南部相撲 〜 岩手の土俵は四角い土俵 ? − その2


現在、大相撲「九州場所」が開催中で、試合も終盤に入り、優勝争いも佳境に入っていますが・・・横綱の「猫騙し」、現役理事長の死去と、話題に事欠かない大相撲です。

前回の岩手・盛岡情報ブログでは、「南部相撲_その1」で、次の内容を紹介しました。

●相撲の起源
奈良時代の相撲
平安時代の相撲
●奈良/平安時代の「相撲節会
●鎌倉/戦国時代の相撲


今回のブログでは、前回の流れを受けて、「江戸時代の相撲」の仕組み紹介から始めて、「南部相撲」について、そして「土俵」の歴史等に関して次のような内容を紹介します。

●江戸時代の相撲
南部藩の相撲
●土俵に関して

また、「南部相撲」に関しては、特に詳しく、次のような内容を紹介したいと思います。

南部藩の有名な力士
・悲劇の大関
南部藩の土俵
南部藩出身の有名な行司の存在
・四角い土俵が受け継がれた理由


それでは今回も宜しくお願いします。

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■江戸時代の相撲

江戸時代は、現在に続く「相撲」が確立された時代となります。


既に、「相撲」は、安土桃山時代の末期から娯楽となってしまいましたが、江戸時代に入り、戦乱が無くなる事で武士だった「相撲人」が失業し、かつ都市が発達することで失業した「相撲人」が都市に流れ込む事で、「職業相撲集団」が形成されるようになりました。


他方、幕府は、鎌倉幕府以来、武家屋敷以外での、民衆を対象とした相撲を禁止していましたが、町方人口の増加や、前述の「職業相撲集団」の増加もあり、夜な夜な広小路へ集まり、「辻相撲」を取るようになったそうです。


このように、民衆の間で相撲は催され続けたようですが、相撲場における事件が多発するために、ついに慶安元年(1648)2月には、大勢集まる「辻相撲」の禁令が出されたそうです。


しかし、相撲人気は衰えを知らず、民衆は、相撲を止めようとは思わなかったようで、その後、何度と無く「禁令」が出されたようです。



このため、どうにか合法的に相撲を行う方法を模索した民衆は、「勧進相撲」と言う方法を考え出しました。


勧進相撲」とは、寺社が、契約金を払って相撲集団による興行を主催し、寺社を建立・修復する基金、あるいは橋の架け替えをする資金を、見物人の寄付から集めるものです。また、寺の開帳や寺社祭礼の際に興行し、寺社の維持費にも当てたりもしたそうです。


しかし、この「勧進相撲」も、相撲興行のたびに喧嘩口論が起こり暴力行為まで発生するので、「辻相撲」と共に、慶安元年(1648)と寛文元年(1660)には禁止令が出されたりしています。


その後、元禄時代(1688年〜1704年)に入ると、江戸、京都、および大阪で、名目さえあれば勧進目的でなくても、許可制で勧進相撲の開催が認められるようになったそうですが、寺社奉行から許可を得るので、名前だけは「勧進相撲」とされていたようです。


勧進相撲」は、当初は、京都・大阪を中心に繁栄し、江戸は、単なる巡業地だったようです。


「相撲」は、元々「朝廷 = 京都」で行われていた訳ですから、京都・大阪で「相撲」が繁栄するのは、当たり前と言えば、当たり前の事です。


当時の勧進相撲は、勧進相撲の興行主側の相撲人(元方)と、近隣から集まった相撲人(寄方)の対抗相撲で、勝抜(トーナメント)方式だったようです。


そして、最後まで勝ち残った者を「関を取る」と呼んだそうですが、「関」とは「関門」を意味し、「取る」とは「守る」事を意味したそうです。


つまり、「関門を守った強者」を意味し、既に、室町時代から強豪力士を「関」と呼んでいたようですが、これが、現代の「関取」に語源となったようです。


ところで、勧進相撲の許可は、当初は、寺社関連にのみ与えられていたが、次には相撲を家業とする者だけ、さらには、武家に召し抱えられた者だけに与えられるようになったそうです。


このように、相撲に対する幕府の締め付けが徐々に厳しくなり、江戸時代に相撲が繁栄したのは、享保の改革(1716〜1735年)を行った第八代将軍「徳川吉宗」以降だと考えられています。


暴れん坊将軍「吉宗」は、ケチで有名でしたからね・・・


そして、延享元年(1744年)、春は江戸、夏は京、秋は大坂、冬は江戸と言う、「四季勧進相撲」が認められ、ここから江戸の相撲がメインになっていったそうです。


この時代、前述の様に、相撲人は、大名のお抱え力士となっていますので、大名による、強豪力士の争奪戦が激しくなり、お抱え力士には、藩の印紋入りの化粧まわしを与えたり、番付には力士の出身地に関係ない藩の名を記したり、あるいは参勤交代のお国帰りの時に、行列に加えらせたりして藩の誇りとしたそうです。


宝暦年間(1751〜1764年)には、勢力をもつようになった江戸の相撲集団と、京都・大阪の相撲集団の連絡係として、現在の相撲協会の前身である「相撲会所」が組織されたりもしました。


江戸の相撲人気は、大の相撲好きだったと言われる、第11代将軍「徳川 家斉」による、54年間(1787〜1841年)にも及ぶ、治世の間に隆盛期を迎えたそうです。


「徳川 家斉」は、寛政3年(1791)と寛政6年(1794)の2回に渡り、江戸城内において上覧相撲を行い、初めて「横綱」を「谷風 梶之助」と「小野川 喜三郎」に免許しました。


加えて、寛政2年(1790年)に、197cmの巨人の「雷電為右衛門」が登場した事も相撲人気を一気に押し上げたようです。



この相撲ブームの火付け役となった横綱を免許しようと発案したのは、「吉田司家(よしだつかさけ)」で、相撲人気は、「吉田司家」なしでは、有り得なかったとされています。


吉田司家」とは、奈良時代に「相撲」のルールを考案した「志賀」氏の断絶後、「志賀」氏が代々受け継いできた「相撲」に関する故事・伝書等を引き継いだ初代「吉田 家次」から始まり、現在まで800年も続く、「相撲」の司家です。(※1)


吉田司家」は、二条家に奉公して「相撲節会」の行事官をしていたが、相撲に関する全権を、平安時代末期の「後鳥羽天皇(1183〜1198年)」より委ねられ、「相撲」の宗家として、代々「追風」と言う号を名乗っています。



そして、19世「吉田追風」が、「横綱」と言う仕組みを考案し、寛政元年(1789年)、前述の「谷風 梶之助」と「小野川 喜三郎」に「横綱」を免許したとされています。


元々「横綱」とは、力士番付の最高位を示すものではなく、当時の番付の最高位である「大関」の地位の力士の中で、土俵入りの時に「綱」を締めることが許された(免許された)者を、「横綱」と呼んでいたそうです。


そして、「吉田司家」には、さらに古くから、次のような「横綱」の由来起源が伝わっているそうです。


平安時代嵯峨天皇の時代に、大阪の住吉神社で行われた神事相撲において、近江国の「ハジカミ」という強豪がいて無敵の強さを誇っていた。そこで当時の行司役「志賀右左衣門尉」は、神前の注連縄を「ハジカミ」の腰につけさせ、対戦相手がこの縄に手をかける者があれば「ハジカミ」の負けにするとして相撲をとらせたが、誰1人縄に手をかけることが出来なかった。』


この説は、明治時代に入ってから、「吉田司家」が、盛んに宣伝した話と言われています。


しかし、平安時代の相撲には、前述の通り行司などおりません。また、「ハジカミ」と言う言葉自体、山椒や生姜を意味しているので、後世の横綱常陸山」や、相撲ジャーナリスト「彦山光三」氏は、横綱の名を汚すとして、でっち上げと決め付けてしまったそうです。


一方、江戸時代の相撲は、その後、少し衰退してしまったようですが、文政時代(1818〜1831年)以降、相撲は以前の人気を取り戻し、天宝14年(1843年)には、第12代将軍「徳川 家慶」によって上覧相撲が復活したようです。


やがて幕末になると、世の中が攘夷開港の論議で沸騰していた頃まで、相撲人気は衰える事もなく、次々と横綱が誕生していったようです。


番付編成は、お抱え力士が主だった頃の大名による圧力等の不当な影響を受けることなく、前場所の成績によるものとなって行きました。


こうした宝暦時代(1751年)以後の、相撲の目覚しい改革と発展により、相撲は、幕末の天下動乱の世情をよそに、明治、大正、昭和、そして平成と人気を保っているのだと思います。


※1吉田司家:現在は、日本相撲協会との関係は断絶し、横綱授与、および立行司への免許授与も吉田司家は行っていません。吉田司家は相撲界から抹殺されてしまったようです。

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南部藩の相撲


南部藩(正確には、南部氏盛岡藩)は、江戸時代、世に知られた「相撲どころ」だったようです。(本ブログでは、南部藩に統一して記述します。)


当時は、前述の通り、江戸が相撲の中心で、その他、京・大阪でも勧進相撲が開催されていましたが、何と、南部藩では、江戸はもちろん、京・大阪までも力士を引き連れて、「興行相撲」を行っていたそうです。


歴代藩主は、そのほとんどが相撲好きで、特に、第四代「南部行信(1692〜1702年)」、および第十代「南部利敬(1784〜1820))」の相撲好きは有名だったようです。


南部藩のお抱え力士の内、有名な四股名をあげてみると、下表の通りとなります。なお、時代は前後しますし、多分間違いがあると思います。あらかじめ謝っておきます、済みません。


さらに、力士自身、何度も改名している人物もいるので、同一人物を掲載しているケースもあると思います。


例えば、横綱を免許された「秀ノ山」ですが、次のように、何度も改名しています。


北山 辰五郎 → 天津風 雲右衛門 → 立神 雲右衛門 → 岩見潟 丈右衛門 → 秀ノ山 雷五郎 → 秀ノ山 辰五郎


さらに、逆に、異なる人物が、「2代目何とか」とか、「3代目何とか」と、同じ四股名を引き継ぐケースがあるので、訳が解らなくなってしまいました。

四股名 番付 四股名 番付
秀ノ山(雷五郎) 大関(横綱免許9代) 天津風(雲右衛門) 関脇
山ノ上(柵太夫) 大関 錦木(塚右衛門) 関脇
階ヶ嶽(龍右衛門) 大関 黒岩(?) 関脇
柏戸(宗五郎) 大関 石見潟(丈右衛門) 関脇
有馬山(龍右衛門) 大関 二所ノ関(軍太夫) 小結
緋縅(力弥) 大関 沢風(松五郎) 二段目筆頭
鶴ヶ峰(松五郎) 大関 逆鉾(幾右衛門) 不明
四賀峰(音吉) 大関 橘(富五郎) 不明
黒雲(雷八) 大関 常陸山(力蔵) 不明


上記の強豪力士達ですが、当然、南部藩出身者もおりますが、他藩からヘッドハンティングされた力士も少なくありません。



横綱免許を授与された「秀ノ山(雷五郎)」等は、宮城県気仙沼の出身で、当初は「松江藩」のお抱え力士だったのですが、後に南部藩の力士に転向し、大関横綱と昇進しています。


南部藩のお抱え力士の場合、本章の最初に掲載した画像の様な、朱地の毛織物に白字の「違い菱」の印紋(しるしもん)の化粧まわしが与えられたそうです。


明治時代の盛岡の地誌「盛岡砂子」によると、江戸時代の南部藩では、八幡丁(町)に相撲場を造り力士を育成していたと言う記述があります。また、江戸時代の延宝五年(1677年)には、家中には、お抱え力士が93名も存在していた、と言う記録も残っています。


一方、藩お抱え力士の中には、悲劇に見舞われた力士も存在したようです。上の有名力士表にも四股名があり、大関にまで昇進した「山ノ上柵太夫(三太夫)」です。



「山ノ上柵太夫」は、第三代「南部重信(1664〜1692年)」の時代に藩のお抱え力士となり、当時、日本一強いと言われていた尾張公のお抱え力士「富士の山」と対戦し、見事、「富士の山」に勝利したそうです。


このため、「南部重信」は、大いに喜び「富士山」より強いことから「山ノ上」と名乗らせたと伝えられています。


このように、藩主の大のお気に入り力士だった「山ノ上柵太夫」ですが、延宝四年(1676年)、幼少だった長男「南部行信」のお供を命じられたそうです。



その際に、「行信」を涼ませようとして、六人で担ぐ駕籠を一人で担ぎ、善意で、橋の欄干の外に差し出してしまったそうです。


この事が「南部重信」の逆鱗に触れ、磔刑に処せられてしまったそうですが、処刑の際、「山ノ上柵太夫」は、『 今後、南部からは大関を出させない!』と呪詛の言葉を吐き、槍で突かれる度に身体に力を込めて、槍を弾いたそうです。


しかし、三度目の時、身体の力を抜き、遂に刑場の露と消えてしまったと伝えられています。



ところで、南部藩の相撲、当時は「南部相撲」と呼ばれていたそうですが、何が、その特徴かと言えば、藩のお抱え力士が強かった事もありますが、それより何より、その「土俵」に特徴がありました。



「土俵」の歴史等に関しては、次の章で詳しく説明しますが、「土俵」が採用された当初は、円形や方形の「土俵」があり、特に、形は統一されていなかったようです。


南部藩の土俵については「相撲極傳之書(遊覧角力ノ図):江戸後期」の中に、5つの相撲様式の絵入りの記載があります。


儀式的な「式正相撲」では八角形の土俵を三重に巡らせ、御前相撲や神前相撲は二重の丸土俵を使用したようです。


角土俵で行われたのは、庶民が観戦できる相撲のみで、遊覧(勧進)相撲は二重土俵、追善相撲は一重に俵を置いたようです。


このように、「南部相撲」の形態には、遊覧(勧進)相撲、式正相撲、神前相撲、御前相撲、追善相撲の五流があり、遊覧、追善が「四角土俵」、神前、御前が「丸土俵」、式正相撲では「八角土俵」が用いられていました。


この内、興行として一般の目に触れたのが遊覧相撲であり、このため、「南部相撲」と言うと、「四角土俵」というイメージが出来上がったものと推察されています。



なお、角土俵の遊覧相撲は、地域によっては、昭和30年代まで残っていたようです。


左の画像は、昭和4年の田頭(でんどう)村(現:八幡平市西根町)の相撲倶楽部の画像です。見事に、四角い土俵です。


また、「南部相撲」の特色としては、他にも土俵四隅の四本柱に、四色の布を巻きつけた事が挙げられています。


「南部相撲」における「土俵」では、四本柱には四神が宿るとして、青(東・青龍)、赤(南・朱雀)、白(西・白虎)、黒(北・玄武)の布を各方面の柱に巻き付けています。


これは、現在の「土俵規定」にある「四色の房」と同じなのですが、実は、この「土俵規定」は、明治時代に制定された決まりで、江戸時代における相撲の柱は、全て「朱色」でした。


江戸時代の相撲の浮世絵を見れば解ると思いますが、四本の柱は、ほとんど「朱色」ですので、「南部相撲」の方が、現在の相撲様式を先取りしていたと考えられています。



さらに「南部相撲」の特徴として上げられるのは、土俵の屋根です。


「南部相撲」では、何故か、屋根に「鯱鉾(しゃちほこ)」を載せていたようです。


屋根に「鯱鉾」と言えば、尾張の「名古屋城」が有名ですが、その目的は、「火防(ひぶせ)」のための守り神です。


「火防/火除け」としては、飛鳥時代に、中国から「鴟尾(しび)」が伝わり、東大寺唐招提寺等の寺の屋根に据え付けられましたし、「厄除け」としては、「鬼瓦」も守り神となっています。


そして、「鯱鉾」ですが、元々は、寺院内の厨子等に付けられていた物だったそうですが、「織田信長」が、安土城天守に備え付けた事により、建造物にも付けられるようになったそうです。


「鯱」とは、想像上の魚で、火事が起きた時に、水を吹き出して、火を消してくれると考えられていましたので、恐らくは、相撲の熱気を鎮めるか、あるいは「土俵」を水で清めるために屋根に備え付けられたのではないかと考えられているそうですが・・・何れにしれ、現時点では、理由は解っていないようです。



ところで、江戸時代の初期から中頃にかけて、土俵の形が、円形に統一されて行く中で、何故、南部藩だけが、四角い土俵を使い続けたのか、あるいは、何故、四角い土俵を使い続けることが出来たのか、その点を、もう少し紹介したいと思います。


「南部相撲」において、重要な役割を果たしたのは、行司(南部藩では「行事」)職を務めた「長瀬速水家」だと言われています。


「長瀬家」は、明治元年の藩の「支配帳」によると、「閉伊郡遠野長瀬村」出身の「長瀬 善太夫儀政」を祖とする一族で、江戸時代の万治年間(1658〜1661年)には、既に、南部藩の行事職を勤めていたと記録されています。


そして、初代「長瀬 善太夫儀政」が、「南部行信(1692〜1702年)」の時代に、行事「小笠原嘉左衛門」の弟子となり、「行事」となったのですが、藩の財政危機のため、一時期、行事職が廃止されてしまったそうです。


その後、享保十二年(1727年)、七代「南部利視(1725〜1752年)」の時に、再び召しだされて「立行事」となったそうですが、その2年後に、死去してしまったようです。


その後を継いだ二代目「長瀬 善次郎慶明(のち善太郎越後)」が、彼は「渡辺家」からの養子だったのですが、享保十七年(1732年)に、京・大阪で「南部相撲」を興行し、その際、当時は従一位(後1737年に関白)の「一条 兼香(かねよし)」から、相撲行事の官名「越後」を受領したそうです。


そして、さらにその後、延享四年(1747)年、行事「岩井播磨守」より「行事免許目録」、および「相撲行事目録」を授かったと伝えられています。



江戸時代の行司職として有名なのは、前章に記載した「吉田司家」ですが、この当時(享保年間)は、まだ、それ程は権威(力)がなかったようです。


このため、「長瀬 善太郎」が、当時、朝廷で力を付けてきた「一条家」から、官名「越後」を賜った事で、「長瀬家」、および「南部相撲」が、一気に、その地位を高めたのは間違いが無い事だと思います。


但し、官名「越後」が、どれほど凄いのか、一条家が、相撲業界で、どれほど力があったのか等に関しては、解らないみたいです。


朝廷において、相撲関係で力を持っていたのは、相撲の祖「野見宿禰(のみのすくね)」の子孫と伝わっている「五条家」で、代々相撲の司家として、「相撲節会」等、相撲関係のイベントを取り仕切っていました。


しかし、「吉田司家」が仕えていた「二条家」も、「相撲節会」の行事官を行っていたようですから、「一条家」も、何らかの形で相撲に関わっていたのかもしれません。


とにかく、享保十七年(1732年)に、「一条 兼香」から官名「越後」を賜った事で、「南部相撲」が、独自の形式を維持できるようになったと考えられています。



しかし、相撲界で、それなりの地位を獲得した「長瀬越後家」ですが、文化年中(1804〜1818年)には、理由は明らかになっていませんが、勧進相撲に出ることを一條家、および南部家より禁じられてしまったようです。


このため、相撲界では、「吉田司家」が覇権を握り、 「長瀬家」は、南部藩領内で細々と独自の故実を伝えることになったみたいです。


推測ですが、「長瀬家」が勧請相撲を禁じられたのは、文化元年(1804年)に、何代目かの「長瀬 越後」が、江戸で「自刃(自殺)」して、身帯を召し上げられた事が影響しているのだと思います。


ちなみに、二代目「長瀬 善太郎越後」の墓には、「元祖岩井播磨守末葉長瀬越後墓」と言う墓碑が刻まれているそうです。



行司職の系列には、大きく2つの系列があるとされ、一方が前述の「志賀清林」を祖とする系列で、もう一方が「木瀬太郎太夫」を祖とする系列だそうです。


志賀清林」を祖とする系列は、「吉田司家」が、その流れを受け継いでおり、他方の「木瀬太郎太夫」を祖とする系列は、次の様な流れになっているそうです。


木瀬太郎太夫 → 岩井播磨(京都) → 長瀬越後(南部) → 木村喜左衛門(江戸) → 木村瀬平(江戸) → 木村玉之助(大坂)


最後の「木村玉之助」は、前述の「一条家」から行司免許を受け、大阪相撲の「立行司」で、江戸相撲でも「副立行司」を務め、「庄之助」、そして「伊之助」に次ぐ、第三の「立行司」だったそうですが、現在では、その名跡は途絶えてしまったようです。


ちなみに、「木瀬太郎太夫」は、「織田信長」が上覧相撲を開催した際に、「行司は木瀬藏春庵、木瀬太郎太夫の両名なり」と、「信長公記」に記録されている人物です。


吉田司家」が幕府に提出した「祖先書」と言う資料では、行司の祖を「志賀清林」としていますが、「志賀清林」は架空の人物と言う説もあるので、行司の始祖としては、「木瀬太郎太夫」とするのが一般的となっているようです。


このため、二代目「長瀬 善太郎越後」の墓碑には、行司の元祖である「木瀬太郎太夫」の流を継いだ「岩井播磨守」の後裔である「長瀬越後」の墓と書かれているのだと思います。



また、「岩井播磨守 → 長瀬越後」と言う流れとは別に、「岩井播磨守」の次に、「生方(うぶかた) 次郎兵衛」の名前を上げる説もあるようです。


つまり、「岩井播磨守 → 生方次郎兵衛 → 長瀬越後」と言う流れです。


「生方 次郎兵衛」は、江戸浅草の住人で、南部藩には、万治二年(1659年)に江戸で召し抱えられた人物です。


奈良女子大学助教「木梨雅子」氏によると、この「生方 次郎兵衛」は、延宝三年〜四年(1675〜1676年)にかけて、「南部相撲行司家伝書」を言う書物を書いた人物と言われております。


この「南部相撲行司家伝書」には、当時すでに「大関」、「関脇」、そして「小結」の名称が使われており、勝者には弓や弓弦を渡す、と言う規則が書かれているとの事です。


故に、「岩井播磨守 → 生方次郎兵衛 → 長瀬越後」と言う行司職の流れにも信憑性があるような気がしますが・・・そうなると、「長瀬越後」の墓碑に、「生方 次郎兵衛」の名前が無いのは、何か寂しい感じがします。



何れにせよ、「南部相撲」は、「相撲に二道なし」に重きを置き、「一味清風」を唱えた「吉田司家」とは別の権威を保持し、かつ「吉田司家」も、それを認めざるを得ない地位を確立した事が、昭和初期に至るまで、「四角い土俵」を維持できた理由だと思われます。

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■土俵に関して


ところで、「南部藩の相撲」でも触れました「土俵(どひょう)」について、歴史や意味について紹介したいと思います。


「土俵」、別の読み方をすれば「土俵(つちだわら)」です。まさしく、「土俵」とは、読んで字の如く、「俵」に「土」を詰めたものです。


元々、奈良時代平安時代、そして以降の戦国時代に至るまで、相撲には「土俵」はありませんでした。


一説には、「織田信長が土俵の原型を作った」と言う説もあるようですが・・・確かに信長は、大の相撲好きで有名で、「信長公記」にも、相撲に関する記述は多く見受けられるそうですが、「土俵」に関する記述は見当たらないそうです。



しかし、江戸時代初期の延宝年間(1673〜1681年)に、当時の行司「木村 孫六」が書いた【 相撲強弱理合書】と言う書物には、『 土俵を築くこと天正年中より始まり慶長に至りて諸国一同これを定む 』と言う記述があるそうです。


天正年間(1573〜1593年)と言えば、安土桃山時代です。当然、「織田 信長」も存命中ですから、ひょっとしたら、「織田信長が土俵の原型を作った」と言うのは、本当なのかもしれません。


しかし、現時点では、いつ頃、誰が「土俵」を考案したのかは明確にはなっていないようですが、江戸時代の寛文年間(1661〜1673年)に描かれた、相撲の浮世絵には、「土俵」が存在しているそうです。


このように、「土俵」ができた詳しい時期ははっきりとしないそうですが、歴史的背景を考えると、「土俵」ができる以前に土俵の役割をしていたのは「人方屋(ひとかたや)」と呼ばれる物だったそうです。



「人方屋」とは、相撲人の周りを、観客が、四角く囲んで境界線を作る事なのですが、彼ら観客は、しばしば人垣の中に相手を押し込んだり、あるいは突き飛ばしたりと、様々な暴力行為に及んだために、勧進相撲も禁止されてしまったそうです。


勧進相撲が禁止されてしまうと、興行が行えず困ってしまうので、職業相撲集団は、相撲の改良策として「人方屋」に変わるものを考え出したようです。


まずは、相撲場に縄を張って区切り、次には、人垣に変わって「俵」を地上に並べて相撲場としたそうです。



現在の大相撲で作られる土俵は、各場所前に、1週間ほどかけて「呼び出し(前行司)」によって築き上げられます。


日本相撲協会には、「土俵規定」と言う決まりがあり、昭和30年5月8日に施行された規定によると、「土俵」は、次のように決まっているようです。(抜粋)


第1条:公開の土俵は34cmから60cmの高さで、一辺を6.70mとした正方形に土を盛り、中に直径4.55mの円を、小俵をもって作る。

第2条 :小俵は6分を土に埋め4分を地上に出す。
第4条 :円の子俵の外に25cm程の幅を持って砂を敷き、踏み越し、踏み切り等を判明しやすくする。
第8条 :土俵には水、紙、塩を備える。
第10条 :土俵には屋根を吊るし、水引幕を張り、西方に正面東から順次各角に青、赤、白、黒の房を吊るす。室外の土依には四本柱を使用することもある。


上記規定には、「土俵の四方に四色の房を吊るす」と規定されていますが、本来ならば、室外と同様、四隅に四本柱を立てる事になります。


しかし、昭和27年(1952年)に、大相撲のテレビ放映が始まった影響もあり、一部の観客が、この柱があることで相撲が見えないと言う理由で、除去され「房」になったそうです。


その四本柱には、四季を表す四色(青、赤、白、黒)の布が巻かれていました。これは、元をたどれば、東洋医学の基礎理論である五行説からくる配色との事です。


春は青(青春)、夏は赤(炎夏)、秋は白(白秋)、冬は黒(玄冬)となる、人生もまた青から始まって黒に終わる。


初めはケツが青いなどといわれるが、やがて人生の玄人となる。その間は喜び(赤)や憂い(白)の連続で終始する。感極まるのが土用で思惑(黄色)を生ずる、と言う事らしいです。


つまり逆境でこそ人は考え、成長するという事になるという。そして、相撲における黄色は、土俵になっているらしいです。


更に、ここから生まれた配色は、東西南北の方向をも示し、同時に四神の守護の方位(東が青竜、西が朱雀、南が白虎、北が玄武)をも示していると言われています。


ところで、先に相撲の土俵が出来る以前は「人方屋」がその役目をしていたと記載しましたが、「方屋(かたや)」とは、「カタ(方)分けたヤ(屋)の意」である語源説によると、「土俵」を指す事になるそうです。


つまり、何もないところに柱を四本立てることにより、中央と東西南北の方位を定めるという意味となります。


行司が唱える「方屋祭文(かたやさいもん)」には、四本柱によって東西南北、および春夏秋冬を結界し、四季の土用を意味する中央を潔き所にしよう、と言う意味も込められています。



そして、明治時代に入ってからは、四本柱の上に、「伊勢神宮」や「出雲大社」と同じ、「神明造り」の屋根を備え付けたそうです。


これは、日本古来の高床式倉庫に起源をもつ純日本式の「神明造り」が、神々に奉納する相撲に一番ふさわしいと考えられたからだそうです。


「神明造り」では、屋根の棟木の上に直角に円筒形の「鰹木(かつおぎ)」を5本並べますが、一般的に偶数は「女神」、奇数は「男神」を現し、さらに「鰹木」には鎮めるという意味があるといわれています。


つまり、これら5本の鰹木は、「土俵」の地鎮を目的にしており、横綱の土俵入りで披露される「四股」も、『邪悪なものを踏みしめる』と言う事で、地鎮を意味しています。


さらに、「鰹木」の両端にある大棟木上の破風の両端に、角のごとく交差した木「千木(ちぎ)」が突き出ています。


「千木」は、「男神」を指す外側に削ってある物(地面と直角)と、「女神」を指す内側に削ってある物(地面と水平)がありますが、国技館の屋根の「千木」は、外側に削られていますので「男神」です。


また「千木」には、「不動」と言う意味もあり、精神に乱れない事を意味しているそうです。


こうして、相撲は、「鰹木」や「千木」を含め、「男神」を祀る屋根の下で執り行われています。


その関係で、「土俵」は、現在でも「女人禁制」で、過去に何度か、女性政治家が、賞の授与を口実に「土俵」に上がろうと試みましたが、相撲協会から、丁重に断られています。


「女性蔑視」と言われるかもしれませんが・・・その点、後世の方の判断にお任せしましょう。

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現在の「相撲人気」は凄いですね !! 本当にバブルの頃を思い出します。


しかし、人気スポーツは、耳目が集まるほど八百長が起こります。これまでも野球やサッカー等、何時になっても八百長は繰り返されると思いますので、関係者は、常に、その姿勢が問われます。



また、「姿勢が問われる」と言えば、今も、どこかの「横綱」の品位/品格が問われています。


横綱」には、当然の如く「強さ」が求められますが、今後は、「強さ」だけではない「品位/品格」に関しても、厳しく審査する必要があると思います。


言葉だけ、上辺だけの「品位/品格」ではなく、「土俵」の上での所作を見れば、「綱を張る」人物として、本当に相応しいか否かが解ります。


賞金を受け取る時にガッツポーズをしたり、仕切りの時に大切な勝負俵を踏みつけたり・・・


「土俵」上で行っている所作は、「横綱」になる前から解りますので、親方経由で注意しても所作が治らないなら、そのような人物は「横綱」に推挙すべきではありません。


「土俵」は、俵で結界を張り、「土俵祭り」において、土俵中央に縁起物である6品(洗米/するめ/昆布/塩/榧(かや)の実/かち栗)を埋め、神道の儀式に則り、邪気を払い、地鎮を行った神が宿る神聖な場所です。


そのような神聖な場所で・・・お金を貰って喜んだり、結界を張っている俵を踏んづけたりする人物が、横綱に相応しいのでしょうか ?


相撲協会は、過去にも、「横綱」不在を焦って、「綱を張る」人物として相応しくない「双羽黒」を横綱にして失敗していますし、現在の「横綱」も含めて、何人かの外国人「横綱」は、人格的に、「横綱」には相応しくないと思います。


私の勝手な意見ですが、「吉田司家」に変わって「横綱」を免許する「横綱審議委員会」は、「横綱」を推挙するだけでなく、投票等の仕組みを導入し、人格的に相応しくない「横綱」に対しては、引退させる権限も持つべきだと思います。


現在は、「横綱」引退は、「横綱」本人が決める事とされていますが、昔の「相撲」のように、相手を蹴り殺しても良い時代の「相撲」ではありません。「強さ」だけではありません。


現在の相撲は、「相撲節会」のように、「神事」としての意味合いはゼロになってしまいましたが、それでも相撲の歴史を後世に伝えるためにも、「強さ」だけではない、「品位/品格」も重要視すべきだと思います。


「横審」は、「横綱」を決める責任を持つのであれば、「横綱」を辞めさせる責任も持つべきだと思います。


「決めたから後は宜しく!!」と言うのは、将に、日本人的な物の考え方だと思いますが、それではダメだと思います。



随分と勝手な意見ばかり書いてしまいましたが、相撲は、後世に、正しく伝えるべきだと思いますので、このような事を書いてしまいました。


それでは次回も宜しくお願い申し上げます。

以上


【画像・情報提供先】
・Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)
日本相撲協会ホームページ(http://www.sumo.or.jp/)
・泉崎資料館(http://www.vill.izumizaki.fukushima.jp/siryou/index.html)
・東京都立図書館(http://www.library.metro.tokyo.jp/)
・相撲評論家之頁(http://tsubotaa.la.coocan.jp/index.html)
高田川部屋ブログ(http://www.takadagawa.com/index.html)
毎日新聞(http://showa.mainichi.jp/news/1952/09/post-1a1c.html)
・法制史研究会ホームページ

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