岩手県内の火防祭り 〜 検索トップだけどマイナーな祭り


今回の「岩手・盛岡情報」は、岩手県内で開催されている「火防(ひぶせ)祭り」を紹介したいと思います。と言っても、皆さん、「火防祭り」ってご存知ですか ?

「火防祭り」と言うキーワードで検索すると、必ずトップに表示される「火防祭り」に、岩手県奥州市で江戸時代から続いている「日高火防祭」があります。

上の画像が、この奥州市で開催され続けている「日高火防祭り」の模様ですが、岩手県内では、この「日高火防祭り」を始めとして、数カ所、それも、何故か奥州市近辺で「火防祭り」が開催されています。

全国的にもマイナーな祭事なので、1箇所で、何件もの「火防祭り」が行われるのは珍しいのでは無いかと思います。

一般には、「火防祭り」、または「鎮火祭」、あるいは「火まつり」等と呼ばれ、火事や火災除けの神事やお祭りですが・・・全国的に見ると、現在では、イマイチ、マイナーな行事になってしまっているようです。

そこで、今回は、岩手県内で開催されている「火防祭り」を紹介しようと思うのですが、その前に、「火防祭り」に関する「前説」を行いたいと思います。

「前説」としては、まず、次の通り、日本における大火の歴史をざっと紹介し、次に、「火防の神様」の紹介をしたいと思います。

●日本における大火の歴史
●日本における火防の神様
愛宕神社について
秋葉神社について

特に「秋葉神社」ですが、・・・元々「秋葉大権現」を祀っていた寺社なのですが、これが、なかなか複雑な寺社だったようで、説明が長くなってしまいました。

この神社を紹介するだけで、軽くブログ1回分位のボリュームになってしまいますので、今回は、少し内容を省略させて頂きました。

また、この「秋葉神社」は、知っている方は知っていると思いますが、その昔は「日本一の電気街」として有名だったのですが、現在は「オタクの聖地化」してしまった「秋葉原」の地名の由来ともなった神社です。

今回は、その辺りの事情も、軽く紹介します。

それでは今回も宜しくお願いします。

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■日本における大火の歴史

昨年末に、新潟県糸魚川市で大火がありましたし、私の年代では、昭和51年(1976年)の10月に発生した「酒井大火」を思い出す方も多いのではないでしょうか ?

糸魚川大火では、144棟が被害に遭い、約40,000㎡が焼損しましたが、酒井大火では、消防士1名が殉職、1,774棟が損害を受け、225,000㎡が焼失すると言う、とんでもない被害でした。これは、戦後4番目の大火被害となっています。

糸魚川市の大火は、幸いにも死亡した方はゼロでしたが、自宅を無くされた方も大勢いらっしゃいます。被害に遭われた皆様には、心よりお見舞い申し上げますと共に、 皆さまの安全と、被災地の一日も早い復興を心からお祈り申し上げます。

ちなみに、戦後の4大「大火」としては、地震による火災を除けば、次の大火が記録されているようです。

項番 名称 発生日 延焼面積 被害家屋 死者/行方不明
1番目 鳥取大火(鳥取県) 昭和27年(1952年) 1,600,000㎡ 5,228棟 3名
2番目 飯田大火(長野県) 昭和22年(1947年) 600,000㎡ 3,742棟 3名
3番目 岩内大火(北海道) 昭和29年(1954年) 1,057,851㎡ 3,298棟 38名
4番目 酒井大火(山形県) 昭和51年(1976年) 225,000㎡ 1,774棟 1名

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また、消防庁では、毎年の火災発生件数をホームページで公表しており、現在では、平成11年(1999年)からの概要が掲載されています。ちなみに、過去5年の火災件数は、次の通りです。

項番 年号 火災発生件数 死亡者 負傷者
1 平成23年(2011年) 50,006件 1,766人 7,286人
2 平成24年(2012年) 44,189件 1,721人 6,826人
3 平成25年(2013年) 48,095件 1,625人 6,858人
4 平成26年(2014年) 43,741件 1,678人 6,560人
5 平成27年(2015年) 31,111件 1,563人 6,309人

火災発生件数は、平均すると「約43,000件」程度、死亡した方は「約1,671名」、負傷した方は「約6,700名」程度となっているようです。

また、日本と他の先進国の火災の発生状況を、過去比較したデータも掲載されており、人口1万人当たりの出火率を見ると、イギリスは日本の「20.7倍」、アメリカは「15倍」となっているようですが、これは、国民性や火災の把握状況の違いも影響しているそうです。

日本人は、何故か、火災を起こす事を「恥」と考える国民のようで、小規模の火災で、自分で消火出来た火災に関しては、消防庁に報告が上がらないので、数字が少なめになっているのではないか、と考えられているようです。

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さらに、今回紹介する「火防祭り」に関しては、江戸時代に発生した「明暦の大火」が関係している、とも伝えられています。

この「明暦の大火」は、江戸時代初期の明暦三年(1657年)1月18日(旧暦)に発生し、その後も2日間、1月20日まで燃え続けた、江戸時代最大の火災で、別名「振袖火事」とか「丸山火事」とも呼ばれています。

そして、この「明暦の大火」の被害は甚大で、江戸城の外堀内のほぼ全て、天守閣を含む多数の大名屋敷を焼失していますし、外堀の外、つまり江戸の市街地も、その大半を焼失しています。

死者数は、余りにも多くの人が死んでしまったので、3万人とも10万人とも伝えられていますが・・・要は死亡者の計測が出来ないので死者数不明のようです。

「明暦の大火」に別名が付いているのは、その火災の発生原因に因んでおり、それぞれ、次のような事が原因とされています。

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【 振袖火事 】
麻布の質屋「遠州屋」の娘「梅乃」が、本郷丸山「本妙寺」に墓参に行った際、寺の小姓と思われる美少年に一目惚れしてしまう。しかし、誰とも解らないので、その内、恋煩いに掛り寝込んでしまう。それを不憫に思った両親は、美少年が着ていた着物と同じ柄の振袖を作って娘に与えるが、病気は悪化して最後は死んでしまう。娘の葬儀の際、娘のために作った振袖を、別の女性に与えた所、今度は、この女性も病で亡くなってしまった。そして、この振袖は、また別の女性に渡るが、この振袖を来た女性が、ことごとく死んでしまうので、女性の葬儀の時に、一緒に振袖も焼き払おうとした所、急に一陣の風が吹き、振袖に火が付き「本妙寺」の屋根に燃え広がり、ついには江戸中に火災が広がってしまった。

【 幕府陰謀説 】
当時の江戸は、人口の急増に、行政が着いていけない状況となっており、治安や衛生状態が悪化し、都市機能が限界に達していたようです。その頃は、火災を契機にして都市改造を行う事がよくあったそうで、この「明暦の大火」も、当初、都市改造を行うために、幕府が放火した事が原因と考えられていたそうです。事実、この火災の火元は、老中「阿部忠秋」の屋敷だったのですが、思いの外、火災が広がりすぎ、江戸城天守閣まで延焼してしまったので、幕府は権威の失墜を恐れ、火元を、阿部屋敷の隣「本妙寺」にしたとされています。その根拠として、火災を起こした「本妙寺」は、その後も取り潰される事もなかったばかりか、元の場所に再建を許されると共に、再建後は、以前より規模が大きくなった上に、大正時代になるまで、阿部家から、毎年多額の供養料が支払われていたそうです。

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この「明暦の大火」は、東京大空襲関東大震災を除けば、国内最大の火災災害となっています。

さらに、この火災は、日本国内最大の火災のみならず、ロンドン大火(1666年)、およびローマ大火(64年)と合わせて、世界三大大火と呼ぶ人もいるようです。

ちなみに、江戸時代には、「明暦の大火(1657年)」以外にも、「明和の大火(1772年)」、および「文化の大火(1806年)」が発生しており、これら三つの大火を合わせて「江戸三大大火」とも呼ばれています。

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■日本における火防の神様


このように、日本では、昔から火災の被害が後を絶たないので、前述の「火防せ」や「鎮火」、「防火」の神様が大切にされ、また関連する神社では、防火の神事が多数行われてきました。

日本における「火防」の神様としては、「神産み伝説」において、「伊邪那岐命(いざなぎ-の-みこと)」と「伊邪那美命(いざなみ-の-みこと)」との間に生まれた「火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)」と言う神様が有名です。

火之迦具土神」は、名前の通り「火の神様」だったので、出産時に、「伊邪那美命」が陰部を火傷(やけど)してしまい、この火傷がもとで、死んでしまいます。

そして、その後、妻が死んでしまった事に激怒した「伊邪那岐命」により、斬り殺されてしまうのですが、その血や死体からも沢山の神様が生まれた事になっています。

その中でも、「建御雷神(たけみかずち-の-かみ)」は、「雷の神様」ともされていますが、「国譲り神話」において、「天照大神(あまてらす-おおかみ)」から下界に遣わされ、「大国主命(おおくにぬし-の-みこと)」と談判を行う有名な神様です。

さて、防火のために「火の神様」である「火之迦具土神」を祀る神社は、日本中に本当に沢山ありますが、その中でも有名なのは、「愛宕神社」と「秋葉神社」です。

そこで、以降で、それぞれの神社の由緒や「火防の神事」等を紹介したいと思います。

しかし、現在、これら「火の神様」を祀っているほぼ全ての神社も、元をただせば、御祭神は、「火之迦具土神」でも「伊邪那美命」でも無かったと思われます。

これは、弊社ブログで何度も紹介している明治時代の「神仏分離令」の影響で、元々は、「神仏混合」の様々な神様が御祭神だったと思われます。

そして、「神仏分離令」が施行された事により、元々の御祭神は脇に追いやられ、無理矢理、神道の神様に御祭神の地位を奪われた形になってしまったと思われます。

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愛宕神社について


神社名に「愛宕」と言う名が付く神社は、全国に1,000社以上あるようですが、総本社は、京都の「愛宕山」頂上にある「愛宕神社」となります。

そして、この「愛宕神社」から始まった民間信仰に「愛宕信仰」と言う神道の信仰があります。

この「愛宕信仰」とは、これまで説明してきた通り、「火防」の神を信仰するものとなります。

愛宕神社」の創建は、飛鳥時代となる「大宝年間(701〜704年)」と伝えられ、開祖は、修験道の祖と言われる「役行者(えんのぎょうじゃ)」と、北陸地方の「白山」を開山した、同じく修験道の僧「泰澄(たいちょう)」と伝えられています。

愛宕神社」は、最初から「神社」だった訳ではなく、開祖が、両名とも修験僧である事から、創建当初は、森羅万象を祀る「廟(びょう)」だったと伝えられています。

その後、奈良時代の「天応元年(781年)」に、奈良にあった「大安寺」の住持で、「弘法大師」の師にあたる「慶俊僧都(きょうしゅんそうず)」と「和気清麻呂(わけのきよまろ)」よって、愛宕山山頂に「愛宕権現」を祀る「白雲寺」が建立された事から「愛宕信仰」が始まりました。

それでは、「愛宕権現」は「火之迦具土神」なのかと言うと・・・実は、物事は、そう簡単ではないようです。

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この「愛宕神社」に関しては、少し話が複雑なので、もう少し詳しく説明します。

現在、「愛宕山」と呼ばれている山は、当初は「嵯峨山」と言う名前だったようです。

このため、創建当初は、当然、「愛宕神社」と言う名前ではありませんが、何と呼ばれていたのかは解らないようです。

何故、そして何時「愛宕山」と言う名前になったのかと言うと、前述の「和気清麻呂」と「慶俊僧都」が、「亀岡愛宕神社」から、「嵯峨山」に、「愛宕権現」を分霊した事が始まりとされています。

このため、「亀岡愛宕神社」の方が、当然、歴史も古く、「亀岡愛宕神社」の創建は「神代」と伝えられ、当初は、背後の「牛松山」を御神体として祀っており、神社名も「愛宕神社」ではなく「阿多古神社」と言う名称だったと、伝えられています。

その後、「阿多古神社」では、「継体天皇元年(507年)」に社殿が創建され、これに伴い、次の三体の祭神が祀られるようになったと考えられています。

火之迦具土神
伊邪那岐命
大国主命

そして、前述の通り、「天応元年(781年)」に、「和気清麻呂」と「慶俊僧都」が、「愛宕権現」を「嵯峨山に」分霊し、「愛宕山」と名前を変えたとされています。

このため、こちらの「亀岡愛宕神社」は、「元愛宕」とか「愛宕の本宮」と呼ばれています。何とも、面倒な話です。

それと、「火之迦具土神」は、通称「カグツチ」と呼ばれ、登場する場面や時代により、次のような字で表記されています。

古事記 :火之夜藝速男神、火之荽毘古神、火之迦具土神迦具土
日本書紀軻遇突智(かぐつち)、火産霊(ほむすび)、迦遇槌命

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さらに、また話は逸れますが、「権現」とは、「本地垂迹(ほんじすいじゃく)」と言う思想から使われ始めた「神号(みこと)」です。

本地垂迹」思想は、元来、日本に存在する「八百万の神々」は、様々な「仏」が、「神」の姿になって、仮に現れたものである、と言う考え方(思想)で、これは「神仏習合」思想の考え方の一種です。

「権現」の「権」とは、「仮」を意味する漢字で、まさに、「仏が神の姿で仮に現れた」事を意味しています。(例:権大納言)

この「本地垂迹説」は、前述の通り、「神仏習合」思想の一つの考え方で、主(本地)が「仏」で、従(垂迹)が「神」と言う優先順位の考え方(思想)になります。

また、逆に、主が「神」で、従が「仏」となる考え方もあり、それを、「反本地垂迹説」と言っています。

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さて、それでは、「愛宕権現」とは、どのような神仏か言うと、神としては「伊邪那岐命」、仏としては「地蔵菩薩」が習合した神仏になっています。


地蔵菩薩」は、六道を輪廻する衆愚を救う菩薩と言われて来たので、平安時代に盛んになった浄土信仰の影響もあり、地獄に堕ちないために「地蔵菩薩」を祀る「地蔵信仰」が盛んになりました。

また、親より先に世を去った子供は、功徳を積んでいないため「三途の川」を渡る事が出来ないので、賽の河原で、永遠に鬼に責められ続ける、と言われていますが、「地蔵菩薩」は、六道と同様、賽の河原も巡り、子供を救う菩薩として、「子安地蔵」としても信仰されました。


このように、「地蔵菩薩」は、自らが様々な場所を巡り、苦しむ人々を救うとされていたので、自然と「道祖神」とも習合し、村の境界や峠にも祀られる事も多くなっていきました。

さらに、鎌倉時代の元亨二年(1322年)に上程された歴史書/仏教通史「元亨釈書(げんこうしゃくしょ)」には、京都「清水寺」の開祖とされる「延鎮」が、「坂上田村麻呂」の東征に際し、「勝軍地蔵」と「毘沙門天」に戦勝祈願をしたと記載された事から、武士の間にも、「地蔵信仰」=「愛宕信仰」が拡がるようになったそうです。


一方、「火防の神」としての、現在の「愛宕神社」における「愛宕権現」ですが、当初は、前述の通り「伊邪那岐命」だけを、本殿の御祭神として祀っていたらしいのですが、その後、若宮において「迦遇槌命(かぐつちのみこと)」も祀られるようになったみたいです。

そして、現在では、本家の亀岡「愛宕神社」を差し置いて、愛宕山愛宕神社」が、「火防の神」としては有名になってしまったようで、京都の多くの方々は、左のような御札を愛宕山愛宕神社」からもらい、台所や飲食店の厨房や会社の茶室などに貼っているそうです。

ちなみに、皆さん、この御札の漢字、読めますか ? 超有名な言葉なのですが・・・これで「火迺要慎(ひのようじん)」と読みます。知っていますよね ?!

ところで、「愛宕権現」を祀っていた「白雲寺」ですが、明治の神仏分離令により、「白雲寺」は廃絶となり、現在の「愛宕神社」となり、上記「勝軍地蔵」は、「金蔵寺」に移されて現在に至っています。

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さて、この愛宕山愛宕神社」では、毎年4月24日に「鎮火祭」と言う「火防の祭り」が開催されています。

この祭事は、当然、亀岡「愛宕神社」や、全国の「愛宕神社」でも、同じ日に開催されているようですが・・・どうも、地味な祭事なので、あまり人気は無いようです。

特に、愛宕山愛宕神社」は、標高は924mと、それほど高くは無いのですが、片道4Km、往復で5時間以上も掛かる、本格的な登山が必要になるので、他の「愛宕神社」に比べると、参加者は少ないようです。


愛宕神社」では、この祭事よりも「千日詣(せんにち-まいり)」、正式には「千日通夜祭(せんにち-つうや-さい)」の方が、人気があるようです。

この祭事は、毎年、7月31日の夜21時に開催される「夕御饌祭(ゆうみけさい)」から、8月1日の早朝2時に開催される「朝御饌祭(あさみけさい)」の間の6時間の間に「愛宕神社」を参拝すると、千日分の「火伏・防火の御利益」があると伝わっていることから、数万人の参拝者が訪れるそうです。

しかし、この「千日通夜祭」も、実は、前述の「鎮火祭」が起源とされ、昔は、「専一(せんいつ)詣」と呼ばれていたそうです。


この祭事では、前述の通り、21時に「夕御饌祭」が開始し、山伏により護摩焚きが行われますが、これは1時間程度で終わるので、その後、翌日の朝2時に開催される「朝御饌祭」までの4時間は、何も祭事は行われないようです。

このため、多くの参拝者は、この4時間は、境内や境内付近で仮眠を取るようです。

そして、朝2時になると、「朝御饌祭」が始まり、「人長乃舞(にんちょうの-まい)」が奉納されます。

この舞の間に、やぐらに「火」を付け、舞が終わると、「火」を鎮火させる「鎮火神事」を行うのだそうです。

これが「愛宕神社」の「鎮火神事」となります。

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■秋葉(あきは)神社について


次は、こちらも有名な「秋葉神社」を紹介しますが、この「秋葉神社」も日本全国に沢山の分社/末社等があり、その数は約800社と言われています。

その理由は後で紹介しますが、東京にあるオタクの聖地、ちょっと前は電機店街として有名だった「秋葉原」の名前の元となった神社でもあります。

総本社は、今では「秋葉山本宮秋葉神社」と名乗り、静岡県浜松市天竜区に鎮座しています。


この「秋葉山本宮秋葉神社」は、標高866mの「秋葉山」の山頂付近にあり、前述の通り、全国にある「秋葉神社」や「秋葉寺(しょうよう-じ)」の起源となった神社となっています。

しかし、「秋葉山」の山麓にも「秋葉神社」があり、こちらを「下社」、そして山頂を「上社」とし、両社を合わせて「秋葉山本宮秋葉神社(以下、秋葉神社)」と呼んでいるようです。

現在の御祭神は、「火之迦具土神」となっており、別名「秋葉大神(あきば-の-おおかみ)」とも呼ばれています。

しかし、これは、当ブログで何度も記載している様に、明治の「神仏分離令」により、無理矢理、御祭神に仕立て上げられた結果で、元々の御祭神は、「秋葉大権現」だったようです。

ここでも「権現様」が登場しますが、それでは「秋葉大権現」とは何か、と言うと、・・・こちらは、よく解っていないようです。

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秋葉神社」は、創建された年月が定かではなく、社伝によれば、飛鳥時代の「和銅二年(709年)」に社殿が創建されたと伝わっているようです。

また、二種類ある「秋葉山略縁起」の内、江戸時代中期の享保二年(1717年)に、僧侶が著した「遠州秋葉山本地聖観世音三尺坊略縁起」では、東大寺の大仏の勧進を行った事で有名な僧「行基」が、奈良時代の養老二年(718年)に開山された旨が記載されているようです。

そして、創建当初は、神社ではなく「大登山霊雲院(だいとうざん-れいうんいん)」と言う「寺号」で呼ばれる寺院で、これも先の「秋葉山略縁起」によれば、ご本尊は、「行基」自らが作成した「聖(しょう)観音」で、それ以外にも「十一面観音」、および「勝軍地蔵」を安置したとなっているようです。

ところが、その後、社伝によると、平安時代初期の「弘仁年間(810〜824年)」に、「嵯峨天皇(809〜823年)」により、七堂伽藍が建立され、かつ、次の歌が詠まれた事から、「秋葉山」と呼ばれるようになったと伝わっています。

『 ゆく雲の いるべの空や 遠つあふみ 秋葉の山に 色つく見えし 』

これを契機に、これら寺院群は「秋葉山秋葉寺(あきはさん-しゅうようじ)」と改称されたと言われています。

その他にも、「秋葉山」と呼ばれるようになった理由としては、「行基が秋に開山した」とか、後に登場する「三尺坊」と言う修験者が、この地を訪れた時に、「蝦蟇(ガマ)の背に秋葉の文字が浮かび上がった」等と諸説あるようです。

しかし、何れにしても、この時点では、まだ寺院であり、神社ではありません。

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そして、「三尺坊」ですが・・・これも、よく解らず、前述の「遠州秋葉山本地聖観世音三尺坊略縁起」では、「秋葉権現」とは、「秋葉三尺坊大権現」、通称「三尺坊」の事であるとしているようです。

この「三尺坊」とは、戸隠(現:長野県)にあった「教釈院(現:岸本家)」に生まれた実在の人物と云われ、奈良時代の「宝亀九年(778年)」、「三尺坊」の母が、観音様を念じた事で生まれた神童とされています。

その後、4歳で越後栃尾の「岩野蔵王堂」での修行に入り、27歳の時、その修業が満願と成る日、焼香の火焔の中に、「鳥の如く両翼が生じ右手に剣、左手に索を持つ相、つまり「飯綱権現(いづなごんげん)」が現れ、「三尺坊」自身が、飛行自在の神通力を得て、「迦楼羅(かるら)天」となったと伝わっています。

この「飯縄権現」は、山岳信仰から生まれた神仏混合の神で、別名「烏(カラス)天狗」とも云われており、白狐に乗った姿で現れるとされています。

「三尺坊」は、前述の様に「迦楼羅天」になったと云われていますが、「飯縄権現」にもなった話があります。

そして、「飯縄権現」になった「三尺坊」が、「今後私の名を呼ぶと、火事が起きなくなる」という予言を残し、白狐に乗って諸国巡りに出発したのですが、平安時代の大同四年(804年)に秋葉山に降り立った際、(前述の様に)ガマの背中に「秋葉」の文字が浮き上がったので、それ以降、この地に「秋葉山秋葉寺」を開いたと言うのが、「秋葉山」の始まりと言う説もあります。

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もう、こうなると、「秋葉大権現」が、何者なのか、さっぱり解らなくなってしまいます。

説1:三尺坊 = 飯縄権現
説2:三尺坊 = 迦楼羅天(※インドの神様」ガルーダ)
説3:観音菩薩(本地仏) = 飯縄権現(山岳神)

大まかに分類すると、「秋葉大権現」は、上記のような3パターンがあるようですが、それ以外、全てが習合した「飯縄権現迦楼羅天烏天狗 = 三尺坊 = 観音菩薩」と言うような考えもあり、将に、「神仏混合」の神と言うのが、「秋葉大権現」なのだと思われます。

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このような「神仏混合」の寺社となった「秋葉寺」ですが、御祭神は「秋葉大権現」ですから、あくまでも「修験道」としての寺社と言う立場でした。

しかし、室町時代以降/戦国時代になると、修験道真言密教が、密接に関わってくるようになるにつれ、この「秋葉寺」も、真言宗の寺院と言う色彩が強くなってきたそうです。

そして、この当時は、「秋葉山」には、神道の「禰宜」、仏教(曹洞宗)の「僧侶」、修験道の「山伏」が「秋葉大権現」に奉仕し、別当は僧侶が務めていたとされ、山頂には、観音堂を中心に、多くの仏教施設や修行のための道場があったと伝わっています。


ところが、戦国時代、付近では、武田氏と徳川氏の戦闘が激化した影響もあり、この「秋葉寺」も、次第に衰退してしまったそうです。

その後、戦国時代の永禄十二年(1569年)、徳川氏の隠密だったと言われる武家出身の修験僧「茂林 光幡(もりん こうは)」が、静岡県袋井市にある曹洞宗の寺院「可睡斎(かすいさい)」から別当として派遣され、「秋葉寺」の復興に取り組んだそうです。

このため、それ以降は、修験道曹洞宗が相容れる形で復興してきたようですが、江戸時代初期、寛永二年(1625年)に、「秋葉寺禅宗なのか修験なのか」という事で、曹洞宗側と修験道側との間で内部対立が発生してしまったようです。

この対立に関しては、最終的に、寺社奉行の判定を受けることになったのですが、曹洞宗側が、家康自身の「判物(はんもつ)」を持っていたことから、「秋葉寺」は曹洞宗の帰属となり、この判決以降は、「可睡斎」の末寺となってしまったそうです。

ちなみに、「判物」とは、武家の文書で、将軍や大名の花押付きの文書で、所領安堵等を保証した書類になりますが、これが家康の判物なら、誰も文句は言えないと思います。


そして、その後の「秋葉寺」ですが、「貞享二年(1685年)」、何が契機なのかは解らないようですが、近隣の村々の「秋葉寺」の信者が、「秋葉大権現」の神輿を担ぎ、幟を立て、鉦/太鼓を打ち鳴らしながら、東海道沿いに京・江戸を目指す「秋葉祭り」と呼ぶイベントが、東海道各地で行われるようになったようです。

この行列に参加する人数が多くなると共に、人々の熱狂も激しくなったので幕府は危機感を抱き、これ以降「秋葉祭り」を禁止したのですが、この騒ぎを契機として、全国に、「秋葉大権現は火除けの神」として知られるようになったようです。

何故、「秋葉大権現」が「火除けの神様」となったのかは明らかにはなっていないようのですが、「遠州秋葉山本地聖観世音三尺坊略縁起」に書かれているとされる前述の予言「今後私の名を呼ぶと、火事が起きなくなる」と言う記述が始まりではないかと考えられます。

そして、元禄年間になると、「秋葉大権現」は、「火防の神」として日本全国で爆発的な信仰を集めるようになり、特に、何度も火災が発生した江戸では、「秋葉大権現」に詣でる「秋葉講」が数多く結成され、大勢の参詣者が秋葉大権現を目指すようになったようです。

当時の人気は、「お伊勢参り」と人気を二分する程で、「秋葉大権現」に通じる道は、「秋葉路(あきはみち)」とか「秋葉街道」と呼ばれて、信仰の証や道標として、「秋葉灯篭」と呼ばれる数多くの常夜灯が建てられるほどでした。

これらの常夜灯の中には、「龍燈(龍頭)」と呼ばれる祠を兼ねた特殊な常夜燈があり、そこが町内や講中の信仰の場となり、現在でも町内で神符を受けて常夜燈に祀る地域は多いそうです。

また、この時期に、日本全国各地に、神仏混淆の分社として多くの「秋葉大権現」や「秋葉社」が設けられたようです。

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ところが、前述の通り、江戸時代後期から明治時代初頭に、数々の「神仏分離令」が発布され、かつ明治五年(1872年)には、「修験宗廃止令」が強行され、「秋葉寺」においても、神仏分離を行わざるをえない状況となってしまいました。

ところが・・・です。

この「秋葉寺」は、余りの長きに渡り「神仏習合」が行われてきた事が災いして、「秋葉大権現」が、「神様」なのか、あるいは「仏様」なのか、なかなか判断が付かず、神学論争にまで発展してしまったそうです。

加えて、過去の因縁から、「秋葉山」内部でも、修験者と仏教僧の対立が再燃してしまい、余計に厄介な事態に陥ってしまったそうです。

とにかく、この「秋葉寺」の修験者と僧侶の争いは、ドロドロの状態で、神仏分離が済んだ後でも、何度も裁判沙汰となっていますので、ここでの説明は割愛しますが、最終的には、「秋葉大権現火之迦具土神」と言う裁定となり、その結果、「秋葉寺」は「秋葉神社」と言う神社に変更させられてしまいました。

秋葉大権現火之迦具土神」となった理由は、次の通りとされています。

平安時代の延期元年(901年)に成立した「日本三代実録」に、「貞観十六年(874年)五月十日、遠江国正六位上 岐陛ノ保ノ神(きへのほのかみ) に従五位を授く」とある。
平安時代中期の承平年間(931〜938年)に編纂された地名辞典「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」に、『山香郡に大岑・与利・岐階・気多の四郷が置かれている』とあり「岐階(きけ)」とは「岐陛(きへ)」の事である。
③保(ホ)とは火(ホ)のことではないか。つまり「岐陛ノ保ノ神」とは「岐階の火の神」という意味である。
④「岐陛(きへ)」とは、秋葉山を含む地域の古名である。
⑤以前より「秋葉山」では「秋葉権現」が火の神として祀られていたのである。
⑥「三尺坊」の伝承は、古いものでも鎌倉時代以降で、鎌倉時代以前のものは存在しない。よって本来「秋葉権現」とは「三尺坊」の事ではない。
⑦日本神話において、「火の神」と言えば「火之迦具土大神(ひのかぐつち)のことである。

と言うことで、晴れて、と言うか、無理矢理、「秋葉寺」は、「火之迦具土神」を御祭神とする「秋葉神社」になったと言う事です。

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その後の「秋葉寺」はと言うと・・・「後を継ぐ者がいない」と言う当時の決まりに従い廃寺となってしまったようです。「神仏分離令」が原因での廃寺ではありません。


このため、「秋葉寺」に祀ってあった「三尺坊」は、本山となる「可睡斎」に遷座しましたし、様々な仏教的な宝物なども本山に移管されてしまいました。

これにより「可睡斎」は、「秋葉山総本殿」と号するようになったそうです。

さらに、前述の通り、全国各地に分霊された「秋葉権現」や「秋葉社」等も、各地の事情により、神社や寺社として独立することになってしまったそうです。

なんとも悲惨な結果ですが、存続した「秋葉神社」にも悲惨な運命が待ち受けていたようです。

昭和十八年(1943年)、「火除けの神様」のはずの「秋葉神社」の山頂で山火事が発生したのですが、その山火事が延焼してしまい、山門を除く全てを焼失してしまったみたいです。

火災発生が戦時中だった事もあり、神社の再建も難しく、当初は、山麓に、現在の「下社」を造営して神事を継続しましたが、昭和六十一年(1986年)になって、ようやく「上社」が造営される事で「秋葉山本宮秋葉神社」が再建される事になったようです。


一方、廃寺となってしまった「秋葉寺」ですが、その後の明治十三年(1880年)に、信徒の強い要望を受け、秋葉山の中腹に「秋葉山秋葉寺」として復興しました。

しかし、御祭神となる「三尺坊」は、前述の通り、「可睡斎」に遷座したままですので、今更・・・と言う感じもします。

ちなみに、現在の御祭神は「聖観世音菩薩」になっているそうです。

このように、現在の静岡県には、次の3つの寺社が存在する、何とも面倒な事態になっているようです。

秋葉山本宮「秋葉神社
秋葉山総本殿「可睡斎
秋葉山秋葉寺

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さて、話は、明治初期の東京に飛びますが、明治二年(1869年)、天皇が東京に再行幸し、江戸城を皇居と定めました。

ところが、年末となる12月12日、神田相生町から出火した火災が、折からの西風に煽られ、現在の秋葉原駅東側にあった1,100件もの家屋を焼失する大火となってしまいました。


その後、東京府が、火災の跡地を「火除け地」として強制的に取り上げ、その中心地に、明治天皇の勅命により、江戸城内の紅葉山から、下記「鎮火三神」を勧請して「鎮火神社」を創建しました。

・火産霊大神(ほむすび-の-おおかみ) :火の神
・水波能売神(みずはのめのかみ) :水の神
・埴山比売神(はにやまひめのかみ) :土の神

この内、「火産霊大神」とは、前述の通り、「火之迦具土神」の別名ですが、これら「三神」を勧請して「鎮火神社」として創建したのですが・・・

ところが、当時の江戸っ子が「早とちり」をしてしまい、「火防の神様なら秋葉大権現だ !」と思い込み、「鎮火神社」の事を、「秋葉さん」と呼び始めてしまったそうです。

そして、「秋葉(あきは)さんが居る焼け野原」、「秋葉(あきは)の焼け野原」、「秋葉原」と呼ぶようになってしまったのだそうです。

その後、明治二十一年(1888年)、当時の「日本鉄道」の鉄道線(現:東北本線)が、上野から秋葉原まで延長されるのに伴い、「鎮火神社」は入谷町に遷宮して、昭和五年(1930年)には、本当に「秋葉神社」に改名されてしまったのだそうです。

そして、明治二十三年(1890年)、鉄道駅が開業したのですが、当時は、貨物専門駅で、駅名は「あきはのはら」駅と言う名前だったようです。

それが、何時の頃からは解りませんが、現在のように「あきはばら」と呼ばれるようになったそうです。

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それでは、最後に、「火祭り」をご紹介したいと思いますが、前述の通り、元々は1つだった「秋葉大権現」ですが、現在では3箇所に分裂している関係で、これら3箇所で、それぞれ「火まつり」が開催されています。

これまでの説明の通り、元は1箇所だった訳ですから、どの寺社の「火まつり」が正統なのかは解りませんが、いずれの寺社においても、毎年12月15日と16日の両日において、「火まつり」が開催されています。(※可睡斎は15日のみ)

さらに・・実は、静岡県浜松市/袋井市付近には、これまで紹介してきた寺社の他にも、「秋葉神社」が沢山あり、そこでも12月15日には、「火まつり」が開催されているようです。


これら沢山の「秋葉神社」も、元をただせば、全て「秋葉大権現」が分霊されたものだとは思いますが・・・今回は、明治政府により神社と認定された「秋葉山本宮秋葉神社」の「火まつり」を紹介したいと思います。

しかし、「秋葉山本宮秋葉神社」の「火まつり」を紹介すると言いつつも、修験道の営みを、より強く残しているのは、実際には、現在の「秋葉寺」と「可睡斎」の方ではないかと思われます。

右の画像は、「可睡斎」の「火まつり」の様子ですが、両寺院の「火まつり」で祭事を取り仕切っているのは僧侶と山伏ですし、護摩焚きの後には、「火渡り」神事等も開催されています。

さらに両寺院では、「火まつり」の最後の夜には、秘法と伝わっている「三尺防大権現七十五膳献供」と言う儀式を行うようです。

これら寺院における秘法の模様は公開されていないようですが、秋葉様配下の七十五の眷属に、百味の神饌を献供する修行との事です。



一方、「秋葉山本宮秋葉神社」の「火まつり」ですが、こちらは「神道」色の強い祭事になっているようです。

こちらでは、神官によって「弓の舞」、「剣の舞」、「火の舞」が行われています。

この祭祀は、京都「上賀茂神社」等で見られる 「御阿礼祭(みあれまつり)」 の神事から始まり、「神=火之迦具土大神」を降ろして舞を奉納するものらしいです。



最初は「弓の舞」が行われるます。

神職が、弓を左手に、鈴を右手にとって舞い始め、次第に舞が激しくなし、最後は舞い狂う様子を表すのだそうです。

舞終わると中央に進み出て、五本の矢を東西南北の四方に向け、最後に中央の天井に向けて次々に放ちます。



この矢の当たり具合によって、来年の豊年吉凶を占うそうです。

次に「剣の舞」ですが、神職が、左に剣、右に鈴をとって、地上の精霊を宥め、悪魔を抑える舞を舞い、左右に二振りの剣をとって、振りかざし振りかざす事で、この世の、罪/穢れを切り祓うとされています。

そして、最後は「火の舞」ですが、御本殿の奥深く奉安されている「万年の御神燈」から火を移した松明が、舞殿に移されます。

その松明を受け取って頭の上に足もとに、高く低く振りかざし振りかざし、人々の火難、水難、諸厄諸病を祓う舞を舞うのだそうです。

これら3つの儀式は、12月16日の午後10時から開催される「火まつり」の儀式で、15日は「御阿禮祭(みあれまつり)」が行われるのだそうです。

京都で行われる「御阿礼祭」は、毎年5月に開催される「葵祭」の前戯ですが、「秋葉神社」では、12月に開催され、前述の通り、「阿礼」と呼ばれる榊の枝に、「火之迦具土神」を降臨させる儀式になるようです。

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今回、岩手県内で開催される「火防の祭り」の前説として、日本における「火防の神様」のことを紹介しましたが、如何でしたか ?

特に「秋葉神社」に関しては、その複雑さや、オタクの聖地と化した「秋葉原」の生い立ちまで紹介したので、非常に長くなってしまいました。


しかし、「秋葉神社」の現在に至る歴史には、非常に面白いものがあると思いました。「秋葉大権現」が「烏天狗」だとは思いもよりませんでした。

また話が脇に逸れますが、「天狗」には、「烏天狗」と「大天狗」の二種類の天狗がいる事はご存知でしたか ?

烏天狗」は、「秋葉大権現」の箇所で説明した天狗ですが、「大天狗」は、顔が鳥ではなく鼻が高い、別名「鼻高天狗」とも呼ばれている者となります。

有名な天狗には、今回の「三尺坊」の様に名前が付いており、下記のような有名な天狗が存在します。

鞍馬山 :「鞍馬天狗(僧正坊)」
愛宕山 :「太郎坊」
・比良山 :「次郎坊」
比叡山:「法性防」 等

ここに上げたらキリがない程、有名な天狗は沢山いるようです。

また、今回紹介した「山伏姿/修験僧で羽根が生えた天狗」以外にも、日本各地には、独特の天狗がいるようです。

また、過去ブログ「金勢様」でも紹介した「猿田彦命」も、「天狗」と混同されています。

要は、摩訶不思議な「神通力」を持つ、神に近い存在全てが、「天狗」として取り扱われてきたのかもしれません。

次回は、話を本筋に戻し、次のような「火防祭り」を紹介したいと思います。

●日高火防祭り
●羽田火防祭
●金ケ崎火防祭
●黒沢尻火防祭
●その他

何故か解りませんが、どの祭りも、現在の北上市奥州市近辺の祭りとなっています。

祭りの起源を調べれば解りますが、恐らくは、江戸時代における、この付近の領主「伊達氏」の影響が強く反映されているのだと思います。

それでは次回も宜しくお願いします。


【画像・情報提供先】
Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)
秋葉山本宮秋葉神社ホームページ(http://www.akihasanhongu.jp/)
・秋葉方本殿可睡齋ホームページ(http://www.kasuisai.or.jp/)
・公益財団法人岩手県観光協会(http://www.iwatetabi.jp/)
・「街道」で読み解く日本史の謎

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