東北に多い正教会(その2) 〜 キリスト教と何が違うの ?


今回の「盛岡・岩手情報」は、前回に引き続き「正教会」を取り上げたいと思います。

東北に多い正教会(その1) 〜 キリスト教と何が違うの ?

左の画像は、前回も紹介した「盛岡ハリストス正教会」です。

前回は、「正教会」に関して、さらっと次のような事を紹介してきました。

正教会の名前
●他キリスト教との違い
正教会の教義とは
●ハリストスとは ?
正教会の「形」について

恥ずかしながら、「ハリストス」が「キリスト」の事だとは思いもよりませんでしたし、カトリックプロテスタントと分裂する前に、既にキリスト教が分裂していたなんて、歴史の授業では習わなかったと思います。

そこで、今回は、「正教会」に関して、次のような点を紹介したいと思います。

●日本における正教会
●ニコライ聖堂とは
正教会の内部分裂
●東日本における正教会
●日本におけるイコン


最後の「日本におけるイコン」は、日本人初の「イコン画家」として、その道では有名な「山下りん(イリナ山下)」の生涯を簡単に紹介するとともに、彼女の描いた「イコン」も何点か紹介しようと思っています。

それでは今回も宜しくお願いお願いします。

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■日本における正教会


日本ハリストス正教会」は、いきなり東京から布教が始まった訳ではありません。

江戸時代末期の安政五年(1858年)10月、ロシア帝国の初代日本領事だった「ヨシフ・アントノヴィチ・ゴシケーヴィチ」が函館に着任します。

そして、翌年の安政六年(1859年)、函館にあったロシア領事館の敷地(実行寺境内)内に、「祭祀堂」と呼ばれた祈祷所を建築した事から、日本における「正教会」の歴史が始まります。

さらに同年7月には、少し遅れて、領事館付属聖堂初代管轄司祭「ワシリイ・マホフ」も着任しました。

しかし、初代司祭「ワシリイ・マホフ」は、着任時、既に60歳を超え、心臓病を抱えていたようで、翌年の万延元年(1860年)には、函館を離れてロシアに帰ってしまったそうです。

このため、ロシア領事「ゴシケーヴィチ」は、本国ロシアの宗務院に、新たな牧師を派遣してもらえるよう依頼したようです。


合わせて、この年、「実行寺」にあった仮領事館を、現在の「函館ハリストス正教会」のある場所に移すと共に、「祭祀堂」として存在した祈祷所に関しても、正式な教会として新たに建て直したそうです。

しかし、相変わらず、教会には司祭が不在状態だったのですが、翌、文久元年(1861年)7月、当時は、まだ修道司祭だった「ニコライ・カサートキン」が着任します。


その後、同年9月に、カムチャッカに向かう途中、嵐を避けるために寄港した軍艦に、アメリカ正教会大主教であった「アラスカの聖インノケンティ」が乗船しており、その時、日本国内において、初めて「聖体礼儀」を行った事が記録されています。

大主教「インノケンティ」は、「生神女誕生祭」に奉神礼を行なった事が記録されており、その後、二回目の主教による「聖体礼儀」は、明治5年(1872年)7月、函館に寄港した主教「ヴェニアミン」が、「生神女就寝祭」に奉神礼を行ったそうです。

正教会」では、聖職者の身分により役割が異なっているようです。この聖職者の身分を「神品(しんぴん)」と呼び、「神品」には、次の三つの役職があります。

・主教 :正教会使徒継承の教会である事の生き証人。奉神礼の執行、教育、牧会の三つ職務がある。
・司祭 :主教の補佐。司祭は主教によって各地方の教会に派遣される。
輔祭 :奉神礼における主教もしくは司祭の補助

またそれ以外、「神品」に含まれない、「教衆」、あるいは「教役者」と呼ばれる人々も存在しますし、さらに一般信徒として扱われる「修道士」と言う人達も存在するようです。

聖職者 役職 役職詳細 妻帯 尊称
神品 主教 総主教、府主教、大主教、主教 NG 聖下、座下
司祭 掌院、長司祭、(修道)司祭 首司祭/司祭OK 神父
輔祭 輔祭、(修道)輔祭 OK -
その他 教衆 輔祭、誦経者、指揮者、堂役 OK -
一般信徒 修道士・修道女 NG -

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着任後の修道司祭「ニコライ・カサートキン」ですが、慶応四年/明治元年(1868年)5月の夜間、誦経者「サルトフ」を見張りに立て、司祭館の居間において、下記三名の日本人に対して、初めて「洗礼機密」を行ったそうです。

・澤邊 琢磨 :聖名「パウェル」、日本人初の司祭となる、坂本龍馬の従兄弟、武市半平太も従兄弟
・酒井 篤礼 :聖名「イオアン(ヨハネ)」、宮城県出身の医師。「澤邊」と同時に輔祭となり後に司祭になる
・浦野 大蔵 :聖名「イアコフ」、石川県出身の医師。後に宮古市に派遣されるも曹洞宗に改宗

その後、かねてから東京進出を狙っていた「聖ニコライ」は、明治5年(1872年)には上京し、神田駿河台の土地2,300坪を購入、明治7年(1874年)からは、東京にて布教活動を行うようになったそうです。

「ニコライ・カサートキン」は、生涯を日本での布教に費やし、NHK大河ドラマ「八重の桜」でも注目された「新島 襄」等とも交流を重ね、日露関係が最悪となった「日露戦争」時も日本に滞在し続け、明治45年(1912年)2月16日、駿河台「日本宣教団」において死去し、その遺体は「谷中墓地」に埋葬されたそうです。


さて、生涯を日本での布教に捧げた「ニコライ・カサートキン」、本名「イヴァーン・ドミートリエヴィチ・カサートキン」ですが、死後となる昭和45年(1970年)、「ロシア正教会」から、「日本の亜使徒大主教・ニコライ」として列聖されました。

「亜使徒」と言うのは、正教会における「聖人の称号」で、「使徒に等しい働きをした者/使徒に次ぐ者」と言う意味を持つとされています。

これ以降「ニコライ・カサートキン」は、日本の守護聖人として「聖ニコライ」、「聖ニコライ大主教」等と呼ばれるようになります。

ちなみに、明治8年(1875年)、日本人初の司祭となった「澤邊 琢磨」ですが、元は、上記の通り、土佐藩攘夷論者です。

剣の腕前も相当なもので、江戸滞在中は、当時、「江戸三大道場」と言われていた「鏡心明智流桃井道場」の師範代を務めるほどだったと伝わっています。


その後、江戸で不始末を犯してしまい、その結果、龍馬や半平太の助けで江戸を脱出し、逃避行中に「日本郵便制度の父」と呼ばれている「前島 密」に遭い、前島の勧めで、函館に逃げたとも伝わっています。

函館でも道場を開いたのですが、元々、攘夷論者だったので、当時、ロシア正教の司教で函館に居た「聖ニコライ」を暗殺(天誅)しようと乗り込んだのですが、逆に説教されて、そのまま弟子になったと言う、面白い話も伝わっています。「ヨーダ」みたいです。

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その後、時は流れ戦後ですが・・・「日本ハリストス正教会」は、ロシア(当時はソ連)とアメリカと言う、超大国の冷戦に巻き込まれてしまい、とても複雑な状況に陥ってしまったようです。


元々、「日本ハリストス正教会」は、明治3年(1870年)、「聖ニコライ」からの請願を受け、「ロシア正教会」の宗務院から、「日本宣教団(日本正教伝道会社)」として認可された事から、正式な組織としての歩みを始めています。

その後、1917年、ロシア革命によりロシア帝国は崩壊し、「ソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)」が発足しますが、この「ソ連」は「無神論」を標榜したため、「ロシア正教会」に対する激しい弾圧が始まり、事実上、ロシアにおいては「ロシア正教会」も壊滅状態となります。

そして、戦後は、日本を占領したアメリカの「GHQ(General Head Quarters)」から、「モスクワ総主教庁」ではなく、後の「アメリカ正教会」となる「北米メトロポリア」配下となるように命令されます。

このため、一時期の「日本宣教団」の内部は、ロシア派とアメリカ派に分裂してしまったようですが、これは日本に限った話ではなく、「ロシア正教会」と関わりのあった全世界の正教会の問題だったようです。

ところが、その後、前にも記載しましたが、昭和45年(1970年)に、次のような動きがありました。

・「北米メトロポリア」が「モスクワ総主教庁」との関係を修復して独立正教会アメリカ正教会」となる
・「日本宣教団」も自治教会となり、「日本宣教団」から「日本ハリストス正教会」となる
・「ニコライ大主教」が、叙聖されて亜使徒「聖ニコライ」となる

その後は、平成3年(1991年)のソ連崩壊を経て、「ロシア正教会」との関係も正常化し、平成12年(2000年)には、史上初めて、モスクワ総主教「アレクシイ2世」が来日する等、良好な関係を築いているようです。

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なお、「正教会」の種類は、大きく次の3種類があり、それぞれ微妙な関係にあるようです。

1.古代総主教庁(最も格式が高い独立正教会)
(1)コンスタンディヌーポリ教会
(2)アレクサンドリア教会
(3)アンティオキア教会
(4)エルサレム教会
2.独立正教会(その最高位の主教がより上位の主教に対して報告を行わない教会形態→11教会)
(1)ロシア正教会 (1589年承認)
(2)セルビア正教会 (1219年承認)
(3)ルーマニア正教会(1925年承認)
(4)ブルガリア正教会(927年承認)
(5)ジョージア正教会(466年承認)
その他、6教会
3.自治正教会(大主教/府主教である首座主教を戴き、首座主教は母教会の総主教から承認を得るが他の点においては自律する教会形態)
(1)コンスタンディヌーポリ教会系:フィンランド正教会、等
(2)エルサレム教会系:シナイ山正教会
(3)モスクワ総主教系:日本ハリストス正教会、等
(4)セルビア正教会系:正統オフリド大主教
4.自主管理教会(ロシア正教会配下で管理されている教会)

正教会」の組織としては、「独立教会」と「自治教会」の2つと考えて良いと思います。また、各教会は、他の教会から承認される必要があるようで、これら全ての教会が、全て相互に承認されているのかと言うと、そうでも無いようです。

日本ハリストス正教会」は、「ロシア正教会」内の「モスクワ総主教」指導下ですので、当然、「モスクワ総主教庁」からは承認されていますし、一時、指導下にあった「アメリカ正教会」からも承認されています。

しかし、「コンスタンディヌーポリ総主教庁」は、何故か承認していません。「教会」の存在自体は認めているそうですが、「自治教会」としての立場を認めていないようです。う〜ん・・・何か微妙な関係のようです。

但し、承認していないからと言って、一切交流がないのかと言うと、それは別物で、日本の「府主教」等は、何度も「コンスタンディヌーポリ総主教庁」を訪問しているようですし、その他の教会とも盛んに交流しているようです。

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■ニコライ聖堂とは


左の建物が、御茶ノ水にある「ニコライ聖堂」、正式名称は (Holy Resurrection Cathedral in Tokyo)」の創建当時の姿です。

現在の「東京復活大聖堂」は、関東大震災後に再建された物なので、鐘楼が低くなる等、創建当初とは外観が一部異なっているそうです。

当時は、ロシア革命後の資金難から、愛媛県松山市の聖堂を解体して移築する等、かなり苦労して再建にこぎ着けたようです。

正教会」に関しては、前述の通り、函館にあったロシア領事館(実行寺境内)内に、「祭祀堂」と呼ばれた祈祷所を建築した事から、日本における「正教会」の歴史が始まります。

そして肝心の「東京復活大聖堂」ですが、「聖ニコライ(当時は主教)」の努力により、明治17年(1884年)に起工し、次のような人達が設計/工事に関わり、7年後となる明治24年(1891年)に竣工しましたが、建築が始まった当初から「ニコライ聖堂」と呼ばれていたそうです。


・原設計 :ロシア工科大教授/建築家「ミハイル・シチュールポフ」
・実施設計 :建築家「ジョサイア・コンドル
・建築工事 :建築家「長郷 泰輔」
・工事施行 :清水組(現:清水建設)

ジョサイア・コンドル」は、イギリス人なのですが、明治期の日本の建築物に、多大な影響を与えた人物として非常に有名です。


彼が設計に関わった建築物としては、震災や戦争で無くなってしまったものが多数ありますが、次のような建築物です。

→ 東京帝室博物館、宮内省鹿鳴館、有栖川邸、東大法文経教室、海軍省、三菱一号〜三号館、岩崎久弥茅町本邸、岩崎弥之助家廟、綱町三井倶楽部

このように多くの有名な建築物を建てると共に、現:東大工学部の教授として、「辰野金吾」等、日本人建築家の育成にも尽力しています。

ジョサイア・コンドル」の弟子、「辰野 金吾」が設計した建築物としては、「東京駅」、「日本銀行本店」等、有名な建築物が沢山残っており、盛岡市にも、盛岡市出身の「葛西萬司」と共同で設立した「辰野葛西事務所」が設計した「岩手銀行本店」が現在でも残っています。

また、日本人女性と結婚し、画家「河鍋暁斎」にも師事して、日本画を学び、日本舞踊や華道等、日本文化を愛した人物で、大正9年(1920年)、麻生にあった自宅において、67歳で死去しています。

ところで、大聖堂の建設に当たっては、一時期、初の日本人司祭「澤邊 琢磨」が建設に反対したり、建築場所が、皇居を見下ろす場所と言う事で、右翼の攻撃対象になったりと、スッタモンダはあったようですが、ともかく無事に出来上がったそうです。

そして、同年3月に、正教会の「成聖式」と言う儀式が執り行われ、建物が「聖堂」になったそうです。

「ニコライ聖堂」の建築費は、当時の金額で「24万円」と伝えられており、大部分がロシアの正教会からの寄付で賄われたとの事です。


建築費「24万円」は、現在の金額にすると幾らになるのかが気になる点ですが、同時期に建設された「鹿鳴館」が、「18万円」で、それが「40億円」と言われていますので・・・簡単に計算すると「約88億円」位だと思われます。凄い金額ですね。

その後は、前述の通り、関東大震災で大被害を被ったのですが、信徒等からの寄付を集めて、一部外観を変更して現在の形に修復されたとのことです。

また、第二次大戦中の東京大空襲では、奇跡的に被害を受けなかったのですが、そのため遺体安置所となったようです。

第二次大戦後の「米ソ間」の問題に関しては、前章でも説明しましたが、戦後は、土地利用に関しても、日本政府や教団の内部分裂による裁判沙汰があったようです。

この件に関しては、次章で紹介したいと思います。

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■「正教会」の内部分裂


明治41年(1908年)、ロシア正教会宗務院から、「聖ニコライ」の後任主教として、当時まだ37歳だった「セルギイ・チホミーロフ」が派遣され、明治45年(1912年)の「聖ニコライ」没後は、「日本宣教団」の主教となりました。

当時は、「日露戦争(1904〜1905年)」の後始末の時代だったので、ロシア側の代理人の様な形で、日本側が獲得した領土返還等の仕事も行っていたようです。

しかし、その後、大正6年(1917年)に「ロシア革命」が勃発したことにより、教会の財政事情が一変してしまったようです。

当時は、教会運営費の大部分をロシア正教会からの援助で賄っていたそうですが、ロシア帝国の崩壊により、一切援助が無くなってしまいましたので、伝道師等、教会関係者のリストらで、何とか教会だけは維持したようです。

ところが、今度は、大正12年(1923年)、関東大震災が発生し、「ニコライ堂」も半壊してしまったそうです。まさに「泣きっ面に蜂」状態です。

しかし、このような悲惨な状況でも「セルギイ主教」は諦めず、多額の寄付を集めて、何とか「ニコライ堂」の再建を果たしたそうですが、この成果が本国に認められ、昭和6年(1931年)に、「府主教」に昇叙したそうです。

このように忙しく働いてきた「セルギイ府主教」ですが、昭和15年(1940年)に発布された「宗教団体法」により、「日本宣教団」の団長の座を追放されてしまいます。

「宗教団体法」により、外国人は宗教団体の長にはなれない事となってしまったので、その後任として「ニコライ小野帰一主教」が選ばれました。

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ロシア革命」後、東欧諸国では、「在外ロシア正教会」が組織され、また共産主義への反発から、「ソ連公認」となった当時の「ロシア正教」への風当たりが強くなっていました。

また、日本にもロシアから大量の亡命者が来ており、それら「亡命ロシア人」社会においても、当時の「ロシア正教会」は、非難の的となっていました。

それにも関わらず、「セルギイ府主教」は、母教会となる「ロシア正教会」から送られてくる、検閲後の連絡を「鵜呑み」にしてしまい、「日本宣教団」内部も、分裂寸前の状態だったようです。

さらに、日本国内では、軍国主義国家主義が台頭し始め、日本人首長を求める声も高くなってきていました。

そのような状況の時に、「宗教団体法」が発布されたので、「セルギイ府主教」は、アッという間に解任されてしまったようです。

ちなみに、「セルギイ府主教」は、昭和20年(1945年)、終戦の5日前に「特高(特別高等警察)」に連行され、74歳と高齢の上、病気を患っていたのに拷問を受けたことが原因の心臓麻痺で亡くなってしまったそうです。

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そして戦後、GHQの命令の下、「日本宣教団」は、アメリカの「メトロポリア正教会」の指導下に入ったのですが、それに対して反旗を翻したロシア派との間の分裂が深刻になって行ったようです。

終戦の翌年となる昭和21年(1946年)、「モスクワ総主教庁」は、2名の主教を日本に派遣しましたが、GHQは入国を許可せず、逆に、「メトロポリア正教会」に対して、主教を派遣するよう依頼したそうです。

この一件で、ロシア派が遂に「切れ」てしまい、同年、「正統正教会」と言う組織を作り、「日本宣教団」から離脱してしまったようです。

そして、さらに昭和32年(1957年)、ロシア正教会宗務院は、「正統正教会」を、日本における正式な「正教会」であると決定すると同時に、「正統正教会」が、「聖ニコライ」が創設した「日本宣教団」の後継教会であるとの決議も行ったそうです。

もう、こうなると「正教会の内戦」ですが、このような動きは、キリスト教を始め、全ての宗教で起きていますから、別に珍しい出来事は無いと思います。

「三人集まれば派閥が出来る」と言われていますので、逆に、正教会が成長して行く上では、必要な事だったのかもしれません。

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その後も、正教会同士の「内輪もめ」は続き、昭和43年(1968年)、当時の「正統正教会」の三代目団長だった「ニコライ佐山主教」が、「ニコライ聖堂」を「正統正教会」側に取り戻そうと試みて、当時の「メトロポリア正教会」から派遣されていた「ヴラジミル・ナゴスキー主教」を相手に裁判を起こしたようです。

この裁判を、「正統正教会」側では、「ニコライ堂取戻裁判」と呼んでいるようですが、翌年となる昭和44年(1969年)2月、「正統正教会」側の訴えが認められ、「ニコライ聖堂」は、「正統正教会」のものとして登記されたようです。

ところが、前述の通り、昭和45年(1970年)、ロシア正教会アメリカ正教会の和解が成立するに伴い、「正統正教会」は、「ポドウォリエ」と言う立場に追いやられてしまったようです。

「ポドウォリエ」とは、日本語的には、「ロシア正教会モスクワ総主教庁駐日代表部教会」と言う意味になり、簡単に言うと「モスクワ総主教庁の日本出張所」、あるいは「モスクワ総主教庁日本大使館」みたいな感じになるかと思います。

これら一連の動きにより、結局、下記の通りとなり、現在に至っているようです。

・「正統正教会」は解散して宗教法人「ロシア正教会モスクワ総主教庁駐日ポドウォリエ」となる
・「日本宣教団」は宗教法人「日本ハリストス正教会教団」となる(通称:日本正教会)
・「ニコライ聖堂」は、宗教法人「日本ハリストス正教会教団」の所有物となる

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また戦後の駿河台の土地問題に関しては、「聖ニコライ」が駿河台に購入した土地は、「戸田伯爵邸」跡地で、その場所を日本人名義で購入し、かつロシア公司館の付属地と言う条件を付けていたことが問題になったようです。

このため、関東財務局の役人に働きかけて「土地の払い下げ」を受け、すぐにその一部分300坪を日本大学に売却する事で、問題を解決したそうです。

さらに、「ニコライ聖堂」の土地に関しては、ロシア革命の影響で資金難に陥った時にも、土地の切り売りをして、教会運営資金を調達したようです。

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■東日本における正教会


日本における「正教会」の布教の歴史は、これまでの説明の通り、慶応四年、函館(当時は「箱館」)において、「聖ニコライ」が、三名の日本人に対して、洗礼を行った事から始まりました。

これら最初の三名は、布教のため東北に派遣されますが、さらにその後も「旧伊達藩」や「旧南部藩」の藩士を中心に、正教会に入信した信徒達が、布教のために東北各地に派遣される事になったようです。

東北地方の布教の中心地は「仙台市」で、これら伝教者達は、ほとんどが「草の根」の活動を行ったので、余り表立った活動は残されていないようです。

宮城県に派遣された伝教者の中では、旧仙台藩士で、明治4年(1871年)に、「聖ニコライ」から洗礼を受けた「小野荘五郎(イオアン小野)」と言う人物が、かなり活躍した記録が残っているようです。

また、この人物の子孫も、現在、ロシア正教会に留学しており(2014年時点)、「修道輔祭」として活躍しているとの情報も見受けられます。

仙台での布教活動には、上記「小野荘五郎」が頑張ったようですが、明治5年には、邪教とされて、たまたま支援に訪れていた「澤邊 琢磨」共々、約120人の信徒が逮捕/投獄、禁足等となったようです。


また、最初に洗礼を受けた日本人三名の一人である「浦野大蔵(イアコフ浦野)」は、岩手県宮古市金沢村に、布教のため密かに派遣されたようですが・・・彼は、何故か途中から「曹洞宗」に改宗してしまったようです。

「聖ニコライ」は、明治12年(1879年)と明治26年(1893年)の2回、東北巡回を行っており、2回目の巡回の時には、宮古の「浦野大蔵」を訪ねた事が日記に記録されていたようです。

宮古へあと一里半の金浜村(40戸)でイヤコフ浦野の家に立ち寄った。浦野は村へ入るずっと前まで出迎えに来てくれた。浦野は、時間の順でいえば日本のキリスト教の3番目の信者である。彼は沢辺、故酒井と一緒に洗礼を受けた。…(中略)…しかし、浦野の宗教的感情を呼び戻そうと努力したが、全く関心を示さない。彼の家には7人の子供と妻がいる。彼自身は今53歳。家は自分のもので、医業によって暮らしているという。壁には聖使徒イヤコフのすばらしいイコンが、まるでただの絵のようにかかっている。これはA・P・トルストイ伯爵の寄贈して下さったイコンで、私が1871年にロシアから持ってきたものだ。 』

「聖ニコライ」は、「浦野大蔵」の事を、常に心配していたのだと思いますが、彼の心情は「郷に入っては郷に従え」だったらしく、また医師として宮古の人達から尊敬されていた事もあり、仏教に改宗したのだと思われます。

ちなみに、「浦野大蔵」の事を、宮古市出身の南部藩士と紹介している記述がありますが、どうやら、それは間違いで、石川県狼煙村出身で、天保十二年(1841年)、医師「浦野柳齊」の次男として生まれたと言う記録があるようです。

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ここまで「正教会」の事を紹介してきて、岩手県の出身者が一人も出てこないのは情けないので、一人だけ「三井 道郎」と言う人物を紹介します。

この人物は、安政五年(1858年)、盛岡市加賀野の南部藩士の家に生まれたのですが、その後、明治7年(1874年)には洗礼を受けて「シメオン三井」となったそうです。

また、この時には、盛岡から、他にも8名が同行しており、皆、正教会に入信したようです。

翌年には、「正教神学校」に入学し、卒業後はロシアの「キエフ神学校」に留学。帰国後は、「正教神学校」教授、「京都正教女学校」校長、「京都帝国大学ロシア語」教師、「正教神学校」校長等を歴任する傍ら、明治29年(1896年)には、「長司祭」に昇叙し、最後は「日本正教会総務局長」にも就任する等の活躍をしたようです。

さらに、「大津事件」で有名な、当時「ロシア皇太子ニコライ(後のニコライ2世)」が来日した際には、通訳にも従事したそうです。

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「盛岡」次いでに紹介すると、最初の洗礼者の一人「酒井 篤礼(イオアン酒井)」は、「宮城県栗原市金成」出身だったので、地元に戻り布教活動を行ったのですが、彼は2年間も投獄されたり、金成ハリストス正教会を設立したのですが、教会の焼き討ちに遭ったりと、かなり悲惨な布教活動だったようです。

その後、晩年は、「盛岡ハリストス正教会」に司祭として着任し、明治14年(1882年)、盛岡の地で永眠されたようです。

ちなみに、「酒井 篤礼(イオアン酒井)」は、「川股篤礼(とくれい)」とも呼ばれています。どちらが本名なのか解りませんが、生まれたのは「川股家」と伝わっていますので、生後、何らかの事情で名前を変えたのだと思われます。

なお、「金成ハリストス正教会」は、今でも「川股家」が運営しているようです。

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ところで、「東方正教の地域的展開と移行期の人間像(山下須美礼著)/清文堂出版」によると、日本ハリストス正教会は、明治11年(1878年)の段階で、旧仙台藩領で1,600名以上となり、翌年には、旧仙台藩領に旧盛岡藩領を加えると2,000人を超す信徒数になっていたと推測しています。

明治11年と言えば、明治元年に函館で、日本人三名に洗礼を行ってから、11年しか経過していません。

同時期に、例えば、弘前アメリカ人宣教師から洗礼を受けた人の数は29名、洗礼希望者を合わせても45名程度なので、いかに、東北地方で、正教会が受け入れられたのか解るかと思います。

これは、カトリックは西から、正教会は東から布教が始まった事に原因があるとされていますし、元々、西日本には、安土桃山時代に、キリスト教に関わった歴史があるので、どうしても、このような状況になってしまうのだと思われます。

その一方、青森県秋田県においては、それほど信者数を増やすことは出来なかったようです。

特に青森県においては、現在の八戸市近辺は、以前は南部藩領だった関係で、当初、正教会の信徒も増えたようです。

しかし、旧弘前藩の藩校「東奥義塾」に、プロテスタントの宣教師が赴任したことから、正教会よりもプロテスタント系のメソジスト派が拡がってしまったそうです。


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ちなみに、「盛岡ハリストス正教会」で初めて洗礼が行われたのは明治7年(1874年)となっていますが、これも、日本初の洗礼から7年しか経過していない時期です。

この年には、4月に4名、7月に17名で、計21名が洗礼を受けていますし、翌年には、なんと73名もが洗礼を受けた事が記録されています。

盛岡での布教は、明治6年(1873年)、「聖ニコライ」から函館において洗礼を受けた「大立目(おおだつめ)謙吾」が布教しに来たのが始まりとされています。

その後は、盛岡市加賀野にあった武家屋敷を買い取り、その場所を「会堂」として使用し始めたそうで、当時は「十字会」と呼んでいたそうです。

このため、現在の「盛岡ハリストス正教会」の聖堂も、昔のまま「十字架挙栄聖堂」と呼ばれているのだそうです。

それ以降は、盛岡を中心に、青森県秋田県への布教を行ったのですが、明治37年(1904年)の「日露戦争」、大正6年(1917年)のロシア革命と、正教会にとってはツラい出来事が重なり、さらに昭和16年(1941年)からの太平洋戦争期間中は、日本国内においても弾圧/迫害等、苦難の道を歩む事になったようです。

しかし、この間も、前述の「イオアン酒井」等、途切れる事無く司祭が着任し、戦後となる昭和35年(1960年)、現在の場所に教会が建設されたそうです。本当に、信仰の力は強し、と言った所だと思います。

それと、盛岡に関係する信徒には、次のような有名な方々がいるようです。

・三井 道郎(シメオン三井) :(前述の神品教役者) 日本正教会総務局長
・楢山 隆薫(ステファン楢山) :南部藩家老職の家系
・新渡戸 仙岳(ペトル新渡戸) :教師、後に岩手日報主筆。教え子には米内光政、金田一京助石川啄木
須川 長之助(ダニイル須川) :植物学者
・アレキサンドル見坊田逈雄 :盛岡市

また、「盛岡ハリストス正教会」には、日本人初のイコン画家「山下りん」のイコンが10数点所蔵していることでも有名なのだそうです。


ちなみに、盛岡に最初に布教に訪れた「大立目 謙吾」ですが、もちろん正教会の伝教者としても有名なのですが、それ以上に「自由民権運動」の方で頭角を現したようです。

明治14年(1881年)に、あの「板垣退助」が自由党を立ち上げたのですが、時を同じくして、宮城県から「大立目 謙吾」が参加しています。

その後も、「大立目 謙吾」は、東北各地の自由党の結成を組織して行きますが、この「大立目 謙吾」の活躍もあり、東北の正教会の信徒には、「自由民権運動」に関わった信徒が大勢いることが記録されており、当時は、「正教会自由民権運動」みたいな事になっていたようです。

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■日本におけるイコン


日本における「イコン」としては、前述の通り、「山下りん(イリナ山下)」と言う女性が、日本人初のイコン画家として、その筋では、かなり有名な方らしいです。

山下りん(里舞)」さんの略歴を簡単に紹介します。

安政四年(1857年) :現在の茨城県笠間市の武士の家に生まれる
明治8年(1875年) :西洋画家「中丸精十郎」に師事
明治10年(1877年) :工部美術学校に入学(日本初の美術教育機関) → 明治13年退学
明治13年(1880年) :正教会に改宗し、ロシアに聖像画家を目指して留学
明治16年(1883年) :帰国、日本宣教団の女子神学校にアトリエを構える
明治24年(1891年):後にニコライ堂にもイコンを描くも震災で焼失
大正7年(1918年):故郷の笠間市に帰り、昭和14年、満81歳で没



記録では、非常に地味な方だったらしく、留学した事を誰にも話さず、ロシアで購入したドレス等も、帰国後は一度も着用せず、常に木綿の着物を着用していたと伝わっています。

また、周囲とは没交渉で、アトリエで絵を描く姿を、誰も見たことがなかったそうです。外界との接触を絶ち、常に、イコンを描き続けたと伝わっています。

彼女は、「ラファエロ」等、ルネッサンス様式でイコンを描きたかったようですが、当時留学したロシアでは、伝統的なビザンティン様式を踏襲した、人間味の無い、平面的なイコンしか描けなかったみたいで、当初5年間を予定していた留学を2年で切り上げ、失意のまま帰国してしまったようです。

このため、彼女が描いたイコンは、当ブログでも何点か紹介しているイコンとは全く別物、彼女の理想としたラファエロ風のイコンになっています。

作品は、前述の通り、震災や戦災等で焼失してしまった物もあるようですが、関東や東北を中心に、300数点の作品を描いたと言われています。

また、周囲との関わりが薄いので、ロシアにおいても、どこに留学したのかが長年分からなかったようですが、近年、その留学先が「聖ペテルブルグ復活女子大聖堂(通称:ノヴォデーヴィチ女子修道院)」であった事が、調査の末に判明したそうです。

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「イコン」に関しては、前回の「その1」における「正教会の形」において、その重要性や正統性などを紹介しました。

その他にも、「イコン」には、様々な決まりがありますので、今回も少し追加で紹介します。

・イコンは、対象物を立体的に描いてはいけない。平面的に描く必要がある。
・イコンは、信仰の媒体となるので、描かれた対象に対して祈りや口づけを行う。
・イコン、その物を信仰してはいけない。
イコン画家は、イコンに「著名/サイン」をしてはいけない

それでは、「山下りん」の作品を少し紹介します。

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エルミタージュ美術館所蔵「ハリストスの復活」1891年

当時のロシア皇太子「ニコライ」が来日した際に送られた作品で、現在は、エルミタージュ美術館が所蔵しています。




●金成ハリストス正教会所蔵「至聖生神女

この構図は、彼女のお気に入りだったようで、この教会以外でも、数多くの「至聖生神女」を描いています。

従来のイコンとは全く異なる、まさに「ラファエロ風のイコン」だと思います。




山下りん記念館所蔵「ウラジミールの聖母」模写

このイコンは、「過去ブログ:その1」において、「正教会の形」の章で紹介した有名なイコンで、トレチャコフ美術館所蔵「ウラジミールの生神女」の模写となります。

しかし・・・模写と言いつつ、もう全くの別物です。「絵」自体も、板ではなく、ちゃんとしたキャンバスに描かれています。





●小樽ハリストス正教会所蔵「救世主」

イコンと言えば「イイスス・ハリストス」ですよね。

こちらは、小樽ハリストス正教会にある「イイスス・ハリストス」像ですが、この構図のイコンも数多く手掛けています。

日本各地のハリストス正教会に、同じような構図のイコンが残されています。


山下りん」のイコンは、北海道/東北地方に数多く残されており、太平洋側の正教会に残っていたイコンは、東日本大震災でも被害を被ったと聞いています。

しかし、それでも数百枚が残っていますので、とても全ては紹介できません。

私も、かつてNHK日曜美術館」や、テレビ東京美の巨人たち」等のTV番組で、「山下りん」の作品を見た覚えがありますが・・・こうして改めて見てみると、凄い印象的なイコンと言う事が解りました。

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今回は、「正教会」特集の第二弾として、次のような内容を紹介しましたが、如何でしたか ?

●日本における正教会
●ニコライ聖堂とは
正教会の内部分裂
●東日本における正教会
●日本におけるイコン

以前の過去ブログ「民間信仰シリーズ」で、東北地方、旧南部藩領から旧伊達藩領になる、岩手県遠野市から一関市近辺には、「隠れキリシタン」が数多く潜んでおり、「東北の島原」と呼ばれる程、300人以上のキリシタンが殉教した歴史がある事を紹介しました。

★過去ブログ:岩手の民間信仰 〜 聞いた事も無い信仰ばかり Vol.5(20160521.html)

このため、本ブログを書くに当たり、「本当に正教会の信徒が多いの ?」と疑問に思ったのですが、本当に正教会の信徒が多い事に驚きました。

いくら、北から伝道が始まったとは言え、これほど短期間に多くの人が「正教会」に改宗したのには、何か特別の理由があると思います。

そのキーワードは、「武士層」と「自由民権運動」ではないかと私は推測しています。

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正教会」が伝わった時代の東北地方は、関西人により構成された「新政府」に蹂躙され尽くし、身も心もボロボロの状態だったと思います。

そのような時に、「新政府」に反旗を翻す「自由民権運動」は、生きる糧になったのではないかと思います。

そして、この「自由民権運動」を勧めたのが、「正教会」に改宗した「旧・武士層」だったと思いますので、これぞ「戊辰戦争の復讐だ!」とばかりに、「自由民権運動」と「正教会」にのめり込んだのではないかと思われます。

正教会」としては、グッド・タイミングだったと思います。まあ、勝手な推測ですが・・・

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それと、特に、「山下りん」のイコンには、改めて興味を抱きました。

多くのイコンが、美術館ではなく、現在も教会にありますので、実物を見るのは難しいかもしれませんが、機会があれば、見に行きたいと思います。

皆さんも、もしも絵画に興味があるなら、一度、実物を見た方が良いと思います。

お解りだとは思いますが、写真やTVで見る絵画と、実物の絵画は、全く別物です。

写真やTVでは、絵の具の盛り上がり具合や、いくら画質が「4K」や「8K」になったとしても、本当の色合いが伝わりません。是非、本物をご覧下さい。

それでは次回も宜しくお願いします。

以上


【画像・情報提供先】
Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)
日本正教会(http://www.orthodoxjapan.jp/)
・縄文と古代文明を探求しよう(http://web.joumon.jp.net/blog/)
ロシア正教会駐日ポドヴォリエ(http://www.sam.hi-ho.ne.jp/podvorie/general/jp/history.htm)
・戸崎将宏の行政経営百夜百冊(http://blog.livedoor.jp/pm100satsu/)
・浦野家の歴史と系譜(http://www.geocities.jp/kirche_7/index.htm)
山下りん記念館(http://www010.upp.so-net.ne.jp/yamashita-rin/)
山下りん研究会(http://web.archive.org/web/20070929122232/http://www.mars.dti.ne.jp/~machi/toppage.html)



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