報恩寺五百羅漢について

盛岡の6月と言えば、「チャグチャグ馬コ」が有名ですが、「チャグチャグ馬コ」に関しては、去年もメルマガで紹介したので、今回は、盛岡市にある報恩寺と言うお寺にある「五百羅漢」について紹介したいと思います。

ちなみに、去年紹介した「チャグチャグ馬コ」に関しては、次のページで紹介しています。

URL:http://d.hatena.ne.jp/msystem/20110710/1310264734

日本や周辺国の仏教界では、修行を積んで悟りに達した者を「阿羅漢」と言う称号で称えており、その内、仏法を護持することを誓った16人の弟子を「十六羅漢」と呼んでいます。また、初回の仏典編集に集まった500人の「阿羅漢」を、「五百羅漢」と称して尊敬しているようです。


盛岡の名須川町(なすかわちょう)には、「報恩寺」と言う曹洞宗の寺院があり、ここの「羅漢堂」には、500体の尊像が納められていることから、「報恩寺五百羅漢」と呼ばれています。

と言いたい所なのですが、実際には、500体には1体足りず、499体の尊像が納められているそうです(おしい!)

この報恩寺は、1394年(応永元年)に、南部家十三代「南部守行」により、陸奥国三戸郡(現在の青森県)に創建されたと伝えられており、その後、1601年(慶長六年)に、南部家二十七代「南部利直」の時に、自身が盛岡に移るに当たり、報恩寺も現在の地に移されたとされています。

その後、時が移り、石川啄木が盛岡中学(現:盛岡第一高等学校)の学生だった頃、この付近の景色が気に入り、よく級友達と散策したそうです。詩集「あこがれ」の中の「落瓦の賦」は報恩寺を詠ったものです。

また、宮澤賢治は、盛岡高等農林学校(現:岩手大学農学部)時代に、報恩寺で座禅をしたことも伝えられています。


一方、報恩寺の尊像に関しては、胎内の「墨書銘」からは、1731年(享保十六年)に、報恩寺代十七世和尚が、 大願主として造立、4年後に完成したことが分かっています。

尊像自体は、京都で9人の仏師によって製作され、盛岡に運んだ時に使用した輸送用の箱は、尊像の台座として再利用されたことまで判明しています。

実際には、「五百羅漢」の「五百」という数字は、「多数」という意味で、それぞれの尊者に名はなく、 服装からは印度・西域・支那の僧の風貌・容姿が連想されます。


尊像の中には、隣同士でおしゃべりしている像や、踊っているようなユニークな像が沢山あります。













その中でも、特に珍しいのは、マルコ・ポーロ像とフビライ・ハーンの像です。この写真の左側がマルコ・ポーロで、右側がフビライ・ハーンです。


史実では、マルコ・ポーロは、フビライ・ハーンの庇護の下、17年にも渡って中国各地を旅行し、その体験談を「東方見聞録」として記録した、となっていますが、岩手では、次の様な伝説が伝えられています。


・源 頼朝に敗れた源 義経は、船で中国に渡り、名前を変えてチンギス・ハーンと名乗り中国を征服した。
・その後、孫のフビライ・ハーンは、部下のマルコ・ポーロに、祖父の故郷である日本を調査させ、その途中で平泉を訪れた。(黄金の国「ジパング」)
・報恩寺にあるマルコ・ポーロ像とフビライ・ハーンの像は、マルコ・ポーロが平泉を訪れた時の記念として作成されたものである。
・そして、調査終了後、フビライ・ハーンは、祖父の敵である鎌倉幕府を倒すべく日本を攻撃した。(元寇)



しかし、先にも述べた尊像の作成年代(1731年)と、マルコ・ポーロフビライ・ハーンの所にいた期間(1275〜1292年)や元寇(1274年/1281年)との年代が一致しません。

まあ、マルコ・ポーロ像とフビライ・ハーン像だけが、江戸時代より以前に作成されたものだ、と言う新たな証拠が現れれば、この伝説にも信憑性が出て来ますが・・・やはり伝説は、伝説ですね。

ところで、「五百羅漢」像は、現存全国で50例ほど確認されていますが、木彫りで、かつ499体もが現存し、さらに造立年代、 尊像の製作者まで明確に知り得るのは、全国的にもまれな例と言われており、 昭和41年に、盛岡市指定文化財となっています。

皆さんも、一度マルコ・ポーロフビライ・ハーンに会いに来ては如何ですか。ちなみに、入場料は、大人1名300円です。

【報恩寺】
住所:〒020-0016 岩手県盛岡市須川町31−5
利用時間:9:00〜16:00(無休)
料金:大人 300円、小学生 100円
電話番号:019-651-4415