早池峰信仰と瀬織津姫命 〜 謎多き姫神に触れる その1


今回は、「早池峰信仰と瀬織津姫命」と題して、謎多き姫神瀬織津姫命」と「早池峰信仰」との関係や、その背景となる「安倍氏」や「熊野信仰」との関係などについて紹介したいと思います。

今回の内容であれば、本来は、弊社ブログの中でも「民間信仰」シリーズとして紹介すべき内容だと思います。

民間信仰」シリーズに関しては、約4ヶ月前に「乳神様信仰」を、前後2回に別けて紹介しましたが、それ以外にも「オシラサマ」や「金勢様信仰(全5回)」を含め、約30項目もの民間信仰を紹介して来ました。

本当に、「これでもか!!」と言うくらい、岩手県内に伝わる民間信仰を紹介して来ましたので、もう「絞っても何も出ない、ボロ雑巾」の様な状況ですが、何とか新しい情報をお伝えします。

そんな中でも、「早池峰信仰と瀬織津姫命(せおりつひめ-の-みこと)」の関係については、その内容の多さや深さから、前述の「金勢信仰」と同様、別立てにした方が良いと思い、敢えて、「民間信仰」シリーズから分離する事としました。


他方、「早池峰信仰」に関して、実は、下記の過去ブログでも「早池峰信仰」を取り上げた事があります。

★過去ブログ:岩手県の山岳信仰 その1 〜 本当に不思議な山ばかり

このブログの中では、早池峰神社は、実は一つではなく4ヶ所も存在する事や、「遠野物語」の第2話に登場する早池峰の女神の伝説等をご紹介しました。

この時に、「早池峰の女神」は、「瀬織津姫命」を母神とする三女神である事を紹介したのですが・・・この「瀬織津姫命」と言う女神様、とても謎めいた神様で、現在、古代の神様で、唯一と言って良い程、その正体が解らない謎めいた神様となっているようです。

そこで、今回は、特別に、再び「早池峰信仰」を取り上げると共に、この「瀬織津姫命」に関しても、少しだけ詳しく紹介したいと思います。

瀬織津姫命」に関しては、それだけで、本を数冊書ける程、凄い情報量があります。

このため、とても全ての情報をご紹介する事は不可能ですので、さらっと、表面的になってしまいますが、それでも、次の様な情報を、【 前・中・後 】の3回に別けて紹介したいと思います。

【 その1 】
山岳信仰とは
早池峰信仰とは
早池峰神社とはjavascript:void(0)

【 その2 】
●どこが本院なのか ?
●「瀬織津姫命」が御祭神の神社
●「瀬織津姫命」とは何者なのか ?

【 その3 】
●「安倍氏」との関係
●「熊野権現」と「瀬織津姫命」との関係


それでは今回も宜しくお願いします。

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山岳信仰とは


最初に、「山岳信仰」に関して、軽く復習してみたいと思います。

早池峰山に関する情報は、前述の過去ブログを含め、下記の情報を参考にして貰えればと思います。

【 過去ブログ 】
岩手県の山岳信仰 その1〜本当に不思議な山ばかり
岩手県内の山開き

また、「山岳信仰」と言う物の考え方に関しても、その生い立ちから現在に至るまでの一般的な考えられ方を、過去ブログ(岩手の山岳信仰)に記載していますので、このブログのプロローグ部分をご覧頂ければと思います。

この中では、原始社会における「山」とは、ご先祖様が死後に向かう場所、そしてご先祖様が「先祖霊」として滞在する「聖域」として、信仰の対象となった事を紹介しました。


ところが、それ以降、奈良時代には「修験道」、平安時代に「仏教」が浸透すると、これら3つの信仰が習合し、「山岳信仰」と呼ばれる信仰が生まれる事になりました。

このため、当初は、主に、「山」周辺の住民にとっての聖地だった「山」が、時代を経る事で、「先祖霊」だけではなく、様々な「神様」までもが住む「山」に変貌を遂げて行く事になります。

通常、「山岳信仰」として崇拝される「山」には、次の様な「神様」がいらっしゃると考えられています。

・山の神 :「先祖霊」が神様に昇格し、春になると里に降りて来て「田の神」になる。それ以外、例えば林業を生業とする「木こり」にとっての神様ともなる。
・火の神 :主に火山が対象で、噴火を恐れる山麓の住民により祀られる神様です。
・水の神 :山が貴重な水の「水源」と考えられ、山麓で「農業」を営む者によって祀られる神様です。


このように、自然物である「山」、「太陽」、「雷」、「大地」、「木」、「火」、そして「水」等を崇拝する行為は、「自然崇拝(physiolatry )」とか「アニミズム(animism)」とか呼ばれています。

そして、日本の神道では、古くから崇拝の対象となってきた、これら自然物の中でも、特に巨大な自然物となる「巨岩」、「巨木」、そして、今回の「早池峰山」のように「山」をご神体として来ました。

弊社過去ブログでも、「巨石」をご神体「磐座(いわくら)」として祀っている多くの神社なども紹介しています。

【 過去ブログ 】
岩手県内の巨石の紹介 - その1 〜 何故か岩手に巨石が多い
その2 〜 何故か岩手に巨石が多い

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他方、上記の神様とは別に、「山」を信仰の対象とする場合でも、「神様そのものが降り立った山」として信仰するケースも数多く見受けられます。

この場合の「山」は、神様が降り立った場所ですので、特に、標高が高い必要はありません。その辺りの、小高い「山」や「丘」でも十分です。

この考え方は、「古事記」や「日本書記」等、「記紀(きき)」と呼ばれる、大和政権成立後に編纂された「神話」がベースになっていると思われます。→ 三輪山高千穂峰船通山鞍馬山

元々、日本には、具体的な名前が付いた神様等は存在せず、上記の通り、「山の神」とか「田の神」等と言う、抽象的な呼び方をされる神様しか存在しませんでした。

ところが、大和朝廷成立後、「天皇」の正当性を裏付けるために、「伊邪那岐/伊邪那美」の両神を始めとした神様が創作され、それに連なる形で「天照大神(アマテラス)」、「月読尊(ツキヨミ)」、そして「須佐之男(スサノオ)」等の三貴子、さらには「八百万の神様」と呼ばれる数多くの神々が誕生する事となります。

他方、「神様」がいらっしゃる場所ではなく、次の様に、「死者」が集まる場所として信仰される「山」も現れます。→ 恐山、月山、熊野三山

このように、日本において信仰の対象となる「山」は数多く存在し、前述の過去ブログで紹介した通り、岩手県内にも、多くの信仰対象の「山」が存在します。

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このように「自然崇拝」、「修験道」、そして「仏教」が習合して生まれた「山岳信仰」ですが、その内の「仏教」には、様々な宗派が生まれ、「十八宗」とか、「十三宗五十六派」とか、もうゴチャゴチャになっていることは、皆さんもご存知だと思います。

現在においては、私のように、美術/芸術としての仏教以外には、何の興味も無い人間にとっては、『 どこの宗派に法要を依頼しても変わらないだろう ?! 違うのはお布施の金額だけか ? 』等と思うのが普通だと思います。

まあ、中には、天台宗のように「千日回峰行」等と言う、とてつもなく厳しい修行を行っている僧侶の方々もいらっしゃいますが、その辺の住職は、どこも変わりがないのでは、と思ってしまいます。

他方、「修験道」に関しては、私の周辺には、と言うか、皆さんの知り合いにも、「修験道」を行っている人はいないと思いますので、実際の所、「修験道」が、どうなっているのか等、全く解らないと思います。

そこで、今回、話のついでに、少し「修験道が、どうなっているのか ?」を調べてみたのですが、何と、「修験道」にも、派閥があるらしい事が解りました。

私が調べた所、「修験道」には、大きく、次の3つの派閥があるようです。

●本山派:三井寺聖護院を本寺とする天台系修験道。別名「三井修験」とも呼ばれる。
●当山派:醍醐寺三宝院を本寺とする真言修験道
●羽黒派:出羽三山で修行を行った修験道

そして、これら3つの派閥が、それぞれ山中に修行の場となる寺院を建立し、その近所の住民を巻き込んで「山岳信仰」を広めて来たとされています。

ところが、これが江戸時代になり「寺請制度」や「領国制」が取り入れられる様になると、だいぶ事情が変わってしまったようです。

つまり、派閥間の「陣取り合戦」が始まり、お互いに『 この村の住民はウチの縄張りだ ! 』と言う争いが始まり、遂には、修験道内部の派閥抗争だけに留まらず、幕府や藩、それに配下の寺社奉行とか地頭等を巻き込んだ、凄い争いになってしまったそうです。

ちなみに、修験道の縄張りを、「霞(かすみ)」と呼んでいるそうですが、全国各地で、この「霞」と言う知行を巡る争いが勃発していたようです。

「何故、縄張り争いが始まってしまったのか ? 」と言う点に関しては、その理由は明白です。


それぞれの派閥では、各地に「先達(せんだつ)」と呼ばれる寺院を設け、山に登る際に案内を行なう山伏を配置していました。

そして、これら「先達」寺院では、麓の住民から、様々な施しを受けて生活をしていましたし、「早池峰神社(当時は新山宮)」などの有名な寺院は、地元有力大名から寺領を賜っていました。

このため、多くの「先達」や「村」を支配下に治めると、それだけ多くの「上前をはねる」、つまり汚い言葉では、「ピンハネ」する事が出来ました。

そして、これら「ピンハネ」した施しを、地頭や寺社奉行に「賄賂(ワイロ)」として渡すことで、様々な便宜を図ってもらっていたので、もう法も秩序も無い状況になってしまったようです。

何となく、「修験道」は、「仏教」とは異なり、「醜い争い」等は行わないイメージがあったのですが・・・結局は、同じ人間が行なう事なので、結局は、「醜い争い」を起こしてしまうのだと思います。

本当に、何のための仏法や修験なのでしょうか ?

江戸時代の南部藩の古文書によると、南部藩では、距離的近さが影響したと推測されますが、当初は「羽黒派」の影響力が強かったそうです。

しかし、それ以外の派閥では「本山派」も健闘したようで、江戸時代末の「嘉永5年(1853年)」の書上によると、羽黒派の「霞」は24箇所、本山派の「霞」は26箇所と、逆転を許してしまっていたようです。

具体的には、他派閥の「霞」を、自分達の「霞」であると主張したり、あるいは他派閥の「山伏」を奪い取ったりと言う、とんでも無い事が行われるようになったそうです。

今で言う「ヘッドハンティング」も行われていたようです。

このため、「霞」を取られたり、「山伏」を奪われたりした派閥は、これらを訴状にして、寺社奉行に訴えた事が記録として残されています。

全く・・・時を経ても、人間が行う行動は、全く変わらないようです。

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早池峰信仰とは


そして、今回、再登場した「早池峰山」ですが、当然、「山の神」、そして「水の神」がいらっしゃる聖地として信仰されてきましたが、岩手県内陸部に存在するにも関わらず、珍しく、三陸海岸で暮らす漁師からも、「漁業の神様」としても信仰されていたようです。

この点に関しては、過去ブログでは、詳しく調査しなかったので、中途半端な内容となってしまっていました。

早池峰山」は、標高1,917mと、北上山地の最高峰となっていますが、三陸海岸までは、一番近い山田湾や宮古湾まで、40数kmも離れています。

このため、「何で、漁師が内陸にある山を拝むのか ?」と、私を含め、大抵の方は疑問に思うはずですが、次の様な理由があると言われています。

理由1:その昔、遠野郷は三陸沿岸まで拡がっており、その関係で漁師も早池峰山を拝むようになった。
理由2:三陸沿岸の漁師が、早池峰山を漁場の目印に使用していた。

漁師までもが「早池峰山」を信仰している理由の内、理由1に関してですが、現在、「大槌(おおつち)湾」を有する、上閉伊郡大鎚町一帯は、その昔、「大槌氏」と言う一族が治めていた場所でした。

そして、この「大槌氏」は、鎌倉時代から安土桃山時代まで、遠野郷を支配していた「阿曽沼氏」の支族と伝わっていますので、遠野郷に、三陸海岸沿岸が含まれていたと言うのは事実だと思われます。


また、理由2に関しても、三陸海岸には、「早池峰講」の石碑が現在でも数多くの残っており、また船舶の名前に、「早池峰丸」と名付けている船も数多く存在する、と言う報告もあります。

さらに、遠野のタウン情報誌「パハヤチニカ」の2000年10月号「早池峰特集」には、三陸海岸の漁師の話として、次の様な話が掲載されていました。

『 うんと沖合に出ると早池峰が見える 』
『 船頭に「あれが早池峰山だ」と教えられ、それ以来、毎朝早池峰山に向かい、ご飯釜の蓋に御飯を載せ「早池峰さん」と三回拝み、その日の海上安全と大漁を願うようになった。 』

まあ、確かに、宮古、そして釜石沿岸であれば、「早池峰山」と三陸海岸との間には、「早池峰山」より高い山は存在しないので、肉眼か望遠鏡かは別として、海から「早池峰山」は見えると思います。

このように、「早池峰信仰」は、内陸のみならず、三陸海岸各地にまで拡がっていたようです。


ちなみに、先のタウン誌の雑誌名「パハヤチニカ」ですが、これは、「アイヌ語」で「早池峰山」を表しているとされています。

早池峰山」と言う呼び方の語源には諸説あり、その一つに「アイヌ語語源説」があります。

「パハヤチニカ」は、アイヌ語で、「パハ:東」、「ヤ:陸」、そして「チニカ:脚」となり、それを結合すると『東方の陸の脚』になるそうです。

そして、これを、日本語に訳すと『 この先には、これ以上高い山は無い 』と言う意味になるそうです。

早池峰山」の語源説には、その他にも、山の形を現す別のアイヌ語や、漁師の呼び名「疾風(はやち)」からとか、山頂にある池「開慶水(かいけいすい)」の別名「早地(はやち)の泉」とか・・・キリが無いようです。

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さらに参考までに付け加えますと、「早池峰山」は、最初から「早池峰山」」と呼ばれていた訳ではないようです。

その昔、江戸時代中期、「延享2年(1745年)」頃に編纂された「閉伊郡遠野東岳開基」には、古くは「あずまねだけ(東根岳、東子岳、東岳、等)と呼ばれていた事が記載されているそうです。

これらは、後に「東根嶽」や「東子嶽」とも表記されたそうですが、何れも「当て字」だったようです。

「あずまねだけ」と言う名称の起源は不明との事ですが、有史以前、石器時代にこの地方に住んでいた祖先が呼んでいた呼び名に対して、その後、漢字を知る者がきて、それにふさわしい「東根岳(東子、東)」の文字を当てたのではないかというと言う説が通説となっているようです。

また、元々、何時の頃の事なのかは解りませんが、この「あずまね」と言う地名ですが、北上川を中心線として、東側を「あずまね」、そして西側を「にしね」と呼んでいた時期もあったそうです。

確かに、現在は、合併により「八幡平市」と言う名称になってしまいましたが、その昔、平成17年(2005年)までは、岩手山山麓に「西根町」と言う自治体も存在していました。

それでは、何時頃から「早池峰山(早池峯山)」と呼ばれるようになったのか、と言う事ですが・・・これも諸説あり、異なる説が伝承されているようです。

・大迫側「早池峯神社」 :平安時代初期、「大同2年(807年)」説
・大迫側「田中神社」 :鎌倉時代中期、「宝治元年(1247年)」説
・遠野側「早池峯神社」 :南北朝時代、「暦応2年(1339年)」説

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また、「早池峰信仰」と言えば、必ずと言って良い程、「神楽(かぐら)」が関係してきます。

そして、現在、「早池峰神楽」と呼ばれてますが、実は、この「早池峰神楽」とは、花巻市大迫(おおはさま)町にある岳(たけ)地区に伝わる「岳神楽」と、同じく大迫町の大償(おおつぐない)地区に伝わる「大償神楽」の二つを合わせた総称となっています。

これら二つの神楽は、元々は、別々に始まったものと考えられていますが、昭和31年(1956年)に、県の重要無形民俗文化財に指定する際、「岳神楽」と「大償神楽」のルーツが同じで、かつ共通の特徴があるという理由から、共に「早池峰神楽」として登録したそうです。

そして、その後は、昭和50年(1975年)には、やはり「早池峰神楽」と言う名称で、国指定重要無形民族文化財の第1号に認定され、さらに平成21年(2009年)には「ユネスコ無形文化遺産」にも登録されています。


さて、この「早池峰神楽」、残念ながら、文書による記録資料等は現存していないようです。

しかし、西登山口にある「早池峯神社(池上院妙泉寺)」には、安土桃山時代となる「文禄4年(1595年)」と言う銘が書かれた獅子頭があります。(現在:大迫郷土文化保存伝習館にて保存展示)

そして、この「岳神楽」」は、毎年、「早池峯神社(池上院妙泉寺)」に奉納されています。

他方、「大償神楽」の方ですが、こちらは「早池峯神社」ではなく、地元の「大償神社」に奉納される神楽になります。


そして、「大償神楽」に関しては、「早池峯神社」、それと「大償神社」、さらに、もう1社「田中神社」と言う3つの神社が複雑に絡んで来ます。

「早池峯神社」の由緒/縁起に関しては、少し複雑なので、次章にて詳しく説明しますが、大迫側の縁起に因りますと、「早池峯神社」の「奥宮」の創建は、平安初期の大同2年(807年)、「藤原兵部卿成房」と言う人物が創建した事になっています。

その後、この「藤原兵部卿成房」と言う人物は、故あって「山陰(やまかげ)成房」、あるいは「田中成房」と言う名前に改名しているようです。

その結果、「早池峰神社」、「大償神社」、および「田中神社」の関係は、次のようになっているようです。

「早池峯神社」 :大迫側「早池峯神社」の里宮
「田中神社」 :大迫側「早池峯神社」の里宮
「大償神社」 :「田中神社」の別当

そして、「大償神楽」に関しては、「早池峯神社」の開祖「田中成房(山陰成房)」が創立した「田中神社」の神主から、「大償神社」の別当に伝えられたと事になっています。


また、「大償神社」には、今回、実物は見つける事は出来ませんでしたが、戦国時代となる長享2年(1488年)に、「山陰家」から伝えられたと言われている「神楽伝授書」があるとされているようです。

これらの事を整理しますと、花巻市大迫町に伝わる「早池峰神楽」は、「大償神楽」の方が100年程早く始まり、遅くとも戦国時代には、既に、神楽が奉納されていた事になります。

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元々、「神楽(かぐら)」と言う言葉の語源は、「神座(カムクラ/カンザ)」が転じた言葉と言われています。

そして、「神座」とは、『 天上の神々が降りられた際に身を宿らせる所 』という意味になります。

このため、当初「神座」とは、、高い峰や巨木などの自然物を指した様ですが、次第に、神社などの人工物を指すようになり、さらには、「巫女」が神託を告げたりする行為、そして最後には、面や装束を身に付けた舞人そのものをも「神座」と見なすようになり、そこで行われている歌舞を「神楽」と言うようになったと考えられています。

「神楽」の起源としては、記紀に伝わる「岩戸隠れの段」における、「天宇受売命(アメノウズメ)」が神懸かりして踊った舞が、「神楽」の起源とされています。

そして、「早池峰神楽」に関しては、その起源は、前述の大迫側の里宮「早池峰神社(池上院妙泉寺)」の創建が、鎌倉時代となる「正安2年(1300年)」と伝わっており、当時の修験道の山伏が行った「祈祷の舞」が神楽となったともいわれています。

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「岳神楽」と「大償神楽」は、「表裏一体の兄弟神楽」と言われています。

大償の山神面は口を開けた「阿(ア)」であるのに対して、岳の面が口を閉じた「吽(ウン)」の型をしています。

演目に関しても、「式舞」、「式外の舞」、「狂言」等、ほぼ同じになっているそうです。

強いて違いを挙げるとすれば、両神楽のテンポが異なると言う事らしいのですが、この違いは、古来、大償神楽は7座(7曲)だったのに対し、岳神楽は5座(5曲)だった事に起因すると言う説もあるようです。

さて、これら「早池峰神楽」と信仰の関係ですが、前述の通り、里山の人々は、「早池峰山」を霊山、そしてと神が宿る山と考えて畏れ敬っていました。

このため、「早池峰山」」に対して、「神楽」を奉納することで、より多くの「ご利益(ごりやく)」が得られるよう、また日々の暮らしが安泰になるよう祈願することは当然だったと思われます。

加えて、神仏の化身とされる「権現様」と呼ばれる獅子頭を「早池峰山」に奉じるために舞う神楽衆に対しても、「特別な能力を持つ集団」という認識を持っていたようです。

このため、神楽衆に対しても、次の様な事が言われていたと伝わっており、これも、「早池峰信仰」の一種だと思われています。

「神楽衆の白足袋を洗ったり、お世話をしたりすると御利益がある」
「若い嫁の着物を神楽の時に着てもらうと、安産に恵まれる」

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ちなみにですが、「早池峰神楽」が登録されているユネスコの「無形文化遺産」ですが、同じくユネスコが認定する「世界遺産」とは、全く別の代物です。

ユネスコが認定する「遺産」には、次の2種類がありますが、それぞれ別の「遺産」なのです。ところがメディアや官公庁までも誤解しているように見受けられます。

世界遺産 :「World Heritage」。文化遺産、自然遺産、複合遺産の3種類から成る有形遺産。
無形文化遺産 :「Intangible Cultural Heritage」。保護すべき各国の芸能や祭礼、伝統工芸技術。

平成26年(2014年)に、「和紙 日本の和紙技術」も、この「ユネスコ無形文化遺産」に登録されたのですが、ニュースや新聞、およびこの活動を推進した農水省などは、これを「世界無形文化遺産」と表現していました。

しかし、前述の原語を見て解る通り、「無形文化遺産」には、「World:世界」と言う単語は使われていません。

メディアや官公庁は、言葉を正しく使う義務があると思いますし、皆さんも、「無形文化遺産」を紹介する時には、(余計なお世話かもしれませんが)誤解しないよう気を付けた方が良いかと思います。


また、これも、ちなみにですが、寺社/神社関係の話になると「別当」という言葉が、よく登場します。

この「別当」とは、単純に考えると、「本職の他の別の職」となりますが、もう少し詳しく説明しますと、奈良時代から、「神仏習合思想」により、神社に付属する寺が、神社境内、あるいは神社近辺に建てられました。

そして、こうして建てられた寺は、「宮寺」とか「神宮寺」と呼ばれ、そこで働く僧侶は「社僧」と呼ばれ、神前でお経を読んだり、あるいはご祈祷をしたりして、神様にお仕えしました。

そして、「社僧」の内、他に本職があり、兼ねて「別」の任に「当」たる社僧が現れ、このような「社僧」の事を「別当」とよばれる役職に任命したことから、「別当」と言う言葉が生まれたそうです。 

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早池峰神社とは

さて、このように、古くから信仰の対象となってきた「早池峰山」ですが、これまで何度も紹介した通り、その山麓には、4つの「早池峰神社」があります。

●東登山口(宮古市江繋) :元・新山堂
●西登山口(花巻市大迫町) :元・池上院妙泉寺
●南登山口(遠野市附馬牛町) :元・持福院妙泉寺
●北登山口(宮古市門馬) :元・新山大権現

これら、東西南北4つの登山口にある「早池峰神社」ですが、残念ながら東登山口と北登山口の「早池峰神社」、特に北登山口の「早池峰神社」の衰退は激しいようです。

また、調べた所、東登山口には、その昔は、現在「早池峰神社」とされている場所とは別の場所にも関連施設があった事が解ったのですが・・・こちらの衰退も激しく、昔の面影など微塵も感じられない状況になっているようです。

ところが、その逆に、西登山道「池上院妙泉寺」と南登山道「持福院妙泉寺」は、今でも、それぞれの地域において、熱心に信仰され続けているようです。

この西と南の両「早池峯神社」、江戸時代には、どちらも『 こっちが元祖「早池峯神社」だ! 』と名乗り合い、100年近くも争った、醜い歴史があるようです。

このように、それぞれが、古くから信仰の対象となってきた「早池峰神社」ですが、数ある「早池峰神社」は、何時頃、創建されたのかを紹介します。

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●東登山口(宮古市江繋)

東登山口の「早池峰神社」は、現在の「宮古市江繋(えつなぎ)」と言う場所にあります。

JR東北線紫波中央駅」から、JR山田線「宮古駅」に向かう、県道25号線紫波江繋線と呼ばれる道の脇に鎮座しています。

この場所は、現在は「宮古市」となっていますが、平成22年(2009年)までは、「下閉伊郡(しもへいぐん)川井村」と呼ばれる村でした。


また、この東登山口の「早池峰神社」が鎮座する辺りは、「タイマグラ」と呼ばれており、直ぐ近くには、「タイマグラキャンプ場」と言う名称の施設もあります。

日本語で表記すると「大麻座」とか「大麻倉」になるそうですが、これも「当て字」なのだそうです。

タイマグラ」とは、アイヌ語で「森の奥へと続く道」という意味のようです。

しかし、この地域は、戦後に開拓されたトンデモナイ山奥の地域で、昭和63年まで、電気も通っていなかったそうです。

このように、一般に、東登山口の「早池峰神社」と言えば、この「江繋の早池峰神社」が、それに該当すると言われています。


ところが、詳しく調査して見たところ、東口には、実は、この「江繋の早池峰神社」とは別に、「小国(おぐに)の早池峰神社」とか「関根の早池峰神社」と呼ばれる「早池峰神社」も存在していることが判明しました。

その昔、平安時代の中後期に修験道が始まった頃には、東登山口を含め、それぞれ東西南北の登山口には、修験者(山伏)が「院防」と呼ばれる修行を行うための施設(里宮)を造り、独自の修行を行っていました。

そして、東登山口近辺には、次の様な各種施設が建立されていたようです。

・新山宮(堂) :江繋の早池峰神社。現在、東登山口「早池峰神社」と呼ばれている。
・善行(ぜんぎょう)院 :小国村関根にあり天台宗門派で不動明王を本尊とした寺院。「行屋(ぎょうや)」と呼ばれる「宿」も兼ねていた。
・(関根)早池峰神社 :同じく小国村関根にあり、善行院における早池峰山の「遙拝所」だったと推測されている。


前述の通り、各登山口では、「御坂里宮」として神社が建ち、山頂には「奥宮」として御堂を建て、修験者や聖職者たちにより、密教系の神仏が勧請されるなど信仰は複雑に絡み合っていたようです。

そして、この「小国善行院」も、「遠野妙泉寺」の支配先として、小国元村、大槌、金沢、山田地方、等を信仰圏にしていたと考えられているようです。

ここ「善行院」の由緒/縁起には諸説あり、一説では、平安時代初期となる「延喜11年(927年)」に、初代「浄貞院」が、早池峰山小国掛所に「新山堂」を開き、その名称を「善行院」としたのが始まりと伝えられています。

その後、江戸時代になると、「善行院」は、小田越峠を経て登山する「江繋御坂」、つまり、現在の東登山口一帯を支配し、『 この坂を経由して早池峰山参拝を行なう場合には、小国村の善行院の修験者「円鏡坊」が必ず先達をせよ。 』という藩命が下っていたとも伝わっています。

ちなみに、「江繋の早池峰神社」とも呼ばれる東登山口「早池峰神社」に関しては、由緒/縁起などは、一切解りませんでした。

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●西登山口(花巻市大迫町)

次に、西登山口、花巻市大迫にある「早池峯神社」を紹介します。

今日、一般的に「早池峰神社」と言うと、この花巻市大迫町にある神社を、「早池峰神社」と呼んでいるケースが多いようです。

この場所は、前述の東登山口、「江繋の早池峰神社」から、県道25号「紫波江繋線」を、西に約20km、車で30分程度進んだ場所にあります。

これも前述の通り、4つの登山口にある「早池峰神社」が、「我こそが本当の早池峰神社」と争って来た訳ですが、江戸時代に入り、南部氏が早池峰山一帯を支配下に治めて以降は、「大迫の早池峯神社」が、大きくは、次の理由から優勢になってしまったようです。

・南部氏の居城がある「盛岡」から近い
盛岡城が落城した場合、三陸沿岸の宮古に逃げる際の砦(要塞)と位置付けられた
・盛岡の城下町に、広大な領地を賜り、宿坊(宿寺)を建立する事が出来た

その昔、「南部氏」が早池峰山一帯を支配下に治める前、鎌倉時代から安土桃山時代までは、「早池峰信仰」の章で説明した通り、遠野近辺は、下野国(現:栃木県)から下向した「佐野氏」系の一族となる「阿曽沼氏」が支配していました。

このため、実は、江戸時代以前は、後述する南登山口「遠野の早池峯神社」の方が、優勢を誇っていたと伝わっています。

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さて、そんな「大迫の早池峯神社」ですが、こちらも「早池峰信仰」の章で軽く説明しましたが、平安時代が始まって2年後の「大同2年(807年)」、「大化の改新」で有名な「藤原鎌足(旧姓:中臣)」の末裔「藤原兵部卿成房」と言う人物が、「大迫の早池峯神社」の開祖と伝わっています。

しかし、この「藤原兵部卿成房」自体は、現在の「早池峯神社」を創建したのではなく、その前身となる「田中神社」を創建した人物です。

「田中神社」側の由緒説明によれば、大同2年3月、大迫側は「藤原兵部卿成房」が、そして遠野側では猟師「四角(後に始閣と改称)藤蔵」と言う二人の人物が、それぞれ別々に、早池峰山山麓で狩猟をしていたところ、額に金星のある白鹿が現れたそうです。

二人は、別々に白鹿を追い、同時に早池峰山の山頂に辿り着いてしまったそうですが、到着と同時に白鹿は忽然と姿を消してしまったそうです。

これを瑞祥と感じた「成房」と「藤蔵」は、お互いに話し合い、山頂に「お宮」を建立しようと言う事になったのですが、まだ雪深い山頂に「お堂」を建立するのは無理があるので、雪解けの頃に再び山頂に来て「お堂」を建てよう、と言う事になったそうです。

そこで、二人とも、狩猟の道具を山頂に残したまま下山し、雪が溶けた6月、(当時はまだ東根獄)に登り、「お堂(一宇)」を建立したのが、東根獄(早池峰山)開山の起源とされています。


その一方「成房」は、3月に早池峰山から下山した後、3月8日、早池峰山山麓の「真中(だだなか)」と言う場所に一宇を建立すると共に、「瀬織津姫命」を勧請し、自らが神主となって「東根獄里宮真中大明神」と称して祭祀を行ったと伝わっています。

その後、「藤原兵部卿成房」は、訳あって「山陰氏」と改名し、現在「田中神社」の神主を務める「山陰氏」の始祖となったと伝わっています。

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そして、さらにその後、時が経過し、年代は不詳ですが、言い伝えによれば、鎌倉時代の初期、西暦1200年代初頭、諸国を巡っていた「快賢」と言う僧侶が早池峰山に登った際、山に神仏の気配を感じた事から、下山した後、この地(大迫の岳地域)に「お堂」を建立したそうです。

「快賢」は、山頂にも新たに「お堂」を建てて「若宮」とし、十一面観音を安置し、さらには 古くからあった「お堂」も建て直して「本宮」と呼んだと伝わっています。

山麓の「お堂」は、後に、周辺の住民から「河原の坊」と呼ばれるようになったそうですが、同じく鎌倉時代中期の「宝治元年(1247年)」に、当時「白髪水」と呼ばれた洪水に流されてしまったそうです。

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しかし、この洪水から50年くらい経過した「正安2年(1300年)」、修行をしながら諸国を行脚していた越後出身の真言密教の「円性」と言う僧侶が、早池峰山に参詣した後、山に篭って修行を行っていたそうです。

ところが、ある夜、夢に「早池峯権現」が現れ、『 (河原の坊があった)昔のように、山麓に御堂を再興せよ。 』というお告げがあったそうです。

このため、「円性」は、山麓の「岳」に留まり、「河原の坊」を再興し、再び十一面観音を安置し、「新山宮」と名付けたと伝わっています。

そして、「円性」は、さらに山門やお堂を建立し、「早地峯大権現別当妙泉寺円性」と称えたそうですが、これが現在の「大迫の早池峯神社」の基となっています。

当時は、登拝のために山に向かう人々は、 「河原の坊」で新しい草鞋に履き替えるのが習わしとなっていたとも伝わっています。

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ところが、戦国時代となる「文亀元年(1501年)」、さらに「永禄3年(1560年)」に起きた二度の火災により、多くの堂宇を消失したことから、この「池上院妙泉寺」も衰退してしまったそうです。

当時、この花巻市付近は、「稗貫(ひえぬき)郡」と呼ばれ、鎌倉時代から安土桃山時代までは、「稗貫氏」一族が支配していましたが、「天正18年(1590年)」に行われた豊臣秀吉の「奥州仕置」により、領地没収となり、「稗貫氏」は没落してしまいます。

しかし、その後、同じく「奥州仕置」で領地を没収された「和賀氏」と一緒に、領地奪還を目論む「和賀・稗貫一揆」を起こし、一時は「稗貫氏」が領地を奪還したそうです。

しかし・・・翌年となる天正19年、最終的には、「豊臣秀次」を総大将とした、下記のような有力武将で編成した3万人にも上る「奥州再仕置軍」により、上記一揆を始めとした複数の一揆や反乱は鎮圧されたそうです。(和賀・稗貫一揆葛西大崎一揆九戸政実の乱)
徳川家康上杉景勝大谷吉継前田利家/利長、石田三成佐竹義重伊達政宗最上義光、etc.

その後、この花巻市近辺は、「南部信直」の領地となった事から、「早池峰山」は、盛岡城の「東を鎮護する山」として、さらに信仰の対象となっていったようです。

ちなみに、「盛岡城」を鎮護する「南部の四鎮山」として、次の山が信仰されていたそうです。(※当初「三鎮山」だったものに後に1個を加えて「四鎮山」としたと言う説があります。)

岩手山(岩鷲山) :岩鷲(がんじゅ)山権現
姫神山 :姫神大権現
早池峰山 :早池峯大権現
・新山 :新山大権現(※後に追加)

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そして、上記「南部信直」の息子、盛岡藩初代藩主「南部利直」が、江戸時代初期となる「慶長13年(1609年)」、藩内を巡視した際に、「大迫の早池峯神社」に参詣すると共に、社領150石を寄進し、さらに信仰を深めたとされています。

その証拠に、翌、慶長14年〜17年、3年にも渡る大改修に着手し、衰退していた「早池峰神社」を修復すると共に、新山堂、薬師堂、本宮、舞殿、および客殿等を新築しました。

また、前述の通り、「南部利直」は、万が一、盛岡城が落城した場合、盛岡から宮古に逃れる計画を立案し、宮古に落ち延びる際、この「早池峰神社」を一時的な「砦(要塞)」として用いようと考え、周囲には鉄砲狭間、矢狭間を穿った築地塀と櫓門を備える等、要害普請も施されました。

このような性格を持たされた事もあり、「早池峯神社」は、盛岡藩から手厚い保護を受け、盛岡城下には、2万8000坪もの広大な面積の宿寺を賜り、さらに「京都御室御所仁和寺」の直末寺となる等、領内安全、天下泰平、そして請願成就の祈願所として、非常に繁栄したそうです。

しかし、時代が変わり明治になると状況は一変、明治3年、神社と号を改称しましたが、廃藩置県に伴う禄の打ち切りや神仏分離令の影響で廃寺となり、一部を除いては破壊されたのですが、「新山宮(堂)」だけは、神社として地元民の信仰に支えられ、今日まで持ち堪えてきたようです。

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さて、「大迫の早池峯神社」の基となった「真中明神」ですが、宮司が「藤原氏」だったのが、訳あって「山蔭氏」となったことは説明した通りです。

また、神社の名称も、途中で改称しています。

「山陰家第三十九代」の頃、この「真中」にも水が引かれ、水田が開墾された事から、「真中明神」を「田中明神」に改めたそうです。

そして、この「田中明神」も、明治時代になって神仏分離令が発布された事により、神号を「田中神社」に改称したと伝わっています。


それと、「河原の坊」が「白髪水」と呼ばれた洪水で流された事も紹介しましたが、この「洪水」の規模は凄まじく、実は、「河原の坊」だけでなく、山頂にあった「奥宮」も流されたと言われています。

それでは、何故、この「大洪水」を「白髪水」と呼ぶのかも説明しておきます。

この「河原の坊」が流された災害に関しては、「大洪水」が起きる前触れとして、白髪の老人が洪水を予告したとか、、あるいは白髪の老人が川の上を下って来た、という言い伝えがあったそうです。

付近には、この「河原の坊」が流された事件に関して、次の様な伝説が伝わっているそうです。

【 白髪水伝説 】
快賢は、ある晩、河原の坊で囲炉裏の周りに餅を並べて焼いていたそうです。

その時、どこからともなく一人の山姥が入ってきて、餅を片っ端から食べ、徳利の酒まで飲んでしまった。

そんなことが数日続いた後、快賢は、河原で餅のような白く丸い石を拾い、日暮れ頃から火の中に入れて囲炉裏の周りに並べた。

徳利には酒の代わりに油を入れた。

山姥は焼け石を食べ、油を飲み、体中に火が回って焼けただれてしまった。

恐ろしい形相で空へ飛び去りながら、「後で必ず思い知らせてやる」と叫んで消え失せた。

それから、七日七夜にわたって、大雨が降り続き、水かさは増して谷間に溢れ、逆流し、たちまち山野は大洪水に見舞われた。

この時、岳川の荒波の上を、白髭の翁が歌いながら流れていくのを見た人たちは、大洪水は翁の仕業と噂をしたものだと云う。

この伝説が元となり、この時の「大洪水」を、『 白髪水 』と呼ぶようになったそうです。


さて、「大迫の早池峯神社」の由緒/起源を紹介して来ました。

「田中神社」に関しては、当初から、御祭神として「瀬織津姫命」を勧請した事が明記されていますが、他方、「早池峯神社」に関しては、「瀬織津姫命」の事は、一切紹介されていません。

元々、「大迫の早池峯神社」に関しては、快賢/円性の両僧侶が堂宇を建立して十一面観音を安置して祀ったいたので神社ではなく寺院です。

そして、明治時代の廃仏毀釈で、寺院だった「新山堂」を無理矢理「早池峰神社」にしたので、そもそも、御祭神など存在しないはずです。

ところが、明治以降、「大迫の早池峯神社」に関しては、御祭神を単に「姫神(姫大神)」としていたそうですが、それを戦後に「瀬織津姫命」にした事が記録されています。

つまり、「大迫の早池峯神社」が、「田中神社」を起源に持つことから、御祭神を、無理矢理「瀬織津姫命」にしたのではないかと思われます。

しかし・・・そもそもの話、「藤原兵部卿成房」が、何故、「真中明神」として「瀬織津姫命」を勧請したのかと云う点に、疑問が残ってしまいます。

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●南登山口(遠野市附馬牛町)

さて次は、前述の「大迫の早池峯神社」と、100年近く争ってきた南登山口の「遠野の早池峯神社」を紹介します。

ここは・・・とにかく山の中なので、場所を説明するのも難しくいのですが、JR釜石線「遠野駅」からの場合、たった20km程度しか離れていないのですが、車で1時間弱は掛かってしまいます。

距離20kmを1時間で進むと言う事は、単純に計算すると「時速20km」となりますが・・・これって自転車の平均速度ですよね。

場所の高低差を考慮に入れなければ、「遠野の早池峯神社」までは、車で行っても、自転車で行っても同じ時間が掛かる事になってしまいます。

ちなみに場所は、遠野駅から国道340号線(土淵バイパス)に出て、そこから県道160号線に入り、ひたすら北上し、途中に、「神遣(かみわかれ)神社」とある案内に従って右折し、大出(おおいで)方面に向かって約8km、30分程度進んだ場所にあります。

後で、4つの早池峰神社、および関連する神社の地図を掲載しますので、そちらも参考にして下さい。

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さて、この「遠野の早池峯神社」の由緒/縁起ですが、創建時のストーリーは、前述の「大迫の早池峯神社」と、年代が若干異なるだけで、だいたい同じ内容となっています。

つまりは、大迫側「藤原兵部卿成房」、および遠野側の猟師「始閣藤蔵」と言う二人の人物が登場し、鹿を追って山頂で出会い、その後、山頂に「奥宮」を建立するのは、大迫/遠野の双方で一致する所です。

この点で、唯一異なるのが年代です。

大迫側の由緒では、前述の通り、山頂に登ったのは「大同2年(807年)」となっていますが、こちら遠野側の由緒では「大同元年(806年)」となっています。

この1年の相違は何か ? と言う事になるかとは思いますが、その点は、後述する「どちらが本家 ?」で説明したいと思います。

さて、本章では「藤原兵部卿成房」と「始閣藤蔵」が、山頂に「奥宮」を建立した後の「遠野の早池峯神社」が現在に至るまでを紹介します。

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その後、「始閣藤蔵」は、「弘仁年間(810〜824年)」、長男と共に「大出」に移り住み、剃髪して出家し、名を「普賢坊」と改名し、「承和年間(834〜847年)」初頭、70余歳で亡くなったと伝わっています。

「普賢坊」の長男は、名を「長円坊」と称し、「承和14年(847年)」、父が建立した山頂の「お堂」の傍に新しい「お堂」を建立し、そこに父が建立した「お堂」から本尊を遷座すると共に「弥陀三尊」を安置し、この新しい「お堂」を「本宮」としたそうです。

その後、同じく平安時代となる「嘉祥年間(848〜850年)」に、天台宗の高僧「円仁(慈覚大師)」が、奥州巡礼を行った際に「大出」を訪れ、早池峰山の開山の奇譚を聞き、宮寺として「妙泉寺」を建立したそうです。

さらに、坊舎を「大黒坊」と名付け、「不動三尊」、および「大黒一尊」を安置して「大黒坊の本尊」とした上、別に「新山宮」と名付けた三間四面の堂を建立し、この「新山宮」には、早池峯大権現の垂迹として「十一面観音像」祀ると共に、脇士として「薬師如来像」と「虚空蔵菩薩像」を併祀したそうです。

そして、自身の門弟「持福院」を妙泉寺住職として留め、「長円坊」には神人となって「神」に仕えることを命じたと云います。

なんか体の良い話に聞こえますが、要は、「早池峯神社」を乗っ取って天台宗の寺院にし、「長円坊」も支配下に置いてしまったと言う事だと思います。

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その後、「文治5年(1189年)」、「源 頼朝」の「奥州征伐」の功により、「阿曽沼 広綱」が、「遠野保」の地頭になります。(※遠野保:別名「遠野十二郷」)

そして、この「広綱」の次男「親綱」が、遠野保を継ぐ事になりますが、当初は代官統治で、後に、その一族が、実際に遠野に下向して土着し、「遠野阿曽沼氏」になったとされています。

このため、それ以降、江戸時代に至るまで、遠野の地は、「阿曽沼氏」が治める事になりますが、「阿曽沼氏」も、「早池峯神社」を庇護し、寺領120石の寄進を受けていたそうです。

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その後は、前述の通り、遠野十二郷は、最終的には「南部氏」に奪われる事になります。

没落の始まりは、豊臣秀吉小田原征伐への不参加から始まります。

しかし、前述の「稗貫氏」や「和賀氏」とは異なり、領地没収は免れたのですが、「阿曽沼氏」は「南部氏」配下に組み込まれてしまいます。

このため、その後の関ヶ原の戦いにおいては、「阿曽沼広長」は、「南部利直」配下として、「上杉攻め」に出陣しますが、その留守の間、「南部氏」にそそのかされた一族の者が謀反を起こし、「阿曽沼氏」の居城「鍋倉城」を占領してしまいます。

「阿曽沼広長」は、「上杉攻め」の最中に、「伊達政宗」が後ろで手を引いた「岩崎一揆」が起きたので、途中から「南部利直」と一緒に一揆鎮圧に向かいます。

しかし、一揆鎮圧後、領地に帰ったのですが居城が奪われてしまい帰る場所がなくなったので、「伊達政宗」を頼り、妻の実家のある「気仙沼」に入ったそうです。(※妻子は謀反の折に殺害される)

その後、「伊達氏」の支援を得て、再三、居城「鍋倉城」の奪還を図ったのですが、全て失敗に終わり、そのまま「遠野阿曽沼氏」は断絶してしまいます。

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こうして、「南部氏」は、まんまと「遠野郷」を手中に治めるのですが、当初は「城代」をおいて統治していたようです。

しかし、「城代」の統治の仕方が悪かった事と、「遠野郷」は、直接、伊達領と隣接する戦略的に重要な地でもあった事から、「寛永四年(1627年)」、本家筋となる「根城南部氏」の「八戸直義(後に南部直栄と改名)」を遠野に転封させて統治させました。

そして、この「南部直栄」も、「妙泉寺」や「新山宮」を庇護したようで、新たに65石の寄進を授け、前領主だった「阿曽沼氏」から寄進された120石と合わせて、185石で江戸時代を過ごしたようです。(※別記録も有り)

当時、推定ですが、上級武士で約200石とされていますから、結構、優遇されていたと思われます。

しかし、明治時代になると、こちらの「早池峯神社」も、廃仏毀釈の影響を受け「妙泉寺」は廃寺となり、「新山宮」が「早池峯神社」となって現在に至ります。



現在の神門には、「明治17年(1884年)」6月、仏師「田中円吉」作と伝わる右大臣/左大臣随身像が置かれていますが・・・なんか、もうボロボロです。

それ以前は、江戸時代後期となる「文化年間(1804〜1818年)」に建立されたと伝わる仁王門でしたが、廃仏毀釈に伴い、上記の随神像に代わったといわれます。

また、明治以前は、当然、「山門」と呼ばれていたのですが、明治以降は「神門」と呼ばれています。

・山門 :仏教寺院の門。その昔、一般的に寺院は山に建立されていたので、その門を「山門」と呼ぶ。また、寺院自体も「山号」で呼ばれていたので、「山門」も名残とも言われている。
・神門 :神社に設けられた門。

明治以前に置かれていた山門は、現在、「カッパ寺」として有名な、遠野市土淵町にある「常堅寺」に移築され、現在でも、ちゃんと保存されています。

「カッパ寺」に関しては、下記の過去ブログでも紹介していますので、そちらもご覧頂ければと思います。

★過去ブログ:岩手の民間信仰 〜 聞いた事も無い信仰ばかり Vol.5


遠野物語/第2話」には、「瀬織津姫命」を母神とし、その3名の娘を女神とする「遠野三山」の伝説が広く伝わっています。

・母神 :伊豆神社。 御祭神:瀬織津姫
・姉神 :六神石(ろっこうし)神社。 御祭神:大己貴命誉田別命
・姉神 :石上神社。 御祭神:経津主命伊邪那美命、稲蒼魂命
・妹神 :早池峯神社。 御祭神:瀬織津姫

この「遠野物語/第2話」は、過去ブログでも紹介したのですが、あらためて「瀬織津姫命とは、どのような神様か ?」でも紹介したいと思います。

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●北登山口(宮古市門馬)


最後の「早池峰神社」は、宮古市門馬(かどま)にある、北登山口の「早池峰神社」を紹介します。

ここは、盛岡市から宮古市に通じる、国道106号線、通称「宮古街道」から、ちょっと脇道に逸れた「閉伊川」沿いに、寂しく佇んでいます。

盛岡駅からですと約40km、市内中心地を抜け、国道106号線に入り、私の実家近くを通過して、車で1時間弱の距離となります。

さて、この「門馬の早池峰神社」ですが・・・由緒/起源は、全く解りませんでした。最初に紹介した東登山口の「早池峰神社」以上に、情報がありません。



そんな中でも、その昔、ここには、明治時代以前、「新山堂」と「妙泉院」があったとされています。

この「門馬口(北登山口)」は、閉伊川に添った谷間の小さな集落だったそうですが、妙泉院自体は、広大な山林をもち、この山林から木を切り出して山頂まで運んで「お堂」を建立したとされています。

この画像だけ見ていると、それなりの神社の様に見えるかと思いますが・・・


実際は、この画像の様に、普通の民家の裏庭みたいなところに建立されています。

Googleストリートビューの画像なので、少し見にくいかとは思いますが、川(閉伊川)の向こう側にポツンと存在しています。

本当に、個人の敷地内にある「氏神様」のような感じですが、宮司は、別の場所にある「青猿(あおさる)神社」の宮司が兼務されているようです。


この「門馬の早池峰神社」、岩手県神社庁の情報でも、創建時期は不明となっています。

また、この「門馬の早池峰神社」は、村民が勧請して建立した事になっているので、村人が、皆でお金を出し合って建立した「村社」なのだと思われます。

実際、明治時代に「村社」となった事が記録されていますが、現在の場所には、「大正15年(1926年)」の2月24日に遷座したと記録されています。

と言うことは、大正以前は、別の場所に鎮座していたと言う事になりますが・・・さっぱり分かりませんでした。

ちなみに、御祭神は、当然「瀬織津姫命」なのですが、この女神様とは別に、神鏡5個を、「作物の神」として祀っている、と言う記録も残されていますが、何れにしても、この「門馬の早池峰神社」に関しては、情報が少な過ぎでした。

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今回、民間信仰の一つとして、「早池峰信仰」を取り上げ、その中で、「早池峰信仰」と「瀬織津姫命」との関係を紹介しようと企画したのですが・・・

早池峰信仰」一つ取っても奥が深く、調べれば調べるほど、様々な情報が出てくるので、何を紹介して、何を捨て去るのかの選択にも難しいものがありました。

今回のブログを企画した時には、1回で、全てを記載しようと考えたのですが、ブログを書き始めたら・・・とても1回だけでは紹介出来ない事に気が付きました。

そもそも、早池峰神社の紹介だけでも、かなりのボリュームになる事に気が付いた時には、既に手遅れでした。

早池峰神社」が4箇所もあるので、最初からボリュームが大きくなると推測すれば良かったのですが・・・考えが甘すぎました。

そんな中でも、「早池峰信仰」は、結構、地元に根づいた信仰なので、4つ、全ての神社が、それなりの規模で、ちゃんと保全されているのだとばかり思っていたのですが・・・現在、まともに保全されているのは、西登山口となる「大迫(岳)の早池峰神社」だけだったのには、正直、驚きました。

特に、私の頭の中では、「早池峰信仰」と言えば、「遠野」や「遠野物語」と密接に関連し、地元では、大切に保存されている物だ、と言う思い込みがありましたので、「遠野(大出)の早池峰神社」が、一番栄えているのだとばかり思っていました。

また、「早池峰神楽」が、ユネスコ無形文化遺産に登録されてのは知っていましたが、それが大迫側だけの話と言うことは知りませんでした。

何とも情けない話です。

今回は、「早池峰信仰」の奥には触れることが出来ませんでしたが、次回以降で、徐々に真髄に迫って行きたいと思います。

今回のブログの最後に、本ブログに登場した神社の場所をマークした地図を掲載しておきます。「早池峰山」を中心に、各神社仏閣が、どのように配置されているのかを御覧下さい。


次回も宜しくお願いします。

以上

【画像・情報提供先】
Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)
岩手県神社庁(http://www.jinjacho.jp/)
・風琳堂(http://furindo.webcrow.jp/index.html)
花巻市ホームページ(https://www.city.hanamaki.iwate.jp)
・レファレンス協同データベース(http://crd.ndl.go.jp/reference/)
・Yahoo/ZENRIN(https://map.yahoo.co.jp/)
・千時千一夜(https://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo)

ついに本性を剥き出しにしたMicrosoft 〜 殿様には従うしかないのか ?


Microsoft社は、2018年2月1日に、自ら開設している「Windows Blogs」というブログに、「Change to Office and Windows servicing and support」と題した記事を投稿しました。

このブログ、題名を日本語に訳すと、そのまま「OfficeとWindowsに対するサービスとサポートの変更」となりますが、この記事の内容が大きな反響を呼んでいます。

今回、久しぶりにMicrosoft関連の話題を取り上げたいと思いますが、遂に、Microsoft社は、その「守銭奴」的な本性を剥き出しにした事が解りました。

この記事を読んだ時には、「本当に、そこまでやるのか ? 」と思ったのですが・・・その後に配信された各種記事を読むと、どうやら、Microsoft社は本気のようです。

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他方、同じくMicrosoft社は、2018年4月30日に、同ブログに、「What’s new in the Windows 10 April 2018 Update」を言う記事を投稿し、また恐怖の「メジャー・アップデート」が始まった事を通告しました。

前回のメジャー・アップデートは、下記の過去ブログで紹介した通り、2017年10月17日ですから、約6ヶ月、ほぼ予定取り「Semi-Annual(半期)」で提供された事になります。

★過去ブログ:Fall Creators Update 〜 今度は何が・・・

ちなみに、去年のMicrosoft社のリリースでは、「今後のメジャー・アップデートは、3月と9月の半期毎に提供する」と報道していましたので、当初の予定よりは、2ヶ月程度、遅れた事になるかとは思われます。

本ブログは、2018年6月に作成していますので、該当メジャー・アップデートがリリースされてから、既に1ヶ月以上経過しています。

リリース当初は、これも、毎度同じ事の繰り返しなのですが、小さなバグは数知れず、大きなバグは10個程度報告されています。

このメジャー・アップデート、一部マニアの間では、「Windows 10 Spring Creators Update」と言う名称で紹介されて来ましたが、正式名称は、前述の通り「Windows 10 April 2018 Update(バージョン1803、ビルド17134.1)」となったようです。

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そこで、今回、次の2点を紹介しようかと思ったのですが・・・

●信じられないOffice2019の提供方法
●「Windows 10 April 2018 Update」について

どちらも容量が大きくなってしまったので、今回は、Office関連の話題だけを紹介し、次回のIT系情報で、「Windows 10 April 2018 Update」に関する情報を提供します。

Windows 10 April 2018 Update」に関する話題は、このブログが公開された時には、既に賞味期限が切れている状況だと思いますが、ひょっとしらた、まだ自身のPCに、このメジャー・アップデートを適用していない方も居るかもしれません。

そのような方の参考になれば幸いです。

それでは今回も宜しくお願いします。

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Windows 10サポート期間の短縮


前述の通り、Microsoft社は、自社ブログで【 爆弾 】を投下した模様です。

この記事は、下記何れかのブログで閲覧可能となっています。

●Office Blog(https://blogs.technet.microsoft.com/microsoft_office_/)
Windows for IT Pros(https://blogs.technet.microsoft.com/windowsitpro/)

この記事では、「OfficeとWindowsに対するサービスとサポートの変更」と言う題名の通り、まずは、「Windows 10のサービス提供期間を延長する」と言う、利用者が喜びそうな話題を掲載しています。


Microsoft社は、2017年4月に、メジャー・アップデート「Creators Update」のリリース発表会の席において、メジャー・アップデートの名称、適用時期、および各メジャー・アップデートで提供したサービスのサポート期間について、次の様になる旨を発表していました。

対象 名称 適用時期 サポート期間
一般ユーザー Semi-Annual Channel(Targeted) 3月/9月 18ヶ月
ビジネスユーザー Semi-Annual Channel(SAC) Targetedリリース後約4ヶ月後 14ヶ月
適用無しユーザー Long Term Servicing Channel(LTSC) 適用無し 再インストール

本内容の詳細に関しては、前にも掲載していますが、下記の過去ブログに掲載しておりますので、そちらもご覧頂ければと思いますが・・・この発表自体も、良く考えれば、トンデモナイ内容です。

★過去ブログ:Fall Creators Update 〜 今度は何が・・・


つまり、OSは1種類の「Windows 10」でも、メジャー・アップデートを適用した後は、18ヶ月、1年と6ヶ月しかサポートしない、と宣言している訳です。

従来、Microsoft社は、製品のライフサイクルに関しては、「ライフサイクル・ポリシー」と題して、各製品に関しては、次の様な形でサポートすると宣言していました。

●メインストリーム :製品発売後5年間サポート。新機能追加、脆弱性修正、それ以外のサポート
●延長サポート :メインストリーム終了後5年間。脆弱性のみサポート

要するに、製品発売後、10年間はサポートするとしていました。

ところが、上記2018年4月の発表では、「Windows 10」に関しては、メジャー・アップデート適用後は、18ヶ月しかサポートしないと言っている訳です。

それでは、この「サポート」とは何を意味しているのか ? と言うと、当然、次の3種類のサポートです。

●機能追加
脆弱性修理
●上記以外サポート

何か、話がゴチャゴチャして、「煙に巻かれた」状態になっていますが、「Windows 10」に関しては、従来提唱してきた「ライフサイクル・ポリシー」を適用しない事に決めてしまったようです。

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いつも感じているのですが、Microsoft社は、プレスリリース時、2つ以上の事を同時に発表している様に思えます。

そして、この発表では、片方は、ユーザーが喜びそうな内容を大々的に発表し、もう片方では、ユーザーが不利になる事をサラッと発表して片付けているように思えます。

何か、「良い事と悪い事、どっちを最初に聞きたい ? 」みたいな感じです。

話は、ちょっと逸れますが、「良い事と悪い事」の伝え方は、「誘導心理学」とか「人心操作術」とか呼ばれる心理学手法に分類されているようです。

この手法では、相手に物事が伝わる度合いと、心に残る度合いを分析しています。

そして、この手法によれば、「悪い事を最初に伝えた方が、相手の心に残る。」としていますので、その点、Microsoft社は失敗と言えます。

例えば、次の二人の人物紹介文を見て、どちらかと付き合わなければならない場合、どちらと付き合いたいと思いますか ?

(1)佐藤さんは、良い人だけど、ケチ
(2)鈴木さんは、ケチだけど、良い人

普通、このケースでは、「鈴木さん」を紹介する最後のフレーズ、「良い人」の方が印象に残ると思いますが、このような効果は、別名「親近化効果」と呼ばれる心理学手法です。


他方、心理学では、情報が複数の場合、および大量の情報を伝える場合、最初に伝えた情報の方が、印象に残りやすいと言う「初頭効果」と言う手段も紹介されています。

Microsoft社の場合、恐らくは、この「初頭効果」を狙ってプレスリリースを発表しているのだと思います。

特に、最初に、ユーザーが喜ぶ情報を大量に伝え、最後に、ユーザーが不利になる情報を軽く提供した場合、どうしても最初に聞いた情報だけが、頭に残る事になると思います。

例えば、

(1)佐藤さんは、美人、おしゃれ、真面目、頑固、嫉妬深い
(2)鈴木さんは、嫉妬深い、頑固、真面目、おしゃれ、美人

あなたは、「佐藤さん」と「鈴木さん」の、どちらとお付き合いしたいと思いますか ? 私なら、両方の方とお付き合いしたいと思いますが、普通、「佐藤さん」の方が、好印象になると思います。

これを「初頭効果」と言いますが、本当は、この「初頭効果」と「親近化効果」を組み合わせた手法が、一番効果的なのだそうです。

つまり、最初と最後に、印象に残してもらいたいフレーズを組み込む事で、相手をコントールする事が出来る様になると言う事です。

相手に物事を伝えて印象に残そうと思ったり、何かを行わせたりしたい場合、3つ以上のフレーズを用い、最初と最後に重要なフレーズを組み込む事が重要なのです。

→ 田中さんは、美人、おしゃれ、真面目、頑固、嫉妬深い、ケチだけど、良い人

もう、「田中さん」は、「美人」で「良い人」にしか思えなくなったはずです。

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さて、話を元に戻しますと、この様に、Microsoft社は、「Windows 10」に関しては、さりげなくサポート期間を短縮したのですが、今回、ユーザーからのフィードバックを受けて、6ヶ月間、サポート期間を延長した事を発表しました。

これだけ聞けば、何か、Microsoft社は、とてもユーザー・フレンドリーな会社の様に感じますが・・・対象となるエディションは、下記の2つのみです。

●Enterpriseエディション
●Education エディション

上記2つのエディションのバージョン1607、1703、および1709に関してのみ、サポート期間を、それぞれ6ヶ月間延長すると言う事です。

つまり、今回のサポート延長は、一番価格が高い「Enterprise」と、一番利用者が少ない「Education」だけに関してサポート期間を延長するが、それ以外、一番利用者が多い、「Home」と「Pro」は適用外になると言う事です。

本当に、相手の言うことは、最後まで、ちゃんと聞かないと、何を言っているのか解らないと言う、良いお手本のようなプレスリリースです。

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■Office2019の利用環境に関わる制限

さて、肝心の「Office2019」に関するプレスリリースですが・・・

Microsoft社は、今年、2018年度の下期に発売される予定の「Office2019」に関しては、下記OSでしか稼働できないと言う「爆弾」発表をしました。


●年2回更新のリリースモデル「Semi-Annual Channel」(SAC)で提供されるサポート期間中のWindows 10リリース
●2018年リリースの「Windows 10 Enterprise LTSC 2018」
●2、3年おきに更新するリリースモデル「Long-Term Servicing Channel」(LTSC)で提供される、サーバーOS「Windows Server」の次期リリース

つまり、「Office2019に関しては、Windows 10でしか稼働出来ない。」と言う「爆弾発言」をしています。

「はぁ !? それじゃWindows 7は、どうなるんだよ !!」となりますが、当然、

Windows 7ではOffice2019を使う事は出来ない 】

と言う事になるかと思います。あくまでも予定ですので・・・

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Windows 7」は、2020年1月に延長サポートが終了しますので、Office2019発売後、約1年間は普通に使用する事は出来ます。

それでも、Microsoft社は、Office2019では、「Windows 7」を対象外として切捨ててしまったようです。何と、ユーザーフレンドリーな企業なのでしょうか !!

Windows 7」では、Office2019が使用出来ないと言う事も問題ですが、それ以上に問題なのは、2023年1月に延長サポートが終了する「Windows 8.1」です。

Windows 7」は、前述の通り、Office2019の発売から、延長サポート終了まで1年しかありませんが、「Windows 8.1」の場合は、Office2019の発売から、延長サポート終了まで5年間もあります。

それにも関わらず、「Windows 8.1」でも使用出来ないとは・・・・

今後、Microsoft社に関しては、もうメーカー保証も何も、信用出来ない企業になってしまったのではないかと危惧してしまいます。

更に、このブログでは、Office自身に関しても、サポート期間を変更すると宣言していますので、この点に関して、次章にて紹介します。

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■Office2019サポート期間の変更

Microsoft社では、自社製品に関しては、前述の通り、従来は、10年間のサポートを保証して来ました。

→ メインストリーム5年 + 延長サポート5年 = 10年間のサポート

ところが、Office2019に関しては、次の通り、サポート期間を短縮すると明言しています。

→ メインストリーム5年 + 延長サポート2年 = 7年間のサポート

この点に関して、Microsoft社は、下記の様に、今回発売するOffice2019に関しては「ライフサイクル・ポリシーの例外」としています。

Microsoft will provide 5 years of mainstream support and approximately 2 years of extended support for Office 2019 apps and servers. This is an exception to our Fixed Lifecycle Policy to align with the support period for Office 2016. Extended support will end 10/14/2025. 』

これを日本語にすると、

Microsoftでは、Office 2019 に関しては、5 年間のメインストリーム サポートと約 2 年間の延長サポートを提供する予定です。これは固定ライフサイクル ポリシーの例外として提供されるもので、Office 2016 のサポート期間と一致するものです。Office2019の延長サポートは、2025年10月14日に終了します。 』

・・・もう、トンデモありません。



そして、その理由としては、Microsoft社は、次の様な理由を挙げています。

『 最新のソフトウェアは、作業効率を最大限に引き上げる新機能だけでなく、新しい効率的な管理ソリューションと包括的なセキュリティ アプローチも提供します。リリースから 10 年以上が経過し、このイノベーションが提供されていないソフトウェアでは、セキュリティを確保することが困難で、生産性も低くなります。変化のペースが速くなるにつれて、ソフトウェアを最新のリリースに移行することがきわめて重要になっています。 』

何か、ゴチャゴチャと屁理屈を並べ立てていますが、要は、昔と違い、セキィリティを維持するために、同一製品を10年以上もサポートし続けるのは難しいと言うことらしいです。

このため、今回は、例外的に、サポート期間を3年も短縮すると言っている訳ですが・・・今後も、ライフサイクルを短縮するのか否かに関しては、明言を避けています。

が・・・今回は例外としても、世間と言うか、各国政府から何もお咎めが無ければ、恐らくは、次回以降も、「この例外」を適用するのだと思います。

そして、気が付けば、いつの間にか「ライフサイクル・ポリシー」も、セキュリティの維持を理由に変更され、サポート期間を7年間にする事が当たり前にようになってしまうのだと思います。

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前述の通り、今回、Microsoft社は、サポート期間を「10年」から「7年」に短縮すると宣言しています。

「これは何を意味するのか ?」、と言う点を、よく考えてみて下さい。単純に、「サポート期間が減らされる」だけではありません。

パッケージ・ソフトウェアのサポート料金に関しては、後で詳しく説明しますが、Microsoft社の製品に関しては、製品価格にサポート料金も含まれています。


そして、このサポート期間が減ると言うことは、(まだOffice2019の販売価格は発表されていませんが)実質的な値上げを意味しています。

つまり、例えば、サポート期間1年で、かつサポート料金込みで、10,000円で販売しているソフトウェアに対して、サポート期間を6ヶ月に減らす、と言う事ですから、これは値上げに他なりません。

前述の様に、サポート期間の短縮と言う事の裏には、このような意味も込められている事を理解して下さい。

しかし、上記の表をよく見ると、Office2016とOffice2019が、同じ時期に延長サポートが終わると言うのも変な感じがします。

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■Office2019提供方法の変更

そして、Microsoft社は、更なる「爆弾」も、サラッと投下しています。

The Office 2019 client apps will be released with Click-to-Run installation technology only. We will not provide MSI as a deployment methodology for Office 2019 clients. We will continue to provide MSI for Office Server products. 』

このように、Office2019に関しては、「MSI形式での提供は行われない様です。」と言っても、大方の人は、意味不明かもしれませんので、上記の投稿内容を、解かりやすく説明すると共に、その問題点までも説明すると、次の通りです。

●Office2019のクライアント版は、「クイック形式」と呼ばれているインストール方式でしか提供しない。
●Office2019のクライアント版は、「MSI形式」とも呼ばれる方法では提供しない。
●但し、サーバー製品群に関しては、引き続き「MSI形式」でも提供する。


つまり、Office2019のクライアント版に関しては、従来「MSI形式」とも呼ばれている「Windowsインストーラー」を用いた方法での提供は行わず、クラウド環境からストリーミング形式で配信する「クイック形式」でのみ提供するとしています。

そして、この提供方法が何を意味するのか、と言うと、次の通りです。

現在、Office製品に関しては、次の2種類の方法で購入することが出来る仕組みを提供しています。

●永続ライセンス版 :一度購入してPCにインストールすれば、PCが壊れるまで使い続ける事が可能
●年間ライセンス版 :1年間しか使用出来ない。1年毎にライセンス料を支払う。


ところが、次期Officeとなる「Office2019」においては、上記「永続ライセンス」を廃止し、年間ライセンス版しか提供しないとしています。

「それで何が困るの ?」と言うことですが、「年間ライセンス」を購入すると、1度、Officeのライセンスを購入さえすれば、ほぼ永久に、PCが壊れるまで、該当バージョンのOfficeを使い続ける事が可能です。

しかし、「年間ライセンス」になれば、毎年、Microsoft社に、Officeの使用料金を払い続けなければならなくなってしまいます。


現在、含まれるアプリケーションの種類が異なりはしますが、永続版と年間版とでは、次の価格で販売されています。(※永続ライセンスは「Office Home & Business 2016」)


●永続ライセンス : 37,584円
●年間ライセンス : 12,744円

これを単純に比較すると、年間ライセンスの約3年分の費用を支払えば、ほぼ永久にOfficeを使い続ける事が可能になる、と言う事を意味しています。


もちろん、年間ライセンスにも、次の様なメリットがあります。

●常に最新のバージョンが使用出来る
●全てのOfficeアプリケーションを使用する事が出来る

しかし・・・次のような、より重要な問題が発生します。

●勝手に最新Officeになると、非互換により、せっかく作ったマクロや関数が使えなくなる。
●全く使わない、余計なOfficeアプリのために無駄なお金を払いたくない。


現在では、上記のメリット/デメリットを、利用者自身で判断し、利用環境や利用目的に合わせて、自由に選択して購入する事が出来たのですが、Office2019からは、この購入の選択権が無くなってしまいます。

Microsoft社は、何故、このような理不尽な行動を取るのか ? と疑問に思う方が沢山いると思います。

しかし、それは、パッケージ・ソフトウェアの性質を理解していないからです。

パッケージ・ソフトウェアの性質や問題点に関しては、次章を参考にして下さい。

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■パッケージ・ソフトウェアの性質とは


私のように、過去にパッケージ・ソフトウェアを開発/保守していた経験がある人間であれば、パッケージ・ソフトウェアに対する保守サポートの重要性や、その問題点や難しさを容易に想像出来ます。

パッケージ・ソフトウェアは、ソフトウェアを企画して開発し、それを販売して会社に利益をもたらす事も大変ですが、実は、それ以上に、面倒な問題があります。それは・・・

●一度、あるバージョンをリリースしたら、利用者が存在する限り、そのバージョンをサポートし続けなければならない。
●サポートが続く限り、該当バージョンに関する全ての技術資料を保管して、なおかつ最新状態に更新し続けなければならない。
●該当バージョンの保守が行える人材を確保し続けなければならない。

パッケージ・ソフトウェアは、販売し続ける事も大変なのですが、それ以上に、バージョン毎に、製品を保守し続ける事が非常に大変になります。

このため、Microsoft社では、自社製品に対して、「ライフサイクル」と言う名称を用いて、保守サポートの仕方を、利用者に保証して来ました。

ソフトウェアの利用者は、メーカーから、サポート保証があるので、安心してソフトウェアを購入して使用します。

これは、ソフトウェアに限らず、全ての工業製品や電化製品も同様です。メーカー保証が無い製品など、誰も購入しません。

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他方、ソフトウェアに関しては、保守サポートを行う事を目的に、サポート費用を徴収しているケースもあります。

弊社なども、お客様から要請があれば、サポート費用を頂いた上で、開発して納品したソフトウェアの保守を行っています。


私は、ソフトウェアを含む、全ての製品には、「社会的責任」があると思っています。

それは、一度販売して市場に出回った製品に関しては、それを使い続けてくれるお客様が存在する限り、出来る限りサポートし続けなければならない、と言う考えです。

しかし、それにも限界はあります。

ソフトウェアの場合、PCやサーバー等、稼働環境が異なれば、サポート出来なくなります。工業製品や電化製品にも、耐用年数があります。

このため、物事には全て限りがあるように、ソフトウェアにも、いつかはサポート出来なくなることはありますが、出来る限りサポートは続けたいと思っています。

それでは、Microsoft社のOfficeは、サポート費用は徴収していないので、サポートしなくても良いのではないか ? と言う疑問もあります。

これは、ソフトウェアに対するサポート費用を、事前に徴収するか、後から徴収するかの違いです。

弊社のような場合は、「サポート費用の後払い」となり、Microsoft社の場合は、「サポート費用の前払い」となります。

Microsoft社のように、ある程度、売上げ規模が分かれば、最初から製品価格にサポート必要を含ませる事も可能ですが、弊社のような零細企業では、個別に対応せざるを得ないのが実情です。

IT業界では、慣例的に、製品価格の15%をサポート料金してきた歴史がありますので、前述のOfficeであれば、全くの推測になってしまいますが、それぞれ、サポート料金は、下記の通りなのかもしれません。

・永続ライセンス(税込) : 37,584円 → サポート料金、約4,500円
・年間ライセンス(税込) : 12,744円 → サポート料金、約1,500円

「たった4,500円でサポートしてくれるんだ !」と思うかもしれませんが、利用者が1億人もいれば、それだけでも、トンデモナイ金額になります。4,500億円〜

弊社も、これだけのサポート料金があれば・・・

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と言う事で、話が、また脇に逸れてしまいましたが、過去にリリースしたバージョンをサポートし続けると言う事は、非常に大変な事なのです。

パッケージ・ソフトウェアをサポートし続けるには、人、場所、費用・・・非常の多くのリソースが必要になります。

このため、パッケージ・ソフトウェアを販売している企業では、あの手、この手を用いて、利用者に、古いバージョンを捨て去ってもらう努力をしています。

私が、開発/販売していたパッケージ・ソフトウェアの場合、「西暦2000年問題」と言う好機があったので、その時点で、全てのユーザーが、古いバージョンを捨て去り、新しいバージョンに切り替えてもらう事が出来ました。

しかし、このパッケージ・ソフトウェアも、「2000年対応版」にバージョンアップして既に20年近くが経過し、さらに新しいバージョンをリリースしたようですが、どうなっている事やら・・・

Microsoft社の様に、最初から、

『 このパッケージ・ソフトウェアは、10年間しかサポートしません。それでも良ければ購入して下さい。 』

と言えれば、良いのですが・・・普通のソフトウェアで、こんな事を最初に言ったら、誰もソフトウェアを購入してくれなくなってしまいます。

こんな事を最初から言えるのは、MicrosoftAppleIBM等の、本当に大企業ばかりだと思います。


このように、Microsoft社も、過去のOSやOfficeを、どんどん捨て去り、新しいバージョンの開発に、大事なリソースを活用したいと思うのは、当然と言えば、当然の行為なのです。

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今回、「ついに本性を剥き出しにしたMicrosoft 〜 殿様には従うしかないのか ? 」と題し、Microsoft社の殿様商売のやり方を紹介して来ましたが、如何でしたか ?

Windows 10サポート期間の短縮
●Office2019の利用環境に関わる制限
●Office2019サポート期間の変更
●Office2019提供方法の変更
●パッケージ・ソフトウェアの性質とは

何か、「Bill Gates(William Henry Bill Gates III)」氏、そして「Steven Ballmer(Steven Anthony Ballmer)」氏も会社を去り、現在のインド人が三代目のCEOに就任してから、余計に、Microsoft社の「殿様商売」が強引になってきた感じがしてなりません。

2014年2月から、三代目CEOとして、インド人の「サティア ナデラ(Satya Nadella)」氏が就任していますが、彼がCEOになってからというもの、Microsoft社の業績は向上しつつあるようですが、これも冷徹なビジネスによるものだと思ってしまいます。

特に、WindowsとOfficeに関しては、ライセンス体系を、パッケージ型からサブスクリプション型、つまり売り切りではなく、毎年、ライセンス費用を支払わなければならない方式に変えた事が利益向上に繋がったのではないかと思います。

今年の下半期に発売されるOffice2019に関しても、売り切り方式となるパッケージ型の販売方式ではなく、毎年ライセンスを購入しなければならない「サブスクリプション型」にする事が決定しているようです。

さらに、Offie2019を、「Windows 7」、および「Windows 8.1」で稼働出来ない製品にする事で、全OSを、「Windows 10」に切り替えさせるための下準備を整えようとしています。

つまり、私の考えでは、今後発売するOffice製品に関しては、「Windows 10」だけでしか稼働出来ないようにする事で、利用者が、「Windows 7」や「Windows 8.1」を使い続ける事が出来ない仕組みを構築しようとしているのだと思います。

「Office2019」が、「Windows 10」でしか稼働出来なければ、「7」や「8.1」を使い続ける人は、大幅に減ると思います。

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まあ、正直な所、未だに「Window XP」や「Office2003」を使用している企業を見ると、この会社は、大丈夫なのだろうか ? と心配してしまう事もあります。

古いOSやツールを使い続けて、それがマルウェアに感染し、重要データが消されてしまったら、どうやってビジネスを続行するのか考えないのだろうか ? と企業トップの行動を疑ってしまいます。

この点だけにフォーカスをすれば、Microsoft社の行動も正しいものだとは思えるのですが・・・

何か、人間として、Microsoft社の行動が、腑に落ちないのは、私だけなのでしょうか ?

今回は、Windows OSとOfficeの変更点だけを紹介しました。

次回は、「Windows 10 April 2018 Update」を紹介したいと思いますが、Office2019に関しても、何か機能の変更点が判明すれば、合わせて紹介したいと思っています。


それでは、次回も宜しくお願いします。

以上

【画像・情報提供先】
Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)
・誘導心理学(http://www.sho0726.com/)
・Office Blog(https://blogs.technet.microsoft.com/microsoft_office_/)
Windows for IT Pros(https://blogs.technet.microsoft.com/windowsitpro/)

岩手県内における金勢信仰 〜 何でこんなに沢山あるの Vol.6


今回の「岩手・盛岡情報」は、9ヶ月ぶり、そして、恐らく最後となる「金勢様」の情報を紹介したいと思います。

これまで、5回に渡り、北は「二戸市」から、南は「西和賀町」まで、8箇所の自治体、合計で31箇所の「金勢様」を紹介して来ましたが・・・さすがに、もう息も絶え絶えです。


これまで紹介してきた「金勢様」に関しては、本ブログの最後に記載したいと思いますが、残りの「金勢様」は、次の4つの自治体にいらっしゃいます。


北上市 : みちのく民族村「金勢様」、諏訪神社「金勢社」
奥州市 : 衣川村「雌雄石」
陸前高田市 : 泉増時「ぽっくり観音」、仙婆巌「陽神岩/陰神岩」
・一関市 :千厩「夫婦石/子宝明神」

それ以外、画像以外は、全く情報が無い「金勢様」も次の場所にはいらっしゃるようですので、こちらも画像のみとなりますが、さらっと紹介します。

岩手郡岩手町(一方井/川口)
紫波郡紫波町

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今回は、上記4ヶ所の自治体で、次の9体の「金勢様」を紹介します。

●みちのく民俗村/北上市
諏訪神社/北上市
●衣川村の雌雄石/奥州市
●泉増寺「ぽっくり観音」/陸前高田市
気仙郡の陽神岩・陰神岩/陸前高田市
●天王社夫婦巨石/一関市
●その他3ヶ所

しかし、その中には、過去ブログにおいて、「巨石」として紹介した場所も、何箇所か含まれています。

★過去ブログ:岩手県内の巨石の紹介 - その2 〜 何故か岩手に巨石が多い

「巨石」と言えば、先日(2018/3/2)、NHKの「新日本風土記」という番組で、「岩手山」を特集した回があり、その中で、岩手山周辺は、「巨石が多いので有名だ。」と言う話がありました。

盛岡市の隣、かつては「日本一の人口の多い村」を誇っていた「滝沢村」。気が付いたら、いつの間にか「滝沢市」に移行していてビックリしたのですが・・・この「滝沢市」は、岩手山山麓に広がっていますが、今でも、畑を耕せば、かつての「火山岩」が、ゴロゴロ出てくるみたいです。

盛岡市は、岩手山からは、直線距離で約20km程度も離れているので、火山岩とは考え難いのですが・・・

この件は、また別の機会に取り上げたいと思います。

それでは、今回も宜しくお願いします。

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■みちのく民俗村/北上市


「みちのく民族村」は、岩手県内ではもちろん、日本全国でも有名な花見の名所「展勝地公園」の中、約7ha(ヘクタール)の敷地に、平成4年(1992年)に完成した東北最大級の野外博物館と言われています。

公式サイトの紹介文によると、この博物館には、かつて北上川周辺にあった、南部曲り家等の貴重な家屋や、歴史的建造物を移築復元してあるとの事です。


南部曲り家を始めとした「茅葺き民家」は10棟、昭和2年に建築された「黒沢尻高等女学校旧校舎」を始めとした歴史的建造物が18棟あり、それぞれ国指定や国登録の文化財となっています。

既に花見の季節は過ぎてしまいましたが、弊社の過去ブログでも「展勝地」の事は紹介していますので、機会があれば、訪れて見て下さい。

★過去ブログ:盛岡の花見の名所


そして、肝心の「金勢様」ですが・・・こんな感じで「展示」されています。

こちらの「展示物」、実は、「金勢様(金精様)」ではなく、「道祖神」として「展示」されている様です。

また、何度も「展示」と言う言葉を用いておりますが、この「金勢様 = 道祖神」・・・正直にお伝えしますと「復元展示物」です。

「何だ ! パチもんか・・・」と言う事になってしまいますが・・・

何分、この博物館の趣旨は、『 歴史的建造物の移築復元 』ですので、かつて、この地にあったと思われる、歴史的建造物(?)を復元させたのだと思われます。


この「展示物」の脇にある説明にも、下記のような説明が記載されています。

道祖神である事
・民族資料である事
・平成15年に寄贈された物である事

ちなみに、この説明にある「金勢様 = 道祖神」と言う考え方は、本来は、誤った考え方なのですが、現在では、様々な思想/信仰が習合してしまっています。

どの点に関しては、今回の「金勢様シリーズ」の初回に「金勢信仰とは」と題した項目を設けて説明していますので、そちらもご覧下さい。

★過去ブログ:岩手県内における金勢信仰 〜 何でこんなに沢山あるの ? Vol.1(20161022.html)

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諏訪神社/北上市


北上市における二番目の「金勢様」は、北上市諏訪町にある、その名の通り「諏訪神社」の境内末社「金勢社」です。

この「諏訪神社」、その創建は古く、社伝では、平安時代初期、大同二年(807年)、「坂上田村麻呂」の東征の折りに、戦勝祈願、および当地の発展祈願のため、信州「諏訪大社」の御祭神「建御名方神(たけみなかたのかみ)」を勧請したのが始まりとされています。

また、現在の地は、江戸時代中頃に遷宮した場所となっており、それ以前は、隣の「幸町」に鎮座していたそうです。

他方、「諏訪神社」の境内末社には「秋葉神社」が祀られており、そのため、これも今年は既に終了してしまったのですが、毎年4月末の土曜/日曜には「諏訪神社/末社秋葉神社火防祭」が盛大に催されます。


これら「諏訪神社」の由緒やイベントに関しては、岩手県内の「火防祭」を紹介した弊社過去ブログにおいて、詳しく紹介していますので、そちらをご覧下さい。

★過去ブログ:岩手県内の火防祭り

さて、肝心の「金勢様」ですが、右の画像の通り、境内末社の「金勢社」に祀られており、前述の「展示物」とは異なり、由緒正しい「金勢様」なのですが・・・

申し訳ございません、この「金勢社」 のご神体は、確認することが出来ませんでした。


しかし、この画像中の説明文にもあります通り、この「金勢社」は、「金勢様シリーズ」の原点とも言える、盛岡市玉山区の「巻堀神社」から分霊されているようです。

金勢信仰のルーツとも考えられている「巻堀神社」からは、前回紹介した大沢温泉「金勢神社仮宮」にも分霊されています。

「巻堀神社」の御神体も、分霊された「大沢温泉」の御神体も、立派な御神体でしたので、こちらの「金勢社」の御神体も、きっと立派な御神体なのだと思うのですが・・・済みません。

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また、その他の情報として、「山村民俗の会」の会報「あしなか」の144号(1974年刊)には、かつて、この北上市の黒沢尻付近の稲荷神社に「金勢様」が祀られていた、と言う話があるようです。

黒沢尻付近は、前述の過去ブログにも記載していますが、かつては、現在の北上市の中心地で、数多くの遊郭がありました。

そして、この「稲荷神社」も、遊郭に隣接した場所にあったそうで、遊郭で働く女性達が、「男根型造形物」を作って、神社に奉納した、と言う話が、伝わっているそうです。

その後、遊郭等の廃業/土地売却により、この「稲荷神社」も、何処かに遷宮された事までは記録されていますが・・・神社も金精様も、どこに行ってしまったか、分からなくなってしまったそうです。

ちなみに、北上市黒沢尻町は、前述の通り、村々が合併して北上市が出来た際の中核となった村で、「諏訪神社」がある諏訪町とは、2km程度しか離れていません。

そして、「諏訪神社」の境内末社には、右上の画像の通り「稲荷神社」があります。

このため、かつて黒沢尻にあった「稲荷神社」が、この「諏訪神社」の境内末社に・・・と思いたいのですが、残念ながら、こちらの「稲荷神社」の由緒は解りませんでした。

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それと、この「諏訪神社」に関する最後の情報として、「金精様」とは全く関係無いのですが、毎年7/14に「八坂神社宵宮祭」が開催されます。

この「諏訪神社」には、「金勢社」、「稲荷神社」、「秋葉神社」の他にも、「八坂神社」や「金比羅神社」の末社もあります。

そして、この「八坂神社」のお祭りは、別名「きゅうり天王さん」とも呼ばれ、この北上市の「八坂神社」以外、下記の場所でも開催されています。

山形県/谷地八幡宮末社「八坂神社」、福島県須賀川市福島県三春町/「八雲神社」、福島県いわき市/「八坂神社」、栃木県日光市/二荒山神社末社須賀神社」、等

この「きゅうり天王」を祀るお祭り「天王祭」は、「牛頭天王(ごず-てんのう)」という神様を祀るお祭りです。


牛頭天王」とは、仏教における釈迦の生誕地である「祇園精舎の守護神」とされていましたが、日本各地に拡がった後は、本地垂迹思想の元、「建速須佐之男命(スサノオ)」と習合された神様です。

しかし、「牛頭天王」は、「行疫神(ぎょうやくじん)」、俗に言う「疫病神」とみなされ、この神を祀れば、疫病などの災厄を免れる「祇園信仰」として広く信仰され、現在の「八坂神社」から勧請されて全国各地に広がったとされています。

「きゅうり」と言えば、「河童」を思い出してしまいますが、このような「牛頭天王」を祀るイベントがある事を初めて知りました。



ちなみに、地元「黒沢尻村」では、この「きゅうり天王さん」に関しては、次の様な言い伝えがるようです。

『 その昔、村で共同井戸を使っていた時代、「はやり病」が広まり、井戸が使えなくなってしまって困ってしまった時に、「きゅうり」を食べて水分補給をした事から、疫病退散と感謝の気持ちを込めて、八坂神社に「きゅうり」を奉納したのが始まり。 』


祇園信仰」とは、若干違う所が、京都と地方の違いなのだと思います。

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■衣川村の雌雄石/奥州市


北上市の次は、その南側に位置する「奥州市(旧・水沢市)」の「雌雄石(男石女石)」を紹介します。

「雌雄石(男石女石)」と言うことで、直接的な「金勢様」ではありませんが、「金勢信仰」に類似している「陰陽石/夫婦石」信仰の方ですので、合わせて紹介します。

と言いつつ、実は、この「衣川村の雌雄石」に関しては、「金勢信仰」や「民間信仰」を紹介する以前、今から4年も前に書いた「巨石信仰」で紹介済です。

「巨石信仰」、これは「磐座(いわくら)信仰」とも呼ばれていますが、全部引っくるめて「自然信仰/精霊信仰(アニミズム)」と呼ばれています。

この信仰は、日本に限らず、世界各国で見られる信仰で、巨木、巨石、あるいは高い山、等、人智の及ばない巨大な自然構造物には神が宿るとして、神社/神殿が建築される前までは、その自然物そのものを「神」として祀る信仰です。


この「男石」は、「男石大明神」として、奥州市衣川村にある「磐神社」のご神体となっています。

この「磐神社」の由緒等に関しては、過去ブログにも記載していますので、そちらをご覧下さい。

★過去ブログ:岩手県内の巨石紹介 - その2


本章最初に掲載した画像が、「男石大明神」ですが、これだけだと、どんだけデカイのか見当がつきませんよね。

上記、過去ブログには、このご神体に乗っかっている不届き者の画像を掲載していますので、その画像を見れば、どんだけデカイのか解ると思いますが、参考までに解説看板も掲載しておきます。

→ ご神体:東西10.2m × 南北8.8m × 高さ4.2m


そして、次は、「女石」の方ですが、こちらは、この「磐神社」から離れること西方に約1km、「衣川区女石」と言う場所にある曹洞宗の寺院「松山寺」の境内に「女石神社」があり、この神社のご神体となっています。

こちらの神社、見るからに新しく、そんなに歴史を感じませんが、実は、平成24年(2012年)に再建されたばかりなのだそうです。

ちなみに、再建前の画像も掲載しておきますが、再建前は、本当にボロボロですので、再建出来て良かったと思います。


こちらの「女石神社」に関しては、創建時期は不明となっているようですが、元々は、「磐神社」と、二社で一対となっているようですので、こちらも結構歴史があるのだと思います。

ちなみに、「松山寺」も創建時期は不明ですが、昭和2年に発行された「胆沢郡誌」によると、この「松山寺」、元々は天台宗の寺院だったそうです。

そして、その後、戦国時代の明応元年(1492年)、中興の祖と言われる「鉄牛(てつぎゅう)和尚」が再建して曹洞宗に改転したと伝わっています。


そして、肝心の「女石」ですが、周囲5m、高さ2mの割石となっており、見ての通りの・・・・「女石」です。

「男石」と比較すると、かなり小さめですが、その方が「女石」としては丁度良い大きさなのかもしれません。

しかし・・・その昔の人達は、かなり想像力が豊かだったのだと思います。

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■泉増寺「ぽっくり観音」/陸前高田市


奥州市の次は、三陸陸前高田市に移ります。

こちらは、「産形(みなかた)山 泉増寺」と言う真言宗の寺院跡、現在は、「子安観音堂」と呼ばれた祠に安置されていた「女陰石」なのですが・・・

「泉増寺」の場所が、気仙川の河口から2km程度、気仙川からは100m程度しか離れていない事が災いして、東日本大震災の被害にあってしまった様です。


右の画像が、震災発生時に、「泉増寺」の「観音堂」から撮影した映像との事です。

この「観音堂」は、寺号となっている「産形山」の中腹にあったので難を逃れたのですが、今回紹介する予定だった「子安観音堂」は、山の登り口付近にあったので、津波の被害を受けて流されてしまった様です。

津波は、山腹の「観音堂」の直ぐ下まで押し寄せたそうなので、本当に危機一髪だったそうです。


本当に、自然の力は恐ろしいものがあります。

参考までに、津波前の、この「泉増寺」の全景が移ったパンフレットがありますので、そちらを掲載しておきます。

このパンフレットを見て分かると思いますが、右側ページの画像の上にある「お堂の屋根」が、本章の最初に掲載した「観音堂」の屋根に当たります。


そして、紹介する予定だった「子安観音堂」は、画像中の「赤い屋根」を持った「お堂」です。

それが、現在は、この左側の画像の通り、「掘っ立て小屋」の様な状況となってしまっているようです。

この画像は、2016年5月、現在から2年前の画像ですので、少しは修復されている事を期待したいと思いますが・・・どうなのでしょうか ?


さて、肝心の「ぽっくり観音」ですが、現在では、右上の掘っ立て小屋の中に隠れてしまって見えにくくなってしまっていますが、これもパンフレットの画像から取得した画像なので、余り画質は良くないのですが、左の様に、不思議な形の「自然石」が祀られています。

小屋の中に、目を凝らせば、何となく、その輪郭は見えるのではないかと思いますが、地殻の隆起で出来た不思議な形の巨石です。

この「ぽっくり観音 = 子安観音」に関しては、諸説ありますが、次の様な由来が伝わっているようです。


【 子安観音の由緒 】

江戸時代初期となる「慶安年間(1648〜1652年)」に山麓を 整地した所、天然の怪石を発見したそうです。

石の形は、女性が子供を産む姿にそっくりだったので、地元の人は「子安観音」として祀っていたそうです。

その後、領主となる陸奥仙台藩の第4代藩主「伊達綱村」の時代、奥方の出産に際し、夫妻揃って、この「観音堂」の御本尊「聖観音像」を夢に見て安産した所から、家臣「白根沢 軍治」を普請奉行として、宝永2年(1705年)に、総朱塗りの堂宇を再建したそうです。

さらに、従来は「医王山千蔵寺」としていた寺号も、「産形山泉増寺」と改めさせたと伝わっているようです。

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「泉増寺」は、その縁起によると、「弘法大師」が付近を巡礼した折、この地を霊地と感じ、自ら「阿弥陀菩薩」、「薬師如来」、「聖観音菩薩」の三尊に、脇侍2体を付した9体の尊像を鋳造し、平安時代初期「弘仁元年(810年)」に祀ったそうです。

元々、この「泉増寺」がある山は、「三次森」と呼ばれていた事もあり、当初の「泉増寺」は、「三次森大権現」と称し、七堂の大伽藍を誇り、本坊医王山観音院、竹の坊、 沢の坊、西の坊、東の坊の五寺を営む聖域だったそうです。

しかし、その後、「阿弥陀菩薩像」は「月山神社」に、「薬師如来像」は「諏訪神社」に移って、それぞれの本地仏として祀られてしまい、結局「聖観音菩薩像」のみが、ここ三次森に残り、「秘仏」として祀られ、33年毎に「御開帳」されていたそうです。
さらに、その後、幾多の歳月を経て、お堂も老朽化して大破したので、南北朝時代となる「建武2年(1335年)」に修復され、さらに江戸時代に、上記「伊達綱村」により再建され、現在に至るそうです。


他方、平成28年、震災を契機とした被災地支援の一環で、奈良教育大学加藤久雄学長が、この「伝・聖観音菩薩立像」を調査したそうです。

その結果、この仏像は、高さ約16cmと小柄な鋳銅製ですが、仏像の素材や仕上げ方法、さらに内部をファイバースコープで詳しく調査した所、今から1,000年前以上、10世紀前後に製造された物であり、「旧陸奥国気仙郡」においては、最古の仏像であることが判明したそうです。

気仙郡」と言う郡名は、「続日本紀(弘仁2年/811年)」に初めて使われており、現在のこれは現在の宮城県北東部から岩手県南東部にまたがる地域となります。


貴重な仏像、まさに「秘仏」なので、出来れば、引き続き調査を行い、何らかの文化財登録を行った方が良いと思います。


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■陽神岩・陰神岩/陸前高田市


陸前高田市の最後は、前述の「泉増寺」から、西方に約8km、国道343(今泉街道)沿い、「仙婆巌(せんばがや)」と呼ばれる場所に、陰陽岩(男岩/女岩)があると言われているようですが・・・イマイチぱっとしません。

紹介しておいて「パッとしない」とは、申し訳ありませんが、こちら、左側の画像が「陽神岩(男岩)」との事です。

確かに、巨大な岩山になっている様で、この辺りの地層は、北上山地における「仙婆巌層」と呼ばれ、主に「火山砕屑物(さいせつぶつ)」が固結してできた「堆積岩(火砕岩)」との事です。


別角度からの「陽神岩(男岩)」画像も右側に掲載しておきますが、所々に「穴」が空いているようです。

また、この「陽神岩(男岩)」と対をなす「陰神岩(女岩)」は、その下を流れる「気仙川」を挟んで向かい側に位置しています。

参考までに、当地「仙婆巌」の地図も掲載しておきます。

そして、「陰神岩(女岩)」ですが、下図の通り、無残にも、中心をトンネルが貫通してしまっております。


トンネルがあった方が、「女岩」らしいという話もあるようですが、元々は、トンネルなど無かった訳ですから、それは、ちょっと違った意味での「女岩」となってしまいます。

この「陰陽岩(男岩/女岩)」の二岩は、これまで紹介してきた通り、「陽神岩」は旧国道を覆うように出ており、「陰神岩」は川を隔てて屏風状に切り立った形となっています。


他方、この「仙婆巌」と言う地名の由来ですが、様々な由来が、伝説として伝わっているようで、本ブログでは、その中から2つの伝説を紹介します。

【 千把萱(せんば-かや)伝説 】

自分の子を跡継ぎにしたいため、我が子を綿にくるみ、継子を千把の萱に包んで岩頭から投げ落とした所、綿にくるんだ我が子が死んで、母親は、そのおろかさに気づいたと言う伝説。


【 気仙風土草 (相原 友直) 】

数十丈の岩頭から、千把の萱に包まれて落ちるのと、傘二本を右左の手に持って落ちることが議論され、一人は萱に包まれ、一人は傘を持って飛び降りました。

唐傘を用いたる者がつつがなく、萱をほどいて見たら死んでいた。これより里人「千把萱」と云う。

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何か、失礼ですが、どちらの伝説も、「陰陽岩」と同じくパッとしない伝説の様に思えますが・・・

陸前高田市に関しては、この辺で終わりにしたいと思います。

ちなみに、この「陰陽岩」と類似した「岩系」の情報に関しては、岩手県の最北部、二戸市にある「馬仙峡の夫婦岩」を紹介した事があります。

★過去ブログ:岩手県内における金勢信仰 〜 何でこんなに沢山あるの ? Vol.1

「岩系」の「陰陽岩」、あるいは「夫婦岩」等に興味がある方はご覧下さい。さらに、次も「夫婦」系の話になります。


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■天王社夫婦石/一関市


三陸陸前高田市の次は、その直ぐ西隣となる「一関市」に移ります。

但し、この場所は、「一ノ関駅」からは、電車の場合は「大船渡線」に乗り換えて1時間弱、車であれば国道284号線で25km、約35分程度の場所となる「千厩(せんまや)町」となります。

そして今回は、場所的には1ヶ所ですが、「夫婦」系と「子宝」系の2つの内容を紹介します。

最初に、「夫婦(めおと)」系の紹介しますが、今回は、前章と異なり、「夫婦岩」ではなく「夫婦石」となります。

そして、こちらの「夫婦石」に関しても、過去ブログ「岩手の巨石シリーズ」として紹介した事があります。

★過去ブログ:岩手県内の巨石の紹介 - その2 〜 何故か岩手に巨石が多い


この時は、当然、「巨石」の話がメインでしたので、こちらの「夫婦石」を中心に話を進めました。

しかし、実は、この石の横の階段を昇ると、「彌榮(やさかえ)神社(弥栄神社)」があります。

そして、この神社の、やはり境内末社に「子宝明神」が2つもあり、この神社には、ご神体として、「金勢様」と「女陰(淡島様 ?)」が祀られています。

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と言うことで、「夫婦石」に関しても、形が形だけに、その詳細をお伝えしたいのですが、過去ブログでも、「夫婦石」の説明を記載しておりますので、今回は、追加情報だけ紹介します。

この「夫婦石」、何時の頃から、この地に祀られていたのか解りませんが、その昔、大正時代には、まだ砂に埋まっており、全体が、現在のようには露出していなかったそうです。

その後、全体を掘り出したそうですが、当時は、「首の部分」、先頭を支えている箇所が細かったので、「首石」と呼ばれていたそうです。

現在の「夫婦石」、特に「男石」に関しては、この「首部分」を、コンクリートで補強しているのだそうです。

また、時代は遡りますが、明治時代になった時に、当時の官吏が、この石を「猥褻物(わいせつぶつ)」と認定し、石を取り去ろうとしたそうです。

しかし、地元の住民が、昔から大切に祀ってきた旨を説明し、どうにか撤去は免れた事が伝わっているそうです。


全く・・・今も昔も、「役人 = 公務員」は、どうして、普通の人には理解出来ない行動を取るのでしょか ?

恐らくは、「役人 = 公務員」と言う生物は、人間とは違う「公務員」と言う種類の生き物なのだと思います。

皆さん、「ネコ」の行動を理解できますか ? 「役人 = 公務員」も、ネコや犬と同様、「人間には理解出来ない行動を取る生き物」だと思えば、どうにか納得出来ます。

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さて、話を前に進めますと、この「天王寺公園」入り口の階段を登り、上記の鳥居をくぐり抜けると、左に「彌榮(やさかえ)神社」、右に「子宝明神」が鎮座しています。

この「彌榮(やさかえ)神社」、散々調査しましたが、御祭神が、何の神様なのか地元でも解らない様です。

しかし、全国の「彌榮(弥栄)神社」を調べてみると、そのほとんどの御祭神は、先の「八坂神社」と同様、祇園信仰の「建速須佐之男命牛頭天王」になっています。


祇園信仰に基づく神社の名称は、「やさかえ(彌榮/弥栄) = やさか(八坂) = やぐも(八雲)」としている所が多いようです。

そして、この場所の名前も、「天王山公園」と言う名前になっていますので、つまりは「牛頭天王」に由緒がある公園なのだと思われます。

と言う事で、あくまでも推測ですが、やはり御祭神は、「建速須佐之男命牛頭天王」なのだと思います。


ところで、この「彌榮神社」脇にある、2つの「子宝明神」ですが、残念ながら、由緒/起源は全く解りませんでした。

また、「本殿(小屋 ?)」の周りには、「本殿」に収まりきらない「金勢様」も、多数見受けられますが・・・何か、可哀想です。

そして、上図、朱塗りの本殿の中には、金色の、そしてご立派な「金勢様」が祀られています。


こちらの本殿、施錠されている様に見受けられますが、たまに開ける事も出来るようで、中を拝見すると、中には、可愛い「リトル」が、何体か納められているようです。

「金色の金勢様」と言えば、「諏訪神社」の章でも紹介した、「金勢信仰」のルーツとも伝わる「巻堀神社」のご神体を思い浮かべるのですが・・・

「金勢様」をアップで見てみると、「巻堀神社」のご神体とは異なり、金色のビニールのような物で覆っているだけの様です。

「巻堀神社」のご神体は、ちゃんと「塗装」されているとの事なので・・・ちょっと残念に思えます。


そして、右隣の本殿には、木製の「陰陽物」が祀られているようです。

どちらの「金勢様」もご立派なご神体だと思いますが、はやり由緒/起源が明らかになっていないと、せっかくのご利益も半減してしまうのではないかと思ってしまいます。

由緒/起源が明らかになれば、子授けパワーもアップすると思います。

地元の方で、何か由緒/起源をご存知の方は、歴史に埋もれてしまう前に、成り立ちを記録しておいた方が良いと思います。

私の推測ですが、恐らくは、「夫婦石」 → 「子宝地蔵」 → 「金勢様」となったのではないかと思いますが・・・どうなのでしょうか ?

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他方、今は、既に閉館してしまったようですが、平成9年(1997年)までは、この「夫婦石」の近くに「夫婦石おいとこ館」と言う施設があリました。

しかし、経費の関係で閉館してしまい、現在は、広大な空き地になってしまっている様です。

そして、在りし日の「夫婦石おいとこ館」は、次の様な作りになっていたようです。


・1階 :夫婦石関連展示
・2階 :馬事資料館

千厩町」は、下記過去ブログでも、ちょっと触れていますが、「源 義経」の愛馬「太夫黒(たゆうぐろ)」の産地としても有名な「南部馬」の産地でした。

「千厩(せんまや)」と言う地名自体も、「千の厩(うまや)がある」と言う意味です。

★過去ブログ:岩手/盛岡と「馬」の関係 〜 本当に「お馬様様」です! - 前編


その中でも、1階の「夫婦石」関連の展示物には、全国各地の「夫婦」系の石や岩の紹介コーナーがあったり、上図のような「高さ70cm × 外周91cm」、重さ20kgの「チョメチョメ型のスタンプ」があったりしたようです。

スタンプを押すこと自体は無料のようですが、専用色紙が200円もした様です。


現在は、同じ千厩町内の「千厩酒のくら交流施設」に置かれており、「ひなまつり」等のイベントで展示されている様です。

その他、「夫婦石おいとこ館」には、左のような木製の「女陰」のような物も展示されていたようですが、現在は、「夫婦石おいとこ館」の展示物が、様々な施設に分離してしまっているようです。

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ちなみに、「おいとこ」とは、諸説あるようですが、宮城県北部から岩手県南部に当たる、旧・伊達藩の領地で歌われていた民謡「おいとこ節」と言う事なのですが・・・

その他にも、この唄は、『千葉県多古町(たこまち)に伝わる白桝粉屋(しらますこなや)と呼ばれる唄で、「おいとこそうだよ」と歌い出す所から、「おいとこ節」とも呼ばれている。』と言う説や、その他の説もあるそうです。

とにかく、東日本地域で、広く歌われている民謡との事らしいです。

このため、歌詞も複数あり、「故・江利チエミ」氏は、次の様な歌詞で歌っていたそうです。

『 おいとこそうだよ 紺ののれんに 伊勢屋と書いてだんよ お梅十六 十代伝わる 粉屋の娘だんよ
 なるたけ朝は早起き のぼる東海道は五十と三次 粉箱やっこらさとかついで あるかにゃなるまい
 おいとこそうだんよ 』

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■その他
それでは、最後に、詳しい情報が全く解らない「金勢様」を紹介します。

●岩手町一方井「個人宅」


こちらの「金勢様」は、「岩手郡岩手町一方井(いっかたい)」と言う変な名前の場所にあるそうです。

「一方井」と言う場所は、東北新幹線沼宮内(ぬまくない)」駅と言う、これも変な名前の駅から約5kmの場所なのですが、そこの、個人の庭の一角に、この「金勢大明神」があったそうですが・・・

現在では、手入れがされていなく、庭が荒れ放題で、どこにあるのか分からなかったそうです。


●岩手町川口「豊城稲荷神社」


その次も、同じく「岩手郡岩手町」ですが、こちらは、いわて銀河鉄道岩手川口」駅から、約1km離れた場所にある「豊城(とよしろ)稲荷神社」の境内に鎮座している「金勢大明神」です。

この神社、地元では、山車等も出るほど賑やかな例大祭が開催されているのですが・・・何故か、神社を紹介する記事が全く見当たりません。

江戸時代初期、寛永2年(1625年)創建で、その後、正徳年間(1711〜1716年)に、山城国紀伊郡(現・京都府)にあった稲荷本宮、つまり「伏見稲荷」から分霊してもらった由緒正しい「正一位稲荷大明神」なのですが・・・全く情報がありませんでした。

何か、禁忌を犯しているのでしょうか ? 不思議な神社です。


紫波町沢田前「太子堂


最後は、全く情報がありませんが、紫波町沢田前にある、恐らくは「聖徳太子」を祀った「太子堂」の脇にある「金勢様」です。

この場所は、個人の敷地だったようで、全く情報がありません。

近くに、「太子堂」と言うバス停があるので、やはり「太子堂」なのだと思いますが・・・

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今回は、恐らく、岩手県内の「金勢様」を紹介するシリーズの最後になると思いますが、次の情報をお伝えしました。

●みちのく民俗村/北上市
諏訪神社/北上市
●衣川村の雌雄石/奥州市
●泉増寺「ぽっくり観音」/陸前高田市
気仙郡の陽神岩・陰神岩/陸前高田市
●天王社夫婦巨石/一関市
●その他(3ヶ所)

最後は、情報不足のため、尻切れトンボのような形になってしまいましたが、きっと、この他にも、由緒/起源が解らない「金勢様」は、沢山いらっしゃると思います。

本ブログの最初に記載したとおり、「金勢様」シリーズでは、今回を含め、全6回に渡り、当初の予定とは異なる箇所もありましたが、下記41ヶ所の「金勢様」を紹介しました。


【 第1回】
二戸市
1 枋ノ木(こぶのき)神社 金勢様
2 蒼前(そうぜん)神社/中沢の虫まつり 人形/虫送り
3 高清水稲荷社/人形まつりと金精神 人形/虫送り
4 馬仙峡の夫婦岩 夫婦岩

八幡平市
5 藤七温泉/金勢神 金勢様
6 横間虫追い祭り 人形/虫送り

【第2回目】
盛岡市
7 淡島明神社/淡島・金勢祭り 金勢様
8 智和伎(ちわえ)神社/淡島・金勢祭り 金勢様
9 巻堀(まきぼり)神社 金勢様
10 盛岡八幡宮/金勢神社 金勢様
11 櫻山神社 夫婦岩
12 芋田産土(いもだ-うぶすな)神社 男根/女陰

【第3回目】
宮古市
13 日影の沢/金勢社 金勢様

紫波町
14 走湯(そうとう)神社 金勢様
15 新山金勢神社 金勢様

遠野市
16 山崎/金勢明神 金勢様
17 伝承園/金勢様 金勢様
18 たかむろ水光園/金勢様 金勢様
19 遠野ふるさと村 人形
20 春風祭り 人形

【第4回目】
遠野市
21 綾織(あやおり)/駒形神社/オコマ様 金勢様
22 程洞(ほどてい)/金勢明神 金勢様
23 多賀神社 金勢様
24 乳神様と金精様 金勢様
25 達曽部(たっそべ)/熊野神社 陰陽石
26 早池峰神社 金勢様

【第5回目】
花巻市
27 大沢温泉/金勢神社仮宮 金勢様
28 鼬幣(いたちべい)稲荷神社 金勢様
29 花巻御柱神社/早坂稲荷神社 金勢様
30 成島毘沙門堂 /三熊野神社 男根/女陰

西和賀町
31 湯川温泉高繁旅館 金勢様
32 白木野/疫病送り 人形

【第6回目】
北上市
33 みちのく民俗村 金勢様
34 諏訪神社 金勢様

奥州市
35 雌雄石(男石女石) 陰陽石

陸前高田市
36 産形(うぶかた)観音堂産形石 男根/女陰
37 陽神岩・陰神岩 夫婦岩

●一関市
38 天王社夫婦巨石/子宝明神 夫婦石/金勢様

●その他
39 岩手町一方井「個人宅」 金勢様
40 岩手町川口「豊城稲荷神社」 金勢様
41 紫波町沢田前「太子堂」 金勢様

こうして一覧表にしてみると壮観な感じがしますが、やはり「遠野市」だけは特別と言う事が良く分かります。

また、盛岡市も、「巻堀神社」がある事が影響しているのかもしれませんが、盛岡藩の中心地と言う事もあり、それなりに多くの「金勢様」が、いらっしゃいました。

本シリーズは、今回が最後になると思いますが、また新たな発見があれば、折を見て紹介したいと思います。

これまで、ご精読、ありがとうございました。

また、次回の「岩手・盛岡情報」も宜しくお願いします。

以上

【画像・情報提供先】
Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)
・公益財団法人岩手県観光協会(https://iwatetabi.jp/index.php)
・よねちゃんの車中泊旅行記(https://blogs.yahoo.co.jp/shigeaki0430)
・東京ぶらぶらり(http://cheeringup.blog35.fc2.com/)
東海新報(https://tohkaishimpo.com/)
・南三陸滝見隊(http://takimitai.blog.fc2.com/)
江利チエミファンのひとりごと(https://blog.goo.ne.jp/udebu60827)
・石田道場(http://ishidadojo.blog.fc2.com/)


【株式会社 エム・システム】
本      社  :〒124-0023 東京都葛飾東新小岩8-5-5 5F
           TEL : 03-5671-2360 / FAX : 03-5671-2361
盛岡事業所  :〒020-0022 岩手県盛岡市大通3-2-8 3F
           TEL : 019-656-1530 / FAX : 019-656-1531
E-mail    : info@msystm.co.jp 
URL     : http://msystm.co.jp/
        : http://msystm.co.jp/excel_top.html
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Facebook   : http://www.facebook.com/msysteminc

モダナイゼーション 〜 なぜ今、必要なのか ? - 後編

モダナイゼーション 〜 なぜ今、必要なのか ? - 後編


前回の「IT系お役立ち情報」は、「モダナイゼーション」の前篇として、次の内容を紹介しました。

●モダナイゼーションとは ?
●レガシー・マイグレーションとの違いは?
●何故、今、モダナイゼーションが必要なのか ?

「モダナイゼーションとは、どのようなムーブメントなのか」から始めて、「何故、モダナイゼーションが必要なのか」までの情報を紹介しました。

★過去ブログ:モダナイゼーション 〜 なぜ今、必要なのか ? - 前編


その中で「レガシー・マイグレーション」と「モダナイゼーション」の違いも触れましたが、両者は微妙な関係で、本来の目的は異なるのですが、結果的には、同じ様な作業を行うケースが多いので、「レガシー・マイグレーション」も、「モダナイゼーション」の一種としてとらえても問題は無いのではないか、と言う事としました。

そこで、今回は、「モダナイゼーション」の手法を紹介すると共に、そのメリット/デメリットも紹介し、最後に、「モダナイゼーションの罠」として、実際に「モダナイゼーション」に取り組む際に、陥りやすい罠や間違いを紹介します。

●モダナイゼーションの手法
●メリット・デメリット
●モダナイゼーションの罠


「モダナイゼーション」の手法は、細かく分類すると9種類もありますので、少し説明が面倒ですが、最後までお読み頂ければと思っています。

それでは今回も宜しくお願いします。

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■モダナイゼーションの手法


さて、前回ブログで紹介したような経緯で注目されよう様になった「モダナイゼーション」ですが、その対応方法は、単純なシステム再学習から、提供機能はそのままでも、システム実現方法の見直しを行うまで、様々な方法があります。

そこで、本ブログでは、紙面の関係で詳しくは紹介出来ませんが、「モダナイゼーション」の種類を、作業工数が少ないと思われる手法から紹介します。

なお、これから紹介する手法は、説明する人により内容が異なりますので、その点、ご了承下さい。

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(1)リラーン:システムの再学習
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・システムには直接手は入れず、システムの再学習を行う手法。
・「再学習」と一言に言っても、次の様な項目を再学習する。
1)オペレーション
2)運用方法
3)稼働環境

(2)リドキュメント:ドキュメントの再整備
・上記(1)同様、システムには手を入れず、ドキュメントの整備を行う手法。
・ドキュメントの再整備には、存在しない開発ドキュメントの再作成も含む。
・開発関連ドキュメント以外にも、システム運用全般に関するドキュメントも含まれる。

(3)リファクター:既存ソースコード設計改善
・本作業では、ソースコードの改修を行うが、あくまでも保守レベルとなる。
・保守レベルのソース修正なので、機能追加は行わない。
・保守レベルとは、主に、障害対応のための修正となる。

(4)リホスト:ITインフラ刷新
・システムに関わる各種インフラを最新の物に入れ替える手法。
・古くなったハードウェアやOSなどのプラットフォーム(基盤)部分を新しいものに置き換える。
・ソフトウェアやデータにはほとんど手を加えずに移行する。

(5)リインターフェイス:UI改良による新デバイス/新ブラウザー対応
・新型デバイスに対応するためにシステムとデバイスのユーザインターフェイス(UI)を修正する手法。
・こちらも基本機能に対しては、基本的に手を加えず、現行の機能のままUIのみを修正する。

(6)ラッピング:インターフェイス/プロトコル変換用の連携モジュール追加
・上記(5)と似た手法であるが、どちらかと言うと、システム全体をラッピング(覆う)する手法となる。
・既存システムと外部ソフトを連携させるために、新規の連携インターフェイスを作成する手法。
・主に、外部とのアクセス対象を増やしたり、あるいは変更したりする時に用いる手法。

(7)リライト:旧言語から新言語へのソースコード変換/書き換え
・ツール、あるいは人手により、現行の開発言語を、最新のプログラム言語に書き換える手法。
・前章で説明した「レガシー・マイグレーション」も、この手法となる。
・言語の変更が主目的なので、機能追加等の作業は行わない。

(8)リプレース:システムの新環境移行
・パッケージ・ソフトウェアを使用している場合、新しいパッケージに切り替える手法。
・機能追加や機能修正を伴う「リプレース」とは区別するが、パッケージ自体に新機能が含まれている場合は、このリプレースとなる。

(9)リビルド:アーキテクチャー再構築
・現行システムの設計書を元に、ハードウェアやソフトウェア等を部分的に、あるいは順次、現在主流のものに置き換えて行く手法。
・これも、上記「リプレース」と同様、新規機能追加等は行なわない。

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今回紹介した9つの手法とは別に、6個程度の手法を紹介しているケースもありますが、その場合、今回紹介した複数の手法を、1個の手法として紹介しているだけです。

また、今回、9個の手法に分類しましたが、IBM社等では、次の3種類に分類しているケースもあります。

【 準備的モダナイゼーション 】
・リラーン :システムの再学習
・リドキュメント :ドキュメントの再整備
・リファクター :コードの設計改善

【 中核的モダナイゼーション 】
・リホスト :ITインフラ刷新
・リインターフェイス :ユーザーインタフェースの改良
・ラッピング :アクセス性の向上
・リライト :新言語への書き換え

【 再構築的モダナイゼーション 】
・リプレース :新パッケージへの移行
・リビルド :再構築

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また、前述の通り、ケースによっては、上記の「準備的モダナイゼーション」を、「モダナイゼーション」に含んでいないケースもあります。


一言で「モダナイゼーション」と言っても、様々な手法がありますし、また、それぞれの手法毎に、デメリットも抱えています。

さらに、「モダナイゼーション」を行った企業では、別の問題も浮上していますので、これらも合わせて次章で紹介します。


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■メリット/デメリット

ここまで、「モダナイゼーション」の必要性や手法等を紹介してきましたが、これだけ読んでいると、最初にも記載した通り、何か、良いことだらけの様に思えますよね !?

『 そんなに、良いことだらけなら、ウチの会社も、モダナイゼーションとか言う代物で、オンプレミスなんちゃら環境とかから、クラウドなんちゃらに移行したいので、その方法を教えてくれ !! 』


しかし・・・世の中、「良いこと尽くめ」の事など絶対にありません。メリットもあれば、必ずデメリットも存在します。


今回ご紹介している「モダナイゼーション」のメリットは、これまでも説明して来た通り、大きくは、次の様な内容となります。

●要件設計作業が不要になる。
●要件設計が不要なので、作業工数を大幅に短縮する事が出来る。
●作業工数が大幅に減るので、開発費用も削減する事が出来る。

確かに、システム開発の「要(かなめ)」となる要件設計フェーズが不要となれば、工数/費用とも、かなり削減する事が可能となります。

しかし、私は、世間一般のIT企業やメーカーが説明しているように、そう単純に「要件設計フェーズ」が削除出来るとは思っていません。

私は、世間一般で言っている通り、「モダナイゼーションでは要件設計が不要」とは全く考えていません。絶対に、どのような形になるにせよ「要件設計フェーズ」は必要だと思っています。

そこで、まず本章で、「モダナイゼーション」のデメリットを紹介し、次章で、「モダナイゼーション」を行う際に、注意すべき事柄を紹介したいと思います。

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「モダナイゼーション」のデメリットですが、前述の9個の手法に関して、こちらも簡単にですが、デメリットを紹介します。

(1)リラーン:システムの再学習
・現行システムには、一切手を付けないので、モダナイゼーションの効果は限定的となる。
・別の分類手法にもある通り、準備段階なので、実際の効果はゼロ。
・社内システムの再学習だけなので、関係者に対する負荷も、それほどは掛からない。

(2)リドキュメント:ドキュメントの再整備
・こちらもモダナイゼーションの効果は限定的となる。
・しかし、「リラーン」とは異なり、ドキュメントが存在しない場合、システムを解析してドキュメントを作成する必要があるので、関係者への負荷は、かなり掛かると推測される。

(3)リファクター:既存ソースコード設計改善
・保守のため、実際にソースを変更する必要があるので、関係者に技術スキルが必要になる。
・実際に、プログラムが変更されるので、設計フェーズ以降の作業が必要になる。
1)基本設計
2)詳細設計
3)製造/単体試験
4)結合試験
・これ以降の手法に関しては、全て、これら作業が必要になる。

(4)リホスト:ITインフラ刷新
・ITインフラの刷新は、ツール等によるソース・コンバージョンが主流になっているが、ツールだけでは対応できないケースも多発している。
・ツールで対応出来ない場合、人手によるソース修正も必要になるので、スキル保持者を確保して置く必要もある。
・これも、ほとんど開発作業なので、上記同様の作業フェーズが必要になる。

(5)リインターフェイス:UI改良による新デバイス/新ブラウザー対応
・新型デバイス対応のためにユーザーインタフェースを修正するので、当然、開発スキルが必要になる。
・開発作業なので、当然、上記作業フェーズが必要になる。

(6)ラッピング:インターフェイス/プロトコル変換用の連携モジュール追加
・既存システムには手を付ける事無く、既存システムを覆うように、外部とのインターフェイス機能を付け加えるので、作業が複雑になる可能性が高い。
・既存システム、および外部システム双方の知識が必要になる。
・正しく設計を行わないと、パフォーマンスが低下する可能性がある。

(7)リライト:旧言語から新言語へのソースコード変換/書き換え
・これも、現在では、コンバージョン・ツールを用いてソースコードを書き換えるケースが多いが、全てをツールで賄うことは不可能となっている。
・また、ツールに依存し過ぎると、パフォーマンス低下等の問題が発生した時に、調査/対応が出来なくなってしまう。

(8)リプレース:システムの新環境移行
・主に、パッケージ・ソフトウェアの入替えを想定した手法なので、それほど作業工数は掛からないと思い込みがちだが、パッケージのカスタマイズを行っていると、とんでもナイ事になる可能性が高い。
・既存パッケージをカスタマイズしていると、新規パッケージにも、同等の機能が必要になるケースが多いが、そうなると、カスタマイズ部分を、全て、再作成しなければならなくなる可能性が高い。

(9)リビルド:アーキテクチャー再構築
・「アーキテクチャーを再構築する」とは、既存システムに対する設計思想全体を再構築する事を意味しているので、結局の所、既存の要件設計書を基準に、全てを再作成する事になる。
・ほぼ「全取っ替え」となるので、作り直しと思って取り掛かった方が良い。
・「要件はそのまま」等と、ナメて取り掛かると、必ず失敗する。

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結局の所、「モダナイゼーション」に於いても、ソースコードには手を付けるので、通常の開発と同じ事となります。

世間一般では、「要件設計書は現行通り」とは言え、「基本設計フェーズ」以降の作業は必要になりますので、Webに紹介されている「モダナイゼーション事例」を鵜呑みにはせず、ちゃんとスケジュールや予算を確保しないと、とんでもナイ事になります。


それと、近頃は、「モダナイゼーション」よりも、「AI」や「IoT」と言う言葉を見かける事が多くなり、政府も「Society 5.0」とか「超スマート社会」等と叫びだしています。

そして、その結果、これまで脚光を浴びていた「モダナイゼーション」によるクラウド化やホスティングには、「AIoT」を妨げる問題があることが明らかになってしまった様です。


「AIoT」とは、台湾資本の「鴻海(ホンハイ)精密工業」に買収された「SHARP(シャープ)」が唱え始めた造語で、「AI」と「IoT」を合体させ、次の様な意味合いで使っている言葉です。

→ モノのAI化、モノの人工知能

つまり、「Society 5.0 = 超スマート社会」を実現するためには、クラウド環境に蓄積されているビッグデータをAIが解析して、その解析結果を、迅速に人間やロボットにフィードバックしなければならないとしています。

ところが、ビッグデータクラウド環境にあると、AIに求められる「リアルタイム性」が損なわれる事が明らかになり、AIを導入するのであれば、データは、やはり「オンプレミス環境」にあるべきだ、と言う意見が多数を占めるようになって来ています。

詳しくは、過去ブログで、「Society 5.0」を紹介していますので、そちらをご覧下さい。

★過去ブログ:Society 5.0って何 ?

それにしても、何か、「先祖返り」の様な現象が起きていますが、このような事は、IT業界では日常茶飯事です。

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以前も、「システムを改善するならERPだ !! 」と言うSIerやメーカーの言葉に踊らされて、多くの日本企業が、何億円も掛けて「ERP(Enterprise Resource Planning)」と言うシステムを導入しました。

ところが、ERPを使い始めて4〜5年もすると、「やっぱ使えね〜」と言う事になり、ERPを止めて、元のシステムに戻す企業が多発しました。

また、本ブログでは、「モダナイゼーション」の一種となる「レガシー・マイグレーション」も紹介していますが、これも問題有りでした。

マシンの保守費用全般が安くなる、と言うSIer/メーカーの言葉に踊らされて、将来の事は何も考えずに、多くの企業が、メインフレームからオープン系システムに切り替えたのは良いのですが、その後が最悪です。

価格が安いと言う事で、部署毎にサーバーを無秩序に導入した結果、折角、規模を小さくしたマシンルームにサーバーが置けなくなったり、あるいはサーバーの排気熱でマシンルームが熱くなり過ぎて、サーバーがダウンしたりとか、様々な問題が起きています。

さらに、部署毎に勝手にサーバーを購入するので、メーカーも品質もバラバラ、バックアップも取れず、データの紛失が続発し、情報システム部も、お手上げになる事態となってしまいました。


そして、その結果、自社のマシンルームでサーバーを管理出来ないので、ホスティングする事になっているのが実情です。

私も含めて、どうして日本人と言うのは、「新しもの好き」が多いのか、困ってしまいます。

やはり、日本人は、「遣隋使/遣唐使」、それに「黒船」に始まり、海外から来る物には、直ぐに影響を受けてしまうDNAを持っているのだと思います。

それでは、次章で、「モダナイゼーション」を行う際に、気を付ける点を紹介します。

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■モダナイゼーションの罠


それでは最後に、「モダナイゼーション」を行う際に陥りがちな「罠」を紹介したいと思います。

本章では、主に、弊社のお客様でもある「IPA(独立行政法人情報処理推進機構)」が提供している資料を元に、その内容を紹介したいと思います。

この資料は、下記サイトからダウンロード出来ます。本ブログでは、ポイントしか紹介しません。

興味がある方は、サイトから直接ダウンロードして、詳しくご覧下さい。

IPA様サイト:https://www.ipa.go.jp/sec/reports/20180214.html

しかし、この資料「デジタル変革に向けたITモダナイゼーション企画のポイント集〜注意すべき7つの落とし穴とその対策」・・・何とも長いタイトルになっていますが、実は、この資料は、別の資料の活用を促すための資料となっているようです。


その資料は、本としての購入も、PDFデータとしてのダウンロードも可能な資料となっているようです。

「システム再構築を成功に導くユーザガイド 第2版」

購入するとなると「1,759円(税抜)」とかなり高額な書籍です。ダウンロードは無料ですので、こちらの方が良いかもしれませんが・・・全部で216ページにも及ぶ大作です。

しかし、本気で「モダナイゼーション」の実施を検討しているのであれば、是非、読んでおいた方が良いと思います。

それと、最初に言っておきますが、世間一般では、「モダナイゼーションを行う場合、要件設計の作成は不要」と言っていますが、このIPAの資料では、「要件設計は必要」となっています。

私も、前章に記載した通り、「モダナイゼーションでも要件設計は必要」だと思っていますので、その点を留意して読み下さい。

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【 罠 - その1 】:「再構築だから」と企画/要件定義フェーズを軽視していないか ?


これは、システム開発の根底を成す問題です。

とにかく、システム開発を行う場合、最初に、要求事項を分析し、その要求事項への対応を、正しく精査しておかないと、後工程となる基本設計フェーズ以降で、何らかの問題が発生します。

「こんなはずじゃ」とか「想定外」とか言う言葉は、当初の問題を正しく認識していない者が言う言葉です。

何度も繰り返しますが、「モダナイゼーション」でも要求分析は絶対に必要です。


【 罠 - その2 】:「今と同じ」という要件定義になっていないか ?


これも、「罠 - その1」を、言葉を変えて表しているだけです。

「今回の開発は、現行システムを開発する時の要件と同じだから・・・」だけでは、システム開発は必ず失敗します。「何が、現行システムと同じ」なのかを、文章として、明確に定義する必要があります。

また、「モダナイゼーション」では、現在と、全く同じ環境にシステムを構築する訳ではありません。絶対に、何かが異なリます。

何かが異なる環境にシステムを構築する訳ですから、現行システムと、何が同じで、何が異なるのかを明確にし、その差が、システム開発に与える影響を分析し、文章として残し、関係者に説明する必要があります。

そうしないと、「そんな事、聞いてません〜」等と言う輩が、必ず現れます。


【 罠 - その3 】:現行システムの調査が「表面的」になっていないか ?


これも、システム開発に取り掛かる前段階の調査不足を危惧する内容です。

つまり、「モダナイゼーション」では、現行システムに手を入れて開発を行う訳ですから、きちんと現行システムのロジックなり仕様なりを理解した上で手を入れないと、とんでもない事が発生します。

例えば、「A機能」の処理を変更しなければならないケースで、当初の調査では、「A機能」は、他の機能とは連携していない、と言う調査結果になっていたとします。

ところが、実際にロジックを見てみると、「A機能」は、多くの機能と連携しており、「A機能」を修正する場合、、他の機能への影響も調査する必要がある事が判明したと言うような事が起こるケースが良くあります。

そうなると、当初予定していたスケジュールは大幅に変更になるので、工数も費用も追加しなければならなくなり、このプロジェクトは、これだけで、もう失敗と言う事になります。


【 罠 - その4 】:業務部門はメンバの一員として上流工程から参加しているか ?


この点は、現場と作成者の意識統一が図れているか、と言う点を問題視した内容になっています。

つまり、「モダナイゼーション」を行うのは、社内であれば情報システム部となりますが、実際にシステムを使っているのは、現場担当者です。

この両者の意識統一やコンセンサスが統一されていないとシステム開発は失敗します。

例えば、「A業務」に関して、システムが提供する機能が不足しているので、現場では独自作業を行う事で対応を取っていたとします。

そうなると、折角、モダナイゼーションを行っても、何の意味もないシステム改修になる可能性があります。

また、パフォーマンス要件も重要ですが、業務の処理パフォーマンスを熟知しているのは、情報システム部ではなく、現場担当です。

モダナイゼーションを行う場合、現場担当を巻き込んで要求事項を、「紙ベース」から「実務ベース」にする必要があります。


【 罠 - その5 】:システムの品質や業務の継続を、どうやって担保するのか ?


これは、システム開発を行った結果、「何を以ってシステム開発を完了とするのか」を明確にする必要ある、という点に関して問題を提起した内容です。

弊社もお客様からシステム開発を請け負っていますが、その際、契約書に「検収条件」と言う項目を設けています。

そして、この「検収条件」では、『 受入試験/受入検収で、どのような項目を満足したら、試験完了となるのか』を明記しています。

システム開発の場合、この点を明確にした上で作業を始めないと、成果物を納品した後で、当初の要求事項に含まれていない機能に関して、「あの機能が実装されていない」とか「この機能の処理結果が違う」と言う、クレームを付けられ、成果物を受け取ってもらえないケースがあります。

このような点は、社内システムでも同様です。

当初から、どのような品質を満たすシステムを開発するのか、あるいは、業務が、どこまで継続できれば合格とみなすのかを、正しく、そして客観的に判断する事が出来るようにした上で、開発作業を進めないと、どこまで行っても、開発作業が終わらないという悲劇が生まれてしまいます。

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とにかく、「モダナイゼーションは楽勝 !!」等と、何の根拠もなく開発に突き進んでしまうと、絶対に失敗します。

「モダナイゼーション」も通常の社内システム構築と同じです。

私などは、逆に、新規にシステムを作成するよりも、モダナイゼーションの方が、面倒だと思っています。

それは何故かと言うと、既存システムを分析し、既存システムで、どのような処理を行っているのかを、正しく分析した上で開発を行わなければならないからです。

新規システム開発の場合、既存システムなど存在しませんので、要求事項を積み上げて、それを満足するシステムを作成するだけです。既存システムの分析など行う必要もありません。

故に、私は、お客様から既存システムの改修の問合せがあると、「新規開発よりも面倒ですよ。」と申し上げています。


さらに、モダナイゼーションの場合、10数年も昔に作成されたシステムを改修する事になりますが、恐らく、その当時、システムを開発した担当者は、もう社内に在籍していないと思います。

加えて、当時の開発ドキュメントは残っていないと思いますし、残っていたとしても・・・恐らく、書かれている内容が正しいのか、それとも間違いなのかは、誰も判断できないと思います。

結局の所は、実際にロジック、つまりプログラムを解析しなければならないので、本当に、「地獄の様な日々」が続くと思います。


「地獄」と言えば、技術者と言う人種は、他人の作ったプログラムを解析するのが「大っ嫌い」です。

私も、その昔、障害対応の部署に在籍していたので、過去の先輩方が作成したプログラムを解析して、バグを修正していたのですが・・・もう、他人のプログラムを見ただけで、ムカムカしました。

・何で、ここで、そんな処理してんだよ !!
・コイツは、構造化って言う言葉を知らねえのか !!
・馬鹿みたいに同じ処理を繰り返してんじゃねえよ !!
・こんな汚えプログラムしか組めねえのに、よく課長なんかに成れたな !!

当時の私を知る人からは、「お前は、いつも怒ってばかり居たよな〜」とよく言われますが、この事が原因だったと思います。

このようにモダナイゼーションには、様々なリスクが潜んでいますので、決して「ナメて」取り掛からない様に注意して下さい。

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今回、前編と後編の2回に分けて、「モダナイゼーション」に関して、次の様な内容を紹介しましたが、如何でしたか ?

●モダナイゼーションとは ?
●レガシー・マイグレーションとの違いは?
●何故、今、モダナイゼーションが必要なのか ?
●モダナイゼーションの手法
●メリット・デメリット
●モダナイゼーションの罠


世間一般で言われている「モダナイゼーション」に関しては、正直な所、私としては、次の様な感じとしてとらえています。


SIer/メーカーが、残り少なくなったメインフレーム企業をターゲットにして、新しい言葉を用いて、言葉巧みにオープン化を行おうとしている。

・既にオープン化を実施した企業に対して、費用を掛けずに、新しいシステムに刷新出来ると、言葉巧みに誘導して、システム開発を行わせようとしている。


要は、「モダナイゼーションは費用が掛からない」と言う嘘を言いふらして、「詐欺まがい」の行為を行っているようにしか見えません。

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確かに、「基本仕様は、現行システムと同様」だとは思いますが、それで「要件設計不要」になるとは絶対に思えません。

絶対に、何らかの「要件設計」作業は必要です。

今回紹介した「モダナイゼーション」を含め、IT系Webサイトや雑誌に掲載されているのは、当然の事ながら「成功事例」だけです。

全ての企業が、この「成功事例」の様に成功する訳がありません。

何らかの「モダナイゼーション」を行おうとした場合、先に紹介したIPA様の書籍や資料を精読してから営業の話を聞かないと、失敗する可能性が高いと思います。

何かを行う場合、全て、SIer/メーカー営業の言いなりでは、「ぼられる」ばかりです。

日々の業務で忙しいとは思いますが、これも仕事です。ちゃんと、自らも調査/学習した上で、事に臨むようにして下さい。

それでは次回も宜しくお願いします。

以上


【画像・情報提供先】
Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)
・日経クロステック(http://tech.nikkeibp.co.jp/)
独立行政法人 情報処理推進機構(https://www.ipa.go.jp/)

【株式会社 エム・システム】
本      社  :〒124-0023 東京都葛飾東新小岩8-5-5 5F
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モダナイゼーション 〜 なぜ今、必要なのか ? - 後編

モダナイゼーション 〜 なぜ今、必要なのか ? - 後編


前回の「IT系お役立ち情報」は、「モダナイゼーション」の前篇として、次の内容を紹介しました。

●モダナイゼーションとは ?
●レガシー・マイグレーションとの違いは?
●何故、今、モダナイゼーションが必要なのか ?

「モダナイゼーションとは、どのようなムーブメントなのか」から始めて、「何故、モダナイゼーションが必要なのか」までの情報を紹介しました。

★過去ブログ:モダナイゼーション 〜 なぜ今、必要なのか ? - 前編


その中で「レガシー・マイグレーション」と「モダナイゼーション」の違いも触れましたが、両者は微妙な関係で、本来の目的は異なるのですが、結果的には、同じ様な作業を行うケースが多いので、「レガシー・マイグレーション」も、「モダナイゼーション」の一種としてとらえても問題は無いのではないか、と言う事としました。

そこで、今回は、「モダナイゼーション」の手法を紹介すると共に、そのメリット/デメリットも紹介し、最後に、「モダナイゼーションの罠」として、実際に「モダナイゼーション」に取り組む際に、陥りやすい罠や間違いを紹介します。

●モダナイゼーションの手法
●メリット・デメリット
●モダナイゼーションの罠


「モダナイゼーション」の手法は、細かく分類すると9種類もありますので、少し説明が面倒ですが、最後までお読み頂ければと思っています。

それでは今回も宜しくお願いします。

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■モダナイゼーションの手法


さて、前回ブログで紹介したような経緯で注目されよう様になった「モダナイゼーション」ですが、その対応方法は、単純なシステム再学習から、提供機能はそのままでも、システム実現方法の見直しを行うまで、様々な方法があります。

そこで、本ブログでは、紙面の関係で詳しくは紹介出来ませんが、「モダナイゼーション」の種類を、作業工数が少ないと思われる手法から紹介します。

なお、これから紹介する手法は、説明する人により内容が異なりますので、その点、ご了承下さい。

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(1)リラーン:システムの再学習
・システムには直接手は入れず、システムの再学習を行う手法。
・「再学習」と一言に言っても、次の様な項目を再学習する。
1)オペレーション
2)運用方法
3)稼働環境

(2)リドキュメント:ドキュメントの再整備
・上記(1)同様、システムには手を入れず、ドキュメントの整備を行う手法。
・ドキュメントの再整備には、存在しない開発ドキュメントの再作成も含む。
・開発関連ドキュメント以外にも、システム運用全般に関するドキュメントも含まれる。

(3)リファクター:既存ソースコード設計改善
・本作業では、ソースコードの改修を行うが、あくまでも保守レベルとなる。
・保守レベルのソース修正なので、機能追加は行わない。
・保守レベルとは、主に、障害対応のための修正となる。

(4)リホスト:ITインフラ刷新
・システムに関わる各種インフラを最新の物に入れ替える手法。
・古くなったハードウェアやOSなどのプラットフォーム(基盤)部分を新しいものに置き換える。
・ソフトウェアやデータにはほとんど手を加えずに移行する。

(5)リインターフェイス:UI改良による新デバイス/新ブラウザー対応
・新型デバイスに対応するためにシステムとデバイスのユーザインターフェイス(UI)を修正する手法。
・こちらも基本機能に対しては、基本的に手を加えず、現行の機能のままUIのみを修正する。

(6)ラッピング:インターフェイス/プロトコル変換用の連携モジュール追加
・上記(5)と似た手法であるが、どちらかと言うと、システム全体をラッピング(覆う)する手法となる。
・既存システムと外部ソフトを連携させるために、新規の連携インターフェイスを作成する手法。
・主に、外部とのアクセス対象を増やしたり、あるいは変更したりする時に用いる手法。

(7)リライト:旧言語から新言語へのソースコード変換/書き換え
・ツール、あるいは人手により、現行の開発言語を、最新のプログラム言語に書き換える手法。
・前章で説明した「レガシー・マイグレーション」も、この手法となる。
・言語の変更が主目的なので、機能追加等の作業は行わない。

(8)リプレース:システムの新環境移行
・パッケージ・ソフトウェアを使用している場合、新しいパッケージに切り替える手法。
・機能追加や機能修正を伴う「リプレース」とは区別するが、パッケージ自体に新機能が含まれている場合は、このリプレースとなる。

(9)リビルド:アーキテクチャー再構築
・現行システムの設計書を元に、ハードウェアやソフトウェア等を部分的に、あるいは順次、現在主流のものに置き換えて行く手法。
・これも、上記「リプレース」と同様、新規機能追加等は行なわない。

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今回紹介した9つの手法とは別に、6個程度の手法を紹介しているケースもありますが、その場合、今回紹介した複数の手法を、1個の手法として紹介しているだけです。

また、今回、9個の手法に分類しましたが、IBM社等では、次の3種類に分類しているケースもあります。

【 準備的モダナイゼーション 】
・リラーン :システムの再学習
・リドキュメント :ドキュメントの再整備
・リファクター :コードの設計改善

【 中核的モダナイゼーション 】
・リホスト :ITインフラ刷新
・リインターフェイス :ユーザーインタフェースの改良
・ラッピング :アクセス性の向上
・リライト :新言語への書き換え

【 再構築的モダナイゼーション 】
・リプレース :新パッケージへの移行
・リビルド :再構築

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また、前述の通り、ケースによっては、上記の「準備的モダナイゼーション」を、「モダナイゼーション」に含んでいないケースもあります。


一言で「モダナイゼーション」と言っても、様々な手法がありますし、また、それぞれの手法毎に、デメリットも抱えています。

さらに、「モダナイゼーション」を行った企業では、別の問題も浮上していますので、これらも合わせて次章で紹介します。


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■メリット/デメリット

ここまで、「モダナイゼーション」の必要性や手法等を紹介してきましたが、これだけ読んでいると、最初にも記載した通り、何か、良いことだらけの様に思えますよね !?

『 そんなに、良いことだらけなら、ウチの会社も、モダナイゼーションとか言う代物で、オンプレミスなんちゃら環境とかから、クラウドなんちゃらに移行したいので、その方法を教えてくれ !! 』


しかし・・・世の中、「良いこと尽くめ」の事など絶対にありません。メリットもあれば、必ずデメリットも存在します。


今回ご紹介している「モダナイゼーション」のメリットは、これまでも説明して来た通り、大きくは、次の様な内容となります。

●要件設計作業が不要になる。
●要件設計が不要なので、作業工数を大幅に短縮する事が出来る。
●作業工数が大幅に減るので、開発費用も削減する事が出来る。

確かに、システム開発の「要(かなめ)」となる要件設計フェーズが不要となれば、工数/費用とも、かなり削減する事が可能となります。

しかし、私は、世間一般のIT企業やメーカーが説明しているように、そう単純に「要件設計フェーズ」が削除出来るとは思っていません。

私は、世間一般で言っている通り、「モダナイゼーションでは要件設計が不要」とは全く考えていません。絶対に、どのような形になるにせよ「要件設計フェーズ」は必要だと思っています。

そこで、まず本章で、「モダナイゼーション」のデメリットを紹介し、次章で、「モダナイゼーション」を行う際に、注意すべき事柄を紹介したいと思います。

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「モダナイゼーション」のデメリットですが、前述の9個の手法に関して、こちらも簡単にですが、デメリットを紹介します。

(1)リラーン:システムの再学習
・現行システムには、一切手を付けないので、モダナイゼーションの効果は限定的となる。
・別の分類手法にもある通り、準備段階なので、実際の効果はゼロ。
・社内システムの再学習だけなので、関係者に対する負荷も、それほどは掛からない。

(2)リドキュメント:ドキュメントの再整備
・こちらもモダナイゼーションの効果は限定的となる。
・しかし、「リラーン」とは異なり、ドキュメントが存在しない場合、システムを解析してドキュメントを作成する必要があるので、関係者への負荷は、かなり掛かると推測される。

(3)リファクター:既存ソースコード設計改善
・保守のため、実際にソースを変更する必要があるので、関係者に技術スキルが必要になる。
・実際に、プログラムが変更されるので、設計フェーズ以降の作業が必要になる。
1)基本設計
2)詳細設計
3)製造/単体試験
4)結合試験
・これ以降の手法に関しては、全て、これら作業が必要になる。

(4)リホスト:ITインフラ刷新
・ITインフラの刷新は、ツール等によるソース・コンバージョンが主流になっているが、ツールだけでは対応できないケースも多発している。
・ツールで対応出来ない場合、人手によるソース修正も必要になるので、スキル保持者を確保して置く必要もある。
・これも、ほとんど開発作業なので、上記同様の作業フェーズが必要になる。

(5)リインターフェイス:UI改良による新デバイス/新ブラウザー対応
・新型デバイス対応のためにユーザーインタフェースを修正するので、当然、開発スキルが必要になる。
・開発作業なので、当然、上記作業フェーズが必要になる。

(6)ラッピング:インターフェイス/プロトコル変換用の連携モジュール追加
・既存システムには手を付ける事無く、既存システムを覆うように、外部とのインターフェイス機能を付け加えるので、作業が複雑になる可能性が高い。
・既存システム、および外部システム双方の知識が必要になる。
・正しく設計を行わないと、パフォーマンスが低下する可能性がある。

(7)リライト:旧言語から新言語へのソースコード変換/書き換え
・これも、現在では、コンバージョン・ツールを用いてソースコードを書き換えるケースが多いが、全てをツールで賄うことは不可能となっている。
・また、ツールに依存し過ぎると、パフォーマンス低下等の問題が発生した時に、調査/対応が出来なくなってしまう。

(8)リプレース:システムの新環境移行
・主に、パッケージ・ソフトウェアの入替えを想定した手法なので、それほど作業工数は掛からないと思い込みがちだが、パッケージのカスタマイズを行っていると、とんでもナイ事になる可能性が高い。
・既存パッケージをカスタマイズしていると、新規パッケージにも、同等の機能が必要になるケースが多いが、そうなると、カスタマイズ部分を、全て、再作成しなければならなくなる可能性が高い。

(9)リビルド:アーキテクチャー再構築
・「アーキテクチャーを再構築する」とは、既存システムに対する設計思想全体を再構築する事を意味しているので、結局の所、既存の要件設計書を基準に、全てを再作成する事になる。
・ほぼ「全取っ替え」となるので、作り直しと思って取り掛かった方が良い。
・「要件はそのまま」等と、ナメて取り掛かると、必ず失敗する。

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結局の所、「モダナイゼーション」に於いても、ソースコードには手を付けるので、通常の開発と同じ事となります。

世間一般では、「要件設計書は現行通り」とは言え、「基本設計フェーズ」以降の作業は必要になりますので、Webに紹介されている「モダナイゼーション事例」を鵜呑みにはせず、ちゃんとスケジュールや予算を確保しないと、とんでもナイ事になります。


それと、近頃は、「モダナイゼーション」よりも、「AI」や「IoT」と言う言葉を見かける事が多くなり、政府も「Society 5.0」とか「超スマート社会」等と叫びだしています。

そして、その結果、これまで脚光を浴びていた「モダナイゼーション」によるクラウド化やホスティングには、「AIoT」を妨げる問題があることが明らかになってしまった様です。


「AIoT」とは、台湾資本の「鴻海(ホンハイ)精密工業」に買収された「SHARP(シャープ)」が唱え始めた造語で、「AI」と「IoT」を合体させ、次の様な意味合いで使っている言葉です。

→ モノのAI化、モノの人工知能

つまり、「Society 5.0 = 超スマート社会」を実現するためには、クラウド環境に蓄積されているビッグデータをAIが解析して、その解析結果を、迅速に人間やロボットにフィードバックしなければならないとしています。

ところが、ビッグデータクラウド環境にあると、AIに求められる「リアルタイム性」が損なわれる事が明らかになり、AIを導入するのであれば、データは、やはり「オンプレミス環境」にあるべきだ、と言う意見が多数を占めるようになって来ています。

詳しくは、過去ブログで、「Society 5.0」を紹介していますので、そちらをご覧下さい。

★過去ブログ:Society 5.0って何 ?

それにしても、何か、「先祖返り」の様な現象が起きていますが、このような事は、IT業界では日常茶飯事です。

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以前も、「システムを改善するならERPだ !! 」と言うSIerやメーカーの言葉に踊らされて、多くの日本企業が、何億円も掛けて「ERP(Enterprise Resource Planning)」と言うシステムを導入しました。

ところが、ERPを使い始めて4〜5年もすると、「やっぱ使えね〜」と言う事になり、ERPを止めて、元のシステムに戻す企業が多発しました。

また、本ブログでは、「モダナイゼーション」の一種となる「レガシー・マイグレーション」も紹介していますが、これも問題有りでした。

マシンの保守費用全般が安くなる、と言うSIer/メーカーの言葉に踊らされて、将来の事は何も考えずに、多くの企業が、メインフレームからオープン系システムに切り替えたのは良いのですが、その後が最悪です。

価格が安いと言う事で、部署毎にサーバーを無秩序に導入した結果、折角、規模を小さくしたマシンルームにサーバーが置けなくなったり、あるいはサーバーの排気熱でマシンルームが熱くなり過ぎて、サーバーがダウンしたりとか、様々な問題が起きています。

さらに、部署毎に勝手にサーバーを購入するので、メーカーも品質もバラバラ、バックアップも取れず、データの紛失が続発し、情報システム部も、お手上げになる事態となってしまいました。


そして、その結果、自社のマシンルームでサーバーを管理出来ないので、ホスティングする事になっているのが実情です。

私も含めて、どうして日本人と言うのは、「新しもの好き」が多いのか、困ってしまいます。

やはり、日本人は、「遣隋使/遣唐使」、それに「黒船」に始まり、海外から来る物には、直ぐに影響を受けてしまうDNAを持っているのだと思います。

それでは、次章で、「モダナイゼーション」を行う際に、気を付ける点を紹介します。

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■モダナイゼーションの罠


それでは最後に、「モダナイゼーション」を行う際に陥りがちな「罠」を紹介したいと思います。

本章では、主に、弊社のお客様でもある「IPA(独立行政法人情報処理推進機構)」が提供している資料を元に、その内容を紹介したいと思います。

この資料は、下記サイトからダウンロード出来ます。本ブログでは、ポイントしか紹介しません。

興味がある方は、サイトから直接ダウンロードして、詳しくご覧下さい。

IPA様サイト:https://www.ipa.go.jp/sec/reports/20180214.html

しかし、この資料「デジタル変革に向けたITモダナイゼーション企画のポイント集〜注意すべき7つの落とし穴とその対策」・・・何とも長いタイトルになっていますが、実は、この資料は、別の資料の活用を促すための資料となっているようです。


その資料は、本としての購入も、PDFデータとしてのダウンロードも可能な資料となっているようです。

「システム再構築を成功に導くユーザガイド 第2版」

購入するとなると「1,759円(税抜)」とかなり高額な書籍です。ダウンロードは無料ですので、こちらの方が良いかもしれませんが・・・全部で216ページにも及ぶ大作です。

しかし、本気で「モダナイゼーション」の実施を検討しているのであれば、是非、読んでおいた方が良いと思います。

それと、最初に言っておきますが、世間一般では、「モダナイゼーションを行う場合、要件設計の作成は不要」と言っていますが、このIPAの資料では、「要件設計は必要」となっています。

私も、前章に記載した通り、「モダナイゼーションでも要件設計は必要」だと思っていますので、その点を留意して読み下さい。

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【 罠 - その1 】:「再構築だから」と企画/要件定義フェーズを軽視していないか ?


これは、システム開発の根底を成す問題です。

とにかく、システム開発を行う場合、最初に、要求事項を分析し、その要求事項への対応を、正しく精査しておかないと、後工程となる基本設計フェーズ以降で、何らかの問題が発生します。

「こんなはずじゃ」とか「想定外」とか言う言葉は、当初の問題を正しく認識していない者が言う言葉です。

何度も繰り返しますが、「モダナイゼーション」でも要求分析は絶対に必要です。


【 罠 - その2 】:「今と同じ」という要件定義になっていないか ?


これも、「罠 - その1」を、言葉を変えて表しているだけです。

「今回の開発は、現行システムを開発する時の要件と同じだから・・・」だけでは、システム開発は必ず失敗します。「何が、現行システムと同じ」なのかを、文章として、明確に定義する必要があります。

また、「モダナイゼーション」では、現在と、全く同じ環境にシステムを構築する訳ではありません。絶対に、何かが異なリます。

何かが異なる環境にシステムを構築する訳ですから、現行システムと、何が同じで、何が異なるのかを明確にし、その差が、システム開発に与える影響を分析し、文章として残し、関係者に説明する必要があります。

そうしないと、「そんな事、聞いてません〜」等と言う輩が、必ず現れます。


【 罠 - その3 】:現行システムの調査が「表面的」になっていないか ?


これも、システム開発に取り掛かる前段階の調査不足を危惧する内容です。

つまり、「モダナイゼーション」では、現行システムに手を入れて開発を行う訳ですから、きちんと現行システムのロジックなり仕様なりを理解した上で手を入れないと、とんでもない事が発生します。

例えば、「A機能」の処理を変更しなければならないケースで、当初の調査では、「A機能」は、他の機能とは連携していない、と言う調査結果になっていたとします。

ところが、実際にロジックを見てみると、「A機能」は、多くの機能と連携しており、「A機能」を修正する場合、、他の機能への影響も調査する必要がある事が判明したと言うような事が起こるケースが良くあります。

そうなると、当初予定していたスケジュールは大幅に変更になるので、工数も費用も追加しなければならなくなり、このプロジェクトは、これだけで、もう失敗と言う事になります。


【 罠 - その4 】:業務部門はメンバの一員として上流工程から参加しているか ?


この点は、現場と作成者の意識統一が図れているか、と言う点を問題視した内容になっています。

つまり、「モダナイゼーション」を行うのは、社内であれば情報システム部となりますが、実際にシステムを使っているのは、現場担当者です。

この両者の意識統一やコンセンサスが統一されていないとシステム開発は失敗します。

例えば、「A業務」に関して、システムが提供する機能が不足しているので、現場では独自作業を行う事で対応を取っていたとします。

そうなると、折角、モダナイゼーションを行っても、何の意味もないシステム改修になる可能性があります。

また、パフォーマンス要件も重要ですが、業務の処理パフォーマンスを熟知しているのは、情報システム部ではなく、現場担当です。

モダナイゼーションを行う場合、現場担当を巻き込んで要求事項を、「紙ベース」から「実務ベース」にする必要があります。


【 罠 - その5 】:システムの品質や業務の継続を、どうやって担保するのか ?


これは、システム開発を行った結果、「何を以ってシステム開発を完了とするのか」を明確にする必要ある、という点に関して問題を提起した内容です。

弊社もお客様からシステム開発を請け負っていますが、その際、契約書に「検収条件」と言う項目を設けています。

そして、この「検収条件」では、『 受入試験/受入検収で、どのような項目を満足したら、試験完了となるのか』を明記しています。

システム開発の場合、この点を明確にした上で作業を始めないと、成果物を納品した後で、当初の要求事項に含まれていない機能に関して、「あの機能が実装されていない」とか「この機能の処理結果が違う」と言う、クレームを付けられ、成果物を受け取ってもらえないケースがあります。

このような点は、社内システムでも同様です。

当初から、どのような品質を満たすシステムを開発するのか、あるいは、業務が、どこまで継続できれば合格とみなすのかを、正しく、そして客観的に判断する事が出来るようにした上で、開発作業を進めないと、どこまで行っても、開発作業が終わらないという悲劇が生まれてしまいます。

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とにかく、「モダナイゼーションは楽勝 !!」等と、何の根拠もなく開発に突き進んでしまうと、絶対に失敗します。

「モダナイゼーション」も通常の社内システム構築と同じです。

私などは、逆に、新規にシステムを作成するよりも、モダナイゼーションの方が、面倒だと思っています。

それは何故かと言うと、既存システムを分析し、既存システムで、どのような処理を行っているのかを、正しく分析した上で開発を行わなければならないからです。

新規システム開発の場合、既存システムなど存在しませんので、要求事項を積み上げて、それを満足するシステムを作成するだけです。既存システムの分析など行う必要もありません。

故に、私は、お客様から既存システムの改修の問合せがあると、「新規開発よりも面倒ですよ。」と申し上げています。


さらに、モダナイゼーションの場合、10数年も昔に作成されたシステムを改修する事になりますが、恐らく、その当時、システムを開発した担当者は、もう社内に在籍していないと思います。

加えて、当時の開発ドキュメントは残っていないと思いますし、残っていたとしても・・・恐らく、書かれている内容が正しいのか、それとも間違いなのかは、誰も判断できないと思います。

結局の所は、実際にロジック、つまりプログラムを解析しなければならないので、本当に、「地獄の様な日々」が続くと思います。


「地獄」と言えば、技術者と言う人種は、他人の作ったプログラムを解析するのが「大っ嫌い」です。

私も、その昔、障害対応の部署に在籍していたので、過去の先輩方が作成したプログラムを解析して、バグを修正していたのですが・・・もう、他人のプログラムを見ただけで、ムカムカしました。

・何で、ここで、そんな処理してんだよ !!
・コイツは、構造化って言う言葉を知らねえのか !!
・馬鹿みたいに同じ処理を繰り返してんじゃねえよ !!
・こんな汚えプログラムしか組めねえのに、よく課長なんかに成れたな !!

当時の私を知る人からは、「お前は、いつも怒ってばかり居たよな〜」とよく言われますが、この事が原因だったと思います。

このようにモダナイゼーションには、様々なリスクが潜んでいますので、決して「ナメて」取り掛からない様に注意して下さい。

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今回、前編と後編の2回に分けて、「モダナイゼーション」に関して、次の様な内容を紹介しましたが、如何でしたか ?

●モダナイゼーションとは ?
●レガシー・マイグレーションとの違いは?
●何故、今、モダナイゼーションが必要なのか ?
●モダナイゼーションの手法
●メリット・デメリット
●モダナイゼーションの罠


世間一般で言われている「モダナイゼーション」に関しては、正直な所、私としては、次の様な感じとしてとらえています。


SIer/メーカーが、残り少なくなったメインフレーム企業をターゲットにして、新しい言葉を用いて、言葉巧みにオープン化を行おうとしている。

・既にオープン化を実施した企業に対して、費用を掛けずに、新しいシステムに刷新出来ると、言葉巧みに誘導して、システム開発を行わせようとしている。


要は、「モダナイゼーションは費用が掛からない」と言う嘘を言いふらして、「詐欺まがい」の行為を行っているようにしか見えません。

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確かに、「基本仕様は、現行システムと同様」だとは思いますが、それで「要件設計不要」になるとは絶対に思えません。

絶対に、何らかの「要件設計」作業は必要です。

今回紹介した「モダナイゼーション」を含め、IT系Webサイトや雑誌に掲載されているのは、当然の事ながら「成功事例」だけです。

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何らかの「モダナイゼーション」を行おうとした場合、先に紹介したIPA様の書籍や資料を精読してから営業の話を聞かないと、失敗する可能性が高いと思います。

何かを行う場合、全て、SIer/メーカー営業の言いなりでは、「ぼられる」ばかりです。

日々の業務で忙しいとは思いますが、これも仕事です。ちゃんと、自らも調査/学習した上で、事に臨むようにして下さい。

それでは次回も宜しくお願いします。

以上


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岩手/盛岡と「馬」の関係 〜 本当に「お馬様様」です! - 後編


今回の「盛岡/岩手情報」も、前回に引き続き、「岩手/盛岡と馬の関係」の後編をお届けします。

前回は、「前編」として、古墳時代から江戸時代に至るまでの、岩手県を含む北東北の人々と「馬」の関係を紹介しました。

★過去ブログ:岩手/盛岡と「馬」の関係 - 前編(20180324.html)

前編の最後で、岩手県を含む北東北で、何故、このように「馬事文化」が育まれ、かつ現在にまで継承されたのを、私なりに考察して見ました。

その結果、「馬」の重要性を理解している、ごく少数の民族/氏族が、長きに渡り、同一地域を支配し続けた事が原因ではないか、と思うに至りました。

前編の繰り返しになりますが、北東北は、約1,200年もの間、次のような4つの民族/氏族によってのみ支配されて来ました。

古墳時代〜平安中期 :蝦夷 約300年間
・平安中期〜平安後期 :安倍氏 約100年間
・平安末期〜鎌倉時代藤原氏 約100年間
鎌倉時代〜明治時代 :南部氏 約700年間

そして、これら全ての民族/氏族は、どれも「馬」の価値を認め、非常に大切に扱ってきた事により、「馬事文化」が現在までも継承されて来たと、私は考えています。

そして、今回は、明治時代以降、現在に至るまでの「馬事文化」や、その他、「馬」に関わる、次の様な情報を紹介します。

●近代における「馬」との関係
●岩手における「競馬」の歴史
●現在の「南部馬」と「在来馬」の紹介
●馬検場の歴史

それでは今回も宜しくお願いします。

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■近代における「馬」との関係

さて、幕末から戊辰戦争を経て、鎌倉時代より、700年間以上も南部氏が治めてきた、盛岡藩八戸藩、および七戸藩の領地は、伊達藩の領地だった水沢や一ノ関を合わせて出来た「盛岡県」を経て、「明治5年(1872年)」に「岩手県」となりました。

鎌倉時代から、一つの地域を、同一の氏族が治める事ができたのは、私の知り限り、大名レベルでは、次の五つの氏族だけではないかと思われます。

・南部氏(南部藩) :現:岩手県地域 → 現在、第46代当主「南部利文」氏 盛岡市在住
・相馬氏(中村藩) :現:福島県相馬市付近 → 現在、第34代当主「相馬行胤」氏 広島県在住
・島津氏(薩摩藩) :現:鹿児島県地域 → 現在、第32代当主「島津修久」氏 鹿児島市在住
・相良氏(人吉藩) :現:熊本県南部地域 → 現在、第38代当主「相良頼知」氏 不明
・宗氏(対馬藩) :現:長崎県対馬市 → 現在、第38代当主「宗 立人」氏 不明

これら五つの氏族は、同一地域を、単一氏族が数百年も支配すると言う、世界的に見ても稀有な一族ですが、何れも、中央から遠く離れた地域だった事が幸いしたと考えられています。

「相良氏」と「宗氏」の現在の当主の所在は不明ですが、それ以外は、代々の領地で暮らし続けているようです。

まあ、「南部氏」の前当主は、靖国神社宮司を務めていた関係で東京に住んでいましたし、「相馬氏」は、「9.11 東日本大震災」による福島原発の影響で、旧領地が立入禁止区域になってしまった事もあり、広島県に移住してしまった様です。

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さて「南部馬」ですが、このような経緯もあり、ずっ〜と、南部氏の領地で育てられ続けて来ました。

「南部馬」が、何故、これ程の人気「馬」になったのか、とか、現在、どうなっているのかに関しては、別の章で紹介したいと思います。


そして、時代が「明治」になると、「西南戦争」以降は、国内での「戦」は無くなりましたが、今度は、国外での戦争目的で、軍馬の育成や、騎兵の育成に主眼が置かれる事になって行きます。

岩手・盛岡は、幕末の戊辰戦争で幕府側に付いた事もあり、明治新政府においては、立場が悪かった事もあり、明治時代中頃から、幕末の汚名を晴らすために、積極的に部隊誘致に動いた様です。

その結果、日露戦争終了後、「明治41年(1908年)」に、青森県に駐屯していた「工兵第八大隊」が、広い演習場を求めて、現在の「盛岡市みたけ」に、移駐して来ました。

そして、部隊の移駐から3ヶ月後、当時の皇太子殿下(後の大正天皇)を招待して開催された「特別工兵演習」において、殿下が、演習会場となった広大な草原を「観武ヶ原(みたけがはら)」と命名したと伝わっています。

上図の石碑は「観武原の碑 」と呼ばれる記念碑で、殿下が「観武ヶ原」と命名した経緯が刻まれているそうです。


このような経緯があり、現在、この地が「みたけ町」となったとされていますが・・・私も、「観武ヶ原」が「みたけ」になったと言うのは、初めて知りました。

この「盛岡市みたけ町」は、盛岡市の北側、盛岡駅から6km、近くの、岩手銀河鉄道厨川駅」からは2km程の場所にあります。

そして、さらに、その翌年となる「明治42年(1909年)」には、「騎兵第三旅団(2,000名)」が、「みたけ町」の隣の「青山町」に新設されます。


この「騎兵第三旅団」は、「昭和10年(1935年)」に、満州に派遣されたのですが、その跡地には、「昭和14年(1939年)」、当初、仙台市にあった「陸軍予備士官学校」が移転して来ます。

このように、盛岡市の北側は、明治後半から昭和初期に掛けては、一大軍事拠点となって行きます。

その過程で、この「青山町」付近には、「覆馬場(おおいばば)」が6棟も建設されました。


「覆馬場」とは、雨天や降雪時に、野外での馬場が使えない時に、屋内で乗馬訓練が行える施設です。

建物は、間口約24m/奥行き約49mの総レンガ作りの立派で頑丈な構造になっています。

そして、終戦後は、海外から大量の引揚者が帰国して来たので、引揚者の一時的な居住場所として、青山地区に残っていた兵舎や「覆馬場」を改修し引揚者寮として使用していました。


その後、青山町にも、公営住宅や一般住宅等が建設され、公共施設の整備も進み、盛岡市ベッドタウンとして町が形成されて行きます。

その結果、引揚者寮も徐々に解体/撤去され、戦後の面影が殆どなくなり、残った「覆馬場」も、民間企業の工場や倉庫として利用される事になります。

しかし、「覆馬場」を利用して来た企業も、ここ10年で全て撤退し、青山m町に6棟もあった「覆馬場」も、1棟を残し全て解体されてしまいました。

そして、廃屋同様で残った1棟に関しては、青山町の有志が盛岡市に働きかけ、町の「歴史的遺産」として保存する事が決定し、「平成24年(2012年)」、残った1棟の「覆馬場」を、明治42年の建設当時の姿で復元し、多目的交流施設「盛岡ふれあい覆馬場プラザ」として開館しました。

復元されたとは言え、今では、中で馬を走らせることは無いようで、スポーツ、展示会、あるいはイベント会場等として利用している様です。

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ところで、明治以降、昭和、特に太平洋戦争に至る前までは、引き続き「南部馬」は人気の的で、次のような「名馬」を産出したと言われています。


金華山号 】

明治天皇の御料馬。天皇最愛の馬とも言われています。明治天皇の指示で剥製にされ、現在は「聖徳記念絵画館」において展示保管されています。

明治22年(1889年)」、埼玉県で近衛師団の演習が行われた際、大砲の音に驚き、多くの馬が騎兵を振り落として逃げたにも関わらず、この「金華山号」だけは落ち着き払っていたと言われ、天皇の従者が「馬ながらあっぱれものだ」と涙を流して感激したと伝わっています。

明治天皇も、「私が近づくと敬礼をするような仕草をする。」と言って寵愛したとも言われています。(実際には、前膝をひざまずいて低い姿勢になったそうです。)

【 勝山号

太平洋戦争に駆り出された「軍馬」ですが、三度も重症を負いながらも、その都度、戦線に復帰した強者です。

中国大陸に連れて行かれた「軍馬」の内、本土に帰還できた、ほんの少数の馬の1頭で、「昭和14年(1939年)」に、第1号「軍馬甲功章」を授けられています。

その後、終戦まで軍馬として過ごした後、敗戦後の「昭和20年(1945年)」、飼い主に無事に返され、その後は、農耕馬として余生を過ごすも、戦時中に受けた傷が元で、「昭和22年(1947年)」に、14歳で死んでしまったそうです。

セントライト

これは、当然「南部馬」ではありません。「サラブレッド」ですが・・・日本競馬史上、初のクラシック三冠馬となった名馬です。

「何の関係があるの ?」と言うことですが、この「セントライト」は、今では面影もありませんが、現在の雫石町にある「小岩井農場」で誕生、そして生育された「馬」です。

当時の「小岩井農場」は、ジンギスカンが美味しい場所ではなく、「サラブレッドの生産拠点」として日本有数の牧場だったのです。

当時は、種牡馬「シンモア」と言う名馬もおり、日本ダービー馬を3年連続輩出したりしていました。

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まあ、正直な事を言うと「金華山号」は、当時の岩手県水沢市にあった「佐野厩舎」で育成された馬ではありますが、生まれは、明治2年、現在の「宮城県大崎市鳴子温泉鬼首(オニ-コウベ)」で生まれたと記録されています。

その後、明治9年に行われた明治天皇の東北巡行の際、天皇自ら気に入ってお買上げになられたとされていますので、今風に言うと、生後3ヶ月を超える期間、水沢で育てられたので産地は「南部馬」になります(笑)。


また、一説では、この「金華山号」には、前編で紹介したアラブ馬「春砂(ペルシャ)号」の「血」が入っているのではないか、と言う噂もあるそうです。

ちなみに、先の「鬼首村」には、この「金華山号」を御祭神として祀っている「主馬(しゅめ)神社」があります。

この神社は、「荒雄川神社(あらおがわじんじゃ)」の境内末社で、明治34年に作成されたケヤキ製、等身大の「金華山号」を祀っています。

このように、長年に渡る「馬」産地特有の文化から、岩手県内では「競馬」も発展して来ました。

現在の盛岡競馬場は、実は「四代目」の盛岡競馬場となり、「平成8年(1996年)」に、三代目の盛岡競馬場から移設された新しい競馬場で、「OROパーク(オーロパーク)」と言う愛称になっています。

「ORO」とは、スペイン語の「金/黄金」を意味しているので、日本語に訳すと「黄金公園」となりますが・・・「何故、黄金なのか ? 」と言う事は、次の章で説明します。

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■岩手における「競馬」の歴史


現在、岩手県内では、「水沢競馬場」と「盛岡競馬場」の2ヶ所において、地方競馬が開催されています。

その昔、「昭和12年(1937年)」までは、「花巻競馬場」もあったのですが、現在は廃止されてしまったいます。

現在、日本の地方競馬は、14の主催者の元、17箇所の競馬場で実施されていますが、この内、1つの県において、2箇所も競馬場があるのは、岩手県(盛岡/水沢)、愛知県(名古屋/中京)、それと兵庫県(園田/姫路)の3ヶ所です。

但し、愛知県の中京競馬場は、2003年以降、競馬を開催していないので、実質的には、岩手県兵庫県のみです。


そして、「水沢」における競馬のルーツは、鎌倉時代となる「建久元年(1190年)」までさかのぼり、水沢に建立された「塩釜神社」の例祭として、「流鏑馬」や「くらべ馬」を行ったのが始まりとされています。

また、「明治4年(1871年)」に、「駒形神社」が金ヶ崎から水沢に遷宮した後、毎年、春と秋に「奉納競馬」を開催していますが、これが「水沢競馬場」の前身とされています。

日本では、日本書紀に、「天武天皇(679年)」、馬の俊足を鑑賞するため、馬の走り比べを行ったと言う記録があるそうです。


その後、宮中行事、あるいは神社への奉納行事として、「くらべ馬」、または「駒競(こまくらべ)」と言う行事が行われて来ました。

この習わしは、現在でも「賀茂競馬(かも-くらべうま)」として存続していますし、また、各地の神社でも「流鏑馬」として受け継がれています。

盛岡市でも、毎年、秋に開催される「盛岡八幡宮例大祭」では、「南部流鏑馬」が奉納されています。


また、このように、少し形式張った「くらべ馬」とは別に、農村でも、農家の人たちが育てた馬を走らせて、優秀さを競い合う生産地競馬も盛んに行われて来ました。

また、農村における「馬」の祭りとしては、何度も弊社ブログに登場する「チャグチャグ馬コ」がありますが、これは、元々は、「蒼前神社」に、「馬」の無病息災を祈願する神事が始まりとされています。

★過去ブログ:盛岡の「チャグチャグ馬コ」について

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そんな中で、日本における最初の西洋式「競馬(けいば)」は、江戸幕府の開港の翌年「万延元年(1860年)」に、横浜の元町で行われたとされています。


その後、「慶応2年(1866年)」に、横浜の根岸に、初めての本格的な競馬場が作られた様です。

そして、岩手県での西洋式「競馬」は、「明治4年(1871年)」、横浜(根岸)、そして東京(上野)に次ぐ、日本において3番目となるレースが「初代・盛岡競馬場」において開催されました。

この「初代・盛岡競馬場」は、1周1,000mのコースで、現在の盛岡市菜園にあったそうですが、現在では、全く、その痕跡さえも残っていません。


その後、この菜園における競馬が盛り上がりを見せたこともあり、「明治35年(1902年)」には、「岩手県産馬組合連合会」が「競馬会」を組織し、翌年となる「明治36年(1903年)」、盛岡市高松に、一周1,000mの円形馬場を建設し、この「二代目・盛岡競馬場」で、第1回の盛岡競馬を行ったそうです。

「二代目・盛岡競馬場」は、現在の盛岡市高松2丁目と4丁目の辺り、北上川付近にあったとされていますが、現在では、そのコースの一部が、道路として残っているに過ぎない様です。

そして、同じ年に、「日本赤十字社岩手支部」の総会が盛岡市で開催されたのですが、この総会に合わせて臨時競馬も行われたそうです。


臨時競馬の当日は、「日本赤十字社」総裁の「閑院宮載仁親王(かんいんのみや-ことひとしんのう)」が競馬を閲覧したのですが、その際に、「金100円」を寄贈されると共に、新しい「盛岡競馬場」に対して、「黄金(こがね)競馬場」という名前を下賜されました。

閑院宮載仁親王」が、何故、「二代目」盛岡競馬場」を「黄金競馬場」と名付けたのかと言うと、ちゃんと理由があります。


明治天皇が、「明治9年(1876年)」に東北御巡幸を行われた際、前述の「金華山号」をご購入されたのですが、それとは別に、岩手県内各地をご覧になっております。

そして、お召し替えの際に立ち寄られた場所に「湧き水」があり、その水を御膳水として差し出したとされています。

それから後、この「湧き水」は、「黄金清水」と呼ばれるようになったのですが、この「黄金清水」は、「二代目・盛岡競馬場」の、割りと近く、3km程、離れた場所にあります。


そして、「閑院宮載仁親王」は、この出来事を、ちゃんと調べていたようで、このために、「二代目・盛岡競馬場」を「黄金競馬場」と名付けたと伝わっています。

それからは、「盛岡競馬場」を、愛称として「黄金競馬場」と呼ぶようになり、この二代目、および三代目とも「黄金競馬場」と呼んでいました。

ちなみに、現在、「黄金清水」の場所は私有地になっている関係もあり、ご覧の画像の通り、全く整備されていないようです。

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そして、この「二代目:盛岡競馬場」ですが、「明治45年(1912年)」には、1周1600mへと拡張され、1日に6〜8レースも行われるなど、東北随一の競馬場として多くの競馬関係者が集うようになっていったそうです。

その後、時代が、大正から昭和に移ると、「新・黄金競馬場構想」が持ち上がったそうです。


その理由の1つは、「黄金競馬場」周辺の耕地整理を進めるためでしたが、もう一つは、「盛岡競馬」を、政府公認競馬場にするための運動があり、そのためには、走路の幅を帝国競馬協会が定める規模にする必要があったからです。

このため、「岩手県産馬組合連合会」は、走路幅拡張のため、周辺用地の買収を開始したそうですが、中々買収が進まなかったので買収を断念し、1.3km程離れた「高松ノ池」近くの「毛無森」に移転する事になりました。

新競馬場での開催を急いでいたので、工事は急ピッチで進められ、「昭和8年(1933年)」の秋には、帝国競馬協会の基準をクリアする1周1600m、幅員16mの新競馬場も完成し、11月には落成記念競馬を開催する運びとなったそうです。

ところが、実際に騎手が乗馬してみると、走路が緩く危険だと言う意見が多く上がってきてしまったそうです。


急ごしらえの走路だった事が影響し、走路が固まっていなかったためだったようで、当日は、開会式だけを開催する事になってしまったそうです。

その後、追加工事が行われ、昭和8年11月10日から地方競馬規則に基づく競馬が開催されたました。

左の画像が、「昭和51年(1976年)」当時の「旧・盛岡競馬場」の空撮映像です。

見て分かる通り、中央赤枠が「新・黄金競馬場」で、左の小さな赤枠が、私が、私が通っていた「盛岡第三高等学校」です。

本当に目と鼻の先の場所に競馬場があったのですが・・・実は、私は、この「旧・盛岡競馬場」には、小学校の頃、友達の両親に連れてこられた、たったの1回しか行った事がありません。

既に高校生の頃は、風営法で規制されている各種遊技場には出入りしていたのですが、何故か、競馬には全く興味が涌きませんでした。

当時の私の級友達は、馬券を買っていた者も何名かいましたが、私は、1回も購入した事はありませんでした。

小学生の時は、友達の両親が「馬主」だったので、1回だけ、いわゆる「VIP席」に行ったのですが・・・何か凄い歓声と熱気に圧倒された事は、今でも覚えています。

当時は、「競馬」自体、訳が解らず、「何で馬が走って、人が騒ぐのか ?」と思っていたのですが・・・10年以上経過した後、社会人になってから、その意味を理解した次第です。

さて、この「新・黄金競馬場」ですが、この競馬場の特徴は、何といっても、「中山競馬場」よりもきつい勾配で、「心臓破りの坂」と呼ばれた最後の直線コースなのだそうです。

第三コーナー前に設けられた巨大な坂は、「高低差8.8m」と、日本の競馬場では最大だったそうですが、とにかく全体的に勾配のきつい坂のコースであり、全国屈指のタフなコースだった様です。

これは、元々、この「新・黄金競馬場」が、軍馬育成を目的として設計されたコースであり、戦後、少し改修は行ったそうですが、その跡が残ったそうですが・・・最後の直線前に、9m近くの高低差があるのは、馬にとっても、馬券を買った人にとっても、キツかったと思われます。

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さて、昭和8年に完成した「新・黄金競馬場」ですが、「昭和12年(1937年)」、日中戦争が起きて戦争が激しくなり、その後、「昭和14年(1939年)」に馬政局の奨励金は廃止され、岩手県産馬組合連合会主催の競馬も中止となりました。

しかし、戦後となる「昭和21年(1946年)」、地方競馬法が公布され、翌22年には、岩手県馬匹組合連合会主催で公認競馬が再開されました。

さらに、翌23年には新競馬法が制定され、岩手県が県営競馬として、優良馬の改良増殖を目途に、水沢・盛岡両競馬場で競馬会を再開しました。

そして、このまま盛岡の競馬は、「新・黄金競馬場」され続けるのかと思われたのですが、実は、この「新・黄金競馬場」には、様々な問題があった様です。

と言うのも、先程の空撮画像を見ての通り、競馬場の周辺には、学校や住宅地だらけのため競馬場には相応しくないと言う意見が出始め、さらに競馬開催日には、周辺の道路が渋滞するという苦情も出始めました。

確かに、私も、通常は、原チャリか自転車で通学していたのですが、たまにバスを使うと、道路は渋滞していましたし、バスの乗客も、ガラの悪いオッサン連中だらけだった覚えがあります。

そして、さらに致命的だったのは、走路の幅が相変わらず狭く、フルゲートでも「8頭立て」だったため、多頭数の競走を編成できないので、東北地区交流レースや北日本地区交流レース等、重要なレースは水沢競馬場で開催すると言う、変な現象も起きていました。

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そこで、これらの問題を一気に解決すべく、「平成8年(1966年)」、盛岡市新庄、通称「川目」と呼ばれている場所に移設しました。

これが、四代目となる「盛岡競馬場」で、前述の通り「OROパーク(オーロパーク)」と言う愛称で呼ばれています。

総敷地面積128ha(ヘクタール)、よく比較対象として使われる東京ドームなら27個分の広さがあり、現在、日本一の広さを誇る競馬場です。

また、地方競馬場では、唯一「芝コース」が併設された競馬場で、ダートコースの内側に芝コースがある珍しい設計です。


さらに、こちらの競馬場のダートコースも、「旧・盛岡競馬場」からの精神を引き継ぎ、相変わらず4.4mもの高低差がある設計となっており、現在は、千葉県船橋市にある「中山競馬場」と並ぶ最大級の高低差となっているそうです。

この場所は、本当に山の中、盛岡駅から15kmも離れた場所にあります。

3km程離れた近くには、「盛岡市動物公園」や「岩山パークランド」、盛岡市を一望できる「岩山展望台」など、とにかく、周りは自然一杯で、「熊注意」の看板もあるような場所です。

中央競馬に匹敵するほど、豪華な競馬場となる「盛岡競馬場」ですが、これもひとえに、競馬人気が高く、経営が安定していたからこそ実現できた物となります。

岩手競馬は、明治、大正、昭和と、かつては「地方競馬の優等生」と呼ばれる存在でしたが、現在では、他の地方競馬と同様、競馬人気が低迷し、膨大な建設費債務や減価償却岩手競馬の経営を圧迫することとなっています。

「旧・盛岡競馬場」の跡地整備も中々進まない中、今後、どのような経営を行って行くのかが心配です。

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■現在の「南部馬」と「在来馬」の紹介


ここまで、主に、岩手/盛岡における「馬」、および「競馬」の歴史を紹介して来ました。

それでは、何故、「南部馬」の人気が高かったのでしょうか ?

「南部馬」が、他の地域の「馬」よりも大型だったために、武家の間では「軍馬」として人気が出た事は、既にお伝えした通りです。

しかし、武家の間で人気となる以前、奈良時代平安時代の貴族の間では、その見映えの良さと美しさから「あこがれの的」となっていた様です。

平安時代中期に編纂された「後選和歌集」においては、「南部馬」に対して、次のような詩が詠まれています。


【 後選和歌集 】

『 綱たえてはなれ果てにしみちのくの尾駮の駒をきのう見しかな 』
→ 長年あこがれてきた「尾駮の馬」。長い旅をしてようやく陸奥までやって来て、ついに昨日、引き綱を解かれて野に放たれる光景を実際に見ることができた。


『 みちのくの尾駮の駒も野かうには荒れこそまされなつくものかな 』
→ 体の大きな「尾駮の駒」だから、馬小屋で人に飼われているのならまだしも、野飼いされているものはさぞかし荒々しいだろうと想像していた。だが実際にはとても人懐っこいものだった。



上記の詩では、盛んに「尾駮(おぶち)の馬」と言う言葉が出てきますが、現在では、この「尾駮の馬」が「南部馬」を意味していると考えられています。

それでは、「尾駮の馬」が、どのような「馬」なのかと言うと・・・これは想像になってしまうのですが、その名称の通り、尾が「ぶち/まだら」の馬、つまり「まだら模様の尻尾を持った馬」となります。

左の画像の「馬」は、青森県六ケ所村尾駮で飼育されていた「馬」ですが、このような「馬」を、「尾駮の馬/駒」と呼んだと考えられています。

それと、ちょっと話は逸れますが、平安時代、「尾駮の馬」を飼育していた牧場を、「尾駮の牧」と呼んでいたそうですが、この「尾駮の牧」が、一体、何処にあったのかが、ちょっとした論争になっているようです。

現在、「尾駮の牧」候補として名乗っているのは、上記、「青森県六ケ所村尾駮」の他、次の地域があります。

青森県六ケ所村尾駮
宮城県石巻市牧浜(まぎのはま)


一般的な通説としては、「青森県六ケ所村尾駮」にあった牧場が「尾駮の牧」とされていますが、江戸時代の俳人松尾芭蕉」と、その弟子「曽良」は、石巻に関して、次のように述べています。


芭蕉『 明くれば又しらぬ道まよひ行。袖の渡り・尾ぶちの牧・まのゝ萱はらなどよそめにみて 』
曽良『 尾駮御牧 石ノ巻ノ向、牧山ト云山有。ソノ下也 』


まあ、「六ケ所村」は、その昔の「糠部郡」に含まれていますので、やはり「六ケ所村」説が正しいのだと思います。

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さて、前編で、「南部馬」は、九州/関西系の馬より、少し大型の馬であることは紹介しました。

確かに、体高が高い「馬」は、戦場における「1対1」の騎馬戦においては、相手よりも、かなり優位だったと思われます。

戦いでは、当然、武術も大事ですが、それより何より「馬」の優位性が、戦いを左右したと思われます。

そして、「軍馬」として用いる場合、「馬」を去勢しなければ、気性が荒く、乗りこなす事は出来なかったのですが、「南部馬」は、去勢しなくても大人しく、そのまま「軍馬」として用いる事が出来た事も、人気の秘密だったと思われます。

現在の「競争馬」でも、その多くの「牡馬」は、去勢されて「騙馬(せんば)」となっていますから、去勢せずに、そのまま乗りこなせる「馬」は価値が高いと思います。

さらに、「南部馬」は、現在の馬のように、足の着地面が、蹄(ひづめ)だけでなく、踵(かかと)まで着地するので接地面積が広く、踏ん張りが効くので、とても馬力が出たそうです。

そのため、「軍馬」はもちろん、農耕馬としても人気が高かったそうです。

このように、大型で、見映えが美しく、馬力もあるにも関わらず大人しい「南部馬」、人気が出るのは、当然と言えば当然だと思います。

それでは、現在、「南部馬」は、どうなっているのかと言うと・・・残念ながら純血種は、既にこの世から消えてしまったようです。何たる失態 !!

本章の最初に掲載した画像の「盛号」が、最後の「南部馬」と伝わっています。

その理由というのも、明治に入り、大量の、そして優秀な「軍馬」が必要になった明治政府は、盛んに、「南部馬」と外国産馬との交配を進めたのですが、その結果、「南部馬」の純血種の保護を禁止してしまった事が、種が絶滅した原因とされています。

つまり、「南部馬」が優秀であるが故、明治政府に目を付けられてしまった結果、「南部馬」の純血種を絶滅させてしまったと言う、何とも皮肉な結果です。

『 隠れて、密かに、純血種を守れなかったか ? 』と、当然、考えると思いますが、明治政府の管理が凄く厳しく、とても、隠れて純血種を飼育するなど無理な事だったようです。

実際には、「南部馬」以外の多くの在来馬、次のような、いわゆる「日本固有馬」も、明治政府の意向により、絶滅させられています。

→ 南部馬、三春駒、三河馬、能登馬、土佐馬、日向馬、薩摩馬、甲斐駒、ウシウマ


明治政府は、前述の通り、余りにも、大型軍用馬の増産に固執し過ぎてしまい、次のような無知な法令を連発し、その結果、これら在来馬を絶滅に追いやってしまっています。


・「明治34年(1901年)」馬匹去勢法
種牡馬、および将来の種牡馬候補以外の牡馬は、全て去勢する事を定めた法令
・「昭和14年(1939年)」種馬統制法
→ 「馬匹去勢法」を強化し、小型馬同士の繁殖を禁止し、全て外国産馬と交配させると定めた法令


どうして軍人は、今も昔も、バカばかりなのでしょうか ?

岩手/盛岡は、明治政府に気に入られようとし過ぎて、大切な「南部馬」を失ってしまった様です。

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そんな中でも、「南部馬」の血統を受け継ぐ「馬」が、僅かながら存在します。それが「寒立馬(かんだちめ)」と「道産子(どさんこ)」です。


「寒立馬」とは、下北半島の田名部にいる「田名部馬」の通称です。

しかし、この「寒立馬」、確かに「南部馬」の血統を継いではいるのですが、残念ながら、純粋な「南部馬」の系統ではなく、「南部馬」とフランスのブルターニュ地方産の「ブルトン」品種とを交配させた結果大型化した半血馬です。

現在でも、その昔の「糠部郡」にいる「馬」なのですが・・・残念です。


そして、もう一方の「道産子」、これは、ラーメンチェーン店ではありません。

江戸時代に、夏の間使役するために、本土から連れてきた「南部馬」が、冬期間北海道に放置され、気候風土に適応するようになったものが「北海道和種」、いわゆる「道産子」と言われています。

しかし、一説には、「道産子」は、「南部馬」とアイヌの固有馬の混血種ではないかとの説もあります。

また、これも一説ですが、アイヌ語では、「馬」も「ウマ」と表現する日本語起源となっているので、北海道には、元々「馬」は存在せず、本土から連れて来られた「南部馬」しか存在しない、という説もありますので、まだ確定していないのかもしれません。

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さて、それでは、現在の日本において、どの位の「在来馬」が存続しているのかと言うと、先の明治政府のアホな政策のため、多くの「在来馬」が絶滅してしまったので、現在は、下記8種類しか存在しないようです。

全く、国がアホだと、「馬」も「日本民族」も、全てが、「国体の維持」とか何とか、とんでも無い事を言い出して絶滅してしまいそうです。

「日本国民」が存在してこその「天皇」であるにも関わらず、国民は玉砕して構わないから「天皇」だけは守れとは・・・何を考えているのやら。


【 在来馬一覧 】

馬種 生息地 頭数(H28) その他
北海道和種(道産子) 北海道 1,106
木曽馬 長野県木曽/岐阜県飛騨 150 長野県天然記念物
御崎馬(みさき-うま) 宮崎県串間市都井岬 102 国指定天然記念物
対州馬(たいしゅうば) 長崎県対馬市 39
野間馬(のまうま) 愛媛県今治市野間 53 今治市天然記念物
カラ馬 鹿児島県トカラ列島 123 鹿児島県天然記念物
宮古 沖縄県宮古島 46 沖縄県天然記念物
与那国馬 沖縄県与那国島 130 与那国町天然記念物



どの「在来馬」も、危険レベルだと思いますが、「対州馬」以外は、少しずつですが頭数を増やしているようです。

対州馬」は、昭和40年に観測を始めた時には「1,000頭」以上存在したのが、現在39頭です。

50年間で1/100程度まで減少していますので、人工授精のために卵子/精子、あるいは遺伝子の保存等、早急に対応を取らないと、「対州馬」も絶滅してしまうかもしれません。

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■「馬検場」の歴史


さて、すっかり脇に追いやられてしまいましたが、今回のブログを書くきっかけとなった「馬検場」の歴史を振り返って見ます。

その昔、安土桃山時代後期となる「慶安4年(1651年)」頃になると、盛岡城の城下町に、町人が住む「盛岡二十三町」が出来上がったとされおり、その中の一つに「馬町」があったとされています。

しかし、別の情報によると、この「馬町」付近で、最初に「馬市」が開催された事から「馬町」と言う名称になったとされています。(※いわての文化情報大辞典)

何れにしろ、現在の盛岡市清水町付近が「馬町」と呼ばれ、この近くで「馬市」が開催されたのは、間違いがないようです。


岩手県立博物館の調査報告によると、この「馬町」において、最初に「馬市」が開催されたのは、江戸時代初期となる「万治2年(1659年)」とされています。

このため、現在の清水町付近には、「馬頭観音菩薩」を祀る神社が多く建てられたとされており、現在では、「亀慶山城南寺峯壽院(ほうじゅいん)」と言う神社が残っています。

この「峯壽院」、元は、天台宗寺門派近江国にあった「園城寺」の末寺だったそうですが、その後、御家人「千葉常胤(つねたね)」の家臣「新渡戸神酒之進(にとべ-みきのしん)」が、現在の千葉県から花巻市に移り住み、得度して「法明坊」と名乗り、「馬頭観音菩薩」を祀った事が始まりとされています。

その後、「慶長3年(1598年)」、初代盛岡藩主「南部利直」の知己を得、「峯壽法印」の称を与えられて、牛馬繁殖守護の祈願所となったそうです。

さらに、「寛文3年(1663年)」、現在の場所に移転し、寺号を「峯壽院」に改称したとされています。

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さて、「馬町」ですが、江戸時代末に「馬口労町(馬喰町)」と改称されたと言う説と、そのまま「馬町」であり続けたと言う説があるようですが、とにかく、江戸時代を通じて、盛岡に於いては、この場所で「馬市」が開催されました。

江戸時代には、藩内の馬市は、盛岡、郡山(現:紫波町)、そして花巻の3ヶ所に限って行われており、「馬市」が開催された場所の側には、「馬検場」も設置されていた様です。


また、「宝永7年(1710年)」には、藩命により駄馬の売買は、この「馬町」でのみで行われる事となり、「馬市」は、歳市として、毎年12月の9日、19日、および29日の3回開催されていた様です。

その後、「明治37年(1904年)には、「馬町」に、新たな「馬検場」が作られ、後述する通り「明治45年(1912年)」まで、この地で「馬市」が開催され続けられました。


その後は、次の様な経緯を辿り、馬検場は、現在の松尾町(旧・新馬町)に移転する事になったそうです。


・「明治3年(1870年)」 :民部省養馬懸出張所が設置される
・「明治14年(1881年)」 :岩手県産馬事務所が創立される
・「明治23年(1890年)」 :改組して「盛岡産馬畜産組合」が誕生する
・「明治45年(1912年)」 :新馬町(現:松尾町)に移転


松尾町の「馬検場」は、木造平屋建て185㎡で、事務所などとして使われていた洋風の附属施設は、木造2階建てで308㎡あるそうです

馬の競りが最後に行われたのは、「平成7年(1995年)」で、その後は、付属施設の2階部分を、美術家「百瀬 寿」氏や、建築家で写真家でもある「伊山治男」氏がアトリエとして使っていた時期もあったそうです。

しかし、近年は、老朽化が激しく空き家状態になったのですが、土地貸借の問題も持ち上がり、建物を管理する「盛岡畜産農業協同組合」が解体を決定した様です。

「歴史建造物」としての保存も検討したようですが、何故か保存は困難と言う結論になってしまったようで、建物や周辺の情報を、記録としてのみ残す事になってしまった様です。


う〜ん、これだけ「お馬様」の世話になってきたのですから、だだっ広い、盛岡競馬場の敷地の一部に移築する等の対応が取れなかったのか、不思議で仕方ありません。

唯一、「馬検場」と書かれた大きな額縁だけは、盛岡市が保存/管理する事が決まった様です。

この大きな額縁ですが、実は、盛岡出身の「新渡戸 仙岳(1858〜1949年)」と言う人物が揮毫(きごう)した額で、盛岡市にとっては、結構、貴重な代物となっています。


とは言え、皆さんは、誰もご存じないと思いますが、この「新渡戸 仙岳」と言う人物は、次のような学校の教師や校長を歴任しています。

また、退職後は、岩手日報主筆岩手県史編纂委員長、南部藩史編纂委員、および史跡名勝天然記念物調査委員などを歴任した、地元では有名な郷土歴史家です。

気仙郡立高等小学校校長
・盛岡高等小学校校長
・盛岡高等女学校校長


盛岡高等小学校時代の教え子には、米内光政、金田一京助、および石川啄木らが居たそうです。「米内光政」や「金田一京助」をご存じない方は、下記の過去ブログをご覧下さい。

【 過去ブログ 】
岩手の先達 〜 地味な岩手にも有名人 Vol.1
岩手の先達 〜 地味な岩手にも有名人 Vol.2

また、先に紹介した「峯壽院」の開祖「新渡戸 神酒之進」は、この「仙岳」のご先祖様に当たり、「仙岳」自身も「峯壽院」の住職の長男として生まれています。


このため、「峯壽院」が、「明治17年(1884年)」に、盛岡市で発生した「河南大火」で消失してしまったそうですが、「大正12年(1923年)」、この「仙岳」の発願により再建が叶ったそうです。

ちなみに、「新渡戸」と聞くと、五千円札のモデルとなった「新渡戸 稲造(1862〜1933年)」を思い浮かべる方も多いと思います。

『 我、太平洋の架け橋とならん by 新渡戸 稲造 』


新渡戸稲造」に関しても、上記過去ブログの「岩手の偉人」シリーズで紹介していますが、この二人、ほぼ同じ頃(4歳違い)に盛岡市に生まれています。

このため、一部の誤った情報では、この二人は兄弟であるかの様な記述が見られますが、全く関係ありません。前述の通り、「仙岳」は住職の長男ですし、「稲造」は盛岡藩士の息子です。

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さて、「明治45年/大正元年(1912年)」、松尾町に移転した「馬検場」ですが、106年目となる平成30年(2018年)2月には取り壊され、歴史から綺麗サッパリと忘れ去られてしまう道をたどる事になってしまった様です。

私は、現在は東京で暮らしていますが、昔懐かしい、盛岡が、どんどん消えて行ってしまうのは、やはり悲しいものがあります。

近年では、盛岡市中ノ橋通にあった「盛岡バスセンター」も、建物の老朽化に伴い、取り壊しとなってしまっています。


この「盛岡バスセンター」は、「昭和35年(1960年)」から「平成28年(2016年)」まで、使用されていた、盛岡最大のバスターミナルで、自動車ターミナル法が適用された第1号施設でした。

私は、バスは余り使わなかったのですが、中学生から高校生時代、このバスセンター内にある理容室に通っていたので、やはり施設がなくなるのは寂しさを感じます。

「馬検場」跡地は、土地の持ち主に返されるだけで、その後は、特に何かの施設になる訳では無いようですし、上記「バスセンター」跡地に関しても、当初は、バスセンター再建案もあったようですが、資材高騰の煽りを受け、現在、跡地利用は白紙状況なのだそうです。

きっと、盛岡も、東京と同様、建物の跡地は、駐車場か整体院になってしまうのだと思います。

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今回も、前回に引き続き、「岩手/盛岡と馬の関係」と題して、次のような内容を紹介しましたが、如何でしたか ?

●近代における「馬」との関係
●岩手における「競馬」の歴史
●現在の「南部馬」と「在来馬」の紹
●馬検場の歴史

今回の「岩手/盛岡の馬」シリーズでは、前編で、古墳時代から江戸時代までの「南部馬」を紹介し、後編では、明治以降、現在に至るまでの「南部馬」の歴史と、盛岡競馬場の歴史を紹介しました。

今回のブログでも紹介しましたが、岩手県の競馬は、全国の地方競馬においては、トップクラスの人気を誇り、一時期は、中央競馬と肩を並べる程でした。

特に1990年代の勢いは凄く、全国的な「競馬ブーム」もあり、まさに絶頂期を迎え、1996年には、総工費410億円も掛けて、「OROパーク」への移転を果たしました。


今から、20年位前、今では亡くなってしまいましたが、実は、私の姉が「岩手競馬組合」に勤務しており、かなり「羽振りが良い」と言う事を聞いた覚えがあります。

当時は、現在の「盛岡保健所」のビルがある場所、今回ご紹介した「盛岡バスセンター」の隣の「神明町」に、「競馬会館」と言う自社ビルを建設したりして、本当に「イケイケ、ドンドン」の状況でした。

私も、朝、姉を「競馬会館」まで、車で送った覚えがありますし、姉も、水沢で競馬が開催される時には、毎週、水沢まで出張していました。


ところが、お決まりのように「ブーム」が去ると、その後は「悲惨」の一言です。

現在では、自社ビルも、どうにか盛岡市に買い取ってもらって赤字を補填していますが、「旧・盛岡競馬場」も、未だに売却できず、毎年、赤字を垂れ流す状況です。


ところで、前編のトップに掲載した馬の銅像「春風」ですが、当初は、上記画像を拡大すると解ると思いますが、競馬会館の下、入り口部分に設置されていました。


それが、「競馬会館」の売却に伴い、2007年、「春風」は、「馬検場」の入り口に移転したのですが、今回、「馬検場」が解体された後、その所在が解らなくなってしまった様です。

「競馬組合」と言い、「馬の銅像」と言い、何か、全てが混乱している様です。

岩手県は、今回のシリーズで紹介した様に、本当に古くから「馬」と関わりが深い地域ですので、今後も、目先のブームに乗らず、着実に「馬」と良好な関係を築いて欲しいと思いました。


それでは次回も宜しくお願いします。

以上


【画像・情報提供先】
Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)
・愛LOVEもりおか★徒然日記(https://blogs.yahoo.co.jp/kfuji_taxi)
・馬と人(http://umatohito.com/)
・滝沢村誌(http://www.city.takizawa.iwate.jp/contents/sonshi/web/index.html)
・青森の魅力(https://aomori-miryoku.com/)
江差ルネッサンス(http://www.esashi.com/)
・縄文と古代文明を探求しよう(http://web.joumon.jp.net/blog/)
・えさし郷土文化館(http://www.esashi-iwate.gr.jp/bunka/index.html)
山梨県ホームページ(http://www.pref.yamanashi.jp/index.html)
・新・いわて競馬今昔物語(http://konjyaku.blog121.fc2.com/)
・公益財団法人 日本馬事協会(https://www.bajikyo.or.jp/)
・いわての文化情報大辞典(http://www.bunka.pref.iwate.jp/rekishi/rekisi/)

【株式会社 エム・システム】
本      社  :〒124-0023 東京都葛飾東新小岩8-5-5 5F
           TEL : 03-5671-2360 / FAX : 03-5671-2361
盛岡事業所  :〒020-0022 岩手県盛岡市大通3-2-8 3F
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岩手/盛岡と「馬」の関係 〜 本当に「お馬様様」です! - 後編


今回の「盛岡/岩手情報」も、前回に引き続き、「岩手/盛岡と馬の関係」の後編をお届けします。

前回は、「前編」として、古墳時代から江戸時代に至るまでの、岩手県を含む北東北の人々と「馬」の関係を紹介しました。

★過去ブログ:岩手/盛岡と「馬」の関係 - 前編(20180324.html)

前編の最後で、岩手県を含む北東北で、何故、このように「馬事文化」が育まれ、かつ現在にまで継承されたのを、私なりに考察して見ました。

その結果、「馬」の重要性を理解している、ごく少数の民族/氏族が、長きに渡り、同一地域を支配し続けた事が原因ではないか、と思うに至りました。

前編の繰り返しになりますが、北東北は、約1,200年もの間、次のような4つの民族/氏族によってのみ支配されて来ました。

古墳時代〜平安中期 :蝦夷 約300年間
・平安中期〜平安後期 :安倍氏 約100年間
・平安末期〜鎌倉時代藤原氏 約100年間
鎌倉時代〜明治時代 :南部氏 約700年間

そして、これら全ての民族/氏族は、どれも「馬」の価値を認め、非常に大切に扱ってきた事により、「馬事文化」が現在までも継承されて来たと、私は考えています。

そして、今回は、明治時代以降、現在に至るまでの「馬事文化」や、その他、「馬」に関わる、次の様な情報を紹介します。

●近代における「馬」との関係
●岩手における「競馬」の歴史
●現在の「南部馬」と「在来馬」の紹介
●馬検場の歴史

それでは今回も宜しくお願いします。

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■近代における「馬」との関係

さて、幕末から戊辰戦争を経て、鎌倉時代より、700年間以上も南部氏が治めてきた、盛岡藩八戸藩、および七戸藩の領地は、伊達藩の領地だった水沢や一ノ関を合わせて出来た「盛岡県」を経て、「明治5年(1872年)」に「岩手県」となりました。

鎌倉時代から、一つの地域を、同一の氏族が治める事ができたのは、私の知り限り、大名レベルでは、次の五つの氏族だけではないかと思われます。

・南部氏(南部藩) :現:岩手県地域 → 現在、第46代当主「南部利文」氏 盛岡市在住
・相馬氏(中村藩) :現:福島県相馬市付近 → 現在、第34代当主「相馬行胤」氏 広島県在住
・島津氏(薩摩藩) :現:鹿児島県地域 → 現在、第32代当主「島津修久」氏 鹿児島市在住
・相良氏(人吉藩) :現:熊本県南部地域 → 現在、第38代当主「相良頼知」氏 不明
・宗氏(対馬藩) :現:長崎県対馬市 → 現在、第38代当主「宗 立人」氏 不明

これら五つの氏族は、同一地域を、単一氏族が数百年も支配すると言う、世界的に見ても稀有な一族ですが、何れも、中央から遠く離れた地域だった事が幸いしたと考えられています。

「相良氏」と「宗氏」の現在の当主の所在は不明ですが、それ以外は、代々の領地で暮らし続けているようです。

まあ、「南部氏」の前当主は、靖国神社宮司を務めていた関係で東京に住んでいましたし、「相馬氏」は、「9.11 東日本大震災」による福島原発の影響で、旧領地が立入禁止区域になってしまった事もあり、広島県に移住してしまった様です。

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さて「南部馬」ですが、このような経緯もあり、ずっ〜と、南部氏の領地で育てられ続けて来ました。

「南部馬」が、何故、これ程の人気「馬」になったのか、とか、現在、どうなっているのかに関しては、別の章で紹介したいと思います。


そして、時代が「明治」になると、「西南戦争」以降は、国内での「戦」は無くなりましたが、今度は、国外での戦争目的で、軍馬の育成や、騎兵の育成に主眼が置かれる事になって行きます。

岩手・盛岡は、幕末の戊辰戦争で幕府側に付いた事もあり、明治新政府においては、立場が悪かった事もあり、明治時代中頃から、幕末の汚名を晴らすために、積極的に部隊誘致に動いた様です。

その結果、日露戦争終了後、「明治41年(1908年)」に、青森県に駐屯していた「工兵第八大隊」が、広い演習場を求めて、現在の「盛岡市みたけ」に、移駐して来ました。

そして、部隊の移駐から3ヶ月後、当時の皇太子殿下(後の大正天皇)を招待して開催された「特別工兵演習」において、殿下が、演習会場となった広大な草原を「観武ヶ原(みたけがはら)」と命名したと伝わっています。

上図の石碑は「観武原の碑 」と呼ばれる記念碑で、殿下が「観武ヶ原」と命名した経緯が刻まれているそうです。


このような経緯があり、現在、この地が「みたけ町」となったとされていますが・・・私も、「観武ヶ原」が「みたけ」になったと言うのは、初めて知りました。

この「盛岡市みたけ町」は、盛岡市の北側、盛岡駅から6km、近くの、岩手銀河鉄道厨川駅」からは2km程の場所にあります。

そして、さらに、その翌年となる「明治42年(1909年)」には、「騎兵第三旅団(2,000名)」が、「みたけ町」の隣の「青山町」に新設されます。


この「騎兵第三旅団」は、「昭和10年(1935年)」に、満州に派遣されたのですが、その跡地には、「昭和14年(1939年)」、当初、仙台市にあった「陸軍予備士官学校」が移転して来ます。

このように、盛岡市の北側は、明治後半から昭和初期に掛けては、一大軍事拠点となって行きます。

その過程で、この「青山町」付近には、「覆馬場(おおいばば)」が6棟も建設されました。


「覆馬場」とは、雨天や降雪時に、野外での馬場が使えない時に、屋内で乗馬訓練が行える施設です。

建物は、間口約24m/奥行き約49mの総レンガ作りの立派で頑丈な構造になっています。

そして、終戦後は、海外から大量の引揚者が帰国して来たので、引揚者の一時的な居住場所として、青山地区に残っていた兵舎や「覆馬場」を改修し引揚者寮として使用していました。


その後、青山町にも、公営住宅や一般住宅等が建設され、公共施設の整備も進み、盛岡市ベッドタウンとして町が形成されて行きます。

その結果、引揚者寮も徐々に解体/撤去され、戦後の面影が殆どなくなり、残った「覆馬場」も、民間企業の工場や倉庫として利用される事になります。

しかし、「覆馬場」を利用して来た企業も、ここ10年で全て撤退し、青山m町に6棟もあった「覆馬場」も、1棟を残し全て解体されてしまいました。

そして、廃屋同様で残った1棟に関しては、青山町の有志が盛岡市に働きかけ、町の「歴史的遺産」として保存する事が決定し、「平成24年(2012年)」、残った1棟の「覆馬場」を、明治42年の建設当時の姿で復元し、多目的交流施設「盛岡ふれあい覆馬場プラザ」として開館しました。

復元されたとは言え、今では、中で馬を走らせることは無いようで、スポーツ、展示会、あるいはイベント会場等として利用している様です。

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ところで、明治以降、昭和、特に太平洋戦争に至る前までは、引き続き「南部馬」は人気の的で、次のような「名馬」を産出したと言われています。


金華山号 】

明治天皇の御料馬。天皇最愛の馬とも言われています。明治天皇の指示で剥製にされ、現在は「聖徳記念絵画館」において展示保管されています。

明治22年(1889年)」、埼玉県で近衛師団の演習が行われた際、大砲の音に驚き、多くの馬が騎兵を振り落として逃げたにも関わらず、この「金華山号」だけは落ち着き払っていたと言われ、天皇の従者が「馬ながらあっぱれものだ」と涙を流して感激したと伝わっています。

明治天皇も、「私が近づくと敬礼をするような仕草をする。」と言って寵愛したとも言われています。(実際には、前膝をひざまずいて低い姿勢になったそうです。)

【 勝山号

太平洋戦争に駆り出された「軍馬」ですが、三度も重症を負いながらも、その都度、戦線に復帰した強者です。

中国大陸に連れて行かれた「軍馬」の内、本土に帰還できた、ほんの少数の馬の1頭で、「昭和14年(1939年)」に、第1号「軍馬甲功章」を授けられています。

その後、終戦まで軍馬として過ごした後、敗戦後の「昭和20年(1945年)」、飼い主に無事に返され、その後は、農耕馬として余生を過ごすも、戦時中に受けた傷が元で、「昭和22年(1947年)」に、14歳で死んでしまったそうです。

セントライト

これは、当然「南部馬」ではありません。「サラブレッド」ですが・・・日本競馬史上、初のクラシック三冠馬となった名馬です。

「何の関係があるの ?」と言うことですが、この「セントライト」は、今では面影もありませんが、現在の雫石町にある「小岩井農場」で誕生、そして生育された「馬」です。

当時の「小岩井農場」は、ジンギスカンが美味しい場所ではなく、「サラブレッドの生産拠点」として日本有数の牧場だったのです。

当時は、種牡馬「シンモア」と言う名馬もおり、日本ダービー馬を3年連続輩出したりしていました。

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まあ、正直な事を言うと「金華山号」は、当時の岩手県水沢市にあった「佐野厩舎」で育成された馬ではありますが、生まれは、明治2年、現在の「宮城県大崎市鳴子温泉鬼首(オニ-コウベ)」で生まれたと記録されています。

その後、明治9年に行われた明治天皇の東北巡行の際、天皇自ら気に入ってお買上げになられたとされていますので、今風に言うと、生後3ヶ月を超える期間、水沢で育てられたので産地は「南部馬」になります(笑)。


また、一説では、この「金華山号」には、前編で紹介したアラブ馬「春砂(ペルシャ)号」の「血」が入っているのではないか、と言う噂もあるそうです。

ちなみに、先の「鬼首村」には、この「金華山号」を御祭神として祀っている「主馬(しゅめ)神社」があります。

この神社は、「荒雄川神社(あらおがわじんじゃ)」の境内末社で、明治34年に作成されたケヤキ製、等身大の「金華山号」を祀っています。

このように、長年に渡る「馬」産地特有の文化から、岩手県内では「競馬」も発展して来ました。

現在の盛岡競馬場は、実は「四代目」の盛岡競馬場となり、「平成8年(1996年)」に、三代目の盛岡競馬場から移設された新しい競馬場で、「OROパーク(オーロパーク)」と言う愛称になっています。

「ORO」とは、スペイン語の「金/黄金」を意味しているので、日本語に訳すと「黄金公園」となりますが・・・「何故、黄金なのか ? 」と言う事は、次の章で説明します。

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■岩手における「競馬」の歴史


現在、岩手県内では、「水沢競馬場」と「盛岡競馬場」の2ヶ所において、地方競馬が開催されています。

その昔、「昭和12年(1937年)」までは、「花巻競馬場」もあったのですが、現在は廃止されてしまったいます。

現在、日本の地方競馬は、14の主催者の元、17箇所の競馬場で実施されていますが、この内、1つの県において、2箇所も競馬場があるのは、岩手県(盛岡/水沢)、愛知県(名古屋/中京)、それと兵庫県(園田/姫路)の3ヶ所です。

但し、愛知県の中京競馬場は、2003年以降、競馬を開催していないので、実質的には、岩手県兵庫県のみです。


そして、「水沢」における競馬のルーツは、鎌倉時代となる「建久元年(1190年)」までさかのぼり、水沢に建立された「塩釜神社」の例祭として、「流鏑馬」や「くらべ馬」を行ったのが始まりとされています。

また、「明治4年(1871年)」に、「駒形神社」が金ヶ崎から水沢に遷宮した後、毎年、春と秋に「奉納競馬」を開催していますが、これが「水沢競馬場」の前身とされています。

日本では、日本書紀に、「天武天皇(679年)」、馬の俊足を鑑賞するため、馬の走り比べを行ったと言う記録があるそうです。


その後、宮中行事、あるいは神社への奉納行事として、「くらべ馬」、または「駒競(こまくらべ)」と言う行事が行われて来ました。

この習わしは、現在でも「賀茂競馬(かも-くらべうま)」として存続していますし、また、各地の神社でも「流鏑馬」として受け継がれています。

盛岡市でも、毎年、秋に開催される「盛岡八幡宮例大祭」では、「南部流鏑馬」が奉納されています。


また、このように、少し形式張った「くらべ馬」とは別に、農村でも、農家の人たちが育てた馬を走らせて、優秀さを競い合う生産地競馬も盛んに行われて来ました。

また、農村における「馬」の祭りとしては、何度も弊社ブログに登場する「チャグチャグ馬コ」がありますが、これは、元々は、「蒼前神社」に、「馬」の無病息災を祈願する神事が始まりとされています。

★過去ブログ:盛岡の「チャグチャグ馬コ」について

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そんな中で、日本における最初の西洋式「競馬(けいば)」は、江戸幕府の開港の翌年「万延元年(1860年)」に、横浜の元町で行われたとされています。


その後、「慶応2年(1866年)」に、横浜の根岸に、初めての本格的な競馬場が作られた様です。

そして、岩手県での西洋式「競馬」は、「明治4年(1871年)」、横浜(根岸)、そして東京(上野)に次ぐ、日本において3番目となるレースが「初代・盛岡競馬場」において開催されました。

この「初代・盛岡競馬場」は、1周1,000mのコースで、現在の盛岡市菜園にあったそうですが、現在では、全く、その痕跡さえも残っていません。


その後、この菜園における競馬が盛り上がりを見せたこともあり、「明治35年(1902年)」には、「岩手県産馬組合連合会」が「競馬会」を組織し、翌年となる「明治36年(1903年)」、盛岡市高松に、一周1,000mの円形馬場を建設し、この「二代目・盛岡競馬場」で、第1回の盛岡競馬を行ったそうです。

「二代目・盛岡競馬場」は、現在の盛岡市高松2丁目と4丁目の辺り、北上川付近にあったとされていますが、現在では、そのコースの一部が、道路として残っているに過ぎない様です。

そして、同じ年に、「日本赤十字社岩手支部」の総会が盛岡市で開催されたのですが、この総会に合わせて臨時競馬も行われたそうです。


臨時競馬の当日は、「日本赤十字社」総裁の「閑院宮載仁親王(かんいんのみや-ことひとしんのう)」が競馬を閲覧したのですが、その際に、「金100円」を寄贈されると共に、新しい「盛岡競馬場」に対して、「黄金(こがね)競馬場」という名前を下賜されました。

閑院宮載仁親王」が、何故、「二代目」盛岡競馬場」を「黄金競馬場」と名付けたのかと言うと、ちゃんと理由があります。


明治天皇が、「明治9年(1876年)」に東北御巡幸を行われた際、前述の「金華山号」をご購入されたのですが、それとは別に、岩手県内各地をご覧になっております。

そして、お召し替えの際に立ち寄られた場所に「湧き水」があり、その水を御膳水として差し出したとされています。

それから後、この「湧き水」は、「黄金清水」と呼ばれるようになったのですが、この「黄金清水」は、「二代目・盛岡競馬場」の、割りと近く、3km程、離れた場所にあります。


そして、「閑院宮載仁親王」は、この出来事を、ちゃんと調べていたようで、このために、「二代目・盛岡競馬場」を「黄金競馬場」と名付けたと伝わっています。

それからは、「盛岡競馬場」を、愛称として「黄金競馬場」と呼ぶようになり、この二代目、および三代目とも「黄金競馬場」と呼んでいました。

ちなみに、現在、「黄金清水」の場所は私有地になっている関係もあり、ご覧の画像の通り、全く整備されていないようです。

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そして、この「二代目:盛岡競馬場」ですが、「明治45年(1912年)」には、1周1600mへと拡張され、1日に6〜8レースも行われるなど、東北随一の競馬場として多くの競馬関係者が集うようになっていったそうです。

その後、時代が、大正から昭和に移ると、「新・黄金競馬場構想」が持ち上がったそうです。


その理由の1つは、「黄金競馬場」周辺の耕地整理を進めるためでしたが、もう一つは、「盛岡競馬」を、政府公認競馬場にするための運動があり、そのためには、走路の幅を帝国競馬協会が定める規模にする必要があったからです。

このため、「岩手県産馬組合連合会」は、走路幅拡張のため、周辺用地の買収を開始したそうですが、中々買収が進まなかったので買収を断念し、1.3km程離れた「高松ノ池」近くの「毛無森」に移転する事になりました。

新競馬場での開催を急いでいたので、工事は急ピッチで進められ、「昭和8年(1933年)」の秋には、帝国競馬協会の基準をクリアする1周1600m、幅員16mの新競馬場も完成し、11月には落成記念競馬を開催する運びとなったそうです。

ところが、実際に騎手が乗馬してみると、走路が緩く危険だと言う意見が多く上がってきてしまったそうです。


急ごしらえの走路だった事が影響し、走路が固まっていなかったためだったようで、当日は、開会式だけを開催する事になってしまったそうです。

その後、追加工事が行われ、昭和8年11月10日から地方競馬規則に基づく競馬が開催されたました。

左の画像が、「昭和51年(1976年)」当時の「旧・盛岡競馬場」の空撮映像です。

見て分かる通り、中央赤枠が「新・黄金競馬場」で、左の小さな赤枠が、私が、私が通っていた「盛岡第三高等学校」です。

本当に目と鼻の先の場所に競馬場があったのですが・・・実は、私は、この「旧・盛岡競馬場」には、小学校の頃、友達の両親に連れてこられた、たったの1回しか行った事がありません。

既に高校生の頃は、風営法で規制されている各種遊技場には出入りしていたのですが、何故か、競馬には全く興味が涌きませんでした。

当時の私の級友達は、馬券を買っていた者も何名かいましたが、私は、1回も購入した事はありませんでした。

小学生の時は、友達の両親が「馬主」だったので、1回だけ、いわゆる「VIP席」に行ったのですが・・・何か凄い歓声と熱気に圧倒された事は、今でも覚えています。

当時は、「競馬」自体、訳が解らず、「何で馬が走って、人が騒ぐのか ?」と思っていたのですが・・・10年以上経過した後、社会人になってから、その意味を理解した次第です。

さて、この「新・黄金競馬場」ですが、この競馬場の特徴は、何といっても、「中山競馬場」よりもきつい勾配で、「心臓破りの坂」と呼ばれた最後の直線コースなのだそうです。

第三コーナー前に設けられた巨大な坂は、「高低差8.8m」と、日本の競馬場では最大だったそうですが、とにかく全体的に勾配のきつい坂のコースであり、全国屈指のタフなコースだった様です。

これは、元々、この「新・黄金競馬場」が、軍馬育成を目的として設計されたコースであり、戦後、少し改修は行ったそうですが、その跡が残ったそうですが・・・最後の直線前に、9m近くの高低差があるのは、馬にとっても、馬券を買った人にとっても、キツかったと思われます。

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さて、昭和8年に完成した「新・黄金競馬場」ですが、「昭和12年(1937年)」、日中戦争が起きて戦争が激しくなり、その後、「昭和14年(1939年)」に馬政局の奨励金は廃止され、岩手県産馬組合連合会主催の競馬も中止となりました。

しかし、戦後となる「昭和21年(1946年)」、地方競馬法が公布され、翌22年には、岩手県馬匹組合連合会主催で公認競馬が再開されました。

さらに、翌23年には新競馬法が制定され、岩手県が県営競馬として、優良馬の改良増殖を目途に、水沢・盛岡両競馬場で競馬会を再開しました。

そして、このまま盛岡の競馬は、「新・黄金競馬場」され続けるのかと思われたのですが、実は、この「新・黄金競馬場」には、様々な問題があった様です。

と言うのも、先程の空撮画像を見ての通り、競馬場の周辺には、学校や住宅地だらけのため競馬場には相応しくないと言う意見が出始め、さらに競馬開催日には、周辺の道路が渋滞するという苦情も出始めました。

確かに、私も、通常は、原チャリか自転車で通学していたのですが、たまにバスを使うと、道路は渋滞していましたし、バスの乗客も、ガラの悪いオッサン連中だらけだった覚えがあります。

そして、さらに致命的だったのは、走路の幅が相変わらず狭く、フルゲートでも「8頭立て」だったため、多頭数の競走を編成できないので、東北地区交流レースや北日本地区交流レース等、重要なレースは水沢競馬場で開催すると言う、変な現象も起きていました。

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そこで、これらの問題を一気に解決すべく、「平成8年(1966年)」、盛岡市新庄、通称「川目」と呼ばれている場所に移設しました。

これが、四代目となる「盛岡競馬場」で、前述の通り「OROパーク(オーロパーク)」と言う愛称で呼ばれています。

総敷地面積128ha(ヘクタール)、よく比較対象として使われる東京ドームなら27個分の広さがあり、現在、日本一の広さを誇る競馬場です。

また、地方競馬場では、唯一「芝コース」が併設された競馬場で、ダートコースの内側に芝コースがある珍しい設計です。


さらに、こちらの競馬場のダートコースも、「旧・盛岡競馬場」からの精神を引き継ぎ、相変わらず4.4mもの高低差がある設計となっており、現在は、千葉県船橋市にある「中山競馬場」と並ぶ最大級の高低差となっているそうです。

この場所は、本当に山の中、盛岡駅から15kmも離れた場所にあります。

3km程離れた近くには、「盛岡市動物公園」や「岩山パークランド」、盛岡市を一望できる「岩山展望台」など、とにかく、周りは自然一杯で、「熊注意」の看板もあるような場所です。

中央競馬に匹敵するほど、豪華な競馬場となる「盛岡競馬場」ですが、これもひとえに、競馬人気が高く、経営が安定していたからこそ実現できた物となります。

岩手競馬は、明治、大正、昭和と、かつては「地方競馬の優等生」と呼ばれる存在でしたが、現在では、他の地方競馬と同様、競馬人気が低迷し、膨大な建設費債務や減価償却岩手競馬の経営を圧迫することとなっています。

「旧・盛岡競馬場」の跡地整備も中々進まない中、今後、どのような経営を行って行くのかが心配です。

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■現在の「南部馬」と「在来馬」の紹介


ここまで、主に、岩手/盛岡における「馬」、および「競馬」の歴史を紹介して来ました。

それでは、何故、「南部馬」の人気が高かったのでしょうか ?

「南部馬」が、他の地域の「馬」よりも大型だったために、武家の間では「軍馬」として人気が出た事は、既にお伝えした通りです。

しかし、武家の間で人気となる以前、奈良時代平安時代の貴族の間では、その見映えの良さと美しさから「あこがれの的」となっていた様です。

平安時代中期に編纂された「後選和歌集」においては、「南部馬」に対して、次のような詩が詠まれています。


【 後選和歌集 】

『 綱たえてはなれ果てにしみちのくの尾駮の駒をきのう見しかな 』
→ 長年あこがれてきた「尾駮の馬」。長い旅をしてようやく陸奥までやって来て、ついに昨日、引き綱を解かれて野に放たれる光景を実際に見ることができた。


『 みちのくの尾駮の駒も野かうには荒れこそまされなつくものかな 』
→ 体の大きな「尾駮の駒」だから、馬小屋で人に飼われているのならまだしも、野飼いされているものはさぞかし荒々しいだろうと想像していた。だが実際にはとても人懐っこいものだった。



上記の詩では、盛んに「尾駮(おぶち)の馬」と言う言葉が出てきますが、現在では、この「尾駮の馬」が「南部馬」を意味していると考えられています。

それでは、「尾駮の馬」が、どのような「馬」なのかと言うと・・・これは想像になってしまうのですが、その名称の通り、尾が「ぶち/まだら」の馬、つまり「まだら模様の尻尾を持った馬」となります。

左の画像の「馬」は、青森県六ケ所村尾駮で飼育されていた「馬」ですが、このような「馬」を、「尾駮の馬/駒」と呼んだと考えられています。

それと、ちょっと話は逸れますが、平安時代、「尾駮の馬」を飼育していた牧場を、「尾駮の牧」と呼んでいたそうですが、この「尾駮の牧」が、一体、何処にあったのかが、ちょっとした論争になっているようです。

現在、「尾駮の牧」候補として名乗っているのは、上記、「青森県六ケ所村尾駮」の他、次の地域があります。

青森県六ケ所村尾駮
宮城県石巻市牧浜(まぎのはま)


一般的な通説としては、「青森県六ケ所村尾駮」にあった牧場が「尾駮の牧」とされていますが、江戸時代の俳人松尾芭蕉」と、その弟子「曽良」は、石巻に関して、次のように述べています。


芭蕉『 明くれば又しらぬ道まよひ行。袖の渡り・尾ぶちの牧・まのゝ萱はらなどよそめにみて 』
曽良『 尾駮御牧 石ノ巻ノ向、牧山ト云山有。ソノ下也 』


まあ、「六ケ所村」は、その昔の「糠部郡」に含まれていますので、やはり「六ケ所村」説が正しいのだと思います。

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さて、前編で、「南部馬」は、九州/関西系の馬より、少し大型の馬であることは紹介しました。

確かに、体高が高い「馬」は、戦場における「1対1」の騎馬戦においては、相手よりも、かなり優位だったと思われます。

戦いでは、当然、武術も大事ですが、それより何より「馬」の優位性が、戦いを左右したと思われます。

そして、「軍馬」として用いる場合、「馬」を去勢しなければ、気性が荒く、乗りこなす事は出来なかったのですが、「南部馬」は、去勢しなくても大人しく、そのまま「軍馬」として用いる事が出来た事も、人気の秘密だったと思われます。

現在の「競争馬」でも、その多くの「牡馬」は、去勢されて「騙馬(せんば)」となっていますから、去勢せずに、そのまま乗りこなせる「馬」は価値が高いと思います。

さらに、「南部馬」は、現在の馬のように、足の着地面が、蹄(ひづめ)だけでなく、踵(かかと)まで着地するので接地面積が広く、踏ん張りが効くので、とても馬力が出たそうです。

そのため、「軍馬」はもちろん、農耕馬としても人気が高かったそうです。

このように、大型で、見映えが美しく、馬力もあるにも関わらず大人しい「南部馬」、人気が出るのは、当然と言えば当然だと思います。

それでは、現在、「南部馬」は、どうなっているのかと言うと・・・残念ながら純血種は、既にこの世から消えてしまったようです。何たる失態 !!

本章の最初に掲載した画像の「盛号」が、最後の「南部馬」と伝わっています。

その理由というのも、明治に入り、大量の、そして優秀な「軍馬」が必要になった明治政府は、盛んに、「南部馬」と外国産馬との交配を進めたのですが、その結果、「南部馬」の純血種の保護を禁止してしまった事が、種が絶滅した原因とされています。

つまり、「南部馬」が優秀であるが故、明治政府に目を付けられてしまった結果、「南部馬」の純血種を絶滅させてしまったと言う、何とも皮肉な結果です。

『 隠れて、密かに、純血種を守れなかったか ? 』と、当然、考えると思いますが、明治政府の管理が凄く厳しく、とても、隠れて純血種を飼育するなど無理な事だったようです。

実際には、「南部馬」以外の多くの在来馬、次のような、いわゆる「日本固有馬」も、明治政府の意向により、絶滅させられています。

→ 南部馬、三春駒、三河馬、能登馬、土佐馬、日向馬、薩摩馬、甲斐駒、ウシウマ


明治政府は、前述の通り、余りにも、大型軍用馬の増産に固執し過ぎてしまい、次のような無知な法令を連発し、その結果、これら在来馬を絶滅に追いやってしまっています。


・「明治34年(1901年)」馬匹去勢法
種牡馬、および将来の種牡馬候補以外の牡馬は、全て去勢する事を定めた法令
・「昭和14年(1939年)」種馬統制法
→ 「馬匹去勢法」を強化し、小型馬同士の繁殖を禁止し、全て外国産馬と交配させると定めた法令


どうして軍人は、今も昔も、バカばかりなのでしょうか ?

岩手/盛岡は、明治政府に気に入られようとし過ぎて、大切な「南部馬」を失ってしまった様です。

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そんな中でも、「南部馬」の血統を受け継ぐ「馬」が、僅かながら存在します。それが「寒立馬(かんだちめ)」と「道産子(どさんこ)」です。


「寒立馬」とは、下北半島の田名部にいる「田名部馬」の通称です。

しかし、この「寒立馬」、確かに「南部馬」の血統を継いではいるのですが、残念ながら、純粋な「南部馬」の系統ではなく、「南部馬」とフランスのブルターニュ地方産の「ブルトン」品種とを交配させた結果大型化した半血馬です。

現在でも、その昔の「糠部郡」にいる「馬」なのですが・・・残念です。


そして、もう一方の「道産子」、これは、ラーメンチェーン店ではありません。

江戸時代に、夏の間使役するために、本土から連れてきた「南部馬」が、冬期間北海道に放置され、気候風土に適応するようになったものが「北海道和種」、いわゆる「道産子」と言われています。

しかし、一説には、「道産子」は、「南部馬」とアイヌの固有馬の混血種ではないかとの説もあります。

また、これも一説ですが、アイヌ語では、「馬」も「ウマ」と表現する日本語起源となっているので、北海道には、元々「馬」は存在せず、本土から連れて来られた「南部馬」しか存在しない、という説もありますので、まだ確定していないのかもしれません。

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さて、それでは、現在の日本において、どの位の「在来馬」が存続しているのかと言うと、先の明治政府のアホな政策のため、多くの「在来馬」が絶滅してしまったので、現在は、下記8種類しか存在しないようです。

全く、国がアホだと、「馬」も「日本民族」も、全てが、「国体の維持」とか何とか、とんでも無い事を言い出して絶滅してしまいそうです。

「日本国民」が存在してこその「天皇」であるにも関わらず、国民は玉砕して構わないから「天皇」だけは守れとは・・・何を考えているのやら。


【 在来馬一覧 】

馬種 生息地 頭数(H28) その他
北海道和種(道産子) 北海道 1,106
木曽馬 長野県木曽/岐阜県飛騨 150 長野県天然記念物
御崎馬(みさき-うま) 宮崎県串間市都井岬 102 国指定天然記念物
対州馬(たいしゅうば) 長崎県対馬市 39
野間馬(のまうま) 愛媛県今治市野間 53 今治市天然記念物
カラ馬 鹿児島県トカラ列島 123 鹿児島県天然記念物
宮古 沖縄県宮古島 46 沖縄県天然記念物
与那国馬 沖縄県与那国島 130 与那国町天然記念物



どの「在来馬」も、危険レベルだと思いますが、「対州馬」以外は、少しずつですが頭数を増やしているようです。

対州馬」は、昭和40年に観測を始めた時には「1,000頭」以上存在したのが、現在39頭です。

50年間で1/100程度まで減少していますので、人工授精のために卵子/精子、あるいは遺伝子の保存等、早急に対応を取らないと、「対州馬」も絶滅してしまうかもしれません。

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■「馬検場」の歴史


さて、すっかり脇に追いやられてしまいましたが、今回のブログを書くきっかけとなった「馬検場」の歴史を振り返って見ます。

その昔、安土桃山時代後期となる「慶安4年(1651年)」頃になると、盛岡城の城下町に、町人が住む「盛岡二十三町」が出来上がったとされおり、その中の一つに「馬町」があったとされています。

しかし、別の情報によると、この「馬町」付近で、最初に「馬市」が開催された事から「馬町」と言う名称になったとされています。(※いわての文化情報大辞典)

何れにしろ、現在の盛岡市清水町付近が「馬町」と呼ばれ、この近くで「馬市」が開催されたのは、間違いがないようです。


岩手県立博物館の調査報告によると、この「馬町」において、最初に「馬市」が開催されたのは、江戸時代初期となる「万治2年(1659年)」とされています。

このため、現在の清水町付近には、「馬頭観音菩薩」を祀る神社が多く建てられたとされており、現在では、「亀慶山城南寺峯壽院(ほうじゅいん)」と言う神社が残っています。

この「峯壽院」、元は、天台宗寺門派近江国にあった「園城寺」の末寺だったそうですが、その後、御家人「千葉常胤(つねたね)」の家臣「新渡戸神酒之進(にとべ-みきのしん)」が、現在の千葉県から花巻市に移り住み、得度して「法明坊」と名乗り、「馬頭観音菩薩」を祀った事が始まりとされています。

その後、「慶長3年(1598年)」、初代盛岡藩主「南部利直」の知己を得、「峯壽法印」の称を与えられて、牛馬繁殖守護の祈願所となったそうです。

さらに、「寛文3年(1663年)」、現在の場所に移転し、寺号を「峯壽院」に改称したとされています。

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さて、「馬町」ですが、江戸時代末に「馬口労町(馬喰町)」と改称されたと言う説と、そのまま「馬町」であり続けたと言う説があるようですが、とにかく、江戸時代を通じて、盛岡に於いては、この場所で「馬市」が開催されました。

江戸時代には、藩内の馬市は、盛岡、郡山(現:紫波町)、そして花巻の3ヶ所に限って行われており、「馬市」が開催された場所の側には、「馬検場」も設置されていた様です。


また、「宝永7年(1710年)」には、藩命により駄馬の売買は、この「馬町」でのみで行われる事となり、「馬市」は、歳市として、毎年12月の9日、19日、および29日の3回開催されていた様です。

その後、「明治37年(1904年)には、「馬町」に、新たな「馬検場」が作られ、後述する通り「明治45年(1912年)」まで、この地で「馬市」が開催され続けられました。


その後は、次の様な経緯を辿り、馬検場は、現在の松尾町(旧・新馬町)に移転する事になったそうです。


・「明治3年(1870年)」 :民部省養馬懸出張所が設置される
・「明治14年(1881年)」 :岩手県産馬事務所が創立される
・「明治23年(1890年)」 :改組して「盛岡産馬畜産組合」が誕生する
・「明治45年(1912年)」 :新馬町(現:松尾町)に移転


松尾町の「馬検場」は、木造平屋建て185?で、事務所などとして使われていた洋風の附属施設は、木造2階建てで308?あるそうです

馬の競りが最後に行われたのは、「平成7年(1995年)」で、その後は、付属施設の2階部分を、美術家「百瀬 寿」氏や、建築家で写真家でもある「伊山治男」氏がアトリエとして使っていた時期もあったそうです。

しかし、近年は、老朽化が激しく空き家状態になったのですが、土地貸借の問題も持ち上がり、建物を管理する「盛岡畜産農業協同組合」が解体を決定した様です。

「歴史建造物」としての保存も検討したようですが、何故か保存は困難と言う結論になってしまったようで、建物や周辺の情報を、記録としてのみ残す事になってしまった様です。


う〜ん、これだけ「お馬様」の世話になってきたのですから、だだっ広い、盛岡競馬場の敷地の一部に移築する等の対応が取れなかったのか、不思議で仕方ありません。

唯一、「馬検場」と書かれた大きな額縁だけは、盛岡市が保存/管理する事が決まった様です。

この大きな額縁ですが、実は、盛岡出身の「新渡戸 仙岳(1858〜1949年)」と言う人物が揮毫(きごう)した額で、盛岡市にとっては、結構、貴重な代物となっています。


とは言え、皆さんは、誰もご存じないと思いますが、この「新渡戸 仙岳」と言う人物は、次のような学校の教師や校長を歴任しています。

また、退職後は、岩手日報主筆岩手県史編纂委員長、南部藩史編纂委員、および史跡名勝天然記念物調査委員などを歴任した、地元では有名な郷土歴史家です。

気仙郡立高等小学校校長
・盛岡高等小学校校長
・盛岡高等女学校校長


盛岡高等小学校時代の教え子には、米内光政、金田一京助、および石川啄木らが居たそうです。「米内光政」や「金田一京助」をご存じない方は、下記の過去ブログをご覧下さい。

【 過去ブログ 】
岩手の先達 〜 地味な岩手にも有名人 Vol.1
岩手の先達 〜 地味な岩手にも有名人 Vol.2

また、先に紹介した「峯壽院」の開祖「新渡戸 神酒之進」は、この「仙岳」のご先祖様に当たり、「仙岳」自身も「峯壽院」の住職の長男として生まれています。


このため、「峯壽院」が、「明治17年(1884年)」に、盛岡市で発生した「河南大火」で消失してしまったそうですが、「大正12年(1923年)」、この「仙岳」の発願により再建が叶ったそうです。

ちなみに、「新渡戸」と聞くと、五千円札のモデルとなった「新渡戸 稲造(1862〜1933年)」を思い浮かべる方も多いと思います。

『 我、太平洋の架け橋とならん by 新渡戸 稲造 』


新渡戸稲造」に関しても、上記過去ブログの「岩手の偉人」シリーズで紹介していますが、この二人、ほぼ同じ頃(4歳違い)に盛岡市に生まれています。

このため、一部の誤った情報では、この二人は兄弟であるかの様な記述が見られますが、全く関係ありません。前述の通り、「仙岳」は住職の長男ですし、「稲造」は盛岡藩士の息子です。

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さて、「明治45年/大正元年(1912年)」、松尾町に移転した「馬検場」ですが、106年目となる平成30年(2018年)2月には取り壊され、歴史から綺麗サッパリと忘れ去られてしまう道をたどる事になってしまった様です。

私は、現在は東京で暮らしていますが、昔懐かしい、盛岡が、どんどん消えて行ってしまうのは、やはり悲しいものがあります。

近年では、盛岡市中ノ橋通にあった「盛岡バスセンター」も、建物の老朽化に伴い、取り壊しとなってしまっています。


この「盛岡バスセンター」は、「昭和35年(1960年)」から「平成28年(2016年)」まで、使用されていた、盛岡最大のバスターミナルで、自動車ターミナル法が適用された第1号施設でした。

私は、バスは余り使わなかったのですが、中学生から高校生時代、このバスセンター内にある理容室に通っていたので、やはり施設がなくなるのは寂しさを感じます。

「馬検場」跡地は、土地の持ち主に返されるだけで、その後は、特に何かの施設になる訳では無いようですし、上記「バスセンター」跡地に関しても、当初は、バスセンター再建案もあったようですが、資材高騰の煽りを受け、現在、跡地利用は白紙状況なのだそうです。

きっと、盛岡も、東京と同様、建物の跡地は、駐車場か整体院になってしまうのだと思います。

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今回も、前回に引き続き、「岩手/盛岡と馬の関係」と題して、次のような内容を紹介しましたが、如何でしたか ?

●近代における「馬」との関係
●岩手における「競馬」の歴史
●現在の「南部馬」と「在来馬」の紹
●馬検場の歴史

今回の「岩手/盛岡の馬」シリーズでは、前編で、古墳時代から江戸時代までの「南部馬」を紹介し、後編では、明治以降、現在に至るまでの「南部馬」の歴史と、盛岡競馬場の歴史を紹介しました。

今回のブログでも紹介しましたが、岩手県の競馬は、全国の地方競馬においては、トップクラスの人気を誇り、一時期は、中央競馬と肩を並べる程でした。

特に1990年代の勢いは凄く、全国的な「競馬ブーム」もあり、まさに絶頂期を迎え、1996年には、総工費410億円も掛けて、「OROパーク」への移転を果たしました。


今から、20年位前、今では亡くなってしまいましたが、実は、私の姉が「岩手競馬組合」に勤務しており、かなり「羽振りが良い」と言う事を聞いた覚えがあります。

当時は、現在の「盛岡保健所」のビルがある場所、今回ご紹介した「盛岡バスセンター」の隣の「神明町」に、「競馬会館」と言う自社ビルを建設したりして、本当に「イケイケ、ドンドン」の状況でした。

私も、朝、姉を「競馬会館」まで、車で送った覚えがありますし、姉も、水沢で競馬が開催される時には、毎週、水沢まで出張していました。


ところが、お決まりのように「ブーム」が去ると、その後は「悲惨」の一言です。

現在では、自社ビルも、どうにか盛岡市に買い取ってもらって赤字を補填していますが、「旧・盛岡競馬場」も、未だに売却できず、毎年、赤字を垂れ流す状況です。


ところで、前編のトップに掲載した馬の銅像「春風」ですが、当初は、上記画像を拡大すると解ると思いますが、競馬会館の下、入り口部分に設置されていました。


それが、「競馬会館」の売却に伴い、2007年、「春風」は、「馬検場」の入り口に移転したのですが、今回、「馬検場」が解体された後、その所在が解らなくなってしまった様です。

「競馬組合」と言い、「馬の銅像」と言い、何か、全てが混乱している様です。

岩手県は、今回のシリーズで紹介した様に、本当に古くから「馬」と関わりが深い地域ですので、今後も、目先のブームに乗らず、着実に「馬」と良好な関係を築いて欲しいと思いました。


それでは次回も宜しくお願いします。

以上


【画像・情報提供先】
Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)
・愛LOVEもりおか★徒然日記(https://blogs.yahoo.co.jp/kfuji_taxi)
・馬と人(http://umatohito.com/)
・滝沢村誌(http://www.city.takizawa.iwate.jp/contents/sonshi/web/index.html)
・青森の魅力(https://aomori-miryoku.com/)
江差ルネッサンス(http://www.esashi.com/)
・縄文と古代文明を探求しよう(http://web.joumon.jp.net/blog/)
・えさし郷土文化館(http://www.esashi-iwate.gr.jp/bunka/index.html)
山梨県ホームページ(http://www.pref.yamanashi.jp/index.html)
・新・いわて競馬今昔物語(http://konjyaku.blog121.fc2.com/)
・公益財団法人 日本馬事協会(https://www.bajikyo.or.jp/)
・いわての文化情報大辞典(http://www.bunka.pref.iwate.jp/rekishi/rekisi/)

【株式会社 エム・システム】
本      社  :〒124-0023 東京都葛飾東新小岩8-5-5 5F
           TEL : 03-5671-2360 / FAX : 03-5671-2361
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