南部相撲 〜 岩手の土俵は四角い土俵 ? − その1


いきなりですが、皆さん、相撲は好きですか ?


世間では、大相撲「九月場所」も好評の内に終了したのですが、横綱のクセに立ち会いに変化ばかりする「鶴竜」が優勝したと、大ブーイングになっています。


相撲賭博問題で低迷していた人気が、ようやく回復してきたのに、「横綱の立会変化」で、観客が興ざめしない事を願います。


私は、祖母が、TVの相撲観戦が好きだった事や、生まれが東北地方だったために、TV番組が少なかった影響もあり、子供の頃からTVで相撲を見続けてきました。


さすがに、中学生や高校生の頃は、TVの大相撲観戦は見ませんでしたが、大学生や社会人になってからも、暇な時は、TVで相撲を見たりしていました。


そんな状況の時に、「若貴ブーム(1990年代)」が到来し、ネコも杓子も大相撲を見る時代が到来しました。昔から、相撲を観戦していた人間にとっては、何か、異常な雰囲気の時代でした。



似たような現象と言えば、サッカーも同じような感じでした。


その昔、やはりTV番組が少なかったせいで、当時、日本で唯一のサッカー番組だった「ダイヤモンドサッカー」を毎週見ていました。


その当時は、日本でスポーツと言えば「野球」ばかりで、サッカーなど、全然見向きもされない時代でした。


しかし、私は、ベッケン・バウアーヨハン・クライフ、日本人選手では奥寺選手などの映像を見て、サッカーは面白いな〜と感心していました。


そんな中、1993年に、日本で「Jリーグ」が開催されると、ここも「ネコも杓子も」状態となり、「オフサイド」の意味さえ知らない連中が、「サッカー、Jリーグ」と騒ぎたて、変な感じでした。


まあ、前述の「若貴ブーム」や「Jリーグ人気」の時代は、日本全体が「バブル景気」の影響を受け、変な熱に浮かされ、何でもかんでもブームになってしまい、地に足がついた活動が出来なかった時代でもあります。


当時ブームになったイベントと言えば、上記以外でも、競馬ブーム、ディスコブーム、スキーブーム・・・


とにかく、これらのイベントは、何時行ってもすごい人だかりで、今では考えられませんが、スキーなんかは、1回リフトに乗るために、1時間待ちは普通の状態でした。


当時、バブルに踊ったイベント施設は、バブル崩壊と共に閑古鳥が鳴く施設となり、潰れた施設も数知れずの状態だと思います。


さて、話が脇にずれてしまいましたが、大相撲は、2011年に発覚した「八百長問題」があり、一時は、公益法人の取り消しまで検討されましたが、現在では、相撲協会の努力もあり、バブル以来の人気になってきたみたいです。


そんな相撲ですが、実は、平安時代の相撲人気から始まり、江戸時代においても、もの凄い人気だったようです。


当時の幕府が、何度も「相撲禁止令」を出しても、民衆は、幕府のお触れを無視して、相撲を続けたみたいです。


当時は、当然、野球もサッカーもありませんでしたから、本当に、唯一のスポーツ娯楽だったかもしれません。最初は、神聖な「神事」だったのですが・・・


ところで、江戸時代の相撲の土俵は、本ブログの冒頭に載せた画像のように、四角い土俵だった事はご存知ですか ?


今回のブログでは、土俵の変遷はもちろん、相撲全般の話題を含め、南部相撲に関して、次の内容を紹介したいと思います。


但し、「相撲」に関しては、こうして調べてみると、本当に日本の「国技」と言われるのが当たり前の様に、紀元前からの歴史がありますので、2回に分割して紹介したいと思います。

【 第1回 】
●相撲の起源
奈良時代の相撲
平安時代の相撲
●奈良/平安時代の「相撲節会
●鎌倉/戦国時代の相撲

【 第2回 】
●江戸時代の相撲
南部藩の相撲
●土俵に関して


それでは今回も宜しくお願いします。

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■相撲の起源

日本相撲協会のホームページによると、相撲の起源は、古事記(712年)に記載されている「力くらべ」の神話や、日本書記(720年)に記載されている「宿禰(すくね)/蹴速(けはや)」の天覧試合とされているそうです。


古事記」の「力くらべ」の神話とは、「大国主命(オオクニヌシ)」の国譲りの伝説の中の一部分だと考えられています。


大国主命の国譲り」の中には、「天照大神(アマテラスオオカミ)」の使者である「建御雷神(タケミカズチ)」が、大国主命の息子である「建御名方(タケミナカタ)」と「力くらべ」を行い、戦いに敗れた「建御名方」が、諏訪地方まで逃げて、最後は「建御雷神」に殺害されたとか、手を握りつぶされた、と言う伝説が記載されています。


そして、この「力くらべ」の伝説が、相撲の起源とされています。


ちなみに、「建御名方」が逃げた諏訪神社のご祭神が「建御名方」となっていますし、一方の「建御雷神」は、何の関係があるのか解りませんが、鹿島神宮のご祭神となっています。



一方の「日本書記」には、「宿禰(すくね)/蹴速(けはや)」の天覧試合の模様が記載されています。


右の画像は、大正時代に、岩手県遠野市にある「早池峰神社」に奉納された絵馬なのですが、「野見宿禰当麻蹶速対戦之図」となります。


そして、日本書紀の記述では、垂仁天皇七年(紀元前23年)7月7日、「野見宿禰」は、投げ倒した「当麻蹶速」の脇腹や腰を足で踏みつけ絶命させた、つまり蹴り殺したとなっています。


垂仁天皇」は、この勝利に感激し、「野見宿禰」を召し抱える事にしたそうです。


その後、「野見宿禰」は、垂仁天皇の皇后の死に際して、従来行われてきた殉死の風習を廃止し、埴輪を埋める「埴輪の制」を考案したとされています。


これも、相撲の起源とされていますが・・・当時の相撲は、現在とは全く異なり、キック中心の格闘技だったようです。このため、「野見宿禰」は、柔術の祖とも言われています。



ちなみに、「野見宿禰」は、前述の古事記の説明で触れた「大国主命」を祀っている「出雲大社」の第十三代宮司である「襲髄命(かねすねのみこと)」の別称とされています。


そして、平成25年(2013年)10月17日には、上記、出雲大社に相撲の神様として「野見宿禰神社」が創建されたようです。


しかし、「野見宿禰神社」に関しては、初代「高砂部屋」の跡地となる墨田区亀沢に明治17年(1884年)に創建されており、相撲関係者は、この神社にお参りをしているそうです。


古事記/日本書紀の時代に、始めて「相撲」、および「力士(ちからひと/すまひひと)」と言う言葉が使われるようになったみたいです。(この頃は、まだ「りきし」とは呼ばなかったみたいです)

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奈良時代

古事記/日本書紀の神話・伝説の時代から、古墳時代飛鳥時代奈良時代と経て、相撲は、どんどんその儀式(神事)として、その地位を高めて行ったようです。


奈良時代には、「志賀清林(しがのせいりん)」と言う力士(後に行司)が現れ、養老三年(719年)に、宮中の「抜出司(ぬきでし)」と言う役職に任命されたそうです。(※抜出司:平安時代の「相撲司」)


そして、「志賀清林」は、神亀三年(726年)には、それまでルールも何も無い生死を賭けた戦いだった相撲に対して、次の決まりを定めて、聖武天皇に奏上したそうです。

・「突く・蹴る・殴る」の三手の禁じ手を制定
・相撲の技「四十八手」を制定(四十八手:手技12種、足技12種、腰技12種、頭技12種)


このため、「志賀清林」は、相撲の公認作法を創った人として「国技相撲行司の祖」と伝えられているそうですが・・・他方、「続日本紀」等の史書に記載がない事から、架空の人物とも言われています。


奈良時代、特に聖武天皇の統治時代である、神亀(724〜729年)、および天平(729〜749年)年間に、相撲に関する多くの事柄が行われた様で、前述の禁じ手/四十八手の制定、宮中行事としての「相撲節会(すまひのせちえ/すもうせちえ)」が始まったのも、この時代と考えられています。


宮中行事秘事」によると、「相撲節会」が最初に行われたのは、前述の神亀三年(726年)と考えられています。


当初は、「野見宿禰/当麻蹶速」の戦いが、7月7日に行われた故事にちなみ、宮中の七夕の節会と融合し、7月7日に「相撲節会」が行われていたようです。


他方「続日本紀」には、同じ聖武天皇の時代ですが、天平六年(734年)の7月7日に、聖武天皇が、「相撲戯」を観覧したと言う記述があるので、これが最初の「相撲節会」とする説もあるそうです。


また、「続日本紀」には、神亀五年(728年)に、地方役人が、相撲人を、朝廷ではなく、直接、王族や公家に献上したことを戒める詔が発令されているそうです。


この事から、既に当時、貴族が相撲人を所有していたことが明らかになっています。

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平安時代


前述の通り、奈良時代に始まった「相撲節会」は、平安時代でも、各地から相撲人を選出し、毎年7月7日と8日の2日間渡り、「三度節」の一つの神事として、天皇が参加して宮中の「神泉苑」で開催され続けました。


相撲節会」は、五穀豊穣の祈願と、「占手(うらて)相撲」と言う作柄を占う神事が行われていたので、平安時代になっても、七夕と同時に開催され続けて来ました。


しかし、弘仁十五年(824年)に、既に病気のため退位していた平城天皇が7月7日に崩御してしまったので、国忌との重複を避けるために、「相撲節会」は7月16日に開催されるようになったそうです。(※相撲節会の開催日が変更になった時期は天長三年(826年)と言う説もあります。)


このため、7月16日が、相撲にとっての「節日(せちにち)」となりました。「節日」とは、「季節の変わり目に当たり祝い事等を行う日」と言う意味で、相撲の他にも、元旦、端午、朝陽、豊明等が行われます。


しかし、当時は、相撲が余程面白かったのか、節日以外にも、臨時の展覧試合が行われたり、あるいは神事より、武力の鍛錬が目的になったりと、神事としての意味合いよりも、武力や娯楽目的になってきてしまったそうです。


そして、相撲の開催日も、「節会」とは呼ばれなくなり、「相撲節」と呼ばれるようになってしまったようです。


その後、平安中期の貞観年間(859〜877年)には、理由は解りませんが、「相撲節」は、7月下旬(27〜28日/28〜29日)に開催される様に変更されてしまったそうです。


上記の様に、8世紀から9世紀末にかけては、「相撲節」を巡る環境が大きく様変わりした時期でもあります。


まず、式場に関しては、当初、天皇の庭である「神泉苑」で行われていた「相撲節会」ですが、8世紀末には、内裏となる「紫宸殿」に開催場所を移されてしまいました。


そして、奈良時代に設置された「相撲司」が廃止され、変わって、左右の近衛府に「相撲所」が設置され、「相撲節」を司る事になりました。また、重要な儀式だった「占手相撲」が廃絶されてしまいました。



このように、宮中における「相撲」の地位が、低下して来ている状況に加え、長元四年(1031年)には、「相撲節」の開催予定日であった28日が、陰陽道の忌日となる「坎日(かんにち)」と重なってしまいました。(※坎日:外出を忌む日)


当初は、これまで通りの定例日に「相撲節」を開催する、と言う事になるはずだったようですが、何故か、右近衛大将「藤原 実輔」が変節し、「相撲節は、臨時の小儀なので、期日変更は構わない」として、開催日が変更になってしまったそうです。


この頃、「相撲節会」は、名前が「相撲召合」と変えられてしまっていましたが、その地位は「節会」扱いだったようです。


「節会」とは、天皇が参加する重要な宮中行事なので日付固定ですが、この「藤原 実輔」の決定以降は、近衛府が主催する「小儀」扱いになってしまったそうです。(※小儀:朝廷の小規模儀式)

その後、保安三年(1122年)に「相撲節」が開催された後、30年間程度の長い空白期間があり、保元三年(1158年)に、「信西」の努力により、「後白河法皇」の展覧試合が行われて「相撲節」は復活したようです。


しかし、保元元年(1156年)に起こった「保元の乱」の影響や、その後、平治元年(1160年)に起こった「平治の乱」の影響もあり、承安四年(1174年)7月27日に、「平 清盛」の支援の元、「高倉天皇」が「相撲節」を開催するまで、また16年間も空白期間があったようです。


ところが、再度復活した「相撲節」ですが、この承安四年の開催を最後に、廃絶してしまったようです。


その後は、江戸時代になるまで、相撲は、民間で行われる「草相撲」が主流となってしまいました。

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■奈良/平安時代の「相撲節会


それでは、ここで、奈良/平安時代の「相撲節会」/「相撲節」の内容をご紹介したいと思います。


「相撲節」では、運営進行のために、大会の1ヶ月前に皇族や貴族などの従五位以上の高官24名を任命します。


そして、「相撲節」の10日前には、「召仰」という儀式で細かい打ち合わせをします。そして、「召仰」が終わると、左右の近衛府は、各々の準備に入り、稽古場である相撲所を開きます。


この時に、相撲人は、各府の大将など首脳に強弱を判断され、相談によって、その年の最強最手、次位の脇(のちの大関、関脇)、および二役などが選ばれる事になります。


また、後の番付のように、強いものから順に17番まで名簿が作られ、そして、「内取」と言う「けいこ相撲」に入ります。


「相撲節」の大会当日になると、まずは場内の整備から始まり、神泉苑の閣庭を掃き清めて砂を敷き、殿の上に、規定通りに座を設けて幕を張ります。


場内整備が終わると、天皇の臨席の許、上は皇太子から下は従六位以下まで、これまた規定の通り神泉苑に参入して着座し、天皇、皇太子が座につき、親王以下参議以上は庭上の列座につくと、歌舞音曲を合図に相撲が始まります。


まず、子供の「占手相撲」から取組が始まり、合計20番取り組みが行われます。「占手相撲」は、この年の吉凶を占うため、「相撲節」の最後の方でも、わずかながら国家的な年占いの意味を形式的には留めていたそうです。


今日の行司役はなく、左右から進行係の「立合」という役が2人ずつ出て東西に相対し、つづいて「記録係」も2人ずつ出てきて控える。


「土俵」はないので、勝負は広い相撲場の中央で行われ、相手を投げ倒し、突き倒すか、手か膝をつかせるのが決まり手となります。


相撲の進行中に殿上、階下では諸式万般の規則が微細の点にわたって定められ、極めて荘重に、天皇を中心とした酒盛りの饗宴が開かれます。


勝敗は、左右に控えている近衛次将がそれぞれ判断し、勝方は「籌刺(かずさし)」を行います。「籌刺」とは、勝負に勝った側が、数取りの串や木の枝を、数立てに刺す事であり、相撲の場合は、「矢」を刺していたとされています。


また、勝負がはっきりしない時には、勝負を審判する「出居(でい/いでい)」に申し立てます。それでも勝敗の判断がつかない時は、上卿が、次将を呼び寄せて判定します。


それでもなお判定に苦しむ時は、天皇に裁断を仰ぎ、この場合天皇は、審判部長の立場で、両方の言い分を聞き判定を下します。これは「天判」と呼ばれ、この最終決定に対しては、当然の事ながら、言い返すことはできません。


日没とともに、未取り組みの組が残っていても競技を終了し、矢数の多い方を勝ちとしました。結びの一番を取る最強の力士が勝つと褒美として弓矢が与えられ、舞人による勝ち舞が演じられます。


この習慣は、江戸時代に復活し、「最強の象徴である弓を取った」という意味あいで「弓取り」といわれ、今日では結びの一番が終了後、勝ち力士に代わって幕下力士が立行司から弓を受け取り、喜びを表現する儀式となっています。そして、節の最後には「千秋楽」、および「万歳楽」と言う雅楽が奏でられて、「相撲節会」/「相撲節」が終わることになります。


このように、現在の大相撲には「相撲節会」/「相撲節」に起源をもつ儀式が多くみられます。


勝った力士が次の番の力士に水を付け、負けた力士は水を付けないという「力水」の儀式も、この頃の作法に起源を持つものです。


また、当時、左近衛府から出場する相撲人は、「葵の花」を木綿で作り頭にさし、右近衛府から出場する相撲人は「夕顔」の造花をさし、勝った方は、その花を次に出場する相撲人に付けさせている。


土俵に向かうための東西に分かれた道を「花道」というが、これも同じく当時の作法に起源をもつものです。


「葵」は朝陽を受けて真っ直ぐに伸びるもので、東のシンボルとされ左の道に、「夕顔」は夕陽をうけて咲くので、西のシンボルとされ右の道にそれぞれが飾られ「花道」と呼ばれるようになったそうです。

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■鎌倉/戦国時代の相撲


「相撲節」は、朝廷の神事でしたから、朝廷内の閉ざされた世界だけで行われており、一般庶民には、見ることも許されない行事でした。


しかし、「相撲」と言う言葉では無かったと思いますが、日本においては、太古から相撲に類似した競技や神事が行われていたことが知られています。


左の画像は、福島県にある「原山古墳」から出土した「力士像埴輪」ですが、今から1,500年くらい前、5世紀頃の埋蔵品とされています。


このように、一般庶民の間でも、吉凶占いの「相撲」や、神社における神事の「相撲」は、古くから行われてきたと考えられています。


そして、前述の通り、平安時代後期から、朝廷では、余り「相撲」は行われなくなってしまいましたので、王族や貴族が抱えていた「相撲人」は、郷里に帰るか、あるいは、有名な「相撲人」は、神社に召し抱えられるようになりました


平安時代では、民間において行われる「相撲」を、「草相撲」、あるいは「土地相撲」と呼んでいたそうです、このように「相撲人」が民間や地方に分散することで、逆に、「草相撲」が盛んになったと考えられています。


また、平安時代末期からは武士が台頭し、建久三年(1192年)には、「源 頼朝」が征夷大将軍に任ぜられ、武家政権である「鎌倉幕府」を開きました。


こうなると、「相撲」は、「儀式」ではなく、武士の鍛錬のための「武道」としての「武家相撲」になって行きました。


鎌倉幕府を開いた初代将軍「源 頼朝」に始まり、その子「頼家」、「実朝」、および摂家から迎えられた四代「頼経」と、何れも「相撲」好きで、家人にも「相撲」を奨励していたとされています。


また、「源 頼経」以降、執権として政権を握る「北条氏」も「相撲」好きだったようで、鎌倉時代は、たびたび「上覧相撲」が開催されていたようです。


但し、はやり世が乱れると幕府主催の「上覧相撲」は、開催されなくなり、一般には、鎌倉時代末期から室町時代に及ぶ300年間は、将軍による「上覧相撲」は開催されなかったと言われています。


しかし、室町時代の皇族の日記(看聞日記)によると、第六代将軍「足利 義教(よしのり)」は、幕府や将軍の権力復活のために「御覧相撲」を開催したと記載されているようですので、「武家相撲」も続いていたのではないかと考えられています。



そして、戦国時代に入ると、各地の戦国大名達も「相撲」を好んで開催したようで、「織田信長」や「豊臣秀吉」なども、頻繁に「上覧相撲」を開催した事が「信長公記」等に記載されています。


また、この頃の「相撲人」は、そのほとんどが武士と考えられています。


農民の中でも、身体の大きな者や力自慢が、「禄を得る」ために「相撲人」となり、有力大名に召し抱えられる事で「武士」になったようです。


しかし、安土桃山時代に入ると、「相撲」は、戦が減った事もあり、武士の鍛錬と言うよりは、より娯楽性の高い「遊び」に変化していったようです。

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今回は、「南部相撲」の内容を紹介する前の、「前座」的な内容となってしまいましたが、如何でしたか ?


「国譲り神話」の件は、一昨年(2013年)に行われた「出雲大社」の遷宮に関わる説明や特集で、さんざん聞かされて知っていましたが、「野見宿禰」の話は、このブログを書くまで知りませんでした。


「相撲」に関わらず、「古事記」/「日本書記」以外の歴史書、例えば「天皇記」や「国記」等が残っていれば、もう少し具体的な話の確認が取れたのではないかと思うと、非常に残念で仕方がありません。


今では、「伝説」や「神話」とされている話にも、別の展開や、もっと具体的な証拠があったのかもしれません。


全く、「蘇我蝦夷の馬鹿野郎!!」です。


何故、「蘇我蝦夷」が馬鹿野郎なのかと言うと、息子「入鹿」が、大化元年(645年)の「乙巳(いっし/おっし)の変」で暗殺された翌日、自宅に火を付けて自害したのですが、その火が、自宅近くにあった「書庫」にまで延焼し、「天皇記」等、貴重な本が焼失してしまったからです。


しかし・・・バックアップ(写本)を行っていなかった、当時の官僚にも問題ありです。


貴重な歴史書は、きちんとバックアップを取っておきましょう。お願いします。


それと、私達の時代では、「蘇我入鹿」の暗殺を「大化の改新」と歴史の授業では習ったのですが・・・現在では、「乙巳の変」と言うのですね ?! 「乙巳の変」なんて呼び名、初めて知りました。


それでは次回も宜しくお願い申し上げます。

以上

【画像・情報提供先】
Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)
日本相撲協会ホームページ(http://www.sumo.or.jp/)
・泉崎資料館(http://www.vill.izumizaki.fukushima.jp/siryou/index.html)
・東京都立図書館(http://www.library.metro.tokyo.jp/)
・相撲評論家之頁(http://tsubotaa.la.coocan.jp/index.html)
高田川部屋ブログ(http://www.takadagawa.com/index.html)
毎日新聞(http://showa.mainichi.jp/news/1952/09/post-1a1c.html)
・法制史研究会ホームページ

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