蘇民祭について ― 岩手県人は裸好き ?

いきなり、強烈な写真で済みません。

以前、このブログでも、「盛岡の裸参り」として、毎年1月に、盛岡八幡宮で開催される「裸参り」を紹介しました。
★過去ブログ:盛岡の「裸参り」http://msystm.co.jp/blog/20120104.html

また、上記ブログにおいては、「裸参り」を、「裸祭り」と一緒に紹介し、さらに、その中で【蘇民祭】も、同じ風習としてご紹介してしまいました。

しかし、よく調べてみると、「裸参り」は、五穀豊穣を祈願する、と言う神事・祭事と言う事は同じですが、元々の起源が、全く異なることが解りました。

そこで今回は、岩手県内各地で行われる【蘇民祭】を取り上げ、「裸参り」との違いや、その特徴をご紹介したいと思います。

ちなみに、岩手県内で開催される【蘇民祭】は、『 岩手の蘇民祭 』と言う名称で、国の「選択無形文化財」となっております。

盛岡の「裸参り」は、江戸時代、南部(盛岡)藩の藩政時代に、南部杜氏が行った神事が、その起源とされておりますし、他の地方で行われる「裸参り」も、その多くは、祭りの参加者(氏子)が、生誕した時と同じ清浄無垢の姿となることで、神様に「五穀豊穣」、「無病息災」、あるいは「商売繁盛」等を祈願する神事です。

しかし、【蘇民祭】は、起源は平安時代中期とされ、その由来は、平安時代初期に編纂された「備後国風土記」にあると考えられております。

ちなみに、鎌倉時代中期に「卜部兼方(うらべかねかた)」によって編纂された「釈日本記」には、「備後国風土記」の逸話として、次の様な内容が記載されております。(訳により若干の相違があります)

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北海の「武塔神(※1)」が人間に化身し、南海の神の娘をめとるための旅の途中で、貧しい兄の「蘇民将来(そみんしょうらい)」と、裕福な弟の「巨丹(こたん)」という2人の兄弟に一夜の宿を求めました。

ところが、「巨丹」はこれを拒み、「蘇民将来」は、快く旅人を泊め、粟飯で貧しいながらも精一杯もてなしました。

それから数年後、「武塔神」が八人の王子と帰途の際に、妻を娶り、子を為した「蘇民将来」の元を訪れ、家族全員に、茅の茎で作った輪(茅の輪:ちのわ)を身に付けるように命じました。

その夜、「武塔神」は、「蘇民将来」の家族を除く、村人全員を滅ぼしてしまいました。

そして、自分の正体が「建速須佐之男命(*2)」であることを明かすと共に、茅の茎で作った輪(茅の輪)を身に付け『 我は蘇民将来の子孫である 』と唱えれば無病息災が約束されるであろうと告げた。(*3)

※1 武塔神:むとうしん・むとうのかみ・たけあきのかみ
※2 建速須佐之男命:すさのおのみこと
※3 それと、この逸話における「武塔神」は、建速須佐之男命牛頭天王(ごずてんのう)、および薬師如来と、同一神仏を考えられます。

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また、「裸参り」は、水浴びを行ったり、神輿を担いだりと、神社への参拝の仕方や、神社への供える物の違いはありますが、最終的には、神社に参拝して終わりです。

しかし、【蘇民祭】は、全然違います。

これも、その地方独自の習わしや、【蘇民祭】行う寺社により多少の違いはありますが、JR東日本のポスター問題で有名になり、日本三大奇祭の一つにも挙げられることもある「国石(こくせき)寺」の【蘇民祭】を例に紹介します。



【裸参り(午後10時〜)】
梵鐘の合図で、祈願者、厄年の善男善女が、手に角燈や割竹にはさんだ浄飯米(おはんねり)を持ち、身を切る清烈な瑠璃壺川(山内川)に入り、水垢離(みずごり)をしたあと「ジャッソー、ジョヤサ」の掛け声とともに本堂、妙見堂を三巡して厄災消除・無病息災・家内安全・五穀豊穣を祈願します。



【柴燈木登り(ひたきのぼり)(午後11時30分〜)】
「登り」とは庫裡から本堂に向って行列を組んで進むことで、行列の先頭は「たち切り」で二人の男が互に刀(手木)で切り結ぶ動作をしながら行列を先導し、その後に、ほら貝や太鼓、焚きつけや柴を持った人たちが続きます。
行列が本堂前に達すると、柴燈木(境内の山中から採られた生松木を長さ五尺に切り二ッ割にしたもの)を井桁積に3m以上の高さに二カ所に積み重ね、それに火を点け、人々はそれに昇って火の粉を浴びて身を清める。これは修験道の柴燈護摩と考えられる儀式だそうです。



別当登り(午前2時〜)】
梵鐘の合図で寺務所に集り、手木が祓人(はらいびと)に配られ、別当(住職)と蘇民袋が守護役・祓人に守られ、ほら貝・太鼓を従えて薬師堂に登り、厄災消除、五穀豊穣の護摩を焚きます。



【鬼子登り(午前4時〜)】
鬼子(おにこ)は数え7歳の男児二人で、麻衣をつけ、木斧と小槌を持って鬼面を逆さに背負い、大人に背負われて松たいまつや葦たいまつと共に行列を組んで本堂に入ります。
鬼子が本堂に入った後、本堂外陣に護摩台が出され、別当が、その上で曼荼羅米(まんだらまい)と十二支の形に作った餅をまきます。
次に本堂内から火のついた松たいまつが二把持ち出され、護摩台の上で合わされます。鬼子を背負った人が、その火の回りを3回まわりながら火の上を飛び越し本堂に戻ります。


蘇民袋争奪戦(午前5時〜)】
鬼子が本堂に戻ると、袋出しと呼ばれる男たち5〜6人が蘇民袋を抱きかかえるようにして外陣に出、争奪戦が始まります。
蘇民袋の中には、小間木(こまき)、あるいは駒木と呼ばれる、疫病の護符が入ってます。
この、小間木は、将軍木(かつのき)を削って六方形とし、「蘇民将来子孫門戸☆」の九文字が書かれ、寸角に切ったものになります。
やがて、小刀で袋が裂かれ、中の小間木がこぼれ落ちると、集った善男、善女はその小間木を拾ってお守りとするが、裸の男たちはさらに空になった袋の争奪戦をくり広げ、境内の外になだれ出し、明け方まで2時間余りも激しい取り合いを続けます。
最終的には袋の首部分を掴んでいた者が取主(とりぬし)となって争奪戦は終了しますが、境内を出た集団が東に向かうか、西に向かうか、どちらの集団が凱歌を上げるかによって、その年どちらの土地が豊作になるかが決まるという占いの要素もあるそうです。

つまり、【蘇民祭】は、単純に裸になって祈願を行う「裸参り」とは異なり、「荒事」を伴う神事であると考えられます。

ちなみに、上述の「黒石寺の蘇民祭」においては、「取り主」になった方は賞品がもらえる様で、過去には「米俵一俵」が贈られたようです。

その他にも、餅つきをしたり、銭まきをしたり、水かけをしたりと、それぞれの場所により内容が異なります。また、開催場所により、旧伊達領と旧南部領においては、【蘇民祭】の内容も若干異なります。

●南部領
・小間木の形状が正方形
蘇民袋に「親札」がある
蘇民袋が小さい

●伊達領
・小間木の形状が円筒形
蘇民袋には、刃物で切れ目を入れる
・鬼子登り、柴燈木登りが行われる

ところで前述の「国石寺の蘇民祭」ですが、過去に奥州市が作成したポスターを、JR東日本が、上半身裸で、胸毛の濃い男性のデザインについて、女性に不快感を与える「セクシャル・ハラスメント」にあたるとして、駅構内での掲示を拒否した事件(?)がありました。

それが、本ブログのトップに掲載した画像になります。確かに、強烈な印象を与えるポスターだとは思いますが・・・

また、現在(2007年以降)は、参加者は「下帯」を着ける事が義務付けられましたが、本来の【蘇民祭】は、下帯を含め、一切の衣類を着用せず、全裸で行われるのが伝統でした。

但し、「親方」に関しては、現在でも全裸で参加しますが、これについても、2008年に、地元の水沢警察署から『 宗教行事であっても「わいせつ物陳列罪」が適用される 』と言う通達があったそうです。

そして、この通達に対しては、当時の文部科学大臣が、「伝統文化に対して、警察が判断するのは、そぐわない」と言う見解を示したそうです。

色々と物議をかもし出す「国石寺の蘇民祭」ですが、JR東日本の事件をマスコミが取り上げたことから、全国的に知名度が上昇し、逆に31億円もの広告効果が出た、と言う分析もあったそうです。(※ニホンモニター社の分析による)

その反面、地元においては、興味本位のマスコミや野次馬、あるいは露出狂までが、多数詰めかけるようになり、本来の伝統が失われる、と心配する声も上がるようになってしまったそうです。

一種の「有名人税」ですから、開催関係者にとっては大変だと思いますが、地元観光業に携わる方とっては良い事だと思います。どこかで折り合いを付けて、今後も盛り上げってもらえればと思います。

ここで、「国石寺の蘇民祭」を含め、岩手県内で開催される【蘇民祭】を紹介したいと思います。

しかし・・・こうして改めて【蘇民祭】を取り上げると、やはり岩手県は、【蘇民祭】というか、「裸祭り」が多いですね。

■胡四王神社蘇民祭(花巻市)


胡四王(こしおう)神社蘇民祭は、江戸時代の慶応元年(1865年)から行われるようになった【蘇民祭】です。戦後中断されましたが、昭和49年(1974年)に、氏子青年会の手で復活したそうです。社務所前での餅つきにはじまり、市内の青年数十名が松明を手に裸参りで山頂に到着、境内外を清める浄火祭の後、力餅をまき、水かけをしながら蘇民袋の争奪戦を展開します。

・胡四王神社:岩手県花巻市矢沢3-153
・開催時期:1月2日

早池峰神社蘇民祭(花巻市)


早池峰(はやちね)神社蘇民祭は、神社の春祭りに開催されます。この【蘇民祭】においては、蘇民袋の中に、十二支の焼き印が入った、365個の駒が入ってます。早池峰神社は、大同二年(807年)に、田中兵部(たなかひょうぶ)/始閣藤蔵(しかくとうぞう)の両名が、山頂に「姫大神」を祀ったことに始まり、後の正安2年(1300年)、越後の阿闍梨円性(あじゃりえんせい)が堂を建立して「早池峯大権現」を奉り、今日に至ります。

・早池峯神社:岩手県花巻市大迫町内川目1-1
・開催時期:3月17日

■光勝寺五大尊蘇民祭(花巻市)


光勝寺五大尊蘇民祭は、建久二年(1191年)の正月元旦から7日までの間、国家安泰・五穀豊穣・病魔退散・牛馬安全を祈願して、護摩法要の加持を行い、そのときに配られた護摩火餅(護摩餅)を参拝者が競って手に入れようとしたことが始まりと伝えられます。
その後、明治27年(1894年)から、表に五大尊(不動・降三世・大威徳・軍荼利・金剛夜叉の明王)の梵字を書き、裏に駒形の印を押した小さな板札365枚(1年の日数)を麻袋に入れて、群衆の中に投下するようになりました。

・光勝寺:花巻市石鳥谷町五大堂11-49
・開催時期:1月上旬

■永岡蘇民祭(胆沢郡金ヶ崎町)


昭和63年(1988年)に、金ヶ崎町は100年に一度といわれる集中豪雨に見舞われました。
その後、地元復興のために、地元の青年会が中心となり、「黒石寺の蘇民祭」を元に、県内各地の【蘇民祭】を調査したところ、地元永岡地区の熊野神社で、かつて【蘇民祭】が行われた形跡がある事が判明しました。
このため、【蘇民祭】と、地元で古くから行われる「水かけ祭り」を組み合わせて、平成元年から始まったのが「永岡蘇民祭」です。

・永岡蘇民祭:岩手ふるさと農協元永岡支店前
・開催時期:1月第4土曜日「前夜祭」、日曜日「本祭」


鎮守府八幡宮加勢蘇民祭(奥州市水沢区)

鎮守府八幡宮加勢蘇民祭は、他の【蘇民祭】とは、趣が全く異なります。

この鎮守府八幡宮の起源は、坂上田村麻呂が築いた「胆沢城」の北東に「宇佐八幡宮」の御霊を勧請し、鎮守府八幡宮としたことから始まります。


また鎮守府八幡宮は、「嵯峨天皇」宸筆の八幡宮寳印、「坂上田村麻呂」奉納の宝剣と鏑矢と弓、「源義家」奉納の御弓、「伊達氏」奉納の太刀等を宝物として保存しております。


一方、嘉祥三年(850年)鎮守府に「慈覚大師」が訪れた際、域内で疫病が蔓延中である事を知り、八幡宮に、大師持参の疫病除けの護符を捧げて病気治癒を祈願したそうです。

その後、この護符を飲むと病気が治癒したことから、この護符の形を「薬神の像」として版刻し、氏子の戸口に張ると、疫病や災害から守ってくれると言い伝えられてきたそうです。


そして、この版刻した紙を「そみんぼう」と言い、「そみんぼう」を配る催しを「加勢(かせ)祭」と言ってきましたが、この「加勢祭」が、【蘇民祭】信仰と結びつき、「加勢蘇民祭」となったようです。

この「加勢蘇民祭」においては、前述の宝物の内、坂上田村麻呂奉納の宝剣、鏑矢、弓を用いた儀式が行われます。

鎮守府八幡宮岩手県奥州市水沢区佐倉河宮の内12
・開催時期:1月上旬

■黒石寺蘇民祭(奥州市水沢区)


黒石寺蘇民祭は、上記でも説明しましたが、五穀豊穣を願う裸参りに始まり、柴燈木登り、別当登り、鬼子登りと、様々な神事が夜を徹して行われます。また、岩手県内で行われる多くの【蘇民祭】の原型となります。

・黒石寺:奥州市水沢区黒石町字山内17
・開催時期:2月上旬

熊野神社蘇民祭(奥州市江刺区)


熊野神社蘇民祭は、「黒石寺」の【蘇民祭】を手本として、400年以上前から始まったそうです。伊手地区にはその昔、大凶作や原因不明の疫病火災など災害が相次ぎ地区住民を不安のどん底に落とし入れた。このため五穀豊穣と火難除け、厄除けを祈願する祈願祭りとして、今日に伝えられております。

熊野神社岩手県奥州市江刺区伊手角屋138番イ号
・開催時期:1月第三土曜日

毛越寺常行堂二十日夜祭(西磐井郡平泉町)


毛越寺常行堂二十日夜祭(じょうぎょうどう-はつか-やさい)は、850年前に始まったと伝えられおり、常行堂の祭神である「摩多羅神」への祈願祭です。【蘇民祭】は、明治15年に「黒石寺」から伝えられ、この祈願祭で開催されるようになったそうです。この【蘇民祭】も、一時中断されましたが、毛越寺の働きかけで復活したそうです。

毛越寺岩手県西磐井郡平泉町平泉字大沢58
・開催時期:1月20日

■興田神社蘇民祭(一関市)


興田(おきた)神社蘇民祭は、蘇民袋の中にある「護符(ソミ)」を取り合うことから、地元においては「ソミトリ」とも呼ばれます。興田神社は、養老二年(718年)に、鎮守府将軍「大野朝臣東人」が勧請したと言われており、元は「妙見宮」と呼んでいたものを、明治時代に改称して興田神社となりました。

・興田神社:岩手県一関市大東町鳥海
・開催時期:1月4日

■長徳寺不動尊蘇民祭(一関市)


長徳寺不動尊蘇民祭は、明治17年12月4日に、西磐井郡花泉町油島にある「満昌寺」が全焼してしまった際に、当時の価格「20円」で「不動明王」を譲り受けましたが、「不動明王」と共に、【蘇民祭】も引き継いだと言う記録が現存します。また、この「不動明王」ですが、「満昌寺」の前は、同じく花泉町油島にある「白山姫神社」のご本尊だったようですが、明治の廃仏毀釈で「満昌寺」に移奉されたそうです。

・長徳寺:岩手県東磐井郡藤沢町保呂羽字宇和田
・開催時期:3月上旬

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このように、岩手県内で開催される【蘇民祭】は、歴史あるものから、新しいものまで、数多くの【蘇民祭】があります。

唯一、「鎮守府八幡宮加勢蘇民祭」だけは、毛色が異なりますが、一応【蘇民祭】であることには変わりません。

上記で紹介した【蘇民祭】は、応募すれば参加できるものもあります。皆さんも、体力と健康に自信があれば、参加してみては如何ですか?

私は・・・無理です。

今回もありがとうございました、次回も宜しくお願いします。

以上

【画像・情報提供先】
・公益財団法人岩手県観光協会(http://www.iwatetabi.jp/)
妙見山黒石寺(http://kokusekiji.e-tera.jp/)
・岩手の蘇民祭(http://www.uchinome.jp/iwatesomin/iwatesomin.html)
Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/wiki/)
鎮守府八幡宮(http://chinjufu.jp/index2.htm)

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