岩手の世界遺産と無形文化遺産 -平泉ショックからの出発 その2
今回の「岩手・盛岡」情報は、前回の続きとなる「岩手の世界遺産と無形文化遺産」に関する話題の第2弾となります。
★過去ブログ:岩手の世界遺産と無形文化遺産 その1
前回は、次の内容を紹介しました。
前回は、どちらかと言うと、UNESCOの活動の説明になってしまった感があります。
そして、最後に、「国際連合教育科学文化機関(United Nations Educational, Scientific and Cultural Organization:UNESCO)」の成り立ちと、現在の状況を説明しました。
UNESCOは、2018年12月の「アメリカ脱退」を受け、運営資金の不足に悩ませられる事になりそうですが、実質、アメリカは2011年から分担金を支払っていませんので、余り影響は無いのかもしれません。
しかし、脱退したアメリカの「世界遺産」は、一体、どのような扱いになるのでしょうか ?
現在、アメリカには、世界遺産「第一号」として登録された「イエローストーン国立公園」を始めとして、23箇所もの世界遺産があります。
まあ、建国の歴史が浅い事が影響しているのかもしれませんが、無形文化遺産の登録は「0件」なので、こちらは問題無いと思いますが、やはり気になってしまいます。
UNESCOから脱退し、分担金も支払っていないにも関わらず、それでも「世界遺産」を名乗るつもりなのでしょうか ?
何か、「盗人猛々しい」と言うか、「面の皮が厚い」と言うか、つまり「恥知らず」のような感じがします。
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それはさて置き、今回は、岩手県に特化した、次の情報を紹介します。
しかし・・・正直な所、「平泉」以外は、地味で、余り見どころが無いような感じがします。
加えて、この唯一の見どころとなっている「平泉」に関しても、「中尊寺金色堂」以外は、「何とか院の跡」と言う感じで、寺院の跡地に、ポツンと「池」が残っているだけで、「折角だから」と無理して訪れても「何だかな~」感が拭えません。
そんな感じで、本ブログを見た方も、「何だかな~」となってしまうかと思いますが、取り敢えず、今回も宜しくお願いします。
■岩手県の世界遺産
・平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群
最初に、「平泉」から紹介します。
●平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群
「平泉」に関しては、前述の通り、2011年に世界遺産リストに登録された訳ですが、実際は、2001年には世界遺産の暫定リストに登録され、2004年にリスト登録された「紀伊」、それと2007年に登録された「石見銀山」と共にリスト登録を目指していたようです。
その後、2006年の文科省の文化審議会で、「平泉 - 浄土思想を基調とする文化的景観」と言う名称で、次の9箇所を資産として推薦したそうです。
→ 中尊寺、毛越寺、無量光院跡、金鶏山、柳之御所遺跡、達谷窟、白鳥館遺跡、長者ヶ原廃寺跡、骨寺村荘園遺跡
ところが、2007年にICOMOSの現地調査が行われた結果、候補地が広範囲に拡がり、個別に存在している点や、日本政府の姿勢などが疑問視され「登録延期」となってしまいました。
日本政府が推薦して登録が認められなかったのは、この「平泉」が初めての事で、これを「平泉ショック」と呼び、この事が原因で、世界遺産の公募が中止になったとも言われているようです。
その後、日本政府は、名称を「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」と変更すると共に、推薦資産も、ICOMOSからの勧告に従い、中尊寺、毛越寺、無量光院跡、金鶏山、柳之御所遺跡の5件の資産で再申請を行いました。
その結果、ICOMOSの再度の現地調査を経て、ICOMOSからは、名称を「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園」と変更し、かつ「柳之御所遺跡」を資産から除外した上での「登録勧告」となってしまったそうです。
そして、2011年6月、パリで開催された第35回世界遺産委員会において審議され、名称は日本の主張が通ったものの、やはり「柳之御所遺跡」を構成資産から除外した形で、世界遺産リストに登録されました。
しかし、この時、元々「毛越寺」に含まれていた「観自在王院跡」が、個別資産となったので、最終的には、5個の資産で登録されたようです。
このように、数々の紆余曲折と、10年と言う歳月を経て、「平泉」は、ようやく世界遺産になったようです。さて、それでは世界遺産の構成資産となる5箇所を紹介します。
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(1)中尊寺
中尊寺は、寺の伝承によると平安時代の嘉祥3年(850年)、慈覚大師「円仁」が、関山弘台寿院を開創したのが始まりとされていますが、単なる言い伝えだけで、学術的には何の根拠も無いとされています。
このため、実質的な創建は、平安時代末となる12世紀初頭、奥州藤原氏、初代「藤原清衡」が、多宝寺を建立した時とされています。
有名な「金色堂」は、天治元年(1124年)、同じく「藤原清衡」により建立されており、現在は、覆堂内で展示保存されていますが、中の須弥壇には、藤原三代(清衡/基衡/秀衡)のミイラと四代「泰衡」の首級が納められています。
中尊寺に関しても、世界遺産の構成資産がリストされており、それは次の箇所となっています。
・中尊寺金色堂(国宝)
(2)毛越寺
毛越寺も、中尊寺と同様、嘉祥3年(850年)、慈覚大師「円仁」が創建したと伝わっていますが、大火で焼失したと伝わっています。
その後、二代「基衡」、およびその子、三代「秀衡」」により大伽藍を再興したとされています。
最盛期には、堂塔は40、僧房は500超であったと鎌倉時代の史書「吾妻鏡」にも伝えられています。
その後、鎌倉幕府にも保護されたそうですが、嘉禄2年(1226年)の火災、および天正元年(1573年)の兵火により、その全てを焼失してしまったそうです。
そして、その後、昭和29年(1954年)から5年に渡り、大規模な発掘 調査が行われたのですが、調査してみると、当時の遺構が、ほぼそのまま残されており、先の「吾妻鑑」の記述とも一致している事が判明したそうです。
金堂跡等、各種の堂跡、門跡、および浄土庭園跡も、当時の礎石等がほぼ完全に残っており、非常に学術的価値が高い遺跡となっているそうです。
現在の「大泉が池」と水を注ぐ「遺水」等がある浄土庭園は、発掘調査、および平安時代の庭園造り秘伝書「作庭記」に基づいて忠実に整備されたものだそうです。
毛越寺の構成資産は、次の2箇所となっています。
・毛越寺境内附鎮守社跡(特別史跡)
・毛越寺庭園(特別名勝)
(3)観自在王院跡
「観自在王院」とは、二代目「基衡」の妻が、毛越寺の隣に建立した阿弥陀堂の事で、当時は、大阿弥陀堂と小阿弥陀堂と言う、二つのお堂があったとされています。
しかし、天正元年(1573年)の兵火で焼失してしまい、現在の阿弥陀堂は、大阿弥陀堂の跡地に、江戸時代(享保年間)に再建されたものとの事です。
昭和48年(1973年)から3年を掛けて、庭園の発掘と復元が行われたそうです。
その結果、寺跡は、東西約120m、南北約240mの長方形であったそうです。
「舞鶴が池」という池があり、仏の世界を表現した浄土庭園としての形を調えていたということが判明したそうです。
観自在王院跡の構成資産は、次の2箇所となっています。
・毛越寺境内附鎮守社跡(特別史跡)
・旧観自在王院庭園(名勝)
(4)無量光院跡
「 無量光院」とは、三代「秀衡」が、京都の「平等院」を模して建立した巨大寺院で、「新しい毛越寺」と言う意味で「新御(にいみ)堂」と名付けていたそうです。
建物の向きや地形も「平等院」を模しており、庭園は、毛越寺や観自在王院と同様、浄土庭園としたそうですが、発掘調査によると、規模は、本家をも凌ぐ大きさだった事が判明しています。
本尊は、平等院と同じ「阿弥陀如来」だが、中堂前に瓦を敷き詰めている点と池に中島がある点が平等院とは異なるそうです。
本堂の規模は鳳凰堂とほぼ一致するようですが、翼廊の長さは一間分長いそうです。
建物は全体に東向きに作られ、敷地の西には後述する「金鶏山」が位置しており、配置は、庭園から見ると、夕日が、本堂の背後の「金鶏山」へと沈んでいくように設計されていたようです。
(5)金鶏山
「金鶏山」は、中尊寺と毛越寺の中間辺りに位置する標高98.6mの山で、平泉における信仰の山とされています。
山の名称である「金鶏山」とは、山頂に、雄雌一対の金の鶏を埋めたと言う伝説にちなむと伝わっています。
実際に、昭和5年(1930年)に、頂上付近を盗掘したそうですが、その時には、「経塚」である事を示す経筒や陶器の壺や瓷が掘り出されたそうです。
この「金鶏山」には、上記言い伝えを含め、次のような伝説が残されているそうです。
・平泉を守るため黄金の鶏を埋めた
・北上川まで人夫を並べ、一晩で築いた山
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前述の通り、平泉に関しては、現在、上記5箇所が世界遺産リストに登録されていますが、2012年には、前回の推薦で漏れた下記5箇所に関しても暫定リストに登録し、拡大登録を目指しているそうです。
・骨寺村荘園遺跡(一関市)
・長者ヶ原廃寺跡(奥州市)
専門家からは、拡大登録は、「柳之御所遺跡」のみが適当と助言されているそうですが、そうなると、また平泉町だけの登録となってしまうので、関係団体は、あくまでも一括登録を目指しているそうです。
現在の5箇所を登録するだけでも10年掛かっている訳ですから、一括拡大登録には無理があると思われます。
●明治日本の産業革命遺産
「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」は、1850年代から1910年にかけて、日本の重工業化に貢献した遺産群で、「軍艦島」として知られる長崎市の「端島炭鉱」を始め、九州の鹿児島県から東北の岩手県にかけて点在する23資産が、幕末期の西洋技術の導入や、その後の国家主導で発展させてきた鉄鋼・製鉄、造船、石炭産業の近代工業化の過程を示す資産として顕著な普遍的価値を有していると評価されてリストに登録されています。
23個全てをリスト表示するだけでも、かなりのボリュームになりますので、今回は、岩手県関連となる「橋野高炉跡及び関連遺跡」だけを紹介します。
この「橋野高炉」は、釜石市橋野町にあるのですが、日本の近代製鉄の発祥の地といわれています。
古来、日本では、「たたら製法」による砂鉄を原料とした製鉄法で大砲を製造していましたが、この製法では欧米列強の優れた性能を持つ大砲には太刀打ちできませんでした。
西洋の大砲に対抗できる近代的な兵器の製造には、良質な鉄を大量生産する高炉法が必要と考えるようになり、高炉を建設する事になりました。
ここで言う「高炉」とは、「反射炉」とは違い、鉄鉱石を溶かして鉄にする「溶鉱炉」の事になります。
そして、この「橋野高炉」は、水戸藩の反射炉に、大砲用の銑鉄(せんてつ)を供給するために、南部藩によって建設されました。
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ところで、(釜石市には失礼ですが)何故、釜石市などで「日本初の西洋式高炉」が建設されたのかと言うと、それには、ちゃんとした理由があります。
(1)釜石付近には、良質の鉄鉱石が採れる採掘場があったこと。
(2)盛岡藩に、天才技術者「大島高任(おおしま-たかとう)」が居たこと。
釜石付近、特に、北上山地は、その昔、平安時代から、良質の砂鉄が取れることで有名で、前述の「奥州藤原氏」も、鋳物師を、わざわざ京都から呼び寄せて「鋳造業」を行っていました。
また、釜石は、日本初の官営製鉄所となる「釜石製鐵所」が建造される等、昭和末期まで、「製鉄の町」として繁栄して来た町です。
岩手の「鉄」に関しては、次の過去ブログでも紹介しています。
★過去ブログ:岩手の工芸品 ~ 地味だけど丈夫で長持ち その2(南部鉄器)
:岩手県内の火防祭り ~ 検索トップだけどマイナーな祭り その2
他方、「大島高任」は、幕末となる文政9年に、盛岡藩侍医「大島周意」の長男として生まれた後、17歳で江戸に出て蘭方医に師事し、さらには、長崎にも留学し採鉱術を学んでいます。
27歳で水戸藩の徳川斉昭に招かれて、那珂湊に反射炉を建造して大砲の鋳造に成功しますが、原料が砂鉄のため余り性能は良くなかったそうです。
そして、その後、良質な鉄鉱石を産出する釜石で、西洋式高炉を建造し、安政4年(1858年)、鉄鉱石製錬による本格的連続出銑に成功しますが、これが商用高炉としては日本初の試みで、この事から大島は、「日本近代製鉄の父」と呼ばれています。
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この「橋野高炉」は、日本の歴史上、重要な場所であることは明らかなのですが・・・
如何せん、地味 !! この地を訪れても、他の「軍艦島」等に比べると、何の感動も無いと思います。
何か、もう少し展示方法などを検討した方が良いと思います。
■岩手県の無形文化遺産
岩手県には、次の2件の、無形文化遺産があります。どちらも、過去ブログで紹介している内容ではありますが、もう少し詳しい内容を紹介します。
それと、岩手県に限った話ではありませんが、「和食」に関しても、1点、岩手に関係する話がありましたので、ついでに紹介しておきます。
●早池峰神楽
無形文化遺産は、前述の説明の通り、2008年に条約が発効しました。
このため、この時点で、既に「傑作宣言」を行っていた3件が、直ちに代表一覧表に正式登録されました。
そして、さらに2008年に、この早池峰神楽を含む10件の登録申請を行い、その結果、翌2009年には、全て代表一覧表に正式登録された次第です。
今回、早池峰神楽に関して、もう少し詳しい情報を紹介しようと思ったのですが、既に何度も紹介しているので、ネタが尽きてしまいました。
特に、「瀬織津姫命」を取り上げた下記ブログでは、早池峯信仰から早池峰神楽、そして早池峰神社の情報を詳しく紹介しています。
★過去ブログ:早池峰信仰と瀬織津姫命 ~ 謎多き姫神に触れる その1
このため、本ブログに同じ内容を記載するよりは、下記のブログを見た方が良いと思います。
●来訪神(スネカ)
「スネカ」に関しては、2018年10月、ユネスコの補助機関が、秋田県男鹿市の「ナマハゲ」等を含む、8県10件の伝統行事で構成する「来訪神 仮面・仮装の神々」を、無形文化遺産に登録するよう勧告しています。
その結果、2018年11月26日から、モーリシャス(アフリカ)で開かれたユネスコの政府間委員会で審議が行われ、11月29日に、無形文化遺産への正式登録が決定しました。
但し、今回の登録は、2009年に登録済となっている、鹿児島県の「トシドン」への拡張登録となっていますので、地元は嬉しいかもしれませんが、日本としては、喜びも半分と言った感じでしょうか ?
ところで、大船渡市吉浜で、毎年1月15日に行われる「スネカ」に関しては、実は、下記過去ブログで詳しく紹介してしまっていました。
★過去ブログ:冬の歳時記 ~ 寒いのにご苦労様です
今回、「スネカ」に関しても、過去ブログで紹介していない情報を提供しようと思ったのですが・・・こちらも、結構詳しく紹介しており、余り追加情報はありませんでした。
しかし、他サイトですが、実際に、「スネカ」が、一般家庭を襲った際のレポートが記載されており、結構面白かったので、そのサイトを紹介しておきます。
★参考サイト:岩手の「スネカ」に子供と一緒に泣かされる
→ URL:https://dailyportalz.jp/kiji/150119166103
●和食
前章の無形文化遺産の一覧でも紹介した通り、平成25年(2013年)に、日本の「和食」が、正式登録されています。
「和食」は、当然、岩手県に限った話ではありませんが、日本国からユネスコに提出した登録提案書中に、一関地方の「もち食文化」が例示として挙げられていたそうです。
また、現在でも、農水省のホームページの「トピックス」には、『「和食」のユネスコ無形文化遺産登録 ? 次世代に伝える日本の食文化 ? 』と言うページが掲載され、その中で、日本各地の「和食」の事例として、一関市で毎年開催される『 全国ご当地もちサミット 』が紹介されています。
そこで、簡単にですが、一関の「もち食文化」を紹介したいと思います。
最初に、一関市で毎年開催される「全国ご当地もちサミット」ですが、こちらに関しても、過去ブログで紹介していますので、そちらをご覧下さい。
★過去ブログ:ちょいと変わった秋のイベント紹介
そして、一関地方と「もち」の関係ですが、本当に、異常なほど強い結びつきがあるようです。
通常、「もち」と言えば、正月料理をイメージすると思いますが、平泉を含む一関地方では、正月や年越しは言うまでもなく、田植えや稲刈りなど農作業や季節の節目、入学式やら卒業式、そして冠婚葬祭と、この地方に伝わる「もち暦」によると、その数年間60日以上と言われているそうです。
また、「もち料理」の種類も300種類以上あるとも言われており、レパートリーの多さは日本一と言われているそうです。
「もち食文化」の起源は、江戸時代、この地を治めていた「伊達藩田村家」の統治方法にあるとされています。
当時、一関地方を治めていた伊達藩の命で、毎月1日と15日には、「もち」をついて神様に供え、平安無事を祈り休息日とする習慣があったそうです。
しかし、神様には白い「もち」を供え、貧しい農民達は、くず米に雑穀を混ぜた「しいなもち」と言う白くない「もち」を食べていたそうです。
そこで、この「しいなもち」を、なんとか美味しく食べようと工夫する中で、独自のもち食文化を開花させていったとも伝わっています。
■落選した「御所野遺跡」とは
岩手、青森、北海道、そして秋田の1道3県では、縄文遺跡群世界遺産登録推進事務局を立ち上げ、この地域に存在している縄文遺跡群を、人類共通の宝として、未来へ伝えていかなければならない貴重な文化遺産であると考え、2009年、世界遺産候補としてユネスコ世界遺産センターの世界遺産暫定リストに登録しました。
この資産に関しては、「北海道・北東北を中心とした縄文遺跡群」と言う名称で、平成18年(2006年)から活動を開始して、12年も歳月を掛け、平成30(2018年)7月に、ようやく推薦候補になったのですが・・・
前述の通り、2018年11月3日、「北海道・北東北の縄文遺跡群」に関しては、2020年の登録推薦の見送りが決定されてしまいました。
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ここで、「北海道・北東北の縄文遺跡群」の場所を紹介しますが、資産は、北海道6遺跡、青森県8遺跡、岩手県1遺跡、秋田県2遺跡の計17遺跡で構成されているそうです。
都道府県 |
自治体 |
遺跡名 |
北海道 |
大船遺跡 |
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垣ノ島遺跡 |
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キウス周堤墓群 |
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北黄金貝塚 |
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入江貝塚 |
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小牧野遺跡 |
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大森勝山遺跡 |
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是川石器時代遺跡 |
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田小屋野貝塚 |
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亀ヶ岡石器時代遺跡 |
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大平山元遺跡 |
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二ツ森貝塚 |
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一戸町 |
御所野遺跡 |
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伊勢堂岱遺跡 |
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さて、肝心の「御所野遺跡」は、岩手県一戸町岩舘字御所野と言う場所にあります。
ここは、馬淵(まべち)川東岸の、標高190m~200mの河岸段丘に立地し、縄文時代中期後半(紀元前2,500年~紀元前2,000年頃)の大規模集落遺跡とされています。
中央の広場には、配石遺構を伴う墓地が造られ、それを囲んで竪穴建物跡、掘立柱建物跡、祭祀に伴う盛土遺構などが分布しています。
そして、さらにその外側の東、西にも竪穴建物跡が密集するという集落構造が明らかになっています。
「御所野遺跡」は、当時の人々が、長期間に渡って安定した定住生活を示す具体的な物証であり、周辺の自然環境と共存しながら一体となった計画的土地利用を、段階的に跡付けることができる顕著な事例とされています。
盛土遺構からは、土器や石器とともに、焼かれた獣骨や植物種子、さらに祭祀遺物と考えられる土製品などが集中的に出土していることから、火を使用した「送り」などの祭祀が行われていたと推定されているそうです。
また、この遺跡には、火災で焼失した後に廃棄されたされている住居もある事が判明しています。
遺跡発掘後、復元した遺跡で焼失実験を行った結果、これらの竪穴建物跡は、竪穴住居を土で覆う屋根構造だったことが判明したそうです。
今後は、ちゃんと現地調査が通過する事が出来るよう、「平泉ショック」を再現させないためにも、ちゃんと準備を進め、専門家の意見を尊重してプロジェクトを進めて欲しいと思います。
「平泉ショック」では、現在、日本が、ユネスコへの拠出金がトップである事から、無理矢理、登録を進めようとして、ICOMOSの勧告を無視した事が「登録延期」となった原因とされていますので、この点も注意すべきだと思います。
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今回は、「岩手の世界遺産と無形文化遺産 - その2」と題して、次の情報を紹介してきましたが、如何でしたか ?
はやり、「何だかな~」だったと思います。ブログを書いている本人も、もっと面白い事書けないかな~と悩んだくらいですから・・・
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正直な感想を言えば、世界的に見ても、もう世界遺産への新規登録は止めたほうが良いのではないかと思っています。
2018年時点で、世界遺産の総数は、「1,092件」にも達しています。
まだ世界遺産に登録されている場所が無い国にとっては、「まだまだ、これから !」と言う感じがあると思いますが、1,000件を超えた時点で、「世界遺産ブランド」の価値は地に落ちたと思われます。
元々、世界遺産の発足当時は、上限を「100件」にすると言う案もあったそうです。
今後は、既に「世界遺産」に登録された場所がある国は登録申請を遠慮し、未登録の国の遺産を優先して審議すべきだと思います。
とは言え、世界遺産条約が出来てから、既に半世紀近く経っていますので、未だに世界遺産に登録された場所が無い国に関しては、こちらも正直な所、世界遺産に登録すべき場所が無いのだと思われます。
もしくは、それらしい場所はあっても、治安が悪いとか、既に破壊されてしまった等の問題がある国なのだと思います。
しかし、その一方、逆に、登録を回避する国が多いことも問題になっているようです。
その理由として、世界遺産に登録されてしまうと、周辺地域を開発することが出来なくなってしまう点が挙げられています。
地元としては、観光地として発展していくのか、それとも都市として発展していくのか、非常に難しい判断が必要になると思います。
今後も、UNESCOの活動は、資金調達から始まり、難しい事になると思います。
それでは次回も宜しくお願いします。
以上
【画像・情報提供先】
・Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)
・世界遺産オンラインガイド(https://worldheritagesite.xyz/)
・中尊寺ホームページ(http://www.chusonji.or.jp/)
・公益財団法人 岩手県観光協会(https://iwatetabi.jp/index.php)
・縄文遺跡群世界遺産登録推進事務局(https://jomon-japan.jp/)
・いちのせき観光ナビ(http://www.ichitabi.jp/)