奥州安倍氏の伝説 - 実は生き延びていた編(その3)

 前々回、そして前回のブログでは、「奥州安倍氏の伝説 - 実は生き延びていた編」と題して、次のような内容を紹介しました。

 

【 前々回 - その1

 

【 前回 - その2

 

「その2」では、「安倍宗任」にのみスポットを当て、「宗任」本人と、その子供達についての伝説を取り上げました。

 

安倍宗任」は、捕虜となって遠方への配流となったのですが77歳まで生き延び、その子孫達も、各地で「名を成す」存在になっていますので、数多くの伝説が残っています。

 

「その1」では、兄「貞任」と一緒に語り継がれる伝説を3個紹介しましたが、単独、およびその子供達にかんする伝説は9個も残っているようです。

 

安倍宗任」は、文武両道に優れた武将と伝わっていますので、当時の武士ならず、庶民にも人気があったと推測されます。

 

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そして今回ですが、「その3」として、まあ、「番外編」みたいな感じになってしまいますが、「安倍貞任」の息子や娘達に関して、次の内容を紹介します。

 

  • 安倍時頼の子供に関する伝説
  • 安倍貞任の子供関する伝説

 

「安倍時頼」には、これまでにも紹介しています通り貞任/宗任以外にも7人の息子、合計9人の息子がいますが、その詳細が解っているのは、貞任と宗任だけです。

 

しかし、伝説と言う形で長男「良任」と八男「則任」の情報があるようですので、そちらを紹介します。

 

ちなみに、「安倍時頼」には、娘が3名おり、長女「有加一乃末陪(ありか いちのまえ)」が、奥州藤原氏の祖「藤原清衡」の母となっています。

 

そして、「安倍貞任」の子供は、正確には、何名いるのか解らないようですが、息子が3名いたとされていますが、娘の存在は確認されていません。

 

しかし、伝説としては下記の娘がいたとされていますので、今回、下記の子供達の伝説を紹介します。

 

・息子「高星(たかあき)丸」に関する伝説

・娘「卯の花姫」関する伝説

・娘「貞姫」に関する伝説

・娘「真砂姫」に関する伝説

・その他「金ケ崎地方」に伝わる伝説

 

安倍貞任」の娘は、「卯の花姫」、「貞姫」、「真砂姫」、そして「白糸姫」と複数名の名が挙げられていますが、伝説の内容は、どれも似たような内容になっていますので、本当は一人しかいなかったのかもしれませんが・・・今となっては何が本当なのかは、さっぱり解りません。

 

それでは今回も宜しくお願いします。

 

 

■「安倍頼時」の子供に関する伝説

ここまで、「安倍頼時」の息子の内、次男「貞任」、そして三男「宗任」に関する伝説を紹介してきましたが、前述の通り、「頼時」自身と、その長男に関する伝説を紹介します。

 

まずは、「安倍頼時」の伝説から紹介します。

 

●古賀稔康 著「松浦党祖考」

伊万里市にある「松浦党研究連合会」の会長だった故「古賀稔康(こが-やすとし)」氏が昭和52年(1977年)に出版した「松浦党祖考」には、次の内容が記載されているようです。

 

安倍宗任」は、父「安倍頼時」と共に、康平五年(1062年)、松浦に流配され、「頼時」は、松浦市志佐町白浜に、「宗任」は、小値賀島に流された。

 

「頼時」は、白浜に庵を結び、同地に祀られている「景行天皇」と「神功皇后」の妹「余等比咩命」の社に、日夜家運再興の祈願をこめ、庵で生れた六人の児の幸を祈った。

 

寛治二年(1088)に、一族流配の刑を解かれ、「宗任」は、松浦、彼杵二郡および壱岐島の司頭職となった。

 

「頼時」は、神助を感謝して淀姫神社を造営し、海浜に王島神社を建立、壱岐島より杜氏を招いて神酒を献じて家運再興を奉告し、六人の子に所領を分配した。

 

 

安倍頼時」は、天喜5年(1057年)に、鳥海柵(現:岩手県金ケ崎)で戦死した事になっていますので、この伝説では、その後も5年間、「源 頼義/義家」親子と戦い続けた事になりますが・・・何とも奇妙な話です。

 

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次は、この「安倍頼時」の長男「安倍良宗(よしむね)」に関する伝説を紹介しますが、この人物、実在し、かつ盲目であった事は、「吾妻鑑」や「陸奥話記」にも記載されています。

 

「安倍良宗」は、別名として「井殿」、「良任」、あるいは「安東太郎」とも呼ばれていたそうですが、生没年不詳で、何処に住んで、何をしたのか等、一切不明となっています。

 

このため、様々な話が、様々な場所で生まれているようです。

菅江真澄 著「にえのしがらみ(贄の柵)」

菅江真澄(すがえ-ますみ)」とは、江戸時代後期(1754~1829年)の旅行家/紀行家で、本名を「白井秀雄」と言い、信州、東北、そして蝦夷地を遍歴し、その土地の紀行文を数多く残しています。

 

菅江真澄」は、東北地方を、くまなく訪れているので、弊社ブログにも何度も登場する人物ですが、彼が、「藤原泰衡」が、旧臣だった「河田次郎」に裏切られて殺害された場所(秋田県大館市)を訪れた際に書いた「にえのしがらみ」に、「安倍良宗」について触れた箇所があるので、それを紹介します。

 

 

『 なお高く上れば、小さな堂がある。ここは安倍頼良の嫡男、厨河の次郎貞任の兄、井殿盲目安東太郎良宗が若くして身まかった塚だ。 

 

近くに十三森というのがあり、井殿冠者良宗のために、十三仏を置いたという。 

 

また堂屋敷というのがある。七ツ館、蝦夷館、また、ここにも桂清水の観音というのもあると案内が言う。 

 

盲目となった兄のために、これだけ祈った兄思いの貞任の人柄が偲ばれる 』

 

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胆沢町史「高山掃部長者」

岩手県胆沢郡が編纂した「胆沢町史」には、目が見えなかった「井殿」は、前九年の役から逃れて胆沢郡上幅村に住み着き、その子孫が「高山掃部長者」になったと言う伝説があるようです。

 

そして、これは「安倍氏」とは全く関係なのですが、この「高山掃部長者(たかやまかもんちょうじゃ)」に関しては、面白い「大蛇伝説」があるので、そちらも合わせて紹介します。

 

【 大蛇伝説 】

その昔、胆沢に慈悲深い長者がいた。しかしその女房は欲深く、やがて大蛇となって夫や子供を喰い、屋敷に火をかけ、止々井沼(とどいぬま)に住みついて、若い娘の生贄を求めて暴れた。

 

何度目かの生贄に、肥前の「さよ姫」が、郡司の娘の身代わりとなる。

 

しかし、観音信仰のあつい娘の前に、長者の女房であった大蛇は退治されてしまうといった話の筋である。

 

ちなみに。この「さよ(佐用)姫」に関しては、これ以外にも、と言うか、次のような多くの伝説が残されており、どちらかと言うと、こっちの伝説の方が有名なようです。

 

百済救済を命じられた大伴狭手彦が遠征の途上に佐用姫を妻とし、佐用姫は出征のために船出する夫を見送るため領巾を降り嘆き悲しんだ。その後、あまりの悲しみのために石になった。』

 

大伴狭手彦と別れて後も思い続けていると、夜ごと大伴狭手彦に似た男が通うので、後をつけると、それは山の沼にすむ大蛇で、姫をさらって沼に入ったという。』

 

「さよ姫」は、「佐用姫」、「小夜姫」、「佐夜姫」、あるいは「小夜媛」等と、様々な字で書かれていますが、すべて同一人物です。

 

また、上記「石になった」とか、「蛇の飲み込まれた」等の伝説は、日本各地に広がっているようです。

 

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他方、江戸時代中期の安永年間(1772~1781年)に、仙台藩内の様子を記した「安永風土記(風土記御用書出)」には、長者の屋敷跡から「焼米(炭化米)」が出ると紹介されています。

 

このため、昭和33年(1958年)に、岩手大学「板橋教授」等によって発掘調査も行われたそうですが、炭化米が数カ所で発見された以外、建物跡などを証明する遺跡なども発見されなかったそうです。

 

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●佐藤弥六 著「陸奥評林」

津軽藩士「佐藤弥六」の著書「陸奥評林」には、「安倍頼時」の長男「安倍良宗」は、盲目であったため「前九年の役」から逃れる事ができて「津軽十三(とさ)」に住んだと記載されているようです。

 

そして、その後、「奥州藤原氏」の二代「基衡」の次男であり三代「秀衡」の弟「秀栄(ひでひさ)」が、初代「十三藤原氏」となったとされています。

 

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ちょっと「安倍氏」からは話が逸れますが、元々、「津軽十三(現:五所川原市)」には、「安倍頼時」の八男「安倍則任(のりとう)」が、白鳥城を築いて治めていた土地でもあります。

 

「安倍則任」は、白鳥城に因み、自らを「安倍白鳥八郎則任」と称していましたし、また「十三左衛門尉」とも名乗りっていましたが、子供が居なかったので前述の二代「基衡」の次男「秀栄」を養子に迎えたとの事です。

 

そして、「津軽系図」によると、この「十三秀栄」は、自らを「御館次郎」と名乗り津軽六郡を支配して「津軽氏」の祖になったと伝えています。

 

しかし、「津軽氏の祖」に関しては諸説あり、別の説では「南部氏」の分家「南部久慈氏」の流れをくむ「大浦光信」を「津軽大浦家」の家系を祖とする説もあるようです。

 

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津軽十三」は、別名「十三湊」ともよばれ、天然の良港だったのですが、現在は「十三湖」として汽水湖になってしまっています。

 

津軽十三」に関しては、平安時代末は、前述の通り「十三藤原氏」が支配していましたが、その後「十三藤原氏」は衰退して行き、鎌倉時代後期には、「安倍貞任」の次男と言われる「高星丸」を祖とする「安東氏」が周辺一帯を支配したとされています。

 

「高星丸」に関しては、次章で紹介しますが、室町時代以降は、「南部氏」が勢力を伸ばし、「安東氏」は、南部氏に敗れて蝦夷地に退いてしまったそうです。

 

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このように、津軽においても、「安倍氏」や「藤原氏」の子孫達が活躍していたようですが、鎌倉幕府を開き、当時の日本を支配していた「源氏」も、津軽までは影響力を及ぼすことは出来なかったようです。

 

 

 

 

■「安倍貞任」の子供に関する伝説

ここで、奥州安倍氏の家系を明らかにするために、家系図を用意しました。今回登場する人物には赤丸を付けてあります。

 

 

 

 

こうして「安倍氏」と「藤原氏」の家系を明らかにすると、「安倍氏」の血筋は、脈々と受け継がれていた事が明らかにあります。

 

ちなみに、「安倍貞任」の子供に関しては諸説あり、第二子は女の子と言う説もありますが、この子は行方不明となったと記録されているようです。

 

長男に関しても、「千代童子」、あるいは「千世寿丸」等と名前は諸説あるようです。また、戦後、まだ幼い事から(12歳前後)、助命も検討されたようですが、「清原武則」の諫言で処刑されてしまったようです。

 

それでは、本章では、「安倍貞任」の子供達に焦点を当てて、各地に伝わっている伝説を紹介したいと思います。

 

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●息子「高星(たかあき)丸」

青森県蓬田村の村史によると、前九年の役の末期、当時3歳だった「高星丸」が、乳母と共に厨川柵から逃げ延び津軽藤崎に辿り着いた。

 

その後、成長した「高星」は、藤崎城主となり津軽六郡と外ヶ浜、下北郡一帯を支配したと伝わっているようです。

 

また別の説では、当時、この津軽地域は、「安倍頼時」の八男「安倍白鳥三郎則任」が支配していました。

 

このため、厨川柵から逃れてきた「高星丸」は、叔父である「則任」を頼って津軽に逃れ、「則任」の庇護の元、藤崎城主となって「安東氏」を名乗るようになった、と伝わっています。

 

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次は、「安倍貞任」の娘の伝説となりますが・・・既にお解りの通り、「貞任」には女の子はいません。

 

それにも関わらず、「貞任」の娘に関しては、様々な伝説が語られていますので、今回は、その内、数件を紹介します。

 

●「卯の花姫」伝説

この伝説は、山形県長井市に伝わる話で、次の様な内容となっています。

 

東北を支配する安倍族の武将「安倍貞任は、弟の「宗任」と共に、この地を守っていました。

 

朝廷に背いたとして「源 頼義/義家」親子が、安倍一族を打つために東北に攻め入ってきました。

 

「貞任」には、「卯の花姫」という娘がいて、その娘は敵方である義家に恋をしてしまいました。

 

「義家」は、姫に手紙を送り、「貞任」側の手の内を盗み出そうとしました。

 

「義家」に騙された「卯の花姫」は、情報を漏らしてしまい、遂に父である「貞任」は、戦いに敗れて亡くなってしまいました。

 

父の死後、信じていた「義家」からの便りは途絶え、騙されていたことに気づいた「卯の花姫」は、三淵渓谷に身を投げました。

 

その後、「卯の花姫」は、竜神となり三淵を守る水神様となり、地元の「五所神社」に祀られたと伝わっています。

 

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●「貞姫」伝説

この話は、秋田県大仙市に伝わる話で、次の様な内容となっています。

 

奥羽征伐の「義家」は、神岡町神宮寺の鶴の羽形城に立て籠もった「安倍貞任」を攻めたが、前は玉川と雄物川の合流地で、雨期で水量があり、両軍は川をはさんで対峙していた。

 

馬で川原を歩む「義家」を遠目に見て「貞任」の娘「貞姫」は恋心を燃やし、川を渡り、「義家」の胸に抱かれた。

 

「貞姫」の懐胎を知った「貞任」は諦めさせようとしたが、姫の心は変わらず、怒った父は、姫を生きながらにして山頂に埋めた。

 

この城は、「義家」の猛攻で落ちた。「笛が沢」は、姫が笛を吹きつつ「義家」の元に通った沢であり、「カツラ沢」は、姫がカツラを落としたところ、「カモジ沢」は、姫が捕手にカモジを投げつけた沢、「忍び長根」は、忍ぶ恋路だった。

 

「白粉沢」は、姫が死出の化粧をした沢といわれ、毎年5月4日に姫神山の沢の水が白く濁るのは、姫が米をとぐため、5日に山頂に白旗がはためくのは、姫の体内の子が父義家を慕うためという。

 

山頂にある姫神の宮は、村人が姫の悲恋をあわれんでたてたものという。鶴羽形城の名は、元桜樹にとんでいたところからきたという。

 

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●「真砂姫」伝説

花巻市東和町砂子の「大沢瀧神社」に伝わる伝説となります。神社の由来によると、次のようになっています。

 

『 康平五年(一〇六二年)陸奥守兼鎮守府将軍源頼義が、厨川柵を攻め滅ぼし、俘囚の長兼六郡の郡司安部頼時の長男安部貞任を戦死させた。源氏の基盤を固めた前九年の役である。

 

安部貞任が、一族の本拠地奥六郡から北の厨川へ、山峡を忍んで駒を進めたであろう、栄華の後の寂しい最後の逃避行となった。

 

安部貞任の娘「真砂姫」が父貞任の後を追いこの地大沢の滝川にさしかかった。父の身を案じ、父の身代わりとの思いだったのであろうか、この滝川に身を投じてしまった。

 

後に源頼義の子八幡太郎義家が「真砂姫」を哀れみ、現在の古滝大明神の地に社を建立して「瀬織津姫命」を勧請、姫の霊を弔ったと伝えられており、地区内外を問わず厚い信仰を集め今日に至っている。

 

現在の社殿は文政年間(一八一八~一八二九年)の建立で二度目の改築と伝えられ、「迦具土命」との合祀となっている。特に縁結びの神様として地域社会の心の結び合いの所縁として親しまれており、毎年九月九日賑やかに例大祭を行っている。

 

なお、当地「砂子」の地名は「真砂姫」に由来するとの説がある。 』

 

と言う伝説なのですが、もう少し脚色を加えると、次のようになっているそうです。

 

 

当初、真砂姫は、父「貞任」や、その他の一族郎党と一緒に厨川を目指していたそうですが、途中ではぐれてしまい、付き従う家臣は「直義」ただ1人となってしまったそうです。

 

そして、大澤の地に到着すると馬を降り、

 

「父は既に戦で死んでしまったかもしれない。自分1人生きていても仕方がありません。ただ、幼い弟、千代童丸の命だけは救って欲しいと義家公に伝えて下さい。」

 

と直義に伝えると、手紙を書き、切り取った自分の髪で、かつえ義家からもらった観音像を包み、それを直義に渡した。

 

それから、自分が乗ってきた愛馬「大鹿毛(おおかげ)」に、「よく、ここまで私と共に来てくれました。これから先は自由に生きなさい。」と言い、鞍と手綱を外したそうです。

 

それから姫は、大澤の瀧の石の上で法華経を唱えた後、川に飛び込み姿が見えなくなってしまったが、滝壺から白い光が飛び出して東の空に消えたそうです。

 

愛馬「大鹿毛」は、涙を流しながら山の上まで行き、西に向かって二度(or 三度)鳴いてから倒れて死んでしまったそうです。

 

この事から、その後、この山を「大鹿山」と呼ぶようになったそうですし、また、付けていた鞍を捨てた場所を「鞍沢村」と名付けたそうですが、現在は「倉沢」となっているそうです。

 

そして、残された家臣「直義」は、翌日、義家が陣を敷いている笹丘城に行き、姫からの手紙を渡して、一部始終を義家に話して聞かせたそうです。

 

義家は、姫を哀れに思い、真砂姫の霊を「瀬織津姫命」として祀ったと伝わっているそうです。

 

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●金ケ崎地方に伝わる伝説

次は、岩手県南部「金ケ崎町」に残っている伝承を紹介します。こちらの伝承も、上記で紹介した内容と似た話になっているようです。

 

・大林城(百岡城)伝説

林城は、その昔、百岡城とも言い、安倍氏の砦だった。この城には、「安倍貞任」の姉と妹も同居していたが、姉妹揃って「源 義家」に懸想(恋)し、城内の機密を漏らしたために落城したと伝わっています。

 

・菊が森伝説

安倍貞任」の娘(あるいは妹)である「お菊」と「お鶴」が、「源 義家」に自軍の機密を漏らしたので処刑された。この事から、後世の人達が「お菊」のために塚を建て、その塚が「菊が森」と呼ばれたが、今では、もう存在しない。

・つるべ落とし伝説

上記伝説で登場した「お鶴」に関しては、六原丸森の難所となっている深い谷に投げ落とされて処刑されたので、後世の人達は、この谷を「つるべ落とし」と名付けた。

 

・白糸姫伝説(その1)

安倍貞任」の娘「白糸姫」が、「源 義家」に軍事機密を漏らして生き埋めにされた。この姫を弔うために義家が建立したのが「本宮観音堂」である。あるいは、ここが「白糸姫」の墓所である。

 

・白糸姫伝説(その2)

別の「白糸姫伝説」では、この姫は、「安倍貞任」の娘ではなく、父「頼時」の妻となっており、次のような内容となっています。

 

 

江刺市伊手の山の中に、「田束(たつかね)山自生院」という天台宗のお寺があり、この寺に、背が高くて綺麗な女性が、屈強な武士達と一緒に暮らしていた。

 

いつ頃から、この寺で暮らし始めたのか村人達には分からなかったが、何時からか「御堂さま」と呼ぶようになったが、家来の武士達は「白糸姫」と呼んでいた。

 

この「白糸姫」、実は「安倍頼時」の妻で、元々は身分の低い生まれだったが、「頼時」に嫁ぐため、関白「藤原道長」の養子となり、その後「安倍頼時」と結婚したので、「御堂さま」と呼ぶようになったそうです。

 

なぜ、この様な高貴な姫が山中に隠れて暮らしているのかと言うと、義理の息子「安倍貞任」に捕まった「源 義家」を逃した事で、「貞任」から追われる身になってしまったそうです、

 

ところが、前九年の役で、夫は戦死し、養父も既に他界していたので、戦後、「義家」が、この姫を哀れに思い、金ケ崎に住まわせたと伝わっている。

 

そして、この姫が暮らしていた場所を「白糸城」と呼ぶようになったそうです。

・白糸姫伝説(その3)

前九年の役の最中、「源 義家」は、「安倍貞任」との戦に敗れ、鳥海柵に捕らわれてしまったそうです。

 

「源 義家」は、何とか柵から脱出しようと、「貞任」の娘「白糸姫」を次のような言葉で、たぶらかしたそうです。

 

『 俺を逃してくれれば夫婦になる。また、その時、貞任が持っている神通力の巻物も一緒に持って来てくれ。』

 

「義家」を信じた姫は、巻物を「義家」に渡して逃してしまったそうです。

 

巻物には、戦で勝つための秘策が書かれており、次の戦で、貞任軍は負けてしまったのですが、「白糸姫」が、「義家」に巻物を渡して逃した事を知った「貞任」は、「白糸姫」を生き埋めにしてしまったそうです。

 

これを知った「義家」は、「白糸姫」を哀れに想い、お堂を建立して十一面観音を祀ったそうですが、これが現在の「本宮観音堂」である。

 

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今回は、「奥州安倍氏の伝説 - 実は生き延びていた編」の第3回目として、次のような内容を紹介しましたが如何でしたか ?

 

 

今回、「安倍氏」に関する「実は生きていた」伝説を紹介しましたが、似たような伝説を聞いた事はありませんか ?

 

それは、弊社ブログで過去に紹介した「源 義経北行伝説」です。

 

★過去ブログ:岩手県内における義経伝説 ? 信じたくなる話ばかり Vol.2

 

「源 義経」の場合、上記ブログにも記載していますが、本当に良く出来た(と言えば変な話ですが)伝説で、ちゃんと、「義経」が出現した場所が線で繋がるのが不思議でした。

 

しかし、今回紹介した「安倍伝説」は、さすがに「義経北行伝説」に比べると質が落ちます。

 

「安倍一族」は、様々な場所に登場するのですが、全て、行き当たりばったりの感じです。

 

安倍氏」にかんしては、まだまだ伝説がありますので、機会があれば別の伝説を紹介したいと思います、

 

それでは次回も宜しくお願いします。

 

以上

 

 

【画像・情報提供先】

Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)

・日本古典文学摘集(https://www.koten.net/tono/)

いわき市鹿島の極楽蜻蛉庵(https://blog.goo.ne.jp/ah8671)

・学校法人中村学園アーカイブ(http://www.nakamura-u.ac.jp/library/kaibara/archive05/)

国文学研究資料館(https://www.nijl.ac.jp/)

・近代書誌・近代画像データベース(http://base1.nijl.ac.jp/~kindai/index.html)

・はてノ鹽竈(https://blogs.yahoo.co.jp/mas_k2513)

・千時千一夜(https://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo)

陸奥評林 - 国立国会図書館デジタルコレクション(http://dl.ndl.go.jp/)

七戸町ホームページ(http://www.town.shichinohe.lg.jp/index.html)

蓬田村ホームページ(http://www.vill.yomogita.lg.jp/index.html)

・秋田の昔話・伝説・世間話(http://namahage.is.akita-u.ac.jp/monogatari/)

・遠野文化研究センター(http://tonoculture.com/)