早池峰信仰と瀬織津姫命 〜 謎多き姫神に触れる その2


今回は、前回の続きとなる「早池峰信仰と瀬織津姫命」の続編を紹介します。

前回は、初回と言うことで、「山岳信仰」、および「早池峰信仰」とは、どのような信仰なのかを紹介しました。

また、その中で、「修験道」も、江戸時代になると「縄張り(霞)争い」に終始していた事も紹介しました。

★過去ブログ:早池峰信仰と瀬織津姫命 〜 謎多き姫神に触れる その1

修験道」も「仏教」も、その始まりにおいては、「国家安泰」やら「衆生(しゅじょう)救済」を祈願するための信仰として始まったのですが・・・やはり年月を経ると、どちらも、その本来の意義を忘れ、自身の利益のためだけになってしまうことが解り、ガックリしてしまいました。

山に登ってホラ貝を吹き、滝に打たれて修行を積み、「験力(げんりき)」を得るなど、遠い昔の記憶でしかなくなってしまったのは、非常に残念に思えます。

「山伏」と呼ばれる人達に関しては、「山は権力の及ばない他界と考えられ、山伏は自分の葬式をあげ、自分を死者と考えて山に入るので、俗世界の行いは問題にされない。」と言われますが・・・本当は、どうなっているのやら、と言う感じがします。

まあ、現在の「山伏」は、それだけで生計を立てている人は、ほとんどおらず、全ての人が「副業」で生計を立てているとの事ですから、江戸時代、「縄張り争い」に明け暮れていた「山伏」に比べれば、現在の「山伏」の方が「まとも」なのかもしれません。

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さて、そんな「山岳信仰」の中でも、古くは、平安時代初期となる「大同年間(806年)〜」に創建された「早池峰神社」。

下図の通り、「早池峰山」を中心に東西南北、それぞれの登山口に建立された「早池峰神社」を含め、それ以外にも「早池峰権現社」とか「早池峰新山神社」、または神社に伝わる由緒では、平安時代より以前に創建された「早池峰神社」もあるようです。


そして、これらの神社においては、御祭神が、全て「瀬織津姫命」になっています。

岩手県は、後で詳しく説明しますが、日本国内においては、日本一、「瀬織津姫命」を祀っている神社が多い自治体です。

そこで、今回は、「早池峰信仰と瀬織津姫命」の第二弾(その2)として、次の3点を紹介したいと思います。

●「早池峰」と「早池峯」、どちらが正しいのか ?
●どこが本院なのか ?
●「瀬織津姫命」が御祭神の神社
●「瀬織津姫命」とは何者なのか ?

それでは今回も宜しくお願いします。

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■「早池峰」と「早池峯」どちらが正しいのか ?

前回のブログを見て頂いた方は、東西南北、4つの「早池峰神社」に対して、次のように表記を変えていた事に気づかれた方も多いと思います。


・東登山口 :早池峰神社 (江繋)
・西登山口 :早池神社 (大迫)
・南登山口 :早池神社 (遠野)
・北登山口 :早池峰神社 (門馬)

どれも全て「ハヤチネ神社」なのですが、漢字の字体が、「早池峯」と「早池峰」と言う様に異なる表記になっています。

これは、全て、現在、神社が使っている漢字に合わせて、表記を変えて記載した結果なのですが、「早池峯」と「早池峰」、この漢字の違いと、「神社」の生い立ちには、何か関係があるのでしょうか ?

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結果から先に記載してしまいますが、「早池峯」も「早池峰」も、どちらも同じで、「ハヤチネ」を漢字にした場合の文字ですが、本来は「早池峯」ではないかと言われています。

そもそも、「峯」と「峰」は、『 異体字 』と言う関係になっており、旧字など、読み方や使用方法などが一緒で、漢字の一部が異なる字体となっています。

日本の漢字には、「峯/峰」の他にも、「崖/崕」、「島/嶋」等、沢山の『 異体字 』があります。また、「ミネ」は、さらに「嶺」と言う『 異字体 』もあります。

それでは、何故、「早池峯」と「早池峰」、二種類の漢字を使い分けているのかと言うと・・・それは、最終的には、神社の「気分次第」と言う事になるかと思われます。

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前述の様に、元々は「峯」と漢字が使われており、その後、「峰」と言う漢字が生まれ、この「峰」も、「峯」と同じ意味で使われるなったと言われています。

つまり、本来「ミネ」と言う文字に当てはまる漢字は「峯」で、「峰」は異字体と言う関係だったと思われます。

しかし、「大正12年(1923年)」に、文部省が「常用漢字」を発表したのですが、その際に、「峰」のみが掲載され、「峯」は、常用漢字表に掲載されなかったみたいです。

他方、法務省の「戸籍統一文字情報」においては、「峰」も「峯」も人名用漢字として掲げられていますが、このサイトでは「峰」を親字・正字としています。

「峯」、「峰」、そして「嶺」と言う漢字を整理すると、次の通りです。

・「峰」 :音読み「ホウ、フ」、訓読み「みね」。常用漢字人名用漢字(子の名に使える文字)
・「峯」 :音読み「ホウ、フ」、訓読み「みね」。人名用漢字(子の名に使える文字)
・「嶺」 :音読み「レイ、リョウ」、訓読み「みね」。人名用漢字(子の名に使える文字)

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ある漢和辞典によれば、前述の通り「峯」と「峰」は、同じ意味ですが、「峯」と「嶺」は、次の様な違いがあるとしているようです。

「峯」:神様が降りてくる神木のあるお山、神がかり、神秘的な事に出逢う場所を表した漢字。神の領域にある杉「鉾杉」や「神杉」のようなまっすぐ伸びた木の秀枝(ほつえ=上の方の枝)に、神が降ってくる形。「丰」が秀枝で、「夂」が上から降るときの後ろ足の形。そのような木がある山を「峯」といい、神霊に遭遇することを「逢」という。

「嶺」:「山」と「領」から成り立っており、「領」はひざまずいて神意を聴き入る姿や、服の襟首という意味。「ひざまずく」とか「襟首」と言うのは、一段低い格好や場所となるので、「嶺」は山頂に対していわば「肩」の部分、山頂より低い場所を表している。


こうして、「峯」と言う漢字の成り立ちを知ると、「峯」と言う漢字は、将に、「早池峯神社」に相応しい漢字なのだと納得してしまいます。

しかし、これを、現在の正式な漢字にすると「早池峰神社」になってしまうのは、ちょっと「興醒め」のように思ってしまうのは、私だけなのでしょうか ?

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■どちらが本家「早池峯神社」なのか

さて、これまで紹介してきた通り、「早池峰神社」には、東西南北の4箇所の登山口に、それぞれ4個の「早池峰神社」が鎮座しています。

それら4箇所の「早池峰神社」は、現在も、付近の住民の信仰対象となっていますが、これも前述の通り、東登山口と北登山口の「早池峰神社」は、没落寸前です。

それらと比較すれば、西登山口「大迫の早池峯神社」と、南登山口「遠野の早池峯神社」は、まだまだ盛況ですが、どちらかが盛況か ? と言えば、やはり「大迫の早池峯神社」の方だと思われます。


「大迫の早池峯神社」に関しては、前回紹介した通り、「早池峰神楽」が、平成21年(2009年)に「ユネスコ無形文化遺産」にも登録された事もありますが、地元自治体や住民も含め、地域一帯となって、信仰対象と言うよりは、観光地として盛り上げようと言う気風が感じられます。

他方、「遠野の早池峯神社」には、残念ながら、何も感じられません。

「民話のふるさと」として、遠野全体を観光地として盛り上げようとする動きはありますが、大迫とは違い、「早池峯神社」だけを特別扱いはしていないようです。

それにも関わらず、遠野側の住民は、未だに「早池峯神社の本坊は遠野側だ !」と大騒ぎをしているようです。

この「本坊争い」は、江戸時代初期に始まった争いで、「明暦元年(1655年)」から90年間にわたり、遠野側と大迫側との間で、祭祀権を巡って争論を続けたと伝わっています。

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「早池峯神社」に関しては、前回のブログに掲載した通り、大迫側の「藤原兵部卿成房」、および遠野側の猟師「始閣藤蔵」と言う二人の人物が登場し、鹿を追って山頂で出会い、その後、山頂に「奥宮」を建立するのは、大迫/遠野の双方で一致する所です。

この点で、唯一異なるのが年代です。

大迫側の由緒では、山頂に登ったのは「大同2年(807年)」となっていますが、遠野側の由緒では「大同元年(806年)」となっています。

この1年の違いは何か ? と言う事になるかとは思いますが、今となっては、それほど、目くじらを立てて追求する必要も無いのではと思います。

ひねくれた見方をすれば、遠野側が、本坊争いを優位に進めたいがために、創建時期を、ちょっとだけ、1年早めたとも考えれます。

また、前回のブログでも紹介した通り、江戸時代においては、南部(盛岡)藩も、「大迫の早池峯神社」に、かなり肩入れをした事もあり、遠野側の不満は高まるばかりだったようです。


その結果、明暦元年から、遠野側と大迫側との間で、祭祀権を巡る争論が起き、最後には、「遠野の早池峯神社」が、幕府の寺社奉行に、「遠野の早池峯神社(当時は、妙泉寺)こそが本坊である。」と言う、不服申立てを行ったそうです。

しかし、不服を申し立てられた寺社奉行も困ってしまい、「南部藩のことは南部藩で良しなに解決するように」と言う調停案が提示されたようです。

そこで、遠野「早池峰山妙泉寺文書」によると、南部(盛岡)藩では、「万治元年(1658年)」に、当時の盛岡藩第二代藩主「南部重直」が、「甲乙なく、同格に勤めるよう」にと言う玉虫色の裁定を下したとされています。

それ以降は、「これにて一件落着」となったとされていますが、実際には、盛岡城内での「席次」においては、「大迫側」を上席とし、加えて盛岡城下に「宿寺」を構えることを認めています。

また、この「寺宿」の広さがハンパなく、2万8000坪もの広大な面積の宿寺を賜ったとされていますから、やはり、実際には「大迫の早池峯神社」側を贔屓(ひいき)していたのだと思います。

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しかし、何か、年代が合わないのが気になります。

「明暦元年(1655年)から90年間争った。」と言うのであれば、「延享二年(1745年)」まで争った事になりますが、この「早池峰山妙泉寺文書」には、「万治元年(1658年)」に決着したと記されています。

それだと、たった3年しか争っていない事になってしまいますが・・・

どこか・・・「早池峰山妙泉寺文書」か、あるいは、この文書を紹介したサイト(近世古文書館)に間違いがあるのだと思います。

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さて、江戸時代に決着が付いた「本坊争い」なのですが、現在でも、遠野の住民達は、いまだに次の様な事を並び立てて、「遠野の早池峯神社こそが本坊だ !」と遠吠えをしています。


・創建時期が、遠野の方が1年早い
・「早池峯神社」のご神体は「早池峰山」だが、大迫側の神社の背後には「早池峰山」が無い

また、かつて「大迫町」と「遠野町」、それと「川井村」との境界を決めようとした際に、「遠野町」の町長が、「藤原兵部卿成房」と「始閣藤蔵」の話を持ち出して境界を決めようとした事もあったそうです。

現在の境界を定めるのに、1,000年以上も前の出来事を持ち出すとは非常識と、大迫町長が激怒したと言う噂も伝わっています。

このように「どっちが元祖だ ?」みたいな争いは、様々な場所で見受けられます。

しかし、前述のように、「早池峯神社」といえば、ほとんどの人が、「大迫の早池峯神社」を思い浮かべます。

大抵は、このように後日、大騒ぎをするのは「負け犬」側と決まっています。

当然、当事者の方々は真剣なのだとは思いますが・・・はたから見れば、そんな事は、どうでも良い事のように思われます。

遠野と大迫の「本坊紛争」に関しても、本当に重要なのは、「どちらの神社が、地元の住民に信仰されているのか ? 」と言う事ではないでしょうか ?

いくら「こっちが本坊だ !」と騒いでも、地元の住民が信仰していなければ、何の意味もありません。

その点に関しては、現在の「早池峯神社」の保存状態を見れば、一目瞭然です。

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しかし、「真実は、どうなのか ? 」と言えば・・・恐らくは、遠野側の主張が正しいのではないかと推測されます。その理由としては、次の2点が挙げられます。

・「大迫の早池峯神社」の背後には「遠野の早池峰神社」がある
明治9年創刊「岩手県管轄地誌」には、大迫側の「早池峯神社」を「早池峰神社遙拝所」としている

つまり、現在の「大迫の早池峯神社」は、「遠野の早池峯神社」を拝むための「遙拝所」だったと考えられています。

元々、大迫側で「瀬織津姫命」を勧請して御祭神としたのは、現「田中神社」であり、「早池峯神社」ではありません。

前回ブログにも記載した通り、現在の「大迫の早池峰神社」は、後年、真言宗の僧侶が建立した「新山堂」です。

一方、「遠野の早池峯神社」は、この「田中神社」と同様に、最初から「瀬織津姫命」を祀っています。

この事からも、やはり「遠野の早池峯神社」の方が、本坊ではないかと思われます。

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ところが、この「本坊紛争」に、もう1社、割り込んで来そうな神社があります。

それは、早池峰山からは、かなり離れた矢巾町にある「早池峯神社」ですが、創立は、遠野や大迫よりも10年以上も早いと伝わっています。

場所は、盛岡駅から16kmほどの場所で、肝心の「早池峰山」からは、直線距離でも、西に27kmも離れた場所にあります。


具体的な場所は、本ブログの最初に掲載した地図をご覧下さい。

しかし、この神社、最初から「早池峯神社」と名乗っていた訳ではなく、元々は、奈良時代、この地に「三柱の姫神」が降臨しした事が始まりである旨が、神社の由緒に記載されています。

奈良時代後期となる延暦14年(795年)3月17日、「三柱の姫神」が降臨し、現在の社殿の裏地にある「三ツ石」に鎮座したとされています。

このため、この「三ツ石」を「影向(ようごう)三神石」と呼ぶと共に、この「三柱の姫神」を「新山大権現」として祀ったのが神社の始まりとなっているそうです。


神社の由緒書によりますと、その後、この地、矢巾町土橋村の「廣田家」の始祖とされる「廣田宗実」氏が、漢字修行のために「早池峰山」に籠もり、文学を研究した後、戦国時代となる天文2年(1533年)8月17日に、社殿を建立して神社名を「早池峯神社」にしたとなっています。

さらに、その後、江戸時代末期となる「天保10年(1839年)」に神社を再建したそうですが、その際に、現在の由緒書を書写したと伝わっています。

と言う「矢巾の早池峯神社」ですが、この神社が「早池峯神社」の本坊なのか ? となると・・・ちょっと微妙です。

「新山大権現」となると、遠野や大迫の「新山堂」との関係を疑ってしまいますし、「三柱の姫神」となると、「遠野物語/第2話」に登場する「姫神」を想像してしまいます。

県内には、今でも沢山の「新山神社」があり、その多くは、御祭神が「瀬織津姫命」となっています。

ところで、先の説明で、「三柱の姫神」が降臨して「三ツ石」に鎮座したと紹介しましたが、「矢巾の早池峯神社」の境内には、石が4個あるのは何故 ? と思うかもしれません。

この点に関しては、「瀬織津姫命」の説明をする際に、紹介したいと思いますが・・・「矢巾の早池峯神社」、御祭神が「瀬織津姫命」となっているのですが、由緒書には、「瀬織津姫命」に関しては一切説明がありません。

一体、どこから勧請したのか不思議に思ってしまいます。

「三柱の姫神」が降臨し、「三ツ石」に鎮座したと言っているのに、石が4個ある件に関しては、後で説明します。

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他方、ここの「矢巾の早池峯神社」の拝殿内には、「天照大御神」を勧請した祠が鎮座しているそうです。

その祠には、「天照大御神」を中心に、「早池峯神社神(新山大権現)」と「瀬織津姫命」の三柱の神様が、「神札」として鎮座されています。

加えて、その下には、五穀豊穣を願う「瀬織津姫命」と「大年神」が描かれた絵も祀られています。

大年神」は、「天照大御神」の弟「須佐之男命(スサノオ)」の息子で、稲の実りを守護する神様とされています。

また、二柱の上には「穂落とし」を行っている「鶴」も描かれており、「穂落とし」伝説を伝えています。


「穂落とし」伝説は、「稲作」の始まりを伝える伝説とされています。


【 「穂落とし」伝説 】

鶴は、餌をくちばしで空中にほうり上げて食べる習性があり、よく稲田におりて落穂をついばむためか,穀霊神的な要素が強いとされています。

このため、稲作は、鶴がくわえてきた稲穂から始まったと言う伝説が、、日本各地に伝わっており、鶴が舞いおりるのを瑞兆としています。


しかし・・・後述しますが、「瀬織津姫命」の過去を考慮すると、この「瀬織津姫命」と「大年神」の二神、男神の方は、本当は「天照大御神」ではないかと思ってしまいます。

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■「瀬織津姫命」が御祭神の神社

さて、問題の「瀬織津姫命(せおりつひめ-の-みこと)」ですが、現在、岩手県内で、「瀬織津姫命」を御祭神としている神社は、西口登山道にある「早池峯神社(池上院妙泉寺)」を含め、次の通り、境内末社も含めると35個もの神社となるようです。(北からあいうえお順)

項番 神社名 住所 備考
1 櫻松神社 八幡平市高畑89
2 多岐神社 盛岡市玉山区渋民大森9
3 早池峯神社 紫波郡矢巾町土橋新山野40
4 早池峯新山神社 宮古市小国第6地割103
5 早池峯神社 宮古市江繋第5地割3 東登山口の神社。新山堂
6 早池峯神社 宮古市門馬第2地割15 北登山口の神社。新山大権現
7 弘淵(こうぶち)神社 花巻市石鳥谷町江曽第9地割113
8 田中神社 花巻市大迫町内川目第47地割30
9 瀧ノ澤神社 花巻市東和町東晴山16区56
10 大澤滝神社 花巻市東和町砂子4区107
11 金谷神社 花巻市金谷第3地割21-1
12 早池峰神社 花巻市大迫町内川目第1地割1 西登山口の神社。池上院妙泉寺
13 早池峰権現社 同上 早池峰神社の境内末社
14 伊豆神社 遠野市上郷町来内6地割32-2 遠野物語」で降り立った神社
15 神遣(かみわかれ)神社 遠野市附馬牛町上附馬牛神遣峠
16 白滝(清滝)神社 遠野市土淵町栃内7地割13 別名「白滝不動尊」
17 新山神社 遠野市附馬牛町東禅寺7地割
18 早池峯神社 遠野市附馬牛町上附馬牛第19地割82 南登山口の神社。持福院妙泉寺
19 早池峰神社 遠野市大工町1−3 瑞応院境内
20 倭文(ひどり)神社 遠野市土淵町土淵18地割174
21 新山神社 北上市口内町岩井139-1
22 新山神社 北上市更木第32地割141
23 今瀧(滝)神社 釜石市東前町1-139
24 天照御祖神 釜石市唐丹町字片岸50 ※禊祓殿の御祭神
25 新山神社 奥州市江刺区岩谷堂雲南田212
26 新山神社 奥州市江刺区広瀬谷地田77
27 新山神社 奥州市江刺区稲瀬広岡98
28 氷上(ひかみ)神社 奥州市江刺区梁川舘下335-1
29 多藝(たき)神社 陸前高田市横田町字小坪
30 滝神社 陸前高田市横田町字猿楽
31 清滝神社 陸前高田市横田町字槻沢
32 四十八滝神社 陸前高田市横田町字橋ノ上
33 舞出神社 陸前高田市横田町字舞出
34 大滝神社 陸前高田市横田町字本宿
35 瀧神社 一関市滝沢寺田下108 別名「熊野白山瀧神社」


その他にも、古来「瀬織津姫命」が御祭神だった神社が、何故か明治期以降に、他の御祭神に変更された神社もあったようです。

・根田茂神社 : 瀬織津姫命 → 水波能売命(みずはめの-みこと)
・室根神社 : 瀬織津姫命 → 伊邪那美(いざなみ)、速玉男命(はやたまのおのかみ)、事解男命(ことわけのおのみこと) ?


また、2008年に「風林堂」から出された「瀬織津姫神全国祭祀社リスト」によると、若干の調査ミスはあるようですが、岩手県は、断トツ、36個もの神社の御祭神が「瀬織津姫命」となっています。


この冊子によると、ベスト5は次の通りです。


1位 :岩手県 36社
2位 :静岡県 32社
3位 :岡山県 25社、鳥取県 25社
5位 :京都府 20社、兵庫県 20社


静岡県に「瀬織津姫命」が御祭神の神社が多いのは以外でしたが、やはり岩手県は、ブッチギリです。

ちなみに、上記リストによると、全国には、「瀬織津姫命」を御祭神とする神社は、454社もあるとされています。

なお、「瀬織津姫命」は、下記のような別名を賜っているケースもあるとの事ですが、この調査では、基本的に、下記異称ケースは含んでいない、との事です。


撞賢木厳之御魂天疎向津媛命 :つきさかき-いつのみたま-あまさかる-むかつひめ
天照大神荒魂 :あまてらすおおかみ-あらみたま
八十禍津日神 :やそ-まがつ-ひのかみ
祓戸大神 :はらいどの-おおかみ
・橋姫 :はしひめ
鈴鹿権現 :すすか-ごんげん
熊野権現 :くまの-ごんげん


さらに、「瀬織津姫命」の表記の仕方も、次の通り、複数の表記が見られています。
・瀬織津比竎
瀬織津比売
・瀬織津媛


それでは、何故、こんなにも岩手県には、「瀬織津姫命」を御祭神として祀る神社が多いのでしょうか ?

また、そもそも、「瀬織津姫命」とは、どのような神様なのでしょうか ? 次の章で、「瀬織津姫命」とは、どのような神様なのかを紹介したいと思います。

なお、今更ですが、「瀬織津姫命」が、「瀬織津姫」と表記されるケースもありますが、どちらも同じですが、本ブログでは、「瀬織津姫命(せおりつひめの-みこと)」と表記しています。

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■「瀬織津姫命」とは、どのような神様か

それでは、その肝心の「瀬織津姫命」」とは、どのような神様なのでしょうか ? 「瀬織津姫命」に関しては、型通りの説明としては、次の様に説明されています。


古事記/日本書紀等の記紀には登場しない神
神道の「大祓詞(おおはらえのことば)」に登場する
・祓戸四神の一柱とする(瀬織津比売/速開都比売/気吹戸主/速佐須良比売)
伊勢神宮内宮別宮「荒祭宮」の御祭神の別名が「瀬織津姫命」であると記述した書物が多数存在する
・水神、祓神、瀧神、川神、等、穢を祓い浄める女神
・「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つき-さかき-いつ-の-みたま-あまさかる-むかつひめ)」と同名の「向津姫」を「瀬織津姫命」と同一神とする
・「瀬織津姫命」は、「天照大神」の皇后で、「天照大神」の名代として活動していた時期もある


そもそも、記紀に登場しない神様ですので、どのような神様なのか、はっきりしない神様となっています。

瀬織津姫命」が登場する歴書としては、次の様な書物があるとされています。


倭姫命世記神道五部書の1冊。天地開闢から雄略天皇代の外宮鎮座に至る次第を詳細に記述しており、別名「大神宮神祇本紀」と呼ばれる。

天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記神道五部書の1冊。天照大神豊受大神の神格と,二神の伊勢鎮座に至るまでの次第が記載された書で、別名「御鎮座次第記」と呼ばれる。

伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記神道五部書の1冊。神鏡の祭祀を中心に伊勢神宮の由緒が記された書で、別名「御鎮座伝記」と呼ばれる。

中臣祓訓解両部神道の書で、真言密教の立場で、中臣祓(大祓詞)の注釈を記載した書物。

ホツマツタエ :謎の多い「神代文字」で書かれた書で、古事記/日本書紀等の記紀の原典とされているが、その真偽の程は不明。史学/語学研究者からは偽書と断定されている。



ちなみに、「神道五部書」とは、下記の5冊の書物を指し、伊勢神宮で生まれた「伊勢神道」の経典とされています。

どれも、長ったらしい名前の本なので、さぞかし中身も濃いのかと思いきや、全て1巻で、なおかつ短編の書物のようです。


・『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』(御鎮座次第記)
・『伊勢二所皇太神御鎮座伝記』(御鎮座伝記)
・『豊受皇太神御鎮座本記』(御鎮座本記)
・『造伊勢二所太神宮宝基本記』(宝基本記)
・『倭姫命世記』(大神宮神祇本紀)



書物の最後に書かれている「奥付」と呼ばれる解説には、何れの書物にも、「神護景雲2年(768年)」、禰宜「五月麻呂」の撰録と伝えられると記載されているそうです。

しかし、実際は、鎌倉時代となる「建治/弘安年間(1275〜1288年)」に、伊勢神宮外宮の神職「度会(わたらい)行忠」等が編纂したものと考えられているようです。

これら経典は、外宮を、内宮と同列に格上げする事を目的に、外宮の御祭神「豊受大御神」を、天地開闢に関わった五柱の神と同一神する書物とされています。

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編纂時期を偽った書物やら学者から偽書とされた書物に登場する「瀬織津姫命」。それでは、『 この瀬織津姫命と言う神様も、昔の人の想像の産物なのではないか ? 』と言う疑問が生まれてしまいます。

しかし、上記にも記載した通り、「大祓詞」にも、祓戸四神の一柱として「瀬織津姫命」が登場します。


瀬織津比売 :せおりつ - ひめ
遺る罪は在らじと 祓へ給ひ清め給ふ事を 高山の末低山の末より 佐久那太理に落ち多岐つ 早川の瀬に坐す瀬織津比売と伝ふ神 大海原に持出でなむ
→ こうして祓い清められた全ての罪は、高い山・低い山の頂から勢いよく流れ落ちて渓流となっている急流にいらっしゃる瀬織津比売と呼ばれる女神が大海原に持ち去ってくださるだろう


速開都比売 :はやつあきつ - ひめ
此く持ち出で往なば 荒潮の潮の八百道の八潮道の潮の八百曾に坐す 速開都比売と伝ふ神 持ち加加呑みてむ
→ このように瀬織津比売によって持ち出された罪を、今度は人が近づけないほどの大海原の沖の多くの潮流が渦巻くあたりにいらっしゃる速開津比売という勇ましい女神が、その罪を呑み込んでしまわれることだろう。


気吹戸主 :いぶきど - ぬし
此く加加呑みてば 気吹戸に坐す気吹戸主と伝ふ神 根国底国に気吹放ちてむ
→ このように速開津比売によって呑み込まれた罪は、今度は海底にあって根の国・底の国へ通じる門(気吹戸)を司る気吹戸主といわれる神が根の国・底の国(黄泉の国)に気吹によって息吹いて地底の国に吹き払ってくださるだろう


速佐須良比売 :はやさすら - ひめ
此く気吹放ちてば 根国底国に坐す 速佐須良比売と伝ふ神 持ち佐須良比失ひてむ 此く佐須良比失ひては
→ このように気吹戸主によって吹き払われた罪は、今度は根の国・底の国にいらっしゃる速佐須良比売という女神がことごとく受け取ってくださり、どことも知れない場所へ持ち去って封じてくださるだろう


このように、「大祓詞」によると、人の世の汚れは、「瀬織津比売」、「速開都比売」、「気吹戸主」、そして「速佐須良比売」の祓戸四神が連携しながら、一致協力して、どこかに払い去って下さるのだそうです。

大祓詞」は、最初から読むと非常に長い「祝詞(のりと)」なので、本ブログには掲載しませんが、「大祓詞」の全文を掲載しておきますので、興味のある方は、ご覧下さい。

★参考資料:大祓詞(神社本庁版)

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さて、そんな「大祓詞」ですが、『 それじゃ、大祓詞瀬織津姫命が書かれているのだから、この神様は、本当に存在したんだ ! 』となるのでしょうか ?

まあ、「神様」ですから、実在はしないとは思いますが・・・

大祓詞」は、毎年、6月と12月に行われる「大祓」と言う儀式で、「中臣氏(なかとみ-うじ)」が、京都の朱雀門において、「大祓」に参集した皇族や百官に対して奏上していたと伝えられているので、別名「中臣祓詞(中臣祓)」、あるいは「中臣祭文」とも呼ばれる「祝詞(のりと)」の一つです。

また「大祓詞」は、当初は、上記の通り、儀式に参加した人間に対して語り聞かせるものだったのですが、現在では、何故か、神前で、神様に対して唱えるものになってしまっています。

これは、鎌倉時代以降、「大祓詞」が、「陰陽道」や「密教」と結びつき、これらの呪文や経典のように取り扱われた事が原因とされ、唱えるだけで功徳が得られると思われるようになったためと考えられています。

大祓詞」に関しては、平安時代となる「延喜5年(905年)」に編纂を始め、その22年後となる「延長5年(927年)」に完成した後、さらに改訂をして「康保4年(967年)」に施行した「延喜式」と言う法令集内の「巻8 - 祝詞」に掲載されています。

現在では、下記の様に、大きく、前段と後段の2段に分かれています。

・前段:葦原中国平定から天孫降臨天孫が日本を治めるまでの日本神話の内容、および日本の民が犯してしまう罪の内容と、罪を犯した際に、祝詞を唱える事と、それと一緒に行う罪の祓い方が述べられている。
・後段:罪を祓うと、その罪/穢が、どのように消滅するのかを、様々な例えで語られ、さらに祓戸四神が連携しながら、一致協力して罪/穢を消滅させて行く様が記載されている。

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このような歴史を持つ「大祓詞」ですが、現在、一般に出回っている「大祓詞」は、神社本庁、およびその他教団による独自の修正が加えられており、この「延喜式」の内容とは、一部異なってしまっているそうです。

とは言え、「瀬織津姫命」は、平安時代初期、醍醐天皇の勅命で作成された法令集に掲載されている神様です。

現在では、どのような神様なのか解らなくなってしまっていますが、元々は、「古事記」や「日本書紀」以外の書物に登場していたのではないかと思われます。

また、この「大祓詞」に関しても、元となる「原典」が存在し、この「原典」を参考に作成されたと考えられており、江戸時代の国学者賀茂真淵」や「本居宣長」も、何らかのオリジナル資料があったと考えていたようです。

現在では、「和銅5年(712年)」に、「太安万侶(おおの-やすまろ)」が編纂した「古事記」が、日本最古の歴史書とされていますが、実際には、次の様な「古事記」以前に書かれた歴史書が存在したと言う事が、「日本書紀」に記載されています。

そもそも、「古事記」とは、天武天皇の側近「稗田阿礼(ひえだのあれ)」が暗記していた「帝紀」と「旧辞」の内容から、「太安万侶」が中身を選んで編纂した書物とされていますので、「帝紀」と「旧辞」は、本当に存在した書物だと思われます。



・国記 :「推古天皇28年(620年)」に、厩戸皇子蘇我馬子が編纂したとされる書物
天皇記 :上記「国記」と一緒に編纂したとされる歴史書
帝紀 :「天武天皇10年(681年)」、川島皇子らが歴代天皇と皇室の系譜を整理した書物
旧辞記紀(古事記/日本書紀)のオリジナルとなる歴史書


上記書物の内、天皇記と国記は、「皇極5年(645年)」に起きた「乙巳の変」の際、「蘇我入鹿」の暗殺を知った父「蘇我蝦夷」が、自身の邸宅に火を放って自殺したのですが、その時に一緒に燃やされてしまったと言われています。(※国記だけは、船恵尺と言う人物が火中から拾い出したが後に紛失)

他の書物も、今となっては、意図的か否かは解りませんが、どこかに散逸したとされています。

ちなみに、「大祓詞」を奏上した「中臣氏」は、「忌部氏(いんべ-うじ)」と共に、古くから神事/祭祀を司ってきた豪族で、上記「乙巳の変」で活躍し、「藤原氏(ふじわら-うじ)」の始祖となる「中臣鎌足」もこの一族ですし、「大迫の早池峯神社」の開祖である「藤原兵部卿成房」も、この一族に連なる人物です。

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他方、「熊野権現」と「早池峯権現」を同一と見る向きもあります。つまり、「熊野権現 = 早池峯権現 = 新山権現 = 瀬織津姫命」と言う関係です。

この件に関しては、後述する「熊野権現瀬織津姫命の関係」で詳しく紹介したいと思いますが、これは「遠野の早池峯神社」の開祖と言われる「始閣藤蔵」の出身地が深く関わって来ます。

前編では余り触れませんでしたが、開祖となる「始閣藤蔵」は、元々、遠野に生まれた訳では無く、現在の静岡県の「伊豆地方」の生まれとされています。

そして、伊豆地方から太平洋沿岸を北上して遠野の「来内(らいない)村」に辿り着き、そこで暮らし始めたとされています。

また遠野に来た時には、守り神として「伊豆権現」を勧請して来たとされており、「早池峯神社」の他にも、来内村の自宅裏にお堂を建立して「伊豆権現」を安置すると共に、御祭神を「瀬織津姫命」として、朝夕に崇拝していたと言う事が「遠野市史」に記載されているそうです。

その後、このお堂は「伊豆権現社」となり、明治以降は「伊豆神社」となったのですが、その総本社は、現在「伊豆山神社」と呼ばれる神社で、その昔は、伊豆大権現、伊豆御宮、伊豆山、走湯大権現、あるいは走湯山と呼ばれていた修験道霊場です。

伊豆山神社」は、飛鳥時代には、「役行者(えんのぎょうじゃ)」として知られる「役小角(えん-の-おづの)」が伊豆大島流罪となった際に、ここで修行を行ったと伝わっておりますし、それ以降も、「空海」等の僧侶や修験者が修行を行った場所で、「熊野神社」とも深い繋がりがあります。

「早池峯神社」と「伊豆山神社」、そして「熊野神社」は、このような繋がりがあるので、「瀬織津姫命 = 熊野権現」と習合する考えもあると言うわけです。

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次は、「鈴鹿権現」との関係にも少し触れたいと思います。

鈴鹿権現」とは、別名「鈴鹿御前」とも呼ばれており、伊勢と近江の国境にある「鈴鹿山」に住んでいたとされる伝説上の女性で、交通の要所であった「鈴鹿峠」、および東海道を通る人の守護神とされています。

さらに「鈴鹿権現」は、鈴鹿姫、鈴鹿大明神、鈴鹿の立烏帽子などとも呼ばれ、道祖神と習合し、鈴鹿峠を往来する旅人達により、旅の安全を祈願するために祀られたと考えられています。

後に、「お伽草子」などにも取り入れられ、さらに「坂上田村麻呂」伝説とも結び付き、「鈴鹿姫信仰」として、江戸時代まで広く信じられてきたようです。


どのような神様かと言うと、上記の通り、立烏帽子姿で悪鬼や盗賊を成敗し、後に、「坂上田村麻呂」と結婚して、子供を設けたとされています。

さて、「鈴鹿権現」と「瀬織津姫命」との関係ですが、それは京都の祇園祭に見ることが出来ます。

祇園祭に登場する山鉾「鈴鹿山」ですが、ここでは明確に「鈴鹿権現 = 瀬織津姫命」と説明されています。

何故、「鈴鹿権現 = 瀬織津姫命」となったのかは明らかにはなっていませんが、鈴鹿山近郊にある「片山神社(御祭神:瀬織津姫命)」や「田村神社(御祭神:坂上田村麻呂)」が関係しているともされているようです。

この点に関しても、後述する「鈴鹿権現と瀬織津姫命の関係」で紹介したいと思います。

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また、「瀬織津姫命」と「天照大御神」との関係について、少し触れたいと思います。

これは、本章の最初に記載した「瀬織津姫命は、天照大神の皇后で、天照大神の名代として活動していた時期もある」と言う説となります。

これは、現在では、女神として表現されている「天照大御神」が、実際は「男神」だったと言う事を意味しています。

天照大御神男神説」に関しては、何時頃から唱えられたのかは定かではありませんが、平安時代末期頃には、既に「天照大御神男神説」が、広く出回っていたとされています。

神道では、「陰陽二元論」と言う考え方があり、この考え方は、「日本書紀」の「国生み神話」にも取り入れられています。

イザナギを陽神とし、イザナミを陰神とすると、陽神=男神で、陰神=女神となります。さらに、太陽は陽で、月は陰となるので、つまり、太陽神として扱われる「天照大御神」は「男神」となると言う、三段論法の様な考え方です。

また、記紀には、「アマテラスとスサノオの誓約」と言う場面が何度か書かれていますが、スサノオが追放された天上界に戻ってきた際、「アマテラス」が、「スサノオ」が攻めてきたと勘違いし、「男装」して攻撃に備えたと伝わっています。

このような事から、「天照大御神男神」と言う説が繰り広げられています。

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先程、遠野「伊豆神社」と「瀬織津姫命」の事を触れましたが、ここで、しつこいかもしれませんが、改めて、「遠野物語/第2話」を紹介したいと思います。ここには、「遠野三山」の神々の由来が書かれています。

遠野物語 第2話 】

●原文

(略)
大昔に女神あり、三人の娘を伴ひて此高原に来り、今の来内三村の伊豆権現の社ある処に宿りし、今夜よき夢を見たらん娘によき山を与ふべしと母の神の語りて寝たりしに、夜深く天より霊華降りて姉の姫の胸の上に止りしを、末の姫眼覚めて窃に之を取り、我胸の上に載せたりしかば、終に最も美しき早池峰の山を得、姉たちは六角牛と石神とを得たり

若き三人の女神各三の山に住し今もこれを領したまふ故に、遠野の女どもは其妬を畏れて今も此山には遊ばずと云へり


●現代語訳
大昔に女神がいて、三人の娘を連れてこの高原に来た

今の来内三村の伊豆権現の社ある場所に宿った夜、今夜よい夢を見た娘によい山を与えようと母の神が語って寝たところ、夜深く天から霊華が降り、姉の姫の胸の上に止まったのを、末の姫が目覚めて、こっそりこれを取り、自分の胸の上に乗せたところ、ついに最も美しい早池峰の山を得、姉たちは六角牛と石神とを得た

若い三人の女神はそれぞれ三つの山に住み、今もこれを支配しておられるので、遠野の女たちはその妬みを恐れて、今もこの山には入らないという


前述の「早池峯神社の本坊」の章で登場した「矢巾の早池峯神社」の由緒で、「三柱の姫神」が降臨して「三ツ石」に鎮座したと紹介しましたが、「矢巾の早池峯神社」の境内には、石が4個あるのは何故 ? と思ったかもしれません。

しかし、上記「遠野物語」を、よく読んで見て下さい。「三柱の姫神」には、母親が居ます。『 3人の娘 + 母親 = 4名 』です。

そして、この「矢巾の早池峯神社」の御祭神も、当然、「瀬織津姫命」です。これで、石が4個存在している理由が解るのではないかと思われます。

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他方、前述の「遠野の伊豆神社」には、「遠野市史」とは別の由緒が伝わっており、そこには、「坂上田村麻呂」と「おない」と言う女性の関係が書かれています。

蝦夷征伐の折、「坂上田村麻呂」が遠野に滞在した際に、都から「おない」と言う名の麗夫人を呼び寄せたが、その後、三名の姫が生まれ、それら三名の姫神が、「遠野三山」の神々となったと言うのが、「遠野の伊豆神社」の由緒になっています。

このため、「遠野の伊豆神社」の由緒には、御祭神「瀬織津姫命 / 俗名:おない」と記載されているそうです。

ここでも「坂上田村麻呂」と「瀬織津姫命」が関係しており、この点も興味深いのですが、それよりも興味深いのは、「おない」と言う女性の名前です。

先の「遠野市史」や「伊豆神社」の由緒書とは別に、「綾織村郷土誌」と言う村史が残されており、そこにも「伊豆神社」の由緒が書かれているのですが、「おない」と言う女性は、「前九年の役」で朝敵となった「安倍貞任(あべ-さだとう)」の弟「宗任(むねとう)」妻とされています。

そして、「安倍宗任/おない」には、三名の娘がおり、母子共に戦からは逃げおおせて来内村にたどり着き、その後、村において医者となり、多くの人を救った事から「伊豆神社」に祀られたと記載されているようです。

朝敵の妻を御祭神にすることなど、許されるはずもありませんが、興味深い話ですので、この点も、後で説明したいと思います。

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今回は、「早池峰信仰と瀬織津姫命」の第2弾として、次の様な内容を紹介して来ましたが如何でしたか ?

●「早池峰」と「早池峯」、どちらが正しいのか ?
●どこが本院なのか ?
●「瀬織津姫命」が御祭神の神社
●「瀬織津姫命」とは何者なのか ?

瀬織津姫命」について、調べれば調べるほど、訳が解らない状況となってしまっています。

今回は、「瀬織津姫命」関して、次の様な事に関係がある神様として紹介しました。

伊勢神宮内宮別宮「荒祭宮」の御祭神
・「大祓詞」に登場する祓戸四柱の一柱
熊野権現鈴鹿権現と習合した神様
・「天照大御神」の妻
・「遠野三山」の神様

まあ、中央と地方とでは、それぞれ、その地にいらっしゃる神様や有名人と習合してしまうのは、仕方が無いことですので、関西地方と岩手県とでは、「瀬織津姫命」の扱いが異なってしまっているのだと思います。

さらに「瀬織津姫命」に関しては、次の様な人物や神様と関連付けた話もあります。

・織姫
・瀧の神
・弁財天
オシラサマ
宗像三女神、etc.

挙句の果てには、「私は瀬織津姫命です。」とまで宣う人物の実に多いことか・・・

瀬織津姫命」は、由緒不明な神様ですので、俗に言う「スピリチュアル系」の人達にとっては、格好の獲物なのかもしれません。

私は、そこまで踏み込む勇気はありませんので、あくまでも「早池峯信仰」との関わりと中心として、「瀬織津姫命」が、どのような神様なのかを紹介したいと思います。

そこで、次回は、次の様な内容を紹介しようと思っております。

●「天照大御神」は男神なのか ?
●「瀬織津姫命」と「安倍氏」との関係
●「瀬織津姫命」と「鈴鹿権現」との関係
●「瀬織津姫命」と「熊野権現」との関係

天照大御神が男性か否かなど、早池峯信仰とは関係無いだろ !」と言うと指摘もあるとは思いますが、中々面白い話なので、少し触れたいと思います。

それでは次回も宜しくお願いします。

以上


【画像・情報提供先】
Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)
岩手県神社庁(http://www.jinjacho.jp/)
・風琳堂(http://furindo.webcrow.jp/index.html)
花巻市ホームページ(https://www.city.hanamaki.iwate.jp)
・レファレンス協同データベース(http://crd.ndl.go.jp/reference/)
・Yahoo/ZENRIN(https://map.yahoo.co.jp/)
・千時千一夜(https://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo)
・お山へ行こう!(http://lcymeeke.blog90.fc2.com/blog-entry-208.html)
平凡社「字通(CD-ROM版」
・近世古文書館(http://www.komonjokan.net/)
コトバンク(https://kotobank.jp/)
貴船神社(https://www.facebook.com/kifunejinja/)