岩手の民間信仰 〜 聞いた事も無い信仰ばかり

今回は、岩手県内各地に伝わる「民間信仰」を紹介したいと思います。


以前のブログで、「オシラサマ」と言う人形と、遠野物語の背景、および「オシラサマ」の由来等を紹介しましたが、この「オシラサマ」も民間信仰になります。

★過去ブログ:オシラサマ

オシラサマ」に関しては、過去ブログにも記載しましたが、結局、詳しいことは現在でも解らない、と言う結末になってしまいました。


しかし、民間信仰自体、宗教とは異なり、教義・教則、あるいは経典など存在せず、口承や伝承で今日まで伝えられて来た物ですから、「謎だらけ」になるのは、当然かもしれません。

また、少し趣は異なりますが、同じく本ブログで紹介した「蘇民祭」、「裸参り」、あるいは「チャグチャグ馬コ」等も民間信仰の一種になります。

さらに、岩手県は「山」ばかりなのですが、この「山」を信仰する「山岳信仰」も、民間信仰になります。

今回は、「オシラサマ」は割愛させて頂きますが、岩手県内に伝わる、次のような民間信仰を紹介したいと思います。

項番 名称 盛んな地域
1 マイリノホトケ 花巻市
2 供養絵額 花巻市北上市遠野市
3 百万遍念仏 県全域、遠野市
4 オタメシ 一関市
5 庚申信仰 遠野市
6 山の神/オミキアゲ 八幡平市遠野市
7 お刈りあげ 県全域
8 アンバ様 三陸沿岸、宮古市、山田町
9 隠し念仏(オトモヅケ/オトリアゲ) 不明
10 カクラ様 久慈市宮古市遠野市

今回も宜しくお願いします。

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■マイリノホトケ


「マイリノホトケ」は、岩手県に伝わる民間信仰の内、「オシラサマ」に次ぐ、代表的なものになるそうです。

この「マイリノホトケ」とは、旧暦の10月、現在だと今年は11月末頃になりますが、先祖の月命日や親族の月命日等の特別な日に、親族や近所の人達が、お寺などに集まり、掛け軸や仏像、あるいは聖徳太子像を拝む風習です。

信仰対象となっているのは、阿弥陀如来聖徳太子像が多く、その他には、善導大師、地蔵菩薩不動明王、釈迦涅槃図などの仏画や「ろくじみょうごう」とも呼ばれる「 南無阿弥陀仏」と書かれた掛け軸などもあるそうです。

「マイリノホトケ」は、岩手県各地で行われているようですが、県内中部、および県南部に集中しているようです。


特に、県中央部に位置する花巻近辺は、「マイリノホトケ」が盛んに行われているようで、県全体のおよそ4分の1に当たる、約100箇所で、その風習が受け継がれている事が確認されているそうです。

しかし、「マイリノホトケ」の呼び方に関しては、地域によって異なるようで、次のような別名もあるそうです。
・十月ぼとけ
・カバカワサマ
・タイシサマ
・オヒラサマ

「マイリノホトケ」を行う日を「拝み日」と呼ぶそうですが、この日は、お参りする親類や近所の人達が、賽銭や米等をもって集まり、念仏を唱えたり食事を共にしたりし、帰りにはお供え物のダンゴやまんじゅう、お菓子等がお返しとして配られるそうです。

ところで、「何のためにお参りしているの?」と思われる方もあるかと思いますが・・・未だに、と言うか、現在では、その理由は解らないそうです。

一説では、遥か昔、庶民の間にまだ菩提寺が無かった頃、亡くなった人があれば、親族や近所の人達が集まり、亡くなった方の枕元にこの掛け軸をかけて、皆で極楽往生を祈った習わしが、未だに受け継がれている、と言う事です。

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■供養絵額(くようえがく)


「供養絵額」は、岩手県内に広く伝わる風習ですが、その中でも中部地域となる、花巻、北上、それと特に遠野近辺に伝わる民間信仰になります。

これは、身内に死者が出ると、葬儀の後、個人の肖像画菩提寺に納める風習で、江戸末期から昭和初期にかけて行われていたようです。


花巻市には、江戸末期の弘化2年(1845年)から昭和5年(1930年)までの「供養絵額」が納められているそうです。


この風習は、やはり江戸末期に広まった「死絵(しにえ)」と似た物になります。「死絵」とは、歌舞伎役者などの有名人が亡くなった後、その冥福を祈るために版行された浮世絵です。

しかし、「死絵」は、故人の死を世間に知らせるため、言わば「号外」として売りだされた物であるのに対して、「供養絵額」は、供養のために、お寺に納められる点が異なります。



また「供養絵額」は、故人の生前の暮らしぶりが描かれている点も「死絵」とは異なるようです。

遠野近辺では、「外川 仕候(そとかわ-しこう)」と言う絵師の「供養絵額」が数多く納められているそうですが、この「外川 仕候」さんは、遠野物語拾遺の第194話「外川のきつね」にも登場しています。

ここで「外川のきつね」を簡単に紹介しますと、次の様な内容になっています。

遠野物語拾遺194話「外川のきつね」】

遠野の六日町の外川某の祖父は、号を仕候といって画をよく描く老人であった。毎朝散歩をするのが好きであったが、ある日早くこの多賀神社の前を通ると、大きな下駄が路に落ちていた。

老人は、ここに悪い狐がいることを知っているので、すぐにははあと思った。そうしてそんなめぐせえ下駄なんかはいらぬが、これが大きな筆だったらなあといったら、たちまちその下駄が見事な筆になったそうである。老人はああ立派だ。こんな筆で画をかいたららなあといって、さっさとそこを去ったという。

またある朝も同じ人がここを通ると、社の前の老松が大きな立派な筆になっていたという。

近年までその松はあった。この神社の鳥居脇には一本の五葉の松の古木があったが、これも時々美しい御姫様に化けるという話があった。


遠野地域では、この「外川 仕候」と言う腕の良い絵師の存在が、「供養絵額」の広まりに影響を与えた可能性が高いと考えられています。

ちなみに、この「外川 仕候」の子孫が、まだ遠野市六日町に健在で、現在では、「外川酒店」となっているそうです。

最後に、この「供養絵額」を説明している動画を紹介しておきます。

★ダイジェスト版:http://203.178.77.203/Digest/1Mbps/C_393_D_1M.wmv
★本編:http://203.178.77.203/Main/1Mbps/C_393_M_1M.wmv

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百万遍念仏


百万遍念仏」、これは日本全国で行われている風習ですが、岩手県各地でも行われています。

この「百万遍念仏」では、葬式の日や春/秋のお彼岸の日などに、親戚一同や集落の人々が集まり、念仏を唱えながら、大きな数珠を廻す行事になります。


百万遍」は、上記の通り、日本全国で行われていますが、元々は、京都の浄土宗「知恩寺」の「百万遍行事」に由来しています。(※同じ浄土宗ですが知恩院ではありません。)


百万遍」の由縁ですが、元弘元年(1331年)、都に疫病(コレラと思われる)が蔓延した際、後醍醐天皇は、様々な加持祈祷を行わせましたが効果が無かったため、知恩寺の八世「善阿(ぜんあ)空円」に加持祈祷を命じたところ、「善阿」は、七日七夜、百万遍の念仏を唱えたところ、ようやく疫病が終息したので、その功績から、後醍醐天皇から「百万遍」と言う寺号が下賜されたということです。

左の画像が、本家である、知恩寺の「百万遍数珠繰り」です。

ちなみに、岩手の「百万遍念仏」では、大勢の人々が1,080粒といわれる大数珠を繰り、一粒繰るごとに念仏を唱えて、その総和をもって百万遍念仏を唱えたとするものが、一般的らしいです。

普通の数珠の場合、玉の数は108個(除夜の鐘と同じ)なのですが、これに10を掛けた1,080個が、基本的な百万遍の数珠の玉の数になります。

しかし、必ずしもこの数になっているとは限らないそうで、一番上の画像は、遠野市立博物館の展示物ですが、この数珠の場合、玉の数は478個だそうです。

奥州市江刺区の岩谷堂では、次のような時に、「百万遍念仏」を行うと決められていたそうです。

●火葬後の夕方(あるいは夜) : 故人の自宅で、親族一同で行う
●告別式の後 : 菩提寺で初七日供養として集落の人達と行う
●彼岸の日 : 念仏講として集落の家で行う(春と秋は別人の家)



【 拝み方 】
人々が集まり、仏壇の前の座敷に、「中立」と呼ばれる音頭を取る人を中心に丸く坐り、中立が、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と念仏の音頭を唱えると、次は参会者が、同じ文句を繰り返します。
念仏を唱えながら、大数珠を持って時計まわりに廻し、「親玉」が自分の前に廻ってきた時は、持ち上げて拝みます。
「親玉」が、仏壇の前に坐っている人の所に3回廻ってきたら鉦(かね)を鳴らします。間をおいて、最初から始めて合計3回繰り返すと終わりだそうです。

また、「百万遍念仏」では、行事の際の食事も決まっているらしいですが、今回は割愛します。




そして、「百万遍念仏」が終わると、右の画像のような「お札」が配られるそうなので、このお札を持ち帰り、自宅の仏壇に供えるそうです。

この「百万遍念仏」の場合、民間信仰と言うよりは、浄土宗と言う宗教に近い風習かもしれません。

しかし、当時の中央である京都では、宗教として確立されていたかもしれませんが、東北と言う京都から遠く離れた遠隔地では、宗教と言うよりは民間信仰に近い存在だったと思われます。

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■オタメシ


「オタメシ」とは、世間一般で言う所の「粥(かゆ)占い」になります。

「粥占い」とは、小正月(1/15)に、神様に「あずき粥」を奉納する時に合わせて行われ、米や小豆と一緒に筒を煮込み、筒の中に入った米や小豆の量で、今年の米の「豊作/凶作」を占う行事のことです。

しかし、この行事が行われる一関市藤沢町の「白澤神社」では、この行事を「オタメシ」と呼び、小正月ではなく、1/7の夜に行っています。

この「オタメシ」行事は、伝承によると、今から約450年前から、この地に伝わる行事とのことです。

この「オタメシ」行事には、ちゃんとした「式次第」があり、次のような「台本」が用意されているそうです。

【白澤神社 御例口上】


金丁・参具・再拝 (三回)
敬って白す(もうす)
平成nn年 みづのと み


日の数 三百六十五  月の数 十二ヶ月





風 雨 順次
家内安全
五穀豊穣
交通安全
諸願成就

西口 三集落
無事繁栄を祈り奉る




「之より 藤沢町西口白澤神社おためし行事を執り行う」
先ず、田打ち初めを行う
次に 代かき セーヤレ セーヤレ
次は 種蒔き
田植えの準備


田植えの歌(今日は白澤神社の御田植え/神社の御田に鶴亀降りて/今年も豊作と舞い遊ぶ/ヨイトヨイト)
草取り
世をへちえ ようよう へちえ
「年をへて 白髪 五色の 花や咲くらん」(三回)




そして、一番上の画像の様に、粟、稗、桑、等と書いた竹筒を、お米と一緒に釜で煮込み、お粥が出来上がったところで、「オタメシ」行事は終了します。


その後、炊きあがったお粥を持って宮司の自宅に帰り、宮司が「豊凶」を占うことになります。

「豊凶」の占い方は、竹筒の中に、お米が、どの位入ったかにより決まります。

その結果が、左の画像のようになり、お米が多いほど豊作となります。

万が一、占い結果が「凶作」となれば、その「凶」を祓い除くために祈願をしますし、一方「豊作」となれば、今度は「大豊作」を祈願することになるそうです。

何だか理解に苦しみますが、どっちにしろ祈願は必要なようです。

最後に、この模様を映した動画がありますので、紹介しておきます。

★筒粥占い_白澤神社:https://www.youtube.com/watch?v=vxXY7KodyXg#t=1066

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庚申信仰


「庚申(こうしん)信仰」とは、中国の道教が伝える「三尸(さんし)説」から生まれた行事です。

「三尸説」とは、人の身体の中に潜んでいる三匹の「尸(し)」と言う虫が、庚申の日の晩に、人が寝ている間に身体から抜け出し、その人の犯した悪事を天帝に告げ、天帝は、その悪事に応じて寿命を縮める、と言う説になります。

このため、長生きしたい人は、天帝に悪事を告げられないようにするために、庚申の晩には寝ずに過ごして、「三尸」が天に昇られないようにしたそうです。

この行事は、平安時代の初期頃に、道教と共に日本に伝えられ、貴族の習いとなったそうですが、平安時代末期には遊戯化し、酒なども振る舞われるようになったそうです。



その後、鎌倉時代から室町時代には、上流武士階級にも伝わったそうです。


少し信頼性・信ぴょう性に疑問があると言われる「柏崎物語」と言う歴史書に、「庚申の晩、織田信長を始め、重臣たち20数人が揃って庚申の酒席行っていたところ、度々途中で厠(かわや)に立つ明智光秀に対して、織田信長が槍を持って追いかけ『いかに、きんかん頭、なぜ中座したか!!』と問い詰めた。」と言う内容が記載されています。

庚申信仰」に関しては、室町時代に、「庚申信仰」を仏教的に説明した「庚申縁起」が作られ、江戸時代には庶民にも広がり、日本全国で盛んに行われるようになったそうです。


岩手における「庚申信仰」では、庚申の日、当日は、当番の家に近所の人達が皆で集まり、身体を清め、青面金剛(しょうめんこんごう)や猿田彦大神の掛け軸をかけて祀り、庚申真言や般若心経などを唱えた後、精進料理を食べながら酒を飲んだり、雑談をしたりしながら眠らずに一晩過ごしたそうです。

そして、この庚申の行事を、ある期間続けた場合、その証として、右図のような「庚申供養塔」を建てたそうです。


右の画像の「庚申供養塔」は、寛政10年(1798年)、遠野市に建てられた物で、岩手県内には、「庚申供養塔」が、約4,700個あることが確認されています。

ところで、庚申の日は、60日毎に巡ってきますので、通常は1年間に6回ですが、端数の関係で、7回の時もあります。また、旧暦の場合は、5回のケースもあります。

これは、中国から伝わった十干(じっかん)である、甲(こう)、乙(おつ)、丙(へい)、丁(てい)、戊(ぼ)、己(き)、庚(こう)、辛(しん)、壬(じん)、癸(き)と、十二支である、子(ね)、丑(うし)、寅(とら)、卯(う)、辰(たつ)、巳(み)、午(うま)、未(ひつじ)、申(さる)、酉(とり)、戌(いぬ)、亥(い)の組み合わせが60組あることに由来します。

岩手県内では、現在でも「庚申信仰」の行事が行われている所があるそうですが、その数は減少の一途を辿っているので、いつの日か、この行事自体も、デジタル・アーカイブでしか見ることができなくなってしまうと思います。

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■山の神/オミキアゲ


「山の神」とは、マタギやヤマゴ等、山に関係する人達が、信仰した神様になります。

マタギ:猟師
・ヤマゴ:木こり

山で仕事をする人達は、「山の神」は、木や鳥、動物など、山の全ては山の神が支配しており、恵みを与えてくれたり、危険な時には助けてくれたりしてくれると信じていました。


そこで、山仕事をする際は、鳥居を建てて祀っている「山の神」に対して、「オミキアゲ(お神酒上げ)」して拝んでから山に入ったそうです。

上の画像の「山の神」は、岩手県八幡平市(旧:安代町)に祀られていた物になりますが、この地域には、秋田県鹿角市にあった「尾去沢(おさりざわ)鉱山」に、精錬用の「春木(※)」を供給していました。

このため、安代町ではヤマゴが多く、山に入る時以外にも、毎年12/12を、「山の神」に対する「年取り」として、この日は仕事を休み12個の「シトギ(※)」、または餅とお神酒を供えて「山の神」を拝んで「オミキアゲ」をしたそうです。

※春木:薪や坑木
※シギト:米を水にひたしてやわらかくし、粉上にはたいたもの


さらに、「年取り」は、男性だけで行い、女性は参加できず、お供えも食べてはいけないと言われています。

ちなみに、「年取り」の日は、『 神様が、山の木を数える日なので、山に入ると、木と間違えられてしまい、木になってしまう 』と伝えられ、絶対に山に入ってはいけない、と言われているそうです。

また、「山の神」は、地域により違いが有り、この安代町の「山の神」は、山仕事に使う斧や鋸(のこびり)を持った男神ですが、他の地域では、女神であったり、夫婦の像であったりします。





遠野地域では、「山の神」は女性とされ、女が山に登ると災をもたらすので、女人禁制とされていたそうです。

また、「山の神」は醜い女性なのですが、獲物が取れない時は、神様の機嫌が悪い時なので、もっと醜い「オコゼ」の干物を供えて、「山の神」の機嫌を取ったそうです。

何とも人間的な風習ですが、民間信仰ならではの風習だと思います。

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■お刈りあげ


「お刈り上げ」とは、いわゆる「収穫祭」の事で、かつては、日本全国で行われていた行事です。

開催時期や開催方法は、その地方によって異なりますが、岩手県では、「田の神」に対して、収穫(刈り上げ)が無事に終わったお礼と、来年の豊作を祈願する行事となっています。

お供えは、次のような内容となっているそうです。



台座は、「逆さまにした臼」で、その上に「稲わら」を敷き、さらに上に「箕(み)」と呼ばれる、「ざる」のような農具を置きます。

「稲わら」には、ご飯用のお米の「わら」を2束と、もち米の「わら」を1束使います。

そして、「箕」の中に、次のお供え物を入れます。
・お餅 :大きいお餅2個を重ね、さらに上に小さい餅を3個置く
・菊の花 :菊の花を9本入れます。「3」は縁起が良い数字とされています。
・ご飯 :ご飯茶碗1個


ところで、「臼」を逆さにするのは理由があります。「臼」も、お祭りの時には、休ませるために逆さまにするのだそうです。

上の画像では「臼」は見にくいと思いますので、白黒ですが、大きめの画像を添付しておきます。

この白黒画像は、現在の奥州市江刺区の「山内家」の「お刈り上げ」なのですが、「山内家」では、もう「お刈り上げ」は行っていないそうです。

このように、古くからの儀式は、どんどん消えていってしまうと思います。

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■アンバ様


「アンバ様」とは、総本宮が、茨城県稲敷市阿波(あば)にある「大杉神社」の神様になります。

茨城県の「大杉神社」のある場所は、古くから「安婆」、「阿波」、「安波」、「安場」、「安葉」と呼ばれていたそうですが、神護景雲元年(767年)、日光二荒山を目指していた「勝道上人」が当地を訪れた際、病苦にあえぐ民衆を救うため、杉の巨木に祈念すると「三輪明神」が飛び移った事から「大杉大明神」と呼ばれるようになったそうです。

ちなみに、「三輪明神」とは、奈良県桜井市三輪にある「大神(おおみわ)神社」の主祭神である「大物主(おおものぬし)」の別称になります。


岩手県における「アンバ様」としては、宮古市光岸地にある大杉神社、山田町にある大杉神社が有名ですが、山田町の大杉神社は、由緒が不明なため割愛します。

参考までに、山田町の大杉神社は、東日本大震災津波を受けてしまい、社殿も神輿も壊滅してしまったのですが、ようやく去年(2013年)に、高台に移転復興したようです。



宮古市の「大杉神社」は、太平洋廻りの廻船航路が拓けた江戸後期に、下総、上総、安房など千葉・銚子方面との交易が盛んになり、鍬ヶ崎(くわがさき)町の「藤井」氏が、銚子の「アンバ様」を勧請したのが始まりとされています。

現在の「大杉神社」は、昭和5年(1930年)、山を切り崩して造成したそうですが、元々は、現在の「宮古漁協ビル」の場所にあったそうなので、遷宮しなければ、ここも津波に襲われたと思います。

ちなみに、銚子の「アンバ様」とは、銚子市小船木町にある「大杉神社」の事だと思われますが、この「小船木町大杉神社」は、由緒が不明なので、茨城県の「大杉神社」との関係は解りません。

しかし、この「大杉神社」の主祭神が「大物主」である点と、銚子市稲敷市利根川で繋がっている点を考慮すると、おそらく銚子の「大杉神社」は、総本宮末社にあたるのではないかと推測されます。

ところで、「アンバ様」ですが、地域や場所によって、漁の神でもあったり、疫病神や疱瘡神でもあったりして、かなりまちまちな形態の神様になります。

さらに、女神とも船霊(ふなだま)とも伝えられているので、その実態は解らないようです。

但し、「アンバ様」は「大きな杉の木」と一緒に信仰されていることだけは、全国的にも統一されているようです。

この「アンバ大杉信仰」は、江戸時代の享保年間(1716〜1735年)に流行した「流行神(はやりがみ)」とされ、「大杉神社総本宮」の御札が伝染病を防いでくれると言われて、主に、関東から東北沿岸にかけて広がったそうです。

流行神」とは、一時的な流行で、その後は廃れて行くのが普通ですが、前述の宮古市でも山田町でも、また、その他全国に広がる「大杉神社」においては、毎年例大祭が開催され続けている訳ですから、決して「流行神」ではないような気がします。

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隠し念仏(オトモヅケ/オトリアゲ)


隠し念仏」とは、浄土真宗の開祖「親鸞」の長男である「善鸞(1217〜1286年)」が、東国布教を行った際、浄土真宗と地元の宗教を融合させて布教した民間宗教になります。

浄土真宗では、「阿弥陀如来」と「親鸞」を本尊としていますが、「隠し念仏」では、「阿弥陀如来」よりも、「善知識」と呼ばれる「善鸞」などの導師の力に頼る宗教になってしまったので、浄土真宗からは「異端」扱いされてしまいました。

その結果、「善鸞」は、「親鸞」から絶縁・追放されてしまいましたし、後の「蓮如」なども、「信じれば無限地獄に沈む」と激しく排斥し、江戸時代には、それぞれの藩からも「邪教」として弾圧され続けました。

隠し念仏」の教義は「御書」と言う書物として「善知識」に伝えられ、「御書」は、「善知識」のみが読むことができるとされています。

この「隠し念仏」では、「オトモヅケ」と「オトリアゲ」が重要な儀式とされていますが、「オトリアゲ」が最重要とされています。

【オトモヅケ】
生まれてまもなくの赤子に信心を与える儀式です。

【オトリアゲ】
「オトモヅケ」を行った子供が、6〜7歳になった時に行う「入信」の儀式になります。

この「オトリアゲ」では、信者は「善知識」のところに赴き、仏間において、長時間「南無阿弥陀仏」と唱え続けます。

信者の意識が朦朧(もうろう)としてきた時に、「善知識」が、「助けた!」、あるいは「お助け!」と叫び、鏡による反射光を信者の口の中に照らします。

これにより、信者の身体の中に、仏が入った事になるそうですが、その後、「善知識」から、「この儀式の事は他言無用、他言すれば地獄に堕ちる」と厳命されるそうです。

ちなみに、この「隠し念仏」は、似たような言葉になる「隠れ念仏」や、「隠れキリシタン」とは、全く主旨が異なる宗教になります。

隠れ念仏」や「隠れキリシタン」は、それぞれ浄土真宗キリスト教などの教団が正式に認可した活動ですが、「隠し念仏」は、前述の通り、本体から邪教扱いされています。

このため、「隠し念仏」の信者は、表面上は他の宗派を拝んでいるように装いながら、儀式を行う時だけは、信者同士が集まって、秘密の儀式を行っていたそうです。

また、普段行う法事は「表法」と呼び、「隠し念仏」の教えを「内法」、あるいは「内信心」と読んでいるそうです。

現在でも、岩手県内各地で「隠し念仏」は行われているようですが、存在自体が「秘密結社」のような物なので、その実態は不明なようです。

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■カクラ様


「カクラ様」とは、岩手県内各地に伝えられる神様とも、仏様とも解らない存在です。

特に、遠野市近郊に多く伝えられているようですが、宮古市には「神倉」という地名が残っていますし、久慈市近辺では、石を積み上げた物を「イシカクラ」と呼んでいる所もあります。



また、地域によって、何のために拝むのかも異なり、遠野地域では、おそらく「山の神」として、久慈地域では「農の神」として拝んでいるようです。

さらに「カクラ」と言う呼び方も、地域により漢字が異なるようで、次のような漢字を使っています。
→ 「神倉」、「神楽」、「角羅」、「賀久羅」、「神座」

以前から、本ブログで何度も紹介している「遠野物語」においても、第72話「里の神 – カクラサマ」で、この「カクラ様」を紹介しています。

遠野物語 第72話】
栃内村の字琴畑は深山の沢に在り、家の数は五軒ばかり、小烏瀬川の支流の水上なり
此より栃内の民居まで二里を隔つ、琴畑の入口に塚あり、塚の上には木の座像あり
およそ人の大きさにて、以前は堂の中に在りしが、今は雨ざらし也、これをカクラサマと云ふ

村の子供之を玩物にし、引き出して川へ投げ入れ又路上を引きずりなどする故に、今は鼻も口も見えぬやうになれり
或は子供を叱り戒めて之を制止する者あれば、却りて祟を受け病むことありと云へり

【現代語訳】
栃内村の字琴畑は深山の沢にあり、家の数は五軒ほど、小烏瀬川の支流の水上である
ここから栃内の民家のあるところまで二里ある、琴畑の入口に塚がある、塚の上には木の座像がある
人くらいの大きさで、以前は堂の中にあったが、今は雨ざらしである、これをカクラサマという

村の子供がこれをおもちゃにし、引き出して川へ投げ入れたり、路上を引きずったりなどするために、今は鼻も口も見えなくなってしまった
一方、子供を叱り戒めてこれを制止する者がいると、却って祟りを受け、病むことがあるという



また、第74話においても、「カクラ様」の由縁を次のように説明しています。


「栃内のカクラサマは右の大小二つである。土淵一村では三つか四つある。いずれのカクラサマも木の半身像で、鉈の荒削りの無格好なものである。しかし、人の顔であるということだけはわかる。カクラサマとは、以前は、神々が旅をして、休息なさった場所の名であったが、その地に常に在す神をこう呼ぶこととなった」



上記の事が本当だとすると、その昔の「カクラ様」は、神の宿る「石座/岩座(いわくら)」の様な存在で、その後は、地蔵菩薩道祖神のような存在になったのではないかと考えられています。

このため、原始の「カクラ様」は、久慈市近辺にある「イシカクラ」のような存在で、それが時代を経るにつれ、遠野市近郊のような形に姿を変えていったと思われます。

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以上が、今回紹介した岩手県民間信仰ですが、中には、日本全国に伝わっている民間信仰もあることがお分かりかと思います。

その他にも、岩手県内には、次のような民間信仰があります。

●秋葉講
愛宕
●ハヤマ信仰
●淡島信仰
ウンナン
●カマドガ
●スネカ・ナモミ ・・・・・

その他に、山岳信仰となる「岩手山信仰」、「早池峰山信仰」、「六角牛山信仰」・・・・

岩手県には、本当に、聞いたことも無い神様や信仰が沢山あります。上記民間信仰に関しては、機会があれば、後日紹介したいと思います。

ご精読、ありがとうございました。

以上

【画像/動画・情報提供先】
・公益財団法人岩手県観光協会(http://www.iwatetabi.jp/)
・地域文化遺産(http://bunkashisan.ne.jp/index.html)
遠野市立博物館(http://tonoculture.com/)
・祭りの追っかけ(http://maturinookkake.blog.fc2.com/)
・奥羽温故知新(http://blogs.yahoo.co.jp/syory159sp)
・不思議空間「遠野」(http://dostoev.exblog.jp/)
・日本古典文学摘集 (http://www.koten.net/tono/gen/069.html)
・神社探訪(http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/index.html)

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