岩手県の山岳信仰 その2 〜 本当に不思議な山ばかり


今回は、前回に引き続き、「岩手県山岳信仰」と題して、岩手県内にある数多くの「山」の中から、次の山々を紹介したいと思います。

●兜明神岳(かぶとみょうじん)
●南昌山(なんしょうざん)
●六角牛山(ろっこうしさん)
●折爪岳(おりつめだけ)
●氷上山(ひかみさん)


左図は、本ブログでは紹介しませんが、「中尊寺」の御朱印です。今回紹介する神社の御朱印が見つからなかったので、「中尊寺」の御朱印を紹介します・・・済みません。


前回を含め、「山岳信仰」を紹介するブログでは、下表の山々と神社を紹介してきました。

項番 山名 神社 創建 関係者・イベント
1 早池峰山 早池峰山神社 平安時代 大同2年(807年) 田中兵部成房
2 岩手山 岩手山神社 奈良時代 延暦20年(801年) 坂上田村麻呂
3 姫神 姫神嶽神社 奈良時代 延暦年間(782〜806年) 坂上田村麻呂
4 室根山 室根神社 平安時代 嘉祥3年(850年) 滋覚大師
5 五葉山 五葉山日枝神社 奈良時代 延暦20年(801年)
6 明神岳  兜神社 鎌倉時代 近能左七郎親良
7 南昌山 南昌山神社 奈良時代 延暦22年(803年) 坂上田村麻呂
8 六角牛山 六神石神社 平安時代 大同年間(806〜810年) 坂上田村麻呂
9 折爪岳 山居大権現
10 氷上山 氷上山神社 平安時代 仁寿2年(852年) 従五位下授章


今回ご紹介する山々は、全てマイナーな山ばかりですので、恐らく、皆さん、「MKノーな山」ばかりだと思います。(見たことも聞いたことも無い山)


正直、私も、今回は、上から3番目の以降の山は、その名前も存在も知りませんでした。しかし !! そんな山であっても、ちゃんと神様はいらっしゃいます。


まあ、今回は、神様だけでなく、「もののけ」や「妖怪」までも出現しますが・・・・


でも、「もののけ」や「妖怪」も、一種の「山の神」ですから、きちんと拝まないと「たたり神」になってしまい、里に禍をもたらしてしまいます。


原始社会においては、「もののけ」や「妖怪」も、当然「山岳信仰」の対象でした。


それでは今回も宜しくお願い申し上げます。

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■兜明神岳


「兜明神岳」は、盛岡市から宮古市に向かう、国道106号線沿い、「区界(くざかい)高原」にある、標高1,005mの山となります。


山麓の登山口には、区界高原ウォーキングセンターという施設があり、キャンプ場や大駐車場、内部には休憩室シャワー・トイレ等が完備されており、そこから約1時間位、ハイキング気分で山頂まで登れます。


私も、小学生の頃、学校のイベントではなく、町内会、もしくは近所の子供クラブのイベントで登山した思い出があります。


ちなみに、「兜明神岳」のある「区界」までは、距離的には盛岡市内から約25Km、車やバスの場合、前述の国道106号線で40〜60分程度、電車でも、JR快速リアスで、やはり40分程度で行くことができます。


「区界」という地名は、奥州安倍氏時代(平安時代後期)の「奥六郡」の一郡である岩手郡(現:盛岡市)と、「奥六郡」以外の閉伊(へい)郡(現:下閉伊郡)との境界に由来しています。


この辺りは、今では「区界峠」と呼ばれていますが、古くは「明神峠」と呼ばれていたらしいです。また、かつて下閉伊郡の若者は、堺と峠、そして「兜明神岳」の三山をめぐる「御山駆け」が成人儀礼だったそうです。



そして、「兜明神岳」の麓には、「兜神社」が鎮座しています。


「兜神社」と言うと、「東京証券取引所」近くにあり、「平 将門」の兜を埋めたと言われる「兜町の兜神社」を思い浮かべるかもしれません。


しかし、こっちの神社は、次の事柄から「兜神社」と呼ばれるようになった、との事です。
・山頂部の岩塊が武者の兜に似ている
・「阿部 貞任」の兜を祀った


上の画像は、「兜神社」の入り口の「一の鳥居」で、この「一の鳥居」の200m位先に、小さく見えるのが、「二の鳥居」と「兜神社」の拝殿となりますが・・・見えますか ?


見えませんよね。これが、「兜神社」の拝殿です。


そして、この「拝殿」の後ろに「本殿」、さらに山頂には、「奥宮」となる石祠が二個あります。


山頂の石祠の内、一つには、石絵馬が奉納されていますが、古くは峰火台(狼煙台)であったと考えられています。


また、頂上の岩は「兜岩」と呼ばれていますが、余りにも狭く、2〜3人位しか立つことができないそうです。


しかし、この「兜岩」には、平安時代後期の前九年の役の際、「源 頼義/清原氏」の連合軍に敗れた「安倍 貞任」が、早池峰山へ逃げる時に「兜岩」の陰に隠れて敵をやり過ごしたと言う言い伝えもあるそうです。


どれだけ小さいんだ「安倍 貞任」!?


また、「兜明神岳」には、ハイキング気分で登山できると言いましたが、唯一、頂上だけは、右図の通りの岩場となっていますので、少し注意が必要です。


さて、この「兜明神岳」、および「兜神社」は、古くから、牛馬の保護者として、地元で信仰されていますが・・・


元々、「兜神社」には、付近の川である閉伊川の「水源神」、あるいは、郡界の境界神(関神)が祀られていたと思われます。


しかし、昭和14年(1939年)の【岩手県神社事務提要】には、「兜神社は祭神不詳」となっていたそうです。


また、【川井村郷土誌】には、「明治三年【其筋】の厳達により保食神(うけもちのかみ)を祭神となせし」と言う証言記録もあるそうです。


つまり、「兜神社」には、「その筋の方々」が、余程表に出したくない神がいると思われますが、現時点では、ご祭神は「品陀和気命(保食大神)」と表示されています。



また、「南部氏」が、この地を治める以前は、「閉伊氏」が、地頭として付近一帯を納めていました。


「閉伊氏」の始まりは、保元の乱(保元元年:1156年)で敗れた「源 為義」の八男で、「鎮西八郎」と呼ばれた弓の名手「源 為朝」の三男、「源 為頼」であると伝えられています。


この「源 為頼」は、鎌倉幕府を開いた「源 頼朝」により、一旦死罪を申し付けられたのですが、家臣達の勧めにより、死罪を免れたばかりか、気仙と閉伊の領地を与えられた、と伝えられています。


また、「源 頼朝」の有力御家人「佐々木 高綱」の娘を娶って養子となり、当初は、「佐々木氏」を名乗ったが、後に領地の名を取り「閉伊 頼基」と名乗ったそうです。


そして、父の代から仕えていた7名の重臣を従えていたが、これら重臣は、「閉伊 頼基」の死後、主君の後を追って殉死したと伝えられており、死後は、閉伊の地を守る明神となり、各地の神社の祭神として合祀されたと言われております。


その中の一人、「近能左七郎親良(こんのうさしちろう-ちかより)」が、この「兜神社」に増祀されています。



それと、「山岳信仰」とは関係ないのですが、陸奥の覇者「安倍一族」の軍資金が、この「兜明神岳」に埋蔵金として眠っているという言い伝えがあるそうです。


前九年の役において、朝廷軍の進撃に大敗を悟った安倍貞任が、一族再興を願い埋蔵したと言われています。


一説によると、埋蔵されているのは、黄金の延べ棒、延べ板、そして多量の砂金と言う事で、これら埋蔵金は、「兜明神岳山麓付近の閉伊川の源流に埋蔵されたと伝えられています。


「信仰」と言うよりも「ロマン」ですかね ?

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■南昌山


「南昌山(なんしょうざん)」は、岩手郡雫石町紫波郡矢巾町との町境にある、標高848mの山となります。


この「南昌山」に関しても、過去ブログで、次の内容を紹介しましたので、概要は過去ブログをご覧下さい。
・地質/生成
・言い伝え
・信仰内容
・名前の由来

★過去ブログ:http://msystm.co.jp/blog/20140524.html#five


山岳信仰」に関しても、ある程度上記ブログで紹介しているので、今回は割愛しようかと思ったのですが、少し補足事項があるので、今回、少し内容を追加しようと思います。


過去ブログにも記載していますが、「南昌山」は、「坂上田村麻呂」の時代から霊山として敬われたほか、「宮沢 賢治」が何度も訪れていた山となります。


「南昌山」は、付近の赤林山、箱ヶ森、毒ヶ森などの山岳と連山を成しており、特に、南昌山、東根山、および赤林山などの山域を総称して「志波三山」とも呼ばれているそうです。


また、山麓には、幣懸(ぬさかけ)の滝(落差7m)、北ノ沢大滝(落差13m)、南昌大滝(落差7m)などの瀑布や、幣懸の滝由来の湯脈を持つラジウム系の温泉(矢巾温泉)が存在します。


付近を流れる岩崎川は、南昌山麓に端を発し、煙山ダム経由で北上川に合流していますが、とにかく川や沢が多くあります。


ちなみに、「幣懸の滝」の「幣懸」とは、マタギが入山する際に、猟の安全を祈願して、「御幣(ごへい)」と呼ばれる「お札」を納めたことから名付けられているそうです。


「南昌山」は、古くから天候を司る霊峰として地元の信仰を集め、この地域では、「南昌山が曇れば雨が降る」と言い伝えられています。


また、山中には白竜が棲んでいて、暴れると雲が峰を覆い、毒気で人々を苦しませたという伝説もあります。


山頂には現在でも、天候の安定を祈願して奉納された石柱があるほか、雨乞いの儀式に使用される全国でも類を見ない6体の獅子頭石仏が奉納され、「南昌の権現様」として祀られています。


また、「南昌山」は、元々は「毒ヶ森(ぶすがもり)」と呼ばれていた山を、南部家盛岡藩第五代藩主「南部 信恩(のぶおき)」が、「南部繁昌」を願って「南昌山」と改名したとされています。


それと、「岩手」の語源になった「岩に鬼の手」を残した「羅刹」と言う鬼は、この「南昌山」に逃げ帰ったと言う伝説も残っています。



このように、数々の言い伝えがある「南昌山」ですが、その麓には、「南昌山神社」が鎮座しています。


このように、現在は麓にある「南昌山神社」ですが、元々は山頂にあり、水源守護の「青竜権現」を祀ったお宮だったとも言われています。


そして、(過去ブログでは「坂上田村麻呂」説を採用していますが、)山麓に移築されたのには複数の言い伝えがあり、どれが正しいのか解りませんでした。それぞれ、簡単に紹介します。


坂上田村麻呂】説

征夷大将軍坂上田村麻呂」が、延暦年代(782〜806年)に志波城を築く際、天候不順で工事が難航したために「南昌山」の頂上あった「南昌山神社」を麓に移築して祈願したところ、雨が止んだことからお宮を造営したのが始まり、と言う説。


【江戸時代移築】説

江戸時代の嘉永2年(1849年)、誰が、何のために移築したのかは不明であるが、山頂から山麓に移されて現在に至っている、と言う説。


【最初から現在の地にあった】説

曹洞宗の開祖「道元」から数えて六代目の嫡孫となる「大智禅師」が、「南昌山」の麓の滝の傍で休息をしていると「滝の神」と名乗る仙人が現れた。
「滝の神」に許され、「青龍港」と言う場所で修行を行っていると、永らくこの山に眠っていたと言う「神女」が現れ、仏法を説くと「お陰で、風雨を守護し、仏法皇法鎮護の神となる。私を補佐する両神あり、ひとつは大滝の龍神、もうひとつは庚申淵の龍神なり」と言って去って行った。


さらに、その後、坐禅中に再び「神女」が現れ、以前の授戒に感謝し徴物を呈上した。その徴物は、含珠石、天龍の鱗三片、宝珠(玉)であり「青龍権現、大滝龍神、庚申淵龍神の三神を以って鎮守とし給え」と言って去った。この三神が「南昌山神社」の始まりである。
その後、「大智禅師」の弟子である「光厳長老」が、正平23年(1368年)、南昌山に「港月庵」を興し、山号を「青龍山」とした。
さらに、その後、天正8年(1580年)、「久山和尚」が、「港月庵」を訪ね、諸人の協力で一院を復興し、この寺を「青龍山祇陀寺」とした。
※青龍山祇陀寺のホームページより抜粋


まあ、色々な説がありますが、一番まともそうなのは、やはり「坂上田村麻呂」説だと思います。


「祇陀寺」と言うお寺、実は、私の実家の菩提寺なのですが・・・どうも怪しすぎます。


別に、「祇陀寺」の和尚が、高級車BMWを乗り回し、しょっちゅう外国に旅行に行っているから信用できないとは言いませんが、何か、全てが「嘘」臭く、信憑性に欠けるように思われます。俗に言う、「ヒーロー伝説」見たいです。



何れにしろ「南昌山」には、水に関係のある神様が住まわれているようです。

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■六角牛山


「六角牛山(ろっこうしさん)」は、遠野市釜石市との市境にある、標高1,294mの山で、早池峰山、および石上山と共に、「遠野三山」とも呼ばれています。


と、ほとんどのWebページでは説明されていると思いますが、2011年10月31日、「東日本大震災」による地殻変動で、「六角牛山」の標高が「1m」低くなったことが国土地理院から発表されていますので、現在では「1,293m」と言うのが正しい標高となります。


この山、「ろっこうし-さん」と言う変な名前ですが、次のような由来で名付けられたと言われています。
・六人の皇族が住んだ山という説(六皇太子山)
・大きな牛の背のように見えるからという説
アイヌ語の「山容の垂れ下がる山」という意味からきたという説


どの由来が正しいのかは解りませんが、「六角牛山」には、「(南北朝時代の)長慶天皇伝説」と言う話が、まことしやかに伝えられているようです。その話では、


長慶天皇(当時は上皇)が、諸国の武士を見方に付けるため全国を廻っていた時に、遠野地方で病状が悪化してしまった。このため、同行していた6名の側近者が、月山大権現に27日の断食祈願を始めたが、13日目で上皇崩御してしまった。そこで、残された6名の側近者は、全員が殉死してしまった。 』


と言う事で、この側近6名を「六皇太子」とし、「六角牛山」には、その御陵も存在している、と言う伝説なのですが・・・如何ですかね ?



ところで、「六角牛山」への登山口は3つあり、その内2つは、「六神石神社」と「六角牛神社」付近からの登山となりますが、一般的な登山口は、「六神石神社」付近の「糠前(ぬかまえ)コース」と呼ばれる登山コースのようです。


この「六神石神社」と「六角牛神社」、漢字が異なりますが、どちらの神社も「ろっこうし-じんじゃ」と読むようです。


そして、この二つの神社、どちらも「六角牛山」の神を祀る神社だとは思うのですが・・・・・・どうも微妙に異なるようです。



【 六神石神社 】


山麓にある六神石神社は、【岩手県神社名鑑】の由緒によると「大同2年(807年)、時の征夷大将軍坂上田村麻呂蝦夷地平定のため蒼生の心伏を願い、神仏の崇拝をすすむ。時に六角牛山頂に薬師如来山麓不動明王住吉三神を祀る」とあります。


このため、山頂の奥宮に「薬師如来」があると思いきや・・・後で画像を載せますが、単なる「掘っ立て小屋」です。


その後、「平安時代末期の文治5年(1189年)、阿曽沼公、石洞の地に神地を寄進して神殿を建立し、山頂の祭神を遷奉り六角牛新山宮と称し、六角牛山善応寺を創設し祭事を司掌させ、後に住吉太神宮の新座地を川向い(現在の六神石神社の地)に定め奉遷す。」とあります。


しかし、江戸時代の宝暦9年(1759年)の、盛岡藩による社堂調べの記録【御領分社堂】には、六角牛山大権現の項に、「別当真言宗善応寺、縁起無之、但開基大同年中ト申伝候」とあるそうです。


さらに、時代がだいぶ下った昭和14年(1939年)の『岩手県神社事務提要』(岩手県神職会)においては、祭神を「大己貴命誉田別命」としており、「坂上田村麻呂、云々」と言う由緒は、何か怪しい話になっているようです。


但し、住吉系(「マル暴」ではありません)のご祭神は、由来通りに祀られているようですので、その点だけは、間違いないようです。


また、付近では、子供に言い聞かせる時の方法として、「六角牛山の猿の経立(ふったつ)が来るぞ」と言う脅し文句があるそうです。


「経立」とは、「年寄りのサル」と言われている様ですが、猿や山犬(狼)が年を取り、一種異様な姿と霊力を得た物、つまり「妖怪」や「もののけ」の類とされているようです。


このように、「六角牛山」は、神々や妖怪、あるいは「もののけ」の住む山として古くから信仰されていたようです。


【 六角牛神社 】


「六角牛神社」は、創建は不明との事ですが、お堂の中には、権現様1体と、江戸時代となる明和8年(1771年)、および安永年間(1772〜1781年)と言う記録が残されている、神楽大権現のボロボロの幟(のぼり)が、ガラス張りの箱に保存されているそうです。


「六神石神社」とは異なり、小さいながらも日本古来の山岳信仰を守りぬいた神社とされています。

また、創建と同様、ご祭神も不明な神社ですが、一説には、「六角牛山」そのものがご神体ではないかと言われており、かつ山そのものがご神体であることから、前述の「早池峰山」の章で紹介した、女神をも祀っているのではないかと言われています。


但し、社殿が出来たのは、明治13年(1880年)と言われており、当初は、神社名を「六神石神社」と同じ漢字を用いていたそうですが、混同を避けるために「六角牛神社」に改名したそうです。


さらに、境内の「記念碑」と題された石碑には、社殿の再建に関して、次のような説明が記載されているそうです。


『 六角牛山は、太古より遠野郷三山の三姉妹の大姉神が鎮座せられる御山で、現在此の社にはふくよかな薬師如来立像、脇士に飛天が御祀りされてあります。


昔、私達の先祖が御山に様々な祈願を致しましたが、現在も同じく、時代を越え、子子孫孫まで未来永劫、六角牛山の美しい山霊に敬神の心を捧げ、昭和六十二年十月吉日社殿を再建し記念として神前に此の碑を建立するものであります。 』


「六神石神社」では、存在さえ感じられなかった「六角牛山の天女(天人児)」ですが、「六角牛神社」においては、「飛天」の名で祀られているようです。


また、前述の「遠野物語」では、母女神と3名の子女神と言う形でしたが、「綾織村誌」には、前述の「兜明神岳」にも登場する「安倍 貞任」系の伝説が記載されています。


前述の「遠野物語」では、母神を「瀬織津姫命/俗名:おない」としていましたが、この「おない」と言う女性が、「安倍 貞任」の妻となっています。


彼女は、当地で人命を助ける行為を行ったので、その功により、死後「伊豆神社」に合祀されたとしています。


また、「おない」の三人の娘たちも、地域に大いに貢献したので、その死後、三山(早池峰/六神石/石上)の姫神に「合祀」されたとあります。


村誌は「此の三山は神代の昔より姫神等の鎮座せるお山」としていて、「おない」たちの前に、すでに「姫神等」の祭祀があったことを告げています。


ちなみに、「おない」の三名の娘たちの名前は、次の通りです。

・おいし :おいしかみ → 石上山
・おろく :おろくこし → 六角牛山
・おはつ :おはやつね → 早池峰山


それと、紹介が遅れましたが、右上の画像が「六角牛山」の「奥宮」の建物となります。


とても「奥宮」とは思えないでしょう!


加えて、その内部も特別公開ますと・・・下図のような状態となっています。


どうしましょう ?


今まで、散々、地元に伝わる「山岳信仰」とか言ってきました、これじゃ、どうしよもない感じがします。


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■折爪岳


「折爪岳(おりつめだけ)」は、岩手県の最北端である二戸市九戸郡軽米町、および九戸村にまたがる標高852.2mの山で、山頂は二戸市九戸村との境になっています。


「折爪岳」の山頂は、まずは、左の画像でも解ると思いますが、TV/FMの中継基地局があり、大小12個ものアンテナが立っていることで有名です。


また、山頂付近は、「北東北」最大と言われている「ヒメボタル」の群生地として有名で、7月中旬には、山頂のブナ林で、その数100万匹と言われるホタルの群舞が見られます。



福岡通代官の「大巻氏」が編纂した【邦内郷村志 】には、「折爪岳」は、かつては「織詰」、あるいは「押詰」と呼ばれていた旨が、次のように記載されているそうです。


『 福岡村の伝説によると、昔、安倍一族の「白鳥三郎高任」が、白鳥の館(九戸城)に住んでいたが、「安倍貞任」が滅びたので山に逃げたが捕まってしまった。そして、その後、山に押し詰められたことから「押詰(ヲツメ)と呼ばれるようになった。また、山上には馬場があり「竜馬場」と言った。傍らを山居台(サンキョダイ)と言って、その昔、仙人が住んでいた。 』


さらに、その他にも、次の様な由来が伝えられているそうです。


●「源 義経」が、平泉から追われる途中に追っ手に捕らわれ、山頂で処刑されたから「押詰」という説。
●「弘法大師」が、錫杖を突き刺したところ清水が噴き出し、その時、錫杖が折れたので「折杖」という説。
●昔、山越えをしようとした武士が、のどの渇きから水を掘り出そうとし、爪が折れるほど掘ったことから「折爪」という説。



また、「折爪岳」の山頂には、山の守り神である「山居大権現(やまおりだいごんげん)」があります。


「山居大権現」は、地元では「雨乞いの神様」として知られており、その足元から湧き出る水は「山居の湧水」として知られ、多くの方が冷たい水を求めて訪れます


昔は、日照りが続くと、「山居大権現」の前にあった池に、「権現様」を投げ込んで祈願をしていたと伝えられています。



上図石碑には、右に「山居大権現」、左に「山居大明神」と彫られています。


そして、祠の中は、左図のように、「権現様」が2体祀られており、昔からの信仰の形を現代に残しています。


しかし、妖怪データベースと言うWebサイトがあるのですが、そこには「権現様」は、何故か、妖怪の類になってしまっています。


右の画像は、「山居大権現様」と「湧水」の位置関係を示していますが、本当に、「権現様」の真下に「湧水」があります。


また、湧水は、ここだけでなく、至る所に湧いているそうです。


きっと、この綺麗な「湧水」があるからこそ、人もホタルも無事に暮らして来られたのではないかと思います。


その他にも、この折爪地域には、ホタルの餌になる陸生の貝類も沢山住んでいますので、自然の循環が上手く廻っているのだと思います。



ところで、「権現様」が妖怪扱いされている事を紹介しましたが、この「折爪岳」には、「オトデ」と言う、上半身はフクロウで、下半身が人間のような姿をした怪鳥の伝説があります。


左の画像は、「オトデ様の石像」と「オトデ様の滝」になります。


下記に「オトデ様」の民話を紹介したいと思います。


【 折爪岳のオトデ様 】

九戸村の折爪岳、またの名を江刺家岳と言い、あまり大きな山ではありませんが、どこからでもよく陽のあたる眺めのよいヌポーとした山があります。山の麓は、広い草場が開け、牛や馬の牧場になっていたと言われております。


ある夏の日、牛番の若者が、夕暮れになったので帰ろうとした時、なんと向こうの薮の中にピカッと光る物に気付きました。「あれ、なんだべや」と驚いている若者の前に、二つの目玉の光り物が、ガサガサと薮から姿を現し、ピョン、ピョンと跳びながら近づいて来ました。


さて、その物といったら、胴の太さは二升樽ぐらい、フクロウのような目玉の顔と下半分は人間みたいな2本足の怪鳥でした。「あれっ、こんな不思議なもの、鳥だべか、人間だべか」若者はこんな事を腹の中でチラッと思いました。すると、怪鳥も「こんな不思議な物、鳥だべか、人間だべかと思っているな」とおうむ返しに言い、その後で「ドデン、ドデン」と叫びました。


若者は自分の心を読まれたこの一言でびっくりドウデンし「おっかね、おっかね」と、逃げるように名主の所まで帰って来ました。怪鳥も大きな声で「おっかなくないぞ、ドデン、ドデン」と、あとからピョン、ピョン跳ねてついて来ました。


若者について来た怪鳥を見た名主もびっくりドウデンし、「何だな、これは」と尋ねました。若者は「オ、オドデ様です」と答えました。「ふうん・・・オドデ様」とうなづいた名主は、そのあとで「うーん、これは見世物に売ったら、えらい金儲けになるかも知れない」と、チラッと思いつきました。


すると、とっさにオドデは「これこれ名主、そなた今、おらを見世物さ売ったならば、金儲けになると思ったな、ドデン、ドデン」とまるで手のうちを見透かすように言いました。「へへっ、これはたまげたオドデ様だ、口も聞ければ、人の心も読む、神様に祀りますので、どうかご勘弁を」と名主はあまりの事に仰天し、さっそく神棚にオドデ様を安置しました。この話が直ちに村中に広がり、村人達は、一目拝みたいものと集まってきました。


オドデさまは神棚の上で人々を前にし、「あしたの朝は晴れるドデン、ドデン」と言いました。するとその通り、翌朝は雲一つない日本晴れになりました。「では、晩方はどうであんすべが」とおそるおそる伺いを立てると「晩方は雨、ドデン 、ドデン」と答えると、夕方にはオドデさまの言う通り雨がザァーザァーと降りました。


これなら占いもできると、名主は立て札を立て、紋付き羽織袴で新しくつくった「賽銭函」の横にどっかりと座りました。占いが余りにもぴたりと当たるので、「賽銭箱」はすぐに一杯になり、大繁盛となりました。欲の深くなった名主は「賽銭料」を値上げし、今度は大きな「賽銭箱」を用意し、ジャランジャランとお賽銭を鳴らしては、名主はほくほく顔でした。


ところが、その銭音を聞くと、天井ばかり見上げていたオドデ様は、珍しく下を見下ろし、賽銭箱を抱えた名主の前にはいつくばっていいる参詣人を見て、「シラン、シラン、ドデン、ドデン」と叫びながら、江刺家岳の方に飛び去ってしまいました。「あれっ、おらの銭箱がにげるウ、オドデ様が飛んでいくー」と名主は青くなって騒ぎ立てましたが、もうその時は、当のオドデ様は、森の向こうに見えなくなってしまいました。


オドデ様は飛び跳ねて、牛番をしている若者の所まで来ると「お前はええ奴じゃ、お前におらの不思議を授けてやる、ええ月日を暮らせや、ドデン、ドデン」と言ったかと思うと、若者の前で一つの石になってしまいました。若者は、不思議な力をもらっても、一生牛番で通し、一度もその力を試した事がなかったと言われ、今でも折爪岳の奥深くから、オドデ様らしき声を聞くと言われております。

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■氷上山


「氷上山(ひかみさん)」は、陸前高田市と大船渡市の境にある、標高874.7mの山で、別名「御山」とか、「玉山」と呼ばれている山になります。


北上山地の南東部に位置し、山麓の南西部は陸前高田市の広田湾に、北東部は大船渡市の大船渡湾に続いています。


山の名前は、昔、野火による山火事があった際に、この山の山頂部だけが焼けずに残ったことから、この山の頂には「火防の神」が宿るとして、当初は「火神山」と名付けられが、それが転訛して「氷上山」となったと伝えられています。


このため、古くから「防火の神」、「雨乞いの山」、あるいは「豊作と大漁を祈願する山」として、地元の人達から信仰されて来た山です。


山麓陸前高田市側には「氷上神社」の里宮があり、山頂には、三つの神殿が、奥宮として存在しています。


これら三社とも、平安時代の延長五年(927年)に作られた、全国官社の神社一覧表である「延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)」や、日本文徳天皇実録にも記録が残っている古社で、元々は、山麓に三社が別々に存在していたと思われています。


【 西ノ御殿 】

●神社名:理訓許多(りくこたの)神社
●ご祭神:理訓許多神、素盞嗚神(すさのをのみこと)



【 中ノ御殿 】

●神社名:登奈孝志(となかし/となこし)神社
●ご祭神:登奈孝志神、稲田姫命(いなだひめのみこと)



【 東ノ御殿 】

●神社名:衣太手(えたて/きぬたて)神社
●ご祭神:衣太手神、天照大神(あまてらすおおみかみ)



その後、修験道による山岳信仰が流行りだした時に、三社を山頂に集めたのではないかと考えられています。


延喜式神明帳によると、三社統一後、平安時代の仁寿二年(852年)に従五位下を授けられ、後に位が進み、江戸時代の文化十二年(1815年)、遂に正一位に昇進しています。


現在の、ご祭神は、次の三神ですが、元々は、地元の土地神や地方神であったと考えられています。


これら三つの神社は、「伊勢神宮」と同じ御神材を使用していたと言われていますし、社殿や賽銭箱には、「菊紋」が付いていますが、これが「神紋」否かは不明です。


しかし、御神材が「伊勢神宮」と同じである事を考えると、菊のご紋が「神紋」であれば、天皇家との関わりもあるかもしれません。


今日でも日照りの祭では雨乞いを行い、海上安全と大漁を祈願するなど、陸海とも地元住民から親しまれている。


しかし、過去に、江戸時代の寛延三年(1750年)、会津宗英寺の住職が、山上に金剛仏三体を奉納しようとしたが、八合目付近で急に山が荒れだしたので、慌てて下山したそうです。


その後も、7日間、平地は晴天なのに、山だけが大嵐となる現象が続き、結局、これまでも山へは一度も仏像を上げたことがないという理由で仏像の奉納は中止になったが、奉納を取り止めたことで、山は平常に戻ったそうです。


これを「氷上山大騒擾」と呼んだとの事です。


また、代表的な登山口である玉山高原には、藤原三代による平泉黄金文化を支えたとされる「玉山金山」跡が残されている。


この「玉山金山」は、マルコポーロの東方見聞録にある「東方に国あり、その名ジパングという。その国で特に驚くべきことは金の多いことである。その金は掘れども尽きず。」と言われた金山のことであると言われています。

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ここまで、今回分、および前回分を合わせて、下記10個の山々を紹介して来ましたが、如何でしたか?


早池峰山 ●兜明神岳
岩手山 ●南昌山
姫神山 ●六角牛山
●室根山 ●折爪岳
●五葉山 ●氷上山


右の図を見ても解かるように、岩手県内には、上記以外も沢山の山々がありますし、また、それらの山にも、それぞれ信仰が伝えられているものもあります。


今後も、機会があれば、その他の山に関しても、信仰内容や伝説を調べて紹介したいと思っています。


また、神社のご祭神を調べていると、政治の影響を強く受け、ご祭神が、由緒も何も無視して、強制的に変更されたり、あるいは、記録から抹消されてしまったりと、散々な目に会っている事が解りました。


特に、岩手県では、「瀬織津姫命(せおりつ-ひめのみこと)」に関しては、触れてはいけない神様のようで、坂上田村麻呂の遠征を機にご祭神から抹消されてしまっているようにも見受けられます。


瀬織津姫命」は、日本古来の神であり、神様に奏上する「祝詞」にも名前が出てくるにも関わらず、古事記日本書紀からも、名前が削除されてしまっているようです。


瀬織津姫命」とは、一体に何者なのでしょうか ? こちらの方が、興味津々ですが、本ブログの主旨とは離れていますので、余り追求はしないでおきましょう。


それでは今後とも宜しくお願い申し上げます。

以上

【画像/動画・情報提供先】
Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)
・日本古典文学摘集 (http://www.koten.net/tono/gen/069.html)
・みちのくの山野草(http://blog.goo.ne.jp/suzukishuhoku/e/98cb53990a2e28c8c6f209c2665e6fff)
・辺境の仏たち(http://kanagawabunnkaken.web.fc2.com/index.files/raisan/torakuji.html)
・奥羽*温故知新(http://blogs.yahoo.co.jp/syory159sp)
・在京盛岡広域産業人会(http://zaikyomwaio.html.xdomain.jp/
・うり坊の滝見見聞録(http://ameblo.jp/uribouno1/)
二戸市観光協会(http://ninohe-kanko.com/index.php)
九戸村ホームページ(http://www.vill.kunohe.iwate.jp/)
・玄松子の記憶(http://www.genbu.net)

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