岩手の民間信仰 〜 聞いた事も無い信仰ばかり Vol.5

さて今回は、もう5回目を迎えた「民間信仰」シリーズですが・・・さすがに、もう「弾切れ」の感は拭えない状況です。


さて、何で民間信仰なのに、左図のような画像を掲示するのかというと、今回紹介する民間信仰は、月、星、そして狼に関係する、次の3つの民間信仰だからです。



■三峰信仰(三峰さま)
隠れキリシタン
■妙見信仰

狼は「三峰信仰」、月と星は「妙見信仰」、そして「隠れキリシタン」はと言うと、東北地方にキリスト教を広めたのは、「妙見信仰」を東北に広めた「千葉氏」の一派だと思われます。

この「千葉氏」に関しては、「妙見信仰」の章で詳しく説明しますが、桓武天皇の血を引く「坂東平氏」で、その子孫は、「源 頼朝」による「奥州藤原氏」の攻撃に参加し、東北地方に、多くの領土を持つようになりました。

そして、その一派は「奥州千葉氏」と呼ばれ、現在の青森から宮城県に至る広い地域に勢力を伸ばしたとされています。

このため、よく東北地方には、「千葉姓」が多いと言われているようですが、実際には、それほど多い訳ではなく、次の順位になっていると言われています。

順位 由来/縁起
1 佐藤 宮城が最多。東北6県の内、青森以外で1位。「藤原秀郷」の子孫と伝わる。
2 高橋 宮城/岩手/山形/秋田の4県の県境に多い。葛西氏配下の「高橋氏」の子孫と伝わる。
3 鈴木 福島/宮城/山形に多い。鈴木氏は和歌山県発祥。神社の「鈴」/神官の家系に多い。
4 佐々木 宮城/秋田/岩手に多く山形には少ない。佐々木氏は近江国発祥。
5 斎藤 福島/宮城/山形に多い。越前国藤原氏が用いたのが最初と伝わる。
6 阿部 宮城/岩手に多い。当然、「安倍氏」の子孫。
7 伊藤 宮城/秋田の沿岸部に多い。伊藤氏は伊勢国藤原氏が用いた姓。
8 渡辺 福島/宮城に多く青森は少ない。摂津国発祥。船頭「わたりべ」の子孫。
9 千葉 宮城/岩手に多い。奥州千葉氏の子孫。


こうして「姓」を見てみると、特に、東北に特化した「姓」が多い訳でもなく、日本全体で見た「姓」と大差がないような感じがします。

しかし、「千葉姓」に関しては、やはり、岩手県宮城県に多いのは確かなようです。

あと、本ブログに良く登場する「遠野地方」には、「菊池姓」が多く見受けられますし、「菊池姓」は、全国でみても、岩手県が、ダントツで1位、6,860件となっています。

今回紹介する「千葉姓」と同様、きっと何かの由来があるのだと思います。中々興味深い内容だと思います。

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それと余談ですが、私の「下田姓」ですが、全然見当たりません。「下田姓」は、全国で378位、電話帳ベースでも、たった8,715件しか存在しないようです。

まあ、元々私の家系は、「下田姓」ではなく「石亀」と言う姓だったと言う記録が残っています。

これも、後で登場しますが、南部藩の藩主や家臣団の家系図を整理した「参考諸家系図」によると、私の家系である「石亀家」は、南部氏二十三代当主「南部 安信」を祖とし、その傍系で、現在の青森県三戸町出身の「石亀徳五郎」と言う人物が、この「石亀家」の開祖となっているようです。

一族出身者には、南部氏二十六代「南部 信直」の側室となり、第二十七代当主で、盛岡藩初代藩主「利直」の生母になった人も居たようです。

その後、「南部利直」の叔父である「石亀長兵衛直則」から「下田姓」を名乗るようになり、かつ「名前」にも「直」の文字を付けることが許された旨の書面が、「下田家」に代々受け継がれているそうです。

しかし、まあ私の家系は、その「下田家」の分家筋にあたり、直系は、何故か、現在は盛岡市ではなく、秋田県に住んでおり、私の親戚筋の「直孝氏」が、十三代当主となっています。

何故、これ程までに詳しい家系が解っているのかと言うと、私の父「直也」が、その昔「盛岡市中央公民館」の館長を行っており、その時に、南部氏関連の古文書を調査したと聞いています。


と言う事で、話が脇に逸れてしまいましたが、今回は、上記3件の「民間信仰」を紹介したいと思います。

それでは今回も宜しくお願いします。

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■三峰さま

まずは、奥州市衣川区にある「三峰さま」を紹介します。

「三峰(三峯)さま」は、「三峰神社」のご祭神「大口真神」を祀る信仰になります。

この信仰は、またの名を「三峰信仰」、「山犬信仰」、「御眷属信仰」等と呼ばれており、早い話「狼」を祀る信仰となります。

この衣川の「三峰神社」は、江戸時代中期の享保元年(1716年)3月に、埼玉県秩父市にある「三峯神社」から分霊して勧請したと伝わっていますが、元々の創建は、平安時代後期に起こった「前九年の役(1051〜1062年)」の頃とされています。


当時、朝廷側から「源 頼義・義家」親子が陸奥守(後に鎮守府将軍)として派遣され、「安倍氏(頼時・貞任)」と戦っていましたが、戦況が思わしくなく、負け戦ばかり続いていたそうです。

そこで、「日本武尊(やまとたけるのみこと)」が、第12代「景行(けいこう)天皇」の命に従い東征した時に、山に登って「伊邪那美命(いざなぎのみこと)」と「伊邪那美命(いざなみのみこと)」を祀った故事に倣い、ここ衣川においても、「伊邪那美命」と「伊邪那美命」を祀り、戦勝を祈願した事が始まりとされています。

そして、安倍氏との戦いに勝利した後、衣川の柵付近の場所に祠を建て、さらに、それから約700年後の享保元年(1716年)に、南部氏盛岡藩が、本社である「三峯神社」に何度も掛け合い、南部の名馬を贈ったりすることで、どうにか分霊してもらったようです。

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南部地方は、馬の名産地であったことは、この「民間信仰」シリーズを含め、過去のブログでも、何度も紹介していますが、当時は、馬が狼に襲われる被害が続出していたそうです。

このため、馬を狼から守るために、上記の通り、必死になって「三峯神社」から分霊してもらったと言われています。

言い伝えでは、馬を贈るだけでなく、信者までも引き連れて、分霊のお願いに、本社である秩父の「三峯神社」まで伺ったそうです。


「三峰さま」、つまり「狼信仰」に関しては、元々は、農作物に被害を与えるイノシシ、シカ、あるいはサル等を追い払ったり、火事等が起きた時に、いち早く吠えたりすることで、災害から守ってくれる存在として信仰されてきたようです。

さらには、厄除けの神として、狼の頭蓋骨を、神棚に祀っていた所もあったようです。

そして、更に、近隣で大病人が出ると、この頭蓋骨を病人の枕元に置き、『 病よ出て行け、出て行かないと狼が食い殺すぞ ! 』と唱えたりしたそうです。

う〜ん・・・まるでエクソシストですね。

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この「狼信仰」ですが、元々は、「山の神」の使徒としての「狼」を祀る「御眷属信仰」で、類似した信仰としては、次のような「御眷属信仰」があります。

神社 眷属 神社 眷属
伊勢神宮 鶏(にわとり) 調神社/岡崎神社 兎(うさぎ)
石清水八幡宮 鳩(はと) 日枝神社/日吉神社 猿(さる)
稲荷神社 狐(きつね) 松尾大社 亀(かめ)
春日大社/鹿島神宮 鹿(しか) 三嶋大社 鰻(うなぎ)
北野天満宮/湯島天神 牛(うし) 大豊神社 鼠(ねずみ)
熊野大社 鴉(からす) 愛宕神社 猪(いのしし)
出雲大社 蛇(へび) 二荒山神社 蜂(はち)

こうして調べて見ると、かなりの数になりますが、言われてみれば「確かに」と言う眷属ばかりですが・・・しかし昆虫の蜂まで神の使いなのですか ?!


また、ここには代表的な神社しか記載していませんが、その他の神社にも、眷属は沢山います。上記以外だと、羊(ひつじ)、馬(うま)、猫(ねこ)・・・ありとあらゆる動物が、神様の使徒になっています。

そして、一般的な「御眷属信仰」の場合、これら使徒は、あくまでも使徒であって、決して「神」ではありません。

ところが、「狼」だけは別で、「神」となってしまったようです。(狐や龍なども眷属神ですが・・・)

本章の最初に「三峰神社大口真神(おおくち-まかみ/おおくちの-まがみ)を祀る」と書きましたが、「大口真神」こそ、「狼」が神格化したものです。

この「大口真神」は、元々は、「大和国(現在の奈良県)」の飛鳥地方にある明日香村付近の「真神原(まかみはら)」に住んでいた「狼」と伝わっています。

この「狼」は、余りにも凶暴で、何人もの人間を食べてきたので、その獰猛さから神格化され、最後には、人語を理解し、人間の性質を見分け、善人を守護し、悪人を罰する神として、信仰されるようになったと言われています。

狼が人間、最後は神になるとは・・・「狼男」の逆バージョンですね !?

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しかし、この神様は、岩手の地元では、「祟り神」や「邪教」として、恐れられていたようです。

本シリーズには必ず登場する「遠野物語」ですが、その別冊「遠野物語拾遺」の71話と73話に、「三峰さま」が登場します。

遠野物語拾遺71話 】

この地方で三峰様というのは狼の神のことである。旧仙台領の東磐井郡衣川村に祀ってある。悪事災難のあった時、それが何人のせいであるという疑いのある場合に、それを見顕わそうとして、この神の力を借りるのである。

まず近親の者二人を衣川へ遣って御神体を迎えて来る。それは通例小さな箱、時としては御幣であることもある。途中は最も厳重に穢れを忌み、少しでも粗末な事をすれば祟りがあるといっている。

一人が小用などの時には必ず、別の者の手に渡して持たしめる。そうして、もし誤って路に倒れなどすると、狼に喰いつかれると信じている。

前年、栃内の和野の佐々木芳太郎という家で、何人かに綿カセを盗まれたことがある。村内の者かという疑があって、村で三峰様を頼んで来て祈祷をした。

その祭りは夜に入り家中の燈火をことごとく消し、奥の座敷に神様をすえ申して、一人一人暗い間を通って拝みにいくのである。

集まった者の中に始めから血色が悪く、合せた手や顔を震わせている婦人があった。やがて御詣りの時刻が来ても、この女だけは怖がって奥座敷へ行き得なかった。

強いて皆から叱り励まされて、立って行こうとして、膝はふるえ、打倒れて血を吐いた。女の供えた餅にも生血が箸いた。験はもう十分に見えたといって、その女は罪を被せられた。表向きはしたくないから品物があるならば出せと責められて、その夜の中に女は盗んだ物を持ってきて村の人の前に差し出した。

遠野物語拾遺73話 】

この祭が終ると、すぐに三峰様は衣川へ送って行かなければならぬ。ある家ではそれを怠って送り届けずにいた為に、その家の馬が一夜の中にことごとく狼に喰い殺されたこともあったという。

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また、信者は、生きている「神犬」に代えて、「狼」の絵や「大口真神」の文字を刷り込んだ「お札」を受け取ります。

この御札に関しては、元々は、本社である「三峯神社」において、享保五年(1720年)、「三峯神社」に入山した大僧都「日光法印」が、『御眷属拝借』と称して、御札の配布を始めたのが最初だと言われています。

大口真神」のような御眷属のお札を受け取ることを「眷属貸与」と言い、「眷属貸与」は、授与される一般の御札とは異なり、一年後に返すのが原則であるため、「貸与」と呼んでいるそうです。

ちなみに、この御札一枚には、生きた神犬一匹と同等の効験があり、50戸の家を守護する力があると言われているそうです。

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ところで、話を「源 頼義・義家」親子に戻しますが、この地で、「安倍氏」追討のために、「伊邪那美命」と「伊邪那美命」の二神を祀ったのには理由があります。

実は、衣川の「三峰神社」の上には、「月山神社」と「和我叡登拳(わがえとの)神社」の神社が鎮座しています。

元々この地には、安倍氏が崇拝する「和我叡登挙神社」があり、この神社のご神体は「磐座」、つまり巨石がご神体です。

安倍氏は、古くから「荒脛巾神(アラハバキ神)」を祀ってきたと言われておりますが、東北地方においては、さらに古く、「阿弖流為(アテルイ)」の時代から、巨石を「アラハバキ神」として祀ってきた歴史があります。

本ブログでも、過去に「岩手の巨石」シリーズで、「丹内山神社」の「アラハバキ神」を紹介しています。
★過去ブログ:岩手県内の巨石紹介 − その1 〜 何故か岩手に巨石が多い(20140621.html)


右の画像が「和我叡登挙神社」です。少し見にくいかもしれませんが、ご神体は手前の、少し盛り上がった「岩」となります。

石(磐座)がご神体なので本殿は存在ません。奥の建物は、「月山神社」の本殿となります。

この「和我叡登挙神社」は、「延喜式内奥州一百座」の内、「胆沢郡七座」の一つとなります。


そして、右の画像が、ご神体となる「石(磐座)」のアップです。

月山神社」と「和我叡登挙神社」の関係ですが、最初、何時の頃からかは解りませんが、この地には、「和我叡登挙神社」があったようです。

そして、嘉祥三年(850年)、慈覚大師によって、「月読命」を祀る「月山権現社」が勧請され、その後は、安倍氏奥州藤原氏が信仰し、長治二年(1105年)には、藤原清衡によって再興され、中尊寺の奥院として繁栄したようです。


さて、この「和我叡登挙神社」の山麓に「伊邪那美命」と「伊邪那美命」の二神を祀ったのは、山頂に鎮座する安倍氏の信仰対象を、山麓の二神が封じるためと言われています。


そして、安倍氏が滅んだ後は、安倍氏の怨霊を、麓の「大口真神」が封じるために「三峰神社」を勧請したとも伝わっています。

大口真神」自身が、「呪い神」や「祟り神」と恐れられているのに、こんな目的のために勧請させられたら、余計に暴れそうで恐ろしいものがあります。

最後に、この場所ですが、左の画像のように、どんでもない場所に位置しています。この左下に東北自動車道が通っています。

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隠れキリシタン


隠れキリシタン」と言うと、皆さんは、次のような言葉や場所を思い浮かべるのではないでしょうか ?

九州、長崎、島原・・・

隠れキリシタン」と言われて、東北を思い浮かべる人は、皆無だと思います。

しかし!! そんなイメージの東北ですが、いつも登場する「遠野」や、宮城県との県境となる「一関市藤沢町大籠」には、「隠れキリシタン」が、かなり存在したようです。

上記画像は、一関市藤沢町にある「大籠キリシタン殉教公園」内にある、「クルス館」と言う施設になります。

「大籠キリシタン殉教公園」は、キリスト教の布教と殉教の歴史を後世に伝えるために作られた公園との事ですが・・・正直、私は、こんな施設が岩手にあること自体、全く知りませんでした。

ここ「大籠」の一体は、「東北の島原」と呼ばれているそうで、江戸時代の初め頃、300人以上のキリシタンが殉教した地と伝えられています。

江戸時代、ここ一関市は、南部藩領ではなく、伊達藩の領域でした。何故、この地で、キリシタンの大量虐殺が起こったのかを簡単に説明します。

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上記の通り、江戸時代初頭、この地は伊達藩領で、主に「たたら製鉄」を行う地として栄えていたそうです。

何故、この地で「たたら製鉄」が行われたのか、と言うと、以前、別ブログにも記載しましたが、岩手県を縦に貫く「北上山地」では、昔から良質の鉄鉱石を産出していたことが、理由だと思います。

また、付近には、「たたら製鉄」を行うために必要な燃料である「木炭」の元になる、良質の「木材」も豊富にあったため、この地で製鉄業が栄えたものと考えられます。


そして、伊達藩では、この一帯に「炯屋(どうや)」と呼ばれる製鉄所を造り、この「炯屋」において、「たたら製鉄」を行っていたのですが、その責任者が「千葉土佐」と言う人物でした。

この「千葉土佐」は、藤沢町の隣の「狼河原村(おいのかわら-むら)」の出身で、元々は、この付近(現在の東和町)の城主だったそうですが、この地で「たたら製鉄」を行いたいと考え、永禄元年(1558年)、備中(現在の岡山県)から「布留(ふる)大八郎」と弟「小八郎」を招き、付近の「千松」と呼ばれる場所で製鉄行わせたのが始めリと言われています。

そして、「布留兄弟」を始め、「たたら製鉄」の方法を最初に伝授してもらった「千葉土佐」等の8人は、「炯屋八人衆」と呼ばれていたそうです。

この「布留兄弟」ですが、上記の通り、「千松」と言う場所に住んだので、後に「千松大八郎/小八郎」と改名したようです。


こうして始まった製鉄業ですが、一説では、「布留兄弟」が、鉄を溶かす際に「呪文」を唱えると鉄が良く溶ける、と言ったそうで、皆が、この呪文を唱えるようになっていった、と伝わっているそうです。

「呪文」と聞くと、何かドラクエ(ドラゴンクエスト)の呪文のような感じもしますが・・・皆さん、もうお解りだと思いますが、「布留兄弟」はキリシタンで、この呪文が「キリスト教」の教えだったと思われます。

その後も、大籠一帯では、製鉄や、製鉄の燃料である木炭の製造が行われ続け、その範囲も徐々に拡がっていったと考えられています。

そして、製鉄業や林業が広まるに連れ、例の「呪文」も、付近一帯に、一緒に拡がったと考えられています。

このような状況の中、世の中では、慶長十七年(1612年)、徳川幕府は、幕府直轄地に対して「禁教令」を発布し、さらに翌年には、日本全国に対して「禁教令」を発布しました。

しかし、そんな状況でも、当時の伊達藩では、まだ「伊達政宗」も在命中で、慶長十八年(1613年)には、宣教師「ルイス・ソテロ」を使節団長、「支倉常長」を副使として、「慶長遣欧使節団」をスペイン国王や、ローマ教皇に派遣する等、幕府の禁教令など、無視し続けていたようです。(まあ、家康から許しは得ていましたが)



また、製鉄を行うためには、鉱山から大量の鉄鉱石を取り出さなければなりません。そして、鉱山から鉄鉱石を取り出すには鉱夫が必要です。

ところが、鉱夫は危険な職業のため、中々なり手がいなかったため、「来る者は拒まず」の方針の元、迫害から逃れてきた全国のキリスト教徒なども、知らぬふりをして雇っていたそうです。

実際に、禁教令が出されているにも関わらず、この地には、元和七年(1621年)、「フランシスコ・バラヤス神父(日本名:孫右衛門)」等も来て、鉱山や洞窟に隠れながら、布教を行っていたことが知られています。(※フランシスコ・バラヤス神父は、1639年に仙台で捕縛された後、江戸で処刑)

しかし、そんな伊達藩でも、幕府からの締め付けが激しくなり、元和九年(1624年)には、仙台の広瀬川において、カルヴァリヨ神父ら9名が、真冬の川の水牢で漬けられた末、凍死させられました。

さらに、寛永十三年(1636年)に「伊達政宗」が死去し、加えて、翌年の寛永十四年(1637年)10月に「島原の乱」が勃発したことにより、キリシタン弾圧が激しさを増しました。


伊達藩では、大籠に、沢山のキリシタンが存在することは把握していたのですが、製鉄業は、既に藩の重要産業となっていました。

そこで、伊達藩では、製鉄業を維持するために、キリシタンに対しては、「幕府には仏教に転宗(転んだ)事にするので協力する様」申し付けたそうです。

ところが、キリシタン達は、表面上も「転ぶ」事に難色を示し、遂には騒ぎ出したため、寛永十六年(1639年)から翌年に掛けて、大籠一帯では、斬首、銃殺、あるいは磔等、300名にも及ぶキリシタンの大虐殺が行われたそうです。

ところが、キリシタンであることが明らかだった「炯屋八人衆」と家族に関しては、全くの「お咎め無し」だったそうです。

このため、大虐殺が行われた後も、大籠一帯では、製鉄業は継続して行われ、明治時代になるまで続けられていたそうです。

また、大虐殺直後はバラバラになったキリシタンも、その後、徐々に戻り始め、鉱夫として働いていたと伝えられています。



さらに、炭鉱内は、一種の「治外法権」、「Out of Law」状態だったようで、炭鉱内には、教会(ミサを行う場所)やキリシタンの住処等があったと伝えられています。

また、この一帯にキリシタンが多く住んでいたのは、製鉄業が盛んだった事も一因ですが、この地の領主「後藤寿庵」の影響も大きかったものと考えられています。

後藤寿庵」は、「千葉土佐」同様、かねてより、この一帯を支配していた「葛西氏」の家来だったのですが、「葛西氏」が、「豊臣秀吉」の小田原攻めに遅れた事を理由に滅ぼされてしまったため長崎に逃れていました。

その後、正宗の側近「田中勝助」や「支倉常長」の助力により正宗に仕える事となり、支配領域に多くの「天主堂」を建てて布教活動を行い、信者を増やしていったそうです。

しかし、幕府の禁教令発布後は、「転ぶ」事を拒み、自ら「隠れキリシタン」となる道を選び、南部藩領に逃げ、各地を転々としたと伝えられています。

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これが、大籠一帯における「隠れキリシタン」の話ですが、「遠野」では、またちょっと違った話のようです。

ちなみに、「大籠」と「遠野」の位置関係ですが、「遠野」は、「大籠」の北東に位置し、直線距離にして60Km程は離れていますが、「大籠」から逃れてきた「隠れキリシタン」が、「遠野」に住み着いたとしても、別におかしな話ではないと思います。

それでは、「遠野地方」に伝わる「隠れキリシタン」の話を紹介します。

【 定本 附馬牛村誌 】

昔、遠い国からの落人と伝える人達の中にはキリスト教に対する迫害を逃れての落人ではなかったかと思われるものがある。

大洞を拓いて定着した人に菊地三左ェ門、吉左ェ門と云う兄弟がある。彼等は甲斐の国からの落人と云われるが、実は今の東磐井郡大原町から逃れて来たキリスト教徒であったことは確実な様である。

その他、村内では家によって、葬式の時の一杯飯に立てる箸を普通二本揃えて立てるのを一本は横にして十字の形にするところがある。

これはその先祖のキリスト信仰の遺風を、それとは知らずに受け継いでいるものであると云われる。

又、片門松と云って、門松を一方だけ立てる家も村内処々にあるが、昔はその根に寄せて地上に他の一本を横たえて置いたと云われ、これも十字の形となる。

遠野物語25/家の盛衰:現代語版 】

大同の祖先たちが初めてこの地方に到着したのはちょうど年の暮れで、春の急ぎの門松のまだ片方を立てないうちに元日になってしまったことから、今もこの家々では、吉例として門松の片方を地に伏せたままで注連縄を引き渡すとのことである

遠野物語84/昔の人:現代語版 】

佐々木氏の祖父は七十くらいで三・四年前に亡くなった人である。この人の青年の頃といえば、嘉永の頃であろうか。

海岸の地には西洋人がたくさん行き来していた。釜石にも山田にも西洋館がある。船越の半島の突端にも西洋人が住んだことがある。

耶蘇教は秘密裏に行われ、遠野郷でもこれを信仰して磔になった者がいる。浜に行った人の話に、「異人はよく抱き合っては舐め合う者だ」などということを今でも話題にする老人がいる。

海岸地方には西洋人との子がわりと多かったということである

遠野物語85/昔の人:現代語版 】

土淵村の柏崎では両親ともまさしく日本人ながら肌の白い子が二人いる家がある。髪も肌も眼も西洋人のとおりである。

今は二十六・七くらいであろうか。家で農業を営む。語音も土地の人とは同じではなく、声は細く鋭い。

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「定本 附馬牛村誌」は、本シリーズの「Vol.4(20160220.html)」で紹介した様に、遠野市の前身である「附馬牛(つきもうし)村」の「村誌」です。

そして、この「附馬牛村誌」と「遠野物語25」は、同じ内容、つまり「隠れキリシタン」について紹介していると思われます。


また、「東磐井郡大原町」とは、一関市と陸前高田市との市境付近になり、前述の「大籠」からは、20Km程北側になります。

しかし、「遠野物語84/85」は、実際の外国人、あるいは、そのハーフの子供について紹介した内容だと思います。

つまり、最初は「隠れキリシタン」、そして次は、実際に、釜石等の三陸海岸経由で遠野に来た外国人、およびその子孫の事を紹介した内容だと思います。

この事から推測すると、「遠野地域」には、南側からは「隠れキリシタン」が、東側からは、キリスト教を信仰する「外国人」が来て、一緒に暮らしていたと思われます。

そして、これらキリスト教の信者達は、長い年月の間、自分達がキリスト教の信者であることを忘れ、そのまま遠野に溶け込んでしまったが、昔からの風習だけは、その意味も解らずに受け継いでいる、と言う事を紹介した内容ではないかと思われます。


しかし・・・上記の「片門松」の風習ですが、他の説として「遠野南部家家老三家の習俗と伝承」とも言われています。

そもそも、この「大同家」は、甲斐南部氏の一族で、この「片門松」は、「隠れキリシタン」とは関係無く、昔から伝わっている風習とも言われています。

とは言え、遠野に「隠れキリシタン」が実在した事は事実のようで、遠野市土淵町にある「常堅寺」には、上図のような「隠れキリシタン」が拝んでいた仏像が保管されています。


画像を拡大すると解ると思いますが、仏像の頭部に「✕印」が刻まれています。

ちなみに、この常堅寺は、この「隠れキリシタン」の仏像よりも、「カッパ狛犬」の方が有名な曹洞宗の寺院です。

その他にも、遠野の「長松寺」などには、出所不明の左図のような「子安地蔵」がありますが・・・これってマリア様 ?

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本章の最後に、ちょっとオマケの話を紹介したいと思いますが、本章に登場した「狼河原村(おいのかわら-むら)」ですが、元々は「河原村」と言う地名だったそうです。

そして、この地には、次のような伝説が伝わっています。

『 昔、囲碁の勝敗がもとで殺害された一関の武士「米川外記」の幼い兄妹が、当地で仇敵に遭遇したそうです。このため、仇討をしようとした所、三峰権現の化身の白狼の助けがあり、無事、仇討を成就したそうです。この時以来、それまで河原村と称していた村名を狼河原に改めた。 』

こんな所にも「三峰信仰」が伝わっていたようです。


次に、「大籠」における製鉄業の祖と呼ばれている「千葉土佐」ですが、現在の宮城県東和町米谷の「森合館」の城主だったと伝えられており、この地方を支配していた「米谷氏」が属する「亀卦川(きけがわ)千葉氏」の一族と言われています。

ところが、天正十年(1582年)、一族間で争いが起きたそうで、「米谷氏」、およびその弟である「西郡氏」等に攻められて敗走し、本吉郡(現在の南三陸町)の歌津に隠れていたと言う記録が残っているそうです。

このため、恐らく、この敗走の後、「大籠」に居を移し、製鉄業に力を入れ始めたものと考えられています。

そして、次章では「妙見信仰」を紹介しますが、この「妙見信仰」を東北(奥州)に広めたのが「奥州千葉氏」と言われており、先の「亀卦川千葉氏」は、「奥州千葉氏」の一派となっています。

まあ、これも偶然ですが、「三峰様」 → 「隠れキリシタン」 → 「妙見様」と話が繋がったようです。

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■妙見信仰


皆さん、「妙見菩薩」と言う名前は聞いたことがありますか ?

特に、個人を含め、都内の企業経営者の方などは、「浅草酉の市」に行く機会もあると思いますが、「鷲神社」の隣にある、「長国寺の妙見様」は、「鷲」を「御眷属」とした「妙見信仰」として有名です。

左の画像は、(長国寺ではありませんが)岩手県奥州市にある「黒石寺」の「妙見堂」に伝わる「妙見菩薩像」です。

この「妙見堂」に安置されている像高75cmの「妙見菩薩像」は、童顔の武将仏で、「玄武(亀と蛇の合体した想像上の動物)」に乗り、唐服を着て剣を持つ立像となっています。

脇侍(わきじ)には、北斗七星を示す「北斗菩薩」を従えており、「武運長久」、「国家安穏」、「五穀豊穣」の尊神とされ、物事の真相を見極める霊力があると伝えられ、眼病平癒の霊力を持つと伝わっているそうです。

上画像の右上の三方(さんぽう)に載せられた物が、「隕石(流星)」と言われる黒い石で、御神体とされています。

そして、この「妙見菩薩」を祀る信仰が「妙見信仰」となります

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妙見菩薩」は、「菩薩」と名が付いているにも関わらず、実際は、インド由来の「菩薩」ではなく、「天部」に属する「仏(ほとけ)」と言う位置付けになっています。

仏の種類に関しては、本シリーズの「Vol.4(20160220.html)」にも記載しましたが、次のような位置付けとなります。

如来 釈迦が悟りを開いた後の姿。「悟りを開いた者」と言う意味。
菩薩 釈迦が修行中の姿。「悟りを開くための修行者」と言う意味。
明王 大日如来が仏教に帰依しない民衆を強制的に帰依させるため変化した姿と言われているが、元々は、インドの古代神。例:不動明王愛染明王孔雀明王
仏法の守護神。元々は、ヒンドゥー教の神々。例:毘沙門天、弁財天、帝釈天

何故このような扱いになったのかと言うと、「妙見菩薩」は、インドから中国に仏教が伝来した時に、中国に元々存在した道教における「北極星信仰」と、仏教における「菩薩信仰」が「習合」した結果、生まれた「仏」であることが原因と言われています。

この考え方は、日本の奈良時代に始まり、平安時代に定着した「本地垂迹説」による「神仏習合」と同じ考え方です。

本地垂迹説」とは、『 日本に元々存在した神々は、仏の化身として、この世に現れた神様(権現)である 』と言う、仏教徒による手前勝手な思想です。


一方、北極星は、北半球においては、古くから旅の道標として進むべき方向を示す星とされてきましたので、「進むべき道を示す者」、「優れた目を持つ者」、「天空の中心に位置する者」として、道教では「北極大帝」として神格化されていました。

つまり、中国の仏教徒は、自分達に都合の良い勝手な解釈で、道教において「天帝」と位置付けられている「北極星」の事を、「妙見菩薩」と言う名前に置き換えて信仰させたのです。

ちなみに、「妙見」とは、「その眼睛(がんせい)最も清澄なるが故に、随って能く物を視ることが出来、善悪を記録し給ふ。」と言う意味なのだそうです。

さらに、「妙見信仰」は、日本に伝わってからは、「修験道」、「陰陽道」、そして「密教」などの要素も組込まれたため、その容姿風貌や御眷属が一定とはならなかったようです。

前述の通り、「浅草長国寺」では、「鷲」がお使い(眷属)になっていますが、「黒石寺」では「玄武」、つまり「亀」が眷属となっています。その他にも、次の様な御眷属があります。

長国寺
八代神社 亀蛇(きだ)
相馬中村神社
三井寺

ちなみに、何故、「妙見菩薩」が「玄武」に乗っているのかと言うと、「玄武」は、古くから、四神の一つとされ、北方を守護する「霊獣」とされていたからです。四神のプロフィールは、次の通りです。

青龍 緑(青)
朱雀 西 赤(朱)
白虎
玄武

ちなみに、これは、以前「南部相撲(20151121.html)」で紹介した、「土俵」と同じ意味を持っています。

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ところで、「妙見信仰」が日本に渡来したのは、紀元後500〜600 年と言われており、大阪府太子町には、推古天皇六年(598年)に、「蘇我馬子」によって創建された「天白山妙見寺」があります。

また、「妙見信仰」の始まりとしては、推古天皇十九年(611年)に、「百済(くだら)」の第二十六代王「聖明王」の第三子「琳聖(りんしょう)太子」が、肥後国八代郡白木山「神宮寺(八代妙見宮)」に、七星と諸星を描いた事が最初、とも言われているそうです。

しかし、この「琳聖太子」・・・現在の山口県を勢力範囲に治めていた「大内氏」の開祖と言われていますが、百済、および日本の歴史書に全く記載が無いので、現在では、「大内氏」が捏造した「架空の人物」と言う説が一般的となっているようです。

妙見菩薩」を祀る宮中儀式としては、桓武天皇の御世(781〜806年)において、「妙見菩薩」を祀る「霊厳寺(現在:廃寺)」において、灯火を捧げる儀式が行われ、これが「御燈(ごとう)」と呼ばれる年中行事になったと言われています。

一方、延暦十五年(796年)には、当時における「妙見信仰」最大の行事とされた「北辰祭(妙見祭)」が、風紀が乱れるとして禁止されたことが記録に残されています。

これは、当時の「北辰祭」が、男女の出会いや性交の場となってしまい、皆、そちらばかりを行うようになってしまったので、男女が群がって祭りを行う行為を禁止したと伝わっています。

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その後、密教修験道を通して、日本各地に「妙見菩薩」を祀る神社仏閣が増えて行きました。


また、開祖前の「日蓮」に関しても、「修行中に妙見菩薩が現れた」と伝えられているので、日蓮宗においても、守護神として「妙見菩薩」を祀る寺社が増えていったそうです。

さらに、「桓武天皇」の血を引く「桓武平氏」、取り分け関東地方に下向し、そのまま土着した「坂東平氏」の一族に「妙見信仰」が広がったそうです。

ちなみに、「坂東平氏」とは、次のような系譜になっているそうです。(※他説有り)

桓武天皇 → 第三皇子「葛原(かずらわら)親王」 → 三男「高見王」 → 長男「平 高望(たかもち)」 → 側室の子「平 良文(よしふみ)」
そして、この「平 良文」が、従兄弟の「平 将門(まさかど)」と組んで、叔父である「平 国香(くにか)」と「上野国染谷川」で戦った際、群馬郡にある「七星山息災寺(現在の妙見寺)」に祀られている「羊妙見菩薩(ようみょうけんぼさつ)」の加護を受けて勝利を得たとされる言い伝えから、「坂東平氏」の一族に、「妙見信仰」が拡がっていきました。


そして、「平 良文」の孫にあたる千葉氏三代目「平 忠常(ただつね)」が、どこの妙見宮から分霊したのかは解らないそうですが、長保二年(1000年)に、現在の千葉県千葉氏中央区に「北斗山金剛授寺尊光院(現在の千葉神社)」を創建したそうです。

その後、この「千葉氏」、特に、「千葉氏中興の祖」と言われている千葉氏八代目「千葉 常胤(つねたね)」は、「源 頼朝」の有力御家人として勢力を伸ばすにつれ「妙見信仰」も、その支配地域に拡がって行きました。


さらに、この「千葉 常胤」は、奥州藤原氏との戦いにも参加し、東海道方面の大将として活躍したことから、奥州地域にも所領を多く持つことになりました。

東北地方には、相馬氏、葛西氏、等、千葉氏の流れを汲むとされる一族が存在しましたが、戦国時代末期「豊臣秀吉」による「奥州仕置」や数々の一揆(大崎一揆/九戸一揆)の影響により、ほとんどの一族が滅亡してしまいました。

唯一、相馬氏の一族である「陸奥相馬氏」は、鎌倉時代から始まり、戦国時代、江戸時代を生き延び、明治維新、そして戊辰戦争までの740年間、福島県相馬市付近を治めた、世界的にも稀な一族でした。

しかし、ご存知の通り、東日本大震災による福島第一原子力発電所の事故により、相馬氏の宗家(第三十四代当主:相馬行胤)は、地元を離れ、現在は広島に移住したとされています。

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余談ですが、まずは「平 良文」の従兄弟である「平 将門」、彼も当然「妙見菩薩」を祀っていたと伝わっております。

そして、この「将門」には、影武者が6名いたと伝わっており、「将門」自身と合わせると7名になりますが・・・この伝説は、「妙見信仰」に使われている「七曜紋」が起源になっていると考えられています。

また一説では、「将門」は、当初、「妙見菩薩」のご加護のお陰で、数々の戦いに勝利してきたそうですが、「新皇」を名乗り、神をも恐れぬ所業を行ったことで、「妙見菩薩」が「将門」の守護を止め、代わりに「良文」を守護するようになった、とも言われています。


次に、「平 良文」の血を引く「千葉氏」ですが、江戸時代末期に、「北辰一刀流」で名を馳せ、「坂本 龍馬」等も門人だった「千葉道場」の開祖「千葉 周作」も「千葉一族」です。

まあ、「千葉氏」の血筋で、かつ「妙見信仰」と言う事で、「北辰一刀流」と言う名称の流派になったのも、当然と言えば、当然かもしれません。

上記「七曜紋」は、「妙見宮」で多用されていますが、こちらの「月星紋」は、「千葉氏」を示す家紋となっていますが、実は、「千葉氏」も最初は「九曜紋」を家紋として用いていた、と言う研究結果もあります。


あとは・・・私の先祖が属していた「南部藩」ですが、こちらの家紋は「向い鶴に九曜」と呼ばれています。

元々、甲斐源氏出身であるため、家紋の基礎は「割菱紋」だったのですが、「瑞祥」として戦場に現れた二羽の鶴を取り入れた家紋に変更したようです。

さらに、鶴の胸部分には、「九曜」と呼ばれる、これも「妙見信仰」や「北斗信仰」を現す「星」の図柄を組み込んでいるので、何時からかは解らないようですが、南部氏も「妙見菩薩」を祀っていたのかもしれません。

とにかく、武家には、この「七曜」や「九曜」、さらに「月星」の家紋は、好んで使われたようです。

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さて、このような「妙見信仰」ですが、平安末期の岩手県においては、県南は、前述の「葛西氏」、県央部は、藤原一族に属する「留守氏(後の水沢伊達氏)」、県北部は、南部一族に属する(と言われた)「九戸氏」が支配していました。

「葛西氏」は、「千葉一族」と言われていますが、実際は、同じ「坂東平氏」の流れを汲む「秩父平氏」の「豊島氏」の一族に属しています。

そして、「豊島氏」は、領地を「今熊野神社」に寄進し、その荘官として栄えた一族ですので、「妙見菩薩」ではなく「熊野権現」を祀っていました。

しかし、「留守氏」、および「九戸氏」は、「妙見菩薩」を信仰しており、その結果、次の神社を創建、もしくは保護しています。

留守氏:日高(ひたか)神社
九戸氏:九戸(くのへ)神社

【 日高神社 】


「日高神社」は、この「留守氏」が創建した訳ではありません。

この「日高神社」の歴史は古く、弘仁元年(810年)、第五十二代「嵯峨天皇」の勅命により、この地に勧請されたのが始まりと伝わっています。

「日高」とは、日本に古くから伝わる「日高見国(ひたかみのくに)」を意味していますが、実際の「日高見国」が、何処にあるのか、どのような意味を持つのかは、今も論争中との事です。

しかし、特定の国ではなく、日の出の方向にある「国」の事を意味している説(伝説)が一般的で、この伝説の元、かの「坂上田村麻呂」が、胆沢城を造営した際の、鎮守として勧請されたのが始まりではないかと言われています。

そして、その後、「前九年の役」において、鎮守府将軍として派遣された「源 頼義/義家」親子が、「安部貞任」との戦に望む際に、この神社に戦勝を祈願した所、降っていた大雨が未の刻に止み、そのお陰で戦いに勝つことが出来たと伝わっています。

このため、戦後、「源 頼義/義家」親子が、戦勝のお礼として「神鏡」を奉じて「未の妙見堂」と呼び、それ以降は「日高妙見」と呼ばれるようになったと伝わっています。

前九年の役」の後、この地を支配した「奥州藤原氏」も、この神社を保護し、嘉応二年(1170年)には、鎮守府将軍に任ぜられた「藤原 秀衡」が、社を再造営した記録が残れています。

さらに、「源 頼朝」が奥州藤原氏を攻めた際に、「頼朝」に従った「伊沢 家景(いえかげ)」が、戦後に「葛西 清重(きよしげ)」と共に、奥州総奉行となりましたが、この「伊沢氏」の子孫が「留守氏」を名乗り、この「日高神社」を手厚く保護した事も知られています。

その後は、「留守氏」を乗っ取った「伊達氏」が再興させ、明治以後は、胆沢県の総社として「郷社」に列せられましたが、 後の神社制度の改編により社格は廃止されました。

現在では、火防(ひぶせ)の神様として、毎年の例大祭では「日高火防祭り」が行われています。


【 九戸神社 】


「九戸神社」の創建も古く、第五十四代仁明天皇」の時代、承和九年(842年)創建と伝わっています。

一説には、千葉氏の祖「松王丸」を祀るために創建されたとありますが・・・これまで記載した通り、「千葉氏」関連に、「松王丸」と人物は存在しないようですので、記録/記載ミスだと思います。

このため、「九戸神社」に関しては、何のために、誰が、何時、創建したのかは、恐らく解っていないのだと思います。

また、「九戸氏」に関しては、「南部氏」の祖「南部 行光(源 行光)」の六男「九戸 行連(ゆきつら)」が開祖として伝わっています。

しかし、焼失して現存していない「九戸神社」の縁起によると、「九戸氏」は、甲斐源氏の流れを汲む「小笠原氏」の一族で、「南部氏」とは関係無いと伝わっていたそうです。

何れにしろ、「九戸氏」の出自は不明であり、かつ何時から、この九戸村付近を治めていたのかは諸説あり、正確な年号は解っていないようです。

但し、江戸時代末の文久元年(1861年)に、南部藩士「星川正甫(せいほ)」が、南部氏全一門、および全家臣の系譜を調査/編纂して藩主に献上した「参考諸家系図」によると、「九戸家」は、初代「行連」から、「九戸政実の乱」を起こした十一代「九戸 政実(まさざね)」まで、この地を納めたとされています。

さて話を「九戸神社」に戻しますと、「九戸神社」は、天正三年(1575年)に、野火の延焼による火災で、社殿、社屋、宝庫等、全てを焼失してしまったそうです。

このため、前述の通り、縁起を含む古文書等も失われてしまったそうですが、本尊の「妙見菩薩」や「毘沙門天」、および「不動明王(鎌倉期作)」は、御手洗池に沈めたため無事だったそうです。

その後は、前述の「九戸政実の乱」で、南部氏に反旗を翻した「九戸氏」の守護神社ではありますが、「政実」と争った「南部 信直」の息子「利直」は、寄進等を行ったようで、南部藩では、明治になるまで、手厚く保護したようです。

明治になり、「神仏分離令」により、「九戸妙見」から「九戸神社」に改称させられたそうです。

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それと、岩手県民間信仰と言うと必ず登場する「遠野」ですが・・・何故か「遠野」には、「妙見信仰」は、余り根付かなかったようです。

唯一、「伊勢妙見」と繋がりがあるのではないかと言われているのは、「常堅寺」内の「カッパ淵」沿いにある祠です。

「常堅寺」と言えば、前章にも登場しましたが、地元では、「カッパ狛犬」で有名な曹洞宗の寺社です。


しかし、「カッパ狛犬」と言うのも変な名前で、「カッパ型狛犬」が正しいと思います。

要は、「頭にカッパのようなお皿がある狛犬」です。

伝承では、いたずらが失敗して捕まったカッパを諭して逃がした所、お寺が火事になった時に、頭の皿から水を吹き出して火を消し、その後は狛犬となった、と言われています。

ところで、この祠には、「乳神(ちちがみ)」と呼ばれる「カッパ」が祀られているのですが・・・何か、関連性は薄く、近年になって、無理やり習合したような感じです。


「何でカッパが乳神なの ?」 と言う疑問がわきますが、詳しいことは解らないようです。

但し、この祠に納めてある「紅白の包(画像左下)」が、「妙見信仰」と繋がっているのだそうです。

この「紅白の包」の正体は、「乳房」を現しているそうで、母乳の出が悪い母親が、この祠に「紅白の乳房」を奉納すると、母乳の出が良くなると伝わっているそうです。


「それで何が妙見信仰なの ?」と言う話ですが・・・何でも、近鉄宇治山田駅近くにあった「妙見堂」に祀ってあった「伊勢妙見」様は、「子授け」、「乳の神」、「子育ての神」として信仰を集めていたそうです。

そして、この伊勢の「妙見菩薩」にも、昔は、この「乳房」の様な布を奉納していたと伝わっているらしいです。

そして、「昔は」と言うのがミソで、現在、この「妙見菩薩」は、この「妙見堂」には存在せず、何故か、京王線の「よみうりランド」に保管されているそうです。

「伊勢妙見」に関する説明は、話が長くなるので今回は割愛しますが、遠野における「カッパ」、「乳神」、そして「妙見信仰」は、何か、「土着信仰」やら「妙見信仰」やら、様々な要素が絡み合って生まれた信仰だと思います。

特に、遠野には、今回は紹介出来ませんでしたが「乳神信仰」と言う民間信仰が盛んだったようですので、この「乳神信仰」が、かなり影響を与えているのだと思います。

「乳神信仰」は、また次回でも紹介します。

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最後に、「妙見信仰」ですが、現在では、明治政府の「神仏分離令」の影響で、主祭神を「妙見菩薩」ではなく、「天之御中主神(あめの-みなかぬしの-かみ)」としている神社が多く見受けられます。

明治政府は、「王政復古」を旗印に掲げていましたので「神仏習合」を廃止し、1868年に「神仏分離令」を発布しました。

この法律により、これまでは、神社で仏像を祀ったり、逆に寺社で神様を拝んだりしていた行為が禁じられてしまったので、「妙見菩薩」を「天之御中主神」と言い換えて祀るようになってしまったのです。

さらに、「神仏分離令」の影響で、これまで寺社を快く思っていなかった神官や一般民衆が寺社を襲って「廃仏毀釈」を行ったのは、文化財の保護の面からは、非常に勿体無い事だと思いますが・・・寺社の日頃の態度が悪かった事が原因だと思います。

恐らく、今でも「廃仏毀釈」となれば、観光地や世界遺産で有名な寺社以外は、きっと襲われるのだと思います。

ちなみに「天之御中主神」とは、「古事記」によると、天地開闢(かいびゃく)の際に、最初に出現した神とされていますし、「日本書紀」でも、2〜3番目に現れた神とされています。

特に何を行った神様ではなく、現れた後、直ぐに消えてしまった神様らしいですが、神道においては、天の中央に居る主宰神として、宇宙の根源、宇宙の源(みなもと)とされている神様らしいです。

まあ、「妙見菩薩」が「天之御中主神」となったのは、天の中央に位置する神として、「北極星信仰」と考え方が一致した事が影響しているのだと思われます。

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今回は、各信仰の背景や歴史まで深く踏み込んでしまったので、下記3つの信仰しか紹介出来ませんでしたが、如何でしたか ?

●三峰信仰
隠れキリシタン
●妙見信仰

これまで、何個か民間信仰を紹介して来ましたが、どの信仰も、その地方においては単独では存在せず、どこかでお互いに影響を与えながら、それなりに信仰が続いてきたことが解ります。

前回の「Vol.4」でも、山神信仰、産神信仰、そして月待信仰が密接に繋がっていることが分かりましたし、今回も「隠れキリシタン」と「妙見信仰」が、「千葉氏」と言うキーワードで繋がっていました。

これらの事を考えると、やはり日本人は、「単一神」の信仰は出来ない民族なのだと言うことが解りました。

しかし、これは逆に、宗教に対する寛容性の現れだと思いますので、他の「単一神」を信仰する宗教より良いのではないかと思います。

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但し、今回取り上げた「隠れキリシタン」の方々は、当時の政府から弾圧されましたが、これは「宗教弾圧」と言うよりは「政治的弾圧」だと思います。


また、「妙見信仰」で取り上げた明治の「神仏分離令」も、政府としては、恐らく「廃仏毀釈」にまで発展することは予想していなかったのではないでしょうか ?

余談ですが、「廃仏毀釈」は、明治時代に、新政府が掲げた「王政復古」が原因で行われたと考えられていますが、元々は、水戸徳川藩の「徳川 光圀」、そう、あの「光圀公」の考えを受け継いだ「水戸学」の影響を強く受けており、水戸藩第八代藩主「徳川 斉昭(なりあき)」等は、実際に寺院に弾圧を加えています。

さらに、明治新政府が、この「水戸学」の影響を強く受けた国学者達の意見を取り入れたため「王政復古」、「神仏分離令」、そして「廃仏毀釈」へと進んで行ったと考えられています。

まあ、その他にも、鎌倉時代に、新興の仏教である日蓮宗や浄土宗等も弾圧されましたが、新しい考えを持ち込めば、為政者や旧守派と揉めるのは、どこの世界でも同じだと思います。

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それと今後の展開ですが、第五弾まで紹介すると、そろそろ「ネタ切れ」も近くなって来ましたので、今後は、主に、遠野地方の信仰に焦点を当てて、次のような信仰を紹介したいと思います。

●乳神様
●金精様
●各種「神隠し」信仰
●不動信仰
●夜泣き神様信仰

しかし、遠野地方には、「これでもか !!」と言わんばかりの民間信仰があるようです。本当に、民間信仰の宝庫です。まさに、「遠野、恐るべし」です。

それでは次回も宜しくお願いします。

以上

【画像・情報提供先】
Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)
・狼信仰に関する一試論:西村敏也(http://e-lib.lib.musashi.ac.jp/2006/archive/data/j4102-08/for_print.pdf)
仁淀川町(http://www.town.niyodogawa.lg.jp/)
岩手県神社庁(http://www.jinjacho.jp/)
・迫害を逃れたキリシタン(http://www.d2.dion.ne.jp/~mjro_3/kirisitan.html)
・日本古典文学摘集(http://www.koten.net/)
岩手県新道青年会(http://ganshinsei.jp/)
・東北人の苗字(2001年/鈴木常夫)
・日本の苗字7000傑(http://www.myj7000.jp-biz.net/)
・同姓同名探しと名前ランキング(http://namaeranking.com/)

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