岩手の先達 〜 地味な岩手にも有名人 Vol.1


皆さん、「先達(せんだつ/せんだち)」という言葉はご存知ですよね ?


広辞苑(第四版)によれば、「先達」に関しては、次の様に記載されています。

・その道の先輩、先学
・修験者の先導者
・案内人、指導者


IT業界における先達だと、一体誰になるのでしょうか ? コンピューターに関して、偉大な発明をした人達は沢山いますが・・・そもそも、コンピューターを最初に開発した人が、誰が最初なのかさえ、はっきりしていないのが現実です。

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話は、少し脇にそれますが・・・


私が、社会人になった時の研修では、現在のコンピューターは、「プログラム内蔵方式(ストアドプログラム方式)」と呼ばれる方式のコンピューターで、この方式を最初に考えだしたのが、現在のハンガリーの首都「ブタペスト」、当時は「オーストラリア=ハンガリー帝国」で生まれ、その後、ドイツ、アメリカと渡った『 ジョン・フォイ・ノイマン』であり、そのコンピューターは「ノイマン型コンピューター」と呼ばれていると教えてもらった記憶があります。


ちなみに、『 ジョン・フォイ・ノイマン』と人物、いわゆる【 天才 】と呼ばれる部類に属する人で、次のような経歴を持っているそうです。


・6歳で7桁の乗算を暗算で行う事が出来た/同じく6歳で古典ギリシャ語により会話が出来た
1920年、17歳の時に、数学者フェケテと共同で最初の数学論文「ある種の最小多項式の零点と超越直径について」を執筆。1992年、その論文がドイツ数学会雑誌に掲載される。
・1921〜1926年の間、ブタペスト大学、ベルリン大学、そしてチューリッヒ工科大学を掛け持ち在学
・1927〜1930年の間、ベルリン大学の最年少講師を務める(24〜27歳)
・1930年、プリンストン高等研究所の所員となる(同時採用:アルベルト・アインシュタイン)
・1933年、33歳の時に同研究所で数学の教授になると共に、ユダヤ系のためアメリカ移住


そして、その後、1945年に、上記の「ストアドプログラム方式」のコンピューターを開発すると共に、同時期には「マンハッタン計画」にも参加し、ロスアラモス研究所において、広島に投下された「ファットマン」型原爆の核分裂技術を開発していたそうです。


この『 ジョン・フォイ・ノイマン』という人物、確かに天才だったようですが・・・今で言う「マッド・サイエンティスト」系の人物らしく、かつバリバリの「タカ派」で、原爆投下地点の選定でも、日本の象徴である「京都」を壊滅させるべしと力説していたそうです。


また、知っている方はご存知だと思いますが、あの「2001年 宇宙の旅」とか「時計じかけのオレンジ」と言う映画の監督をした『 スタンリー・キューブリック 』(彼も天才です)が、1964年に作成した「博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか」と言う映画に登場する『 ストレンジラブ博士 』は、この『 ジョン・フォイ・ノイマン』をモデルにしていたと言う説もあるそうです。


この『 ストレンジラブ博士 』・・・私も映画は観たのですが、この監督の映画にしては、ブラック・ジョークが強すぎて、思わず笑ってしまいました。


90分程度の比較的短い映画ですから、興味のある方は、ご覧下さい。ちなみに、『 ストレンジラブ博士 』は、日本では「ピンクパンサー」で有名な『 ピーター・セラーズ 』が演じています。(彼は1人3役を演じています)

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話が、コンピューターの「先達」から、映画の話に移ってしまいましたが・・・


皆さんは、岩手県における「先達」と言うと、本ブログの最初に掲載した画像の人物、『宮沢賢治(左)』や『石川啄木(右)』を思い出す方も多いと思いますが・・・そして、その次には、その他に岩手県出身で有名な人って誰 ? となるかと思います。

まあ、スポーツに興味のある方なら、今では、プロ野球なら西武の「菊池投手」、日本ハムの「大谷投手」、サッカーなら、なでしこジャパンの「岩清水選手」等を思い浮かべる方も居るかもしれません。

実は、恥かしながら、私も、このブログを始めて、盛岡や岩手の事を皆さんに紹介してから、「あ〜、この人って、岩手県出身だったんだ !! 」と言うような「先達」が何名も居ます。


そこで、今回から何度かに分けて、「岩手の先達」と言うテーマを設けて、岩手県出身で、結構有名な「先達」を紹介したいと思います。


今回は、前述の『宮沢賢治』や『石川啄木』に関しては、既に有名ですので割愛させて頂き、各分野で活躍した、次の「先達」を紹介したいと思います。


●政治分野 :原 敬 ------- 日本初の本格的政党内閣樹立、平民宰相
●文学分野 :新渡戸稲造 -- 「BUSHIDO THE SOUL OF JAPAN」出版、「われ太平洋の架け橋とならん」
●学問分野 :金田一京助 -- アイヌ語研究者、辞書編集/監修者(?)


また各人に関しては、次の内容を紹介したいと思います。

・生立ち
・簡単な経歴
・功績
・その他

それでは今回も宜しくお願いします。

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■原 敬(政治家)


「原 敬(はら-たかし)」に関しては、皆さんは、恐らく、中学の歴史の授業で、次の様に習ったのではないでしょうか ?


『 原 敬は、日本で始めて本格的な政党内閣を作り「平民宰相」と呼ばれたが、東京駅にて暗殺されてしまった。 』


まさに、簡潔で、正しい表現ですが、なんとも寂しい限りです。


現在の政党政治の基礎を築くと共に、教育制度の基礎を作った人物ですので、原の生立ちから、経歴等を踏まえて、もう少し詳しく「原 敬」を紹介していと思います。


まあ、現在の政党政治が良い物なのか ? と言う疑問はあるとは思いますが・・・

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【 生立ち 】

「原 敬」は、江戸時代の安政三年(1856年)、現在の盛岡市本宮に、盛岡藩士「原 直治」と「律」の次男として生まれています。


盛岡市本宮は、盛岡駅の南西に位置しており、私が盛岡に住んでいた頃は、田んぼ以外は何も無い場所でしたが、現在では、盛岡で一番発展している地域だと思います。


「原」家は、元々は、「三田村」姓を名乗り、近江の「浅井」氏の家来だったようですが、紆余曲折を経て、途中で「原」氏に姓を改めた、と伝えられています。


「原」の祖父(直記)は、盛岡藩の家老を務めた程の上級武士の家柄のため、市内の藩校「作人館」や東京に南部氏が設立した「共慣義塾(きょうかんぎじゅく)※」で学びました。(※「脇慣義塾」とも表記)


しかし、上級武士の家柄だった割には学費が払えず、数ヶ月で退学させられてしまい、その後は神学校に入学し、17歳の頃に「ダビデ」と言う、何とも勇ましい洗礼名を授けられたそうです。


20歳の時に司法省法学校を受験し、2番目の成績で入学を果たしたのですが、寮の待遇改善運動を行った事を理由に退校処分を受け、仏思想学者「中江 兆民」が開設した仏学塾に転入学したそうです。


【 経歴 】

23歳の時に、「郵便報知新聞社」に入社し、フランス語新聞の翻訳を担当した後、次第に論文なども執筆する様になったそうですが、「明治十四年の政変」で政府から追放された「大隈 重信」一派が同社に乗り込んで来ると、彼らと反りが合わずに、同社を辞めてしまいます。


その後、政府御用政党の機関紙「大東日報」の主筆を経て、1882年、26歳の時に外務省に入省し、次のような要職を次々と歴任します。
・外務省 :天津領事、外務書記官、外務省通商局局長、パリ公務官
農商務省 :参事官、大臣秘書



そして、農商務省時代に、「カミソリ陸奥」と呼ばれていた「陸奥 宗光」が、駐米公使から農商務大臣になると、「原」は彼に重用され始めるようになり、第二次伊藤内閣において「陸奥」が外務大臣になると、「原」も、商務局長として外務省に呼び戻され、その後、外務次官に抜擢されました。


しかし、陸奥の体調が悪化し、公務を休みがちになってしまった後は、実務は、ほとんど「原」が担うようになりましたが、陸奥の辞任により、「原」も朝鮮駐在公使になったそうです。


ところが、第二次伊藤内閣の崩壊により成立した第二次松方内閣で、大嫌いな「大隈 重信」が外務大臣になったので、「原」も外務省を辞任し、1897年に大阪毎日新聞に入社し、翌年42歳で社長に就任しました。


明治33年(1900年)に、伊藤博文が「立憲政友会」を立ち上げた時に、「原」は、「伊藤」と、同じく「井上 肇」の勧めで政党に入党し、幹事長に就任しますが、第四次伊藤内閣で「東京市疑獄事件」が発生し、その責任を取る形で「星 亨(とおる)」が逓信大臣を辞任したため、「原」が、急遽、逓信大臣として初入閣を果たすことになります。


その後は、1901年に、「桂 太郎」の組閣により、「原」は閣外に去り、党運営に尽力することになりますが、合わせて1902年に行われた第7回衆議院選挙で盛岡市から立候補し、46歳で衆議院に初当選を果たします。


そして、明治35年(1902年)に日露戦争が始まりますが、暫くの間、「山縣有朋」系の「桂 太郎」と、「伊藤博文」系の「西園寺 公望(さいおんじ-きんもち)」が、交互に政権を担う「桂園(けいえん)時代」が、大正三年(1914年)まで続く事となります。


その間、「原」は、明治44年(1911年)、55歳の時に、鉄道員総裁を勤めていますし、大正2年(1913年)に組閣された、第一次山本内閣では、内務大臣を勤めています。


大正3年(1914年)、「大正政変」の責任を取って辞任した西園寺の後任として、「原」が、第三代「立憲政友会総裁」に就任します。


その後、大正7年(1918年)、シベリア出兵に端を発した米騒動への対応を誤った寺内内閣が総辞職に追い込まれたことにより、「原」は、第19代内閣総理大臣に就任することとなります。


そして、大正10年(1921年)、「原」が65歳の時、関西で開催される党大会のため、東京駅に到着したところ、国鉄大塚駅の職員である「中岡艮一(こんいち)」により暗殺されてしまいました。


「原」の暗殺後は、「原」の指導力、影響力が余りに大き過ぎたため、政党政治は一挙にバランスを失い、「原」の後を継いだ「高橋 是清」の内閣は、半年で瓦解してしまったようです。


「原」のライバルであった「山縣有朋」でさえ、「原」の死に際しては、「原という男は実に偉い男であった。ああいう人間をむざむざ殺されては、日本はたまったものではない」と嘆き、暗殺の翌年の2月に病死してしまった程です。

【 功績 】

(1)初の本格的政党内閣

政党内閣自体、「原」が首相に就任する前までも存在したので、何が「初の本格的政党内閣」なのかと言うと、「原」が、衆議院議席を持つ議員であり、かつ政党の党首である点が、これまでの内閣と違う点です。


これまでの内閣は、明治政府樹立に貢献した「元勲」が交代で総理大臣を努め、その後「元勲」は「元老」となり、「元老」が推薦した人物が、総理大臣に就任していました。


また、陸軍大臣海軍大臣、および外務大臣以外は、全て自身の政党である「立憲政友会」の人間が担当した事も、大きく異なる点です。


一般的に政党内閣の定義は、「選挙によって選ばれた多数党の党首が内閣総理大臣に選ばれ、閣僚の多数が政党の党員(政党所属の議員)である。」とされていますので、将に、初の本格的政党内閣の誕生となります。


(2)「平民宰相」

前述の通り、「原」は、初めて、爵位を持たないまま総理大臣になった人物です。このため、「平民宰相」と呼ばれることになります。


また噂では、生涯、爵位を辞退し続け、貴族院議員を「錦を着た乞食」と呼んで蔑んだと伝えられています。


しかし・・・その実態は、と言うと、実は、2回「爵位申請」をしていたそうですが、申請した後に、前述の通り「逓信大臣」に就任したので、申請が「立ち消え」になってしまったそうです。


さらに、党の幹事長として力を広げるために、「爵位」は必要と考えた上での行動だったらしいのですが、「爵位」が無くても力を拡大することが出来たので、後には「爵位不要」と思ったらしい、と言うのが真実のようです。


(3)内政への積極政策

「原」は、内政に関しては、教育制度改革、交通機関整備、産業通商振興、および国防充実と言う4つの政策を重点課題として取り組みました。


交通機関の整備に関しては、自身が、鉄道員総裁を経験した事から、多額の公債を発行して、鉄道網の整備に力を注ぎました。


教育制度改革では、高等教育の拡張に力を注ぎ、旧制高等学校から薬学専門学校まで、官立高等教育機関30校を新設したり、帝国大学に4学部を新設したりしました。


加えて、私立大学に関しても、大正8年(1919年)に施行された「大学令」にもとづき、現在の東京6大学、および日本大学國學院大學同志社大学の9大学を、旧制大学に昇格させました。


また国防に関しては、議会の反対を押し通し、軍事費を倍増し、当時の予算で15億円以上も配分しました。


さらに、政党の地方地盤の強化を目的に、地方への利益還元を図るとともに、当時は、国税10円以上納付した者だけしか投票できなかったのですが、これを3円に大幅に引き下げました。


しかし、男子普通選挙制度には反対していたようです。


(4)外交政策

「原」の外交政策の基本方針は、「対英米強調路線」でした。


このため、悪化していた中華民国との関係改善を図る事で英米と協調しようとしました。


また、第一次世界大戦の後始末をするパリ会議でも、アメリカが提唱した国際連盟にも賛同し、日本は常任理事国にも成りました。


ロシア革命に対抗すべく、欧州、およびアメリカと呼応してシベリアに出兵したのですが、日本側の被害・出費も莫大になってしまったので、シベリアからの撤退も進めました。


【 その他 】


盛岡においては、「原 敬」は、このような偉業を成し遂げた人物として敬愛されており、「はら たかし」ではなく、愛情を込めて「はら-けい」と呼ばれています。


このため、昭和33年、盛岡市本宮に残されていた「原 敬」の生家に隣接して記念館が設立されたのですが、正式名称は「原敬(はらけい)記念館」となっています。


それと、皆さんには余計な話だと思いますし、もう亡くなってしまったのですが、この記念館の昔の館長「赤坂 愛厚」氏は、私の叔父でした。


長年、学校の教師や校長を勤めており、私が中学生の頃、私の中学にも教頭として赴任して来たので、何とも居心地が悪かった事を思い出しますが、「原 敬」の研究をしていた事は、後で知って驚きました。


これも、その昔、夜に「テレビ東京」の旅番組で、盛岡市を紹介する番組があり(番組名は忘れました)、画面をボオーっと見ていたら、何か見た事があるオヤジが映っていたので、「んっ」と思ってよく見ると、テロップに「原敬記念館の館長」とあり、叔父さんが映っていたので、ビックリしてしまいました。


急いで実家に電話したのですが・・・お解りの通り、盛岡で「テレビ東京」の番組など流れているはずもなく、「ふ〜ん」の一言で片付けられてしまいました。


「原」の菩提寺は、以前、過去ブログでも紹介した「大慈寺」と言う「黄檗宗」の寺院になります。


★過去ブログ:盛岡七夕祭りとその周辺情報ついて


大慈寺の場所とか、付近の情報も、この過去ブログに記載していますので、そちらをご覧下さい。

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新渡戸稲造(文学者)


「新渡戸 稲造」、どのような人物か、ご存知ですか ? ちなみに、皆さんは、「われ太平洋の架け橋とならん」と言う言葉はご存知ですかね ?


この言葉は、「新渡戸」が、帝国大学の入学試験の面接の際に言った言葉として知られています。「新渡戸」の思いは、次の通りだと伝えられています。


『 日本には日本の長所があり、西洋には西洋の長所がある。お互いの国の長所を伝え合い、世界の国々が仲良くし、共に向上していくようにと願っています。そのための橋渡しの役をしたい。 』


しかし、そんな言葉よりも、今は作家「樋口 一葉」になってしまいましたが、「五千円札」の方が、有名でしょうか?


「 何で、このオッサンがお札になるの ? 」と思った方も沢山いたと思います。


そこで、この「オッサン」が、どんな偉業を成し遂げたのかを紹介したいと思います。


ちなみに、「新渡戸 稲造」を文学者として取り扱っていますが、実は、帝国大学を始めとして、様々な大学の教授や学長なども歴任していますので、本当は学者として取り扱った方が良かったのかもしれません。

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【 生立ち 】

「新渡戸 稲造」も、前述の「原 敬」と同様、盛岡藩士であり、時の第14代藩主「南部 利剛(としひさ)」の側用人を務めていた「新渡戸 十次郎」と「せき」の三男として、文久2年(1862年)、盛岡鷹匠小路(現在の下ノ橋町)に、幼名「稲之助」として生まれています。


時代としては、先の「原 敬」と、ほぼ同時期、「原 敬」の方が、6歳年上になります。


盛岡市下ノ橋町」の場所ですが、これも先に紹介した過去ブログに掲載した地図を見てもらえればと思いますが、盛岡城の南側になり、元々は、住所名の通り、藩お抱えの「鷹匠」達が住んでいた地区になります。


「新渡戸」の子供時代の学校も、「原 敬」と全く同様、藩校「作人館」から東京の「共慣義塾」に進んだのですが、その理由は、少し異なります。


慶応3年(1867年)、「新渡戸」が5歳の時に父「十次郎」が48歳で他界してしまったので、作人館卒業後、明治4年(1871年)、9歳の時に、叔父「太田 時敏(ときとし)」の養子になるとともに上京し、「共慣義塾」に入学する事となったのです。


叔父「太田 時敏」は、父の弟で、既に上京して東京で洋服屋を営んでいたそうですが、養子になる時に、「新渡戸 稲之助」から、養子ですので、名前を「太田 稲造」に改名しています。


そして、「共慣義塾」入学前には、少しの間だけ英語学校に通っていたそうで、「共慣義塾」には、10歳になってから入学しています。

【 学歴 】

「新渡戸(当時は太田)」は、明治6年(1873年)、11歳の時に、東京外国語学校(現:東京大学)に入学しますが、ここで同じく岩手出身(花巻市)の「佐藤 昌介(後の北海道帝国大学初代総長)」と出会い、農業に興味を持つようになったそうです。


そして、明治10年(1877年)、15歳の時に、札幌農学校(現:北海道大学)に、二期生として入学しています。



札幌農学校は、「Boys, be ambitious(少年よ、大志を抱け)」で有名な「クラーク博士(ウィリアム・スミス・クラーク)」が副校長として赴任していた学校ですが、契約期間が1年間だったため、「新渡戸」が入学した時には、既に帰国してしまっていたそうです。


明治14年(1881年)、札幌農学校を卒業したのですが、最低5年間は、北海道開拓のために働く義務を課せられていたので、北海道庁開拓使御用掛勧業課に勤務すると共に農商務省にも勤務し、さらに札幌農学校予科の教授としても勤務していました。


明治15年(1882年)に、北海道開拓使が廃止されたのを機に、帝国大学(現:東京大学)に入学し、選科生となりました。そして、帝国大学の面接試験で入学理由を問われた際、前述の「われ太平洋の〜」と答えたと伝えられています。


しかし、帝国大学の研究レベルの低さに失望した「新渡戸」は、明治17年(1884年)、22歳の時に帝国大学を退学し、アメリカのジョンズ・ホプキンス大学に私費留学しています。


さらに、その3年後、明治20年(1887年)には、札幌農学校助教授に任命されたのを機に、ジョンズ・ホプキンス大学も中途退学して、今度は、ドイツのボン大学の聴講生となった後、ハレ大学(現:マルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルク)で、農業経済学の博士号を取得しています。


なんとも、忙しい生活ですが、明治22年(1889年)、27歳の時に、長兄「七郎」の死去に伴い、再び姓を「新渡戸」に戻していますし、明治24年(1891年)、29歳の時に、ジョンズ・ホプキンス大学留学中に知り合った「メアリー・エルキントン(Mary P. Elkinton/日本名:万里子)」と結婚しています。


メアリーとは、フィラデルフィアで結婚式を挙げた後、同1891年、日本に帰国して、札幌農学校の教授に就任しています。


【 功績 】

日本帰国後の明治25年(1892年)、30歳の時に、「新渡戸」の処女作「日米通交史」を、ジョンズ・ホプキンス大学から出版し、名誉学士号を得ています。


「日米通交史」は、元々は、同大学での博士論文取得を目的として書き始めたのですが、作成途中に同大学を退学してドイツに留学してしまったので、日本帰国後に著書として出版した物です。


内容としては、ペリーの開国交渉以前の日本と諸外国との関わりを概観することから始まり、日米和親条約、および日米修好通商条約の締結までの経緯、そして近代日本におけるアメリカの影響を紹介しています。


この著書は、学術書と言うよりも、先行研究や個人的な見聞に従って、日本をアメリカに紹介し、それによって両国の絆を深めようとする意図に基づく啓蒙的なものであったとされています。

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明治27年(1894年)、32歳の時に、札幌に「遠友夜学校」を私費で設立していますが、この学校は、貧しい子供や勤労青年のための無料で学べる夜間学校で、何と!! 昭和19年(1994年)まで、100年間も継続していたそうです。


現在では、「新渡戸」の志を継ぐべく、平成17年(2005年)から、「平成遠友夜学校」が開催されているようです。詳しくは、次のページをご覧下さい。


★平成遠友夜学校のページ:http://enyuyagakkou.web.fc2.com/top.htm

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札幌での生活で、「新渡戸」は、札幌農学校の教授職を勤めながら教頭にもなり、さらに舎監なども務めたため、夫婦共に体調を崩してしまったので、休暇を取るためにカリフォルニアで療養することになってしまいました。


そして、この療養中、明治33年(1900年)、38歳の時に名著「BUSHIDO:THE SOUL OF JAPAN」を執筆し、アメリカで出版しました。ちなみに、全て英文です。


初版は、アメリカのフィラデルフィアの「リーズ・アンド・ビドル社」から刊行されています。


この本は、「新渡戸」の妻メアリーが、日本の風習に疑問を持っていることを知り、日本のことを海外に、海外の事を日本に知ってもらいたい、と考えるようになり執筆したと言われています。


内容としては、非常に奥が深いので余り触れませんが、義を礎とし、仁の心を尊び、己の命に代えても忠義を尽くさんとする侍の生きかたや、散りゆく桜が淡い香りを残していくように、彼らの精神もまた朽ちることなく生き続けるという、「新渡戸」の日本人感を紹介しています。


この本は、後に日本を知る格好の書物として各国語に翻訳され、日本でも明治41年(1908年)に訳されており、21世紀に入っても解読書が出版されたり、単行本が発行されたりしているベストセラー本です。


第26代米大統領セオドア・ルーズベルト」や第35代大統領「ジョン・F・ケネディ」も、日本人を知るためにこの本を愛読したとされています。

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明治34年(1901年)、当時、台湾総督府の民生長官となっていた、同郷(奥州市水沢区)の「後藤 新平」に請われ、札幌農学校を辞職して、台湾総督府の技師となっています。


台湾総督府では、民政局殖産課長、殖産局長心得、そして臨時台湾糖務局長となり、当時の総督であった「児玉 源太郎」に、「糖業改良意見書」を提出しています。


この「糖業改良意見書」は、サトウキビの生産、製造、および市場の三方面に渡る意見書で、台湾における糖業発展の基礎を築いたとされています。


ちなみに「後藤新平」は、台湾総督府民生長官の他にも、満鉄初代総裁。逓信大臣、内務大臣、外務大臣東京市第7代市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長。東京放送局(後の日本放送協会)初代総裁。拓殖大学第3代学長を歴任した人物です。


関東大震災後に、内務大臣兼帝都復興院総裁として、東京の帝都復興計画を立案したのですが、何を計画するにも規模が大きいので、「大風呂敷」と言うアダ名を付けられています。


昨年、平成14年に一部開通した「マッカーサー道路」と呼ばれている「環状第2号線」は、実は、元々は「後藤」が計画した道路です。

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明治36年(1903年)、41歳で日本に帰国すると、京都帝国大学法科の教授を始めとして、下記のように、様々な大学関係の職に就いています。


明治36年(1903年) :京都帝国大学法科教授
明治39年(1906年) :第一高等学校(旧制一高)校長就任、および東京帝国大学農科大学教授兼任
明治42年(1909年) :「実業之日本社」編集顧問就任
明治44年(1911年) :第一回日米交換教授として渡米、各地の大学で講演
・大正5年(1916年) :東京植民貿易語学校(現:保善高等学校)校長就任
大正6年(1917年) :東洋協会植民専門学校(現:拓殖大学)2代目学監就任
大正7年(1918年) :東京女子大学初代学長就任


帰国後、15年間で、8つもの学校の教授、校長、学監、および学長に就任するなど・・・どうしたら、こんなに色んな事が出来るのでしょうか ?

上記の他にも、津田塾の顧問になったり、普連土学園を創立したりと、病弱だったと伝えられている割には、凄く精力的だったようです。

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大正9年(1920年)、第一次世界大戦の反省から設立された「国際連盟」においては、既に当時は、国際的な有名人となっていた「新渡戸」が、国際連盟の事務次長に就任しました。


日本は、イギリス、フランス、イタリヤと共に、常任理事国に就任しましたが、国際連盟を提唱したアメリカ自身は、結局最後まで加盟しませんでした。


「新渡戸」は、この国際連盟の規約に「人種差別撤廃提案」を盛り込もうとして、加盟国の過半数の指示を取り付けたのですが・・・何と、加盟もしていないアメリカの反対で否決されてしまったそうです。


事務次長時代には、国際知的協力委員会(現:ユネスコ)の設置やオーランド諸島帰属問題の調停等で活躍したようです。


大正15年(1926年)、64歳の時に、7年間務めた事務次長を退任したのですが・・・その後は、ご存知の通り、日本は軍国主義に走ってしまい、「新渡戸」の思いとは、正反対の道に進んでしまいました。


「新渡戸」は、昭和7年(1932年)、松山市の講演後、地元の新聞帰社に、『 わが国を滅ぼすものは共産党軍閥である。そのどちらが怖いかと問われたら、今では軍閥と答えねばならない。 』と発言し、非難の集中砲火を浴びてしまったそうです。


この事件は、「松山事件」と呼ばれており、この発言後、「新渡戸」は、右翼から暗殺のターゲットになってしまったそうです。


その当時、「国を思ひ 世を憂うればこそ 何事も 忍ぶ心は 神ぞ知るらん」と言う歌を、知人宛の手紙で使っており、その歌が色紙に残されています。

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昭和8年(1933年)、71歳の時、日本が国際連盟脱退後、カナダのバンフで開催された「太平洋問題調査会」に、日本代表団団長として出席するために渡米したのですが、会議終了後に、カナダのビクトリアで倒れ、そのまま客死してしまいました。


【 その他 】

「新渡戸」自身は、札幌農学校に入学した事で、熱心なキリスト教徒となり、「パウロ」と言う洗礼名を授けられたそうです。後の、「新渡戸」の行動や考え方は、全てキリスト教に基づくものとなったようです。


札幌農学校は、クラーク博士は、聖書をもとに倫理学を教えていたので、ほぼ全ての生徒がキリスト教に入信していたそうです。


「新渡戸」も、学校入学当初は、「口よりも先に手が出る」タイプだったらしく、最初は「アクティブ(活動家)」と言うアダ名で呼ばれていたのですが、キリスト教に触れたことでケンカの仲裁や調停を行うようになり、後に「モンク(修道士)」と言うアダ名に変わってしまったと伝えられています。


その後、ジョンズ・ホプキンス大学在学中、クエーカー教に関心を持ち、正式会員になったようですが、妻メアリーとは、このクエーカー教の集まりで知り合ったと言われています。


ちなみに、クエーカー教は、自分達を「クエーカー教徒」とは呼ばす、「Friends(友会徒)」と呼んでおり、このため「新渡戸」が設立に関わった「普連土学園」の名称も、ここから来ています。

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「新渡戸」の母「せき」は、武士の妻らしく、非常に厳しい女性だったようですが、「新渡戸」が9歳で盛岡から上京した後、明治13年(1880年)、母「せき」が盛岡で死去するまで、一度も会えなかったそうです。


このため、「新渡戸」は、一時「鬱病」になってしまったそうですが、札幌農学校時代の親友「内村 鑑三」から励ましの手紙や本(サーター・リサータス)により、鬱病を克服出来たと言われています。


少し前、平成27年12月6日まで、盛岡市本宮にある「盛岡市先人記念館」において、「女性のチカラ −カテイの教え−」という企画展が開催されており、そこで、新渡戸稲造原敬の母親が、彼らに与えた影響を紹介していました。

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「新渡戸」には、妻メアリーとの間に、「遠益(トオマス)」と言う、現在で言う「キラキラネーム」の様な名前の子供をもうけたのですが、この子は、可哀想なことに、生後8日で亡くなってしまったそうです。


この「遠益」は、キリストの十二使徒「トマス」に由来すると言われていますので、本当に「キラキラネーム」だったと思います。

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「新渡戸」の幼名「稲之助」は、祖父「伝(つとう)」、父「十次郎」、そして兄「七郎」が開墾に関わった「三本木原」に由来しています。(※「伝」は「傳」とも表記)


祖父「伝」は、当時は不毛の地だった「三本木原」に、十和田湖から用水(現:稲生川)を引き、水田を開墾したのですが、「三本木原」から最初の米が収穫された年に「新渡戸」が生まれたため、「稲之助」と名付けたと言われています。


とにかく、「新渡戸 稲造」は、母、そして妻への思いから生まれた女性の地位/立場向上、そしてキリスト教的な考え方、特にクエーカー教徒的な平和主義を、生涯を通して貫いた人物だったと思われます。

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金田一京助(言語学者)


金田一 京助」に関しては、皆さんは、特に学校で何かを習ったり、あるいは何か有名な言葉を語った人として、知っていたりすることは、ほとんど無いと思います。


しかし、今の子供達は国語辞典を使わないので知らないと思いますが、私達の世代が子供の頃には、国語辞典の監修/編集者と言えば、ほぼ全ての辞典に「金田一 京助」と書かれていたように思えます。


子供心にも、『 何で国語辞典の監修は、全て金田一京助なんだろう ? 』と不思議に思った記憶が今でもあります。


もっとも、その当時は、「金田一 京助」が岩手県出身ということさせ全然知りませんでしたが・・・


何故、これほど多くの国語辞典の監修を行えたのかというと、言葉は悪いですが、ほぼ全てが「名義貸し」の産物です。


金田一」は、昭和16年(1941年)、59歳の時には、帝国大学教授となっていますし、既に他の大学では教授職を歴任しています。


また、人好きがするので人脈も広く、教え子も沢山いました。このため、特に、教え子達が、「金田一」の高名さに目を付け、名義貸しを依頼したとされています。


この他にも、「金田一」に関しては、どちらかというと逸話の方が多いので、逸話に関しては「その他」で紹介します。

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【 生立ち 】


金田一 京助」は、明治15年(1882年)、盛岡市四ツ家町(現:本町通二丁目」に、旅館業を営む「金田一 久米之助」と「ヤス」の長男として生まれています。


金田一」の生家は、現在は残されていませんが、「金田一」の遠い親戚筋が、「金田一」の生家の隣だった場所で、現在でも薬局を営んでいるようです。


画像の左側に観光協会が設置した「案内板」があり、そこには「金田一京助生誕の地」と記載されていますが、ちょっと違うようですね。


ちなみに、「京助」という名前は、父「久米之助」が、京都に出張中に生まれたから、と言う噂がありますが、真偽は確かではありません。


一方、岩手県の県北、現在の二戸市に「金田一」という地名の場所があります。この場所は、温泉と「座敷童子」で有名な場所です。


「座敷童子」に関しては、やはり「金田一温泉」の中の一軒「緑風荘」が有名でしたが、平成21年(2009年)に、保守点検の不備によりボイラー室から出火し、全焼してしまいました。


焼失当初から、旅館を再建する旨を宣言していたのですが、なかなか再建資金が集まらず、平成27年(2015年)の10月に、ようやく再建工事に着工したようです。


そして、「金田一温泉」ですが、元々は、地域の至る所で温泉が湧き出ており、「田んぼから湯が沸いている」から「湯田」と呼ばれていたそうです。


その後、何時の頃からかは解りませんが、この地域は「金田一」と呼ばれるようになったみたいですが、一説では、南部氏の一族が、この地に移り住み、地名から「金田一」氏と名乗り、後に領土を安堵されたという話があるそうです。そして、「金田一 京助」は、この「金田一」氏の末裔と言う説もあるみたいです。


ちなみに、「座敷童子」に関しては、下記過去ブログをご覧下さい。


★過去ブログ:岩手の民間信仰 〜 聞いた事も無い信仰ばかり Vol.3(20150718.html)


話を「金田一 京助」に戻しますと、その後、下記のような学校に進み、学業に励んだそうです。


明治21年(1888年):5歳、盛岡第一尋常小学校(現:仁王小学校)入学
明治25年(1892年):9歳、盛岡高等小学校(現:下ノ橋中学校)入学
明治29年(1896年):13歳、岩手県立盛岡中学校(現:盛岡第一高等学校)入学
明治34年(1901年):19歳、第二高等学校(現:東北大学)入学
明治37年(1904年):22歳、東京帝国大学(現:東京大学)入学


特に、帝国大学在学中に、恩師「上田 萬年(かずとし)」の勧められた事が、アイヌ語の研究を始めるきっかけになったそうです。


「上田」からは「アイヌは日本にしか住んでいないのだから、アイヌ語研究は、世界に対する日本の学者の責任なのだ。それをやる人がいないということは非常に残念。」と言われたのが始まりと伝えられています。


また、盛岡高等小学校在学時に、2歳年下の「石川 啄木」が入学してきたので、それから「啄木」が死ぬまで、「腐れ縁」が続くことになります。


なお、盛岡中学時代、2学年上には、第37代内閣総理大臣となる「米内光政」、同学年には、銭形平次を書いた作家の「野村胡堂」、1学年下には陸軍大臣となる「板垣征四郎」が在籍しており、「米内」や「野村」とは、生涯に渡って交友が続いていたようです。

【 経歴 】

帝国大学在学中の明治39年(1906年)、初めて北海道に行き、北海道内でのアイヌ語の調査を行い、アイヌ民族に伝わる叙事詩ユーカラ」の存在に注目したそうです。


その後、明治40年(1907年)、24歳で帝国大学を卒業すると、その年の7月には、単身樺太に渡り、「樺太アイヌ語」の研究を始めたようです。


明治41年(1908年)、26歳の時に、三省堂に勤務するとともに、國學院大学の講師にもなっています。


大正元年(1912年)、30歳の時、上野公園の拓殖博覧会にて樺太から来た諸民族や、北海道の紫雲古津(しうんこつ)から来たアイヌ人「コポアヌ」に出会います。


この頃から、北海道を訪れたり、アイヌ人の人たちを自宅に泊めたりして、ユーカラアイヌ民族叙事詩)の筆録を進めたようです。



翌、大正2年(1913年)、31歳の時に、東京帝国文科大学講師となるとともに、7月から8月末まで、「コポアヌ」の推薦により盲目のユーカラ伝承者、紫雲古津の「ワカルパ」を東京に呼んで、約1,000ページにもなる「ユーカラ」をローマ字で筆録したそうです。


大正4年(1915年)、33歳の時に、北海道庁/樺太庁の命により、北海道、および樺太を訪問調査し、地元の古老達から物語歌(ユーカラ)を筆録します。


その後は、アイヌ人「金成マツ」や「知里幸恵」との交流を深めながら、アイヌ語の研究を進めています。


そして、大正11年(1922年)、40歳で國學院大学教授、昭和16年(1941年)、59歳で東京帝国大学教授となっています。(1943年で退職)


その後も、昭和23年(1948年)には日本学士院会員、昭和27年(1952年)には国語審議会委員となり、昭和29年(1954年)に文化勲章を授与されています。

さらに、昭和34年(1959年)、現在でも、一人しか存在しない「盛岡市名誉市民」となり、昭和42年(1967年)には、第二代日本言語学会会長に就任しましたが、昭和46年(1971年)、89歳で死去してしまいました。


息子「春彦」、孫「真澄」/「秀穂」ともに言語学者として有名です。


【 功績 】

金田一 京助」の功績としては、失われつつあったアイヌ語叙事詩ユーカラ」を、文字として残したことだと思われます。


アイヌ語は、口承で伝えられるだけで文字を持たなかったので、「金田一」や、その弟子「久保寺 逸彦(くぼでら-いつひこ)」、および「知里幸恵」と「知里真志保」の姉弟が居なければ、消滅していたと考えられています。


現在でも、2009年、ユネスコの「消滅に瀕する言語」の最高ランクである「極めて深刻」に位置付けられています。


金田一」は、数多くの著書、論文を執筆していますが、その中でも、次の著書/論文が有名です。


・「アイヌ叙事詩ユーカラの研究」
・論文「ユーカラ語法・特にその動詞に就いて」
・「アイヌ叙事詩ユーカラ集」


【 その他 】

金田一」は、『 無類のお人好し 』として有名でした。



その良い例が、本章の最初に触れた「国語辞典の監修」の件と、もう一つが、盛岡中学の後輩「石川 啄木」との関係です。


国語辞典に関しては、「三省堂書店」の『明解国語辞典』が有名ですが、これも「金田一」の弟子である「見坊 豪紀(けんぼう-ひでとし)」が、帝国大学の院生の時に、ほぼ独力で作成した辞典と言われています。


しかしこれは、別に「金田一」が、自分の名声を高めるために行っていた訳ではなく、「金田一」の名前を付けた方が、辞書が売れると考えた出版社の考えでした。


アクセントに関しては、「金田一」の息子「金田一 春彦」が担当していたのですが、「春彦」自身も、「父は全然関与していない」と明言しています。


とにかく、頼まれると断れない正確だったので、一時期は、13冊もの辞典に、「名義貸し」を行っていたと言われています。

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それと、「石川 啄木」の件ですが・・・


この逸話は、地元では、とても有名で、この話の影響もあり、盛岡では、あまり「啄木」は好かれていません。その他にも、「啄木」に関しては、余り良い話はありません、と言うか、「良い話」も「良い噂」も全くありません。


「啄木」は、とにかく自分が大好きで、自分の夢のためなら、家族も友達も「踏み台」にするような人間だったと言われており、特に「借金魔」として有名でした。


「啄木」の死後、借金の額が明らかになったそうですが、総額「1372円」、現在の金額に換算すると「1,400万円」もの借金があったそうです。


そして、その借金先として利用されたのが「金田一」で、樺太出張中にも連絡を取って借金を依頼したそうです。


さらに、「金田一」は、明治42年(1909年)、27歳の時に、下宿先の隣の家に住んでいた「静江」と結婚していたのですが、妻の着物を質に入れてまで「啄木」に渡すお金を工面していたそうです。


このため、妻「静江」は、「啄木」の事を、蛇蝎の如く嫌っていたそうですし、息子の「春彦」も、『 石川啄木が来ると家の物が無くなっていくので、啄木とは、石川五右衛門の子孫」と思っていたそうです。


ちょっと脇道に逸れますが、「啄木」は、「金田一」から借りたお金で「吉原」に通っていたそうで、私は、これらの話を聞いてから「啄木」の事を大嫌いになりました。


「はたらけど はたらけど猶 わが生活(くらし) 楽にならざり ぢっと手を見る」


この短歌は、「啄木」の有名な歌集『 一握の砂 』に収められた歌ですが、全く・・・「嘘つけ!」と言いたくなります。


ろくに働きもせず、人からお金を借りまくり、その上、吉原で遊んでばかりで、かつ、「啄木」は、この当時、既に結婚しており、妻子を盛岡に残して独りで上京していますが、妻子に、仕送りなど一切していません。


「石川 啄木」は、本当に、「人間のクズ」の様な輩だと思います。

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作家「横溝 正史」の「金田一 耕助」シリーズはご存知でしょうか ? 「犬神家の一族」とか「八つ墓村」とか有名ですよね。


この「金田一 耕助」という人物名は、「金田一 京助」がモデルとなっています。


この事自体、「横溝」本人も認めているのですが、何と・・・「金田一」本人には、了解を得ていなかったようです。


「横溝」は、疎開する前に東京の吉祥寺に住んでおり、その時の「隣組」が、「金田一」家だったそうです。(※隣に住んでいたのは金田一京助の弟「金田一安三」)


そして、小説を書く時に、元々、その風貌は、劇作家の「菊田一夫」をモデルにしていたので、名前も「菊田一」にしようと思ったそうですが、そんな名前は有るはずがないと却下されてしまい、そこで思い出したのが「金田一 京助」だったそうです。


後に、様々な機会に、「金田一」と出会うのですが、結局、了解を得る前に「金田一」が死去してしまい、名前を勝手に借用した事を、ずっと後悔していたそうです。


その後、この事を人づてに聞いた息子の「春彦」が、『 金田一耕助さんのおかげで世間の皆さんから「キンダイチ」と正確に発音してもらえるようになった、難しい苗字なのでいろいろ読み違えられて困っていた。こちらこそ感謝している。 』と伝えられホッとしたと伝えられています。

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金田一」は、講義時間が長い事が有名で、講義終了の鐘が鳴っても、平気で2〜30分は話し続けており、新潟で行われた講演会では、何と、独りで6時間も話し続けた事があるそうです。


ちなみに、この6時間話続けた件は、「新潟講演事件」と呼ばれているようですが・・・


そして、昭和29年(1954年)5月、昭和天皇に、アイヌ語のご進講を行う機会があり、この時は、宮内庁側から、あらかじめ「持ち時間は15分」と伝えられていました。


ところが、「金田一」は、話を始めると止まらなくなってしまい、何と!・・・2時間程も話し続けてしまい、「陛下の前で大恥をかいた」と、真っ青な顔をして家に帰ると、部屋に閉じこもり号泣していたと、息子の「春彦」が伝えています。


しかし、後に、昭和天皇からお茶会に招待されたのですが、前回の失態に恐縮して、顔も上げられずにいた「金田一」に対し、天皇陛下から「金田一、この前の話は面白かったよ。」とお声を掛けられたそうです。


これに対して「金田一」は、「恐れいりました」と申し上げた後、感激のあまり言葉が続かず、ポロポロと涙を流していたと伝えられています。

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とにかく、「金田一」は、前述の通りの「お人好し」の上に、とんでもない「おっちょこちょい」だったようです。


例えば、これも息子の「春彦」によると、ある時、教え子の結婚式に、主賓として招待されたそうです。


結婚式当日、式場に向かいながら、スピーチ内容を考えながら歩いていた所、道に迷ってしまったそうで、結婚式には、大幅に遅れてしまったそうですが、取り急ぎ、空いている席に座ったそうです。


スピーチの時間が過ぎてしまったのだと思い、まあ仕方がないと、出された料理を食べ終わったのですが、それでも主賓なのでスピーチしようと思い、ボーイを呼んで、司会者に相談しようと思ったそうです。


そして、ボーイに招待状を見せたところ、ボーイから、「この方の結婚式は昨日終わっています。」と言われ、脱兎のごとく逃げ帰ってきたそうです。


また、ある時、書斎の書類を整理していたところ、出版社からの手紙を見つけ読んでみたところ、原稿依頼の手紙で、期限が、あと3日となっていたそうです。


これは、急がないとマズイと思い、徹夜で原稿を仕上げて、どうにか期限までに出版社に原稿を送ったそうです。

ところが、その後、「春彦」宛に、出版社から、手紙と菓子折り、それと原稿が送り返されてきたそうです。


「春彦」が出版社からの手紙を読んでみると、原稿を作成して頂いたお礼だったそうですが、何と! あの原稿依頼の手紙は、2年前に出した手紙で、原稿を載せる予定の雑誌は、1年前に廃刊になっていたそうです。


その上、原稿依頼の手紙は、「金田一」宛てではなく、息子「春彦」に宛てて送った手紙だったそうです。


つまり、「金田一」は、息子宛の手紙を、勝手に自分宛てだと思い書斎に持ち込み、そのまま2年間も読まずに放置しいていた事になります。


その他にも、「金田一」に関する逸話は、ブログに書ききれない程、沢山あるようです。

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今回、次の3名を取り上げましたが、如何でしたか ?

・原 敬
・新渡戸 稲造
金田一 京助


その他にも、岩手県出身で、色々な業界で活躍した人は沢山存在するようです。


本当は、他の方々も紹介しようと思ったのですが・・・なにせ、皆さん、かなり有名なので、経歴、功績、そして逸話を、簡単に紹介するだけでも、かなりのページになってしまったので、今回は割愛させて頂きました。


今回のブログにも登場した、「後藤 新平」、「米内光政」、「野村胡堂」・・・彼らは、日本の歴史の中に足跡を残してきた方々だと思いますが、その他にも、次のような有名な方々がいらっしゃいます。


●深沢 紅子 :女流洋画家、童話の挿絵を多数作成
●三船 久蔵 :講道館で史上4番目の十段取得者、柔道の神様と呼ばれた
●田鎖 綱紀 :日本速記術の創始者
●船越 保武 :戦後日本を代表する彫刻家
●久慈 次郎 :プロ野球の創設時の主要メンバー
●鹿島 精一 :近代土木事業の先駆者。鹿島組三代目組長、鹿島建設初代社長
●葛西 萬司 :近代建築設計家。辰野金吾のパートナー。「辰野葛西建築事務所」


今回、ブログに「Vol.1」と付けてしまいましたので、後日、「Vol.2」で、これらの方々も紹介したいと思います。


但し、「金田一 京助」に登場した「板垣征四郎」ですが、「米内光政」と同じ軍人で、陸軍大将にまで上り詰めた人ですが・・・こちらは同じ軍人でも「米内」とは正反対の「戦犯」ですから、逆に「郷土の恥」だと思いますので、「石川啄木」同様、このシリーズでは紹介したくないと思います。


それでは次回も宜しくお願い申し上げます。

以上

【画像・情報提供先】
Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)
・盛岡先人記念館(http://www.mfca.jp/senjin/)
・太素の水プロジェクト(http://taisonomizu.jp/)
京都産業大学 学術リポジトリ(https://ksurep.kyoto-su.ac.jp/dspace/bitstream/10965/459/1/AHSUSK_SSS_28_43.pdf)
・「金田一京助と日本語の近代」(安田敏朗著、平凡社新書

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