岩手県内における義経伝説 – 信じたくなる話ばかり Vol.2


さて、今回は、前回に引き続き「義経北行伝説」の第二弾を紹介します。

前回の第一弾(.html)では、次のような内容を紹介しました。

義経に関する史実
義経の生涯
義経に関する学説
義経北行伝説の種類
義経北行伝説のタイムテーブル

今回は、前回を引き継ぐ形で、次の内容を紹介します。

義経生存説の根拠
義経北行伝説のルート
●「義経伝説」が他の伝説と異なる点

また、前回もお伝えしましたが、5/1(日)〜5/5(木)のゴールデン・ウィーク期間中に開催される「春の藤原まつり」における義経役が決定したようですので、最後に、その内容も紹介したいと思います。

それでは今回も宜しくお願いします。

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義経生存説の根拠

さて、義経北行ルートを紹介したいと思いますが、その前に、「義経生存説」の根拠を、簡単に紹介したいと思います。

前回ブログで、「北行伝説」に関する様々な小説を紹介しましたし、それ以前、江戸時代からの説も同様だと思いますが、【 義経が生きていた 】と言う説は、「吾妻鏡」の記載内容に対する疑問と、これから紹介する数々の伝承、そして遺跡や古文書が元となっています。

そこで、本章では、「吾妻鏡」への疑問を紹介したいと思います。

●何故、「義経」は何も行動しなかったのか ?


これは基本的に、「義経」が、天才戦術家と言う事が大前提となっていますが、その「義経」が、平泉に落ち延びてから1年以上も、何も行動していない点が疑問となっています。

特に、平泉に落ち延びた翌年、文治四年(1188年)に関しては、「吾妻鏡」上には、1年間、何も記録がありません。

いくら、平泉に着いて落ち着いたからと言っても、鎌倉や京都では、大騒ぎになっているはずです。

しかも、「義経」には、僧兵や山伏、または商人等のネットワークがあった訳ですから、「風雲急を告げている」事は理解していたはずです。

また、「泰衡」の行動も掴んでいたか、あるいは最初から、一緒に、「頼朝」を欺こうと思っていたフシもあるので、何も行動しなかった、と言うのは、逆に怪しいことだと思われています。

しかし、まあ・・・結局「泰衡」は、「奥州合戦(「治承・寿永の乱」の最後の戦)」で負けてしまい、部下「河田次郎」の裏切りにより殺害されてしまいますが。

●何故、「泰衡」は大軍で攻めたのか ?


次に、「秀衡」の息子「泰衡」は、文治五年(1189年)4月に、「義経」の居館「衣川館」を攻めますが、その時の「泰衡」の軍勢は、2万人とも3万人とも伝わっています。(一部、500人と言う説もありますが)

何れにしても、当時、「義経」の部下は、数十人程度しか居なかったはずです。いかに「義経」が「戦上手」とは言え、数十人しかいない敵を、数万人で攻める訳がありません。

このため、この「衣川の戦い」は、鎌倉向けの、派手なデモンストレーションではないか、と考えられています。

●何故、首の鎌倉到着に43日も掛かったのか ?


さらに、「衣川の戦い」は、前述の通り4月30日に終結していますが、「義経の首」が鎌倉(腰越)に届いたのは、その43日後、6月13日と伝わっています。

当時、新幹線は無いにせよ、平泉から鎌倉までは、通常なら数週間で着いたはずです。また、早馬を使えば、数日でも、送り届けることは可能だったと思います。

普通の状況であれば、一刻も早く「首実験」をしたいと思う所、何故、それも真夏に、40日以上も掛けて、「義経の首」を運んだのか ?

また、5月には、「義経誅滅」の飛脚を鎌倉に送っている事実もあり、飛脚の件は、公家「九条兼実」の日記「玉葉」にも記載されています。

故に、そこには「泰衡」の、何らかの意図(故意に首を腐敗させた)が感じられるとされています。

●鎌倉側の「義経の首」への対応の仕方が変である


さて、何やかんやで文治五年(1189年)6月13日に、鎌倉(腰越)に、「義経の首」が届き、和田義盛梶原景時が、「首実検」を行います。

その時に、梶原景時は、「これは義経の首ではない !」と即座に否定したそうですが、和田義盛が「焼け首だから異なって見えるのは当然。しかも、眼中に光を宿しているので、鎌倉に入れると祟がある。」として、首を「頼朝」に見せずに、海に投げ捨てたとされています。

常識的に考えて、「頼朝」に「義経の首」を見せずに海に投げ捨てる等、考えられません。「頼朝」の部下が、そんな勝手な行動を取ったら死罪だと思います。

と言うことは、和田義盛は、あらかじめ「頼朝」から、何らかの指示があったものと考えるのが自然です。

・「頼朝」は、「偽首」と知っていたか ?
・「頼朝」は、とにかく早く奥州藤原氏を討伐したかったか ?
・鎌倉まで「義経の首」が届くと、「偽首」とバレるのを防ぎたかったか ?

色々と、説はあるようです。

●昔から「義経」に影武者がいることは知られていた


前章にも記載しましたが、「義経」に影武者がいる、と言うことは、どうも、その当時から、皆に知られていたようです。

前章では、「義経」の従兄弟「杉目太郎行信」と言う影武者の件を紹介しましたが、その他にも「佐藤忠信」も、「義経」の影武者を務めた事で有名です。

佐藤忠信」は、その昔、「義経」が、平泉から「頼朝」の陣に向かう時、その兄共々、「秀衡」から与えられた部下となります。

佐藤兄弟の「義経」への忠義は有名で、兄「継信」は、「屋島の戦い」で、「義経」を敵の矢から守ろうとして討ち死にしています。

また、弟「信忠」も、「義経」共々、「頼朝」の追っ手から逃れる途中、京都吉野山で、「義経」の替え玉となって敵をおびき寄せ、最後は「切腹」して果てたとされています。

ちなみに、この「佐藤忠信」の切腹が、武士の最初の切腹と言われているそうです。

このように、昔から「義経」には影武者や替え玉が居たのは有名だったにも関わらず、上記のように、十分に「首実検」を行わずに、海に廃棄するなど、もってのほかの行為です。

このように、数え上げればキリがない程、「義経」の自害には、謎が多く存在します。

また、後ほど「他伝説との相違」にも記載しますが、「義経の墓」が存在しないのも大きな疑問の一つです。

それでは、北行伝説のルートを紹介します。


義経北行伝説のルート

それでは、「義経」の北行ルートを簡単に紹介したいと思います。

(1)平泉

これまで記載した通り、「義経」は、文治四年(1188年)4月には周辺で兵糧を集め、同月中に、平泉の「衣川館」から遠野方面を目指して脱出したそうです。

このため、平泉周辺の庄屋には、兵糧を借りた証文が残っているそうです。



(2)妙好山「雲際寺」

雲際寺は、嘉祥三年(850年)、慈覚大師を開祖と伝えられ、中尊寺の別院ですが、その後廃れてしまったそうです。その後、平安時代末に、「義経」の正室「郷御前」の手により再建されたそうです。

このため、「義経」自害後、「義経」と「郷御前」の遺体が運ばれ、位牌も安置されていたと言われています。

江戸時代に、再度、再建されたそうですが、平成20年(2010年)に起こした火災により、位牌も焼失してしまったそうです。全く・・・



(3)石清山「観福寺」

平泉から脱出した「義経」は、最初に、佐藤継信/忠信兄弟の父親「佐藤基治」を訪れたとされています。

そして、そこから束稲山を越えて、現在の大東町猿沢に入り、「真言宗石清山観福寺」で宿泊したそうです。

この「観福寺」には、義経四天王亀井六郎重清」が、宿泊のお礼として、砂金を入れた「笈(おい)」を置いていったと伝わっており、寺宝として保存されています。

但し、この寺院は、建久二年(1191年)、「工藤祐経」の長男「犬房丸」が寺を建立して、円長法印を迎えて開山したと伝えられていますが、それだと北行伝説と、時間的ズレが・・・


(4)弁慶屋敷

次に、一行は、現在の奥州市近辺、JR水沢江刺駅近くで、かつて「弁慶」が住んでいたと伝えられる「弁慶屋敷」に立ち寄り、食事をしたと言われています。

現在は、立て看板だけが立っていますが、言い伝えでは、日中は付近の「五十瀬(いそせ)神社」に隠れ、夜になると、この家に来て白粟五升を借り、粥を炊かせて食べた後、立ち去ったといいます。

また、屋敷内には、弁慶が足を洗った池が残っているそうです。


(5)岩屋戸「多聞寺」

弁慶屋敷の北、現在の「岩谷堂町」に岩屋戸山「多聞寺」という天台宗の寺があったそうです。

一行はこの寺に宿泊し、義経の家臣「鈴木三郎重家」の笈を残したとされていますし、境内には、弁慶が腰掛けた、「腰掛松」もあったと伝えられていました。

しかし、この笈は、明治五年の火災で焼失し、寺も廃寺となってしまいました。


(6)玉崎神社

同じく岩谷堂町に玉崎と言う村があり、義経は、そこの「玉崎神社」に、5日間参籠したと伝えられています。

そして、経文、太刀、および槍などを奉納し、現在でも社宝として保存されていると言われていますが・・・何か、見た目、そのような社宝が保存されているようには見えない神社です。



(7)藤原氏隆の館(源休館)

「玉崎神社」を出た義経一行は、下伊手地区にある「藤原氏隆」の館に来て滞在したと伝わっています。

藤原氏隆」は、藤原氏の親戚と言われています。そして、「源九郎判官義経」が、逗留した館なので、「源休館」と呼ばれています。(別名「建久館」)

付近には、以前、本ブログでも紹介した巨石「狐石」があります。
★過去ブログ:岩手県内の巨石の紹介 - その2



(8)風呂家

「源休館」を出発した一行は、姥石峠を越え、判官山付近で野宿をし、赤羽根峠を超えて遠野に入ったと伝わっています。

峠越え、野宿をした一行は、遠野市細越に入ったが、汗まみれだったので、付近の農家に「風呂」を借りたそうです。

以来、この家の屋号は、義経から賜った「風呂」となり、地名も「風呂」になったと伝えられており、古文書やら巻物が保存されていたそうですが、これも火事で焼失してしまったそうです。



(9)板沢「駒形神社

峠越えや山越えを繰り返していたので、「義経」の愛馬「小黒」が、この地で倒れてしまったそうです。

そこで、この地で3日間ほど休息をとって、馬を看病したそうですが、看病の甲斐もなく死んでしまったので、「義経」は、付近に祠を建立し、葬ったとされています。

その祠が「駒形神社」と言われており、地元では「お蒼(あお)様」と呼ばれているそうです。



(10)中村「判官堂」

義経一行は、閉伊郡青笹村の六角牛山(ろっこうしやま)を越えて北に向かい、鵜住居(うのすまい)川に沿って東にある海岸の町、大槌町を目指しました。

六角牛山の北側、鵜住居川上流に釜石村中村があります。一行は、その付近の農家(八幡家)に何泊か泊めてもらい、そのお礼に鉄扇を置いて行ったそうです。(※現在は紛失)

その農家は、判官神社を建て、分家(中村家)を別当職にしたそうで、現在でも「中村家」が別当職を努めています。



(11)室浜「法冠神社」

一行は、中村「判官堂」から北に向かう際に、大槌にある代官所を避けて船越(現在の山田町)に直接舟で渡るため室浜の山崎家に寄ったそうです。

山崎家では、その記念に「法冠神社」を建立しました。

しかし、この神社は、明治二十年に焼失してしまい、その後、石の祠となっていましたが、昭和47年頃に、ブロックモルタル造りの祠に建て替えられたそうです。



(12)弁慶の手形石

室浜(大槌町)を出た一行は、北上して、「金売吉次」が金を採掘していた「金沢(金澤)村」を目指したそうです。

そして、その後は、川井村箱石に着いたのですが、回りに道が無くなったので、鞍馬寺毘沙門天に祈りを捧げたそうです。(現:判官権現社)

さらにその後、義経一行は、長者森・中山を経て、種戸口(たねとぐち)沢でいったん休憩し、その時に弁慶は、記念のため、路傍の石に手形を彫ったと伝わっています。(県道26号線沿い)



(13)山田町「山田八幡宮

一行は、大槌町種戸口から一旦南下し、続いて山田町を目指したそうです。

山田町の旧関口村には、「義経」に仕えて戦死した佐藤継信の長男「佐藤信正」が住んでいたそうで、この長男の元を訪れ、「継信」の守り本尊であった「清水観音」を託したそうです。

現在では、清水観音は、山田八幡宮のご神体となっているようです。



(14)宮古「黒森神社」

次に一行は、かつては「奥州湊」とか「渋田庄」と呼ばれた宮古にたどり着き、小高い丘に「黒(九郎)館」とよばれる居館を構えたと伝わっています。

また、黒森神社には、秀衡の遺言に従い、3年3ヶ月も籠って「大般若経」を写経したと伝わっています。




(15)判官稲荷神社

黒森の近くには、黒森山を出て北へ向かった義経の徳をしのび、その甲冑を埋めた上に祠がたてられ、現在は、「判官稲荷神社」となっている。祭神は、当然「義経」である。

「判官稲荷神社」には、「義経」が、この地に残したという「緋おどしの鎧」が所蔵されていたという伝説が残されているが、神社創建の7年後に火災により焼失したそうである。




(16)横山八幡宮

さらに北に向かう一行は、家臣「鈴木三郎重家が高齢のため、名前を「重三郎」と変え、「横山八幡宮」の神主として残したそうです。

「横山八幡宮」は、創建が白鳳九年(680年)と伝わる非常に古い神社であるが、火災により縁起などが失われてしまい、詳細は解らないようです。

また、「横山八幡宮」の記録によると、この神社にも、「大般若経」を百巻奉納したと伝わっているようです。




(17)「鵜鳥神社」

宮古を出発した一行は、田老町にある、金売吉次の弟「吉内」の屋敷を訪れたと言われています。

そして、田老から普代村の「鵜鳥神社」を訪れ、七日七晩籠もり、道中の無事を祈ったと伝わっています。

この件に関しては過去ブログに記載していますので、そちらをご覧下さい。
★過去ブログ:岩手の民間信仰 Vol2




(18)久慈「諏訪神社

次に一行は、普代村から久慈を目指しますが、諏訪の森で陣を構える追っ手「畠山重忠」の一隊と出会ってしまうそうです。

義経」と「重忠」は対峙しますが、落ち延びた「義経」を哀れに思った「重忠」は、矢をわざと外して立ち去ったそうです。

そして、矢が刺さった場所に「諏訪神社」が建立され、松の木に刺さった矢の穂先が、神社の御神体となっているそうです。




(19)青森〜竜飛岬

岩手を出た一行は、八戸に向い、ここにも長期間滞在したと伝わっています。

そして、八戸から津軽半島を目指しますが、途中「義経」の側室「浄瑠璃姫」が一行に追いつきますが、病に罹ってしまったので、家臣「鷲尾三郎義久」を看病のために残して、一行は津軽半島を目指します。

その後、津軽半島から蝦夷地に逃れようとしますが、海が荒れて渡れなかったそうです。

そこで、巨岩の上に守り本尊である観音像を安置させ三日三晩念じると、白髪交じりの仙人が現れ、3頭の龍(竜)馬を与えられ無事に蝦夷まで辿りつくことが出来たと伝えられています。

そして、この地域は、3頭の馬を繋いだ場所と言う意味から「三厩(みんまや)」と言う地名が付けられたと言われていますし、また、「竜飛岬」と言う地名は、「義経一行」が、「竜のような馬に乗って蝦夷地に飛んで行った」事から、名付けられたとも言われています。

その後、時は流れて江戸時代の寛文七年(1667年)、この地を訪れた「円空和尚」が、厩岩で光り輝く観音像を見つけたのですが、この観音像こそが、「義経」の守り本尊であると悟り、この観音像を祀るために創建したのが「義経寺」と伝わっています。

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■「義経伝説」が他の伝説と異なる点

今回は、「義経北行伝説」をご紹介しましたが、如何でしたか ?

まあ、伝説、言い伝え、古文書・・・等、いろいろと言い方はありますが、壮大な話ですよね。確かに、調べ始めたら、「半生」どころか、「一生」掛かってしまいそうな内容です。

そして、この「義経北行伝説」ですが、他の伝説と異なる特徴がある事が解っています。

最後に、他の「英雄伝説」と異なる点を紹介して、今回のブログを締めたいと思います。

(1)ルートが1本に繋がる

それは、「北行伝説」のルートが、見事に1本に繋がっている事です。

他の伝説、例えば、本ブログでも過去に取り上げた「坂上田村麻呂」の伝説ですが、この伝説の場合、ここにも、あそこにも「田村麻呂」が出没して、「やれ神社を拝んだ」、「戦勝祈願をした」等、何かを行っています。

★過去ブログ:【坂上田村麻呂】に関する観光地

また、本ブログでは、まだ取り上げていませんが、「弘法大師」の伝説も、似たような感じだと思います。

しかし、「北行伝説」の場合、今回のブログで紹介した地図やルートを見れば解る通り、本当に、見事に1本になっています。

これは不思議です。まさか、それぞれの地元で、

義経は、隣村まで来た事になっているから、次は、ウチの村でも、何か話を作らなきゃ ! 』

なんて事は無いと思いますが・・・

(2)伝説の始まり方


それと、もう一つ奇妙なのが、前にも記載しましたが、「ヒーロー伝説」とは、普通、「ヒーローが死なずに逃げ延びた」と言う形式を取ります。

今、話題の「真田幸村伝説」や「織田信長」等が英雄伝説では有名ですが、彼らは「大阪夏の陣」や「本能寺」では死なずに逃げ延びて・・・と言うのが定番です。

その他にも、同時代で言えば、「安徳天皇」や義経の叔父「源鎮西八郎為朝」等も生き延びた伝説があります。

石田三成」に至っては、茨城の「佐竹氏」まで逃げ延びて、死ぬまで匿われ、秋田には「三成の墓」があると、地元では有名です。

しかし、「義経」に関しては、それ程は単純ではなく、影武者を用意し、食料も調達し、歴史上戦死するはずの1年も前に逃亡していたなんて・・・

何とも不思議な伝説です。

(3)墓が無い


それと、最後に、他の伝説と異なる点は、「義経の墓」が、どこにも無いことです。

真田幸村の逃亡伝説」では、日本各地に「幸村の墓」が存在しますし、「織田信長の墓」も各地に存在します。

しかし、「義経」に関しては、まあ、確かに、藤沢の「白旗神社」に「首洗いの井戸」があり、「義経の墓」がある場所としては有名ですが・・・ちょっと違いますよね。

普通は、「あの英雄は、おらが村に逃げてきて最後を迎えた。ここが墓だ !」と言いたい所ですが、「北行伝説」では、見事に「通過」するだけで、どこでも死んでいません。

北行伝説で死ぬのは、「奥方」や「娘」、あるいは「息子」だけで、本人は逃げている点が、他とは異なります。

参考までに、「義経」関係者の死に関しては、伝説上は、次の通りとなっています。

・愛馬「小黒」 上郷村板沢「駒形神社
・娘「日出」 遠野市「日出神社」
・子供「?」 岩泉町「加茂神社」
正室「久我大臣の娘」 八戸市「おがみ神社」
・側室「浄瑠璃姫」 野内「貴船神社

しかし、「義経」の墓だけは、未だにありません。どういう事なのでしょうか ?

まあ、「義経」の場合、蝦夷地の後は、大陸に渡って「チンギス・ハーン」になった、とまで話が広まっていますので、今更「これが義経の墓だ !」と言っても、もはや手遅れなのかもしれません。

ちなみに、「チンギス・ハーンの墓」も、候補地は、何箇所かは見つかっているようですが、まだ正確な場所は特定されていません。

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今回、「義経チンギス・ハーン伝説」は紹介できませんでしたので、次回(があれば)紹介したいと思います。


それでは、お待たせしましたが、今年(2016年)の「春の藤原まつり」における義経役ですが・・・俳優の「高杉真宙(たかすぎ まひろ)」さんに決定したそうです!!

と、言っても、私は「高杉真宙」さんなんて、全然知らないのですが・・・何でも、経歴によれば、次のような役を演じていたそうです。



・2012年 NHK大河ドラマ平清盛』小兎丸役
・2013年 EX系特撮ドラマ『仮面ライダー鎧武』仮面ライダー龍玄/呉島光実役
・2015年 CX系『ゴーストライター』 遠野大樹役
・2015年 TBS系『明日もきっと、おいしいごはん〜銀のスプーン〜』主演 早川律役
・2015年 TBS系『表参道高校合唱部!』宮崎祐役
・2016年 EX系『スミカスミレ〜45歳若返った女〜』天野慶和役

この「春の藤原まつり」における義経役は、結構有名で、過去には、この役を演じてから、人気が出た俳優も沢山います。まあ、中には、「堀の中」に入ってしまった方も居るようですが・・・

「春の藤原まつり」は、毎年、10万人以上の観光客が押し寄せ、過去には、「滝沢秀明」さんが義経になった時など、25万人もの人で溢れたそうです。

過去の義経役に関しては、下記ブログに表を掲載しています。
★過去ブログ:春の藤原祭り−【源 義経】役は、あの人気俳優に!?

もしも、GW中に東北方面を訪れる予定があるなら、ちょっと寄り道をして世界遺産「平泉」を訪ねて、「義経」に思いを馳せてみては如何ですか ?

それでは次回も宜しくお願いします。

以上

【画像・情報提供先】
Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)
義経蝦夷征伐」 物語の生誕と機能(菊池勇夫著)
・読史余論(http://hgonzaemon.web.fc2.com/tokusiyoron1.html)
・みやこ百科事典 ミヤペディア(http://www.miyapedia.com/)
・コンテンツの雑居ビル(http://www.dab.hi-ho.ne.jp/namahage/index.htm)
義経を追って北へ……(http://members.jcom.home.ne.jp/sada165/index.html)
・平泉FAN(http://hiraizumifan.jp/)

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