岩手県の山岳信仰 その1 〜 本当に不思議な山ばかり

今回は「岩手県山岳信仰」と題して、岩手県内にある数多くの「山」の内、古くから庶民の信仰対象となってきた山々を紹介したいと思います。


左の画像は、岩手県における「山岳信仰」の中心である「早池峰山」の御朱印ですが、ところで、皆さん、「山岳信仰」とは、どのような信仰だと思いますか ?


当然、山を拝む事が「山岳信仰」と言う事は解っていると思いますが、それでは何故、山を拝むのでしょうか ?


山岳信仰」は、自然崇拝の一種です。原始社会では、山、大木(巨木)、巨岩/奇岩、湧水と言った天然の物を崇拝するケースと、地震、雷、洪水、噴火、旱魃、疫病、等と言う自然現象を崇拝するケースがあります。


そして、「山」に関しては、古来より「神」が宿る場所として、拝み続けられて来ましたが、これは、「魂」や「霊魂」の考え方が影響していると思います。


原始社会では、人が亡くなると、亡くなった人の「魂」は、村に近い山に昇って「先祖霊」となり、そして、その後、子孫が「先祖霊」を拝む事で「山の神」になると考えられて来ました。


このため、「山」自体が「神が宿る」特別な場所、「神域」であると言う考え方が、日本人の信仰観、自然感のベースとなってきたと思われます。


また、奈良時代になると、「山岳信仰」とは別に、険しい山で修行を行い、悟りを開く事を目的とした、「役 行者(えん-の-ぎょうじゃ)」を初めとする「修験者」が現れ始めます。



そして、平安時代になり「仏教」が広がり始めると、まず「仏教」と「修験者」が融合し、次に、そこに「山岳信仰」が習合し、日本独自の宗教である「修験道」が出来上がりました。

その後、空海(真言宗)や最澄(天台宗)が「仏教」に「密教」を取り入れると、「修験道」でも密教系の山中修行を取り入れ、鎌倉時代に、その立場を確率したようです。



亡くなった先祖は、山頂の浄土へと導き成仏させ、そして「山の神様」になってもらいます。祖先の霊は、正月やお盆、あるいはお彼岸に、山から子孫のもとにやって来ます。帰って来た霊たちは、子孫によって暖かく迎えられ、ある期間の間大切に崇められ、又山に帰って行きます。この神仏習合の信仰は、日本が独自に開発したものであると考えられています。

山岳信仰」と言うと、山伏等の山岳修験者を思い浮かべるかもしれませんが、実は「修験道」は、「山岳信仰」と「仏教」が習合した形であり、古くから存在した「山岳信仰」とは別の信仰になります。

ところで、岩手県における「山岳信仰」といえば、前述の通り、第一番に「早池峰山」が挙げられるのですが、今回は、次の山における「山岳信仰」を紹介したいと思います。

項番 山名 神社 創建 関係者・イベント
1 早池峰山 早池峰山神社 平安時代 大同2年(807年) 田中兵部成房
2 岩手山 岩手山神社 奈良時代 延暦20年(801年) 坂上田村麻呂
3 姫神 姫神嶽神社 奈良時代 延暦年間(782〜806年) 坂上田村麻呂
4 室根山 室根神社 平安時代 嘉祥3年(850年) 滋覚大師
5 五葉山 五葉山日枝神社 奈良時代 延暦20年(801年)
6 明神岳  兜神社 鎌倉時代 近能左七郎親良
7 南昌山 南昌山神社 奈良時代 延暦22年(803年) 坂上田村麻呂
8 六角牛山 六神石神社 平安時代 大同年間(806〜810年) 坂上田村麻呂
9 折爪岳 山居大権現
10 氷上山 氷上山神社 平安時代 仁寿2年(852年) 従五位下授章

また、全てを1回で紹介するのは、ページの都合上無理があることが解りましたので、今回と次回の2回に分割させて頂きます。

今回は、上から5個、上記の表の太字の山と神社を紹介します。

ちなみに、当ブログでは、これまでに、「山開き情報」や「巨石情報」、あるいは「神楽情報」等で、次の山を紹介して来ました。情報が重複すると思いますが、その点はご容赦下さい。

早池峰山 ●五葉山
岩手山早池峰山
姫神山 ●南昌山

それでは今回も宜しくお願いします。

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早池峰山

早池峰山に関しては、何度も紹介していますので、概要に関しては、過去ブログをご覧下さい。
★過去ブログ:http://msystm.co.jp/blog/20140524.html#two


しかし、過去ブログで紹介出来なかった点もありますので、その点については、今回、紹介したいと思います。


まずは、早池峰山には、東西南北に登山口があり、登山口それぞれに早池峰神社があるそうです。


●東登山口(宮古市江繋):新山堂
●西登山口(花巻市大迫町):池上院妙泉寺
●南登山口(遠野市附馬牛町):持福院妙泉寺
●北登山口(宮古市門馬):新山大権現


これまで、早池峰神社は、1個だと思っていました。恥ずかしい・・・ちなみに、上記名称は、明治時代以前の名称で、現在は、全て「早池峰神社」となっています。


加えて、何故か、盛岡市の隣、矢巾町にも「早池峰神社」がありますので、「早池峰神社」と言う神社は、合計5個存在することになります。


早池峰山を信仰する人達は、当初は近郊の村々の人達だけだったと思われますが、その内に岩手県北部から宮城県中央部までに及ぶようになったようです。また、明治以降の登山者名簿には、関東地方から来た人の記録も残っています。


当時のお参りは、「講(こう)」と呼ばれる集団でのお参りが基本です。「講」とは、地域毎に、毎年代表者を選び、数十名単位でお参りを行う事です。


有名な「講」としては、富士山にお参りする「富士講」や、伊勢神宮にお参りする「伊勢講」等がありますが、「早池峰講」も、そこそこ盛んだったようです。


そして、「早池峰講」を行った地域では、その地域に「石碑」を建てることも流行りました。

これは、年寄りや女性、あるいは病気のために早池峰山に登ることができない人が、遠方からでも早池峰山を拝むことができるように建てた石碑になります。

事実、早池峰山は、明治までは「女人禁制」の山でしたから、女性の場合は、この石碑を拝むしか信仰する方法が無かったと思います。


早池峰山は、「山の神」、「水の神」、そして、何故か「海上守護の神」として信仰されてきたのですが、どうして「女人禁制」なのかと言うと、早池峰山の神が「女神」だからというのが通説らしいです。


遠野物語 第2話 】

●原文
(略)
大昔に女神あり、三人の娘を伴ひて此高原に来り、今の来内三村の伊豆権現の社ある処に宿りし、今夜よき夢を見たらん娘によき山を与ふべしと母の神の語りて寝たりしに、夜深く天より霊華降りて姉の姫の胸の上に止りしを、末の姫眼覚めて窃に之を取り、我胸の上に載せたりしかば、終に最も美しき早池峰の山を得、姉たちは六角牛と石神とを得たり


若き三人の女神各三の山に住し今もこれを領したまふ故に、遠野の女どもは其妬を畏れて今も此山には遊ばずと云へり


●現代語訳


大昔に女神がいて、三人の娘を連れてこの高原に来、今の来内三村の伊豆権現の社ある場所に宿った夜、今夜よい夢を見た娘によい山を与えようと母の神が語って寝たところ、夜深く天から霊華が降り、姉の姫の胸の上に止まったのを、末の姫が目覚めて、こっそりこれを取り、自分の胸の上に乗せたところ、ついに最も美しい早池峰の山を得、姉たちは六角牛と石神とを得た


若い三人の女神はそれぞれ三つの山に住み、今もこれを支配しておられるので、遠野の女たちはその妬みを恐れて、今もこの山には入らないという


そして、この女神達ですが、次のように記録されています。

神の名前 神社
●母神 瀬織津姫命(せおりつ-ひめのみこと)/俗名:おない 伊豆神社
●姉神 大己貴命(おおなむち-のみこと)、誉田別命(ほむだわけ-のみこと) 六神石神社
●姉神 経津主命(ふつぬし-のみこと)、伊邪那美命(いざなみ-のみこと)、稲蒼魂命(いなくらたま-のみこと) 石上神社
●末妹神 瀬織津姫命(せおりつ-ひめのみこと) 早池峯神社


これが、早池峰山の神様と山への信仰方法になります。


早池峰山の神様に関しては、岩手山姫神山との絡みもあるのですが、それは「姫神山」の章で紹介したいと思います。

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岩手山

岩手山に関しても、何度も紹介していますので、概要に関しては、過去ブログをご覧下さい。
★過去ブログ:http://msystm.co.jp/blog/20140524.html#seven


巌鷲山、南部片富士、岩手富士、霧山岳、大勝寺山・・・その他にも、色々な呼び方がある「岩手山」ですが、実は、東西二つの火口が合体した山になっています。


この「岩手山」も、「早池峰山」と同様、古くから信仰されている山で、東、北、南の3方向に登山口があり、やはり、それぞれの登山口に「岩手山神社(山号:巌鷲山)」が建立されています。



●東口 :滝沢村市柳沢、柳沢口
●北口 :西根町平笠、平笠口/上坊口
●南口 :雫石町長山、雫石口


これら「岩手山神社」、藩政時代には「新山堂(しんざん-どう)」と呼ばれ、山頂にある「奥宮」に対する「里宮」の位置付けとなり、これより先は「神域」とされ、明治時代中頃までは「女人禁制」でした。


柳沢口にある「岩手山神社」は、奈良時代延暦20年(801年)、坂上田村麻呂が、蝦夷討伐のおりに建立された神社とされています。また、その後も、源 頼義が、阿倍氏討伐の際にも、戦勝祈願を行ったと伝えられています。


しかし、実際には、上記神社以外にも、3箇所もの岩手山神社(八幡平市/盛岡市/紫波町)が存在しています。



岩手山神社」のご祭神は、場所により若干異なりますが、ほとんど、次の三神が祀られています。

大穴牟遅神(おおなむじの-みこと)
●宇迦之御魂神(うかの-みたまの-みこと)
日本武尊(やまと-たけるの-みこと)

岩手山」への登山は「お山がけ」と呼ばれ、精進潔斎して「白装束」をまとって登ったそうで、不浄不潔の者が登山を行った場合、必ず強風や強雨が起こり、行方不明者を出すと伝えられてきたようです。



岩手山山頂には、「御室」、あるいは「御殿」と呼ばれる火口に、「岩手山神社奥宮」があります。そして、この「奥宮」には、花崗岩からなる権現の頭が祀られておりますし、山頂の御鉢には、63基もの観音像が並んでいるそうです。


江戸時代末期より、岩手山への参詣者が急増したらしく、文政2年(1819年)には、町人らの寄付により、「岩鷲山参詣の道しるべの碑」が、麓より頂上まで10本建てられています。


また、北口の登山口には、二合目から八合五勺目までの登山道に、文政5年(1822年)に建立された石碑が、9本が現存しているそうです。


重い石碑や資材を背負って登山する行為は、(現在でも辛いと思いますが)当時としては、想像を絶する行為だと思いますが、これが「岩手山」への信仰だと思われます。


江戸時代末期までは「岩鷲権現」とも呼ばれ、奥州最高の霊山であり、庶民の祟敬の山でした。中世から近世に掛けて山伏修業による祭事も行われていたようですが、明治時代以降は無格社になってしまいました。


また、山岳信仰が盛んだった頃には、山に登るために、身を清めるための行をする建物として「浄屋」と言う場所があったそうです。


現在では、この場所は文化財として保存されていますが、この「浄屋」は、当然、女人禁制で、前にも紹介した「講」と呼ばれる地域の代表が、岩手山参りをする時に、出発前に籠る場所として、ほとんどの集落に存在していたようです。


岩手山講」として「お山がけ」をする場合、出発する1週間前から、風呂で身体を清める「水垢離」を行い、「白装束」を着て「浄屋」に籠もったそうです。


そして、「お山がけ」に出発した後は、「お山繁昌、同者も繁昌、南無阿弥陀仏」と唱え、家内安全、五穀豊穣を祈り参詣し、帰ってからは、再び「浄屋」に入り、最後の禊をして解散したそうです。


また、この時まで「浄屋」の火は絶やさず、白装束も、死んだときに着るものとして、大切に保管していたそうです。

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姫神


姫神山(ひめかみ-さん)」は、盛岡市玉山区にある、標高1,123.8mの、綺麗な三角形の形をした山です。


盛岡駅前からですと、一般的な登山口と言われている「一本杉キャンプ場」まで約30km、車で1時間程度の場所となります。


そして、「一本杉キャンプ場」から頂上までは、約1時間30分程度で到着できるそうです。


私も、小学生の時、確か・・・4年生の時に、学校の行事で登った事はあるのですが、何分、40年以上も昔の事なので、時間までは覚えていません。


その辺りの事は、過去ブログにも書いてありますので、ちょっとご覧になって下さい。
★過去ブログ:http://msystm.co.jp/blog/20140621.html#one



姫神山」には、4個ほど登山口があるようですが、これまで紹介した早池峰山岩手山とは異なり、それぞれの登山口に「姫神山神社」が建立されている、と言う様な事は無いみたいです。


姫神山」には、同じ玉山区ですが、「姫神山」からは、かなり離れた「玉山区舘」と言う場所に、「姫神獄(ひめかみだけ)神社」と言う神社があります。


姫神山」に関しては、開山の経緯は後ほど触れますが、元々は、山頂に「姫大神」を祀り、山麓には「玉東筑波等」を建立し、姫神本地仏として「十一面観音立像」を安置していたそうです。


それが、明治時代の廃仏毀釈により、「筑波寺」から「十一面観音立像」は取り除かれ、名前も「姫神獄神社」に改称させられてしまったそうです。


さらに、「姫神獄神社」が山中にあり、参拝が困難だったため、元々は「玉山観音堂」があった跡地である現在の場所に移されてしまったそうです。


何と言うメチャクチャな対応なんでしょうか!! こんな勝手な事をしたら、神様、怒っちゃいますよね。



ちなみに、「十一面観音立像」は、現在は、近くの「東楽寺」に移されて保管されているようですが・・・残念な事に傷みが酷いようです。


この地域では、「姫神獄神社」が存在した影響で、数多くの「十一面観音像」が存在し、「十一面観音像の聖地」とも呼ばれていたようですが、今では、その面影も無いようです。


江戸時代には、山頂に「姫大明神」を祀り、山麓に玉東山筑波寺を建立、本地仏十一面観音を安置して神山と称し、神山から山頂の本宮まで、10ヶ所もの御堂が並ぶ山岳信仰の霊山だったようです。


しかし・・・過去の歴史をブログに記載していて思うのですが、明治の「廃仏毀釈」は、本当にとんでもない、愚かな行為だと思います。


いくら、天皇に政治の実権を戻すためとは言え、貴重な遺産を壊すなんて、今の「タリバン」のバカどもと同じ行動です。


廃仏毀釈」、「焚書坑儒」、「ナチス焚書」・・・世界には、歴史に学ばず、似たような愚かな行動を取るバカが存在していますが、愚かな行動を取ったのが、日本人だけでない事が僅かな救いです。


ところで、話を元に戻して、「姫神山」開山の経緯を紹介しますと、「姫神山」も、本ブログに何度も登場する「坂上田村麻呂」系の話らしいです。


蝦夷征伐の折、(東北出身の私としては、「征伐」と言う言葉に違和感を覚えますが)「坂上田村麻呂」が、自身の守護神である「立烏帽子神女(たてえぼしひめ)」を「姫神山」に祀る事で、この地域の反乱を鎮めたと伝えられています。


坂上田村麻呂」と「立烏帽子神女」の関係ですが、平安時代初頭、鈴鹿山を根城にして、京の都に出没しては悪事を働く悪い鬼どもが居るという事で、「桓武天皇」の命により、「坂上田村麻呂」が山中深く分け入って鬼退治をした時に、山中で一人の神女に巡り会ったそうです。


その神女が、「坂上田村麻呂」を見込んで、自ら進んで彼の守護神となったと言われます。


そして、その神女は、自らを「立烏帽子神女」と称し、その時以来、神女は「坂上田村麻呂」を護り、彼が戦う度に彼に連戦連勝をもたらしてくれたそうです。


ちなみに、この「立烏帽子神女」は、「鈴鹿権現」とも言われていたり、前述の「鬼」や「盗賊」そのものであるとも言われていたりしています。

また、「ひめかみ山」の地名由来は、「坂上田村麻呂」が、胆沢地方、および志波地方の蝦夷勢力の掃討作戦に勝った時に、神女を岩鷲山の北々東およそ20kmの所にある、美しい山の山頂に祀り、これを「姫ヶ丘」と呼んだという故事にちなんで名付けられたのが、現在の「姫神山」と言う事です。


ところで、「姫神獄神社」の祭神は、「姫大神(姫太神)」と「須世理姫命(すせりひめのみこと)」となっており、岩手県内では、「岩手山」、「早池峰山」、そして「姫神山」の三山を、「北奥羽の三霊山」と呼んでいたそうです。


それでは最後に、この「三霊山」の三角関係について紹介したいと思いますが、似たような話が、何種類か存在し、場所により微妙に異なっているので、出来るだけ話の内容が異なるものだけ紹介します。


【 伝承1 】

太古、岩手山は雄神で、姫上山を本妻とし、南の早池峰山を妾としていた。しかし、姫神山は、嫉妬が激し過ぎるというので、岩手山は夫婦の縁を切ってしまう。

姫神山はこれを恨み、麻をつむいだ丸緒(へそ)を、岩手山の裾野に投げつけた。これが数多くの塚になり、やがて丸緒森になった。

また、姫神をポン出す(追い出す)時に、岩手山は「オクリセン(送仙)」という従者を付け、ずっと遠くへ送るよう申しつけたが、姫神山は、すぐ近くの真向かいに座してしまった。

岩手山はこれを見て大いに怒り、命に背いたオクリセンの首を切った。この首は、岩手山の右裾に見える「送仙山」になった。

こうしたことから、姫神山に登る人は、その年は岩手山に登ってはならず、岩手山に登る人は、姫神山に登ってはならいと言う。もしもこの禁を破ると、必ずその者に災厄があるのだそうだ。


【 伝承2 】

岩手山は、昔この地方の主宰者であった。そして姫神山はその妻であった。けれども彼女の容貌があまり美しくなかったので、岩手山は同棲を嫌がり、遂にお前は俺の目のとどかない所にいけといって、彼女を追い出すことになった。

そしてその送り役にはオクリセンという家来に申付け、もし首尾能く使命を果さないときは、お前の首はないものと心得よとの厳命をした。

姫は泣く泣くオクリセンを伴って出て行ったが、翌朝、岩手山が目を覚まして東の方を見ると、これ如何に姫神山は悠然と眼前に聳えているので、非常に怒って、口から盛んに火を噴いたために、谷は鳴り渡り、山は震いどよめいて凄惨を極めた。

岩手山姫神山の間にある送瀬山(おくりせん)の頭が欠けてないのは、その岩手山が憤怒の余り、彼の首を落としたためであり、その首をば自分の傍らにおいたのが、今右裾に見える岩手山の瘤であるし、また送瀬山の近くにある五百森と呼ばれる青草で蔽われた多くの丘のあるのは、姫が後の形見にと手に持った巻子(えそ)を散らしたものだといい、赤い小石の多い赤川は、やはり記念に姫がお歯黒を流した跡だということである。


【 伝承3 】

早池峰岩手山は男で、姫神山は女。岩手山姫神岳は夫婦になったが、早池峰山が横恋慕して姫神を騙して自分のものにする。

だから今でも早池峰岩手山は仲が悪くいつも姫神を争って喧嘩している。

その証拠に夏に三山が同時に晴れることは決してない。早池峰姫神が晴れれば岩手山が曇り、岩手山姫神岳が晴れれば早池峰山はきっと曇る。


【 伝承4 】

早池峰山男神岩手山姫神山は夫婦だったが、早池峰姫神に横恋慕して女神を騙して我が物にした。

そのため岩手山早池峰山は中が悪く、この二つの山が同時に晴れたことはない。

一説には岩手・早池峰両山が姫神を争って毎日戦ったので、神々が心配して二つの山の間に川を投げ入れた。それが今の北上川だという。


何れも、岩手山早池峰山、そして姫神山の三角関係の話です。霊山と言われる三山が、三角関係でモメると言う伝説があるのは、何とも・・・

まあ、ギリシア神話も、全能の神と言われる「ゼウス」が、浮気ばかりしている話ですから、洋の東西を問わず、神様達もお盛んだと言う事だと思います。

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■室根山

「室根山」は、その名の通り、一関市室根町にある山で、標高約895mとなる、北上高地の独立峰です。

また「室根山」は、別名「桔梗山」や「卯辰山」と呼ばれており、「日本武尊(やまとたけるのみこと)」が鬼退治をしたという伝承もあるため、「鬼首(おにかべ山/おにこうべ)山」とも呼ばれています。

「室根山」は、道路が整備されているので、車で頂上まで行けますが、敢えて登山と言う方は、JR大船渡線「折壁」駅から約8.8Km、時間にして約2時間程度で登山が出来るそうです。


また「室根山」の山頂には、キャンプ場、天文台、乗馬クラブ、温泉、宿泊施設、果ては、ハンググライダーまで出来る施設が設置されているようです。


何か、こんな事を書いていると、「山岳信仰」の紹介ではなく、単なる「レジャー施設」の案内をしている様な感じがして来ます。


しかし、八合目には、ちゃんと「室根神社」があります。


この「室根神社」の歴史は古く、由来によると、奈良時代の養老2年(718年)、天正天皇の勅命により、鎮守府将軍大野東人(おおのの-あずまびと)」が、蝦夷征討祈願の為に、紀州牟婁(むろ)郡本宮村から、熊野大社本宮の勧請を元正天皇に願い出て許されたそうです。


その後、紀州から船団を組み、5ヶ月を掛けて宮城県本吉郡唐桑町の鯖立(しびたて)に到着し、舞根神社(瀬織津姫神社)を仮宮としたそうですが、後の神託により、現在の室根山に、熊野神を勧請したそうです。


この勧請以来、「室根山」は、「牟婁峯(むろね)山」となり、平安時代の安元元年(1175年)、「室根山」に改称したとされています。


その後は、藤原氏の滅亡の後、鎌倉時代の正和2年(1313年)、「葛西 清信(かさい-きよのぶ)」が熊野新宮を勧請したが、両宮とも数度の火災の為、再建されています。


特に、1260年頃、時の執権「北条 時頼(ほうじょう-よりとき)」は、寺僧の非礼に激怒し、48院88坊全てを焼き払ったと伝えられています。(奥州天台宗廃滅令)


また、「室根神社」では、「東北三大荒祭り」の一つとして有名で、現在は、「国指定重要無形民俗文化財」となっている室根神社特別大祭「まつりば行事」が行われています。


この荒祭りは、4年に一度、旧暦の閏年の翌年に行われるそうで、1,300年位の歴史ある祭りだそうですが、詳細は、また後日、紹介したいと思います。


さらに「室根神社」、特に「新宮」には、樹齢千年を超えると伝えられている「千年杉」を初め、境内には杉の巨樹が数多く存在します。標高850mを超える場所に、これほどの巨木が存在するのは珍しいそうです。(と、案内板に記載されています。)



そして、隣の山の斜面には、「室根山三十三観音」があります。


これも説明板によれば、観音は、民衆の願いに応じるため、三十三の姿に化身すると言われ、この場所には、聖観音、千手観音、馬頭観音、等、三十三体の石像観音が安置されています。


この斜面の下に、前述の「奥州天台宗廃滅令」の際、ご本尊である「十一面観音像」を隠したと言われる岩窟があるそうです。


さて、この歴史ある「室根神社」ですが、本宮のご祭神は「伊弉册命(いざなみ)」で、新宮のご祭神は「速玉男命(はやたまのをのみこと)」と「事解男命(ことさかのを)」となっています。


新宮の方は、ご祭神が、熊野神社系なので問題無いと思います。しかし、本宮の方が問題です。


先の説明では、鎮守府将軍大野東人」が、熊野大社の本宮を勧請しているはずですが・・・何故かご祭神が「伊弉册命」となっています。


「伊弉册命」と言えば、古事記の「国生み」や「黄泉の国」が有名ですが、「伊弉册命」が、何で、そして何時、「室根神社」のご祭神になったのかは不明です。


「不明」ついでに記載すれば、鎮守府将軍大野東人」が、熊野大社本宮を勧請して、仮宮を舞根神社(瀬織津姫神社)に設置したとなると、この時のご祭神は「瀬織津姫(せおりつ-ひめ)」だと思うのですが、何故か、この「瀬織津姫」の名前も、「室根神社」から消えてしまっています。


何で、「熊野神社本宮」の神様や「瀬織津姫」が、「室根神社」のご祭神から消えてしまったのかは、今となっては、誰にも解らないものとなってしまっているようです。


さて「室根山」に対する信仰ですが、元々は、蝦夷征服を目的に、国家事業として熊野神を勧請したのが始まりです。蝦夷征服と言う、当初の目的を達した後は、天台宗と強力に結びつき、朝廷までをも取り込んだ「山岳信仰」となって行きます。


蝦夷征服が完了した後、平安時代初期となる850年頃には、天台宗の開祖「最澄」の高弟であり、第三代天台宗座主となった「円仁(慈覚大師)」が、前述の通り「室根神社」に、4寺48院88坊から成る、一大霊場を創りあげています。


このように、国家と結びついた、巨大な「山岳信仰」の場所も、時の権力者の怒りを買い、全て灰燼に帰してしまったのですが、その50年後に、領主「葛西氏」が、「室根神社」の復興に取り掛かり、現在に至っています。


現在では、前述の室根神社特別大祭「まつりば行事」では、五穀豊穣、大漁、平和祈願、交通安全、家内安全・・・要は何でもかんでも拝んでも大丈夫なようです。

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■五葉山

「五葉山」は、住田町、釜石市、そして大船渡市に跨る標高1,351mの山となり、北上山地では早池峰山に次ぐ高さで、三陸沿岸では最高峰です。


この「五葉山」に関しても、過去ブログで、「日本におけるピラミッド」と言われている事を紹介しましたので、巨石系の話や、山名の「いわれ」等に関しては、過去ブログをご覧下さい。
★過去ブログ:http://msystm.co.jp/blog/20140726.html#six


そして、この「五葉山」、近隣では「霊峰」と呼ばれているのですが・・・



この「五葉山」と言う名前を抱く神社が二社あり、一つが、「五葉山日枝神社」、もう一つが「五葉山神社」となります。


この二つの神社、実は、とても「ややこしい」事になっているようです。


特に、「五葉山日枝神社」に関しては、山麓にある里宮と、五葉山の山頂に奥宮があるのですが、この山頂の奥宮を、誰が創建したのかで、次の2つの意見があるようです。


平安時代となる久安元年(1145年)、「日頃市(ひころいち)村」の修験者「行泉坊泰円(ぎょうせんぼうたいえん)」が、日吉神を勧請し開山した。
延暦20年(810年)に創建され、天照大神など5柱の神々を奉っている。


この事は、江戸時代の寛永11年(1634年)、および明治16年(1833年)と、二度の火災により、古文書や宝物の一切焼失してしまった事に原因があるかもしれません。


結局、私には、どちらの言い伝えが正しいのか解りませんので、両方併記することにしました。


ちなみに、修験者説の方では、日吉大社系のご祭神ですから、ご祭神は「大山咋神(おおやまくいのかみ)」となります。


大山咋神」は、名前の通り、「山に杭(くい)を打つ神」と言う事で、「山の地主神」、および「農耕を司る神」と言われています。




次に「五葉山神社」ですが、住田町上有住の登山口には、「大山祇命(おおやまつみのみこと)」を祀る「五葉山神社」があります。


上有住の「五葉山神社」は、平安時代の大同2年(807年)、坂上田村麿呂が勧請したとされ、延喜式にも、「陸奥国気仙郡奏太手神社」と記載がある古社となります。


「五葉山神社」と呼ばれるようになったのは、両部の手で祭祀を奉仕する様になり、自然に、山の名を以て社名とする様になったためであり、神号を「五葉山大権現」と称し奉るようになったためであると伝えられています。


ちなみに、「五葉山神社奥宮」は、山頂尾根付近に、やや離れて存在しており、檜山コースを登れば辿り着くそうです。


なお、「五葉山神社」のご祭神である「大山祇命」は、「伊弉諾尊(いざなぎのみこと)」の子で、「山を司る神」と言われています。


また、「大山祇命」は、別名を「和多志大神(わたしおおかみ)」と言い、この「わた」と言うのは「海」を現す古語とされているので、この場合には、「海の神」と言うことにもなるそうです。


「五葉山」は、100km遠海からも望める山なので、航海者はもちろん、海業者の守護神として広く祟敬を集めています。また、名峰として古来修験文人に好まれ、ここに参籠して修行し鍛練を積んだ名氏も少なくないそうです。


この「五葉山日枝神社」と「五葉山神社」、神社の名前からも、また、ご祭神の名前からも、地元でも混在しているようで、区別も難しいそうです。


両神社の主祭神は、前述の通り「大山咋命(おおやまくいのかみ)」と「大山祇命(おおやまつみのみこと)」ですが、似ているようですが、実は、全然違う神様です。


しかし、これも前述の通り、どちらの神も、山の神、農耕の神、あるいは漁の神とされていますので、地元では、とても信仰されていたそうです。


※本章に関しては、内容に怪しい部分が多々ありますので参考程度にして下さい。

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ここまで、初回の紹介分である、下記5個の山について紹介致しましたが、如何でしたか ?


早池峰山 ●室根山
岩手山 ●五葉山
姫神


早池峰山岩手山、そして姫神山は、岩手を代表する山ですので、それなりに山岳信仰はあるとは思っていましたが・・・姫神山に関しては、ちょっと期待外れの感がありました。


それと、今回は割愛しましたが、過去ブログ(東北の短い夏を盛り上げる【北上・みちのく芸能まつり】)でも紹介しましたが、岩手県は「神楽」、それも「山伏神楽」の宝庫です。


「神楽」も、岩手県に伝わる「神楽」は、(江戸舞神楽とは異なり)神社への奉納を目的にしていますので、これも「信仰」の一種だと思われます。


特に、「早池峰神楽」に関しては、早池峰山早池峰神社に奉納する神楽で、戦国時代である長享二年(1488年)には、既に踊りを後世に伝える「伝授書」が完成していた事が明らかになっています。


故に、この「神楽」も、本来は「山岳信仰」としては、紹介すべき内容だったのかもしれませんが・・・何分、「神楽」の種類が5種類と多いのと、また各地の神社毎に「神楽」が存在するので、今回は割愛させて頂きました。


また、別の機会があれば、岩手県内の「神楽」も紹介したいと思います。


ところで、次回は、今回紹介できなかった、次の山を紹介します。


●兜明神岳(かぶとみょうじん) :その筋からご祭神を変えるよう圧力が掛かった「兜神社」
●南昌山(なんしょうざん) :「青龍権現様」を祀った「南昌山神社」
●六角牛山(ろっこうしさん) :「経立(ふったつ)」と言う妖怪が住む謎の多い山
●折爪岳(おりつめだけ) :「山居(やまおり)大権現」を祀り、妖怪「オトデ」が住む山
●氷上山(ひかみさん) :山腹に「黄金の島ジパング」伝説の元になった金山がある山


それでは次回も宜しくお願い申し上げます。

以上

【画像/動画・情報提供先】
Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)
・日本古典文学摘集 (http://www.koten.net/tono/gen/069.html)
・みちのくの山野草(http://blog.goo.ne.jp/suzukishuhoku/e/98cb53990a2e28c8c6f209c2665e6fff)
・辺境の仏たち(http://kanagawabunnkaken.web.fc2.com/index.files/raisan/torakuji.html)
・奥羽*温故知新(http://blogs.yahoo.co.jp/syory159sp)
・在京盛岡広域産業人会(http://zaikyomwaio.html.xdomain.jp/
・うり坊の滝見見聞録(http://ameblo.jp/uribouno1/)
二戸市観光協会(http://ninohe-kanko.com/index.php)
九戸村ホームページ(http://www.vill.kunohe.iwate.jp/)
・玄松子の記憶(http://www.genbu.net)

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