奥州安倍氏の伝説 - 実は生き延びていた編(その2)

  前回のブログでは、「奥州安倍氏の伝説 - 実は生き延びていた編(その1)」と題して、「安倍伝説」に関して、次のような内容を紹介しました。

 

 

★過去ブログ:奥州安倍氏の伝説 - 実は生き延びていた編(その1)

 

その中では、北は岩手県から始まり、福島県山形県、長野県、群馬県京都府、そして福岡県と、「安倍氏」にまつわる伝説がある事が解りました。

 

  今回、「実は生きていた。」に焦点を当てたブログなのですが、私的には、京都府に伝わっている「安倍貞任がゾンビ(Zombie)になった。」と言う伝説が、非常に興味深かったです。

 

死体を切り刻んでも生き返って祟りをもたらすとは、本当に、ゾンビ以上の恐怖だと思います。

 

ゾンビは、映画では、クビを切り落とせば大人しくなりますが、「安倍貞任」は、それだけではダメだったようです。

 

また、「平 将門」や「崇徳天皇」も祟り神となったのですが、さすがに「ゾンビ化」はしなかったと思います。

 

日本において、「死体が生き返った」と言う伝説は、この「安倍貞任」以外、存在しないのでは無いでしょうか ?

 

イザナギ」は、死んだ妻「イザナミ」に会いに行きましたが、そこは死者が住む「黄泉国」ですから、「イザナミ」は生き返った訳ではありません。

 

死んだ後に祟りをもたらすケースは、上記、および前回も紹介した「平将門」、「崇徳天皇」、そして「菅原道真」等、数多くの「祟り神」は存在します。

 

しかし、死んでも生き返り、なおかつ祟をもたらす等、聞いたこともありません。

 

まるで「イエス・キリスト」のようです。しかし、念のために申し上げると、「キリスト」は、祟り神ではありませんが・・・

 

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さて、そんな最強の「安倍氏」に関してですが、今回は、「その2」として、「安倍宗任」のみが関わる伝説として、次の内容を紹介します。

 

 

 

 

まあ、「安倍宗任」は、戦死しておらず、当時としては異例の長生きで、77歳まで生きていたと伝わっていますので、今回のシリーズの主旨、「実は生きていた」とは少し異なりますが・・・

 

それでは今回も宜しくお願いします。

 

 

 

■「安倍宗任」とは

 

  貞任の弟「安倍宗任」は、何度も紹介している通り、岩手県胆沢郡金ケ崎にあったとされる「鳥海柵」の主とされていましたが、盛岡市「厨川柵」での敗戦後、「源 頼義/義家」親子に降伏し、都に連行されてしまいます。

 

そして、その後、伊予国に3年、次に筑前国宗像郡に配流され、水軍「松浦党」や「宗像氏」との間で重要な関係を築き、平安時代末「嘉承3年(1108年)」、77歳で死亡したとされています。

 

文武両道に秀でた武将とされ、平家物語には、都に連行され晒し者となっていた時に、都の貴族から、梅の花を指して「これは何か?」と嘲笑された際に、次のように答えたエピソードが記載されています。

 

『 わが国の 梅の花とは見つれども 大宮人はいかがいふらむ 』

 

  流された場所に関しては、上記の通り、伊予国筑前国と言うのが一般的なようですが、一説には、最初から筑前国と言う説もあるそうです。

 

何れにしろ、やはりカリスマ性を備えていたようで、流された先々で力を付け、そのため再流布されたと考えられています。

 

再流布先の宗像村(現:宗像市)では、大島(筑前大島)に拠点を作り、この地で、三男二女を設けたのち、77歳で没しています。

 

大島には、平成29 年(2017年)、世界遺産に登録されている宗像三社の一つ「中津宮」と、北側にある沖ノ島にある「沖津宮」を拝むための「沖津宮遥拝所」が存在しています。

 

宗像大社」と「宗像氏」に関しては、下記の過去ブログで、詳しく紹介していますので、そちらも合わせてご覧下さい。

 

★過去ブログ:早池峰信仰と瀬織津姫命 ~ 謎多き姫神に触れる その5

 

そして、「安倍宗任」の息子達も優れた才能を備えていたようで、中には、後世に名を残す人物もいたようです。

 

  ・長男「宗良(むねよし)」の家系

大島太郎・安倍権頭として、大島の統領を継ぐ。子孫は、九州の剣豪となり、その後、九州の氏族「秋月氏」に仕え、「安倍立剣道」と言う流派の開祖(安倍頼任)となった。ちなみに、「秋月氏」は、鎌倉時代から現在まで続く歴史ある一族である。

 

・三男「季任(すえとう)」の家系

肥前国松浦に渡り、水軍「松浦党」の娘婿となり、「松浦三郎大夫実任」と名乗った。その子孫「松浦高俊」は、「平清盛」の側近となり水軍を率いて活躍した。

 

 

さて、このような「安倍宗任」ですが、「実は生きていた」ではなく、本当に生きていた訳ですから、これも本ブログの趣旨からは、少し話が逸れてしまいます。

 

しかし、実際には「安倍宗任」が訪れていない地に、様々な異なる伝説が残されている事は、非常に興味深いと思います。

 

 


 

■母子石の伝説(塩竈市)

 

  江戸時代後期「文政5年(1822年)」に、仙台の儒学者舟山萬年」の記した「鹽松勝譜(えんしょうしょうふ)」と言う地誌に、宮城県塩竈市の「母子石」伝説が記載されています。

 

【 鹽松勝譜 】

母子澤 坪浦赤坂ノ西南ニアリ石ハ大サ八九尺アリテ。上ニ大小二足跡アリ。土人レヲ母子石ト名ツク。傳ヘ曰ク。古安倍宗任己ニ擒セラレ。

 

多賀城ニアリ。其妻一兒ヲ携ヘテ玆ニ流落スルヤ。徒行素跣流血淋漓シ。足跡石ニ痕ス。人見テ之ヲ哀ミ。此石ニ就テ石浮圖ヲ建テ。其血痕ヲ鐫ム。後浮圖破壊シテ獨リ此石ヲ存ス。

 

 【 現代語訳 】

坪浦赤坂の西南にある母子澤にある石は、大きさ約9尺ある。その上には、大小2つの足跡が残っている。

 

地元の人達は、これを「母子石」と名付けている。

 

言い伝えによると、前九年の役において投降した安倍宗任多賀城に囚われていた。

 

そのとき、宗任夫人が一児を連れて夫に会わんとこの地を彷徨い続けたようで、その際、裸足であったがために足が血まみれになり、件の石にもその血痕が残っていたとのことです。

 

  これを憐れんだ人々は足形に残っていた血痕を型どおりに彫り、傍らに石造りの卒塔婆を立てたのだそうです。ただ、後に卒塔婆は壊れてしまい、いわゆる母子石のみが残ったのだそうです。

 

但し、この石碑や足跡には、次の異なる言い伝えも残っているようです。

 

・人柱伝説(鹽竈神社)

  2005年(平成6年)6月に出版された「鹽竈神社(押木耿介著)」によると、多賀城が完成間近になった時、征夷大将軍大野東人」は、人柱をたてて城の永久の護りにする事を決めたそうです。

 

そして、人柱に選ばれたのは、親子3名で暮らしている地元の男だったそうです。男性が人柱になる日、その妻と娘は、近くの石の上に佇み、いつまでも泣いていたそうです。

 

そして、泣き声が止んだ時、母と娘は、死んでしまっており、二人が立っていた石の上には、母娘の足跡が残されていたそうです。

 

この地域を「母子沢(ぼしさわ)」と言うのは、この「母子石」に由来しているそうです。

 

親子の愛情伝説(奥鹽地名集)

  2010年(平成11年)、東北学院大学経営学部の斎藤善之教授によって編纂され「NPOみなとしほがま」が出版した江戸時代の塩竈の歴史を著した「新釈奥鹽地名集」に、この伝説の説明が記載されています。

 

「新釈奥鹽地名集」とは、作者は不明ですが、江戸時代中期「寛政4年(1792年)」に出版された「奥鹽(おうえん)地名集」と言う地誌の新訳版で、そこには、この石に関しては、次のように紹介されています。

 

【 新釈 】

母子沢堤の東の方で、西向きの畑の中にある。母子の足跡のある石である。

 

伝えて言うには、昔、貧家で母によく仕える子があった。その子が七、八歳の頃、母が病で食事を摂らなくなると、子も食事を摂らず、昼夜離れず、寝食を忘れ介抱したけれども、母はついに亡くなってしまった。

 

子は(母を)慕い、別れを悲しむことは普通でなかった。その後も母が生きているかのように、母への孝行の限りを尽くしたという。

 

天も感ずることがあったのだろうか、母恋しの縁が自然に備わり、母子の足蹟が今、石の表面に現れている。母子沢というのも、この石による名と申し伝えている。

 

白菊町にある。石の表面に大小の足形がみえることから、古来より名石・奇石とされ、地元の信仰を集めてきた。

 

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ちなみに、塩竈市教育委員会では、これら複数の伝説から、「人柱伝説」を採用し、「母子石」の紹介看板には、前述の内容を記載しています。

 

 


 

■思惑(おもわく)橋の伝説(多賀城市)

  昭和60年(1985年)に、多賀城市史編纂委員会が出版した「多賀城市史」によると、多賀城市留ヶ谷の玉川に架かる「おもわくの橋」に関しては、次のように紹介しています。

 

【 郷土の伝承 】

留ヶ谷の玉川に架かる橋が「思惑橋」または「安倍待橋」とも呼ばれている。

 

  昔、「安倍貞任」がこの地を過ぎるとき、見染めた女に通うため渡った橋なのでこの名があり、「貞任」が残した騎馬の蹄の跡を渡る者が踏むと、必ず踏み抜いたという

 

【 塩松勝概 】

安倍宗任」が虜となって都へ送られるとき、その妻がこの地まで追ってきたがおよばず、橋の上で涙を流した。

 

多賀城市塩竈市は、隣り合った自治体ですので、両者で、「安倍宗任」の妻が関係する伝説があるのは、ちょっと興味深い点かもしれません。

 

 

 

 

■宗任が母と再開(山形県鶴岡市)

  前九年の役の際に、「安倍頼時」の妻、つまり「安倍宗任」の母は、少数の従者と共に衣川から落ち延びたそうです。

 

このため、「安倍宗任」が、落ち延びた母を探しに出かけ、鶴岡市金峰山の近くの山麓の庵で、母と再開することが出来たと言う話が、鶴岡市の黄金地区(旧:黄金村)に伝わっているそうです。

 

そして、その後、その山は「母狩(ほかり)山」と呼ばれるようになったと伝わっており、黄金地区には「阿部」の姓が多いと言われています。

 

まあ、「奥州安倍氏」の方の字は「安倍」ですが、こちらの字は「阿部」となっている点は、ちょっと気になるところです。

 

また、「母狩山(標高751m)」の北には、「安倍貞任/宗任」兄弟が、鎧を納めたと伝えられている「鎧が峰(標高566m)」と呼ばれている山もあるそうです。

 

無事に母と再開した「宗任」は、母を連れて安倍氏再興を試みようとしたのですが、母に断られたので再起を諦め、近くの峰に登り、洞窟(or 寺)の中に自らの鎧を奉納したと伝わっており、この、鎧を納めた山が「鎧が峰」と呼ばれているそうです。

 

  

 

 

安倍宗任の涙石(福島県いわき市)

  福島県いわき市勿来(なこそ)町には、「安倍宗任」が流した涙が石になったと言う伝説があるようです。

 

但し、この「涙石」に関しては、、趣旨が全く異なる、2つの話が地元に残っているようです。

 

 

●「悔し涙」説

前九年の役で、八幡太郎源義家に討たれた「安倍貞任」の家来、太郎と次郎は、主君の敵討ちをしようと、義家の陣中に忍び入ろうとしたそうです。

 

しかし、それを貞任の弟である「安倍宗任」に見つけられてしまった。

 

宗任は、2人の家来の一途な忠義心に強く感動しながらも、それが無益なことであることを涙ながらに訴え、敵討ちを思いとどまらせた。

 

その時、宗任が流した大粒の涙が、この大きな石になったのだという。

 

●「別れの涙」説

その昔、「勿来の関」と言われてた場所で、「安倍宗任」が、戦地に赴く「源 義家」を見送った時に流した涙が石になった。

 

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この石は、高さ、幅、奥行きは、ともに約2メートルで、石は大きくふたつに割れているとの事です。

 

しかし、「悔し涙」説の方は、嘘にしても、まだ納得できますが、「別れの涙」に関しては、全く理解出来ません。

 

何で、一族を滅ぼした「源 義家」との別れで泣くのでしょうか ? 嘘にも程があると思います。

 

 

 

 

■宗任神社(茨城県下妻市)

  茨城県下妻市には、「安倍宗任」と「安倍貞任」を御祭神とした「宗任神社」があります。

 

前回ブログでも、安倍兄弟を御祭神とする「阿部神社」を紹介しました。

 

「阿部神社」は、貞任が主祭神ですが、「宗任神社」は、名前の通り、宗任が主祭神なので、今回のブログの方に記載しました。

 

茨城県神社庁の解説によると、この神社の由緒は、次の通りとなっています。

 

 

縁起記には、前九年の役(1051~1062年)が終わってからの47年後となる、平安時代末「天仁2年(1109年)」に、安倍氏の臣「松本七郎秀則」、および息子「八郎秀元」が、亡君主「宗任」公の神託により、旧臣二十余名と共に公着用の青龍の甲胄・遺物を奉じて奥羽の鳥海山の麓から当地に来往して鎮齊した。

 

鎮座するにあたって宗任公の霊は、「天の道、人の道を行くを宗とする意味で宗道と地名を改めれば、人はすこやかに、地は栄えるようになるであろう」と告げる。以来この地は宗道となった。

 

鎌倉時代には、豊田三十三郷幸嶋十二郷の総社として多くの人々から信仰され、地方の豪族小田氏治・豊田将基なども信仰した。

 

江戸時代、三代将軍「家光公」より代々、朱印地五石を与えられる。本殿拝殿寛永年間に家光公より寄進。明治6年4月1日村社に列格。同12年村内大火のため類焼。同17年再建造営。

 

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この話は、まあ、伝説というよりは、「安倍宗任」ゆかりの神社の話と言う事になると思います。

 

史実によれば、「安倍宗任」は、この神社が創建される前年、嘉承3年(1108年)に亡くなっていますので、何となく辻褄は合っているような感じはします。

 

が、何故、茨城県なのでしょうか ? その点に違和感を覚えます。

 

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  次の伝説は、全て大分県に伝わっている伝説ですので、北から順に伝説を紹介します。

 

由布院市  :安倍宗任の三男「季任」起源の「熊群(くまむれ)神社」

大分市    :白木地区、安倍宗任の子孫「安倍貞観」が開いた「龍雲寺」

竹田市    :宗任は地元の娘と結婚。息子は鎌倉武将「緒方三郎惟栄」

豊後大野市 :これも地元の娘と結婚。息子は鎌倉武将「緒方三郎惟栄」

 

■熊群神社(大分県由布院市)

  この「熊群神社」は、修験道の道場として有名な神社で、「恐怖の鎖場」があるようです。

 

そして、「安倍宗任」の三男「季任(実任)」が創建した神社となっているようです。

 

「安倍季任」に関しては、本章の最初に説明した通り、後に松浦水軍の一員となる人物です。

 

それでは、この神社の由緒を紹介しますが、「安倍季任」は、この地に住んでいた事になっているようです。また、由緒に関しては、微妙に異なる二つの説があるようです。

 

【 由緒 その1 】

  奥州の乱で有名な安倍宗任の三男三郎実任。野畑村加倉に住し狩を楽しみとす。

 

或時、山上に熊の群れを発見。是を射んと近付けば皆逃げ去り、その跡に釈迦・弥陀、観音の三尊像あり。実任これを持ち帰り尊崇。或夜、実任の夢枕に老翁現れ、我は彦山大権現なりと告げる。

 

よって、実任、山上に三尊をまつり、熊群大権現の起源とする。

 

神社の九十九の石段は、鬼が一夜で築いたと云われています。又、この山は、天正十一年田北紹鉄、国東の田原氏と謀りて大友に反し戦った古戦場でもあります。

 

【 由緒 その2 】

武将安倍宗任の末子実任は、理由があって熊群山麓の鹿倉に住みつき、狩猟に明け暮れていました。

 

ある日、獲物を追って山深く分けいったところ、熊が群れている所に行きあたりました。不思議に思った実任は、熊を追い払って近づいてみました。すると岩の間に阿弥陀如来薬師如来観音菩薩の仏像三体があったのです。

 

その夜、実任の夢枕に英彦山大権現が現れ、仏像三体をまつるようにとの御告がありました。こうして実任が村人と力を合わせて建立したのが熊群権現社だといわれています。 

 

 

まあ、どちらも、「安倍宗任」とは、直接関係がありませんが、その息子が創建者と言うことで、今回紹介しました。

 

 


 

宝珠山龍雲寺(大分県大町市)

  次は、大分県大町市白木にある「宝珠山龍雲寺」を紹介します。

 

しかし・・・この寺の創建に関する由緒は沢山あり、どれが真実なのか解らない状況になっているようです。

 

真偽の程は別として、取り敢えず、その由緒を紹介します。

 

ちなみに、、この白木地区には、「安倍姓」を名乗る一族が沢山あり、自らを「奥州安倍氏」の子孫と考えてるようです。

 

また、この「龍雲寺」ですが、創建当初は、この寺号ではなく、「龍岸寺」と言う寺号だったと伝わっていますが、何故、寺号を変更したのかまでは解りませんでした。

 

【 安倍貞観説 】

  この龍雲寺は、一説によると、開始時期は曖昧となっている南北朝時代(1331~1394年)ですが、この南北朝時代に、「安倍宗任」の子孫と言われる「安倍貞観」と言う人物が、江州(近江)から一族を引き連れて豊後国白木に着いて定住して開山したと伝わっています。

 

但し、「奥州安倍氏」の家系に「安倍貞観」なる人物の名は見当たりません。

 

安倍宗任説 】

 

そして、もう一説は、「安倍宗任」が伊予国に流された後、豊後国に渡り、そして白木の地に辿り着き、兄「安倍貞任」を弔うために建立したのが龍雲寺であると言う説です。

 

安倍貞任の子説 】

  さらに・・・もう一つ別の説もありますが、これは・・・空想物語のような内容ですが、それを紹介すると次のような内容です。

 

「厨川柵」の戦いの折り、「安倍貞任」の家来「山田太郎貞矩」が、貞任の次男「千賀麿(当時3歳)」を連れて柵から逃れ、越後を超えて佐渡に渡り、その地の有力者「安田蔵人光定」に身を寄せた。

 

「安田光定」は、「千賀麿」を養子として迎え、名を「安田三郎貞言」と改めた。

 

「安田貞言」が15歳になった時、叔父「安倍宗任」が筑前国に居ることを知り、その地を訪れ再開した。

 

その後、「安倍宗任」の命を受け、豊後国に住んでいた宗任の三男「安倍季任(実任)」を訪ね、暫く「安倍季任」の世話になった後、白木に移り住み、雲龍寺を創建した。

 

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  今となっては、どの説が本当か、また全て嘘なのか等、全く解りましたが、とにかく現在では、雲龍寺内に、通称「貞任堂」と呼ばれる建物「心殿窟」があり、その中には、「安倍貞任/宗任」の兄弟の戒名が書かれた位牌や像が祀ってある、と言う事です。

 

戒名が書かれた位牌は、上の画像の通りですが、戒名は、次の通りです。

安倍貞任   :宝山院殿月心常観大居士

安倍宗任   :珠林院殿中峰円心大居士

 

どちらも、俗に言う「院号居士」となっていますので、位牌が作られた時代が南北朝時代だとすると、摂家、あるいは将軍家並の称号だと思います。

 

さらに、この位牌を納めてある仏壇の奥、紫の幕の中には、「安倍貞任」と伝わる木彫りの像が安置されています。但し、この像は、江戸時代中期、明和3年(1766年)に作成された物との事です。

 

こうなって来ると、どれも「眉にツバ」を付けたくなる話のように思えます。加えて、この雲龍寺の向かい側には、「天満社鬼神社」と言う珍しい名前の神社があり、そちらも「安倍宗任」の創建と伝わっていますので、こちらも紹介します。

 

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  最後に、「宝珠山龍雲寺」に関して、少し気になる点があったので書き加えて置きますと・・・

 

位牌の後ろ、「貞任」像を納めている厨子の扉に描かれている家紋は、「三つ鱗(うろこ)」と呼ばれる家紋で、「北条氏」が用いていた家紋です。

 

また、同じ「北条氏」でも三角形部分の形が、正三角形と二等辺三角形とで、家系が異なります。

 

・正三角形      :北条氏の家紋。北条氏は、伊豆国出身の豪族で鎌倉幕府の執権職を世襲した一族。別名「鎌倉北条氏」、あるいは「執権北条氏」

二等辺三角形   :後北条氏の家紋。後北条氏は、伊勢平氏の一族である伊勢新九郎盛時(北条早雲)を祖とする関東の戦国大名

 

と言うことで、この家紋は「鎌倉北条氏」の家紋となるのですが、ここ大分県は、北条氏とは縁もゆかりも無いと思います。

 

何故、この龍雲寺に北条氏の家紋が付いた厨子があり、その中に「安部貞任」の像があるのか理解に苦しみます。

 

ひょっとしたら、この像は、「安部貞任」の像ではなく、「鎌倉北条氏」に縁のある武将の像なのかもしれません。

 


 

■天満社鬼神社(大分県大分市)

  この「天満社鬼神社」は、名前の通り、「天満社」と「鬼神社」が合体し、一つの神社となっています。

 

向かって左側が「鬼神社」で、右側が「天満社」となっています。

 

そして、御祭神ですが、「鬼神社」と言う事で、鬼を祀っているのかと思いきや、御祭神は「大巳貴命(おおなむじのみこと)」、つまり「大国主命」となっています。

 

  「天満社」」の方は、当然、御祭神は「菅原道真」です。

 

神社の由緒は、その由緒書によると次の通りです。

 

【 由緒 】

ときは南北朝の末世安部氏の末裔東方より来りこの地に住し邦拓きの神大巳貴命を産土神に祀り信仰す。

 

いくばくにして宗家に老媼あり。幼にして氣をやみ氏神に帰依し厚く神徳に浴す。

 

 

  長じて呪術を専らにしその名遠郷に聞え参ずるもの市の如し。

 

衆人皆畏む齢至りて白寿に達す。

 

老媼一夕偉を整へ板戸を塞ぎ神前に至る。家人大いに心痛す食なく祝詞すること四十余刻忽然息絶ゆ。

 

村人その面容の凄じきこと鬼人とはかくあらんかと噂しあいたりとぞ名門新太郎貞氏この老媼こそ神の化神ならんと敬して日ならずして傳来の鬼面を献ず。

 

後人これに做い繪馬鬼面を奉じ詣ずる者近郷より他国に及び神幸の厚きを皆嬉ぶ依って以後鬼神社と称す今まにまつわる社名及び繪馬鬼面これに由来する。

 

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これを、現代語に訳すと、次のような感じかと思います。

 

【 現代語訳 】

  時は、南北朝の末、安部氏の末裔が、東方よりこの地に来て大巳貴命を祀った神社を起こした。

 

この一族には老婆が居たが、小さい頃に精神を病んで氏神を篤く信仰するようになった。

 

さらに、この娘は、年を取ると呪術が得意となり、その名声は遠くまで聞こえるようになり、多くの人が集まるようになり、まるで、その様は「市場」のようだった。

 

この老婆は、皆が驚くほど長寿で、年を取り白寿(99歳)となった。

 

そして、ある日の夕方、老婆は身だしなみを整え、神社の出入り口を戸板で塞いで祈祷を始めた。

 

家族は、老婆が食事も摂らないので心配していると40刻(約20時間)過ぎた当たりで突然死んでしまった。

 

村人が、その凄まじい死に顔を見て、「鬼のような顔とは、このような顔の事を言うのだろう」と噂し始めた。それを聞いた新太郎貞氏は「この老婆こそ神の化身だ」として鬼の面を奉納した。

 

後の世では、この貞氏の真似をして鬼の面を奉納して詣でる者が、近隣の村や他国にまで及び、さらに、そのご利益が凄いので、それ以降は「鬼神社」と呼ばれるようになり、それが現在に至る社名と鬼絵馬に伝わっている。

 

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と言うのが、「鬼神社」に掲げられている由緒書の内容です。「安倍」が、「安部」と書かれているのが気になるところではあります。

 

  他方、神社に、このような由緒書が掲げられているにも関わらず、誰が言い出したのかは解りませんが、別の由緒もあるようですので、そちらも紹介します。

 

【 宗任の母親説 】

 

安倍宗任」の母は「新羅(しらぎ)」と言う名前だが、幼少時は「竜の乙女」と言う幼名だった。

 

宗任は、母の死後、祠を建てて祀った。

 

豪胆な「安倍宗任」であるが、母親の前に出ると別人のように大人しかったので、豊後の人々は、宗任の母親は、宗任よりも強い鬼神だと評判していた。

 

その宗任の母を祀った祠が、「鬼神社」の奥の院となっている。

 

また、「白木」と言う地名も、その起源は、宗任の母親「新羅」から付いたものであり。前述の雲龍寺の寺号も、その起源は、宗任の母親の幼名「竜の乙女」に因んで付けられたとされています。

 

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さらに、鬼神社に掲げられている由緒書に登場する「老婆」を、宗任の母親「新羅」に置き換えて紹介しているケースもあるようです。

 

  こちらも、「何がなんだか」状態になっているようです。

 

ちなみに、「鬼神社」は、明治10年頃までは、山の頂上に建立されていたそうですが、「頭痛に効く」事が有名となり参拝者が多いので、現在の地に遷座したそうです。

 

また、「鬼神社」の御神体は、元々は「御幣」だけだったそうですが、神社の拡張工事の際、木の根本から「土製の鬼面」が出土したので、これを御神体にしているそうです。

 

 

 

 

■「緒方三郎惟栄」の祖(竹田市/豊後大野市)

  平安時代末、豊後国大野郡緒方庄は、宇佐神宮の荘園であり、そこの荘官に「緒方三郎惟栄(これよし)」と言う人物が居ました。

 

この人物は、当初、「平重盛」と主従関係を結んでいましたが、「源 頼朝」の挙兵に際し、平家に反旗を翻し源氏方に付き、九州地方の地方豪族をまとめ、太宰府から平氏を追放しています。

 

その後、宇佐神宮平氏方に付いたので、これと対立し、宇佐神宮を焼き討ちにしたために、上野国流罪となるところでしたが、平氏追討の功により罪を許されて再び平氏と戦って功を上げたそうです。

 

ところが、「源 義経」と「源 頼朝」が対立した際には義経側に付き、義経と一緒に九州に渡ろうしたのですが嵐により失敗し、捕らえられて上野国流罪となっています。

 

その後、罪を赦されたのですが、再び豊後に戻ったとも、病死したとも伝えられており、最後は、その消息はわからないそうです。

 

そして、この「緒方三郎惟栄」に関しては、次のような伝説があるそうです。

 

【 竹田奇聞/大分県竹田市

  豊後に落ち着いた「安倍宗任」は、安倍家を再興するためには、地方豪族の娘を娶るのが得策と考え、万寿寺の住職に、嫁の斡旋を依頼したそうです。

 

その結果、緒方郷の豪族「四隠田大太夫」の娘で、30歳を超えても嫁がずにいた娘を見つけたそうです。

 

ところが、この娘は、「穴之森神」を信奉して良縁を望んでいたので、万寿寺の住職は、これを説得して、宗任に嫁がせたそうです。

 

そして生まれた男の子に「緒方郷」を与えたので、名を「緒方惟栄」とした。

 

【 大分の伝説/大分県豊後大野市

安倍宗任」は、土豪の大太夫に接近し、その娘の「花本」と結婚して「大弥太」と言う息子を授かったそうです。そして、その子孫が「緒方惟栄」となった。

 

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  さすがに、豊後国(現:大分県)は、「安倍宗任」の三男「季任(実任)」が住み着いて、「松浦水軍」として活躍した土地だけあり、「安倍伝説」が多く残っているようです。

 

また、豊後国以外の土地に関しても、「安倍宗任」の伝説が多く残っていると言う事は、日本全国において、いかに「安倍宗任」の人気が高かったのかを如実に物語っていると思われます。

 

文武両道に優れていたにも関わらず、囚われの身となり、都の貴族に馬鹿にされようとも、その才知により、見事に貴族を打ち負かす姿は、当時、および後世の武士に人気があるのも納得が行くものだと思われます。

 

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今回は、「奥州安倍氏の伝説 - 実は生き延びていた編」の第2回目として、次のような内容を紹介しましたが如何でしたか ?

 

 

安倍宗任」に関しては、最初に記載した通り、実際には、「前九年の役」では死んではいないので、前回分も含めて、数多くの伝説が残されています。

 

特に、最後に流された「豊後国(現:大分県)」には、多くの伝説が残されているようです。

 

しかし、逆に、最初に流された「伊予国(現:愛媛県)」には、伝説も、また何を行っていたのか等、全く記録が無いのが気になります。

 

ここまで数多くの伝説が残されている「安倍宗任」ですが、「伊予国」における記録が無いのは、意図的に、「安倍宗任」の記録が削除されたのではないかと疑ってしまいます。

 

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安倍宗任」を処刑せずに救った「源 頼義」は、賊軍討伐の恩賞として、正四位下「伊予守」に任ぜられていますので、「安倍宗任」と「源 頼義」は、ある期間一緒に「伊予国」で過ごしたと思われます。

 

記録では、「伊予守」任命後も、京都で家臣のために恩賞獲得に奔走しており、実際に伊予国に赴任したのは、任命された2年後となっていますので、「安倍宗任」と一緒に伊予国に居たのは、たった1年のようです。

 

安倍宗任」は、3年間、「伊予国」で暮らし、伊予国で力をつけてきた事を理由に「豊後国」に配流されてしまいますが、この3年間の記録は、恐らく「源 頼義」により消されてしまったのではないかと思われます。

 

ちなみに、「源 頼義」の長男「源 義家」は従五位下「出羽守」、次男「源 義綱」は「右衛門尉」に任ぜられているそうです。

 

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と言うことで、次回、3回目は、「安倍貞任」と「安倍宗任」以外、次の人物に関する伝説を紹介します。

 

→ 貞任の兄「安倍良宗」

 

→ 貞任の子「高星丸」

→ 貞任の娘「卯の花姫」、「貞姫」、「真砂姫」、白糸姫」

 

特に、「安倍貞任」に関しては、3名の子供が居たとされていますが、全て男の子であるにも関わらず、なぜが沢山の「姫」が存在したような状態になっています。

 

さっぱり訳が解りませんが、詳しくは次回で紹介したいと思います。

 

それでは次回も宜しくお願いします。

 

以上

 

 

画像・情報提供先】

Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)

・日本古典文学摘集(https://www.koten.net/tono/)

いわき市鹿島の極楽蜻蛉庵(https://blog.goo.ne.jp/ah8671)

・学校法人中村学園アーカイブ(http://www.nakamura-u.ac.jp/library/kaibara/archive05/)

国文学研究資料館(https://www.nijl.ac.jp/)

・近代書誌・近代画像データベース(http://base1.nijl.ac.jp/~kindai/index.html)

・はてノ鹽竈(https://blogs.yahoo.co.jp/mas_k2513)

・千時千一夜(https://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo)

陸奥評林 - 国立国会図書館デジタルコレクション(http://dl.ndl.go.jp/)

七戸町ホームページ(http://www.town.shichinohe.lg.jp/index.html)

蓬田村ホームページ(http://www.vill.yomogita.lg.jp/index.html)

・秋田の昔話・伝説・世間話(http://namahage.is.akita-u.ac.jp/monogatari/)

・遠野文化研究センター(http://tonoculture.com/)