早池峰信仰と瀬織津姫命 〜 謎多き姫神に触れる その3


今回は、これまで紹介して来た「早池峰信仰と瀬織津姫命」の続編となる「その3」を紹介します。


★過去ブログ:早池峰信仰と瀬織津姫命〜謎多き姫神に触れる その1(20180623)
早池峰信仰と瀬織津姫命〜謎多き姫神に触れる その2(20180721)


前々回、および前回では、次の様な内容を紹介しましたが、「早池峯信仰」と「瀬織津姫命」との関係は、何となく「熊野権現」に、そのルーツがありそうな雰囲気です。



山岳信仰とは
・早池峯信仰とは
・早池峯神社とは
・「早池峯」と「早池峰」の違い
・どこが「早池峯神社」の本坊なのか ?
瀬織津姫命が御祭神の神社
瀬織津姫命とは何者なのか ?


前回の「その2」で取り上げた「瀬織津姫命とは何者なのか ?」において、早池峰山の南登山口の「早池峯神社」の開祖「始閣藤蔵」の出身地が「伊豆地方」である事を紹介しました。


そして、「始閣藤蔵」が建立した「伊豆神社」は、「遠野の早池峯神社」の「親神社」であり、かつ「親神」であり、その始まりは、「伊豆権現」を勧請して、御祭神を「瀬織津姫命」とした事から始まった点も紹介しました。


瀬織津姫命」に関しては、「天照坐皇大御神荒御魂(あらみたま)」を始め、多くの神様と習合していることもお伝えしましたが、こと「早池峯神社」に関しては、この「始閣藤蔵」が、現在「伊豆山神社」と呼ばれており、過去には「熊野信仰」とも結びついていた修験場にルーツがありそうです。


ここで、前回までの紹介した内容を簡単に整理して見ますと、次の通りです。


●「早池峯神社」は、早池峰山に登るための東西南北の4つの登山口に、それぞれ1箇所ずつ存在するが、現在、由緒/起源が解っているのは、西登山口「大迫の早池峯神社」と南登山口「遠野の早池峯神社」である。

●この2つの「早池峯神社」に関しては、大迫側「藤原兵部卿成房」、遠野側「始閣藤蔵」と言う、それぞれの開祖がいる事になっている。

●その後、どちらも「真言宗」や「天台宗」の密教系仏教の介入を受け、どちらも「妙泉寺」と言う名の神宮寺となり、さらに「新山堂」や「新山堂」と言うお堂を建立した。

●しかし、その始まりは、神社の由緒/起源、および御神体の配置など考慮すると、現在の南登山口にある「遠野の早池峯神社」であると思われる。

●また、全ての「早池峯神社」では、その御祭神は「瀬織津姫命」となっており、岩手県内では、「瀬織津姫命」を御祭神として祀る神社は、全国1位となる、36社も存在する。

●「瀬織津姫命」と言う神様は、「早池峯神社」の御神体の他にも、様々な神様と習合し、日本全国で祀られており、その数は、454社も存在する。

●さらに「瀬織津姫命」と言う神様は、地元の遠野地域では、「前九年の役」で朝敵となった「安倍氏」と関係のある人物とも習合している。


そこで、今回のブログでは、前回取り上げた「瀬織津姫命とは何者なのか ?」の話題を受け、次の内容を紹介したいと思います。

■「天照大御神」は男神なのか ?
■「鈴鹿権現」と「瀬織津姫命」の関係
■「熊野権現」と「瀬織津姫命」の関係


それでは今回も宜しくお願いします。

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■「天照大御神」は男神なのか ?


前回、平安時代末期には、既に「天照大御神」が「男神」であると言う説が広まっていた事や、「陰陽二元論」と言う神道の考え方から、「天照大御神 = 男性」とされていた事も紹介しました。


具体的な情報を指摘した書物や事実として、次の様な事が挙げられています。


平安時代後期の学者「大江匡房(おおえの-まさふさ):1041〜1111年」が編纂した「江家次第」と言う有識故実書には、伊勢神宮に奉納する天照大神の装束一式が、男性用の衣装である事を指摘しているそうです。


また、江戸時代中期には、前回紹介した「神道五部書」を作成したとされる、伊勢神宮外宮の神職「度会氏」の子孫「度会延経(わたらい-のぶつね)」も、その著書「内宮男体考証」の中で、『 之ヲ見レバ、天照大神ハ実ハ男神ノコト明ラカナリ 』と記述しているそうです。


また、「日本書紀」に登場する「天の岩屋」の話は、日本人なら、誰でも知っている神話だと思います。


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【 天の岩戸 】

(略)
「天宇受賣命(アメノウズメ)」が、岩戸の前に桶を伏せて踏み鳴らし、神憑りして胸をさらけ出し、裳の紐を陰部までおし下げて踊った。


すると、高天原が鳴り轟くように八百万の神が一斉に笑った。


これを聞いた天照大神は訝しんで天岩戸の扉を少し開け、「自分が岩戸に篭って闇になっているのに、なぜ、天宇受賣命は楽しそうに舞い、八百万の神は笑っているのか」と問うた。


「天宇受賣命」が、「貴方様より貴い神が表れたので喜んでいるのです」と言うと、天児屋命太玉命天照大神に鏡を差し出した。


鏡に写る自分の姿をその貴い神だと思った天照大神が、その姿をもっとよくみようと岩戸をさらに開けると、隠れていた「天手力男命(アメノタヂカラオ)」がその手を取って岩戸の外へ引きずり出した。



「胸を開け、陰部までさらけ出した若い女性の踊りを見るために岩屋から出てくる。」などと言う行動を取るのは男性しか考えられません。


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また、祇園祭に登場する山鉾「岩戸山」があります。


この山鉾「岩戸山」は、上記の「天の岩屋」神話を題材とした山鉾で、創建時期は、この鉾を維持管理している「岩戸山保存会」でも解らないようです。


しかし、八坂神社の社宝「祇園 社記」に、既にその名が記載されている事から、「岩戸山」の創建は、室町時代後期となる、「嘉吉元年(1441年)」頃とされています。


さて、祇園祭に登場する山鉾には、それぞれ御神体が祀られています。


そして、この「岩戸屋」の御神体は、「天照大御神」、「天手力男命」、および「伊邪那美命」の三体です。



ところが、この御神体の「天照大御神」は、「男神」となっており、山鉾「岩戸山」の御神体の説明には、「天照大御神」の事を、次の様に説明しています。


『 男体である。桧の胡粉塗艶出しで目、口、眉、頭髪は描かれ、眉目秀麗の美男子で垂纓の冠を着す。白蜀江花菱綾織袴で浅沓を穿く。直径十二センチ程の円鏡を頸にかけ笏を持つ。と岩戸山町で伝えられいるが、世間一般的には、女神と思われている。 』


「世間一般では女神と思われている。」と、あたかも「天照大御神」が、男神であることが「当たり前」のように記述されています。


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その他にも、江戸時代には、仏師「円空」が、「天照大御神」を男神として作成していますし、鯰絵や浮世絵にも男性の「天照大御神」が数多く描かれています。


また、男神以外の「天照大御神」の登場の仕方としては、編纂時期が不明で、現在は写本しか存在しない「日諱貴本紀(にちいきほんぎ)」と言う書物に、「天照大御神は両性具有の神」として登場しているようです。


「二根共に男女を具え、是今の両甥始也」


この「日諱貴本紀」には、「天照大御神」の事を、このように表し、かつ身長までも「六尺六寸」と具体的に表しているようです。


「1尺 = 30.3cm、1寸 = 3.03cm」とすると、「天照大御神」は、身長「199.98cm」、約2mもの長身となります。


しかし、「長さ」の基準が、現在と同じか否かは疑問があるところです。


前回紹介した(学者には偽書と断定されている)「ホツマツタエ」にも、神様の身長が記載されているそうですが、それによると「アマテル神は、身長一丈二尺五寸(約281センチ)」とあるようですが、この時は「1尺 = 22.5cm」程度なのだそうです。


そもそも、「日諱貴本紀」の編纂時期に関しては諸説があり、ある説では、南北朝時代となる「観応元年(1350年)」頃ではないかと言う説が有力となっていますので・・・やはり「眉にツバが」付く書物なのだと思われます。


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他方、この男神天照大御神」の妻となったのが「瀬織津姫命」という噂が、真しやかに広まっていますが・・・これも、どうなのでしょうか ? その一番の根拠となっているのが、前回紹介した「神道五部書」です。


その中には、「伊勢神宮」の内宮の境内別所にある「荒祭宮」の御祭神「天照大御神荒御魂(あまてらします - すめおおみかみ - の - あらみたま)」の別名は、「瀬織津姫命」である、と記載されているそうです。



そして、この「荒祭宮」は、数ある「別宮(10個)」の中でも一番規模が大きく、位も、「正宮」に次ぎ尊いとされています。


また、伊勢神宮の祭事、および神饌(しんせん)の種類や量に関しても、この「荒祭宮」だけが、「正宮」と同等とされています。


「荒御魂」とは、神の荒々しい側面、荒ぶる魂とされていますので、「正宮」である「天照大御神」と同等の扱いになるのは当然かもしれませんが・・・何か裏がありそうな雰囲気です。



荒祭宮」に関しては、伊勢神宮の説明によると、奈良時代末となる「延暦23年(804年)」に編纂された「皇太神宮儀式帳(こうたいじんぐう-ぎしきちょう)」に、下記記載があるので、既に、この頃から、伊勢神宮内に建立されていたとしています。


荒祭宮一院 大神宮の北にあり、相去ること二十四丈 神宮の荒御魂宮と称う。 』


社殿は、「内削ぎの千木」で、かつ「鰹木は偶数(6本)」ですので、女性の神様を祀っていると思われますが、御神体「鏡」であることだけは確かなようです。


ちなみに、通常、「外削ぎの千木」で「鰹木が奇数」の場合、御祭神は「男神」になります。

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■「鈴鹿権現」と「瀬織津姫命」の関係


さて、前章で、祇園祭の山鉾「岩戸屋」を紹介しましたが、別の山鉾に、「鈴鹿山」と言う鉾もあります。


こちらの山鉾は、「鈴鹿権現」を祀った鉾で、伊勢国(現:三重県)鈴鹿山で、道ゆく人々を苦しめた悪鬼を退治した「鈴鹿権現」を、金の烏帽子を被り、右手に大長刀を持つ女人の姿で表しています。


そして、この「鈴鹿権現」に関しては、ちゃんと、別名「瀬織津姫命」として紹介しています。



鈴鹿山」の御神体(瀬織津姫命)の後ろには、退治した鬼の首を表す「赤熊(しゃぐま)」が置かれており、何とも勇ましい姿になっていますが、これは、前述の「荒御魂」に通じる意味があるようにも思えます。


上図の山鉾「鈴鹿山」の画像、右下部分に置かれている「赤い物体」が、「鬼の首」を表しています。


ちなみに、「赤熊」とは、赤く染めたヤクの白い尾の毛で、僧侶が持つ「払子(ほつす)」、や戊辰戦争薩長軍の「迅衝隊(じんしょうたい)」が被っていたカツラも、「赤熊」とか「白熊(はぐま)」と呼ばれています。



その他、祇園祭では、祭りの先陣を務める「長刀鉾」の鉾先の網巻部分に取り付けられる、大きなワラで造った飾り物の事も「赤熊」と呼んでいるようです。


こちらの「赤熊」は、火除けや厄除け等のご利益があるとの事で、祇園祭が終わった後、祭りの関係先や冷泉家に配布され、軒先や台所に飾られるそうです。


長刀鉾」に付けられる「赤熊」は、全部で7個しかないそうです。



この「赤熊」は、寺院の塔の最上部に付けられる「九輪」を表していると伝わっているそうですが・・・「長刀鉾」には、何故か「7個」しか付けられません。


また、何故、「長刀鉾」に「赤熊」が付くのか、また、何故、この藁の束を「赤熊」と呼ぶのかも解らないようです。


前述の「毛を赤く染めたカツラ」を「赤熊」と呼ぶのは、何となく解りますが、こちらは全く解りません。


ちなみに、このカツラには、前述の「赤熊」、「白熊」に加え「黒熊(こぐま)」もあり、元々は、徳川家重臣「本多忠勝」が、兜の飾りとしていたそうですが、見た目が「格好良い」と言う理由で、本多家の家臣達も真似した事から拡がったとされています。


しかし、素材が、「ヤク(唐牛)」と舶来品で高価だったので、江戸城に保存してあったそうですが、江戸城開場の際に、薩長の武士が、勝手に盗み出して使い出したとされています。


また、黒い「黒熊」は薩摩、白い「白熊」が長州、赤い「赤熊」が土佐と決まっていた様で、それ以外の武士は使わせてもらえなかったと言われています。


幕府から盗み出したのに、何とも勝手な言い草で、将に「盗人猛々しい」とは、この事だと思います。


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さて、話を「鈴鹿権現」に戻しますと、「鈴鹿権現」は、別名「鈴鹿御前」とも呼ばれており、伊勢と近江の国境にある「鈴鹿山」に住んでいたとされる伝説上の女性で、交通の要所であった「鈴鹿峠」、および東海道を通る人の守護神とされています。


そして、平安時代末期から鎌倉時代、そして室町時代を通して、様々な読み物に「鈴鹿御前」が登場し、そのうちに「鈴鹿御前」と「立烏帽子」が習合してしまった様です。


それ以外にも、その正体としては、次の様な情報もあるようです。
→ 女盗賊、鬼、女神、天女、第六天魔王の娘


さらに、別の説では、「坂上田村麻呂」が天皇の勅命により、山賊退治を命じられ鈴鹿峠に向うと、天上より天女(瀬織津姫命)が現れ、その霊力により「坂上田村麻呂」の山賊退治を助けたとも、その後、彼の妻になったとも伝えられています。


他方、「坂上田村麻呂」と「鈴鹿御前」に関してですが、岩手県内には、「鈴鹿御前」と「坂上田村麻呂」は結婚して「一男一女」を儲け、男の子は「安倍氏」の始祖となり、女の子は、三女を儲けて「遠野三山」の女神になったと言ういい伝えが残されています。


この件に関しては、とても興味深いので、後述する「安倍氏との関係」で詳しく紹介したいと思います。


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ところで、「何故、鈴鹿御前と坂上田村麻呂が結びついたのか ? 」と言うと、「坂上田村麻呂による鈴鹿峠の悪鬼退治伝説」と「斎王の鈴鹿禊(みそぎ)」が、紆余曲折を経て繋がったのではないかと思われます。


元々、鈴鹿の地は、京都から「伊勢神宮」に向かう交通の要所で、古くから「斎王」と呼ばれる女性皇族が、「伊勢神宮」に向かう際に、禊(みそぎ)を行っていた神聖な場所とされています。


そして、鈴鹿峠には、前回ブログでも紹介した「延喜式」にも記載されている式内社「片山神社」も建立されていました。


現在は「片山神社」と呼ばれていますが、江戸時代刊行された「伊勢参宮名所図会」には、『 鈴鹿神社には、片山神社と言う別名がある。』と言う解説が書かれていますので、その昔「鈴鹿大明神」や「鈴鹿神社」と呼ばれていたようです。


また、この「片山神社」、現在は、残念ながら「平成13年(2002年)」に放火で全焼してしまった後、中々再建が進まず廃墟となってしまっていますが、「延喜式」に記載されている式内社ですから、創建時期は非常に古く、平安時代初期となる「延喜5年(905年)」以前だと思われます。


そして、神社の主祭神は「倭比売命(やまと-ひめ-の-みこと)」と呼ばれる姫神で、上記「斎王」の起源と考えられている神様です。


さらに、この「片山神社」には、「配祀(はいし)」として、次の様な多くの神様も祀られています。「配祀」とは、主祭神以外に祀られている神様です。


・瀬織津比賣神 :せおりつひめかみ。祓戸四神の一柱。急流に住む女神。
気吹戸主神 :いぶきどぬしかみ。同じく祓戸四神の一柱。海底に住む神。
・速佐須良比賣神 :はやさすらひめかみ。同じく祓戸四神の一柱。根の国・底の国に住む女神。
天照大神 :あまてらすおおかみ。イザナギが黄泉の国から生還後、左目を洗った時に生まれた。
・速須佐之男命 :すさのおのみこと。天照大御神の弟。イザナギの生還後、鼻を洗った時に生まれた。
・市杵嶋姫命 :いつきしまひめのみこと。宗像三女神の一柱。アマテラスとスサノオの誓約で生まれた神
大山津見神 :おおやまつみ。イザナギイザナミの子。(日本書紀では)カグツチの子
坂上田村麿 :(言わずと知れた)坂上田村麻呂



ここで、既に「鈴鹿権現 = 瀬織津姫命」と言う関係が成り立っているようにも見受けられます。


ちなみに、地元の記録では、元々、この「片山神社」は、鈴鹿峠の北に連なる三ツ子山にあったと言われており、何度も山火事にあったので、鎌倉時代中期、「永仁5年(1297年)」に、現在の地に遷座し、さらにその後、「倭比売命」が合祀されたとなっています。


つまり、現在、主祭神となっている「倭比売命」は、神社の格式を上げるために、後日、どこからか勧請された神様と言う事だと思われます。


また、地誌「三国地志」によると、「片山神社」の由来は、次の通りとなっています。


『 社家伝に云う。もとは、片山神社は三子山にあった。三ツ子とは鈴鹿嶽、武名嶽、高幡嶽である。祭神は瀬織津姫、伊吹戸主、速佐須良姫の三神、寛永十六年にこの地に遷座し祀る。三神が出現したゆえ三ツ子の名がある。また鈴鹿社は倭姫命を祭る。いま四神合祀して一つとなす。 』


そうなると、「片山神社(鈴鹿神社)」の御祭神は、祓戸四柱の内、その三柱が主祭神だった事になりますから、「斎王」の禊に深く関わった神社だったと思われます。


さらに、別の地誌「亀山地方郷土史」や「大日本史」によると、「片山神社」は、三子山に鎮座する前は、また別の地に鎮座していたと記載されていたとしています。


この地誌によると、「片山神社」は、「三重県亀山市関町古厩字片山」にあったと記載されているようですが、そうなると、現在地からは、南東方向に、かなり離れた場所にあった事になるので、この説には、異論もあるようです。


こちらの、「片山神社」ですが、元々は、「アララギ様」と呼ばれる神を祀った祠があった場所と伝わっており、その後、江戸時代には「八王子様」と呼ばれ、八柱の神様を祀る「宇気比(うけひ)神社」とも呼ばれていたようですが、明治時代に「片山神社」になったと伝わっています。


何とも興味深いのは「アララギ様」と呼ばれた神様の存在です。


実際「アララギ様」と言う神様が、どのような神様なのかは解りませんでしたが、似た名前で「アラハバキ神(荒脛神)」と言う神様がいらっしゃいます。


現在では、学会から偽書と断定されている「東日流外三郡誌(つがる-そとさんぐん-し)」に、その記載が見られることから存在自体も疑われている神様ですが、「アラハバキ神(荒脛神)」を祀る祠は、日本各地にあります。


この「アラハバキ神(荒脛神)」についても、「安倍氏」との関係で取り上げたいと思います。


それと、「八王子」とは、東京の「八王子」ではありません。


先にも登場していますが、「アマテラスとスサノオの誓約(宇気比:うけい)」で生まれた、次の五男三女神の事で、「八人の王子」の事となります。


(女神)田心姫神(たごりひめのかみ) :古事記多紀理毘売命」、沖津宮(おきつぐう)、沖ノ島
(女神)湍津姫神(たぎつひめのかみ) :古事記多岐都比売命」、中津宮(なかつぐう)、大島
(女神)市杵島姫神(いちきしまひめのかみ) :古事記市寸島比売命」、辺津宮(へつぐう)、宗像本土・田島
(男神)天忍穂耳命(あめのおしほみみのかみ):古事記正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命」、稲穂の神、農業の神
(男神)天穂日命(あめのほひのかみ) :古事記天之菩卑能命」、稲穂の神、農業の神、養蚕の神、火の神
(男神)天津彦根命(あまつひこねのかみ) :古事記天津日子根命」、その後は登場せず
(男神)活津彦根命(いくつひこねのかみ) :古事記活津日子根命」、その後は登場せず
(男神)熊野櫲樟日命(くまのくすびのかみ) :古事記「熊野久須毘」、その後は登場せず


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また、鈴鹿峠滋賀県側には、上記「悪鬼退治伝説」と関係の深い「田村神社」が鎮座しています。


こちらの「田村神社」、様々な由緒起源が掲載されていますが、神社自身の由緒書きによると、前述の「悪鬼退治伝説」を継承し、「坂上田村麻呂(758〜811年)」の没後、この地に平和をもたらしたご遺徳を仰ぎ、平安時代の「弘仁3年(812年)」に、この地に、「坂上田村麻呂」を祀る神社を建立した事になっています。


そして、御祭神はと言うと、当然「坂上田村麻呂」なのですが、それ以外にも、次の二柱が祀られているそうです。 → 倭比売命、嵯峨天皇


嵯峨天皇」は、「鈴鹿峠」の悪鬼と言うか、盗賊を討伐する勅命を出した天皇ですし、この地に「坂上田村麻呂」を祀る神社を建立する勅令を出した人物でもありますので、それで、「坂上田村麻呂」と一緒に御祭神になったと推測されます。


しかし、「倭比売命」に関しては、その経緯が解りませんが、恐らくは、先の「鈴鹿神社」と同様、「斎王」との関係があると思います。


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その後、時代を経ることで、これらの記録や伝承などが「一緒くた」となり、「斎王」が、いつの間にか「鈴鹿権現」となり、さらには「悪鬼退治伝説」で有名な「坂上田村麻呂」とつながり、「鈴鹿立烏帽子姫」と言う事になり、最後には、二人が結婚して・・・と言う形で話が広がり、それが「お伽草子」等の物語になって行ったと考えられます。


鈴鹿御前」、あるいは「立烏帽子姫」が登場する書物には、下記のような物があるとされています。


・宝物集 :平安末期「治承3年(1197年)」頃に成立した仏教説話集。
保元物語 :鎌倉初期「承久3年(1221年)」頃に成立した軍記物語。
・古今著聞集 :鎌倉中期「建長6年(1254年)」に成立した世俗説話集。
・公卿勅使記 :鎌倉中期「弘長元年(1261年)」に編纂された神道系の書物。
太平記 :戦国時代、14世紀中頃の古典文学。
・壬生家文書 :戦国時代「文明18年(1486年)の勘文(朝廷からの依頼で作成した調査報告書)。


上記の様な流れで、平安時代には、「立烏帽子姫」と「鈴鹿御前」が習合し、その後、室町時代や戦国時代には、「坂上田村麻呂」も登場し、それ以降は、地元の民間信仰や「お伽草子」等の読み物として語り継がれてきたのだと思います。


鈴鹿御前 = 瀬織津姫命」と習合した経緯に関しては、詳しくは解りませんが、やはり前述の通り、「禊(みそぎ) = 祓戸大神」として習合したように感じられます。


但し、祓戸大神の内、「姫神」は、三柱も存在するのに、何故「鈴鹿御前 = 瀬織津姫命」となったのかは、疑問の残る所です。


鈴鹿御前」と習合するのは、「瀬織津姫命」以外、「速開都比売」や「速佐須良比売」でも良かったと思いますが、何故「鈴鹿御前 = 瀬織津姫命」となったのか ?


前述の「片山神社」には、「瀬織津姫命」と一緒に「速佐須良比売」も祀られているので、「鈴鹿御前 =速佐須良比売」でも良かったのではないかと思われます。


この件に関しては、後述する「瀬織津姫命が生まれた背景」で詳しく紹介したいと思いますが、やはり「瀬織津姫命」は、他の女神と比べると、特別な神様だった事が理由だと思われます。

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■「熊野権現」と「瀬織津姫命」の関係



他方、「熊野権現」と「早池峯権現」を同一と見る向きもあります。つまり、「熊野権現 = 早池峯権現 = 新山権現 = 瀬織津姫命」と言う関係です。


「早池峯権現 = 新山権現 = 瀬織津姫命」と言う関係は、名前の順番は別にして、これまで説明してきた各地の「早池峯神社」の由緒から明らかだと思われます。


それぞれの登山口で「妙泉寺」や「新山宮」を建立し、そこに「新山権現」やら「早池峯権現」を勧請して、かつ御祭神を「瀬織津姫命」にしている訳ですから、これら三者(三神)は、同一神として習合していると考えて間違いないと思います。



また、「遠野の早池峯神社」は、猟師「始閣藤蔵」が開祖と伝えられている事は既に紹介した通りです。


しかし、前編では詳しく紹介していませんが、「始閣藤蔵」は、元々、遠野の人間ではなく、現在の静岡県「伊豆」出身である事が、昭和49年10月に刊行された「遠野市史」に掲載されているそうです。


市史によると、「始閣藤蔵」は、故郷「伊豆」から、太平洋岸沿いに北上し、「遠野市来内(らいない)村」に来て、そのまま村に住み着いたとされています。


そして、その後、平安時代初期の「大同年間(806〜810年」に、故郷である「伊豆」から持ってきた守り神である「伊豆権現」を勧請して、遠野市上郷町来内に「伊豆神社」を創建したとされています。



遠野市伊豆神社(当時は、伊豆大権現)」は、「伊豆権現」を勧請したとされていますが、その御祭神は「瀬織津姫命」となっていますので、ここで「伊豆権現 = 瀬織津姫命」と言う関係も見て取ることが出来ます。


そして、前述の通り、「始閣藤蔵」は、「大同元年(806年)」、早池峰山の山頂に、お堂を建立したとされていますが、実は、こちらの遠野市伊豆神社」の方が、「早池峯神社」の「親社」とされています。


その昔から、「遠野の早池峯神社」では、この「伊豆神社」を「親神/親社」と呼び、「早池峯神社」で例大祭等を行う時には、必ず「伊豆神社」の別当が来るまで、祭りを開催する事が出来なかったそうです。


ところが、肝心の「伊豆神社」側の由緒書きでは、市史とは異なる由緒を伝えており、「始閣藤蔵」がお堂を建立した後、「伊豆走湯神社」の修験者が来内村を訪れて、獅子頭御神体として奉納したとされています。



しかし、何れの由緒においても、「伊豆の走湯神社」や「伊豆権現」との関係が見て取れます。


それでは、「伊豆走湯神社(現:伊豆山神社)」とは、どのような神社なのかと言うと、創建時期は不詳となっていますが、一説には、第5代天皇孝昭天皇(紀元前4〜5世紀頃)」の頃とされています。


そして、その昔から、次の様な社名で呼ばれていますが、全国にある「伊豆神社」、「伊豆山神社」、および「走湯神社」の総本社とされています。
→ 伊豆大権現、伊豆御宮、伊豆山、走湯大権現、走湯山


その由緒はと言うと、「仁徳天皇」が勅願所とした事から、歴代天皇や皇族との繋がりが深い場所とされていますし、「源 頼朝」も戦勝祈願を行った関係で、鎌倉幕府の「関八州鎮護」として最盛期を迎えたとされています。


また、飛鳥時代には、「役行者」として知られる「役小角(えん-の-おづの)」が、伊豆大島流罪となった際に、ここで修行を行ったと伝わっておりますし、それ以降も、「空海」を始めとする多くの仏教者や修験者が修行を行ったと伝わっています。



このため、平安時代後期には、既に山岳信仰の修験場として有名になっており、熊野神社の「熊野信仰」とも結び付いていたと考えられているようです。


特に、鎌倉時代に編纂されたと伝わる「走湯山縁起」によると、境内末社となる「雷電社」には、「雷電金剛童子」という熊野権現の王子を祀っていたと説明されており、この事からも、「伊豆山神社」と「熊野権現」との関わりを見て取る事が出来ると思われます。


この「走湯山縁起」では、「雷電金剛童子」と「走湯権現」との関係については、「走湯山縁起 巻四」に、次の様に記載されているようです。


『 抑雷電金剛童子者、南山熊野王子、東明走湯儲君也、本是震多摩尼菩薩、以安養補陀落為所居、明迹則雷電金剛童子、以熊野・走湯山為社壇 』


走湯山には雷電金剛童子が祀られている。これは南山熊野の王子であり、東の明けの走湯権現にとっては儲君となる。雷電金剛童子の本是は多摩尼菩薩である。このため、この地は極楽霊場を為す場所であり、則ち、これは明らかに雷電金剛童子の足跡となる、故に、湯山と熊野の両社を共に社壇(祭殿)を祀っている。


何か、私の、漢文訳が変なため、よく解らない現代語になってしまいましたが、要は、「雷電金剛童子」は、「走湯山」、および「熊野」の双方にとって重要な神様である、と言いたい様です。


ちなみに、「伊豆山神社」自体は、次の三柱を御祭神として祀っており、この「雷電社」も、「瓊瓊杵尊」を御祭神としています。


・天忍穂耳(あめのおしほみみ)尊 :「アマテラスとスサノオの誓約(うけい)」で生まれた八王子の長男。
・栲幡千々姫(たくはたちぢひめの)尊 :「高皇産霊尊」の娘。「天忍穂耳尊」と結婚し「瓊瓊杵尊」を生む。
・瓊瓊杵(ににぎ)尊 :上記二柱の息子。「天孫降臨」で高天原から葦原中津国に降臨した神。


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他方、熊野権現とは、元々は、「熊野三山」に祀られた神々のことで、次の三柱を「熊野三所権現」と呼んでいたようです。


熊野本宮大社 :家都美御子(けつみみこ)大神 → スサノオ
・熊野速玉大社 :熊野速玉(くまのはやたま)大神 → イザナギ
熊野那智大社 :熊野牟須美(くまのむすみ)大神 → イザナミ


そして、これら三つの大社では、お互いに三柱を勧請し会い、三神を一緒に祀っています。


さらに、これら三所権現の他にも、次の九柱を追加して「熊野十二所権現」とも称しています。


●上四社
第一殿 西宮 熊野牟須美(クマノムスビ) 千手観音
第二殿 中宮 熊野速玉(クマノハヤタマ) 薬師如来
第三殿 丞相 家都美御子(ケツミミコ) 阿弥陀如来
第四殿 若宮 天照大神(アマテラス) 十一面観音
●中四社
第五殿 禅児宮 天忍穂耳(アメノオシホミミ) 地蔵菩薩
第六殿 聖宮 瓊瓊杵(ニニギ) 龍樹菩薩
第七殿 児宮 彦火火出見(ヒコホホデミ) 如意輪観音
第八殿 子守宮 鸕鶿草葺不合(ウガヤフキアエズ) 聖観音
●下四社
第九殿 一万宮・十万宮 軻遇突智(カグツチ) 文殊菩薩
第十殿 米持金剛 埴山姫(ハニヤス) 毘沙門天
第十一殿 飛行夜叉 弥都波能売(ミズハノメ) 不動明王
第十二殿 勧請十五所 稚産霊(ワクムスビ) 釈迦如来



何か、神様だ、仏様だと、凄い事になっていますが、熊野権現とは、このような神様達となっています。


しかし、前述の通り、「走湯山縁起」では、「雷電金剛童子は、熊野権現の王子たる神様」としていますが・・・何故か、この「熊野十二所権現」には、「雷電金剛童子」なる神様は登場しません。


それでは、「熊野権現の王子たる雷電金剛童子」とは、何なんでしょうか ?


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熊野三山」周辺、特に紀伊半島には、熊野詣を行うための「熊野古道(熊野参詣道)」があります。


そして、この「熊野古道」には、この道沿いには、熊野の修験者によって建立された「九十九(くじゅうく)王子」と呼ばれる多くの神社があるそうです。


実際は、「九十九」個の神社がある訳ではなく、江戸時代に書かれたとされる「神道集 巻第二」には、この「九十九王子」と呼ばれる神社は、84箇所あるとされています。


この事から、先の「走湯山縁起」における「南山熊野王子」とは、「王様の子」ではなく、この「九十九王子」と呼ばれる神社の一つを意味しているのだと思われます。


さらに、その昔、「熊野三山」、「高野山」、「吉野・大峰」を含む紀伊半島地方は、総称して「南山」と呼ばれていた事から、「南山熊野王子」とは、「紀伊半島熊野古道にある王子」と言う事を意味しているのだと思います。


また、「九十九王子」は、前述の通り、「多くの王子(神社)」と言う意味になりますが、実際に、どのくらいの神社が「王子」として認定され、そして、現在、いくつ残っているのか等は、よく解っていないようです。


「王子」と言う言葉や施設は、平安時代末期となる10〜11世紀には既に存在している事が、当時の貴族(藤原為房)の日記に書かれていた事から解っています。


しかし、時代と共に、「王子」と認められた神社は変化している様ですし、明治時代の「廃仏毀釈」の影響もあり、今となっては、よく解っていなようですが、現在では何と・・・100箇所以上の場所が「王子」となっているようです。



これら「王子」は、「熊野三社」の「御子神」、つまり「子神社」と考えられており、同じく「神道集 巻第二」の「熊野権現事」には、前述の「熊野十二所権現」に関する「本地仏」が説明されていますが、その後に、次の王子の説明が記載されています。


那智の滝本(飛滝権現) :千手観音
・新宮神蔵(かんのくら) :毘沙門天/愛染明王
雷電八大金剛童子弥勒菩薩
・阿須賀大行事(あすかだいぎょうじ) :七仏薬師


また、室町時代末期となる「応永年間(1394〜1428年)」の「寺門傅記補録」には、熊野、および王子に関する多くの説明が書かれていますが、さらに「金剛童子」については、次のように紹介されています。


『 熊野の護法神となす。熊野縁起那智鎮守の条に禮殿執金剛童子、湯峯金剛童子、發心門金剛童子、湯河金剛童子、近津湯金剛童子、瀧尻金剛童子、切目金剛童子等の名見ゆ。青童子童子あり。金剛童子の条に注す。 』



これら7人の童子の内、次の6名に関しては、現在でも同名の「王子」が確認されています。また、「熊野三社」には、それぞれ「禮(礼)殿」がありますので、「禮殿執金剛童子」は、出発地である「熊野本宮」を意味していると思われます。


・湯ノ峯王子 :田辺市本宮町湯峰。王子としての疑いがある神社。
・発心門王子 :田辺市本宮町。五体王子のひとつ。
・湯川(湯河)王子 :田辺市中辺路町道湯。現社殿は昭和期に再建。
・近露(近津湯)王子 :田辺市中辺路町。現在は石碑飲み。
・瀧(滝)尻王子 :田辺市中辺路町栗栖川。五体王子のひとつ。現在も神社。
・切目王子 :日高郡印南町。五体王子のひとつ。本地:十一面観音。


一方、複数存在する「熊野曼荼羅」の内、「熊野垂迹神曼荼羅図(甲本)」等には、「礼殿執金剛童子」と言う童子が、観音様の「眷属」として描かれています。


「眷属」とは、一族、郎党、あるいは従者等と言う意味や、あるいは「神仏のお使い」と言う意味で用いられる言葉です。



この「礼殿執金剛童子」ですが、前述の「走湯山縁起」では、「雷電」と表記されていますし、さらに他のケースでは「雷殿」と表記されるケースもありますが、何れも同じ事を意味していると考えられています。


元々は、「礼殿を守護する金剛童子」と言う意味だったようですが、それが「礼(禮)殿」+「守護」+「金剛童子」の形に分割され、その後「礼(禮)殿」+「執金剛童子」となり、さらに「雷電」+「金剛童子」に変化したと考えられています。


何れにしても、「神仏のお使い」たる眷属で、神仏を守護している「金剛神」のことだと思われます。



このように、「始閣藤蔵」と「熊野権現」とは、目立たない場所で、確かに繋がっていたようです。


また、冷静に考えれば、「始閣藤蔵」は猟師と紹介されていますが、居着いた場所に、複数のお堂を建立している事から、元々は「修験者」だと考えるのが普通です。


また、お堂の建立後、出家して「普賢坊」と名乗る事からも、やはり元々は修験者で、生活のための猟を行っていたのではないかと思われます。


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ここまでが、和歌山県熊野三山」→ 静岡県伊豆山神社」→ 遠野「伊豆神社」→ 遠野「早池峯神社」と言う流れで、「瀬織津姫命」が「早池峯神社」に勧請された経緯を紹介して来ましたが、それとは別のルートで、岩手県に「瀬織津姫命」が勧請されている事も解っています。



それは、鎮守府将軍大野東人(おおの-あずまびと)」による、熊野権現の勧請です。


鎮守府将軍とか征夷大将軍と言えば、本ブログに何度も登場する「坂上田村麻呂」が有名ですが、彼以前にも「大野東人」が、当時の鎮守府将軍として、何度も蝦夷征伐を行い、多賀城や出羽柵などを作ったりしています。


また、奈良時代となる「天平12年(740年)」に起こった「藤原広嗣の乱」を鎮圧する等の功績も挙げる等、奈良時代を代表する武人と言われています。


さて、この「大野東人」ですが、かつての室根村(現:一関市室根町)のホームページには、「室根神社」の由緒について、下記のような情報を掲載していたようです。


『 本宮(室根神社本宮)は、社伝によれば養老二年(七一八年)鎮守府将軍大野東人が、熊野神の分霊を迎えたのが起源で、いまから一千二百九十二年前のことである。

大野東人鎮守府将軍として宮城県多賀城にあって、中央政権に服しない蝦夷(関東以北に住んでいた先住民)征討の任についていた。

しかし、蝦夷は甚だ強力で容易にこれを征服することができなかったので、神の加護を頼ろうと、当時霊威天下第一とされていた紀州牟婁(むろと)郡本宮村(現在の和歌山県田辺市本宮町)の熊野神をこの地に迎えることを元正天皇に願出た。

東北地方の国土開発に関心の深かった元正天皇はこの願いを入れ、蝦夷征討の祈願所として東北の地に熊野神の分霊を祀ることを紀伊の国造や県主に命じた。

天皇の命令を受けた紀伊の国造藤原押勝、名草藤代の県主従三位中将鈴木左衛門尉穂積重義、湯浅県主正四位下湯浅権太夫玄晴と、その臣岩渕備後以下数百人は、熊野神の御神霊を奉じてこれを守り、紀州から船団を組み四月十九日に船出し、南海、東海、常陸の海を越え陸奥の国へと北航し、五ヵ月間もかかって九月九日に本吉郡唐桑村細浦(現在の気仙沼市唐桑町鮪立)についた。

この時、仮宮を建て熊野本宮神を安置した。それがいまの舞根神社(瀬織津姫神社)である。 』



しかし、史実では、「大野東人」が、多賀柵(多賀城)を建築したのは、奈良時代初期となる「神亀元年(724年)」とされていますので、まあ、若干、年代のズレはあるようです。


この由緒書によれば、年代はさて置き、熊野本宮から「瀬織津姫命」を勧請し、仮宮として、現在の「瀬織津姫命神社」、当時は「舞根(もうね)神社」に安置したとしていますので、明らかに「熊野権現瀬織津姫命」です。


さらに、天皇の勅命を受けた数百人で船団を組み、熊野から5ヶ月間も掛かって気仙沼に着くなんて、天皇行幸よりも大規模なような感じがしますが、何か、異常な感じがします。



船団到着後、多賀城に居た「大野東人」は、白馬17頭で神輿を迎え、「熊野本宮神(瀬織津姫命)」の仮宮に供物を清めてお供えし、どこに「熊野本宮神(瀬織津姫命)」を鎮座させるのかを湯立神事で占ったところ「磐井郡鬼首山(現在の室根山)は日本武尊が皇業を始めた地なので、そこに祀ってほしい」という託宣を得たとされています。


ところが、船団が到着したとされる「唐桑」側の伝承では、「室根神社」の伝承とは話が異なり、最初に「仮宮」を設置したのは、船団が到着した場所、現在の唐桑町鮪立49番地にある「業除(ごうのけ)神社」とされています。


つまり、「熊野本宮神(瀬織津姫命)」の鎮座した場所は、次の様に遷移したとされています。



和歌山県熊野神社本宮」 :御祭神「家都美御子大神」
唐桑町鮪立「業除神社」 :御祭神「紀州熊野神社御分霊」
唐桑町東舞根「舞根神社(瀬織津姫神社)」 :御祭神「瀬織津姫命」
→ 「熊野神社」 :場所等一切不明
→ 一関市室根町「室根神社」 :御祭神「伊弉冉命、速玉男命、事解男命


平成になってから書かれた由緒書ですが、オリジナルは、昭和37年「佐々木萬兵衛」と言う方が記録した由緒書で、次の様に記載されています。


『 業除権現神社は、今から千弐百八拾八年前、人皇拾壱代元正天皇は東北地方開発の為従三位鈴木左ヱ門尉(穂積)重義(に)命じて、尊崇厚き熊野本宮の神霊を奉持させ東下させた。

時は、養老弐年四月で同勢百余名が海を渡り五ヶ月間にて、唐桑細浦、現在の唐桑鮪立に到着、最初に神霊を安置したのは当業除権現神社である。

次に舞根の瀬織津姫神社、気仙沼に至(り)ては熊野神社と、奥地に分け入りて二十日後に落ち着いたのが室根神社である。

これがため、これらの神社の祭神は熊野権現神社であり、これが由来しって、室根神社大祭の前日には鮪立と舞根から海水を持参して神器(を)清める習慣があった。

今も続き居る事は、熊野神社本宮の由緒書にも記載されてあると言う。地方伝承(と)室根山縁起と一致する事、間違えなき史実なる直を。

神霊は海を渡り来るものなれば、漁夫の守り神と致し崇拝致すべきものなり。以上は昭和三十七年九月九日佐々木萬兵衛氏由来書を元に記す。 』



「仮宮」の設置場所に相違がありますが、何れにしろ「熊野本宮神(瀬織津姫命)」は、間違いなく、熊野の地から、「室根神社」まで無事に勧請出来たようです。


そして、これまでの経緯が正しければ、元々の熊野本宮に祀られていた神様は「瀬織津姫命」と言う事になります。


ところが、ここまでの話に登場する神社の内、現在、「瀬織津姫命」を御祭神にしている旨を表明しているのは、上記の通り、「舞根神社(現:瀬織津姫神社)」だけです。


それ以外の「熊野本宮」、「業除神社」、および「室根神社」では、残念ながら「瀬織津姫命」と言う神様は、お隠れになってしまっています。


しかし、肝心の「室根神社」に関しては、御祭神の名が公になったのは、「大正8年(1919年)」、神社から提出された「県社昇格願」と言う申請書に、「祭神 伊弉冊尊」と言う記載があっただけと言われています。


それ以前、つまり、「大野東人」が、「養老2年(718年)」、「室根神社」に「熊野権現」を勧請してから1200年の間は、「瀬織津姫命」が御祭神だった可能性があります。


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つまり、岩手県内には、この様に、次の2つのルートで、「熊野権現」たる「瀬織津姫命」が勧請されたと考えられます。


●「始閣藤蔵」ルート :熊野神社本宮 → 伊豆山神社伊豆神社 → 早池峯神社
●「大野東人」ルート :熊野神社本宮 → 業除神社 → 舞根神社(瀬織津姫神社) → 熊野神社 → 室根神社


他方、室根山は、早池峰山からは、ほぼ真南に80km程度離れた場所にありますが、お互いに行き来したという情報もありません。


創建年代としては、下記の通り、「室根神社」の方が、100年位早く「瀬織津姫命」が勧請された事になっています。


●「室根神社」 :奈良時代「養老2年(718年)」
●「早池峰神社」 :平安時代「大同元年(806年)」


歴史の中に埋もれてしまったのかも知れませんが、ひょっとしたら「室根神社」と「早池峰神社」との間には、何らかの接点があったのかも知れません。


女性には理解出来ないかもしれませんが、このような想像を膨らます事が出来るのが「歴史ロマン」だと思います。



ちなみに、「舞根神社(瀬織津姫神社) 」は、唐桑半島の付け根付近に鎮座していたため「東日本大震災」による津波の被害を受けて全壊してしまったそうです。


その後、2012年11月に、元の場所からは400m程、内陸の地に遷座されたようです。


社殿は、「牡蠣(かき)」を通して交流があった、広島県呉市の宮大工の方により復元して頂いたそうです。

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■「瀬織津姫命」と「天台宗」の関係


ところが、この「室根神社」、実は、遠野「早池峰神社」と同じ運命を辿る事になります。


これまで紹介してきた通り、「養老2年(718年)」に、熊野本宮から「熊野権現(瀬織津姫命)」を勧請して「室根神社」が創建されたのですが・・・その後、遠野「早池峰神社」と同様、天台宗の僧侶「円仁(慈覚大師)」等に乗っ取られる事になります。


室根村文化財保護委員会が発行した「室根神社史実録」によると、下記の通り、平安時代初期となる「嘉祥3年(850年)」、「円仁」が、勅願を以て室根山へやって来て、天台宗の一大寺院群を建立したとなっています。


人皇十四代の聖主仁明天皇の御代嘉祥三年九月に、天台の座主僧円仁(慈覚大師)東国に御下りになり、室根山の頂上にて北の壇西の壇を造り浄め、石を敷き梶の葉を並べ供物を供え、金剛の法界大日両部執行の御護摩を焚き、百日百夜の御修行により、衆生成仏済度のため、天下長久国家安全の御祈禱をなさる。

これより室根山全山天台宗(比叡山真流)となり、護摩壇設置され、衆生済度天下長久国家安全鎮護の大霊場となる。 』


そして、「円仁」は、本尊本地仏「十一面観音」を中心に、主要寺五寺、四箇所の祓川金剛童子、四十八院、八十八坊を建立したと記載されています。


遠野「早池峰神社」においても、「十一面観音像」祀ると共に、脇士として「薬師如来像」と「虚空蔵菩薩像」を併祀したと伝わっていますので、それと全く同じ事を、「室根神社」でも行った事になります。


「円仁」は、奈良時代の「延暦13年(794年)」、現在の栃木県佐野市田沼町(旧:安蘇郡)の生まれとされていますので、私の妻と同じ場所の出身のようですが、天台宗の開祖「最澄」に師事した後、遣唐使として当時の中国に9年も留学し、「承和14年(847年)」に日本に帰国し、その17年後の「貞観6年(864年)」に死去した事になっています。


故に、この史実が正しければ、日本帰国後、直ちに東国巡礼に出発し、わずか17年で、数多くの寺院群を建立した事になります。


由緒書きで、「円仁」が開山したり再興したりしたと伝わる寺社は、関東では「浅草寺」等を含む209寺、東北では「瑞巌寺」、「立石寺」等を含む331寺あるとされていますが・・・こうなると、もう「眉に唾を付けたく」なってしまいます。


恐らくは、奈良時代から平安時代にかけて、桓武天皇の指示により、「最澄」や「円仁」等、天台座主配下の僧侶達が、関東から東北を行脚し、国家宗教と言う名の下、地元に元々祀られていた地主神を、半ば強制的に「天台宗」に改宗させて行ったのではないかと推測されます。


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しかし、そんな天台宗の栄華も、鎌倉時代に入ると一変してしまいます。


東北各地の天台宗系の名だたる寺院は、鎌倉時代となる、「文応元年(1260年)」以降、鎌倉幕府の執権引退後の「北条時頼」の「奥羽天台宗寺院廃滅令」により壊滅させられたとしています。


鎌倉幕府の第五代執権「北条時頼(在職1246〜1256年)」は、引退後に出家し「最明寺入道」と呼ばれ、諸国を行脚したと伝わっています。


これが、いわゆる「観阿弥/世阿弥」が作曲した能「鉢の木」に代表される「北条時頼の廻国伝説」ですが・・・


実際には、このような諸国行脚は行っておらず、引退後に行った「北条得宗家の領地訪問」が脚色され、このような伝説が生まれたのではないかとされているようです。


同じ様な伝説では、「水戸黄門漫遊記」がありますが、時代劇で有名な、この話も、実は、「北条時頼の廻国伝説」がベースになっていると言う話もあります。


まあ、何れにしても、北条時頼水戸光圀公も、諸国を行脚したと言う事実はありません。


また、前述の「奥羽天台宗寺院廃滅令」ですが、この命令も、本当に発令されたのか否かも明らかにはなっていないようです。


但し、下記の資料には、文応元年(1260年)」以降、鎌倉幕府の命令により、東北地方において、天台宗の僧侶が追放されたり、あるいは寺院が焼き払われたりした事が記録されているようです。


宮城県瑞巌寺に残る「天台記
・室根神社史実録


鎌倉幕府は、平安時代末期から力を付けてきた天台宗の「僧兵」の扱いに苦慮して来ましたので、幕府成立当初から国家権力と結び付いてきた仏教、特に、天台宗に対しては、憎しみを募らせていたのだと思います。


そして、上記の資料には、「北条時頼が出家して最明寺入道を名乗り、諸国巡見を行った際、奥羽の天台寺院において、不正が多く、かつ仏教の教義に反する行いをしているとして、僧侶追放や寺院焼き討ちが行われた。」と記載されているようです。


ところが、前述の通り、「北条時頼」自身、このような諸国行脚は行っていませんので、この「奥羽天台宗寺院廃滅令」自体、存在しないのではないかと思われます。


しかし、僧侶追放や寺院焼き払い自体は、実際に行われた様ですので、恐らく、本当に、当時の瑞巌寺(当時は松島青龍山瑞巌円福禅寺)や室嶺山満徳寺(現:室根神社)では、風紀が乱れ、仏の道に反する行為が行われていたのだと思われます。



瑞巌寺」は、僧侶の追放、および改宗(天台宗臨済宗)だけで済んだようですが、「室根神社」は、寺社、尽く焼き払われ、当たり一面、焼け野原と化したようですから、「室嶺山満徳寺」の行いは、よっぽど酷かったのだと思います。



戦国時代には、「織田信長」も、天台宗の総本山「延暦寺」の焼き討ちを行っていますので、平安時代末期以降、天台宗は、もう「仏の道」云々どころか、根本的に腐っていたのだと思われます。


その証拠としては、天台宗の開祖「最澄」の弟子「仁忠」が、「最澄」の死後に書き表したとされる「叡山大師伝」には、「最澄」の遺言として、次のような戒めの言葉を残したと伝わっています。


『 我が命、久しく存せじ。若し我が滅後に、皆服を著すること勿れ。亦、山中の同法、仏の制戒に依つて、酒を飲むことを得ざれ。若し此を違ふことある者は、我が同法にあらず。亦、仏弟子にあらず。

早速に擯出して、山家の界地を践ま令むることを得ざれ。若しくは合薬(酒)の為めにも、山院に入るること莫かれ。又、女人の輩を、寺側に近づくることを得ざれ。何に況や、院内清浄の地を哉。

毎日、諸々の大乗経を長講し、慇懃精進に法をして久住令めよ。国家を利せんが為め、群生を度せんが為めなり。努力めよ、努力めよ。我が同法等、四種三昧を懈倦為ること勿れ。 』


簡単に言うと、弟子達に「私の死後、酒を飲むな、比叡山寺域に女人を近づけるな !」と言っている訳ですから、天台宗の成立時点で、既に腐っていたのかも知れません。


他方、東北地方の天台宗寺院を壊滅させたとされる「北条時頼」ですが、この行為だけを見れば、後に「魔王」と呼ばれる戦国武将「織田信長」と同じように見えるかと思います。


しかし、「北条時頼」自身は、禅宗に帰依する程、仏教に対する造詣が深い武将で、自ら、中国(当時の南宋)から渡来した禅僧「蘭渓道隆(らんけい-どうりゅう)」を導師として臨済宗建長寺」を建立しています。


また、自身が出家するために、現在では廃絶してしまったようですが、鎌倉山ノ内に、「蘭渓道隆」を開祖とする「西明寺」を建立したりしています。


このため、「織田信長」のように「魔王」とは呼ばれたりはしませんでしたが、同じく「天台記」には、瑞巌寺から追放された天台宗の僧侶が、松島の福浦島に集まり、「北条時頼」を呪詛した事が伝えられおり、この「呪詛」の影響で、「北条時頼」は、享年37歳の若さで死亡したとされています。


まあ、この「天台記」と呼ばれる文書は、現在は瑞巌寺の所蔵となり、次の三名によって書き継がれた「松島青龍山瑞巌円福禅寺」の社史と言われています。


・法印「覚心」 :平安時代「永延2年(988年)」
阿闍梨「永快」 :平安時代「治承2年(1178年)」
・「儀仁法印」の弟子「山居房覚正」 :鎌倉時代「弘長3年(1263年」


しかし・・・この「天台記」は、瑞巌寺百九世「曹源」の時に、松島の民家から出た書物と言われ、さらに、その後、戦国時代となる「文明2年(1470年)」に、「松島八屋左治郎藩重」なる者によって書かれた写本とされていますので・・・恐らくは「偽書」だと思われます。


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このように、東北地方の天台宗は、鎌倉幕府(北条得宗家)から、何らかの怒りを買い、迫害や焼き討ちにあったようですが、その原因は解らないようです。


鎌倉時代は、従来の旧仏教(天台宗/真言宗)に対する反発から多くの新興仏教が生まれましたが、新興仏教の多くは、貴族や武家を救済対象とはせず、庶民を救済対象としたことから、当時の支配階級からは疎まれる存在となってしまったようです。


このため、鎌倉時代は、仏教弾圧が行われた時代として有名ですが、弾圧対象は、下記の新興仏教に限られています。

新興仏教 浄土宗 浄土真宗 時宗 法華宗 臨済宗 曹洞宗
開祖 法然 親鸞 一遍 日蓮 栄西 道元
幕府からの弾圧
幕府からの庇護
旧仏教から弾圧


このように、天台宗は、本来は、支配者階級(貴族/武家)と密接に繋がっていますので、本来は、迫害対象にはならないはずなのですが・・・何故か、東北地方の天台宗だけ弾圧されてしまったようです。



また、一説には、「円仁(794〜864年)」が、大和朝廷の意向を受けて、「瀬織津姫命」が祀られている全国各地の神社を、強制的に「天台宗」の寺院に改宗させることで、「瀬織津姫命」の名前を歴史から抹殺したと言う噂があるようです。


しかし、「瀬織津姫命」と言う名前が、全国各地の神社の御祭神から消え始めたのは、「日本書紀」編纂が始まった頃、恐らくは、「持統天皇(在位690〜697年)」の頃だと言われていますので、年代が100年ほど合いません。


最澄」を始めとする「天台宗」一派は、単に、「天台宗」を広めるためだけに、関東/東北を行脚したのであり、「瀬織津姫命」の抹殺とは、余り関係が無いのではないかと思われます。

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今回は、「早池峰信仰と瀬織津姫命」の第三弾として、次の内容を紹介しましたが、如何でしたでしょうか ?


●「天照大御神」は男神なのか ?
●「鈴鹿権現」と「瀬織津姫命」の関係
●「熊野権現」と「瀬織津姫命」の関係
●「瀬織津姫命」と「天台宗」との関係


今回の内容では、「瀬織津姫命は天照大神の妻」と言う噂が、到るところで語り継がれていると言う事が解った次第です。


また、それ以外でも、「瀬織津姫命 = 鈴鹿権現 = 熊野権現」と言う事になり、さらには、「早池峰山」との関係まで含めると、「瀬織津姫命 = 鈴鹿権現 = 熊野権現 = 早池峯権現」と言う形で習合された、と言う事になるかと思われます。


加えて、岩手県に「熊野権現」が勧請された経路が2つもあると言うのは、ちょっと以外でした。


当初は、遠野「早池峯神社」の開祖「始閣藤蔵」だけを注目していたのですが、この「始閣藤蔵」よりも、100年も早く「室根神社」に、「熊野権現」が勧請されていたとは驚きでした。


それに、地元には、勧請された「熊野権現」が、「瀬織津姫命」と断定する資料まで残っていたのは、さらに驚きでした。


前述の通り、「室根神社」と遠野「早池峯神社」は、80kmしか離れていないので、きっと双方には、何らかの繋がりがあると思ったのですが・・・残念ながら、今回は、その繋がりを解明することは出来ませんでした。



他方、今回は、紙面の関係で紹介出来ませんでしたが、「鈴鹿権現」の箇所では、「奥州安倍氏」が絡んで来ます。


この安倍氏も、「前九年の役」で、大和朝廷側に敗れてはしまいますが、その血筋は、「安倍宗任」がしっかりと子孫達に残しています。


この「安倍宗任」が、流刑された四国、そして北九州地域には、「宗像一族」が君臨しており、ここに「安倍氏」の血筋も関係する事になります。


この「宗像一族」、そして「出雲一族」、さらには「大和朝廷」と言う三者が、複雑に絡み合う中で、「瀬織津姫命」が歴史から抹殺されて行った事になったのではないかと考えられています。


次回、第四弾としては、当初の予定とは、かなり内容が変わってしまいましたが、次の様な内容を紹介したいと考えています。


●「安倍氏」とは
●「安倍氏」と「瀬織津姫命」
●「安倍氏」と「アラハバキ神」


紙面に余裕があれば、さらに「宗像三女神」に関する話題も取り上げたいと思っています。


それでは次回も宜しくお願いします。

以上



【画像・情報提供先】
Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)
岩手県神社庁(http://www.jinjacho.jp/)
・風琳堂(http://furindo.webcrow.jp/index.html)
花巻市ホームページ(https://www.city.hanamaki.iwate.jp)
・レファレンス協同データベース(http://crd.ndl.go.jp/reference/)
・Yahoo/ZENRIN(https://map.yahoo.co.jp/)
・千時千一夜(https://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo)
・公益財団法人岩戸山保存会(http://www.iwatoyama.jp/)
・IKUIKUの愉しみ(http://ikuiku-1919.at.webry.info/?pc=on)
田村神社(http://tamura-jinja.com/index.htm
・いわての文化情報大事典(http://www.bunka.pref.iwate.jp/
・むなかた電子博物館(http://www.d-munahaku.com/index.jsp)
宇佐神宮(http://www.usajinguu.com/index.html)