岩手県内における金勢信仰 〜 何でこんなに沢山あるの Vol.4


今回の「岩手・盛岡情報」では、久しぶりに、あの「金勢様」を紹介したいと思います。

この「金勢様シリーズ」では、これまでに、過去3回、下記の通り、岩手県の北から順番に、(割りと)有名な「金勢様」を紹介して来ました。

岩手県内における金勢信仰 〜 何でこんなに沢山あるの ? Vol.1
岩手県内における金勢信仰 〜 何でこんなに沢山あるの ? Vol.2
岩手県内における金勢信仰 〜 何でこんなに沢山あるの ? Vol.3


二戸市 :4箇所(枋ノ木神社、蒼前神社、高清水稲荷神社、等)
八幡平市 :2箇所(藤七温泉、横間虫追い)
盛岡市 :6箇所(淡島明神社、智和伎神社、巻堀神社、等)
宮古市 :1箇所(日影の沢金勢様)
紫波町 :2箇所(走湯神社、新山金勢神社)
遠野市 :5箇所/11箇所

この内、遠野市に関しては、私の想定が甘く、1回では紹介しきれませんでした。前回は、遠野市に関しては、次の5箇所を紹介しました。

・山崎の金勢様
・伝承園の金勢様
・たかむろ水光園の金勢様
・ふるさと村の金勢様
・春風祭り

「山崎の金勢様」以外は、どちらかと言うと、テーマパーク的な施設に、無理矢理集められた「金勢様」が多かったので、どの「金勢様」も、由緒等は、良く解らない物ばかりでした。

そこで、今回紹介する「金勢様」は、次の6箇所の神社に祀られている「金勢様」を紹介したいと思います。

●綾織の駒形神社オコマサマ
●程洞の金勢明神
●多賀神社
●乳神様と金精様
熊野神社
早池峰神社

今回の「金勢様」達は、どれも「霊験あらたか」なようです。

それでは今回も宜しくお願いします。

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■綾織の駒形神社オコマサマ


今回、最初に紹介するのは、「遠野市綾織(あやおり)町」にある「駒形神社」の御神体となる「金勢様」です。

遠野市には、9個もの「駒形神社」があるので、それぞれ神社名の前に地区の名前を付けて呼ぶ習わしがあるので、この「駒形神社」も、「綾織駒形神社」と呼ばれています。

「綾織駒形神社」の創建や縁起は定かでは無いようですが、江戸時代中期の「享保年間(1716
〜1736年)」に、「南部馬」の育成者により「お堂」が建立され、「馬頭観音」を祀った記録が残されているようです。


その後、昭和26年(1951年)に、集落で発生した火事により焼失したのですが、後の昭和30年、付近の「月山神社」を合祀して、現在に至るそうです。

「綾織駒形神社」の御神体は、柳田國男の「遠野物語」では「オコマサマ」と紹介されている「男性器」ですが、御祭神は、何故か「保食神(うけもちのかみ)」と「月読命(つきよみのみこと)」の二柱となっています。

月読命」が御祭神になっているのは、恐らくは「月山神社」を合祀したことが理由だと思われます。

また、「保食神」が御祭神となっているのは、前述の通り「馬頭観音」が祀られた事に関係があると思われます。

保食神」は、女神で「食の神様」と言われ、同じく食物や穀物の神様と言われる「豊受大神」とも同一視されており、その死体の各部位から、様々な食物が生まれたと伝わっています。

特に、屍体の頭部から「牛馬」が生まれたと伝わる事から、牛や馬の神様とも言われ、特に東北地方の「駒形神社」の御祭神となっているケースが多いとのことです。

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しかし・・・実は、「日本書紀」によると、この二柱は、非常にマズイ関係のようです。

天照大神」の弟である「月読命」は、姉から、地上(葦原中国)に降りて、「保食神」の様子を見てくるよう命じられたそうです。

このため、「月読命」が「保食神」を訪れると、「保食神」は、陸を向いて米を吐き出し、海を向いて魚を吐き出し、山を向いて獣を吐き出して「月読命」をもてなしたのですが、これを見た「月読命」は、「吐き出した物を食べさせるとは汚らわしい !!」と激怒し、「保食神」を切り殺してしまったそうです。

そして、これを聞いた「天照大神」も激怒し、これ以降、太陽(天照大神)と月(月読命)は、出会うことが無くなったと伝わっています。

そして、「保食神」の屍体の頭部から「牛馬」、額から「粟」、眉から「蚕」、目から「稗」、腹から「稲」、陰部から「麦・大豆、小豆」が生まれたとされています。

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このような因縁がある「月読命」と「保食神」の二柱を、一緒に御祭神にしても良いものかと思ってしまいますが・・・

さて、この「綾織駒形神社」は、元々は「蒼前駒形明神」を祀っていたと伝わっており、後に、「オコマサマ」を祀るようになったと言われています。

その理由が、柳田國男の「遠野物語拾遺・第15話」に記載されています。

遠野物語拾遺・第15話 】

この駒形神社は俗に 御駒様といって石神である。男の物の形を奉納する。

その社の由来は昔ちょうど五月の田植時に、村の若い女たちが田植をしているところへ、一人の旅人が不思議な目鼻も無いのっぺりした子供に、赤い頭巾を被せたのをおぶって通りかかった。

そうして今の御駒様のある処に来て休んだ。あるいはその地で死んだともいう。それがもとでここにこの社が建つことになったのだそうだ。

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何か、よく意味が解らない話になっていると思いますが、実は、この話には、「遠野物語拾遺」に納められなかった後半部分の話があるそうです。

【 後半部分 】

女たちが、不思議な目鼻も無いのっぺりした子供のように見えた物が何かを問うたところ、この旅人は、帯を解いて、自分の「一物」を前に廻して見せ、「こんな不具な身に生まれた事から結婚も出来ない。」と泣いたそうです。

そこで、痛く同情した女達は、山の麓に小屋を作って男を入れ、時に通って男を慰めたそうです。

そして、その後は、この旅人と同様、結婚できない男性の為に、祠を建立したと言うことです。

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実際、「遠野物語」は、遠野在住の「佐々木 喜善(きぜん)」が収集した話を、柳田國男がパクった書物です。「遠野物語」に関しては、下記の過去ブログに、その詳細説明を記載していますので、そちらをご覧下さい。

★過去ブログ:オシラサマについて

そして、「柳田 國男」は、話の最後の部分まで「佐々木 喜善」から聞いていたようですが、編集時に、故意に割愛したと伝わっています。

この点に関しては、後に「柳田 國男」は、弟子に対して、次のように語っていたそうです。

民俗学は、まだ若い学問である。性の民俗学は、誤解を受けやすく、興味本位と思われるので、書かなかった。』

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先の御神体の画像ですが、あの画像だけをみると、まさに、「遠野物語拾遺」の中の「一物」のように見えますが、実は、それ程でもないようです。

右の画像の神社拝殿内部を見ると、その大きさが解るかと思います。

また、この御神体が、何故、地元では「金勢様」ではなく「オコマサマ」と呼ばれているのかと言う点に関しては、全く解らないのだそうです。

昭和7年(1932年)に創刊された「綾織村」の村誌「綾織村誌」によれば、「駒形神社」の御神体は、『 先住民族の遺物の石棒なる如きその然るものなり 』と記されているそうです。

「オコマサマ」自体、漢字で表すと「お駒様」となり、まさに「馬」の神様となるのですが、もともと「馬の神様」だったのか否かも解っていないそうです。

遠野地方は、昔から「馬の名産地」だったことから、たまたま「オコマサマ」を「馬」と結び付け「お駒様」と呼んだのかもしれない、との事です。

しかし、その実態はと言うと、「金勢様」と同様、石や木で作った男性器とのことらしいです。

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そして、話のついでに、この「綾織駒形神社」に伝わる「竜石」の事もご紹介します。この「竜石」も、同じく「遠野物語拾遺」の第14話に登場しています。

遠野物語拾遺・第14話 】


綾織村の駒形神社の境内には、竜石という高さ4尺ばかりの、褐色の自然石がある。

昔、 村の人がこの石を曳いてここまで来るとどうしても動かぬので,、そのままにしておくのだという。

何のために曳いて来たかは伝わっていない。

竜石という名前も元はなかったが、ある時、旅の物知りが来てこの石の話を聞き、ぜひ見たいというから案内をして見せると、これは竜石という石である。

それここが眼でこれは鼻、これが口だ、耳だ、首だ、胴体だといって、とうとう竜の形にしてしまったので、村の人ももっとものことだと思ったという。

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他方、前述の「綾織村誌」の記載によれば、この石は「龍神石」と呼ばれるもので、当時、気仙より、遠野市附馬牛町にある「東禅寺」に運び込もうとした石であったが、この「駒形神社」の境内において、全く動かなくなったのだと伝わっているそうです。

何故「龍神石」かと言うと、「昇龍、降龍の紋眼自然に存するを以って龍神石と呼ぶ。」と伝わっていたそうです。

この「綾織駒形神社」は、「オコマサマ」等、不思議が一杯詰まった神社で、まさに遠野らしい場所ではないかと思われます。

また、この御神体の他にも、この綾織地区には、「石棒」なるものが、他にもあったことが、やはり「遠野物語拾遺/第16話」にも記載されているようです。

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■程洞の金勢明神


次の「程洞(ほどほら)の金勢様」も、遠野では有名な「金勢様」です。

と言っても、表面上のメインは「稲荷神社」で、「金勢様」は、あくまでも脇役となっています。

しかし、これは、弊社ブログで何度も説明している通り明治の悪法「神仏分離令」の影響です。

この「程洞」には、南北朝時代〜戦国時代に掛けて、下野国安蘇郡阿曽沼(現:栃木県佐野市浅沼町)出身の「阿曽沼」氏の一族となる、宮氏(旧姓:四戸氏)が住んでいたと伝わっております。


そして、この「程洞」には、平成4年(1992年)に「遠野町地域づくり連絡協議会」が出版した「遠野町古蹟残映」によると、江戸時代中期の明和2年(1765年)、「阿曽沼」氏の一族である「宮 道雲(四戸 道義)」が、氏神として勧請した神社がある旨が記載されています。

また、岩手県神社庁のサイトによると、次のように記載されています。

『 明和年間(1764〜1772年)に、霊応院様(遠野南部氏二十七代信彦)の御帰依なり。その後、安永3年(1774年)、鳥居、鰐口、御籏御寄進なり。正一位の神位は天明3年(1783年)なり。この稲荷さんは他の稲荷さんのように農業の加護のほか、人間の病に加護を賜るという特別のご利益があり、然も殊更に女の病に特別の加護があるとされている。 』


しかし、前述の通り、元々は「稲荷神社」ではなく、現在では証拠も何も無いので推測の域を出ないのですが、この場所には、先の「阿曽沼」氏の一族「宮 道雲(四戸 道義)」が、「阿曽沼守神薬師如来」を勧請したと伝わっている説もあります。

そして、明治時代の「神仏分離令」の時、神仏混合の疑いをかけられて破壊されそうになったので、氏子総代達が協議し、「四戸」氏の墓や本尊を廃棄し、「程洞稲荷神社」と名乗る事で国から承認されたとも言われています。

一方、その「阿曽沼」氏ですが、安土桃山時代豊臣秀吉の「小田原征伐」に参加しなかったために、後の奥州仕置により、大名から「南部」氏の配下に格下げされ、さらに、その後の「上杉征伐」の最中に、「南部」氏の陰謀で、留守居役の三名の部下が謀反を起こしたようです。

このため、一時「伊達」氏を頼り、何度か「気仙」の兵を借りて謀反制圧を図ったのですが、何れも失敗に終わり、かつ、子供も居なかったので、最終的には「伊達」氏配下で断絶してしまったようです。

しかし、この「四戸」氏だけは、そのまま南部領の遠野に残り続けたようですが、さすがに、「阿曽沼」の一族である「四戸」姓は名乗れなかったので、後に「宮」姓に、名前も「道雲」から「道義」に変えたようです。

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ところで、この「四戸」氏ですが、記録に残っているのは「四戸 道雲(道義)」からとなりますが、どうやら、この一族は、「医術」に長けた者が多かったようで、その子孫達も、この地で「医者」を続けていたようです。

「道雲」以降の子孫は、息子「景雲」→孫「弘雲」と、三代続いて「名医」の誉れが高く、孫の「弘雲」の時には、城主からの依頼もあり、「程洞」から遠野城下に引っ越したようです。

そして、この孫の「弘雲」と言う人物が、「遠野物語拾遺」に登場しているそうです。

遠野物語拾遺・第140話 】

遠野の裏町に、こうあん様という医者があって、美しい一人の娘を持っていた。

その娘はある日の夕方、家の軒に出て表通りを眺めていたが、そのまま神隠しになってついに行方が知れなかった。

それから数年後のことである。この家の勝手の流し前から、一尾の鮭が跳ね込んだことがあった。

家ではこの魚を神隠しの娘の化身であろうといって、それ以来一切鮭は食わぬことにしている。今から七十年前の出来事であった。

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これは「遠野物語」、および「遠野物語拾遺」に何度か登場する「神隠し」の話の一つです。さらに、「宮」氏に関しては、別の話題となる「開けぬ箱」にも登場しています。

遠野物語拾遺・第141話 】

宮家には開けぬ箱というものがあった。

開けると眼が潰れるという先祖以来の厳しい戒めがあったが、今の代の主人はおれは眼がつぶれてもよいからと言って、三重になっている箱を段々に開いて見た。

そうすると中にはただ市松紋様のようなかたのある布片が、一枚入っていただけであったそうな。

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この「第141話」は、これだけ読んでも良く解らないと思います。

しかし、書籍にはなっていませんが、別の一族となる「汀」家の話と合わせて読めば、納得出来る内容です。

この「汀」家にも、「開けてはいけない箱」が伝わっていたそうですが、ある時、時の当主が箱を開けて中を確かめると、中には「阿曽沼家の家紋を纏(まと)う者が、南部家の家紋を斬るという絵柄が入った紙」が入っていたそうです。(※阿曽沼氏:三つ巴、南部氏:向い鶴)

確かに、「阿曽沼」氏は、史書によれば、「南部」氏に滅ぼされてしまうまで、平安時代末期から戦国時代末期まで、当時の「遠野保」の領主でだったので、「南部」氏に恨みを抱く者が大勢住んでいたと思われます。

しかし、江戸時代に、このような「物騒な物」が、南部氏に見つかってしまえば、一族郎党、全て死罪になってしまうと思われますので、将に「開けてはいけない箱」だと思います。

しかし、「宮」氏の「市松模様」が、何を意味していたのかは解らないようです。「阿曽沼」氏と「宮」氏の繋がりを示す、何かを意味していたのかもしれません。

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ところで、先の「宮」氏ですが・・・最後は、どうやら落ちぶれてしまったようです。

名医と評判の「弘雲」には、二人の息子「太郎吉」と「治郎吉」が居たそうですが、両名とも不肖の息子で、医術も学ばず酒に溺れ、先祖代々の蓄えを全て食い潰し、最後は住まいも無くなり、最後は、河原で寝るようになってしまったそうです。

また、「弘雲」自体も、「鮭漁」の見物の際に、何故か、勧められるままに「鮭汁」を食べてしまったそうですが、その後、死んでしまったと伝わっています。

そして、息子達が落ちぶれたのも、「鮭の祟り」ではないかと噂されていたようです。

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さて、この「程洞稲荷神社」には、上記の「金勢様」と一緒に、「八咫烏」も祀られています。

この「八咫烏」は、案内看板によると「烏(からす)神」と呼ばれる神様らしく、この「烏神」が、婦人病に霊験があるとされていたようです。

八咫烏」を祀る神社としては、「熊野神社」が有名ですので、「宮」氏も、ひょっとしたら「熊野」系の修験道とも関係があったのかもしれません。


また、拝殿の下には、山の湧き水から取った「水神」とされる「手水(ちょうず)」があり、そこには、合わせて「不動明王」が祀られています。

このため、過去には、修験道の道場もあったのかもしれません。

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この、「程洞稲荷神社」、およびその他の祠等も「荒れ放題」のように見受けられますが、実は、毎年7月の初旬(8日/9日)に例大祭が行われています。

この神社がある場所は、県道238号線を使い、麓の入り口付近までは車で来ることは出来ますが、最後は、山に分け入り、20分位、山登りをする必要があるみたいです。

このため、どの紹介ブログを見ても、「最後はキツい」と書かれていますし、また「熊」も出没する地域らしく、神社も「金網」で防御しているそうです。


しかし、例大祭の折には、山麓から太鼓なども持ち運び、神事の前には、神社前で「太神楽」も奉納されているようです。

当然、その昔ほどは参拝する人は居ないと思いますが、それでも、ちゃんと地元の人には、未だに崇拝されているようです。

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■多賀神社


三番目は、遠野市の、ほぼ中心部、遠野市新町の「鍋倉山」中腹にある「多賀神社」の御神体を紹介します。

この「多賀神社」、左の画像では、山の奥深くの神社の様に見えますが、実際には、遠野駅から徒歩10分弱、約1Km弱の場所にあります。

その昔、明治時代までは、とてつもなく寂しい場所だったようで、これまで紹介してきた「遠野物語拾遺」にも、「狐に化かされる」話が掲載されています。

遠野物語拾遺・第193話 】

遠野の城山の下の多賀神社の狐が、市日などには魚を買って帰る人を騙して、持っている魚をよく取った。

いつも騙される綾織村の某、ある時塩を片手につかんでここを通ると、家に留守をしているはずの婆様が、あまり遅いから迎えに来た。

どれ魚をよこしもせ。おら持って行くからと手を出した。

その手をぐっと引いてうむを言わず、口に塩をへし込んで帰って来た。その次にそこを通ると、山の上で狐が塩へしり、塩へしりといったそうである。

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と言うように、人通りの無い村外れの神社で、何時、創建されたのかは解らないそうですが、遠野市内においても、歴史が古い神社と言われているようです。

岩手県神社庁の情報によると、一説には、先も登場した「阿曽沼」氏の家系の内、最後から二人目で、「阿曽沼」氏の最盛時の当主「阿曽沼孫四郎広郷」が、天正2年(1574年)、横田城を鍋倉山に移転した時に、城中鎮守として、この「多賀神社」を勧請したといわれているようです。

「阿曽沼」氏の滅亡後は、八戸において根城南部氏を継いでいた「八戸六郎直義」が、南部氏宗家の「南部利直」の命により遠野郷へ所替えとなり、「南部 直栄(なおひさ)」と改名後、この地を統治する事になったようです。

そして、江戸時代初期、天保4年(1647年)、「南部 直栄」が、城西鎮護のために再興し、次いで元禄5年(1692年)には、元々は「新田」家の家臣だった「七戸三郎右衛門吉広」が領主になって再建したようです。

さらに、その後は寛延4年(1751年)に境内を広げ、二本の参道を逢坂に造ったと言われ、その後荒廃した後、明治34年(1901年)に、再度、今度は新町の有志によって再建されたと伝わっています。

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さて、この「多賀神社」ですが、御祭神は、本ブログに、何度も登場し、日本の「国産み神話」と「神生み神話」の主人公となる「伊邪那岐(いざなぎ)命」と「伊邪那美(いざなみ)命」と言う、夫婦の神様です。

また、境内末社としては、「稲荷神社」、「八坂神社」、そして「多賀八幡」があります。


そして、ようやく登場する御神体ですが、右の画像のような「男根/女陰」となります。

しかし、見て解る通り、新しい御神体の様ですし、その由来や起源等、全く解りませんでした。

また、現在の御祭神は、先の「伊邪那岐/伊邪那美」の二柱ですが、昔も、この二柱が御祭神だったのかも解りません。

そもそも、本神社は、前述の通り、安土桃山時代に、「阿曽沼広郷」が勧請したとありますが、どこから勧請したのかも解りません。

「多賀神社」の総本社は、現在の滋賀県にありますが・・・総本社との関係も解りません。

伊邪那岐/伊邪那美」が先に祀られたのか、「男根/女陰」が先に祀られたのか・・・全く解りませんが、この神社に関しては、御神体が新しい所を見ると、先に「伊邪那岐/伊邪那美」が祀られ、その夫婦の神様に倣い、合わせて「男根/女陰」が祀られたのではないかと思われます。

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■乳神様と金精様


次は、遠野市綾織町みさ崎にある「乳神様」と「金精様」を紹介します。

左の画像が「乳神様」と「金精様」ですが・・・解りますか ?

崖沿いに、「紅白まんじゅう」の様なものがぶら下がっているのは解るかと思いますが、これが「乳神様」です。

「金精様」は、小さすぎて解らないですよね。


もう少しアップにすると、右の画像です。

これは、過去の「民間信仰シリーズ」において、「妙見信仰」と一緒に紹介した「乳神」と同じ神様です。

★過去ブログ:岩手の民間信仰〜聞いた事もない信仰ばかりVol.5

遠野地方には、子供が授からなかったり、あるいは、お乳の出が悪かったりする女性の為に、「乳房」を模した布を奉納する民間信仰が根付いています。


しかし、このような民間信仰は、上記過去ブログでも紹介した通り、遠野地方に限った信仰ではありません。

他の地域、例えば、三重県伊勢市においても、似たような民間信仰があり、「伊勢妙見」は、子授け、乳の神、子育ての神として信仰を集めていたと伝わっています。

現在、「伊勢妙見」様は、何故か、東京の「よみうりランド」にて保存展示されていますが、やはり「乳房」に模した物を奉納していたようです。

そして、肝心の「金勢様」ですが・・・大木の根元に、ちょこんと鎮座しています。


この大木は、地元では「ウッコ」と呼んでいるようですが、正式な名前は「イチイ」で、遠野市の「市の木」にも選ばれているようです。
この「イチイ」の木が大き過ぎるので、「金勢様」は、イマイチのように見えてしまいます。

遠野には、数々の大木があり、樹齢100年位の大木はザラで、後述する「熊野神社」には、「樹齢500年」の御神木がありますし、最高では「樹齢1500年」の大杉(田屋の大杉)等もあります。


この「乳神様」が祀られているウッコに関しては、残念ながら樹齢は明らかにはなっていませんが、推測では「樹齢100年」は超えているのだろう、とのことでした。

また、何故、この場所に、「乳神様」と「金精様」が祀られているのかと言うと・・・こちらも、残念ながら、由緒/由縁は、解りませんでした。


しかし、現在でも、周辺の方々が、きちんと整備しているようですので、きっと、それなりの由緒やご利益があったのだと思います。

ちなみに、この綾織の「乳神様(金精様)」は、遠野遺産の45号に認定されているようです。

また、「乳神様」に関しては、この場所以外にも、数カ所祀られている場所がありますので、また別の機会、「民間信仰シリーズ」で紹介したいと思います。


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熊野神社


今回紹介する「熊野神社」は、遠野市宮守町達曽部(たっそべ)にあります。

現在の御祭神は、「国産み/神生み」に何度も登場する「伊耶那美命」、奥さんの方になっています。

しかし、創建・由緒に関しては、遠野市遠野文化研究センターが管理している「遠野遺産」の情報によれば、その昔は寺社で、「熊野大権現」を御祭神として祀ると共に、「如意輪観音」も安置されていたと伝わっています。

また、当時の別当だった「佐藤四郎左衛門」と言う人物が記した「萬聞書日記巻一」によれば、戦国時代初期の文明8年(1476年)に、米田(まいた)、坂本、駒場の三カ所に建立した「三熊野神社」が始まりで、江戸時代の中期の享保12年(1727年)に建立されたとも伝わっているそうです。


米田、そして坂本は、達曽部地区の地名ですが、現在、駒場と言う地名は残っていないようなので、「阿曽沼」氏統治時代の屋号なのかもしれません。

また、「達曽部」と言う地名も、元は「達曽部」氏と言う一族の名前です。

この「達曽部」氏は、過去、勢力を誇った「斯波(しわ)」氏、「稗貫(ひえぬき)」氏、そして「阿曽沼」氏の配下だった記録が残っているそうですが、最後は「南部」氏の配下として生き残ったようです。

さらに、現在の神社は、昭和35年(1960年)に遷座したと言う記録もあるので、元々は、別の場所にあったのかもしれませんが、この付近の「氏神」だった事は確かなようです。

さらに、この神社には、「樹齢500年」と伝わる「御神木」があり、「遠野物語」には記載されていないようですが、「御神木」のしめ縄に異物を挟んだり、奥の院に物を立掛けたりすると、別当がすぐ頭痛を起こすと言う話も伝わっているそうです。

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ところで、この「熊野神社」には、「陰陽石」と呼ばれている、珍しい石が鎮座しています。

この手の石は、普通「陽石」と「陰石」が個別に存在して「陰陽石」と呼ばれているのが多いのですが、この神社の場合、「陰陽一体型」となっています。

画像を見れば解ると思いますが、「陽石」の途中に「穴」が空き、これが「陰部」となっています。

通常、「磐座(いわくら)」崇拝の場合、「石が先」で、「神社は後」に建立されますが、この「熊野神社」の場合は、どうだったのでしょうか ?


前述の通り、現在の神社は、昭和、それもかなり後期に遷座されたと言う情報もありますが・・・

「御神木の樹齢が500年」、そして「文明8年創建」と言う記録を信じるとすれば、最初から、この場所に、お堂、もしくは祠等があったと考えた方が良いかもしれません。

さらに、別の説には、駒場の内神様として祀られていた三姉妹のひとつを譲り受け、杉を神社に見立て参拝したと言う説もあるそうなので、やはり、この地に何らかの物があったのだと思われます。

何れにしても、この一体型の「陰陽石」は、非常に珍しいと思います。


また、この「熊野神社」には、この「陰陽石」の他にも、数多くの石碑/石塔が建立されているようです。

湯殿山」、「出羽三山」、「庚申塔」、「百万遍」、「馬頭観世音」、「山上」・・・全部で10個以上にもなります。

これらの事から推測すると、やはり昭和になって遷座されたと言うのは、間違いではないかと思われます。

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早池峰神社


遠野地方の最後を飾るのは、「早池峰神社」です。この「早池峰神社」は、神仏習合、特に修験道の聖地として、全国的にも有名です。

岩手県内には、数多くの山岳信仰の対象となる山がありますが、私は、岩手県内の山岳信仰では、この「早池峰神社」が、一番有名ではないかと思います。

岩手県と言えば、本ブログでも何度も紹介しており、県内では一番標高が高い、その名も「岩手山」と言う山があります。


岩手山」は、岩手のシンボルとなっている山で、非常に綺麗な、そして整った形をしており、弊社のブログの表紙にも使っています。

そして、その昔は「岩鷲山」ともよばれ、「岩手山」も、山岳信仰の対象となっていますが・・・

何故か、「岩手県山岳信仰」と言えば、「早池峰山」を連想してしまいます。

理由は確かではありませんが、早池峰山には、今でも神秘的な響きが感じられますし、次のような伝統や言い伝えがあるので、何となく「早池峰山山岳信仰」となってしまうのかもしれません。


・「遠野物語」にも数多く登場する
・「遠野三山(早池峰山/六角牛山/石上山)」も有名
・「早池峰神楽」も有名
・「早池峰講」も有名
・「瀬織津姫(せおりつひめ)」と言う謎の御祭神(女神)の存在・・・等

早池峰山」や「早池峰神社」に関しては、次の過去ブログもご覧下さい。

★過去ブログ:岩手県の山岳信仰 その1 〜 本当に不思議な山ばかり
岩手県内の山開き − あなたは「山ガール」 or 「山オヤジ」

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さて、そんな「早池峰神社」ですが、過去の「山岳信仰」のブログでも紹介しています通り、東西南北の4箇所ある「早池峰山」への登山口に、それぞれ4つの「早池峰神社」があります。


●東登山口(宮古市江繋) :新山堂
●西登山口(花巻市大迫町) :池上院妙泉寺
●南登山口(遠野市附馬牛町) :持福院妙泉寺
●北登山口(宮古市門馬) :新山大権現

そして、今回紹介する神社は、元々は「持福院妙泉寺」と呼ばれていた「早池峰神社」となります。

その起源は、平安時代の初めとなる「大同元年(806年)」、来内(らいない)村の猟師「藤蔵」が、山中で「十一面観音像」に遭遇した事から始まるそうです。


その後、「藤蔵」は発心して早池峰山山頂に奥宮を建立し、名を「普賢坊」と変えると共に、現在地(山麓)には「新山宮」を建立したとされています。

さらに、その後、同じく平安時代の「斎衡(さいこう)年間(854〜857年)」に、「慈覚大師」が、当地に宮寺を建立し、山頂にある霊池に因んで「妙泉寺」と名付け、さらに「新山宮」を「神宮」としたそうです。

このように「妙泉寺」は、明治時代までは修験道の寺院で、その後「早池峰神社」と改称しましたが、現在でも、往時の佇まいを随所に残しています。


境内には、歴代の「和尚」の墓もありますし、まず、入り口に「山門」があるのは、明らかに寺院の建築様式です。

また、現在、「拝殿」と呼ばれている建物がありますが、見て直ぐに解る通り、元は「山門」だったと思われます。

さらに、本殿と呼ばれている建物も、神社の本殿と言うよりは「本堂」だと思います。

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さて、今回のキモとなる「金勢神社」ですが、本殿から社務所に抜ける道の右側に、境内末社として鎮座しています。

小じんまりとした社で、この中に、数体の「金勢様」が、いらっしゃいます。
しかし、何故、ここに「金勢様」が鎮座しているのか等、由緒は全く解りませんでした。


一方、東北学院大学が、平成23年に、遠野の伝承文化を調査した際の報告書に、とても面白い報告がありましたの、本ブログでも紹介させて頂きます。

この「金精神社」には、上図の通り、常時、鍵が掛けられています。

普通であれば、当然、部外者が、「金精様」に悪さをしない様に施錠していると思うのでしょうが・・・・


何と!! こちらの「金精様」に限っては、「金精様」が外に出ないように施錠していると言う事が記載されていました。

こちらの「金精様」は、余りにも勢いが強く、ご利益も凄いそうですが、勢い余って外に飛び出してしまうので、鍵を掛けて外に出ないようにしていると、地元の古老が話をしていた、との事です。

そして、ちょうど古老の話を聞いていた時にも、「金精様」が、ガタガタ動き出したと言う事まで記載されています。

外に出ないように「結界」を張っているとは、何とも不思議な話です。大学の正式な論文ですので、最初から「嘘」と決めつけるのも・・・


まあ、「遠野」であれば、何が起きても不思議ではないのかもしれません。

ちなみに、こちらでは、後ろの板の記載によると、「金勢様」と言う漢字ではなく、「金精大明神」となっています。

それと、「早池峰神社」の隣には、今では廃校になってしまった「大出小学校」が「遠野早池峰ふるさと学校」として再利用されていますが、右のようなお土産も販売しているようです。

早池峰神社」の「金精様」に関しては、まさに、遠野の最後を飾るに相応しい内容だったと思います。

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今回は、下記6箇所の「金勢様」を紹介しましたが如何でしたか ?


●綾織の駒形神社オコマサマ
●程洞の金勢明神
●多賀神社
●乳神様と金精様
熊野神社
早池峰神社

本当に、遠野地方は、この「金勢様」に限らず、面白い話が多い場所です。今更ながら、「柳田國男」が興味を惹かれるのも解る気がします。

今回は、特に、私個人としては、「早池峰神社」の「金勢様」の話が印象に残ります。

勢いが強すぎて、神社から飛び出してしまうとは・・・・

通常、結界とは、外から異物が入り込まないように境界を作る事なのですが、内から外に飛び出さないための結界とは・・・私も、色々な意味で、あやかりたいものです。

加えて、この話は、江戸時代とか、明治時代なら、「ふむふむ」と納得してしまいますが、ほんの6年前の話です。

私は、実は、交通の便が悪いので、まだ遠野には行った事が無いのですが、まだ動ける内に、この「金勢様」には、是非とも、お参りに行きたいと思ってしまいました。


さて、本シリーズは、まだ、あと数回位は続ける事が出来そうです。

後は、花巻市北上市奥州市、それと一関市、等が残っていますので、次回は、花巻市の「金勢様」を紹介したいと思います。

花巻市の「大沢温泉」にも、「大沢温泉金勢まつり」と言うトンデモナイ祭りがあります。

それにしても、これだけ紹介しても、まだ残りがあるとは・・・岩手の「金勢様」恐るべし

次回も宜しくお願いします。



以上

【画像・情報提供先】
Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)
遠野市観光協会(http://www.tonojikan.jp/)
・不思議空間「遠野」(http://dostoev.exblog.jp/m2006-02-01/)
・くぐる鳥居は鬼ばかり(http://blogs.yahoo.co.jp/sadisticyuki10)
・「遠野」なんだりかんだり(http://blog.goo.ne.jp/fuefukidouji_2006)
・南部吟遊詩人の写真館(http://blog.goo.ne.jp/tosizo_1975)
・伝承世界を生きる人々の遠野物語100年間の受容と抵抗(http://www.tohoku-gakuin.ac.jp/research/journal/bk2013/pdf/no08_04.pdf)



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