奥州安倍氏の伝説 - 実は生き延びていた編(その1)
以前、弊社ブログで「早池峰信仰と瀬織津姫命 ~ 謎多き姫神に触れる」と言う題名で、5回に渡り「瀬織津姫命」に関する情報を紹介しました。
★過去ブログ:早池峰信仰と瀬織津姫命 ~ 謎多き姫神に触れる その5
そして、その中で、「瀬織津姫命」と「安倍氏」の関係に、ちょっと触れています。
「安倍氏」が、「瀬織津姫命」や「荒覇吐(アラハバキ)神」を祀っていた、と言う噂があったので、その真偽の程を確かめようと思ったのですが・・・結局のところ、何の証拠も無く、「安倍氏」が何を祀っていたのか、さっぱり分かりませんでした。
しかし、「安倍氏」を調べている内に、史実では、「厨川の柵」で戦死したはずの「安部貞任(さだとう)」が、実は生き延びており、日本中の到るところに出没している事が判明しました。
また、「貞任」の弟「宗任(むねとう)」は、戦死はしなかったものの降伏して捕虜となり、伊予国に流罪となり、さらに、その3年後には、筑前国宗像郡に再配流さたのですが、兄「貞任」と共に、信州や九州に現れたと言う伝承も残されています。
そして、さらには、一族の裏切りにより「鳥海柵」で死亡した貞任/宗任の父「安倍頼時」までも、生き延びて九州に逃れたと言う伝説もあります。
もう、何がなんだか、と言う感じです。
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上記の「実は生き延びた」伝説は、岩手県以外で伝わっている話です。
そして、当然の事ながら、岩手県内、特に遠野地域には、「実は生き延びた」伝説を始めとして、数多くの「安倍伝説」があります。
弊社ブログに何度も登場する「遠野物語」ですが、こちらにも何点か「安倍伝説」が記載されています。
特に多いのが、「安倍氏の子孫」の話と「安倍氏の館」の話です。
例えば、「遠野物語/第68話」には、「館の址」と言う題名で、下記のような内容が記載されています。
『 安倍氏という家ありて貞任の末なりと云う。昔は栄えたる家なり。今も屋敷の周囲には堀ありて水を通ず。刀剣、馬具あまたあり 当主は阿倍与右衛門、今も村にては二三等の物持にて、村会議員なり ~ 』
その他にも「安倍氏」関連の話があり、「遠野物語」では、第65話~68話が「安倍氏」関連ですし、「遠野物語拾遺」には、「第122話/安倍が城」が記載されています。
遠野以外ではと言うと、やはり、「安部氏」滅亡の場所である「厨川柵」がある関係なのだと思いますが、盛岡市内には、安倍氏に関係する遺跡や伝承が数多く残されており、また地名にも、安倍氏ゆかりの地名が現在でも残っています。
・安倍館(あべたて)
・館坂(たてさか)
・館向(たてむかい)町
・前九年町
・厨川町
と言いたい所ですが、実は、「前九年町」も「安倍館町」も、下記の通り、昭和になってからの命名された新しい地名です。
・安倍館町:昭和15年(1940年)に盛岡市に編入されるまでは「厨川村字館」と言う地名。盛岡編入後、安倍氏にちなみ、昭和17年頃に掛けて現在の地名となる。
・前九年町:その昔は、「狐森」や「宿田後」と言う地名だったが、昭和41年(1966年)、住居表示法の施行に伴い、当時の町内会長が、安倍氏にちなんで命名した地名。
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そこで今回は、数多くの「安倍氏の伝説」の内、「実は生き延びていた」に焦点を当てて、日本の各地に伝わる伝承を、複数回に別けて紹介したいと思います。
また、「実は生き延びていた」伝説と一緒に、前述の「遠野物語」に伝わる安倍氏の伝説も紹介したいと思います。
【 第1回目 】
【 第2回目 】
それでは今回も宜しくお願いします。
■遠野物語における安倍氏の伝説
まずは、「安倍伝説」が数多く残り、現在でも、遠野市民の多くは、「安倍氏は地元の英雄 !」、「オラホは安倍氏の子孫だ」と思っています。
そんな中で、「遠野物語」、あるいは「遠野物語拾遺」にも、「安倍氏」関連の話が数話、登場しますので、最初に、その内容を紹介します。
●遠野物語
・第65話/姥神
早池峰は御影石の山なり、此山の小国に向きたる側に阿倍ケ城と云ふ岩あり、険しき崖の中程にありて、人などはとても行き得べき処に非ず、ここには今でも阿倍貞任の母住めりと言伝ふ、雨の降るべき夕方など、岩屋の扉を鎖す音聞ゆと云ふ、小国、附馬牛の人々は、阿倍ケ城の錠の音がする、明日は雨ならん など云ふ
【現代語訳】
早池峰は御影石の山である。この山の小国(おぐに)に向いた側に安倍ヶ城という岩がある 険しい崖の中程にあって、人などがとても行けるような所ではない。ここには今でも安倍貞任の母が住んでいると言い伝えられている。雨の降るような夕方など、岩屋の扉を閉ざす音が聞こえるという。小国、附馬牛の人々は、安倍ヶ城の錠の音がする、明日は雨だろうなどと言う。
・第66話/塚と森と
同じ山の附馬牛よりの登り口にも亦阿倍屋敷と云ふ巌窟あり、兎に角早池峰は阿倍貞任にゆかりある山なり、小国より登る山口にも八幡太郎の家来の討死したるを埋めたりと云ふ塚三つばかりあり
【現代語訳】
同じ山の附馬牛からの登り口にもまた安倍屋敷という巌窟がある。とにかく早池峰は安倍貞任に縁のある山である。小国から登る山口にも、八幡太郎・源義家の討死した家来を埋めたという塚が三つほどある。
・第67話/地勢、館の址
阿倍貞任に関する伝説は此外にも多し、土淵村と、昔は橋野と云ひし栗橋村との境にて、山口よりは二三里も登りたる山中に、広く平なる原あり、其あたりの地名に貞任と云ふ所あり、沼ありて貞任が馬を冷せし所なりと云ふ、貞任が陣屋を構へし址とも言ひ伝ふ、景色よき所にて東海岸よく見ゆ
【現代語訳】
安倍貞任に関する伝説はこの他にも多い。土淵村と、昔は橋野と言った栗橋村との境で、山口からは二・三里も登った山中に、広く平らな原がある。そのあたりの地名に貞任という場所がある。沼があって、貞任が馬を冷やした所であるという。貞任が陣屋を構えた跡とも言い伝えられている。景色のいい場所で、東海岸がよく見える。
・第68話/館の址
土淵村には阿倍氏と云ふ家ありて貞任が末なりと云ふ、昔は栄えたる家なり、今も屋敷の周囲には堀ありて水を通ず、刀剣馬具あまたあり、当主は阿倍与右衛門、今も村にては二三等の物持にて、村会議員なり
阿倍の子孫は此外にも多し、盛岡の阿倍館の付近にもあり、厨川の柵に近き家なり、土淵村の阿倍家の四五町北、小烏瀬川の河隈に館の址あり、八幡沢の館と云ふ、八幡太郎が陣屋と云ふもの是なり、これより遠野の町への路には又八幡山と云ふ山ありて、其山の八幡沢の館の方に向へる峰にも亦一つの館址あり、貞任が陣屋なりと云ふ、二つの館の間二十余町を隔つ、矢戦をしたりと云ふ言伝へありて、矢の根を多く掘り出せしことあり
此間に似田貝一と云ふ部落あり、戦の当時此あたりは蘆しげりて土固まらず、ユキユキと動揺せり、或時八幡太郎ここを通りしに、敵味方何れの兵糧にや、粥を多く置きてあるを見て、これは煮た粥か、と云ひしより村の名となる、似田貝の村の外を流るる小川を鳴川と云ふ、之を隔てて足洗川村あり、鳴川にて義家が足を洗ひしより村の名となると云ふ
【現代語訳】
土淵村には阿倍氏という家があって、貞任の末裔であるという。昔は栄えた家である。今も屋敷の周囲には堀があって、水が流れている。刀剣・馬具がたくさんある。当主は阿倍与右衛門、今も村では二・三等の物持で、村会議員である。
安倍の子孫はこの他にも多い。盛岡の安倍館の付近にもある。厨川の柵に近い家である。土淵村の阿倍家の四・五町北、小烏瀬川の折れ曲っている所に館の跡がある。八幡沢の館という。八幡太郎・源義家の陣屋というのがこれである。ここから遠野の町への道にはまた八幡山という山があって、その山の八幡沢の館の方に向う峰にもまた一つの館跡がある。貞任の陣屋であるという。二つの館の間は二十余町離れている。矢による合戦をしたという言い伝えがあって、鏃を多く掘り出したことがある。
この間に似田貝という集落がある。合戦の当時、このあたりは葦が茂って地面が固まらず、ユキユキと動揺した。あるとき八幡太郎・源義家がここを通り、敵味方どちらの兵糧なのか、粥を多く置いてあるのを見て、これは煮た粥かと言ったことから、村の名となった。似田貝の村の外を流れる小川を鳴川という。これを隔てて足洗川村がある。鳴川で義家が足を洗ったことから、村の名となったという。
●遠野物語拾遺
・第122話/安倍ヶ城
このタイマグラの河内に、巨岩で出来た絶壁があって、そこに昔安倍貞任の隠れ家があったといい、ここを安倍ヶ城とも呼んでいた。下から眺めるとすぐに行けそうに見えるが、実は岩がきつくて、特別の路を知らぬ者には行くことが出来ぬ。その路を知っている者は、小国村にも某という爺様しかいない。
土淵村の友蔵という男は、この爺様に連れられて城まで行ったことがあるそうな。その時もすぐ近くに見えている城までなかなか行けなくて、小半日か嘗てようやく行き着いた。
城の中は大石を立て並べて造った室で、貞任の使ったという石の鍋、椀、包丁や石棒等があった。昔は雨の降る時など、この城の門を締める音が遠く人里まで聞こえたものだそうなが、その石の扉は先年の大暴風の時に吹き落とされて、岩壁から五、六間下に倒れていたという話である。
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以上が「遠野物語」に登場する「安倍伝説」となります。しかし、遠野には、本当に、「安倍姓」を名乗る一族が多いようです。
遠野と言えば「カッパ」が有名ですが、この「カッパ」が出没すると言われる「カッパ淵」の、初代「カッパ爺さん」と呼ばれていた「安倍(阿部)与一(~2004年)」氏は、「安倍頼時(頼良)」の六男「安倍重任」の二十八代を名乗っていたそうです。
そして、真偽の程は確かではありませんが、氏が言うには、生家には、「三条宗近銘」の太刀が伝わっていたと話していたようです。
ちなみに、「三条宗近銘」とは、国宝「三日月宗近」を鋳造した刀鍛冶として有名です。
初代「カッパ爺さん」とか「カッパ淵の守っ人(まぶりっと)」とか呼ばれた「安倍与一」氏に関しては、過去ブログで、その人柄と言うか性格を紹介していますので、興味のある方は読んで下さい。
★過去ブログ:岩手の民間信仰 ~ 聞いた事も無い信仰ばかり Vol.6
■「安倍貞任・宗任」兄弟関わる伝説
次には、それぞれ個別の伝説があるのですが、最初に、「安倍貞任/宗任」兄弟が、一緒に現れた伝説を、北から順に紹介します。
●貞任・宗任の供養塔(福岡県いわき市)
まずは、福島県いわき市鹿島に伝わっているとされる「安倍伝説」から紹介します。ここには、2つの伝説があるようです。
どちらも、盛岡市にある「厨川の柵」から安倍兄弟が逃れて来た事になっていますが、盛岡市からいわき市までは、直線距離でも300kmも離れていますので、「源 義家」軍の目をかいくぐって逃れるのは、ほぼ不可能だと思いますが・・・取り敢えず伝説を紹介します。
・伝説1
前九年の役の激戦地「厨川の柵」から逃れてきた「安倍貞任」だが、この地で病に罹ってしまった。そこで病を治すため小屋を建てて住んでいたが、その後、貞任の母も看病のために、この地に来て一緒に住んでいた。村の者達は、この小屋を「山の小屋」と呼ぶようになった。その後、病が治り、母子とも旅立つ時に、使っていた「鍋」を埋めて行ったので、その場所を「鍋塚」と呼ぶようになった。また、母子が住んでいた小屋には、現在、薬師堂が建立されている。
・伝説2
同じく、前九年の役の激戦地「厨川の柵」から逃れてきた「安倍貞任/宗任」兄弟は、坂下地内の山中に籠もり、追い討ちに出向いてきた「源 義家」軍を迎え撃った。
「源 義家」は、作戦を練るために、四方を見渡せる館山の頂上に陣を据え、そこで指揮を執りながら戦を行い、遂に叛く兄妹を征伐した。
その後、坂下地内の山腹に、高乾院「安倍貞任/宗任」の霊を慰めるため五輪の塔を2基造立した。
また、「源 義家」の陣所となった館山頂上には、八幡宮が祀られ、代々山伏の祈祷によって祭りが行われている。
八幡宮には、「文化2年(1805年)」の棟札や「弘化2年(1846年)」の棟札もあり、地元の人の日守りによって大切に保存されている。
●阿部神社(長野県大町市)
次は、直線距離で、いわき市から西南に280km、盛岡市から460km離れた長野県大町市にある「阿部神社」を紹介します。
「阿部神社」の創建時期は不明とされていますが、この地の豪族である「仁科氏」が、自身の祖である「安倍貞任/宗任」兄弟を祀るために建立したと言われています。
「仁科氏」は、平安時代末には、「木曽義仲」の挙兵に従い進軍し、京都の警護を行った武将として知られており、鎌倉時代には、この大町市を拠点として勢力を拡げ、一大勢力となったと伝わっています。
その後、「承久3年(1221年)」に起こった「承久の乱」の際は、上皇方として出陣しましたが、北条氏に大敗し没落してしまったそうですが、さらに、その後、室町時代に復権し、武田方に帰属しますが、その内に嫡流は断絶し、最終的には、武田家に乗っ取られてしまったようです。
さて、この「阿部神社」、御祭神は、当然、「安倍貞任/宗任」兄弟となっています。
そして、「安倍伝説」としては、次のような話が伝わっているようです。
『 前九年の役(1061年)、奥州から落ちのびてきた「安倍貞任」は、越後国を経由して当地に逃れ「仁科姓」を名乗ったという伝承がある。
そして、森の城に住んでいた「安倍貞任」が、ある時、敵に追われて逃げ場を失い木崎湖の水中に潜って逃げた。
ところが、日ごろ城中で可愛がっていた「鶏」と「犬」が、主人の後を追って木崎湖に入り、それが目印となって、「安倍貞任」が岸へたどり着いた所を捕らえられ殺されたという。
この地にある「阿倍渡」という地名は、「安倍貞任」が岸に上がった場所とされ、「阿倍渡」周辺では、「鶏」と「犬」を祟りがあるとして飼わない風習が残っており、その結果、「トリ」の音を忌んで、この神社には鳥居がないと伝わっている。 』
と言う事ですが、現在では、この「安倍(阿部)氏」は、「奥州安倍氏」ではなく、別の「阿部氏」と考えられています。
奥州「安倍氏」を含む、全ての「阿部氏」の祖は、孝元天皇の皇子「大彦命(おおひこのみこと)」を始祖とする一族です。
この「阿部氏」は、複数の一族に別れていますので、「仁科氏」の祖は、現在では、「奥州安倍氏」」ではなく、別の「阿部氏」と考えられています。
「安倍(阿部)氏」については、下記の過去ブログで、その流れを紹介しています。
★過去ブログ:早池峰信仰と瀬織津姫命 ~ 謎多き姫神に触れる その4
また、この伝説では、「安倍宗任」が登場しませんが、御祭神が「安倍貞任/宗任」兄弟なので、一緒に登場するものとして紹介しています。
●宗任石(大分県杵築市)
最後は、大分県杵築市熊野加貫、国東半島の付け根にある「宗任石」を紹介します。
この「宗任石」、正式名称(?) は、「安倍宗任の腰掛石」と呼ばれているそうです。
多くの説では、名前の通り「安倍宗任」が腰掛けた石と言われていますが、一説には、「安倍貞任」も一緒に腰掛けたと言う説もあるので、ここに記載しています。
上記の通り、多くの伝承では、前九年の役の後、「安倍宗任」は、家来と共に大分県杵築市加貫に上陸し、そばにあった石に腰掛けたのが「宗任石」と呼ばれていると伝わっています。
しかし、早稲田大学が「宗任石」を調査した際、地元の古老から直接聞いた話では、「安倍宗任」は、家来と一緒に上陸したのではなく、「安倍貞任」と一緒だったとしています。
話を聞いた古老も、自身の祖母からの聞いた話と言う事ですが、その話では、加貫に上陸したのは「安倍貞任/宗任」兄弟で、二人とも石に腰掛けたと言う事でした。
また、大分県の高校が編纂した「日本史」には、石に腰掛けたのは「安倍貞任」と言う説もあるとの事ですから、加貫に上陸したのは、「安倍貞任/宗任」兄弟と言う説も捨てがたい話なのかもしれません。
ところで、この「宗任石」、加貫漁港のそばにある鎮座場所にあるのはレプリカで、本物は、現在、「宗任石」を守っている家が管理している林の中に移して祀っているそうです。
また、過去には、この「宗任石」を、殿様が持っていったところ、夜な夜な石が光ったり、殿様のお腹の調子が悪くなったりしたので、結局、元の場所に戻した、と言う話も伝わっているそうです。
■「安倍貞任」のみが関わる伝説
次は、主に「安倍貞任」のみが登場する伝説を、北から紹介します。
●貞任の妻が出産(山形県鶴岡市)
鶴岡市には、貞任/宗任の兄弟に関わる伝説が残されていますが、その内、「安倍貞任」に関する伝説を紹介します。
鶴岡市朝日の大平には、岩手の厨川で討死したはずの「安倍貞任」が、身重の妾を連れて源氏の名刀「雲切丸」を探しに来て、その時生まれた男児が村に住みついた、と言う話があるそうです
●貞任橋(山形県山形市)
山形市の柏倉八幡神社から南へ下ると、中林への道と三叉路になった場所があり、この三叉路の堰に架かっていた橋石を、その昔、「源 義経」に追われた「安倍貞任」が渡ったので、「貞任橋」と呼んでいるそうです。
現在では、「貞任橋」自体は残っておらず、橋の礎石の一部が残るのみとなっているようですが、橋があった辺り一帯を、現在でも「さだ」と呼んでいると伝わっているそうです。
なお、この「貞任橋」は、柏倉八幡神社の境内にある「義家橋」と一対になっていると言われています。
「柏倉八幡神社」は、山形新幹線山形駅から直線距離で西南に約5.7kmの場所にあり、社伝によれば、平安時代中期「康平6年(1063年)」に、「源義家」が、山城国「岩清水八幡宮」の分霊を勧請した創建したと伝わっている神社です。
その後、上杉家家臣「直江兼続」の山形攻めで焼失するも、その後、「最上義光」により再建されたのですが、平成24年(2012年)の火災により全焼してしまったそうです。
そして、火災の2年後、平成26年(2016年)4月には、早くも再建されています。
「義家橋」とは、現在は、もう橋は無くなってしまったのですが、この神社への東側登り口にあった川に掛かっていた橋の一部と言われています。
その昔、「安倍貞任」討伐のために、この地を訪れた「源 義家」の馬の足跡が残っていると言われています。
ちなみに、このような石は「馬蹄(ばてい)石」」と呼ばれ、「源 義家」に限らず、日本全国が数多く残っているそうです。
また、上記「貞任橋」とは、約1.5km離れているそうです。
●伊閑町(いかんちょう)に伝わる「鶴の墓」伝説(群馬県片品村)
「源 義家」が尾瀬を越える時に、鶴を放鳥したが、その鶴が死んでしまった。
他方、「安倍貞任」の部下、「文治保高(ぶんじ-やすたか)」は、貞任の子を預かって隠し育てていたが、病に罹ってしまった。
そこで、「文治保高」は、この死んだ鶴を盗み出し、病気治癒を祈願して、鳩待峠の辺に葬って墓を建てた。
その鶴には、黄金の丸印(ふだじるし)が付いていたと云う。
しかし・・・この伝説は、歌舞伎や浄瑠璃の演目として有名な「奥州安達原」の内容とソックリです。
恐らく、江戸時代中期に、浄瑠璃の話をパクって、伝説に仕上げたのだと思われます。
●戸倉に伝わる「鶴の墓」伝説(群馬県片品村)
厨川柵の戦いに敗れた「安倍貞任」は、尾瀬に逃れて来て城を築いた。
しかし、食料が乏しくなったので、近くの尾瀬に食料を探しにきた所、「源 義家」の禁札が付いている三羽の鶴を見つけた。
これを幸いに、家来に鶴を討ち取らせ、なおかつ、鶴が討たれた事を見た旨を役所に届け出て賞金を貰い、家来の飢えをしのいだ。
しかし、その後、討った鶴を哀れんで、その墓を作った。
この伝説に類似した話は、各地に伝わっていますが、登場人物の名が「尾瀬大納言」であったり「中納言」であったり、殺した鶴が1羽であったりと、微妙に異なるようです。
●湯檜曽温泉(群馬県みなかみ町)
次は、直接「安倍貞任」には関係無いのですが、貞任の子孫が発見した「湯檜曽(ゆびそ)温泉」を紹介します。
この温泉は、鎌倉時代(あるいは室町時代)、奥州安倍氏の子孫、一説には、「安倍貞任」の子孫と言われる「阿部貞通」の三男「阿部孫八郎貞次」が発見したと伝わっています。
当初は、「ゆのすそむ村」と言われ、それが「ゆびそ村」になったとも伝わっています。
しかし・・・「安倍貞任」には、息子が1人しかおらず、その人物は「安東高星」と伝わっていますし、奥州安倍氏に「安倍貞通」と言う人物は見当たりません。
この伝説も、ちょっと信憑性に欠けるような気がします。
●安倍貞任の死体(京都)
これは、「安倍貞任は生き延びていた」伝説とは全く異なり、死刑に処せられた「安倍貞任」の死体の話になりますが、興味深いので、敢えて話を紹介したいと思います。
貞任の死体に関しては、京都の様々な場所で、様々な言い伝えが残っているようです。
「安倍貞任」の亡きがらは、朝廷に送られ、都の占師の進言により「東西南北に川のある地」である「有頭(うつ)の地」(現:京都市右京区京北下宇津)に埋められた。
しかし翌朝、日の出とともに貞任は生き返り、祟りをなした。
そこで、体を二分、三分としたが、やはり生き返るので、最後は、体を七つに分けて埋め、下宇津八幡宮に貞任の霊を祭り、ようやく祟りは静まったという。
亡きがらを七つに切ったところが「切畑」、首を埋めたのが「貞任峠」と言う。
他にも、下肢を埋めた「人尾(ひとのお)峠」、足と手を埋めた「足手谷」など、下宇津周辺には、「安倍貞任」伝説にまつわる地名が残る。
中でも貞任峠にある「貞任の首塚」は、歯痛封じの御利益があるとして、古くから地元で信仰を集めていた。
さらに、下宇津から桂川を約20km下った南丹市八木町にも、「安倍貞任」の死体を祀った場所が点在する。
「船井神社」の入り口左横、竹垣に囲まれた場所にある「腕(かいな)守神社」内には、小さな祠と五輪塔があり、この五輪塔は、「腕(かいな)守」と呼ばれ、「安倍貞任」の腕を祀っています。
貞任の魂が、自分の体を元に戻そうとすると、青い尾を引いた人魂(ひとだま)が東の方へ飛んでいくという。
この神社をお参りすると、腕の痛みに効くとされ、同神社前総代の「竹野忠夫」氏によると、「昔は農作業で腕を痛めた人が、よくお参りに来ていた。」そうです。
また、「安倍貞任」の子孫を名乗る人が、供え物を持ってくることもあった、と語っているようです。
八木町には他にも、「安倍貞任」の頭を埋めた「久留守(くるす)神社」があり、この神社は、頭痛に効く等の伝承があるそうです。
七つに切り分けられたという貞任の死体は、どのように切られ、どこに埋められたのか、全てを知る人はいないようです。
●筑前国続風土記
福岡藩の祐筆の息子として生まれた儒学者「貝原益軒(1630~1714年)」が、元禄16年(1703年)、73歳の時に藩主に献上した「筑前国続風土記」と言う地誌に、「安倍貞任」」にまつわる伝説が記載されています。
「貝原益軒」と言えば、この「筑前国続風土記」ではなく、人間の養生(健康法)について書かれた「養生訓」の方が有名です。
この「筑前国続風土記」は、明治時代まで写本しか流通していないマイナーな本ではありますが、次のような「安倍伝説」が記載されています。
『 深山の内にある村也。下座郡三奈木村より、同郡荷原村の内、帝釈寺嶺といふ山を越して、此下流の田に入、それより川に随てのぼる。其の間、十六瀬を渡る。その道中に佛谷あり。三奈木より佐田村へ三里ばかりあり。
村民の言伝えには安倍貞任、流されて爰に来り住せし故に村の名を貞といふ。後に佐田と改む。
~中略~
この故に貞任より以来十三代を現人神に祝い、木像十三あり。第十三は孫太郎専当(あち)という。
今の庄屋はその子孫なり。およそ村中に安倍氏の者、十四、五家今にあり。また、貞任が産神となりとて。松島大明神を勤請せし社あり。貞任が子、りうせんと伝し人の墓とてあり。
されども、貞任は東国にて討死し西国には流されず。もしその後离有りて、爰に来り住みしける故、此の如き事跡あるにや。
安倍氏、十二月除日に、ここに流され来りし故、正月の用意なし。その子孫。その例にならひて、今に正月年縄、年木を用ひずといふ。 』
これを簡単に言語訳にすると次のような内容になるかと思われます。
『 村民の言い伝えによると、安倍貞任は流されてココに来て住んでいたので、村の名を貞という。後に佐田となった。
~ 中略 ~
このため、安倍貞任より十三代経過していることを祝って木像を十三体造ってある。第十三代目は孫太郎専当と言う、
今、村の庄屋となっているのは、その子孫と言われており、村には、安倍姓を名乗る家が、現在でも14~15件あり、安倍貞任が産神様となっている。また松島大明神を勧請した神社もある。そして、安倍貞任の子「りゅうせん」と言われている者の墓も残っている。
しかし、貞任は東国で討死して西国には流されていない。もしかしたら貞任の末裔がココに住んだので、この様な言い伝えがあるのかも。
安倍氏は、12月に、この地に流されてきたので、正月の用意が出来なかった。このため、その子孫達も、その例に習い、現在でも正月年縄や年木を使用しないと言われている。 』
まあ、「村人の言い伝え」と前置きしていますので、信憑性に関しては、かなり低い話なのだと思います。
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今回は、「奥州安倍氏の伝説 - 実は生き延びていた編」の第1回目として、次のような内容を紹介しましたが如何でしたか ?
「遠野物語」に関しては、弊社ブログの民間信仰シリーズや山岳信仰シリーズ等、数多くの記事に登場しますが、本当に興味深い本です。
岩手県出身の私としては、この本が、佐々木喜善ではなく、柳田國男により編集/出版された事が残念でなりません。
「遠野物語」は、知っている人は、当然、知っていますが、遠野出身の民話蒐集家「佐々木喜善」が語った物語を、民族学者「柳田國男」が整理/編集した説話集です。
このため、「佐々木喜善」も、自身で本を何冊も出版しているのですから、自分が集めた昔話を整理して出版すれば良かったのに~、と思ってしまいます。
しかし、「佐々木喜善」が書いた本は、余り有名では無いところから推測すると、彼の文章能力は、イマイチだったのかもしれません。
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それはさておき、今回「安倍伝説」を調査してみたのですが、これほど多くの「安倍伝説」があるとは思いも寄りませんでした。
正直な所、「安倍伝説」と言っても、せいぜい4~5個位の情報だろうと思い、このブログも、1回こっきりで終わるものだと考えていました。
ところが、調べて見ると、あるはあるはで、どんどん「安倍伝説」が出て来ます。
また、「安倍宗任」が四国と九州に流罪になり、その後、「松浦党」や「宗像氏」と関係を持った事は、過去に、ブログを書く時に調査済でしたので、四国、および九州地方に、「安倍宗任」関係の伝説が結構存在するであろう事は、ある程度予想していました。
しかし、盛岡で戦死したはずの「安倍貞任」関係の伝説まであることは驚きでした。
さらに、「安倍貞任」の死体が、蘇って祟りをもたらすとは・・・まるで「ゾンビ」、ではなく、「平 将門」伝説と同じ事になっているとは想像も付きませんでした。
平安時代の貴族達は、人間の持つ「恨み」や「怨念」が、余程怖かったのだと思います。
平安時代に、「平 将門」、「菅原道真」、「崇徳天皇」、そして「安倍貞任」と、怨霊となった人物は数多く存在します。
とは言え、「安倍貞任」は、その他の3名の怨霊と比較すると、それほど有名じゃないのは、ちょっと可笑しくも、そして悲しくもあります。
次回は、次の内容を紹介します。
それでは次回も宜しくお願いします。
以上
【画像・情報提供先】
・Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)
・日本古典文学摘集(https://www.koten.net/tono/)
・いわき市鹿島の極楽蜻蛉庵(https://blog.goo.ne.jp/ah8671)
・学校法人中村学園のアーカイブ(http://www.nakamura-u.ac.jp/library/kaibara/archive05/)
・国文学研究資料館(https://www.nijl.ac.jp/)