早池峰信仰と瀬織津姫命 〜 謎多き姫神に触れる その5


今回は、これまで紹介して来た「早池峰信仰と瀬織津姫命」の続編となる「その5」を紹介します。


★過去ブログ:早池峰信仰と瀬織津姫命〜謎多き姫神に触れる その1(20180623)
早池峰信仰と瀬織津姫命〜謎多き姫神に触れる その2(20180721)
早池峰信仰と瀬織津姫命〜謎多き姫神に触れる その3(20180818)
早池峰信仰と瀬織津姫命〜謎多き姫神に触れる その4(20180922)


前回は主に、岩手県では今もヒーロー扱いとなっている「安倍氏」と「瀬織津姫命」との関係について紹介しました。


その中で、「安倍氏」にも、「源 義経」と同様、「実は戦死していない」と言う伝説が残っていたのには驚いてしまいました。


日本の伝説で、「源 義経」を始めとして、「実は生きていた 」とされる人物には、次のような人物がいます。


安徳天皇 :日本全国各地に「安徳天皇稜」が存在している。(30箇所)
・源 義経 :ご存知、北海道経由でモンゴルに渡り、チンギス・ハーンになった。
・武田 勝頼 :死んだのは影武者で、本人は高知県に逃れ「大崎玄蕃」と改名し慶長14年に死去した。
明智 光秀 :実は「天海和尚」となり徳川家康のブレーンとして豊臣家滅亡に尽力した。
・豊臣 秀頼 :「真田信繁(幸村)」の手引きで一緒に九州に逃げ、島津家の庇護のもと生活していた。
・真田 信繁 :幸村は、秀頼と一緒に薩摩に落ち延びた。
・島 左近 :石田三成のブレーンだった左近は、関ヶ原から落ち延び、京都の伊吹山で隠遁生活をしていた。
・大塩 平八郎 :とにかく逃げ延び、中国、あるいはロシアに渡った。
・西郷 隆盛 :官軍の囲みを突破してロシアに逃亡し、ロシア軍の教官となり日露戦争を先導した。


こうした「実は生きていた」人物を見てみると、ある特徴があるように思えます。それは、次のような点です。


・民衆に人気がある人物
・死が惜しまれた人物
・悲劇の主人公


その他にも、織田信長なども生存説があるようですが、「安倍氏」にも生存説があるとは・・・


でも、「安倍氏」の場合は、上記の超有名人達とは異なり、東北地方だけに伝わる伝説というのは、地味で、まさに東北人らしいと思います。

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さて、これまでの4回では、次のような内容を紹介して来ました。


(1)山岳信仰とは
(2)早池峯信仰とは
(3)早池峯神社とは
(4)「早池峯」と「早池峰」の違い
(5)どこが「早池峯神社」の本坊なのか ?
(6)瀬織津姫命が御祭神の神社
(7)瀬織津姫命とは何者なのか ?
(8)天照大御神男神なのか ?
(9)鈴鹿権現と瀬織津姫
(10)熊野権現瀬織津姫
(11)瀬織津姫命と天台宗
(12)「安倍氏」とは ?
(13)安倍氏瀬織津姫
(14)安倍氏アラハバキ


こうして、改めて記載項目を見てみると、かなりの量になる事に、驚いてしまいます。


段々と、「早池峯信仰」に関する話題が薄れてきてしまいましたが、これも「安倍氏」と同様、ローカルな話題なので、仕方がないと思われます。


それに比べて「瀬織津姫命」は、全国的に有名な神様ですから、後半は、どうしても「瀬織津姫命」の話が中心になってしまいます。


そこで今回は、前回ブログの最後で予告した通り、「安倍 宗任」が流罪となった「筑前国宗像」で祀られている「宗像三女神」と「瀬織津姫命」に関して、次の話題を紹介したいと思います。


■「宗像三女神」との関係
■「瀬織津姫命」と「湍津姫命」との関係
■「瀬織津姫命」が生まれた背景
■「瀬織津姫命」とその他の神様/人物との関係


最後の章は、「瀬織津姫命」に関する付録みたいな内容になってしまっています。

それでは今回も宜しくお願いします。

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■「宗像三女神」との関係


日本には、各地に「三女神」の伝承が伝わっています。特に有名なのが、「安倍宗任」との関係で取り上げた「宗像氏」が宮司を務めていた「宗像大社」の「宗像三女神」だと思います。


その他の「三女神」と言えば、本ブログで取り上げた次の「三女神」もいらっしゃいます。


・祓戸三女神 :瀬織津姫命(瀬織津比売)、速開都比売速佐須良比売
・遠野三女神 :「お初(瀬織津姫命)」、「お六(速開都比売)」、「お石(速佐須良比売)」


「宗像氏」は、第79代の大宮司嫡流が断絶し、現在では、宮毎に宮司職を設置しているようです。


そして、有名な「宗像三女神」は、次の女神様となります。


田心姫神(たごりひめのかみ) :沖津宮(おきつぐう)、沖ノ島古事記多紀理毘売命
湍津姫神(たぎつひめのかみ) :中津宮(なかつぐう)、大島 → 古事記多岐都比売命
市杵島姫神(いちきしまひめのかみ) :辺津宮(へつぐう)、宗像本土・田島 → 古事記市寸島比売命



本ブログの流れから言えば、次の様な流れになれば、「あ〜、やっぱり、そうなんだ !!」となるのですが・・・この流れは、ちょっと無理があると思います。


→ 従来、古代東北地域では、「巨石」、「滝」、「川」、「巨木」等、様々な自然物が神として信仰されて来た。
→ 「大同元年(806)年」、「始閣藤蔵」が伊豆神社や早池峯神社を建立し、「瀬織津姫命」を御祭神にした。
→ 自然崇拝と「瀬織津姫命」が習合し、御祭神として「瀬織津姫命」を祀る寺社や祠が建立され始める。
→ 「蝦夷」、それに連なる「安倍氏」が、代々「瀬織津姫命」を信仰するようになる。
→ 平安末期、「安倍宗任」が、生き延びて四国/九州に流罪となり、その地でも「瀬織津姫命」を信仰した。
→ 「安倍氏」の信仰が、「宗像氏」に伝わり、「宗像大社」でも、三女神を信仰するようになった。

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ここで、「宗像大社」の由緒/起源を紹介したいと思いますが、「宗像大社」の起源は、神代の時代、「アマテラスとスサノオの誓約(うけい)」に始まると伝えられています。


「アマテラスとスサノオの誓約」とは、高天原を追放された「スサノオ」が、根の国(黄泉の国)に行く前に、姉「アマテラス」に会いに行った際、「アマテラス」と「スサノオ」との間で行われた「占い」、あるいは「賭け」と言われている行為です。


この占いでは、「アマテラス」が、「スサノオ」の「十拳剣(とつかのつるぎ)」を受け取って噛み砕き、口から吐き出した霧から「宗像三女神」が生まれたとされています。


その後、この「三女神」は、天孫降臨で天下った「ニニギノミコト」を助けるために、玄界灘に浮かぶ島々に降り、この地を治めるようになった事が「宗像神社」の始まりとしています。


さらに、その後は、「三韓征伐」神話で有名な「神功皇后」が、この「宗像大社」で戦勝、および道中安全を祈願したことから、以降は、朝廷との繋がりも深め、現在に至っているとされています。

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しかし、これは、事実ではなく、あくまでも大和朝廷が編纂した「古事記」、あるいは「日本書紀」と言う物語の中での話です。


実際、この「宗像信仰」に関係する学術調査を行った静岡理工科大学の報告書では、元々、上記の三女神は、別々の氏族の信仰対象(神様)だったのですが、それが、政治の都合で、「北九州地域」に集められ、現在の「宗像大社」となったとされています。


それが、どの様な関係かと言うと、次の様になっているとしています。


田心姫神(たごりひめ) :沖ノ島出雲氏系の神様
湍津姫神(たぎつひめ) :大島、 大和朝廷の神様
市杵島姫神(いちきしまひめ) :田島、 大陸/半島系の海人族の神様


当時(弥生時代後期)の日本は、ちょうど半島経由で「鉄」の流入が始まった時期で、その「鉄」の利権に関わる、大陸/半島系の氏族、出雲系の氏族、それと大和朝廷が「三つ巴」となり、「鉄」を獲得しようと、必死になっていた時期に重なるとしています。



この頃、「鉄」は、半島から「壱岐」や「沖ノ島」を経由して、北九州(宗像氏)や山陰(出雲)や畿内(大和朝廷)に流入していたようです。


そこで、これら関係者(宗像/出雲/大和朝廷)が、「鉄」の管理に関する協定を結んだのが「アマテラスとスサノオの誓約」で、その結果として生まれたのが「宗像大社」、および「宗像三女神」という訳です。


つまり、三氏族の関係者が「鉄」に関する通商協定を結ぶと共に、「鉄」の流入拠点に祠を建立し、そこに各氏族の信仰する神を祀り、「鉄」貿易に関する安全を祈願し、かつ該当地域を管理した、と言う説です。


元々、宗像地域と出雲地域は、古くから、「鉄」その他を通した通商関係が構築されていたようですが、そこに、「大和朝廷側が、横槍を入れるような感じになったとしています。


このため、宗像地域では、「市杵島姫神」や「田心姫神」を単独で祀る神社があるのですが、逆に、「湍津姫神」を単独で祀る神社が存在しない様です。


この事実が、宗像地域における、三女神の微妙な関係を裏付けているとも言われています。

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この学説は、天皇家(宮内庁)や、神社関係者、その他諸々の利害関係者が存在するので、学会として認めるのは難しいとは思うのですが、これまで多くの説を読んできた私的には、一番、スッキリする内容でした。


この説では、北九州各地の神社の御祭神を全て調べ上げ、さらに数種類存在する前述の「誓約神話」の登場人物、並びに人物の変遷等も調べ上げています。


また、「宗像氏」の系図を調べると共に、北九州から出雲に至る、当時の古墳形状や埋葬品などの関係も調べる等、凄く本格的な調査を行っています。まあ、東北地方の情報に関しては、多くの間違った指摘もありますが・・・


単に、記紀や寺社の由緒書の記載内容から、とんでもない想像を膨らましている、いわゆる「スピリチュアル系」のサイトとは大違いです。


つまり、次の様な観点で、「宗像信仰」と「鉄」との関係を見事に調べ上げています。


・「宗像大社」の由緒書と記紀との関係
・北九州、および出雲の神社の配置と御祭神
・北九州、および出雲の古墳形状と埋葬品
・「鉄」の流入経路の調査
・「宗像大社」の配置図(背後関係)の調査
・「宗像三女神」と各氏族の関係


ここまで綿密に調査し、その結果を理路整然とまとめていますので、なかなか凄い学説だと思います。

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そして、この「宗像三女神」と「瀬織津姫命」との関係ですが、「宗像三女神」の内、「湍津姫神」が、時代は解らないにしても、何時の世からか、「瀬織津姫命」と習合したと言われています。


湍津姫神」の「たぎつ」とは、「滾つ」、つまり、水が激しく流れる様を表すことから、「滝の神」、あるいは「川の神」ともされています。


日本全国に、「滝」、「瀧」、あるいは「多岐」と名の付く多くの神社があり、その御祭神の多くに「湍津姫命」が祀られています。


一方、「瀬織津姫命」も、ずいぶん前に紹介した「大祓詞」では、「瀬織津姫命」は、『 高い山・低い山の頂から勢いよく流れ落ちて渓流となっ ている急流に住んでいる』とされ、こちらも「滝」、および「川」の神様とされています。


また、「湍津姫命」と同様、「滝」、あるいは「瀧」と言う字が付く神社の多くは、「瀬織津姫命」を御祭神にしています。


このため、どちらの女神も、「滝」や「川」等に関係する神であることから同一神と見ている方が多く、先の静岡理工科大学の論文でも、「湍津姫命瀬織津姫命」とみなしています。


さらに興味深いのは、上記「滝」、あるいは「瀧」の字の付く神社では、「湍津姫命」と「瀬織津姫命」を一緒に祀っている神社がほとんど無いそうです。


加えて、「湍津姫命」を祀る地域が多い場所には、「瀬織津姫命」を祀る神社が無く、逆に「瀬織津姫命」を祀る神社が多い地域には、「湍津姫命」を祀る神社が無いそうです。


まあ、岩手県八幡平市の「櫻松(桜松)神社」では、堂々と「瀬織津姫命」と「湍津姫命」の二柱を御祭神としていますので、この調査とは一致しませんが・・・何せ、北九州の「宗像信仰」の調査ですので、その点はご愛嬌かと思います。


そして、これら「排他的」な「御祭神」の配置から推測すると、やはり「瀬織津姫命 = 湍津姫命」となり、どちらも同じ女神で、何時の世からから別名で呼ばれる事になってしまったので、一緒に祀る事が無いのではないかと考えられているようです。


逆に、上記「櫻松神社」では、何故、二柱が一緒に御祭神として祀られているのか ? 逆に、この点の方が興味深いと思います。

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ちなみに、岩手県内で「宗像三女神」関係を祀っている神社は、岩手県神社庁の情報によると、下記18神社となっているようです。

自治 神社 田心姫神 湍津姫神 市杵島姫神 瀬織津姫
洋野町 有家(うげ)神社
久慈市 巽山稲荷神社
厳島神社
八幡平市 厳島神社
櫻松神社
盛岡市 松尾神社
多岐神社
雫石町 沼田神社
紫波町 堤島神社
遠野市 龍神
花巻市 八幡神社
西和賀町 厳島神社
釜石市 厳島神社
三貫嶋神社
北上市 姫神
奥州市 鎮守府八幡宮
神明神社
大船渡市 市杵島神社
18 2 4 16 1


北九州や山陰に比べると非常に少ない数となっています。


しかし・・・調査を行う前までは、岩手県に、遥か彼方の「宗像大社」関連の神様を御祭神にしている神社など、存在しないと思っていたのですが・・・それなりに存在しているので、こちらとしては驚いています。


この内、「瀬織津姫命」と「湍津姫命」二柱を一緒に祀っている、珍しい「櫻松神社」がありますが、全国的に見ると、「瀬織津姫命/湍津姫命」の二柱、あるいは「瀬織津姫命/宗像三女神」の四柱を一緒に祀っているのは、この他には、下記3つの神社くらいではないかと思われます。


・辻八幡宮末社「皐月神社」 :福岡県宗像市 瀬織津姫命と宗像三女神
・「宇賀田神社」 :三重県志摩市 瀬織津姫命と五男三女神
・「中津瀬神社」 :山口県宇部市 瀬織津姫命と宗像三女神(配神)


実際には、上記以外の神社もあると思いますが、さすがに、日本全国各地の神社庁のホームページを探す事は出来ませんでした。


それでは、「瀬織津姫命」と「湍津姫命」とは、どのような関係だったのでしょうか ?

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■「瀬織津姫命」と「湍津姫命」との関係

次に、「瀬織津姫命」と「湍津姫命」の関係について考察してみたいと思います。


前述の学説では、「瀬織津姫命 = 湍津姫命」としており、当初は、大和朝廷の代表として、「瀬織津姫命」が、「宗像大社」に祀られていたと考えているようです。


瀬織津姫命」は、これまで何度も紹介してきた通り、祓戸大神の一柱として非常に重要な神であり、「天照大御神」の「荒ぶる魂(荒御魂)」としても重要な神様です。


このため、「宗像大社」を始め、全国の神社で、現在、「湍津姫命」を御祭神として祀っている神社では、その昔は「瀬織津姫命」を御祭神として祀っていたのではないかとしています。


そして、前述の通り、何時の頃からか、御祭神が「湍津姫命」に変えられてしまったとしています。


瀬織津姫命」が、別の御祭神に変えられてしまった理由としては、次のように諸説入り乱れています。



記紀において、男神天照大御神」が、女神とされてしまったので、その妻「瀬織津姫命」が邪魔者となってしまった。
天皇の正統性を確立した第41代「持統天皇」を、「天照大御神」と同一視させる過程で、やはり「瀬織津姫命」の存在が邪魔になってしまった。
・「瀬織津姫命」が、蝦夷の守護神とされていたので、蝦夷討伐と同時に「瀬織津姫命」も抹殺されてしまった。



確かに、これまで紹介してきたブログの内容を考えると、どの説も、それなりの説得力があるように思えますが、何かイマイチです。



しかし、何れの説も、その背景には、次のようなキーワードが潜んでいるように見受けられます。


・第40代「天武天皇」、および、その妻である第41代「持統天皇(女帝)」の影響
・「日本書紀」の編纂開始と成立
・「持統天皇」による第1回神宮式年遷宮の実施
・大陸/半島との外交活動の影響


特に、第41代「持統天皇」は、有能と言う評価の反面、政治的野心が強い人物と言う評価が非常に多く、夫である第40代「天武天皇」の生前から、政治に関しても数多く口出しをしたと伝えられています。


また、自身の在位期間、さらに、自身の孫となる「軽皇子(後の文武天皇)」に譲位した後も、強い影響力を行使していたとされています。


さらには、前述の通り、自身の孫を天皇に付けるため、「天武天皇」の息子ではありますが、別腹の長男「高市皇子」、および三男「大津王子」を暗殺したとも伝えられる猛女です。


天皇家、さらには自身の神格化を図るためであれば、歴史や事実を「捻じ曲げる」事など、何とも思わない人物であったと思われます。


このため、「持統天皇」にとっては、「日本書紀」は、とても重要な書物になりますので、その中から、「不都合な真実」を消し去ると共に、事実を捻じ曲げる事になったと思います。

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それでは、何故、「大和朝廷」側、つまり「持統天皇」が、日本書紀の「アマテラスとスサノオの誓約(うけい)」神話で、「瀬織津姫命」ではなく「湍津姫命」を登場させたのかと言うと、それは、大きくは次の2点が原因とする説があるようです。


●外交関係上の問題
●神様の出自の問題



持統天皇(645〜703年)」の時代、7世紀中頃から後半に掛けては、大陸には「唐」、半島には、「高句麗」、「新羅」、そして「百済」の三国が並立する時代でしたが、668年以降は、「新羅」が、半島を統一していました。


そして、日本では、630年から遣唐使と言う名称で唐には朝貢しつつも、新羅からは、逆に朝貢を受けると言う複雑な関係だったようですが、663年の「白村江の戦い」で、「唐・新羅」連合軍に大敗しているので、戦後処理や失地回復に必死だったと思います。


しかし、その後、唐と新羅が半島の支配を巡り交戦状態となり、その結果、唐、および新羅の双方から通交を求められ、外交状況は好転していたようです。


そんな状況で、「天武天皇(在位673〜686年)」が、国史の編纂を決定し、その意志を継いだのが「持統天皇」です。


このため、「日本書紀」は、日本国内は当然、大陸や半島の国々に対しても、日本と言う国の生い立ちや、天皇の正統性を伝える事で、国家としての歴史と独立性を伝える重要な書物になると考えるのが当然だと思います。



他方、「瀬織津姫命」と言う神様の生い立ちは、(詳しくは別章で紹介しますが)渡来人、特に「新羅」系の渡来人に由来すると考えられています。


このため、この「セオリツ」と言う言葉の生い立ちは、明治時代の言語学者「金沢庄三郎」によると、元々は、古代韓国語「ソ」、「プル」、「ツ」の3語から形成されているとされています。つまり、


「ソ」・「プル」・「ツ」 :ソ = 大きな or 鉄、プル = 邑(村)、ツ = (助詞)の → 大きな鉄の村 → 新羅

「ソ・ホリ・ツ」 :大きな村、現在の「ソ・ウル」と言う韓国語と同じ

「セオリツ」姫 :大きな村の姫


この通り、「セオリツ姫」とは、元の意味を辿ると、古代韓国語で「大きな村の姫」、「ソウル姫」となってしまいます。


前述のように、日本を、神々が作った独立国家として諸外国に認めさせようとしている時に、その神々の中でも、比較的重要な神の名が「ソウル姫」では話になりません。


特に、「新羅」とは、「白村江の戦い」で大敗した直接の相手国でもありますので、その相手に対して、日本の神は「ソウル姫」、さらに元の名前は「大きな鉄の国の姫」 = 「新羅姫」等とは、口が裂けても言えません。


このため、神の名前が変えられたのは当然と言えば当然だと思います。

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他方、神様の地位も問題になったようです。


瀬織津姫命」以外の「宗像三女神」は、「田心姫命」と「市杵島姫命」ですが、こちらの二柱の神々は「土着の神様」、いわゆる「国津神」です。


神様に関しては、様々な分類方法がありますが、その一番のベースが、次の2種類です。

国津神(くにつかみ) :元々、昔から日本にいた土着の神、地神。例:大国主建御名方神猿田彦、須佐男命、等
天津神(あまつかみ) :高天原にいる神、および地上に降臨してきた神。例:天照大御神月読命武甕槌命、等


ところが、「瀬織津姫命」は、「天津神」のメンバーです。このため、そのままでは、「宗像三女神」には入ることが出来なかったと思われます。


そこで、「湍津姫命」と言う、新しい「国津神」を作り出し、その上で「宗像三女神」としたのだと考えられています。

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これらの理由で、「瀬織津姫命」が歴史から抹消され始めたのですが、北九州、山陰、畿内、そして、その後の大和朝廷の影響力が広がるにつれ、「瀬織津姫命」の名も、どんどん抹殺されてしまったのだと思いますが、一部の地域、例えば、岩手県静岡県等、中央から離れた場所は、「改名の網」から漏れてしまったのだと思います。


ところで、何故、「瀬織津姫命」の名が、「湍津姫命」になったのかというと、詳しいことは、当然解っていませんが、やはり、「大祓詞」の影響があるとしています。


大祓詞」では、「瀬織津姫命」に関しては、次の様な場所にいらっしゃるとしています。


『 高山の末低山の末より 佐久那太理に落ち多岐つ 早川の瀬に坐す瀬織津比売と伝ふ神 』


この「多岐つ」と言う言葉がキーワードです。「多岐つ = タギツ = 湍津」です。


つまり、前述のように、「湍津(たぎつ)姫」の「たぎつ」とは、「瀬織津姫命」をいらっしゃる場所を形容する言葉を起源にしていると推測されています。


この名前の起源から「瀬織津姫命 = 湍津姫命」と考えられるとしています。



それでは、「大祓詞」に登場する「瀬織津姫命」ですが、元々、どのような神様だったのでしょうか ?

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■「瀬織津姫命」が生まれた背景

瀬織津姫命」に関しては、これまで何度も紹介してきた様に、現在の神道関係、および記紀においては、各地の御祭神として祀られているか、あるいは祝詞の一種「大祓詞」にのみ登場する神様ですが、どのような過程を経て、何時生まれて、どのような性格やご利益がある神様なのか等、一切、解らない状況です。


唯一、「大祓詞」の中で、住んでいる場所と、罪穢れの祓い方が紹介されている程度です。


『 遺る罪は在らじと 祓へ給ひ清め給ふ事を 高山の末低山の末より 佐久那太理に落ち多岐つ 早川の瀬に坐す瀬織津比売と伝ふ神 大海原に持出でなむ 』


→ こうして祓い清められた全ての罪は、高い山・低い山の頂から勢いよく流れ落ちて渓流となっている急流にいらっしゃる瀬織津比売と呼ばれる女神が大海原に持ち去ってくださるだろう


罪穢れを払い去って下さる事は、本当に、ありがたいのですが・・・

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「セオリツヒメ」に関しては、本ブログでは、便宜上「瀬織津姫」と言う漢字に統一して使っていますが、それ以外は、次の様な漢字で表されています。

・瀬織津比竎
瀬織津比売
・瀬織津媛


特に「ヒメ」と言う漢字ですが、上記「比竎」、「比売(賣)」、「媛」以外では、「日女」、「火売(賣)」、そして「姫」等と言う漢字があります。


何で、こんなに沢山「ヒメ」という字があるのかと思ってしまいますが、この件に関して、先の学説では、元々、「女神」を表す「ヒメ」と言う字は、「比竎(ひめ)」と言う字しか存在しなかったようです。


他方、「比竎」と言えば、「比竎神」、あるいは「比竎大神」と呼ばれる女神がいます。


そして、「比竎(大)神」と言う神様ですが、現在の説では、「比竎神」と言う特定の神様は存在せず、主祭神の親族や関係の深い神様を、主祭神の配神として祀るケースが多いとされています。


また、「比竎(大)神」を祀る神社として有名なのが、下記の神社となります。


大分県宇佐市宇佐神宮」 :主祭神八幡神(応神天皇誉田別尊)」、「比竎大神(宗像三女神)」、「神功皇后」の三柱。全国約44,000社の「八幡宮」の総本社。
・石川県白山市「白山比竎神社」 :主祭神「白山比竎大神(菊理媛命)」、「伊邪那岐(イザナギ)尊」、「伊弉冉(イザナミ)尊」の三柱。全国約2,000社の「白山神社」の総本社。
奈良県奈良市春日大社」 :主祭神「武甕槌(タケミカズチ)命」、「経津主(フツヌシ)命」、「天児屋根(アメノコヤネ)命」、「比竎神(天児屋根命の妻)」の四柱。藤原氏氏神を祀る神社。
熊本県阿蘇市阿蘇神社」 :主祭神「健磐龍(タケイワタツ)命」、「阿蘇都比竎命」他十柱、合計「阿蘇十二明神」。全国約450社の「阿蘇神社」の総本社。


そして、上記4つの神社は、現在は、全く異なる御祭神を祀る神社ですが、その始祖を辿れば、当初は、全て新羅系渡来人を祀っていた神社ではないかと考えられています。


宇佐神宮応神天皇を祀る神社であるが、元は、新羅系渡来人「秦氏」の氏神を祀っていたと思われる。
・白山比竎神社 :「白山」自体を御神体とし、新羅系渡来人「秦氏」の子孫と伝わる「秦澄」が開山した神社。
春日大社 :中臣氏(後の藤原氏)の氏神を祀る。中臣氏は、新羅系「秦氏」の一族と見られる。
阿蘇神社 :「阿蘇氏」の始祖を祀る神社。「阿蘇氏」は、新羅系渡来人「多氏(おおうじ)」の子孫と伝わる。


他方、日本の神様には、ランクがあるのはご存知ですよね ?


よく、稲荷神社などには、「正一位稲荷大明神」と言う「ノボリ」がひるがえっているのを見たことがあると思いますが、この「正一位」と言うのがランクの一種となります。


「神様のランク」、正式には「神階」と呼ばれるものですが、人臣に授ける階位と同じ仕組みで、次の3種類あります。


【 文位 】
別名「位階」とも呼ばれ、「正六位」から「正一位」までの15階の位と階位を超越した神社、計16種類の位がある。例えば、「六国史」完成時点の神階は、次の通りです(※六国史以降は神階を乱発)。

位階超越 :伊勢神宮伊勢大神」、國懸神宮「國懸(くにかかす)神」、日前神社「日前(ひのくま)神」
正一位 :宮中の八神、春日大社春日神」、大名持神社「大己貴(おおなむち)神」、等
従一位 :宮中「宗像三比竎神」、廣田神社「広田神」、住吉大社「住吉神」、諏訪大社建御名方神」、等
正二位 :熱田神宮「熱田神」、宗像大社「三比竎神」、二荒山神社「二荒神」、阿蘇神社「健磐龍神」、等
従二位 :月山神社「月山神」、熊野大宮神社「熊野巫神」、鳥海山大物忌神社大物忌神」、等
正三位 :白山比竎神社 「白山比竎神」、富士山本宮浅間大社「浅間神」、金峯神社「金峰神」、等
従三位阿蘇神社「阿蘇比竎神」、波比売神社「波比売神」、伏見稲荷大社「稲荷神」、等
以下は、正四位従四位上従四位下正五位従五位上従五位下正六位従六位上従六位下


【 武位 】
別名「勲等」、「勲位」とも呼ばれる階位で、「勲十二等」から「勲一等」までの12等があり、武勲を上げた神様に授けられる。「神様の武勲」とは、戦勝祈願を行った際、実際に戦に勝利した場合など。

勲一等 :春日大社春日神」、香取神社「伊波比主(いわいぬし)神」、鹿島神宮武甕槌神」、等
勲二等 :松尾大社「松尾神」、葛城一言主神社「葛城一言主神」、等
勲三等 :鳥海山大物忌神社大物忌神」、大和神社倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)」、等
勲四等 :二荒山神社「二荒神」、等
勲五等 :阿蘇神社「健磐龍神」、日高見神社「日高見水神」


【 品位 】
人に授ける場合は皇族のみで皇族の位階を表す。神に授けた例は殆ど無い。中国の「九品」に由来し、新羅の「骨品制」がある。

一品 :宇佐神宮八幡神」/「八幡比竎神」、伊弉諾神宮「伊弉諾神
二品 :吉備津神社吉備津彦命

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「神様」にも階位を付けるなど、「無礼千万」な感じがしますが、「律令制」が導入された当初は、「神階」の順に応じて土地を支給する制度があったそうですが、その内に、「位田」の支給は無くなり、栄誉/名誉的な要素が強くなったようです。


「神階」は、当初、神官や国司の申請に基づき公卿が検討し、天皇への奏聞(そうもん)を経て決定していたのですが、平安時代になると神官や国司が、室町時代以降は「吉田家」が、「宗源宣旨(そうげんせんじ)」と呼ばれる宣旨で、勝手に神階を発行するようになってしまったようです。


「神様」に、最初に「位階」を授けた事に関しては、「日本書紀」に、「壬申の乱(673年)」に際して、大海人皇子(後の天武天皇)を守護したとして位を授けた、と言う記述があるそうです。


高市御県坐鴨事代主神(たけちのみあがにますかものことしろぬしのかみ)
・牟狭坐神(むさにますのかみ)
・村屋坐弥富都比売神(むらやにますみふつひめのかみ)


「武位」に関しては、「藤原仲麻呂の乱(765年)」に際して、霊験を現したとして、琵琶湖の竹生島にある「都久夫須麻神社」の「都久夫須麻神」に「勲八等」を授けた事が記録されているようです。


そして「品位(ほんい)」ですが、奈良時代の「天平勝宝元年(749年)」に、「宇佐神宮」の「八幡神」と、その妻となる「八幡比竎神」に、それぞれ「一品」、および「二品」を授けたとしています。


本ブログを書く前は、「正一位の神社は凄いご利益があるんだろうな〜」等と勝手に思い込んでいたのですが・・・、こうして調べてみると、現在「正一位」とか謳っている神社も、「何だかな〜」と言う感じがしてしまいます。

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しかし、「宇佐神宮」の「八幡神/八幡比竎神」の取り扱いは「異例中の異例」だと思います。


まあ、「伊弉諾神宮」や「吉備津神社」の扱いも特別ですが、こちらは、「品位」が授けられたのは9世紀とされていますので、やはり「宇佐八幡」は、特別なのだと思います。


「宇佐八幡」の主祭神は、前述の三柱ですが、一之御殿の御祭神は「八幡大神」とも呼ばれている「応神天皇(諱:誉田別尊(ほむたわけのみこと)」になっています。


これは、第29代「欽明天皇(在位539〜571年)」の時代となる569年、宇佐の地に、1つの身体に頭が8個ある「鍛冶翁(かじのおきな)」が現れ、この姿を見た者が、病気になったり、死んでしまったりしたそうです。



これを聞いた「大神比義(おおがのひぎ)」と言う「大神」氏の始祖となる人物が見に行くと、既に翁はおらず、代わりに「金色の鷹」がおり、この鷹も「金色の鳩」に姿を変えたそうです。


その後、この地で祈祷をすること三年、三才の童子が現れ、次の託宣(たくせん)を告げた後、「黄金の鷹」になり松の枝に止まったとされています。


『 われは誉田(ほむだ)の天皇(すめらみこ)広幡(ひろはた)八幡麿(やはたまろ)なり。わが名は、護国霊験(ごごくれいげん)威力神通(いりょくじんつう)大自在王菩薩(だいじざいおうぼさつ)で、 神道として垂迹せし者なり。 』



その後、飛鳥時代となる「和銅元年(708年)」、松があった地に「八幡様」を祀る「鷹居社」を創建し、さらに現在の地に遷宮をしたのが「宇佐神宮」とされています。


そして次の、二之御殿には、上記の「品位」の説明では、「八幡比竎神」として、「八幡神」の妻を祀るとしていますが、実際は、宗像三女神となる「多岐津(たぎつ)姫命」、「市杵嶋姫命」、「多紀理(たぎり)姫命」が祀られています。


実は、この三柱は、「八幡神」を祀るより以前、神代の時代には、既に「宇佐嶋」に降臨した事が「日本書紀」に記載されおり、「地主神」として祀られていたそうですが、これを「天平5年(733年)」、二之御殿として祀ったものとされています。



最後に、三之御殿には、二之御殿より遅れること100年、平安時代弘仁14年(823年)」に、「神功皇后」が祀られているようになったとされていますが、「神功皇后」は、「応神天皇」の母親とされていますので、宇佐においても「母神」と言う位置付けになっているようです。


さて、「宇佐神宮」が、神階の「品位」を授かった理由ですが、「応神天皇」を祀っている事が理由では無いようです。


聖武天皇」の御代、奈良時代となる「天平15年(743年)」の東大寺造営の際、宇佐神宮宮司等が、託宣を携えて上京し、造営を支援したことから中央との結びつきを強め、その結果として「品位」を授かったと言われています。

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さて、神様の階級について触れましたが、先の学説では、「ヒメ」と言う字にも、階級があるとしています。


前述の通り、元々、「ヒメ」と言う字は、「比竎」と言う字しか存在しなかったとしています。


その証拠としては、神社に、複数の女神が祀られている場合、主祭神には「比竎」の文字が使われ、それ以外の女神には、「比竎」以外の文字、「比売(賣)」、「媛」、「日女」、「火売(賣)」、そして「姫」が使われているようです。


そして、「祓戸三神」や「宗像三神」等、同格の女神が祀られている場合は、全ての女神に「比竎」の字が使われているようです。


他方、例えば、同じ女神でも、「比竎」が付くケースと、「比竎」以外、例えば、「比売(賣)」が付けられるケースがありますが、「比竎」が付く時には主祭神で、「比売」等が付く時には「配神」となるケースが多く見受けられます。


さらに、同じ「比竎」が付く女神でも、次の順位となっているように見受けられるとしています。

八幡系 → 春日系 → 白山系 → 祓戸系


これは、例えば、八幡系と白山系の女神が二柱祀られている場合、八幡系は「比竎」となり、白山系は「比賣」となるという現象です。


何か、「カードゲーム」の強さを競っているような感じですが、やはり「品位」が高い、八幡系の「比竎」が、最も尊ばれていたようです。


それでは、どうして八幡系「比竎」が、最も尊ばれるのかと言うと、やはり、国内への伝播が速かった事が順位/強さに影響を与えているようですが、前述の通り、ほぼ全ての「比竎神」は、新羅系渡来人が持ち込んだ神様です。


これらの事から、「比竎神」とは、当初は、単一の神を示していると考えられています。


このため、当初の「比竎神」と区別するため、後から生まれた女神には、「固有名詞 」+「比竎」が付けられ、その順位/権威により、「比竎」が付いたり、「比売」が付いたりしたのではないかと考えられています。


ちなみに、「比竎」が付く女神でも、「菊理媛(くくりひめ)命」には、別のルーツがあるとも考えられています。


前述の説明では、「白山神社」も、新羅系渡来人「秦氏」の血を引く「泰澄」が開山した「白山比竎神社」が総本社ですので、こちらも新羅系の「比竎」を祀るとしましたが、この「ククル」については、様々な説があるようです。

・括る :「日本書紀」で「イザナギ」が黄泉の国から帰る場面で、「イザナミ」との仲を取り持ったと言う説
高句麗 :「くくり=こうくり(高句麗)」とし、高句麗系渡来人の「比竎神」ではないかとの説
・潜る :「くぐる」。水との関係で「水神」と言う説

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さて、それでは、「最初の比竎神は、誰だったのか ? 」と言う点が問題になります。


漢字はさて置き、「ヒメ」と言うのは、元々、女性に付けられる尊称で、古くは、女性の族長/首長を表していたとされています。


日本、3世紀当時の「倭国」における「女性の族長/首長」と言うと、皆さん、誰を思い浮かべますか ?


また、「ヒメ」と言う字に当てられた「比竎」ですが、これを「ヒメ」と読むのは、おかしいと思いませんか ?


通常、「比竎」という漢字は、「ヒミ」と読むのが普通で、その昔は、やはり「比竎」と書いて「ヒミ」と読んでいたとされています。


このため、宇佐神宮に祀られていた女神「比竎」は、「ヒメ」ではなく「ヒミ」と言う女神が祀られていたと考えられています。


と言うことで、先の学説では、当時の「倭国」で、女性の族長/首長で、名前に「ヒミ」が付くと言えば、「卑弥呼」しか思い当たらないとしています。


そして、「卑弥呼」の「呼」は、元々は、「乎」と言う漢字で、この字は、神の名を呼ぶ際、神の名を強調するための感嘆符「!(エクスクラメーションマーク)」とされていますので、「比竎」と言う神を呼ぶ際、「ヒミ !」と呼んでいたものが、「ヒミコ」として「魏志倭人伝」に記録されたものだと考えれています。


以上の事から、宇佐神宮に祀られていた「比竎大神」は「卑弥呼」であり、ここを起源として、新羅系の渡来人が各地に拡散すると同時に、「比竎大神」も日本各地に祀られるようになったと考えれています。


ところが、その後、「瀬織津比竎」を始め、様々な女神が登場すると、オリジナルの「比竎大神」と区別するために「固有詞 + 比竎」と言う表記方法になって行ったと推測されています。


「瀬織津比竎」の場合、前述の通り、オリジナルの「比竎 = 卑弥呼」と区別するために、「比竎」の前に、「大きな鉄の国 = ソウル」を付けて「ソウル + 比竎 = 瀬織津比竎」になったと考えられます。


その後、日本書紀の編纂、そして完成を迎えるまでの間に、「瀬織津比竎」が「湍津比竎」に強制的に変更させられ、さらに「比竎」と言う漢字も、徐々に「姫」と言う漢字に変わって行ったのだと考えられています。


しかし、中央から遠く離れた東北、特に岩手県、それと新羅系の渡来人が数多く住んでいた静岡県に関しては、大和朝廷の監視の網から漏れてしまい、今に至るまで御祭神としての「瀬織津比竎」が残ったままになってしまったのだと思います、

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■「瀬織津姫命」とその他の神様、人物、物との関係

さて、本シリーズの最後となりますが、「瀬織津姫命」と習合しているとされる、その他の神様や人物を紹介したいと思います。


最初に「織姫」を紹介します。


日本における「織姫」は、「七夕伝説」で有名ですが、その起源は、中国の「道教」の「牛郎織女(ぎゅうろうしゅくじょ)」と言う七夕伝説に登場する「仙女」と言われています。


また、平安時代に編纂された神道の書物「古語拾遺」においては、過去ブログで紹介した「天の岩戸」伝説に登場し、「天照大御神」に献上する衣(神衣和衣)を織った「天棚機姫神(あめたねばたひめ)」と同一視しているようです。


他方、「瀬織津姫命」には、その名前に「織」と言う字が付くことから、この「織姫」と習合させているケースも多く見受けられます。


しかし、こちらの説、つまり「瀬織津姫命 = 織姫」説は、現在の所、ほぼ何の根拠も裏付けもない説のように見受けられます。


瀬織津姫命」が、謎の多い神様であることをいい事に、スピリチュアル系の方々が、勝手に習合してるだけのようです。

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次は、京都市にある「貴船神社」の御祭神「高龗神(たかおかみのかみ)」と習合しているケースも見受けられるようです。


この御祭神は、日本書紀では「高龗神」と表記され、古事記では「淤加美神(おかみのかみ)」と表記されているそうですが、水の神様「水神」とされています。


前述の「宗像大社」がある宗像市の隣の福津市津屋崎には「波折神社」がありますが、この神社の御祭神が「瀬織津姫命」となっております。


そして、江戸時代の『筑前国風土記付録』には、この「波折神社」の御祭神は「貴船神」と記載されてるそうです。


福岡藩国学者「青柳 種信」は、この「波折神社」の由緒書を作成する際、「当社に祭るところの神は瀬織津姫大神また木船神とも称え申す」としたそうです。


また、「宗像大社」に伝わる古文書で、鎌倉時代末に編纂された「宗像大菩薩御縁起」には、「貴船大明神が大宮司館に祀られていた。」とされていますので、「宗像大社」と「高龗神」は、密接に繋がっていたと思われます。

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瀬織津姫命」は、これまで何度も紹介した通り、「大祓詞」に登場する「祓戸四柱」の一柱で、清流に住んでいるとされるところから、水や滝、それと龍神様と習合するケースも多く見られます。


上記の「高龗神」/「淤加美神」も、水神様とされていますので、まさに、この関係だと思います。


日本全国、到る所で、滝(瀧)に関係する神社には、「瀬織津姫命」が御祭神になっている神社が沢山あります。


このように、滝(瀧)、および河川に、「大蛇」、あるいは「竜(龍)」と関連付けているケースもあるので、水や蛇、あるいは滝と言うキーワードに関連する、神社の多くに「瀬織津姫命」が祀られています。


さらに、元々は、ヒンドゥー教の女神「サラスヴァティー」だった「弁財天」が、仏教の伝来と同時に日本にも伝わり、様々な神仏と習合して祀られるようになりました。


この女神は、インドに於いては「河川の神様」だった事から、日本でも、「水関係」と結び付いて祀られたのですが、やはり「水関係」と言うことで、「瀬織津姫命」と習合したケースも見受けられます。

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その他は、と言うと「瀬織津姫命」と「鉄」の関係です。


瀬織津姫命」と「鉄」の関係としては、前述の通り、「瀬織津姫命」が、「大きな鉄の国の姫」を意味していると言う説がある通り、「鉄」とは密接な関係があると言われています。


そして、日本において「鉄」と言うと、「金山様」、あるいは「金山彦命」がいらっしゃり、どちらも「鍛冶屋の神様」と言われています。


しかし、「金山様/金山彦命」と「瀬織津姫命」とは、実際には、余り結び付いていないように見受けられます。


一部の神社で、御祭神として一緒に祀られいるケースも見受けられますが、その関係は希薄です。


前述の学説では、「瀬織津姫命」と「鉄」は、「宗像大社」をめぐり、非常に強い関係が築かれているようだったのですが、何か意外な感じがします。

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最後に、「瀬織津姫命」と習合した者として、三途の川で、亡者の衣類を剥ぎ取る「奪衣婆(だつえば)」を紹介しますが・・・こちらも、確かな証拠や根拠は無い様に見受けられます。


「奪衣婆」は、別名「葬頭河婆(そうづかば)」、「正塚婆(しょうづかのばば)」、「姥神(うばがみ)」、あるいは「優婆尊(うばそん)」等とも言われる女性です。


そして、この「奪衣婆」は、三途の川で、次のような行為を行うと伝えられています。


・亡者が盗みを働かないように指の骨を折る
・亡者の衣類を剥ぎ取る
・服が無い亡者の場合、皮を剥ぎ取る
・剥ぎ取った衣類の重さで、生前の業の深さを測り、死後の処遇を決める


また、「奪衣婆」が剥ぎ取った衣類を、川の畔にある「衣領樹」と言う大樹に掛けて、その重さを測る「懸衣翁(けんえおう)」と言う老人も居るそうですが、何故か、「奪衣婆」のみがクローズアップされ、この「懸衣翁」の影は薄くなってしまったそうです。


そして、この「奪衣婆」と「瀬織津姫命」の関係ですが、一説では、この「衣類を剥ぎ取る」行為が、人間の穢を払う行為と同一視され、その結果、「奪衣婆」と「瀬織津姫命」が習合したと言われているようです。


しかし、この説も、何の根拠も無く、信憑性が薄いようです。

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以上が、「瀬織津姫命」と習合した、代表的な神様や人物となります。


しかし、何度も記載していますが、「瀬織津姫命」自体、謎だらけの神様なので、皆さん、特にスピリチュアル系の方々は、好き放題、様々な者に習合してしまっています。


「鬼女」として有名な「橋姫」、「浦島太郎」伝説に登場する「乙姫」、「宗像三女神」の一柱「市杵島姫神」、「天照大御神」の弟「月読命」・・・もう、本当になんでもありの状況です。


このような状況ですので、「瀬織津姫命」は、今後も、自分の都合の良い神様や人物に習合され続けて行くのだと思われます。


余計、訳が分からない神様になってしまうような感じがします。

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もはや、「早池峯信仰」は影も形も無くなってしまいましたが、「瀬織津姫命」に関して、次の内容を紹介しました。


■「宗像三女神」との関係
■「瀬織津姫命」と「湍津姫命」との関係
■「瀬織津姫命」が生まれた背景
■「瀬織津姫命」とその他の神様/人物との関係


今回は、シリーズの最後として、「瀬織津姫命」と言う女神が生まれた経緯を、「宗像信仰」に関係する学術調査を行った静岡理工科大学の学説をベースとして紹介しましたが如何でしたか ?


瀬織津姫命」の正体に関しては、諸説入り乱れて、何が何だか解らない状況になってしまっていますが、私としては、今回紹介した説が、現在の状況では、一番筋が通った内容になっているのではないかと思っています。



本シリーズでは、当初、「早池峯権現 = 瀬織津姫命」とし、その「瀬織津姫命」が、実は、「熊野権現」であると言う、数々の証拠を紹介して来ました。


しかし、「早池峯信仰」に関しては、そのオリジナルが「熊野信仰」である事が明らかになった時点で、その役目が終わりを迎えてしまった訳ですが、これは、(言い訳ではありませんが)最初から予想した通りのシナリオです。


「早池峯権現 = 瀬織津姫命」に関しては、既に2015年のブログで紹介していますので、今回は、当初から「瀬織津姫命」の謎を追求しようと思っていました。

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瀬織津姫命」は、信仰よりも政治が優先され、その結果、歴史から消えてしまった可愛そうな女神だと思いますが、神道も仏教も、結局の所は、為政者の都合により広がった信仰ですから、これは宿命とも言えるかと思います。


神様も仏様も、ある時点で、「こんな神様や仏様が居れば良いな〜」と言うことで誕生した存在です。


自然信仰の場合、山で安定した生活を暮らしたければ「山神様」、水が欲しければ「水神様」、海で大漁を祈願する時には「海神様」・・・全て人間の都合を優先して生まれた神様です。


また、大和朝廷、特に「天皇」の正当性を伝えるために生まれたのが、「伊邪那岐/伊邪那美」、それと「天照大御神」を始めとした神道系の神様達です。


そして、大和朝廷が、全国制覇を目指し、自然崇拝で祀られていた神様を淘汰し、全てを神道系の神様に置き換える行為が行われたのが、「持統天皇」以降の動きなのだと思います。


さらに、これらの神様では事足りず、海外から輸入したのが仏教で、その中心が、「如来」であり「菩薩」となります。


また、仏教に関しては、これら「如来」や「菩薩」でも人間を改心させることが出来ないと分かるや、インドの古代信仰やヒンドゥー教、あるいはゾロアスター教の神々までも「天部」として仏教に取り込んでいます。


その後、「本地垂迹思想」の元、「神道の神様」と「仏教の仏様」を同一視させたのは、過去に、自然崇拝で祀っていた神様を、神道系の神様に置き換えた考えや行為と全く同じです。

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本当に、人間、特に何らかの権力を持つ者の「欲」は際限ありません。


信仰対象を生み出した者達は、自分の考えを他人に押し付けるために、起きた事柄を都合よく捻じ曲げます。


そして、挙げ句の果てには「聖戦だ !」、「仏敵だ !」とホザイて、自分達の信仰を信じない者を攻撃し出します。


それが、過去の「十字軍」であり、現代では、カトリック武装組織「IRA」であり、「イスラム教徒」による数々のテロ行為です。


また、日本の「オウム真理教」は、トンデモナイ行為を行った宗教団体として非難されていますが、これが1,000年前ならば、当然、当時の為政者からは迫害されるとは思いますが、当時の宗教家としては、普通の行為だったのではないかと思われます。


1,000年前に「オウム真理教」が誕生し、今日まで活動が続いていれば、現在では多数の信者を抱える、一大宗教となっていた可能性も否定出来ないと思います。



今回紹介した「瀬織津姫命」も、冷淡な言い方をすれば、結局の所、政治の都合で生まれ、また政治の都合で表舞台から消された女神と言う事と言うのが全てなのだと思います。


それでは次回も宜しくお願いします。

以上

【画像・情報提供先】
Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)
岩手県神社庁(http://www.jinjacho.jp/)
・風琳堂(http://furindo.webcrow.jp/index.html)
花巻市ホームページ(https://www.city.hanamaki.iwate.jp)
・レファレンス協同データベース(http://crd.ndl.go.jp/reference/)
・Yahoo/ZENRIN(https://map.yahoo.co.jp/)
・千時千一夜(https://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo)
・公益財団法人岩戸山保存会(http://www.iwatoyama.jp/)
・IKUIKUの愉しみ(http://ikuiku-1919.at.webry.info/?pc=on)
田村神社(http://tamura-jinja.com/index.htm
・いわての文化情報大事典(http://www.bunka.pref.iwate.jp/
・むなかた電子博物館(http://www.d-munahaku.com/index.jsp)
宇佐神宮(http://www.usajinguu.com/index.html)

社内システムのクラウド化 〜 皆でクラウドにすれば怖いくないのか ? - その2


今回の「IT系お役立ち情報」は、前回お届けした「社内システムのクラウド化」の後編となります。


前回のブログでは、次の様な内容を紹介しました。


●そもそもクラウドとは何 ?
クラウド化メリット/デメリット
クラウドの種類


★過去ブログ:社内システムのクラウド化 〜 皆でクラウドにすれば怖いくないのか ? - その1


最初に、未だに、あいまいな「クラウド」と言う言葉の定義から始めて、従来の社内システム運用(オンプレミス)とクラウドの相違点を説明しました。


そして、このクラウドに関する、代表的なメリットとデメリットを紹介し、さらには、「非機能要件」と呼ばれている評価基準の視点から、クラウド運用が提供する要件をチェックして見ました。


システムに対する「非機能要件」とは、システム品質を評価する基準なのですが、クラウド運用に関しては、ある程度、品質要件は満たしている事が解りました。


クラウド」と呼ばれる言葉とサービスが展開され始めて、はや7年ほど経過していますが、クラウドも進化しており、新たしいサービス形態が生まれているようです。

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そして今回は、実際にクラウドを導入する場合に、どのような作業が必要になるのかと言う点に関する概要説明から始め、次のような情報を提供しようと思います。


クラウド導入までの全体の流れ
クラウドに適さない業務


それでは今回も宜しくお願いします。

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クラウド導入までの全体の流れ


それでは、クラウドに移行する場合に必要な、作業の流れを紹介したいと思います。


しかし、クラウド移行、つまりシステムの移行は、会社毎に異なります。


このため、今回は、「大体こんなもんだ」と言う流れを紹介します。


今回紹介する作業フローを参考に、「ウチの会社には、この作業はいらない。」とか、「ここには無いが、こんな事も必要だ。」等を考えて下さい。

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正直な所、クライドへの移行も、普通のシステム開発やシステム移行と、なんら変わりありません。


基本的な作業は、「設計 → 移行 → 試験 → 評価 」と言う4段階を踏み、最終的に、システムを本番稼働に切り替える事だけです。


しかし、実際のプロジェクトとなると、上記作業の前に準備作業が必要になりますし、そもそも、既存システムの調査/検討を行わず、最初から「クラウドありき」でプロジェクトを開始すると、そのプロジェットは、必ず失敗します。


既存システムに対する調査/検討を行い、その上で、クラウドに切り替えるメリット/デメリットを明らかにし、メリットが多い場合は、引き続き、クラウド化プロジェクトを進めれば良いと思います。


クラウドに移行するメリットが少ないにも関わらず、「クラウドありき」で、無理やりプロジェクトを進めると、その結果は、言わずもがなです。


このため、本ブログでは、「クラウド化プロジェクト」を、大きくは2つ、細かくは次の8つのフェーズに分類しました。


1.調査検討フェーズ:既存システムの調査分析を行い、クラウド化を推進するか否かを決定する
(1)フェーズ1:事前準備
(2)フェーズ2:計画立案
(3)フェーズ3:導入検討

2.移行導入フェーズ:クラウド化を推進する事が決定した場合に、実際に移行作業を行う
(4)フェーズ4:移行設計
(5)フェーズ5:移行作業
(6)フェーズ6:試験稼働
(7)フェーズ7:結果評価
(8)フェーズ8:本番開始


それでは、クラウド化を行う場合の、作業フェーズを紹介します。

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●フェーズ1:事前準備

このフェーズは、実際に、プロジェクトを開始する前段階の作業になります。このため、場合によっては、作業フェーズに組み込まないケースもあるかもしれません。


何らかのプロジェクトを開始する際は、誰かが発起人(オーナー)になり、次の様な事を決める必要があります。


・誰をリーダーにするのか :Who
・誰をプロジェクトに参画させるのか :Who
・プロジェクトの目標(ゴール)は何か :What
・いつ頃までに結論を出すのか :When
・当初の予算は、どの位必要なのか :How much


「5W2H」だと、あと「Where」と「Why」が必要ですが、「Where」は社内、もしくは業者ですし、そもそも、当初は「How(どうやって)」を決める事が作業内容になります。


また、この段階では、全ての予算や期間も明確にする事は出来ません。


この「クラウド化」のプロジェクトは、前述の通り、大きくは次の2つのフェーズに分かれています。


(1)調査検討フェーズ:既存システムの調査分析を行い、クラウド化を推進するか否かを決定する
(2)移行導入フェーズ:クラウド化を推進する事が決定した場合に、実際に移行作業を行う


当初は「調査検討フェーズ」だけを行い、その結果を踏まえて、「クラウド化を推進するか否か」を決める事になりますので、(2)のプロジェクト・フェーズは、上記(1)の結果次第と言う事になります。


このため、予算や期間は、(1)のプロジェクトのみを、本フェーズ以降で決める事になります。

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●フェーズ2:計画立案

このフェーズも、まだ計画段階の作業です。


フェーズ2は、フェーズ1の事前準備を受け、フェーズ1で選ばれたプロジェクト・オーナー、あるいはプロジェクト・リーダーが、次のような作業を行います。


1.プロジェクトに参加人員の決定 :Who
2.プロジェクト参加者の役割分担決定 :Why、How
3.プロジェクトの組織図決定 :Where
4.プロジェクトの期間と予算の決定 :When、How much
5.プロジェクト遂行に必要なりソース確保 :How、How much


つまり、このフェーズ2では、フェーズ1の内容を、より具体的に詰めて、プロジェクトを開始する事が出来る状態まで持って行く事を目的にしたフェーズとなります。


このため、フェーズ2の目標は、次の3つになります。


目標1 : プロジェクト実行計画書の作成(上記①〜⑤の整理)
目標2 : プロジェクト・メンバーの顔合わせと各種合意形成(ゴール共有)
目標3 :プロジェクトのキックオフ


フェーズ2の最終目的は、キックオフを開催してプロジェクトを始動させることです。


そして、キックオフにおいては、プロジェクトのゴール、およびメンバー各自の役割を認識共有する必要ありますので、そのために必要な各種資料を作成する必要があります。


なお、この段階では、社内に複数存在するシステムの内、どのシステムをクラウド化するのかは決定していないので、参加させるメンバーとしては、社内全部署の部長クラスを招集し、今後に行われる調査作業への協力を取り付ける必要があります。


このような下準備、いわゆる「根回し」をしておかないと、後々、「そんな事は聞いていない !」と反対勢力になってしまいますので、最初から各部署の「長」を、プロジェクトに参画させる必要があります。

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●フェーズ3:導入検討


フェーズ3からが、実際の作業になります。


このフェーズ3において、フェーズ4以降に行う、「システムのクラウド化」を行うか、あるいは中止するかの判断を下す事になります。


このフェーズ3で、「社内システムのクラウド化は行う必要が無い。」と言う結論になれば、フェーズ4以降の作業は行う必要は無くなります。


このため、このフェーズ3は、会社の今後を決定する一番重要な作業フェーズになります。


このフェーズで、誤った決断を下してしまうと、会社に莫大な損害を与えてしまいますので、慎重に作業を進め、最後に下す判断も、偏った判断ではなく、中立公平な判断が必要になります。


そして、このフェーズ3では、主に次のような作業を行う事になります。


(1)クラウド対象とする業務の候補選定

1.全ての業務を、一括してクラウド化する事は出来ません。
2.次のような観点で、クラウド化出来る業務を選定します。
クラウド化する事で費用対効果が上がる業務
クラウド化する事で、現在抱えている問題を解決する事が出来る業務
クラウド化に際し、カスタマイズの観点から、移行が容易に出来る業務
クラウド化で業務運用に問題が起きない業務(長時間の業務停止にも耐えられる業務)
クラウドに移行してもセキュリティ上、問題のない業務


(2)クラウド化候補となった業務の棚卸し

1.選定業務に関して、該当システムを管掌している部署に対してヒアリングを実施する。
2.下記のような内容をヒアリングする。
・業務の作業手順や作業内容
・使用しているデータの種類や量
・カスタマイズ状況
・現状の問題点
・該当業務システムで使っているソフトウェアのライセンス、費用、期限、および調達先、等
・該当システムで使っているハードウェアの洗い出し(種類/数/費用/リース期限/調達先、等)
・該当システムで出力している帳票の種類
・該当システムを維持するために必要な経費
・最低限必要な処理パフォーマンス
・他システムとの連携状況
3.ヒアリング内容を、全て同じフォーマットの調査用紙に書き込み、後日、比較出来る様にする。
4.本作業では、既存システムに関しては、下記の様な資料を作成する。
1)業務一覧 :業務名、業務カテゴリー、業務内容、管掌部署
2)業務フロー図 :業務の流れ、作業時間、他システムとの連携の有無
3)機能一覧 :機能名称、機能概要
4)画面一覧 :画面名称、表示項目、項目説明、画面フロー
5)帳票一覧 :帳票名称、出力項目、項目説明、帳票利用者、出力タイミング、出力枚数
6)データ一覧 :ファイル名、項目一覧、項目説明、型、桁数、件数、量
7)連携システム一覧 :連携システム名称、連携方法、連携タイミング
8)保守作業一覧 :保守内容、担当者、保守タイミング
9)課題一覧 :下記アンケート結果記載
5.各種マニュアルの有無(操作マニュアル、管理者用マニュアル、等)
6.さらに、管掌部署の社員に対して、下記の項目などに関するアンケートも実施する。
1)問題点
2)要望
3)その他

(3)クラウド化する業務の絞り込み/決定

1.全てのヒアリング結果を検討し、クラウド化出来る業務の絞り込みを行う。
2.絞り込んだ結果、複数件がクラウド化の対象となった場合は優先順位を付ける。
3.優先順位を付けた順に、クラウド化のメリット/デメリットを洗い出す。
4.業務をクラウド化する場合、どのサービス形態のクラウドに移行するのかを検討する。
5.該当クラウドに移行する場合の概算費用を算出し、現行運用を続けた場合と比較する。
6.また、単にクラウド化の是非を問うだけでなく、社内における地政学的リスクの洗い出しも行う。


(4)クラウド化の可否決定

1.調査結果を報告書に整理する。
2.まずは、プロジェクト・メンバー全員で調査結果の検証を行う。
3.最後に、プロジェクト・オーナーを含む全員で検討後、クラウド化を推進するか否かを決定する。
4.クラウド化に関して、経営層に報告し、その指示を仰ぐ。
→ 中止の場合:プロジェクト解散
→ 続行の場合:該当部署の長に、経営層からクラウド化を進める旨を通達してもらう


(5)(クラウド化続行の場合)プロジェクトの見直しを行う

1.現行メンバーを一旦解散し、新たにメンバーの見直しを行う。
2.クラウド化対象業務部署から、最低2名程度メンバーを出してもらう。(課長クラスと一般社員)
3.組織を改変し、該当部署の長をプロジェクト・スポンサー等の責任ある地位に付ける。


(6)その他

1.今回の業務の棚卸しは、滅多にない良い機会です。
2.本来は、クラウド化のための調査ですが、他部署の視点を入れることで業務改善が行える可能性があります。
3.本プロジェクト終了後、別プロジェクトを立ち上げて、業務改善を行った方が良いと思います。

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●フェーズ4:移行設計


本フェーズは、業務をクラウド化するための方法を検討し、実際に移行作業を行う方法を設計するフェーズになります。。


フェーズ3で、クラウド化する業務が決定しますので、フェーズ4以降で、該当業務をクラウドに移行するための作業設計を行います。業務をクラウドに移行するための設計作業としては、次のような作業があります。


なお、作成した各種設計書は、単に、作成すれば良い、と言う訳には行きません。必ず、関係者全員に承認してもらう必要があります。


本プロジェクトに関わらず、全てのプロジェクトにおいては、何かを行った、あるいは何かを作成した場合、必ず、関係者全員に承認させる必要があります。


関係者の承認を得ないと、万が一、プロジェクトが失敗した場合、「逃げを打つ」人間が現れますし、自身が承認行為をすることで、プロジェクトへの参加意識も高まります。


(1)新規プロジェクトの立ち上げ

プロジェクト・メンバーが入れ替わりますので、再度、フェーズ2と同様の作業を行う。
目標1 : 基本方針作成
目標2 :プロジェクト実行計画書の作成
目標3 : プロジェクト・メンバーの顔合わせと各種合意形成(ゴール共有)
目標4 :プロジェクトのキックオフ


(2)基本方針作成

1.業務のクラウド化で何を実現し、どの様な効果を上げるのかを明確にする。
2.実現目標の項目としては、次の項目が考えられる
1)運用コスト削減
2)災害対応実現
3)利用部門へのSLA項目/数値の提示(SLA:Service Level Agreement/サービス品質保証)
3.各項目について、例えば「n%削減」とか「n時間で復旧」等と具体的な数値目標を上げる。


(3)プロジェクト実行計画書作成

プロジェクト実行計画書では、下記項目を明確にする。
1.期間やプロジェクト・メンバーの構成と役割
2.業務クラウド化の背景と目的
3.業務クラウド化の基本的な考え方
4.セキュリティ・ポリシー作成
5.クラウド化対象業務
6.業務をクラウド化した場合の実現イメージ(サービス形態)
7.検証設計
8.プロジェクト・メンバー、組織図、および役割分担
9.クラウド化の工数と費用
10.業務クラウド化のスケジュール


(4)棚卸し結果の精査

1.フェーズ3で実施した「業務の棚卸し結果」を再調査し、細部の漏れを確認する。
2.リース期限やライセンス期限の確認を行い、クラウドに移行するタイミングも確定する。


(5)クラウド候補選定と非互換調査

1.先の「業務の棚卸し」結果を受け、クラウド業者の選択を行う。
2.今回の業務システムに、一番相応しいサービス形態を提供している業者を候補として抽出する。
3.抽出した業者が提供するサービスと、現行システムとの各種非互換を洗い出す。
4.業者を決定し、非互換への対応方法を検討する。


(6)調達先決定/仕様調整

1.業務委託先を決定する。
2.業務委託先を決定した後、後述する作業を、業者と一緒に行う事になる。
3.社内と社外の役割分担を決定する。


(7)対象業務の再構築/再設計

1.現行業務の見直しを行い、非互換への対応を含めクラウド化のための再設計を行う。
2.またアンケート結果で不備/要望が上げられた場合、要求事項をクラウド化に取り込む。
3.カスタマイズが必要な場合、カスタマイズの関する機能要件を整理する。
4.再構築した業務に関して、再度「棚卸し」を行い、フェーズ3と同様の成果物を作成する。
5.業務再構築作業に関するスケジュールも確定する。


(8)クラウド環境に必要な各種リソース設計

1.必要ソフトウェアの選定と決定。
2.必要ハードウェアの選定を決定。
3.システム構成図の作成。
4.セキュリティ・ポリシー
5.上記を踏まえたサービスレベルの調査/決定。特にネットワークの速度は要注意。


(9)システム変更仕様書の作成

1.クラウド化に伴い、下記のような変更が入る可能性がある。
1)カスタマイズ部分の修正
2)既存、あるいは潜在的バグの修正
3)アンケート結果の反映(要望対応)
2.上記修正部分に関する修正/要望対応設計書を作成する。


(10)試験設計書の作成

1.システム移行後に実施する、検証試験の試験方法を設計する必要がある。
2.該当業務システムに関わる、全ての処理を確認できれば安心だが、期間的に、全処理の確認を行うのは、当然無理である。
3.このため、処理サイクルを含め、ある程度、代表的な処理をサンプリング対象として抽出し、この抽出した処理を中心に試験を行う事になると思われる。
4.試験対象となる処理を決定したら、次は、該当処理を行うためのデータも準備する必要がある。
5.つまり、何を、どうやって、どの位、どのタイミングで、そして、何をもって良しとするのかを試験設計書として整理する必要がある。


(11)切り替え手順の設計

1.システム移行においては、新システムへの切り替えが必要になります。
2.システムの切り替えには、様々な準備が必要になるので、新システム、つまりクラウド側に構築したシステムに切り替える方法を設計します。


(12)各種手順書の作成

1.環境構築手順書 :クラウド側に新たな環境を構築するための手順書を作成する。
2.システム移行手順書 :社内システムをクラウド環境に移行するための作業手順書を作成する。
3.データ移行手順書 :システム使用データを移行するための作業手順書を作成する。
4.試験手順書 :下記2種類の試験手順書を作成し、総合試験の手戻りを減少させる。
1)システム/データ移行時に行う簡易的な動作確認試験
2)移行作業終了後に行う総合試験
5.切り替え手順書 :上記で設計したクラウド側システムへの切り替え手順書を作成する。
6.スケジュール作成 :移行作業のスケジュールを作成する。

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●フェーズ5:移行作業


本フェーズが、実際の移行フェーズになります。移行フェーズでは、次のような作業を行います。


(1)契約行為の実施

1.クラウドに業務システムを移行するための作業を、一緒に行う業者は既に選定済である。
2.ここでは、クラウド環境や各種リソースを提供する業者との契約行為を行う。
3.通常の場合、上記①の業者と同一業者である可能性が高い。


(2)クラウド環境構築

1.業者提供のクラウド環境に業務システムを構築する。
2.前フェーズで作成済の環境構築手順書に従い、業務システムが稼働出来る環境を、クラウド環境に移行する。


(3)システム改修

1.クラウド化に対応するために、既存システムを改修する場合、このタイミング、あるいは上記(2)のタイミングで同時に行う事になる。
2.システム改修には、当然、時間が掛かるので、前述の計画段階で、改修に必要な工数を計上する必要がある。


(4)システム移行/構築

1.前フェーズで作成済のシステム移行手順書に従い、業務システムをクラウド環境に移行する。
2.システム改修が必要な場合、上記(3)で改修しておく。
3.システム移行が完了した時点で軽い試験を行い、業務システムが、総合試験が行える状況になっている事を確認する。
4.何の確認も行わず、そのまま総合試験フェーズに移行すると、手戻りが多発し、総合試験フェーズが破綻する。


(5)データ移行

1.前フェーズで作成済のデータ移行手順書に従い、業務システムが使うデータをクラウド環境に移行する。
2.システム同様、データ移行が完了した時点で軽い試験を行い、業務システムが、総合試験が行える状況になっている事を確認する。
3.これもシステム同様、何の確認も行わず、そのまま総合試験フェーズに移行すると、手戻りが多発し、総合試験フェーズが破綻する。
4.なお、データ移行はネットワークの速度に依存するので、事前に、どの程度の期間が必要なのかを調査する必要がある。(※数日掛かるケースも存在する。)

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●フェーズ6:試験稼働


システム、およびデータの移行が完了すれば、試験を行う環境が揃いますので、この時点で、総合試験を実施する事になります。


しかし、試験は、各企業、および業務毎に異なると思いますが、基本的には、下記の内容を確認する事になると思われます。


(1)業務処理結果の確認
(2)業務処理時間(処理速度)の確認
(3)障害発生時のリカバリー方法の確認
(4)ネットワーク接続/速度、およびIPアドレス重複の確認
(5)各種操作方法の確認


試験は、当然、1回実施すれば良い訳ではなく、次のような業務サイクルを意識して複数回実施する必要があります。


・日次処理
・月次処理
・年次処理
・決済処理、等


業務の処理サイクルも、前述の様に、企業、および業務の書類により異なるので、前章の「手順書作成」において、自社の業務に相応しい試験手順書(試験設計書)を作成する必要があります。

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●フェーズ7:結果評価


試験が終われば、次は、試験結果の評価となりますが、これも、前章の「移行設計」フェーズにおいて、『 何が、どうなれば想定した処理結果なのか。 』を、予め決めておく必要があります。


また、可能であれば、処理結果の判定は、出来る限り、数値を元に「OK/NG」を判定出来るようにする事が望ましいと思います。


感覚的に「こんな感じでOK」と判定してしまうと、後日、問題を引き起こす可能性があります。


判定結果は、社員全員とまでは行かなくても、大方の社員が、妥当と認める内容にする必要があります。


客観的に「OK」なるように評価しないと、次のシステムをクラウドに移行する事が困難になってしまいます。一度、「失敗プロジェクト」の烙印を押されたら、もう次は無いと思った方が良いと思います。

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●フェーズ8:本番開始


試験結果が「OK」となれば、後は、業務をクラウド側に切り替えて、いよいよ本番業務を行う事になります。


しかし、「試験OK」となったからと言って、そのまま、直ぐにシステム切り替えとはなりません。次の点を確認して下さい。


・試験結果OKの承認は、誰が出したのか ?
・経営層から、(口約束ではない)正式に承認を得ているのか ?
・管掌部署の承認は得ているのか ?
・管掌部署の社員は、切り替えを認めているのか ?
・システム切り替えタイミングは確認したのか ?


また、とにかく、人間、特に日本人は、新しい仕組みに抵抗します。


さらに、何らかの既得権を持っている社員や、既存システムに関する知識を有している社員が居る場合、これらの社員が、必ず「抵抗勢力」となって、システムの切り替えに反発します。


日本人は、「総論OK、各論NG」ですので、注意する必要があります。


「各論NG」を、言葉巧みに言い換えて「物事は慎重に進めた方が・・・」とか言う人が必ず出てきますので、本ブログに記載したように、ちゃんとプロセスを踏んで作業を行い、結果もOKなら、「今更何を」と言う事になります。


ちゃんとプロセスを踏み、その都度、関係者の承認を得て、システムの切り替えに臨むようにして下さい。

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クラウドに適さない業務


次に、参考までに、クラウドに適さないと思われる業務を、数ケース紹介しておきます。

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●ケース1:クリティカルミッション業務

業務の中断が絶対に許されないシステムは、クラウドの移行対象業務からは、最初から除外した方が良いと思われます。簡単に考えても、下記のような業務システムは、クラウドには適しません。


・インフラ制御用業務システム(電気/ガス/水道)
・金融機関のオンラインシステム
・交通制御用システム(信号/航空機管制/鉄道)

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●ケース2:特殊デバイス使用業務

工場等で使われている特殊デバイスと連携しているシステムのクラウド化は難しいと思います。特殊デバイスとしては、次のようなデバイスがあります。


そもそも、工場や倉庫などでは、未だに、「Windows XP」をベースとした特殊デバイスを使っていますので、このような特殊環境で稼働するシステムに関しては、クラウド化は難しいと思います。


・ハンディースキャナー
・温度/湿度制御装置
シーケンサー

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●ケース3:特殊なプラットフォームを使用しているシステム

クラウド環境は、一般的なハードウェアしか想定していません。


このため、下記の様な特殊なハードウェアで構成されたプラットフォームで稼働している業務システムは、クラウドには移行出来ないと思われます。


・無停止サーバー
クラスタリング・サーバー
リアルタイムOS

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●ケース4:機密データを使用しているシステム

言わずもがなですが、機密データを取り扱う業務は、クラウドに移行してはいけません。


機密データを取り扱い、かつデータ漏洩の可能性が僅かでもあるならば、もうクラウド化は無理だと思った方が良いと思います。


機密データが外部に漏洩した場合、会社の継続が難しくなってしまいます。


どうしもクラウドにしたいのであれば、データを細分化し、機密データの内容が解らなくするとか、あるいは全てを暗号化したデータのみをクラウド環境に移行するか等、細心の注意を払った上で、クラウド化する必要があります。

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今回、「クラウドサービス」に関して、次のような内容を紹介しましたが、如何でしたか ?


クラウド導入までの全体の流れ
クラウドに適さない業務


「社内システムをクラウドに !」と、言葉では簡単に言いますが、実際は、凄い作業があることは理解できましたか ?


よく、クラウドサービスを提供している業者のサイトで、「3ヶ月間でクラウド移行成功 !」等と宣伝しているホームページがありますが、私は、信用出来ません。


最初から、業務を決め打ちでクラウド化を進めれば、ある程度、移行工数を減らす事は可能だと思います。


さらに、常日頃から、「業務の棚卸し」を行っている企業も、比較的、移行には手間は掛からないと思います。


しかし・・・上記のような事前準備が何も出来ていない企業で、「さあ、ウチもクラウドだ!」等とホザイている企業は要注意です。


特に、経営層がIT系に疎く、コスト削減ばかりに血眼になっている企業は、恐らく、クラウド化プロジェクトは失敗する可能性が高いと思います。


「簡単だから」と言うのが口癖の経営者は要注意です。何事も、そんなに簡単には行きません。


システム開発も同様ですが、「簡単なら自分で作ってみろ !」と言いたくなってしまいます。


全てが簡単なら、クラウド移行サービスを行う企業は存在出来ません。クラウド移行が複雑で、面倒だからこそ、このようなサービスが成立していることを意識して下さい。


次回は、クラウド移行に関して、次のような内容を紹介する予定です。


●コスト削減手段としてのクラウド
●本番カットオーバーまでの時間短縮としてのクラウド
クラウドによる本番業務カットオーバー後の問題


それでは、次回も宜しくお願いします。

以上

【画像・情報提供先】
Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)
PC Watchhttps://pc.watch.impress.co.jp/
・ボクシルマガジン(https://boxil.jp/mag/)

早池峰信仰と瀬織津姫命 〜 謎多き姫神に触れる その4


今回は、これまで紹介して来た「早池峰信仰と瀬織津姫命」の続編となる「その4」を紹介します。

★過去ブログ
(1)早池峰信仰と瀬織津姫命〜謎多き姫神に触れる その1
(2)早池峰信仰と瀬織津姫命〜謎多き姫神に触れる その2
(3)早池峰信仰と瀬織津姫命〜謎多き姫神に触れる その3


前回までの内容では、次の様な内容を紹介しましたが、「早池峯信仰 = 瀬織津姫命」の関係性は、「熊野権現」に、そのルーツがある事が、ほぼ明らかになりました。


山岳信仰とは
・早池峯信仰とは
・早池峯神社とは
・「早池峯」と「早池峰」の違い
・どこが「早池峯神社」の本坊なのか ?
瀬織津姫命が御祭神の神社
瀬織津姫命とは何者なのか ?
天照大御神男神なのか ?
鈴鹿権現と瀬織津姫
熊野権現瀬織津姫
瀬織津姫命と天台宗

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その中でも、岩手県には、非常に早い時期、奈良時代、および平安時代に掛けて、「熊野権現瀬織津姫命」が、下記2つのルートで勧請されていたのは驚きでした。


・「大野東人」ルート :奈良時代神亀元年(724年)」、熊野神宮本宮から勧請 → 室根神社
・「始閣藤蔵」ルート :平安時代「大同元年(806年)」、伊豆山神社から勧請 → 伊豆神社/早池峯神社


大野東人(おおの-あずまびと)」は、「蝦夷平定」を目的にしていたとは言え、何故、こんなにも早く、大和朝廷が治めていた地域から、本州の北の果てまで、「熊野権現(瀬織津姫命)」を勧請したのか不思議な事だと思われます。


しかし、「大野東人」が、室根神社に「熊野権現(瀬織津姫命)」を勧請してから、「始閣籐蔵(しかく-とうぞう)」が早池峯神社に「熊野権現(瀬織津姫命)」を勧請するまで、100年以上経過している事に関しては、何か違和感を思えます。


普通、ある地方に神仏が勧請された場合、勧請された場所を拠点として、そこから神仏を祀る寺社が増えて行くと思われます。


大野東人」は、当時は「鎮守府将軍」で、なおかつ「蝦夷平定」を祈願している訳ですから、自身が平定した場所には、自らが勧請した「熊野権現(瀬織津姫命)」を祀るはずです。


特に、「大野東人」は、「多賀柵(後の多賀城)」や「出羽柵」を築いていますので、現在の宮城県多賀城市秋田県秋田市付近にも、「熊野権現(瀬織津姫命)」を祀る神社を創建するはずですが・・・


何とも、不思議な感じがします。

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さて、そこで今回のブログでは、前回「鈴鹿権現」の箇所で取り上げた、「坂上田村麻呂」と「鈴鹿御前」の子供達の事を紹介したいと思います。


前回ブログでは、「坂上田村麻呂」が、嵯峨天皇の勅命により鈴鹿峠の山賊退治を行った際、天上より「鈴鹿御前(瀬織津姫命)」が現れ、その霊力により「坂上田村麻呂」を助け、その後、二人は結婚して「一男一女」を儲けた事を紹介しました。


そして、男の子は「安倍氏」の始祖となり、女の子は、後に三人の女の子を生み、この子達が「遠野三山」の女神になったとされています。


安倍氏を含め、遠野地方に縁がある人達にとっては、夢のような、本当に、ありがたい話だと思いますが・・・これも、東北地方、特に岩手に多い、「坂上田村麻呂」伝説の一つだと思われます。


日本人に人気のある過去の偉人としては、次のような方たちがいらっしゃいますが、これらの人物には、次のような特徴があります。→ 坂上田村麻呂弘法大師、源 義経


・実際には死んでいなかった
・日本各地で奇跡を起こしている
・実際には訪れていない場所に、伝説や記念碑等が残されている


これら偉人の内、岩手県に関わりのある「坂上田村麻呂」や「源義経」に関しては、その昔、過去ブログで紹介した事があります。

★過去ブログ
(1)「坂上田村麻呂」に関連する岩手の観光地
(2)岩手県内における義経伝説 ? 信じたくなる話ばかり Vol.1
(3)岩手県内における義経伝説 ? 信じたくなる話ばかり Vol.2



前述の「鈴鹿御前」との話も、「坂上田村麻呂」伝説に連なる話の一部だと思いますが、「安倍氏」に関して、次の話題を紹介したいと思います。


■「安倍氏」とは ?
■「安倍氏」と「瀬織津姫命」
■「安倍氏」と「アラハバキ神」


ちなみに、「安倍兄弟(安部貞任/安倍宗任)」にも、北海道に逃げたと言う伝説も残っているようです。


それでは今回も宜しくお願いします。 

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■「安倍氏」とは ?


さて、東北地方、特に岩手県には「安倍氏」にまつわる遺跡や伝承が数多く残されています。


これは、皆さん、既に知っていると思いますが、岩手県が、「前九年の役」の舞台となったことが影響しています。


安倍氏」、当初は「阿部氏(あべ-うじ)」は、孝元天皇の皇子「大彦命(おおひこのみこと)」を始祖とする一族です。


同じ一族で、誰もが名前を聞いたことがある有名な人物としては、次の人物が居ます。

阿倍比羅夫飛鳥時代の将軍。北海道の蝦夷征伐実施。白村江の戦いに参戦して敗北。
阿倍仲麻呂奈良時代遣唐使留学生。歌人。比羅夫の孫。長安にて客死。
安倍晴明平安時代陰陽師


「阿部(安倍)氏」は、9代目「阿部大麿呂」の後、「布施臣」系と「引田臣」系の2つに分裂し、先の「安倍晴明」は布施系の流れを組み、後の「土御門家」となっています。


一方、「阿部比羅夫」や「阿部仲麻呂」は引田系に属し、奥州安倍氏も、引田系の流れをくんだ一族とされており、「陸奥国奥六郡(現在の岩手県内陸部)」を拠点に勢力を拡げ、「安倍頼時( ? 〜 1057年)」の時代に、最も勢力を拡げたとされています。


陸奥国奥六郡」とは、胆沢郡、江刺郡、和賀郡、紫波郡稗貫郡、そして岩手郡の六郡の総称で、現在の岩手県奥州市から盛岡市にかけての広大な地域になります。


「奥州安倍氏」は、よく「俘囚(ふしゅう)の長」と呼ばれていますが、その実態は、まだ解っていないようです。


「俘囚」とは、陸奥や出羽の蝦夷の内、朝廷の支配下に入った者や、あるいは朝廷の捕虜となって移配された者を指しているそうです。


しかし、「安倍氏」の場合は、「前九年の役」の顛末を描いた「陸奥話記」によると、「安倍頼時」が、「大夫」と呼ばれたり、頼時の父「安倍忠良(ただよし)」が、「陸奥守」に任ぜられたりしているので、京都から下向した官僚が、土着して武士になったとも考えられています。

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この「前九年の役」に関しては、当ブログで、何度も説明していますが、概略だけを説明しますと、次のような流れとなっています。


平安時代中期(11世紀中頃)、陸奥国では、安倍氏「安倍忠良・頼良(後の頼時)」親子が勢力を拡大。その後「安倍頼良(よりよし)」が奥六郡を支配し「俘囚の長」と名乗る。

・永承5年(1050年)、「藤原登任(なりとう)」が陸奥守として下向。安倍氏に朝廷への貢租を要求。

・これに対して、「安倍頼良・貞任(さだとう)」親子は、要求を無視すると共に、領地拡大を目指して南下を開始。

・翌「永承6年(1051年)」、国司藤原登任」は、出羽の秋田城介「平 繁成」と共に、数千の兵で「安倍氏」を攻撃し、後世「前九年の役」と呼ばれる戦いが始まる。

・戦は、現在の「宮城県大崎市鳴子温泉鬼首」付近で始まり、これを「鬼切部(おにきりべ)の戦い」と呼んでいるが、国司軍は大敗を喫し、国司は京都に逃げ帰り更迭され、その後、出家。

・後任として「源 頼義(よりよし)」が陸奥守となったが、「永承7年(1052年)」、後冷泉天皇の祖母の病気快癒祈願で大赦が行われ、「安倍頼良」も罪を赦される。

・その後、「安倍頼良」は、「陸奥守」として下向した「源 頼義」を饗応した際に、同じ呼び名である事から、自らの名を「頼時(よりとき)」に改名。

陸奥守の任期が終わる「天喜4年(1056年)」、今では、その場所も定かでは無い「阿久利川」という場所で、「源 頼義」が野営していた時に、自身の部下(藤原光貞/元貞)が襲撃された事から戦が再開。

・この件は、「阿久利川事件」と呼ばれているが、「源 頼義」か「藤原光貞/元貞」の陰謀とされる。

・戦を再開した「源 頼義」は、自身の部下「平 永衡(ながひら)」が、敵側(安倍氏)に通じていると言う讒言を信じ殺害。「平 永衡」は、「安倍頼時」の娘婿。

・その結果、同じく「安倍頼時」の娘婿だった「藤原経清(つねきよ)」が、国府軍から「安倍氏」側に寝返える。「藤原経清」は、「奥州藤原氏」の祖「藤原清衡」の実父。

・「天喜5年(1057年)」、津軽の俘囚の裏切りにより「安倍頼時」が戦死し、その後を息子「安倍貞任」が継ぐ。

・同年、「安倍頼時」の戦死を朝廷に報告するも論功行賞を受ける事が出来ず。「源 頼義」は無理を承知で再び出兵。「黄海(きみ)の戦い」で壊滅的大敗。息子「源 義家(八幡太郎義家)」他6騎にて命からがら脱出。

・「康平2年(1059年)」、奥六郡を含む、衣川以北は、ほぼ「安倍氏」の支配地となる。

・「康平5年(1062年)」、出羽の俘囚「清原氏」が、「源 頼義」の説得に応じて参戦。

・族長「清原光頼」の弟「清原武則」が総大将として出陣。戦闘開始後、わずか1ヶ月、9月17日に「安倍貞任」は戦死、「藤原経清」は鋸挽きの刑で処刑。

・その後、次の様な経緯を辿り、「永保3年(1083年)」の「後三年の役」へと繋がって行く。

→ 「藤原経清」の子「藤原清衡」は「清原武則」の子「清原武貞」の養子となり「清原清衡」となる。
→ 「源 頼義」は、意に反して「陸奥守」ではなく「伊予守」に叙任。
→ 「安倍貞任」の弟「安倍宗任」は、当初「伊予国」、その後「筑前国宗像」に流され77歳で死去。その子孫は、「松浦党」の一族となったり、「宗像氏」の配下となったりして活躍したと伝えられる。
→ 「清原武則」は、鎮守府将軍となり「奥六郡」を与えられる。

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以上が、「永承6年(1051年)」から「康平5年(1062年)」まで、途中の休戦期間も含め、11年間にも渡って争った「前九年の役」の概略です。


この結果、一番得をして「実」を取ったのは「清原氏」ですが、結局、「後三年の役」で滅亡してしまいます。


そして、「源 頼義/義家」親子はと言うと、望んだ結果は全く得られなかったのですが、後世に残る「名」を取ったと言われています。


「源 頼義/義家」親子は、「河内源氏」と言われる「河内国(現:大阪府)」出身の「清和源氏」の傍流一族ですが、この一族が、後の「源氏宗家」、武門の中での最高の格式を持つ一族となって行きます。


この一族が排出した有名な武士(達)には、次の人物が居ます。(※自分で勝手に名乗っている人もいますが)

・源 頼朝 :「源 義家」の玄孫(四代後の孫)。鎌倉幕府創設。
・足利 尊氏 :「源 義家」の四男「源 義国」の子「源 義康」が「足利氏」の始祖。室町幕府創設。
・斯波氏 :足利氏の分家。前九年の役で得た領地「斯波(紫波)郡」の名前を名乗る。室町幕府管領家
・徳川 家康 :河内源氏の「新田氏」の傍流「得川氏」を名乗る。徳川幕府創設。


鎌倉時代以降、武門の棟梁となる「征夷大将軍」を名乗るようになるのは、「源 頼義/義家」親子が、前九年の役で勝利した事が起源となっています。


つまり、この「前九年の役」で、「源 頼義/義家」親子が勝利しなければ、後の世で「源氏」とか「征夷大将軍」と言う「肩書」は、余り意味が無い肩書になっていた可能性があると言う事です。

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さて、肝心の「安倍貞任(さだとう)」ですが、前述の通り、史実では、「康平5年(1062年)」の「厨川の戦い」で戦死した事になっていますが、それ以外、「実は、前九年の役で敗れはしたものの、本当は逃げ延びた。」と言う次の様な言い伝えもあります。


将に、先に紹介した「源義経北行伝説」のような話です。


花巻市にある「田瀬湖」の辺りにある「安倍貞任の隠れ岩」で暫く過ごし、その後、北海道に渡った。
・遠野には「安倍頼時」の六男「重任(貞任の弟)」の子孫が今でも生きており「阿部家」となっている。
・北海道に逃げ延びる際に、盛岡市宮古市の堺「兜明神岳」に隠れていた。
・「兜明神岳」には、安倍貞任の兜が祀られており、付近には、安倍氏の隠し財産が埋められている。


さらに、「安倍貞任」に関しては、「源 義家」自身が、「安倍貞任」を見逃したという話が「古今著聞集(ここんちょもんじゅう)」に残されています。


【 古今著聞集 】

衣川にあった安倍氏の砦が焼け落ち、安部貞任が逃げ延びようとしたところ、追手の源義家が、矢をつがえて、馬上から「衣のたてはほころびにけり」と下の句を詠みあげたのに対して、貞任は「年を経し糸の乱れのくるしさに」と上の句として繋げて返したとされています。


これを聞いた「源 義家」は、貞任の機転に敬意を払って見逃したと伝わっています。



また、「貞任伝説」は、岩手県だけかと思いきや、何と、山形県にも数多く残されているようです。


朝日村の大平には、安倍貞任が身重の妾を連れて源氏の名刀「雲切丸」を探しに来て、その時生まれた男児が村に住みついた
安倍氏鳥海山の「鳥海権現」の子孫であり、貞任は、権現様から授かった不思議な玉で術を使い、源義家に追われ天狗森に立てこもった時、真夏に赤い雪を降らせ、鳥海山麓を真っ赤にした



「貞任伝説」を探してみると、上記以外、秋田県宮城県、それに何と、九州地方に「阿部貞任は生き延びて当地に来た。」と言う伝説があります。


この点は、非常に興味深いので、機会があれば、調査して紹介しようかと思います。


また、「安倍氏」ですが、京都の貴族から見ると、蝦夷と言う事で、「野蛮」、「無教養」等と考えられがちですが、先の古今著聞集にもある通り、蝦夷とは言え、教養も備えていたようです。


安倍貞任」の弟「安倍宗任」に関しても、捕虜となり京都に連れて行かれた際、都の貴族が、蝦夷だから花の事など解らないと思い、梅の花を見せて「この花は何か ?」と訪ねて嘲笑したところ、宗任は、次の様な歌を詠んで、京都人を驚かせたと言う「平家物語」の話は有名です。


『 わが国の 梅の花とは見つれども 大宮人はいかがいふらむ 』


何とも、格好の良い話ですが、どちらも日本人に特有の「判官びいき」と言うか、弱い者びいきの考え方の現れだと思います。


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■「安倍氏」と「瀬織津姫


さて、次は、「安倍氏」と「瀬織津姫命」との関係を見てみます。


前回紹介した「遠野市史」や「遠野物語」が伝える「三女神」には、「坂上田村麻呂」は登場しませんが、母親と三名の娘が登場します。


そして、「伊豆神社」自体の由緒には、俗人である「瀬織津姫命」が、「おない」と言う名前で登場し、「坂上田村麻呂」との間に「三女神」を生んだ事になっています。


他方、遠野の「綾織村誌」には、「伊豆神社」に祀られている御祭神「瀬織津姫命 = おない」は、「安倍宗任」の妻と伝わっています。


また、前述の通り、「鈴鹿御前」との関係においても、「坂上田村麻呂」との間に、一男一女を儲け、さらにその娘が、三名の娘を生んだとされています。


何か、あっちにも、そして、こっちにも似たような話ばかりで、訳が解らなくなってきましたので、これを整理すると、次の様な伝承があるようです。

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遠野物語/第2話 】

大昔に女神がいて、三人の娘を連れてこの高原に来た

今の来内(らいない)三村の伊豆権現の社ある場所に宿った夜、今夜よい夢を見た娘によい山を与えようと母の神が語って寝たところ、夜深く天から霊華が降り、姉の姫の胸の上に止まったのを、末の姫が目覚めて、こっそりこれを取り、自分の胸の上に乗せたところ、ついに最も美しい早池峰の山を得、姉たちは六角牛と石神とを得た


若い三人の女神はそれぞれ三つの山に住み、今もこれを支配しておられるので、遠野の女たちはその妬みを恐れて、今もこの山には入らないという。

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遠野市史 】

この女神たちの泊った宿は、当時来内村といった現遠野市上郷町来内の伊豆権現社である。伊豆権現は、早池峰を開山した猟師藤蔵が、故郷の伊豆から持ってきた守り神である。藤蔵は、太平洋沿いに北上し、この来内に居を構えた、という


現在、この地には三人の女神が生まれたお産畑、お産田が残っている。田は五角形で、女が田植えをすると雨が降るといって男が田植えをする。一坪(三・三平方メートル)くらいの小さな田で、不浄であってはならないと肥料はしないし、田植えの時も畦[あぜ]から苗を三把ずつ植えて内に決してはいらない。この田からとったイネで餅をつくり、大出の新山宮(現在の早池峰神社…引用者)に供え、余りはお守りとして各戸に配っている。付近には、このほか襁褓(おむつ)を干したという三国という名の岩、藤蔵の屋敷跡、後代に造った墓なども残っている。

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伊豆神社由緒 】

坂上田村麻呂延暦二年(西暦七八三年)に征夷大将軍に任命され(「任命」は延暦十六年=七九七年…引用者注)当地方の征夷の時代に此の地に拓殖の一手段として一人の麗婦人が遣わされ、やがて三人の姫神が生まれた。


三人とも、高く美しい早池峰山の主になることを望んで、ある日この来内の地で母神の「おない」と三人の姫神たちは、一夜眠っている間に蓮華の花びらが胸の上に落ちた姫神早池峰山に昇ることに申し合わせて眠りに入った。


夜になって蓮華の花びらが一番上の姉の姫神に落ちていたのを目覚めた末の姫神がみつけそっとそれを自分の胸の上に移し、夜明けを待って早池峰山に行くことになり、一番上の姫神は六角牛山へ(石神山へとの説もある)二番目の姫神は石神山へとそれぞれ別れを告げて発って行った。


此の別れた所に神遣神社を建立して今でも三人の姫神の御神像を石に刻んで祀っている。

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鈴鹿御前と坂上田村麻呂

陸奥国には、国津神の後胤「玉山立烏帽子姫(たまやまたてえぼしひめ)」という女神がいた。


この女神は、極めて美しい姫で、蝦夷頭目「大岳丸(おおたけまる)」が、あらゆる手段を用いて言い寄ったが、姫神が応じることはなかったそうです。(※大岳丸:大竹丸、大嶽丸、etc.)


奈良時代末の延暦二十年(801年)、「坂上田村麻呂」が、征夷大将軍として蝦夷を討伐に来た際、「玉山立烏帽子姫」は、遠征軍の道案内をして、「坂上田村麻呂」が岩手山で「大岳丸」を討ち取るのを手助けしたという。


これが縁で、「坂上田村麻呂」は、「立烏帽子姫」と夫婦の契りを結び、一男一女を得たという。男子の名を「田村義道」と言い、「田村義道」は、その後、奥六郡の主「安倍氏」の祖となる。


娘の名は「松林姫」と言い、「お石」、「お六」、そして「お初」の三女を生み、「お石」は守護神「 速佐須良比売」を奉じて石上山に、「お六」は守護神「速開都比売」を奉じて六角牛山に、さらに「お初」は守護神「瀬織津姫命」を奉じて早池峰山に登ったと言う。

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【 綾織村誌 】

安倍宗任の妻「おない」の方は、「おいし」、「おろく」、「おはつ」の三人の娘を引き連れて、即ち今の上閉伊郡の山中に隠る。


其後おないは、人民の難産難病を治療することを知り、大いに人命を助け、その功によりて死後は、来内の伊豆権現に合祀さる。


娘共は、三人とも大いに人民の助かることを教へ、人民を救ひしによりて、人民より神の如く仰がれ、其後附馬牛村神別に於て別れ、三所の御山に上りて、其後は一切見えずになりたり。


其おいしかみ、おろくこし、おはやつねの山名起れり。此の三山は神代の昔より姫神等の鎮座せるお山なれば、里人之を合祀せしものなり。

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これらの由緒や言い伝えに共通するのは、「母親と三名の娘」の存在で、しかも、ほとんどが、実在の人物としている点です。「女神」と言う表現こそしていますが、ほぼ実在の人物だと思われます。


また、これら娘に共通しているのは、一部関係が無さそうな部分もありますが、「安倍氏」との関わりです。そこから何が推測されるのかと言えば、恐らくは、これら「母親と三名の娘」は、「安倍氏」に関わる人物ではないか、と言う事です。


しかし、「安倍氏」は朝敵ですから、実際に、その名を出せないので、古くから、この地で祀られてきた「瀬織津姫命」を表に出し、裏では「安倍氏」に連なる人物を祀って来たのではないかと思われます。


特に、遠野地域では、今でこそ「安倍氏は遠野の英雄であり、遠野の民は安倍氏の子孫だ ! 」等と誇らしげに公言していますが、これが、「前九年の役」が終了した平安時代当時なら、どうでしょうか ?


遠野地方は、「安倍氏」と争った「清原氏」の支配地となった訳ですから、その地で「安倍氏」と関係の深い人物を祀ったら、とんでもない事が起こる事は、誰でも想像出来たはずです。


遠野地方は、清原氏の後は、奥州藤原氏、阿曽沼氏、南部氏と支配者は入れ替わりますが、時代が経るうちに、御祭神に関する本当の由緒/起源が解らなくなってしまったのかもしれません。


つまり、これも集合の一種なのかもしれませんが、本来は「安倍氏」を祀っていた神社を「安倍氏瀬織津姫命」とし、それが途中で「安倍氏」が消えてしまい、現在では、「瀬織津姫命」だけが残ってしまったのかもしれません。


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■「安倍氏」と「アラハバキ神」


さらに、「安倍氏」と「瀬織津姫命」との関係については、前章で軽く触れた「アラハバキ神」との関係も取沙汰されています。


アラハバキ(荒覇吐/荒脛巾)神」とは、未だに正体不明な神様とされており、実際には、どのような神様なのかは、未だに解っていないようですが、日本の全国各地に、この「アラハバキ神」を祀っていたと思われる祠があるようです。


アラハバキ」とは、「荒い脛巾(はばき)」を意味し、「ハバキ」とは、脛(すね)に巻きつける「脛巾(きゃはん)」を意味しています。


「脛巾 ? 何それ ?」、若い人には、馴染みのない物だと思います。と言うか、私自身も、実際には使った事はありません。


現在も物としては存在していますが、幕末の戊辰戦争、日清/日露戦争、それと太平洋戦争を扱った映画やテレビで見かけた事があるだけです。


日本陸軍の兵士が足元に巻き付けていた物で、別名「ゲートル」とも呼ばれており、脛や脚を保護したり、長時間歩く時に、「ふくらはぎ」を締め付けて疲労を軽減したりする目的で使われます。



似たような機能を提供する膝から下を締め付ける「サポーター」や「ストッキング」が、この「脚絆」に近いと思います。


この「サポーター」であれば、私も使った事はありますが・・・「脚絆」とは言わないと思います。


と言うことで、「アラハバキ神」は、「足にまつわる神」や「旅の神」として道中安全を司る神とされるケースが多いようです。


また、ちょっと飛躍して「下半身」まで面倒を見てくれる神とも考えられているようで、弊社ブログでも紹介した「金勢様」や「道祖神」とも習合しているケースも見受けられるようです。


★過去ブログ:岩手県内における金勢信仰 〜 何でこんなに沢山あるの Vol.1〜6


上図は、宮城県多賀城市の「アラハバキ(荒脛巾)神社」の画像ですが、足や下半身に関係する「靴」、奥には「金勢様」も奉納されていますが、何か、もうグチャグチャです。

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岩手県内にも、当然、数多くの祠があるとされており、その中でも花巻市東和町谷内にある「丹内山神社」にある「アラハバキ大神の巨石」は有名です。


「丹内山神社」、創建時期は不明となっていますが、由緒書には、地方開拓の祖神として祀られていたとなっています。


現在では、確かな証拠等はありませんが、古くから「阿弖流為(アテルイ)」等、蝦夷にとっての神聖な場所だったと推測されているようです。


そして、奈良時代末、「延暦20年(801年)」の蝦夷攻撃の際には、「坂上田村麻呂」が、この地で戦勝祈願を行ったと伝わっていますので、創建時期は、とてつもなく古いと思われます。


しかし、「蝦夷の神」に「蝦夷討伐の戦勝祈願」をするとは思えませんので、恐らくは、「戦勝祈願」ではなく、「蝦夷の神」の力を封じるための策や儀式を施したのだと思われます。


その後、平安時代となる「承和年間(834〜847年)」には、弘法大師の弟子「日弘」が不動明王像を安置し、さらに、「嘉祥2年(849年)」には、比叡山座主「円仁」が、この地に留錫したとも伝わっています。

さらに、その後となると、「源 頼義/義家」親子、奥州藤原氏、さらには、この地の領主となった地方豪族、そして最後は「丹内権現」として南部氏の祈願所にもなったと伝わっています。


神社境内には、この巨石の他にも、平安時代となる「康平5年(1062年)」に、「源 義家」が勧請したと伝わる「八幡神社」と、義家の弟「加茂次郎義綱(かもじろうよしつな)」が勧請したと伝わる「加茂神社」があります。


さらに、何がしたかったのか、今では解りませんが、「源 義家」が上に乗って弓を射たと伝わる「石」もあります。


一説には、この神社は、「安倍氏」の守護神を祀っていたとされますので、「源 義家」も、「坂上田村麻呂」と同様、「安倍氏」の守護神の力を弱めるための策を施したのかも知れません。


そして、その結果、「前九年の役」で勝利する事が出来たので、そのお礼として「八幡神社」を勧請したとも推測されます。

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また、弊社ブログ「岩手の巨石シリーズ」や、先の「金勢様シリーズ」で紹介した衣川村の「磐(いわ)神社」も、「磐座(いわくら)」と呼ばれる巨石を御神体としています。


「磐神社」の近くには、「安倍氏」が住んでいた「安倍館(あべ-やかた)」があったとされ、この「磐神社」を守護神(荒覇吐神)として崇拝していた旨が、神社の案内板に記載されています。


★過去ブログ:岩手県内の巨石の紹介 - その2 〜 何故か岩手に巨石が多い


以上の事から、「安倍氏」は「アラハバキ神」を守護神として祀っていたと言う説が多く見受けられます。


確かに、「安倍館」と上記「磐神社」は、非常に近い距離にあるので、「安倍氏」が、この「磐神社」を崇拝していたとしても違和感はありません。


しかし、先の神社の由緒書以外、「安倍氏」と「磐神社」、そして「安倍氏」と「アラハバキ神」の関係を裏付ける証拠は何も存在しないようです。

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他方、「安倍氏」は、先に紹介した「孝元天皇」の一族には変わりないのですが、それ以前、「古事記」に登場する「長髄彦(ながすねひこ)」と「安日彦(あびひこ)」と言う兄弟、特に兄の「安日彦」の子孫と言う、「眉にツバ」を付けたくなるような話も伝わっています。


長髄彦」は、別名、下記のように呼ばれる伝説の人物で、初代日本天皇と伝わる「神武天皇」が、日向から橿原を目指して東征を行った際、「神武天皇」に抵抗した大和地方の豪族とされています。

→ 那賀須泥毘古、登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)、登美毘古(トミビコ)



そして、弟「長髄彦」は、「神武天皇」に破れ、自身が信奉する神「饒速日命(ニギハヤヒ/ニギハヤヒノミコト)」に斬り殺されたのですが、兄「安日彦」は、船で、現在の青森に逃れ、「蝦夷」そして、その後の「安倍氏」の始祖となったと言うのですが・・・これが、現在では偽書と断定されている「東日流外三郡誌」の概要です。


東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)」とは、1970年代、青森県五所川原市の「和田喜八郎」氏が、自宅を改装中に、天井裏から発見した大量の古文書と言う事になっています。


この古文書、全部でダンボール箱にして20箱分ともなる大量の文章ですが、実は、一種類ではなく、何種類もの文書の総称になるそうです。


文書の名前ですが、「東日流六郡誌絵巻」「東日流六郡誌大要」「東日流内三郡誌」・・・etc. と、続々と発見され、「和田氏」が亡くなるまでの間、発見から50年に渡り、次から次へと古文書が発見されたとされています。


もう、この説明だけで、これらの書物が偽書だと言うことが明らかになるかと思います。


しかし、中には、本当に江戸時代に書かれた古文書もあるとの事で、その真偽が、より複雑になってしまったとも言われていますが、「ニセモノの中に本物を混ぜる」手口は、詐欺師の常套手段と言われていますので、まさに、この手口を実践したものだと思われます。


そして、この「東日流外三郡誌」によると、「安日彦/長髄彦」兄弟は、重症を負いながらも青森の津軽に逃れ地元民族と結婚し、これら混血の民族は「荒覇吐族」となり、この民族が、大和朝廷から「蝦夷」と呼ばれたとしています。


神武天皇」没後、「荒覇吐」系の民族が日本を支配したとなっており、「安倍氏」の始祖となる「孝元天皇」の時代となった頃に、秦の「始皇帝」から「徐福」が日本に派遣されたとしています。


ところが、その後、半島から異民族(崇神天皇)が日本を侵略して大和地方が奪われてしまうが、東北地方では、「安倍氏」が、これに対抗したとなっています。


以上、簡単に紹介しましたが、前述の通り、この偽書(別名:和田家文書)は、ダンボール箱20箱分もあるので、この他にも、多くの奇々怪々な内容の文書があるようです。

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さて、ここで「安倍氏」と「アラハバキ神」との関係なのですが・・・正直な所、「安倍氏」が「アラハバキ神」を祀っていた証拠は見つかっていないように思われます。


アラハバキ神」を祀る神社には、「安倍氏が祀っていたとされる」と言う由緒書や言い伝えがありますが、それだけです。文書や記録等、明らかな記録が見当たりません。


アラハバキ神」自体が、「瀬織津姫命」と同様、どのような神様なのか解りませんし、「奥州安倍氏」が、朝廷に敗れてしまったので、朝敵の記録は、抹消されてしまったのかも知れません。


しかし、前述の通り、「安倍貞任」の弟「宗任」は、流罪になったとは言え、77歳まで生き延びています。


本当に「安倍氏」が「アラハバキ神」を信奉していたのであれば、流された伊予地方(現:四国徳島県)や筑前国(現:九州福岡県)において、明らかな証拠が多数見つかっていてもおかしくないと思います。


特に、北九州では、水軍で有名な「松浦党」の一族を築いていますし、「宗像大社」の宮司一族でもあり大名でもあった「宗像氏」一族とも深い関係を築いています。


このように北九州では、着実に力を付けていますので、それに伴い「アラハバキ神」も、周囲に拡がっても良いと思うのですが・・・余り、そのようには思えません。


このため、やはり、「安倍氏」と「アラハバキ神」は、余り関係が無かったのではないかと思われます。

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ちなみに、現在、最も有力な「アラハバキ神」の正体説としては、「客神(まろうどがみ)」、あるいは「門客神(もんきゃくしん)」とする説があるようです。


「客神」、および「門客神」とも、元々、特定の地域の「地主神(じぬしのかみ)」だった神様が、後から来た「古事記」や「日本書紀」の神様に、その立場を追われて、立場が逆転してしまった神様であることを意味しています。


その特徴時な例として、埼玉県の「氷川神社」の例があるとされています。



氷川神社」、現在では、主祭神は「須佐之男(すさのお)命」、「稲田姫(いなだひめ)命」、および「大己貴(おおなむち)命」の三柱とされています。


氷川神社」の創建時期は、2,400年以上前、第5代天皇となる「孝昭天皇」の時代、「孝昭天皇3年」とされ、「スサノオ」を祀る「氷川信仰」の起源とされる神社とされています。


孝昭天皇3年創建 ? 西暦何年 ?」となると思いますが、つまり、創建不明と言うことだと思います。


また、この「氷川神社」の摂社(境内末社)には、「門客人神社」と言う神社があり、この神社の御祭神には、「稲田姫命」の両親とされる「足摩乳命(あしなづちのみこと)」と「手摩乳命(てなづちのみこと)が祀られています。



しかし、元々の神様は、「アラハバキ神」で、古くは「荒脛巾神社」と」呼ばれていたとされ、江戸時代に書かれた「江戸名所図会」には、「氷川神社」の説明に「荒波々幾社」と記載されています。


さらに、江戸時代「文化・文政年間(1804〜1831年)」に編纂された武蔵国の地誌「新編武蔵国風土記」には、「門客人神社」に関して、次の様に記載されています。


『 いにしえは、荒脛巾神社と号せし。門客人社と改め、テナヅチアシナヅチの二座を配した。 』



今となっては、何時、何で「客神」にさせられたのかは解りませんが、大和朝廷側には、「瀬織津姫命」と同様、表には出せない理由があったのだと思います。


とは言え、「アラハバキ神」が、「客神」である事は解ったとしても、「アラハバキ神」自体が、どのような神様であるのか、やはり蝦夷が祀っていた神様なのか等、解らないことは沢山あります。


一部の説では、この「氷川神社」は、元々、(現在はありませんが)「見沼」と言う湖畔にあったことから、「見沼の水神」を祀っていたとされています。


このため、「アラハバキ神 = 水神」と言う説もあるようですが、これも確たる証拠はありません。


ちなみに、同じく「スサノオ(牛頭大王)」を祀る信仰として、前述の「祇園祭」で有名な「祇園信仰」があり、この信仰の神社として、京都「八坂神社」等がありますが、この「氷川信仰」とは、全く別物なのだそうです。

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もう一方、「安倍宗任」が流された北九州地方、それと「宗像氏」との関係で、「三姉妹」と言うと、「宗像三女神」が思い浮かびます。


そして、「宗像三女神」と「遠野三山の三女神」・・・これを偶然の一致とするには、何か「おしい」様な感じがしますので、次回、取り上げたいと思います。

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今回は、「瀬織津姫命」と何らかの関係があると思われる「奥州安倍氏」に関して、次のような内容を紹介しましたが、如何でしたか ?


●「安倍氏」とは ?
●「安倍氏」と「瀬織津姫命」
●「安倍氏」と「アラハバキ神」


「奥州安倍氏」、朝敵となり滅亡してしまったので、詳しい資料が残っていないのが残念ですが、恐らくは、奈良時代末から平安時代初期における「阿弖流為(アテルイ)」を代表とする蝦夷滅亡後から、「前九年の役」までの間、100年以上は、奥州を支配し続けたと思われます。


しかし、「安部貞任」の弟「安倍宗任」は、前述の通り、島流しになったとはいえ、伊予国、そして筑前国で、77歳まで生き延びたと伝わっており、かつ伊予国/筑前国では、有力一族を形成していますので、「安倍氏」に関わる、何らかの資料を残していても、おかしくないと思うのですが・・・何故か、何も資料が残っていないようです。


この点、非常に変な点だと思います。


安倍宗任」自身が、過去を語らなかったのか、それとも、やはり何らかの圧力により歴史が消されてしまったのか、非常に興味をそそられる点です。


他方、「安倍氏」と「瀬織津姫命」の関係ですが、今回紹介した通り、「安倍氏」自身が、直接、「瀬織津姫命」を祀っていた形跡は見当たりませんでした。


そして、「安倍氏」滅亡後、地元の人々が、「瀬織津姫命 = 安倍氏」として、遠野地方を中心として、「瀬織津姫命」を祀っていたと思われます。


遠野地方の人々が、「安倍氏」を慕う理由は、唯一つ、「安倍氏」以降の支配者に、人気が無かった事が理由だと思われます。


しかし、奥州藤原氏は、「安倍氏」の血を受け継ぐ一族ですし、100年以上も、奥州に平和をもたらしていますので、恐らく、地元民に嫌われたのは、秋田から来た「清原氏」だと思われます。


そして、次回は、「安倍宗任」が島流しとなった場所である「筑前国宗像」で祀られている「宗像三女神」と「瀬織津姫命」との関係を紹介し、「瀬織津姫命」の核心に迫って行こうと思っています。



それでは次回も宜しくお願いします。

以上

【画像・情報提供先】
Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)
岩手県神社庁(http://www.jinjacho.jp/)
・風琳堂(http://furindo.webcrow.jp/index.html)
花巻市ホームページ(https://www.city.hanamaki.iwate.jp)
・レファレンス協同データベース(http://crd.ndl.go.jp/reference/)
・千時千一夜(https://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo)
・IKUIKUの愉しみ(http://ikuiku-1919.at.webry.info/?pc=on)
・いわての文化情報大事典(http://www.bunka.pref.iwate.jp/

社内システムのクラウド化 〜 皆でクラウドにすれば怖いくないのか ? −その1


近頃、盛んと社内システムのクラウド化の話を聞きますが、皆さんの会社は、どうなっていますか ?


AWS、Azure、GCP、Cloud n、Nifty Cloud、IIJ GIO、ホワイトクラウド・・・全て業者が提供するクラウドサービスの名称ですが、聞いた事ありますか ?


弊社のお客様でも、主たる目的は「コストダウン」ですが、次のような事を目的として、社内システムのクラウド化を検討されている企業も数多くいらっしゃいます。


・コスト削減
・システム統合
・社員(人的リソース)不足の問題解決
・処理能力(システムリソース)不足の問題解決
・災害(ディザスター)対策・・・・・etc.


確かに、こうしてメリットを挙げて行くと、これまでの社内システム構築/運用と比較すると、「良い事ずくめ」のように見えてしまいます。


恐らく、世間一般の「Sier」やIT企業も、このようなメリットを掲げて、企業に「クラウド化」を迫っているのだと思います。


確かに、世の中は、「社内システム(オンプレミス)」から、「プライベート・クラウド」に切り替える流れが出来ており、日本国内、あるいは海外拠点に、データセンターを建設する動きが活発化しています。


先日、7/26に東京都多摩市唐木田のビル建築現場で火災が発生し、作業員4名の方が死亡した事故も、データセンターの建築現場との事で、日本国内にでも、システムのクラウド化に対応すべく、様々な場所で、データセンターの建築ラッシュとなっているようです。


そして、このデータセンターに関しても、先月号(8月)のメルマガ「気になる情報」でもお伝えした様に、「海底データセンター」を始めとした新しい技術を導入して「省エネ」や「排熱」等の問題を解決する、新しいデータセンターの構想も生まれている様です。

★過去メルマガ:エム・システム情報マガジン(第87号) - 気になる情報


他方、クラウドの生死を握るサーバーの性能に関しても、コンピューターのチップセット(半導体)の改良が図られつつも、「ムーアの法則は、既に死んでいる !」と言う説も唱えられているようです。

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ちなみに、「ムーアの法則(Moore's law)」とは、米インテルの創業者の一人である「ゴードン・ムーア(Gordon E. Moore)」氏が、1965年に、自らの論文で唱えた『 半導体の集積率は18か月で2倍になる。 』と言う半導体の成長に関する生産指標です。


半導体集積率」とは、同じ面積の半導体ウェハーに、半導体チップを何個乗せる事が出来るのか、という事を意味しています。


つまり、これは、半導体の微細化技術の発展により、1個のウェハーに、当初は「100個」の半導体チップを乗せる事が出来る技術が、18ヶ月後には「200個」の半導体チップを乗せる事が出来るように発展し続けると言う事になります。


集積率のアップが何を意味するのかと言うと、サーバーを含めたコンピューターに搭載する半導体を、18ヶ月毎に2倍にすることが可能になる訳ですから、コンピューターの性能も18ヶ月毎に向上させる事が出来ると言う事になります。


さらに、同一面積に、数多くの半導体を製造する事が出来るようになると言う事は、極端な話では、製造コストも18ヶ月毎に半分で済むようになります。


このように、18ヶ月毎に、性能が向上し、かつ製造コストを半額に出来ると言う指標があれば、半導体製造会社は、この指標に基づいた経営計画を立てることが可能になります。


これが「ムーアの法則」なのですが、この法則は、前述の通り、1965年、今から50年以上も前に提唱された法則です。


しかし、50年以上も前に提唱された考え方とは言え、つい最近までは、この法則通りに半導体製造技術は発展してきたようです。


ところが、近頃では、半導体の微細化技術の発展スピードが鈍ってきた事から、この経験則も、既に限界に達したのではないかと言われ始めています。


実際に、2005年には、「ゴードン・ムーア」氏自身も、雑誌のインタビューで、『 ムーアの法則は長くは続かないだろう。 』と語っています。


また、その後も、2016年には、「Lifetime of Innovation Award」を受賞した際にも、『 こんなに長く続くとは思ってもいなかったので、ムーアの法則がいつ終焉を迎えても驚かない。 』とも語っています。


また、「ゴードン・ムーア」の話によると、この法則自体、元々は、1965年の時点で、過去5年間の集積回路の集積傾向をまとめたものだとしていますので、その後、50年以上も、この法則が成立していた事自体、驚きと言って良いと思います。


確かに、現在では、水平方向での微細化技術は限界を迎えているようですが、今度は、垂直方向に半導体を積み重ねる事で、さらなる集積率の向上を狙っているようです。今後も、技術者は、限界を超えるよう努力し続けるのだと思います。

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話が、「クラウド」から「ムーアの法則」に移ってしまいましたが、このように多方面から「システムのクラウド化」を推し進める状況が生まれているようです。


他方、「本当にクラウドは大丈夫なのか ?」と心配している経営者は沢山いると思います。


実際に、「クラウド 失敗事例」と言うキーワードでWebを検索すると、(全ての内容を閲覧した訳ではありませんが)大量の、約300万件以上もの関連サイトが表示されます。


そこで、今回、何回かに別けて、「クラウド化」に関して、次のような情報を提供しようと思います。


●そもそもクラウドとは何 ?
クラウド化メリット/デメリット
クラウドの種類
クラウド導入までの全体の流れ
●コスト削減手段としてのクラウド
●本番カットオーバーまでの時間短縮としてのクラウド
クラウドによる本番業務カットオーバー後の問題


しかし、「クラウド化」の話題を進めている最中に、何か新しい情報を入手したら、話の内容は変更になってしまうかもしれませんが、その点はご了承願います。

今回は、最初に、企業経営者の中には、下記のブログでも紹介した様に、「ITオンチ」の経営者が、まだまだ数多く存在していますので、「クラウド」とは、どのような仕組みなのかを説明したいと思います。

★過去ブログ:「IT音痴」が招く会社の危機 〜 あなたの会社は大丈夫 ?


また、「クラウド」に関しては、「クラウドを導入する場合、どの業者のクラウドを使えば良いのか ? 」と言う疑問もあるかと思います。


しかし、「自社システムのクラウド化」は、その会社毎に、現在のシステム環境も、そしてクラウド化の目的自体も異なるので、一概に、「この業者だ ! 」と言う様な紹介は出来ません。


それでは今回も宜しくお願いします。


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■そもそもクラウドとは何 ?


クラウドに関しては、実は、かなり前、弊社ブログを開設した当初(2011年)にも、下記ブログで取り上げています。

★過去ブログ:今話題のクラウドについて


そして、その中でも、クラウドの種類とか、メリット/デメリットを紹介しています。


「何だよ、同じ話題の繰り返しか !? 」と感じると思います。


私も、今回、この話題を取り上げる時に、当然、この過去ブログの事は解っていましたので、同じ話題を取り上げるのは「何だかな 〜」とは思いました。


しかし、この過去ブログは、2011年当時の内容です。当然、現在は、クラウドの提供の仕方も進化しています。


クラウドの考え方自体は、当時と変わっていない部分もありますが、特に、サービスの提供の仕方が大幅に進化しています。


当時は、ようやくAWS(アマゾン・ウェブ・サービス)が、日本においてサービスを開始した年ですし、Microsoft社のクラウド「Azure(アジュール)」も、ようやく「ASP(Application Service Provider)サービス」として紹介され始めた年でもあります。


それから8年、「クラウドサービス」は、大幅に進化していますが、前述の通り、「クラウド」と呼ばれている物に関する考え方は変わっていません。

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と言う事で、「クラウド」とは何かを説明したいと思いますが、基本的に、この点に関しては、2011年当時と、考え方は変わっていません。


当時も現在も、「クラウド」の定義は明確になっていません。


2011年当時は、ネットワークを経由して使用できるソフトウェアやハードウェアの事を意味していました。


つまり、下記4つの利用形態全てを「クラウド」と呼んでいました。

略称 名称 内容
SaaS Software as a Service ソフトウェアを提供するクラウドサービス
PaaS Platform as a Service 基礎部分(開発環境)を提供するクラウドサービス
IaaS Infrastructure as a Service ハードウェア等のインフラを提供するクラウドサービス
HaaS Hardware as a Service 同上


SaaS」等、またIT業界特有の3文字/4文字英語ですが、全て最後は「as a Service」となっていますので、日本語訳としては「サービスとしての〜」と考えれば分かりやすいと思います。


例えば、「SaaS」は、「サービスとしてのソフトウェア」となりますので、「クラウドサービスとしてソフトウェアを提供する事」になります。


その他、「Platform」は「基礎部分」、「Infrastructure」は「ITインフラ」と考えれば、クラウドサービスとして、何を提供するのかが分かりやすいと思います。


そして、この考えは、2018年になっても変わりません。

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ところが、近頃では、上記クラウドサービス以外にも、次のような言葉も登場しだしてします。


●XaaS

「X as a Service(ザース)」、未知の値「X」を取り入れ、全てのサービスをクラウド形式で提供する事を意味する言い回し。「X」の箇所に、(Amazonではありませんが、)「A」〜「Z」の英語を当てはめて、勝手に言葉作っているようです。謂わば、「言って者勝ち」の様な状況です。例えば・・・


・AaaS :Analytics as a Service → 解析サービス
・BaaS :Backup as a Service → DBのバックアップ・サービス
・CaaS :Communication as a Service → テレビ会議サービス
・DaaS :Data as a service → データ検証サービス



・ZaaS :Zangyo as a Service :サービス残業の事、日本のジョーク


●Evrything as a Service

ネットワーク経由で、コンピューター処理に必要となる、下記のような、ありとあらゆる物を提供するサービス。
→ ネットワーク、デスクトップ、ハードウェア、ミドルウェア、ソフトウェア、ストレージ


クラウドとは、もう、PCやスマートフォン以外、業務運用に関わる全ての物を、ネットワーク経由で提供する事が出来る時代になってしまったようです。

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次は、「言葉の定義は解った。それで、今までと具体的に何が違うの ? 」となるかと思いますので、図を用いて説明します。


●これまでの「社内システム」


従来の社内システムでは、社内にサーバールームを設け、その中に、自社で購入したサーバーを設置し、情報システム部の社員が、下記のような手順で各種ツール等をセッティングして、社員が使えるようにしていました。


(1)サーバーに、サーバー用OSをインストールして、サーバーが稼働できるようにする。
(2)サーバーに、社内システム、および各種ツールをインストールして、社内でツールが使用できるように準備をする。


その後も、何かシステムやツールに不具合があれば、情報システム部の社員が、問合せを受け付けて不具合等を調査し、問い合わせ先に回答すると共に、システムの修正等を行っていました。


このため、社内情報システム部の社員は、社内で使うIT系システムに関しては、全てのソフトウェアのみならず、ハードウェアの知識までも必要です。


情報システムに配属された社員は、直ぐに、このようにソフトウェアやハードウェアのスキルを保持する事は出来ませんので、「OJT(On the Job Training)」等を通して、数年間の時間を掛けてスキルアップを図る必要があります。


企業は、上記のような仕組みを構築するため、下記リソースに多大な費用を掛けて、社内システムを維持し続けなければなりません。


・人材リソース :社員採用、社員教育、社員への給与支払い/福利厚生、等
・ソフトウェア。リソース :ソフトウェア・ライセンス購入/リース、保守料金
・ハードウェア・リソース :ハードウェア購入/リース、保守料金、サーバールーム維持費


そして、このようなシステム運用をIT用語では「オンプレミス(on-premises)」と呼んでいます。


クラウドによる「社内システム」


そして、この「オンプレミス(自社運用)」をクラウドに切り替えると、何が違うのかを著したのが左図です。


これまで社内に設置していた各種サーバーを、クラウド業者が保持しているデータセンターに移す事になります。


サーバーを、業者のデータセンターに移す訳ですから、当然、サーバーで稼働していた各種システム/ツールも、業者のサーバーで稼働する事になります。


そして、業者のデータセンターにはネットワーク経由でアクセスし、データセンター内のサーバーにインストールされているシステムやツールを使用する事になります。


当然、サーバーを移行する時には、業者と情報システム部の社員が、一緒にシステムやツールの移行作業を行う必要はありますが、一度、データセンター内のサーバーにシステムを移行した後は、サーバーのメンテナンスやデータのバックアップ等の作業は、クラウド業者が行う事になります。


とにかく、社内システムをクラウド側に移行した後、情報システム部は、下記のような面倒な作業から開放される事、「お役御免」となります。


・サーバーの死活管理
・サーバー処理速度管理
・データやシステムのバックアップ作業
・サーバールームの温度管理


但し、システムやツール自体の不具合に関しては、業者は面倒を見きれませんので、その点は、従来通り、情報システム部が責任を負うことになります。


また、データ量や社員数の増加等により、システムの処理速度が低下した場合、サーバーの性能アップやハードディスク容量を増やす必要があります。


この場合、従来は、情報システム部の社員が、稟議書を書いて予算を獲得し、サーバーを購入してアップグレード作業を行っていましたが、これも、クラウド業者との契約を見直し、メモリー増量等を行う事だけで対応が取れるようになります。


まあ、契約変更に伴い、支払は増えるので、稟議書を書いて、予算を増額する事は従来通りですが・・・


このように、このように何らかのリソースが不足した場合も、基本的には、リソース追加等の契約変更を行うだけで対応が取れるようになります。


・ライセンス数追加
・メモリー量増加
・ディスク容量増加・・・・等


また、上記とは逆に、リソースが減る場合も、契約変更だけで、柔軟にリソースやキャパシティを変更する事が可能になります。

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このように、何か、「万能ツール」の様な仕組みを提供する「クラウド化」ですが、実は、魔法のように急に現れた訳ではありません。


前述の過去ブログに記載していますが、「クラウド」と言う仕組みと考え方自体は、ずっ〜と昔から存在していました。


業務のシステム化の流れに関しては、下記過去ブログで「レガシー・マイグレーション」として紹介しています。

★過去ブログ:モダナイゼーション 〜 なぜ今、必要なのか ? - 前編


コンピューター、および業務システムは、次のような流れで進化して来ました。

項番 時代 名称 キーワード
1 〜1990年 メインフレーム IBM社製S/360、370、MVS、390、z/OS
2 1990年代 クライアント/サーバー WindowsUnixTCP/IPISDNASP
3 2000年代 Webシステム LinuxApacheMySQLPHPJavaADSL光通信
4 2010年〜 クラウド 仮想化、AWS、Azure、GCP、Cloud n


この流れの中で、既に1990年代には、「ASP(Application Service Provider)」と言う言葉が生まれました。


この「ASP」を日本語に訳すと「アプリケーション(ソフトウェア)サービス提供事業者」となります。


より詳しい説明をするなら、「ソフトウェアをネットワーク経由で提供するサービスを行う事業者」と言う事になりますので、まさに、現在のクラウドサービスと同じです。


しかし、当時は、まだ現在のように大容量で、かつ高速なネットワーク環境が整っっていなかった事と、操作性がイマイチだったので、日本では「ASP」事業は、当初想像したようには浸透せず、消えてしまいました。


そんな状況を経て現在です。


高速で、かつ大容量のデータ通信が当たり前の世の中になり、また、Webブラウザも進化を遂げ、さらには、かつてはMicrosoft社が提供する、全く使い物にならない「IE(Internet Explorer)」しか使えなかった時代は、過去のものとなってしまいました。


このように、過去に生まれた技術が、現在になって、ようやく使い物になったのが「クラウド」です。


理論(考え方)が先行し、ようやく技術が追い付いたと言う所なのだと思います。

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さらにクラウドを実現するために必要な技術として「仮想化技術」があります。


従来、1台の物理サーバーを使う場合、1台分のスペースが必要でした。例えば、企業1社をクラウド化する場合、1台の物理サーバーが必要とします。


そうなると、5社の企業をクラウド化する場合、5台の物理サーバーが必要になります。


しかし、現在では、「仮想化技術(ハイパーバイザー)」が進歩し、1台の物理サーバーで、5台分の仮想サーバーを構築する事が可能になっています。


このような仮想化技術の進歩により、データセンターにサーバーを集約することが可能になった事も、クラウド化を推し進める事になっています。


但し、この仮想化技術では、1台のサーバーを複数のユーザーが使い回す事になるので、便利な半面、セキュリティに対するリスクが生まれる事にもなってしまっています。


この点は、後述する「クラウドのデメリット」の一つになっています。

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クラウド化メリット/デメリット


ネットワーク経由で、コンピューター運用に関わるほとんど全てのリソースを利用する事が出来る仕組みが「クラウド」である事は、お解りかと思います。


そうなると、メリットは、簡単に、何個も思い付くはずですので、まずは「クラウドのメリット」から紹介します。


下記に、社内システムをクラウド化する場合のメリット/デメリットを紹介します。


クラウドのメリット

(1)サーバールームが不要になる
クラウド業者が提供するサーバーを利用するので、自社のサーバールームが不要になります。但し、一部業務だけをクラウド化する場合、それ以外の業務用サーバーは、従来通り、社内に残る事になります。


(2)空調費用が不要になる
上記、サーバールームが不要になるので、サーバールームを冷やしていた空調設備、および電力も不要になります。


(3)サーバー管理者が不要になる。
上記からの流れで、サーバーが無くなるので、当然、サーバー管理者が不要になります。但し、クラウド業者と連絡を取る担当者(窓口)は必要です。


(4)システム構築費用が安価になる
サーバーを含むハードウェア、およびサーバーにインストールするOS等のソフトウェアに関しては、クラウド業者が用意した環境を使用するので、初期システム構築費用を安価に抑える事が出来ます。


(5)システム構築期間の短縮
社内にシステムを構築する場合、通常、数ヶ月間の期間が必要になりますが、クラウドの場合、基本的な設定はクラウド業者が行うので、短期間でシステム構築を構築する事が出来ます。但し、後述しますが「プライベート・クラウド」を選択した場合は、かなり構築時間が必要になります。


(6)災害対策の強化
現在では、ほとんどのデータセンター自体が免震/耐震構造になっているので、自社では対応が難しい災害対策を施す事が可能になります。さらに、オプション等の契約の仕方にもよりますが、災害発生時に別のデータセンターにシステムを移築する事も可能なケースもあります。


(7)スケーラビリティが高い
自社システムで運用時に、処理パフォーマンスが低下した場合など、メモリー等ハードウェアを増強しなければなりませんが、この場合、予算獲得から実際に対応が済むまで、かなりの時間が必要になります。しかし、クラウドの場合、契約を変更するだけで、直ちにハードウェアの増強が可能です。また、逆に各種リソースを減らす事も自由に行えます。

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クラウドのデメリット

(1)セキュリティ・リスク
前述の「仮想化技術」を使った運用を選択した場合、1台の物理サーバーを、複数社で使い回す運用になるので、セキュリティのリスクが高くなります。また、クラウドにアクセスする場合、常に、外部ネットワーク経由となるので、社外からアクセスする場合、アクセスポイント等も問題になるケースもあります。個人情報や社内機密が漏洩しても、契約の範囲以上の責任は取ってもらえません。


(2)カスタマイズ対応が難しい
社内システムは、自社用に、多くのカスタマイズをしていると思いますが、クラウドの場合、カスタマイズ出来るケースと出来ないケース、またカスタマイズ出来ても、完全に、従来通りのカスタマイズが出来ないケースがあります。クラウド環境を業者が用意するので、社内システムと完全に一致させる事は、まず無理と考えた方が良いと思います。


(3)ネットワーク環境が無いと使えない
当然と言えば当然ですが、クラウドにはネットワーク経由でアクセスするので、ネットワークが使える場所でしか使えません。地下鉄、地下室、インターネット環境が劣る地方などでは、クラウドにアクセス出来ないケースもあります。また、大規模ネットワーク障害が発生すると、社内システムが停止してしまう可能性もあります。

(4)直接障害対応が出来ない
メリットに「障害対応は業者が行ってくれる」と記載していますが、その逆です。全て業者任せになってしまうので、こちらからは進捗状況を管理画面等で見守る事しか出来なくなります。これまでは、直接対応したり、電話越しに文句を言ったりすれば、迅速に対応してもらえたかもしれませんが、クラウドにすると、何も出来ません。文句を言っても余り効果はありません。


(5)他システムと連携出来ないケースがある
これも上記同様、ハードウェアやソフトウェア等、ほぼ全てを業者が提供するので、他システムと連携出来なくなるケースがあります。社内システムでは、カスタマイズを施す事で対応出来ていた事が、クラウド化で出来なくなるケースがあります。


(6)システムの継続性が保証出来ない
何度も記載しますが、全て業者任せです。企業向けクラウドでは、まだこのような自体は起こっていませんが、業者が倒産してしまい、サービスが使用出来なくなる可能性もあります。また、ちゃんとした契約を締結しないと、データセンターの災害で、システムが停止、最悪、データが消えてしまう可能性もあります。


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他方、システムには、品質を評価する基準があります。


そして、品質には、大きくシステムが提供する機能の品質を評価する基準と、システムの使いやすさを評価する基準の2種類の基準があります。


システムが提供する機能は、システム毎に異なりますが、システムの使いやすさに関しては、どのようなシステムに関しても、ほぼ同じで、『 非機能要件 』と呼ばれ、次のような基準があります。


【 非機能要件 】
可用性 :継続して運用できる能力で、耐障害性、災害対策、回復性、等を意味する。
性能/拡張性 :処理能力、処理速度、および各種リソースの拡張のし易さを意味する。
運用/保守性 :障害対応方法、連続運用への対応等を意味する。
移行性 :データ移行、機器(ハードウェア)の移行のし易さ等を意味する。
セキュリティ :監視、診断、追跡、リスク対応、利用制限、リカバリー等の対応方法を意味する。
環境 :機材設置環境条件や環境マネージメント等、環境に優しい設置場所を意味する。


上記は、代表的な「非機能要件」で、それ以外にも細かく分類すれば、数十種類もの評価項目を挙げる事も出来ます。


今回、クラウドのメリットを見てみると、次の「非機能要件」は、ある程度は満たしていると思われます。 → 可用性、性能/拡張性、移行性、環境


しかし、やはり「セキュリティ」に関しては、ハードウェア、およびソフトウェアを、クローズ環境である「社内」から、オープン環境となる「社外」に出してしまう事から、リスクが高まってしまうのは致し方無いとは思います。


また、運用や操作性に関しても、業者提供環境に、完全に依存してしまうので、社内システムの様に、自社の運用に特化したカスタマイズを望むのは無理があります。

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一方、前述の「そもそもクラウドとは何 ? 」に記載した通り、クラウドにも、サービスの種類があります。 SaaS、PaaS、IaaS・・・


この内、「IaaS(アイ・アース)」と呼ぶクラウドサービスの場合、基本的には、ハードウェア等のインフラを提供するクラウドサービスとなりますので、このサービスを上手く使えば、既存の社内システムに、ある程度は近づける事が可能になります。


このようなサービスを「プライベート・クラウド」と呼びますので、次章で、このサービスの内容を紹介したいと思います。

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クラウドの種類

前章で、クラウドの種類として、「SaaS」や「IaaS」等と言うクラウドサービスの種類を紹介しましたが、このようなサービスの分類方法とは別に、クラウドサービスを、次の2種類に分類する方法もあります。


・パブリック・クラウド :仮想化技術を用いて、大勢の顧客に仮想サーバーを提供するサービス
・プライベート・クラウド :企業毎に専用サーバーを用意して提供するサービス


どちらの利用形態も当然、クラウドサービスなのですが、簡単に言うとサーバーを「共有するか否か」の違いとなります。


もっと簡単に言うと、ハワイなどのビーチに、ホテル専用の「プライベート・ビーチ」が用意されていますが、それと似たイメージです。「ビーチ」を皆で一緒に使うか、それともホテル宿泊者だけで使うのかの違いです。


そこで、簡単に、上記2種類のクラウドサービスの利用形態を紹介します。

サーバー 環境 ソフト 費用
パブリック・クラウド 共有 選択不可 選択不可 安価
プライベート・クラウド 専有 選択可 (ある程度)選択可 高額

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ところが、上記2種類のサービス形態であれば、分類方法が単純なので、どのようなサービスを利用すれば良いか、比較的簡単に決める事が出来たと思います。


しかし・・・世の中、簡単な仕組みを、わざと複雑にして、公務員のような輩(やから)が必ずいます。


そして、このクラウドサービスに関しても、既存のサービスの隙間を突くような新サービスが生まれ、クラウドサービスの提供形態が複雑になって来ています。


下記にクラウドサービス、そして過去に流行したホスティングやハウジングのサービス概要を記載しますが・・・記事を書いている、コチラも訳が解らなくなってしまいそうです。



ホスティング(レンタル)
サーバー共有/専有、業者設置、変更不可、料金固定

●ハウジング
サーバー自前、業者設置、変更可、料金従量制

●パブリック・クラウド
サーバー共有、業者設置、変更不可、料金従量制

プライベートクラウド-ホステッド-デディケイテッド
サーバー専有、業者設置、変更可、料金従量制

プライベートクラウド-ホステッド-コミュニティー
サーバー専有、業者設置、変更可、料金固定

プライベートクラウド-オンプレミス
サーバー自前、自社設置、変更可、料金固定


なお、料金体系などは、業者により異なるので、「この利用形態なら月額固定」と言う訳ではありませんので、最終的には、業者に問い合わせて下さい。


それでは、以降に、「パブリック・クラウド」と大きく「プライベート・クラウド」の仕組みを紹介します。

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●パブリック・クラウド

・業者が提供するコンピューティング環境を、そのまま不特定多数のユーザーに提供するサービス
・ネットワーク等、全てのコンピューティング環境は業者側で仮想化され、不特定多数の利用者が、ほぼ全ての環境を共有して使用する。
・サーバー設置場所を含め、全てのコンピューティング環境は、業者側が用意した環境に従わなければならない。利用者側は、業者から提示された利用条件に従う必要がある。
・全てが、業者側から提示されたパッケージになっているので、利用料金が非常に安価となる。
・同様に、既に用意されたパッケージを利用するので、契約完了後、直ちにサービスを利用する事が出来る。
・さらに、(通常の場合)サービスを停止したい場合も、直ちにサービスを停止する事が出来る。
・ハード、およびソフト、全てを業者側で用意/管理してくれるので、利用者は、ハード/ソフトの維持管理から開放される反面、障害が発生した場合など、一切手出しする事が出来なくなる。
・パブリック・クラウドサービス提供業者としては、次のような企業によるサービスが有名である。
GoogleAmazonMicrosoft

●プライベート・クラウド

ここでは、プライベート・クラウドに関して、次の2種類のサービスを紹介します。

▲ホスティッド・クラウド
・その昔、「ホスティング」と呼ばれていたサービスに類似したサービスとなる。
・業者が、利用者毎に、専用のサーバー、ストレージ、あるいはデータベース等のリソースを用意する。
・利用者は、サーバー等の機器を購入する必要は無いし、自身ではシステム構築する必要も無い。
・基本的に月額固定で業者が提供する環境にシステムを短期間で構築して利用する事が出来る。
・この利用形態の場合、ネットワーク環境は専用回線、あるいはVPN回線を利用出来るので、セキュリティ・レベルを高める事が出来る。
・また、カスタマイズも出来るので、企業の業務システムに適した環境と言える。

さらに、この「ホスティッド・クラウド」に関しては、次の2種類の利用形態も存在する。

★デディケイテッドプライベートクラウド(DPC:Dedicated Private Cloud)
・業者が既に運営しているパブリック・クラウド環境の一部を、特定の利用者に専有させる利用形態。
・このサービスは、次の業者が提供している。→ Amazon Virtual Private Cloudや、MicrosoftのVirtual Network、IBMのBlueMix Dedicated


★コミュニティープライベートクラウド(CPC:Community Private Cloud)
・業者が、利用者の要求に合わせてカスタマイズしたクラウド環境を構築して提供するサービス。
・一般的には、同業種の企業が共同で構築して運営しているケースが多く、そのため「コミュニティー」と呼ばれている。
・費用は、パブリック・クラウドに近く、安全性はプライベート・クラウドに近いと言う「良いとこ取り」のような仕組みと言われている。
・このサービスは、次の業者が提供している。→TTコミュニケーションズのBizホスティング Enterprise Cloudや、NSSOLのabsonne、CTCのCUVICmc2

※なお、米「salesforce.com, Inc」社が提供する「Community Cloud 」と言うサービスは、このクラウドサービスとは異なるサービスとなります。

▲オンプレミス・クラウド
・企業自身が、サーバー/ストレージ等のハードウェアを購入し、その上で、企業内の環境に、ハードウェアを設置する。(従来型オンプレミスと同様)
・その後、利用者自身が、仮想化ソフトウェアを用いて、専用のクラウド環境を構築し、社内の利用者に、クラウドサービスを提供する事になる。
・このため、当然と言えば当然であるが、自社運用にあった柔軟なシステム設計と堅牢なセキュリティ環境を構築する事が可能となる。
・つまり、この利用形態は、企業自身がクラウドサービス提供者となり、社内の各部署が、クラウドサービス利用者となる。
・このため、これまで紹介してきたクラウド利用形態の内で、最も高額なクラウドサービスとなる。
・従来型のオンプレミス、つまり社内システムと異なる点は、社内で仮想化技術を用いて、コンピューティング環境とリソースを各部署に配分出来る点となる。

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クラウドサービスの利用形態・・・理解出来ましたか ? 正直な所、私は、未だに「?」の状態です。


実は、この部分、クラウドサービスの内容に関しては、私の感覚では、まだ、業界内でも、しっかりと定義されていないように感じます。


と言うのは、今回、様々な紹介サイトを見ましたが、どの説明にも一貫性がなく、細かな部分で、説明が異なっていたからです。


さらに、その説明文を掲載しているのが、クラウドサービス提供事業者です。


つまり、クラウドサービスを提供している事業者自身、各クラウドサービスの内容を、はっきりと理解していない事を意味しています。


プライベート・クラウドの部分に新たに登場した下記2つのサービス形態、それとプライベート・クラウドの「オンプレミス型サービス」、これらに関しては、まだまだサービス内容が変わって行く可能性があると思います。


・デディケイテッド・クラウド
・コミュニティークラウド


クラウドサービス」で、かつ「オンプレミス」・・・全く正反対のサービス概念を、合体させたサービスですから、余計に訳が解らなくなってしまいます。

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今回、「クラウドサービス」に関して、次のような内容を紹介しましたが、如何でしたか ?


●そもそもクラウドとは何 ?
クラウドのメリット/デメリット
クラウドの種類


日本において、「クラウド」と言う言葉が使われ始めて、今年で8年ほど経ちましたが、未だに、サービス内容が統一されていないようです。


そもそも、8年経っても、日本のみならず、世界中のIT業界においてさえ、「クラウドとは何か ?」が明確になっていません。


兎にも角にも、ネットワーク経由でコンピューター関係のハード/ソフトを利用する事、全てが「クラウド」と呼ばれてている状況が続いています。


その上、さらにサービスの利用形態が増え、終いには「オンプレミス・クラウド」等と言う、「真逆」の言葉が使われる自体になってしまっています。


このような無法地帯のような状況が、「XaaS」や「Evrything as a Service」等と言う言葉を生み出しています。


しかし、まあ、私達、日本人も「明暗」とか「勝負」とか、真逆の漢字を結合して二字熟語として使っていますので、そのうち、何百年か経過すれば、「違和感」など抱かなくなるのかも知れません。

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そして、次回以降ですが、次のような内容を紹介したいと思っています。


クラウド導入までの全体の流れ
●コスト削減手段としてのクラウド
●本番カットオーバーまでの時間短縮としてのクラウド
クラウドによる本番業務カットオーバー後の問題


現在は、業務運用の「救世主」の様に持ち上げられているクラウドですが、実際に、クラウド運用を止めて、オンプレミスに戻す企業も出始めています。

私を含め、多くの日本人は、本ブログで、何度も触れていますが、とにかく「新しもの好き」が多いようです。


現在は、ネコ様には失礼ですが、猫も杓子もクラウドクラウドと騒いでいますが、過去には、日本中で「ERP(Enterprise Resources Planning)」に突っ走った過去があります。


この時も、長年の経験を注ぎ込んだ社内システムを廃棄し、数億円もの費用を掛けてERPにシステムをリプレースしたのは良いですが、結局は使い物にならず、また自社システムを再構築する企業が続出しました。


こと日本のIT業界において、流行った事を列挙すると・・・簡単に書いても、下記のような失敗事例を列挙する事が出来ます。


●ダウンサイジング :PC台数の急激な増加による費用増加で失敗
●クライアント・サーバー・システム :サーバー乱立でハードウェアの管理が出来ず失敗
ERP :カスタマイズ出来ずに失敗
クラウド :ネット経由処理が「AI」の処理スピードを満たせず失敗


日本における企業の情報システム部は、バブル以降、自分達で考える事を止め、全て「Sier」の言うなりに動く、「操り人形(Marionette)」と化してしまった事から、数多くの失敗を繰り返すようになってしまったみたいです。


次回以降で、本当にクラウドは、企業の救世主に成り得るのかを検証したいと思います。


それでは、次回も宜しくお願いします。

以上

【画像・情報提供先】
Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)
PC Watchhttps://pc.watch.impress.co.jp/
・ボクシルマガジン(https://boxil.jp/mag/)

早池峰信仰と瀬織津姫命 〜 謎多き姫神に触れる その3


今回は、これまで紹介して来た「早池峰信仰と瀬織津姫命」の続編となる「その3」を紹介します。


★過去ブログ:早池峰信仰と瀬織津姫命〜謎多き姫神に触れる その1(20180623)
早池峰信仰と瀬織津姫命〜謎多き姫神に触れる その2(20180721)


前々回、および前回では、次の様な内容を紹介しましたが、「早池峯信仰」と「瀬織津姫命」との関係は、何となく「熊野権現」に、そのルーツがありそうな雰囲気です。



山岳信仰とは
・早池峯信仰とは
・早池峯神社とは
・「早池峯」と「早池峰」の違い
・どこが「早池峯神社」の本坊なのか ?
瀬織津姫命が御祭神の神社
瀬織津姫命とは何者なのか ?


前回の「その2」で取り上げた「瀬織津姫命とは何者なのか ?」において、早池峰山の南登山口の「早池峯神社」の開祖「始閣藤蔵」の出身地が「伊豆地方」である事を紹介しました。


そして、「始閣藤蔵」が建立した「伊豆神社」は、「遠野の早池峯神社」の「親神社」であり、かつ「親神」であり、その始まりは、「伊豆権現」を勧請して、御祭神を「瀬織津姫命」とした事から始まった点も紹介しました。


瀬織津姫命」に関しては、「天照坐皇大御神荒御魂(あらみたま)」を始め、多くの神様と習合していることもお伝えしましたが、こと「早池峯神社」に関しては、この「始閣藤蔵」が、現在「伊豆山神社」と呼ばれており、過去には「熊野信仰」とも結びついていた修験場にルーツがありそうです。


ここで、前回までの紹介した内容を簡単に整理して見ますと、次の通りです。


●「早池峯神社」は、早池峰山に登るための東西南北の4つの登山口に、それぞれ1箇所ずつ存在するが、現在、由緒/起源が解っているのは、西登山口「大迫の早池峯神社」と南登山口「遠野の早池峯神社」である。

●この2つの「早池峯神社」に関しては、大迫側「藤原兵部卿成房」、遠野側「始閣藤蔵」と言う、それぞれの開祖がいる事になっている。

●その後、どちらも「真言宗」や「天台宗」の密教系仏教の介入を受け、どちらも「妙泉寺」と言う名の神宮寺となり、さらに「新山堂」や「新山堂」と言うお堂を建立した。

●しかし、その始まりは、神社の由緒/起源、および御神体の配置など考慮すると、現在の南登山口にある「遠野の早池峯神社」であると思われる。

●また、全ての「早池峯神社」では、その御祭神は「瀬織津姫命」となっており、岩手県内では、「瀬織津姫命」を御祭神として祀る神社は、全国1位となる、36社も存在する。

●「瀬織津姫命」と言う神様は、「早池峯神社」の御神体の他にも、様々な神様と習合し、日本全国で祀られており、その数は、454社も存在する。

●さらに「瀬織津姫命」と言う神様は、地元の遠野地域では、「前九年の役」で朝敵となった「安倍氏」と関係のある人物とも習合している。


そこで、今回のブログでは、前回取り上げた「瀬織津姫命とは何者なのか ?」の話題を受け、次の内容を紹介したいと思います。

■「天照大御神」は男神なのか ?
■「鈴鹿権現」と「瀬織津姫命」の関係
■「熊野権現」と「瀬織津姫命」の関係


それでは今回も宜しくお願いします。

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■「天照大御神」は男神なのか ?


前回、平安時代末期には、既に「天照大御神」が「男神」であると言う説が広まっていた事や、「陰陽二元論」と言う神道の考え方から、「天照大御神 = 男性」とされていた事も紹介しました。


具体的な情報を指摘した書物や事実として、次の様な事が挙げられています。


平安時代後期の学者「大江匡房(おおえの-まさふさ):1041〜1111年」が編纂した「江家次第」と言う有識故実書には、伊勢神宮に奉納する天照大神の装束一式が、男性用の衣装である事を指摘しているそうです。


また、江戸時代中期には、前回紹介した「神道五部書」を作成したとされる、伊勢神宮外宮の神職「度会氏」の子孫「度会延経(わたらい-のぶつね)」も、その著書「内宮男体考証」の中で、『 之ヲ見レバ、天照大神ハ実ハ男神ノコト明ラカナリ 』と記述しているそうです。


また、「日本書紀」に登場する「天の岩屋」の話は、日本人なら、誰でも知っている神話だと思います。


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【 天の岩戸 】

(略)
「天宇受賣命(アメノウズメ)」が、岩戸の前に桶を伏せて踏み鳴らし、神憑りして胸をさらけ出し、裳の紐を陰部までおし下げて踊った。


すると、高天原が鳴り轟くように八百万の神が一斉に笑った。


これを聞いた天照大神は訝しんで天岩戸の扉を少し開け、「自分が岩戸に篭って闇になっているのに、なぜ、天宇受賣命は楽しそうに舞い、八百万の神は笑っているのか」と問うた。


「天宇受賣命」が、「貴方様より貴い神が表れたので喜んでいるのです」と言うと、天児屋命太玉命天照大神に鏡を差し出した。


鏡に写る自分の姿をその貴い神だと思った天照大神が、その姿をもっとよくみようと岩戸をさらに開けると、隠れていた「天手力男命(アメノタヂカラオ)」がその手を取って岩戸の外へ引きずり出した。



「胸を開け、陰部までさらけ出した若い女性の踊りを見るために岩屋から出てくる。」などと言う行動を取るのは男性しか考えられません。


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また、祇園祭に登場する山鉾「岩戸山」があります。


この山鉾「岩戸山」は、上記の「天の岩屋」神話を題材とした山鉾で、創建時期は、この鉾を維持管理している「岩戸山保存会」でも解らないようです。


しかし、八坂神社の社宝「祇園 社記」に、既にその名が記載されている事から、「岩戸山」の創建は、室町時代後期となる、「嘉吉元年(1441年)」頃とされています。


さて、祇園祭に登場する山鉾には、それぞれ御神体が祀られています。


そして、この「岩戸屋」の御神体は、「天照大御神」、「天手力男命」、および「伊邪那美命」の三体です。



ところが、この御神体の「天照大御神」は、「男神」となっており、山鉾「岩戸山」の御神体の説明には、「天照大御神」の事を、次の様に説明しています。


『 男体である。桧の胡粉塗艶出しで目、口、眉、頭髪は描かれ、眉目秀麗の美男子で垂纓の冠を着す。白蜀江花菱綾織袴で浅沓を穿く。直径十二センチ程の円鏡を頸にかけ笏を持つ。と岩戸山町で伝えられいるが、世間一般的には、女神と思われている。 』


「世間一般では女神と思われている。」と、あたかも「天照大御神」が、男神であることが「当たり前」のように記述されています。


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その他にも、江戸時代には、仏師「円空」が、「天照大御神」を男神として作成していますし、鯰絵や浮世絵にも男性の「天照大御神」が数多く描かれています。


また、男神以外の「天照大御神」の登場の仕方としては、編纂時期が不明で、現在は写本しか存在しない「日諱貴本紀(にちいきほんぎ)」と言う書物に、「天照大御神は両性具有の神」として登場しているようです。


「二根共に男女を具え、是今の両甥始也」


この「日諱貴本紀」には、「天照大御神」の事を、このように表し、かつ身長までも「六尺六寸」と具体的に表しているようです。


「1尺 = 30.3cm、1寸 = 3.03cm」とすると、「天照大御神」は、身長「199.98cm」、約2mもの長身となります。


しかし、「長さ」の基準が、現在と同じか否かは疑問があるところです。


前回紹介した(学者には偽書と断定されている)「ホツマツタエ」にも、神様の身長が記載されているそうですが、それによると「アマテル神は、身長一丈二尺五寸(約281センチ)」とあるようですが、この時は「1尺 = 22.5cm」程度なのだそうです。


そもそも、「日諱貴本紀」の編纂時期に関しては諸説があり、ある説では、南北朝時代となる「観応元年(1350年)」頃ではないかと言う説が有力となっていますので・・・やはり「眉にツバが」付く書物なのだと思われます。


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他方、この男神天照大御神」の妻となったのが「瀬織津姫命」という噂が、真しやかに広まっていますが・・・これも、どうなのでしょうか ? その一番の根拠となっているのが、前回紹介した「神道五部書」です。


その中には、「伊勢神宮」の内宮の境内別所にある「荒祭宮」の御祭神「天照大御神荒御魂(あまてらします - すめおおみかみ - の - あらみたま)」の別名は、「瀬織津姫命」である、と記載されているそうです。



そして、この「荒祭宮」は、数ある「別宮(10個)」の中でも一番規模が大きく、位も、「正宮」に次ぎ尊いとされています。


また、伊勢神宮の祭事、および神饌(しんせん)の種類や量に関しても、この「荒祭宮」だけが、「正宮」と同等とされています。


「荒御魂」とは、神の荒々しい側面、荒ぶる魂とされていますので、「正宮」である「天照大御神」と同等の扱いになるのは当然かもしれませんが・・・何か裏がありそうな雰囲気です。



荒祭宮」に関しては、伊勢神宮の説明によると、奈良時代末となる「延暦23年(804年)」に編纂された「皇太神宮儀式帳(こうたいじんぐう-ぎしきちょう)」に、下記記載があるので、既に、この頃から、伊勢神宮内に建立されていたとしています。


荒祭宮一院 大神宮の北にあり、相去ること二十四丈 神宮の荒御魂宮と称う。 』


社殿は、「内削ぎの千木」で、かつ「鰹木は偶数(6本)」ですので、女性の神様を祀っていると思われますが、御神体「鏡」であることだけは確かなようです。


ちなみに、通常、「外削ぎの千木」で「鰹木が奇数」の場合、御祭神は「男神」になります。

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■「鈴鹿権現」と「瀬織津姫命」の関係


さて、前章で、祇園祭の山鉾「岩戸屋」を紹介しましたが、別の山鉾に、「鈴鹿山」と言う鉾もあります。


こちらの山鉾は、「鈴鹿権現」を祀った鉾で、伊勢国(現:三重県)鈴鹿山で、道ゆく人々を苦しめた悪鬼を退治した「鈴鹿権現」を、金の烏帽子を被り、右手に大長刀を持つ女人の姿で表しています。


そして、この「鈴鹿権現」に関しては、ちゃんと、別名「瀬織津姫命」として紹介しています。



鈴鹿山」の御神体(瀬織津姫命)の後ろには、退治した鬼の首を表す「赤熊(しゃぐま)」が置かれており、何とも勇ましい姿になっていますが、これは、前述の「荒御魂」に通じる意味があるようにも思えます。


上図の山鉾「鈴鹿山」の画像、右下部分に置かれている「赤い物体」が、「鬼の首」を表しています。


ちなみに、「赤熊」とは、赤く染めたヤクの白い尾の毛で、僧侶が持つ「払子(ほつす)」、や戊辰戦争薩長軍の「迅衝隊(じんしょうたい)」が被っていたカツラも、「赤熊」とか「白熊(はぐま)」と呼ばれています。



その他、祇園祭では、祭りの先陣を務める「長刀鉾」の鉾先の網巻部分に取り付けられる、大きなワラで造った飾り物の事も「赤熊」と呼んでいるようです。


こちらの「赤熊」は、火除けや厄除け等のご利益があるとの事で、祇園祭が終わった後、祭りの関係先や冷泉家に配布され、軒先や台所に飾られるそうです。


長刀鉾」に付けられる「赤熊」は、全部で7個しかないそうです。



この「赤熊」は、寺院の塔の最上部に付けられる「九輪」を表していると伝わっているそうですが・・・「長刀鉾」には、何故か「7個」しか付けられません。


また、何故、「長刀鉾」に「赤熊」が付くのか、また、何故、この藁の束を「赤熊」と呼ぶのかも解らないようです。


前述の「毛を赤く染めたカツラ」を「赤熊」と呼ぶのは、何となく解りますが、こちらは全く解りません。


ちなみに、このカツラには、前述の「赤熊」、「白熊」に加え「黒熊(こぐま)」もあり、元々は、徳川家重臣「本多忠勝」が、兜の飾りとしていたそうですが、見た目が「格好良い」と言う理由で、本多家の家臣達も真似した事から拡がったとされています。


しかし、素材が、「ヤク(唐牛)」と舶来品で高価だったので、江戸城に保存してあったそうですが、江戸城開場の際に、薩長の武士が、勝手に盗み出して使い出したとされています。


また、黒い「黒熊」は薩摩、白い「白熊」が長州、赤い「赤熊」が土佐と決まっていた様で、それ以外の武士は使わせてもらえなかったと言われています。


幕府から盗み出したのに、何とも勝手な言い草で、将に「盗人猛々しい」とは、この事だと思います。


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さて、話を「鈴鹿権現」に戻しますと、「鈴鹿権現」は、別名「鈴鹿御前」とも呼ばれており、伊勢と近江の国境にある「鈴鹿山」に住んでいたとされる伝説上の女性で、交通の要所であった「鈴鹿峠」、および東海道を通る人の守護神とされています。


そして、平安時代末期から鎌倉時代、そして室町時代を通して、様々な読み物に「鈴鹿御前」が登場し、そのうちに「鈴鹿御前」と「立烏帽子」が習合してしまった様です。


それ以外にも、その正体としては、次の様な情報もあるようです。
→ 女盗賊、鬼、女神、天女、第六天魔王の娘


さらに、別の説では、「坂上田村麻呂」が天皇の勅命により、山賊退治を命じられ鈴鹿峠に向うと、天上より天女(瀬織津姫命)が現れ、その霊力により「坂上田村麻呂」の山賊退治を助けたとも、その後、彼の妻になったとも伝えられています。


他方、「坂上田村麻呂」と「鈴鹿御前」に関してですが、岩手県内には、「鈴鹿御前」と「坂上田村麻呂」は結婚して「一男一女」を儲け、男の子は「安倍氏」の始祖となり、女の子は、三女を儲けて「遠野三山」の女神になったと言ういい伝えが残されています。


この件に関しては、とても興味深いので、後述する「安倍氏との関係」で詳しく紹介したいと思います。


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ところで、「何故、鈴鹿御前と坂上田村麻呂が結びついたのか ? 」と言うと、「坂上田村麻呂による鈴鹿峠の悪鬼退治伝説」と「斎王の鈴鹿禊(みそぎ)」が、紆余曲折を経て繋がったのではないかと思われます。


元々、鈴鹿の地は、京都から「伊勢神宮」に向かう交通の要所で、古くから「斎王」と呼ばれる女性皇族が、「伊勢神宮」に向かう際に、禊(みそぎ)を行っていた神聖な場所とされています。


そして、鈴鹿峠には、前回ブログでも紹介した「延喜式」にも記載されている式内社「片山神社」も建立されていました。


現在は「片山神社」と呼ばれていますが、江戸時代刊行された「伊勢参宮名所図会」には、『 鈴鹿神社には、片山神社と言う別名がある。』と言う解説が書かれていますので、その昔「鈴鹿大明神」や「鈴鹿神社」と呼ばれていたようです。


また、この「片山神社」、現在は、残念ながら「平成13年(2002年)」に放火で全焼してしまった後、中々再建が進まず廃墟となってしまっていますが、「延喜式」に記載されている式内社ですから、創建時期は非常に古く、平安時代初期となる「延喜5年(905年)」以前だと思われます。


そして、神社の主祭神は「倭比売命(やまと-ひめ-の-みこと)」と呼ばれる姫神で、上記「斎王」の起源と考えられている神様です。


さらに、この「片山神社」には、「配祀(はいし)」として、次の様な多くの神様も祀られています。「配祀」とは、主祭神以外に祀られている神様です。


・瀬織津比賣神 :せおりつひめかみ。祓戸四神の一柱。急流に住む女神。
気吹戸主神 :いぶきどぬしかみ。同じく祓戸四神の一柱。海底に住む神。
・速佐須良比賣神 :はやさすらひめかみ。同じく祓戸四神の一柱。根の国・底の国に住む女神。
天照大神 :あまてらすおおかみ。イザナギが黄泉の国から生還後、左目を洗った時に生まれた。
・速須佐之男命 :すさのおのみこと。天照大御神の弟。イザナギの生還後、鼻を洗った時に生まれた。
・市杵嶋姫命 :いつきしまひめのみこと。宗像三女神の一柱。アマテラスとスサノオの誓約で生まれた神
大山津見神 :おおやまつみ。イザナギイザナミの子。(日本書紀では)カグツチの子
坂上田村麿 :(言わずと知れた)坂上田村麻呂



ここで、既に「鈴鹿権現 = 瀬織津姫命」と言う関係が成り立っているようにも見受けられます。


ちなみに、地元の記録では、元々、この「片山神社」は、鈴鹿峠の北に連なる三ツ子山にあったと言われており、何度も山火事にあったので、鎌倉時代中期、「永仁5年(1297年)」に、現在の地に遷座し、さらにその後、「倭比売命」が合祀されたとなっています。


つまり、現在、主祭神となっている「倭比売命」は、神社の格式を上げるために、後日、どこからか勧請された神様と言う事だと思われます。


また、地誌「三国地志」によると、「片山神社」の由来は、次の通りとなっています。


『 社家伝に云う。もとは、片山神社は三子山にあった。三ツ子とは鈴鹿嶽、武名嶽、高幡嶽である。祭神は瀬織津姫、伊吹戸主、速佐須良姫の三神、寛永十六年にこの地に遷座し祀る。三神が出現したゆえ三ツ子の名がある。また鈴鹿社は倭姫命を祭る。いま四神合祀して一つとなす。 』


そうなると、「片山神社(鈴鹿神社)」の御祭神は、祓戸四柱の内、その三柱が主祭神だった事になりますから、「斎王」の禊に深く関わった神社だったと思われます。


さらに、別の地誌「亀山地方郷土史」や「大日本史」によると、「片山神社」は、三子山に鎮座する前は、また別の地に鎮座していたと記載されていたとしています。


この地誌によると、「片山神社」は、「三重県亀山市関町古厩字片山」にあったと記載されているようですが、そうなると、現在地からは、南東方向に、かなり離れた場所にあった事になるので、この説には、異論もあるようです。


こちらの、「片山神社」ですが、元々は、「アララギ様」と呼ばれる神を祀った祠があった場所と伝わっており、その後、江戸時代には「八王子様」と呼ばれ、八柱の神様を祀る「宇気比(うけひ)神社」とも呼ばれていたようですが、明治時代に「片山神社」になったと伝わっています。


何とも興味深いのは「アララギ様」と呼ばれた神様の存在です。


実際「アララギ様」と言う神様が、どのような神様なのかは解りませんでしたが、似た名前で「アラハバキ神(荒脛神)」と言う神様がいらっしゃいます。


現在では、学会から偽書と断定されている「東日流外三郡誌(つがる-そとさんぐん-し)」に、その記載が見られることから存在自体も疑われている神様ですが、「アラハバキ神(荒脛神)」を祀る祠は、日本各地にあります。


この「アラハバキ神(荒脛神)」についても、「安倍氏」との関係で取り上げたいと思います。


それと、「八王子」とは、東京の「八王子」ではありません。


先にも登場していますが、「アマテラスとスサノオの誓約(宇気比:うけい)」で生まれた、次の五男三女神の事で、「八人の王子」の事となります。


(女神)田心姫神(たごりひめのかみ) :古事記多紀理毘売命」、沖津宮(おきつぐう)、沖ノ島
(女神)湍津姫神(たぎつひめのかみ) :古事記多岐都比売命」、中津宮(なかつぐう)、大島
(女神)市杵島姫神(いちきしまひめのかみ) :古事記市寸島比売命」、辺津宮(へつぐう)、宗像本土・田島
(男神)天忍穂耳命(あめのおしほみみのかみ):古事記正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命」、稲穂の神、農業の神
(男神)天穂日命(あめのほひのかみ) :古事記天之菩卑能命」、稲穂の神、農業の神、養蚕の神、火の神
(男神)天津彦根命(あまつひこねのかみ) :古事記天津日子根命」、その後は登場せず
(男神)活津彦根命(いくつひこねのかみ) :古事記活津日子根命」、その後は登場せず
(男神)熊野櫲樟日命(くまのくすびのかみ) :古事記「熊野久須毘」、その後は登場せず


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また、鈴鹿峠滋賀県側には、上記「悪鬼退治伝説」と関係の深い「田村神社」が鎮座しています。


こちらの「田村神社」、様々な由緒起源が掲載されていますが、神社自身の由緒書きによると、前述の「悪鬼退治伝説」を継承し、「坂上田村麻呂(758〜811年)」の没後、この地に平和をもたらしたご遺徳を仰ぎ、平安時代の「弘仁3年(812年)」に、この地に、「坂上田村麻呂」を祀る神社を建立した事になっています。


そして、御祭神はと言うと、当然「坂上田村麻呂」なのですが、それ以外にも、次の二柱が祀られているそうです。 → 倭比売命、嵯峨天皇


嵯峨天皇」は、「鈴鹿峠」の悪鬼と言うか、盗賊を討伐する勅命を出した天皇ですし、この地に「坂上田村麻呂」を祀る神社を建立する勅令を出した人物でもありますので、それで、「坂上田村麻呂」と一緒に御祭神になったと推測されます。


しかし、「倭比売命」に関しては、その経緯が解りませんが、恐らくは、先の「鈴鹿神社」と同様、「斎王」との関係があると思います。


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その後、時代を経ることで、これらの記録や伝承などが「一緒くた」となり、「斎王」が、いつの間にか「鈴鹿権現」となり、さらには「悪鬼退治伝説」で有名な「坂上田村麻呂」とつながり、「鈴鹿立烏帽子姫」と言う事になり、最後には、二人が結婚して・・・と言う形で話が広がり、それが「お伽草子」等の物語になって行ったと考えられます。


鈴鹿御前」、あるいは「立烏帽子姫」が登場する書物には、下記のような物があるとされています。


・宝物集 :平安末期「治承3年(1197年)」頃に成立した仏教説話集。
保元物語 :鎌倉初期「承久3年(1221年)」頃に成立した軍記物語。
・古今著聞集 :鎌倉中期「建長6年(1254年)」に成立した世俗説話集。
・公卿勅使記 :鎌倉中期「弘長元年(1261年)」に編纂された神道系の書物。
太平記 :戦国時代、14世紀中頃の古典文学。
・壬生家文書 :戦国時代「文明18年(1486年)の勘文(朝廷からの依頼で作成した調査報告書)。


上記の様な流れで、平安時代には、「立烏帽子姫」と「鈴鹿御前」が習合し、その後、室町時代や戦国時代には、「坂上田村麻呂」も登場し、それ以降は、地元の民間信仰や「お伽草子」等の読み物として語り継がれてきたのだと思います。


鈴鹿御前 = 瀬織津姫命」と習合した経緯に関しては、詳しくは解りませんが、やはり前述の通り、「禊(みそぎ) = 祓戸大神」として習合したように感じられます。


但し、祓戸大神の内、「姫神」は、三柱も存在するのに、何故「鈴鹿御前 = 瀬織津姫命」となったのかは、疑問の残る所です。


鈴鹿御前」と習合するのは、「瀬織津姫命」以外、「速開都比売」や「速佐須良比売」でも良かったと思いますが、何故「鈴鹿御前 = 瀬織津姫命」となったのか ?


前述の「片山神社」には、「瀬織津姫命」と一緒に「速佐須良比売」も祀られているので、「鈴鹿御前 =速佐須良比売」でも良かったのではないかと思われます。


この件に関しては、後述する「瀬織津姫命が生まれた背景」で詳しく紹介したいと思いますが、やはり「瀬織津姫命」は、他の女神と比べると、特別な神様だった事が理由だと思われます。

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■「熊野権現」と「瀬織津姫命」の関係



他方、「熊野権現」と「早池峯権現」を同一と見る向きもあります。つまり、「熊野権現 = 早池峯権現 = 新山権現 = 瀬織津姫命」と言う関係です。


「早池峯権現 = 新山権現 = 瀬織津姫命」と言う関係は、名前の順番は別にして、これまで説明してきた各地の「早池峯神社」の由緒から明らかだと思われます。


それぞれの登山口で「妙泉寺」や「新山宮」を建立し、そこに「新山権現」やら「早池峯権現」を勧請して、かつ御祭神を「瀬織津姫命」にしている訳ですから、これら三者(三神)は、同一神として習合していると考えて間違いないと思います。



また、「遠野の早池峯神社」は、猟師「始閣藤蔵」が開祖と伝えられている事は既に紹介した通りです。


しかし、前編では詳しく紹介していませんが、「始閣藤蔵」は、元々、遠野の人間ではなく、現在の静岡県「伊豆」出身である事が、昭和49年10月に刊行された「遠野市史」に掲載されているそうです。


市史によると、「始閣藤蔵」は、故郷「伊豆」から、太平洋岸沿いに北上し、「遠野市来内(らいない)村」に来て、そのまま村に住み着いたとされています。


そして、その後、平安時代初期の「大同年間(806〜810年」に、故郷である「伊豆」から持ってきた守り神である「伊豆権現」を勧請して、遠野市上郷町来内に「伊豆神社」を創建したとされています。



遠野市伊豆神社(当時は、伊豆大権現)」は、「伊豆権現」を勧請したとされていますが、その御祭神は「瀬織津姫命」となっていますので、ここで「伊豆権現 = 瀬織津姫命」と言う関係も見て取ることが出来ます。


そして、前述の通り、「始閣藤蔵」は、「大同元年(806年)」、早池峰山の山頂に、お堂を建立したとされていますが、実は、こちらの遠野市伊豆神社」の方が、「早池峯神社」の「親社」とされています。


その昔から、「遠野の早池峯神社」では、この「伊豆神社」を「親神/親社」と呼び、「早池峯神社」で例大祭等を行う時には、必ず「伊豆神社」の別当が来るまで、祭りを開催する事が出来なかったそうです。


ところが、肝心の「伊豆神社」側の由緒書きでは、市史とは異なる由緒を伝えており、「始閣藤蔵」がお堂を建立した後、「伊豆走湯神社」の修験者が来内村を訪れて、獅子頭御神体として奉納したとされています。



しかし、何れの由緒においても、「伊豆の走湯神社」や「伊豆権現」との関係が見て取れます。


それでは、「伊豆走湯神社(現:伊豆山神社)」とは、どのような神社なのかと言うと、創建時期は不詳となっていますが、一説には、第5代天皇孝昭天皇(紀元前4〜5世紀頃)」の頃とされています。


そして、その昔から、次の様な社名で呼ばれていますが、全国にある「伊豆神社」、「伊豆山神社」、および「走湯神社」の総本社とされています。
→ 伊豆大権現、伊豆御宮、伊豆山、走湯大権現、走湯山


その由緒はと言うと、「仁徳天皇」が勅願所とした事から、歴代天皇や皇族との繋がりが深い場所とされていますし、「源 頼朝」も戦勝祈願を行った関係で、鎌倉幕府の「関八州鎮護」として最盛期を迎えたとされています。


また、飛鳥時代には、「役行者」として知られる「役小角(えん-の-おづの)」が、伊豆大島流罪となった際に、ここで修行を行ったと伝わっておりますし、それ以降も、「空海」を始めとする多くの仏教者や修験者が修行を行ったと伝わっています。



このため、平安時代後期には、既に山岳信仰の修験場として有名になっており、熊野神社の「熊野信仰」とも結び付いていたと考えられているようです。


特に、鎌倉時代に編纂されたと伝わる「走湯山縁起」によると、境内末社となる「雷電社」には、「雷電金剛童子」という熊野権現の王子を祀っていたと説明されており、この事からも、「伊豆山神社」と「熊野権現」との関わりを見て取る事が出来ると思われます。


この「走湯山縁起」では、「雷電金剛童子」と「走湯権現」との関係については、「走湯山縁起 巻四」に、次の様に記載されているようです。


『 抑雷電金剛童子者、南山熊野王子、東明走湯儲君也、本是震多摩尼菩薩、以安養補陀落為所居、明迹則雷電金剛童子、以熊野・走湯山為社壇 』


走湯山には雷電金剛童子が祀られている。これは南山熊野の王子であり、東の明けの走湯権現にとっては儲君となる。雷電金剛童子の本是は多摩尼菩薩である。このため、この地は極楽霊場を為す場所であり、則ち、これは明らかに雷電金剛童子の足跡となる、故に、湯山と熊野の両社を共に社壇(祭殿)を祀っている。


何か、私の、漢文訳が変なため、よく解らない現代語になってしまいましたが、要は、「雷電金剛童子」は、「走湯山」、および「熊野」の双方にとって重要な神様である、と言いたい様です。


ちなみに、「伊豆山神社」自体は、次の三柱を御祭神として祀っており、この「雷電社」も、「瓊瓊杵尊」を御祭神としています。


・天忍穂耳(あめのおしほみみ)尊 :「アマテラスとスサノオの誓約(うけい)」で生まれた八王子の長男。
・栲幡千々姫(たくはたちぢひめの)尊 :「高皇産霊尊」の娘。「天忍穂耳尊」と結婚し「瓊瓊杵尊」を生む。
・瓊瓊杵(ににぎ)尊 :上記二柱の息子。「天孫降臨」で高天原から葦原中津国に降臨した神。


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他方、熊野権現とは、元々は、「熊野三山」に祀られた神々のことで、次の三柱を「熊野三所権現」と呼んでいたようです。


熊野本宮大社 :家都美御子(けつみみこ)大神 → スサノオ
・熊野速玉大社 :熊野速玉(くまのはやたま)大神 → イザナギ
熊野那智大社 :熊野牟須美(くまのむすみ)大神 → イザナミ


そして、これら三つの大社では、お互いに三柱を勧請し会い、三神を一緒に祀っています。


さらに、これら三所権現の他にも、次の九柱を追加して「熊野十二所権現」とも称しています。


●上四社
第一殿 西宮 熊野牟須美(クマノムスビ) 千手観音
第二殿 中宮 熊野速玉(クマノハヤタマ) 薬師如来
第三殿 丞相 家都美御子(ケツミミコ) 阿弥陀如来
第四殿 若宮 天照大神(アマテラス) 十一面観音
●中四社
第五殿 禅児宮 天忍穂耳(アメノオシホミミ) 地蔵菩薩
第六殿 聖宮 瓊瓊杵(ニニギ) 龍樹菩薩
第七殿 児宮 彦火火出見(ヒコホホデミ) 如意輪観音
第八殿 子守宮 鸕鶿草葺不合(ウガヤフキアエズ) 聖観音
●下四社
第九殿 一万宮・十万宮 軻遇突智(カグツチ) 文殊菩薩
第十殿 米持金剛 埴山姫(ハニヤス) 毘沙門天
第十一殿 飛行夜叉 弥都波能売(ミズハノメ) 不動明王
第十二殿 勧請十五所 稚産霊(ワクムスビ) 釈迦如来



何か、神様だ、仏様だと、凄い事になっていますが、熊野権現とは、このような神様達となっています。


しかし、前述の通り、「走湯山縁起」では、「雷電金剛童子は、熊野権現の王子たる神様」としていますが・・・何故か、この「熊野十二所権現」には、「雷電金剛童子」なる神様は登場しません。


それでは、「熊野権現の王子たる雷電金剛童子」とは、何なんでしょうか ?


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熊野三山」周辺、特に紀伊半島には、熊野詣を行うための「熊野古道(熊野参詣道)」があります。


そして、この「熊野古道」には、この道沿いには、熊野の修験者によって建立された「九十九(くじゅうく)王子」と呼ばれる多くの神社があるそうです。


実際は、「九十九」個の神社がある訳ではなく、江戸時代に書かれたとされる「神道集 巻第二」には、この「九十九王子」と呼ばれる神社は、84箇所あるとされています。


この事から、先の「走湯山縁起」における「南山熊野王子」とは、「王様の子」ではなく、この「九十九王子」と呼ばれる神社の一つを意味しているのだと思われます。


さらに、その昔、「熊野三山」、「高野山」、「吉野・大峰」を含む紀伊半島地方は、総称して「南山」と呼ばれていた事から、「南山熊野王子」とは、「紀伊半島熊野古道にある王子」と言う事を意味しているのだと思います。


また、「九十九王子」は、前述の通り、「多くの王子(神社)」と言う意味になりますが、実際に、どのくらいの神社が「王子」として認定され、そして、現在、いくつ残っているのか等は、よく解っていないようです。


「王子」と言う言葉や施設は、平安時代末期となる10〜11世紀には既に存在している事が、当時の貴族(藤原為房)の日記に書かれていた事から解っています。


しかし、時代と共に、「王子」と認められた神社は変化している様ですし、明治時代の「廃仏毀釈」の影響もあり、今となっては、よく解っていなようですが、現在では何と・・・100箇所以上の場所が「王子」となっているようです。



これら「王子」は、「熊野三社」の「御子神」、つまり「子神社」と考えられており、同じく「神道集 巻第二」の「熊野権現事」には、前述の「熊野十二所権現」に関する「本地仏」が説明されていますが、その後に、次の王子の説明が記載されています。


那智の滝本(飛滝権現) :千手観音
・新宮神蔵(かんのくら) :毘沙門天/愛染明王
雷電八大金剛童子弥勒菩薩
・阿須賀大行事(あすかだいぎょうじ) :七仏薬師


また、室町時代末期となる「応永年間(1394〜1428年)」の「寺門傅記補録」には、熊野、および王子に関する多くの説明が書かれていますが、さらに「金剛童子」については、次のように紹介されています。


『 熊野の護法神となす。熊野縁起那智鎮守の条に禮殿執金剛童子、湯峯金剛童子、發心門金剛童子、湯河金剛童子、近津湯金剛童子、瀧尻金剛童子、切目金剛童子等の名見ゆ。青童子童子あり。金剛童子の条に注す。 』



これら7人の童子の内、次の6名に関しては、現在でも同名の「王子」が確認されています。また、「熊野三社」には、それぞれ「禮(礼)殿」がありますので、「禮殿執金剛童子」は、出発地である「熊野本宮」を意味していると思われます。


・湯ノ峯王子 :田辺市本宮町湯峰。王子としての疑いがある神社。
・発心門王子 :田辺市本宮町。五体王子のひとつ。
・湯川(湯河)王子 :田辺市中辺路町道湯。現社殿は昭和期に再建。
・近露(近津湯)王子 :田辺市中辺路町。現在は石碑飲み。
・瀧(滝)尻王子 :田辺市中辺路町栗栖川。五体王子のひとつ。現在も神社。
・切目王子 :日高郡印南町。五体王子のひとつ。本地:十一面観音。


一方、複数存在する「熊野曼荼羅」の内、「熊野垂迹神曼荼羅図(甲本)」等には、「礼殿執金剛童子」と言う童子が、観音様の「眷属」として描かれています。


「眷属」とは、一族、郎党、あるいは従者等と言う意味や、あるいは「神仏のお使い」と言う意味で用いられる言葉です。



この「礼殿執金剛童子」ですが、前述の「走湯山縁起」では、「雷電」と表記されていますし、さらに他のケースでは「雷殿」と表記されるケースもありますが、何れも同じ事を意味していると考えられています。


元々は、「礼殿を守護する金剛童子」と言う意味だったようですが、それが「礼(禮)殿」+「守護」+「金剛童子」の形に分割され、その後「礼(禮)殿」+「執金剛童子」となり、さらに「雷電」+「金剛童子」に変化したと考えられています。


何れにしても、「神仏のお使い」たる眷属で、神仏を守護している「金剛神」のことだと思われます。



このように、「始閣藤蔵」と「熊野権現」とは、目立たない場所で、確かに繋がっていたようです。


また、冷静に考えれば、「始閣藤蔵」は猟師と紹介されていますが、居着いた場所に、複数のお堂を建立している事から、元々は「修験者」だと考えるのが普通です。


また、お堂の建立後、出家して「普賢坊」と名乗る事からも、やはり元々は修験者で、生活のための猟を行っていたのではないかと思われます。


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ここまでが、和歌山県熊野三山」→ 静岡県伊豆山神社」→ 遠野「伊豆神社」→ 遠野「早池峯神社」と言う流れで、「瀬織津姫命」が「早池峯神社」に勧請された経緯を紹介して来ましたが、それとは別のルートで、岩手県に「瀬織津姫命」が勧請されている事も解っています。



それは、鎮守府将軍大野東人(おおの-あずまびと)」による、熊野権現の勧請です。


鎮守府将軍とか征夷大将軍と言えば、本ブログに何度も登場する「坂上田村麻呂」が有名ですが、彼以前にも「大野東人」が、当時の鎮守府将軍として、何度も蝦夷征伐を行い、多賀城や出羽柵などを作ったりしています。


また、奈良時代となる「天平12年(740年)」に起こった「藤原広嗣の乱」を鎮圧する等の功績も挙げる等、奈良時代を代表する武人と言われています。


さて、この「大野東人」ですが、かつての室根村(現:一関市室根町)のホームページには、「室根神社」の由緒について、下記のような情報を掲載していたようです。


『 本宮(室根神社本宮)は、社伝によれば養老二年(七一八年)鎮守府将軍大野東人が、熊野神の分霊を迎えたのが起源で、いまから一千二百九十二年前のことである。

大野東人鎮守府将軍として宮城県多賀城にあって、中央政権に服しない蝦夷(関東以北に住んでいた先住民)征討の任についていた。

しかし、蝦夷は甚だ強力で容易にこれを征服することができなかったので、神の加護を頼ろうと、当時霊威天下第一とされていた紀州牟婁(むろと)郡本宮村(現在の和歌山県田辺市本宮町)の熊野神をこの地に迎えることを元正天皇に願出た。

東北地方の国土開発に関心の深かった元正天皇はこの願いを入れ、蝦夷征討の祈願所として東北の地に熊野神の分霊を祀ることを紀伊の国造や県主に命じた。

天皇の命令を受けた紀伊の国造藤原押勝、名草藤代の県主従三位中将鈴木左衛門尉穂積重義、湯浅県主正四位下湯浅権太夫玄晴と、その臣岩渕備後以下数百人は、熊野神の御神霊を奉じてこれを守り、紀州から船団を組み四月十九日に船出し、南海、東海、常陸の海を越え陸奥の国へと北航し、五ヵ月間もかかって九月九日に本吉郡唐桑村細浦(現在の気仙沼市唐桑町鮪立)についた。

この時、仮宮を建て熊野本宮神を安置した。それがいまの舞根神社(瀬織津姫神社)である。 』



しかし、史実では、「大野東人」が、多賀柵(多賀城)を建築したのは、奈良時代初期となる「神亀元年(724年)」とされていますので、まあ、若干、年代のズレはあるようです。


この由緒書によれば、年代はさて置き、熊野本宮から「瀬織津姫命」を勧請し、仮宮として、現在の「瀬織津姫命神社」、当時は「舞根(もうね)神社」に安置したとしていますので、明らかに「熊野権現瀬織津姫命」です。


さらに、天皇の勅命を受けた数百人で船団を組み、熊野から5ヶ月間も掛かって気仙沼に着くなんて、天皇行幸よりも大規模なような感じがしますが、何か、異常な感じがします。



船団到着後、多賀城に居た「大野東人」は、白馬17頭で神輿を迎え、「熊野本宮神(瀬織津姫命)」の仮宮に供物を清めてお供えし、どこに「熊野本宮神(瀬織津姫命)」を鎮座させるのかを湯立神事で占ったところ「磐井郡鬼首山(現在の室根山)は日本武尊が皇業を始めた地なので、そこに祀ってほしい」という託宣を得たとされています。


ところが、船団が到着したとされる「唐桑」側の伝承では、「室根神社」の伝承とは話が異なり、最初に「仮宮」を設置したのは、船団が到着した場所、現在の唐桑町鮪立49番地にある「業除(ごうのけ)神社」とされています。


つまり、「熊野本宮神(瀬織津姫命)」の鎮座した場所は、次の様に遷移したとされています。



和歌山県熊野神社本宮」 :御祭神「家都美御子大神」
唐桑町鮪立「業除神社」 :御祭神「紀州熊野神社御分霊」
唐桑町東舞根「舞根神社(瀬織津姫神社)」 :御祭神「瀬織津姫命」
→ 「熊野神社」 :場所等一切不明
→ 一関市室根町「室根神社」 :御祭神「伊弉冉命、速玉男命、事解男命


平成になってから書かれた由緒書ですが、オリジナルは、昭和37年「佐々木萬兵衛」と言う方が記録した由緒書で、次の様に記載されています。


『 業除権現神社は、今から千弐百八拾八年前、人皇拾壱代元正天皇は東北地方開発の為従三位鈴木左ヱ門尉(穂積)重義(に)命じて、尊崇厚き熊野本宮の神霊を奉持させ東下させた。

時は、養老弐年四月で同勢百余名が海を渡り五ヶ月間にて、唐桑細浦、現在の唐桑鮪立に到着、最初に神霊を安置したのは当業除権現神社である。

次に舞根の瀬織津姫神社、気仙沼に至(り)ては熊野神社と、奥地に分け入りて二十日後に落ち着いたのが室根神社である。

これがため、これらの神社の祭神は熊野権現神社であり、これが由来しって、室根神社大祭の前日には鮪立と舞根から海水を持参して神器(を)清める習慣があった。

今も続き居る事は、熊野神社本宮の由緒書にも記載されてあると言う。地方伝承(と)室根山縁起と一致する事、間違えなき史実なる直を。

神霊は海を渡り来るものなれば、漁夫の守り神と致し崇拝致すべきものなり。以上は昭和三十七年九月九日佐々木萬兵衛氏由来書を元に記す。 』



「仮宮」の設置場所に相違がありますが、何れにしろ「熊野本宮神(瀬織津姫命)」は、間違いなく、熊野の地から、「室根神社」まで無事に勧請出来たようです。


そして、これまでの経緯が正しければ、元々の熊野本宮に祀られていた神様は「瀬織津姫命」と言う事になります。


ところが、ここまでの話に登場する神社の内、現在、「瀬織津姫命」を御祭神にしている旨を表明しているのは、上記の通り、「舞根神社(現:瀬織津姫神社)」だけです。


それ以外の「熊野本宮」、「業除神社」、および「室根神社」では、残念ながら「瀬織津姫命」と言う神様は、お隠れになってしまっています。


しかし、肝心の「室根神社」に関しては、御祭神の名が公になったのは、「大正8年(1919年)」、神社から提出された「県社昇格願」と言う申請書に、「祭神 伊弉冊尊」と言う記載があっただけと言われています。


それ以前、つまり、「大野東人」が、「養老2年(718年)」、「室根神社」に「熊野権現」を勧請してから1200年の間は、「瀬織津姫命」が御祭神だった可能性があります。


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つまり、岩手県内には、この様に、次の2つのルートで、「熊野権現」たる「瀬織津姫命」が勧請されたと考えられます。


●「始閣藤蔵」ルート :熊野神社本宮 → 伊豆山神社伊豆神社 → 早池峯神社
●「大野東人」ルート :熊野神社本宮 → 業除神社 → 舞根神社(瀬織津姫神社) → 熊野神社 → 室根神社


他方、室根山は、早池峰山からは、ほぼ真南に80km程度離れた場所にありますが、お互いに行き来したという情報もありません。


創建年代としては、下記の通り、「室根神社」の方が、100年位早く「瀬織津姫命」が勧請された事になっています。


●「室根神社」 :奈良時代「養老2年(718年)」
●「早池峰神社」 :平安時代「大同元年(806年)」


歴史の中に埋もれてしまったのかも知れませんが、ひょっとしたら「室根神社」と「早池峰神社」との間には、何らかの接点があったのかも知れません。


女性には理解出来ないかもしれませんが、このような想像を膨らます事が出来るのが「歴史ロマン」だと思います。



ちなみに、「舞根神社(瀬織津姫神社) 」は、唐桑半島の付け根付近に鎮座していたため「東日本大震災」による津波の被害を受けて全壊してしまったそうです。


その後、2012年11月に、元の場所からは400m程、内陸の地に遷座されたようです。


社殿は、「牡蠣(かき)」を通して交流があった、広島県呉市の宮大工の方により復元して頂いたそうです。

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■「瀬織津姫命」と「天台宗」の関係


ところが、この「室根神社」、実は、遠野「早池峰神社」と同じ運命を辿る事になります。


これまで紹介してきた通り、「養老2年(718年)」に、熊野本宮から「熊野権現(瀬織津姫命)」を勧請して「室根神社」が創建されたのですが・・・その後、遠野「早池峰神社」と同様、天台宗の僧侶「円仁(慈覚大師)」等に乗っ取られる事になります。


室根村文化財保護委員会が発行した「室根神社史実録」によると、下記の通り、平安時代初期となる「嘉祥3年(850年)」、「円仁」が、勅願を以て室根山へやって来て、天台宗の一大寺院群を建立したとなっています。


人皇十四代の聖主仁明天皇の御代嘉祥三年九月に、天台の座主僧円仁(慈覚大師)東国に御下りになり、室根山の頂上にて北の壇西の壇を造り浄め、石を敷き梶の葉を並べ供物を供え、金剛の法界大日両部執行の御護摩を焚き、百日百夜の御修行により、衆生成仏済度のため、天下長久国家安全の御祈禱をなさる。

これより室根山全山天台宗(比叡山真流)となり、護摩壇設置され、衆生済度天下長久国家安全鎮護の大霊場となる。 』


そして、「円仁」は、本尊本地仏「十一面観音」を中心に、主要寺五寺、四箇所の祓川金剛童子、四十八院、八十八坊を建立したと記載されています。


遠野「早池峰神社」においても、「十一面観音像」祀ると共に、脇士として「薬師如来像」と「虚空蔵菩薩像」を併祀したと伝わっていますので、それと全く同じ事を、「室根神社」でも行った事になります。


「円仁」は、奈良時代の「延暦13年(794年)」、現在の栃木県佐野市田沼町(旧:安蘇郡)の生まれとされていますので、私の妻と同じ場所の出身のようですが、天台宗の開祖「最澄」に師事した後、遣唐使として当時の中国に9年も留学し、「承和14年(847年)」に日本に帰国し、その17年後の「貞観6年(864年)」に死去した事になっています。


故に、この史実が正しければ、日本帰国後、直ちに東国巡礼に出発し、わずか17年で、数多くの寺院群を建立した事になります。


由緒書きで、「円仁」が開山したり再興したりしたと伝わる寺社は、関東では「浅草寺」等を含む209寺、東北では「瑞巌寺」、「立石寺」等を含む331寺あるとされていますが・・・こうなると、もう「眉に唾を付けたく」なってしまいます。


恐らくは、奈良時代から平安時代にかけて、桓武天皇の指示により、「最澄」や「円仁」等、天台座主配下の僧侶達が、関東から東北を行脚し、国家宗教と言う名の下、地元に元々祀られていた地主神を、半ば強制的に「天台宗」に改宗させて行ったのではないかと推測されます。


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しかし、そんな天台宗の栄華も、鎌倉時代に入ると一変してしまいます。


東北各地の天台宗系の名だたる寺院は、鎌倉時代となる、「文応元年(1260年)」以降、鎌倉幕府の執権引退後の「北条時頼」の「奥羽天台宗寺院廃滅令」により壊滅させられたとしています。


鎌倉幕府の第五代執権「北条時頼(在職1246〜1256年)」は、引退後に出家し「最明寺入道」と呼ばれ、諸国を行脚したと伝わっています。


これが、いわゆる「観阿弥/世阿弥」が作曲した能「鉢の木」に代表される「北条時頼の廻国伝説」ですが・・・


実際には、このような諸国行脚は行っておらず、引退後に行った「北条得宗家の領地訪問」が脚色され、このような伝説が生まれたのではないかとされているようです。


同じ様な伝説では、「水戸黄門漫遊記」がありますが、時代劇で有名な、この話も、実は、「北条時頼の廻国伝説」がベースになっていると言う話もあります。


まあ、何れにしても、北条時頼水戸光圀公も、諸国を行脚したと言う事実はありません。


また、前述の「奥羽天台宗寺院廃滅令」ですが、この命令も、本当に発令されたのか否かも明らかにはなっていないようです。


但し、下記の資料には、文応元年(1260年)」以降、鎌倉幕府の命令により、東北地方において、天台宗の僧侶が追放されたり、あるいは寺院が焼き払われたりした事が記録されているようです。


宮城県瑞巌寺に残る「天台記
・室根神社史実録


鎌倉幕府は、平安時代末期から力を付けてきた天台宗の「僧兵」の扱いに苦慮して来ましたので、幕府成立当初から国家権力と結び付いてきた仏教、特に、天台宗に対しては、憎しみを募らせていたのだと思います。


そして、上記の資料には、「北条時頼が出家して最明寺入道を名乗り、諸国巡見を行った際、奥羽の天台寺院において、不正が多く、かつ仏教の教義に反する行いをしているとして、僧侶追放や寺院焼き討ちが行われた。」と記載されているようです。


ところが、前述の通り、「北条時頼」自身、このような諸国行脚は行っていませんので、この「奥羽天台宗寺院廃滅令」自体、存在しないのではないかと思われます。


しかし、僧侶追放や寺院焼き払い自体は、実際に行われた様ですので、恐らく、本当に、当時の瑞巌寺(当時は松島青龍山瑞巌円福禅寺)や室嶺山満徳寺(現:室根神社)では、風紀が乱れ、仏の道に反する行為が行われていたのだと思われます。



瑞巌寺」は、僧侶の追放、および改宗(天台宗臨済宗)だけで済んだようですが、「室根神社」は、寺社、尽く焼き払われ、当たり一面、焼け野原と化したようですから、「室嶺山満徳寺」の行いは、よっぽど酷かったのだと思います。



戦国時代には、「織田信長」も、天台宗の総本山「延暦寺」の焼き討ちを行っていますので、平安時代末期以降、天台宗は、もう「仏の道」云々どころか、根本的に腐っていたのだと思われます。


その証拠としては、天台宗の開祖「最澄」の弟子「仁忠」が、「最澄」の死後に書き表したとされる「叡山大師伝」には、「最澄」の遺言として、次のような戒めの言葉を残したと伝わっています。


『 我が命、久しく存せじ。若し我が滅後に、皆服を著すること勿れ。亦、山中の同法、仏の制戒に依つて、酒を飲むことを得ざれ。若し此を違ふことある者は、我が同法にあらず。亦、仏弟子にあらず。

早速に擯出して、山家の界地を践ま令むることを得ざれ。若しくは合薬(酒)の為めにも、山院に入るること莫かれ。又、女人の輩を、寺側に近づくることを得ざれ。何に況や、院内清浄の地を哉。

毎日、諸々の大乗経を長講し、慇懃精進に法をして久住令めよ。国家を利せんが為め、群生を度せんが為めなり。努力めよ、努力めよ。我が同法等、四種三昧を懈倦為ること勿れ。 』


簡単に言うと、弟子達に「私の死後、酒を飲むな、比叡山寺域に女人を近づけるな !」と言っている訳ですから、天台宗の成立時点で、既に腐っていたのかも知れません。


他方、東北地方の天台宗寺院を壊滅させたとされる「北条時頼」ですが、この行為だけを見れば、後に「魔王」と呼ばれる戦国武将「織田信長」と同じように見えるかと思います。


しかし、「北条時頼」自身は、禅宗に帰依する程、仏教に対する造詣が深い武将で、自ら、中国(当時の南宋)から渡来した禅僧「蘭渓道隆(らんけい-どうりゅう)」を導師として臨済宗建長寺」を建立しています。


また、自身が出家するために、現在では廃絶してしまったようですが、鎌倉山ノ内に、「蘭渓道隆」を開祖とする「西明寺」を建立したりしています。


このため、「織田信長」のように「魔王」とは呼ばれたりはしませんでしたが、同じく「天台記」には、瑞巌寺から追放された天台宗の僧侶が、松島の福浦島に集まり、「北条時頼」を呪詛した事が伝えられおり、この「呪詛」の影響で、「北条時頼」は、享年37歳の若さで死亡したとされています。


まあ、この「天台記」と呼ばれる文書は、現在は瑞巌寺の所蔵となり、次の三名によって書き継がれた「松島青龍山瑞巌円福禅寺」の社史と言われています。


・法印「覚心」 :平安時代「永延2年(988年)」
阿闍梨「永快」 :平安時代「治承2年(1178年)」
・「儀仁法印」の弟子「山居房覚正」 :鎌倉時代「弘長3年(1263年」


しかし・・・この「天台記」は、瑞巌寺百九世「曹源」の時に、松島の民家から出た書物と言われ、さらに、その後、戦国時代となる「文明2年(1470年)」に、「松島八屋左治郎藩重」なる者によって書かれた写本とされていますので・・・恐らくは「偽書」だと思われます。


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このように、東北地方の天台宗は、鎌倉幕府(北条得宗家)から、何らかの怒りを買い、迫害や焼き討ちにあったようですが、その原因は解らないようです。


鎌倉時代は、従来の旧仏教(天台宗/真言宗)に対する反発から多くの新興仏教が生まれましたが、新興仏教の多くは、貴族や武家を救済対象とはせず、庶民を救済対象としたことから、当時の支配階級からは疎まれる存在となってしまったようです。


このため、鎌倉時代は、仏教弾圧が行われた時代として有名ですが、弾圧対象は、下記の新興仏教に限られています。

新興仏教 浄土宗 浄土真宗 時宗 法華宗 臨済宗 曹洞宗
開祖 法然 親鸞 一遍 日蓮 栄西 道元
幕府からの弾圧
幕府からの庇護
旧仏教から弾圧


このように、天台宗は、本来は、支配者階級(貴族/武家)と密接に繋がっていますので、本来は、迫害対象にはならないはずなのですが・・・何故か、東北地方の天台宗だけ弾圧されてしまったようです。



また、一説には、「円仁(794〜864年)」が、大和朝廷の意向を受けて、「瀬織津姫命」が祀られている全国各地の神社を、強制的に「天台宗」の寺院に改宗させることで、「瀬織津姫命」の名前を歴史から抹殺したと言う噂があるようです。


しかし、「瀬織津姫命」と言う名前が、全国各地の神社の御祭神から消え始めたのは、「日本書紀」編纂が始まった頃、恐らくは、「持統天皇(在位690〜697年)」の頃だと言われていますので、年代が100年ほど合いません。


最澄」を始めとする「天台宗」一派は、単に、「天台宗」を広めるためだけに、関東/東北を行脚したのであり、「瀬織津姫命」の抹殺とは、余り関係が無いのではないかと思われます。

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今回は、「早池峰信仰と瀬織津姫命」の第三弾として、次の内容を紹介しましたが、如何でしたでしょうか ?


●「天照大御神」は男神なのか ?
●「鈴鹿権現」と「瀬織津姫命」の関係
●「熊野権現」と「瀬織津姫命」の関係
●「瀬織津姫命」と「天台宗」との関係


今回の内容では、「瀬織津姫命は天照大神の妻」と言う噂が、到るところで語り継がれていると言う事が解った次第です。


また、それ以外でも、「瀬織津姫命 = 鈴鹿権現 = 熊野権現」と言う事になり、さらには、「早池峰山」との関係まで含めると、「瀬織津姫命 = 鈴鹿権現 = 熊野権現 = 早池峯権現」と言う形で習合された、と言う事になるかと思われます。


加えて、岩手県に「熊野権現」が勧請された経路が2つもあると言うのは、ちょっと以外でした。


当初は、遠野「早池峯神社」の開祖「始閣藤蔵」だけを注目していたのですが、この「始閣藤蔵」よりも、100年も早く「室根神社」に、「熊野権現」が勧請されていたとは驚きでした。


それに、地元には、勧請された「熊野権現」が、「瀬織津姫命」と断定する資料まで残っていたのは、さらに驚きでした。


前述の通り、「室根神社」と遠野「早池峯神社」は、80kmしか離れていないので、きっと双方には、何らかの繋がりがあると思ったのですが・・・残念ながら、今回は、その繋がりを解明することは出来ませんでした。



他方、今回は、紙面の関係で紹介出来ませんでしたが、「鈴鹿権現」の箇所では、「奥州安倍氏」が絡んで来ます。


この安倍氏も、「前九年の役」で、大和朝廷側に敗れてはしまいますが、その血筋は、「安倍宗任」がしっかりと子孫達に残しています。


この「安倍宗任」が、流刑された四国、そして北九州地域には、「宗像一族」が君臨しており、ここに「安倍氏」の血筋も関係する事になります。


この「宗像一族」、そして「出雲一族」、さらには「大和朝廷」と言う三者が、複雑に絡み合う中で、「瀬織津姫命」が歴史から抹殺されて行った事になったのではないかと考えられています。


次回、第四弾としては、当初の予定とは、かなり内容が変わってしまいましたが、次の様な内容を紹介したいと考えています。


●「安倍氏」とは
●「安倍氏」と「瀬織津姫命」
●「安倍氏」と「アラハバキ神」


紙面に余裕があれば、さらに「宗像三女神」に関する話題も取り上げたいと思っています。


それでは次回も宜しくお願いします。

以上



【画像・情報提供先】
Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)
岩手県神社庁(http://www.jinjacho.jp/)
・風琳堂(http://furindo.webcrow.jp/index.html)
花巻市ホームページ(https://www.city.hanamaki.iwate.jp)
・レファレンス協同データベース(http://crd.ndl.go.jp/reference/)
・Yahoo/ZENRIN(https://map.yahoo.co.jp/)
・千時千一夜(https://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo)
・公益財団法人岩戸山保存会(http://www.iwatoyama.jp/)
・IKUIKUの愉しみ(http://ikuiku-1919.at.webry.info/?pc=on)
田村神社(http://tamura-jinja.com/index.htm
・いわての文化情報大事典(http://www.bunka.pref.iwate.jp/
・むなかた電子博物館(http://www.d-munahaku.com/index.jsp)
宇佐神宮(http://www.usajinguu.com/index.html)

セキュリティ・ソフトウェアのアレコレ 〜ソフトに 無理を求めるな !


皆さん、いきなりですが、「マルウェア対策用ソフトウェア」、俗に言う「セキュリティソフト」を、PCに導入してさえいれば、マルウェア対策は大丈夫 ! 、などと思っていませんか ?

これは大きな勘違いです。

弊社ブログでは、これまでも、下記の様な、セキュリティ関連の記事を紹介して来ました。

ビジネスマンは要注意・・・Darkhotelに気を付けろ !
進化する標的型攻撃 〜 狙われたら、もうお終いなのか ?
新種のサイバー攻撃に備える 〜 感染したらもうお終い その2
新種のサイバー攻撃に備える 〜 感染したらもうお終い その1
IoT 〜 日本復活か ? それとも破滅か ?
マクロ・ウィルスの逆襲 〜 歴史は繰り返すのか ?
シャドーIT 〜 知られざる脅威
Weサイト改ざん対策 〜 あなたのサイトは大丈夫
パスワード管理方法について



こうして、改めて、セキュリティ関連の記事を見てみると、結構、重要な情報を提供している事に、我ながら感心してしまいますが・・・これら全て、常識的な話題なのかもしれません。

ところで、前述の通り、マルウェア対策ソフトですが、「PCを全ての最悪から守る全知全能の神のような万能ツール」ではありません。

犯罪者は、あの手この手を駆使してPCに侵入しようとしますし、さらに、常に進化し続けています。


特に、市販のOSやデータベースの作成に関わった経験のあるエンジニアであれば、ロジック(プログラム)の不備を狙い、マルウェアを忍び込ませる事も可能です。

また、特に犯罪者に狙われやすいのが、Javaと言うプログラムミング言語で作成されたシステムやFlash Playerと言うアプリケーションです。

これら、Java/Flash Playerは、非常に便利な半面、バグが数多く存在するので、バグを何度治しても治しても収束せず、現在でも、ほぼ毎月バグ修正が行われているようです。


このため、多くの犯罪者が、このバグ(脆弱性)を狙ってマルウェアを侵入させようとしているので、Google社などは、自社が提供するWebブラウザChrome」では、Java、およびFlash Playerを動かさない、動かせない仕様に変更しつつあります。

実際、2015年9月にリリースした「Chromeバージョン4.5」では、ほぼJavaは使えなくなっています。

また、Flashに関しても、既に、初回インストール時には導入されず、使用者の責任において、独自にインストールする仕様に変更されています。

そして、Flashを提供しているAdobe社自身も、2020年末には、Flashのサポートを終了する旨を発表済です。

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しかし・・・セキュリティ関連の記事を書く度に思うのですが、マルウェアを作成する能力があるならば、どうして、その能力を、世の中/人のために用いないのか、不思議で仕方ありません。

それだけの能力があるならば、必ずや、優れたプログラムやシステムを作成する事が出来ると思うのですが・・・全く残念で仕方ありません。

その昔、当時はマルウェアと言う言葉も無かった時代は、自身の能力誇示のためにウィルスを作成する人がほとんどでしたが、現在では、ビジネスになってしまっています。

私の周りには、マルウェアを作成している人は居ないので、マルウェア・ビジネスで、どのくらい儲かっているのかは解りませんが、一説では、かなり儲かると言う噂もありますし、事実、儲かるからマルウェアが無くならないのだと思います。

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そこで、今回の「ITお役立ち情報」として、セキュリティソフトに関して、出来ること/出来ないことを紹介する次いでに、次の様な点も紹介したいと思います。


●セキュリティソフトが導入されているか否か確認方法
●万が一、何も導入されていない場合の一時的な対応方法
●セキュリティソフトの契約期限の確認
●セキュリティソフトの出来る事/出来ない事
●その他情報


それでは今回も宜しくお願いします。

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■セキュリティソフトが導入されているか否か確認方法


セキュリティソフトの出来る事/出来ない事を知る前に、まずは最初に、自身のPCにセキュリティソフトがインストールされているか否かを確認した方が良いと思います。

PCに、セキュリティソフトがインストールされていないのに、出来る事/出来ない事を紹介しても始まりません。

自身のPCに、セキュリティソフトがインストールされているか否かを確認する方法は、次の2種類の方法があります。

ツールバーのアイコンで確認する。
・セキュリティセンターで確認する。

最初に、一番簡単な、ツールバーでの確認方法を紹介します。

しかし、PCの使い方に慣れている人にとっては、「セキュリティソフトのインストール状況の確認」なんて、常識中の常識、当たり前の事だと思います。

「何で、今更、そんな事を説明するんだ !」とムカついている方も多いと思います。

ところがですね、世間一般では、セキュリティソフトの事なんか、一切気にせずに、PCを使い続けている人が「ごまんと」居る事が明らかになっています。

PC初心者ならまだしも、何年もPCを使い続けながら、セキュリティソフトの事など、全く気にせずに使い続けている人がいるようです。


私も、この事を知って驚いたのですが、事実、平成30年4月5日のニュースに、前橋市教育委員会が管理しているサーバーから、25,000件もの情報が流出した、と言う事件が掲載されていました。

前橋市教育委員会では、自らが管理しているサーバーのセキュリティソフトを、何と、4年間も更新していなかった様で、この事が原因で、サーバーに保管していた児童の氏名や金融機関情報、2万件以上が、外部からの不正アクセスで盗み取られてしまったそうです。

大量の個人情報を取り扱う公共機関でさえ、この様な「体たらく」ですので、普通の個人のPCに関しては、言うまでもないと思います。

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ツールバーのアイコンで確認方法

Windows10の場合、PCのツールバー右下に、赤丸で囲んだ箇所があります。

この上向き矢印をクリックすると、PCで稼働中のアプリケーションの内、非表示のアプリケーションのアイコンが表示されます。

そのアイコンの中に、セキュリティソフトのアイコンが有れば、お使いのPCに、セキュリティソフトがインストールされている事が解ります。


ちなみに、私は、セキュリティソフトとして「McAfee」を使っているので、マカフィー社の製品のマークが表示されています。

その他にも、代表的なセキュリティソフトとしては、下記の様なソフトウェアもありますので、セキュリティソフトがインストールされている場合、各社のロゴマーク/アイコンが表示されます。


ノートン アンチウイル :Symantec
カスペルスキーKASPERSKY
・ウィルスバスター :Trend Micro
・G DATA : DATA Software AG
・ZERO :ソースネクスト
Avira Free Antivirus :Avira Operations GmbH & Co. KG
・ESETパーソナルセキュリティ :ESET

これらアイコンが表示されていれば、セキュリティソフトがインストールされていますので、アイコンをクリックして見て下さい。各セキュリティソフト用のコントロール・パネルが表示されるはずです。

●セキュリティセンターで確認方法

次は、Windowsの「セキュリティセンター」でインストール状況を確認する方法です。

「セキュリティセンター」は、「コントロール・パネル」、通称「コンパネ」内の項目になります。

「コンパネ」内の「セキュリティとメンテナンス」を探して、該当アイコンをクリックして下さい。


「セキュリティセンター」を表示すると、上図の様な画像が表示されます。

最初は項目が閉じていますので、上図の赤枠部分をクリックすると、セキュリティ部分が展開されて、右の画像のようになります。

そして、展開部分にセキュリティソフトの有無が表示されますので、表示内容により、セキュリティソフトのインストール状況を確認して下さい。


PCにインストールされているセキュリティソフトが表示されますので、そのセキュリティが「有効」になっている事を確認してください。

コンパネの開き方が解らない場合、検索、および「ファイル名を指定して実行」で、コンパネを開くことも出来ます。

例えば、検索により「セキュリティセンター」を表示させる場合、Windows 10においては、スタートボタンを右クリックして、メニューから「検索」を選択します。

その後、左図の赤枠内に「wscui.cpl」と入力して検索を行うと、検索結果として、「セキュリティセンター」が表示されますので、後は、前述の通り、矢印をクリックして、セキュリティ情報を展開してください。


次に、「ファイル名を指定して実行」の場合、やはり、スタートボタンで全てのプログラムを選択してスクロールし、下方にある「Windowsシステムツール」内にある「ファイル名を指定して実行」を選択します。

そうすると、「ファイル名を指定して実行」用の別ウィンドウが開きますので、そこの名前に、やはり「wscui.cpl」を入力してOKをクリックすると、「セキュリティセンター」を開く事が出来ます。

様々な方法で、「セキュリティセンター」を開くことが出来ますので、一番簡単な方法で実行して、自身のPCのセキュリティソフトのインストール状況を確認して下さい。


確認した結果、万が一、セキュリティソフトがインストールされていなかった場合、次章に一時的な対応方法を記載しますので、その方法を試して見て下さい。

セキュリティソフトがインストールされて入れば一安心ですが、契約を更新していない場合、セキュリティソフトがインストールされているだけで、実際には、稼働していない可能性もありますので、契約状況を確認して下さい。

契約の確認方法も、後述します。


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■万が一、何も導入されていない場合の一時的な対応方法


セキュリティソフトのインストール状況を確認した結果、万が一、セキュリティソフトがインストールされていない事が判明した場合、早急に、セキュリティソフトをインストールする必要があります。

どのセキュリティソフトを購入するかに関しては、様々な意見がありますので、自分に取って使いやすく、かつ必要機能を満たすソフトウェアを購入して下さい。

セキュリティソフトの選択には、かなり時間が掛かると思います。価格重視か、あるいは機能重視か。はたまた使い易さか、スマートフォンまで対象にするのか、それならiOSAndroidも・・・

もう悩みだしたらキリがありません。

しかし、それよりもまず、自身のPCに、マルウェアが潜んでいるか否かを確認し、もしも既にマルウェアが侵入していた場合、マルウェアを駆除する必要があります。


そこで便利なのが、「カスペルスキー社」が提供している無料のツールです。

このツールは、「Kaspersky Virus Removal Tool」と言い、現在では、2015版まで提供されています(Kaspersky Virus Removal Tool 2015)。

無償ツールの割に、ウィルスの検出から除去まで自動で行ってくれ、かつインストールの必要もなく、その場でチェックと除去を行ってくれます。

しかし・・・「2015」と言う名称が示す通り、仕様、ウィルス定義体、および稼働環境は最新にはなっていません。

特に、稼働環境は、「Windows XP」〜「Windows 8.1」までとなっており、「Windows 10」は含まれていません。

しかし、私のPC(Windows 10/64ビット)に、プログラムをダウンロードして実行してみましたが、特に問題なく稼働したので、「Windows 10」でも大丈夫ではないかと思われます。


それと、処理スピードもかなり速く、下記オブジェクト、件数にして約38万件のチェック対象を、26分程度で、サクサクとチェックしてくれます。

・System memory
・Startup Objects
・Boot sectors
・System drive


しかし、このツールは、あくまでも一時的な「対処療法ツール」です。今後も、安心してPCを使い続けたいのであれば、必ず、セキュリティソフトを導入して下さい。

また、本ツールは、対処療法として1回だけの実行を想定したツールなので、通常のセキュリティソフトとは、次の点が異なります。

・インターネット接続不要
・ウィルス定義体はプログラムと一緒にダウンロードされるので自動更新は行われない
・日本語には未対応
・複数回実施する場合には、都度、カスペルスキー社のサイトからツールごとダウンロードする
・PCに常駐してウィルスの侵入等をチェックする機能は実装されていない


参考までに、「Kaspersky Virus Removal Tool 2015」に関する各種情報を記載します。

●動作環境
・500 MB 以上のディスク空き容量
Intel Pentium 1 GHz 以上
・512 MB 以上の空きメモリー
・インターネットアクセス
・マウスまたはタッチパッド

●ダウンロードURL
https://support.kaspersky.com/viruses/kvrt2015

●使用方法
https://support.kaspersky.co.jp/8528

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それと、最後に、セキュリティソフトを購入する時の参考にして欲しいのですが、私は、インターネットのプロバイダーが提供しているセキュリティソフトを無償で使っています。

現在は、具体的な企業名は差し控えますが、大手通信業者の連結子会社になっている企業のインターネット回線を使用しています。(※右画像が企業キャラクターの会社です。)

この企業では、1アカウントに付き3ライセンスを無償で使える事になっていますが、アカウントを追加すれば、何ライセンスでも無償でセキュリティソフトを使えるので重宝しています。

また、以前は、その親会社と提携してるプロバイダーを使っていたのですが、そのプロバイダーでも、オプションでセキュリティソフトを提供しており、その会社の場合、5ライセンスまで無償で、ライセンス追加時も、1ライセンス当たり、100円/月で使用する事が出来ました。

この様に、セキュリティソフトを購入する場合、最初に、現在のインターネット回線を提供しているプロバイダーで、オプションとしてセキュリティソフトを提供しているか否かを確認した方が良いと思います。

プロバイダーが提供するセキュリティソフトの場合、ライセンス更新等の面倒な管理が不要ですし、何よりも、個別にソフトウェアを購入するより安価です。

今回のブログは、セキュリティソフトの個別機能の説明を目的にはしていないので、機能や価格の説明は割愛しますが、まずは、現在使用中のプロバイダーに問合せた方が良いと思います。

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■セキュリティソフトの契約期限の確認


セキュリティソフトが導入されていても、契約を更新していない場合、マルウェアのチェック処理が行われていない、あるいはウィルス定義体が古い可能性があります。と言うか、恐らく、何もチェックされていません。

契約が更新されていないので、セキュリティソフトがマルウェアのチェックを行わない、と言う事は、大抵の方は理解出来ると思います。

契約が終了した状態であれば、チェック処理が行われていなくても仕方ありませんよね !

しかし、「定義体が古い」と言う点に関しては、何が問題なのか解らない方も居るのではないかと思います。

そこで、セキュリティソフトの仕組みを簡単に説明します。


(1)セキュリティソフトをPCにインストールすると、PC内に「マルウェア義体」を作成します。この「定義体」には、既知のマルウェア情報が定義されています。
(2)その後、PC内に届いた添付ファイルやWebサイトからダウンロードしたファイルの中身をチェックして、ファイルの内部に、この「定義体」に登録されているマルウェアが隠されているか否かの確認を行います。
(3)ファイル内部にマルウェアが潜んでいればアクセスを拒否しますし、定義体に登録されたマルウェアが無ければ、PC内部に保存します。
(4)さらに、定期的にPC内部をチェックし、マルウェアが紛れ込んでいるか否かをチェックして、もしもマルウェアが侵入していれば、該当マルウェアを可能な限り除去します。
(5)他方、PC内の定義体に関しては、こちらも定期的に、ソフトウェア・メーカーが、蓄積した最新の定義体情報に更新します。

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このように、PC内の「定義体」を、常に最新の状態に更新していないと、新しいマルウェアが製造された場合、PC内の「定義体」に最新情報が反映されないので、マルウェアと認識されずに、PCにマルウェアが侵入してしまいます。

契約が継続していれば、自動的に「定義体」が最新に更新されますので、新しいマルウェアが製造されても、ほほ対応する事が出来ます。

「ほぼ対応」と、何とも歯切れの悪い言い方ですが、定義体の更新タイミングがズレると、いくらセキュリティソフトを導入していても、マルウェアの侵入を許してしまう可能性があるからです。

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さて、セキュリティソフトの契約状況の確認ですが、これはセキュリティソフトの種類により異なるので、全ては紹介出来ません。

基本的には、前述の「セキュリティソフトのインストール状況の確認方法」で確認した、下図の様なセキュリティソフトのアイコンをクリックし、

各セキュリティソフトのアイコンは、上図の様なマークとなっています。バージョン等により若干異なりますが、参考にはなると思います。

ツールバー、あるいはインジケータに表示されている上図アイコンをクリックしてセキュリティソフトのパネルを表示させ、契約状況、および契約期間等を確認して下さい。


契約状況を確認し、契約が有効になっていれば何も問題はありませんが、万が一、下図のような画面が表示された場合には、契約を更新するか、あるいは他社のセキュリティソフトをインストールする必要があります。


契約を更新する場合、注意しなければならないのは動作環境です。

私の場合、前述の通り「McAfee」を使っていたのですが、最新バージョンでは動作環境(メモリー)が異なり、最新バージョンをインストール出来ないと言う状況が発生した事がありました。

このため、PCのメモリーを増強し、ようやく最新バージョンをインストールしました。

皆さんも、このような点に気を付けて下さい。

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■セキュリティソフトの出来る事/出来ない事

さて、肝心の「セキュリティソフトに出来る事/出来ない事」ですが、ここまで引き伸ばしておいて何ですが、結構、単純です。

前章にも掲載したセキュリティソフトの仕組みを再掲載しますが、セキュリティソフトは、その種類にもよりますが、基本は、マルウェアの検知と除去になります。


Windows OSに関しては、下記項目に関しても対応出来ます。
ランサムウェア対策 :新種のウィルス。PC内部を暗号化して身代金を要求する。
・ネットバンキング保護 :キーロガー、スクラッパー、インジェクション等への対応。
迷惑メール対策スパムメールを検出して分離する。
ファイヤーウォール :インターネット使用時に安全なやり取りを許可する。
・ペアレンタルコントロール :有害サイトをブロックする。
・ID/パスワード管理 :ID/パスワードをソフト側で管理してくれる。

PCに関しては、Mac OSもサポートしているソフトウェアもありますし、スマートフォンにも対応してくれるセキュリティソフトもあります。

このように、セキュリティソフトとは、マルウェアそのものを検知することが出来るソフトウェアと言う事になります。

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しかし、PCへのマルウェアの侵入経路は、メール添付ファイルに仕込まれたマルウェアやWebサイトからダウンローソしたファイルに仕込まれたマルウェアからだけではありません。

PCに導入されている、OSやデータベース等のミドルウェア、およびその他のソフトウェアから侵入する方法もあります。俗に言う、ソフトウェアの「脆弱性」、あるいは「セキュリティ・ホール」を狙った侵入です。

「はぁ ?」となってしまいますよね。

現在、マルウェアの侵入経路としては、次の様なケースが想定されています。

(1)ホームページ閲覧
(2)Webサイトからのファイルのダウンロード
(3)メールの添付ファイル
(4)USBメモリ
(5)ファイル共有ソフト
(6)メール本文に仕込まれたHTMLスクリプト
(7)共有サーバー
(8)マクロ・プログラム


そして、セキュリティソフトは、PCに常駐しながら、つまり常に稼働しながら、外部からPCに侵入しようとするマルウェアを検知します。

マルウェアの検知の仕方は、メーカー毎に若干異なりますが、基本的には、マルウェアの特徴を「定義体」と呼んでいるデータベースに蓄積し、PCに取り込もうとしているデータの内に、この定義体に登録してあるマルウェアの特徴が一致している箇所があるか否かを確認する事で行っています。

このため、外部から来たデータの中、あるいは既にPC内部に取り込まれてしまったデータの中に、マルウェアの特徴を備えたソースコードが埋め込まれている場合、ほぼ確実に除外する事が出来ます。

しかし・・・プログラムの「脆弱性セキュリティ・ホール」を狙う攻撃には対処出来ません。

プログラムの「脆弱性セキュリティ・ホール」を狙う攻撃とは、プログラムの「バグ」を悪用する攻撃なので、悪意を持つプログラムが、既存のプログラムを乗っ取り、本来の目的とは異なる処理を行わせてしまうので、セキュリティソフトでは検知する事が出来ません。


例えば、「プログラムA」と言うプログラムが、PC内に存在したとします。この「プログラムA」は、普通に処理を行なう分には何も問題はありません。

しかし、「プログラムA」内の、「処理Y」にバグがあり、処理中に、何らかのタイミングで、外部から余計なプログラムを内部に取り込んでしまうバグ(不具合)が合ったとします。

そして、何かの拍子に、「悪意を持つプログラム」をプログラム内に取り込んでしまい、この「悪意を持つプログラム」が、別の「処理Z」部分を書き換え、マルウェアをダウンロードするプログラムに書き換えてしまいます。

その後、「プログラムA」内に取り込まれたマルウェアが、勝手に処理を行い、別のマルウェアをPC内部に侵入させた後、また「処理Z」を復活させ、自分が行った処理の痕跡を消します。

このように、プログラム内部に侵入し、目的を果たした後は、その痕跡を消すような処理を行われてしまうと、いかに高価なセキュリティソフトを購入しても対処し切れません。

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「それじゃ、どうしたら良いんだ !!」となりますが、このようにプログラムのバグによりマルウェアの侵入を許してしまうようなケースでは、プログラム自体を修正すること以外、対応策はありません。

このため、Microsoft社を始めとする各ソフトウェア・メーカーは、日々、プログラムの修正に汗を流し、プログラムの修正が完了した時点で、「Widows Update」により、修正したプログラムを、利用者に配布することで、この「脆弱性」に対処しています。

しかし、メーカーがプログラムの脆弱性を発見してから、修正したプログラムを配布するまでの間には、必ずタイムラグが発生します。



そして、このタイムラグを突く攻撃を「ゼロデイ攻撃」と呼んでおり、この「ゼロデイ攻撃」に関しては、今の所は、どのメーカーも対処出来ない状況となっています。

2017年の5月に、MicrosoftのOSの脆弱性を突いた「ゼロデイ攻撃」が多くの場所で行われた事を覚えていますか ?

この攻撃は、「WannaCry」と名付けられた「ランサムウェア」による攻撃で、世界150カ国で32万件にもおよぶ被害が報告されています。

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この「WannaCry」による攻撃は、次の様な経緯を辿ったとされています。


●2016年8月、突如、「The Shadow Brokers」と名乗るハッカー集団が、アメリカ国家安全保障局(NSA)の内部文章とされるサンプル情報をリークした。この情報には、世界最大のネットワーク機器製造販売会社「Cisco」製品の脆弱性を攻撃するツールの情報が含まされていた。
●このリークは、オークション形式で行われ、かつ入札金額の合計が100万ビットコインに達したら、入札者全員に情報を公開するとした。
●誰が、幾ら入札したのか ? 「The Shadow Brokers」の正体は誰か ? その目的は何か ? リーク情報の信憑性は? 不明な事だらけだが、元CIA職員スノーデン氏を始め、大方が、ロシアのハッカーの仕業とする見方が多かった。
●製品の脆弱性を公開された「Cisco」は、数日中に修正パッチを作成して配布したが、パッチが配布されるまでの間、「Cisco」ユーザーは、「ゼロデイ攻撃」の危機に曝された事になる。しかし、この事は、つまり、リーク情報が正しかった事を証明した事になる。
●その後、2016年10月にも、再び、NSAから盗み取ったとする情報をリークした。この情報は、NSAが他国にサイバー攻撃を仕掛ける際に利用していたサーバー情報だった。
●そして、2017年4月に、ついに「The Shadow Brokers」は、Microsoft社のOSの脆弱性を攻撃するツールを公開した。このリーク情報は、4年前にNSAから盗まれた情報であることが判明し、「Windows 8」以前のOSを使っているユーザーが攻撃対象となっていた。
●理論的には「Windows 8」以前のOSが攻撃対象とは言え、「Windows XP」から「Windows 10」まで、全てのWindowsユーザーを攻撃する事が可能なツールだったので、Microsoft社は、急いでパッチの作成に着手した。
●しかし、2017年5月には、このツールを使用した「Wannacry」と言うランサムウェアが世界中にバラまかれ、多くの企業や公共施設、病院などが被害に合い、実際に身代金を支払わされるハメに陥った。
●この「Wannacry」は、4月にリークされたNSAの2つのツール「EternalBlue」と「DoublePulsar」を取り入れた、より進化した攻撃ツールで、WindowsのSMB(Server Message Block)の脆弱性を攻撃した。

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その後、Microsoft社は、2017年10月に、Windows 10用のメジャーアップデート「Fall Creators Update」において、ようやく、この脆弱性の元になる「SMB 1.0」を、初期値「無効」にする事で、対応を取りました。

しかし・・・脆弱性が明らかになってから5か月間も、脆弱性を放置していた事になります。

また、もっと酷いのは「NSA」です。

Windows脆弱性を4年も前から把握していたにも関わらず、自らの組織が、その脆弱性を利用するために脆弱性を秘匿し続け、挙句の果てに、犯罪者に盗み取られると言う失態を演じてしまった訳ですから、もうどうしようもありません。


一部、例のM社の御用達の批評家達は、「Microsoft社は、2017年3月に、SMBの脆弱性を修正するパッチを、Windows 8以降のOSには配布していたから、この攻撃は、ゼロデイ攻撃では無い。」と、Microsoft社を擁護していますが、それは言い訳に過ぎません。

Microsoft社の様な世界的企業は、自らが製造販売した製品に対しては、社会的義務が生じます。

いくら、サポート切れとは、Windows XP等は、未だにアメリカ軍全体で、数千台も使用している訳ですから、ちゃんと責任を負うべきだと思います。

マルウェア「Wannacry」やSMBに関する説明は、過去ブログにも記載しています。

★過去ブログ
進化する標的型攻撃 〜 狙われたら、もうお終いなのか ?
新種のサイバー攻撃に備える 〜 感染したらもうお終い その2
新種のサイバー攻撃に備える 〜 感染したらもうお終い その1

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このように、PCに組み込まれているOS、データベース、およびその他のツールに「脆弱性」がある場合、いくらセキュリティソフトをインストールしても、マルウェアの侵入を防ぐ事は出来ません。

OS、その他のソフトウェアには、「バグ」は付き物です。

単なる「バグ」で、ソフトウェアの処理が停止するのも困りますが、その「バグ」を起点として、マルウェアに攻撃/侵入されるのは、もっと困ります。

自分のPCが感染するだけでなく、ネットワーク経由で、社内全てのPCに感染が拡大してしまいます。


脆弱性」への対処は、メーカーが提供する修正パッチを適用し、ソフトウェアを常に最新の状態に維持するしか対応策がありません。

しかし、前述の「Wannacry」の様に、ソフトウェアの開発元が、その脆弱性を把握していない場合・・・もう誰も対応できない、と言うのが現実です。

もう、これからの世界では、ソフトウェアを使う事には、マルウェアに感染するリスクがあると言う事を前提に、システムや業務運用方法を構築するしか対応方法は無いと思います。

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■その他情報


最後に、セキュリティソフトに関する、その他の情報を紹介します。

まずは、セキュリティソフトの選ぶ際の注意点を紹介します。

世の中には、沢山のセキュリティソフトが溢れており、中には、Webサイトから無償でダウンロード出来るセキュリティソフトも存在します。

セキュリティソフトは、名の知れたメーカーのソフトの場合、年間6,000円もあれば、ほとんどのソフトは購入出来ます。

しかし、この6,000円をケチって、無償のセキュリティソフトを使用している人も存在します。


他方、MicrosoftのOS「Windows」には、「Windows Defender」という無償のセキュリティ機能が標準装備されています。

この「Windows Defender」、昔から標準装備されていたのですが・・・何分、当初は、「オマケ」機能だったので、全く使い物になりませんでした。

しかし、最新OSである「Windows 10」においては、Microsoft社も、結構、本気を出したようで、かなり良い製品に仕上がってはいる様です。

しかし・・・それならば、何故、専用のセキュリティソフトが多数存在するのか ? と言う事です。

つまり、「Windows Defender」は、良い製品にはなってきたが、やはり、専用のセキュリティソフトには及ばないと言うのが実情です。


と言うことで、それならば「Windows Defender」と「無償のセキュリティソフト」を組み合わせて、一緒に可動させれば、有償のセキュリティソフトを購入しなくても、ある程度の効果が期待できるのでは ? と思う方も居ると思います。

ところがギッチョン、「Windows Defender」と「無償のセキュリティソフト」の併用は、不可能ではありませんが、余りお勧め出来ない運用方法のようです。

つまり、マルウェア検知処理が「二重」に稼働してしまうので、Windowsの処理が変になってしまう可能性がある、との事らしいです。

私は、有償のセキュリティソフトをインストールしているので、試した事はありませんが、各種の情報を参照すると、セキュリティ機能の併用は止めた方が良いと記載されています。

また、有償のセキュリティソフトも、やはり、この点を考慮し、セキュリティソフトのインストール時に、自動的に「Windows Defender」機能を無効にしているそうです。

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「それじゃ、仕方がないから、無償のセキュリティソフトだけで対処するか・・・」と言うことになると、現在、次の様な無償のセキュリティソフトが有名です。

Avast!チェコ共和国に拠点を置く「Avast Software社」製のソフトウェア
Avira :ドイツの「Avira GmbH社」が販売するアンチウイルスソフトウェア
AVG :オランダアムステルダムに本社を置く「AVGテクノロジー社」のアンチウイルスソフトウェア
・KINGSOFT :中国の「Kingsoft Corporation社」製のソフトウェア

どこの無償セキュリティソフトが良いのかは、私は解りませんので、無償のセキュリティソフトの使用を検討している方は、Web等で調べて見て下さい。

但し、これも「Windows Defender」同様、有償のソフトウェアと比較すると、明らかに機能が少ないので、その点は注意する必要があります。


そして、上記以外の無償のセキュリティソフトを検討する場合、注意することがありますので、注意点を掲載しておきますと・・・現在、セキュリティソフトを装った「偽ソフトウェア」が、かなり横行している様です。

中には、本来は有償のセキュリティソフトを、無償でダウンロード出来ると称して、「偽ソフトウェア」、それもマルウェアを仕込んだ偽のセキュリティソフトをダウンロードさせるサイトも存在します。

また、別の手口としては、偽ソフトウェアをダウンロードさせた後、有償版を進める画面を表示し、料金をだまし取る手口も報告されています。

世の中には、あの手この手で、人を騙そうとする輩が大勢存在しますので注意して下さい。

本来の意味とは少し異なりますが、やはり、「ダダより高い物はない」と言う点を忘れないように注意したいものです。

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次に、セキュリティソフトの評価に関してですが、評価基準は、次の様なカテゴリーで評価されます。

・提供機能数 :マルウェア対応、ランサムウェア対応、ネットバンキング、ファイヤーウォール、等
・動作速度 :検知処理を行なう際に、使用するメモリー等のリソース量
スマホ対応 :AndroidiOS対応の有無
・価格 :単年 or 複数年、ライセンス数

その上で、各セキュリティソフトの価格を見ると、前述の通り、だいたい6,000円/年間も出せば、どれでも好きなソフトウェアを購入出来ます。

通常、提供機能と動作速度に重点をおいて検討すると思いますが、客観的にみると、「カスペルスキー社」製のセキュリティソフトが、かなり良い線を行くように思えます。

三者機関(※)の評価結果を見ると、「カスペルスキー社」製のセキュリティソフトが、全ての評価機関において、トップ成績を納めているようです。
※AV-Comparatives、AV-TEST、MRG Effitas、SE Labs

「それじゃ、カスペルスキーのソフトウェアを買おうかな ? 」と、当然、誰もが思う所ですが・・・何と、アメリカ政府、それも、例の「NSA」が、昨年2017年9月14日に、デューク長官代行の通達として、次の様な声明を発表しています。

連邦政府の全ての機関は、使用してきたカスペルスキー製品を30日以内に特定し、使用中止計画を策定するように通達した。』

そして、NSAは、「カスペルスキー製品を使うことで生じる情報セキュリティーリスクに基づいた措置だ。カスペルスキーの製品によって得られるアクセスをロシア政府が単独あるいは同社の協力を得て利用し連邦政府の情報や情報システムに不正アクセスしかねないリスクは、米国の安全保障に直接関わる」と指摘しています。


う〜ん、確かに、そう言われれば、そんな感じがしないでも・・・過去には、中国のメーカー(Baidu IME)が、ソフトウェアに「キーロガー」と呼ばれるマルウェアを仕込み、キーボードから入力した内容を記録して、密かに外部に送信していた事件もあったくらいですから。

やはり、中国やロシアのソフトウェア・メーカーは、何をしでかすか怖いものがあります。


今後、セキュリティソフトの購入や切り替えを検討する場合、このような情報も視野に入れた上で、検討した方が良いと思います。

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今回は、「セキュリティ・ソフトウェアのアレコレ」と題して、セキュリティソフトの基本知識をご紹介して来ましたが、如何でしたか ?

●セキュリティソフトが導入されているか否か確認方法
●万が一、何も導入されていない場合の一時的な対応方法
●セキュリティソフトの契約期限の確認
●セキュリティソフトの出来る事/出来ない事
●その他情報

以前、弊社ブログにおいて、業務用ソフトウェアに関して、「ソフトウェアの出来る事/出来ない事」を紹介した事がありましたが、今回は、そのブログ記事と同様、セキュリティソフトに出来る事/出来ない事を紹介しました。

★過去ブログ:開発を依頼する前に − 外注会社に連絡する前に自社で行うべき事


以前からセキュリティソフトは、PCを使う際の必須ソフトウェアでしたが、近頃では、マルウェア自体も進化していますので、より、その重要性が増して来ています。

あと、前章「その他」では、軽くしか触れていませんが、セキュリティソフトの動作の「軽さ」も重要だと思います。

いくら、機能が豊富で、マルウェア検知確率が高くても、PCのリソース使用頻度が高ければ話になりません。

基本的に、業務で使用するPCは、仕事を「こなす」事が目的のハズです。マルウェアを検知する事が目的ではありませんので、セキュリティソフトだけがバリバリと動き回り、ExcelやWord等がリソース不足で動けなくなってしまっては「本末転倒」です。

今のPCは、CPUの性能も良く、メモリーも大容量になっているので、それほど、セキュリティソフトの負荷は感じないと思います。

しかし、一昔前のPCでは、セキュリティソフトがチェックを開始し始めると、とたんに他のソフトウェアの動きが遅くなり、仕事が出来ない状況となっていました。

万が一、PCにセキュリティソフトがインストールされていない状況で、これからセキュリティソフトの購入を検討しなければならないような場合、セキュリティソフトの「軽さ」も、十分に考慮した方が良いと思います。

それでは次回も宜しくお願いします。


以上

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早池峰信仰と瀬織津姫命 〜 謎多き姫神に触れる その2


今回は、前回の続きとなる「早池峰信仰と瀬織津姫命」の続編を紹介します。

前回は、初回と言うことで、「山岳信仰」、および「早池峰信仰」とは、どのような信仰なのかを紹介しました。

また、その中で、「修験道」も、江戸時代になると「縄張り(霞)争い」に終始していた事も紹介しました。

★過去ブログ:早池峰信仰と瀬織津姫命 〜 謎多き姫神に触れる その1

修験道」も「仏教」も、その始まりにおいては、「国家安泰」やら「衆生(しゅじょう)救済」を祈願するための信仰として始まったのですが・・・やはり年月を経ると、どちらも、その本来の意義を忘れ、自身の利益のためだけになってしまうことが解り、ガックリしてしまいました。

山に登ってホラ貝を吹き、滝に打たれて修行を積み、「験力(げんりき)」を得るなど、遠い昔の記憶でしかなくなってしまったのは、非常に残念に思えます。

「山伏」と呼ばれる人達に関しては、「山は権力の及ばない他界と考えられ、山伏は自分の葬式をあげ、自分を死者と考えて山に入るので、俗世界の行いは問題にされない。」と言われますが・・・本当は、どうなっているのやら、と言う感じがします。

まあ、現在の「山伏」は、それだけで生計を立てている人は、ほとんどおらず、全ての人が「副業」で生計を立てているとの事ですから、江戸時代、「縄張り争い」に明け暮れていた「山伏」に比べれば、現在の「山伏」の方が「まとも」なのかもしれません。

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さて、そんな「山岳信仰」の中でも、古くは、平安時代初期となる「大同年間(806年)〜」に創建された「早池峰神社」。

下図の通り、「早池峰山」を中心に東西南北、それぞれの登山口に建立された「早池峰神社」を含め、それ以外にも「早池峰権現社」とか「早池峰新山神社」、または神社に伝わる由緒では、平安時代より以前に創建された「早池峰神社」もあるようです。


そして、これらの神社においては、御祭神が、全て「瀬織津姫命」になっています。

岩手県は、後で詳しく説明しますが、日本国内においては、日本一、「瀬織津姫命」を祀っている神社が多い自治体です。

そこで、今回は、「早池峰信仰と瀬織津姫命」の第二弾(その2)として、次の3点を紹介したいと思います。

●「早池峰」と「早池峯」、どちらが正しいのか ?
●どこが本院なのか ?
●「瀬織津姫命」が御祭神の神社
●「瀬織津姫命」とは何者なのか ?

それでは今回も宜しくお願いします。

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■「早池峰」と「早池峯」どちらが正しいのか ?

前回のブログを見て頂いた方は、東西南北、4つの「早池峰神社」に対して、次のように表記を変えていた事に気づかれた方も多いと思います。


・東登山口 :早池峰神社 (江繋)
・西登山口 :早池神社 (大迫)
・南登山口 :早池神社 (遠野)
・北登山口 :早池峰神社 (門馬)

どれも全て「ハヤチネ神社」なのですが、漢字の字体が、「早池峯」と「早池峰」と言う様に異なる表記になっています。

これは、全て、現在、神社が使っている漢字に合わせて、表記を変えて記載した結果なのですが、「早池峯」と「早池峰」、この漢字の違いと、「神社」の生い立ちには、何か関係があるのでしょうか ?

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結果から先に記載してしまいますが、「早池峯」も「早池峰」も、どちらも同じで、「ハヤチネ」を漢字にした場合の文字ですが、本来は「早池峯」ではないかと言われています。

そもそも、「峯」と「峰」は、『 異体字 』と言う関係になっており、旧字など、読み方や使用方法などが一緒で、漢字の一部が異なる字体となっています。

日本の漢字には、「峯/峰」の他にも、「崖/崕」、「島/嶋」等、沢山の『 異体字 』があります。また、「ミネ」は、さらに「嶺」と言う『 異字体 』もあります。

それでは、何故、「早池峯」と「早池峰」、二種類の漢字を使い分けているのかと言うと・・・それは、最終的には、神社の「気分次第」と言う事になるかと思われます。

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前述の様に、元々は「峯」と漢字が使われており、その後、「峰」と言う漢字が生まれ、この「峰」も、「峯」と同じ意味で使われるなったと言われています。

つまり、本来「ミネ」と言う文字に当てはまる漢字は「峯」で、「峰」は異字体と言う関係だったと思われます。

しかし、「大正12年(1923年)」に、文部省が「常用漢字」を発表したのですが、その際に、「峰」のみが掲載され、「峯」は、常用漢字表に掲載されなかったみたいです。

他方、法務省の「戸籍統一文字情報」においては、「峰」も「峯」も人名用漢字として掲げられていますが、このサイトでは「峰」を親字・正字としています。

「峯」、「峰」、そして「嶺」と言う漢字を整理すると、次の通りです。

・「峰」 :音読み「ホウ、フ」、訓読み「みね」。常用漢字人名用漢字(子の名に使える文字)
・「峯」 :音読み「ホウ、フ」、訓読み「みね」。人名用漢字(子の名に使える文字)
・「嶺」 :音読み「レイ、リョウ」、訓読み「みね」。人名用漢字(子の名に使える文字)

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ある漢和辞典によれば、前述の通り「峯」と「峰」は、同じ意味ですが、「峯」と「嶺」は、次の様な違いがあるとしているようです。

「峯」:神様が降りてくる神木のあるお山、神がかり、神秘的な事に出逢う場所を表した漢字。神の領域にある杉「鉾杉」や「神杉」のようなまっすぐ伸びた木の秀枝(ほつえ=上の方の枝)に、神が降ってくる形。「丰」が秀枝で、「夂」が上から降るときの後ろ足の形。そのような木がある山を「峯」といい、神霊に遭遇することを「逢」という。

「嶺」:「山」と「領」から成り立っており、「領」はひざまずいて神意を聴き入る姿や、服の襟首という意味。「ひざまずく」とか「襟首」と言うのは、一段低い格好や場所となるので、「嶺」は山頂に対していわば「肩」の部分、山頂より低い場所を表している。


こうして、「峯」と言う漢字の成り立ちを知ると、「峯」と言う漢字は、将に、「早池峯神社」に相応しい漢字なのだと納得してしまいます。

しかし、これを、現在の正式な漢字にすると「早池峰神社」になってしまうのは、ちょっと「興醒め」のように思ってしまうのは、私だけなのでしょうか ?

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■どちらが本家「早池峯神社」なのか

さて、これまで紹介してきた通り、「早池峰神社」には、東西南北の4箇所の登山口に、それぞれ4個の「早池峰神社」が鎮座しています。

それら4箇所の「早池峰神社」は、現在も、付近の住民の信仰対象となっていますが、これも前述の通り、東登山口と北登山口の「早池峰神社」は、没落寸前です。

それらと比較すれば、西登山口「大迫の早池峯神社」と、南登山口「遠野の早池峯神社」は、まだまだ盛況ですが、どちらかが盛況か ? と言えば、やはり「大迫の早池峯神社」の方だと思われます。


「大迫の早池峯神社」に関しては、前回紹介した通り、「早池峰神楽」が、平成21年(2009年)に「ユネスコ無形文化遺産」にも登録された事もありますが、地元自治体や住民も含め、地域一帯となって、信仰対象と言うよりは、観光地として盛り上げようと言う気風が感じられます。

他方、「遠野の早池峯神社」には、残念ながら、何も感じられません。

「民話のふるさと」として、遠野全体を観光地として盛り上げようとする動きはありますが、大迫とは違い、「早池峯神社」だけを特別扱いはしていないようです。

それにも関わらず、遠野側の住民は、未だに「早池峯神社の本坊は遠野側だ !」と大騒ぎをしているようです。

この「本坊争い」は、江戸時代初期に始まった争いで、「明暦元年(1655年)」から90年間にわたり、遠野側と大迫側との間で、祭祀権を巡って争論を続けたと伝わっています。

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「早池峯神社」に関しては、前回のブログに掲載した通り、大迫側の「藤原兵部卿成房」、および遠野側の猟師「始閣藤蔵」と言う二人の人物が登場し、鹿を追って山頂で出会い、その後、山頂に「奥宮」を建立するのは、大迫/遠野の双方で一致する所です。

この点で、唯一異なるのが年代です。

大迫側の由緒では、山頂に登ったのは「大同2年(807年)」となっていますが、遠野側の由緒では「大同元年(806年)」となっています。

この1年の違いは何か ? と言う事になるかとは思いますが、今となっては、それほど、目くじらを立てて追求する必要も無いのではと思います。

ひねくれた見方をすれば、遠野側が、本坊争いを優位に進めたいがために、創建時期を、ちょっとだけ、1年早めたとも考えれます。

また、前回のブログでも紹介した通り、江戸時代においては、南部(盛岡)藩も、「大迫の早池峯神社」に、かなり肩入れをした事もあり、遠野側の不満は高まるばかりだったようです。


その結果、明暦元年から、遠野側と大迫側との間で、祭祀権を巡る争論が起き、最後には、「遠野の早池峯神社」が、幕府の寺社奉行に、「遠野の早池峯神社(当時は、妙泉寺)こそが本坊である。」と言う、不服申立てを行ったそうです。

しかし、不服を申し立てられた寺社奉行も困ってしまい、「南部藩のことは南部藩で良しなに解決するように」と言う調停案が提示されたようです。

そこで、遠野「早池峰山妙泉寺文書」によると、南部(盛岡)藩では、「万治元年(1658年)」に、当時の盛岡藩第二代藩主「南部重直」が、「甲乙なく、同格に勤めるよう」にと言う玉虫色の裁定を下したとされています。

それ以降は、「これにて一件落着」となったとされていますが、実際には、盛岡城内での「席次」においては、「大迫側」を上席とし、加えて盛岡城下に「宿寺」を構えることを認めています。

また、この「寺宿」の広さがハンパなく、2万8000坪もの広大な面積の宿寺を賜ったとされていますから、やはり、実際には「大迫の早池峯神社」側を贔屓(ひいき)していたのだと思います。

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しかし、何か、年代が合わないのが気になります。

「明暦元年(1655年)から90年間争った。」と言うのであれば、「延享二年(1745年)」まで争った事になりますが、この「早池峰山妙泉寺文書」には、「万治元年(1658年)」に決着したと記されています。

それだと、たった3年しか争っていない事になってしまいますが・・・

どこか・・・「早池峰山妙泉寺文書」か、あるいは、この文書を紹介したサイト(近世古文書館)に間違いがあるのだと思います。

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さて、江戸時代に決着が付いた「本坊争い」なのですが、現在でも、遠野の住民達は、いまだに次の様な事を並び立てて、「遠野の早池峯神社こそが本坊だ !」と遠吠えをしています。


・創建時期が、遠野の方が1年早い
・「早池峯神社」のご神体は「早池峰山」だが、大迫側の神社の背後には「早池峰山」が無い

また、かつて「大迫町」と「遠野町」、それと「川井村」との境界を決めようとした際に、「遠野町」の町長が、「藤原兵部卿成房」と「始閣藤蔵」の話を持ち出して境界を決めようとした事もあったそうです。

現在の境界を定めるのに、1,000年以上も前の出来事を持ち出すとは非常識と、大迫町長が激怒したと言う噂も伝わっています。

このように「どっちが元祖だ ?」みたいな争いは、様々な場所で見受けられます。

しかし、前述のように、「早池峯神社」といえば、ほとんどの人が、「大迫の早池峯神社」を思い浮かべます。

大抵は、このように後日、大騒ぎをするのは「負け犬」側と決まっています。

当然、当事者の方々は真剣なのだとは思いますが・・・はたから見れば、そんな事は、どうでも良い事のように思われます。

遠野と大迫の「本坊紛争」に関しても、本当に重要なのは、「どちらの神社が、地元の住民に信仰されているのか ? 」と言う事ではないでしょうか ?

いくら「こっちが本坊だ !」と騒いでも、地元の住民が信仰していなければ、何の意味もありません。

その点に関しては、現在の「早池峯神社」の保存状態を見れば、一目瞭然です。

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しかし、「真実は、どうなのか ? 」と言えば・・・恐らくは、遠野側の主張が正しいのではないかと推測されます。その理由としては、次の2点が挙げられます。

・「大迫の早池峯神社」の背後には「遠野の早池峰神社」がある
明治9年創刊「岩手県管轄地誌」には、大迫側の「早池峯神社」を「早池峰神社遙拝所」としている

つまり、現在の「大迫の早池峯神社」は、「遠野の早池峯神社」を拝むための「遙拝所」だったと考えられています。

元々、大迫側で「瀬織津姫命」を勧請して御祭神としたのは、現「田中神社」であり、「早池峯神社」ではありません。

前回ブログにも記載した通り、現在の「大迫の早池峰神社」は、後年、真言宗の僧侶が建立した「新山堂」です。

一方、「遠野の早池峯神社」は、この「田中神社」と同様に、最初から「瀬織津姫命」を祀っています。

この事からも、やはり「遠野の早池峯神社」の方が、本坊ではないかと思われます。

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ところが、この「本坊紛争」に、もう1社、割り込んで来そうな神社があります。

それは、早池峰山からは、かなり離れた矢巾町にある「早池峯神社」ですが、創立は、遠野や大迫よりも10年以上も早いと伝わっています。

場所は、盛岡駅から16kmほどの場所で、肝心の「早池峰山」からは、直線距離でも、西に27kmも離れた場所にあります。


具体的な場所は、本ブログの最初に掲載した地図をご覧下さい。

しかし、この神社、最初から「早池峯神社」と名乗っていた訳ではなく、元々は、奈良時代、この地に「三柱の姫神」が降臨しした事が始まりである旨が、神社の由緒に記載されています。

奈良時代後期となる延暦14年(795年)3月17日、「三柱の姫神」が降臨し、現在の社殿の裏地にある「三ツ石」に鎮座したとされています。

このため、この「三ツ石」を「影向(ようごう)三神石」と呼ぶと共に、この「三柱の姫神」を「新山大権現」として祀ったのが神社の始まりとなっているそうです。


神社の由緒書によりますと、その後、この地、矢巾町土橋村の「廣田家」の始祖とされる「廣田宗実」氏が、漢字修行のために「早池峰山」に籠もり、文学を研究した後、戦国時代となる天文2年(1533年)8月17日に、社殿を建立して神社名を「早池峯神社」にしたとなっています。

さらに、その後、江戸時代末期となる「天保10年(1839年)」に神社を再建したそうですが、その際に、現在の由緒書を書写したと伝わっています。

と言う「矢巾の早池峯神社」ですが、この神社が「早池峯神社」の本坊なのか ? となると・・・ちょっと微妙です。

「新山大権現」となると、遠野や大迫の「新山堂」との関係を疑ってしまいますし、「三柱の姫神」となると、「遠野物語/第2話」に登場する「姫神」を想像してしまいます。

県内には、今でも沢山の「新山神社」があり、その多くは、御祭神が「瀬織津姫命」となっています。

ところで、先の説明で、「三柱の姫神」が降臨して「三ツ石」に鎮座したと紹介しましたが、「矢巾の早池峯神社」の境内には、石が4個あるのは何故 ? と思うかもしれません。

この点に関しては、「瀬織津姫命」の説明をする際に、紹介したいと思いますが・・・「矢巾の早池峯神社」、御祭神が「瀬織津姫命」となっているのですが、由緒書には、「瀬織津姫命」に関しては一切説明がありません。

一体、どこから勧請したのか不思議に思ってしまいます。

「三柱の姫神」が降臨し、「三ツ石」に鎮座したと言っているのに、石が4個ある件に関しては、後で説明します。

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他方、ここの「矢巾の早池峯神社」の拝殿内には、「天照大御神」を勧請した祠が鎮座しているそうです。

その祠には、「天照大御神」を中心に、「早池峯神社神(新山大権現)」と「瀬織津姫命」の三柱の神様が、「神札」として鎮座されています。

加えて、その下には、五穀豊穣を願う「瀬織津姫命」と「大年神」が描かれた絵も祀られています。

大年神」は、「天照大御神」の弟「須佐之男命(スサノオ)」の息子で、稲の実りを守護する神様とされています。

また、二柱の上には「穂落とし」を行っている「鶴」も描かれており、「穂落とし」伝説を伝えています。


「穂落とし」伝説は、「稲作」の始まりを伝える伝説とされています。


【 「穂落とし」伝説 】

鶴は、餌をくちばしで空中にほうり上げて食べる習性があり、よく稲田におりて落穂をついばむためか,穀霊神的な要素が強いとされています。

このため、稲作は、鶴がくわえてきた稲穂から始まったと言う伝説が、、日本各地に伝わっており、鶴が舞いおりるのを瑞兆としています。


しかし・・・後述しますが、「瀬織津姫命」の過去を考慮すると、この「瀬織津姫命」と「大年神」の二神、男神の方は、本当は「天照大御神」ではないかと思ってしまいます。

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■「瀬織津姫命」が御祭神の神社

さて、問題の「瀬織津姫命(せおりつひめ-の-みこと)」ですが、現在、岩手県内で、「瀬織津姫命」を御祭神としている神社は、西口登山道にある「早池峯神社(池上院妙泉寺)」を含め、次の通り、境内末社も含めると35個もの神社となるようです。(北からあいうえお順)

項番 神社名 住所 備考
1 櫻松神社 八幡平市高畑89
2 多岐神社 盛岡市玉山区渋民大森9
3 早池峯神社 紫波郡矢巾町土橋新山野40
4 早池峯新山神社 宮古市小国第6地割103
5 早池峯神社 宮古市江繋第5地割3 東登山口の神社。新山堂
6 早池峯神社 宮古市門馬第2地割15 北登山口の神社。新山大権現
7 弘淵(こうぶち)神社 花巻市石鳥谷町江曽第9地割113
8 田中神社 花巻市大迫町内川目第47地割30
9 瀧ノ澤神社 花巻市東和町東晴山16区56
10 大澤滝神社 花巻市東和町砂子4区107
11 金谷神社 花巻市金谷第3地割21-1
12 早池峰神社 花巻市大迫町内川目第1地割1 西登山口の神社。池上院妙泉寺
13 早池峰権現社 同上 早池峰神社の境内末社
14 伊豆神社 遠野市上郷町来内6地割32-2 遠野物語」で降り立った神社
15 神遣(かみわかれ)神社 遠野市附馬牛町上附馬牛神遣峠
16 白滝(清滝)神社 遠野市土淵町栃内7地割13 別名「白滝不動尊」
17 新山神社 遠野市附馬牛町東禅寺7地割
18 早池峯神社 遠野市附馬牛町上附馬牛第19地割82 南登山口の神社。持福院妙泉寺
19 早池峰神社 遠野市大工町1−3 瑞応院境内
20 倭文(ひどり)神社 遠野市土淵町土淵18地割174
21 新山神社 北上市口内町岩井139-1
22 新山神社 北上市更木第32地割141
23 今瀧(滝)神社 釜石市東前町1-139
24 天照御祖神 釜石市唐丹町字片岸50 ※禊祓殿の御祭神
25 新山神社 奥州市江刺区岩谷堂雲南田212
26 新山神社 奥州市江刺区広瀬谷地田77
27 新山神社 奥州市江刺区稲瀬広岡98
28 氷上(ひかみ)神社 奥州市江刺区梁川舘下335-1
29 多藝(たき)神社 陸前高田市横田町字小坪
30 滝神社 陸前高田市横田町字猿楽
31 清滝神社 陸前高田市横田町字槻沢
32 四十八滝神社 陸前高田市横田町字橋ノ上
33 舞出神社 陸前高田市横田町字舞出
34 大滝神社 陸前高田市横田町字本宿
35 瀧神社 一関市滝沢寺田下108 別名「熊野白山瀧神社」


その他にも、古来「瀬織津姫命」が御祭神だった神社が、何故か明治期以降に、他の御祭神に変更された神社もあったようです。

・根田茂神社 : 瀬織津姫命 → 水波能売命(みずはめの-みこと)
・室根神社 : 瀬織津姫命 → 伊邪那美(いざなみ)、速玉男命(はやたまのおのかみ)、事解男命(ことわけのおのみこと) ?


また、2008年に「風林堂」から出された「瀬織津姫神全国祭祀社リスト」によると、若干の調査ミスはあるようですが、岩手県は、断トツ、36個もの神社の御祭神が「瀬織津姫命」となっています。


この冊子によると、ベスト5は次の通りです。


1位 :岩手県 36社
2位 :静岡県 32社
3位 :岡山県 25社、鳥取県 25社
5位 :京都府 20社、兵庫県 20社


静岡県に「瀬織津姫命」が御祭神の神社が多いのは以外でしたが、やはり岩手県は、ブッチギリです。

ちなみに、上記リストによると、全国には、「瀬織津姫命」を御祭神とする神社は、454社もあるとされています。

なお、「瀬織津姫命」は、下記のような別名を賜っているケースもあるとの事ですが、この調査では、基本的に、下記異称ケースは含んでいない、との事です。


撞賢木厳之御魂天疎向津媛命 :つきさかき-いつのみたま-あまさかる-むかつひめ
天照大神荒魂 :あまてらすおおかみ-あらみたま
八十禍津日神 :やそ-まがつ-ひのかみ
祓戸大神 :はらいどの-おおかみ
・橋姫 :はしひめ
鈴鹿権現 :すすか-ごんげん
熊野権現 :くまの-ごんげん


さらに、「瀬織津姫命」の表記の仕方も、次の通り、複数の表記が見られています。
・瀬織津比竎
瀬織津比売
・瀬織津媛


それでは、何故、こんなにも岩手県には、「瀬織津姫命」を御祭神として祀る神社が多いのでしょうか ?

また、そもそも、「瀬織津姫命」とは、どのような神様なのでしょうか ? 次の章で、「瀬織津姫命」とは、どのような神様なのかを紹介したいと思います。

なお、今更ですが、「瀬織津姫命」が、「瀬織津姫」と表記されるケースもありますが、どちらも同じですが、本ブログでは、「瀬織津姫命(せおりつひめの-みこと)」と表記しています。

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■「瀬織津姫命」とは、どのような神様か

それでは、その肝心の「瀬織津姫命」」とは、どのような神様なのでしょうか ? 「瀬織津姫命」に関しては、型通りの説明としては、次の様に説明されています。


古事記/日本書紀等の記紀には登場しない神
神道の「大祓詞(おおはらえのことば)」に登場する
・祓戸四神の一柱とする(瀬織津比売/速開都比売/気吹戸主/速佐須良比売)
伊勢神宮内宮別宮「荒祭宮」の御祭神の別名が「瀬織津姫命」であると記述した書物が多数存在する
・水神、祓神、瀧神、川神、等、穢を祓い浄める女神
・「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つき-さかき-いつ-の-みたま-あまさかる-むかつひめ)」と同名の「向津姫」を「瀬織津姫命」と同一神とする
・「瀬織津姫命」は、「天照大神」の皇后で、「天照大神」の名代として活動していた時期もある


そもそも、記紀に登場しない神様ですので、どのような神様なのか、はっきりしない神様となっています。

瀬織津姫命」が登場する歴書としては、次の様な書物があるとされています。


倭姫命世記神道五部書の1冊。天地開闢から雄略天皇代の外宮鎮座に至る次第を詳細に記述しており、別名「大神宮神祇本紀」と呼ばれる。

天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記神道五部書の1冊。天照大神豊受大神の神格と,二神の伊勢鎮座に至るまでの次第が記載された書で、別名「御鎮座次第記」と呼ばれる。

伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記神道五部書の1冊。神鏡の祭祀を中心に伊勢神宮の由緒が記された書で、別名「御鎮座伝記」と呼ばれる。

中臣祓訓解両部神道の書で、真言密教の立場で、中臣祓(大祓詞)の注釈を記載した書物。

ホツマツタエ :謎の多い「神代文字」で書かれた書で、古事記/日本書紀等の記紀の原典とされているが、その真偽の程は不明。史学/語学研究者からは偽書と断定されている。



ちなみに、「神道五部書」とは、下記の5冊の書物を指し、伊勢神宮で生まれた「伊勢神道」の経典とされています。

どれも、長ったらしい名前の本なので、さぞかし中身も濃いのかと思いきや、全て1巻で、なおかつ短編の書物のようです。


・『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』(御鎮座次第記)
・『伊勢二所皇太神御鎮座伝記』(御鎮座伝記)
・『豊受皇太神御鎮座本記』(御鎮座本記)
・『造伊勢二所太神宮宝基本記』(宝基本記)
・『倭姫命世記』(大神宮神祇本紀)



書物の最後に書かれている「奥付」と呼ばれる解説には、何れの書物にも、「神護景雲2年(768年)」、禰宜「五月麻呂」の撰録と伝えられると記載されているそうです。

しかし、実際は、鎌倉時代となる「建治/弘安年間(1275〜1288年)」に、伊勢神宮外宮の神職「度会(わたらい)行忠」等が編纂したものと考えられているようです。

これら経典は、外宮を、内宮と同列に格上げする事を目的に、外宮の御祭神「豊受大御神」を、天地開闢に関わった五柱の神と同一神する書物とされています。

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編纂時期を偽った書物やら学者から偽書とされた書物に登場する「瀬織津姫命」。それでは、『 この瀬織津姫命と言う神様も、昔の人の想像の産物なのではないか ? 』と言う疑問が生まれてしまいます。

しかし、上記にも記載した通り、「大祓詞」にも、祓戸四神の一柱として「瀬織津姫命」が登場します。


瀬織津比売 :せおりつ - ひめ
遺る罪は在らじと 祓へ給ひ清め給ふ事を 高山の末低山の末より 佐久那太理に落ち多岐つ 早川の瀬に坐す瀬織津比売と伝ふ神 大海原に持出でなむ
→ こうして祓い清められた全ての罪は、高い山・低い山の頂から勢いよく流れ落ちて渓流となっている急流にいらっしゃる瀬織津比売と呼ばれる女神が大海原に持ち去ってくださるだろう


速開都比売 :はやつあきつ - ひめ
此く持ち出で往なば 荒潮の潮の八百道の八潮道の潮の八百曾に坐す 速開都比売と伝ふ神 持ち加加呑みてむ
→ このように瀬織津比売によって持ち出された罪を、今度は人が近づけないほどの大海原の沖の多くの潮流が渦巻くあたりにいらっしゃる速開津比売という勇ましい女神が、その罪を呑み込んでしまわれることだろう。


気吹戸主 :いぶきど - ぬし
此く加加呑みてば 気吹戸に坐す気吹戸主と伝ふ神 根国底国に気吹放ちてむ
→ このように速開津比売によって呑み込まれた罪は、今度は海底にあって根の国・底の国へ通じる門(気吹戸)を司る気吹戸主といわれる神が根の国・底の国(黄泉の国)に気吹によって息吹いて地底の国に吹き払ってくださるだろう


速佐須良比売 :はやさすら - ひめ
此く気吹放ちてば 根国底国に坐す 速佐須良比売と伝ふ神 持ち佐須良比失ひてむ 此く佐須良比失ひては
→ このように気吹戸主によって吹き払われた罪は、今度は根の国・底の国にいらっしゃる速佐須良比売という女神がことごとく受け取ってくださり、どことも知れない場所へ持ち去って封じてくださるだろう


このように、「大祓詞」によると、人の世の汚れは、「瀬織津比売」、「速開都比売」、「気吹戸主」、そして「速佐須良比売」の祓戸四神が連携しながら、一致協力して、どこかに払い去って下さるのだそうです。

大祓詞」は、最初から読むと非常に長い「祝詞(のりと)」なので、本ブログには掲載しませんが、「大祓詞」の全文を掲載しておきますので、興味のある方は、ご覧下さい。

★参考資料:大祓詞(神社本庁版)

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さて、そんな「大祓詞」ですが、『 それじゃ、大祓詞瀬織津姫命が書かれているのだから、この神様は、本当に存在したんだ ! 』となるのでしょうか ?

まあ、「神様」ですから、実在はしないとは思いますが・・・

大祓詞」は、毎年、6月と12月に行われる「大祓」と言う儀式で、「中臣氏(なかとみ-うじ)」が、京都の朱雀門において、「大祓」に参集した皇族や百官に対して奏上していたと伝えられているので、別名「中臣祓詞(中臣祓)」、あるいは「中臣祭文」とも呼ばれる「祝詞(のりと)」の一つです。

また「大祓詞」は、当初は、上記の通り、儀式に参加した人間に対して語り聞かせるものだったのですが、現在では、何故か、神前で、神様に対して唱えるものになってしまっています。

これは、鎌倉時代以降、「大祓詞」が、「陰陽道」や「密教」と結びつき、これらの呪文や経典のように取り扱われた事が原因とされ、唱えるだけで功徳が得られると思われるようになったためと考えられています。

大祓詞」に関しては、平安時代となる「延喜5年(905年)」に編纂を始め、その22年後となる「延長5年(927年)」に完成した後、さらに改訂をして「康保4年(967年)」に施行した「延喜式」と言う法令集内の「巻8 - 祝詞」に掲載されています。

現在では、下記の様に、大きく、前段と後段の2段に分かれています。

・前段:葦原中国平定から天孫降臨天孫が日本を治めるまでの日本神話の内容、および日本の民が犯してしまう罪の内容と、罪を犯した際に、祝詞を唱える事と、それと一緒に行う罪の祓い方が述べられている。
・後段:罪を祓うと、その罪/穢が、どのように消滅するのかを、様々な例えで語られ、さらに祓戸四神が連携しながら、一致協力して罪/穢を消滅させて行く様が記載されている。

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このような歴史を持つ「大祓詞」ですが、現在、一般に出回っている「大祓詞」は、神社本庁、およびその他教団による独自の修正が加えられており、この「延喜式」の内容とは、一部異なってしまっているそうです。

とは言え、「瀬織津姫命」は、平安時代初期、醍醐天皇の勅命で作成された法令集に掲載されている神様です。

現在では、どのような神様なのか解らなくなってしまっていますが、元々は、「古事記」や「日本書紀」以外の書物に登場していたのではないかと思われます。

また、この「大祓詞」に関しても、元となる「原典」が存在し、この「原典」を参考に作成されたと考えられており、江戸時代の国学者賀茂真淵」や「本居宣長」も、何らかのオリジナル資料があったと考えていたようです。

現在では、「和銅5年(712年)」に、「太安万侶(おおの-やすまろ)」が編纂した「古事記」が、日本最古の歴史書とされていますが、実際には、次の様な「古事記」以前に書かれた歴史書が存在したと言う事が、「日本書紀」に記載されています。

そもそも、「古事記」とは、天武天皇の側近「稗田阿礼(ひえだのあれ)」が暗記していた「帝紀」と「旧辞」の内容から、「太安万侶」が中身を選んで編纂した書物とされていますので、「帝紀」と「旧辞」は、本当に存在した書物だと思われます。



・国記 :「推古天皇28年(620年)」に、厩戸皇子蘇我馬子が編纂したとされる書物
天皇記 :上記「国記」と一緒に編纂したとされる歴史書
帝紀 :「天武天皇10年(681年)」、川島皇子らが歴代天皇と皇室の系譜を整理した書物
旧辞記紀(古事記/日本書紀)のオリジナルとなる歴史書


上記書物の内、天皇記と国記は、「皇極5年(645年)」に起きた「乙巳の変」の際、「蘇我入鹿」の暗殺を知った父「蘇我蝦夷」が、自身の邸宅に火を放って自殺したのですが、その時に一緒に燃やされてしまったと言われています。(※国記だけは、船恵尺と言う人物が火中から拾い出したが後に紛失)

他の書物も、今となっては、意図的か否かは解りませんが、どこかに散逸したとされています。

ちなみに、「大祓詞」を奏上した「中臣氏」は、「忌部氏(いんべ-うじ)」と共に、古くから神事/祭祀を司ってきた豪族で、上記「乙巳の変」で活躍し、「藤原氏(ふじわら-うじ)」の始祖となる「中臣鎌足」もこの一族ですし、「大迫の早池峯神社」の開祖である「藤原兵部卿成房」も、この一族に連なる人物です。

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他方、「熊野権現」と「早池峯権現」を同一と見る向きもあります。つまり、「熊野権現 = 早池峯権現 = 新山権現 = 瀬織津姫命」と言う関係です。

この件に関しては、後述する「熊野権現瀬織津姫命の関係」で詳しく紹介したいと思いますが、これは「遠野の早池峯神社」の開祖と言われる「始閣藤蔵」の出身地が深く関わって来ます。

前編では余り触れませんでしたが、開祖となる「始閣藤蔵」は、元々、遠野に生まれた訳では無く、現在の静岡県の「伊豆地方」の生まれとされています。

そして、伊豆地方から太平洋沿岸を北上して遠野の「来内(らいない)村」に辿り着き、そこで暮らし始めたとされています。

また遠野に来た時には、守り神として「伊豆権現」を勧請して来たとされており、「早池峯神社」の他にも、来内村の自宅裏にお堂を建立して「伊豆権現」を安置すると共に、御祭神を「瀬織津姫命」として、朝夕に崇拝していたと言う事が「遠野市史」に記載されているそうです。

その後、このお堂は「伊豆権現社」となり、明治以降は「伊豆神社」となったのですが、その総本社は、現在「伊豆山神社」と呼ばれる神社で、その昔は、伊豆大権現、伊豆御宮、伊豆山、走湯大権現、あるいは走湯山と呼ばれていた修験道霊場です。

伊豆山神社」は、飛鳥時代には、「役行者(えんのぎょうじゃ)」として知られる「役小角(えん-の-おづの)」が伊豆大島流罪となった際に、ここで修行を行ったと伝わっておりますし、それ以降も、「空海」等の僧侶や修験者が修行を行った場所で、「熊野神社」とも深い繋がりがあります。

「早池峯神社」と「伊豆山神社」、そして「熊野神社」は、このような繋がりがあるので、「瀬織津姫命 = 熊野権現」と習合する考えもあると言うわけです。

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次は、「鈴鹿権現」との関係にも少し触れたいと思います。

鈴鹿権現」とは、別名「鈴鹿御前」とも呼ばれており、伊勢と近江の国境にある「鈴鹿山」に住んでいたとされる伝説上の女性で、交通の要所であった「鈴鹿峠」、および東海道を通る人の守護神とされています。

さらに「鈴鹿権現」は、鈴鹿姫、鈴鹿大明神、鈴鹿の立烏帽子などとも呼ばれ、道祖神と習合し、鈴鹿峠を往来する旅人達により、旅の安全を祈願するために祀られたと考えられています。

後に、「お伽草子」などにも取り入れられ、さらに「坂上田村麻呂」伝説とも結び付き、「鈴鹿姫信仰」として、江戸時代まで広く信じられてきたようです。


どのような神様かと言うと、上記の通り、立烏帽子姿で悪鬼や盗賊を成敗し、後に、「坂上田村麻呂」と結婚して、子供を設けたとされています。

さて、「鈴鹿権現」と「瀬織津姫命」との関係ですが、それは京都の祇園祭に見ることが出来ます。

祇園祭に登場する山鉾「鈴鹿山」ですが、ここでは明確に「鈴鹿権現 = 瀬織津姫命」と説明されています。

何故、「鈴鹿権現 = 瀬織津姫命」となったのかは明らかにはなっていませんが、鈴鹿山近郊にある「片山神社(御祭神:瀬織津姫命)」や「田村神社(御祭神:坂上田村麻呂)」が関係しているともされているようです。

この点に関しても、後述する「鈴鹿権現と瀬織津姫命の関係」で紹介したいと思います。

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また、「瀬織津姫命」と「天照大御神」との関係について、少し触れたいと思います。

これは、本章の最初に記載した「瀬織津姫命は、天照大神の皇后で、天照大神の名代として活動していた時期もある」と言う説となります。

これは、現在では、女神として表現されている「天照大御神」が、実際は「男神」だったと言う事を意味しています。

天照大御神男神説」に関しては、何時頃から唱えられたのかは定かではありませんが、平安時代末期頃には、既に「天照大御神男神説」が、広く出回っていたとされています。

神道では、「陰陽二元論」と言う考え方があり、この考え方は、「日本書紀」の「国生み神話」にも取り入れられています。

イザナギを陽神とし、イザナミを陰神とすると、陽神=男神で、陰神=女神となります。さらに、太陽は陽で、月は陰となるので、つまり、太陽神として扱われる「天照大御神」は「男神」となると言う、三段論法の様な考え方です。

また、記紀には、「アマテラスとスサノオの誓約」と言う場面が何度か書かれていますが、スサノオが追放された天上界に戻ってきた際、「アマテラス」が、「スサノオ」が攻めてきたと勘違いし、「男装」して攻撃に備えたと伝わっています。

このような事から、「天照大御神男神」と言う説が繰り広げられています。

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先程、遠野「伊豆神社」と「瀬織津姫命」の事を触れましたが、ここで、しつこいかもしれませんが、改めて、「遠野物語/第2話」を紹介したいと思います。ここには、「遠野三山」の神々の由来が書かれています。

遠野物語 第2話 】

●原文

(略)
大昔に女神あり、三人の娘を伴ひて此高原に来り、今の来内三村の伊豆権現の社ある処に宿りし、今夜よき夢を見たらん娘によき山を与ふべしと母の神の語りて寝たりしに、夜深く天より霊華降りて姉の姫の胸の上に止りしを、末の姫眼覚めて窃に之を取り、我胸の上に載せたりしかば、終に最も美しき早池峰の山を得、姉たちは六角牛と石神とを得たり

若き三人の女神各三の山に住し今もこれを領したまふ故に、遠野の女どもは其妬を畏れて今も此山には遊ばずと云へり


●現代語訳
大昔に女神がいて、三人の娘を連れてこの高原に来た

今の来内三村の伊豆権現の社ある場所に宿った夜、今夜よい夢を見た娘によい山を与えようと母の神が語って寝たところ、夜深く天から霊華が降り、姉の姫の胸の上に止まったのを、末の姫が目覚めて、こっそりこれを取り、自分の胸の上に乗せたところ、ついに最も美しい早池峰の山を得、姉たちは六角牛と石神とを得た

若い三人の女神はそれぞれ三つの山に住み、今もこれを支配しておられるので、遠野の女たちはその妬みを恐れて、今もこの山には入らないという


前述の「早池峯神社の本坊」の章で登場した「矢巾の早池峯神社」の由緒で、「三柱の姫神」が降臨して「三ツ石」に鎮座したと紹介しましたが、「矢巾の早池峯神社」の境内には、石が4個あるのは何故 ? と思ったかもしれません。

しかし、上記「遠野物語」を、よく読んで見て下さい。「三柱の姫神」には、母親が居ます。『 3人の娘 + 母親 = 4名 』です。

そして、この「矢巾の早池峯神社」の御祭神も、当然、「瀬織津姫命」です。これで、石が4個存在している理由が解るのではないかと思われます。

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他方、前述の「遠野の伊豆神社」には、「遠野市史」とは別の由緒が伝わっており、そこには、「坂上田村麻呂」と「おない」と言う女性の関係が書かれています。

蝦夷征伐の折、「坂上田村麻呂」が遠野に滞在した際に、都から「おない」と言う名の麗夫人を呼び寄せたが、その後、三名の姫が生まれ、それら三名の姫神が、「遠野三山」の神々となったと言うのが、「遠野の伊豆神社」の由緒になっています。

このため、「遠野の伊豆神社」の由緒には、御祭神「瀬織津姫命 / 俗名:おない」と記載されているそうです。

ここでも「坂上田村麻呂」と「瀬織津姫命」が関係しており、この点も興味深いのですが、それよりも興味深いのは、「おない」と言う女性の名前です。

先の「遠野市史」や「伊豆神社」の由緒書とは別に、「綾織村郷土誌」と言う村史が残されており、そこにも「伊豆神社」の由緒が書かれているのですが、「おない」と言う女性は、「前九年の役」で朝敵となった「安倍貞任(あべ-さだとう)」の弟「宗任(むねとう)」妻とされています。

そして、「安倍宗任/おない」には、三名の娘がおり、母子共に戦からは逃げおおせて来内村にたどり着き、その後、村において医者となり、多くの人を救った事から「伊豆神社」に祀られたと記載されているようです。

朝敵の妻を御祭神にすることなど、許されるはずもありませんが、興味深い話ですので、この点も、後で説明したいと思います。

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今回は、「早池峰信仰と瀬織津姫命」の第2弾として、次の様な内容を紹介して来ましたが如何でしたか ?

●「早池峰」と「早池峯」、どちらが正しいのか ?
●どこが本院なのか ?
●「瀬織津姫命」が御祭神の神社
●「瀬織津姫命」とは何者なのか ?

瀬織津姫命」について、調べれば調べるほど、訳が解らない状況となってしまっています。

今回は、「瀬織津姫命」関して、次の様な事に関係がある神様として紹介しました。

伊勢神宮内宮別宮「荒祭宮」の御祭神
・「大祓詞」に登場する祓戸四柱の一柱
熊野権現鈴鹿権現と習合した神様
・「天照大御神」の妻
・「遠野三山」の神様

まあ、中央と地方とでは、それぞれ、その地にいらっしゃる神様や有名人と習合してしまうのは、仕方が無いことですので、関西地方と岩手県とでは、「瀬織津姫命」の扱いが異なってしまっているのだと思います。

さらに「瀬織津姫命」に関しては、次の様な人物や神様と関連付けた話もあります。

・織姫
・瀧の神
・弁財天
オシラサマ
宗像三女神、etc.

挙句の果てには、「私は瀬織津姫命です。」とまで宣う人物の実に多いことか・・・

瀬織津姫命」は、由緒不明な神様ですので、俗に言う「スピリチュアル系」の人達にとっては、格好の獲物なのかもしれません。

私は、そこまで踏み込む勇気はありませんので、あくまでも「早池峯信仰」との関わりと中心として、「瀬織津姫命」が、どのような神様なのかを紹介したいと思います。

そこで、次回は、次の様な内容を紹介しようと思っております。

●「天照大御神」は男神なのか ?
●「瀬織津姫命」と「安倍氏」との関係
●「瀬織津姫命」と「鈴鹿権現」との関係
●「瀬織津姫命」と「熊野権現」との関係

天照大御神が男性か否かなど、早池峯信仰とは関係無いだろ !」と言うと指摘もあるとは思いますが、中々面白い話なので、少し触れたいと思います。

それでは次回も宜しくお願いします。

以上


【画像・情報提供先】
Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)
岩手県神社庁(http://www.jinjacho.jp/)
・風琳堂(http://furindo.webcrow.jp/index.html)
花巻市ホームページ(https://www.city.hanamaki.iwate.jp)
・レファレンス協同データベース(http://crd.ndl.go.jp/reference/)
・Yahoo/ZENRIN(https://map.yahoo.co.jp/)
・千時千一夜(https://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo)
・お山へ行こう!(http://lcymeeke.blog90.fc2.com/blog-entry-208.html)
平凡社「字通(CD-ROM版」
・近世古文書館(http://www.komonjokan.net/)
コトバンク(https://kotobank.jp/)
貴船神社(https://www.facebook.com/kifunejinja/)