしても、マルウェアの侵入を防ぐ事は出来ません。

OS、その他のソフトウェアには、「バグ」は付き物です。

単なる「バグ」で、ソフトウェアの処理が停止するのも困りますが、その「バグ」を起点として、マルウェアに攻撃/侵入されるのは、もっと困ります。

自分のPCが感染するだけでなく、ネットワーク経由で、社内全てのPCに感染が拡大してしまいます。


脆弱性」への対処は、メーカーが提供する修正パッチを適用し、ソフトウェアを常に最新の状態に維持するしか対応策がありません。

しかし、前述の「Wannacry」の様に、ソフトウェアの開発元が、その脆弱性を把握していない場合・・・もう誰も対応できない、と言うのが現実です。

もう、これからの世界では、ソフトウェアを使う事には、マルウェアに感染するリスクがあると言う事を前提に、システムや業務運用方法を構築するしか対応方法は無いと思います。

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■その他情報


最後に、セキュリティソフトに関する、その他の情報を紹介します。

まずは、セキュリティソフトの選ぶ際の注意点を紹介します。

世の中には、沢山のセキュリティソフトが溢れており、中には、Webサイトから無償でダウンロード出来るセキュリティソフトも存在します。

セキュリティソフトは、名の知れたメーカーのソフトの場合、年間6,000円もあれば、ほとんどのソフトは購入出来ます。

しかし、この6,000円をケチって、無償のセキュリティソフトを使用している人も存在します。


他方、MicrosoftのOS「Windows」には、「Windows Defender」という無償のセキュリティ機能が標準装備されています。

この「Windows Defender」、昔から標準装備されていたのですが・・・何分、当初は、「オマケ」機能だったので、全く使い物になりませんでした。

しかし、最新OSである「Windows 10」においては、Microsoft社も、結構、本気を出したようで、かなり良い製品に仕上がってはいる様です。

しかし・・・それならば、何故、専用のセキュリティソフトが多数存在するのか ? と言う事です。

つまり、「Windows Defender」は、良い製品にはなってきたが、やはり、専用のセキュリティソフトには及ばないと言うのが実情です。


と言うことで、それならば「Windows Defender」と「無償のセキュリティソフト」を組み合わせて、一緒に可動させれば、有償のセキュリティソフトを購入しなくても、ある程度の効果が期待できるのでは ? と思う方も居ると思います。

ところがギッチョン、「Windows Defender」と「無償のセキュリティソフト」の併用は、不可能ではありませんが、余りお勧め出来ない運用方法のようです。

つまり、マルウェア検知処理が「二重」に稼働してしまうので、Windowsの処理が変になってしまう可能性がある、との事らしいです。

私は、有償のセキュリティソフトをインストールしているので、試した事はありませんが、各種の情報を参照すると、セキュリティ機能の併用は止めた方が良いと記載されています。

また、有償のセキュリティソフトも、やはり、この点を考慮し、セキュリティソフトのインストール時に、自動的に「Windows Defender」機能を無効にしているそうです。

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「それじゃ、仕方がないから、無償のセキュリティソフトだけで対処するか・・・」と言うことになると、現在、次の様な無償のセキュリティソフトが有名です。

Avast!チェコ共和国に拠点を置く「Avast Software社」製のソフトウェア
Avira :ドイツの「Avira GmbH社」が販売するアンチウイルスソフトウェア
AVG :オランダアムステルダムに本社を置く「AVGテクノロジー社」のアンチウイルスソフトウェア
・KINGSOFT :中国の「Kingsoft Corporation社」製のソフトウェア

どこの無償セキュリティソフトが良いのかは、私は解りませんので、無償のセキュリティソフトの使用を検討している方は、Web等で調べて見て下さい。

但し、これも「Windows Defender」同様、有償のソフトウェアと比較すると、明らかに機能が少ないので、その点は注意する必要があります。


そして、上記以外の無償のセキュリティソフトを検討する場合、注意することがありますので、注意点を掲載しておきますと・・・現在、セキュリティソフトを装った「偽ソフトウェア」が、かなり横行している様です。

中には、本来は有償のセキュリティソフトを、無償でダウンロード出来ると称して、「偽ソフトウェア」、それもマルウェアを仕込んだ偽のセキュリティソフトをダウンロードさせるサイトも存在します。

また、別の手口としては、偽ソフトウェアをダウンロードさせた後、有償版を進める画面を表示し、料金をだまし取る手口も報告されています。

世の中には、あの手この手で、人を騙そうとする輩が大勢存在しますので注意して下さい。

本来の意味とは少し異なりますが、やはり、「ダダより高い物はない」と言う点を忘れないように注意したいものです。

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次に、セキュリティソフトの評価に関してですが、評価基準は、次の様なカテゴリーで評価されます。

・提供機能数 :マルウェア対応、ランサムウェア対応、ネットバンキング、ファイヤーウォール、等
・動作速度 :検知処理を行なう際に、使用するメモリー等のリソース量
スマホ対応 :AndroidiOS対応の有無
・価格 :単年 or 複数年、ライセンス数

その上で、各セキュリティソフトの価格を見ると、前述の通り、だいたい6,000円/年間も出せば、どれでも好きなソフトウェアを購入出来ます。

通常、提供機能と動作速度に重点をおいて検討すると思いますが、客観的にみると、「カスペルスキー社」製のセキュリティソフトが、かなり良い線を行くように思えます。

三者機関(※)の評価結果を見ると、「カスペルスキー社」製のセキュリティソフトが、全ての評価機関において、トップ成績を納めているようです。
※AV-Comparatives、AV-TEST、MRG Effitas、SE Labs

「それじゃ、カスペルスキーのソフトウェアを買おうかな ? 」と、当然、誰もが思う所ですが・・・何と、アメリカ政府、それも、例の「NSA」が、昨年2017年9月14日に、デューク長官代行の通達として、次の様な声明を発表しています。

連邦政府の全ての機関は、使用してきたカスペルスキー製品を30日以内に特定し、使用中止計画を策定するように通達した。』

そして、NSAは、「カスペルスキー製品を使うことで生じる情報セキュリティーリスクに基づいた措置だ。カスペルスキーの製品によって得られるアクセスをロシア政府が単独あるいは同社の協力を得て利用し連邦政府の情報や情報システムに不正アクセスしかねないリスクは、米国の安全保障に直接関わる」と指摘しています。


う〜ん、確かに、そう言われれば、そんな感じがしないでも・・・過去には、中国のメーカー(Baidu IME)が、ソフトウェアに「キーロガー」と呼ばれるマルウェアを仕込み、キーボードから入力した内容を記録して、密かに外部に送信していた事件もあったくらいですから。

やはり、中国やロシアのソフトウェア・メーカーは、何をしでかすか怖いものがあります。


今後、セキュリティソフトの購入や切り替えを検討する場合、このような情報も視野に入れた上で、検討した方が良いと思います。

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今回は、「セキュリティ・ソフトウェアのアレコレ」と題して、セキュリティソフトの基本知識をご紹介して来ましたが、如何でしたか ?

●セキュリティソフトが導入されているか否か確認方法
●万が一、何も導入されていない場合の一時的な対応方法
●セキュリティソフトの契約期限の確認
●セキュリティソフトの出来る事/出来ない事
●その他情報

以前、弊社ブログにおいて、業務用ソフトウェアに関して、「ソフトウェアの出来る事/出来ない事」を紹介した事がありましたが、今回は、そのブログ記事と同様、セキュリティソフトに出来る事/出来ない事を紹介しました。

★過去ブログ:開発を依頼する前に − 外注会社に連絡する前に自社で行うべき事


以前からセキュリティソフトは、PCを使う際の必須ソフトウェアでしたが、近頃では、マルウェア自体も進化していますので、より、その重要性が増して来ています。

あと、前章「その他」では、軽くしか触れていませんが、セキュリティソフトの動作の「軽さ」も重要だと思います。

いくら、機能が豊富で、マルウェア検知確率が高くても、PCのリソース使用頻度が高ければ話になりません。

基本的に、業務で使用するPCは、仕事を「こなす」事が目的のハズです。マルウェアを検知する事が目的ではありませんので、セキュリティソフトだけがバリバリと動き回り、ExcelやWord等がリソース不足で動けなくなってしまっては「本末転倒」です。

今のPCは、CPUの性能も良く、メモリーも大容量になっているので、それほど、セキュリティソフトの負荷は感じないと思います。

しかし、一昔前のPCでは、セキュリティソフトがチェックを開始し始めると、とたんに他のソフトウェアの動きが遅くなり、仕事が出来ない状況となっていました。

万が一、PCにセキュリティソフトがインストールされていない状況で、これからセキュリティソフトの購入を検討しなければならないような場合、セキュリティソフトの「軽さ」も、十分に考慮した方が良いと思います。

それでは次回も宜しくお願いします。


以上

【画像・情報提供先】
Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)
livedoor NEWS(http://news.livedoor.com/)
・the比較(http://thehikaku.net/)
・日経クロステック(http://tech.nikkeibp.co.jp/)
独立行政法人 情報処理推進機構(https://www.ipa.go.jp/)

【株式会社 エム・システム】
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           TEL : 03-5671-2360 / FAX : 03-5671-2361
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早池峰信仰と瀬織津姫命 〜 謎多き姫神に触れる その2


今回は、前回の続きとなる「早池峰信仰と瀬織津姫命」の続編を紹介します。

前回は、初回と言うことで、「山岳信仰」、および「早池峰信仰」とは、どのような信仰なのかを紹介しました。

また、その中で、「修験道」も、江戸時代になると「縄張り(霞)争い」に終始していた事も紹介しました。

★過去ブログ:早池峰信仰と瀬織津姫命 〜 謎多き姫神に触れる その1

修験道」も「仏教」も、その始まりにおいては、「国家安泰」やら「衆生(しゅじょう)救済」を祈願するための信仰として始まったのですが・・・やはり年月を経ると、どちらも、その本来の意義を忘れ、自身の利益のためだけになってしまうことが解り、ガックリしてしまいました。

山に登ってホラ貝を吹き、滝に打たれて修行を積み、「験力(げんりき)」を得るなど、遠い昔の記憶でしかなくなってしまったのは、非常に残念に思えます。

「山伏」と呼ばれる人達に関しては、「山は権力の及ばない他界と考えられ、山伏は自分の葬式をあげ、自分を死者と考えて山に入るので、俗世界の行いは問題にされない。」と言われますが・・・本当は、どうなっているのやら、と言う感じがします。

まあ、現在の「山伏」は、それだけで生計を立てている人は、ほとんどおらず、全ての人が「副業」で生計を立てているとの事ですから、江戸時代、「縄張り争い」に明け暮れていた「山伏」に比べれば、現在の「山伏」の方が「まとも」なのかもしれません。

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さて、そんな「山岳信仰」の中でも、古くは、平安時代初期となる「大同年間(806年)〜」に創建された「早池峰神社」。

下図の通り、「早池峰山」を中心に東西南北、それぞれの登山口に建立された「早池峰神社」を含め、それ以外にも「早池峰権現社」とか「早池峰新山神社」、または神社に伝わる由緒では、平安時代より以前に創建された「早池峰神社」もあるようです。


そして、これらの神社においては、御祭神が、全て「瀬織津姫命」になっています。

岩手県は、後で詳しく説明しますが、日本国内においては、日本一、「瀬織津姫命」を祀っている神社が多い自治体です。

そこで、今回は、「早池峰信仰と瀬織津姫命」の第二弾(その2)として、次の3点を紹介したいと思います。

●「早池峰」と「早池峯」、どちらが正しいのか ?
●どこが本院なのか ?
●「瀬織津姫命」が御祭神の神社
●「瀬織津姫命」とは何者なのか ?

それでは今回も宜しくお願いします。

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■「早池峰」と「早池峯」どちらが正しいのか ?

前回のブログを見て頂いた方は、東西南北、4つの「早池峰神社」に対して、次のように表記を変えていた事に気づかれた方も多いと思います。


・東登山口 :早池峰神社 (江繋)
・西登山口 :早池神社 (大迫)
・南登山口 :早池神社 (遠野)
・北登山口 :早池峰神社 (門馬)

どれも全て「ハヤチネ神社」なのですが、漢字の字体が、「早池峯」と「早池峰」と言う様に異なる表記になっています。

これは、全て、現在、神社が使っている漢字に合わせて、表記を変えて記載した結果なのですが、「早池峯」と「早池峰」、この漢字の違いと、「神社」の生い立ちには、何か関係があるのでしょうか ?

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結果から先に記載してしまいますが、「早池峯」も「早池峰」も、どちらも同じで、「ハヤチネ」を漢字にした場合の文字ですが、本来は「早池峯」ではないかと言われています。

そもそも、「峯」と「峰」は、『 異体字 』と言う関係になっており、旧字など、読み方や使用方法などが一緒で、漢字の一部が異なる字体となっています。

日本の漢字には、「峯/峰」の他にも、「崖/崕」、「島/嶋」等、沢山の『 異体字 』があります。また、「ミネ」は、さらに「嶺」と言う『 異字体 』もあります。

それでは、何故、「早池峯」と「早池峰」、二種類の漢字を使い分けているのかと言うと・・・それは、最終的には、神社の「気分次第」と言う事になるかと思われます。

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前述の様に、元々は「峯」と漢字が使われており、その後、「峰」と言う漢字が生まれ、この「峰」も、「峯」と同じ意味で使われるなったと言われています。

つまり、本来「ミネ」と言う文字に当てはまる漢字は「峯」で、「峰」は異字体と言う関係だったと思われます。

しかし、「大正12年(1923年)」に、文部省が「常用漢字」を発表したのですが、その際に、「峰」のみが掲載され、「峯」は、常用漢字表に掲載されなかったみたいです。

他方、法務省の「戸籍統一文字情報」においては、「峰」も「峯」も人名用漢字として掲げられていますが、このサイトでは「峰」を親字・正字としています。

「峯」、「峰」、そして「嶺」と言う漢字を整理すると、次の通りです。

・「峰」 :音読み「ホウ、フ」、訓読み「みね」。常用漢字人名用漢字(子の名に使える文字)
・「峯」 :音読み「ホウ、フ」、訓読み「みね」。人名用漢字(子の名に使える文字)
・「嶺」 :音読み「レイ、リョウ」、訓読み「みね」。人名用漢字(子の名に使える文字)

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ある漢和辞典によれば、前述の通り「峯」と「峰」は、同じ意味ですが、「峯」と「嶺」は、次の様な違いがあるとしているようです。

「峯」:神様が降りてくる神木のあるお山、神がかり、神秘的な事に出逢う場所を表した漢字。神の領域にある杉「鉾杉」や「神杉」のようなまっすぐ伸びた木の秀枝(ほつえ=上の方の枝)に、神が降ってくる形。「丰」が秀枝で、「夂」が上から降るときの後ろ足の形。そのような木がある山を「峯」といい、神霊に遭遇することを「逢」という。

「嶺」:「山」と「領」から成り立っており、「領」はひざまずいて神意を聴き入る姿や、服の襟首という意味。「ひざまずく」とか「襟首」と言うのは、一段低い格好や場所となるので、「嶺」は山頂に対していわば「肩」の部分、山頂より低い場所を表している。


こうして、「峯」と言う漢字の成り立ちを知ると、「峯」と言う漢字は、将に、「早池峯神社」に相応しい漢字なのだと納得してしまいます。

しかし、これを、現在の正式な漢字にすると「早池峰神社」になってしまうのは、ちょっと「興醒め」のように思ってしまうのは、私だけなのでしょうか ?

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■どちらが本家「早池峯神社」なのか

さて、これまで紹介してきた通り、「早池峰神社」には、東西南北の4箇所の登山口に、それぞれ4個の「早池峰神社」が鎮座しています。

それら4箇所の「早池峰神社」は、現在も、付近の住民の信仰対象となっていますが、これも前述の通り、東登山口と北登山口の「早池峰神社」は、没落寸前です。

それらと比較すれば、西登山口「大迫の早池峯神社」と、南登山口「遠野の早池峯神社」は、まだまだ盛況ですが、どちらかが盛況か ? と言えば、やはり「大迫の早池峯神社」の方だと思われます。


「大迫の早池峯神社」に関しては、前回紹介した通り、「早池峰神楽」が、平成21年(2009年)に「ユネスコ無形文化遺産」にも登録された事もありますが、地元自治体や住民も含め、地域一帯となって、信仰対象と言うよりは、観光地として盛り上げようと言う気風が感じられます。

他方、「遠野の早池峯神社」には、残念ながら、何も感じられません。

「民話のふるさと」として、遠野全体を観光地として盛り上げようとする動きはありますが、大迫とは違い、「早池峯神社」だけを特別扱いはしていないようです。

それにも関わらず、遠野側の住民は、未だに「早池峯神社の本坊は遠野側だ !」と大騒ぎをしているようです。

この「本坊争い」は、江戸時代初期に始まった争いで、「明暦元年(1655年)」から90年間にわたり、遠野側と大迫側との間で、祭祀権を巡って争論を続けたと伝わっています。

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「早池峯神社」に関しては、前回のブログに掲載した通り、大迫側の「藤原兵部卿成房」、および遠野側の猟師「始閣藤蔵」と言う二人の人物が登場し、鹿を追って山頂で出会い、その後、山頂に「奥宮」を建立するのは、大迫/遠野の双方で一致する所です。

この点で、唯一異なるのが年代です。

大迫側の由緒では、山頂に登ったのは「大同2年(807年)」となっていますが、遠野側の由緒では「大同元年(806年)」となっています。

この1年の違いは何か ? と言う事になるかとは思いますが、今となっては、それほど、目くじらを立てて追求する必要も無いのではと思います。

ひねくれた見方をすれば、遠野側が、本坊争いを優位に進めたいがために、創建時期を、ちょっとだけ、1年早めたとも考えれます。

また、前回のブログでも紹介した通り、江戸時代においては、南部(盛岡)藩も、「大迫の早池峯神社」に、かなり肩入れをした事もあり、遠野側の不満は高まるばかりだったようです。


その結果、明暦元年から、遠野側と大迫側との間で、祭祀権を巡る争論が起き、最後には、「遠野の早池峯神社」が、幕府の寺社奉行に、「遠野の早池峯神社(当時は、妙泉寺)こそが本坊である。」と言う、不服申立てを行ったそうです。

しかし、不服を申し立てられた寺社奉行も困ってしまい、「南部藩のことは南部藩で良しなに解決するように」と言う調停案が提示されたようです。

そこで、遠野「早池峰山妙泉寺文書」によると、南部(盛岡)藩では、「万治元年(1658年)」に、当時の盛岡藩第二代藩主「南部重直」が、「甲乙なく、同格に勤めるよう」にと言う玉虫色の裁定を下したとされています。

それ以降は、「これにて一件落着」となったとされていますが、実際には、盛岡城内での「席次」においては、「大迫側」を上席とし、加えて盛岡城下に「宿寺」を構えることを認めています。

また、この「寺宿」の広さがハンパなく、2万8000坪もの広大な面積の宿寺を賜ったとされていますから、やはり、実際には「大迫の早池峯神社」側を贔屓(ひいき)していたのだと思います。

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しかし、何か、年代が合わないのが気になります。

「明暦元年(1655年)から90年間争った。」と言うのであれば、「延享二年(1745年)」まで争った事になりますが、この「早池峰山妙泉寺文書」には、「万治元年(1658年)」に決着したと記されています。

それだと、たった3年しか争っていない事になってしまいますが・・・

どこか・・・「早池峰山妙泉寺文書」か、あるいは、この文書を紹介したサイト(近世古文書館)に間違いがあるのだと思います。

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さて、江戸時代に決着が付いた「本坊争い」なのですが、現在でも、遠野の住民達は、いまだに次の様な事を並び立てて、「遠野の早池峯神社こそが本坊だ !」と遠吠えをしています。


・創建時期が、遠野の方が1年早い
・「早池峯神社」のご神体は「早池峰山」だが、大迫側の神社の背後には「早池峰山」が無い

また、かつて「大迫町」と「遠野町」、それと「川井村」との境界を決めようとした際に、「遠野町」の町長が、「藤原兵部卿成房」と「始閣藤蔵」の話を持ち出して境界を決めようとした事もあったそうです。

現在の境界を定めるのに、1,000年以上も前の出来事を持ち出すとは非常識と、大迫町長が激怒したと言う噂も伝わっています。

このように「どっちが元祖だ ?」みたいな争いは、様々な場所で見受けられます。

しかし、前述のように、「早池峯神社」といえば、ほとんどの人が、「大迫の早池峯神社」を思い浮かべます。

大抵は、このように後日、大騒ぎをするのは「負け犬」側と決まっています。

当然、当事者の方々は真剣なのだとは思いますが・・・はたから見れば、そんな事は、どうでも良い事のように思われます。

遠野と大迫の「本坊紛争」に関しても、本当に重要なのは、「どちらの神社が、地元の住民に信仰されているのか ? 」と言う事ではないでしょうか ?

いくら「こっちが本坊だ !」と騒いでも、地元の住民が信仰していなければ、何の意味もありません。

その点に関しては、現在の「早池峯神社」の保存状態を見れば、一目瞭然です。

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しかし、「真実は、どうなのか ? 」と言えば・・・恐らくは、遠野側の主張が正しいのではないかと推測されます。その理由としては、次の2点が挙げられます。

・「大迫の早池峯神社」の背後には「遠野の早池峰神社」がある
明治9年創刊「岩手県管轄地誌」には、大迫側の「早池峯神社」を「早池峰神社遙拝所」としている

つまり、現在の「大迫の早池峯神社」は、「遠野の早池峯神社」を拝むための「遙拝所」だったと考えられています。

元々、大迫側で「瀬織津姫命」を勧請して御祭神としたのは、現「田中神社」であり、「早池峯神社」ではありません。

前回ブログにも記載した通り、現在の「大迫の早池峰神社」は、後年、真言宗の僧侶が建立した「新山堂」です。

一方、「遠野の早池峯神社」は、この「田中神社」と同様に、最初から「瀬織津姫命」を祀っています。

この事からも、やはり「遠野の早池峯神社」の方が、本坊ではないかと思われます。

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ところが、この「本坊紛争」に、もう1社、割り込んで来そうな神社があります。

それは、早池峰山からは、かなり離れた矢巾町にある「早池峯神社」ですが、創立は、遠野や大迫よりも10年以上も早いと伝わっています。

場所は、盛岡駅から16kmほどの場所で、肝心の「早池峰山」からは、直線距離でも、西に27kmも離れた場所にあります。


具体的な場所は、本ブログの最初に掲載した地図をご覧下さい。

しかし、この神社、最初から「早池峯神社」と名乗っていた訳ではなく、元々は、奈良時代、この地に「三柱の姫神」が降臨しした事が始まりである旨が、神社の由緒に記載されています。

奈良時代後期となる延暦14年(795年)3月17日、「三柱の姫神」が降臨し、現在の社殿の裏地にある「三ツ石」に鎮座したとされています。

このため、この「三ツ石」を「影向(ようごう)三神石」と呼ぶと共に、この「三柱の姫神」を「新山大権現」として祀ったのが神社の始まりとなっているそうです。


神社の由緒書によりますと、その後、この地、矢巾町土橋村の「廣田家」の始祖とされる「廣田宗実」氏が、漢字修行のために「早池峰山」に籠もり、文学を研究した後、戦国時代となる天文2年(1533年)8月17日に、社殿を建立して神社名を「早池峯神社」にしたとなっています。

さらに、その後、江戸時代末期となる「天保10年(1839年)」に神社を再建したそうですが、その際に、現在の由緒書を書写したと伝わっています。

と言う「矢巾の早池峯神社」ですが、この神社が「早池峯神社」の本坊なのか ? となると・・・ちょっと微妙です。

「新山大権現」となると、遠野や大迫の「新山堂」との関係を疑ってしまいますし、「三柱の姫神」となると、「遠野物語/第2話」に登場する「姫神」を想像してしまいます。

県内には、今でも沢山の「新山神社」があり、その多くは、御祭神が「瀬織津姫命」となっています。

ところで、先の説明で、「三柱の姫神」が降臨して「三ツ石」に鎮座したと紹介しましたが、「矢巾の早池峯神社」の境内には、石が4個あるのは何故 ? と思うかもしれません。

この点に関しては、「瀬織津姫命」の説明をする際に、紹介したいと思いますが・・・「矢巾の早池峯神社」、御祭神が「瀬織津姫命」となっているのですが、由緒書には、「瀬織津姫命」に関しては一切説明がありません。

一体、どこから勧請したのか不思議に思ってしまいます。

「三柱の姫神」が降臨し、「三ツ石」に鎮座したと言っているのに、石が4個ある件に関しては、後で説明します。

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他方、ここの「矢巾の早池峯神社」の拝殿内には、「天照大御神」を勧請した祠が鎮座しているそうです。

その祠には、「天照大御神」を中心に、「早池峯神社神(新山大権現)」と「瀬織津姫命」の三柱の神様が、「神札」として鎮座されています。

加えて、その下には、五穀豊穣を願う「瀬織津姫命」と「大年神」が描かれた絵も祀られています。

大年神」は、「天照大御神」の弟「須佐之男命(スサノオ)」の息子で、稲の実りを守護する神様とされています。

また、二柱の上には「穂落とし」を行っている「鶴」も描かれており、「穂落とし」伝説を伝えています。


「穂落とし」伝説は、「稲作」の始まりを伝える伝説とされています。


【 「穂落とし」伝説 】

鶴は、餌をくちばしで空中にほうり上げて食べる習性があり、よく稲田におりて落穂をついばむためか,穀霊神的な要素が強いとされています。

このため、稲作は、鶴がくわえてきた稲穂から始まったと言う伝説が、、日本各地に伝わっており、鶴が舞いおりるのを瑞兆としています。


しかし・・・後述しますが、「瀬織津姫命」の過去を考慮すると、この「瀬織津姫命」と「大年神」の二神、男神の方は、本当は「天照大御神」ではないかと思ってしまいます。

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■「瀬織津姫命」が御祭神の神社

さて、問題の「瀬織津姫命(せおりつひめ-の-みこと)」ですが、現在、岩手県内で、「瀬織津姫命」を御祭神としている神社は、西口登山道にある「早池峯神社(池上院妙泉寺)」を含め、次の通り、境内末社も含めると35個もの神社となるようです。(北からあいうえお順)

項番 神社名 住所 備考
1 櫻松神社 八幡平市高畑89
2 多岐神社 盛岡市玉山区渋民大森9
3 早池峯神社 紫波郡矢巾町土橋新山野40
4 早池峯新山神社 宮古市小国第6地割103
5 早池峯神社 宮古市江繋第5地割3 東登山口の神社。新山堂
6 早池峯神社 宮古市門馬第2地割15 北登山口の神社。新山大権現
7 弘淵(こうぶち)神社 花巻市石鳥谷町江曽第9地割113
8 田中神社 花巻市大迫町内川目第47地割30
9 瀧ノ澤神社 花巻市東和町東晴山16区56
10 大澤滝神社 花巻市東和町砂子4区107
11 金谷神社 花巻市金谷第3地割21-1
12 早池峰神社 花巻市大迫町内川目第1地割1 西登山口の神社。池上院妙泉寺
13 早池峰権現社 同上 早池峰神社の境内末社
14 伊豆神社 遠野市上郷町来内6地割32-2 遠野物語」で降り立った神社
15 神遣(かみわかれ)神社 遠野市附馬牛町上附馬牛神遣峠
16 白滝(清滝)神社 遠野市土淵町栃内7地割13 別名「白滝不動尊」
17 新山神社 遠野市附馬牛町東禅寺7地割
18 早池峯神社 遠野市附馬牛町上附馬牛第19地割82 南登山口の神社。持福院妙泉寺
19 早池峰神社 遠野市大工町1−3 瑞応院境内
20 倭文(ひどり)神社 遠野市土淵町土淵18地割174
21 新山神社 北上市口内町岩井139-1
22 新山神社 北上市更木第32地割141
23 今瀧(滝)神社 釜石市東前町1-139
24 天照御祖神 釜石市唐丹町字片岸50 ※禊祓殿の御祭神
25 新山神社 奥州市江刺区岩谷堂雲南田212
26 新山神社 奥州市江刺区広瀬谷地田77
27 新山神社 奥州市江刺区稲瀬広岡98
28 氷上(ひかみ)神社 奥州市江刺区梁川舘下335-1
29 多藝(たき)神社 陸前高田市横田町字小坪
30 滝神社 陸前高田市横田町字猿楽
31 清滝神社 陸前高田市横田町字槻沢
32 四十八滝神社 陸前高田市横田町字橋ノ上
33 舞出神社 陸前高田市横田町字舞出
34 大滝神社 陸前高田市横田町字本宿
35 瀧神社 一関市滝沢寺田下108 別名「熊野白山瀧神社」


その他にも、古来「瀬織津姫命」が御祭神だった神社が、何故か明治期以降に、他の御祭神に変更された神社もあったようです。

・根田茂神社 : 瀬織津姫命 → 水波能売命(みずはめの-みこと)
・室根神社 : 瀬織津姫命 → 伊邪那美(いざなみ)、速玉男命(はやたまのおのかみ)、事解男命(ことわけのおのみこと) ?


また、2008年に「風林堂」から出された「瀬織津姫神全国祭祀社リスト」によると、若干の調査ミスはあるようですが、岩手県は、断トツ、36個もの神社の御祭神が「瀬織津姫命」となっています。


この冊子によると、ベスト5は次の通りです。


1位 :岩手県 36社
2位 :静岡県 32社
3位 :岡山県 25社、鳥取県 25社
5位 :京都府 20社、兵庫県 20社


静岡県に「瀬織津姫命」が御祭神の神社が多いのは以外でしたが、やはり岩手県は、ブッチギリです。

ちなみに、上記リストによると、全国には、「瀬織津姫命」を御祭神とする神社は、454社もあるとされています。

なお、「瀬織津姫命」は、下記のような別名を賜っているケースもあるとの事ですが、この調査では、基本的に、下記異称ケースは含んでいない、との事です。


撞賢木厳之御魂天疎向津媛命 :つきさかき-いつのみたま-あまさかる-むかつひめ
天照大神荒魂 :あまてらすおおかみ-あらみたま
八十禍津日神 :やそ-まがつ-ひのかみ
祓戸大神 :はらいどの-おおかみ
・橋姫 :はしひめ
鈴鹿権現 :すすか-ごんげん
熊野権現 :くまの-ごんげん


さらに、「瀬織津姫命」の表記の仕方も、次の通り、複数の表記が見られています。
・瀬織津比竎
瀬織津比売
・瀬織津媛


それでは、何故、こんなにも岩手県には、「瀬織津姫命」を御祭神として祀る神社が多いのでしょうか ?

また、そもそも、「瀬織津姫命」とは、どのような神様なのでしょうか ? 次の章で、「瀬織津姫命」とは、どのような神様なのかを紹介したいと思います。

なお、今更ですが、「瀬織津姫命」が、「瀬織津姫」と表記されるケースもありますが、どちらも同じですが、本ブログでは、「瀬織津姫命(せおりつひめの-みこと)」と表記しています。

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■「瀬織津姫命」とは、どのような神様か

それでは、その肝心の「瀬織津姫命」」とは、どのような神様なのでしょうか ? 「瀬織津姫命」に関しては、型通りの説明としては、次の様に説明されています。


古事記/日本書紀等の記紀には登場しない神
神道の「大祓詞(おおはらえのことば)」に登場する
・祓戸四神の一柱とする(瀬織津比売/速開都比売/気吹戸主/速佐須良比売)
伊勢神宮内宮別宮「荒祭宮」の御祭神の別名が「瀬織津姫命」であると記述した書物が多数存在する
・水神、祓神、瀧神、川神、等、穢を祓い浄める女神
・「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つき-さかき-いつ-の-みたま-あまさかる-むかつひめ)」と同名の「向津姫」を「瀬織津姫命」と同一神とする
・「瀬織津姫命」は、「天照大神」の皇后で、「天照大神」の名代として活動していた時期もある


そもそも、記紀に登場しない神様ですので、どのような神様なのか、はっきりしない神様となっています。

瀬織津姫命」が登場する歴書としては、次の様な書物があるとされています。


倭姫命世記神道五部書の1冊。天地開闢から雄略天皇代の外宮鎮座に至る次第を詳細に記述しており、別名「大神宮神祇本紀」と呼ばれる。

天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記神道五部書の1冊。天照大神豊受大神の神格と,二神の伊勢鎮座に至るまでの次第が記載された書で、別名「御鎮座次第記」と呼ばれる。

伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記神道五部書の1冊。神鏡の祭祀を中心に伊勢神宮の由緒が記された書で、別名「御鎮座伝記」と呼ばれる。

中臣祓訓解両部神道の書で、真言密教の立場で、中臣祓(大祓詞)の注釈を記載した書物。

ホツマツタエ :謎の多い「神代文字」で書かれた書で、古事記/日本書紀等の記紀の原典とされているが、その真偽の程は不明。史学/語学研究者からは偽書と断定されている。



ちなみに、「神道五部書」とは、下記の5冊の書物を指し、伊勢神宮で生まれた「伊勢神道」の経典とされています。

どれも、長ったらしい名前の本なので、さぞかし中身も濃いのかと思いきや、全て1巻で、なおかつ短編の書物のようです。


・『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』(御鎮座次第記)
・『伊勢二所皇太神御鎮座伝記』(御鎮座伝記)
・『豊受皇太神御鎮座本記』(御鎮座本記)
・『造伊勢二所太神宮宝基本記』(宝基本記)
・『倭姫命世記』(大神宮神祇本紀)



書物の最後に書かれている「奥付」と呼ばれる解説には、何れの書物にも、「神護景雲2年(768年)」、禰宜「五月麻呂」の撰録と伝えられると記載されているそうです。

しかし、実際は、鎌倉時代となる「建治/弘安年間(1275〜1288年)」に、伊勢神宮外宮の神職「度会(わたらい)行忠」等が編纂したものと考えられているようです。

これら経典は、外宮を、内宮と同列に格上げする事を目的に、外宮の御祭神「豊受大御神」を、天地開闢に関わった五柱の神と同一神する書物とされています。

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編纂時期を偽った書物やら学者から偽書とされた書物に登場する「瀬織津姫命」。それでは、『 この瀬織津姫命と言う神様も、昔の人の想像の産物なのではないか ? 』と言う疑問が生まれてしまいます。

しかし、上記にも記載した通り、「大祓詞」にも、祓戸四神の一柱として「瀬織津姫命」が登場します。


瀬織津比売 :せおりつ - ひめ
遺る罪は在らじと 祓へ給ひ清め給ふ事を 高山の末低山の末より 佐久那太理に落ち多岐つ 早川の瀬に坐す瀬織津比売と伝ふ神 大海原に持出でなむ
→ こうして祓い清められた全ての罪は、高い山・低い山の頂から勢いよく流れ落ちて渓流となっている急流にいらっしゃる瀬織津比売と呼ばれる女神が大海原に持ち去ってくださるだろう


速開都比売 :はやつあきつ - ひめ
此く持ち出で往なば 荒潮の潮の八百道の八潮道の潮の八百曾に坐す 速開都比売と伝ふ神 持ち加加呑みてむ
→ このように瀬織津比売によって持ち出された罪を、今度は人が近づけないほどの大海原の沖の多くの潮流が渦巻くあたりにいらっしゃる速開津比売という勇ましい女神が、その罪を呑み込んでしまわれることだろう。


気吹戸主 :いぶきど - ぬし
此く加加呑みてば 気吹戸に坐す気吹戸主と伝ふ神 根国底国に気吹放ちてむ
→ このように速開津比売によって呑み込まれた罪は、今度は海底にあって根の国・底の国へ通じる門(気吹戸)を司る気吹戸主といわれる神が根の国・底の国(黄泉の国)に気吹によって息吹いて地底の国に吹き払ってくださるだろう


速佐須良比売 :はやさすら - ひめ
此く気吹放ちてば 根国底国に坐す 速佐須良比売と伝ふ神 持ち佐須良比失ひてむ 此く佐須良比失ひては
→ このように気吹戸主によって吹き払われた罪は、今度は根の国・底の国にいらっしゃる速佐須良比売という女神がことごとく受け取ってくださり、どことも知れない場所へ持ち去って封じてくださるだろう


このように、「大祓詞」によると、人の世の汚れは、「瀬織津比売」、「速開都比売」、「気吹戸主」、そして「速佐須良比売」の祓戸四神が連携しながら、一致協力して、どこかに払い去って下さるのだそうです。

大祓詞」は、最初から読むと非常に長い「祝詞(のりと)」なので、本ブログには掲載しませんが、「大祓詞」の全文を掲載しておきますので、興味のある方は、ご覧下さい。

★参考資料:大祓詞(神社本庁版)

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さて、そんな「大祓詞」ですが、『 それじゃ、大祓詞瀬織津姫命が書かれているのだから、この神様は、本当に存在したんだ ! 』となるのでしょうか ?

まあ、「神様」ですから、実在はしないとは思いますが・・・

大祓詞」は、毎年、6月と12月に行われる「大祓」と言う儀式で、「中臣氏(なかとみ-うじ)」が、京都の朱雀門において、「大祓」に参集した皇族や百官に対して奏上していたと伝えられているので、別名「中臣祓詞(中臣祓)」、あるいは「中臣祭文」とも呼ばれる「祝詞(のりと)」の一つです。

また「大祓詞」は、当初は、上記の通り、儀式に参加した人間に対して語り聞かせるものだったのですが、現在では、何故か、神前で、神様に対して唱えるものになってしまっています。

これは、鎌倉時代以降、「大祓詞」が、「陰陽道」や「密教」と結びつき、これらの呪文や経典のように取り扱われた事が原因とされ、唱えるだけで功徳が得られると思われるようになったためと考えられています。

大祓詞」に関しては、平安時代となる「延喜5年(905年)」に編纂を始め、その22年後となる「延長5年(927年)」に完成した後、さらに改訂をして「康保4年(967年)」に施行した「延喜式」と言う法令集内の「巻8 - 祝詞」に掲載されています。

現在では、下記の様に、大きく、前段と後段の2段に分かれています。

・前段:葦原中国平定から天孫降臨天孫が日本を治めるまでの日本神話の内容、および日本の民が犯してしまう罪の内容と、罪を犯した際に、祝詞を唱える事と、それと一緒に行う罪の祓い方が述べられている。
・後段:罪を祓うと、その罪/穢が、どのように消滅するのかを、様々な例えで語られ、さらに祓戸四神が連携しながら、一致協力して罪/穢を消滅させて行く様が記載されている。

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このような歴史を持つ「大祓詞」ですが、現在、一般に出回っている「大祓詞」は、神社本庁、およびその他教団による独自の修正が加えられており、この「延喜式」の内容とは、一部異なってしまっているそうです。

とは言え、「瀬織津姫命」は、平安時代初期、醍醐天皇の勅命で作成された法令集に掲載されている神様です。

現在では、どのような神様なのか解らなくなってしまっていますが、元々は、「古事記」や「日本書紀」以外の書物に登場していたのではないかと思われます。

また、この「大祓詞」に関しても、元となる「原典」が存在し、この「原典」を参考に作成されたと考えられており、江戸時代の国学者賀茂真淵」や「本居宣長」も、何らかのオリジナル資料があったと考えていたようです。

現在では、「和銅5年(712年)」に、「太安万侶(おおの-やすまろ)」が編纂した「古事記」が、日本最古の歴史書とされていますが、実際には、次の様な「古事記」以前に書かれた歴史書が存在したと言う事が、「日本書紀」に記載されています。

そもそも、「古事記」とは、天武天皇の側近「稗田阿礼(ひえだのあれ)」が暗記していた「帝紀」と「旧辞」の内容から、「太安万侶」が中身を選んで編纂した書物とされていますので、「帝紀」と「旧辞」は、本当に存在した書物だと思われます。



・国記 :「推古天皇28年(620年)」に、厩戸皇子蘇我馬子が編纂したとされる書物
天皇記 :上記「国記」と一緒に編纂したとされる歴史書
帝紀 :「天武天皇10年(681年)」、川島皇子らが歴代天皇と皇室の系譜を整理した書物
旧辞記紀(古事記/日本書紀)のオリジナルとなる歴史書


上記書物の内、天皇記と国記は、「皇極5年(645年)」に起きた「乙巳の変」の際、「蘇我入鹿」の暗殺を知った父「蘇我蝦夷」が、自身の邸宅に火を放って自殺したのですが、その時に一緒に燃やされてしまったと言われています。(※国記だけは、船恵尺と言う人物が火中から拾い出したが後に紛失)

他の書物も、今となっては、意図的か否かは解りませんが、どこかに散逸したとされています。

ちなみに、「大祓詞」を奏上した「中臣氏」は、「忌部氏(いんべ-うじ)」と共に、古くから神事/祭祀を司ってきた豪族で、上記「乙巳の変」で活躍し、「藤原氏(ふじわら-うじ)」の始祖となる「中臣鎌足」もこの一族ですし、「大迫の早池峯神社」の開祖である「藤原兵部卿成房」も、この一族に連なる人物です。

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他方、「熊野権現」と「早池峯権現」を同一と見る向きもあります。つまり、「熊野権現 = 早池峯権現 = 新山権現 = 瀬織津姫命」と言う関係です。

この件に関しては、後述する「熊野権現瀬織津姫命の関係」で詳しく紹介したいと思いますが、これは「遠野の早池峯神社」の開祖と言われる「始閣藤蔵」の出身地が深く関わって来ます。

前編では余り触れませんでしたが、開祖となる「始閣藤蔵」は、元々、遠野に生まれた訳では無く、現在の静岡県の「伊豆地方」の生まれとされています。

そして、伊豆地方から太平洋沿岸を北上して遠野の「来内(らいない)村」に辿り着き、そこで暮らし始めたとされています。

また遠野に来た時には、守り神として「伊豆権現」を勧請して来たとされており、「早池峯神社」の他にも、来内村の自宅裏にお堂を建立して「伊豆権現」を安置すると共に、御祭神を「瀬織津姫命」として、朝夕に崇拝していたと言う事が「遠野市史」に記載されているそうです。

その後、このお堂は「伊豆権現社」となり、明治以降は「伊豆神社」となったのですが、その総本社は、現在「伊豆山神社」と呼ばれる神社で、その昔は、伊豆大権現、伊豆御宮、伊豆山、走湯大権現、あるいは走湯山と呼ばれていた修験道霊場です。

伊豆山神社」は、飛鳥時代には、「役行者(えんのぎょうじゃ)」として知られる「役小角(えん-の-おづの)」が伊豆大島流罪となった際に、ここで修行を行ったと伝わっておりますし、それ以降も、「空海」等の僧侶や修験者が修行を行った場所で、「熊野神社」とも深い繋がりがあります。

「早池峯神社」と「伊豆山神社」、そして「熊野神社」は、このような繋がりがあるので、「瀬織津姫命 = 熊野権現」と習合する考えもあると言うわけです。

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次は、「鈴鹿権現」との関係にも少し触れたいと思います。

鈴鹿権現」とは、別名「鈴鹿御前」とも呼ばれており、伊勢と近江の国境にある「鈴鹿山」に住んでいたとされる伝説上の女性で、交通の要所であった「鈴鹿峠」、および東海道を通る人の守護神とされています。

さらに「鈴鹿権現」は、鈴鹿姫、鈴鹿大明神、鈴鹿の立烏帽子などとも呼ばれ、道祖神と習合し、鈴鹿峠を往来する旅人達により、旅の安全を祈願するために祀られたと考えられています。

後に、「お伽草子」などにも取り入れられ、さらに「坂上田村麻呂」伝説とも結び付き、「鈴鹿姫信仰」として、江戸時代まで広く信じられてきたようです。


どのような神様かと言うと、上記の通り、立烏帽子姿で悪鬼や盗賊を成敗し、後に、「坂上田村麻呂」と結婚して、子供を設けたとされています。

さて、「鈴鹿権現」と「瀬織津姫命」との関係ですが、それは京都の祇園祭に見ることが出来ます。

祇園祭に登場する山鉾「鈴鹿山」ですが、ここでは明確に「鈴鹿権現 = 瀬織津姫命」と説明されています。

何故、「鈴鹿権現 = 瀬織津姫命」となったのかは明らかにはなっていませんが、鈴鹿山近郊にある「片山神社(御祭神:瀬織津姫命)」や「田村神社(御祭神:坂上田村麻呂)」が関係しているともされているようです。

この点に関しても、後述する「鈴鹿権現と瀬織津姫命の関係」で紹介したいと思います。

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また、「瀬織津姫命」と「天照大御神」との関係について、少し触れたいと思います。

これは、本章の最初に記載した「瀬織津姫命は、天照大神の皇后で、天照大神の名代として活動していた時期もある」と言う説となります。

これは、現在では、女神として表現されている「天照大御神」が、実際は「男神」だったと言う事を意味しています。

天照大御神男神説」に関しては、何時頃から唱えられたのかは定かではありませんが、平安時代末期頃には、既に「天照大御神男神説」が、広く出回っていたとされています。

神道では、「陰陽二元論」と言う考え方があり、この考え方は、「日本書紀」の「国生み神話」にも取り入れられています。

イザナギを陽神とし、イザナミを陰神とすると、陽神=男神で、陰神=女神となります。さらに、太陽は陽で、月は陰となるので、つまり、太陽神として扱われる「天照大御神」は「男神」となると言う、三段論法の様な考え方です。

また、記紀には、「アマテラスとスサノオの誓約」と言う場面が何度か書かれていますが、スサノオが追放された天上界に戻ってきた際、「アマテラス」が、「スサノオ」が攻めてきたと勘違いし、「男装」して攻撃に備えたと伝わっています。

このような事から、「天照大御神男神」と言う説が繰り広げられています。

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先程、遠野「伊豆神社」と「瀬織津姫命」の事を触れましたが、ここで、しつこいかもしれませんが、改めて、「遠野物語/第2話」を紹介したいと思います。ここには、「遠野三山」の神々の由来が書かれています。

遠野物語 第2話 】

●原文

(略)
大昔に女神あり、三人の娘を伴ひて此高原に来り、今の来内三村の伊豆権現の社ある処に宿りし、今夜よき夢を見たらん娘によき山を与ふべしと母の神の語りて寝たりしに、夜深く天より霊華降りて姉の姫の胸の上に止りしを、末の姫眼覚めて窃に之を取り、我胸の上に載せたりしかば、終に最も美しき早池峰の山を得、姉たちは六角牛と石神とを得たり

若き三人の女神各三の山に住し今もこれを領したまふ故に、遠野の女どもは其妬を畏れて今も此山には遊ばずと云へり


●現代語訳
大昔に女神がいて、三人の娘を連れてこの高原に来た

今の来内三村の伊豆権現の社ある場所に宿った夜、今夜よい夢を見た娘によい山を与えようと母の神が語って寝たところ、夜深く天から霊華が降り、姉の姫の胸の上に止まったのを、末の姫が目覚めて、こっそりこれを取り、自分の胸の上に乗せたところ、ついに最も美しい早池峰の山を得、姉たちは六角牛と石神とを得た

若い三人の女神はそれぞれ三つの山に住み、今もこれを支配しておられるので、遠野の女たちはその妬みを恐れて、今もこの山には入らないという


前述の「早池峯神社の本坊」の章で登場した「矢巾の早池峯神社」の由緒で、「三柱の姫神」が降臨して「三ツ石」に鎮座したと紹介しましたが、「矢巾の早池峯神社」の境内には、石が4個あるのは何故 ? と思ったかもしれません。

しかし、上記「遠野物語」を、よく読んで見て下さい。「三柱の姫神」には、母親が居ます。『 3人の娘 + 母親 = 4名 』です。

そして、この「矢巾の早池峯神社」の御祭神も、当然、「瀬織津姫命」です。これで、石が4個存在している理由が解るのではないかと思われます。

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他方、前述の「遠野の伊豆神社」には、「遠野市史」とは別の由緒が伝わっており、そこには、「坂上田村麻呂」と「おない」と言う女性の関係が書かれています。

蝦夷征伐の折、「坂上田村麻呂」が遠野に滞在した際に、都から「おない」と言う名の麗夫人を呼び寄せたが、その後、三名の姫が生まれ、それら三名の姫神が、「遠野三山」の神々となったと言うのが、「遠野の伊豆神社」の由緒になっています。

このため、「遠野の伊豆神社」の由緒には、御祭神「瀬織津姫命 / 俗名:おない」と記載されているそうです。

ここでも「坂上田村麻呂」と「瀬織津姫命」が関係しており、この点も興味深いのですが、それよりも興味深いのは、「おない」と言う女性の名前です。

先の「遠野市史」や「伊豆神社」の由緒書とは別に、「綾織村郷土誌」と言う村史が残されており、そこにも「伊豆神社」の由緒が書かれているのですが、「おない」と言う女性は、「前九年の役」で朝敵となった「安倍貞任(あべ-さだとう)」の弟「宗任(むねとう)」妻とされています。

そして、「安倍宗任/おない」には、三名の娘がおり、母子共に戦からは逃げおおせて来内村にたどり着き、その後、村において医者となり、多くの人を救った事から「伊豆神社」に祀られたと記載されているようです。

朝敵の妻を御祭神にすることなど、許されるはずもありませんが、興味深い話ですので、この点も、後で説明したいと思います。

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今回は、「早池峰信仰と瀬織津姫命」の第2弾として、次の様な内容を紹介して来ましたが如何でしたか ?

●「早池峰」と「早池峯」、どちらが正しいのか ?
●どこが本院なのか ?
●「瀬織津姫命」が御祭神の神社
●「瀬織津姫命」とは何者なのか ?

瀬織津姫命」について、調べれば調べるほど、訳が解らない状況となってしまっています。

今回は、「瀬織津姫命」関して、次の様な事に関係がある神様として紹介しました。

伊勢神宮内宮別宮「荒祭宮」の御祭神
・「大祓詞」に登場する祓戸四柱の一柱
熊野権現鈴鹿権現と習合した神様
・「天照大御神」の妻
・「遠野三山」の神様

まあ、中央と地方とでは、それぞれ、その地にいらっしゃる神様や有名人と習合してしまうのは、仕方が無いことですので、関西地方と岩手県とでは、「瀬織津姫命」の扱いが異なってしまっているのだと思います。

さらに「瀬織津姫命」に関しては、次の様な人物や神様と関連付けた話もあります。

・織姫
・瀧の神
・弁財天
オシラサマ
宗像三女神、etc.

挙句の果てには、「私は瀬織津姫命です。」とまで宣う人物の実に多いことか・・・

瀬織津姫命」は、由緒不明な神様ですので、俗に言う「スピリチュアル系」の人達にとっては、格好の獲物なのかもしれません。

私は、そこまで踏み込む勇気はありませんので、あくまでも「早池峯信仰」との関わりと中心として、「瀬織津姫命」が、どのような神様なのかを紹介したいと思います。

そこで、次回は、次の様な内容を紹介しようと思っております。

●「天照大御神」は男神なのか ?
●「瀬織津姫命」と「安倍氏」との関係
●「瀬織津姫命」と「鈴鹿権現」との関係
●「瀬織津姫命」と「熊野権現」との関係

天照大御神が男性か否かなど、早池峯信仰とは関係無いだろ !」と言うと指摘もあるとは思いますが、中々面白い話なので、少し触れたいと思います。

それでは次回も宜しくお願いします。

以上


【画像・情報提供先】
Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)
岩手県神社庁(http://www.jinjacho.jp/)
・風琳堂(http://furindo.webcrow.jp/index.html)
花巻市ホームページ(https://www.city.hanamaki.iwate.jp)
・レファレンス協同データベース(http://crd.ndl.go.jp/reference/)
・Yahoo/ZENRIN(https://map.yahoo.co.jp/)
・千時千一夜(https://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo)
・お山へ行こう!(http://lcymeeke.blog90.fc2.com/blog-entry-208.html)
平凡社「字通(CD-ROM版」
・近世古文書館(http://www.komonjokan.net/)
コトバンク(https://kotobank.jp/)
貴船神社(https://www.facebook.com/kifunejinja/)

Windows 10 April 2018 Update 〜 「貴重な時間を作り出す」とは言うけれど


前回のIT系ブログで告知した様に、今回は、引き続き、Microsoft社の情報を紹介します。

そして、今回は、リリースからは、既に2ヶ月以上経過してしまっていますが、告知通り「Windows 10 April 2018 Update」に関する、様々な情報を紹介したいと思います。

この「Windows 10 April 2018 Update」、当初は、有名なリーク情報を流すTwitterの噂で、「Windows 10 Spring Creators Update」とか言う名前になると言われていたのですが・・・蓋を開けて見れば「Spring Creators」は消えて「April」が採用されたようです。

しかし・・・リリース時期が「4/30」ですから、本当に、ギリギリ「April」に間に合ったと言う感じです。

そして、そのせいなのかもしれませんが、リリースから、暫くの間、Windows系の検索では、この「Windows 10 April 2018 Update」の不具合情報(バグ情報)を掲載している複数サイトが、検索トップに躍り出ていました。

つまり、邪推かもしれませんが、無理矢理「April」にメジャー・アップデートをリリースしたいがため、試験をちゃんと行わないまま出荷したのでは ? と思ってしまいます。

私は、当然、このメジャー・アップデートは適用していませんが、アップデートを適用した大勢の方々は、かなり迷惑を被っているようです。

今回のブログは、6月中旬に記載していますが、バグは、全く収束していないようです。

そして、今回は、これらの点も含め、大きく、次の5つの内容を紹介したいと思います。

●バージョン確認方法(おさらい)
●新規機能の紹介
●Office新機能
●バグ情報の紹介
●インストールを遅らせる方法

今回の「Windows 10 April 2018 Update」に関しては、珍しく、御用達ライター達も余り評価しておらず、物足りなさを表明しているように見受けられます。


まあ、同一バージョンに対して、頻繁に機能追加を繰り返していれば、インパクトが薄れてくるのは当然と言えば、当然のシナリオです。

映画でも、スターウォーズは例外としても、「何とか 2」や「何とか パート3」・・・と回を重ねる毎に、新鮮味、面白みが薄れて来るのと同様です。

しかし、映画とは異なり、メジャー・アップデートの度に、バグに苦しめられる利用者は悲惨です。今回も、そして、毎度の事なのですが、いつもよりバグが多いように見受けられます。


それでは、今回も宜しくお願いします。

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■バージョン確認方法(おさらい)


前回のメジャー・アップデート「Fall Creators Update」を取り上げたブログでも紹介しましたが、まず自身のPCのバージョンを確認し、自分のPCには、どのメジャー・アップデートまでが適用されているのかを確認する必要があります。

PCのビルドとバージョンの確認の仕方に関しては、下記の過去ブログに掲載していますので、そちらをご覧下さい。

★過去ブログ:Fall Creators Update 〜 今度は何が・・・(20180113.html)

ちなみに、「Windows 10」が発売されてから、これまでにリリースされたメジャー・アップデートは、下表の通りです。

項番 名称 バージョン リリース時期 サポート終了 保守
1 Windows 10(初期バージョン) 1507 2015/07 2017/05/09
2 Windows 10 November update 1511 2015/11 2017/10/10
3 Windows 10 Anniversary Update 1607 2016/08 2018/04/10
4 Windows 10 Creators Update 1703 2017/04 2018/10/09
5 Windows 10 Fall Creators Update 1709 2017/10 2019/04/09
6 Windows 10 April 2018 Update 1803 2018/04 2019/11/12

こうして、改めて「Windows 10」を眺めてみると、「Windows 10」がリリースされてから、既に3年も経過していた事を思い出しました。

そして、その内、既に3つのバージョンに関しては、メインストリートが終了している事に気が付かされます。

さらに、前回のIT系情報にも記載していますが、従来、5年と宣言していたメインストリートのサポートなど、とっくの昔に形骸化している事にも気が付かされます

★過去ブログ:ついに本性を剥き出しにしたMicrosoft 〜 殿様には従うしかないのか ?

こと「Windows 10」に関しては、もうMicrosoft社の「ライフサイクル・ポリシー」なんか、全然意味が無い情報になってしまっているようです。

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■新規機能の紹介


さて、それでは今回のメインテーマ、「Windows 10 April 2018 Update」で提供された新機能を紹介します。

今回は、開発コード「RedStone4(RS4)」として開発されていた物を、最新バージョンとしてリリースしたソフトウェアなのですが・・・前回の「Windows 10 Fall Creators Update」同様、「メジャーとは言葉だけで実際にはマイナーではないか」と言う感想も、「そこここ」で聞かれている様です。

今回Microsoft社は、この「Windows 10 April 2018 Update」を適用する事で、「貴重な時間」を、さらに作り出す事が可能になると訴えています。

Microsoft社が言う所の「貴重な時間」とは、メジャー・アップデートを行うために、2時間もの時間が掛かると言う事実はさて置き、メジャー・アップデートにより導入される、次の様な新機能で、PCが使いやすくなる、と言う事を意味しているようです。

・タイムライン(Timeline)
・近距離共有(Nearby Share)
・集中モード(Focus Assist)
・Edge改良

しかし、今回の「目玉機能」となる「Timeline」は、元々は、「RS3」、つまり前回の「Windows 10 Fall Creators Update」での提供を予定していた機能です。

また、それ以外、次の様な機能も、前回提供すると宣言していた機能が、今回適用になったのではないかと思われます。

Fluent Design
・Story Remix
・ペイント3D

もう、こうなって来ると、「今回のメジャー・アップデートで提供します !」と宣言した機能でも、実際には提供されず、次回、もしくは、それ以降のメジャー・アップデートで提供されるので、本当の所、どの機能が追加されるのか、全く解らなくなってしまっているような感じがします。

それでは、一応、今回のメジャー・アップデートで提供する、と言っている新機能を紹介します。

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●タイムライン(Timeline)



この機能は、今回のアップデートの「目玉」とされる機能で、従来から提供してきた「タスクビュー」機能を拡張した機能と言われています。

従来の「タスク」とは「作業」を意味していますので、自身のPCで行っていた「タスク=作業」を一覧表示して切り替える事が可能でした。

今回の「Timeline」では、「タスク(作業)」と言う概念を、「アクティビティ(活動)」と言う概念に拡張して管理しています。

つまり、過去30日まで遡って、当時作業していた「アクティビティ(活動)」を辿る機能となっており、次の様な問題を解決する事が出来るとしています。

『 あの時に作成したファイルの保存場所を忘れてしまった。 』
『 ファイルが沢山あるが、どれが直前まで作業していたファイルか分からない。 』

この「Timeline」では、プロセスやウィンドウだけでなく、閲覧中のWebページ、編集中ドキュメント、あるいは再生中の音楽プレイリスト等、全てのコンテンツを管理しているようです。

そして、「Timeline」では、それぞれの「アクティビティ(活動)」が、画面上に「カード」として表現されるので、この「カード」をクリックすると、選択した「アクティビティ」がデスクトップに復元されます。

また、この「Timeline」で注目すべきなのは、「デバイスをまたいで作業ファイルを呼び出せる」という点です。

Microsoftアカウントで紐付けられたコンテンツであれば、AndroidiOS上で作業していたOffice 365やEdgeブラウザのファイル履歴であっても、クラウドでの同期を経て作業ファイルに辿り着けるそうです。

つまり「時間と場所を選ばずにファイル編集が可能」になると謳っていますが、逆に言えば、Microsoftアカウントにログインして作業しなければ、こうした機能は利用出来ない事になります。

また、対応ブラウザは「Edge」のみで、シェアが高いChromeは未対応となっているので、ブラウズ履歴に関しては、結局のところ、使えない機能なのかもしれません。

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●近距離共有(Nearby Share)



次は、第二の「目玉」とされている「近距離共有(Nearby Share)」機能を紹介します。

これは、自分の近くにあるWindows 10デバイスを見つけて、簡単にファイル共有が行える仕組みで、Apple社が提供している「AirDrop機能」のパクリ機能です。

しかし、「パクリ機能」の割には、「AirDrop機能」より仕様が劣っていて、iOSではiPhone同士、およびiOSバイスMac間でのファイル転送が出来るのに対して、「Nearby Share(近距離共有)」では、「PC対PC」しかファイル共有が出来ません。

まるで、「後出しジャンケン」で負けると言う、トンデモナイ状況になってしまっています。

これは、かつてMicrosoft社が、iPhoneAndroidスマートフォンに対抗すべく投入した「Windows 10 Mobile」で失敗し、市場から淘汰されてしまった事が原因となっていると思われます。


さらに、「Nearby Share(近距離共有)」を行うためには、「Nearby Share(近距離共有)」を行う双方の「Windows 10」において、「近距離共有オプション」を有効化しておく必要があるそうです。

「Nearby Share(近距離共有)」を行う時に、共有先に相手のPCが現れない場合は、「アクション センター」を開いて「近距離共有オプション」を「オン」にする必要があります。

「何となく便利な機能かな〜」とは思えるのですが、実際のビジネスシーンで考えると、どうなのでしょうか ?

「会社の同僚とファイル共有するのか ? 」と言う点ですが、社内であれば、共有サーバーで十分です。

Microsoft社の事例では、

『 たとえば、上司との会議中に、画面に表示しているレポートや PowerPoint プレゼンテーションをすばやく送信したい場合、近距離共有を使用すればこれを迅速かつ簡単に行うことができます。 』

としていますが、こんな事は通常行いません。共有サーバーに保存してデータ共有します。

それでは、「取引先の相手とファイル共有するのか ? 」・・・相手と直接会って打ち合わせを行っているケースを想定すれば、無くもないケースだと思えますが、お互いにPCを持ち寄るケースは少ないと思います。USB経由でも十分です。

また、データに機密情報が含まれている場合、その場でデータを渡す事など考えられません。

その他は・・・友達同士のケースはあると思いますが、前述同様、お互いにPCを持ち寄るとは思えません。せいぜい、大学生が使う程度の機能ではないかと思われます。

「目玉」と言う割りに、使用ケースが想定出来ません。

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●集中モード(Focus Assist)



そして次も「目玉機能」となっていますが・・・段々と「目玉」が小さくなって来ているような感じがしますが、「集中モード(Focus Assist)」機能です。

当初は、「Quiet Time」とか「Quiet hour」とか呼ばれていた様ですが、最終的には「Focus Assist」になった模様です。

「集中モード(Focus Assist)」機能は、SNSやOneDrive等、様々なアプリからの通知を表示したり、あるいは完全に非表示にしたりすることができます。

また、タイマーを設定して自動的に集中モードがオンになるように設定できる他、特定の人からの通知やメールだけは受け付ける様に設定する事も可能になっています。

Microsoft社の売り文句では

『 最近では多くの人が 1 日 3 〜 6 時間ほど画面の前で作業をしています。そのほとんどの時間を費やしているのが、ソーシャル メディアの利用です。情報が絶えず流れ、それを複数のデバイスで受け取っているため、どの情報にもなかなか集中できません。今回のアップデートでは、集中力の維持に役立つ集中モードが導入されます。集中モードを使用すると、通知、サウンド、アラートを簡単にブロックし、集中できる作業時間を確保して作業効率を上げることができます。 』

アメリカと違い、日本の企業で、SNSをしながら仕事をしている人など居るはずもありません。

日本の企業で、1日の作業時間の内、3〜6 時間も、SNSをしながら仕事をしていたら、即クビです。(今は、人材不足なので、減給程度で済むかもしれませんが・・・)

確かに、仕事中に頻繁にメールが来ると、集中力の妨げになるのは確かですが、集中モードで、全ての通知を拒絶した場合、仕事に差し障りがある場合もあります。

タイマーで「集中モード」の「オン/オフ」が切り替えられるのは良いかもしれませんが、毎日、決まった時間に作業を行うとは限りません。作業の途中で、会議に参加したり外出したりするのは日常茶飯事です。

毎日、その都度、「集中モード」の「オン/オフ」を行うとなると、「集中モード」の切り忘れに注意しなければなりませんので、この機能も、「痛し痒し」の機能の様に思えます。

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●Edge改良



さて、ここからは「小技集」となりますが、その1番手として登場するのがMicrosoft社のお勧めブラウザ「Edge」への機能追加と改良です。

私は、メインで使っているのは「Chrome」ですが、Flash系画像を見る時には「Edge」を使っています。

「Edge」は、確かに「IE(Internet Explorer)」よりは、格段に高速になっていますが、それでもChrome等のFirefox系ブラウザには及びません。

また、動作が安定していないので、イラつく事も度々です。そんな「Edge」に対しては、下記8個の機能追加/改良が施されたそうです。(※一部、意味不明な説明文がありますが、Microsoft社の説明をそのまま記載しているからです。)

(1)タブのミュート :タブ単位に音声再生の音をコントールする
(2)カード支払い情報自動入力 :オプションをオンにする事でカード情報を自動入力する
(3)印刷をすっきり :印刷オプションに「印刷をすっきり」が追加された
(4)全画面表示閲覧 :書籍、PDF、読み取りビューページの全画面表示
(5)EPUB 書籍オプション追加 :EPUB用のオプション追加
(6)Grammar Tools :読解力補助ツール提供
(7)Fluent Design :画面表示の新デザイン。新たに「Reveal(明暗)」を追加
(8)モバイル端末向けEdge :Android/iOSモバイル端末用Edgeの提供

実は、上記以外でも、Edgeに「Progressive Web Apps(PWA)」という仕組みと取り入れた事が話題になっていますが、この「PWA」と言うアーキテクチャは、元々、Google社が提唱して推進してきた考え方ですので、「何をいまさら」感があります。

今回、「PWA」については説明しませんので、興味のある方は、関連サイトを検索して見て下さい。

また、上記8個の機能の内、次の機能は、前回のメジャー・アップデートで追加された機能ですので、機能自体を知りたい場合、過去ブログを参照して下さい。
Fluent Design
EPUB((Electronic PUBlication)書籍対応


「印刷をすっきり(Clutter-free printing)」とは、Webページを印刷する際に追加された「印刷モード」です。

画面本文両側に、広告やサイト内へのリンクを配置しているWebサイトを印刷する時に、左右の広告などを含めることなく、印刷ページの幅全体を使って本文部分だけを印刷する機能になります。

但し・・・このモードが使えるのは、「Edge」が対応可能なページレイアウトのみとなっているようで、この機能が使えないページもあるとの事です。

「Edge」対応可能ページには、印刷ダイアログに「印刷をすっきり」のオプションが表示され、「Edge」対応不可能ページには、印刷ダイアログにオプション自体が表示されないそうです。

う〜ん、機能が追加されたは良いですけど、実際には、「Edge」を使ってみないと解らないとは・・・

それと、全く意味不明なのが「全画面表示閲覧」機能です。


この機能は、元々、「隠し機能」として実装されていた事が、2017年4月に暴露され、「Shift+Windows+Enter」を押すと、ブラウザ表示画面が「全画面表示」に切り替わる事が判明しています。

また、過去の「Creators Update」においても、画面表示のオプションに、全画面表示が追加されています。

このため、「何が新機能なのか ?」は、実際に使ってみないと、何が何だか解らない状況となっています。

そもそも、電子書籍の配信サービスは、現在、日本は対応外となっており、米国に限られたサービスになっています。

このため、日本で閲覧可能なコンテンツが限定的なので、「Edge」ブラウザでこれらのコンテンツを見るケースはほとんど無いと思います。

「タブのミュート」に至っては、他ブラウザでは、何年も前から実装されている機能ですから、今更、「新機能です !」と喧伝する事自体、恥ずかしいのではないかと思ってしまいます。
Firefox : 2015年11月3日〜
Chrome : 2018年1月26日〜

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●その他「小技」


ここまで、今回の「Windows 10 April 2018 Update」における「目玉機能」を紹介して来ましたが、如何でしたか ?

左の画像は、春先に、岩手の八幡平と言う場所に現れる「ドラゴンアイ」と呼ばれる現象ですが、本当に、「龍の目玉」の様で、キレイですよね〜

今回の機能追加は、この「ドラゴンアイ」の様な「目玉機能」は少ないと言うか、「新機能」と言いつつ、実際には、余り使えない機能が多い様に見受けられます。

この他にも、Microsoft社では、下記の機能を改良したとしていますが・・・余りに「小技」過ぎるので紹介は割愛します。

Windows Ink高速化
Windows Mixed Reality
Windows Hello
Microsoft フォト
Windows 10 の 3D
・ Cortana 改良
Microsoft IME の予測入力サービス
・ 「診断データ(Diagnostic Data)」改善
・ スタートメニューのインデックス改善
Windows Defender 機能強化
Windows 10(S モード)のサポート

どんな「小技」かと言うと、「機能高速化」、「画面遷移簡略化」、あるいは「項目追加」とかと言うレベルです。

そんな中でも、ちょっと興味があるのが、「新元号対応」です。ここで、少しMicrosoft社の「新元号対応」を紹介したいと思います。


これまで、弊社のメルマガで、天皇陛下の退位に伴う「元号」の改元に関して、公表時期が、どんどん「後ずらし」になって来ている事を紹介して来ました。

現状、日本政府は、天皇家に「忖度」するだけで、国民の迷惑は顧みず、改元の1ヶ月前に「新元号」を発表すると言う、トンデモナイ決定を下しています。

このため、「和暦」を使っているシステムに関しては、

『 個々に管理する情報システムについては、基本的に、改元日(5/1)に間に合うよう改修を終了させ、外部と繋がっているシステムに関しても、5/1には、新元号に切り替えて運用出来る体制を構築すべし。 』

としています。

全く、国民や企業の迷惑など一笑に付していますが、そこでMicrosoft社では、今回の「Windows 10 April 2018 Update」において、今後 新しい元号が発表された際に、スムーズに対応できるよう準備を施したとしています。

今回、「Windows 10 April 2018 Update」を適用すると、新元号に対応する仮のレジストリ設定が追加され、新元号を「??」で取り扱うようにするとしています。

レジストリ」と言うのは、Windowsに関するシステム・プログラムやハードウェア、ユーザー・プログラム等のシステム情報を格納しているデータベースですが、普通の人は、この「レジストリ」を見たり触ったりする事は、ほとんど無いと思います。


もしも、「レジストリ」を見てみたいと言う方は、次の操作で「レジストリ」を見る事が出来ます。

「スタートメニュー」 →「 Windowsシステム・ツール」 → 「ファイル名を指定して実行」

と進み、名前欄に「regedit」と入力して「OK」をクリックすると、「レジストリ・エディター」画面が表示されます。

この「レジストリ・エディター」画面で、データベース情報を追加/修正する事が出来ますが、むやみやたらと情報を変更すると、PCが起動出来なくなってしまいますので、そこは気を付けて下さい。

今回は、「HKEY_LOCAL_MACHINE\SYSTEM\CurrentControlSet\Control\Nls\Calendars\Japanese\Eras」と言う項目が追加され、そこに次の情報が追加されるとしています。

“1868 01 01″=”明治_明_Meiji_M”
“1912 07 30″=”大正_大_Taisho_T”
“1926 12 25″=”昭和_昭_Showa_S”
“1989 01 08″=”平成_平_Heisei_H”
“2019 05 01″=”??_?_??????_?”


このレジストリ情報は、「regedit」等を使えば削除可能となっているようですが、何か、色々と変な表示になっているようです。

そして今回、「Windows 10 April 2018 Update」を適用すると、新元号の日付表示が「??1年5月1日」となるようですが、システムの日付形式を「和暦」にすると、下記アプリ等で元号表示が変になるそうです。

・タスクバーのカレンダーにおいて、年単位で移動すると、新元号だけでなく、昭和と平成の間の移動もおかしくなる
・予定表アプリでは、「??1年1月1日」という誤った表示になる
・電卓アプリでは、「??1年5月1日」以降の指定はクラッシュする
Excelでは、年号表示が「平成(H)」のままになっている

全世界で、「元号」を使っている国家(※)は日本だけですし、システム日付で「和暦」を使う人など居ないと思うので、仕方が無いと言えば仕方が無い事なのかもしれません。


元号を使う国家
・中国 :清朝滅亡に伴い廃止
・朝鮮 :日韓併合で廃止
ベトナム :フランス植民地化で廃止

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■Office新機能

今回の「Windows 10 April 2018 Update」では、Officeに関する機能追加や変更も、少ないながらも行われたようです。

しかし、機能追加や機能修正が行われたのは、「Office365」だけで、パッケージ版のOfficeに関しては、何も対応が施されて居ないようです。

「Office365」とは、売り切り型のパッケージとは異なり、クラウドからダウンロードして使用する形式のOfficeとなります。

パッケージ版とクラウド版の違いに関しては、下記の過去ブログにも情報を掲載しています。

★過去ブログ:ついに本性を剥き出しにしたMicrosoft 〜 殿様には従うしかないのか ?

それでは、「Office365」に施された対応を紹介します。

但し、下記機能は、「Windows 10 April 2018 Update」と同時にリリースされたのではなく、「April 2018 Update」リリース後、数週間から数ヶ月後のリリースになるそうです。

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ランサムウェア対策強化


ランサムウェア対応を行うには、Officeと「OneDrive」、それに「Windows Defender」を併用する必要があるそうです。

「OneDrive」とは、旧名「SkyDrive]と呼んでいたオンライン・ストレージになります。

つまり、「Windows Defender」でランサムウェアを検知すると、感染したファイルがPCから削除されます。

その後、「OneDrive」に保存してあるファイルから、「Files Restore」機能を用いて、該当ファイルを復元する、と言う仕組みのようです。

この様な単純な仕組みなら、別のセキュリティ・ソフトウェアと別のGoogleドライブやDropbox等のオンライン・ストレージを組み合わせても実現可能だとは思います。

但し、Microsoft社の場合、(Microsoft社の説明によると)「OneDrive」と「Windows Defender」が連携しているので、マルウェア感染日を簡単に特定出来るので、リストア処理を簡単に行う事が出来るとしています。

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●手描き入力への新機能追加


デジタル・ペンを使用して、簡単に Office ドキュメントを編集できるようになるそうです。

単語に取り消し線を引いて削除したり、テキストを挿入するスペースを追加したり、あるいはテキストを囲んで選択したり、正確にハイライトしたりする事が出来るようになるそうです。

今回の対象アプリケーションは、Officeの内、次の3つになります。

・Word :インテリジェント編集
Powerpoint :テキスト文字編集
OneNote :数式アシスタント

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Windows と Office の連携強化


この「連携強化」は、OfficeアカウントとMicrosoftアカウントの連携になります。

Officeのバージョンや購入方法により異なりますが、従来、両者のアカウントは連動していますが、Microsoftアカウントの方が上位に位置付けられています。

つまり、MicrosoftアカウントにサインインしてからOfficeアカウントにサインインする形になっています。

今回の「機能強化」では、Officeアカウントにサインインすると、Microsoftアカウントにもサインイン出来る様になるそうです。

このように、1回だけサインインすると、他のアカウントにもサインイン出来る機能を「シングル・サインオン(SSO)」と言い、他のソフトウェア、例えば、Google社のソフトウェア等では、とっくの昔から提供されてきた機能です。

Microsoft社も、ようやく「シングル・サインオン」に対応したようです。

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■バグ情報の紹介

本ブログは、前述の通り、2018年6月の中旬に書いていますので、「Windows 10 April Update」がリリースされてから、既に1ヶ月以上経過している状態です。

そんな中、GoogleやBingで「Windows 10 April Update」と入力して検索すると、新機能を紹介するサイトが数多く表示される反面、次の様なタイトルのサイトも表示されています。

・「Windows 10 April 2018 Update」で見つかった不具合のまとめ
・「Windows 10 April 2018 Update」で複数の不具合が確認される
Windows 10 April 2018 Updateのインストールをブロックする方法
Windows 10 April Update 2018の適用は待った!…かもしれない。
・不具合だらけのWindows 10 April 2018 Updateを一旦避ける方法




また、Microsoft社でも、この画像の様なコミュニティ・サイトにスレッドを立ち上げて、質問を受け付けているようですが・・・

多くの項目に関して、「調査中」、「修正中」、「修正予定」とあり、余り対応が取れていないように見受けられます。

参考までにURLを掲載しておきます。

【 よくある質問 】
https://answers.microsoft.com/ja-jp/windows/forum/windows_10-windows_install/windows-10-april-2018-update/983c16fc-437f-45bf-b163-e341926a687a


それでは、主なバグを紹介したいと思います。


●適用後にPCを起動するとアイコンが1つもないブラックスクリーン(真っ黒な画面)が表示されて、何もできなくなる
●デスクトップ・ファイルにアクセスできないことを伝えるエラーメッセージが表示される
東芝SSDの一部モデルでバッテリー寿命が短くなる(済)
IntelSSDを搭載したデバイスUEFI画面で再起動・クラッシュする(済)
●言語を削除できない
●隠しパーティションにドライブレターが不適切に割り振られる
Dellの「Alienware」シリーズにインストールしようとするとエラーが発生する
●「コルタナ」や「Google Chrome」がハングアップ・フリーズする
●「Firefox」と「April 2018 Update」の間の非互換性問題(済)
●アプリからカメラやマイクにアクセスできなくなる
●「一太郎」などで縦書きの文章が横書き表示される
●タッチキーボードが起動しない問題
●「Outlook」でテキスト入力に問題が発生する
●OS起動時に[キーボード レイアウトの選択]画面または“ごみ箱”のみのデスクトップが表示される
Explorer.exeが3〜5秒ごとにクラッシュし続ける


上記以外でも、続々とバグの報告が上がっています。

詳しく知りたい場合、「Windows 10 April Update 不具合」と言うキーワードで検索すると、このブログ作成時点ですが、「147,000件」のサイトが表示されます。

余りに多すぎて、サイトを見る気もしなくなってしまいます。

そこで、次章に、(今更、手遅れだとは思いますが)「Windows 10 April Update」の適用を遅らせる方法を紹介しておきます。

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■インストールを遅らせる方法


今更、手遅れかもしれませんが、まだ「Windows 10 April Update」が適応されていない場合、「Windows 10 Pro」以上のエディションの場合、インストールを遅らせる事が出来るようです。

「設定」アプリを開き、「更新とセキュリティ」→「Windows Update」セクションに移動します。

次に、「Windows Update」セクションの「詳細オプション」をクリックします。


「詳細オプション」画面を下の方にスクロールすると、「更新プログラムをいつインストールするかを選択する」という欄があります。

この設定において、機能更新プログラムのインストールを延期する日数を選択して、設定は完了します。

最大「365日」まで遅らせることが出来るようですので、不具合が出尽くしてからアップグレードする事をお勧めします。

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また、どうしても「Windows 10 Home」で機能アップデートを抑止したい場合は、そのために開発されたオンラインソフトがいくつかあります。


例えば、「Windows10 設定変更ツール」と言うフリーソフトが、よく紹介されています。

Windows 10 Home」エディションには、「Pro」に実装されている「ローカルグループポリシーエディタ」と言う仕組みが実装されていません。

このため、前述の様に、「Windows Update」等の設定を変更する事が出来ません。

そこで、「Home」エディションで「Windows Update」の制御を行いたい場合には、前に紹介した「レジストリ・エディター」を用いて、手動で設定を変更する事になってしまいます。

しかし、「素人さん」が、レジストリを変更すると、PC自体が起動しなくなったり、アプリケーションの動作が不安定になったりと、とんでもない事になってしまいます。

そこで、この「Windows10 設定変更ツール」を用いる事で、ツールが「レジストリ」の変更を行ってくれるので、自分で設定を変更するよりは、いくらかは安心です。

しかし、ツールにバグがあった場合、誤って「レジストリ」を変更してしまう可能性もありますので、そこは「自己責任」での使用をお願いします。

ツールの説明やダウンロード出来るサイトURLを掲載しておきますので、興味のある方は、ご覧下さい。

【 URL 】
http://www.asahi-net.or.jp/%7Etz2s-nsmr/WinUpdateSettings.html
https://freesoft.tvbok.com/win10/tips_and_tools/winupdatesettings.html

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また、上記、ツールを用いた「レジストリ変更が怖い」と言う場合、サービスを停止する事で、「Windows Update」を止める事も可能です。

私は、この方法が簡単なので、この「サービス停止」と言う方法で、「Windows Update」を回避しています。

「サービス停止」の方法を解説したサイトがありましたので、こちらもサイトURLを掲載しておきます。

この方法で、「Windows Update」を回避することは出来ますが、セキュリティの問題がありますので、いつかは「Windows Update」を適用しなければなりません。

この方法で「Windows Update」を停止した場合でも、この点を忘れずに対応して下さい。

【 URL 】
https://www.pasoble.jp/windows/10/jidoukousin-mukou.html

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今回は、「Windows 10 April 2018 Update 〜 貴重な時間を作り出すとは言うけれど」と題して、Microsoft社が4/30にリリースした、5回目のメジャー・アップデート「Windows 10 April 2018 Update」に関して、次の情報を紹介しましたが、如何でしたか ?

●バージョン確認方法(おさらい)
●新規機能の紹介
●Office新機能
●バグ情報の紹介
●インストールを遅らせる方法

最初にも記載しましたが、「目玉機能」は3個で、後は「小技」的な追加になってしまっているようです。

また「目玉機能」も、万人向けの機能ではありませんので、今回も「何だかな〜」と言う感じがします。個人的な感想ですが・・・

それと、今回の「Windows 10 April 2018 Update」は、開発コード「RedStone4(RS4)」として開発されていた機能である事は、最初にお伝えした通りですが・・・当然、既に「RS5」の開発も進んでいます。

『 RS4のバグが治っていないのにRS5かよ !? 』と思うかもしれませんが、「それと、これは別」なのです。

通常、ソフトウェアの開発に関しては、システム、サブシステム、そして機能毎に担当者がアサインされますので、機能が異なれば、「それはそれ、これはこれ」と言う感じに作業は進んで行きます。

次回の「RS5」、当然、リリース時の名称は決まっていませんが、次回の「RS5」が、開発コード「RedStone」を用いる最後のバージョンと伝わって来ています。

このため、次回以降、つまり2019年3月にリリースされるメジャー・アップデータにおいては、新しい開発コードが命名された上で開発が行われる事になるかと思います。


他方、この「RS5」に関しては、既に、「Windows 10 Insider Preview」向けに、「Fast ring」の提供が開始されているようです。

「Insider Preview」とは、「April 2018 Update」等と言う名称で正式リリースされる新機能を、リリース前に体験できる仕組みで、主に「Microsoftオタク」や「ITジャーナリスト」が申し込んで使っています。

そして、「Fast ring」とは、この「Insider Preview」の中でも、最も早く新機能を使うオプションとなります。

「Fast ring」は、軽い試験しかクリアしていない状況で配布されますので、動作は非常に不安定で、IT業界では、いわゆる「バグ出し」、つまり「試験を行って、わざとバグを出す」事を目的として提供されます。

このため、本当に「Microsoft好き」の人間しか、使わないオプションです。

そして、「RS5」向けの「Fast ring」では、次の様な機能が提供され始めたようです。

・「Windows Defender セキュリティ センター」のデザインが改善
・「設定→時刻と言語」のページに新たに「地域」が設けらた
・プライバシー設定でのマイクが無効化対応強化
・「画面スケッチ」機能の強化

なお、次回の「RS5」では、今回の「April 2018 Update」で提供された「Timeline」の拡張機能とされる「Sets(仮称)」と呼ばれる機能が、「目玉機能」として取り上げられているようです。

現在の「Timeline」は、「タスクビュー」の様に「アクティビティ(活動)」を表示すると紹介しましたが、この「Sets」では、作業をWebブラウザの様に、「タブ」でまとめて管理出来るようです。

「Sets」に関しては、当初「RS4」の「Insider Preview」に登場したのですが、「A/Bテスト」の結果、人気の無さから「RS4」からは削除されてしまった様ですが、「RS5」で復活したようです。


Windows Update」や「Microsoft社」に関しては、また新しい情報が入ったら、逐次紹介したいと思います。

それでは次回も宜しくお願いします。

以上

【画像・情報提供先】
Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)
・Japan Windows Blog (https://blogs.windows.com/japan/author/japanwinblog/)
ぼくんちのTV別館(https://freesoft.tvbok.com/)
・パソブル(https://www.pasoble.jp/)

早池峰信仰と瀬織津姫命 〜 謎多き姫神に触れる その1


今回は、「早池峰信仰と瀬織津姫命」と題して、謎多き姫神瀬織津姫命」と「早池峰信仰」との関係や、その背景となる「安倍氏」や「熊野信仰」との関係などについて紹介したいと思います。

今回の内容であれば、本来は、弊社ブログの中でも「民間信仰」シリーズとして紹介すべき内容だと思います。

民間信仰」シリーズに関しては、約4ヶ月前に「乳神様信仰」を、前後2回に別けて紹介しましたが、それ以外にも「オシラサマ」や「金勢様信仰(全5回)」を含め、約30項目もの民間信仰を紹介して来ました。

本当に、「これでもか!!」と言うくらい、岩手県内に伝わる民間信仰を紹介して来ましたので、もう「絞っても何も出ない、ボロ雑巾」の様な状況ですが、何とか新しい情報をお伝えします。

そんな中でも、「早池峰信仰と瀬織津姫命(せおりつひめ-の-みこと)」の関係については、その内容の多さや深さから、前述の「金勢信仰」と同様、別立てにした方が良いと思い、敢えて、「民間信仰」シリーズから分離する事としました。


他方、「早池峰信仰」に関して、実は、下記の過去ブログでも「早池峰信仰」を取り上げた事があります。

★過去ブログ:岩手県の山岳信仰 その1 〜 本当に不思議な山ばかり

このブログの中では、早池峰神社は、実は一つではなく4ヶ所も存在する事や、「遠野物語」の第2話に登場する早池峰の女神の伝説等をご紹介しました。

この時に、「早池峰の女神」は、「瀬織津姫命」を母神とする三女神である事を紹介したのですが・・・この「瀬織津姫命」と言う女神様、とても謎めいた神様で、現在、古代の神様で、唯一と言って良い程、その正体が解らない謎めいた神様となっているようです。

そこで、今回は、特別に、再び「早池峰信仰」を取り上げると共に、この「瀬織津姫命」に関しても、少しだけ詳しく紹介したいと思います。

瀬織津姫命」に関しては、それだけで、本を数冊書ける程、凄い情報量があります。

このため、とても全ての情報をご紹介する事は不可能ですので、さらっと、表面的になってしまいますが、それでも、次の様な情報を、【 前・中・後 】の3回に別けて紹介したいと思います。

【 その1 】
山岳信仰とは
早池峰信仰とは
早池峰神社とはjavascript:void(0)

【 その2 】
●どこが本院なのか ?
●「瀬織津姫命」が御祭神の神社
●「瀬織津姫命」とは何者なのか ?

【 その3 】
●「安倍氏」との関係
●「熊野権現」と「瀬織津姫命」との関係


それでは今回も宜しくお願いします。

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山岳信仰とは


最初に、「山岳信仰」に関して、軽く復習してみたいと思います。

早池峰山に関する情報は、前述の過去ブログを含め、下記の情報を参考にして貰えればと思います。

【 過去ブログ 】
岩手県の山岳信仰 その1〜本当に不思議な山ばかり
岩手県内の山開き

また、「山岳信仰」と言う物の考え方に関しても、その生い立ちから現在に至るまでの一般的な考えられ方を、過去ブログ(岩手の山岳信仰)に記載していますので、このブログのプロローグ部分をご覧頂ければと思います。

この中では、原始社会における「山」とは、ご先祖様が死後に向かう場所、そしてご先祖様が「先祖霊」として滞在する「聖域」として、信仰の対象となった事を紹介しました。


ところが、それ以降、奈良時代には「修験道」、平安時代に「仏教」が浸透すると、これら3つの信仰が習合し、「山岳信仰」と呼ばれる信仰が生まれる事になりました。

このため、当初は、主に、「山」周辺の住民にとっての聖地だった「山」が、時代を経る事で、「先祖霊」だけではなく、様々な「神様」までもが住む「山」に変貌を遂げて行く事になります。

通常、「山岳信仰」として崇拝される「山」には、次の様な「神様」がいらっしゃると考えられています。

・山の神 :「先祖霊」が神様に昇格し、春になると里に降りて来て「田の神」になる。それ以外、例えば林業を生業とする「木こり」にとっての神様ともなる。
・火の神 :主に火山が対象で、噴火を恐れる山麓の住民により祀られる神様です。
・水の神 :山が貴重な水の「水源」と考えられ、山麓で「農業」を営む者によって祀られる神様です。


このように、自然物である「山」、「太陽」、「雷」、「大地」、「木」、「火」、そして「水」等を崇拝する行為は、「自然崇拝(physiolatry )」とか「アニミズム(animism)」とか呼ばれています。

そして、日本の神道では、古くから崇拝の対象となってきた、これら自然物の中でも、特に巨大な自然物となる「巨岩」、「巨木」、そして、今回の「早池峰山」のように「山」をご神体として来ました。

弊社過去ブログでも、「巨石」をご神体「磐座(いわくら)」として祀っている多くの神社なども紹介しています。

【 過去ブログ 】
岩手県内の巨石の紹介 - その1 〜 何故か岩手に巨石が多い
その2 〜 何故か岩手に巨石が多い

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他方、上記の神様とは別に、「山」を信仰の対象とする場合でも、「神様そのものが降り立った山」として信仰するケースも数多く見受けられます。

この場合の「山」は、神様が降り立った場所ですので、特に、標高が高い必要はありません。その辺りの、小高い「山」や「丘」でも十分です。

この考え方は、「古事記」や「日本書記」等、「記紀(きき)」と呼ばれる、大和政権成立後に編纂された「神話」がベースになっていると思われます。→ 三輪山高千穂峰船通山鞍馬山

元々、日本には、具体的な名前が付いた神様等は存在せず、上記の通り、「山の神」とか「田の神」等と言う、抽象的な呼び方をされる神様しか存在しませんでした。

ところが、大和朝廷成立後、「天皇」の正当性を裏付けるために、「伊邪那岐/伊邪那美」の両神を始めとした神様が創作され、それに連なる形で「天照大神(アマテラス)」、「月読尊(ツキヨミ)」、そして「須佐之男(スサノオ)」等の三貴子、さらには「八百万の神様」と呼ばれる数多くの神々が誕生する事となります。

他方、「神様」がいらっしゃる場所ではなく、次の様に、「死者」が集まる場所として信仰される「山」も現れます。→ 恐山、月山、熊野三山

このように、日本において信仰の対象となる「山」は数多く存在し、前述の過去ブログで紹介した通り、岩手県内にも、多くの信仰対象の「山」が存在します。

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このように「自然崇拝」、「修験道」、そして「仏教」が習合して生まれた「山岳信仰」ですが、その内の「仏教」には、様々な宗派が生まれ、「十八宗」とか、「十三宗五十六派」とか、もうゴチャゴチャになっていることは、皆さんもご存知だと思います。

現在においては、私のように、美術/芸術としての仏教以外には、何の興味も無い人間にとっては、『 どこの宗派に法要を依頼しても変わらないだろう ?! 違うのはお布施の金額だけか ? 』等と思うのが普通だと思います。

まあ、中には、天台宗のように「千日回峰行」等と言う、とてつもなく厳しい修行を行っている僧侶の方々もいらっしゃいますが、その辺の住職は、どこも変わりがないのでは、と思ってしまいます。

他方、「修験道」に関しては、私の周辺には、と言うか、皆さんの知り合いにも、「修験道」を行っている人はいないと思いますので、実際の所、「修験道」が、どうなっているのか等、全く解らないと思います。

そこで、今回、話のついでに、少し「修験道が、どうなっているのか ?」を調べてみたのですが、何と、「修験道」にも、派閥があるらしい事が解りました。

私が調べた所、「修験道」には、大きく、次の3つの派閥があるようです。

●本山派:三井寺聖護院を本寺とする天台系修験道。別名「三井修験」とも呼ばれる。
●当山派:醍醐寺三宝院を本寺とする真言修験道
●羽黒派:出羽三山で修行を行った修験道

そして、これら3つの派閥が、それぞれ山中に修行の場となる寺院を建立し、その近所の住民を巻き込んで「山岳信仰」を広めて来たとされています。

ところが、これが江戸時代になり「寺請制度」や「領国制」が取り入れられる様になると、だいぶ事情が変わってしまったようです。

つまり、派閥間の「陣取り合戦」が始まり、お互いに『 この村の住民はウチの縄張りだ ! 』と言う争いが始まり、遂には、修験道内部の派閥抗争だけに留まらず、幕府や藩、それに配下の寺社奉行とか地頭等を巻き込んだ、凄い争いになってしまったそうです。

ちなみに、修験道の縄張りを、「霞(かすみ)」と呼んでいるそうですが、全国各地で、この「霞」と言う知行を巡る争いが勃発していたようです。

「何故、縄張り争いが始まってしまったのか ? 」と言う点に関しては、その理由は明白です。


それぞれの派閥では、各地に「先達(せんだつ)」と呼ばれる寺院を設け、山に登る際に案内を行なう山伏を配置していました。

そして、これら「先達」寺院では、麓の住民から、様々な施しを受けて生活をしていましたし、「早池峰神社(当時は新山宮)」などの有名な寺院は、地元有力大名から寺領を賜っていました。

このため、多くの「先達」や「村」を支配下に治めると、それだけ多くの「上前をはねる」、つまり汚い言葉では、「ピンハネ」する事が出来ました。

そして、これら「ピンハネ」した施しを、地頭や寺社奉行に「賄賂(ワイロ)」として渡すことで、様々な便宜を図ってもらっていたので、もう法も秩序も無い状況になってしまったようです。

何となく、「修験道」は、「仏教」とは異なり、「醜い争い」等は行わないイメージがあったのですが・・・結局は、同じ人間が行なう事なので、結局は、「醜い争い」を起こしてしまうのだと思います。

本当に、何のための仏法や修験なのでしょうか ?

江戸時代の南部藩の古文書によると、南部藩では、距離的近さが影響したと推測されますが、当初は「羽黒派」の影響力が強かったそうです。

しかし、それ以外の派閥では「本山派」も健闘したようで、江戸時代末の「嘉永5年(1853年)」の書上によると、羽黒派の「霞」は24箇所、本山派の「霞」は26箇所と、逆転を許してしまっていたようです。

具体的には、他派閥の「霞」を、自分達の「霞」であると主張したり、あるいは他派閥の「山伏」を奪い取ったりと言う、とんでも無い事が行われるようになったそうです。

今で言う「ヘッドハンティング」も行われていたようです。

このため、「霞」を取られたり、「山伏」を奪われたりした派閥は、これらを訴状にして、寺社奉行に訴えた事が記録として残されています。

全く・・・時を経ても、人間が行う行動は、全く変わらないようです。

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早池峰信仰とは


そして、今回、再登場した「早池峰山」ですが、当然、「山の神」、そして「水の神」がいらっしゃる聖地として信仰されてきましたが、岩手県内陸部に存在するにも関わらず、珍しく、三陸海岸で暮らす漁師からも、「漁業の神様」としても信仰されていたようです。

この点に関しては、過去ブログでは、詳しく調査しなかったので、中途半端な内容となってしまっていました。

早池峰山」は、標高1,917mと、北上山地の最高峰となっていますが、三陸海岸までは、一番近い山田湾や宮古湾まで、40数kmも離れています。

このため、「何で、漁師が内陸にある山を拝むのか ?」と、私を含め、大抵の方は疑問に思うはずですが、次の様な理由があると言われています。

理由1:その昔、遠野郷は三陸沿岸まで拡がっており、その関係で漁師も早池峰山を拝むようになった。
理由2:三陸沿岸の漁師が、早池峰山を漁場の目印に使用していた。

漁師までもが「早池峰山」を信仰している理由の内、理由1に関してですが、現在、「大槌(おおつち)湾」を有する、上閉伊郡大鎚町一帯は、その昔、「大槌氏」と言う一族が治めていた場所でした。

そして、この「大槌氏」は、鎌倉時代から安土桃山時代まで、遠野郷を支配していた「阿曽沼氏」の支族と伝わっていますので、遠野郷に、三陸海岸沿岸が含まれていたと言うのは事実だと思われます。


また、理由2に関しても、三陸海岸には、「早池峰講」の石碑が現在でも数多くの残っており、また船舶の名前に、「早池峰丸」と名付けている船も数多く存在する、と言う報告もあります。

さらに、遠野のタウン情報誌「パハヤチニカ」の2000年10月号「早池峰特集」には、三陸海岸の漁師の話として、次の様な話が掲載されていました。

『 うんと沖合に出ると早池峰が見える 』
『 船頭に「あれが早池峰山だ」と教えられ、それ以来、毎朝早池峰山に向かい、ご飯釜の蓋に御飯を載せ「早池峰さん」と三回拝み、その日の海上安全と大漁を願うようになった。 』

まあ、確かに、宮古、そして釜石沿岸であれば、「早池峰山」と三陸海岸との間には、「早池峰山」より高い山は存在しないので、肉眼か望遠鏡かは別として、海から「早池峰山」は見えると思います。

このように、「早池峰信仰」は、内陸のみならず、三陸海岸各地にまで拡がっていたようです。


ちなみに、先のタウン誌の雑誌名「パハヤチニカ」ですが、これは、「アイヌ語」で「早池峰山」を表しているとされています。

早池峰山」と言う呼び方の語源には諸説あり、その一つに「アイヌ語語源説」があります。

「パハヤチニカ」は、アイヌ語で、「パハ:東」、「ヤ:陸」、そして「チニカ:脚」となり、それを結合すると『東方の陸の脚』になるそうです。

そして、これを、日本語に訳すと『 この先には、これ以上高い山は無い 』と言う意味になるそうです。

早池峰山」の語源説には、その他にも、山の形を現す別のアイヌ語や、漁師の呼び名「疾風(はやち)」からとか、山頂にある池「開慶水(かいけいすい)」の別名「早地(はやち)の泉」とか・・・キリが無いようです。

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さらに参考までに付け加えますと、「早池峰山」は、最初から「早池峰山」」と呼ばれていた訳ではないようです。

その昔、江戸時代中期、「延享2年(1745年)」頃に編纂された「閉伊郡遠野東岳開基」には、古くは「あずまねだけ(東根岳、東子岳、東岳、等)と呼ばれていた事が記載されているそうです。

これらは、後に「東根嶽」や「東子嶽」とも表記されたそうですが、何れも「当て字」だったようです。

「あずまねだけ」と言う名称の起源は不明との事ですが、有史以前、石器時代にこの地方に住んでいた祖先が呼んでいた呼び名に対して、その後、漢字を知る者がきて、それにふさわしい「東根岳(東子、東)」の文字を当てたのではないかというと言う説が通説となっているようです。

また、元々、何時の頃の事なのかは解りませんが、この「あずまね」と言う地名ですが、北上川を中心線として、東側を「あずまね」、そして西側を「にしね」と呼んでいた時期もあったそうです。

確かに、現在は、合併により「八幡平市」と言う名称になってしまいましたが、その昔、平成17年(2005年)までは、岩手山山麓に「西根町」と言う自治体も存在していました。

それでは、何時頃から「早池峰山(早池峯山)」と呼ばれるようになったのか、と言う事ですが・・・これも諸説あり、異なる説が伝承されているようです。

・大迫側「早池峯神社」 :平安時代初期、「大同2年(807年)」説
・大迫側「田中神社」 :鎌倉時代中期、「宝治元年(1247年)」説
・遠野側「早池峯神社」 :南北朝時代、「暦応2年(1339年)」説

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また、「早池峰信仰」と言えば、必ずと言って良い程、「神楽(かぐら)」が関係してきます。

そして、現在、「早池峰神楽」と呼ばれてますが、実は、この「早池峰神楽」とは、花巻市大迫(おおはさま)町にある岳(たけ)地区に伝わる「岳神楽」と、同じく大迫町の大償(おおつぐない)地区に伝わる「大償神楽」の二つを合わせた総称となっています。

これら二つの神楽は、元々は、別々に始まったものと考えられていますが、昭和31年(1956年)に、県の重要無形民俗文化財に指定する際、「岳神楽」と「大償神楽」のルーツが同じで、かつ共通の特徴があるという理由から、共に「早池峰神楽」として登録したそうです。

そして、その後は、昭和50年(1975年)には、やはり「早池峰神楽」と言う名称で、国指定重要無形民族文化財の第1号に認定され、さらに平成21年(2009年)には「ユネスコ無形文化遺産」にも登録されています。


さて、この「早池峰神楽」、残念ながら、文書による記録資料等は現存していないようです。

しかし、西登山口にある「早池峯神社(池上院妙泉寺)」には、安土桃山時代となる「文禄4年(1595年)」と言う銘が書かれた獅子頭があります。(現在:大迫郷土文化保存伝習館にて保存展示)

そして、この「岳神楽」」は、毎年、「早池峯神社(池上院妙泉寺)」に奉納されています。

他方、「大償神楽」の方ですが、こちらは「早池峯神社」ではなく、地元の「大償神社」に奉納される神楽になります。


そして、「大償神楽」に関しては、「早池峯神社」、それと「大償神社」、さらに、もう1社「田中神社」と言う3つの神社が複雑に絡んで来ます。

「早池峯神社」の由緒/縁起に関しては、少し複雑なので、次章にて詳しく説明しますが、大迫側の縁起に因りますと、「早池峯神社」の「奥宮」の創建は、平安初期の大同2年(807年)、「藤原兵部卿成房」と言う人物が創建した事になっています。

その後、この「藤原兵部卿成房」と言う人物は、故あって「山陰(やまかげ)成房」、あるいは「田中成房」と言う名前に改名しているようです。

その結果、「早池峰神社」、「大償神社」、および「田中神社」の関係は、次のようになっているようです。

「早池峯神社」 :大迫側「早池峯神社」の里宮
「田中神社」 :大迫側「早池峯神社」の里宮
「大償神社」 :「田中神社」の別当

そして、「大償神楽」に関しては、「早池峯神社」の開祖「田中成房(山陰成房)」が創立した「田中神社」の神主から、「大償神社」の別当に伝えられたと事になっています。


また、「大償神社」には、今回、実物は見つける事は出来ませんでしたが、戦国時代となる長享2年(1488年)に、「山陰家」から伝えられたと言われている「神楽伝授書」があるとされているようです。

これらの事を整理しますと、花巻市大迫町に伝わる「早池峰神楽」は、「大償神楽」の方が100年程早く始まり、遅くとも戦国時代には、既に、神楽が奉納されていた事になります。

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元々、「神楽(かぐら)」と言う言葉の語源は、「神座(カムクラ/カンザ)」が転じた言葉と言われています。

そして、「神座」とは、『 天上の神々が降りられた際に身を宿らせる所 』という意味になります。

このため、当初「神座」とは、、高い峰や巨木などの自然物を指した様ですが、次第に、神社などの人工物を指すようになり、さらには、「巫女」が神託を告げたりする行為、そして最後には、面や装束を身に付けた舞人そのものをも「神座」と見なすようになり、そこで行われている歌舞を「神楽」と言うようになったと考えられています。

「神楽」の起源としては、記紀に伝わる「岩戸隠れの段」における、「天宇受売命(アメノウズメ)」が神懸かりして踊った舞が、「神楽」の起源とされています。

そして、「早池峰神楽」に関しては、その起源は、前述の大迫側の里宮「早池峰神社(池上院妙泉寺)」の創建が、鎌倉時代となる「正安2年(1300年)」と伝わっており、当時の修験道の山伏が行った「祈祷の舞」が神楽となったともいわれています。

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「岳神楽」と「大償神楽」は、「表裏一体の兄弟神楽」と言われています。

大償の山神面は口を開けた「阿(ア)」であるのに対して、岳の面が口を閉じた「吽(ウン)」の型をしています。

演目に関しても、「式舞」、「式外の舞」、「狂言」等、ほぼ同じになっているそうです。

強いて違いを挙げるとすれば、両神楽のテンポが異なると言う事らしいのですが、この違いは、古来、大償神楽は7座(7曲)だったのに対し、岳神楽は5座(5曲)だった事に起因すると言う説もあるようです。

さて、これら「早池峰神楽」と信仰の関係ですが、前述の通り、里山の人々は、「早池峰山」を霊山、そしてと神が宿る山と考えて畏れ敬っていました。

このため、「早池峰山」」に対して、「神楽」を奉納することで、より多くの「ご利益(ごりやく)」が得られるよう、また日々の暮らしが安泰になるよう祈願することは当然だったと思われます。

加えて、神仏の化身とされる「権現様」と呼ばれる獅子頭を「早池峰山」に奉じるために舞う神楽衆に対しても、「特別な能力を持つ集団」という認識を持っていたようです。

このため、神楽衆に対しても、次の様な事が言われていたと伝わっており、これも、「早池峰信仰」の一種だと思われています。

「神楽衆の白足袋を洗ったり、お世話をしたりすると御利益がある」
「若い嫁の着物を神楽の時に着てもらうと、安産に恵まれる」

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ちなみにですが、「早池峰神楽」が登録されているユネスコの「無形文化遺産」ですが、同じくユネスコが認定する「世界遺産」とは、全く別の代物です。

ユネスコが認定する「遺産」には、次の2種類がありますが、それぞれ別の「遺産」なのです。ところがメディアや官公庁までも誤解しているように見受けられます。

世界遺産 :「World Heritage」。文化遺産、自然遺産、複合遺産の3種類から成る有形遺産。
無形文化遺産 :「Intangible Cultural Heritage」。保護すべき各国の芸能や祭礼、伝統工芸技術。

平成26年(2014年)に、「和紙 日本の和紙技術」も、この「ユネスコ無形文化遺産」に登録されたのですが、ニュースや新聞、およびこの活動を推進した農水省などは、これを「世界無形文化遺産」と表現していました。

しかし、前述の原語を見て解る通り、「無形文化遺産」には、「World:世界」と言う単語は使われていません。

メディアや官公庁は、言葉を正しく使う義務があると思いますし、皆さんも、「無形文化遺産」を紹介する時には、(余計なお世話かもしれませんが)誤解しないよう気を付けた方が良いかと思います。


また、これも、ちなみにですが、寺社/神社関係の話になると「別当」という言葉が、よく登場します。

この「別当」とは、単純に考えると、「本職の他の別の職」となりますが、もう少し詳しく説明しますと、奈良時代から、「神仏習合思想」により、神社に付属する寺が、神社境内、あるいは神社近辺に建てられました。

そして、こうして建てられた寺は、「宮寺」とか「神宮寺」と呼ばれ、そこで働く僧侶は「社僧」と呼ばれ、神前でお経を読んだり、あるいはご祈祷をしたりして、神様にお仕えしました。

そして、「社僧」の内、他に本職があり、兼ねて「別」の任に「当」たる社僧が現れ、このような「社僧」の事を「別当」とよばれる役職に任命したことから、「別当」と言う言葉が生まれたそうです。 

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早池峰神社とは

さて、このように、古くから信仰の対象となってきた「早池峰山」ですが、これまで何度も紹介した通り、その山麓には、4つの「早池峰神社」があります。

●東登山口(宮古市江繋) :元・新山堂
●西登山口(花巻市大迫町) :元・池上院妙泉寺
●南登山口(遠野市附馬牛町) :元・持福院妙泉寺
●北登山口(宮古市門馬) :元・新山大権現

これら、東西南北4つの登山口にある「早池峰神社」ですが、残念ながら東登山口と北登山口の「早池峰神社」、特に北登山口の「早池峰神社」の衰退は激しいようです。

また、調べた所、東登山口には、その昔は、現在「早池峰神社」とされている場所とは別の場所にも関連施設があった事が解ったのですが・・・こちらの衰退も激しく、昔の面影など微塵も感じられない状況になっているようです。

ところが、その逆に、西登山道「池上院妙泉寺」と南登山道「持福院妙泉寺」は、今でも、それぞれの地域において、熱心に信仰され続けているようです。

この西と南の両「早池峯神社」、江戸時代には、どちらも『 こっちが元祖「早池峯神社」だ! 』と名乗り合い、100年近くも争った、醜い歴史があるようです。

このように、それぞれが、古くから信仰の対象となってきた「早池峰神社」ですが、数ある「早池峰神社」は、何時頃、創建されたのかを紹介します。

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●東登山口(宮古市江繋)

東登山口の「早池峰神社」は、現在の「宮古市江繋(えつなぎ)」と言う場所にあります。

JR東北線紫波中央駅」から、JR山田線「宮古駅」に向かう、県道25号線紫波江繋線と呼ばれる道の脇に鎮座しています。

この場所は、現在は「宮古市」となっていますが、平成22年(2009年)までは、「下閉伊郡(しもへいぐん)川井村」と呼ばれる村でした。


また、この東登山口の「早池峰神社」が鎮座する辺りは、「タイマグラ」と呼ばれており、直ぐ近くには、「タイマグラキャンプ場」と言う名称の施設もあります。

日本語で表記すると「大麻座」とか「大麻倉」になるそうですが、これも「当て字」なのだそうです。

タイマグラ」とは、アイヌ語で「森の奥へと続く道」という意味のようです。

しかし、この地域は、戦後に開拓されたトンデモナイ山奥の地域で、昭和63年まで、電気も通っていなかったそうです。

このように、一般に、東登山口の「早池峰神社」と言えば、この「江繋の早池峰神社」が、それに該当すると言われています。


ところが、詳しく調査して見たところ、東口には、実は、この「江繋の早池峰神社」とは別に、「小国(おぐに)の早池峰神社」とか「関根の早池峰神社」と呼ばれる「早池峰神社」も存在していることが判明しました。

その昔、平安時代の中後期に修験道が始まった頃には、東登山口を含め、それぞれ東西南北の登山口には、修験者(山伏)が「院防」と呼ばれる修行を行うための施設(里宮)を造り、独自の修行を行っていました。

そして、東登山口近辺には、次の様な各種施設が建立されていたようです。

・新山宮(堂) :江繋の早池峰神社。現在、東登山口「早池峰神社」と呼ばれている。
・善行(ぜんぎょう)院 :小国村関根にあり天台宗門派で不動明王を本尊とした寺院。「行屋(ぎょうや)」と呼ばれる「宿」も兼ねていた。
・(関根)早池峰神社 :同じく小国村関根にあり、善行院における早池峰山の「遙拝所」だったと推測されている。


前述の通り、各登山口では、「御坂里宮」として神社が建ち、山頂には「奥宮」として御堂を建て、修験者や聖職者たちにより、密教系の神仏が勧請されるなど信仰は複雑に絡み合っていたようです。

そして、この「小国善行院」も、「遠野妙泉寺」の支配先として、小国元村、大槌、金沢、山田地方、等を信仰圏にしていたと考えられているようです。

ここ「善行院」の由緒/縁起には諸説あり、一説では、平安時代初期となる「延喜11年(927年)」に、初代「浄貞院」が、早池峰山小国掛所に「新山堂」を開き、その名称を「善行院」としたのが始まりと伝えられています。

その後、江戸時代になると、「善行院」は、小田越峠を経て登山する「江繋御坂」、つまり、現在の東登山口一帯を支配し、『 この坂を経由して早池峰山参拝を行なう場合には、小国村の善行院の修験者「円鏡坊」が必ず先達をせよ。 』という藩命が下っていたとも伝わっています。

ちなみに、「江繋の早池峰神社」とも呼ばれる東登山口「早池峰神社」に関しては、由緒/縁起などは、一切解りませんでした。

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●西登山口(花巻市大迫町)

次に、西登山口、花巻市大迫にある「早池峯神社」を紹介します。

今日、一般的に「早池峰神社」と言うと、この花巻市大迫町にある神社を、「早池峰神社」と呼んでいるケースが多いようです。

この場所は、前述の東登山口、「江繋の早池峰神社」から、県道25号「紫波江繋線」を、西に約20km、車で30分程度進んだ場所にあります。

これも前述の通り、4つの登山口にある「早池峰神社」が、「我こそが本当の早池峰神社」と争って来た訳ですが、江戸時代に入り、南部氏が早池峰山一帯を支配下に治めて以降は、「大迫の早池峯神社」が、大きくは、次の理由から優勢になってしまったようです。

・南部氏の居城がある「盛岡」から近い
盛岡城が落城した場合、三陸沿岸の宮古に逃げる際の砦(要塞)と位置付けられた
・盛岡の城下町に、広大な領地を賜り、宿坊(宿寺)を建立する事が出来た

その昔、「南部氏」が早池峰山一帯を支配下に治める前、鎌倉時代から安土桃山時代までは、「早池峰信仰」の章で説明した通り、遠野近辺は、下野国(現:栃木県)から下向した「佐野氏」系の一族となる「阿曽沼氏」が支配していました。

このため、実は、江戸時代以前は、後述する南登山口「遠野の早池峯神社」の方が、優勢を誇っていたと伝わっています。

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さて、そんな「大迫の早池峯神社」ですが、こちらも「早池峰信仰」の章で軽く説明しましたが、平安時代が始まって2年後の「大同2年(807年)」、「大化の改新」で有名な「藤原鎌足(旧姓:中臣)」の末裔「藤原兵部卿成房」と言う人物が、「大迫の早池峯神社」の開祖と伝わっています。

しかし、この「藤原兵部卿成房」自体は、現在の「早池峯神社」を創建したのではなく、その前身となる「田中神社」を創建した人物です。

「田中神社」側の由緒説明によれば、大同2年3月、大迫側は「藤原兵部卿成房」が、そして遠野側では猟師「四角(後に始閣と改称)藤蔵」と言う二人の人物が、それぞれ別々に、早池峰山山麓で狩猟をしていたところ、額に金星のある白鹿が現れたそうです。

二人は、別々に白鹿を追い、同時に早池峰山の山頂に辿り着いてしまったそうですが、到着と同時に白鹿は忽然と姿を消してしまったそうです。

これを瑞祥と感じた「成房」と「藤蔵」は、お互いに話し合い、山頂に「お宮」を建立しようと言う事になったのですが、まだ雪深い山頂に「お堂」を建立するのは無理があるので、雪解けの頃に再び山頂に来て「お堂」を建てよう、と言う事になったそうです。

そこで、二人とも、狩猟の道具を山頂に残したまま下山し、雪が溶けた6月、(当時はまだ東根獄)に登り、「お堂(一宇)」を建立したのが、東根獄(早池峰山)開山の起源とされています。


その一方「成房」は、3月に早池峰山から下山した後、3月8日、早池峰山山麓の「真中(だだなか)」と言う場所に一宇を建立すると共に、「瀬織津姫命」を勧請し、自らが神主となって「東根獄里宮真中大明神」と称して祭祀を行ったと伝わっています。

その後、「藤原兵部卿成房」は、訳あって「山陰氏」と改名し、現在「田中神社」の神主を務める「山陰氏」の始祖となったと伝わっています。

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そして、さらにその後、時が経過し、年代は不詳ですが、言い伝えによれば、鎌倉時代の初期、西暦1200年代初頭、諸国を巡っていた「快賢」と言う僧侶が早池峰山に登った際、山に神仏の気配を感じた事から、下山した後、この地(大迫の岳地域)に「お堂」を建立したそうです。

「快賢」は、山頂にも新たに「お堂」を建てて「若宮」とし、十一面観音を安置し、さらには 古くからあった「お堂」も建て直して「本宮」と呼んだと伝わっています。

山麓の「お堂」は、後に、周辺の住民から「河原の坊」と呼ばれるようになったそうですが、同じく鎌倉時代中期の「宝治元年(1247年)」に、当時「白髪水」と呼ばれた洪水に流されてしまったそうです。

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しかし、この洪水から50年くらい経過した「正安2年(1300年)」、修行をしながら諸国を行脚していた越後出身の真言密教の「円性」と言う僧侶が、早池峰山に参詣した後、山に篭って修行を行っていたそうです。

ところが、ある夜、夢に「早池峯権現」が現れ、『 (河原の坊があった)昔のように、山麓に御堂を再興せよ。 』というお告げがあったそうです。

このため、「円性」は、山麓の「岳」に留まり、「河原の坊」を再興し、再び十一面観音を安置し、「新山宮」と名付けたと伝わっています。

そして、「円性」は、さらに山門やお堂を建立し、「早地峯大権現別当妙泉寺円性」と称えたそうですが、これが現在の「大迫の早池峯神社」の基となっています。

当時は、登拝のために山に向かう人々は、 「河原の坊」で新しい草鞋に履き替えるのが習わしとなっていたとも伝わっています。

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ところが、戦国時代となる「文亀元年(1501年)」、さらに「永禄3年(1560年)」に起きた二度の火災により、多くの堂宇を消失したことから、この「池上院妙泉寺」も衰退してしまったそうです。

当時、この花巻市付近は、「稗貫(ひえぬき)郡」と呼ばれ、鎌倉時代から安土桃山時代までは、「稗貫氏」一族が支配していましたが、「天正18年(1590年)」に行われた豊臣秀吉の「奥州仕置」により、領地没収となり、「稗貫氏」は没落してしまいます。

しかし、その後、同じく「奥州仕置」で領地を没収された「和賀氏」と一緒に、領地奪還を目論む「和賀・稗貫一揆」を起こし、一時は「稗貫氏」が領地を奪還したそうです。

しかし・・・翌年となる天正19年、最終的には、「豊臣秀次」を総大将とした、下記のような有力武将で編成した3万人にも上る「奥州再仕置軍」により、上記一揆を始めとした複数の一揆や反乱は鎮圧されたそうです。(和賀・稗貫一揆葛西大崎一揆九戸政実の乱)
徳川家康上杉景勝大谷吉継前田利家/利長、石田三成佐竹義重伊達政宗最上義光、etc.

その後、この花巻市近辺は、「南部信直」の領地となった事から、「早池峰山」は、盛岡城の「東を鎮護する山」として、さらに信仰の対象となっていったようです。

ちなみに、「盛岡城」を鎮護する「南部の四鎮山」として、次の山が信仰されていたそうです。(※当初「三鎮山」だったものに後に1個を加えて「四鎮山」としたと言う説があります。)

岩手山(岩鷲山) :岩鷲(がんじゅ)山権現
姫神山 :姫神大権現
早池峰山 :早池峯大権現
・新山 :新山大権現(※後に追加)

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そして、上記「南部信直」の息子、盛岡藩初代藩主「南部利直」が、江戸時代初期となる「慶長13年(1609年)」、藩内を巡視した際に、「大迫の早池峯神社」に参詣すると共に、社領150石を寄進し、さらに信仰を深めたとされています。

その証拠に、翌、慶長14年〜17年、3年にも渡る大改修に着手し、衰退していた「早池峰神社」を修復すると共に、新山堂、薬師堂、本宮、舞殿、および客殿等を新築しました。

また、前述の通り、「南部利直」は、万が一、盛岡城が落城した場合、盛岡から宮古に逃れる計画を立案し、宮古に落ち延びる際、この「早池峰神社」を一時的な「砦(要塞)」として用いようと考え、周囲には鉄砲狭間、矢狭間を穿った築地塀と櫓門を備える等、要害普請も施されました。

このような性格を持たされた事もあり、「早池峯神社」は、盛岡藩から手厚い保護を受け、盛岡城下には、2万8000坪もの広大な面積の宿寺を賜り、さらに「京都御室御所仁和寺」の直末寺となる等、領内安全、天下泰平、そして請願成就の祈願所として、非常に繁栄したそうです。

しかし、時代が変わり明治になると状況は一変、明治3年、神社と号を改称しましたが、廃藩置県に伴う禄の打ち切りや神仏分離令の影響で廃寺となり、一部を除いては破壊されたのですが、「新山宮(堂)」だけは、神社として地元民の信仰に支えられ、今日まで持ち堪えてきたようです。

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さて、「大迫の早池峯神社」の基となった「真中明神」ですが、宮司が「藤原氏」だったのが、訳あって「山蔭氏」となったことは説明した通りです。

また、神社の名称も、途中で改称しています。

「山陰家第三十九代」の頃、この「真中」にも水が引かれ、水田が開墾された事から、「真中明神」を「田中明神」に改めたそうです。

そして、この「田中明神」も、明治時代になって神仏分離令が発布された事により、神号を「田中神社」に改称したと伝わっています。


それと、「河原の坊」が「白髪水」と呼ばれた洪水で流された事も紹介しましたが、この「洪水」の規模は凄まじく、実は、「河原の坊」だけでなく、山頂にあった「奥宮」も流されたと言われています。

それでは、何故、この「大洪水」を「白髪水」と呼ぶのかも説明しておきます。

この「河原の坊」が流された災害に関しては、「大洪水」が起きる前触れとして、白髪の老人が洪水を予告したとか、、あるいは白髪の老人が川の上を下って来た、という言い伝えがあったそうです。

付近には、この「河原の坊」が流された事件に関して、次の様な伝説が伝わっているそうです。

【 白髪水伝説 】
快賢は、ある晩、河原の坊で囲炉裏の周りに餅を並べて焼いていたそうです。

その時、どこからともなく一人の山姥が入ってきて、餅を片っ端から食べ、徳利の酒まで飲んでしまった。

そんなことが数日続いた後、快賢は、河原で餅のような白く丸い石を拾い、日暮れ頃から火の中に入れて囲炉裏の周りに並べた。

徳利には酒の代わりに油を入れた。

山姥は焼け石を食べ、油を飲み、体中に火が回って焼けただれてしまった。

恐ろしい形相で空へ飛び去りながら、「後で必ず思い知らせてやる」と叫んで消え失せた。

それから、七日七夜にわたって、大雨が降り続き、水かさは増して谷間に溢れ、逆流し、たちまち山野は大洪水に見舞われた。

この時、岳川の荒波の上を、白髭の翁が歌いながら流れていくのを見た人たちは、大洪水は翁の仕業と噂をしたものだと云う。

この伝説が元となり、この時の「大洪水」を、『 白髪水 』と呼ぶようになったそうです。


さて、「大迫の早池峯神社」の由緒/起源を紹介して来ました。

「田中神社」に関しては、当初から、御祭神として「瀬織津姫命」を勧請した事が明記されていますが、他方、「早池峯神社」に関しては、「瀬織津姫命」の事は、一切紹介されていません。

元々、「大迫の早池峯神社」に関しては、快賢/円性の両僧侶が堂宇を建立して十一面観音を安置して祀ったいたので神社ではなく寺院です。

そして、明治時代の廃仏毀釈で、寺院だった「新山堂」を無理矢理「早池峰神社」にしたので、そもそも、御祭神など存在しないはずです。

ところが、明治以降、「大迫の早池峯神社」に関しては、御祭神を単に「姫神(姫大神)」としていたそうですが、それを戦後に「瀬織津姫命」にした事が記録されています。

つまり、「大迫の早池峯神社」が、「田中神社」を起源に持つことから、御祭神を、無理矢理「瀬織津姫命」にしたのではないかと思われます。

しかし・・・そもそもの話、「藤原兵部卿成房」が、何故、「真中明神」として「瀬織津姫命」を勧請したのかと云う点に、疑問が残ってしまいます。

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●南登山口(遠野市附馬牛町)

さて次は、前述の「大迫の早池峯神社」と、100年近く争ってきた南登山口の「遠野の早池峯神社」を紹介します。

ここは・・・とにかく山の中なので、場所を説明するのも難しくいのですが、JR釜石線「遠野駅」からの場合、たった20km程度しか離れていないのですが、車で1時間弱は掛かってしまいます。

距離20kmを1時間で進むと言う事は、単純に計算すると「時速20km」となりますが・・・これって自転車の平均速度ですよね。

場所の高低差を考慮に入れなければ、「遠野の早池峯神社」までは、車で行っても、自転車で行っても同じ時間が掛かる事になってしまいます。

ちなみに場所は、遠野駅から国道340号線(土淵バイパス)に出て、そこから県道160号線に入り、ひたすら北上し、途中に、「神遣(かみわかれ)神社」とある案内に従って右折し、大出(おおいで)方面に向かって約8km、30分程度進んだ場所にあります。

後で、4つの早池峰神社、および関連する神社の地図を掲載しますので、そちらも参考にして下さい。

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さて、この「遠野の早池峯神社」の由緒/縁起ですが、創建時のストーリーは、前述の「大迫の早池峯神社」と、年代が若干異なるだけで、だいたい同じ内容となっています。

つまりは、大迫側「藤原兵部卿成房」、および遠野側の猟師「始閣藤蔵」と言う二人の人物が登場し、鹿を追って山頂で出会い、その後、山頂に「奥宮」を建立するのは、大迫/遠野の双方で一致する所です。

この点で、唯一異なるのが年代です。

大迫側の由緒では、前述の通り、山頂に登ったのは「大同2年(807年)」となっていますが、こちら遠野側の由緒では「大同元年(806年)」となっています。

この1年の相違は何か ? と言う事になるかとは思いますが、その点は、後述する「どちらが本家 ?」で説明したいと思います。

さて、本章では「藤原兵部卿成房」と「始閣藤蔵」が、山頂に「奥宮」を建立した後の「遠野の早池峯神社」が現在に至るまでを紹介します。

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その後、「始閣藤蔵」は、「弘仁年間(810〜824年)」、長男と共に「大出」に移り住み、剃髪して出家し、名を「普賢坊」と改名し、「承和年間(834〜847年)」初頭、70余歳で亡くなったと伝わっています。

「普賢坊」の長男は、名を「長円坊」と称し、「承和14年(847年)」、父が建立した山頂の「お堂」の傍に新しい「お堂」を建立し、そこに父が建立した「お堂」から本尊を遷座すると共に「弥陀三尊」を安置し、この新しい「お堂」を「本宮」としたそうです。

その後、同じく平安時代となる「嘉祥年間(848〜850年)」に、天台宗の高僧「円仁(慈覚大師)」が、奥州巡礼を行った際に「大出」を訪れ、早池峰山の開山の奇譚を聞き、宮寺として「妙泉寺」を建立したそうです。

さらに、坊舎を「大黒坊」と名付け、「不動三尊」、および「大黒一尊」を安置して「大黒坊の本尊」とした上、別に「新山宮」と名付けた三間四面の堂を建立し、この「新山宮」には、早池峯大権現の垂迹として「十一面観音像」祀ると共に、脇士として「薬師如来像」と「虚空蔵菩薩像」を併祀したそうです。

そして、自身の門弟「持福院」を妙泉寺住職として留め、「長円坊」には神人となって「神」に仕えることを命じたと云います。

なんか体の良い話に聞こえますが、要は、「早池峯神社」を乗っ取って天台宗の寺院にし、「長円坊」も支配下に置いてしまったと言う事だと思います。

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その後、「文治5年(1189年)」、「源 頼朝」の「奥州征伐」の功により、「阿曽沼 広綱」が、「遠野保」の地頭になります。(※遠野保:別名「遠野十二郷」)

そして、この「広綱」の次男「親綱」が、遠野保を継ぐ事になりますが、当初は代官統治で、後に、その一族が、実際に遠野に下向して土着し、「遠野阿曽沼氏」になったとされています。

このため、それ以降、江戸時代に至るまで、遠野の地は、「阿曽沼氏」が治める事になりますが、「阿曽沼氏」も、「早池峯神社」を庇護し、寺領120石の寄進を受けていたそうです。

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その後は、前述の通り、遠野十二郷は、最終的には「南部氏」に奪われる事になります。

没落の始まりは、豊臣秀吉小田原征伐への不参加から始まります。

しかし、前述の「稗貫氏」や「和賀氏」とは異なり、領地没収は免れたのですが、「阿曽沼氏」は「南部氏」配下に組み込まれてしまいます。

このため、その後の関ヶ原の戦いにおいては、「阿曽沼広長」は、「南部利直」配下として、「上杉攻め」に出陣しますが、その留守の間、「南部氏」にそそのかされた一族の者が謀反を起こし、「阿曽沼氏」の居城「鍋倉城」を占領してしまいます。

「阿曽沼広長」は、「上杉攻め」の最中に、「伊達政宗」が後ろで手を引いた「岩崎一揆」が起きたので、途中から「南部利直」と一緒に一揆鎮圧に向かいます。

しかし、一揆鎮圧後、領地に帰ったのですが居城が奪われてしまい帰る場所がなくなったので、「伊達政宗」を頼り、妻の実家のある「気仙沼」に入ったそうです。(※妻子は謀反の折に殺害される)

その後、「伊達氏」の支援を得て、再三、居城「鍋倉城」の奪還を図ったのですが、全て失敗に終わり、そのまま「遠野阿曽沼氏」は断絶してしまいます。

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こうして、「南部氏」は、まんまと「遠野郷」を手中に治めるのですが、当初は「城代」をおいて統治していたようです。

しかし、「城代」の統治の仕方が悪かった事と、「遠野郷」は、直接、伊達領と隣接する戦略的に重要な地でもあった事から、「寛永四年(1627年)」、本家筋となる「根城南部氏」の「八戸直義(後に南部直栄と改名)」を遠野に転封させて統治させました。

そして、この「南部直栄」も、「妙泉寺」や「新山宮」を庇護したようで、新たに65石の寄進を授け、前領主だった「阿曽沼氏」から寄進された120石と合わせて、185石で江戸時代を過ごしたようです。(※別記録も有り)

当時、推定ですが、上級武士で約200石とされていますから、結構、優遇されていたと思われます。

しかし、明治時代になると、こちらの「早池峯神社」も、廃仏毀釈の影響を受け「妙泉寺」は廃寺となり、「新山宮」が「早池峯神社」となって現在に至ります。



現在の神門には、「明治17年(1884年)」6月、仏師「田中円吉」作と伝わる右大臣/左大臣随身像が置かれていますが・・・なんか、もうボロボロです。

それ以前は、江戸時代後期となる「文化年間(1804〜1818年)」に建立されたと伝わる仁王門でしたが、廃仏毀釈に伴い、上記の随神像に代わったといわれます。

また、明治以前は、当然、「山門」と呼ばれていたのですが、明治以降は「神門」と呼ばれています。

・山門 :仏教寺院の門。その昔、一般的に寺院は山に建立されていたので、その門を「山門」と呼ぶ。また、寺院自体も「山号」で呼ばれていたので、「山門」も名残とも言われている。
・神門 :神社に設けられた門。

明治以前に置かれていた山門は、現在、「カッパ寺」として有名な、遠野市土淵町にある「常堅寺」に移築され、現在でも、ちゃんと保存されています。

「カッパ寺」に関しては、下記の過去ブログでも紹介していますので、そちらもご覧頂ければと思います。

★過去ブログ:岩手の民間信仰 〜 聞いた事も無い信仰ばかり Vol.5


遠野物語/第2話」には、「瀬織津姫命」を母神とし、その3名の娘を女神とする「遠野三山」の伝説が広く伝わっています。

・母神 :伊豆神社。 御祭神:瀬織津姫
・姉神 :六神石(ろっこうし)神社。 御祭神:大己貴命誉田別命
・姉神 :石上神社。 御祭神:経津主命伊邪那美命、稲蒼魂命
・妹神 :早池峯神社。 御祭神:瀬織津姫

この「遠野物語/第2話」は、過去ブログでも紹介したのですが、あらためて「瀬織津姫命とは、どのような神様か ?」でも紹介したいと思います。

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●北登山口(宮古市門馬)


最後の「早池峰神社」は、宮古市門馬(かどま)にある、北登山口の「早池峰神社」を紹介します。

ここは、盛岡市から宮古市に通じる、国道106号線、通称「宮古街道」から、ちょっと脇道に逸れた「閉伊川」沿いに、寂しく佇んでいます。

盛岡駅からですと約40km、市内中心地を抜け、国道106号線に入り、私の実家近くを通過して、車で1時間弱の距離となります。

さて、この「門馬の早池峰神社」ですが・・・由緒/起源は、全く解りませんでした。最初に紹介した東登山口の「早池峰神社」以上に、情報がありません。



そんな中でも、その昔、ここには、明治時代以前、「新山堂」と「妙泉院」があったとされています。

この「門馬口(北登山口)」は、閉伊川に添った谷間の小さな集落だったそうですが、妙泉院自体は、広大な山林をもち、この山林から木を切り出して山頂まで運んで「お堂」を建立したとされています。

この画像だけ見ていると、それなりの神社の様に見えるかと思いますが・・・


実際は、この画像の様に、普通の民家の裏庭みたいなところに建立されています。

Googleストリートビューの画像なので、少し見にくいかとは思いますが、川(閉伊川)の向こう側にポツンと存在しています。

本当に、個人の敷地内にある「氏神様」のような感じですが、宮司は、別の場所にある「青猿(あおさる)神社」の宮司が兼務されているようです。


この「門馬の早池峰神社」、岩手県神社庁の情報でも、創建時期は不明となっています。

また、この「門馬の早池峰神社」は、村民が勧請して建立した事になっているので、村人が、皆でお金を出し合って建立した「村社」なのだと思われます。

実際、明治時代に「村社」となった事が記録されていますが、現在の場所には、「大正15年(1926年)」の2月24日に遷座したと記録されています。

と言うことは、大正以前は、別の場所に鎮座していたと言う事になりますが・・・さっぱり分かりませんでした。

ちなみに、御祭神は、当然「瀬織津姫命」なのですが、この女神様とは別に、神鏡5個を、「作物の神」として祀っている、と言う記録も残されていますが、何れにしても、この「門馬の早池峰神社」に関しては、情報が少な過ぎでした。

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今回、民間信仰の一つとして、「早池峰信仰」を取り上げ、その中で、「早池峰信仰」と「瀬織津姫命」との関係を紹介しようと企画したのですが・・・

早池峰信仰」一つ取っても奥が深く、調べれば調べるほど、様々な情報が出てくるので、何を紹介して、何を捨て去るのかの選択にも難しいものがありました。

今回のブログを企画した時には、1回で、全てを記載しようと考えたのですが、ブログを書き始めたら・・・とても1回だけでは紹介出来ない事に気が付きました。

そもそも、早池峰神社の紹介だけでも、かなりのボリュームになる事に気が付いた時には、既に手遅れでした。

早池峰神社」が4箇所もあるので、最初からボリュームが大きくなると推測すれば良かったのですが・・・考えが甘すぎました。

そんな中でも、「早池峰信仰」は、結構、地元に根づいた信仰なので、4つ、全ての神社が、それなりの規模で、ちゃんと保全されているのだとばかり思っていたのですが・・・現在、まともに保全されているのは、西登山口となる「大迫(岳)の早池峰神社」だけだったのには、正直、驚きました。

特に、私の頭の中では、「早池峰信仰」と言えば、「遠野」や「遠野物語」と密接に関連し、地元では、大切に保存されている物だ、と言う思い込みがありましたので、「遠野(大出)の早池峰神社」が、一番栄えているのだとばかり思っていました。

また、「早池峰神楽」が、ユネスコ無形文化遺産に登録されてのは知っていましたが、それが大迫側だけの話と言うことは知りませんでした。

何とも情けない話です。

今回は、「早池峰信仰」の奥には触れることが出来ませんでしたが、次回以降で、徐々に真髄に迫って行きたいと思います。

今回のブログの最後に、本ブログに登場した神社の場所をマークした地図を掲載しておきます。「早池峰山」を中心に、各神社仏閣が、どのように配置されているのかを御覧下さい。


次回も宜しくお願いします。

以上

【画像・情報提供先】
Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)
岩手県神社庁(http://www.jinjacho.jp/)
・風琳堂(http://furindo.webcrow.jp/index.html)
花巻市ホームページ(https://www.city.hanamaki.iwate.jp)
・レファレンス協同データベース(http://crd.ndl.go.jp/reference/)
・Yahoo/ZENRIN(https://map.yahoo.co.jp/)
・千時千一夜(https://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo)

ついに本性を剥き出しにしたMicrosoft 〜 殿様には従うしかないのか ?


Microsoft社は、2018年2月1日に、自ら開設している「Windows Blogs」というブログに、「Change to Office and Windows servicing and support」と題した記事を投稿しました。

このブログ、題名を日本語に訳すと、そのまま「OfficeとWindowsに対するサービスとサポートの変更」となりますが、この記事の内容が大きな反響を呼んでいます。

今回、久しぶりにMicrosoft関連の話題を取り上げたいと思いますが、遂に、Microsoft社は、その「守銭奴」的な本性を剥き出しにした事が解りました。

この記事を読んだ時には、「本当に、そこまでやるのか ? 」と思ったのですが・・・その後に配信された各種記事を読むと、どうやら、Microsoft社は本気のようです。

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他方、同じくMicrosoft社は、2018年4月30日に、同ブログに、「What’s new in the Windows 10 April 2018 Update」を言う記事を投稿し、また恐怖の「メジャー・アップデート」が始まった事を通告しました。

前回のメジャー・アップデートは、下記の過去ブログで紹介した通り、2017年10月17日ですから、約6ヶ月、ほぼ予定取り「Semi-Annual(半期)」で提供された事になります。

★過去ブログ:Fall Creators Update 〜 今度は何が・・・

ちなみに、去年のMicrosoft社のリリースでは、「今後のメジャー・アップデートは、3月と9月の半期毎に提供する」と報道していましたので、当初の予定よりは、2ヶ月程度、遅れた事になるかとは思われます。

本ブログは、2018年6月に作成していますので、該当メジャー・アップデートがリリースされてから、既に1ヶ月以上経過しています。

リリース当初は、これも、毎度同じ事の繰り返しなのですが、小さなバグは数知れず、大きなバグは10個程度報告されています。

このメジャー・アップデート、一部マニアの間では、「Windows 10 Spring Creators Update」と言う名称で紹介されて来ましたが、正式名称は、前述の通り「Windows 10 April 2018 Update(バージョン1803、ビルド17134.1)」となったようです。

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そこで、今回、次の2点を紹介しようかと思ったのですが・・・

●信じられないOffice2019の提供方法
●「Windows 10 April 2018 Update」について

どちらも容量が大きくなってしまったので、今回は、Office関連の話題だけを紹介し、次回のIT系情報で、「Windows 10 April 2018 Update」に関する情報を提供します。

Windows 10 April 2018 Update」に関する話題は、このブログが公開された時には、既に賞味期限が切れている状況だと思いますが、ひょっとしらた、まだ自身のPCに、このメジャー・アップデートを適用していない方も居るかもしれません。

そのような方の参考になれば幸いです。

それでは今回も宜しくお願いします。

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Windows 10サポート期間の短縮


前述の通り、Microsoft社は、自社ブログで【 爆弾 】を投下した模様です。

この記事は、下記何れかのブログで閲覧可能となっています。

●Office Blog(https://blogs.technet.microsoft.com/microsoft_office_/)
Windows for IT Pros(https://blogs.technet.microsoft.com/windowsitpro/)

この記事では、「OfficeとWindowsに対するサービスとサポートの変更」と言う題名の通り、まずは、「Windows 10のサービス提供期間を延長する」と言う、利用者が喜びそうな話題を掲載しています。


Microsoft社は、2017年4月に、メジャー・アップデート「Creators Update」のリリース発表会の席において、メジャー・アップデートの名称、適用時期、および各メジャー・アップデートで提供したサービスのサポート期間について、次の様になる旨を発表していました。

対象 名称 適用時期 サポート期間
一般ユーザー Semi-Annual Channel(Targeted) 3月/9月 18ヶ月
ビジネスユーザー Semi-Annual Channel(SAC) Targetedリリース後約4ヶ月後 14ヶ月
適用無しユーザー Long Term Servicing Channel(LTSC) 適用無し 再インストール

本内容の詳細に関しては、前にも掲載していますが、下記の過去ブログに掲載しておりますので、そちらもご覧頂ければと思いますが・・・この発表自体も、良く考えれば、トンデモナイ内容です。

★過去ブログ:Fall Creators Update 〜 今度は何が・・・


つまり、OSは1種類の「Windows 10」でも、メジャー・アップデートを適用した後は、18ヶ月、1年と6ヶ月しかサポートしない、と宣言している訳です。

従来、Microsoft社は、製品のライフサイクルに関しては、「ライフサイクル・ポリシー」と題して、各製品に関しては、次の様な形でサポートすると宣言していました。

●メインストリーム :製品発売後5年間サポート。新機能追加、脆弱性修正、それ以外のサポート
●延長サポート :メインストリーム終了後5年間。脆弱性のみサポート

要するに、製品発売後、10年間はサポートするとしていました。

ところが、上記2018年4月の発表では、「Windows 10」に関しては、メジャー・アップデート適用後は、18ヶ月しかサポートしないと言っている訳です。

それでは、この「サポート」とは何を意味しているのか ? と言うと、当然、次の3種類のサポートです。

●機能追加
脆弱性修理
●上記以外サポート

何か、話がゴチャゴチャして、「煙に巻かれた」状態になっていますが、「Windows 10」に関しては、従来提唱してきた「ライフサイクル・ポリシー」を適用しない事に決めてしまったようです。

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いつも感じているのですが、Microsoft社は、プレスリリース時、2つ以上の事を同時に発表している様に思えます。

そして、この発表では、片方は、ユーザーが喜びそうな内容を大々的に発表し、もう片方では、ユーザーが不利になる事をサラッと発表して片付けているように思えます。

何か、「良い事と悪い事、どっちを最初に聞きたい ? 」みたいな感じです。

話は、ちょっと逸れますが、「良い事と悪い事」の伝え方は、「誘導心理学」とか「人心操作術」とか呼ばれる心理学手法に分類されているようです。

この手法では、相手に物事が伝わる度合いと、心に残る度合いを分析しています。

そして、この手法によれば、「悪い事を最初に伝えた方が、相手の心に残る。」としていますので、その点、Microsoft社は失敗と言えます。

例えば、次の二人の人物紹介文を見て、どちらかと付き合わなければならない場合、どちらと付き合いたいと思いますか ?

(1)佐藤さんは、良い人だけど、ケチ
(2)鈴木さんは、ケチだけど、良い人

普通、このケースでは、「鈴木さん」を紹介する最後のフレーズ、「良い人」の方が印象に残ると思いますが、このような効果は、別名「親近化効果」と呼ばれる心理学手法です。


他方、心理学では、情報が複数の場合、および大量の情報を伝える場合、最初に伝えた情報の方が、印象に残りやすいと言う「初頭効果」と言う手段も紹介されています。

Microsoft社の場合、恐らくは、この「初頭効果」を狙ってプレスリリースを発表しているのだと思います。

特に、最初に、ユーザーが喜ぶ情報を大量に伝え、最後に、ユーザーが不利になる情報を軽く提供した場合、どうしても最初に聞いた情報だけが、頭に残る事になると思います。

例えば、

(1)佐藤さんは、美人、おしゃれ、真面目、頑固、嫉妬深い
(2)鈴木さんは、嫉妬深い、頑固、真面目、おしゃれ、美人

あなたは、「佐藤さん」と「鈴木さん」の、どちらとお付き合いしたいと思いますか ? 私なら、両方の方とお付き合いしたいと思いますが、普通、「佐藤さん」の方が、好印象になると思います。

これを「初頭効果」と言いますが、本当は、この「初頭効果」と「親近化効果」を組み合わせた手法が、一番効果的なのだそうです。

つまり、最初と最後に、印象に残してもらいたいフレーズを組み込む事で、相手をコントールする事が出来る様になると言う事です。

相手に物事を伝えて印象に残そうと思ったり、何かを行わせたりしたい場合、3つ以上のフレーズを用い、最初と最後に重要なフレーズを組み込む事が重要なのです。

→ 田中さんは、美人、おしゃれ、真面目、頑固、嫉妬深い、ケチだけど、良い人

もう、「田中さん」は、「美人」で「良い人」にしか思えなくなったはずです。

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さて、話を元に戻しますと、この様に、Microsoft社は、「Windows 10」に関しては、さりげなくサポート期間を短縮したのですが、今回、ユーザーからのフィードバックを受けて、6ヶ月間、サポート期間を延長した事を発表しました。

これだけ聞けば、何か、Microsoft社は、とてもユーザー・フレンドリーな会社の様に感じますが・・・対象となるエディションは、下記の2つのみです。

●Enterpriseエディション
●Education エディション

上記2つのエディションのバージョン1607、1703、および1709に関してのみ、サポート期間を、それぞれ6ヶ月間延長すると言う事です。

つまり、今回のサポート延長は、一番価格が高い「Enterprise」と、一番利用者が少ない「Education」だけに関してサポート期間を延長するが、それ以外、一番利用者が多い、「Home」と「Pro」は適用外になると言う事です。

本当に、相手の言うことは、最後まで、ちゃんと聞かないと、何を言っているのか解らないと言う、良いお手本のようなプレスリリースです。

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■Office2019の利用環境に関わる制限

さて、肝心の「Office2019」に関するプレスリリースですが・・・

Microsoft社は、今年、2018年度の下期に発売される予定の「Office2019」に関しては、下記OSでしか稼働できないと言う「爆弾」発表をしました。


●年2回更新のリリースモデル「Semi-Annual Channel」(SAC)で提供されるサポート期間中のWindows 10リリース
●2018年リリースの「Windows 10 Enterprise LTSC 2018」
●2、3年おきに更新するリリースモデル「Long-Term Servicing Channel」(LTSC)で提供される、サーバーOS「Windows Server」の次期リリース

つまり、「Office2019に関しては、Windows 10でしか稼働出来ない。」と言う「爆弾発言」をしています。

「はぁ !? それじゃWindows 7は、どうなるんだよ !!」となりますが、当然、

Windows 7ではOffice2019を使う事は出来ない 】

と言う事になるかと思います。あくまでも予定ですので・・・

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Windows 7」は、2020年1月に延長サポートが終了しますので、Office2019発売後、約1年間は普通に使用する事は出来ます。

それでも、Microsoft社は、Office2019では、「Windows 7」を対象外として切捨ててしまったようです。何と、ユーザーフレンドリーな企業なのでしょうか !!

Windows 7」では、Office2019が使用出来ないと言う事も問題ですが、それ以上に問題なのは、2023年1月に延長サポートが終了する「Windows 8.1」です。

Windows 7」は、前述の通り、Office2019の発売から、延長サポート終了まで1年しかありませんが、「Windows 8.1」の場合は、Office2019の発売から、延長サポート終了まで5年間もあります。

それにも関わらず、「Windows 8.1」でも使用出来ないとは・・・・

今後、Microsoft社に関しては、もうメーカー保証も何も、信用出来ない企業になってしまったのではないかと危惧してしまいます。

更に、このブログでは、Office自身に関しても、サポート期間を変更すると宣言していますので、この点に関して、次章にて紹介します。

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■Office2019サポート期間の変更

Microsoft社では、自社製品に関しては、前述の通り、従来は、10年間のサポートを保証して来ました。

→ メインストリーム5年 + 延長サポート5年 = 10年間のサポート

ところが、Office2019に関しては、次の通り、サポート期間を短縮すると明言しています。

→ メインストリーム5年 + 延長サポート2年 = 7年間のサポート

この点に関して、Microsoft社は、下記の様に、今回発売するOffice2019に関しては「ライフサイクル・ポリシーの例外」としています。

Microsoft will provide 5 years of mainstream support and approximately 2 years of extended support for Office 2019 apps and servers. This is an exception to our Fixed Lifecycle Policy to align with the support period for Office 2016. Extended support will end 10/14/2025. 』

これを日本語にすると、

Microsoftでは、Office 2019 に関しては、5 年間のメインストリーム サポートと約 2 年間の延長サポートを提供する予定です。これは固定ライフサイクル ポリシーの例外として提供されるもので、Office 2016 のサポート期間と一致するものです。Office2019の延長サポートは、2025年10月14日に終了します。 』

・・・もう、トンデモありません。



そして、その理由としては、Microsoft社は、次の様な理由を挙げています。

『 最新のソフトウェアは、作業効率を最大限に引き上げる新機能だけでなく、新しい効率的な管理ソリューションと包括的なセキュリティ アプローチも提供します。リリースから 10 年以上が経過し、このイノベーションが提供されていないソフトウェアでは、セキュリティを確保することが困難で、生産性も低くなります。変化のペースが速くなるにつれて、ソフトウェアを最新のリリースに移行することがきわめて重要になっています。 』

何か、ゴチャゴチャと屁理屈を並べ立てていますが、要は、昔と違い、セキィリティを維持するために、同一製品を10年以上もサポートし続けるのは難しいと言うことらしいです。

このため、今回は、例外的に、サポート期間を3年も短縮すると言っている訳ですが・・・今後も、ライフサイクルを短縮するのか否かに関しては、明言を避けています。

が・・・今回は例外としても、世間と言うか、各国政府から何もお咎めが無ければ、恐らくは、次回以降も、「この例外」を適用するのだと思います。

そして、気が付けば、いつの間にか「ライフサイクル・ポリシー」も、セキュリティの維持を理由に変更され、サポート期間を7年間にする事が当たり前にようになってしまうのだと思います。

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前述の通り、今回、Microsoft社は、サポート期間を「10年」から「7年」に短縮すると宣言しています。

「これは何を意味するのか ?」、と言う点を、よく考えてみて下さい。単純に、「サポート期間が減らされる」だけではありません。

パッケージ・ソフトウェアのサポート料金に関しては、後で詳しく説明しますが、Microsoft社の製品に関しては、製品価格にサポート料金も含まれています。


そして、このサポート期間が減ると言うことは、(まだOffice2019の販売価格は発表されていませんが)実質的な値上げを意味しています。

つまり、例えば、サポート期間1年で、かつサポート料金込みで、10,000円で販売しているソフトウェアに対して、サポート期間を6ヶ月に減らす、と言う事ですから、これは値上げに他なりません。

前述の様に、サポート期間の短縮と言う事の裏には、このような意味も込められている事を理解して下さい。

しかし、上記の表をよく見ると、Office2016とOffice2019が、同じ時期に延長サポートが終わると言うのも変な感じがします。

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■Office2019提供方法の変更

そして、Microsoft社は、更なる「爆弾」も、サラッと投下しています。

The Office 2019 client apps will be released with Click-to-Run installation technology only. We will not provide MSI as a deployment methodology for Office 2019 clients. We will continue to provide MSI for Office Server products. 』

このように、Office2019に関しては、「MSI形式での提供は行われない様です。」と言っても、大方の人は、意味不明かもしれませんので、上記の投稿内容を、解かりやすく説明すると共に、その問題点までも説明すると、次の通りです。

●Office2019のクライアント版は、「クイック形式」と呼ばれているインストール方式でしか提供しない。
●Office2019のクライアント版は、「MSI形式」とも呼ばれる方法では提供しない。
●但し、サーバー製品群に関しては、引き続き「MSI形式」でも提供する。


つまり、Office2019のクライアント版に関しては、従来「MSI形式」とも呼ばれている「Windowsインストーラー」を用いた方法での提供は行わず、クラウド環境からストリーミング形式で配信する「クイック形式」でのみ提供するとしています。

そして、この提供方法が何を意味するのか、と言うと、次の通りです。

現在、Office製品に関しては、次の2種類の方法で購入することが出来る仕組みを提供しています。

●永続ライセンス版 :一度購入してPCにインストールすれば、PCが壊れるまで使い続ける事が可能
●年間ライセンス版 :1年間しか使用出来ない。1年毎にライセンス料を支払う。


ところが、次期Officeとなる「Office2019」においては、上記「永続ライセンス」を廃止し、年間ライセンス版しか提供しないとしています。

「それで何が困るの ?」と言うことですが、「年間ライセンス」を購入すると、1度、Officeのライセンスを購入さえすれば、ほぼ永久に、PCが壊れるまで、該当バージョンのOfficeを使い続ける事が可能です。

しかし、「年間ライセンス」になれば、毎年、Microsoft社に、Officeの使用料金を払い続けなければならなくなってしまいます。


現在、含まれるアプリケーションの種類が異なりはしますが、永続版と年間版とでは、次の価格で販売されています。(※永続ライセンスは「Office Home & Business 2016」)


●永続ライセンス : 37,584円
●年間ライセンス : 12,744円

これを単純に比較すると、年間ライセンスの約3年分の費用を支払えば、ほぼ永久にOfficeを使い続ける事が可能になる、と言う事を意味しています。


もちろん、年間ライセンスにも、次の様なメリットがあります。

●常に最新のバージョンが使用出来る
●全てのOfficeアプリケーションを使用する事が出来る

しかし・・・次のような、より重要な問題が発生します。

●勝手に最新Officeになると、非互換により、せっかく作ったマクロや関数が使えなくなる。
●全く使わない、余計なOfficeアプリのために無駄なお金を払いたくない。


現在では、上記のメリット/デメリットを、利用者自身で判断し、利用環境や利用目的に合わせて、自由に選択して購入する事が出来たのですが、Office2019からは、この購入の選択権が無くなってしまいます。

Microsoft社は、何故、このような理不尽な行動を取るのか ? と疑問に思う方が沢山いると思います。

しかし、それは、パッケージ・ソフトウェアの性質を理解していないからです。

パッケージ・ソフトウェアの性質や問題点に関しては、次章を参考にして下さい。

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■パッケージ・ソフトウェアの性質とは


私のように、過去にパッケージ・ソフトウェアを開発/保守していた経験がある人間であれば、パッケージ・ソフトウェアに対する保守サポートの重要性や、その問題点や難しさを容易に想像出来ます。

パッケージ・ソフトウェアは、ソフトウェアを企画して開発し、それを販売して会社に利益をもたらす事も大変ですが、実は、それ以上に、面倒な問題があります。それは・・・

●一度、あるバージョンをリリースしたら、利用者が存在する限り、そのバージョンをサポートし続けなければならない。
●サポートが続く限り、該当バージョンに関する全ての技術資料を保管して、なおかつ最新状態に更新し続けなければならない。
●該当バージョンの保守が行える人材を確保し続けなければならない。

パッケージ・ソフトウェアは、販売し続ける事も大変なのですが、それ以上に、バージョン毎に、製品を保守し続ける事が非常に大変になります。

このため、Microsoft社では、自社製品に対して、「ライフサイクル」と言う名称を用いて、保守サポートの仕方を、利用者に保証して来ました。

ソフトウェアの利用者は、メーカーから、サポート保証があるので、安心してソフトウェアを購入して使用します。

これは、ソフトウェアに限らず、全ての工業製品や電化製品も同様です。メーカー保証が無い製品など、誰も購入しません。

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他方、ソフトウェアに関しては、保守サポートを行う事を目的に、サポート費用を徴収しているケースもあります。

弊社なども、お客様から要請があれば、サポート費用を頂いた上で、開発して納品したソフトウェアの保守を行っています。


私は、ソフトウェアを含む、全ての製品には、「社会的責任」があると思っています。

それは、一度販売して市場に出回った製品に関しては、それを使い続けてくれるお客様が存在する限り、出来る限りサポートし続けなければならない、と言う考えです。

しかし、それにも限界はあります。

ソフトウェアの場合、PCやサーバー等、稼働環境が異なれば、サポート出来なくなります。工業製品や電化製品にも、耐用年数があります。

このため、物事には全て限りがあるように、ソフトウェアにも、いつかはサポート出来なくなることはありますが、出来る限りサポートは続けたいと思っています。

それでは、Microsoft社のOfficeは、サポート費用は徴収していないので、サポートしなくても良いのではないか ? と言う疑問もあります。

これは、ソフトウェアに対するサポート費用を、事前に徴収するか、後から徴収するかの違いです。

弊社のような場合は、「サポート費用の後払い」となり、Microsoft社の場合は、「サポート費用の前払い」となります。

Microsoft社のように、ある程度、売上げ規模が分かれば、最初から製品価格にサポート必要を含ませる事も可能ですが、弊社のような零細企業では、個別に対応せざるを得ないのが実情です。

IT業界では、慣例的に、製品価格の15%をサポート料金してきた歴史がありますので、前述のOfficeであれば、全くの推測になってしまいますが、それぞれ、サポート料金は、下記の通りなのかもしれません。

・永続ライセンス(税込) : 37,584円 → サポート料金、約4,500円
・年間ライセンス(税込) : 12,744円 → サポート料金、約1,500円

「たった4,500円でサポートしてくれるんだ !」と思うかもしれませんが、利用者が1億人もいれば、それだけでも、トンデモナイ金額になります。4,500億円〜

弊社も、これだけのサポート料金があれば・・・

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と言う事で、話が、また脇に逸れてしまいましたが、過去にリリースしたバージョンをサポートし続けると言う事は、非常に大変な事なのです。

パッケージ・ソフトウェアをサポートし続けるには、人、場所、費用・・・非常の多くのリソースが必要になります。

このため、パッケージ・ソフトウェアを販売している企業では、あの手、この手を用いて、利用者に、古いバージョンを捨て去ってもらう努力をしています。

私が、開発/販売していたパッケージ・ソフトウェアの場合、「西暦2000年問題」と言う好機があったので、その時点で、全てのユーザーが、古いバージョンを捨て去り、新しいバージョンに切り替えてもらう事が出来ました。

しかし、このパッケージ・ソフトウェアも、「2000年対応版」にバージョンアップして既に20年近くが経過し、さらに新しいバージョンをリリースしたようですが、どうなっている事やら・・・

Microsoft社の様に、最初から、

『 このパッケージ・ソフトウェアは、10年間しかサポートしません。それでも良ければ購入して下さい。 』

と言えれば、良いのですが・・・普通のソフトウェアで、こんな事を最初に言ったら、誰もソフトウェアを購入してくれなくなってしまいます。

こんな事を最初から言えるのは、MicrosoftAppleIBM等の、本当に大企業ばかりだと思います。


このように、Microsoft社も、過去のOSやOfficeを、どんどん捨て去り、新しいバージョンの開発に、大事なリソースを活用したいと思うのは、当然と言えば、当然の行為なのです。

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今回、「ついに本性を剥き出しにしたMicrosoft 〜 殿様には従うしかないのか ? 」と題し、Microsoft社の殿様商売のやり方を紹介して来ましたが、如何でしたか ?

Windows 10サポート期間の短縮
●Office2019の利用環境に関わる制限
●Office2019サポート期間の変更
●Office2019提供方法の変更
●パッケージ・ソフトウェアの性質とは

何か、「Bill Gates(William Henry Bill Gates III)」氏、そして「Steven Ballmer(Steven Anthony Ballmer)」氏も会社を去り、現在のインド人が三代目のCEOに就任してから、余計に、Microsoft社の「殿様商売」が強引になってきた感じがしてなりません。

2014年2月から、三代目CEOとして、インド人の「サティア ナデラ(Satya Nadella)」氏が就任していますが、彼がCEOになってからというもの、Microsoft社の業績は向上しつつあるようですが、これも冷徹なビジネスによるものだと思ってしまいます。

特に、WindowsとOfficeに関しては、ライセンス体系を、パッケージ型からサブスクリプション型、つまり売り切りではなく、毎年、ライセンス費用を支払わなければならない方式に変えた事が利益向上に繋がったのではないかと思います。

今年の下半期に発売されるOffice2019に関しても、売り切り方式となるパッケージ型の販売方式ではなく、毎年ライセンスを購入しなければならない「サブスクリプション型」にする事が決定しているようです。

さらに、Offie2019を、「Windows 7」、および「Windows 8.1」で稼働出来ない製品にする事で、全OSを、「Windows 10」に切り替えさせるための下準備を整えようとしています。

つまり、私の考えでは、今後発売するOffice製品に関しては、「Windows 10」だけでしか稼働出来ないようにする事で、利用者が、「Windows 7」や「Windows 8.1」を使い続ける事が出来ない仕組みを構築しようとしているのだと思います。

「Office2019」が、「Windows 10」でしか稼働出来なければ、「7」や「8.1」を使い続ける人は、大幅に減ると思います。

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まあ、正直な所、未だに「Window XP」や「Office2003」を使用している企業を見ると、この会社は、大丈夫なのだろうか ? と心配してしまう事もあります。

古いOSやツールを使い続けて、それがマルウェアに感染し、重要データが消されてしまったら、どうやってビジネスを続行するのか考えないのだろうか ? と企業トップの行動を疑ってしまいます。

この点だけにフォーカスをすれば、Microsoft社の行動も正しいものだとは思えるのですが・・・

何か、人間として、Microsoft社の行動が、腑に落ちないのは、私だけなのでしょうか ?

今回は、Windows OSとOfficeの変更点だけを紹介しました。

次回は、「Windows 10 April 2018 Update」を紹介したいと思いますが、Office2019に関しても、何か機能の変更点が判明すれば、合わせて紹介したいと思っています。


それでは、次回も宜しくお願いします。

以上

【画像・情報提供先】
Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)
・誘導心理学(http://www.sho0726.com/)
・Office Blog(https://blogs.technet.microsoft.com/microsoft_office_/)
Windows for IT Pros(https://blogs.technet.microsoft.com/windowsitpro/)

岩手県内における金勢信仰 〜 何でこんなに沢山あるの Vol.6


今回の「岩手・盛岡情報」は、9ヶ月ぶり、そして、恐らく最後となる「金勢様」の情報を紹介したいと思います。

これまで、5回に渡り、北は「二戸市」から、南は「西和賀町」まで、8箇所の自治体、合計で31箇所の「金勢様」を紹介して来ましたが・・・さすがに、もう息も絶え絶えです。


これまで紹介してきた「金勢様」に関しては、本ブログの最後に記載したいと思いますが、残りの「金勢様」は、次の4つの自治体にいらっしゃいます。


北上市 : みちのく民族村「金勢様」、諏訪神社「金勢社」
奥州市 : 衣川村「雌雄石」
陸前高田市 : 泉増時「ぽっくり観音」、仙婆巌「陽神岩/陰神岩」
・一関市 :千厩「夫婦石/子宝明神」

それ以外、画像以外は、全く情報が無い「金勢様」も次の場所にはいらっしゃるようですので、こちらも画像のみとなりますが、さらっと紹介します。

岩手郡岩手町(一方井/川口)
紫波郡紫波町

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今回は、上記4ヶ所の自治体で、次の9体の「金勢様」を紹介します。

●みちのく民俗村/北上市
諏訪神社/北上市
●衣川村の雌雄石/奥州市
●泉増寺「ぽっくり観音」/陸前高田市
気仙郡の陽神岩・陰神岩/陸前高田市
●天王社夫婦巨石/一関市
●その他3ヶ所

しかし、その中には、過去ブログにおいて、「巨石」として紹介した場所も、何箇所か含まれています。

★過去ブログ:岩手県内の巨石の紹介 - その2 〜 何故か岩手に巨石が多い

「巨石」と言えば、先日(2018/3/2)、NHKの「新日本風土記」という番組で、「岩手山」を特集した回があり、その中で、岩手山周辺は、「巨石が多いので有名だ。」と言う話がありました。

盛岡市の隣、かつては「日本一の人口の多い村」を誇っていた「滝沢村」。気が付いたら、いつの間にか「滝沢市」に移行していてビックリしたのですが・・・この「滝沢市」は、岩手山山麓に広がっていますが、今でも、畑を耕せば、かつての「火山岩」が、ゴロゴロ出てくるみたいです。

盛岡市は、岩手山からは、直線距離で約20km程度も離れているので、火山岩とは考え難いのですが・・・

この件は、また別の機会に取り上げたいと思います。

それでは、今回も宜しくお願いします。

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■みちのく民俗村/北上市


「みちのく民族村」は、岩手県内ではもちろん、日本全国でも有名な花見の名所「展勝地公園」の中、約7ha(ヘクタール)の敷地に、平成4年(1992年)に完成した東北最大級の野外博物館と言われています。

公式サイトの紹介文によると、この博物館には、かつて北上川周辺にあった、南部曲り家等の貴重な家屋や、歴史的建造物を移築復元してあるとの事です。


南部曲り家を始めとした「茅葺き民家」は10棟、昭和2年に建築された「黒沢尻高等女学校旧校舎」を始めとした歴史的建造物が18棟あり、それぞれ国指定や国登録の文化財となっています。

既に花見の季節は過ぎてしまいましたが、弊社の過去ブログでも「展勝地」の事は紹介していますので、機会があれば、訪れて見て下さい。

★過去ブログ:盛岡の花見の名所


そして、肝心の「金勢様」ですが・・・こんな感じで「展示」されています。

こちらの「展示物」、実は、「金勢様(金精様)」ではなく、「道祖神」として「展示」されている様です。

また、何度も「展示」と言う言葉を用いておりますが、この「金勢様 = 道祖神」・・・正直にお伝えしますと「復元展示物」です。

「何だ ! パチもんか・・・」と言う事になってしまいますが・・・

何分、この博物館の趣旨は、『 歴史的建造物の移築復元 』ですので、かつて、この地にあったと思われる、歴史的建造物(?)を復元させたのだと思われます。


この「展示物」の脇にある説明にも、下記のような説明が記載されています。

道祖神である事
・民族資料である事
・平成15年に寄贈された物である事

ちなみに、この説明にある「金勢様 = 道祖神」と言う考え方は、本来は、誤った考え方なのですが、現在では、様々な思想/信仰が習合してしまっています。

どの点に関しては、今回の「金勢様シリーズ」の初回に「金勢信仰とは」と題した項目を設けて説明していますので、そちらもご覧下さい。

★過去ブログ:岩手県内における金勢信仰 〜 何でこんなに沢山あるの ? Vol.1(20161022.html)

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諏訪神社/北上市


北上市における二番目の「金勢様」は、北上市諏訪町にある、その名の通り「諏訪神社」の境内末社「金勢社」です。

この「諏訪神社」、その創建は古く、社伝では、平安時代初期、大同二年(807年)、「坂上田村麻呂」の東征の折りに、戦勝祈願、および当地の発展祈願のため、信州「諏訪大社」の御祭神「建御名方神(たけみなかたのかみ)」を勧請したのが始まりとされています。

また、現在の地は、江戸時代中頃に遷宮した場所となっており、それ以前は、隣の「幸町」に鎮座していたそうです。

他方、「諏訪神社」の境内末社には「秋葉神社」が祀られており、そのため、これも今年は既に終了してしまったのですが、毎年4月末の土曜/日曜には「諏訪神社/末社秋葉神社火防祭」が盛大に催されます。


これら「諏訪神社」の由緒やイベントに関しては、岩手県内の「火防祭」を紹介した弊社過去ブログにおいて、詳しく紹介していますので、そちらをご覧下さい。

★過去ブログ:岩手県内の火防祭り

さて、肝心の「金勢様」ですが、右の画像の通り、境内末社の「金勢社」に祀られており、前述の「展示物」とは異なり、由緒正しい「金勢様」なのですが・・・

申し訳ございません、この「金勢社」 のご神体は、確認することが出来ませんでした。


しかし、この画像中の説明文にもあります通り、この「金勢社」は、「金勢様シリーズ」の原点とも言える、盛岡市玉山区の「巻堀神社」から分霊されているようです。

金勢信仰のルーツとも考えられている「巻堀神社」からは、前回紹介した大沢温泉「金勢神社仮宮」にも分霊されています。

「巻堀神社」の御神体も、分霊された「大沢温泉」の御神体も、立派な御神体でしたので、こちらの「金勢社」の御神体も、きっと立派な御神体なのだと思うのですが・・・済みません。

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また、その他の情報として、「山村民俗の会」の会報「あしなか」の144号(1974年刊)には、かつて、この北上市の黒沢尻付近の稲荷神社に「金勢様」が祀られていた、と言う話があるようです。

黒沢尻付近は、前述の過去ブログにも記載していますが、かつては、現在の北上市の中心地で、数多くの遊郭がありました。

そして、この「稲荷神社」も、遊郭に隣接した場所にあったそうで、遊郭で働く女性達が、「男根型造形物」を作って、神社に奉納した、と言う話が、伝わっているそうです。

その後、遊郭等の廃業/土地売却により、この「稲荷神社」も、何処かに遷宮された事までは記録されていますが・・・神社も金精様も、どこに行ってしまったか、分からなくなってしまったそうです。

ちなみに、北上市黒沢尻町は、前述の通り、村々が合併して北上市が出来た際の中核となった村で、「諏訪神社」がある諏訪町とは、2km程度しか離れていません。

そして、「諏訪神社」の境内末社には、右上の画像の通り「稲荷神社」があります。

このため、かつて黒沢尻にあった「稲荷神社」が、この「諏訪神社」の境内末社に・・・と思いたいのですが、残念ながら、こちらの「稲荷神社」の由緒は解りませんでした。

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それと、この「諏訪神社」に関する最後の情報として、「金精様」とは全く関係無いのですが、毎年7/14に「八坂神社宵宮祭」が開催されます。

この「諏訪神社」には、「金勢社」、「稲荷神社」、「秋葉神社」の他にも、「八坂神社」や「金比羅神社」の末社もあります。

そして、この「八坂神社」のお祭りは、別名「きゅうり天王さん」とも呼ばれ、この北上市の「八坂神社」以外、下記の場所でも開催されています。

山形県/谷地八幡宮末社「八坂神社」、福島県須賀川市福島県三春町/「八雲神社」、福島県いわき市/「八坂神社」、栃木県日光市/二荒山神社末社須賀神社」、等

この「きゅうり天王」を祀るお祭り「天王祭」は、「牛頭天王(ごず-てんのう)」という神様を祀るお祭りです。


牛頭天王」とは、仏教における釈迦の生誕地である「祇園精舎の守護神」とされていましたが、日本各地に拡がった後は、本地垂迹思想の元、「建速須佐之男命(スサノオ)」と習合された神様です。

しかし、「牛頭天王」は、「行疫神(ぎょうやくじん)」、俗に言う「疫病神」とみなされ、この神を祀れば、疫病などの災厄を免れる「祇園信仰」として広く信仰され、現在の「八坂神社」から勧請されて全国各地に広がったとされています。

「きゅうり」と言えば、「河童」を思い出してしまいますが、このような「牛頭天王」を祀るイベントがある事を初めて知りました。



ちなみに、地元「黒沢尻村」では、この「きゅうり天王さん」に関しては、次の様な言い伝えがるようです。

『 その昔、村で共同井戸を使っていた時代、「はやり病」が広まり、井戸が使えなくなってしまって困ってしまった時に、「きゅうり」を食べて水分補給をした事から、疫病退散と感謝の気持ちを込めて、八坂神社に「きゅうり」を奉納したのが始まり。 』


祇園信仰」とは、若干違う所が、京都と地方の違いなのだと思います。

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■衣川村の雌雄石/奥州市


北上市の次は、その南側に位置する「奥州市(旧・水沢市)」の「雌雄石(男石女石)」を紹介します。

「雌雄石(男石女石)」と言うことで、直接的な「金勢様」ではありませんが、「金勢信仰」に類似している「陰陽石/夫婦石」信仰の方ですので、合わせて紹介します。

と言いつつ、実は、この「衣川村の雌雄石」に関しては、「金勢信仰」や「民間信仰」を紹介する以前、今から4年も前に書いた「巨石信仰」で紹介済です。

「巨石信仰」、これは「磐座(いわくら)信仰」とも呼ばれていますが、全部引っくるめて「自然信仰/精霊信仰(アニミズム)」と呼ばれています。

この信仰は、日本に限らず、世界各国で見られる信仰で、巨木、巨石、あるいは高い山、等、人智の及ばない巨大な自然構造物には神が宿るとして、神社/神殿が建築される前までは、その自然物そのものを「神」として祀る信仰です。


この「男石」は、「男石大明神」として、奥州市衣川村にある「磐神社」のご神体となっています。

この「磐神社」の由緒等に関しては、過去ブログにも記載していますので、そちらをご覧下さい。

★過去ブログ:岩手県内の巨石紹介 - その2


本章最初に掲載した画像が、「男石大明神」ですが、これだけだと、どんだけデカイのか見当がつきませんよね。

上記、過去ブログには、このご神体に乗っかっている不届き者の画像を掲載していますので、その画像を見れば、どんだけデカイのか解ると思いますが、参考までに解説看板も掲載しておきます。

→ ご神体:東西10.2m × 南北8.8m × 高さ4.2m


そして、次は、「女石」の方ですが、こちらは、この「磐神社」から離れること西方に約1km、「衣川区女石」と言う場所にある曹洞宗の寺院「松山寺」の境内に「女石神社」があり、この神社のご神体となっています。

こちらの神社、見るからに新しく、そんなに歴史を感じませんが、実は、平成24年(2012年)に再建されたばかりなのだそうです。

ちなみに、再建前の画像も掲載しておきますが、再建前は、本当にボロボロですので、再建出来て良かったと思います。


こちらの「女石神社」に関しては、創建時期は不明となっているようですが、元々は、「磐神社」と、二社で一対となっているようですので、こちらも結構歴史があるのだと思います。

ちなみに、「松山寺」も創建時期は不明ですが、昭和2年に発行された「胆沢郡誌」によると、この「松山寺」、元々は天台宗の寺院だったそうです。

そして、その後、戦国時代の明応元年(1492年)、中興の祖と言われる「鉄牛(てつぎゅう)和尚」が再建して曹洞宗に改転したと伝わっています。


そして、肝心の「女石」ですが、周囲5m、高さ2mの割石となっており、見ての通りの・・・・「女石」です。

「男石」と比較すると、かなり小さめですが、その方が「女石」としては丁度良い大きさなのかもしれません。

しかし・・・その昔の人達は、かなり想像力が豊かだったのだと思います。

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■泉増寺「ぽっくり観音」/陸前高田市


奥州市の次は、三陸陸前高田市に移ります。

こちらは、「産形(みなかた)山 泉増寺」と言う真言宗の寺院跡、現在は、「子安観音堂」と呼ばれた祠に安置されていた「女陰石」なのですが・・・

「泉増寺」の場所が、気仙川の河口から2km程度、気仙川からは100m程度しか離れていない事が災いして、東日本大震災の被害にあってしまった様です。


右の画像が、震災発生時に、「泉増寺」の「観音堂」から撮影した映像との事です。

この「観音堂」は、寺号となっている「産形山」の中腹にあったので難を逃れたのですが、今回紹介する予定だった「子安観音堂」は、山の登り口付近にあったので、津波の被害を受けて流されてしまった様です。

津波は、山腹の「観音堂」の直ぐ下まで押し寄せたそうなので、本当に危機一髪だったそうです。


本当に、自然の力は恐ろしいものがあります。

参考までに、津波前の、この「泉増寺」の全景が移ったパンフレットがありますので、そちらを掲載しておきます。

このパンフレットを見て分かると思いますが、右側ページの画像の上にある「お堂の屋根」が、本章の最初に掲載した「観音堂」の屋根に当たります。


そして、紹介する予定だった「子安観音堂」は、画像中の「赤い屋根」を持った「お堂」です。

それが、現在は、この左側の画像の通り、「掘っ立て小屋」の様な状況となってしまっているようです。

この画像は、2016年5月、現在から2年前の画像ですので、少しは修復されている事を期待したいと思いますが・・・どうなのでしょうか ?


さて、肝心の「ぽっくり観音」ですが、現在では、右上の掘っ立て小屋の中に隠れてしまって見えにくくなってしまっていますが、これもパンフレットの画像から取得した画像なので、余り画質は良くないのですが、左の様に、不思議な形の「自然石」が祀られています。

小屋の中に、目を凝らせば、何となく、その輪郭は見えるのではないかと思いますが、地殻の隆起で出来た不思議な形の巨石です。

この「ぽっくり観音 = 子安観音」に関しては、諸説ありますが、次の様な由来が伝わっているようです。


【 子安観音の由緒 】

江戸時代初期となる「慶安年間(1648〜1652年)」に山麓を 整地した所、天然の怪石を発見したそうです。

石の形は、女性が子供を産む姿にそっくりだったので、地元の人は「子安観音」として祀っていたそうです。

その後、領主となる陸奥仙台藩の第4代藩主「伊達綱村」の時代、奥方の出産に際し、夫妻揃って、この「観音堂」の御本尊「聖観音像」を夢に見て安産した所から、家臣「白根沢 軍治」を普請奉行として、宝永2年(1705年)に、総朱塗りの堂宇を再建したそうです。

さらに、従来は「医王山千蔵寺」としていた寺号も、「産形山泉増寺」と改めさせたと伝わっているようです。

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「泉増寺」は、その縁起によると、「弘法大師」が付近を巡礼した折、この地を霊地と感じ、自ら「阿弥陀菩薩」、「薬師如来」、「聖観音菩薩」の三尊に、脇侍2体を付した9体の尊像を鋳造し、平安時代初期「弘仁元年(810年)」に祀ったそうです。

元々、この「泉増寺」がある山は、「三次森」と呼ばれていた事もあり、当初の「泉増寺」は、「三次森大権現」と称し、七堂の大伽藍を誇り、本坊医王山観音院、竹の坊、 沢の坊、西の坊、東の坊の五寺を営む聖域だったそうです。

しかし、その後、「阿弥陀菩薩像」は「月山神社」に、「薬師如来像」は「諏訪神社」に移って、それぞれの本地仏として祀られてしまい、結局「聖観音菩薩像」のみが、ここ三次森に残り、「秘仏」として祀られ、33年毎に「御開帳」されていたそうです。
さらに、その後、幾多の歳月を経て、お堂も老朽化して大破したので、南北朝時代となる「建武2年(1335年)」に修復され、さらに江戸時代に、上記「伊達綱村」により再建され、現在に至るそうです。


他方、平成28年、震災を契機とした被災地支援の一環で、奈良教育大学加藤久雄学長が、この「伝・聖観音菩薩立像」を調査したそうです。

その結果、この仏像は、高さ約16cmと小柄な鋳銅製ですが、仏像の素材や仕上げ方法、さらに内部をファイバースコープで詳しく調査した所、今から1,000年前以上、10世紀前後に製造された物であり、「旧陸奥国気仙郡」においては、最古の仏像であることが判明したそうです。

気仙郡」と言う郡名は、「続日本紀(弘仁2年/811年)」に初めて使われており、現在のこれは現在の宮城県北東部から岩手県南東部にまたがる地域となります。


貴重な仏像、まさに「秘仏」なので、出来れば、引き続き調査を行い、何らかの文化財登録を行った方が良いと思います。


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■陽神岩・陰神岩/陸前高田市


陸前高田市の最後は、前述の「泉増寺」から、西方に約8km、国道343(今泉街道)沿い、「仙婆巌(せんばがや)」と呼ばれる場所に、陰陽岩(男岩/女岩)があると言われているようですが・・・イマイチぱっとしません。

紹介しておいて「パッとしない」とは、申し訳ありませんが、こちら、左側の画像が「陽神岩(男岩)」との事です。

確かに、巨大な岩山になっている様で、この辺りの地層は、北上山地における「仙婆巌層」と呼ばれ、主に「火山砕屑物(さいせつぶつ)」が固結してできた「堆積岩(火砕岩)」との事です。


別角度からの「陽神岩(男岩)」画像も右側に掲載しておきますが、所々に「穴」が空いているようです。

また、この「陽神岩(男岩)」と対をなす「陰神岩(女岩)」は、その下を流れる「気仙川」を挟んで向かい側に位置しています。

参考までに、当地「仙婆巌」の地図も掲載しておきます。

そして、「陰神岩(女岩)」ですが、下図の通り、無残にも、中心をトンネルが貫通してしまっております。


トンネルがあった方が、「女岩」らしいという話もあるようですが、元々は、トンネルなど無かった訳ですから、それは、ちょっと違った意味での「女岩」となってしまいます。

この「陰陽岩(男岩/女岩)」の二岩は、これまで紹介してきた通り、「陽神岩」は旧国道を覆うように出ており、「陰神岩」は川を隔てて屏風状に切り立った形となっています。


他方、この「仙婆巌」と言う地名の由来ですが、様々な由来が、伝説として伝わっているようで、本ブログでは、その中から2つの伝説を紹介します。

【 千把萱(せんば-かや)伝説 】

自分の子を跡継ぎにしたいため、我が子を綿にくるみ、継子を千把の萱に包んで岩頭から投げ落とした所、綿にくるんだ我が子が死んで、母親は、そのおろかさに気づいたと言う伝説。


【 気仙風土草 (相原 友直) 】

数十丈の岩頭から、千把の萱に包まれて落ちるのと、傘二本を右左の手に持って落ちることが議論され、一人は萱に包まれ、一人は傘を持って飛び降りました。

唐傘を用いたる者がつつがなく、萱をほどいて見たら死んでいた。これより里人「千把萱」と云う。

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何か、失礼ですが、どちらの伝説も、「陰陽岩」と同じくパッとしない伝説の様に思えますが・・・

陸前高田市に関しては、この辺で終わりにしたいと思います。

ちなみに、この「陰陽岩」と類似した「岩系」の情報に関しては、岩手県の最北部、二戸市にある「馬仙峡の夫婦岩」を紹介した事があります。

★過去ブログ:岩手県内における金勢信仰 〜 何でこんなに沢山あるの ? Vol.1

「岩系」の「陰陽岩」、あるいは「夫婦岩」等に興味がある方はご覧下さい。さらに、次も「夫婦」系の話になります。


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■天王社夫婦石/一関市


三陸陸前高田市の次は、その直ぐ西隣となる「一関市」に移ります。

但し、この場所は、「一ノ関駅」からは、電車の場合は「大船渡線」に乗り換えて1時間弱、車であれば国道284号線で25km、約35分程度の場所となる「千厩(せんまや)町」となります。

そして今回は、場所的には1ヶ所ですが、「夫婦」系と「子宝」系の2つの内容を紹介します。

最初に、「夫婦(めおと)」系の紹介しますが、今回は、前章と異なり、「夫婦岩」ではなく「夫婦石」となります。

そして、こちらの「夫婦石」に関しても、過去ブログ「岩手の巨石シリーズ」として紹介した事があります。

★過去ブログ:岩手県内の巨石の紹介 - その2 〜 何故か岩手に巨石が多い


この時は、当然、「巨石」の話がメインでしたので、こちらの「夫婦石」を中心に話を進めました。

しかし、実は、この石の横の階段を昇ると、「彌榮(やさかえ)神社(弥栄神社)」があります。

そして、この神社の、やはり境内末社に「子宝明神」が2つもあり、この神社には、ご神体として、「金勢様」と「女陰(淡島様 ?)」が祀られています。

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と言うことで、「夫婦石」に関しても、形が形だけに、その詳細をお伝えしたいのですが、過去ブログでも、「夫婦石」の説明を記載しておりますので、今回は、追加情報だけ紹介します。

この「夫婦石」、何時の頃から、この地に祀られていたのか解りませんが、その昔、大正時代には、まだ砂に埋まっており、全体が、現在のようには露出していなかったそうです。

その後、全体を掘り出したそうですが、当時は、「首の部分」、先頭を支えている箇所が細かったので、「首石」と呼ばれていたそうです。

現在の「夫婦石」、特に「男石」に関しては、この「首部分」を、コンクリートで補強しているのだそうです。

また、時代は遡りますが、明治時代になった時に、当時の官吏が、この石を「猥褻物(わいせつぶつ)」と認定し、石を取り去ろうとしたそうです。

しかし、地元の住民が、昔から大切に祀ってきた旨を説明し、どうにか撤去は免れた事が伝わっているそうです。


全く・・・今も昔も、「役人 = 公務員」は、どうして、普通の人には理解出来ない行動を取るのでしょか ?

恐らくは、「役人 = 公務員」と言う生物は、人間とは違う「公務員」と言う種類の生き物なのだと思います。

皆さん、「ネコ」の行動を理解できますか ? 「役人 = 公務員」も、ネコや犬と同様、「人間には理解出来ない行動を取る生き物」だと思えば、どうにか納得出来ます。

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さて、話を前に進めますと、この「天王寺公園」入り口の階段を登り、上記の鳥居をくぐり抜けると、左に「彌榮(やさかえ)神社」、右に「子宝明神」が鎮座しています。

この「彌榮(やさかえ)神社」、散々調査しましたが、御祭神が、何の神様なのか地元でも解らない様です。

しかし、全国の「彌榮(弥栄)神社」を調べてみると、そのほとんどの御祭神は、先の「八坂神社」と同様、祇園信仰の「建速須佐之男命牛頭天王」になっています。


祇園信仰に基づく神社の名称は、「やさかえ(彌榮/弥栄) = やさか(八坂) = やぐも(八雲)」としている所が多いようです。

そして、この場所の名前も、「天王山公園」と言う名前になっていますので、つまりは「牛頭天王」に由緒がある公園なのだと思われます。

と言う事で、あくまでも推測ですが、やはり御祭神は、「建速須佐之男命牛頭天王」なのだと思います。


ところで、この「彌榮神社」脇にある、2つの「子宝明神」ですが、残念ながら、由緒/起源は全く解りませんでした。

また、「本殿(小屋 ?)」の周りには、「本殿」に収まりきらない「金勢様」も、多数見受けられますが・・・何か、可哀想です。

そして、上図、朱塗りの本殿の中には、金色の、そしてご立派な「金勢様」が祀られています。


こちらの本殿、施錠されている様に見受けられますが、たまに開ける事も出来るようで、中を拝見すると、中には、可愛い「リトル」が、何体か納められているようです。

「金色の金勢様」と言えば、「諏訪神社」の章でも紹介した、「金勢信仰」のルーツとも伝わる「巻堀神社」のご神体を思い浮かべるのですが・・・

「金勢様」をアップで見てみると、「巻堀神社」のご神体とは異なり、金色のビニールのような物で覆っているだけの様です。

「巻堀神社」のご神体は、ちゃんと「塗装」されているとの事なので・・・ちょっと残念に思えます。


そして、右隣の本殿には、木製の「陰陽物」が祀られているようです。

どちらの「金勢様」もご立派なご神体だと思いますが、はやり由緒/起源が明らかになっていないと、せっかくのご利益も半減してしまうのではないかと思ってしまいます。

由緒/起源が明らかになれば、子授けパワーもアップすると思います。

地元の方で、何か由緒/起源をご存知の方は、歴史に埋もれてしまう前に、成り立ちを記録しておいた方が良いと思います。

私の推測ですが、恐らくは、「夫婦石」 → 「子宝地蔵」 → 「金勢様」となったのではないかと思いますが・・・どうなのでしょうか ?

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他方、今は、既に閉館してしまったようですが、平成9年(1997年)までは、この「夫婦石」の近くに「夫婦石おいとこ館」と言う施設があリました。

しかし、経費の関係で閉館してしまい、現在は、広大な空き地になってしまっている様です。

そして、在りし日の「夫婦石おいとこ館」は、次の様な作りになっていたようです。


・1階 :夫婦石関連展示
・2階 :馬事資料館

千厩町」は、下記過去ブログでも、ちょっと触れていますが、「源 義経」の愛馬「太夫黒(たゆうぐろ)」の産地としても有名な「南部馬」の産地でした。

「千厩(せんまや)」と言う地名自体も、「千の厩(うまや)がある」と言う意味です。

★過去ブログ:岩手/盛岡と「馬」の関係 〜 本当に「お馬様様」です! - 前編


その中でも、1階の「夫婦石」関連の展示物には、全国各地の「夫婦」系の石や岩の紹介コーナーがあったり、上図のような「高さ70cm × 外周91cm」、重さ20kgの「チョメチョメ型のスタンプ」があったりしたようです。

スタンプを押すこと自体は無料のようですが、専用色紙が200円もした様です。


現在は、同じ千厩町内の「千厩酒のくら交流施設」に置かれており、「ひなまつり」等のイベントで展示されている様です。

その他、「夫婦石おいとこ館」には、左のような木製の「女陰」のような物も展示されていたようですが、現在は、「夫婦石おいとこ館」の展示物が、様々な施設に分離してしまっているようです。

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ちなみに、「おいとこ」とは、諸説あるようですが、宮城県北部から岩手県南部に当たる、旧・伊達藩の領地で歌われていた民謡「おいとこ節」と言う事なのですが・・・

その他にも、この唄は、『千葉県多古町(たこまち)に伝わる白桝粉屋(しらますこなや)と呼ばれる唄で、「おいとこそうだよ」と歌い出す所から、「おいとこ節」とも呼ばれている。』と言う説や、その他の説もあるそうです。

とにかく、東日本地域で、広く歌われている民謡との事らしいです。

このため、歌詞も複数あり、「故・江利チエミ」氏は、次の様な歌詞で歌っていたそうです。

『 おいとこそうだよ 紺ののれんに 伊勢屋と書いてだんよ お梅十六 十代伝わる 粉屋の娘だんよ
 なるたけ朝は早起き のぼる東海道は五十と三次 粉箱やっこらさとかついで あるかにゃなるまい
 おいとこそうだんよ 』

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■その他
それでは、最後に、詳しい情報が全く解らない「金勢様」を紹介します。

●岩手町一方井「個人宅」


こちらの「金勢様」は、「岩手郡岩手町一方井(いっかたい)」と言う変な名前の場所にあるそうです。

「一方井」と言う場所は、東北新幹線沼宮内(ぬまくない)」駅と言う、これも変な名前の駅から約5kmの場所なのですが、そこの、個人の庭の一角に、この「金勢大明神」があったそうですが・・・

現在では、手入れがされていなく、庭が荒れ放題で、どこにあるのか分からなかったそうです。


●岩手町川口「豊城稲荷神社」


その次も、同じく「岩手郡岩手町」ですが、こちらは、いわて銀河鉄道岩手川口」駅から、約1km離れた場所にある「豊城(とよしろ)稲荷神社」の境内に鎮座している「金勢大明神」です。

この神社、地元では、山車等も出るほど賑やかな例大祭が開催されているのですが・・・何故か、神社を紹介する記事が全く見当たりません。

江戸時代初期、寛永2年(1625年)創建で、その後、正徳年間(1711〜1716年)に、山城国紀伊郡(現・京都府)にあった稲荷本宮、つまり「伏見稲荷」から分霊してもらった由緒正しい「正一位稲荷大明神」なのですが・・・全く情報がありませんでした。

何か、禁忌を犯しているのでしょうか ? 不思議な神社です。


紫波町沢田前「太子堂


最後は、全く情報がありませんが、紫波町沢田前にある、恐らくは「聖徳太子」を祀った「太子堂」の脇にある「金勢様」です。

この場所は、個人の敷地だったようで、全く情報がありません。

近くに、「太子堂」と言うバス停があるので、やはり「太子堂」なのだと思いますが・・・

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今回は、恐らく、岩手県内の「金勢様」を紹介するシリーズの最後になると思いますが、次の情報をお伝えしました。

●みちのく民俗村/北上市
諏訪神社/北上市
●衣川村の雌雄石/奥州市
●泉増寺「ぽっくり観音」/陸前高田市
気仙郡の陽神岩・陰神岩/陸前高田市
●天王社夫婦巨石/一関市
●その他(3ヶ所)

最後は、情報不足のため、尻切れトンボのような形になってしまいましたが、きっと、この他にも、由緒/起源が解らない「金勢様」は、沢山いらっしゃると思います。

本ブログの最初に記載したとおり、「金勢様」シリーズでは、今回を含め、全6回に渡り、当初の予定とは異なる箇所もありましたが、下記41ヶ所の「金勢様」を紹介しました。


【 第1回】
二戸市
1 枋ノ木(こぶのき)神社 金勢様
2 蒼前(そうぜん)神社/中沢の虫まつり 人形/虫送り
3 高清水稲荷社/人形まつりと金精神 人形/虫送り
4 馬仙峡の夫婦岩 夫婦岩

八幡平市
5 藤七温泉/金勢神 金勢様
6 横間虫追い祭り 人形/虫送り

【第2回目】
盛岡市
7 淡島明神社/淡島・金勢祭り 金勢様
8 智和伎(ちわえ)神社/淡島・金勢祭り 金勢様
9 巻堀(まきぼり)神社 金勢様
10 盛岡八幡宮/金勢神社 金勢様
11 櫻山神社 夫婦岩
12 芋田産土(いもだ-うぶすな)神社 男根/女陰

【第3回目】
宮古市
13 日影の沢/金勢社 金勢様

紫波町
14 走湯(そうとう)神社 金勢様
15 新山金勢神社 金勢様

遠野市
16 山崎/金勢明神 金勢様
17 伝承園/金勢様 金勢様
18 たかむろ水光園/金勢様 金勢様
19 遠野ふるさと村 人形
20 春風祭り 人形

【第4回目】
遠野市
21 綾織(あやおり)/駒形神社/オコマ様 金勢様
22 程洞(ほどてい)/金勢明神 金勢様
23 多賀神社 金勢様
24 乳神様と金精様 金勢様
25 達曽部(たっそべ)/熊野神社 陰陽石
26 早池峰神社 金勢様

【第5回目】
花巻市
27 大沢温泉/金勢神社仮宮 金勢様
28 鼬幣(いたちべい)稲荷神社 金勢様
29 花巻御柱神社/早坂稲荷神社 金勢様
30 成島毘沙門堂 /三熊野神社 男根/女陰

西和賀町
31 湯川温泉高繁旅館 金勢様
32 白木野/疫病送り 人形

【第6回目】
北上市
33 みちのく民俗村 金勢様
34 諏訪神社 金勢様

奥州市
35 雌雄石(男石女石) 陰陽石

陸前高田市
36 産形(うぶかた)観音堂産形石 男根/女陰
37 陽神岩・陰神岩 夫婦岩

●一関市
38 天王社夫婦巨石/子宝明神 夫婦石/金勢様

●その他
39 岩手町一方井「個人宅」 金勢様
40 岩手町川口「豊城稲荷神社」 金勢様
41 紫波町沢田前「太子堂」 金勢様

こうして一覧表にしてみると壮観な感じがしますが、やはり「遠野市」だけは特別と言う事が良く分かります。

また、盛岡市も、「巻堀神社」がある事が影響しているのかもしれませんが、盛岡藩の中心地と言う事もあり、それなりに多くの「金勢様」が、いらっしゃいました。

本シリーズは、今回が最後になると思いますが、また新たな発見があれば、折を見て紹介したいと思います。

これまで、ご精読、ありがとうございました。

また、次回の「岩手・盛岡情報」も宜しくお願いします。

以上

【画像・情報提供先】
Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)
・公益財団法人岩手県観光協会(https://iwatetabi.jp/index.php)
・よねちゃんの車中泊旅行記(https://blogs.yahoo.co.jp/shigeaki0430)
・東京ぶらぶらり(http://cheeringup.blog35.fc2.com/)
東海新報(https://tohkaishimpo.com/)
・南三陸滝見隊(http://takimitai.blog.fc2.com/)
江利チエミファンのひとりごと(https://blog.goo.ne.jp/udebu60827)
・石田道場(http://ishidadojo.blog.fc2.com/)


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