早池峰信仰と瀬織津姫命 〜 謎多き姫神に触れる その4
今回は、これまで紹介して来た「早池峰信仰と瀬織津姫命」の続編となる「その4」を紹介します。
★過去ブログ
(1)早池峰信仰と瀬織津姫命〜謎多き姫神に触れる その1
(2)早池峰信仰と瀬織津姫命〜謎多き姫神に触れる その2
(3)早池峰信仰と瀬織津姫命〜謎多き姫神に触れる その3
前回までの内容では、次の様な内容を紹介しましたが、「早池峯信仰 = 瀬織津姫命」の関係性は、「熊野権現」に、そのルーツがある事が、ほぼ明らかになりました。
・山岳信仰とは
・早池峯信仰とは
・早池峯神社とは
・「早池峯」と「早池峰」の違い
・どこが「早池峯神社」の本坊なのか ?
・瀬織津姫命が御祭神の神社
・瀬織津姫命とは何者なのか ?
・天照大御神は男神なのか ?
・鈴鹿権現と瀬織津姫命
・熊野権現と瀬織津姫命
・瀬織津姫命と天台宗
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その中でも、岩手県には、非常に早い時期、奈良時代、および平安時代に掛けて、「熊野権現 = 瀬織津姫命」が、下記2つのルートで勧請されていたのは驚きでした。
・「大野東人」ルート :奈良時代「神亀元年(724年)」、熊野神宮本宮から勧請 → 室根神社
・「始閣藤蔵」ルート :平安時代「大同元年(806年)」、伊豆山神社から勧請 → 伊豆神社/早池峯神社
「大野東人(おおの-あずまびと)」は、「蝦夷平定」を目的にしていたとは言え、何故、こんなにも早く、大和朝廷が治めていた地域から、本州の北の果てまで、「熊野権現(瀬織津姫命)」を勧請したのか不思議な事だと思われます。
しかし、「大野東人」が、室根神社に「熊野権現(瀬織津姫命)」を勧請してから、「始閣籐蔵(しかく-とうぞう)」が早池峯神社に「熊野権現(瀬織津姫命)」を勧請するまで、100年以上経過している事に関しては、何か違和感を思えます。
普通、ある地方に神仏が勧請された場合、勧請された場所を拠点として、そこから神仏を祀る寺社が増えて行くと思われます。
「大野東人」は、当時は「鎮守府将軍」で、なおかつ「蝦夷平定」を祈願している訳ですから、自身が平定した場所には、自らが勧請した「熊野権現(瀬織津姫命)」を祀るはずです。
特に、「大野東人」は、「多賀柵(後の多賀城)」や「出羽柵」を築いていますので、現在の宮城県多賀城市や秋田県秋田市付近にも、「熊野権現(瀬織津姫命)」を祀る神社を創建するはずですが・・・
何とも、不思議な感じがします。
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さて、そこで今回のブログでは、前回「鈴鹿権現」の箇所で取り上げた、「坂上田村麻呂」と「鈴鹿御前」の子供達の事を紹介したいと思います。
前回ブログでは、「坂上田村麻呂」が、嵯峨天皇の勅命により鈴鹿峠の山賊退治を行った際、天上より「鈴鹿御前(瀬織津姫命)」が現れ、その霊力により「坂上田村麻呂」を助け、その後、二人は結婚して「一男一女」を儲けた事を紹介しました。
そして、男の子は「安倍氏」の始祖となり、女の子は、後に三人の女の子を生み、この子達が「遠野三山」の女神になったとされています。
安倍氏を含め、遠野地方に縁がある人達にとっては、夢のような、本当に、ありがたい話だと思いますが・・・これも、東北地方、特に岩手に多い、「坂上田村麻呂」伝説の一つだと思われます。
日本人に人気のある過去の偉人としては、次のような方たちがいらっしゃいますが、これらの人物には、次のような特徴があります。→ 坂上田村麻呂、弘法大師、源 義経
・実際には死んでいなかった
・日本各地で奇跡を起こしている
・実際には訪れていない場所に、伝説や記念碑等が残されている
これら偉人の内、岩手県に関わりのある「坂上田村麻呂」や「源義経」に関しては、その昔、過去ブログで紹介した事があります。
★過去ブログ
(1)「坂上田村麻呂」に関連する岩手の観光地
(2)岩手県内における義経伝説 ? 信じたくなる話ばかり Vol.1
(3)岩手県内における義経伝説 ? 信じたくなる話ばかり Vol.2
前述の「鈴鹿御前」との話も、「坂上田村麻呂」伝説に連なる話の一部だと思いますが、「安倍氏」に関して、次の話題を紹介したいと思います。
■「安倍氏」とは ?
■「安倍氏」と「瀬織津姫命」
■「安倍氏」と「アラハバキ神」
ちなみに、「安倍兄弟(安部貞任/安倍宗任)」にも、北海道に逃げたと言う伝説も残っているようです。
それでは今回も宜しくお願いします。
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■「安倍氏」とは ?
さて、東北地方、特に岩手県には「安倍氏」にまつわる遺跡や伝承が数多く残されています。
これは、皆さん、既に知っていると思いますが、岩手県が、「前九年の役」の舞台となったことが影響しています。
「安倍氏」、当初は「阿部氏(あべ-うじ)」は、孝元天皇の皇子「大彦命(おおひこのみこと)」を始祖とする一族です。
同じ一族で、誰もが名前を聞いたことがある有名な人物としては、次の人物が居ます。
・阿倍比羅夫 :飛鳥時代の将軍。北海道の蝦夷征伐実施。白村江の戦いに参戦して敗北。
・阿倍仲麻呂 :奈良時代の遣唐使留学生。歌人。比羅夫の孫。長安にて客死。
・安倍晴明 :平安時代の陰陽師。
「阿部(安倍)氏」は、9代目「阿部大麿呂」の後、「布施臣」系と「引田臣」系の2つに分裂し、先の「安倍晴明」は布施系の流れを組み、後の「土御門家」となっています。
一方、「阿部比羅夫」や「阿部仲麻呂」は引田系に属し、奥州安倍氏も、引田系の流れをくんだ一族とされており、「陸奥国奥六郡(現在の岩手県内陸部)」を拠点に勢力を拡げ、「安倍頼時( ? 〜 1057年)」の時代に、最も勢力を拡げたとされています。
「陸奥国奥六郡」とは、胆沢郡、江刺郡、和賀郡、紫波郡、稗貫郡、そして岩手郡の六郡の総称で、現在の岩手県奥州市から盛岡市にかけての広大な地域になります。
「奥州安倍氏」は、よく「俘囚(ふしゅう)の長」と呼ばれていますが、その実態は、まだ解っていないようです。
「俘囚」とは、陸奥や出羽の蝦夷の内、朝廷の支配下に入った者や、あるいは朝廷の捕虜となって移配された者を指しているそうです。
しかし、「安倍氏」の場合は、「前九年の役」の顛末を描いた「陸奥話記」によると、「安倍頼時」が、「大夫」と呼ばれたり、頼時の父「安倍忠良(ただよし)」が、「陸奥守」に任ぜられたりしているので、京都から下向した官僚が、土着して武士になったとも考えられています。
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この「前九年の役」に関しては、当ブログで、何度も説明していますが、概略だけを説明しますと、次のような流れとなっています。
・平安時代中期(11世紀中頃)、陸奥国では、安倍氏「安倍忠良・頼良(後の頼時)」親子が勢力を拡大。その後「安倍頼良(よりよし)」が奥六郡を支配し「俘囚の長」と名乗る。
・永承5年(1050年)、「藤原登任(なりとう)」が陸奥守として下向。安倍氏に朝廷への貢租を要求。
・これに対して、「安倍頼良・貞任(さだとう)」親子は、要求を無視すると共に、領地拡大を目指して南下を開始。
・翌「永承6年(1051年)」、国司「藤原登任」は、出羽の秋田城介「平 繁成」と共に、数千の兵で「安倍氏」を攻撃し、後世「前九年の役」と呼ばれる戦いが始まる。
・戦は、現在の「宮城県大崎市鳴子温泉鬼首」付近で始まり、これを「鬼切部(おにきりべ)の戦い」と呼んでいるが、国司軍は大敗を喫し、国司は京都に逃げ帰り更迭され、その後、出家。
・後任として「源 頼義(よりよし)」が陸奥守となったが、「永承7年(1052年)」、後冷泉天皇の祖母の病気快癒祈願で大赦が行われ、「安倍頼良」も罪を赦される。
・その後、「安倍頼良」は、「陸奥守」として下向した「源 頼義」を饗応した際に、同じ呼び名である事から、自らの名を「頼時(よりとき)」に改名。
・陸奥守の任期が終わる「天喜4年(1056年)」、今では、その場所も定かでは無い「阿久利川」という場所で、「源 頼義」が野営していた時に、自身の部下(藤原光貞/元貞)が襲撃された事から戦が再開。
・この件は、「阿久利川事件」と呼ばれているが、「源 頼義」か「藤原光貞/元貞」の陰謀とされる。
・戦を再開した「源 頼義」は、自身の部下「平 永衡(ながひら)」が、敵側(安倍氏)に通じていると言う讒言を信じ殺害。「平 永衡」は、「安倍頼時」の娘婿。
・その結果、同じく「安倍頼時」の娘婿だった「藤原経清(つねきよ)」が、国府軍から「安倍氏」側に寝返える。「藤原経清」は、「奥州藤原氏」の祖「藤原清衡」の実父。
・「天喜5年(1057年)」、津軽の俘囚の裏切りにより「安倍頼時」が戦死し、その後を息子「安倍貞任」が継ぐ。
・同年、「安倍頼時」の戦死を朝廷に報告するも論功行賞を受ける事が出来ず。「源 頼義」は無理を承知で再び出兵。「黄海(きみ)の戦い」で壊滅的大敗。息子「源 義家(八幡太郎義家)」他6騎にて命からがら脱出。
・「康平2年(1059年)」、奥六郡を含む、衣川以北は、ほぼ「安倍氏」の支配地となる。
・「康平5年(1062年)」、出羽の俘囚「清原氏」が、「源 頼義」の説得に応じて参戦。
・族長「清原光頼」の弟「清原武則」が総大将として出陣。戦闘開始後、わずか1ヶ月、9月17日に「安倍貞任」は戦死、「藤原経清」は鋸挽きの刑で処刑。
・その後、次の様な経緯を辿り、「永保3年(1083年)」の「後三年の役」へと繋がって行く。
→ 「藤原経清」の子「藤原清衡」は「清原武則」の子「清原武貞」の養子となり「清原清衡」となる。
→ 「源 頼義」は、意に反して「陸奥守」ではなく「伊予守」に叙任。
→ 「安倍貞任」の弟「安倍宗任」は、当初「伊予国」、その後「筑前国宗像」に流され77歳で死去。その子孫は、「松浦党」の一族となったり、「宗像氏」の配下となったりして活躍したと伝えられる。
→ 「清原武則」は、鎮守府将軍となり「奥六郡」を与えられる。
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以上が、「永承6年(1051年)」から「康平5年(1062年)」まで、途中の休戦期間も含め、11年間にも渡って争った「前九年の役」の概略です。
この結果、一番得をして「実」を取ったのは「清原氏」ですが、結局、「後三年の役」で滅亡してしまいます。
そして、「源 頼義/義家」親子はと言うと、望んだ結果は全く得られなかったのですが、後世に残る「名」を取ったと言われています。
「源 頼義/義家」親子は、「河内源氏」と言われる「河内国(現:大阪府)」出身の「清和源氏」の傍流一族ですが、この一族が、後の「源氏宗家」、武門の中での最高の格式を持つ一族となって行きます。
この一族が排出した有名な武士(達)には、次の人物が居ます。(※自分で勝手に名乗っている人もいますが)
・源 頼朝 :「源 義家」の玄孫(四代後の孫)。鎌倉幕府創設。
・足利 尊氏 :「源 義家」の四男「源 義国」の子「源 義康」が「足利氏」の始祖。室町幕府創設。
・斯波氏 :足利氏の分家。前九年の役で得た領地「斯波(紫波)郡」の名前を名乗る。室町幕府の管領家。
・徳川 家康 :河内源氏の「新田氏」の傍流「得川氏」を名乗る。徳川幕府創設。
鎌倉時代以降、武門の棟梁となる「征夷大将軍」を名乗るようになるのは、「源 頼義/義家」親子が、前九年の役で勝利した事が起源となっています。
つまり、この「前九年の役」で、「源 頼義/義家」親子が勝利しなければ、後の世で「源氏」とか「征夷大将軍」と言う「肩書」は、余り意味が無い肩書になっていた可能性があると言う事です。
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さて、肝心の「安倍貞任(さだとう)」ですが、前述の通り、史実では、「康平5年(1062年)」の「厨川の戦い」で戦死した事になっていますが、それ以外、「実は、前九年の役で敗れはしたものの、本当は逃げ延びた。」と言う次の様な言い伝えもあります。
・花巻市にある「田瀬湖」の辺りにある「安倍貞任の隠れ岩」で暫く過ごし、その後、北海道に渡った。
・遠野には「安倍頼時」の六男「重任(貞任の弟)」の子孫が今でも生きており「阿部家」となっている。
・北海道に逃げ延びる際に、盛岡市と宮古市の堺「兜明神岳」に隠れていた。
・「兜明神岳」には、安倍貞任の兜が祀られており、付近には、安倍氏の隠し財産が埋められている。
さらに、「安倍貞任」に関しては、「源 義家」自身が、「安倍貞任」を見逃したという話が「古今著聞集(ここんちょもんじゅう)」に残されています。
【 古今著聞集 】
衣川にあった安倍氏の砦が焼け落ち、安部貞任が逃げ延びようとしたところ、追手の源義家が、矢をつがえて、馬上から「衣のたてはほころびにけり」と下の句を詠みあげたのに対して、貞任は「年を経し糸の乱れのくるしさに」と上の句として繋げて返したとされています。
これを聞いた「源 義家」は、貞任の機転に敬意を払って見逃したと伝わっています。
また、「貞任伝説」は、岩手県だけかと思いきや、何と、山形県にも数多く残されているようです。
・朝日村の大平には、安倍貞任が身重の妾を連れて源氏の名刀「雲切丸」を探しに来て、その時生まれた男児が村に住みついた
・安倍氏は鳥海山の「鳥海権現」の子孫であり、貞任は、権現様から授かった不思議な玉で術を使い、源義家に追われ天狗森に立てこもった時、真夏に赤い雪を降らせ、鳥海山麓を真っ赤にした
「貞任伝説」を探してみると、上記以外、秋田県や宮城県、それに何と、九州地方に「阿部貞任は生き延びて当地に来た。」と言う伝説があります。
この点は、非常に興味深いので、機会があれば、調査して紹介しようかと思います。
また、「安倍氏」ですが、京都の貴族から見ると、蝦夷と言う事で、「野蛮」、「無教養」等と考えられがちですが、先の古今著聞集にもある通り、蝦夷とは言え、教養も備えていたようです。
「安倍貞任」の弟「安倍宗任」に関しても、捕虜となり京都に連れて行かれた際、都の貴族が、蝦夷だから花の事など解らないと思い、梅の花を見せて「この花は何か ?」と訪ねて嘲笑したところ、宗任は、次の様な歌を詠んで、京都人を驚かせたと言う「平家物語」の話は有名です。
『 わが国の 梅の花とは見つれども 大宮人はいかがいふらむ 』
何とも、格好の良い話ですが、どちらも日本人に特有の「判官びいき」と言うか、弱い者びいきの考え方の現れだと思います。
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■「安倍氏」と「瀬織津姫命」
さて、次は、「安倍氏」と「瀬織津姫命」との関係を見てみます。
前回紹介した「遠野市史」や「遠野物語」が伝える「三女神」には、「坂上田村麻呂」は登場しませんが、母親と三名の娘が登場します。
そして、「伊豆神社」自体の由緒には、俗人である「瀬織津姫命」が、「おない」と言う名前で登場し、「坂上田村麻呂」との間に「三女神」を生んだ事になっています。
他方、遠野の「綾織村誌」には、「伊豆神社」に祀られている御祭神「瀬織津姫命 = おない」は、「安倍宗任」の妻と伝わっています。
また、前述の通り、「鈴鹿御前」との関係においても、「坂上田村麻呂」との間に、一男一女を儲け、さらにその娘が、三名の娘を生んだとされています。
何か、あっちにも、そして、こっちにも似たような話ばかりで、訳が解らなくなってきましたので、これを整理すると、次の様な伝承があるようです。
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【 遠野物語/第2話 】
大昔に女神がいて、三人の娘を連れてこの高原に来た
今の来内(らいない)三村の伊豆権現の社ある場所に宿った夜、今夜よい夢を見た娘によい山を与えようと母の神が語って寝たところ、夜深く天から霊華が降り、姉の姫の胸の上に止まったのを、末の姫が目覚めて、こっそりこれを取り、自分の胸の上に乗せたところ、ついに最も美しい早池峰の山を得、姉たちは六角牛と石神とを得た
若い三人の女神はそれぞれ三つの山に住み、今もこれを支配しておられるので、遠野の女たちはその妬みを恐れて、今もこの山には入らないという。
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【 遠野市史 】
この女神たちの泊った宿は、当時来内村といった現遠野市上郷町来内の伊豆権現社である。伊豆権現は、早池峰を開山した猟師藤蔵が、故郷の伊豆から持ってきた守り神である。藤蔵は、太平洋沿いに北上し、この来内に居を構えた、という
現在、この地には三人の女神が生まれたお産畑、お産田が残っている。田は五角形で、女が田植えをすると雨が降るといって男が田植えをする。一坪(三・三平方メートル)くらいの小さな田で、不浄であってはならないと肥料はしないし、田植えの時も畦[あぜ]から苗を三把ずつ植えて内に決してはいらない。この田からとったイネで餅をつくり、大出の新山宮(現在の早池峰神社…引用者)に供え、余りはお守りとして各戸に配っている。付近には、このほか襁褓(おむつ)を干したという三国という名の岩、藤蔵の屋敷跡、後代に造った墓なども残っている。
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【 伊豆神社由緒 】
坂上田村麻呂が延暦二年(西暦七八三年)に征夷大将軍に任命され(「任命」は延暦十六年=七九七年…引用者注)当地方の征夷の時代に此の地に拓殖の一手段として一人の麗婦人が遣わされ、やがて三人の姫神が生まれた。
三人とも、高く美しい早池峰山の主になることを望んで、ある日この来内の地で母神の「おない」と三人の姫神たちは、一夜眠っている間に蓮華の花びらが胸の上に落ちた姫神が早池峰山に昇ることに申し合わせて眠りに入った。
夜になって蓮華の花びらが一番上の姉の姫神に落ちていたのを目覚めた末の姫神がみつけそっとそれを自分の胸の上に移し、夜明けを待って早池峰山に行くことになり、一番上の姫神は六角牛山へ(石神山へとの説もある)二番目の姫神は石神山へとそれぞれ別れを告げて発って行った。
此の別れた所に神遣神社を建立して今でも三人の姫神の御神像を石に刻んで祀っている。
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【 鈴鹿御前と坂上田村麻呂 】
陸奥国には、国津神の後胤「玉山立烏帽子姫(たまやまたてえぼしひめ)」という女神がいた。
この女神は、極めて美しい姫で、蝦夷の頭目「大岳丸(おおたけまる)」が、あらゆる手段を用いて言い寄ったが、姫神が応じることはなかったそうです。(※大岳丸:大竹丸、大嶽丸、etc.)
奈良時代末の延暦二十年(801年)、「坂上田村麻呂」が、征夷大将軍として蝦夷を討伐に来た際、「玉山立烏帽子姫」は、遠征軍の道案内をして、「坂上田村麻呂」が岩手山で「大岳丸」を討ち取るのを手助けしたという。
これが縁で、「坂上田村麻呂」は、「立烏帽子姫」と夫婦の契りを結び、一男一女を得たという。男子の名を「田村義道」と言い、「田村義道」は、その後、奥六郡の主「安倍氏」の祖となる。
娘の名は「松林姫」と言い、「お石」、「お六」、そして「お初」の三女を生み、「お石」は守護神「 速佐須良比売」を奉じて石上山に、「お六」は守護神「速開都比売」を奉じて六角牛山に、さらに「お初」は守護神「瀬織津姫命」を奉じて早池峰山に登ったと言う。
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【 綾織村誌 】
安倍宗任の妻「おない」の方は、「おいし」、「おろく」、「おはつ」の三人の娘を引き連れて、即ち今の上閉伊郡の山中に隠る。
其後おないは、人民の難産難病を治療することを知り、大いに人命を助け、その功によりて死後は、来内の伊豆権現に合祀さる。
娘共は、三人とも大いに人民の助かることを教へ、人民を救ひしによりて、人民より神の如く仰がれ、其後附馬牛村神別に於て別れ、三所の御山に上りて、其後は一切見えずになりたり。
其おいしかみ、おろくこし、おはやつねの山名起れり。此の三山は神代の昔より姫神等の鎮座せるお山なれば、里人之を合祀せしものなり。
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これらの由緒や言い伝えに共通するのは、「母親と三名の娘」の存在で、しかも、ほとんどが、実在の人物としている点です。「女神」と言う表現こそしていますが、ほぼ実在の人物だと思われます。
また、これら娘に共通しているのは、一部関係が無さそうな部分もありますが、「安倍氏」との関わりです。そこから何が推測されるのかと言えば、恐らくは、これら「母親と三名の娘」は、「安倍氏」に関わる人物ではないか、と言う事です。
しかし、「安倍氏」は朝敵ですから、実際に、その名を出せないので、古くから、この地で祀られてきた「瀬織津姫命」を表に出し、裏では「安倍氏」に連なる人物を祀って来たのではないかと思われます。
特に、遠野地域では、今でこそ「安倍氏は遠野の英雄であり、遠野の民は安倍氏の子孫だ ! 」等と誇らしげに公言していますが、これが、「前九年の役」が終了した平安時代当時なら、どうでしょうか ?
遠野地方は、「安倍氏」と争った「清原氏」の支配地となった訳ですから、その地で「安倍氏」と関係の深い人物を祀ったら、とんでもない事が起こる事は、誰でも想像出来たはずです。
遠野地方は、清原氏の後は、奥州藤原氏、阿曽沼氏、南部氏と支配者は入れ替わりますが、時代が経るうちに、御祭神に関する本当の由緒/起源が解らなくなってしまったのかもしれません。
つまり、これも集合の一種なのかもしれませんが、本来は「安倍氏」を祀っていた神社を「安倍氏 = 瀬織津姫命」とし、それが途中で「安倍氏」が消えてしまい、現在では、「瀬織津姫命」だけが残ってしまったのかもしれません。
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さらに、「安倍氏」と「瀬織津姫命」との関係については、前章で軽く触れた「アラハバキ神」との関係も取沙汰されています。
「アラハバキ(荒覇吐/荒脛巾)神」とは、未だに正体不明な神様とされており、実際には、どのような神様なのかは、未だに解っていないようですが、日本の全国各地に、この「アラハバキ神」を祀っていたと思われる祠があるようです。
「アラハバキ」とは、「荒い脛巾(はばき)」を意味し、「ハバキ」とは、脛(すね)に巻きつける「脛巾(きゃはん)」を意味しています。
「脛巾 ? 何それ ?」、若い人には、馴染みのない物だと思います。と言うか、私自身も、実際には使った事はありません。
現在も物としては存在していますが、幕末の戊辰戦争、日清/日露戦争、それと太平洋戦争を扱った映画やテレビで見かけた事があるだけです。
旧日本陸軍の兵士が足元に巻き付けていた物で、別名「ゲートル」とも呼ばれており、脛や脚を保護したり、長時間歩く時に、「ふくらはぎ」を締め付けて疲労を軽減したりする目的で使われます。
似たような機能を提供する膝から下を締め付ける「サポーター」や「ストッキング」が、この「脚絆」に近いと思います。
この「サポーター」であれば、私も使った事はありますが・・・「脚絆」とは言わないと思います。
と言うことで、「アラハバキ神」は、「足にまつわる神」や「旅の神」として道中安全を司る神とされるケースが多いようです。
また、ちょっと飛躍して「下半身」まで面倒を見てくれる神とも考えられているようで、弊社ブログでも紹介した「金勢様」や「道祖神」とも習合しているケースも見受けられるようです。
★過去ブログ:岩手県内における金勢信仰 〜 何でこんなに沢山あるの Vol.1〜6
上図は、宮城県多賀城市の「アラハバキ(荒脛巾)神社」の画像ですが、足や下半身に関係する「靴」、奥には「金勢様」も奉納されていますが、何か、もうグチャグチャです。
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岩手県内にも、当然、数多くの祠があるとされており、その中でも花巻市東和町谷内にある「丹内山神社」にある「アラハバキ大神の巨石」は有名です。
「丹内山神社」、創建時期は不明となっていますが、由緒書には、地方開拓の祖神として祀られていたとなっています。
現在では、確かな証拠等はありませんが、古くから「阿弖流為(アテルイ)」等、蝦夷にとっての神聖な場所だったと推測されているようです。
そして、奈良時代末、「延暦20年(801年)」の蝦夷攻撃の際には、「坂上田村麻呂」が、この地で戦勝祈願を行ったと伝わっていますので、創建時期は、とてつもなく古いと思われます。
しかし、「蝦夷の神」に「蝦夷討伐の戦勝祈願」をするとは思えませんので、恐らくは、「戦勝祈願」ではなく、「蝦夷の神」の力を封じるための策や儀式を施したのだと思われます。
その後、平安時代となる「承和年間(834〜847年)」には、弘法大師の弟子「日弘」が不動明王像を安置し、さらに、「嘉祥2年(849年)」には、比叡山座主「円仁」が、この地に留錫したとも伝わっています。
さらに、その後となると、「源 頼義/義家」親子、奥州藤原氏、さらには、この地の領主となった地方豪族、そして最後は「丹内権現」として南部氏の祈願所にもなったと伝わっています。
神社境内には、この巨石の他にも、平安時代となる「康平5年(1062年)」に、「源 義家」が勧請したと伝わる「八幡神社」と、義家の弟「加茂次郎義綱(かもじろうよしつな)」が勧請したと伝わる「加茂神社」があります。
さらに、何がしたかったのか、今では解りませんが、「源 義家」が上に乗って弓を射たと伝わる「石」もあります。
一説には、この神社は、「安倍氏」の守護神を祀っていたとされますので、「源 義家」も、「坂上田村麻呂」と同様、「安倍氏」の守護神の力を弱めるための策を施したのかも知れません。
そして、その結果、「前九年の役」で勝利する事が出来たので、そのお礼として「八幡神社」を勧請したとも推測されます。
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また、弊社ブログ「岩手の巨石シリーズ」や、先の「金勢様シリーズ」で紹介した衣川村の「磐(いわ)神社」も、「磐座(いわくら)」と呼ばれる巨石を御神体としています。
「磐神社」の近くには、「安倍氏」が住んでいた「安倍館(あべ-やかた)」があったとされ、この「磐神社」を守護神(荒覇吐神)として崇拝していた旨が、神社の案内板に記載されています。
★過去ブログ:岩手県内の巨石の紹介 - その2 〜 何故か岩手に巨石が多い
以上の事から、「安倍氏」は「アラハバキ神」を守護神として祀っていたと言う説が多く見受けられます。
確かに、「安倍館」と上記「磐神社」は、非常に近い距離にあるので、「安倍氏」が、この「磐神社」を崇拝していたとしても違和感はありません。
しかし、先の神社の由緒書以外、「安倍氏」と「磐神社」、そして「安倍氏」と「アラハバキ神」の関係を裏付ける証拠は何も存在しないようです。
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他方、「安倍氏」は、先に紹介した「孝元天皇」の一族には変わりないのですが、それ以前、「古事記」に登場する「長髄彦(ながすねひこ)」と「安日彦(あびひこ)」と言う兄弟、特に兄の「安日彦」の子孫と言う、「眉にツバ」を付けたくなるような話も伝わっています。
「長髄彦」は、別名、下記のように呼ばれる伝説の人物で、初代日本天皇と伝わる「神武天皇」が、日向から橿原を目指して東征を行った際、「神武天皇」に抵抗した大和地方の豪族とされています。
→ 那賀須泥毘古、登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)、登美毘古(トミビコ)
そして、弟「長髄彦」は、「神武天皇」に破れ、自身が信奉する神「饒速日命(ニギハヤヒ/ニギハヤヒノミコト)」に斬り殺されたのですが、兄「安日彦」は、船で、現在の青森に逃れ、「蝦夷」そして、その後の「安倍氏」の始祖となったと言うのですが・・・これが、現在では偽書と断定されている「東日流外三郡誌」の概要です。
「東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)」とは、1970年代、青森県五所川原市の「和田喜八郎」氏が、自宅を改装中に、天井裏から発見した大量の古文書と言う事になっています。
この古文書、全部でダンボール箱にして20箱分ともなる大量の文章ですが、実は、一種類ではなく、何種類もの文書の総称になるそうです。
文書の名前ですが、「東日流六郡誌絵巻」「東日流六郡誌大要」「東日流内三郡誌」・・・etc. と、続々と発見され、「和田氏」が亡くなるまでの間、発見から50年に渡り、次から次へと古文書が発見されたとされています。
もう、この説明だけで、これらの書物が偽書だと言うことが明らかになるかと思います。
しかし、中には、本当に江戸時代に書かれた古文書もあるとの事で、その真偽が、より複雑になってしまったとも言われていますが、「ニセモノの中に本物を混ぜる」手口は、詐欺師の常套手段と言われていますので、まさに、この手口を実践したものだと思われます。
そして、この「東日流外三郡誌」によると、「安日彦/長髄彦」兄弟は、重症を負いながらも青森の津軽に逃れ地元民族と結婚し、これら混血の民族は「荒覇吐族」となり、この民族が、大和朝廷から「蝦夷」と呼ばれたとしています。
「神武天皇」没後、「荒覇吐」系の民族が日本を支配したとなっており、「安倍氏」の始祖となる「孝元天皇」の時代となった頃に、秦の「始皇帝」から「徐福」が日本に派遣されたとしています。
ところが、その後、半島から異民族(崇神天皇)が日本を侵略して大和地方が奪われてしまうが、東北地方では、「安倍氏」が、これに対抗したとなっています。
以上、簡単に紹介しましたが、前述の通り、この偽書(別名:和田家文書)は、ダンボール箱20箱分もあるので、この他にも、多くの奇々怪々な内容の文書があるようです。
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さて、ここで「安倍氏」と「アラハバキ神」との関係なのですが・・・正直な所、「安倍氏」が「アラハバキ神」を祀っていた証拠は見つかっていないように思われます。
「アラハバキ神」を祀る神社には、「安倍氏が祀っていたとされる」と言う由緒書や言い伝えがありますが、それだけです。文書や記録等、明らかな記録が見当たりません。
「アラハバキ神」自体が、「瀬織津姫命」と同様、どのような神様なのか解りませんし、「奥州安倍氏」が、朝廷に敗れてしまったので、朝敵の記録は、抹消されてしまったのかも知れません。
しかし、前述の通り、「安倍貞任」の弟「宗任」は、流罪になったとは言え、77歳まで生き延びています。
本当に「安倍氏」が「アラハバキ神」を信奉していたのであれば、流された伊予地方(現:四国徳島県)や筑前国(現:九州福岡県)において、明らかな証拠が多数見つかっていてもおかしくないと思います。
特に、北九州では、水軍で有名な「松浦党」の一族を築いていますし、「宗像大社」の宮司一族でもあり大名でもあった「宗像氏」一族とも深い関係を築いています。
このように北九州では、着実に力を付けていますので、それに伴い「アラハバキ神」も、周囲に拡がっても良いと思うのですが・・・余り、そのようには思えません。
このため、やはり、「安倍氏」と「アラハバキ神」は、余り関係が無かったのではないかと思われます。
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ちなみに、現在、最も有力な「アラハバキ神」の正体説としては、「客神(まろうどがみ)」、あるいは「門客神(もんきゃくしん)」とする説があるようです。
「客神」、および「門客神」とも、元々、特定の地域の「地主神(じぬしのかみ)」だった神様が、後から来た「古事記」や「日本書紀」の神様に、その立場を追われて、立場が逆転してしまった神様であることを意味しています。
その特徴時な例として、埼玉県の「氷川神社」の例があるとされています。
「氷川神社」、現在では、主祭神は「須佐之男(すさのお)命」、「稲田姫(いなだひめ)命」、および「大己貴(おおなむち)命」の三柱とされています。
「氷川神社」の創建時期は、2,400年以上前、第5代天皇となる「孝昭天皇」の時代、「孝昭天皇3年」とされ、「スサノオ」を祀る「氷川信仰」の起源とされる神社とされています。
「孝昭天皇3年創建 ? 西暦何年 ?」となると思いますが、つまり、創建不明と言うことだと思います。
また、この「氷川神社」の摂社(境内末社)には、「門客人神社」と言う神社があり、この神社の御祭神には、「稲田姫命」の両親とされる「足摩乳命(あしなづちのみこと)」と「手摩乳命(てなづちのみこと)が祀られています。
しかし、元々の神様は、「アラハバキ神」で、古くは「荒脛巾神社」と」呼ばれていたとされ、江戸時代に書かれた「江戸名所図会」には、「氷川神社」の説明に「荒波々幾社」と記載されています。
さらに、江戸時代「文化・文政年間(1804〜1831年)」に編纂された武蔵国の地誌「新編武蔵国風土記」には、「門客人神社」に関して、次の様に記載されています。
『 いにしえは、荒脛巾神社と号せし。門客人社と改め、テナヅチ、アシナヅチの二座を配した。 』
今となっては、何時、何で「客神」にさせられたのかは解りませんが、大和朝廷側には、「瀬織津姫命」と同様、表には出せない理由があったのだと思います。
とは言え、「アラハバキ神」が、「客神」である事は解ったとしても、「アラハバキ神」自体が、どのような神様であるのか、やはり蝦夷が祀っていた神様なのか等、解らないことは沢山あります。
一部の説では、この「氷川神社」は、元々、(現在はありませんが)「見沼」と言う湖畔にあったことから、「見沼の水神」を祀っていたとされています。
このため、「アラハバキ神 = 水神」と言う説もあるようですが、これも確たる証拠はありません。
ちなみに、同じく「スサノオ(牛頭大王)」を祀る信仰として、前述の「祇園祭」で有名な「祇園信仰」があり、この信仰の神社として、京都「八坂神社」等がありますが、この「氷川信仰」とは、全く別物なのだそうです。
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もう一方、「安倍宗任」が流された北九州地方、それと「宗像氏」との関係で、「三姉妹」と言うと、「宗像三女神」が思い浮かびます。
そして、「宗像三女神」と「遠野三山の三女神」・・・これを偶然の一致とするには、何か「おしい」様な感じがしますので、次回、取り上げたいと思います。
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今回は、「瀬織津姫命」と何らかの関係があると思われる「奥州安倍氏」に関して、次のような内容を紹介しましたが、如何でしたか ?
●「安倍氏」とは ?
●「安倍氏」と「瀬織津姫命」
●「安倍氏」と「アラハバキ神」
「奥州安倍氏」、朝敵となり滅亡してしまったので、詳しい資料が残っていないのが残念ですが、恐らくは、奈良時代末から平安時代初期における「阿弖流為(アテルイ)」を代表とする蝦夷滅亡後から、「前九年の役」までの間、100年以上は、奥州を支配し続けたと思われます。
しかし、「安部貞任」の弟「安倍宗任」は、前述の通り、島流しになったとはいえ、伊予国、そして筑前国で、77歳まで生き延びたと伝わっており、かつ伊予国/筑前国では、有力一族を形成していますので、「安倍氏」に関わる、何らかの資料を残していても、おかしくないと思うのですが・・・何故か、何も資料が残っていないようです。
この点、非常に変な点だと思います。
「安倍宗任」自身が、過去を語らなかったのか、それとも、やはり何らかの圧力により歴史が消されてしまったのか、非常に興味をそそられる点です。
他方、「安倍氏」と「瀬織津姫命」の関係ですが、今回紹介した通り、「安倍氏」自身が、直接、「瀬織津姫命」を祀っていた形跡は見当たりませんでした。
そして、「安倍氏」滅亡後、地元の人々が、「瀬織津姫命 = 安倍氏」として、遠野地方を中心として、「瀬織津姫命」を祀っていたと思われます。
遠野地方の人々が、「安倍氏」を慕う理由は、唯一つ、「安倍氏」以降の支配者に、人気が無かった事が理由だと思われます。
しかし、奥州藤原氏は、「安倍氏」の血を受け継ぐ一族ですし、100年以上も、奥州に平和をもたらしていますので、恐らく、地元民に嫌われたのは、秋田から来た「清原氏」だと思われます。
そして、次回は、「安倍宗任」が島流しとなった場所である「筑前国宗像」で祀られている「宗像三女神」と「瀬織津姫命」との関係を紹介し、「瀬織津姫命」の核心に迫って行こうと思っています。
それでは次回も宜しくお願いします。
以上
【画像・情報提供先】
・Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)
・岩手県神社庁(http://www.jinjacho.jp/)
・風琳堂(http://furindo.webcrow.jp/index.html)
・花巻市ホームページ(https://www.city.hanamaki.iwate.jp)
・レファレンス協同データベース(http://crd.ndl.go.jp/reference/)
・千時千一夜(https://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo)
・IKUIKUの愉しみ(http://ikuiku-1919.at.webry.info/?pc=on)
・いわての文化情報大事典(http://www.bunka.pref.iwate.jp/