冬の歳時記 〜 寒いのにご苦労様です


今回は、「冬の歳時記」と題して、岩手県内で行われる、歴史ある行事を紹介したいと思います。

盛岡市は、年々積雪量が減って来ていますが、それでも岩手県内では、岩手山の麓や、秋田県との県境など、まだまだ「豪雪地帯」と呼ばれている地域が沢山あります。


また、雪だけではなく、今となっては盛岡市の一部になってしまったのですが、玉山区薮川と言う地域などは、本州一寒い場所です。(-35℃を記録)


そんな過酷な環境の中でも、古くから受け継がれてきた伝統を絶やすこと無く、今に伝えている立派な方々も沢山います。


本ブログでも、過去には、次のような歴史ある冬の行事を紹介して参りました。


裸参り盛岡市 八幡宮 / 江戸時代〜
スミつけ祭り矢巾町 實相寺 / 安土桃山時代
磐井清水若水送り平泉町 中尊寺 / 平安時代
蘇民祭奥州市 黒石寺 / 鎌倉時代(?)〜


特に、「蘇民祭」に関しては、上記「黒石寺」を含めた10箇所で行われており、「岩手の蘇民祭」という名称で、国の無形文化財に指定されているほどです。


今回は、歴史ある行事として、冬に行われている次の行事を、北から順番に紹介したいと思います。

●サイトギ(二戸市)
●平笠裸参り(八幡平市)
●白木野人形送り(西和賀町)
●スネカ(大船渡市)
大東大原水かけ祭り(一関市)








それでは今回も宜しくお願いします。

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■サイトギ(二戸市)


「サイトギ」とは、岩手県の県北、青森県との県境に位置する、二戸市似鳥字林ノ下37番にある「似鳥(にたどり)八幡宮」で、毎年、旧暦1月6日に開催される、「春の例大祭」における「年占い」行事になります。


「サイトギ」を漢字で表すと、「歳戸木」、「歳燈木」、もしくは「柴燈木」と言う字になりますが、長さ2m位の雑木を井桁に組み、高さ3m位に積み上げた「やぐら」になります。


ちなみに、今年(平成27年)の旧暦「1月6日」は、2月24日(火)となります。


上の画像の中央部分、燃えている部分に、「サイトギ」が存在します。


「サイトギ」と言う行事は、簡単に言うと、後述する、本殿に供えられた「オコモリ」の欠け具合と、上の画像のように、燃え盛る木を、長さ4mの木の棒で叩く「お焚き上げ」により舞い上がる火の粉の方向で、その年の作柄や天候を占う行事になります。


「サイトギ」を簡単に説明してしまうと、上記の様に、2〜3行で終わってしまいますが、実際には、きちんとした数々の儀式があり、夕方の18時頃から開始し、夜21時過ぎまで、3時間以上も行われる行事になります。


それでは、儀式の流れを順番に説明します。


●神事

午後18時頃から、神官、および氏子により「サイトギご祈祷の儀」が行われます。この儀式が終わると「直会(なおらい)」となります。画像左側のオベリスクのような物体が「オコモリ」になります。(後で別途紹介します)


●神楽奉納

次は、神楽奉納になります。「サイトギ」で奉納される神楽は「似鳥神楽」と呼ばれているらしく、下舞、権現、および幕取りの3名が、2部構成の権現舞を奉納するそうです。画像、正面に鎮座しているのが「権現様」です。


●水垢離(みずごり)

式次第によると、神楽奉納の次は「豆まき」なのですが、これは割愛するとして、「水垢離」に移ります。この時点で、開始から2時間経過しています。

「水垢離」は、一斉に行うのではなく、一人ずつ、左肩、右肩、そして左肩と、3回水をかぶりますが、時には、「-10℃」もの寒さの中で行われるそうです。

●裸参り

「水垢離」で身体を清めた後、頭には白い鉢巻、腰には蓑(みの)を身にまとい、三角に折った紙を咥え、手には幣束(へいそく)を持って、「裸参り」を行います。

鈴を持った者を先頭に、二列になって神社を3回参拝し、さらに境内にある末社を全て巡って参拝します。

●お焚き上げ

次は、いよいよ「サイトギ」のクライマックスとなる「お焚き上げ」です。

まずは、男衆が、「サイトギ」を四方から囲み、炎の中に、長さ4mの木の棒を突っ込んで、合図を待ちます。

合図と共に「法螺貝」が吹かれ、太鼓の連打が始まると、男衆が木の棒を上下に揺さぶり、火の粉を巻き上げます。さらに、一旦後ろに下がり、助走を付けて「サイトギ」を叩き、さらに火の粉を巻き上げます。

この動作を、3回実施することで、早稲(わせ)、中稲(なかて)、晩稲(おくて)の作柄を占うそうです。

●御託宣

「お焚き上げ」が終わると、本殿で御託宣が告げられます。御託宣は、次の2つで占います。

・火の粉 :南に流れると豊作、北に流れると凶作
・オコモリ :溶けたり、崩れたり、虫が付いたりすると凶作



さて肝心の「オコモリ」ですが、右の画像、中央やや左よりのオベリスクのような物が「オコモリ」です。

「オコモリ」ですが、漢字で表すと「お米盛り」となるそうで、元々は、旧暦の12月30日から1月5日に掛けて、1日毎に、米、麦、豆、アワ、キビと、5日間掛けて神前に供えていたそうです。

現在では、12月31日に、米、麦、ヒエ、アワ、そしてキビの五穀を混ぜ込んだ炊いた物を、「三方」の上に、剣状に5個盛って、一晩凍らせた状態で、元旦の朝6時に神前に供えているそうです。


「オコモリ」をさらに拡大した画像が、左側になります。


上記「三方」とは、神社等のお供え物を載せる台として、よく見かけますが、これを神道の用語では、「三方」と言うそうです。


初めて知りました。


ところで、この「サイトギ」ですが、正確な記録が残されていないので、何時から、どのような経緯で始まったのかは解らないそうです。


また「似鳥八幡神社」自体も、創建年月が不明なのですが、神社の改修工事の際、南部家24代当主「南部晴政」公の時代となる天正5年(1577年)、田口刑三郎が改修を行ったと記載された「棟札」が見つかったそうなので、恐らくは、その当時から開催され続けてきたのではないかと言われています。


今では、作柄を占う以外にも、自死、無理死、あるいは交通事故等で亡くなり、地域を彷徨っている霊を、極楽浄土に昇天させる儀式とも考えられているそうです。


このため、「サイトギ」は、平成22年(2010年)、国の「選択無形文化財」に指定されています。


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■平笠裸参り(八幡平市)

次は、前述の二戸市の下、八幡平市平笠、および大更(おおぶけ)地域で行われる女性中心の「平笠裸参り」を紹介したいと思います。


江戸時代の享保17年(1732年)、岩手山が噴火し、大量の溶岩が流れ出したそうです。

このため、「平笠裸参り」は、正確な記録は残っていないようですが、この大噴火の後、岩手山の沈静化を祈願するために、当初は男性だけで行われたのが始まりと言われています。


その後、時代は流れ、太平洋戦争の間、戦争に出兵した夫や息子の武運長久を祈願して、留守宅を守る女性達により、裸参りが続けられたそうですが、現在でも、女性たちが中心となっているそうです。


今でこそ、女性が参加する「裸参り」も増えているようですが、「平笠裸参り」のように、現在でも、女性が中心となる「裸参り」は、全国的にも珍しいそうです。


また、「平笠裸参り」は、気温が氷点下となる中、八幡平市の「宮田神社」から「八坂神社」までの約8kmを練り歩く荒行になりますから、その意味でも、女性の参加は珍しいと思います。



それと、右の画像が、1732年の噴火で流れだした大量の溶岩の後と言われています。


この場所は、「焼き走り溶岩流」と呼ばれており、国の特別天然記念物に指定されています。


ちなみに、流れだした溶岩の量は、面積約149ヘクタール、長さ4Kmも続いており、推定では、東京ドーム32個分の量だそうです。



この「平笠裸参り」は、毎年、1月8日に開催されますが、その前日も、裸参りの無事を祈念したお祓いを行います。


裸参り当日、参加者は、自宅で水垢離(みずごり)を行った後に集合場所(保存会会長宅)に集まり、着替えを行った後、朝8:30分に、出発場所である「宮田神社」に再集合します。


参加者は、集合場所で既に着替えを済ませていますが、白装束で、頭に白い鉢巻、腰には注連縄を巻き、腰蓑(ビニール紐 ?)をまとい、三角に折った紙を咥えています。


『 女性の裸参り 』と言う事で、変な期待を抱いていた方には残念ですが、参加者には、女性や子供が多いのと、これから「八坂神社」まで、約8Kmもの道のりを歩かなくてはいけないために、さすがに無理な格好はさせられないようです。


足回りも、「わらじ」の人は少ないようで、ちゃんとスノーシューズを履いています。


しかし、根性が入った参加者は、上半身裸で、白足袋に「わらじ」を履いている方も見受けられます。


「裸参り」に参加する人は、恐らく神社への奉納品だと思われますが、次のような物を持っています。


・大小の「わらじ」
・ミニ俵
・験竿(けんざお)
・法螺貝
・お賽銭
・燭台
・お神酒
鏡餅

また、験竿には、「南無東方薬師瑠璃光如来」と書かれているそうです。


そして、「宮田神社」にて出発式を行うと、「八坂神社」に向けて、全員で出発することになりますが、この場での神事は行わないようです。



朝9:00時、法螺貝の奏者を先頭に、「宮田神社」の北鳥居を出発した一行は、田んぼを、ぐるりと一廻りし、再び「宮田神社」に戻るみたいです。


何故、再び神社に戻るのかは解りませんが、そう言う「しきたり」なのだと思います。


そして、今度は、南鳥居から「宮田神社」を出発し、いよいよ長丁場となる「八坂神社」に向かうことになります。


途中、何度かの休憩を挟んで、午後13:30分頃には、「八坂神社」に着く予定ですから、4時間半も掛かる、まさに「荒行」となります。



最初の画像を見て解かる通り、風を遮る物の無い、「田んぼ」道を、ひたすら歩き続ける訳ですから、かなりキツイと思います。


「八坂神社」に着くと、この時点では、特に神事も行われず、記念写真を撮った後、参加者は、「温泉入浴」タイムになるみたいです。


氷点下10℃以下にもなる「田んぼ」道を歩き続けた後なので、身体を暖めないと、風邪を引いてしまいますからね。


そして、1時間の入浴タイムが終わると、何故か神社ではなく、保存会会長宅で、裸参りが無事に済んだことを祝う「祈祷」が行われ、その後は、「直会(なおらい)」となって終了するそうです。


一昨年(2013年)は、34人が参加し、内14名が女性で、最年少は、7歳の女の子だったそうです。ちなみに、この日の気温は、氷点下9.6℃だったそうです。


本当に、伝統を守っている方々には、頭が下がります。


この「平笠裸参り」は、市の無形文化財に指定されています。

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■白木野人形送り(西和賀町)

次は、本ブログで何度か紹介している西和賀郡の情報ですが、西和賀郡の白木野(しろきの)地域で続けられている「白木野人形送り」を紹介したいと思います。


西和賀郡白木野は、岩手県の南西部、秋田県との県境に位置しており、岩手県内でも一番の豪雪地帯として知られています。


右の画像を見ても解ると思いますが、道路を除雪した雪が、軽く1m50cm位は積もっています。


ところで、「白木野人形送り」ですが、地域の人達全員でそれぞれ「ワラ人形」を作り、作った「ワラ人形」に地域内の「疫病神」を背負わせて地域の外に送り出し、さらに、「ワラ人形」を村境の木に結わえ付け、地域に外から「疫病」や「災難」が入り込まないように防ぐ、「厄除け」行事となります。



この行事は、戦前は「旧暦1月19日」に行われていたのですが、現在では、毎年1月19日に行われるようになったそうです。


また、正確な記録が残っていないので、由来や経緯は解らないのですが、言い伝えでは、江戸時代中期に、疫病が流行った後から行われている行事との事です。


この言い伝えが正しければ、江戸時代中期、西暦1700年代から開始された事になりますから、約300年前から行われている事になります。



ところで、この行事で重要な位置を占める「ワラ人形」ですが、基本的な形態は「武者人形」で、次の様な姿をしているそうです。

・チョンマゲ姿
・裃(かみしも)を付ける
・大小二刀を帯びる

と言う「侍」の姿なのですが、さらに「男性のシンボル」を付ける決まりがあるそうです。


また、右の画像の巨大「ワラ人形」には、「男性のシンボル」の他にも、ワラの袴の中には、なんと「大きな丸いもの」が2個付いていたそうです。(笑)



そして、この「ワラ人形」には装着されていませんが、伝統的な人形には、さらに次の装備品があるみたいです。

・両腕に5円玉が吊るされる
・背中には、餅を包んだ藁苞(わらづと/わらつど)を背負う


また、この人形は、右の画像のように、秋田県等によく見られる「道祖神」や「鹿島様」とは異なり、特定の神様等を表している訳ではないそうです。


「白木野人形送り」では、朝から公民館に「ワラ」を持って集まり、地域の古老たちの手ほどきをうけながら「ワラ人形」を作成し、出来上がった「ワラ人形」を担ぎ、(昔は)法螺貝の奏者を先頭に、太鼓を打ち鳴らしながら、村外れの丘まで行き、雑木林の中の大きな栗の木に、「ワラ人形」を括り付けたそうです。



そして、持ってきたお神酒を、(子供を除く)皆に配り、「悪い病気が流行らないように、今年も家内安全、豊作でありますように」と厄払いを祈願した乾杯を行い終了となるそうです。


また、白木野地域とは別に、左草(さそう)地域と下前(したまえ)地域には、「ワラ人形」を男女の二体作成する「人形送り」も存在するようです。



「ワラ人形」の男女の違いは、シンボルの有無で判断してもらえればと思いますが、こちらの「ワラ人形」は、(男女の区別なく)「ショウキ様」と呼ばれているそうです。


「ショウキ様」は、恐らくは、五月人形によく見られる「鍾馗様」の事だと思われますが、何故、「ショウキ様」なのかは、解りませんでした。


鍾馗様」は、中国から伝えられた道教の神様で、「疱瘡(ほうそう)除け」の神様として知られており、左の画像の様な絵は「魔除け」としても使われていたので、この影響を受けて「ショウキ様」と呼ばれたではないかと推測されます。

※「歌川国芳」作

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■スネカ(大船渡市)


次は、三陸沿岸の南部、大船渡市吉浜地域で行われている「スネカ」を紹介したいと思います。

左の画像が、「スネカ」が、子供達を恐怖に陥れている画像になります。


ちょっと見た感じでは、秋田県男鹿半島に伝わる「なまはげ」と間違えてしまいそうな風貌です。


実際、「スネカ」が家に来ると、『 カバネヤミ(怠け者)いねえが 』、『 泣くワラシいねえが 』、『 言うこと聞かねワラシいねえが 』と、「なまはげ」と同じように声を張り上げて、家の中を歩きまわるそうです。


しかし、よ〜く見ると、微妙に「なまはげ」とは異なります。ここで、「スネカ」の風貌について説明します。



顔に付ける面は木製で、昔は桜の木の表皮で作ったそうです。


また、お面には、鼻が突き出た馬のような物と、平べったい物の2種類存在し、各自作成するか、あるいは昔から家に伝わる物を使用しているそうです。


上半身には、藁蓑(わらみの)や毛皮を身に付け、手足には、手甲(てっこう)や脛巾(はばき)を装着し、「ユズケ」と呼ばれる雪靴を履いているそうです。



中には、干して黒くした海藻をお面や身体に付けている者もいるそうです。


そして、背中には米俵を背負い、手には「キリハ」と呼ばれる小刀を持ち、腰にアワビの殻を何枚も紐で吊るし、「グォグォ」、あるいは「ゴオッゴオッ」と鼻を鳴らして歩きまわるそうです。


子供達は、「スネカ」が家に近づくと聞こえる、アワビの擦れる「ガラガラ」という音や、この豚のような「グォグォ」という鳴き声を聞くと、恐怖に震え上がるそうです。


さらに、「スネカ」が家に到着すると、まず戸をガタガタと揺すったり、爪で窓を引っ掻いたりした後、家に侵入してくるそうです。


まさに、ホラー映画のような状況なので、子供達は、逃げ出そうとしたり、泣き喚いたりするそうです。


また、「スネカ」の装備品には、米俵に吊るした子供用の小さな靴もあり、これは『 スネカが拐った子供の靴 』を意味しているそうで、細部に渡り、細かな演出が施されているようです。


そして、家に侵入した「スネカ」と親は、次の様なやり取りをして、「スネカ」に帰って頂くそうです。


スネカ :「カバネヤミいねえが」 / 「泣くワラシいねえが」
親 :「スネカ様、どっから来やした」
スネカ :「五葉山から来た」 / 「天狗山から来た」
親 :「カバネヤミも泣くワラシもいねえ。餅あげっから帰ってけらっせん」
スネカ :「グォグォ」


最後の「グォグォ」は解りませんが、最終的に、ご祝儀をもらって「スネカ」は満足して帰るそうです。


さて、この「スネカ」ですが、この行事も、何時から、何で始まったのかは解らないそうですが、言い伝えでは、江戸時代から行われているとの事です。現在では、国の重要無形民俗文化財になっています。



また「スネカ」の意味ですが、冬の間、囲炉裏の傍で怠けていると、脛(すね)にできる火斑(ひだこ)を剥ぐ行為である「スネカワタグリ」に由来していると言われています。


他方、囲炉裏や炬燵(こたつ)に当たり続けているとできる低温火傷の事を「ナモミ」、あるいは「アマ」と呼ぶ地域もあり、上記同様、このカサブタを剥ぐ行為から、この行事を「ナモミ」/「ナマミ」、または「ナモミタクリ」と呼んでいる地域もあります。


・久慈地域:「ナモミ」/「ナマミ」
宮古地域:「ナモミタクリ」
・釜石地域:「スネカ」


これは、秋田の「なまはげ」と同じ由来になると思います。


ちなみに、「スネカ」とは、得体の知れない者として、毎年、小正月の夜に、山から里に下りて来る「精霊」のような存在で、里に春を告げ、その年の五穀豊穣や豊漁を、里人にもたらす存在と考えられていたようです。


もともと、「スネカ」は、昭和30年代までは、毎年、旧暦の1月15日(小正月)に行われていたそうですが、昭和40年代以降は、毎年1月15日に行われるようになったそうです。


大船渡では、吉浜以外の他の地区でも「スネカ」は行われていたそうですが、やはり年々伝統が廃れてきたので、現在では、「吉浜スネカ保存会」を中心に、地区全体の行事として行われているそうです。


「スネカ」に扮するのは、地区内の男性に限られ、地区内の男性が「スネカ」に変身して、その地区内の家々を廻っていたそうですので、昔は、沢山の「スネカ」で溢れていたそうです。



しかし現在では、前述の「吉浜スネカ保存会」が、地区内から「スネカ」を募集して数を調整し、各担当地区を決めて「スネカ」を割り振っているそうです。


仕方がないとは思いますが、まるで「口入れ屋」みたいですね。


また、昔は徒歩で家々を廻っていたのですが、現在では、人が足りないのと、廻る地区が多いため、「スネカ」は車で移動しているそうです。


さらに現在では、伝統を継承するために、「子供スネカ」と称して、小学生の子供達が「スネカ」に扮して、家々を廻っているそうです。


ローウィンみたいで、楽しそうですね。このような形で、伝統が受け継がれて行けば良いと思います。

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大東大原水かけ祭り(一関市)

最後は、一関市大東町大原で行われる「大東大原水かけ祭り」を紹介したいと思います。


この「大東大原水かけ祭り」は、「裸参り」をした後、市街地を裸参りの衣装のまま走り抜けるのですが、その際に、沿道の人々が、走り抜ける「裸男」に、情け無用で「冷水」を浴びせまくる、「女人禁制」の祭りです。


この祭りの由来に関してですが、江戸時代の初期、明暦3年(1657年)の1月18日(旧暦)、江戸で大火が発生し、江戸城天守閣を含む、街の大半を焼失してしまったそうです。


このため、幕府は、この日を「厄日」と定めたそうですが、ここ大東町大原でも、旧暦の1月18日に、「火防祈願」、および「火防宣伝」を兼ねて、この「大東大原水かけ祭り」が始められたと伝えられています。


この言い伝えが正しければ、「大東大原水かけ祭り」は、かれこれ350年以上も前から行われていた行事になります。



ちなみに、明暦3年の江戸の大火は、「明暦の大火」と呼ばれており、「江戸の三大火」の筆頭として挙げられる程の大火だったそうです。


江戸城の外堀内側は全滅、天守閣を含む江戸城や、多数の大名屋敷、および市街地の大半を焼失し、死者は3万人とも、10万人とも伝えられています。


そして、焼失した江戸城天守閣ですが、この大火以降、修復されなかったそうです。


また、この大火は、「振袖火事」、あるいは「丸山火事」とも呼ばれ、『振り袖の呪い』説、『幕府陰謀』説、または当時の老中「阿部家」の『証拠隠滅』説など、諸説あるようですが、とにかく被害がすごく、戦争や震災以外の火事では、日本史上最大の火事で、ロンドン大火、およびローマ大火と並び、「世界三大大火」と呼ぶ人もいるようです。


と、話が逸れてしまいましたが、現在の「大東大原水かけ祭り」は、「防火」よりは、「厄落とし」の方に重点が置かれるようになり、極寒になる東北の2月に、「裸参り+水かけ」を行う事から、「天下の奇祭」とも呼ばれているそうです。


それでは、以降で、「大東大原水かけ祭り」の内容を説明したいと思います。



大東大原水かけ祭り」は、毎年、2月11日の建国記念日に開催されます。


祭りの主役は、もちろん、裸参りをする「裸男」と呼ばれる方達ですが、それ以外にも、「加勢人(かせっと)」と呼ばれる子供達の存在があります。


この「加勢人」は、厄男/厄女のお祓いに同伴したり、水かけに参加できない高齢者や女性の代わりに、「裸男」の後ろに続いて走ったりします。


それに加えて、水かけをする沿道の人達も必要不可欠だと思います。



祭りの日、当日は、朝9:00時頃から、町内のいたる所で「仮装手踊り」が披露されます。


これは、襦袢を着て仮装した人達や、侍に扮した人達、あるいは七福神に扮した人達が、地元に伝わる田植え踊りや予祝芸(よしゅくげい)を披露するイベントになります。



そして、10時を過ぎた頃に、大注連縄奉納修祓式(しゅうばつしき)、大注連縄行進が行われます。


大注連縄奉納修祓式では、関係者や厄年の人達に、1年間の無病息災や交通安全を祈願する式になります。


修祓式が終わると、大注連縄が町中を行進し、「大原八幡神社」に奉納されることになります。



大注連縄の奉納が終わると、もともとが火防祭ですから、纏振りの練り歩きや太鼓山車などが、町中を行進します。


左の画像の子供が「加勢人」の子供です。「加勢人」は、菅笠(すげかさ)をかぶり、鳴子を背負い、藁を首にかけ、独特の装束を身にまといます。


主に、厄年の人がいる家庭から参加するようです。ちなみに、お母さんが、この画像の様に芸者の様な格好するか否かは不明です。



そして、水かけ前に、「裸男」達が、大原八幡神社で「みそぎ」を受け、いよいよ水かけの本番が開始します。


ちなみに、この「みそぎ」でも、冷水をかぶるそうです。


また、「裸男」達は、ご神木で作った安全祈願のお札を身に付けて、打ち上げ花火の合図と共に、一斉に町に駆け出します。


走る距離ですが、1区間100mで、それが5区間あるそうですから、合計500mもの間、水を掛けられっぱなしの状態だそうです。


「水かけ」の画像を見ると、「裸男」は、水を掛けられるのを覚悟の上で参加しているので問題ないと思いますが、水を掛ける人達自身も、他人から、大量に水を掛けられているような気がします。



また、水を掛ける「オケ」ですが、当日は、「専用オケ」も販売されるらしいです。一昨年(2013年)は、1個300円だっだ様です。


また、祭りを楽しむコツとして、1区間終わる毎に、次の区間に先回りして、何度も水を掛けるのがコツだそうです。


これで祭りは終わります・・・ではなく、水かけが終わると、最後に「納め水」というイベントがあります。



5区間を走り終えると、「裸男」達は、各事務所前で円陣を作り、祝水(納め水)を掛けられたり、凄い「裸男」達は、そのまま川に飛び込んだりするそうです。


こんな事をして、よく死人が出ないものだと感心してしまいます。ちなみに、この「納め水」は、『 洗礼修道場 』と呼ばれているそうです。


しかし、最後の締めは、やはり「お風呂」です、近所の大原公民館には入浴設備があるようで、「裸男」達は、祭り終了後、ここで暖を取るそうです。


この「大東大原水かけ祭り」、当日の参加もOKのようですが、参加費用として、衣装代として6,000円位の費用が掛かるそうです。

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今回は、岩手県内の冬に行われ続けている伝統行事を紹介しましたが如何でしたか ?


どの伝統行事も、それなりに興味深い内容となっていますが、皆さんにお勧めしたいのは、やはり最後に紹介した「大東大原水かけ祭り」です。


他の行事は、地元主体ですので、観光客が参加するには無理がありますが、「大東大原水かけ祭り」は、観光客の参加もOKですし、当日の飛び入りもOKみたいです。


私は絶対に無理ですが、岩手の極寒の地で、死ぬ気の「水浴び」も面白いと思います。


参考までに、「大東大原水かけ祭り」の問い合わせ情報を記載しておきます。それでは次回も宜しくお願いします。

大東大原水かけ祭りの情報 】
●期日 :平成27年2月11日(建国記念日)
●連絡先 :大東大原水かけ祭り保存会
●開催地 :〒029-0711 一関市大東町大原 大原商店街
●電話番号 :019-172-2282
●ホームページ :http://www.city.ichinoseki.iwate.jp/index.cfm/6,44810,107,html
●費用 :参加費6,000円程度、専用オケ300円程度
●駐車場 :有り(協力費500円/台)


【画像/動画・情報提供先】
Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/wiki/)
・公益財団法人岩手県観光協会(http://www.iwatetabi.jp/)
・ウチノメ屋敷(http://www.uchinome.jp/index.html)
二戸市観光協会(http://ninohe-kanko.com/index.php)
西和賀町ホームページ(http://www.town.nishiwaga.lg.jp/index.cfm/1,html)
Mapion(http://www.mapion.co.jp/)
・装研社スタッフの気まぐれ日記(http://blog.livedoor.jp/soukensya2009/)
・大船渡市公式ホームページ(http://www.city.ofunato.iwate.jp/)
・wiblio辞典(http://www.weblio.jp/)
日本経済新聞(http://www.nikkei.com/)
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