岩手県内における金勢信仰 〜 何でこんなに沢山あるの ? Vol.3

岩手県内における金勢信仰 〜 何でこんなに沢山あるの ? Vol.3

今回の岩手・盛岡情報は、前回に引き続き、「金勢神社」を紹介するシリーズのパート3となります。


★過去ブログ:
岩手県内における金勢信仰 Vol.1
岩手県内における金勢信仰 Vol.2


前回は、盛岡市にある、下記6箇所の「金勢様」に関係する施設と、奇祭「あわしま・こんせい祭り」を紹介しました。


・巻堀神社
淡島明神
・智和伎神社
・盛岡八幡宮/金勢神社
・櫻山神社
・芋田産土神


日本における「金勢信仰」の起源とされる「巻堀神社」や、住所自体が「金勢一丁目」となっている「澤田の金勢様」こと「智和伎神社」等の情報を紹介してきました。


また、現在は、それぞれ別の場所に祀られていますが、江戸時代には、盛岡城内に存在した下記3つの神社の情報も合わせて紹介しました。


・盛岡八幡宮(旧:鳩森八幡神社)
・櫻山神社
・榊山稲荷神社(現:もりおか かいうん神社)


どれも、これも一曲ありそうな神社ばかりでしたが、紹介している私も、面白い情報ばかりでした。

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と言う事で、今回の第三弾では、盛岡市の隣に位置する「紫波町」、それと、何故か三陸海岸側には少ない「金勢様」ですが、その中でも「宮古市」の「金勢様」、それと、三陸海岸とは対照的に、「金勢様」の宝庫のような「遠野市」に関して、一部の「金勢様」関連の情報を紹介したいと思います。

自治 中項番 内容 信仰対象 過去
宮古市 13 日影の沢・金勢社 金勢様
紫波町 14 走湯神社 金勢様
15 新山金勢神社 金勢様
遠野市 16 山崎の金勢神社 金勢様
17 伝承園の金勢様 男根/女陰
18 たかむろ水光園の金勢様 金勢様
19 ふるさと村の金勢様 金勢様
20 春風祭り 虫追い

遠野市の「金勢様」は、余りに数が多く、1回では紹介しきれないので、複数回に分割させて頂きます。


遠野市に関しては、今回、4つの情報を紹介しますが、その他にも、下記のような「金勢様」がいらっしゃいます。


1.綾織の駒形神社オコマ
2.程洞の金勢明神
3.多賀神社
4.遠野土淵金精神
5.熊野神社
6.早池峰神社


次回、第四弾で、遠野市の全情報を紹介できれば、と思っています。


それと、先も触れた三陸地方ですが・・・何故か、全くと言って良い程、「金勢神社」がありません。


まあ、三陸地方は、当然ながら漁業で生計を立てている方が多いので、卯子酉神社や住吉神社、等、「海」、「水産業」等にまつわる神様が多いとは思います。


特に、三陸海岸と言えば、過去ブログでも紹介した三陸海岸北部、普代村にある「鵜鳥(うねどり)さま」と呼ばれて信仰されている「卯子酉神社」が有名ですので、これら「漁業」関連の神社を祀るのは解りますが・・・・


しかし、「子宝」も大事だと思いますので、何故、三陸地方に「金勢神社」が存在しないのかも、時間があれば調べたいと思います。


それでは今回も宜しくお願いします。

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■日影の沢・金勢社


今回の最初の「金勢様」は、私が調べた限り、三陸地方にある唯一の「金勢神社」となる、「日影の沢・金勢社」を紹介します。


この「金勢神社」は、宮古市の中心部からも近い、「宮古市鍬ヶ崎下町(くわがさき-しもまち)」と言う場所にあります。


地元では、「こんせえさま」、「こうせえさま」、あるいは「こーせーさま」等と呼ばれ、「鍬ヶ崎」が遊里として賑わった江戸時代末期に、芸者やお女郎が、商売繁盛のため信仰したとされています。


この「金勢社」に付いている「日影の沢」と言う呼び名ですが、現在の「日影町」から、「愛宕町」の「本照寺〜梅翁寺」間にあり、その昔「夏保峠」と呼ばれた沢を、「日影沢」と呼んでいたようで、その途中にある「金勢神社」である事から「日影の沢・金勢社」と呼ばれているようです。


ちょうど、この「金勢社」に向かって右側に、現在でも、小さな沢が流れています。


上の画像でも分かる通り、この「金勢社」の下には、樹齢300年と伝わる欅 (けやき)があり、これが「御神木」となっているそうです。


しかし、何か、変な配置になっています。


この右の画像を見ると良く分かると思いますが、階段が「参道」になっていますが、「参道」の先が「金勢社」拝殿の正面になっていません。


ちょうど、「御神木」の裏が、「拝殿」の正面になっており、参道からは微妙にズレています。


「金勢社」自体は、江戸時代後期の天保十三年(1842年)に、御祭神を「金木彦命・金勢大明神」にした事が、神社に残されている棟札に記載されていたそうですが、この棟札が、神社創建時の物なのか、あるいは修復時の物かは明らかになっていないようです。


しかし、少なくても「天保十三年(1842年)」と言えば、今から170年位前には、この場所に「金勢社」が存在した訳ですが、御神木は、樹齢300年と言われているので、神社の創建以前から、ここに欅の木があったことになります。


そうなると、欅の巨木があった場所を「神の宿る場所」として、欅の直ぐそばに「金勢社」を創建したのではないかと思われます。


ちなみに、欅の木の根元にある小さな祠には、石の金勢様が祀られているようです。


それと、棟札に記載されている「金木彦命」と言う神様について調べてみましたが、結局、何の神様なのか解りませんでした。


「金山彦」であれば、別名「金屋子神(かなやごかみ/かなやこかみ)」と呼ばれている「鍛冶屋の神様」となるのですが・・・昔の宮古地域では、「金勢様」を「金木彦命」と呼んだのかもしれません。

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それと、この「金勢社」の御神体ですが・・・どうも、はっきりしないみたいです。


「金勢神社」なので、普通の場合、「御神体」は、木製、金属製、あるいは自然石の「男根」になります。


このため、ある説では「御神体は1m位の高さとなる木製で朱塗りの男根」と伝わっており、事実、「金勢社」の拝殿内部を写した左の画像には、それらしき物が祀られているようです。


一方、それとは別の説では、「御神体」は「吉祥天の様な女神像」とも伝わっているようです。


「はあ、金勢神社の御神体が女神像 !?」と思われる方も多いと思います。


しかし、本殿の奥を写した右の画像では、御神鏡の後ろ、中央部分には、確かに「女神」が祀られています。


まあ、「女神像」の周りには、多くの「男根」も祀られてはいますが、この配置関係からすると、確かに「御神体」は、「女神」になると思います。


それでは、この「女神は、一体、誰なの ?」となりますが・・・さっぱり解りませんでした。

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江戸時代末期から昭和初期まで、この付近に遊郭等があり賑わっていた頃は、豊穣と繁栄を意味する男根が数多く奉納され、その数は1,000本を越え、多い時では2,000本も超えた事が社記に伝えられているようですが、多くは戦時中に焼き捨てられてしまい、現在では、50本程が残っている、との事らしいです。


江戸時代には、南部藩の港として栄え、明治〜昭和初期は、この鍬ヶ崎の港が、宮古港として、かなりの賑わいとなり遊郭の数は、東日本では、江戸の吉原と並び称される程だったようです。


そして、この「金勢社」も、これまでも何度も紹介していますが、明治時代の「廃仏毀釈」の影響を受け、御祭神を「伊邪那美命」、神社名を「天の瓊矛(ぬぼこ)神社」に、変更させられてしまったようです。


「天の瓊矛(ぬぼこ)」と云うのは、前回紹介した「国生み」神話で、「伊邪那美命/伊邪那美」が日本を造る際に使った「天の沼矛」の事です。

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この「金勢社」に伝わる話としては、次のような話があるそうです。


宮古市内から奉納された巨大な御神体があり、これが境内に野ざらしになっていた。

これを見かねたある老婆が、雨風で腐らないようにとビニールシートをかけてそれをロープで固定した。

数日後、老婆は体調を崩して寝込んでしまい、病院通いをしたが回復せず、イタコに診てもらったところ「御神体が縄をかけられ苦しんでいる」との託宣がでた。

老婆はあわてて金勢社の御神体のロープを解いたところ、体調も回復したという。以来、その巨大な御神体は社内に安置されている。

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一方、この「金勢社」に関しては、同じ宮古市内の「熊野町」にある、「熊野神社」が、「対をなす」神社となっているようです。


熊野神社」、こちらの神社の歴史は、さらに古く、創建は、戦国時代の天文八年(1539年)と伝わっているそうです。


何故、「対をなす」のかと言えば、こちらの御祭神が「伊邪那美命」となっているからとのことですが・・・


「金勢社」の御祭神が「伊邪那美命」になったのは、前述の通り、明治期の「大教宣布の詔」の影響を受けての事だと思いますので、「対をなす」と云うのは、「コジツケ」のような感じがします。


ちなみに、この「熊野神社」は、三陸地方では、例大祭の時に「海上渡御」を行う神社として、かなり有名な神社です。


また、漁師の方達に、古くから信仰されており、今でも例大祭は、結構な人だかりとなります。


他方、肝心の「金勢社」ですが、こちらは遊郭が無くなってしまってからの人気は衰える一方で、現在では、本当に地元の有志の手で、細々と信仰が続いている程度のようです。


しかし、毎年、旧暦の5月15日には、例大祭が行われているようです。


そして、例大祭が梅雨時に行われている影響だと思うのですが、「例大祭の時には必ずお湿り(雨)が降る」と言われているそうです。

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走湯神社


さて二番目は、三陸海岸から、一気に内陸部に入り、盛岡市の隣、南側に位置する「紫波町」にある、「走湯神社」を紹介します。


この「走湯神社」は、国道4号線から少しずれた場所にあり、元々は、鎌倉時代にあった古刹「高水寺」の鎮守社として、文治五年(1189年)に、「源 頼朝」によって勧請された神社と言われています。


場所的には、前述の通り、国道4号線北上川の中間、「高水寺」跡、および「高水寺城」跡の北西に位置しています。


この「走湯神社」に関しては、有名な「吾妻鑑」にも登場します。


神社の案内板によると、「吾妻鑑」には、次のように記載されているそうです。


『 今日(頼朝は)陣岡を発たれた。今まですでに7日間、ここに逗留された。ところで高水寺の鎮守は(伊豆の)走湯(そうとう)権現を勧請したものであるが、その傍にもまた小さな社があり大道祖といった。これは(藤原)清衡が勧請したものである。この社の後ろに大きな槻(つき)の木があった。二品(源頼朝)はこの樹の下に立つと、走湯権現に奉納すると称して、上矢(うわや)の鏑(かぶら)二つを射立てられた。 』


しかし、この説明を素直に読むと、「走湯権現」を勧請したのは、「藤原清衡」となっており、「源 頼朝」ではありません。


「源 頼朝」は、既に存在した「走湯権現」を訪れ、権現様に奉納するために、鏑矢を二本放ったとなりますので、前述の「源 頼朝が、走湯権現を勧請した」と言う由緒は間違いだと思います。


さて、この「走湯神社」は、由緒の説明の通り、かつては「走湯権現」や「大槻観音」とも呼ばれており、境内社には、「諏訪神社」、「八坂神社」、「天満宮」、「八幡宮」、「菊池稲荷神社」、「道祖神」など、沢山の神様がいらっしゃいます。また、合祀社として「愛宕神社」も存在します。


また、御祭神は、「天忍穂耳命(あめの-おしほみみ-の-みこと)」と言い、「天照大神(あまてらす-おおかみ)」の長男と言われています。


天孫降臨」で、地上に降り立った「瓊々杵命(ににぎ-の-みこと)」の父親になります。本当は、この「天忍穂耳命」が、「天照大神」から、地上を治めるように命じられたそうですが、「地上は、まだ危険」という事で、途中で逃げ帰ったと伝わっています。


しかし、まあ、この御祭神も、江戸時代末期の「太政官布告(※通称「神仏分離令」)」、および明治の「大教宣布の詔」により、「走湯権現」から、強制的に変更させられたと言われています。

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ところで、肝心の「金勢様」ですが・・・神社の拝殿の回廊には、左の画像のような立派な物が祀られている事は解っています。


しかし、その由緒は、全く解らないようです。済みません。


これほど歴史ある神社で、由緒/起源も明らかであるにも関わらず、この「金勢様」に関しては、何も説明が無いと言うことは、何かの理由により、意図的に、隠しているのではないかとも思われますが・・・


何かの機会に、「金勢様」の由来が分かれば、紹介したいと思います。

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さて、この「走湯神社」には、前述の通り、「槻(けやき)の大樹」があったと伝わっていますが、実は、現在でも存在します。


この大樹は、「矢立の槻(つき)」と呼ばれていますが、「槻(つき)」とは、「欅(けやき)」の古名です。つまり、「槻」と「欅」は同じ樹木と言うことです。


何時を基準にしているのかは解りませんが、樹齢1,000年、周囲6.5mの大木と言われており町の指定天然記念物になっています。

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あと、また話は逸れますが、この「走湯神社」には、「トイレの神様」が居る、と言うことで、以前、話題になったことがあったようです。


左の画像の石碑には、「烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)」と刻まれており、この明王は、天台宗における「五大明王」の一尊とされています。


烏枢沙摩明王」は、天界の中の「炎の世界」に住み、聖なる炎で、人間の煩悩や不浄を焼き尽くす明王とされています。


この「不浄」を焼き尽くすと言う功徳のため、「トイレの神様」とされ、古くから便所に祀られてきた謂れがあるそうです。


ちなみに、この石碑は「天保三年(1832年)」の建立とされていますが、この年は、南部藩に於ける「四大飢饉」の期間にあたるので、「トイレの神様」ではなく、飢饉の死者を供養するためとする説が正しいようです。


走湯神社」に関しては、いまいち、「金精様」の情報が乏しくて済みませんでした。

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■新山金勢神社


次も紫波町にある「金精様」を紹介します。


こちらは、紫波町土館和山と言う場所にある神社「新山(にいやま)神社」の境内末社になります。


まずは「新山神社」ですが、こちらも創建は古く、神社の社記によると、平安時代初期の大同二年(807年)、征夷大将軍坂上田村麻呂」が、蝦夷攻撃の折に「新山(しんざん)権現」を勧請した神社と伝わっています。


その後は、次の様な出来事を経て、現在に至っているそうです。また、現在の神社は、社記によると、昭和期に「新山」の麓に、「里宮」として建立されたものと言うことです。

康平五年(1062年) 前九年の役に際し、「源 頼義/義家」親子が参拝
天仁二年(1109年) 鎮守府将軍「藤原 清衡」が「新山寺」を建立、18箇所の宿坊も建立、その後、火災で消失
文治五年(1189年) 「源 頼朝」が陣ヶ岡に布陣した時に寺領を寄進
南北朝時代 「斯波 家長」が権現宿坊稲荷山源勝寺を建立し厚く崇敬、斯波氏の菩提寺となる
江戸時代 南部氏、寺領百二十石を寄進
明治三年(1870年) 「大教宣布の詔」の影響で「新山神社」に改称
昭和十年(1935年) 地元の方が土地を寄進し里宮を建立



やはり、ここでも明治期の「大教宣布の詔」の影響で、強制的に神社名を改称させられると共に、おそらく御祭神も強制的に変えられたのだと思います。


ちなみに、現在の御祭神は「倉稲魂命(うがの-みたまの-みこと)」となっていますが、これは「日本書紀」バージョンの漢字で、「古事記」バージョンでは、「宇迦之御魂神(うかの-みたまの-かみ)」となります。


この神様は、穀物/食物の神様で、女神と伝えられています。


また、「伏見稲荷大社」の主祭神としても有名です。つまり、「豊受大御神」とも習合して信仰される神様です。


一方、オリジナルの御祭神「新山権現」ですが・・・こちらは正体不明な神様で、どのような神様なのか解らないようです。


一説では、「羽黒権現」とも「早池峰権現」と言われ、その本体は、この地方で古くから祀られている「瀬織津姫命(せおりつひめ-の-みこと)」ではないかとも言われています。


確かに、岩手県内には、この場所の他にも多くの「新山神社」と言う名称の神社があり、その多くの御祭神が「瀬織津姫命」となっている事を考えれば、納得が行く説明なのかもしれません。

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さて肝心の「金勢神社」ですが・・・


こちらの「金勢様」も、いつ、何のために、誰が建立したのか等、一切解りませんでした。


ただ、そこにあり、「金勢様」が多数祀られているいる事だけは確かです。


また、この「新山神社」自体、歴史も古く、前述の様に、江戸時代には、南部氏盛岡藩からも手厚い保護を受け、岩手山早池峰山姫神山と並ぶ、4鎮守社として祀ってきたので、こちらの「金勢神社」自体にも、ちゃんとした由来があるのだとは思います。


氏子の方の話によると、この「金勢神社」に祀られている物の他にも、箱の中には、大量の「金勢様」が保管されている、との事です。


「新山神社」自体は、神社庁にも登録され、ちゃんと宮司も存在しており、由緒も、それなりに伝わっているにもかかわらず、「金勢神社」の記録が無いのは、何か変な感じがします。

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この「新山寺」に関しては、予算が付かない影響なのか、未だに本格的な調査が行われていないようです。


まあ、火災で全てが消失してしまったのは痛手ですが、それでも、その昔「新山権現」に奉納された遺物として、左の様な「厨子聖観音菩薩立像」等も発見されています。


その他にも、「奥宮」の近くからは、神鏡や掛仏等も発掘されており、岩手県指定文化財にもなっているとの事です。


前述の通り、奥州藤原氏の時代(平安末期)には、この「新山寺」の「里宮」から「奥宮」に至る参道付近には、18箇所もの宿坊が建立され、「東北の高野山」とも称されていたそうです。


さらに、「出羽三山」との関係も深く、わざわざ出羽山から、僧兵が派遣されて駐留していた事も明らかになっているそうです。


今後、予算が付いて、より詳しい調査が行われる事を期待します。その時には、「金勢神社」に関しても、調査して欲しいものです。

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■山崎の金勢神社


ここからは、「金勢様」の宝庫、「遠野市」に入ります。


遠野市の最初を飾るのは、「山崎の金勢神社」になります。


「遠野」/「金勢神社」で検索すると、トップに表示されるほど有名な「金勢神社」で、弊社のブログでも、何度も紹介している神社です。


「山崎の金勢神社」は、遠野駅から国道340号線を北上すること約10Km、これも有名な「カッパ淵」を過ぎ、途中から脇道逸れ、山の中をひたすら進み、その先の行き止まりにあります。


「山崎の金勢様」に関しては、下記の過去ブログで紹介していますので、そちらを見てもらえればと思います。

★過去ブログ:岩手県内の巨石の紹介 - その2


今回のブログでは、これまで紹介していなかった内容を紹介したいと思いますが、まず境内の案内板には、次のような説明文が記載されています。


『 遠野地方には、民間信仰として多くのコンセイサマが祀られています。中でも、この山崎のコンセイサマは、巨大な自然石で、高さ1m25cm、周囲は最大1m97cmもある、まさに逸物です。このコンセイサマは、昔からこの地に祀られていたとの「伝え」だけが残り実物は久しく見当りませんでした。ところが、昭和47年の災害復旧工事のときに下流の土砂の中から発見され、地域の人々が新しく祠を建てて再びここに祀りました。それからは、毎年5月5日に盛大にお祭りをするようになりました。 』


と言う事で、本章の最初の「金勢様」と、左の画像の「金勢様」、どちらが「山崎の金勢様」なのかと言う事ですが・・・


大きさ的には、左の方が説明に一致しているとの説がありますが、やはり「祠を建てて」と言う説明がありますので、最初の「金勢様」が、昭和47年に発見された金勢様だと思います。


そして、毎年開催されている「山崎金勢様まつり」では、「子宝」を願うと言うことから、5月5日の「子供の日」に開催されています。


「まつり」では、子供達が「金勢みこし」を牽いて地域を練り歩き、「金勢神社」に向かうそうです。


「金勢神社」に着くと神事の後に、祠に祀ってある「金勢様」にお神酒を掛けてタワシで磨いて、子孫繁栄を祈願するそうです。


また、祭りの日に合わせて、「お礼参り」をする人も結構いるようで、地元のニュースにも掲載されていました。


しかし、いつも思うのですが、ここに限らず、金勢神社の「子供みこし」に関して、子供たちには、何と説明しているのでしょうか ?


「巻堀神社」の「子供神輿」には、「金勢様」が載っていませんでしたが、ここの「子供神輿」には、「金勢様」が載っているみたいです。


どう説明するのでしょうか ?


もしも、地元の方が、本ブログをご覧になっていたら、是非、お伺いしたいものです。


最後に、「山崎の金勢神社」のそばにある休憩所の画像を紹介しますが・・・生け垣まで「金勢様」とは、さすがだと思います。

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■観光施設内の金勢様


遠野市内には、数多くの観光施設が用意されており、その施設内には、まあ、言葉は良くないのですが、観光客用の「金勢様」が展示されています。


これまで紹介してきた「金勢様」は、廃れてきた神社もありましたが、それなりに、ちゃんと祀られていましたが、本章で紹介するのは、残念ながら「展示物」です。


つまり、悪意のある言葉で言ってしまうと「見せ物」です。誰も、「本気」では参拝してくれません。


しかし、これらの「金勢様」も、その昔は、地元の方々から、きちんと拝んでもらっていたのだと思いますが、明治時代の誤った政策や、地元の過疎等の問題により、破棄されかかった「金勢様」だと思われます。


それを捨て去らずに、「展示物」として活用しているのは、これも、それなりに良い事ではないかと、私は思っています。


そこで、本章では、次の施設に保存/展示されている「金勢様」を紹介したいと思います。


●伝承園 :遠野の農家の生活様式を再現し、伝承行事、昔話、民芸品の製作/実演が体験できる施設
●たかむろ水光園 :浄水場を母体に遠野の美しい自然と懐かしい暮らし風景を再現し、宿泊もできる施設
●遠野ふるさと村 :懐かしい農村を再現した場所で、様々な農村体験が行える施設


遠野市では、上図のように、市内8箇所の観光施設の内、5箇所まで利用出来る「市内観光共通券」を販売しています。


これは、好きな施設を割安で観れる、非常に良い施策だと思います。まあ、どの施設も、似たり寄ったりの施設なのですが、微妙に異なっているようです。


それでは、下記3施設の「金勢様」を紹介します。

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●伝承園の金勢様


最初に「伝承園」を紹介します。伝承園は、遠野駅から約4.8Km、車で10分程度の距離の所にあります。


私の感覚では、遠野で一番有名な施設のように思えます。


弊社ブログでも、「オシラサマ」を紹介する中で、伝承園の「オシラ堂」や「昔話」を紹介した事があります。
★過去ブログ:オシラサマについて


伝承園の「金勢様」には、下図のような「金勢様」がいらっしゃいます。







左側は、伝承園の駐車場にある「金勢様」、真ん中は、施設内にあるヒンドゥー教の「リンガ」のような「金勢様」、そして、右側は、前述の「山崎の金勢神社」の御札がついた「男根」と、その隣は「女陰」です。

真ん中と右側の「金勢様」は、施設内の奥まった場所にあり、それぞれ隣り合った場所に安置されているようです。

何れも、何処にあったのかは解りませんが、今では、こうして展示されています。

この「リンガ状の金勢様」に関しては、以前も紹介したのですが、【遠野物語拾遺/第16話】に、次のような話が記載されています。

遠野物語拾遺/第16話】

土淵村から小国へ越える立丸峠の頂上にも、昔は石神があったという。今は陽物の形を大木に彫刻してある。この峠については金精神の由来を説く昔話があるが、それとよく似た言い伝えを持つ石神は、まだ他にもあるようである。

土淵村字栃内の和野という処の石神は、一本の石棒で畠の中に立ち、女の腰の痛みを治すといっていた。畠の持ち主がこれを邪魔にして、その石棒を抜いて他へ捨てようと思って下の土を掘って見たら、おびただしい人骨が出た。それで祟りを畏れて今でもそのままにしてある。

故伊能先生の話、石棒の立っている下を掘って、多くの人骨が出た例は小友村の蝦夷塚にもあったという。綾織村でもそういう話が二か所まであった。


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●たかむろ水光園の金勢様


次は、「たかむろ水光園」を紹介しますが、この施設は、遠野でも最大級の施設だと思います。


この施設は、遠野駅から約7.5Km、車で20分弱、国道340号から、少し逸れた場所にありますが、敷地面積が62,000㎡もある、広大な施設です。


東京ドームに換算すると、約1.3個分の広さのようです。


この「たかむろ水光園」は、遠野市上水道浄水場を母体に、昭和57年(1982年)、下記3点をコンセプトとした都市作りである「トオノピアプラン」と言う考え方の元に作られた施設との事です。


・大地と光と水と緑いっぱいの生産加工都市
・明るく人間性豊かな健康文化都市
・自然と歴史と民族の博物公園都


う〜ん・・・何だか良く解りませんが、とにかく広く、釣り堀やら、温泉やらホテルやらと、様々な設備が整った施設のようです。


と言う事で、「水光園」内の「金勢さま」ですが・・・施設の公式ホームページ上の案内図にも、どこにも説明がありません。


ですが、どうやら釣り堀にもなっている「遠野池」のほとりに、右の画像のような小さな祠があり、その中に、「金勢様」が鎮座している模様です。


但し・・・ひと目で解ると思いますが、中央の「金勢様」は、明らかに人工物です。これでは、何か、興ざめしてしまいます。


しかし、周りを良く見ると・・・小物ですが、自然石っぽい「金勢様」もいらっしゃいます。


これらの「金勢様」、今後も大事にされることを祈ります。


ちなみに、この「遠野池」の形は、遠野市を1/600に縮小した形になっているそうですが・・・どうでも良いか ?

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●遠野ふるさと村


「遠野ふるさと村」は、平成8年(1996年)のオープンした施設で、遠野駅から約10Km、車で20分弱の場所にある施設になります。


「遠野ふるさと村」は、懐かしい農村を再現した場所で、左の画像のような、のどかな風景の中で、下記のような「農村体験」が行える施設らしいです。


・物作り体験:わら細工、草木染め、絵付け、竹細工、陶芸、等
・食体験 :そばうち、餅つき、ヤマメつかみ取り、けいらん作り


その他、季節に応じて伝統行事を行ったり、祭りを開催したりしています。


弊社ブログでも、過去に「遠野どべっこ祭り」を紹介しましたが、「どべっこ」って知っていますか ?

★過去ブログ:「岩手県内の晩秋のイベント」


また、のどかな風景を維持しているので、たまに映画のロケ地としても使われることもあるみたいで、NHK大河ドラマのロケ地としても、何度も使われているようです。


天地人(2009年)
龍馬伝(2010年)
軍師官兵衛(2014年)
真田丸(2016年)


さて、そろそろ村内を紹介しますが、まずは「大工どん」と名付けられた「南部曲り家」ですが、この家の中に、巨大な「藁人形」があります。


この藁人形は、遠野において、毎年、「二百十日」の前、8月下旬に開催されていた「雨風祭り」で使う人形を巨大化した物との事です。


この祭りは、「二百十日」の前と言うことで、台風の被害から、農作物を守るための厄除け行事ですが・・・お解りの通り、股間には「巨大な一物」が付いています。


遠野には、これも何度も紹介していますが、春には「虫送り祭り」と同じ、「春風祭り」が行われています。


「春風祭り」の方は、現在でも、数は少なくなりましたが、細々と続けられているようですが、藁人形は、「雨風祭り」の方が、大きいのだそうです。


但し、この「大工どん」の藁人形は、遠野市が、観光ポスター用に作成した物とされ、このポスターの掲載をJR東日本に頼んだ所、見事に断られたというエピソードが伝えられています。

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●「春風祭り」


この際なので、「春風祭り」も紹介したいと思います。


こちらは、前述の通り、現在でも細々と続けられており、主に、遠野市内の「小友(おとも)町」や「附馬牛(つきもうし)町」で行われているそうです。


この祭りは、本シリーズで紹介している「虫送り」と、ほぼ同じです。


その昔は、旧暦2月7日からの3日間に、家族が全員揃った晩の夕食の前に、家の前の門口に藁人形を作り、その人形に顔を書き、旗に「春疫病まつり」と書いて団子を供えて、1年中の悪霊退散、息災を祈っていたそうです。


そして、私が、いつも気にする「藁人形の最後」ですが、「遠野ふるさと村」での「春風祭り」では、人形を稲荷神社に奉納して終わりとなるそうなので、人形は、神社で始末してくれるものと思われます。


しかし、別の情報では、藁人形は、「遠野ふるさと村」村内の氏神となっている「かっぱ大明神」と「金勢神社」に納める、と言う情報もあり、情報がかなり錯綜しています。


事実、右の画像では、祭りの参加者が、「かっぱ大明神」と「金勢神社」が合祀されている神社(?)の前で拝んでいる姿があります。


この後、「藁人形」が、一体どうなるのか、心配でなりません。


あと、参加者を見て、この祭りが、今後、ちゃんと継承されるのかも心配になってきました。


他の地域の「虫送り/虫追い」祭りには、必ずと言って良いほど、子供達が参加しています。


しかし、この遠野の祭りでは、50〜60年前に子供だった方々しか参加していません。これでは、祭りの継承は、難しいのではないかと思われます。


余計なお世話だと思いますが、もっと、子供達を参加させるよう、開催日を調整して休日にする等、考えた方が良いと思います。


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さて、話を元に戻しますと、前述の通り、「遠野ふるさと村」には、ちゃんと「金勢神社(?)」が設けられています。


ここが、先程の「春風祭り」で、藁人形を祀った「神社 ?」ですが・・・何か、見すぼらしいと思うのは、私だけなのでしょうか ?


掘っ立て小屋 ?


まあ、昔の雰囲気を出すために、わざと、このような演出をしているのかもしれませんが・・・何ともはや


何か、内部もゴチャゴチャな、カオス状態になっているようです。


もう少し、「神様」なのですから、何とかして欲しい感じがします。


こんな状態で、豊作や厄除けを祈願しても、ダメじゃあないかと思ってしまいます。


こちらの「金勢様」も、残念ながら、由緒などは、一切わかりませんでした。


建物はボロボロで、内部はゴチャゴチャですが、しかし、まあ、雨風を凌げますので、それなりに良いのかもしれません。


演出も大事ですが、もう少し、キレイにして欲しいものです。

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今回は、三陸海岸宮古市、盛岡に隣接する紫波町、そして、遠野市にある「金勢様」を紹介しましたが、如何でしたか ?


●日影の沢・金勢社
走湯神社・金勢神社
●新山金勢神社
●伝承園の金勢様
●たかむろ水光園の金勢様
●遠野ふるさと村の金勢様
●春風祭り


今回は、どちらかと言うと、由緒不明な「金勢様」が多かったので、私的には、ちょっと納得出来なかった感があります。


特に、遠野地方は、他と比較すると、その昔は、かなり多くの「金勢様」が存在した事が、逆に災いしたのかもしれないと思っています。


それは何故かというと、本ブログで何度も非難している江戸時代末期の「太政官布告(※通称「神仏分離令」)」、および明治の「大教宣布の詔」です。


遠野市では、この、とんでもない政策のため、数多くの「金勢様」が破壊されたと聞いています。


このため、由緒不明の「金勢様」が数多く発生する事になってしまったと思われます。

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廃仏毀釈」とは、また別の問題ですが、近頃では、企業だけでなく、寺社にも「BCP問題」が起きているようです。


BCP問題」とは、「事業継続計画(Business Continuity Planning)」と言い、企業が後継者不足で、存続の危機に直面する問題です。


しかし、これは企業だけでなく、お寺や神社も同じなのだそうです。


お寺の住職が、何件もの寺の管理を任されたり、神社の神主が居なくなってしまったりと言う問題が、日本全国で起こっているようです。



このため、寺社の防犯対策も取れず、外国人に貴重な仏像や宝物が盗まれ、海外の密売組織に流れていると言う問題も、数多く報告されるようになってきました。


これらの現象が、過疎の村や、限界集落と呼ばれてる村なら、人が少ないから仕方が無い・・・となるかもしれませんが(本当は、それではダメなのですが)、この問題は、人口密集地でも起きているようです。


事実、私の会社の近くにも、廃れた「稲荷神社」があり、もうボロボロで、「この神社、どうなるんだろう ?」と思っていたら、そのうちに重機が入り、神社が取り壊され、駐車場になってしまっていました。


私は、仏教徒ですが、まさに「オーマイゴッド!!」・・・私としては衝撃的な出来事でした。


「人が沢山いるのに ?」と思うかもしれませんが、それは後継者問題だけではないからです。


寺社も企業と同様、経営が必要です。


但し、寺社の経営は、商品を販売するのではなく、既存顧客の維持が基本になります。


既存顧客の維持とは、つまり、お寺なら「檀家」、神社なら「氏子」です。


現在では、「檀家」や「氏子」が減少しているので寺社の経営が成り立たず、廃寺/廃神社になってしまうケースが多いのだそうです。


何とも、悲しい話です。寺社の減少こそが、日本人の心の衰退につながってしまっているような感じがします。


昔は、「お天道様が見ているぞ !」と言うだけで、人の道から逸れない生き方が出来たのですが、今では「お天道様」自体が減ってしまってきています。


ニュースに登場する人たちも含め、日本人に、「お天道様」の事を、再認識してもらいたいものだと思っています。


ちなみに、私は、神主でも住職でもありません。それでは次回も宜しくお願いします。


以上

【画像・情報提供先】
Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)
性神博物館(http://members3.jcom.home.ne.jp/seihaku/index.html)
遠野市観光協会(http://www.tonojikan.jp/)
・遠野ふるさと村(http://www.tono-furusato.jp/)
・伝承園(http://www.densyoen.jp/)
・たかむろ水光園(http://www.tono-suikouen.jp/)
・神社探訪(http://www.komainu.org/index.html)
・玄松子の記憶(http://www.genbu.net/)
・務めていた工場が閉鎖されたので〜(http://riajyuusine.blog.fc2.com/)
・民話の里を自転車で(http://4travel.jp/travelogue/11062284)
・不思議空間「遠野」(http://dostoev.exblog.jp/m2006-02-01/)

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