岩手の民間信仰 〜 聞いた事も無い信仰ばかり Vol.4


今回は、久しぶりに、「民間信仰シリーズ」の第4弾として、次の4つの民間信仰を紹介したいと思います。

■産神信仰
■田の神信仰
■月待信仰/二十三夜さま
■懸仏信仰

今回紹介する民間信仰の内、偶然なのですが、「産神」、「田の神」、そして「月待」は、密接に関係していることが解りました。


日本全国、特に中国地方や近畿地方に多いようですが、ウサギを「山の神」と同一視する昔話や伝説が伝えられている地域があります。

東北地方でも、福島県の「吾妻連峰」では、斜面の雪解け模様を「雪ウザギ」とか「種まきウサギ」と呼び、種まきの合図にしたり、あるいは天気予報をしたりする風習が残っているそうです。

残雪を動物の姿に例える風習も、日本中にあり、岩手県では、岩手山(別名:巌鷲山)の残雪を、「鷲」の姿に例える風習が残っています。

★過去ブログ:岩手県内の山開き


そして、この「ウサギ」ですが、「多産」である事から、「産神」の使徒と考えられてきましたし、今回紹介する「月待信仰」の一つ「二十三夜信仰」では、月に安産を願ったりしています。

つまり、次のような関係になると思いますが、非常に面白い関係です。

→ ウサギ → 山神信仰 → 産神信仰 → 月待信仰 → ウザギ


何か、「懸仏信仰」だけ、門外漢のような扱いになってしましたので、今回は除外しようかとも思ったのですが、紙面の関係上、掲載することとしました。

しかし、「月待信仰」も「神仏混交」の信仰ですから、「懸仏信仰」だけ門外漢と言う訳では無いと思いますが・・・ちょっと関係付けには無理があるかもしれません。


それでは今回も宜しくお願いします。

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■産神


最初に「産神(うぶがみ)信仰」についてですが、「産神」と言う神様をご存知でしたか ?

私は、「産土神(うぶすながみ)」と勘違いしていました。

また、似たような(と言う表現も失礼ですが)神様で、「鎮守(ちんじゅ)」や「氏神(うじがみ)」と言う神様もいます。

そこで、まず「氏神」、「鎮守」そして「産土神」について説明します。


氏神


氏神」は、血縁関係でつながった集団が、社会の様々な単位となっていた『氏族制度』が盛んだった平安時代前期頃まで信仰された神様で、自身の一族を守ってくれる神様でした。

このため、元々は、「先祖神」を「氏神」と言っていましたが、中世(平安時代後期)以降は、「氏族制度」が崩壊したので、「氏神」は、下記「産土神」と同一視されるようになってしまいました。

そして、「氏神」周辺に住む住民を「氏子」と言い、この「氏子」が、「氏神」様に対する神事や祭事を行うようになっています。

【鎮守】


「鎮守」とは、土地に鎮まり(鎮座し)、その土地の者を守る神様です。

平安時代に『荘園制度』が確立され、貴族、武士、および寺院が私的領地(荘園)を持つようになると、荘園を守る守護神が必要になり、その結果生まれたのが「鎮守」となります。

しかし、室町時代以降で「荘園制度」が崩壊すると、この「鎮守」も衰退していき、上記「氏神」と合祀されてしまった所が多いようです。


産土神


産土神」は、その人が生まれた土地の守り神/守護神で、その人の事を一生涯守護する神様と考えられています。

生涯土地を離れなかった時代は、上記「鎮守」と「産土神」は、同じ神様でしたが、現在では生まれてから死ぬまで、その土地に居るとは限らないのですが、他所に引っ越しても「産土神」が、一生守護してくれるそうです。

このような信仰を「産土信仰」と言い、現在でも行われている「初宮参り」や「七五三参り」も、この「産土信仰」の名残です。


さて、それでは「産神」様は、どのような神様なのかと言うと・・・「産神」様は、字の如く「安産」や「出産」の神様と言われています。

通常、神様は、経血(赤不浄)や出産(白不浄)等、血の穢(けが)れを忌み嫌いますが、唯一、「産神」様だけは、産室に来て、産婦と生児を守ってくれると信じられています。

このため、「産室」に、わざわざ「産神」様を勧請して祀ってあります。そして、「産神」は、出産と同時に産屋にきて,3日目か七夜には帰って行くと考えられています。


ちなみに、出産後75日間は、母親や新生児も、まだ「忌み期間」にあたり、「産土神」は血の穢れを忌み嫌うために母親や生児は鳥居より中には入れないので、鳥居の外で参詣を行わせる仕来りがある地域もあり、これを「鳥居参り」と呼んでいます。

前述も取り上げた「初宮参り」ですが、この参詣は、生児が、生誕1ヶ月を迎えたことを「産土神」に感謝するために参詣するのですが、前述の通り、生誕1ヶ月では、まだ母親は「忌み期間」なので、姑や産婆が「仲人親」として、生児を抱いて参詣する事になります。


ところで、岩手県における「産神」ですが、「山の神」と同一視されているケースが見受けられます。

本ブログの「民間信仰」シリーズには何度も登場する「遠野物語」では、「遠野物語拾遺-第237話」において、次のように紹介されています。


遠野物語拾遺 第237話/山の神】

この地方では産婦が産気づいても、山の神様が来ぬうちは、子供は産まれぬといわれており、馬に荷鞍を置いて人が乗る時と同じ様にしつらえ、山の神様をお迎えに行く。

その時はすべて馬の往くままにまかせ、人は後からついて行く。そうして馬が道で身震いをして立ち止まった時が、山の神様が馬に乗られた時であるから、手綱を引いて連れ戻る。

場合によっては家の城前ですぐ神様に遭うこともあれば、村境あたりまで行っても馬が立ち止まらぬこともある。神様が来ると、それとほとんど同時に出産があるのが常である。


まさに、陣痛が始まっても「産神」が来ないと子供は生まれないので、山に「産神」を迎えに行き、「産神」が来ると子供が生まれる、と言う話になります。

また、岩手県内には、遠野物語の話とは別に、次のように、「山の神」を「産神」として信仰している場所があると言われています。

●県南地域:小牛田の山の神様は安産の神様として信心されている
●県北地域:安産の祈願としては、三つの神様を産神として拝む。山の持、妻の神、子安地譲様などである。三神がそろって立ち合わないと産気づいても子供は産まれないという
●県北地域:妊婦は安産のお守りとして山の神様とか子安地蔵尊からカネの諸を借りて来て腹帯とすることがある。また出産の時はそれを鉢巻きともする
●盛岡地域:山の神、水天宮などを信仰するものもある
●盛岡地域:山の神の祠、または山神の供養塔に時々餅を供えて析顕する者もある
●盛岡地域:ウブシナ(鎮守)、産神、山の神、子安地蔵尊などの守り札を産婦の居間に貼り、またその社地の土砂を持って来て分娩所のむしろの下に散布することもある。産神として修験者から白神(大山祇命) のお札を受けて産室に貼る。

その他、宮城県群馬県、そして三重県等でも、「産神 = 山の神」と言う信仰が見られるようですが、何故か、岩手県における信仰例が多いようです。

東北地方には、元々「山の神」を「産神」として信仰する人々が多く、各村々では、「山の神講」が女性達によって結成され、「山の神」を祀る神社に詣でていたそうです。

そして、「山の神講」では、毎月、十二日を「講日」としているケースが多く、これは「山の神が1年間に12人の子を持つ」と言う「十二山の神信仰」に繋がっていると思われます。

一般的に、農村や山村における「山の神」とは、先祖を大切に祀ることで「山の神」となり、春には山から里に降りてきて「田の神」となって豊作をもたらし、秋には再び山に帰るものと考えられています。

それでは、何故、東北地方では「山の神 = 産神」なのかと言うと、東北地方は、山に生計の基盤を置く度合いが強い土地柄である事と、「山の神 = 先祖霊」と言う考え方が強いので、子孫の家における新生児の誕生に際して、産屋に来て出産を手助けしてくれる、と考えるのは当然かもしれません。

但し、農村と山村とでは、「山の神」に対する考え方が、若干異なるようです。

特に、山に携わる者の「山の神」信仰の場合、女を避け、男だけが祀るものとなります。現在も遠野地方では、建築系の仕事に携わる人の場合、妻が出産する時には、旦那は仕事を休まなければいけないとの決まりがあるそうです。

さらに、遠野地方では、「山の神は女神である」と言う前提の元に成り立っているので、出産や経血等、血の穢れを嫌うとされているために、前述の「遠野物語拾遺/237話」の話は、何か、この言い伝えとは話の筋が通らないような気がします。

他方、遠野の山裾に建立されている「山神神社」には、「大山祇神(オオヤマツミ)」を祀っている場合があります。

大山祇神」は、古事記、および日本書記においては、「男神」となっているので、何か不思議な感じがします。


また、「産神」には、このほか「箒(ほうき)神」、「便所神」等があり、この「山の神」と合わせて、「日本の産神の三大神」と呼ばれています。

そして、日本全体で見ると、「箒神」を「産神」としている所は結構多いようで、女性は、箒をまたいではいけないと伝えられています。

また、「便所神」を「産神」とする所は関東地方に多いようで、関東地方では、『 女性は平素便所をよく掃除すると綺麗な子が生まれる 』と伝えられていますし、新生児の初宮参りの際には、便所に連れて行き、米、鰹節などをあげる風習があるそうです。



また、東北地方ではありませんが、「兎(ウサギ)」が多産である事から、ウサギを「産神」の使徒として信仰している地域もあるそうです。(京都:岡崎神社)

元々、日本には、「月」に妊娠や安産を祈願する風習があり、「十五夜」、「十九夜講」、そして「二十三夜講」などの諸行事が行われてきました。

これを「月待信仰」と呼んでいますが・・・これに関しては、後述する別章で紹介します。

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■田の神


「田の神」に関しては、前章「産神」にも記載しましたが、岩手県内のみならず、全国的に、特に農村部においては、「田の神 = 山の神」と言う考え方が一般的みたいです。

つまり次のような考え方です。

『 山の神が、春になると里に下りて来て田の神となり、農作業を見守り農耕を助けて豊作をもたらしてくれる。そして、秋になって収穫が終わると、再び山に帰る。 』

しかし、山村部では、「山の神」は「山の神」で、里には下りて来ず、ずっ〜と山に住んでいて、山を守っている、と考えられているようです。

前章で紹介した遠野地方の「山の神」ですが、こうしてブログを書いていると、どうも2種類の「山の神」がいるようです。

一方は、山にだけ住んでいる「山の神」と、他方は、里に下りて来て、農耕を助けてくれたり、お産を助けてくれたりする「山の神」です。

遠野の「山の神」は、物語毎に性格が異なっているようなので、2種類の神様が存在すると考えないと筋が通りません。

この「民間信仰」シリーズの最初のブログで、「山の神/オミキアゲ」を取り上げたのですが、この「山の神」は、女神で、禁忌に厳しい神様です。

★過去ブログ:岩手の民間信仰

しかし、同じ遠野地方でも、もう片方の「山の神」は、農耕やお産を助けてくれる優しい神様のようです。


ところで、春になると里に下りてくる、優しい方の「山の神」ですが、遠野地方では、「馬っこつなぎ」という行事で、「山の神」を里に迎えたり、山に送り返したりしているようです。

この行事に関しては、「遠野物語拾遺/第298話」や「定本 附馬牛村誌」と言う本に、次のように書かれています。

遠野物語拾遺 第298話/馬っこつなぎ】

またこの日(6月1日)には馬子繋ぎという行事がある。

昔は馬の形を二つ藁で作って、その口のところに粢(しとぎ)を食わせ、早朝に川戸の側の樹の枝、水田の水口、産土の社などへ、それぞれ送って行ったものだという。

今では藁で作る代りに、半紙を横に六つに切って、それに版木で馬の形を二つ押して、これに粢(しとぎ)を食わせてやはり同じような場所へ送って行く。

【定本 附馬牛村誌】

早朝、露をふんで行なう行事で、藁または麦わらで馬の形を2頭 (1頭は乗用、1頭は荷つけ馬として)作り、藁つとにオシトネを 入れて添え、田の水口、畑の畦頭、分かれ道の角などに置く。


遠野物語」については、解説する必要は無いと思いますが、もしも「遠野物語」について調べたい方は、下記の過去ブログもご覧下さい。

★過去ブログ:オシラサマについて - オシラサマは「お知らせ様」?


他方、「定本 附馬牛村誌」についてですが、この本は、昭和29年(1954年)に出版された「村史」になります。

「附馬牛村(つきもうし-むら)」と言うのは、昭和29年まで、この遠野地方に現存した村ですが、昭和29年に、付近の数村と合併し、現在の「遠野市」になっています。

それと、「昭和29年 ? まだ新しい本じゃないの ?」と思う人も多いと思いますが、出版は昭和ですが、内容は、「附馬牛村」付近の言い伝えられている昔話を編纂した物ですので、かなり古い内容となっているそうです。


この「馬っこつなぎ」ですが、言い伝えでは、この馬は、山から下りてきた「山の神」をお迎えするための馬で、1頭は神様が乗るため、もう1頭は食料を載せるためとも言われているそうです。

そして、神様が馬に乗って作柄を確認したり、あるいは全国の神様が名古屋西方の対馬(津島)天王社に集まる時に、その集まりに行くために乗ったりするとも言われているようです。


また、「田の神」が山に帰る時期と方法ですが、それについては、旧暦9月16日を「田の神」が山へ帰る日として、16個の丸餅を供え、炉にはドンドン火を焚き「暖かくして待っているから来年は早く来て下さい」と祈念している所もあるようです。

この「田の神」を迎える「馬っこつなぎ」は、県中央部の川井村以南で見られた風習ですが、現在では、遠野市花巻市付近でしか行われていないようです。

ちなみに、遠野市にある「遠野ふるさと村」では、毎年、6月に、この行事を、イベントとして行っているようです。


ところで、前述の「産神」や、本章の「田の神」に共通している点がありますが、気づきましたか ?

それは、どちらも「馬」が関係する点です。


「産神」や「田の神 = 山の神」と言う話は、全国、どこにでもある話のようですが、「馬」が関係するのは、岩手県だけのようです。

そして、「岩手」、「馬」と来れば・・・「チャグチャグ馬コ」です。

岩手県は、古くは「馬の名産地」でした。それゆえ、「馬」に関する数々の風習が残っています。

「馬」に関連するものと言えば・・・

チャグチャグ馬コ
・南部曲家
オシラサマ
・南部流流鏑馬

また、青森県から岩手県にかけて、「一戸」〜「九戸」と言う地名がありますが、これは「戸」と言う単位で、馬の牧場を管理していた名残とも言われています。(※現在、四戸だけ地名としては消滅)

このように、岩手県には、「馬」との関わりを大事にしてきた歴史がありますが、これが信仰や風習として残っているのは面白いと思います。

それと、余談ですが、日本中に地名に「田の神」と言う名前の場所があるようで、岩手県内にも、宮古市北上市に、「田の神」と言う地名があるようです。

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■月待/二十三夜様


「月待」、および「二十三夜様」とは、前章でも少し触れた「月待信仰」となります。

それと、月を待つのではなく「日の出」を待つ「日待信仰」と言う行事もあり、江戸時代までは、次の3つの行事を1組として、「宵越し行事」と呼び、盛んに行われていたそうです。

【宵越し行事:月待ち、日待ち、庚申 】

「庚申」については、本シリーズでも「庚申信仰」として紹介していますので、そちらもご覧下さい。
★過去ブログ:岩手の民間信仰

「日待信仰」は、いわゆる「太陽信仰」と考えられていますが、実際には、現在でも、よく解っていないようです。

また、上記では、「日待信仰」を「庚申信仰」とは別物の信仰のような書き方をしましたが、ケースによっては、同じ意味を持つこともあるようですが、今回は、「月待信仰」の紹介なので、その話は、また別の機会に・・・


さて、この「月待信仰」ですが、本章の題では「月待/二十三夜様」としていますが、これは、最も盛んだったのが「二十三夜待ち」だったからに過ぎません。

一般的に「月待信仰」とは、特定の「月齢」の夜に、「講中」と呼ばれる仲間が集まり、飲食を一緒に行い、「お経」等を唱えて月を拝んで願を掛けたり、悪霊を追い払ったりする行事になります。

今では誰でも知っている「十五夜のお月見」と言う行事も、元を正せば、この「月待信仰」の一つに過ぎません。

そして、その「月齢」は、と言うと・・・グレゴリオ暦における「月齢」を求めるための「簡易計算式」なる物もあるそうですが、大雑把な「月齢」を紹介すると、「月齢」は「0〜29」まであります。

つまり、その昔、旧暦だった時代は、日にちと月齢は、ほぼ一致していたのです。「ほぼ一致」と言う事で、旧暦の時代は、3年に1度「閏月」を加えて、1年を13ヶ月で運用していました。

このため、例えば、上述の「二十三夜」は、「旧暦23日の夜」となります。また同じく「十五夜」は、「旧暦15日の夜」となり、中でも「中秋の名月」と言えば、「旧暦8月15日の夜の月」となります。

余談ですが、日本では、季節を「春」、「夏」、「秋」、そして「冬」の4つに分け、それぞれの季節に、3ヶ月を割り振っており、さらに、各季節を、「初」、「仲(中)」、そして「晩」と分けています。

季節 仲(中)
1月 2月 3月
4月 5月 6月
7月 8月 9月
10月 11月 12月

故に、「仲秋の名月」として、「8月15日の満月」を思い浮かべるかもしれませんが、本来の意味として「仲秋」と言えば、「8月」を指す事になるので「8月の名月」となり、「中秋の名月」と言えば「秋」である8月の真ん中である「8月15日」となるのですが、現在は「仲秋」でも「中秋」でも良いようです。


さて、この「月齢」ですが、全ての「月齢」に呼び方が付けられており、下表のようになっているようです。(※部分省略)

月齢目安 呼び名 説明
月齢0 新月(しんげつ) 朔(さく)とも言う。新月は月が太陽と地球との間に来る事によって地球からは全く見えない。陰暦では毎月の第一日目のことを「朔」と呼んだ。一日(ついたち)の語源は『月立ち』であるといわれている。
月齢1 繊月(せんげつ) 二日月(ふつかづき)とも言う。また、既朔(きさく)とも言われる。これは「朔」を過ぎたという意味である。
月齢2 三日月(みかづき) 三日月はその形から、「弓」のほか、「剣」や「鎌」、「櫛」、「舟」などに例えられ、異名/別名が多く、初月(ういづき/はつづき)、若月(わかづき)、眉月(まゆづき)等とも呼ばれる。夕方、西の空に見え始める。
月齢6 上弦の月 月が満ちていく過程での半月をいう。半月を弓の形になぞらえ、弓に張った弦が上向きになっていることから、「上弦」という。弓張り月(ゆみはりつき)、半月(はんげつ)ともいう。
月齢9 十日夜(とおかんや) 旧暦の十月十日に行われている収穫祭。少し膨らんだ月になる。
月齢12 十三夜月 満月に次いで美しいとされている月で、古くから月見の宴などが行われた。これからまさに満ちていくさまが縁起の良い月とされる。
月齢13 小望月(こもちづき) 十四日月。満月前夜の月で、「待宵の月(まつよいのつき)」ともいう。「翌日の満月を楽しみに待つ」という意味。また幾望(きぼう)とも言い、満月(望月)の前夜で「幾」は「近い」の意味。
月齢14 満月 月が最も真円に近い状態になる日で、別名「望月」/「十五夜」。月と太陽を結ぶ線上の間に地球が位置し、太陽の光が月全体を照らし出す。英語「Full Moon」。1ヶ月内に満月が2回ある時に、1回目を「ファーストムーン」、2回目を「ブルームーン」と呼ぶ。「めったにないこと。まれな現象。」という意味を含む。
月齢15 十六夜(いざよい) 月の出が十五夜よりやや遅くなっているのを、月がためらっていると見立てた。「十六夜」とは「ためらい」の意味を持つ。また、夜が明けてもまだ沈まず、西の空に残っている様子から「有明の月」とも呼ばれる。
月齢16 立待月(たちまちづき) 夕方、立って待つ間に出る月の意味。月の出は日没からだいたい1時間40分後位。
月齢17 居待月(いまちづき) 満月を境に月の出が次第に遅くなるので、立って待つには長過ぎるので座って待つうちに出る月の意味。
月齢18 寝待月(ねまちづき) 月の出が遅いので寝て待つ月の意。別名、臥待月(ふしまちづき)とも言う。
月齢19 更待月(ふけまちづき) 夜も更けてから月が上ってくる月の意味。だいたい、午後10時頃に月の出を迎える。別名「亥中(いなか)の月」
月齢22 二十三夜月(にじゅうさんやづき) 下弦月。月が欠けていく過程での半月をいう。半月を弓の形になぞらえ、弓に張った弦が下向きになっていることから「下弦」という。こちらも弓張り月、半月と言う。
月齢25 有明月(ありあけづき) 夜明けの空(有明の空)に昇る月で「暁月」ともいう。本来は十六夜以降の月の総称。
月齢29 三十日月(みそかづき) 新月頃の月。30(三十)日なので「みそか」と読み、月末を「晦日(みそか)」というのはこのためである。また「晦日(つごもり)」とも言う。「つごもり」は「つきこもり」が転じたもので、月が姿を見せないのでこう呼ばれた。

「月齢」と日にちが一致しないのは、月齢が「0」から始まるのに対して、暦が「1日」から始まるからです。「月齢3」が「三日月」のような気がしますが、それは間違いです。

また、「縁日」との関係で、仏教における如来、菩薩、および観音と、月齢を結びつけた信仰もありました。月待と主尊の関係は、次の通りです。(※下表とは異なる主尊の場合もあります。)

呼び名 主尊
十三夜 虚空蔵菩薩
十五夜 阿弥陀如来薬師如来大日如来聖観音
十六夜 阿弥陀如来大日如来聖観音
十七夜 聖観音如意輪観音勢至菩薩
十八夜 馬頭観音地蔵菩薩
十九夜 如意輪観音
二十夜 阿弥陀如来如意輪観音聖観音
二十一夜 如意輪観音
十二夜 如意輪観音
二十三夜 勢至菩薩、月読尊
十六夜 愛染明王阿弥陀如来勢至菩薩聖観音

しかし、一点、「二十三夜」に関しては、「月読尊」も主尊として記載しましたが、実は、これは仏教ではなく、「神道」の神様となります。


元々、「月待信仰」は、「月を待つ」のではなく、「月を祀(まつ)る」意味だったと言われ、古事記/日本書紀においては、「月の神様」である「月読尊(命)/ツクヨミ」を祀る信仰だったとされています。

この「月読尊/ツクヨミ」は、「伊邪那伎(いざなぎ)」と「伊邪那美(いざなみ)」との間に生まれた男性神と言われています。

同じく「伊邪那伎」と「伊邪那美」との間に生まれた子供としては、「天照大神(あまてらすおおかみ)」と「須佐之男(すさのお)」がいますが、それぞれの関係は次の通りで、「三貴子」と呼ばれています。

長女:天照大神
長男:月読命
次男:須佐之男

この「三貴子」について説明すると、これだけでブログ数本書けてしまいますので割愛しますが、「天照大神」が太陽神とされる一方、「月読尊」が上述の通り「月の神」とされています。

古事記/日本書紀では、「天照大神」と「須佐之男」の話は沢山あるのですが、「月読尊」に関しては、ほんの数カ所しか存在しない地味な存在なので、皆さんにも、余り馴染みがない神様かもしれません。


そんな「月待信仰」ですが、本章の最初にも紹介しましたが、この行事は、近隣地域で「講」を作って行われており、「月待講」を行った記念として、「月待塔」を盛んに作りました。

本章最初に掲載した「月待塔」は、現在の地名で言うと「滝沢市大沢長坪」付近にある月待塔です。この石碑自体は、ご覧の通り「明治41年(1908年)」と比較的新しく、建立されてから100年位しか経っていません。

注目すべきは、碑文が「二十三夜」となっており、碑文の上に、月の形と太陽の形が掘られている点です。

「二十三夜」は、上述の「月齢の表」を見れば解る通り、別名「下弦の月」と呼ばれているので、実際の形とは少し異なってはいますが、月待塔には、このように月の形を掘るのが一般的だったようです。


そして、このように「月の形」と「太陽の形」の両方を石碑に刻んでいますので、ひょっとしたら「日待」も行われたのかもしれません。

この滝沢市付近では、「二十三夜講」や「三十三夜講」が盛んに行われたようで、多くの月待塔が、現在も残っているようです。

そして、滝沢市付近の「二十三夜講」では、毎年11月の22日から一週間は、「お七夜」と称して、魚をたち精進を始め、23日は「二十三夜」で、この夜は、地元では「おすとぎ」と呼ばれている食べ物を男性が作り、その「おすとぎ」と御神酒とを供えて月を拝んでいた記録が残されています。

また、「二十三夜」といって月を拝む講は、一年の内、正月、5月、9月、そして11月の4回行っていたそうです。

ちなみに「おすとぎ」とは、「おしとぎ」の事で、米粉を熱湯で練った餅ではないかと思われます。

また、盛岡市付近では、「二十六夜講」が盛んだったと言う記録もあり、詩人「宮沢 賢治」も、そのことをよく知っていたようで、「宮沢賢治語彙辞典」にも、盛岡の風習として記載されているようです。

さらに、「宮沢 賢治」は、童話「二十六夜」の中で、旧暦の6月24日から26日までの3日間の出来事を、フクロウの子供を主人公にして、月や仏教への思いを著しています。

当時の岩手県各地では、「仏教」と密接に結びついた「月待信仰」が盛んに行われていたのではないかと推測されます。


ところで、「月待講」の開催記録である「月待塔」ですが、日本全国で見ると、次のような塔が作成されていたようです。(飯田道夫『日待・月待・庚申待』より)

塔の種類 説明
十三夜塔 十三の夜、虚空蔵菩薩を本尊として礼拝、勤行したのが十三夜待で、その供養に建てられたもの。
十五夜 十五夜の念仏講中で建てられたものが多く、大日如来聖観音を刻むものがある。各地に見られるが、全然見当たらない所も多い。
十七夜塔 十七日は七夜待の初日、二十三夜は末日に当たる。
十八夜塔 十八夜の民俗は東北地方に盛行し、塔も同地方に多い。十八夜の民俗で特徴的なことは、正、五、九、十一月の十八日に行われ、餅をついて月に供えることである。
十九夜塔 十九夜講の建てる塔で、如意輪観音を祀る。十九夜講はほとんど女人講で、祈願も安産や育児、婦人の病などが多い
廿(二十)日塔 集中して造立されている地域がある。宮城、岩手などが例としてある。
廿一夜塔 二十一夜講も概ね女人講で、如意輪観音を祀るというから、十九夜講と本質的に同じである。
廿二夜塔 内容は十九夜塔とほぼ同じ。塔の分布は十九夜塔と境界をなすという。群馬県のように、女が二十二夜、男が二十三夜と、日を変えて寄り合うところがある。像は如意輪観音が多いが、地蔵を刻む例もある。
廿三夜塔 月待供養塔の中核をなす。二十三夜講は毎月の二十三夜、あるいは正、五、九、十一月とか、正、六、九月、あるいは正月と十一月など、月の組み合わせは異なるが、いずれも二十三夜に行うのを通例とする。本尊は勢至菩薩といわれる
廿六夜塔 本尊は愛染明王。塔の分布は全国的だが、一県をとっても全県下に広範に普及しておらず、二十三夜待ちほど盛んではなかったようである。



そして、これら「月待塔」ですが、現存する最古の「月待塔」は、埼玉県富士見市の「富士見市立難波田城資料館」に、室町時代となる「嘉吉元年(1441年)」と言う年号が刻まれた石塔が保存されています。

まあ、これは、薄い板状の石に碑文を刻んでいるので、正確には「石塔」ではなく「石版」になると思います。

また、この石版には、既に梵字「キリーク(阿弥陀如来)」と思われる文字が刻まれていることから、この時期から仏教と深い関わりがあったと思われます。

ちなみに、「梵字」自体、奈良時代となる天平年間には、既にインドから日本に伝わっていたと考えられていますので、この石版に梵字が刻まれていても不思議な事は無いと思われます。


ところで、岩手県内の「月待塔」ですが・・・余り調査や研究が行われていないようで、各種資料を探したのですが、何も詳しい情報を見つけることが出来ませんでした。

「庚申供養塔」に関しては、県内には、約4,700個の石塔の存在が確認されているのですが、「月待塔」の調査は行われていないようです。

「月待信仰」に関しては、前述の「産神」や「ウサギ」と、深い関係がある事が解っており、まだまだ紹介したい事があるのですが・・・また機会があれば紹介したいと思います。

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■懸仏


「懸仏」、この信仰と言うか、この言葉自体、皆さんは、余り聞いたことが無いと思います。

私自身も、このブログを書くにあたり、初めて聞いた言葉でした。「懸仏」に関しては、世界大百科辞典(第二版)には、次のように記載されています。

『 神の依代(よりしろ)として作られた鏡に、御正体(みしようたい)としての神像や本地垂迹説による仏像などをあらわしたもので、その形態から鏡面に毛彫、線刻、描画したものを鏡像と呼び、鏡面や鏡地板に別製の薄肉または厚肉の神像や仏像をとりつけたものを懸仏と呼んでいる。 』

つまり、ご神体となる「鏡」に、鋳造された「仏像」を貼り付けた物で、神道と仏教を習合させた「本地垂迹(ほんじ-すいじゃく)」の考え方に基づいて作成された像、と言う事になります。

そして「懸仏」とは、像の上部には穴や輪が付いており、この穴や輪に紐を通して吊り下げたり、壁や柱に立て懸けたりして拝んでいたことから、「懸仏」と呼ばれたと考えられています。

また、「本地垂迹」とは、日本に古くから存在する「八百万(やおよろず)の神々」は、実は、「如来」、「菩薩」、「明王」、そして「天」等の様々な「仏」が化身し、この世に現れた「権現様」である、と言う無茶苦茶な考え方です。


そもそも仏教は、最初に、公式記録として日本に伝来した6世紀頃(538年/552年)には、如来と菩薩しか存在しなかったと考えられています。

その後、9世紀に入り、最澄空海が、唐から「密教」を持ち帰ったのですが、その時に、一般民衆を、強制的に仏教に帰依させる役割を担う「明王」と言う神を、インドの古代神から仏教に取り入れました。

そして、その後は、ヒンドゥー教の神々までを取り込み、「天」を言う名前を付けて「仏法を守る守護神」として取り扱うようになるなど、無茶苦茶な考え方が平気でまかり通る信仰です。

ご存じの方も多いと思いますが、有名な「帝釈天」、「弁財天」、「毘沙門天」等、名前の最後に「天」が付く仏様は、ヒンドゥー教の神々です。(※お好み焼きではありません。)

帝釈天 インドラ神
弁財天 サラスヴァティー
毘沙門天 ヴァイシュラヴァナ神

ちなみに、仏教では、下記4種類の「仏」がいるとされています。

如来 :釈迦が悟りを開いた後の姿。「悟りを開いた者」と言う意味。
・菩薩 :釈迦が修行中の姿。「悟りを開くための修行者」と言う意味。
明王大日如来が仏教に帰依しない民衆を強制的に帰依させるため变化した姿。
・天 :仏法の守護神。

ちなみに、インド古代神やヒンドゥー教の神々が、何故、仏教界で「仏」になったのかと言うと・・・これら「よそ者」の神々も、「仏陀(ブッダ)」の威光に服し、仏法の元、人々を守護するよう改心したためと仏教法典には書かれているそうです。

私は、一応、仏教徒ですが、何とも「手前味噌」的な考え方だと思います。だから、現在のその辺の寺の坊主共は、社会に貢献せず、自分達の事しか考えないのだと思います。


さて、話を「懸仏」に戻しますが、平安時代の「御正体(みしようたい)」の主流は「鏡像」で、その最古の物としては、「永延2年(988年)」と言う銘がある「線刻阿弥陀五尊鏡像(重文)」との事です。(京都国立博物館所蔵)

「御正体」とは、「御神体」とも同じ意味として使われていますし、「懸仏」本体とも言われています。

そして、平安時代後期頃から、薄肉の仏像をとりつけた「懸仏」が出現したとされており、その中でも、特に代表作と考えられているのが、本章の最初に掲載した「懸仏」となります。

この「懸仏」は、中尊寺「円乗院」にある「金銅釈迦如来懸仏」で、現在、重要文化財となっています。

岩手県内には、これも余り詳しく調査されていないようですが、260〜280個程の「懸仏」が確認されているようで、その内の約4割、110個程度が、「鉄製」との事です。



岩手県は、平成27年(2015年)7月に世界遺産に登録された釜石市「橋野鉄鉱山」を始め、古くから「鉄」との関り合いがありました。

同じ釜石には、現在では(平成元年)、高炉の火は止まってしまいましたが、八幡製鉄所(明治34年)よりも古い、日本最古の官営製鉄所(明治13年)がありました。

そもそも岩手県中央部には、青森から宮城まで連なる北上山地が通っており、この北上山地には、良質の鉄鉱山がある事で有名で、平安時代から製鉄が行われていたことが、各地の遺跡跡で確認されています。

そして、その中でも釜石市は、江戸時代末の安政四年(1857年)、南部藩士「大島 高任(たかとう)」が、旧暦12月1日に、国内で初めて鉄鉱石を原料とした連続生産に成功した場所として「日本近代製鉄発祥の地」と呼ばれていますし、現在でも12月1日は「鉄の記念日」となっています。


このような経緯で、「懸仏」にも、多くの「鉄」が使われる事になったのだと思いますが、明治時代の「神仏分離令」により、それまで残っていた「懸仏」も、その多くが取り外されてしまったと考えられています。

特に「懸仏」は、神道(鏡)と仏教(仏像)の「習合の証」のような物ですから、真っ先に「廃仏毀釈」の対象になったと思われます。

しかし、前述の通り、現在でも200点以上の「懸仏」の存在が確認されていると言う事は、東北地方には、「戊辰戦争」の影響もあるとは思いますが、中央政府の意向は、余り届かなかったのではないかと推測されます。


日本全国に存在する「懸仏」ですが、「懸仏」の多くは、絵馬と同様、寺社へ奉納された物となっており、特に、岩手県においては、「中尊寺」関係の寺社に納められている「懸仏」が多いようです。

また、「懸仏」の中には、一見普通の仏像のように見えますが、上図の「中尊寺一字金輪大日如来座像」のように、実は「懸仏」ではないかと言われている仏像もあります。


そして、本シリーズには、必ず登場する「遠野」にも、当然「懸仏」は残されています。

遠野物語拾遺」の第50話には、次のような面白い話が記載されています。

遠野物語拾遺 第50話】


綾織村字新崎の西門舘という小さな丘の上に、一本の老松があってその根もとに八幡様だという祠がある。

御神体は四寸まわり位の懸仏であるが、御姿が耶蘇の母マリヤであるという説もある。この神像は昔から、よく遊びあるくので有名である。

と言う事で、この画像が「八幡様」に奉納されている「懸仏」ですが、製作年代は江戸時代と伝わっているそうです。

しかし・・・聖母マリアと言うよりは、鎧を着ているように見えますので、二神一対の明王、もしくは天のように見受けられます。

まあ、遠野地域には、「隠れキリシタン」の噂も数多く残っていますので、その影響かもしれません。「隠れキリシタン」に関しては、また別の機会に紹介します。


さて、前述の「中尊寺系の懸仏」には、「奥州藤原氏」の影響があると思います。

一方、遠野地域には、古くから「早池峰信仰」が根付いていますので、遠野地域の「懸仏」には、「早池峰信仰」の痕跡が見られるのではと期待したのですが・・・何故か、「懸仏」には、「早池峰信仰」は影響を与えていないようです。

ちょっと意外な感じがします。


このように、岩手県内では、平泉を中心とした「中尊寺」関係の寺社に「懸仏」が多く見られているようです。

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さて今回は、下記4つの民間信仰を紹介しましたが如何でしたか ?

■産神信仰
■田の神信仰
■月待信仰/二十三夜さま
■懸仏信仰

最初にも記載しましたが、「産神 = 山の神 = 田の神 = 月の神」と言うのは、非常に興味深い考え方だと思います。

また何かの機会に、岩手県内における、これら神々の関係を紹介できればと思います。

それと、ご自身の「産土神社」については、出生地の神社庁に問い合わせれば、無料で教えてくれます。


私の場合、次の手順で確認しました。

・手順1 :自分が生まれた場所の住所を確認する(実家)
・手順2 :岩手県神社庁に電話し、産土神を知りたいと問い合わせ、実家の住所を告げる (※岩手県神社庁/盛岡市八幡町13-2 盛岡八幡宮内/電話:019(622)8648)
・手順3 :自分の「産土神社」を教えてくれます

ちなみに、私の「産土神社」は、「朝香稲荷神社」と言う神社であることが解りました。

私の実家は、「盛岡八幡宮」から約900m、徒歩でも10分程度の場所なので、てっきり、「盛岡八幡宮」が「産土神社」だと思っていたのですが・・・何と、私が通っていた小学校の直ぐ近くにある神社が「産土神社」でした。

確かに、言われてみれば、私の実家から徒歩5分程度の場所にあり、ほぼ毎日、神社の前を歩いて通学していた事を思い出しました。

「毎日」ではなく、「ほぼ毎日」と言うのは・・・実は、通学路ではなく、裏道もあり、そちらの道の方が、学校に近かったので、朝などは、裏道を通って学校に通っていたからです。

この「朝香稲荷神社」、神社庁の人の話に拠ると、かなり由緒ある神社との事だったのですが・・・どこを調べても、ご祭神等、何も解りませんでした。

もしも、由緒等をご存知の方がいれば、是非、教えて下さい。

現在は、上記画像のように、神社の回りに宅地が造成されて明るくなっているようですが、私が小学生の頃は、神社の回りは林になっており、薄暗くて、気持ちの悪い場所でした。

学校帰りに一度寄ったきり、気持ちが悪くて、二度と神社に行きませんでしたが、次回、盛岡に帰省した時には、この「朝香稲荷神社」に参拝したいと思います。


このように、自分の「産土神社」を調べて見ると、結構面白い事もわかります。皆さんも、ご自身の「産土神社」神社を調べてみては如何ですか ?


皆さんも、ご自身の「産土神社」神社を調べてみては如何ですか ?

それでは次回も宜しくお願いします。

以上

【画像・情報提供先】
Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)
コトバンク(https://kotobank.jp/)
・ウサギの神性について:赤田光男(http://ci.nii.ac.jp/naid/110000479361)
・月を楽しもう(http://www.lunarembassy.jp/meigetu/index.html)
・石田道場(http://55768726.at.webry.info/)
・トランスペース研究所(http://transpace.jp/)
・不思議空間「遠野」(http://dostoev.exblog.jp/)

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