早池峰信仰と瀬織津姫命 〜 謎多き姫神に触れる その1


今回は、「早池峰信仰と瀬織津姫命」と題して、謎多き姫神瀬織津姫命」と「早池峰信仰」との関係や、その背景となる「安倍氏」や「熊野信仰」との関係などについて紹介したいと思います。

今回の内容であれば、本来は、弊社ブログの中でも「民間信仰」シリーズとして紹介すべき内容だと思います。

民間信仰」シリーズに関しては、約4ヶ月前に「乳神様信仰」を、前後2回に別けて紹介しましたが、それ以外にも「オシラサマ」や「金勢様信仰(全5回)」を含め、約30項目もの民間信仰を紹介して来ました。

本当に、「これでもか!!」と言うくらい、岩手県内に伝わる民間信仰を紹介して来ましたので、もう「絞っても何も出ない、ボロ雑巾」の様な状況ですが、何とか新しい情報をお伝えします。

そんな中でも、「早池峰信仰と瀬織津姫命(せおりつひめ-の-みこと)」の関係については、その内容の多さや深さから、前述の「金勢信仰」と同様、別立てにした方が良いと思い、敢えて、「民間信仰」シリーズから分離する事としました。


他方、「早池峰信仰」に関して、実は、下記の過去ブログでも「早池峰信仰」を取り上げた事があります。

★過去ブログ:岩手県の山岳信仰 その1 〜 本当に不思議な山ばかり

このブログの中では、早池峰神社は、実は一つではなく4ヶ所も存在する事や、「遠野物語」の第2話に登場する早池峰の女神の伝説等をご紹介しました。

この時に、「早池峰の女神」は、「瀬織津姫命」を母神とする三女神である事を紹介したのですが・・・この「瀬織津姫命」と言う女神様、とても謎めいた神様で、現在、古代の神様で、唯一と言って良い程、その正体が解らない謎めいた神様となっているようです。

そこで、今回は、特別に、再び「早池峰信仰」を取り上げると共に、この「瀬織津姫命」に関しても、少しだけ詳しく紹介したいと思います。

瀬織津姫命」に関しては、それだけで、本を数冊書ける程、凄い情報量があります。

このため、とても全ての情報をご紹介する事は不可能ですので、さらっと、表面的になってしまいますが、それでも、次の様な情報を、【 前・中・後 】の3回に別けて紹介したいと思います。

【 その1 】
山岳信仰とは
早池峰信仰とは
早池峰神社とはjavascript:void(0)

【 その2 】
●どこが本院なのか ?
●「瀬織津姫命」が御祭神の神社
●「瀬織津姫命」とは何者なのか ?

【 その3 】
●「安倍氏」との関係
●「熊野権現」と「瀬織津姫命」との関係


それでは今回も宜しくお願いします。

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山岳信仰とは


最初に、「山岳信仰」に関して、軽く復習してみたいと思います。

早池峰山に関する情報は、前述の過去ブログを含め、下記の情報を参考にして貰えればと思います。

【 過去ブログ 】
岩手県の山岳信仰 その1〜本当に不思議な山ばかり
岩手県内の山開き

また、「山岳信仰」と言う物の考え方に関しても、その生い立ちから現在に至るまでの一般的な考えられ方を、過去ブログ(岩手の山岳信仰)に記載していますので、このブログのプロローグ部分をご覧頂ければと思います。

この中では、原始社会における「山」とは、ご先祖様が死後に向かう場所、そしてご先祖様が「先祖霊」として滞在する「聖域」として、信仰の対象となった事を紹介しました。


ところが、それ以降、奈良時代には「修験道」、平安時代に「仏教」が浸透すると、これら3つの信仰が習合し、「山岳信仰」と呼ばれる信仰が生まれる事になりました。

このため、当初は、主に、「山」周辺の住民にとっての聖地だった「山」が、時代を経る事で、「先祖霊」だけではなく、様々な「神様」までもが住む「山」に変貌を遂げて行く事になります。

通常、「山岳信仰」として崇拝される「山」には、次の様な「神様」がいらっしゃると考えられています。

・山の神 :「先祖霊」が神様に昇格し、春になると里に降りて来て「田の神」になる。それ以外、例えば林業を生業とする「木こり」にとっての神様ともなる。
・火の神 :主に火山が対象で、噴火を恐れる山麓の住民により祀られる神様です。
・水の神 :山が貴重な水の「水源」と考えられ、山麓で「農業」を営む者によって祀られる神様です。


このように、自然物である「山」、「太陽」、「雷」、「大地」、「木」、「火」、そして「水」等を崇拝する行為は、「自然崇拝(physiolatry )」とか「アニミズム(animism)」とか呼ばれています。

そして、日本の神道では、古くから崇拝の対象となってきた、これら自然物の中でも、特に巨大な自然物となる「巨岩」、「巨木」、そして、今回の「早池峰山」のように「山」をご神体として来ました。

弊社過去ブログでも、「巨石」をご神体「磐座(いわくら)」として祀っている多くの神社なども紹介しています。

【 過去ブログ 】
岩手県内の巨石の紹介 - その1 〜 何故か岩手に巨石が多い
その2 〜 何故か岩手に巨石が多い

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他方、上記の神様とは別に、「山」を信仰の対象とする場合でも、「神様そのものが降り立った山」として信仰するケースも数多く見受けられます。

この場合の「山」は、神様が降り立った場所ですので、特に、標高が高い必要はありません。その辺りの、小高い「山」や「丘」でも十分です。

この考え方は、「古事記」や「日本書記」等、「記紀(きき)」と呼ばれる、大和政権成立後に編纂された「神話」がベースになっていると思われます。→ 三輪山高千穂峰船通山鞍馬山

元々、日本には、具体的な名前が付いた神様等は存在せず、上記の通り、「山の神」とか「田の神」等と言う、抽象的な呼び方をされる神様しか存在しませんでした。

ところが、大和朝廷成立後、「天皇」の正当性を裏付けるために、「伊邪那岐/伊邪那美」の両神を始めとした神様が創作され、それに連なる形で「天照大神(アマテラス)」、「月読尊(ツキヨミ)」、そして「須佐之男(スサノオ)」等の三貴子、さらには「八百万の神様」と呼ばれる数多くの神々が誕生する事となります。

他方、「神様」がいらっしゃる場所ではなく、次の様に、「死者」が集まる場所として信仰される「山」も現れます。→ 恐山、月山、熊野三山

このように、日本において信仰の対象となる「山」は数多く存在し、前述の過去ブログで紹介した通り、岩手県内にも、多くの信仰対象の「山」が存在します。

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このように「自然崇拝」、「修験道」、そして「仏教」が習合して生まれた「山岳信仰」ですが、その内の「仏教」には、様々な宗派が生まれ、「十八宗」とか、「十三宗五十六派」とか、もうゴチャゴチャになっていることは、皆さんもご存知だと思います。

現在においては、私のように、美術/芸術としての仏教以外には、何の興味も無い人間にとっては、『 どこの宗派に法要を依頼しても変わらないだろう ?! 違うのはお布施の金額だけか ? 』等と思うのが普通だと思います。

まあ、中には、天台宗のように「千日回峰行」等と言う、とてつもなく厳しい修行を行っている僧侶の方々もいらっしゃいますが、その辺の住職は、どこも変わりがないのでは、と思ってしまいます。

他方、「修験道」に関しては、私の周辺には、と言うか、皆さんの知り合いにも、「修験道」を行っている人はいないと思いますので、実際の所、「修験道」が、どうなっているのか等、全く解らないと思います。

そこで、今回、話のついでに、少し「修験道が、どうなっているのか ?」を調べてみたのですが、何と、「修験道」にも、派閥があるらしい事が解りました。

私が調べた所、「修験道」には、大きく、次の3つの派閥があるようです。

●本山派:三井寺聖護院を本寺とする天台系修験道。別名「三井修験」とも呼ばれる。
●当山派:醍醐寺三宝院を本寺とする真言修験道
●羽黒派:出羽三山で修行を行った修験道

そして、これら3つの派閥が、それぞれ山中に修行の場となる寺院を建立し、その近所の住民を巻き込んで「山岳信仰」を広めて来たとされています。

ところが、これが江戸時代になり「寺請制度」や「領国制」が取り入れられる様になると、だいぶ事情が変わってしまったようです。

つまり、派閥間の「陣取り合戦」が始まり、お互いに『 この村の住民はウチの縄張りだ ! 』と言う争いが始まり、遂には、修験道内部の派閥抗争だけに留まらず、幕府や藩、それに配下の寺社奉行とか地頭等を巻き込んだ、凄い争いになってしまったそうです。

ちなみに、修験道の縄張りを、「霞(かすみ)」と呼んでいるそうですが、全国各地で、この「霞」と言う知行を巡る争いが勃発していたようです。

「何故、縄張り争いが始まってしまったのか ? 」と言う点に関しては、その理由は明白です。


それぞれの派閥では、各地に「先達(せんだつ)」と呼ばれる寺院を設け、山に登る際に案内を行なう山伏を配置していました。

そして、これら「先達」寺院では、麓の住民から、様々な施しを受けて生活をしていましたし、「早池峰神社(当時は新山宮)」などの有名な寺院は、地元有力大名から寺領を賜っていました。

このため、多くの「先達」や「村」を支配下に治めると、それだけ多くの「上前をはねる」、つまり汚い言葉では、「ピンハネ」する事が出来ました。

そして、これら「ピンハネ」した施しを、地頭や寺社奉行に「賄賂(ワイロ)」として渡すことで、様々な便宜を図ってもらっていたので、もう法も秩序も無い状況になってしまったようです。

何となく、「修験道」は、「仏教」とは異なり、「醜い争い」等は行わないイメージがあったのですが・・・結局は、同じ人間が行なう事なので、結局は、「醜い争い」を起こしてしまうのだと思います。

本当に、何のための仏法や修験なのでしょうか ?

江戸時代の南部藩の古文書によると、南部藩では、距離的近さが影響したと推測されますが、当初は「羽黒派」の影響力が強かったそうです。

しかし、それ以外の派閥では「本山派」も健闘したようで、江戸時代末の「嘉永5年(1853年)」の書上によると、羽黒派の「霞」は24箇所、本山派の「霞」は26箇所と、逆転を許してしまっていたようです。

具体的には、他派閥の「霞」を、自分達の「霞」であると主張したり、あるいは他派閥の「山伏」を奪い取ったりと言う、とんでも無い事が行われるようになったそうです。

今で言う「ヘッドハンティング」も行われていたようです。

このため、「霞」を取られたり、「山伏」を奪われたりした派閥は、これらを訴状にして、寺社奉行に訴えた事が記録として残されています。

全く・・・時を経ても、人間が行う行動は、全く変わらないようです。

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早池峰信仰とは


そして、今回、再登場した「早池峰山」ですが、当然、「山の神」、そして「水の神」がいらっしゃる聖地として信仰されてきましたが、岩手県内陸部に存在するにも関わらず、珍しく、三陸海岸で暮らす漁師からも、「漁業の神様」としても信仰されていたようです。

この点に関しては、過去ブログでは、詳しく調査しなかったので、中途半端な内容となってしまっていました。

早池峰山」は、標高1,917mと、北上山地の最高峰となっていますが、三陸海岸までは、一番近い山田湾や宮古湾まで、40数kmも離れています。

このため、「何で、漁師が内陸にある山を拝むのか ?」と、私を含め、大抵の方は疑問に思うはずですが、次の様な理由があると言われています。

理由1:その昔、遠野郷は三陸沿岸まで拡がっており、その関係で漁師も早池峰山を拝むようになった。
理由2:三陸沿岸の漁師が、早池峰山を漁場の目印に使用していた。

漁師までもが「早池峰山」を信仰している理由の内、理由1に関してですが、現在、「大槌(おおつち)湾」を有する、上閉伊郡大鎚町一帯は、その昔、「大槌氏」と言う一族が治めていた場所でした。

そして、この「大槌氏」は、鎌倉時代から安土桃山時代まで、遠野郷を支配していた「阿曽沼氏」の支族と伝わっていますので、遠野郷に、三陸海岸沿岸が含まれていたと言うのは事実だと思われます。


また、理由2に関しても、三陸海岸には、「早池峰講」の石碑が現在でも数多くの残っており、また船舶の名前に、「早池峰丸」と名付けている船も数多く存在する、と言う報告もあります。

さらに、遠野のタウン情報誌「パハヤチニカ」の2000年10月号「早池峰特集」には、三陸海岸の漁師の話として、次の様な話が掲載されていました。

『 うんと沖合に出ると早池峰が見える 』
『 船頭に「あれが早池峰山だ」と教えられ、それ以来、毎朝早池峰山に向かい、ご飯釜の蓋に御飯を載せ「早池峰さん」と三回拝み、その日の海上安全と大漁を願うようになった。 』

まあ、確かに、宮古、そして釜石沿岸であれば、「早池峰山」と三陸海岸との間には、「早池峰山」より高い山は存在しないので、肉眼か望遠鏡かは別として、海から「早池峰山」は見えると思います。

このように、「早池峰信仰」は、内陸のみならず、三陸海岸各地にまで拡がっていたようです。


ちなみに、先のタウン誌の雑誌名「パハヤチニカ」ですが、これは、「アイヌ語」で「早池峰山」を表しているとされています。

早池峰山」と言う呼び方の語源には諸説あり、その一つに「アイヌ語語源説」があります。

「パハヤチニカ」は、アイヌ語で、「パハ:東」、「ヤ:陸」、そして「チニカ:脚」となり、それを結合すると『東方の陸の脚』になるそうです。

そして、これを、日本語に訳すと『 この先には、これ以上高い山は無い 』と言う意味になるそうです。

早池峰山」の語源説には、その他にも、山の形を現す別のアイヌ語や、漁師の呼び名「疾風(はやち)」からとか、山頂にある池「開慶水(かいけいすい)」の別名「早地(はやち)の泉」とか・・・キリが無いようです。

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さらに参考までに付け加えますと、「早池峰山」は、最初から「早池峰山」」と呼ばれていた訳ではないようです。

その昔、江戸時代中期、「延享2年(1745年)」頃に編纂された「閉伊郡遠野東岳開基」には、古くは「あずまねだけ(東根岳、東子岳、東岳、等)と呼ばれていた事が記載されているそうです。

これらは、後に「東根嶽」や「東子嶽」とも表記されたそうですが、何れも「当て字」だったようです。

「あずまねだけ」と言う名称の起源は不明との事ですが、有史以前、石器時代にこの地方に住んでいた祖先が呼んでいた呼び名に対して、その後、漢字を知る者がきて、それにふさわしい「東根岳(東子、東)」の文字を当てたのではないかというと言う説が通説となっているようです。

また、元々、何時の頃の事なのかは解りませんが、この「あずまね」と言う地名ですが、北上川を中心線として、東側を「あずまね」、そして西側を「にしね」と呼んでいた時期もあったそうです。

確かに、現在は、合併により「八幡平市」と言う名称になってしまいましたが、その昔、平成17年(2005年)までは、岩手山山麓に「西根町」と言う自治体も存在していました。

それでは、何時頃から「早池峰山(早池峯山)」と呼ばれるようになったのか、と言う事ですが・・・これも諸説あり、異なる説が伝承されているようです。

・大迫側「早池峯神社」 :平安時代初期、「大同2年(807年)」説
・大迫側「田中神社」 :鎌倉時代中期、「宝治元年(1247年)」説
・遠野側「早池峯神社」 :南北朝時代、「暦応2年(1339年)」説

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また、「早池峰信仰」と言えば、必ずと言って良い程、「神楽(かぐら)」が関係してきます。

そして、現在、「早池峰神楽」と呼ばれてますが、実は、この「早池峰神楽」とは、花巻市大迫(おおはさま)町にある岳(たけ)地区に伝わる「岳神楽」と、同じく大迫町の大償(おおつぐない)地区に伝わる「大償神楽」の二つを合わせた総称となっています。

これら二つの神楽は、元々は、別々に始まったものと考えられていますが、昭和31年(1956年)に、県の重要無形民俗文化財に指定する際、「岳神楽」と「大償神楽」のルーツが同じで、かつ共通の特徴があるという理由から、共に「早池峰神楽」として登録したそうです。

そして、その後は、昭和50年(1975年)には、やはり「早池峰神楽」と言う名称で、国指定重要無形民族文化財の第1号に認定され、さらに平成21年(2009年)には「ユネスコ無形文化遺産」にも登録されています。


さて、この「早池峰神楽」、残念ながら、文書による記録資料等は現存していないようです。

しかし、西登山口にある「早池峯神社(池上院妙泉寺)」には、安土桃山時代となる「文禄4年(1595年)」と言う銘が書かれた獅子頭があります。(現在:大迫郷土文化保存伝習館にて保存展示)

そして、この「岳神楽」」は、毎年、「早池峯神社(池上院妙泉寺)」に奉納されています。

他方、「大償神楽」の方ですが、こちらは「早池峯神社」ではなく、地元の「大償神社」に奉納される神楽になります。


そして、「大償神楽」に関しては、「早池峯神社」、それと「大償神社」、さらに、もう1社「田中神社」と言う3つの神社が複雑に絡んで来ます。

「早池峯神社」の由緒/縁起に関しては、少し複雑なので、次章にて詳しく説明しますが、大迫側の縁起に因りますと、「早池峯神社」の「奥宮」の創建は、平安初期の大同2年(807年)、「藤原兵部卿成房」と言う人物が創建した事になっています。

その後、この「藤原兵部卿成房」と言う人物は、故あって「山陰(やまかげ)成房」、あるいは「田中成房」と言う名前に改名しているようです。

その結果、「早池峰神社」、「大償神社」、および「田中神社」の関係は、次のようになっているようです。

「早池峯神社」 :大迫側「早池峯神社」の里宮
「田中神社」 :大迫側「早池峯神社」の里宮
「大償神社」 :「田中神社」の別当

そして、「大償神楽」に関しては、「早池峯神社」の開祖「田中成房(山陰成房)」が創立した「田中神社」の神主から、「大償神社」の別当に伝えられたと事になっています。


また、「大償神社」には、今回、実物は見つける事は出来ませんでしたが、戦国時代となる長享2年(1488年)に、「山陰家」から伝えられたと言われている「神楽伝授書」があるとされているようです。

これらの事を整理しますと、花巻市大迫町に伝わる「早池峰神楽」は、「大償神楽」の方が100年程早く始まり、遅くとも戦国時代には、既に、神楽が奉納されていた事になります。

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元々、「神楽(かぐら)」と言う言葉の語源は、「神座(カムクラ/カンザ)」が転じた言葉と言われています。

そして、「神座」とは、『 天上の神々が降りられた際に身を宿らせる所 』という意味になります。

このため、当初「神座」とは、、高い峰や巨木などの自然物を指した様ですが、次第に、神社などの人工物を指すようになり、さらには、「巫女」が神託を告げたりする行為、そして最後には、面や装束を身に付けた舞人そのものをも「神座」と見なすようになり、そこで行われている歌舞を「神楽」と言うようになったと考えられています。

「神楽」の起源としては、記紀に伝わる「岩戸隠れの段」における、「天宇受売命(アメノウズメ)」が神懸かりして踊った舞が、「神楽」の起源とされています。

そして、「早池峰神楽」に関しては、その起源は、前述の大迫側の里宮「早池峰神社(池上院妙泉寺)」の創建が、鎌倉時代となる「正安2年(1300年)」と伝わっており、当時の修験道の山伏が行った「祈祷の舞」が神楽となったともいわれています。

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「岳神楽」と「大償神楽」は、「表裏一体の兄弟神楽」と言われています。

大償の山神面は口を開けた「阿(ア)」であるのに対して、岳の面が口を閉じた「吽(ウン)」の型をしています。

演目に関しても、「式舞」、「式外の舞」、「狂言」等、ほぼ同じになっているそうです。

強いて違いを挙げるとすれば、両神楽のテンポが異なると言う事らしいのですが、この違いは、古来、大償神楽は7座(7曲)だったのに対し、岳神楽は5座(5曲)だった事に起因すると言う説もあるようです。

さて、これら「早池峰神楽」と信仰の関係ですが、前述の通り、里山の人々は、「早池峰山」を霊山、そしてと神が宿る山と考えて畏れ敬っていました。

このため、「早池峰山」」に対して、「神楽」を奉納することで、より多くの「ご利益(ごりやく)」が得られるよう、また日々の暮らしが安泰になるよう祈願することは当然だったと思われます。

加えて、神仏の化身とされる「権現様」と呼ばれる獅子頭を「早池峰山」に奉じるために舞う神楽衆に対しても、「特別な能力を持つ集団」という認識を持っていたようです。

このため、神楽衆に対しても、次の様な事が言われていたと伝わっており、これも、「早池峰信仰」の一種だと思われています。

「神楽衆の白足袋を洗ったり、お世話をしたりすると御利益がある」
「若い嫁の着物を神楽の時に着てもらうと、安産に恵まれる」

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ちなみにですが、「早池峰神楽」が登録されているユネスコの「無形文化遺産」ですが、同じくユネスコが認定する「世界遺産」とは、全く別の代物です。

ユネスコが認定する「遺産」には、次の2種類がありますが、それぞれ別の「遺産」なのです。ところがメディアや官公庁までも誤解しているように見受けられます。

世界遺産 :「World Heritage」。文化遺産、自然遺産、複合遺産の3種類から成る有形遺産。
無形文化遺産 :「Intangible Cultural Heritage」。保護すべき各国の芸能や祭礼、伝統工芸技術。

平成26年(2014年)に、「和紙 日本の和紙技術」も、この「ユネスコ無形文化遺産」に登録されたのですが、ニュースや新聞、およびこの活動を推進した農水省などは、これを「世界無形文化遺産」と表現していました。

しかし、前述の原語を見て解る通り、「無形文化遺産」には、「World:世界」と言う単語は使われていません。

メディアや官公庁は、言葉を正しく使う義務があると思いますし、皆さんも、「無形文化遺産」を紹介する時には、(余計なお世話かもしれませんが)誤解しないよう気を付けた方が良いかと思います。


また、これも、ちなみにですが、寺社/神社関係の話になると「別当」という言葉が、よく登場します。

この「別当」とは、単純に考えると、「本職の他の別の職」となりますが、もう少し詳しく説明しますと、奈良時代から、「神仏習合思想」により、神社に付属する寺が、神社境内、あるいは神社近辺に建てられました。

そして、こうして建てられた寺は、「宮寺」とか「神宮寺」と呼ばれ、そこで働く僧侶は「社僧」と呼ばれ、神前でお経を読んだり、あるいはご祈祷をしたりして、神様にお仕えしました。

そして、「社僧」の内、他に本職があり、兼ねて「別」の任に「当」たる社僧が現れ、このような「社僧」の事を「別当」とよばれる役職に任命したことから、「別当」と言う言葉が生まれたそうです。 

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早池峰神社とは

さて、このように、古くから信仰の対象となってきた「早池峰山」ですが、これまで何度も紹介した通り、その山麓には、4つの「早池峰神社」があります。

●東登山口(宮古市江繋) :元・新山堂
●西登山口(花巻市大迫町) :元・池上院妙泉寺
●南登山口(遠野市附馬牛町) :元・持福院妙泉寺
●北登山口(宮古市門馬) :元・新山大権現

これら、東西南北4つの登山口にある「早池峰神社」ですが、残念ながら東登山口と北登山口の「早池峰神社」、特に北登山口の「早池峰神社」の衰退は激しいようです。

また、調べた所、東登山口には、その昔は、現在「早池峰神社」とされている場所とは別の場所にも関連施設があった事が解ったのですが・・・こちらの衰退も激しく、昔の面影など微塵も感じられない状況になっているようです。

ところが、その逆に、西登山道「池上院妙泉寺」と南登山道「持福院妙泉寺」は、今でも、それぞれの地域において、熱心に信仰され続けているようです。

この西と南の両「早池峯神社」、江戸時代には、どちらも『 こっちが元祖「早池峯神社」だ! 』と名乗り合い、100年近くも争った、醜い歴史があるようです。

このように、それぞれが、古くから信仰の対象となってきた「早池峰神社」ですが、数ある「早池峰神社」は、何時頃、創建されたのかを紹介します。

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●東登山口(宮古市江繋)

東登山口の「早池峰神社」は、現在の「宮古市江繋(えつなぎ)」と言う場所にあります。

JR東北線紫波中央駅」から、JR山田線「宮古駅」に向かう、県道25号線紫波江繋線と呼ばれる道の脇に鎮座しています。

この場所は、現在は「宮古市」となっていますが、平成22年(2009年)までは、「下閉伊郡(しもへいぐん)川井村」と呼ばれる村でした。


また、この東登山口の「早池峰神社」が鎮座する辺りは、「タイマグラ」と呼ばれており、直ぐ近くには、「タイマグラキャンプ場」と言う名称の施設もあります。

日本語で表記すると「大麻座」とか「大麻倉」になるそうですが、これも「当て字」なのだそうです。

タイマグラ」とは、アイヌ語で「森の奥へと続く道」という意味のようです。

しかし、この地域は、戦後に開拓されたトンデモナイ山奥の地域で、昭和63年まで、電気も通っていなかったそうです。

このように、一般に、東登山口の「早池峰神社」と言えば、この「江繋の早池峰神社」が、それに該当すると言われています。


ところが、詳しく調査して見たところ、東口には、実は、この「江繋の早池峰神社」とは別に、「小国(おぐに)の早池峰神社」とか「関根の早池峰神社」と呼ばれる「早池峰神社」も存在していることが判明しました。

その昔、平安時代の中後期に修験道が始まった頃には、東登山口を含め、それぞれ東西南北の登山口には、修験者(山伏)が「院防」と呼ばれる修行を行うための施設(里宮)を造り、独自の修行を行っていました。

そして、東登山口近辺には、次の様な各種施設が建立されていたようです。

・新山宮(堂) :江繋の早池峰神社。現在、東登山口「早池峰神社」と呼ばれている。
・善行(ぜんぎょう)院 :小国村関根にあり天台宗門派で不動明王を本尊とした寺院。「行屋(ぎょうや)」と呼ばれる「宿」も兼ねていた。
・(関根)早池峰神社 :同じく小国村関根にあり、善行院における早池峰山の「遙拝所」だったと推測されている。


前述の通り、各登山口では、「御坂里宮」として神社が建ち、山頂には「奥宮」として御堂を建て、修験者や聖職者たちにより、密教系の神仏が勧請されるなど信仰は複雑に絡み合っていたようです。

そして、この「小国善行院」も、「遠野妙泉寺」の支配先として、小国元村、大槌、金沢、山田地方、等を信仰圏にしていたと考えられているようです。

ここ「善行院」の由緒/縁起には諸説あり、一説では、平安時代初期となる「延喜11年(927年)」に、初代「浄貞院」が、早池峰山小国掛所に「新山堂」を開き、その名称を「善行院」としたのが始まりと伝えられています。

その後、江戸時代になると、「善行院」は、小田越峠を経て登山する「江繋御坂」、つまり、現在の東登山口一帯を支配し、『 この坂を経由して早池峰山参拝を行なう場合には、小国村の善行院の修験者「円鏡坊」が必ず先達をせよ。 』という藩命が下っていたとも伝わっています。

ちなみに、「江繋の早池峰神社」とも呼ばれる東登山口「早池峰神社」に関しては、由緒/縁起などは、一切解りませんでした。

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●西登山口(花巻市大迫町)

次に、西登山口、花巻市大迫にある「早池峯神社」を紹介します。

今日、一般的に「早池峰神社」と言うと、この花巻市大迫町にある神社を、「早池峰神社」と呼んでいるケースが多いようです。

この場所は、前述の東登山口、「江繋の早池峰神社」から、県道25号「紫波江繋線」を、西に約20km、車で30分程度進んだ場所にあります。

これも前述の通り、4つの登山口にある「早池峰神社」が、「我こそが本当の早池峰神社」と争って来た訳ですが、江戸時代に入り、南部氏が早池峰山一帯を支配下に治めて以降は、「大迫の早池峯神社」が、大きくは、次の理由から優勢になってしまったようです。

・南部氏の居城がある「盛岡」から近い
盛岡城が落城した場合、三陸沿岸の宮古に逃げる際の砦(要塞)と位置付けられた
・盛岡の城下町に、広大な領地を賜り、宿坊(宿寺)を建立する事が出来た

その昔、「南部氏」が早池峰山一帯を支配下に治める前、鎌倉時代から安土桃山時代までは、「早池峰信仰」の章で説明した通り、遠野近辺は、下野国(現:栃木県)から下向した「佐野氏」系の一族となる「阿曽沼氏」が支配していました。

このため、実は、江戸時代以前は、後述する南登山口「遠野の早池峯神社」の方が、優勢を誇っていたと伝わっています。

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さて、そんな「大迫の早池峯神社」ですが、こちらも「早池峰信仰」の章で軽く説明しましたが、平安時代が始まって2年後の「大同2年(807年)」、「大化の改新」で有名な「藤原鎌足(旧姓:中臣)」の末裔「藤原兵部卿成房」と言う人物が、「大迫の早池峯神社」の開祖と伝わっています。

しかし、この「藤原兵部卿成房」自体は、現在の「早池峯神社」を創建したのではなく、その前身となる「田中神社」を創建した人物です。

「田中神社」側の由緒説明によれば、大同2年3月、大迫側は「藤原兵部卿成房」が、そして遠野側では猟師「四角(後に始閣と改称)藤蔵」と言う二人の人物が、それぞれ別々に、早池峰山山麓で狩猟をしていたところ、額に金星のある白鹿が現れたそうです。

二人は、別々に白鹿を追い、同時に早池峰山の山頂に辿り着いてしまったそうですが、到着と同時に白鹿は忽然と姿を消してしまったそうです。

これを瑞祥と感じた「成房」と「藤蔵」は、お互いに話し合い、山頂に「お宮」を建立しようと言う事になったのですが、まだ雪深い山頂に「お堂」を建立するのは無理があるので、雪解けの頃に再び山頂に来て「お堂」を建てよう、と言う事になったそうです。

そこで、二人とも、狩猟の道具を山頂に残したまま下山し、雪が溶けた6月、(当時はまだ東根獄)に登り、「お堂(一宇)」を建立したのが、東根獄(早池峰山)開山の起源とされています。


その一方「成房」は、3月に早池峰山から下山した後、3月8日、早池峰山山麓の「真中(だだなか)」と言う場所に一宇を建立すると共に、「瀬織津姫命」を勧請し、自らが神主となって「東根獄里宮真中大明神」と称して祭祀を行ったと伝わっています。

その後、「藤原兵部卿成房」は、訳あって「山陰氏」と改名し、現在「田中神社」の神主を務める「山陰氏」の始祖となったと伝わっています。

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そして、さらにその後、時が経過し、年代は不詳ですが、言い伝えによれば、鎌倉時代の初期、西暦1200年代初頭、諸国を巡っていた「快賢」と言う僧侶が早池峰山に登った際、山に神仏の気配を感じた事から、下山した後、この地(大迫の岳地域)に「お堂」を建立したそうです。

「快賢」は、山頂にも新たに「お堂」を建てて「若宮」とし、十一面観音を安置し、さらには 古くからあった「お堂」も建て直して「本宮」と呼んだと伝わっています。

山麓の「お堂」は、後に、周辺の住民から「河原の坊」と呼ばれるようになったそうですが、同じく鎌倉時代中期の「宝治元年(1247年)」に、当時「白髪水」と呼ばれた洪水に流されてしまったそうです。

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しかし、この洪水から50年くらい経過した「正安2年(1300年)」、修行をしながら諸国を行脚していた越後出身の真言密教の「円性」と言う僧侶が、早池峰山に参詣した後、山に篭って修行を行っていたそうです。

ところが、ある夜、夢に「早池峯権現」が現れ、『 (河原の坊があった)昔のように、山麓に御堂を再興せよ。 』というお告げがあったそうです。

このため、「円性」は、山麓の「岳」に留まり、「河原の坊」を再興し、再び十一面観音を安置し、「新山宮」と名付けたと伝わっています。

そして、「円性」は、さらに山門やお堂を建立し、「早地峯大権現別当妙泉寺円性」と称えたそうですが、これが現在の「大迫の早池峯神社」の基となっています。

当時は、登拝のために山に向かう人々は、 「河原の坊」で新しい草鞋に履き替えるのが習わしとなっていたとも伝わっています。

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ところが、戦国時代となる「文亀元年(1501年)」、さらに「永禄3年(1560年)」に起きた二度の火災により、多くの堂宇を消失したことから、この「池上院妙泉寺」も衰退してしまったそうです。

当時、この花巻市付近は、「稗貫(ひえぬき)郡」と呼ばれ、鎌倉時代から安土桃山時代までは、「稗貫氏」一族が支配していましたが、「天正18年(1590年)」に行われた豊臣秀吉の「奥州仕置」により、領地没収となり、「稗貫氏」は没落してしまいます。

しかし、その後、同じく「奥州仕置」で領地を没収された「和賀氏」と一緒に、領地奪還を目論む「和賀・稗貫一揆」を起こし、一時は「稗貫氏」が領地を奪還したそうです。

しかし・・・翌年となる天正19年、最終的には、「豊臣秀次」を総大将とした、下記のような有力武将で編成した3万人にも上る「奥州再仕置軍」により、上記一揆を始めとした複数の一揆や反乱は鎮圧されたそうです。(和賀・稗貫一揆葛西大崎一揆九戸政実の乱)
徳川家康上杉景勝大谷吉継前田利家/利長、石田三成佐竹義重伊達政宗最上義光、etc.

その後、この花巻市近辺は、「南部信直」の領地となった事から、「早池峰山」は、盛岡城の「東を鎮護する山」として、さらに信仰の対象となっていったようです。

ちなみに、「盛岡城」を鎮護する「南部の四鎮山」として、次の山が信仰されていたそうです。(※当初「三鎮山」だったものに後に1個を加えて「四鎮山」としたと言う説があります。)

岩手山(岩鷲山) :岩鷲(がんじゅ)山権現
姫神山 :姫神大権現
早池峰山 :早池峯大権現
・新山 :新山大権現(※後に追加)

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そして、上記「南部信直」の息子、盛岡藩初代藩主「南部利直」が、江戸時代初期となる「慶長13年(1609年)」、藩内を巡視した際に、「大迫の早池峯神社」に参詣すると共に、社領150石を寄進し、さらに信仰を深めたとされています。

その証拠に、翌、慶長14年〜17年、3年にも渡る大改修に着手し、衰退していた「早池峰神社」を修復すると共に、新山堂、薬師堂、本宮、舞殿、および客殿等を新築しました。

また、前述の通り、「南部利直」は、万が一、盛岡城が落城した場合、盛岡から宮古に逃れる計画を立案し、宮古に落ち延びる際、この「早池峰神社」を一時的な「砦(要塞)」として用いようと考え、周囲には鉄砲狭間、矢狭間を穿った築地塀と櫓門を備える等、要害普請も施されました。

このような性格を持たされた事もあり、「早池峯神社」は、盛岡藩から手厚い保護を受け、盛岡城下には、2万8000坪もの広大な面積の宿寺を賜り、さらに「京都御室御所仁和寺」の直末寺となる等、領内安全、天下泰平、そして請願成就の祈願所として、非常に繁栄したそうです。

しかし、時代が変わり明治になると状況は一変、明治3年、神社と号を改称しましたが、廃藩置県に伴う禄の打ち切りや神仏分離令の影響で廃寺となり、一部を除いては破壊されたのですが、「新山宮(堂)」だけは、神社として地元民の信仰に支えられ、今日まで持ち堪えてきたようです。

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さて、「大迫の早池峯神社」の基となった「真中明神」ですが、宮司が「藤原氏」だったのが、訳あって「山蔭氏」となったことは説明した通りです。

また、神社の名称も、途中で改称しています。

「山陰家第三十九代」の頃、この「真中」にも水が引かれ、水田が開墾された事から、「真中明神」を「田中明神」に改めたそうです。

そして、この「田中明神」も、明治時代になって神仏分離令が発布された事により、神号を「田中神社」に改称したと伝わっています。


それと、「河原の坊」が「白髪水」と呼ばれた洪水で流された事も紹介しましたが、この「洪水」の規模は凄まじく、実は、「河原の坊」だけでなく、山頂にあった「奥宮」も流されたと言われています。

それでは、何故、この「大洪水」を「白髪水」と呼ぶのかも説明しておきます。

この「河原の坊」が流された災害に関しては、「大洪水」が起きる前触れとして、白髪の老人が洪水を予告したとか、、あるいは白髪の老人が川の上を下って来た、という言い伝えがあったそうです。

付近には、この「河原の坊」が流された事件に関して、次の様な伝説が伝わっているそうです。

【 白髪水伝説 】
快賢は、ある晩、河原の坊で囲炉裏の周りに餅を並べて焼いていたそうです。

その時、どこからともなく一人の山姥が入ってきて、餅を片っ端から食べ、徳利の酒まで飲んでしまった。

そんなことが数日続いた後、快賢は、河原で餅のような白く丸い石を拾い、日暮れ頃から火の中に入れて囲炉裏の周りに並べた。

徳利には酒の代わりに油を入れた。

山姥は焼け石を食べ、油を飲み、体中に火が回って焼けただれてしまった。

恐ろしい形相で空へ飛び去りながら、「後で必ず思い知らせてやる」と叫んで消え失せた。

それから、七日七夜にわたって、大雨が降り続き、水かさは増して谷間に溢れ、逆流し、たちまち山野は大洪水に見舞われた。

この時、岳川の荒波の上を、白髭の翁が歌いながら流れていくのを見た人たちは、大洪水は翁の仕業と噂をしたものだと云う。

この伝説が元となり、この時の「大洪水」を、『 白髪水 』と呼ぶようになったそうです。


さて、「大迫の早池峯神社」の由緒/起源を紹介して来ました。

「田中神社」に関しては、当初から、御祭神として「瀬織津姫命」を勧請した事が明記されていますが、他方、「早池峯神社」に関しては、「瀬織津姫命」の事は、一切紹介されていません。

元々、「大迫の早池峯神社」に関しては、快賢/円性の両僧侶が堂宇を建立して十一面観音を安置して祀ったいたので神社ではなく寺院です。

そして、明治時代の廃仏毀釈で、寺院だった「新山堂」を無理矢理「早池峰神社」にしたので、そもそも、御祭神など存在しないはずです。

ところが、明治以降、「大迫の早池峯神社」に関しては、御祭神を単に「姫神(姫大神)」としていたそうですが、それを戦後に「瀬織津姫命」にした事が記録されています。

つまり、「大迫の早池峯神社」が、「田中神社」を起源に持つことから、御祭神を、無理矢理「瀬織津姫命」にしたのではないかと思われます。

しかし・・・そもそもの話、「藤原兵部卿成房」が、何故、「真中明神」として「瀬織津姫命」を勧請したのかと云う点に、疑問が残ってしまいます。

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●南登山口(遠野市附馬牛町)

さて次は、前述の「大迫の早池峯神社」と、100年近く争ってきた南登山口の「遠野の早池峯神社」を紹介します。

ここは・・・とにかく山の中なので、場所を説明するのも難しくいのですが、JR釜石線「遠野駅」からの場合、たった20km程度しか離れていないのですが、車で1時間弱は掛かってしまいます。

距離20kmを1時間で進むと言う事は、単純に計算すると「時速20km」となりますが・・・これって自転車の平均速度ですよね。

場所の高低差を考慮に入れなければ、「遠野の早池峯神社」までは、車で行っても、自転車で行っても同じ時間が掛かる事になってしまいます。

ちなみに場所は、遠野駅から国道340号線(土淵バイパス)に出て、そこから県道160号線に入り、ひたすら北上し、途中に、「神遣(かみわかれ)神社」とある案内に従って右折し、大出(おおいで)方面に向かって約8km、30分程度進んだ場所にあります。

後で、4つの早池峰神社、および関連する神社の地図を掲載しますので、そちらも参考にして下さい。

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さて、この「遠野の早池峯神社」の由緒/縁起ですが、創建時のストーリーは、前述の「大迫の早池峯神社」と、年代が若干異なるだけで、だいたい同じ内容となっています。

つまりは、大迫側「藤原兵部卿成房」、および遠野側の猟師「始閣藤蔵」と言う二人の人物が登場し、鹿を追って山頂で出会い、その後、山頂に「奥宮」を建立するのは、大迫/遠野の双方で一致する所です。

この点で、唯一異なるのが年代です。

大迫側の由緒では、前述の通り、山頂に登ったのは「大同2年(807年)」となっていますが、こちら遠野側の由緒では「大同元年(806年)」となっています。

この1年の相違は何か ? と言う事になるかとは思いますが、その点は、後述する「どちらが本家 ?」で説明したいと思います。

さて、本章では「藤原兵部卿成房」と「始閣藤蔵」が、山頂に「奥宮」を建立した後の「遠野の早池峯神社」が現在に至るまでを紹介します。

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その後、「始閣藤蔵」は、「弘仁年間(810〜824年)」、長男と共に「大出」に移り住み、剃髪して出家し、名を「普賢坊」と改名し、「承和年間(834〜847年)」初頭、70余歳で亡くなったと伝わっています。

「普賢坊」の長男は、名を「長円坊」と称し、「承和14年(847年)」、父が建立した山頂の「お堂」の傍に新しい「お堂」を建立し、そこに父が建立した「お堂」から本尊を遷座すると共に「弥陀三尊」を安置し、この新しい「お堂」を「本宮」としたそうです。

その後、同じく平安時代となる「嘉祥年間(848〜850年)」に、天台宗の高僧「円仁(慈覚大師)」が、奥州巡礼を行った際に「大出」を訪れ、早池峰山の開山の奇譚を聞き、宮寺として「妙泉寺」を建立したそうです。

さらに、坊舎を「大黒坊」と名付け、「不動三尊」、および「大黒一尊」を安置して「大黒坊の本尊」とした上、別に「新山宮」と名付けた三間四面の堂を建立し、この「新山宮」には、早池峯大権現の垂迹として「十一面観音像」祀ると共に、脇士として「薬師如来像」と「虚空蔵菩薩像」を併祀したそうです。

そして、自身の門弟「持福院」を妙泉寺住職として留め、「長円坊」には神人となって「神」に仕えることを命じたと云います。

なんか体の良い話に聞こえますが、要は、「早池峯神社」を乗っ取って天台宗の寺院にし、「長円坊」も支配下に置いてしまったと言う事だと思います。

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その後、「文治5年(1189年)」、「源 頼朝」の「奥州征伐」の功により、「阿曽沼 広綱」が、「遠野保」の地頭になります。(※遠野保:別名「遠野十二郷」)

そして、この「広綱」の次男「親綱」が、遠野保を継ぐ事になりますが、当初は代官統治で、後に、その一族が、実際に遠野に下向して土着し、「遠野阿曽沼氏」になったとされています。

このため、それ以降、江戸時代に至るまで、遠野の地は、「阿曽沼氏」が治める事になりますが、「阿曽沼氏」も、「早池峯神社」を庇護し、寺領120石の寄進を受けていたそうです。

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その後は、前述の通り、遠野十二郷は、最終的には「南部氏」に奪われる事になります。

没落の始まりは、豊臣秀吉小田原征伐への不参加から始まります。

しかし、前述の「稗貫氏」や「和賀氏」とは異なり、領地没収は免れたのですが、「阿曽沼氏」は「南部氏」配下に組み込まれてしまいます。

このため、その後の関ヶ原の戦いにおいては、「阿曽沼広長」は、「南部利直」配下として、「上杉攻め」に出陣しますが、その留守の間、「南部氏」にそそのかされた一族の者が謀反を起こし、「阿曽沼氏」の居城「鍋倉城」を占領してしまいます。

「阿曽沼広長」は、「上杉攻め」の最中に、「伊達政宗」が後ろで手を引いた「岩崎一揆」が起きたので、途中から「南部利直」と一緒に一揆鎮圧に向かいます。

しかし、一揆鎮圧後、領地に帰ったのですが居城が奪われてしまい帰る場所がなくなったので、「伊達政宗」を頼り、妻の実家のある「気仙沼」に入ったそうです。(※妻子は謀反の折に殺害される)

その後、「伊達氏」の支援を得て、再三、居城「鍋倉城」の奪還を図ったのですが、全て失敗に終わり、そのまま「遠野阿曽沼氏」は断絶してしまいます。

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こうして、「南部氏」は、まんまと「遠野郷」を手中に治めるのですが、当初は「城代」をおいて統治していたようです。

しかし、「城代」の統治の仕方が悪かった事と、「遠野郷」は、直接、伊達領と隣接する戦略的に重要な地でもあった事から、「寛永四年(1627年)」、本家筋となる「根城南部氏」の「八戸直義(後に南部直栄と改名)」を遠野に転封させて統治させました。

そして、この「南部直栄」も、「妙泉寺」や「新山宮」を庇護したようで、新たに65石の寄進を授け、前領主だった「阿曽沼氏」から寄進された120石と合わせて、185石で江戸時代を過ごしたようです。(※別記録も有り)

当時、推定ですが、上級武士で約200石とされていますから、結構、優遇されていたと思われます。

しかし、明治時代になると、こちらの「早池峯神社」も、廃仏毀釈の影響を受け「妙泉寺」は廃寺となり、「新山宮」が「早池峯神社」となって現在に至ります。



現在の神門には、「明治17年(1884年)」6月、仏師「田中円吉」作と伝わる右大臣/左大臣随身像が置かれていますが・・・なんか、もうボロボロです。

それ以前は、江戸時代後期となる「文化年間(1804〜1818年)」に建立されたと伝わる仁王門でしたが、廃仏毀釈に伴い、上記の随神像に代わったといわれます。

また、明治以前は、当然、「山門」と呼ばれていたのですが、明治以降は「神門」と呼ばれています。

・山門 :仏教寺院の門。その昔、一般的に寺院は山に建立されていたので、その門を「山門」と呼ぶ。また、寺院自体も「山号」で呼ばれていたので、「山門」も名残とも言われている。
・神門 :神社に設けられた門。

明治以前に置かれていた山門は、現在、「カッパ寺」として有名な、遠野市土淵町にある「常堅寺」に移築され、現在でも、ちゃんと保存されています。

「カッパ寺」に関しては、下記の過去ブログでも紹介していますので、そちらもご覧頂ければと思います。

★過去ブログ:岩手の民間信仰 〜 聞いた事も無い信仰ばかり Vol.5


遠野物語/第2話」には、「瀬織津姫命」を母神とし、その3名の娘を女神とする「遠野三山」の伝説が広く伝わっています。

・母神 :伊豆神社。 御祭神:瀬織津姫
・姉神 :六神石(ろっこうし)神社。 御祭神:大己貴命誉田別命
・姉神 :石上神社。 御祭神:経津主命伊邪那美命、稲蒼魂命
・妹神 :早池峯神社。 御祭神:瀬織津姫

この「遠野物語/第2話」は、過去ブログでも紹介したのですが、あらためて「瀬織津姫命とは、どのような神様か ?」でも紹介したいと思います。

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●北登山口(宮古市門馬)


最後の「早池峰神社」は、宮古市門馬(かどま)にある、北登山口の「早池峰神社」を紹介します。

ここは、盛岡市から宮古市に通じる、国道106号線、通称「宮古街道」から、ちょっと脇道に逸れた「閉伊川」沿いに、寂しく佇んでいます。

盛岡駅からですと約40km、市内中心地を抜け、国道106号線に入り、私の実家近くを通過して、車で1時間弱の距離となります。

さて、この「門馬の早池峰神社」ですが・・・由緒/起源は、全く解りませんでした。最初に紹介した東登山口の「早池峰神社」以上に、情報がありません。



そんな中でも、その昔、ここには、明治時代以前、「新山堂」と「妙泉院」があったとされています。

この「門馬口(北登山口)」は、閉伊川に添った谷間の小さな集落だったそうですが、妙泉院自体は、広大な山林をもち、この山林から木を切り出して山頂まで運んで「お堂」を建立したとされています。

この画像だけ見ていると、それなりの神社の様に見えるかと思いますが・・・


実際は、この画像の様に、普通の民家の裏庭みたいなところに建立されています。

Googleストリートビューの画像なので、少し見にくいかとは思いますが、川(閉伊川)の向こう側にポツンと存在しています。

本当に、個人の敷地内にある「氏神様」のような感じですが、宮司は、別の場所にある「青猿(あおさる)神社」の宮司が兼務されているようです。


この「門馬の早池峰神社」、岩手県神社庁の情報でも、創建時期は不明となっています。

また、この「門馬の早池峰神社」は、村民が勧請して建立した事になっているので、村人が、皆でお金を出し合って建立した「村社」なのだと思われます。

実際、明治時代に「村社」となった事が記録されていますが、現在の場所には、「大正15年(1926年)」の2月24日に遷座したと記録されています。

と言うことは、大正以前は、別の場所に鎮座していたと言う事になりますが・・・さっぱり分かりませんでした。

ちなみに、御祭神は、当然「瀬織津姫命」なのですが、この女神様とは別に、神鏡5個を、「作物の神」として祀っている、と言う記録も残されていますが、何れにしても、この「門馬の早池峰神社」に関しては、情報が少な過ぎでした。

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今回、民間信仰の一つとして、「早池峰信仰」を取り上げ、その中で、「早池峰信仰」と「瀬織津姫命」との関係を紹介しようと企画したのですが・・・

早池峰信仰」一つ取っても奥が深く、調べれば調べるほど、様々な情報が出てくるので、何を紹介して、何を捨て去るのかの選択にも難しいものがありました。

今回のブログを企画した時には、1回で、全てを記載しようと考えたのですが、ブログを書き始めたら・・・とても1回だけでは紹介出来ない事に気が付きました。

そもそも、早池峰神社の紹介だけでも、かなりのボリュームになる事に気が付いた時には、既に手遅れでした。

早池峰神社」が4箇所もあるので、最初からボリュームが大きくなると推測すれば良かったのですが・・・考えが甘すぎました。

そんな中でも、「早池峰信仰」は、結構、地元に根づいた信仰なので、4つ、全ての神社が、それなりの規模で、ちゃんと保全されているのだとばかり思っていたのですが・・・現在、まともに保全されているのは、西登山口となる「大迫(岳)の早池峰神社」だけだったのには、正直、驚きました。

特に、私の頭の中では、「早池峰信仰」と言えば、「遠野」や「遠野物語」と密接に関連し、地元では、大切に保存されている物だ、と言う思い込みがありましたので、「遠野(大出)の早池峰神社」が、一番栄えているのだとばかり思っていました。

また、「早池峰神楽」が、ユネスコ無形文化遺産に登録されてのは知っていましたが、それが大迫側だけの話と言うことは知りませんでした。

何とも情けない話です。

今回は、「早池峰信仰」の奥には触れることが出来ませんでしたが、次回以降で、徐々に真髄に迫って行きたいと思います。

今回のブログの最後に、本ブログに登場した神社の場所をマークした地図を掲載しておきます。「早池峰山」を中心に、各神社仏閣が、どのように配置されているのかを御覧下さい。


次回も宜しくお願いします。

以上

【画像・情報提供先】
Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)
岩手県神社庁(http://www.jinjacho.jp/)
・風琳堂(http://furindo.webcrow.jp/index.html)
花巻市ホームページ(https://www.city.hanamaki.iwate.jp)
・レファレンス協同データベース(http://crd.ndl.go.jp/reference/)
・Yahoo/ZENRIN(https://map.yahoo.co.jp/)
・千時千一夜(https://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo)