【坂上田村麻呂】に関連する岩手の観光地


坂上田村麻呂(758〜811年)】と言えば、日本史上、「文の菅原道真、武の坂上田村麻呂」と言われるほど有名で、武の象徴となっています。

特に有名なのは、蝦夷の指導者である「阿弖流為(アテルイ)」を降伏させた「蝦夷討伐」です。教科書にも載っていますよね。

朝廷にとっては、まさにヒーロー的存在ですが、東北人にとっては「裏切り者」扱いです。

しかし、その反面、東北地方には、【坂上田村麻呂】に関連する伝説・伝記や建造物が非常に多く存在します。

坂上田村麻呂】は、二度に渡る「蝦夷討伐」に加え、胆沢城・志波城の築城や陸奥国国司になった関係で、何度も東北地方(当時の陸奥国)を訪れていますので、その影響で、数多くの言い伝えが生まれたと思われます。

しかし、現在では、その伝説の多くは、後世の人達が、【坂上田村麻呂】人気にあやかり、作り上げたものではないか、とも言われています。

坂上田村麻呂】と阿弖流為との関係は、その後に起こった「前九年の役」・「後三年の役」を経て、奥州藤原氏の勃興、源義経鎌倉幕府へと綿密に繋がる流れとなっていきます。

坂上田村麻呂】と阿弖流為との関係や、「なぜ裏切り者なのか」と言う話は、ここで詳しく説明すると長くなりますので割愛しますが、盛岡市在住の「高橋克彦」氏が、NHK大河ドラマの原作となった「炎(ほむら)立つ」等、数多くの小説を書いていますので、一度お読みになって下さい。

まあ、歴史的な真実・事実は研究家に任せるとして、今回は、岩手県内に伝わる【坂上田村麻呂】関連の観光地や建造物を紹介したいと思います。

【出典】征夷大将軍坂上田村麻呂像:『前賢故実』(菊池容斎画)

                                                                                                                                                                                          • -

■八幡平(はちまんたい)


八幡平に関しては、過去ブログで「紅葉」の名所として紹介しましたし、名前の由来も、そこで紹介していますが、再度簡単に記載しておきます。


「八幡平」の由来は、【坂上田村麻呂】の蝦夷討伐時、敗走する大猛丸一族の追撃の際、現在の八幡平山頂にある八幡沼付近に到達した時に、眼前に広がる神秘の風景に感銘し、ここに八幡大菩薩を奉じて戦勝を祈願した、と言う伝説からきています。しかし、真実は・・・詳しくは過去ブログをご覧下さい。
★岩手の紅葉について(http://msystm.co.jp/blog/20110928.html)

八幡平へのアクセスは、車かバスになりますが、頂上へ向かう道路「アスピーテライン」は、11/5で閉鎖されてしまっていますので、今の季節は頂上までは行けません。


しかし、八幡平付近は、温泉やスキー場が沢山ありますので、今の季節も、結構楽しめます。それに、1月〜3月頃になると樹氷も見ることができます。

本州で樹氷を見ることができるのは、八甲田山、八幡平、それと蔵王の3箇所だけです。

▲アクセス
 ・自動車 :東北道松尾八幡平インター」から頂上駐車場まで約30分
 ・電車 :JR東北新幹線盛岡駅」からバスで1時間30分位
▲問合せ先
 八幡平市観光協会
 ・ホームページ :http://www.hachimantai.or.jp/
 ・電話 :0195-78-3500

■胆沢城・志波城


平安時代の初めに北東北にはいくつかの城柵が造営されました。北東北では774年から811年にかけて、いわゆる「三十八年戦争」が行われ、北上盆地蝦夷(えみし)は朝廷の統治下におかれることになりました。蝦夷平定後、統治の拠点として、802年(延暦21年)に胆沢城が、翌年の803年には志波城が、【坂上田村麻呂】により築かれました。

ところが、志波城は、【坂上田村麻呂】の後任の文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)の時に川の氾濫で放棄されて、新たに徳丹城(矢巾町)が、812年(弘仁3年)に築かれました。

現在では、志波城だけ「志波城古代公園」として復元されています。復元したのは当時の志波城の一部で、高さ11メートルの外郭南門、全長252メートルの外郭築地塀や櫓、および政庁などを、広大な敷地に整備してあります。また,復元した建物内の展示室では、コンピューターグラフィックで当時の姿を見ることができるようになっています。

が・・・公園に行かれても、門と城壁の他は、何も無いので「心の準備」だけはしておいて下さい。それと、胆沢城も徳丹城も、遺跡は確認されていますが、特に整備もされていません。

▲住所
 岩手県盛岡市上鹿妻五兵エ新田48-1
▲アクセス
 ・自動車 :東北道「盛岡インター」から車で約10分
 ・電車 :JR盛岡駅からタクシーで10分
▲問合せ先
 志波城古代公園案内所
 ・ホームページ :盛岡市(http://www.city.morioka.iwate.jp/index.html)
 ・電話 : 019-658-1710

達谷窟毘沙門堂(西光寺)


達谷窟(たっこくのいわや)毘沙門堂は、延暦20年(801年)、征夷大将軍であった【坂上田村麻呂】が、ここを拠点としていた蝦夷を討伐した記念として、京都の清水寺の舞台を模して建てたものとされています。

西光寺境内の西側には、東西の長さ約150メートル、最大標高差およそ35メートルにおよぶ岸壁があり、その下方の岩屋に、この毘沙門堂が作られています。


そして、そのさらに西側の岸壁上部には、大日如来、あるいは阿弥陀如来と言われている大きな「磨崖仏(まがいぶつ)」が刻まれています。

また、西光寺には、「源 頼朝」も、奥州藤原氏を滅ぼした後、鎌倉への帰路に、立ち寄った、と「吾妻鏡(あづまかがみ)」に記載されています。

おそらく、源氏が崇拝する「源 義家」も、前九年・後三年の役の折には、先勝祈願のために参拝・寄進していたので、「源 頼朝」も参拝したのではないかと思われます。

▲住所
 岩手県西磐井郡平泉町平泉字北澤16番地
▲アクセス
 ・自動車 :東北道「一関インター」から車で約10分
 ・電車 :JR平泉駅からタクシーで10分
▲問合せ先
 平泉観光協会
 ・ホームページ :http://hiraizumi.or.jp/sightseeing/takkoku/
 ・電話 :0191-46-2110


■神社関連

県内には、前述の様に、【坂上田村麻呂】関連の場所や寺が多くあります。

御伽草子』では、【坂上田村麻呂】の母は、陸奥国はつせ郡田村郷(福島県田村郡)の賤女(下級巫女)と記載されています。【坂上田村麻呂】伝説の流布には、他の日本の多くの伝説と同様、このような職業の人々影響しているのではないかと推測されます。

以降では、【坂上田村麻呂】関連の神社を紹介します。

●滝沢村 田村神社


滝沢村にある「田村神社」は、【坂上田村麻呂】が、蝦夷侵攻の際に、岩手山に立て篭った賊・赤頭の高丸を討つために、岩手山の神霊に戦勝を祈念して創建したと伝わっており、【坂上田村麻呂】を祭神とする古社です。



境内には、樹齢1千年以上の杉の老樹と樹齢500年以上の桂の大木があり、村指定天然記念物になっています。ともに目通り周囲6m・樹高20mをゆうに超え、圧倒的な存在感です。

左の写真は、「田村杉」と呼ばれており、当然、神社のご神木です。

写真の左側に、(ショートホープではなく)人物が写っていますので、その大きさを比べて頂ければ、「田村杉」の巨大さが解ると思います。

▲住所
 岩手県岩手郡滝沢村篠木字上篠12番
▲アクセス
 ・自動車 :東北道「盛岡インター」から車で約10分
 ・電車 :JR大釜駅から徒歩で15分
▲問合せ先 : 滝沢村観光協会
 ・ホームページ :http://takizawa-kankou.jp/
 ・電話 :019-601-6327


大宮神社


大宮神社は、「滝沢郷の高丸」という者が朝命に背いたため、桓武天皇の勅命により【坂上田村麻呂】が征討に向かい、802年(延暦21年)に、これを平定した後に築いた「高見館」の鎮護の神として、伊勢神宮の外宮の分霊・勧請し「大宮豊受神社」と称したのに始まると伝えられています。

また、平安時代桓武天皇が造立を命じた、陸奥国最北の城柵である「志波城」の鬼門鎮護の神社でもあると言われています。

ちなみに、伊勢神宮の内宮を勧請した「神明社」は、現在「盛岡八幡宮」に境内に祀られています。

大宮神社は、岩手県出身の平民宰相「原 敬」の氏神様でした。暗殺される2か月ほど前にも大宮神社を訪れ、記念写真を撮っているそうです。

▲住所
 岩手県盛岡市本宮大宮51
▲アクセス
 ・自動車 :東北道「盛岡インター」から車で約10分
 ・電車 :JR盛岡駅からタクシーで15分
▲問合せ先 : 盛岡観光コンベンション協会
 ・ホームページ :http://hellomorioka.jp/index.html
 ・電話 :019-621-8800


●志賀理和気神社(シガリワケジンジャ)・赤石神社


志賀理和気神社には、 804年(延暦23年)、【坂上田村麻呂】が、東北開拓の守護神として香取、鹿島の二神を祀ったとされています。

927年(延長5年)に作られた、全国官社とされていた神社一覧表である「延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)」に、「陸奥国斯波郡一座(みちのくにしばぐんいちざ)・小・志賀理和気神社」とあることからも、平安時代に既に存在していたことが記録として残されています。

また、境内には三尺余の霊石と言われる赤石があることから、通称「赤石神社」とも言われています。


「赤石神社」と呼ばれているのは、後世となる室町時代に、当時の領主であった「斯波(しば)」氏の最後の当主「斯波孫三郎詮直(しばまごさぶろうあきなお)」が、神社後方の北上川で舟遊びのさなか、川底にあったこの赤石を、(子供のように)拾ってきたことに由来しているそうです。

そして、その時に、次の様な歌を詠んだそうです。

『 今日よりは 紫波と名付けん この川の石にうつ波 紫ににて 』

それ以降、この地の名称が「紫波」となり、かつ神社自体も「赤石神社」と呼ばれるようになった、と伝えられています。

ちなみに、地元の人間に「志賀理和気神社」と言っても、さっぱり通じないと思います。「赤石神社」と言った方が、伝わりやすいです。私も、このブログを書くために調べて、初めて正式名称を知りました。

▲住所
 岩手県紫波郡紫波町桜町本町川原1
▲アクセス
 ・自動車 :東北道「盛岡インター」から車で約10分
 ・電車 :JR志波中央駅から徒歩で15分
▲問合せ先 : 紫波町役場
 ・ホームページ :http://www.town.shiwa.iwate.jp/
 ・電話 :019-672-2111


●飯岡 千手観音


現在の観音堂の千手観音は、上飯岡萬福谷地にあった萬福院(庵院)のもので、803年(延暦22年)のものと伝えられています。

由来によると、征夷大将軍坂上田村麻呂】が蝦夷征伐で当地に長陣を取った時、兵糧に困ったので、持ってきた観音様を一心に祈り、木の実や青葉を炊いて兵糧に充て飢えを逃れ、ついに蝦夷を平定したとのことです。

この勝利こそ、厚い観世音菩薩の加護と功徳に他ならぬと、この地にまつったものと伝えられています。


▲住所
 岩手県盛岡市上飯岡9-23-1
▲アクセス
 ・自動車 :東北道「盛岡南インター」から車で約15分
 ・電車 :JR岩手飯岡駅からタクシーで20分
▲問合せ先
 盛岡観光コンベンション協会
 ・ホームページ :http://hellomorioka.jp/index.html
 ・電話 :019-621-8800

●その他

坂上田村麻呂】に関連する神社は、上記の他にも、下記の神社があります。全てを記載するとキリがないので、一部だけ抜粋します。

岩手山神社 :岩手県岩手郡雫石町長山頭
・御堂観音堂岩手県岩手郡岩手町御堂
・三ツ石神社 :岩手県盛岡市須川町2-1
神明社岩手県盛岡市八幡町13-1(盛岡八幡宮境内)
・成島三熊野神社岩手県花巻市東和町北成島5-1
・胡四王神社 :岩手県花巻市矢沢3-160
・丹内山神社 :岩手県花巻市東和町谷内2-303
熊野神社岩手県胆沢郡金ケ崎町西根鶴ケ岡31番地
極楽寺岩手県北上市稲瀬町上台205
・六神石神社 :六角牛山(遠野市釜石市の境付近)
・室根神社 :岩手県一関市室根町折壁字室根山


こうやって調べてみると、本当に【坂上田村麻呂】人気は、凄かったのだと実感します。

史実では、【坂上田村麻呂】は、盛岡付近までしか来ていませんので、県南の一関から盛岡付近まで、ありとあらゆる所に、その痕跡が見られます。

皆さんも、東北にお越しの際には、【坂上田村麻呂】をめぐる旅に来られては如何ですか?

以上

【株式会社 エム・システム】
本      社  :〒124-0023 東京都葛飾東新小岩8-5-5 5F
           TEL : 03-5671-2360 / FAX : 03-5671-2361
盛岡事業所  :〒020-0022 岩手県盛岡市大通3-2-8 3F
           TEL : 019-656-1530 / FAX : 019-656-1531
E-mail    : info@msystm.co.jp 
URL     : http://msystm.co.jp/
ブログ       : http://d.hatena.ne.jp/msystem/ 
Facebook   : http://www.facebook.com/msysteminc