岩手の民間信仰 〜 聞いた事も無い信仰ばかり Vol.7


それでは、今回も、前回に引き続き、「乳神信仰」の「その2」を紹介したいと思います。


前回は、下記の通り、遠野市内にある4箇所の「乳神様」を紹介しました。


★過去ブログ:岩手の民間信仰 Vol.6


それぞれ、あまりパッとしない「乳神様」ではありますが、「小粒でもピリリと辛い乳神様」だと思います。


中でも、「カッパ淵の乳神様」は、その正体が人間だったと言う、不思議なオチがありました。


また、「乳母石」に登場する「無尽和尚」は、非常に興味深い人物であることが解りましたので、何かの機会があれば、「無尽和尚」特集でも組んでみようかと思っています。


今回は、「2回目」として、遠野市の残り(などと言うと失礼かもしれませんが)1箇所と、それ以外の「乳神様」を紹介します。


【 1回目 】
●「乳神信仰」とは
遠野市宮守町上宮守の「乳母(うば)石」
遠野市土淵町飯豊の「乳神様」
遠野市土淵町常堅寺境内「カッパ淵の祠」
遠野市綾織町みさ崎の「乳神様と金勢様」


【 2回目 】
遠野市松崎町諏訪神社の願掛け石」
紫波町紫波ふるさとセンターの乳神様」
八幡平市「井森の大イチョウ
釜石市両石町「乳神様の祠」
●山田町「おっぱいの祠」
●岩泉町「若宮神社の乳神様」


それでは今回も宜しくお願いします。

-----------------------------------------------------------------


遠野市松崎町諏訪神社の願掛け石」


今回の一番目は、遠野市の残り1箇所の「乳神様」を紹介します。


こちらも「遠野遺産 第102号」に認定されている「諏訪神社」境内にある「乳神様」を紹介します。


この「諏訪神社」は、当時、遠野近辺を治めていた「阿曽沼 親郷(あそぬま-ちかさと)」が創建したと伝わっていますが、正確な時代は解らないようです。


「阿曽沼」氏は、元々は、「下野国阿曽沼郡(現:栃木県佐野市安蘇郡)」を治めていたいたのですが、「源 頼朝」の奥州藤原氏攻撃に参加した際の功により、当時の「陸奥国閉伊郡遠野」の地頭職に任じられたそうです。


その後、「阿曽沼 親郷」が、鎌倉時代となる「承久3年(1221年)」、後鳥羽上皇が、鎌倉幕府討伐のために挙兵した「承久の乱」の際、当時の執権「北条義時」の命に従い、信濃地方に出陣したそうです。


そして、諏訪湖のほとりに陣を張った夜、諏訪大社の神から、大蛇の妖怪を倒すように夢の中で告げられたので、お告げに従い大蛇を退治したそうです。


その結果、諏訪大社の神から神剣を賜ったので、帰国後に、居城である「横田城」の南方に、諏訪大社の御祭神「建御名方神(たけみなかたのかみ)」を勧請して創建したと伝わっているようです。


上記の言い伝えが正しければ、この「諏訪神社」は、13世紀中頃に創建された事になります。


これらの事は、上記画像の通り、諏訪神社の説明看板に記載された内容ですが、それ以外にも、「阿曽沼」氏の存亡に関わる、様々な言い伝えがあった様です。


しかし、事実は、この言い伝えとは異なり、次のような結末になっています。


「阿曽沼」氏は、天正年間(1573〜1593年)に最盛期を迎えた後、豊臣秀吉の「小田原征伐」に参加しなかった事を咎められたのですが、なんとか「南部」氏の配下として生き延びます。


しかし、結局は、関ヶ原の引き金となる、徳川家康の「上杉征伐」の際、「南部利直」の策略による部下の謀反で城を終われ、「伊達」氏の元に身を寄せたのですが、そこで生涯を終え、「遠野阿曽沼」氏の嫡流は断絶したそうです。


事実は、看板の言い伝え通りにはならなかった様です。

-----------------------------------------------------------------


さて、この「諏訪神社」の境内には、前述の通り、「願掛け石」と呼ばれている「乳神様」がいらっしゃいます。


実は、この「乳神様」に関しても、余り詳しい情報がないので、「阿曽沼」氏の情報で、尺を稼いだのですが・・・


唯一ある情報としては、この神社の境内には、多くの「楓(かえで)」が植栽されており、その内の何本かは、諏訪神社から移植した物と伝わっているそうです。


そして、その楓の切り株に、母乳の出ない母親達が、母乳が出るように祈願した「願掛け石」があり、母乳の出ない母親達は、この石に「願を掛ける」と共に、この石に生えた「苔」を煎じて飲んだと言う事が伝わっています。


但し、何時から、この場所に「願掛け石」があるのか ? 誰が始めたのか ? 等、詳しい情報は一切解りませんでした。


「カッパ淵」の祠のように、後日、詳しい情報が解ったら、別の機会に紹介したいと思っています。

                                                                                                                                • -

紫波町/紫波ふるさとセンターの「乳神様」


次は、ようやく遠野市から離れて、紫波町の「乳神様」を紹介します。


ここの「乳神様」は、紫波町にある産直「紫波ふる里センター」の裏手に、ひっそりと佇んでいらっしゃいます。


私も、その昔、「紫波ふる里センター」に、実家の両親と、果物を買いに訪れた時、暇を持て余して、近所をブラブラしていた時に、偶然、立ち寄った覚えがあります。


この場所は、私の実家から、車で約30分程度、国道106号線から国道396号線(釜石街道)に抜け、後はひたすら国道396号線を直進し、国道456号線(遠野街道)との分岐を過ぎてから、10分位の場所にあります。


その時は、「世の中には、乳神と言う変わった神様も居るものなんだ〜」程度にしか考えませんでしたが、産直で売っていた奇妙な「お土産」には、思わず笑ってしまった覚えがあります。


さて、紫波町の「乳神様」には、次のような由来がある旨が、神社脇の看板に記載されています。

-----------------------------------------------------------------


『 遠野南部藩士の女が盛岡南部のお城に乳人(めのと)として仕えていたが、家老との不義の懐妊のため、実家に帰される途路(とじ)、帰るに帰られず、この地、佐比内塚沢長嶺の藤棚の下に庵を作り、横町部落に喜捨を求めて生活をしていた。


七日、十日姿を見せないので、部落の人達が心配して訪ねてみたなら、産後に死んで居て、赤児が死んだ母親の母乳を吸っていたと伝えられます。


乳神様としてお堂を建てて祀り。後年、原野所有者の横町(屋号「ゲンスト」)の下座敷に堂宇を移し、代々の主婦が氏神様として奉仕して参り。


やがて広く乳神様の話が伝わり、大事な乳を求める人達が拝みに来ることとなり今日に至りました。 』

-----------------------------------------------------------------

何とも悲しい話ですね。産直に行った時に、お土産を見て笑ってばかりいないで、ちゃんと拝んであげれば良かったと今更ながら後悔しています。


しかし、神社の情報が掲載されているブログ等を見ると、神社は、きちんと手入れが行われ、お花等も供えられているようですので、今でも、拝みに来ている人がいることが解ります。


ちなみに、右が神社をアップにした画像です。神社の左右に、紅白の旗らしき物が垂れ下がっています。


しかし・・・良く見て下さい。この左右の紅白は、旗ではなく、ちゃんと「乳房」の形になっています。まさに「乳神神社」です。

                                                                                                                                • -

また、こちらの理由は解りませんでしたが、毎月第二日曜日が、この「乳神様」の縁日に当たり、この日は、産直において、特別な「乳神様まんじゅう」が販売されている様です。


この「乳神様まんじゅう」は、現在は、2個入り270円で販売されているとの事ですが、大人気で、直ぐに売り切れになってしまうそうです。


この「乳神様まんじゅう」は、産直の説明によると次の通りだそうです。


『 母乳の出を良くする神様「乳神様」にあやかり作られた、おっぱいの形のおまんじゅう。梅のほのかな酸味と、中のさつまいもが、あんこの甘さを引き立てています。 』


また、この産直には、レストランが併設されているのですが、このレストランでも、縁日の日に限り、限定メニューが提供されている様です。


この限定メニューは、スパイシーなビーフカレーと、地元産のお豆腐を使った、ヘルシーで優しい味の豆腐カレーを盛り付けた「乳神様Wカレー」と言うメニューになります。(と、説明文に書いています。)


恐らく、「乳神神社」に関しては、こちらの産直の方々が手入れをされているのだと思いますが、「商魂逞しい」と言うか、何というか・・・


今では、母乳の出を良くするだけでなく、商売繁盛にも、一役買っているのだと思います。

-----------------------------------------------------------------


それと、話を神社に戻しますと、この神社の脇には、「乳守宮」と彫られたように見える石碑まであります。


建立された年号は、「大正十四年」と見えるようにも思えますが、確かな事は解りません。


しかし、石碑まで祀るとは、この「乳神神社」は、その昔、この近辺では、かなり有名だった事が推測できます。


また、この神社の由緒には、別の説として「昔話として、その女が不義密通の罪で火あぶりの刑に処せられた時、乳が溢れ出て刑火を消した」と言う伝承もあるようです。


何れにしろ、「母乳」に関係がある神社であることは確かなようでが、「乳神神社」の由緒/由来が、明確には定まっていないので、「堂守」の方は、様々な情報提供を待っている様です。


兎にも角にも、貴重な史跡にもなりますので、何時までも、この「乳神神社」を大切にして貰えればと思ってしまいます。

-----------------------------------------------------------------

八幡平市/井森の大銀杏


次は、岩手県の県北、八幡平市松尾寄木にある「井森の大銀杏(いちょう)」を紹介します。


この「乳神様」は、初回の「乳神信仰とは」に記載した、樹木系の「乳神様」と同じ内容になります。


但し、この「井森の大銀杏」は、かなり巨大で周囲(幹周り)7.6m、樹高約20m、推定樹齢230年と伝えられています。


この「井森の大銀杏」は、地上2m位の場所から張り出した無数の枝が絡み合い、1本の木だけでも、森のような大きさを誇っていると言われておるようです。


「井森の大銀杏」は、誰が、何時、何の目的で植えたのか等、証拠となる文献は存在しないようですが、ご想像の通り、南面の幹周りに垂れ下がる気根が、垂れた乳房を思わせることから、昔から「乳神様」として、信仰の対象になって来たそうです。


言い伝えでは、この銀杏に触ると、乳が出ない人は出るようになり、乳が張って苦しい人は楽になると言われ、特に既婚女性が訪れることが多かったとも言われているそうです。


近頃では、さすがに拝みに来る人も減少傾向にあるようですが、昭和の初め頃までは、子宝を願う夫婦や母乳の出を気遣う女性達に崇敬され、前述の通り「乳神様」と呼ばれて慕われていたそうです。

                                                                                                                                • -


また、この銀杏の下には、「お稲荷様の祠」が祀られています。


その昔、この場所には「稲荷神社」が建立されており、「井森の白狐」、または「稲荷神様」と呼ばれた「白狐」がいて、近くの「駒形神社」や「大神宮」などを往来して神に仕えていたと伝わっています。


そして、その「白狐」が、この地で亡くなってしまったので、今でも祠を立てて「白狐」を祀っているそうです。

-----------------------------------------------------------------

釜石市両石町の「乳神様の祠」


次は、内陸から離れた釜石市両石(りょういし)町の「乳神様」を紹介します。


この場所は、釜石市の中心地「釜石港」から4kmほど北側、「両石湾」の入り口、国道45号線の「水海(みずうみ)トンネル」の直ぐ脇にあります。


三陸、釜石、リアス海岸とくれば・・・皆さん、お解りの通り、津波があれば、常に甚大な被害を受ける地区になります。


事実、下記の地震/津波では、地域が全滅する程の大被害を受けています。


安政の大津波
・明治三陸地震津波
・昭和地震津波
チリ地震津波
東日本大震災津波


地理的に、津波被害を受けやすい場所なので、仕方が無いかもしれませんが、過去の被害を忘れず、今後に繋げて行って欲しいと思います。


さて、この釜石の「乳神様」ですが・・・済みません、こちらも、由緒/起源は、全く解りませんでした。


この「乳神様」には、例の如く、布製の「乳房」が祀られているようですが、それ以外、ちょっと見た目には、何処が ? 何が ? 何で乳神様なの ? と言う感じです。


また、この祠に祀られているのは、2体の「地蔵菩薩」のように見受けられますので、これまで紹介してきた「乳神様」とは全く異なります。


地蔵菩薩」と言えば、日本においては、ほとんどの場合、「子育て」や「子守り」等、子供の守護菩薩として祀られています。


このため、この場所は、どちらかと言えば、元々は、「子育て/子守り」のために「地蔵菩薩」を祀ってあったところに、後から「乳神様」も祀ったようにも見受けられます。


また、前述の通り、この付近は、度重なる津波の被害を受けていますので、犠牲者を追悼するための「地蔵菩薩」なのかもしれません。

-----------------------------------------------------------------


ところで、気になるのは、この情報を提供して下さった方のブログにも記載されていますが、向かって右側のお地蔵様の須弥壇に、「十六菊」が刻印されている点です。


まさか、皇室に関係がある地蔵菩薩とは思えません。


「十六菊」に関しては、宗教/神社関係では、天台宗の紋章が「三諦章(さんたいしょう)」と呼ばれる、「十六菊」の中に3個の星がある紋章ですし、その他、日本全国の神社でも、数多く使用されています。


しかし、過去ブログにも記載していますが、「十六八重表菊」が、皇室を示すマークとなったのは、鎌倉時代の「後鳥羽天皇」以降です。


故に、鎌倉時代以前においては、「十六菊」は、好き勝手に使って構わないマークでしたが・・・この地蔵菩薩は、鎌倉時代より古いとは思いませんので、その点は、不思議と言えば、不思議な感じがします。


今回は、この「乳神様」の由緒/由縁は解りませんでしたので、また宿題とさせて下さい。

-----------------------------------------------------------------

■山田町のおっぱいの祠


次は、釜石市から、北東に22kmほど離れた、山田町の「乳神様」を紹介します。


山田町の「乳神様」は、町の中心地、「山田町役場」から、国道45号線沿いに北上すること約8km、山田町豊間根8番地割付近の「田名部」バス停のすぐそばにあります。


但し、この「乳神様」は、道路に背を向けた祠の中に納められているので、この場所を知っている人しか、「乳神様」の存在は解らないと思います。


また、この祠の近辺には、馬頭観音の石碑等、様々な石碑が乱立しています。


祠の隣にも、碑文は、よく見えないのですが「西国順禮塔」と刻まれているように見受けられますが、このような碑文、私は、今回初めて見ました。


「西国順禮塔」とは、江戸時代から明治、そして大正時代に掛けて、宮古市近辺から、関西圏にある神社仏閣を参拝して無事に帰ってきた事、並びに参拝した神仏のご利益に感謝して建立された石碑なのだそうです。

-----------------------------------------------------------------

「乳神様」とは、ちょっと関係ないのですが、この「豊間根(とよまね)地域」には、何故か石碑が多いようで、2014年に、岩手県立大学のチームが調査した所、330個もの石碑があることが確認されている様です。


また、地域により、石碑の書類も異なり、この「豊間根地域」には、動物霊塔が多いという調査結果もあります。


ちなみに、山田町全体では、685個の石碑があり、山田湾に面した海岸地域には、やはり災害碑、慰霊碑、そして記念碑が多いのだそうです。


さらに、参考までに、「豊間根」と言う地名は、前九年の役で有名な「安倍氏」の末裔となる「豊間根」氏から取ったものとの事です。


豊間根」氏の始祖は、「安倍正任」の子「孝任」と伝えられ、現在も、この地に住んでおり、現在は、第47代目となっているそうです。

-----------------------------------------------------------------


さて、話を戻して山田町の「乳神様」ですが・・・やはり、この場所に、「乳神様」がある事の起源/由緒等は、解りませんでした。


また、これも、他の「乳神様」同様、祠の中には、「布製の乳房」が、沢山ぶら下がっていました。


しかし、この「布製の乳房」は、他の「乳神様」とは異なり、こちらは「筒状」になっています。


また、唯一解っている情報としては、ここの「乳神様」に、母乳の出が良くなる様に拝む場合、この祠にぶら下がっている「布製の乳房」を1つ借りて持ち帰り、2つにして返すと願いが叶う、と拝み方が伝わっているそうです。


「乳房の倍返し」を行う事で、他の困っている人達にも、幸せを広めていく風習があるとの事らしいです。


「倍返し」をする割には、「布製の乳房」の数が少ないようにも見受けられますが、それはそれで、母乳の出が悪い母親達に優しい風習だと思います。


「布製の乳房」の数が少ないのは、おそらく、「乳神信仰」が薄れてきた事と、周辺地域の人口減少なども影響しているのだと思われます。


また、この場所は、前述の通り、山田町の中心地からは、かなりの距離があるので、まあバス停はありますが、車が無いと、通うには不便な場所です。


さらに、これも前述の通り、祠自体、道路に背を向けているので、「知る人ぞ知る」スポットなので、本当に地元の人しか来ないと思います。

-----------------------------------------------------------------


それと、本来は、別立てにした方が良いのかもしれませんが、同じ「豊間根地域」には、「穴乳(あなち)観音菩薩」と呼ばれる観音様を祀っている場所があります。


この「観音様」、正式には、「荒川穴乳山洞窟悲母観音」と言うようですが、上記「乳神様」から、国道45号線を、さらに北上し、県道290号線に逸れ、さらに「荒川」と言う川伝いに10kmほど行くと、林道の中に、突如、鳥居が現れます。


鳥居も、祠も、全て「鉄骨」と言うのは、少し興ざめですが、ここが、「穴乳山」にある、「荒川穴乳山洞窟悲母観音」となります。


そして、この祠の、さらに奥、徒歩15分くらい、山道を歩いた先には、洞窟があります。


しかし、一説では、実は、こちらの岩屋の方が「穴乳観音」と呼ばれているとも伝わっているそうです。


その説は、次の通りとなっています。

-----------------------------------------------------------------

天正11年(1583年)1月11日、津軽石氏の家督を継いだ「一戸鬼九郎行重」が、同じ一族の「一戸千徳氏」の謀反により誅殺され、居城である「払川(はらいかわ)舘」が落城してしまったそうです。

そして、「払川舘」が落城するときに、津軽石家の家老「荒川佐助」が、「鬼九郎行重」の妻と子を、この洞窟(岩屋)に、秘密裏に匿ったと言われています。

その後、妻は、ここで十一面観音に祈り、下記の歌を残した後、男子を出産したそうですが、産後に事切れてしまったそうです。

「亡き人を 忍ぶがうえにおくつゆの きえしにつけて ぬるる袖かな」


以来、この深山の岩屋は、「穴乳観音」と呼ばれ、岩屋の中にある丸い乳房のような岩に滴る水は、難産や乳不足に女性に御利益があると信じられている。

岩屋入り口には、鬼九郎行重と妻の墓碑があり、宝暦の頃、この岩屋を霊場として開いた「牧庵鞭牛」が建立した観音像がある。 』

-----------------------------------------------------------------

・・・と言う事ですが、この画像では、「観音様」の有無の確認は出来ませんでした。


また、洞窟の入り口にある石碑ですが、台座は苔むして時代が経っているように見えますが、石碑、それ自体に関しては、建立年月が「昭和」となっており、その他の石碑も、何か新しいように見受けられます。


う〜ん・・・古さと言えば、先程の、鳥居の場所にあった石碑の方が、はるかに古いように見えます。

こちらも、情報が少ないので、今後も情報を収集したいと思います。

-----------------------------------------------------------------

■岩泉町「若宮神社の乳神様」


最後は、岩泉町門(かど)字三田貝にある「若宮神社」と言うか「乳神様」を紹介します。


岩泉町と言えば、「日本三大鍾乳洞」の一つに数えられる「龍泉洞」がある町ですが、この「乳神様」は、「龍泉洞」からの場合、県道7号を南下し、その後、国道455号線を盛岡方面に約27km進んだ場所にあります。


と言いますか、そこから、さらに山道を50mほど進んだ山中に、ひっそりと存在しているそうです。


少し「乳神様」からは脱線してしまいますが、この岩泉町、「町」となっていますので、普通の感覚でとらえると、狭い地域だと思いますが、実は、本州一広い「町」です。


先程の、場所の説明をよく読んで下さい。


同じ町内で、27kmも離れていると言う事自体、変じゃありませんか ?


と言う事で、この「岩泉町」の広さですが、何と・・・東京23区の1.6倍もの広さを誇っています。


1つの町で東京23区よりも広いのに、人口は1万人以下・・・凄い場所です。


ちなみに、岩手県には、その昔というか、ちょっと前まで、日本一大きな「村」も存在していました。


そこは、現在「滝沢市」となっていますが、2013年12月31日までは「滝沢村」と言う「村」で、人口が、約55,000人も住む、「村」でした。


「市」になってしまった事で、逆に、影が薄くなってしまったような感じがします。


ところで、肝心の「乳神様」に関しては、この祠を「若宮神社」と呼んでいるようですが、鳥居と祠があるだけで、なおかつご神体は、左に掲載した「乳神様」だけです。


さらに、この「御神体 = 乳神様」ですが、確かに、「乳神様」らしく、例の「布製の乳房」を、首からぶら下げていらっしゃいますが・・・どう見ても、これは「お地蔵様」ですよね ?


先に紹介した釜石市の「乳神様」と同様、これまで紹介してきた「乳神様」と比較すると違和感を覚えてしまいます。


それと、ここの「乳神様」に関しても、ご多分に漏れず、起源/由緒は、全く解りませんでした。


但し、毎年、5月21日(旧暦4月8日)が縁日となっており、この日には、神社と言うには、余りに小さい祠に、「おぎしろ」を立てるのですが、ここには多くの女性達の名前が記載されている様です。


このため、「若宮神社の乳神様」は、やはり古くから、地元の女性達の間では、信仰の対象となって来たことが伺えます。


ちなみに、「おぎしろ(招代)」とは、よく神社の前に立ててある「旗指し物」の様な物で、神様が降臨する際の目印になる物と言われています。


そして、同じ意味を持つ物として「依代(よりしろ)」と呼ばれる物があります。


これは、「神様が依り憑く」対象物で、神様から見ると「依代」で、人間から見ると「招代」となるのだそうです。


何とも、厄介な・・・


また、今でも、「若宮神社の乳神様」は、地元の人達が、きちんと手入れをしている様です。


先に掲載した「乳神様」は、2015年の画像で、こちらが2016年の画像にありますが、「乳神様」のお召し物が変えられています。


今後も、地元の神様として、大事にされ続けることを期待したいと思います。

-----------------------------------------------------------------

今回は、岩手県内における「乳神信仰」の第2弾として、次の内容、および場所を紹介して来ましたが、如何でしたか ?


遠野市松崎町諏訪神社の願掛け石」
紫波町紫波ふるさとセンターの乳神様」
八幡平市「井森の大イチョウ
釜石市両石町「乳神様の祠」
●山田町「おっぱいの祠」
●岩泉町「若宮神社の乳神様」


今回で「乳神様」の紹介は終わりとなります。遠野地域があるからだと思いますが、やはり岩手県内には、数多くの「乳神様」がいらっしゃいます。


これは、東北北部と言う事で、過去に、何度も深刻な「飢饉」を経験した結果なのかもしれません。


数多くの「乳神様」が存在すると言う事は、母親達が「乳神様」を祀り、子供に母乳を与えたい、子供を無事に育てたいと言う希望が強かった事を表しているのではないかと思います。


全国的に有名な「乳神様」ではありませんが、地元では、まだまだ大切に祀られているようなので、私には全く関係無いのですが、何となく安心しました。


今回の「民間信仰」シリーズや「金勢信仰」の記事を書いていると、多種多様な神様を信じて祀っている日本人で、本当に良かったと思えます。


日本は、ビジネス、そして社会活動においては、日本国内のみならず、世界中から「ダイバーシティ(多様性)後進国」だと糾弾され続けています。


しかし、こと神仏の世界においては、世界でも稀な「ダイバーシティ」を実現している国ではないかと思ってしまいます。

-----------------------------------------------------------------

社会活動においては、今でも、何処かの首相が、国を挙げて女性の活躍の場を作るなどと言い、本来、その立場に相応しくない女性を、無理やり国会議員や大臣にして、謝罪、不倫等で国政を混乱させています。


企業においても、世間体を気にして、管理能力の無い女性を無理やり管理職にして、その当人のみならず、関係者全員を困惑させています。


現代社会では、本当に能力があれば、ある程度は周りのサポートも必要だとは思いますが、黙っていても、ふさわしい立場に付ける時代です。


上に立つ人間が、「自分のお気に入り」や「親の七光り」だけを、無理に担ぎ上げるから、国政も企業活動も混乱するのだと思います。

-----------------------------------------------------------------

最後に、まあ、これは「日本人」と言うより、「アジア人」の特徴なのかもしれません。


アジアには、現在でも仏教、ヒンドゥー教イスラム教、そしてキリスト教を信仰している国々が入り混じっています。


特に、東南アジアは、土着信仰から始まり、仏教、そしてヒンドゥー教イスラム教と、時代と支配者により、宗教を変えてきた歴史があります。


しかし、その中においても、アジアの神々は、どちらかと言うと寛容で、他の神々の存在を、ある程度は許す傾向があったのではないかと思います。


他方、ヨーロッパ諸国は、ギリシャの神々から始まり、ローマの神々、そしてキリスト教と変遷してきましたが、このキリスト教では、単一神しか認めず、他の神々の存在を許さない/認めない宗教だったために、現在でも紛争が耐えないのだと思います。


その他にも、ユダヤ教イスラム教も、一神教で、他の神々の存在を許しません。


このため、十字軍から始まり、中東戦争、イギリスのIRA、中東のIS等、何百年も戦争ばかり行っています。まあ、神様が戦争を仕掛けているのではなく、その信者達が、勝手に戦争をしているのですが・・・


「黒」か「白」か ? ではなく、グレーもOK、その他もOKと言う日本人、外の民族から見ると、はっきりしない、曖昧な民族と見られていますが、こと「宗教観」に関しては、私は、日本人は、これで良いのだと思います。


それでは次回も宜しくお願いします。

以上


【 参照 】
・ふしぎの里・遠野を行く(http://tonolove.exblog.jp/)
・怪異・妖怪伝承データベース(http://www.nichibun.ac.jp/YoukaiDB2/)
・日本古典文学摘集(http://www.koten.net/)
・浦幌神社ホームページ(https://www.urahorojinja.org/)
公益社団法人 岡山県観光連盟(https://www.okayama-kanko.jp/)
遠野市ホームページ(http://www.city.tono.iwate.jp/)
・ふしぎの里・遠野を行く(http://tonolove.exblog.jp/)
・ろくすけの手帳(http://blog.livedoor.jp/roku2005/)
・ミヤペディア(http://miyapedia.com/)
公立大学法人 岩手県立大学(https://www.iwate-pu.ac.jp/)
・山田町に来るとこんなことできます!(http://blog.livedoor.jp/yamada_fc/)
エフエム岩手/岩泉龍泉洞FM(http://furusato.fmii.co.jp/iwaizumi/)