岩手県内の巨石の紹介- その2 〜 何故か岩手に巨石が多い


今回は、前回に引き続き、下表の岩手県内の内、項番13以降の【 巨石 】を紹介したいと思います。

右の画像は、前回紹介した「石割桜」です。

ちなみに、前回の【 巨石 】ブログは、下記URLで紹介しています。
過去ブログ:岩手県内の巨石の紹介- その1(http://msystm.co.jp/blog/20140621.html)

1 津波 田野畑村
2 姫神山頂上巨石群 盛岡市玉山区
3 三ツ石神社 盛岡市須川
4 烏帽子岩/櫻山神社 盛岡市内丸
5 石割桜 盛岡市大通
6 石割梅/盛岡天満宮 盛岡市新庄町
7 山王岩・浄土ヶ浜 宮古市/三陸海岸
8 アラハバキ大神の巨石(胎内石)/丹内山神社 花巻市東和町
9 蝙蝠岩(コウモリ岩)巨石群 花巻市浮田町
10 博打石 花巻市東和町
11 呼石 花巻市北小山呼石呼石大明神
12 立石神社/雨乞い石 東和町立石神社
13 羽黒岩 遠野市綾織町
14 続石 遠野市綾織
15 金勢様(コンセイサマ) 遠野市土淵町
16 呼ばれ石 遠野市上宮森
17 舌出岩 遠野市西内
18 亀の子岩 北上市稲瀬町
19 じじばば岩 北上市立花
20 夏油温泉/天狗の岩 北上市和賀町
21 五葉山/日の出岩 釜石市/大船渡市/住田町
22 愛宕神社 奥州市胆沢区
23 磐神社 奥州市衣川
24 源休館 奥州市伊手
25 重箱石 一関市千厩町
26 夫婦石 一関市千厩町
27 立石神社/立石 一関市藤沢町

早速紹介に移りたいと思います。今回も宜しくお願いします。

-------------------------------------------------------

■羽黒岩:遠野市綾織町


「羽黒岩」は、東北自動車道 花巻JCTから釜石自動車道に乗り換え、最終地点の東和ICから国道283号線に乗り、約33Km、50分の場所にあります。地図上では、「出羽神社」となっています。

直接、車では行けませんので、近くの道の駅「遠野風の丘」に車を駐車し、そこから約1Km位の所にあります。

後述する「続石」の場所からは、4Kmしか離れていません。と、言いますか、遠野は、岩手の中でも、何故か【 巨石 】が多く存在していますので、この「羽黒岩」を含めて、今回は4個の【 巨石 】を紹介します。

神社の入り口には、下の画像の様に、大きな下駄のモニュメントと「羽黒岩」の由来が書かれた案内版があります。







「何故、下駄があるのか?」については、この章の最後に紹介する「遠野物語拾遺」をご覧下さい。

ちなみに、この「下駄」も2m位の大きさがあるようです。

それと、この場所には、「湯殿山」とか、「金比羅大権現」とか、「馬頭観音」の石碑がありますから、昔から山伏の修行の場所だったものと推測されます。

それと、「羽黒神社」自体、確かな文献は残っていないようですが、建立は平安時代まで遡るとされ、ご本尊(神社でご本尊?)は、「金銅聖観音坐像懸仏」とのことです。



「羽黒岩」は、案内板によれば、高さ9mとの事ですが、上の画像では、比較対象が存在しないので、ピンと来ないかと思います。

そこで、人物が映っている画像も添付します。高さ9mと言えば、普通のマンションの4階部分に相当しますから、かなりの高さです。

左の画像で、人物が解りますか ? 2つの【 巨石 】の根元部分、少し右側に人物がいますので、岩の巨大さが解ると思います。

この「羽黒岩」は、「遠野物語拾遺」の第10話に、天狗と共に登場します。上述の「下駄」の意味も解ると思います。

------------------------------------------

遠野物語拾遺 第10話 』

綾織村字山口の羽黒様では、今あるとがり岩という大岩と、矢立松という松の木とが、おがり(成長)競べをしたという伝説がある。

岩の方は頭が少し欠けているが、これは天狗が石の分際として、樹木と丈競べをするなどけしからぬことだと言って、下駄で蹴欠いた跡だといっている。

一説には石はおがり負けてくやしがって、ごせを焼いて(怒って)自分で二つに裂けたともいうそうな。

松の名を矢立松というわけは、昔田村将軍がこの樹に矢を射立てたからだという話だが、先年山師の手にかかって伐り倒された時に、八十本ばかりの鉄矢の根がその幹から出た。

今でもその鏃は光明寺に保存せられている。


■続石:遠野市綾織


「続石(つづきいし)」は、遠野市織町上綾織にある【 巨石 】で、非常に珍しい石です。

左の画像でも明らかな様に、2つの巨大な支柱石の上にもう1個、さらに巨大な石が「笠石」のように乗っています。

さらに、よく注意して見てもらいたのが、上に乗った【 巨石 】、実は右側の石の上にしか乗っていないことです。見事なバランスです。




この【 巨石 】に関しても、比較対象となる人物がある画像を掲載しますが、この画像は、見ていてハラハラしてしまいます。

また、2つの巨大な支柱の間には、わずかに人が通れるほどの空間があり、ちゃんと人が歩けるように石段が付いています。

さらに、その空間からは、「山伏社」と言う石碑のある祠を見ることができるようになっております。





石の大きさは、案内板によると、幅7m、奥行5m、厚さ2mとの事で、そして推定重量は・・・さすがに誰も測った事がないのですが、数十〜数百トンまで様々な意見があるようです。

ちなみに、東日本大震災の折、遠野市は震度5強の揺れだったのですが、この【 巨石 】はビクともせず、今でも、見事なバランスを保っているそうです。

弊社の本社がある東京も、震災時は震度5強の揺れだったのですが、PCの上に乗せていたプリンターが、見事にPCの上から落ちてしまった事を思うと不思議で仕方がありません。

ところで、この「続石」を見に行く場合、東北自動車道 花巻JCTから釜石自動車道に乗り換え、最終地点の東和ICから国道283号線に乗り、途中から国道396号線に乗り換えて、国道脇の駐車場まで約25Km、時間にして50分、そして最後は、山道を400m、徒歩15分ほどの場所にあるようです。

最後の山道は、わずか400m、15分程度の距離とは言え、結構キツイみたいです。

さて、この「続石」、「遠野物語」、および「遠野物語拾遺」にも登場します。

------------------------------------------

遠野物語 第91話 :山の神 』

【原文】
遠野の町に山々の事に明るき人あり、もとは南部男爵家の鷹匠なり、町の人綽名して鳥御前と云ふ、早池峰、六角牛の木や石や、すべて其形状と在所とを知れり、年取りて後茸採りにとて一人の連と共に出でたり、この連の男と云ふは水練の名人にて、藁と槌とを持ちて水の中に入り、草鞋を作りて出てくると云ふ評判の人なり

さて遠野の町と猿ケ石川を隔つる向山と云ふ山より、綾織村の続石とて珍しき岩のある所の少し上の山に入り、両人別れ別れになり、鳥御前一人は又少し山を登りしに、恰も秋の空の日影、西の山の端より四五間ばかりなる時刻なり、ふと大なる岩の陰に赭き顔の男と女とが立ちて何か話をして居るに出逢ひたり、彼等は鳥御前の近づくを見て、手を拡げて押戻すやうなる手つきを為し制止したれども、それにも構はず行きたるに女は男の胸に縋るやうにしたり、事のさまより真の人間にてはあるまじと思ひながら、鳥御前はひやうきんな人なれば、戯れて遣らんとて腰なる切刃を抜き、打ちかかるやうにしたれば、その色赭き男は足を挙げて蹴たるかと思ひしが、忽ちに前後を知らず

連なる男は之を探しまはりて谷底に気絶してあるを見付け、介抱して家に帰りたれば、鳥御前は今日の一部始終を話し、かかる事は今までに更になきことなり、おのれは此為に死ぬかも知れず、外の者には誰にも言ふなと語り、三日程の間病みて身まかりたり

家の者あまりに其死にやうの不思議なればとて、山臥のケンコウ院と云ふに相談せしに、其答には、山の神たちの遊べる所を邪魔したる故、その祟をうけて死したるなりと言へり

此人は伊能先生なども知合なりき今より十余年前の事なり

【現代語訳】
遠野の町に山々のことに明るい人がいる、もとは南部男爵家の鷹匠である、町の人は仇名して鳥御前と呼ぶ、早池峰、六角牛の木や石や、すべてその形状と在処を知っている、年をとって後、茸採りにと一人の連れと一緒に出かけていった、この連れの男というのは泳ぎの名人で、藁と槌とを持って水の中に入り、草鞋を作って出てくるという評判の人であった

さて、遠野の町と猿ヶ石川を隔てる向山という山から、綾織村の続石という珍しい岩のある所の少し上の山に入り、二人別れ別れになり、鳥御前一人はまた少し山を登ったが、ちょうど秋の空の太陽が西の山の端から四・五間ほどの時刻であった、ふと大きな岩の陰に赤い顔の男と女とが立って何か話をしているところに出会った、彼らは鳥御前の近づくのを見て、手を広げて押し戻すような手つきをして制したが、それにもかまわず行くと、女は男の胸にすがるようにした、その様子から、本当の人間ではないな、と思いながら、鳥御前はひょうきんな人なので、からかってやろうと、腰の切り出しを抜き、打ちかかるようにしたところ、その顔の赤い男は足を挙げて蹴ったかと思うや否や、たちまちに前後不覚になった

連れの男は、彼を探し回って、谷底で気絶しているのを見つけ、介抱して家に帰ると、鳥御前は今日の一部始終を話し、こんなことは今までに一度もないことだ、自分はこのために死ぬかも知れない、ほかの者には誰にも言うなと語り、三日ほどの間病んで死んでしまった

家の者が、あまりにその死に方が不思議だからと、ケンコウ院という山伏に相談したところ、答えることには、山の神たちが遊んでいたところを邪魔したため、その祟りを受けて死んだのだと言った

この人は伊能忠敬先生なども知り合いであった今から十余年前のことである

遠野物語拾遺 第11話 』


綾織村山口の続石は、この頃学者のいうドルメンというものによく似ている。二つ並んだ六尺ばかりの台石の上に、幅が一間半、長さ五間もある大石が横に乗せられ、その下を鳥居の様に人が通り抜けて行くことが出来る。武蔵坊 弁慶の作ったものであるという。

昔弁慶がこの仕事をする為に、一旦この笠石を持って来て、今の泣石という別の大岩の上に乗せた。そうするとその泣石が、おれは位の高い石であるのに、一生永代他の大石の下になるのは残念だといって、一夜中泣き明かした。

弁慶はそんなら他の石を台にしようと、再びその石に足を掛けて持ち運んで 、今の台石の上に置いた。それ故に続石の笠石には、弁慶の足形の窪みがある。泣石という名もその時から附いた。今でも涙のように雫を垂らして、続石の脇に立っている。


■金勢様(コンセイサマ):遠野市土淵町


「金勢(こんせい)様」、別の漢字だと「金精様」、「金清様」、「金生様」、「魂生様」、あるいは「根性様」等、様々な漢字で表現されますが、皆さん、既にお解かりだと思いますが、要は、男性の象徴の形をした石になります。

今回紹介する「金勢様」は、遠野市土淵町栃内山崎と言う場所にある、その名もズバリ「金勢神社」のご神体です。

この「金勢神社」は、東北自動車道 花巻JCTから釜石自動車道に乗り換えて、そこから国道283号線(途中一時的に107号線)、340号線を経由した約58Km、時間にして約1時間30分の場所にあります。



境内には、社殿は1つで、その中に、上の画像の「金勢様」が鎮座しておりますが、境内には、下の画像の様に、その他の「金勢様」や女性の象徴の形をした石も祀られているようです。

山崎の「金勢神社」の詳しい由来は解らないのですが、金勢(金精)神社自体は日本全国にあり、元々は五穀豊穣や子宝を願う「性器崇拝信仰」から始まったものと思われます。

しかし、明治時代の「神仏分離/拝仏毀釈運動」の影響を受け、山崎の「金勢神社」、および遠野地方に多く存在した「金勢様」も、「淫祠(いんし)邪教」として破壊されてしまったようです。



その後、昭和47年(1972年)、付近の沢の治水工事を行った際、土砂の中から上図の「金勢様」が見つかり、新たに「金勢神社」を建立したそうです。

この「金勢様」、高さ1.25m、周囲1.97mもある立派な物で、遠野地方では最大の「金勢様」になります。

案内板には自然石と書かれていますが、この形は自然の物ではないような・・・

「金勢様」に関しては、「遠野物語、および「遠野物語拾遺」に、次のような面白い話が記載されていますので紹介しておきます。

------------------------------------------

遠野物語 第16話 :家の神 』

【原文】
コンセサマを祭れる家も少なからず、此神の神体はオコマサマとよく似たり、オコマサマの社は里に多くあり、石又は木にて男の物を作りて捧ぐる也、今は追々とその事少なくなれり

【現代語訳】
コンセサマを祀る家も少なくない、この神の神体はオコマサマとよく似ている、オコマサマの社は里に多くある、石または木で男根を作って捧げるのである、今は次第にそうしたことが少なくなった

※ここに記載されている「コンセサマ」とは、「金勢様」の事だと思われます。
※「オコマサマ」に関しては、「遠野物語拾遺」を参考にして下さい。(御駒様)

遠野物語拾遺 第15話 』

この駒形神社は、俗に御駒様といって石神である。男の物の形を奉納する。
その社の由来は昔ちょうど五月の田植時に、村の若い女たちが田植をしているところへ、一人の旅人が不思議な目鼻も無いのっぺりした子供に、赤い頭巾を被せたのをおぶって通りかかった。

そうして今の御駒様のある処に来て休んだ。あるいはその地で死んだともいう。
それがもとでここにこの社が建つことになったのだそうだ。

遠野物語拾遺 第16話 』

土淵村から小国へ越える立丸峠の頂上にも、昔は石神があったという。今は陽物の形を大木に彫刻してある。この峠については金精神の由来を説く昔話があるが、それとよく似た言い伝えを持つ石神は、まだ他にもあるようである。

土淵村字栃内の和野という処の石神は、一本の石棒で畠の中に立ち、女の腰の痛みを治すといっていた。畠の持ち主がこれを邪魔にして、その石棒を抜いて他へ捨てようと思って下の土を掘って見たら、おびただしい人骨が出た。それで祟りを畏れて今でもそのままにしてある。

故伊能先生の話、石棒の立っている下を掘って、多くの人骨が出た例は小友村の蝦夷塚にもあったという。綾織村でもそういう話が二か所まであった。

※伊能 嘉矩(いのう かのり):「遠野物語」を語った「佐々木 喜善」の同郷の先輩、遠野民俗学の先駆者

■呼ばれ石:遠野市上宮森


「呼ばれ石」は、遠野市宮守町上宮守18地割付近にある【 巨石 】です。

この場所に行くには・・・どこを、どのように通っても面倒です。

取り敢えず、東北自動車道 花巻JCTから釜石自動車道に乗り換え、最終地点の東和ICから向った場合は、まずは国道283号線に乗り、ずっ〜と283号線を走り、国道396号線に乗り換えれば行く事ができます。

この間、約19Kmですが、山道ですから、かなり時間が掛かると思いますが、この【 巨石 】自体は、国道沿いにあるそうですから、解りやすいと思います。

ちなみに、この【 巨石 】、遠野市の史跡になったようで、石の脇に「遠野遺産第23号」と書かれた看板があるそうですから、これも目印になると思います。


例の如く、上の画像では、「呼ばれ石」の巨大さが解らないと思いますので、比較対象が映った画像も添えておきます。

比較対象の人物が解り難いかもしれませんが、しっかりと右側に存在しています。

これで、「呼ばれ石」の巨大さがご理解頂けると思います。






この「呼ばれ石」、上部に何か付いているのがお解かりだとますが、石の上部に「石碑」が埋め込まれているそうです。

しかし、碑文の文字が劣化しており、残念ながら、何が書かれているのかは解らないようです。

また、この碑文についても調べましたが、どこにも、それらしき情報はありませんでした。

さて、この「呼ばれ石」の名前の由来が、石の脇の看板に書かれているようで、次の様な内容になっているそうです。



------------------------------------------

いつの頃とも知れぬ昔、この近くで作業する者に向かって、ふもとから家人の昼呼ばり(昼食時を知らせる)する声を真似たり返事したりするのは、どうやらこの巨岩のいたずらであるらしい。
さては狐狸の化身かと狩人を頼んで一発打ち込んでからは、人の声に呼応することもなくなった。

------------------------------------------

さらに、この看板には、「里人は今でも、胴体に鉄砲玉の傷跡があるというこの巨岩を「呼ばれ石」と呼んでいる。」とありますが、鉄砲の弾傷は解らないそうです。


■天狗の岩/夏油温泉北上市和賀町


「天狗の岩」は、秘湯で有名な「夏油温泉」から、川沿いに約1Km、徒歩30分位の場所にあるドーム状の【 巨石 】です。たった1Kmの距離ですが、階段が多いため、時間が掛かるようです。

「石灰華(せっかいか)」とは、温泉水や地下水に含有される炭酸カルシウム(CaCO3)の沈殿物で、温泉沈殿物や石灰岩洞窟の生成物などの総称です。

多孔質で軟らかいものをトゥファ(tufa)、緻密で硬いものをトラバーチン(travertine)と言い、鍾乳石、石筍、石灰華段丘などはトラバーチンに分類され、「天狗の岩」もトラバーチンに該当します。

「天狗の岩」は、日本最大の噴泉ドーム(温泉湧出口に形成されたもの)であり,川面からの高さは17.6m、底部の横幅は約25mで、頂上は緩やかなドーム形となっており、その横幅は7mです。


上の画像も、比較対象が映っていないので、どんだけデカイのか解り難いと思いますので、人物が映っている画像も掲載しておきます。

右の画像では、「天狗の岩」が大き過ぎて、逆に、人物が、何処に居るのか解らないと思いますが、しっかりと右下に人物が立っています。

これで、「天狗の岩」の巨大さが解ると思います。

「天狗の岩」は、世界的にも珍しいと言う事で、昭和32年(1957年)、特別天然記念物に指定されております。

ちなみに、「夏油温泉」は、北上金ヶ崎ICから、国道159号線、122号線、夏油大橋を経由して約27Km、40分位の場所にあります。

夏油温泉」は、南北朝時代建武元年(1334年)、平家の落人の末裔「四郎左衛門」が、身の丈5尺(約152cm)もある「白猿」と戦い、猿に手傷を負わせたそうです。その翌年、あの猿は、どうなったのかと気になり山奥に分け入った所、多数の「白猿」が湯に浸かって傷を治しているのを発見し、それが「夏油温泉」となったと言う由来があるそうです。

また、「夏油」と言う地名も、元々はアイヌ語の「グット・オ(崖のある所)」と言うことらしいのですが、それが、夏しか温泉に入れない事から「夏湯(げとう)」、さらに日差しで湯面が「油」の様に見えることから「夏油」になった、と言われています。


■日の出岩/五葉山:釜石市/大船渡市/住田町


「五葉山」は、釜石市、大船渡市、住田町にまたがり、北上山地では「早池峰山(標高1,914m)」に次ぐ標高1,351mの山で、頂上からは三陸海岸を望める風光明媚な場所です。

「五葉山」という名称の由来には、次のような諸説があるそうです。

・五仏を祀るから(阿弥陀如来/薬師如来/観音菩薩/虚空蔵菩薩/愛染明王)
・五葉松が多いから
・伊達藩の直轄の山「御用山」と呼ばれていたから

また、この「五葉山」は、「日本にもピラミッドがある」と提唱した、日本のピラミッド研究の第一人者「酒井 勝軍(さかい-かつとき)」が、『ピラミッド山』と断定した山の一つでもあります。

しかし、実際に「五葉山」に登った方々の感想では、皆さん一様に『 ピラミッド山とは思えない 』との感想のようです。

一方「酒井 勝軍」は、『 山のどこかがピラミッド 』と言っている訳ではなく、『 山自体がピラミッド 』と言う考えの持ち主のようですから、山に登ってピラミッドを探すのは無理だと思います。

その上、この「酒井 勝軍」と言う人物、勲五等の叙勲者で、元々はキリスト教の伝道師だったのですが、幾多の経験をするうちにシオニズムに傾倒した後、「五葉山」付近の川原で伝説の合金「ヒヒイロカネ」を発見したとか、現在では偽書と断定された「竹内文書」の信憑性を訴えたりと、何かと問題のある人物のようですから、ピラミッドの話も「話半分」で聞くのが良いかもしれません。

ちなみに、「酒井 勝軍」は、昭和15年(1940年)、二度目に「五葉山」を訪れた9ヶ月後に死亡しています。


さて、話を「五葉山」の【 巨石 】に戻しますと、確かに「五葉山」は不思議な山の様で、頂上付近の「日の出岩」は、圧倒的なスケールの様です。

この「日の出岩」、石質は花崗岩と思われるのですが、高さ等、詳しい説明が、どこにも見当たりません。

登山者の方の説明では、『 10mを超える高さ 』と言う表現が多いのですが、一緒に映っている人物の身長と比較すると、10mもあるとは思えません。おそらく7〜8m位ではないかと思われます。



「五葉山」には、「日の出岩」の他にも、名前が付いた【 巨石 】としては、登山道の4合目付近にある「畳(たたみ)石」があります。

この「畳石」、これも石質は不明ですが、長さ12m、幅1.5m、高さ1m弱との事で、これが事実だとすると、「12.0m × 1.5m × 1.0m = 18.0㎡」となります。

たたみ一畳の面積は、地方によって様々なのですが、不動産表記では「1.62㎡」との事です。

つまり、この「畳(たたみ)石」は、「18.0㎡ ÷ 1.62㎡ ≒ 11.1㎡」と言うことになります。かなりデカイです。

上記以外にも、【 巨石 】が沢山ありますので、ここは説明抜きで紹介します。













愛宕神社奥州市胆沢区


愛宕神社」は、水沢ICから約18Km、国道4号、235号、288号、397号を経由し、胆沢川を超え、胆沢愛宕小学校を500m程超えた奥州市胆沢区若柳字上愛宕にあります。

この場所は、これまで紹介してきた【 巨石 】とは、一味違った内容になります。

これまでの場所は、単一、あるいは2個程度の【 巨石 】を紹介してきましたが、この「愛宕神社」は、岩山、またはピラミッドのような形態をしています。

愛宕神社」は、一目見てお分かりのように、直径約30m、高さ約15m程度の岩山になります。


上の画像では、高さの比較ができませんので、また人物が居る画像を用意しました。これで、この場所の巨大さが解ると思います。

愛宕神社」に関しては、現在でも、何のために、どうやって作られたのか、全く解明されていませんが、次のような説があります。

・古墳の一部
・古代の祭壇
・ピラミッド

形状としては、エジプトのピラミッドの様に、石を積み上げたものとは異なり、盛り土の上に、大小様々な石を乗せたように見受けられます。

この「愛宕神社」に関しては、江戸時代の安永年間(1772〜1781年)に、仙台藩が、村/知行地から提出させて各種情報を整理した「安永風土記御用書出(通称:安永風土記)」に、『 愛宕原・愛宕森 』のと言う記載があるそうなので、18世紀には、既にその存在が知られていたことになります。


この岩山の頂上には、「地蔵菩薩」を祀った祠があるが、石の上に、簡単な木組みの祠を乗せただけの作りになっています。

よく倒壊しないものだと感心してしまいました。

ちなみに、「愛宕神社」の由来は、地元では次のように伝えられているとの事です。








------------------------------------------

『 昔、秋田に三吉という超人的な大力の男がいた。三吉が北上川を渡って山中の村々を訪ねている時、われこそは日本一の力持ちと広言する男がいることを耳にする。

その男を訪ねていき、小山を力いっぱい押し倒す力比べをはじめるが、一向に決着はつかない。いらいらしてきた三吉は「俺はここに西山から石を運んで、一夜にして駿河の富士山に似た山を仕上げて見せる」と豪語する。「できるなら、やって見ろ」ということになり、「明日の夜明けまで」を約束に、三吉の山づくりがはじまった。

なにしろ奥羽山中から東磐井のど真ん中まで、距離にしても大変だ。石を背負って富士山ができるまで何万回、いや何億回も往復するのだから、その早さといったら話にならない。目の前をシュツ、シュツと光線のごとく走り過ぎる。

やがて東山の端から胆沢平原を太陽が照らし始める。三吉は「夜が明けた」と叫びながら立ちどまり、背負っていた石塊を投げ出した。この投げ出した石塊が愛宕神社の岩山である。

さて、秋田三吉が富士山を真似てつくった山が、東磐井の室根山だといわれている。 』



■磐神社:奥州市衣川区


「磐(いわ)神社」は、「石神社」、「大石大明神」、あるいは「男石大明神」とも呼ばれ、奥州市衣川区石神にあり、平泉前沢ICから国道4号、37号を経由し約8Km、安倍館(あべたて)跡の近くにあります。

「磐神社」は、平安時代中期、延長5年(927年)に作成され、当時の「官社」を整理した延喜式神名帳(えんぎしき-じんみょうちょう)の中に、奥州百社の内、胆沢七社の一社として記載されており、古代より崇拝された神となります。



また、近くの「松山寺」境内の「女石神社」と合わせた陰陽の二神で、日本武尊(やまとたけるのみこと)、稲葉姫命(いなばひめのみこと)、あるいは伊邪那岐(いざなぎ)神を祀るとされていますが、何れも定かではありません。



「磐神社」と「女石神社」の二社に分かれていますが、「磐神社」が本社となっています。

「磐神社」のご神体となっているのが、通称「おいしさま」と呼ばれている磐座(イワクラ)で、東西10.2m、南北8.8m、高さ4.2mもあります。

元々は、自然崇拝のために、社殿等は設けない決まりだったのですが、明示4年(1871年)、上衣川村の村社となった際に、氏子からの強い要請で拝殿を設けたそうです。




上の画像も、比較対象がないので、石の大きさが解らないと思いますので、参考のため人物が映った画像も掲載しておきます。

これで、石の巨大さが解ると思います。

「磐神社」は、上述のように非常に古い神社で、近くに「安倍氏」の館である「安倍館跡」があることから解る通り、「安倍氏」は、この【 巨石 】を「アラハバキ神」として祀っていた、とのことです。




参考までに、「松山寺」境内の「女石神社」の画像を掲載しますが、皆さんご想像の通り、石の中央に亀裂があることから、女性をイメージした石になります。

こちらも、かなりの大きさですが、周囲5m、高さ2mの大きさです。








■源休館跡:奥州市伊手


「源休館跡」は、水沢ICから、国道4号線、456号線、397号線を経由し約20Km、伊手小学校の裏側の「地神坊稲荷神社」にあります。

この「源休館跡」とは、いわゆる「義経北行伝説」の1つストーリーで、その内容は、次の通りです。

鎌倉時代の文治5年(1189年)、平泉の高館において、「源 頼朝」の圧迫に負けた奥州藤原氏の4代目「藤原 泰衡」の軍勢に攻められた「源 義経」は、密かに高館から抜け出し、蝦夷地(北海道)を目指したが、その際に、この地で休息を取った、と言う事です。

この伝説は、室町時代の「義経不死伝説」から始まり、江戸時代の「御曹子島渡」と結びついて生まれた話とされています。

そして、江戸時代の安永2年(1773年)に、「相原 友直」が書いた「平泉雑記」と言う書物の中に、次の一説があったことから、この地が「源 義経が休息を取った場所」と言うことで、「源休館」とされた様です。

『奥州江刺郡伊手村ニ源休館ト云フアリ、郷説ニ義経ノ居城ト云フ、杉ノ古木アリ 』


上の画像では、何か「こじんまり」とした社のようにも見えますが、ここに人物が入ると、その巨大さが解ります。

この【 巨石 】は、説明によると「狐石」と呼ばれているそうで、巨大な石と石の間に屋根を掛けて、その下に「稲荷神社」を建立したようです。

『三尺四面南向、社内に大杉あり古木也。廻り四丈(約12m)程、狐石と云う石三つあり。弐つは宮の左右に立ち、高さ壱丈弐尺(約3.6m)程、長さは七間(13m)程。壱つは宮前にあり、高さは五尺(約1.5m)長さ弐間(3.6m)程 』



この「狐石」を、片側から見ると、右の画像のようになります。

この画像の方が、石の巨大さが、はっきりすると思います。

ちなみに、画像の人物は、上の画像と同一人物です。子供ではありません。






■夫婦石:一関市千厩町


一ノ関ICから車で約45分、一関市千厩(せんまや)町には、「夫婦岩」と呼ばれる【 巨石 】があります。

左の画像のように、この【 巨石 】は、千厩町の「天王山公園」の入り口に、ど〜んと、鎮座しています。

この階段を上ると、向かって左手に「彌榮(やさかえ)神社」、右側には「子宝神社」が控えています。





入り口正面には、男性を象徴する「男石」があり、この「男石」は、周囲約10m、高さ約5mもある花崗岩との事です。

そして、「男石」の後ろには、女性が男性に、ひっそりと寄り添うなんて、今ではあり得ない光景だと思いますが、まさに寄り添うような配置で、女性を象徴する「女石」がたたずんでいます。

石の形状と言い、石の配置と言い、まさに「夫婦石」と言う表現がピッタリだと思います。

この「夫婦石」の由来に関しては、入り口脇の看板に、次の様な説明が記載されています。

------------------------------------------

『 太古北の沢、天王山を挟んで流れる大河弓手川の激流は土砂を浸蝕し、この地に花崗岩から成る巨大な男女両性の象徴が奇しくも出現した。神道も仏教もない時代、この自然の偉大な造形に我々の祖先は眼をみはり崇敬の念をもって神として祀った。
雄然たる龍頭は列強なる陽茎に支えられ天地正大の気、この地に発する観あり、男石の後ろに日本の美風を堅守し豊満にして慎ましやかな女石は、谷間の白百合の如く万人の感動をよぶ。この赤裸々な自然の成せる好一対の象徴は蓋し希有にして本邦一の景観である。 』

------------------------------------------


階段を上った先は、右の画像のようになっており、画像の左下「子宝神社」には、ご他聞に漏れず、さらに露骨な男女のシンボルが祀ってあるようです。

興味のある方は、下記サイトに画像が掲載されていますので、ご覧になって下さい。






★日本すきま漫遊記:http://www.sukima.com/16_hanamaki01_03/14meoto.html


■立石/立石神社:一関市藤沢町


JR一ノ関駅から国道284号線を使い約23Km、藤沢町増沢字立石にあるのが「立石神社」です。

この「立石神社」は、稲倉魂(うかのみたまの-みこと)を祀っており、平安時代中期、応和2年(962年)に、山城国の勧請により建立されたと伝えられています。

神社の周りは、様々な【 巨石 】で囲まれており、最大の石は、高さ17m、周囲11mもの大きさがあります。




本ブログの最初に紹介した、葛飾の「立石様」とは大違いで、こちらの「立石」は、本当にデカイ石が、ど〜ん、と鎮座しています。

このご神体の「立石」ですが、江戸時代の明和9年/安永元年(1772年)に、仙台藩歴史学者である「田辺 希文(まれふみ)」が、藩主「伊達 重村」の命により編纂した「封内風土記」に、次のように紹介されています。

『 昔、平泉中尊寺の猿楽見物に来た僧と児童数十人が、猿楽に間に合わず、当地で中尊寺の方向を見つめたまま石と化した。 』

また、増沢地方の言い伝えにも、次の様な伝説があるそうです。

------------------------------------------

昔、宮城県のお寺の僧侶が、平泉の能を見に来たそうです。
そして、この神社のある増沢村付近に差し掛かった所で、「平泉の能は、まだ行っていますか ?」と村人に尋ねたそうです。
すると「平泉の能は、終わってしまいましたよ」と言われたそうです。
はるばる宮城県から来た僧侶は、答えを聞くとがっかりしてしまい、もはや歩くこともできなくなってしまったそうです
それでも「能が見たい、能が見たい」と言い続けながら、立ったまま亡くなってしまったそうです
こうして、亡くなってしまった僧侶の遺体は、平泉の方向を見たまま、石になってしまってそうです

-------------------------------------------------------

今回は、岩手県内の遠野市から県南地域の【 巨石 】を紹介して参りましたが、如何でしたか ?

男性/女性のシンボルの【 巨石 】も興味深いですが、私の個人的な思いでは、「続石」の、あの微妙なバランスと、地震でも落ちない根性が気に入っています。

また、遠野市の【 巨石 】では、「石 」と「遠野物語」が密に繋がっていることを、あらためて確認できました。【 巨石 】には、必ず「伝説」が存在する、と言うことらしいです。

皆さんの住む地域にも、このような【 巨石 】と物語が存在すると思います。

直接、岩手県のお越しになり、【 巨石 】を見学して頂ければ一番ですが、まずは、近所の【 巨石 】を確かめては如何ですか ?

今回も、ご精読、ありがとうございました。次回も宜しくお願い致します。

以上

【画像・情報提供先】
Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/wiki/)
・公益財団法人岩手県観光協会(http://www.iwatetabi.jp/)
・立石神社 - 菅原木工(http://mokkousan.web.fc2.com/mokkou-tateisijinnja.html)
・東北巨石番付のブログ(http://hamadas.exblog.jp/)
・巨石巡礼(http://home.s01.itscom.net/sahara/stone/index.htm)
・羽蝶蘭のさいかち(http://yaplog.jp/saikachi/)
・日本のピラミッドと巨石を探る(http://www.gainendesign.com/taizan/)
・のぼろう隊Web(http://www.jalps.net/non/noborotai/index.html)
・ウチノメ屋敷(http://www.uchinome.jp/index.html)
・リップのブログ(http://blogs.yahoo.co.jp/anaterasuoukami_76)
・日本古典文学摘集 (http://www.koten.net/tono/gen/069.html)
・不思議空間「遠野」−「遠野物語」をWebせよ!−(http://dostoev.exblog.jp/)
・ひーさんの散歩道(http://blog.goo.ne.jp/hi-sann_001)

【株式会社 エム・システム】
本      社  :〒124-0023 東京都葛飾東新小岩8-5-5 5F
           TEL : 03-5671-2360 / FAX : 03-5671-2361
盛岡事業所  :〒020-0022 岩手県盛岡市大通3-2-8 3F
           TEL : 019-656-1530 / FAX : 019-656-1531
E-mail    : info@msystm.co.jp 
URL     : http://msystm.co.jp/
        : http://msystm.co.jp/excel_top.html
ブログ       : http://d.hatena.ne.jp/msystem/ 
Facebook   : http://www.facebook.com/msysteminc