岩手の先達 〜 地味な岩手にも有名人 Vol.2


今回のブログは、前回2015年12月19日に記載した「岩手の先達シリーズ」の第2回目として、次の人物を紹介したいと思います。

★過去ブログ:岩手の先達 〜 地味な岩手にも有名人 Vol.1

●米内 光政(政治家/軍人)
●野村 胡堂(作家/評論家)
●深沢 紅子(画家/教育者)

前回は、下記の岩手県の先達を3名紹介しましたが、それと合わせて、IT業界の先達、現在のコンピューターの先駆けとなる「ストアドプログラム方式」のコンピューターを最初に開発した「ジョン・フォイ・ノイマン」氏を紹介しました。

●原 敬
●新渡戸 稲造
金田一 京助

「マッド・サイエンティスト」と呼ばれても、やはり天才は天才です。私など、凡人から見れば、羨ましい限りです。

今回紹介する3人の中では、「野村胡堂」氏と「深沢紅子」氏は、その分野では天才肌だと思いますが、「米内光政」氏の方は、天才と言うよりは「切れ者」や「努力家」の方ではないかと思われます。

後述するブログの中で、何度も記載していますが、周りの人達も「米内」に関しては、余り賢い人物とは思っていないように見受けられます。

しかし、本当は「能ある鷹は爪を隠す」的な人物だったのかもしれません・・・

それでは今回も宜しくお願いします。

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■米内 光政(政治家/軍人)


「米内 光政」は、旧盛岡藩士「米内 受政(ながまさ)」の長男として、明治十三年(1880年)に、南岩手郡三ツ割村下小路(現:盛岡市愛宕町)に生まれています。

父「米内 受政」は、大の選挙好きで、何度も選挙に立候補しては、その都度、落選していたので、米内家は、借金まみれで、常に貧しかったようです。

そして、父の借金は、「米内 光政」が成人してからも返済していたようで、海軍中将に昇進してからも、軍から借金していたようです。

元々、海軍に入隊したのも、タダで入学できるからだったと言う噂もあり、中学生時代は、家計を助けるために、牛乳配達や新聞配達もしていたと言われています。

「米内 光政」が生まれたとされる「愛宕(あたご)町」は、盛岡市の中心地(内丸)から北東方向、現在「愛宕山」と呼ばれ、かつては盛岡のランドマークだった「盛岡グランドホテル」のある場所近辺となります。


現在では、生家は残っておらず、その場所も定かではないようですが、江戸時代末期、この「愛宕町」には、盛岡藩の藩校「明義堂稽古所(作人館)」があり、その正面に武家屋敷が並んでいたそうで、この武家屋敷に、米内家が住んでいたと伝えられています。

しかし、「作人館」の跡地が、現在の「仁王(におう)小学校」になっている、と言うことですから、生家は、「愛宕町」ではなく、「名須川(なすかわ)町」だったのかもしれません。

ちなみに、「愛宕町」と「名須川町」は、隣同士ですので、武家屋敷が広ければ、「愛宕町」だったとも考えられます。

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他方、別の記録では、「米内 光政」の生家は、「盛岡八幡宮」がある、「八幡町」だったと言う説もあり、現在、この「八幡町」には、「米内光政居住地跡」と言う石碑が立っているようです。

何故、このような誤解が生まれたのかと言うと、「八幡町」の隣に「茶畑」と言う町があり、そこに「松尾神社(松尾大明神)」と言う神社があります。

そして、「米内光政」の祖母が、この「松尾神社」の関係者と言うことで、頻繁に「八幡町」や「茶畑」に通っていた事から、誤解されたのではないか、との事です。

ちなみに、「八幡町」は、今でこそ廃れてしまいましたが、その昔は、盛岡随一の歓楽街でした。


「八幡町」は、江戸時代の延宝八年(1680年)に、現在の地に盛岡八幡宮を建立したのを機に、田畑だった場所を埋め立てて、神社の参道に、茶屋や飲食店が集まったのが始まりとされています。

その後は、遊女屋が増えてきて、明治期に入ると、正式に遊郭となり、大正時代と昭和初期が、「八幡町」の全盛期だったようです。

お茶屋や料亭で栄え、盛岡の花柳界の中心地で、「八幡町」と「松尾町」、両方合わせても1k㎡位しかない場所に、数十軒もの料亭があったようです。

右の画像は、現在でも営業している数少ない料亭「喜の字」で、創業は大正九年(1920年)と言われています。

また、特に「松尾町」側は、赤線地帯と言われていたようで、1階は飲み屋、2階が売春宿のような所が数多くあったようですが、昭和32年(1957年)に「売春防止法」が施行されてから、遊郭や、このような飲み屋は廃れ、今では、地方によくある「シャッター商店街」になってしまいました。

私が子供の頃は、さすがに料亭などは数少なくなっていましたが、それでも飲食店が沢山ありました。

また、「八幡町」や「松尾町」は、私の小学校/中学校の学区だったので、同級生や同窓生の親が、置き屋を経営していたり、芸者だったり、あるいは料亭の子なども結構いました。

小さい頃から、「八幡町」や「松尾町」は、私達の遊び場だったので、別に、「遊郭街」と言われても、何の違和感もありませんでした。

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ところで、ここまで「米内光政」の生い立ちなどを、バッーと紹介してしまいましたが・・・皆さん、「米内光政」って、どんな人間なのかは、ご存知なのですよね ?

「米内光政」の功績は、(異論はあるようですが)

海軍大臣に2回就任した
・1度目の海軍大臣就任時には、山本五十六/井上成美らと共に日独伊三国軍事同盟に反対した
・総理大臣となり太平洋戦争参戦に強行に反対した(しかし半年で辞任)
・2度目の海軍大臣就任時には、太平洋戦争集結に尽力した
東京裁判では、GHQの意向通り、終始、昭和天皇を擁護し、帝国陸軍の戦争責任を追求した

簡単に挙げると、上記のような内容となります。詳しくは、Webで検索すると、沢山出てきますので、そちらをご覧下さい。

今回のブログでは、功績よりも、人物の周辺事情を紹介したいと思います。

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「米内光政」は、先にも述べたように、「天才」と言うよりは「努力家」で、小さい頃から、暇さえあれば、本を読んでいたようです。

小学校や中学校、そして海軍兵学校でも成績は芳しくなく、「グズ政」と呼ばれる等、卒業も危なかったみたいですが、目を掛けてくれた教官のお陰で、何とか卒業出来たと言う話が伝わっています。

とにかく、読書量とノートの分量が半端じゃなかったようで、そのため、教官が成績不振を庇ってくれたようです。

また、任官された後も、読書を止めず、さらに、海軍学校を卒業後、大正四年(1915年)、ロシア大使館駐在武官補佐として、サンクトペテルブルクに赴任したのですが、語学の理解が早く、直ぐにロシアの風土に溶け込んだと評されていたようです。

このため、ロシア語で電話できる唯一の海軍武官として有名になり、さらにロシア語の翻訳も行っていたようです。


こんな「クズ政」も、段々と努力が評価され、大正十三年(1924年)には、帝国海軍の象徴とされた「陸奥」の艦長となり、この頃から、次第に国内でも有名な人間となっていったようです。

ちなみに、戦艦「陸奥」は、竣工時、戦艦「長門」と共に「40センチ(16インチ)砲」を備えた、日本が世界に誇る戦艦として、「世界のビッグ7(7大戦艦)」と呼ばれていたそうです。

この後、海軍大将、海軍大臣、総理大臣と出世を重ねて行きますが、「米内光政」の人物像として欠かせないのが「酒」、つまり「アルコール」のようです。

「酒が米内か、米内が酒か」と言われるほど酒に強く、いくら飲んでも全く酔わないので、銀座の芸者衆が、「誰が米内を酔わせるか」という掛けを行ったが、誰も米内を酔わせる事が出来なかったそうです。

また、芸者と言えば、「米内」は、当時としては、身長が180cm以上もあり、非常に高かったことや、性格が温厚だったために、「山本五十六」と並んで、非常に女性には「もてた」そうです。

佐世保鎮守府の長官を退任して横須賀に帰る際には、佐世保駅周辺には、芸者衆が見送りに集まり、黒山の人だかりになったと伝わっていますし、今で言う、ストーカーも多数存在したと言われています。

う〜ん、羨ましい・・・

とにかく、温厚で、人に対して「怒る」と言うことは、めったに無かったと伝わっており、東京裁判では、政治的に対立した陸軍大将「板垣征四郎」とも、私人としては、同郷で、かつ恩師も同じと言うことで、先輩/後輩の仲だった事もあり、非常に仲が良かったみたいです。

その他、同郷で、尋常中学校の恩師「冨田小一郎」氏を中心に、前回紹介した「金田一京助」や、今回紹介する「野村胡堂」、それに、日本の物理学の基礎を築いた「田中舘愛橘」等とも親交があったようです。

一般的に、「米内光政」評としては、まあ、前述の通り、様々な評価はあるのは知っておりますが、次のような評価になっているようです。



・「井上成美」評 :「海軍大将にも一等大将、二等大将、三等大将があるが、文句無しの一等大将は、山本権兵衛加藤友三郎、米内の三人だけ」
・「山本五十六」評 :「うちの大臣は、頭はそれほどでもない。しかし肝っ玉が備わっているから安心だ。」
・「大井篤」評 :『孫子』の「将は智・信・仁・勇・厳なり」という言葉を挙げ、「信・仁・勇・厳は文句なしだが智に関しては問題がなかったとは言えない」
・「小泉信三」評 :「国に大事が無ければ、人目に立たないで終わった人
・「大西新蔵」評 :「米内さんは、海軍という入れ物をはみ出していた大物だった」




その他、マッカーサーの秘書官フェラーズ准将も「米内」と気脈を通じていましたし、東京裁判の首席検事も「米内」を高く評価し、日本を離れる際、「米内」に会いたがり、健康上の理由で断っても、自筆の招待状で、何度も晩餐会に招待したようです。

アメリカの「タイム誌」では、何度か日本人を表紙に使っています。

中でも、一番多いのが「昭和天皇」の6回、次に多いのが、「米内光政」、「近衛文麿」、「盛田昭夫」の2回となっています。

ちなみに、「米内光政」は、海軍大臣と総理の時の2回、表紙を飾っています。

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戦後は、北海道で牧場経営などにも参加したようですが、高血圧にも悩まされ、当時、外務大臣だった「吉田 茂」から日本医師会会長を歴任した「武見太郎」を紹介され、「タダで」診察してもらったそうです。

「武見」は、「吉田」から、「あの人は、命を削ってお国に尽くし日本を救った方だ。あの方は金が無いから、どんなことがあっても絶対に診察料は取るな」と指示されていたそうです。

全く、死ぬ直前まで、父親の借金を支払っていたようです。


しかし、結局のところ、「米内光政」は、昭和二十三年(1948年)、高血圧ではなく、肺炎により、68歳の生涯を閉じてしまいました。

「米内」の死に際しては、昭和天皇もひどく惜しみ、「惜しい人であった」と述べられたそうです。

その後、「米内」の死後、12年後の昭和三十五年(1960年)、盛岡八幡宮の境内に、スーツ姿の銅像が建てられました。

盛岡八幡宮は、私の遊び場だったので、この像の事は、良く覚えていますが、その当時は、こんなに立派な人だとは全く知りませんでした。

そして、その除幕式の前日、巣鴨プリズンから出所した元陸軍大将「畑 俊六」が、会場の草むしりをしている姿が目撃されたそうです。

「米内」は、東京裁判の折り、A級戦犯として裁かれていた「畑 俊六」を、徹底的に庇い、裁判官から「こんなアホな総理大臣は見たことが無い」と言われたそうです。

ところが、「米内」は、友人に対して「裁判長に、大バカ提督と罵られちゃったよ」とニコニコしていたと言いますから、本当に器が大きいのが、愚鈍なのか・・・

しかし、それが「米内光政」の魅力なのかもしれません。ちなみに、この銅像には、「小泉信三」が、次のような碑文を寄せています。

米内光政氏は盛岡の人
若くして海軍に入り進んで大将大臣に至り又内閣総理大臣となる
昭和二十年八月太平洋戦争の終局に際し米内海軍大臣が一貫不動平和の聖断を奉じて克くわが国土と生民をその壊滅寸前に護ったことは永く日本国民の忘れてはならぬところである
逝去十三年至誠沈勇のこの人今も世にあらばの感を新たにしつつこの文を撰ぶ
昭和三十五年十月
後進 小泉信三

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そして、「米内光政」本人は、盛岡市南大通り3丁目、北上川沿いにある「円光寺」に埋葬されています。

「円光寺」、正式名は「紫雲山 円光寺」と言い、江戸時代の寛文年間(1661〜1673年)に、「生連社良往上人(※読み方不明)」によって開かれた浄土宗の寺院です。

本堂は、元禄年間に再建されたと伝わっており、本堂の前には、これも樹齢300年以上と伝わる「カツラ」の大木が、2本あります。



そして、この2本の大木が、それぞれ雌雄である事から「夫婦カツラ」と呼ばれているそうです。

また、この寺には「首塚」と刻まれた石碑があり、盛岡藩第五代藩主「南部 信恩」の母親「慈恩院(通称:蓮子)」の父の首を祀った場所と伝わっています。

「蓮子」の父は、切支丹信者であったため、延宝三年(1696年)に、市内、向中野の刑場で斬首されましたが、「蓮子」が夜中に梟首を盗み出し、この寺に持ち込んで、埋葬をお願いしたそうです。


当時の住職「第八世良観和尚」は、「蓮子」の願いを聞き入れ、読経して埋葬してくれたそうです。

そして「蓮子」は、明け方に自首したしたそうですが、それを聞いた盛岡藩第四代藩主「南部 行信」は、その親孝行に感激して側室にしたと言われています。

後に「蓮子」は、この寺に観音堂を寄進し、現在は、盛岡の観音第11番札所となっています。

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■野村 胡堂


野村胡堂」、本名「野村 長一(おさかず)」は、明治十五年(1882年)に、紫波郡彦部村大字大巻(現:紫波町大巻)で、彦部村や長岡村の村長を務めた「野村 長四郎/マサ」の次男として生まれました。

と言っても、皆さん、誰、この人 ? となるかと思います。

私も、正直な所、本シリーズを書くに当たり、色々な資料を調べて、初めて「野村胡堂」を知ったところです。済みません。

この「野村 胡堂」は、ペンネーム(当時で言う筆名)で、かの有名な時代探偵小説「銭形平次捕物控」の作者なのです。

ここで初めて、皆さんも「ホ〜」となるかと思いますので、話を続けますと、その後、「胡堂」は、彦部尋常小学校紫波高等小学校、さらには、明治二十九年(1896年)に、盛岡尋常中学(現:盛岡第一高等学校)に進学します。


そして、盛岡中学では、生涯を通して親交を結ぶ「金田一京助」と出会います。

また学生時代は、俳句に熱中し、俳句結社「杜陵吟社(とりょうぎんしゃ)」を結成しました。

一つ下の学年に、あの(人間のクズ)「石川啄木」が居ましたので、彼に、俳句の手ほどきをしたのは、「胡堂」だと伝わっています。

さらに、同級生には、次のような人物が居たようです。


田子 一民(たこ いちみん) :政治家、衆議院議長
郷古 潔(ごうこ きよし) :実業家、三菱重工社長/会長
及川 古志郎(おいかわ こしろう) :海軍軍人、海軍大将、海軍大臣
小野寺 直助(おのでら なおすけ) :医者、久留米医科大学学長



前述の「米内光政」は、「胡堂」の1学年上の先輩になります。

その後、明治三十七年(1904年)、旧制第一高等学校(現:東京大学教養学部)に入学しますが、当時の校長は「新渡戸 稲造」だったようです。

さらに、その後、明治四十年(1907年)、高校卒業後、父との確執から、本来の希望とは全く別の東京帝国大学法科大学に入学したのですが、学費が続かず退学し、報知新聞を発行していた「報知社」に入社しています。

この間、明治四十三年(1910年)、在学中にも関わらず、28歳の時に、同郷の「橋本ハナ」と結婚しています。

報知社に入社後、政治部に配属され、人物評論欄「人類館」を連載し始め、この頃から、ペンネーム「胡堂」を使い始めると共に、音楽評論や美術評論も執筆し、こちらでは、別のペンネーム「あらえびす」を名乗るようになりました。

そして、昭和六年(1931年)、49歳の時に、文藝春秋社発行の「文藝春秋オール讀物號」の創刊号に、「銭形平次」を主人公にした「金色の処女」を発表しました。

これが、「銭形平次捕物控」の第一作目となり、これ以降、太平洋戦争を挟んで、昭和三十二年(1957年)までの26年間、超短編合わせて、383編の小説を書いています。

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ところで、皆さん、あらためて聞きますが「銭形平次捕物控」って、ご存知ですか ?

恐らく、私より10歳位年下の方なら、実際のTV放映を観たことがあるとは思いますが・・・見たことありますか ?

ちなみに、あの「ルパン三世」に登場する「銭形警部」は、この「銭形平次」から六代後(ケースによっては七代後)の子孫と言う設定になっています。



さて、この「銭形平次」の設定ですが、江戸時代の、何時の頃かは明確にしていないようですが、神田明神下に住む、岡っ引きの「銭形平次」が、その子分「八五郎」、通称「がらっ八」と共に、鋭い推理力と、最終兵器である寛永通宝の「投げ銭」を武器に、数々の難事件を解決して行く、と言うストーリー展開の、時代探偵捕物帳です。

その他、レギュラーとしては、二代目「大川橋蔵」版のTVシリーズでは、次のようなメンバーが居ました。


・「平次」の奥さん :「お静」
・「平次」のライバル :「三輪の万七」
・「万七」の子分 :「お神楽の清吉」



その他、その時々により、準レギュラーが逐次変更になっています。



何と言っても、この「大川橋蔵」が主演のTVシリーズは、昭和41年(1966年)〜昭和59(1984年)までの18年間、毎週水曜日の20時から1時間放映され、ドラマ史上最長の888話と言う金字塔を打ち立て、ギネスブックにも「テレビの1時間番組世界最長出演」として、正式登録された番組です。

このため、架空の話であるにも関わらず、神田明神には、右の画像のように。「銭形平次」の石碑まで建立されています。

そして、「平次」と言えば、「八五郎」で、平次の石碑の隣に、少し小さめの「八五郎」の石碑まで存在しますし、平次の「顔出し看板」まであるそうです。

何か、「親分 ! た、た、た、大変だ !」と、八五郎が、いつも通り、事件発生を知らせに、飛び込んでくるようです。



このように、私の世代で有名なのは、TV版「銭形平次」ですが、それ以前は、映画が主役でした。

記録に拠れば、小説の発表と同時に、直ぐに「関 操(せき-みさお)」と言う俳優の主演で、劇場版「銭形平次」が公開されていたようです。

「関 操」氏と言う俳優は、日本よりアメリカで活躍した俳優のようですが、それ以外、次のような日本映画史に残る、超有名な俳優が「銭形平次」を演じています。


・嵐 寛寿郎 :3本
・長谷川 一夫 :18本


その他、単発や連作で、次のような俳優が「銭形平次」を演じていたようです。


劇場版 :二代目 市川猿之助、里見 浩太朗
TV版 :若山 富三郎、北大路 欣也、風間 杜夫、村上 弘明


その他、ラジオの世界においても、「ラジオ浪曲」として、浪曲師「国友 忠」と「沢村 豊子」により、昭和27年(1952年」から5年間も文化放送で放送され、現在でもラジオドラマの最長記録となっているとの事です。

また、TVシリーズの主題歌も、歌手「舟木一夫」氏が担当し、大ヒットを記録したようですし、近頃では、「福山雅治」氏が、担当するラジオ番組で「銭形平次」の弾き語りを行ったと話題になっています。

歌詞を紹介したいのですが・・・歌の歌詞を無許可で掲載すると、著作権に関わりますので、冒頭をちょっとだけ・・・


「 男だったら 一つにかける / かけてもつれた 謎をとく / 誰がよんだか 誰がよんだか 銭形平次 ♪〜 」


私などは、この歌詞を書いているだけで、メロディまで浮かんでくるほど、当時は有名でした。

また、今年(2016年)の4月には、日本作家クラブが制定した「あらえびす文化賞特別賞」を、「銭形平次」の主題歌を歌った「舟木一夫」氏が受賞し、賞金5万円を貰った旨のニュースが掲載されていました。

舟木一夫」さん、失礼かもしれませんが、まだご存命だったのですね・・・今年で71歳なのだそうです。凄いな〜

それと、この「銭形平次」ですが、別名「しくじり平次」とも呼ばれていたそうです。

これは、物語のストーリーが、「偽善者と不義を罰し、善意の下手人は逃がしてやる」となっているからで、「胡堂」自身も、後で、そのように回想していたようです。

まさに、「罪を憎んで人を憎まず」で、だいたい半数の下手人は、逃がしていたそうです。

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ところで、この「銭形平次」ですが、元々は、当時、既に人気となっていた時代劇「半七捕物帳」に対抗すべく、生み出された作品と言われています。

「半七捕物帳」は、小説家・劇作家である「岡本綺堂」が、大正六年(1917年)に、博文館と言う出版社の雑誌「文芸倶楽部」に連載したのが始まりと言われています。

途中から版元が講談社に移ったようですが、昭和十二年(1937年)まで、68作が発表されたそうです。

ストーリーとしては、かつての岡っ引き「半七」を、明治期になってから新聞記者が訪問し、当時の出来事を聞き出すと言う構成だったようです。

こちらに関しては、映画も1本だけあるようですが、主に、TVドラマでの放送が多く、昭和28年(1953年)から、平成九年(1997年)まで、何度かスペシャル物とかシリーズ物として放送されているようです。

こちらは、長谷川一夫平幹二朗尾上菊五郎露口茂森繁久彌里見浩太朗真田広之等が演じていたようです。

そして、この「半七捕物帳」が、日本における時代小説と探偵小説を、最初に融合したものとして評価が高く、また江戸時代の風俗を、正確に描写されているとされ、風俗史としての価値も高いと言われています。

「胡堂」自身も、江戸風俗では、「綺堂」には叶わないと言っていたそうで、このため「銭形平次」では、時代背景をぼかしていたとも言われます。

また、この「半七捕物帳」を筆頭として、下記の5つの小説が、日本における「五大捕物帳」とも言われているそうです。


・半七捕物帳 : 岡本 綺堂
銭形平次捕物控 : 野村 胡堂
右門捕物帖(むっつり右門) : 佐々木味津三(ささき-みつぞう)
人形佐七捕物帳 : 横溝 正史
・若さま侍捕物手帖 : 城 昌幸


何か、こうして列記すると、「胡堂」と「綺堂」、「野村胡堂」は、小説だけでなく、ペンネームまでもパクったような感じがしてきました。

しかし、「胡堂」は、文藝春秋社から、「半七捕物帳」のような小説を書いてくれと頼まれたそうですから、小説が、同じカテゴリーになってしまったのは仕方が無いことだと思います。

そして、小説が生まれたのは、次の2つの要素があったそうです。


●子供時代の「胡堂」は、「水滸伝」が大好きで、特に、その中の登場人物であり、渾名を「没羽箭(ぼつうせん)」,名を「張清」と言う人物が大のお気に入りだったそうで、この「没羽箭張清」の得意技が「石礫(つぶて)投げ」だった。
●小説の構想中の時に、たまたま通った工事現場の「錢高組」の名前と、ロゴマークから、「寛永通宝」を連想した。

このような経緯で、「銭形平次捕物控」は生み出されたそうです。

ちなみに、平次の子分の「八五郎」にもモデルが存在し、江戸時代の滑稽本作者「滝亭鯉丈(りゅうてい-りじょう)」の滑稽本「花暦八笑人(はなごよみ-はっしょうじん)」に登場する八人がモデルとされています。

そして、「八五郎」は、独身、呑気者、無欲、純情化、そして惚れっぽいと言う、江戸っ子がキーワードなのだそうです。

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「胡堂」の晩年ですが、昭和十七年(1932年)、60歳の時に、報知新聞社読売新聞社に買収されたのを機に会社を辞職し、執筆活動に専念するようになっていったそうです。

昭和二十四年(1949年)、67歳の時に、「捕物作家クラブ」を結成し、自ら初代会長に就任しましたが、これが現在の「日本作家クラブ」となります。

そして、昭和三十二年(1957年)、75歳の時に、眼病が悪化してしまったので、「オール讀物8月号」に掲載した「鉄砲の音」もって、「銭形平次捕物控」が最後となってしまいました。

翌年には、菊池寛賞を受賞し、さらに翌、昭和三十四年(1959年)には、地元、紫波町初の名誉町民になっていますが、それ以前、昭和三十一年(1956年)には、自らの著書を紫波町に寄贈し、「胡堂文庫(現:紫波町中央公民館図書室)」を設立しています。

また昭和三十八年(1963年)には、さらに紫波町に「銭形記念図書館」を設立していますし、死の直前、同年2月には、私財のソニー株1億円を基金として、奨学金の交付を目的とした「財団法人 野村学芸財団」を設立しています。



そして、同年(1963年)4月、肺炎のため、80歳で死去してしまいましたが、葬儀委員長は「金田一京助」が務めたそうです。

先の、神田明神の石碑は、「胡堂」の死後、昭和四十五年(1970年)に、日本作家クラブによって建立されたものとなります。

また、「胡堂」が遺した各種レコード、書籍、書画等、多数のコレクションに関しては、現在、「野村胡堂・あらえびす記念館」に収蔵されて展示されています。

ちなみに、ペンネーム「あらえびす」の由来ですが、漢字で書くと「荒戎」となります。

「胡堂」の「胡」と言う字も、「えびす」と読めますし、また過去に地元に君臨した「安部貞任」が、自身を「奥州のあらえびす」と呼んでいた言い伝えがあることから、音楽/美術関係の著作物には「あらえびす」を使うようになったそうです。


それと、最後に、「銭形平次」の子孫である「銭形警部(銭形幸一)」は、「投げ銭」は行わずに、「投げ手錠」と言う必殺技を持っているそうです。

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■深沢 紅子


「深沢 紅子(ふかざわ-こうこ)」は、明治三十六年(1903年)に、「四戸慈文/きぬ」の長女として、盛岡市内丸で生まれています。

「内丸」は、元々は、盛岡城の内堀と中堀に囲まれた一角を指し、当時は、藩主一族や重臣達が住んでいた所になります。

そして、現在では、盛岡市の行政の中心地で、県庁や市役所、裁判所や県警本部等がある場所となっています。

そして・・・と話を進めていますが、この「深沢紅子」に関しても、皆さん、誰なのか、全く解らないと思います。

そこで、「深沢 紅子」の業績を簡単に紹介しますと、「紅子」は、女性画家です。絵本や小説等に挿絵を描いていた事でも有名ですが、二科展において、初めて入選した女性画家でもあります。



また、小説家「堀 辰雄」、詩人「立原 道造」、童話作家「村岡 花子」等とも親交が深く、彼らの本の挿絵を度々描いています。

「立原 道造」を知っている方は少ないと思いますが、「堀 辰雄」は、ジブリの「宮粼 駿」監督の最後の長編アニメ「風立ちぬ」の元となった小説を書いた人です。また、「村岡 花子」は、NHKの朝ドラ「花子とアン」のモデルとなった人物です。

今回は、この「深沢 紅子」の事を少し紹介しようと思います。

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まず「深沢 紅子」は、上記の通り、盛岡市内丸の料亭と旅館に挟まれた長屋で生まれたとされています。

父親の「慈文」は、元々は北海道出身で、本名は「佐々木 熊蔵」(将に北海道生まれ?)と言う名前だったのですが、後に「四戸家」の養子となり、さらに仏教に帰依し、盛岡市にあった浄土真宗の寺院「願教寺」の僧侶「島地 大等(しまじ-だいとう)」から「慈文」と言う名をもらったとされています。



「慈文」は、腕の良い仕立屋で、洋服店を営んでいたそうですが、商売よりも文学や絵が好きで、その影響もあり、「紅子」も幼い頃から絵に親しんでいたと言われています。

ちなみに、「島地 大等」と言う僧侶ですが、実は、この方も、結構有名な人らしいです。

「島地 大等」は、これもまた、明治時代、西本願寺派の三傑と言われるほど有名な「島地 黙雷(もくらい)」のと言う僧侶の弟子(法嗣)となって「願教寺」の住職となったのですが、インドや中国に行って仏教史跡の調査を行ったそうです。

そして、帰国後は、曹洞宗大学(現:駒沢大学)、日蓮宗大学(現:大正大学)、東洋大学で教鞭を取り、大正十二年(1923年)には、東京帝国大学インド哲学の講師となり、昭和二年(1927年)、53歳で死去するまで、4年間、講師を務めたそうです。

「宮沢 賢治」が法華経を信仰していたのは有名ですが、そのきっかけは、「島地 大等」が訳した「妙法蓮華経」を読んだ事が始まりと伝えられており、実際に、「願教寺」で行われた「島地親子」が開催した講話会にも参加していたそうです。

しかし、実際には、「宮沢 賢治」の父「宮沢 政次郎」が、既に浄土真宗を信仰しており、賢治の父「政次郎」と、紅子の父「慈文」は、信仰上の友人同士であったことが知られています。

話が逸れてしまいましたが、父「慈文」は、自分にも絵心があり、かつ娘「紅子」も絵が好きな事に気が付いたので、機会があれば絵を見せに連れて歩いたようです。

当時は、美術館などありませんでしたので、東京から看板作りの職人が来れば、「紅子」と一緒に職人に付いて回り、模様を描くのを一緒に見たり、あるいは近所の表装具屋を訪れ、表装具の絵を見せたりしたと言われています。

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明治四十二年(1909年)に、岩手師範付属学校(現:岩手大学付属小学校)に入学、大正八年(1919年)に、盛岡高等女学校(現:岩手県立盛岡第二高等学校)を卒業後に上京し、女子美術学校(現:女子美術大学)の日本画科に入学し、本格的に絵画の勉強を始めます。

しかし、絵画に関しては、師範付属学校時代の恩師「佐藤 瑞彦」が、「紅子」に絵の才能がある事に気が付き、彼が、「紅子」に絵を描くことを勧めたと言われており、その結果、12歳の時に、当時、盛岡で日本画を教えていた「池田 龍甫(りゅうほ)」に師事したそうです。

ちなみに、「佐藤 瑞彦」氏は、後に、「東京自由学園初等部主任」、「盛岡内丸学園理事長・盛岡幼稚園園長」となった人物です。



「池田 龍甫」に師事したことから、最初は日本画を専攻したのですが、その後、ゴッホの「ひまわり」の原画を見る機会があり、それから洋画家になる決心をしたそうで、当時、小石川にあった「川端画学校」に何度も通って頼み込み、デッサンの勉強をさせてもらったそうです。

このように、日本画科から洋画科への転入を希望したのですが、女性だったという事もあり、学校側に聞き入れてもらえず、かなり苦労したようですが、「紅子」が描いたデッサンが、当時、教授を務めていた「岡田 三郎助」氏に認められ、大正十年(1921年)ようやく洋画科に編入できたそうです。

この「岡田三郎助」氏は、「黒田 清輝」の門下生で、当時は、既に日本画壇の大家となっていた人物で、女性の美術教育に力を尽くした人物として知られているようです。

そして「紅子」は、彼に師事した事で、絵画を習う事の他にも、様々な人を紹介され、その中でも昭和二年(1927年)、「和田 三造」が主催した「日本標準色協会」では、基礎となる色の選定や発色の原理、色彩学など、色が、どのように組み立てられているかということを学ぶと共に、標準色の選定に従事しています。



その後、学校を卒業すると同時に、大正十二年(1923年)、20歳の時に、同郷の洋画家「深沢 省三」と結婚します。(省三24歳)

「省三」は、東京美術学校に入学し、当時は、前述の「岡田 三郎助」と並ぶ、日本画壇の巨匠と言われていた「藤島 武二」に師事し、学生時代から雑誌「赤い鳥」の挿絵を書き、結婚前の大正九年(1920年)には、「帝展」に初入選を果たす等、才能がある人物でした。

「紅子」とは、「省三」が病気になった時に、友人と一緒に看病したのが出会いだったと言われています。



そして、「紅子」は、結婚後の大正十四年(1925年)、第十二回「二科展」に、「花」と「台の上の花」の二点を出品し、女性として初めて二科展に入選します。

この作品は、恩師「岡田 三郎助」宅の庭から貰った紫陽花に、黄や朱等彩りの花を添え描いたもので、近所の二科会の会員が作品を搬入する際、一緒にリヤカーで運んでもらったと言われています。

女性初の入選と言うことで、新聞には大きく報道され、自宅前には新聞社の車がずらりと並び、近所中の騒ぎになったと言われています。

このため「紅子」が、女流画家の始まりとも言われています。



ところが、昭和十一年(1936年)、二科会との考え方に隔たりを感じ始めていた「紅子」は、「石井 柏亭」、「安井 曾太郎」、「山下 新太郎」、および「有島 生馬」等8名が、美術団体「一水会」を立ち上げるに伴い、「一水会」創立に参加し、第一回展から出品をしています。

戦時中は、夫の「省三」が、陸軍従軍画家となった関係で、一緒に中国(現:内モンゴル自治区)に渡り、そこで、夫と共に「美術研究所」を設立して、現地で美術教育に携わったとされています。

昭和十六年(1941年)には「一水会賞」を、昭和二十四年(1949年)には、「かんぞうを持てる少女」と「少女たち」を出品し、会員の最高賞である「一水会優賞」を受け、昭和二十七年(1952年)からは、常任委員となっています。

一水会」と言う美術団体は、現在でも活動していますが、この他にも、同名の右翼団体やら親睦団体があるので、混同しない様に注意して下さい。

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一方、昭和20年(1945年)、終戦と同時に郷里の盛岡に戻ると共に、雫石町に入植して、町の開拓作業を行うかたわら、地元の子供達に「日曜図画教室」を開催する等、美術教育を行うようになっていったそうです。



その結果、昭和22年(1947年)、夫の「省三」と一緒に「岩手美術研究所」を設立すると共に、「女流画家協会」の設立にも協力しています。

さらに、翌昭和23年(1948年)には、「県立美術工芸学校(現:盛岡短期大学美術工芸科/岩手大学特設美術科)」を設立し、昭和26年(1951年)には、自ら教授職に就いています。

その後は、昭和30年(1955年)、持病の喘息の悪化に伴い盛岡短期大学を辞職して上京、練馬区石神井に自宅兼アトリエを作り、昭和48年(1973年)までの18年間、「自由学園」の講師を務めています。

この頃(昭和34年)に描いた「立てる少女」は、当時の「文部省」買い上げとなり、現在でも、国立美術館に展示されています。

その後、晩年は、教育に携わりながらも、夏は軽井沢の「堀辰雄1412番山荘」で過ごしたり、山中湖の別荘で過ごしたりしながら、草花の絵を数多く描きました。

しかし、昭和54年(1979年)、自宅隣家からの出火により、自宅兼アトリエが全焼してしまい、描いた多くの作品を焼失してしまったそうです。



そして、平成四年(1992年)には、夫「省三」が山中湖の別荘にて死去、そして、「紅子」自身も、夫の一周忌が過ぎた後、平成五年(1993年)3月25日、享年90歳で、同じく山中湖の別荘で永眠しました。

「紅子」の死後、遺体は、どこに埋葬されたのか定かではありませんが、盛岡市北山にある臨済宗の「聖寿禅寺(しゅじゅぜんじ)」の四戸家のお墓には、「紅ここに帰る。人知れず野の花のように」と書かれているそうです。

ちなみに、この「聖寿禅寺」は、元々は、青森県三戸で開山した「三光庵」と言う名の寺院でしたが、三戸城主「南部 信直」の盛岡移転に伴い、現在の場所に移って来たそうで、最盛期は、「盛岡五山」の一つとなり、かつ「南部氏」の菩提寺として隆盛を誇っていたようです。



ところで、「紅子」に関しては、永眠した、その年の7月には、夫婦が夏を過ごした軽井沢に、そして8月には、夫婦の故郷である盛岡市に、「野の花美術館」が開館しています。

軽井沢の美術館は、どこにあるのか解りませんが、盛岡の方は、盛岡市を東西に流れる「中津川」のほとり、「紺屋町(こんやちょう)」に設立されています。

ちょうど、川をはさんだ向かい側が、盛岡市役所になります。

盛岡の中心地、まさに「紅子」が生まれた「内丸」の、直ぐそばになるかと思います。市の中心地ですが、メインの通りから少し離れているので、静かな場所です。

こちらの美術館は、入館料が500円で、月曜日が休館日となっているようです。前述の通り、川のほとりにあり、駐車場等はありませんので、徒歩で来るか、近隣の駐車場を利用することになります。

付近には、辰野金吾が設計した「旧岩手銀行」や、「盛岡城址公園」等の観光地もありますので、車より、徒歩の方が良いかもしれません。

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今回は、次の三名の方を紹介しましたが、如何でしたか ?

●米内 光政
●野村 胡堂
●深沢 紅子

「米内 光政」に関しては、太平洋戦争と言う激動の時代に、総理大臣になったり、海軍大臣になったりしているので、歴史の教科書にも少しは登場するため、聞き覚えがあるかもしれません。

しかし、「野村 胡堂」や「深沢 紅子」は、絶対に教科書には登場しない人物なので、知っている人は少ないと思います。

まあ、「深沢 紅子」に関しては、前述の通りNHKの朝ドラ「花子とアン」がヒットしたお陰で、少しは知名度が上がったかもしれませんが、それも微妙です。

事実、私も、「赤毛のアン」の翻訳者の本の挿絵画家と言うことで、名前を知った位ですから。

「野村 胡堂」に至っては、余程の「平次ファン」じゃないと、名前は知らないと思います。また、今は、TVで時代劇を放送しない時代になってしまったので、もう誰かが、今回のブログのように、無理して取り上げないと、「野村 胡堂」なんて名前は、世の中から消えてしまうと思います。

次回、何時にかるか解りませんが、また地元の有名人を紹介したいと思います。

それでは次回も宜しくお願いします。

以上



【画像・情報提供先】
Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)
盛岡市ホームページ(http://www.city.morioka.iwate.jp/index.html)
東北電力(http://www.tohoku-epco.co.jp/index.html)
岩手県立美術館(http://www.ima.or.jp/)
・銭形警部はモンキー・パンチ氏の作品中の登場人物です

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