岩手県内の火防祭り 〜 検索トップだけどマイナーな祭り その2


今回の「岩手・盛岡情報」は、下記過去ブログで紹介した「火防祭」の続きとなる第二弾で、ようやく岩手県内の火防祭を紹介したいと思います。

★過去ブログ:岩手県内の火防祭り その1(20170225.html)

前回のブログでは、「火防祭の前説」として、次のような情報を紹介しました。

●日本における大火の歴史
●日本における火防の神様
●「愛宕神社」について
●「秋葉神社」について


前回は、上記4点を紹介しましたが・・・たった4点でも、非常に中身の濃い情報だったと思います。特に、「愛宕神社」と「秋葉神社」、さすがに、日本における「火防神社」のトップを争う二社だけに、中身が濃かったと思います。

また、両神社とも、複雑な生い立ちのようで、ここまで「神仏習合」の激しい寺社は、この日本においても、珍しいのではないかと思われます。

神仏習合」と、文字上では二つの信仰のようですが、実は、「神道」、「修験道」、そして「仏教」と、三種類の信仰が習合していたので、余計に複雑になってしまったのだと思います。



という事で、今回は、岩手県内で行われている次のような「火防祭り」を紹介します。

●日高火防祭り :奥州市水沢区
●羽田火防祭 :奥州市水沢区羽田町
●金ケ崎火防祭 :胆沢郡金ケ崎町
●黒沢尻火防祭 :北上市黒沢尻町/諏訪町


そして、その「火防祭り」の開催場所ですが・・・上の地図を見れば解る通り、広大な岩手県においても、本当に一部地域となっています。

それは何故かと言うと・・・時代は江戸時代に逆上ります。


当時、この地域は、「伊達氏」の領土で、その中でも、「水沢伊達氏」と呼ばれていた一族が治めてた地域です。

「水沢伊達氏」は、元を辿れば、鎌倉時代「源 頼朝」の御家人であった「伊沢 家景」を家祖とする一族で、頼朝が「奥州藤原氏」を滅ぼした「奥州合戦」の後、「葛西 清重」と共に、奥州総奉行に任じられ、奥州における御家人の統率を行っていました。

この「奥州総奉行」は総称で、正式には「陸奥国留守職(むつのくに-るすしき)」と言う、鎌倉幕府の地方統治機関の事で、建久元年(1190年)に、前述の通り、「伊沢 家景」が任命されたのが始まりで、このため陸奥国には「守護」が設置されませんでした。

そして、この「留守職」に関しては、「家景」の子「家元」も「留守職」を継いだ事から、「家元」以降は「伊沢」姓を止め、第十八代「政景」まで、「留守」氏を名乗る事となります。

しかし、この「留守氏」も、鎌倉時代後期、南北朝時代、そして室町時代と世代を経る毎に勢力が衰え、途中からは「伊達氏」に援助を請うようになったのですが、その代償として、「伊達氏」側から、次々と養子を送り込まれ、15世紀の戦国時代末期には、ほぼ完全に「伊達氏」に取り込まれてしまったようです。

ところが、上記、第十八代「留守 政景」の時に、「豊臣 秀吉」の命令に逆らって「小田原征伐」に参加しなかった事から、後の「奥州仕置」により「留守氏」は本領を没収され、完全に「伊達 政宗」配下に組み込まれる形で生き長らえたようです。

その後「留守 政景」は、「伊達姓」を与えられて、「伊達 政景」と名乗り、以降「政景」の家系は、「一関城主」、「金ヶ崎城主」、そして「水沢城主」となり、以来、幕末まで「水沢城主」として、この地を治めた事から「水沢伊達氏」、あるいは俗称として「水沢藩」と呼ばれる事になりました。

そして、何故、『 水沢伊達氏において「火防祭り」が行われるようになったのか ? 』 と言う点に関してですが、実際の所、明確な理由は明らかにはなっていないそうです。

但し、現在のところでは、次の2つの説が有力視されている、との事です。

【 「伊達宗景」起源説 】

「水沢伊達氏」第四代当主「伊達 宗景」が子供時代、仙台伊達氏の命により江戸に滞在していた時に、「明暦の大火(1657年)」に遭遇し、火事の恐ろしさを目の当たりにしたそうです。そして、領地に帰った後、地元の「日高神社」と一族の祖霊社である「瑞山(みずやま)神社」が、それぞれ「日=火」と「瑞=水」に繋がるとして、両社において「火防祈願」を行ったのが、始まりと言う説。

【 「伊達村景」起源説 】


「水沢伊達氏」第六代当主「伊達 村景」の時代となる享保二十年(1735年)、水沢で大火が発生したので、その後、配下の「佐々木 佐五平」を江戸に派遣して「火消し」の技術を習得させると共に、江戸の「いろは組」を倣い、水沢城下六個の町を1単位として「組」を組織し、民間の消防隊「臥煙組」を創設させ、その記念行事として始めたと言う説。


とにかく、当時の水沢では大火が相次ぎ、上記の享保二十年の大火では168戸を焼失したそうですし、その後の安政六年(1859年)には、二度も大火が発生し、両方合わせて562戸も焼失してしまったそうです。

項番 和暦 西暦 焼失戸数
1 享保三年 1718年 108戸
2 享保二十年 1735年 168戸
3 天保十三年 1842年 126戸
4 安政六年 1859年 562戸


このような事情もあり、「水沢伊達氏」の領地では、「火防祭り」が各地で開催され、その歴史が現在まで受け継がれてきたのだと思われます。

特に、上記「日高神社」の例祭として開催され続けている「日高火防祭り」は有名です。

「明暦の大火」と「日高神社」に関しては、本シリーズの前回ブログ、および民間信仰シリーズの「妙見信仰」の章で紹介していますので、そちらもご覧下さい。

★過去ブログ : 岩手県内の火防祭り その1
岩手の民間信仰 〜 聞いた事も無い信仰ばかり Vol.5

ここまで、奥州市、および北上市近郊で、何故、「火防祭り」が多いのか、その理由を説明してきましたので、まずは、一番有名な「日高火防祭り」から、その内容を詳しく紹介し、その後、各地域の「火防祭り」を簡単に紹介したいと思います。


それでは今回も宜しくお願いします。

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■日高火防祭り


「日高(ひたか)火防祭り」や「日高神社」の起源に関しては、過去ブログや前章を参考にしてもらえればと思います。

前回ブログにも掲載しましたが、左の画像が「日高火防祭り」に登場する「はやし屋台」となります。

「日高火防祭り」では、合計で6個存在する各組から、この「はやし屋台」の他に、「町印(ちょう-じるし)」、および「打ちばやし」と呼ばれる「屋台」が参加します。

また、創設当時は、前述の通り、六組の消防隊があり、これら消防隊には、「仁心火防定鎮」の各一文字が与えられ、この漢字一文字を「町印」として使っていました。


「仁」 :川口町
「心」 :立町
「火」 :柳町
「防」 :大町
「定」 :横町
「鎮」 :袋町

この「仁心火防定鎮」は、「仁心をもって火防を定鎮す」と読んで、当時の火防の心構えと伝わっていますが・・・漢字の順番や読み方は正直な所、解っていないようです。

しかし、明治以降は、この六組に、新たに下記の三組が追加され、現在では、九組となってなっているそうですが、新参の組には「町印」と「打ちばやし」は無く、「はやし屋台」のみの参加なのだそうです。

・駅前三町組
・城内組
吉小路


元々、江戸時代後期頃までの「日高火防祭り」では、各組から参加する「打ちばやし」と「町印」の2種類の屋台で構成されており、「はやし屋台」は、「おまけ」みたいな位置づけだったようです。

しかし、江戸時代末から明治初頭にかけて、庶民に経済力がついてくるにつれ、「はやし屋台」の方が主役となってしまったそうです。

そして、さらに町家が栄えるに連れ、各町が豪華さを競い合うようになったそうです。

現在では、唐破風の屋根や欄間に朱や金、極彩色の彫刻が飾り付けられ、さらに、擬宝珠高覧(ぎぼし-こうらん)にも雪洞(ぼんぼり)が付けられられた雛壇状の屋台になっています。


また、見返り(背面)にも、牡丹と枝垂れ桜の造花が飾り付けられています。

昭和中頃までは、全ての屋台が、人が屋台を担ぐ「担ぎ屋台」だったそうですが、担ぎ手不足の影響で、今では台車の上に載せられた「雛壇」状の屋台になってしまったそうです。

「はやし屋台」には、三味線(娘5人と糸合せの師匠1人)、小太鼓(早乙女15〜20人位)、横笛(男2人)を乗せる構成で、各町で、それぞれ異なる音律を奏でるそうです。


一方、昔の主役だった「打ちばやし」は、凄く素朴な物で、「はやし屋台」に比べて、大きさも、また乗る人数も半分以下で、男の子が大太鼓、小太鼓を打ち、笛師2人が横笛を吹くのが基本構成になっているそうです。

笛の音律は、六町とも全て同じで「トットコメイ」、「トットコメー」、あるいは「内ばやし」とも呼ばれているようです。

この「打ちばやし」の天井部分には、火防祈祷のための「権現様」が祀られています。


つまり、今では観光イベント化してしまっていますが、その昔は、「打ちばやし」屋台に権現様を祀り、この権現様を祀った屋台で街中を廻る事で、権現様の霊力/ご利益で火災を防止しようとしたのだと思います。

また、この「屋台ばやし」と「打ちばやし」の音曲は、岩手県の無形民俗文化財に指定されているとの事です。

各町の情報を整理すると、次の表のような状況になります。


項番 町名 町印 音律 屋台の特徴
1 川口町 つるべ井 提灯のデザインが秀逸
2 立町 松の緑 華やか、極彩色の鳳凰
3 柳町 剣ばやしくずし 井内側の装飾がきれい
4 大町 祇園ばやし 海老茶の龍が勇壮に天井をうねる
5 横町 一声くずし 金色の極楽鳥
6 袋町 一声 山車の天井に「鎮」の文字
7 駅前三町組 - 一声 珍しい京風の丸い雪洞
8 城内組 - かんらん 華やかな極楽鳥の彫り物
9 吉小路 - 祇園ばやし 金色の鳳凰の彫り物


さて、この「日高火防祭り」ですが、かつては、「日高神社」の例祭日であった、1月22日に、例祭と同時に開催されていたそうです。

その後、「日高神社」の例祭日が4月22日に変更になったのに合わせて、昭和四十五年(1970年)には4月22日に、さらに平成八年(1996年)には4月29日に、「日高火防祭り」の開催日が変更されています。

「何故、4月29日に ?」と思うかもしれませんが、何の事はない、ゴールデンウィークに合わせ、観光客を呼び込もうとしただけだと思います。

また、昭和六十年(1985年)には、本祭の前日の夜に「前夜祭」も開催されるようになり、祭り人気も盛り上がりを見せたそうです。


前夜祭でも、下記のようなイベントも開催されて盛り上がったそうですが、バブル崩壊と共に、中心市街地の衰退、都市人口の高齢化、財政難、参加者激減、等、様々な問題が浮上してきた影響で、前夜祭の続行が難しくなってきてしまったようです。

・鹿(しし)踊り
・神輿渡御
・はやし屋台相打ち
・厄年連の踊り

このため、平成21年(2009年)には、「はやし屋台」と「町印」の運行だけに規模を縮小し、さらに、平成24年(2012年)からは、屋台の運行も中止し、その代わりに稚児行列と厄年連の踊りだけになってしまったそうです。

ちなみに、「厄年連」と「はやし屋台相打ち」とは、それぞれ、次の様な内容になりっているそうです。

【 厄年連 】

奥州市近郊には、「厄年」を迎える者が、「騒ぎ立て厄払い」と呼ばれている「厄払い」を行う風習があり、その昔、江戸時代などには、「にわか踊り」を踊って、厄を払っていたそうです。

この「騒ぎ立て厄払い」は、農閑期である正月に行われており、路上において、即興(にわか)で獅子舞、加勢踊り、神楽などを踊っていたと伝わっていたのですが、この「騒ぎ立て厄払い」と「日高火防祭り」が結び付いたものが、現在の「厄年連」と言われているそうです。

この「厄年連」は、水沢、前沢、および江刺の地区毎で、25歳と42歳の「厄年」を迎える男女で構成される2種類/8団体で、屋台が通過する道沿いの「露払い」を行っているそうです。(※水沢のみ4団体/他は2団体)

この「厄年連」では、実際に「厄年」になる数年前から、「日高火防祭り」の準備を始め、祭り当日には、数百人程の参加者が、「よさこいソーラン」等の創作舞踊を披露しているようです。


【 はやし屋台 揃い打ち/相打ち 】

「はやし屋台」の「揃い打ち」と「相打ち」は、この「日高火防祭り」のクライマックスと言われています。

まず「揃い打ち」とは、読んで字の如く、9台の「はやし屋台」が、駅前ロータリーに集結し、一斉に「お囃子」を披露します。

その後、場所を移して、その年のメインとなる町の「はやし屋台」が、他の町の8台の「はやし屋台」を待ち構え、相対して各組の「お囃子」を披露し合うのが「相打ち」となります。



その昔、江戸時代は、「はやし屋台」の運行隊列の順番や、「相打ち」のメインとなる「はやし屋台」も固定だったそうですが、現在では、毎年、メインとなる町組は変更されているそうです。

また、「相打ち」では、メイン町組の屋台が、その他の町組の屋台を迎え撃つ形になるのですが、そのために、屋台が回転出来るようになっているそうです。

昔は、人が担いでいたので、回転も簡単だったと思いますが、現在は、台車になっていますし、道が狭いので、台車ごと回転するのは難しいと思います。


それでは、最後に、「日高火防祭り」のスケジュールを紹介したいと思います。

【 前夜祭(4/28) 】
●16:30〜17:00 :稚児行列
●17:00〜17:50 :鹿踊り(伊藤流行山鹿踊保存会)
●17:50〜18:00 :開会式
●18:00〜18:30 :打ち囃子演奏
●18:30〜18:50 :水沢25歳厄除連(1)演技
●18:50〜19:10 :水沢45歳厄年連(1)演技
●19:10〜19:45 :水沢45歳厄年連(2)演技
●19:45〜20:20 :水沢25歳厄除連(2)演技
●20:30〜20:40 :閉会式

【 本祭(4/29) 】
●08:30〜 :年番祭(各組年番長が日高神社にて安全祈願/御札を受け取り屋台に付ける)
●10:40〜 :遥拝式(屋台の各町挨拶回りの後、日高神社に屋台が参拝しお祓いを受ける)
●13:00〜13:30 :合気道演舞
●13:15〜 :屋台練り歩き/途中「佐々木佐五平」の像に拝礼
●13:30〜14:15 :前沢42歳厄年連演技/前沢25歳厄年連演技
●14:15〜15:00 :江刺42歳厄年連演技/江刺25歳厄年連演技
●15:00〜15:30 :鹿踊り(伊藤流行山鹿踊保存会)
●18:55〜 :揃い打ち
●19:45〜 :相打ち
●20:25 :終了
※時間は参考時間です


【 お問い合わせ先 】
●連絡先 :奥州市商業観光課観光物産係
●TEL/FAX :0197-24-2111(内線273) / 0197-51-2373
●メール :メールフォーム(https://www.city.oshu.iwate.jp/mailform/form.rbz?cd=72)


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■羽田火防祭


次は、同じく水沢区ですが、前述の「日高火防祭り」の開催場所からは、北上川を挟んで反対側、JR東北新幹線水沢江刺駅」周辺の「羽田町(はだ-ちょう)」で開催されている「羽田火防祭」を紹介します。

関東の方なら、「羽田(はねだ)」と読んでしまいそうですが、こちらは「はだ」となっています。

この「羽田町」は、岩手県内有数の「鋳物」の産地として有名です。

古くは、平安時代後期、奥州藤原氏の初代当主「藤原 清衡」が、近江国から、自身の住居があった江刺の「豊田館(とよだ-の-たち)」に招いた鋳物師の技が伝わったとされています。


その後、藤原氏が平泉に居を移すと、鋳物師達も、一緒に平泉に移り住み、平泉にて寺社が必要とする鋳物を作っていた事が明らかになっています。

そして、藤原氏の滅亡後、室町時代には、京都の「聖護院」から、地元の「千葉家」に養子に入った「長田 正頼」と言う人物が、「羽田町」に定住して鋳造業を開始したのが始まりとされているようです。

この「羽田町」は、町の背後にある「北上山地」から良質の「砂鉄」が取れると共に、鋳物を作る際の燃料となる「木材」も豊富に取れたので、自然と「鋳造業」が栄えたようです。

この「千葉家」は、後に、奥州総奉行の「葛西氏」に召し抱えられますし、更に戦国時代、江戸時代を通して、「伊達氏」の庇護を受け、幕末には「大砲」までも作成していたそうです。

ちなみに、現在では、この「羽田町」の鋳物も「南部鉄器」と呼ばれていますが、元々、この地域は、前述の通り「伊達藩」の領地でしたので、本当は「南部鉄器」ではありません。

戦後となる昭和三十四年(1959年)に、県内の鋳物業者の組織が統一されたのを機に、現在では、「南部鉄器」として、岩手県内の鋳物を統一して呼称するようになったようです。


盛岡市の鋳物 :南部藩由来の鋳物なので「南部鉄器」
奥州市の鋳物 :岩手県の南側で作成した鋳物なので「南部鉄器」




さて、このような歴史のある「羽田町」でも、毎年3月下旬、最終日曜日に「火防祭り」が開催されています。

前述の「日高火防祭り」に比べれば、歴史はかなり浅く、昭和二年(1927年)に、羽田町で11件を焼失する火災が発生した事を機に、翌年となる昭和三年から始まった祭りと言われているそうです。

この「羽田火防祭り」の特徴は、前述の通り、「鋳物の町」と言うことで、屋台が「鋳物」で出来ている事と、「木遣り音頭」なのだそうです。

本章最初の画像が、長さ6m、幅3m、高さ4mにもなる「鋳物屋台」で、屋台自体の重さ4トンに、子供やお囃子を載せて、さらに4トン、合わせて8トンの屋台を人力で引いて巡行するそうです。

屋根、欄干、雪洞、そして彫り物まで鋳物で作られているのだそうです。

「日高火防祭り」は、既に人力は止めて台車(自動車)になっていますが、こちらは、いまでも人力なので、かなり大変そうです。

それと、「羽田火防祭り」では、前述の「日高火防祭り」では参加できない「33歳厄年連」があり、この33歳厄年連が、主役として、屋台の引き手となっているそうです。

また、屋台で演奏されるお囃子は「羽田剣ばやし」と言うのだそうです。


とは言え、こちらの「火防祭り」では、屋台が1台しかないので、とても地味な祭りとなっており、その分だけ、地元の子供達を参加させたり、歌謡ショーを開催したりと、他のイベントで、祭りを盛り上げているようです。

左の画像は、「鋳物太鼓」と呼ばれ、重さ100kgにもなる、鋳物で作った太鼓だそうです。

「火防祭り」の歴史は100年もありませんが、「鋳物」の歴史は900年位あるようです。

最後に、去年の「羽田火防祭り」の内容を、タイム・スケジュールとして紹介しますが、何と去年は、歌謡ショーに「八代亜紀」が出演したようです。

【 祭りのタイム・スケジュール 】

●09:00〜09:30 :開会セレモニー/25歳厄年連「樽みこし」町内巡行
●09:30〜09:45 :羽田幼稚園の園児による防火パレード
●09:45〜10:00 :羽田小学校の生徒によるバンドパレード
●10:00〜 :鋳物屋台巡行/羽田町剣ばやし
●10:30〜 :鋳物太鼓披露
●11:00〜 :羽田ふるさと音頭
●12:15〜 :福まき(餅まき)
●12:30〜 :消防団纏(まとい)振り
●12:45〜 :鋳物屋台巡行/羽田町剣ばやし
●14:00〜 :歌謡ショー
●15:00〜 :厄年連演舞
●16:15〜 :餅まき


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■金ケ崎火防祭


さて、次は、徐々に、地味度を増して来ますが、「胆沢郡金ケ崎町」で開催される「金ケ崎町火防祭(かぼうさい)」を紹介します。

これまでは「ひぶせまつり」だったのですが、ここ金ケ崎町の祭りは「かぼうさい」と呼んでいるようです。

「金ケ崎町」は、先に紹介した奥州市の北側に隣接し、かつ次に紹介する北上市の南側に隣接しているので、ちょうど両市に挟まれた、岩手県の南西部に位置しています。

奥州市北上市に挟まれた「町」なので、平成の大合併の時に、どちらかの市、恐らく北上市に合併されるのかと思っていたのですが、どちらにも組みせず、独自路線を選択したようです。

それは何故かと言うと・・・実はこの「金ケ崎町」は、県内で最大の工業団地を保有しており、かつ工業団地には、トヨタ自動車が進出したお陰で、関東自動車デンソー等、トヨタ関連企業も進出しています。

このため、他の自治体と合併して生き残りを図る必要もなく、独自路線で、悠々自適に自治を行える状況となっているようです。


さて、この「金ケ崎町火防祭」は、明治32年(1899年)に発生した大火を教訓に、昭和3年(1928年)から始まった祭りと伝わっているそうです。


その後、昭和7年(1932年)からは、前述の「日高火防祭り」を参考にして、市内の「町上」、「町下」、「南町」、「矢来」、「栄町」、そして「諏訪小路」の各地区で「はやし屋台」の巡行を開始したようです。

しかし、理由は定かではありませんが、昭和38年(1963年)に、「はやし屋台」の運行が一時途絶えてしまったそうです。(※一説では昭和四十年に中止)

そして、平成に入り、一度、「はやし屋台」が復活したのですが、やはり少子高齢化と参加者不足の影響で、平成11年(1999年)で屋台の運行を終了し、それ以降は、「金ヶ崎神社」から出発する「稚児行列」と「神輿巡幸」のみが行われていたそうです。

その後、「生涯教育の町」宣言30年の節目を迎える事もあり、平成20年(2008年)から、記念事業の一環として「はやし屋台」を復活させるべく関係各機関で準備/調整を行い、翌21年(2009年)に、10年振りに「はやし屋台」の運行を復活させたようです。


運行する「はやし屋台」は、もはや運行できる屋台が、「町下自治会」の屋台1台しか存在しないため、1年を掛けて、この屋台の修理や再塗装を行い、運行にこぎ着けたそうです。

平成21年以降は、隔年で「はやし屋台」を運行し、昨年、平成27年(2016年)で、復活後4回目の運行となったようです。

という事で、今年(平成29年)は、残念ながら、「はやし屋台」の運行は見られないようですが・・・

そのため今年は、「金ケ崎神社」から出発する「稚児行列」を先頭に、「樽神輿」、「手踊り」、「厄年連の演舞」などが、2Kmに渡って町内を練り歩くようです。



「金ケ崎神社」は、「前九年の役」の折り、「源 頼義」が、戦勝祈願のために信州「諏訪大社」を勧請したのが始まりとされる歴史ある神社です。

このため、創建当初は「諏訪神社」と呼ばれており、「源 頼義」も、ここに陣を張っていたそうです。

その後、境内には「金竜寺」と言う寺院も建立され、別当は、修験道の道場である「羯摩院(かつまいん)」が務めると言う、神仏混淆の寺社だったようですが・・・例の如く、明治の神仏分離令で「金ヶ崎神社」と言う神社になってしまったそうです。

江戸時代には、本ブログに、何度も登場している当時の旅行家/随筆家「菅江真澄」も、この「諏訪神社」を訪れ、境内からの眺めの美しさに感動し、「諏訪八景」と呼ばれている8個の歌を詠んだそうです。

★過去ブログ: ナニャドヤラ 〜 北東北人はユダヤ人 ?
http://msystm.co.jp/blog/20161119.html

ちなみに、神社なので、当然(後付の)御祭神は居ますが、以前から本尊として「不動明王」が祀られ、現在でも「お不動さん」として、地元の信仰を集めているそうです。

現在の、神社は、江戸時代の寛保元年(1741年)に建立されたものと伝わっており、金ケ崎町では、最古の建築物なのだそうです。



話を「金ケ崎町火防祭」に戻しますが、この祭りは、毎年、4月の第3日曜日に開催されているようですが、この時期、金ヶ崎町では、同時に「桜まつり」も開催されているようです。

まあ、「火防祭」だけでは寂しすぎるので、様々なイベントを同時開催しているのかもしれません。

前述の「羽田火防祭り」と同様、別の日ですが、歌謡ショーなども開催されるようですが・・・残念ながら、こちらの歌手の方は、全く知りません。





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■黒沢尻火防祭


次は、北上市の黒沢尻地区で開催されている「黒沢尻火防祭」を紹介します。

このお祭りは、画像を見ても解ると思いますが、これまで紹介してきた「火防祭」とは異なります。

こちらは、「屋台」ではなく、「山車(だし)」が巡行します。

それは何故かと言いますと、これまで紹介してきた「火防祭」は、江戸時代の「伊達領」での祭りになりますが、ここ「黒沢尻火防祭」は、「南部領」の祭りとなります。

この「黒沢尻火防祭」は、本当の名前は「諏訪神社/末社秋葉神社火防祭」です。何とも、面倒臭い名前ですが、詳しく説明すると、次の通りです。

北上市」自体、「昭和の大合併」で誕生した新しい自治体で、その誕生までは、紆余曲折があります。


元々、この北上市の近辺は、「和賀氏」と言う地方大名が治めていた地域でしたが、南北朝時代以降、一族や有力家臣(「黒沢尻」氏)との争いが絶えず、そこに付近の戦国大名(葛西氏/大崎氏)も争いに加担し、グチャグチャの状態になってしまったようです。

その争いに、戦国時代の末期、「南部氏」と「伊達氏」が加わった事で、これら地方大名(国人)達が、「南部氏」と「伊達氏」の双方に別れ、最終的には、「南部氏」対「伊達氏」の争いとなって行きます。(※和賀の大乱)

このような状態の時に、「豊臣秀吉」の「小田原城攻撃」が始まったのですが、「南部氏」側は、即座に「小田原の陣」に参陣したのですが、「伊達氏」に付いた「和賀氏」、「葛西氏」、「大崎氏」等は参陣せず、後の「奥州仕置」や数々の「一揆」の失敗などで滅亡して行きます。

最後に、「徳川家康」が「会津征伐」に向けて出発した際に、「和賀・伊達連合軍」が、南部領花巻城を攻撃した「岩崎の一揆」で敗北したの最後に、この地域は「南部領」に落ち着く事となったのです。

ちなみに、この「岩崎の一揆」を起こす前、「伊達政宗」は、「徳川家康」から「伊達藩に百万石を与える」という「お墨付き」を得ていたそうですが、この一揆を背後で操ったのが「伊達政宗」と言う事がバレ、この「お墨付き」は反故にされてしまったようです。

と言う事で、この地域は、「南部藩」と「伊達藩」のちょうど「境界」となった地域になります。

そして、「黒沢尻」地域は、江戸時代には、北上川の海運拠点となり、また宿場町にもなったので非常に栄え、宿屋や飲食店等、数多くの施設があったそうです。

明治時代以降は、「黒沢尻村」を核として、様々な「村」の統廃合が繰り返され、昭和29年に、「黒沢尻町」と、周辺の6村が合併して「北上市」が誕生し、翌30年にも、和賀郡や江刺郡の一部が「北上市」に合併され、さらに平成3年には、「旧・北上市」と和賀町江釣子村が合併し、現在の「北上市」となっています。




現在の「黒沢尻町」は、JR北上駅の北側に位置する地区なのですが、前述の通り、最初の「北上市」が誕生した時の「核」となる町であり、かつ現在も「北上市」の中心地域となっている関係で、「北上市」の中心地域を「黒沢尻」と呼ぶ人が多いようです。

つまり、その昔、「北上市」と言う自治体/住所は存在せず、この付近一帯は、「黒沢尻」と呼ばれていました。

そして、「諏訪神社」ですが、その創建は古く、社伝では、平安時代初期、大同二年(807年)、「坂上田村麻呂」の東征の折りに、戦勝祈願、および当地の発展祈願のため、信州「諏訪大社」の御祭神「建御名方神(たけみなかたのかみ)」を勧請したのが始まりとされています。


元々は、現在の「幸町」と言う場所に鎮座していたそうですが、享保十九年(1734年)、南部氏二十九代当主「南部 重信」から、現在の場所(北上市諏訪町)に社領を賜った事から、遷座して現在に至るそうです。

ちなみに、「諏訪町」は、「幸町」のすぐ隣の町です。また、現在の「黒沢尻町」は、JR東北線/東北新幹線の線路を挟んで反対側になります。

その後、何時からなのかは解りませんが、「諏訪神社」の境内末社に「秋葉神社」が合祀され、この「秋葉神社」の「火防祭神幸祭」が、本章で紹介している「黒沢尻火防祭」となります。



さて、肝心の「黒沢尻火防祭」ですが、この地区は、前述の通り、海運業や宿場町として栄え、狭い場所に数多くの飲食店や芝居小屋等も建てられ、多くの建物が軒を連ねていた事から、春になって火災が発生すると、直ぐに「大火」になってしまったそうです。

そこで、前述の通り、何時の頃からかは全く解らなかったのですが(恐らくは戦後 ?)、この諏訪神社の境内末社となる「秋葉神社」の「火防祭神幸祭」として、毎年、4月の最終土曜日に、「黒沢尻火防祭」が開催されるようになったようです。

その昔、この地域が賑わっていた頃は、10台以上の「山車」が、その豪華さを競って、街中を巡行していたと伝わっていますが、現在では、最大でも4台の「山車」のみとなってしまったです。


北上市は、市政を「行政区」と呼ばれる単位で行っており、現在、125個の行政区があるそうです。そして、黒沢尻地区には、27個の行政区があるようですが、その内、「山車」を出しているのは、次の4つの行政区だけとなっているようです。



・三区 :2年出して1回休み
・六区 :3年に1回
・七区 :毎年
・十二区 :毎年(※本章最初の画像の山車)

さらに、何とも悲しいのは、まれに、独自の「演目」を作成する事もあるらしいのですが、これらの「山車」は、通常、「盛岡八幡宮例大祭」で使用された「山車」を貸してもらっている、との事です。


一説では、「南部風流山車」1台当り、「演目」を独自に作成するには、200万円の費用が掛かると言われていますので、借り上げになるのも、致し方無いのかもしれません。

左の画像は、六区が、珍しく独自に作った「山車」なのですが・・・なんか小さくて、小じんまりとした「山車」になってしまっています。

「山車」の巡行は、祭りの「宵山」となる土曜日から開始され、「本祭」となる翌日の午後4時頃まで巡行するようです。



それと、この時期、北上市は「花見」一色になります。

北上市には、過去ブログでも紹介しましたが、「展勝地」と言う桜の名所があります。

この場所は、「日本さくら名所100選」とか「みちのく三大桜名所」にも選ばれる程の花見の名所です。

★過去ブログ:盛岡の花見の名所


この「黒沢尻火防祭」も、ちょうど、この「北上展勝地さくらまつり」の開催期間中(4/10〜5/5)に開催されるので、コラボしたイベントも開催されています。

そして、そのコラボ・イベントは・・・何故か「おいらん道中」です。

何故「おいらん道中」なのかは解りませんが、この「さくらまつり」における「おいらん道中」、正式名称は「黒沢尻歌舞伎さくら道中」と言うらしいのですが、地元の歌舞伎保存会「黒沢尻歌舞伎保存会」が行っているイベントです。

このイベントは、平成14年(2002年)から開催され始め、去年の平成28年(2016年)で、14回目となる恒例イベントなのだそうです。(※除く2011年開催)



「黒沢尻」地域は、前述の通り、その昔は、かなりの賑わいを見せており、江戸時代から昭和初期頃までは、宿場町、そして海運業の町として「芝居小屋」等の文化施設もかなりあったようです。

その中でも、明治45年(1912年)には、木造二階建て、客席が800席もある芝居小屋「寿座」が建てられ、歌舞伎、浪曲、映画などが催されていたそうです。

そして、この「寿座」では、「旦那芝居」、「娘歌舞伎」、「芸者歌舞伎」等の演目で村歌舞伎が演じられていたそうですが、これが「黒沢尻歌舞伎」と呼ばれ人気を博したそうです。

「寿座」は、和風の芝居小屋からモルタル建築に、内装も歌舞伎全盛時の花道が撤去され映画館へと、何度も改装が繰り返されて、何とか昭和63年(1988年)まで存続したそうですが、同年閉館、そして、平成9年(1997年)には、取り壊されてしまったそうです。

しかし、地元では、村歌舞伎の伝承を目的に、昭和55年(1980年)、「黒沢尻歌舞伎保存会」を発足し、地元高校の演劇部の生徒達と一緒に、地元や他府県等にも出向き、活動を続けているそうです。


ちなみに、先の「おいらん道中」の「花魁」ですが、パット見、とても綺麗で色っぽい女性に見えますが・・・全て男性で、地元の中学生、高校生、さらには公務員の方などが演じているそうです。

まあ、「歌舞伎」と銘打っていますので、歌舞伎の「女型」は、全て男性ですから、当然といえば当然かもです。

それに、この「花魁」の衣装、全部で20Kgを超える重量があり、「高下駄」の高さは25cm、これだけで3Kgもあるそうですし、「道中」の距離は「3Km」もあるので、本当の女性では、この格好で歩くのは無理かもしれません。

最後に、去年の観光パンフレットを掲載しておきます。去年は、「山車」は、3台が参加したようです。


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今回、下記の「火防祭」を紹介してきましたが、如何でしたか ?

●日高火防祭り
●羽田火防祭
●金ケ崎火防祭
●黒沢尻火防祭


しかし、今回紹介した「火防祭」は、ほんの一部で、岩手県内では、北から順に、次のような「火防祭」が開催されています。

自治 火防祭 関連寺社
花巻市 北笹間火防祭 天満宮神社
幸田地区火防祭
北上市 更木火防祭 永昌寺
二子火防祭 秋葉神社
二子町川端火防祭 秋葉山神社
小鳥崎火防祭 弁財天神社
江釣子火防祭 江釣子神社
藤根火防祭 稲葉神社
藤沢火防祭
伊勢神社火防祭 伊勢神社
奥州市 江刺甚句まつり(旧・岩谷堂火防祭) 秋葉神社


今回は、開催規模が大きめの「火防祭」を紹介しましたが、上記「江差甚句祭り」も、後で調べたら、結構大規模な祭りだったようです。機会があれば、紹介したいと思います。


また、本ブログの最初で、「旧・伊達領なので火防祭が盛ん」と紹介しましたが、いやいや、こうして見ると、「旧・南部領」でも、「火防祭」が盛んに行われていた事が解りました。

しかし、その場所は、「伊達領」との境界が圧倒的に多いので、やはり「伊達領」で行われていた「火防祭」の影響が強いのだと思います。

それでも、祭りのメインが、「屋台」と「山車」と言う違いがありますし、また、どちらの祭りでも演じられる事が多い「鹿(しし)踊り」も、踊りの名前自体は同じですが、「伊達領」と「南部領」とでは、見た目も踊り方も全く異なります。









南部藩」と「伊達藩」、祭りも踊りも、お互いに、似たような事を行っているのですが、戦国時代から江戸時代初期頃までは、とても仲が悪かったので、お互いを意識しつつも、その内容は全く異なる形にしたのかもしれません。

まさに、意地とプライドのぶつかり合い、みたいな感じですが、それでも、幕末には、「奥羽越列藩同盟(おううえつ-れっぱん-どうめい)」として、同じ仲間として、新政府軍と一緒に戦っています。

また、「3.11 東日本大震災」では、どちらも甚大な被害を受けてしまっていますので、今後も、両県で一緒に頑張って行ければと思ってしまいました。


ちなみに、私は、ご存知の通り、旧・南部領「盛岡市」の出身ですが、「鹿踊り」と言えば、上記、左側の「旧:伊達領」の「鹿踊り」しか知りませんでした。

右側の「鹿踊り」は、「遠野市」近辺で演じられる事が多い「鹿踊り」ですが・・・あくまでも個人的な意見ですが、見た目は、左側の方がカッコイイような感じがします。


それでは次回も宜しくお願いします。


【画像・情報提供先】
Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)
・公益財団法人岩手県観光協会(http://www.iwatetabi.jp/)
奥州市観光情報サイト(https://www.city.oshu.iwate.jp/kanko/)
・ウチノメ屋敷(http://www.uchinome.jp/index.html)
・金ケ崎観光協会ブログ(http://blog.livedoor.jp/kanko_kanegasaki2010/)
・芝居小屋の現在(http://www003.upp.so-net.ne.jp/jyoururi/index.html)
・北上観光コンベンション協会(http://sakura.kitakami-kanko.jp/index.html)
・すてきなおまつり(http://sutekinaomaturi.fc2web.com/index.html)



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